大道シリーズ叢書 第1冊『大道心燈』
日本語版
◆ 前置・序 ◆
編集誌
推薦の序
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
序一
序其一。
序二
序其二。
序三
序其三。
凡例
南天文衡聖帝。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
南海古仏
第二回 大道與天德
太上道祖 道徳天尊
第三回 天道奧義
鴻鈞老祖
第四回 心德
通天教主 霊宝天尊
第五回 念正
文殊広法天尊
第六回 修身
虚空無極 驪山老母
第七回 徹理
虚空無極 地母至尊
第八回 修心
南海古仏
第九回 大道心燈
南海古仏
第十回 以和為樂
南天文衡聖帝（なんてんぶんこうせいてい）
第十一回 悟心
虛空上人（こくうしょうにん）（南無虛空上徳人天古仏）
第十二回 闡理
南海古仏（なんかいこぶつ）
第十三回 境轉與轉境
南屏道済古仏（なんぴんどうさいこぶつ）（済公活仏）
第十四回 教化
南宮柳星君（なんぐうりゅうせいぐん）
第十五回 三教合心
南宮孚佑帝君（なんぐうふゆうていくん）
第十六回 藩籬
南無文殊菩薩（なむもんじゅぼさつ）
第十七回 磨難
南無普賢菩薩（なむふげんぼさつ）
第十八回 消業
南無大勢至菩薩（なむだいせいしぼさつ）
第十九回 普渡
南無地藏王菩薩
第二十回 收圓之條件
南無弥勒菩薩
第廿一回 任務與修持
南無観世音菩薩
第廿二回 心念
南無虚空蔵菩薩
第廿三回 念識
南海古仏
第廿四回 業因
南海古仏
第廿五回 善惡因緣
北極玄天上帝
第廿六回 懺悔
九天司命真君
第廿七回 消災解厄
北斗星君
第廿八回 行善錫福
南斗星君
第廿九回 化性
文昌梓潼帝君
第三十回 戒律
下元水官大帝
第卅一回 求道
齊天大聖
第卅二回 善德齊家
精忠武穆王 岳元帥
第卅三回 孝道
中元地官大帝
第卅四回 廣結善緣
南無阿難陀菩薩
第卅五回 福慧雙修
上元天官大帝
第卅六回 圓滿
南海古仏
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
跋南天文衡聖帝
◆ 旨 ◆
完書繳旨
完書繳旨無極駕前  麻仙姑
◆ 前置・序 ◆
一冊の書の役割は、後世に伝えられて多くの人々に利益をもたらし、人世におけるすべての善良で徳ある性質は、広範な人類に真の成長をもたらすことができるのである。こうした条件は、自分自身が認めとる収穫と利益によるものであり、知識と知恵を増大させるのも、一冊の優れた書物がよき導きとなり、人々の福祉に貢献するものなのである。
衆生がこの世において道場に入って修行できるのは、すなわち前世に蒔いた善縁によるものであり、皆仙仏の済度と善徳の導きによるのである。人生は短いながらも、短いこの機会を活かして万世に朽ちない基業と福分の向上超越を築くことができるのは、「含因」に蒔いた善徳の種があってこそ、この世で良好な修行の道に入ることができるのである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
行善主席  玄天上帝
序一
そもそも天道の展開は人生の始まりであり、儒・道・釈の三教は先天より道を降して万民に広く教化した。今日すでに末法の時代に入り、人心は西洋の風俗に浸され、固有の文化は衰え振るわなくなった。天心これを見て三界の高真に命じて地上に降り教化を広め、人心を先天の霊性に回復させようとする。
序二
大道の弘揚は必ず正しい理と公正に従って行うべきである。衆生を教化するには大同世界を目標とし、蓮花仏国を帰依とすべきである。そうして初めて衆生に目指すべき規準が与えられる。衆生を教化する——三曹、四生、五倫、六道、特に末法においては徐々に仏法から離れていく。
序三
今宵行善堂に降りて「大道心燈」のために序を記す。上蒼の教化は万民を心の重心とする。心の中の道理は応じて化して止むことがない。母娘の旨の降臨により、理筆の陳生に命じて主著の天音伝真者とし、理によって衆生を教化し道場の善行を目覚めさせよう。願わくば人類は再び自ら障壁を巡らし、自ら身を縛って、これでは困境から抜け出せはしないことを悟らねばならない。
凡例
南贍に教化を啓いて衆生を化し、天道に私情なく善徳の性なり。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
1991年7月13日 辛未年六月初二日（土）
第二回 大道與天德
1991年7月17日 辛未年六月初六日（水）
第三回 天道奧義
1991年7月17日 辛未年六月初六日（水）
第四回 心德
1991年7月20日 辛未年六月初九日（土）
第五回 念正
1991年7月24日 辛未年六月十三日（水）
第六回 修身
1991年7月24日 辛未年六月十三日（水）
第七回 徹理
1991年7月27日 辛未年六月十六日（土）
第八回 修心
1991年7月31日 辛未年六月二十日（水）
第九回 大道心燈
1991年7月31日 辛未年六月二十日（水）
第十回 以和為樂
1991年8月3日 辛未の年六月二十三日（土）
第十一回 悟心
1991年8月7日 辛未の年六月二十七日（水）
第十二回 闡理
1991年8月7日 辛未の年六月二十七日（水）
第十三回 境轉與轉境
1991年8月10日 辛未の年七月一日（土）
第十四回 教化
1991年8月14日 辛未の年七月五日（水）
第十五回 三教合心
1991年8月14日 辛未の年七月五日（水）
第十六回 藩籬
1991年8月17日 辛未の年七月八日（土）
第十七回 磨難
1991年8月21日 辛未の年七月十二日（水）
第十八回 消業
1991年8月21日 辛未の年七月十二日（水）
第十九回 普渡
1991年8月24日 辛未年七月十五日（六）
第二十回 收圓之條件
1991年8月28日 辛未年七月十九日（三）
第廿一回 任務與修持
1991年8月28日 辛未年七月十九日（三）
第廿二回 心念
1991年8月31日 辛未年七月廿二日（六）
第廿三回 念識
1991年9月4日 辛未年七月廿六日（三）
第廿四回 業因
1991年9月4日 辛未年七月廿六日（三）
第廿五回 善惡因緣
1991年9月7日 辛未年七月廿九日（六）
第廿六回 懺悔
1991年9月11日 辛未年八月初四日（三）
第廿七回 消災解厄
1991年9月11日 辛未年八月初四日（三）
第廿八回 行善錫福
1991年9月14日 辛未年八月初七日（六）
第廿九回 化性
1991年9月18日 辛未年八月十一日（三）
第三十回 戒律
1991年9月18日 辛未年八月十一日（三）
第卅一回 求道
1991年9月21日 辛未年八月十四日（六）
第卅二回 善德齊家
1991年9月25日 辛未年八月十八日（三）
第卅三回 孝道
1991年9月25日 辛未年八月十八日（三）
第卅四回 廣結善緣
1991年9月28日 辛未年八月廿一日（土曜日）
第卅五回 福慧雙修
1991年10月2日 辛未年八月廿五日（水曜日）
第卅六回 圓滿
1991年10月5日 辛未年八月廿八日（土曜日）
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
1991年10月5日 辛未年八月二十八日（土）
◆ 旨 ◆
完書繳旨
1991年10月5日 辛未年八月二十八日（土）
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
大道シリーズの天書による成長もまた同じである。人世において宗教信仰の中で、段階を経て宗教の迷いを一つひとつ取り除いていく。こうした因縁の条件は、人類の衆生が宗教において抱える不足を補い、三十年から五十年もの歳月の手探りによる無明の探求を短縮し、真理の教化の実践を加速させるものなのである。
推薦序
有情の衆生には誰にも前生の因と業の果による引き缠いがある。「仏法は広しと雖も、縁無き人を度しがたく、天の雨は大しと雖も、根無き草を潤せず」というように。人生ではまず未来に善徳の種を蒔き、広く善縁を結ぶ方法で衆生と縁を結ぶ。善縁一朝一夕にできるものではない。常に試練を受けては倒れ、効果が上がることは非常に難しいのである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
1991年7月6日 辛未年五月二十五日（土）
序一
南贍部洲の中華民国台湾省、南天直轄道堂の桃園行善堂を見れば、開堂以来すでに六年に及ぶ。天に代わって教化を広めることに全力を尽くし、教えを説き世を救ってすでに実効がある。人類衆生を導いて信仰を向上させ、天道の修行によって円満清明の世に入る。
序二
ゆえに前もって言う——末法の衆生は彌勒が世に出現されるのを待ってこそ成仏作聖の機会があり、と。これはただ彌勒の降生を待つばかりである。現代の宗教の衆生を宗教信仰の修行に置いたまま、彼らを自然に生滅させてよいだろうか。天心は許さず、また教えずして罰することも忍びない。玉石を共に焼くようなことになってはならないのである。
序三
そのために心の打开が困難で痛心し、さらにあらゆる手段を尽くしても、道場の団結と求心力を強固にできない。一盘の散砂のような状態になり、衆生はますます沈み、ますます奢侈になっていく。すでに古の聖賢の時代の世に回復することは難しく、母娘を大いに哀痛させ、たびたび仙仏を遣わして地上に降りて著作し教化を広め、大道の普化を期待し、共に天命を受けて弘揚させるのである。
凡例
文章は世を醒まして千古に伝わり、衡量は全く聖心を延べて済度する。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
南の庭の門訓により教化が始められ、海の上の波に蓮花が載せられる。
第二回 大道與天德
太初の始めに陰陽が分けられ、上古の原霊は純粋に善であった。
第三回 天道奧義
鴻濛が初めて開けた時、人心は善であった。鈞は天上の原霊が顕現したものである。
第四回 心德
霊山の勝景は凡人が修行する。宝徳は意のままに求める。
第五回 念正
文殊の大道に善徳が顕れる。広く法を布いてさらに伝わる。
第六回 修身
驪山の景色は気象新たに、老母が降りて善行をもたらす。
第七回 徹理
地徳は浩大にして衆生に施し、母の心は慈愛に満ちて霊児を成らせる。
第八回 修心
南無蓮華、無生を悟る。海の上を漂遊して本性を知る。
第九回 大道心燈
大道は心を修め霊性を救う。心燈を灯してこの生を悟る。
第十回 以和為樂
南の堂は教えを開き衆生を護り、天道は私情なくすべての者に寄り添う。
第十一回 悟心
虚実入り混じる人生には万のことがある。空しく凡塵を算えても心は偏らない。
第十二回 闡理
南海に広く迷える衆生を救い、古仏が降りて世の機を醒まさしめる。
第十三回 境轉與轉境
済公の徳は衆生を利し蒼生を護り、公の心は仏のよう身心を了る。
第十四回 教化
南贍で衆生を護り迷いを救い、宮中で教化を振るい暗黒を目覚めさせる。
第十五回 三教合心
南贍に善徳の教化を開き、宮庭は煌びやかに灿烂と輝く。
第十六回 藩籬
文筆の輝きで迷いの渡しを救い、殊勝な功徳は自ら心に拠る。
第十七回 磨難
普く衆生を渡して心機を目覚めさせ、賢達な妙理は悟性を期する。
第十八回 消業
大道心燈は迷える者を醒まし、勢態炎涼に性はすでに移る。
第十九回 普渡
地獄が空にならない限り仏にはならない。蔵経の妙理を心に悟り、
第二十回 收圓之條件
阿弥陀仏の教えが転じて心が誠実になり、弥勒の賜う善徳の本性は真である。
第廿一回 任務與修持
道堂には善き気が充満しているが世間の人心の変化を憂える。
第廿二回 心念
虚空の極みに宇宙へ仏法を伝え、空に計る心香もまた蓮花のごとし。
第廿三回 念識
南屏の護衛障壁が台湾を護り海の中に心蓮の理を発揚する。
第廿四回 業因
修道すれば病を除き業因を除く 執着の己念に業障が侵る
第廿五回 善惡因緣
玄奇虚幻にして生なきを悟る 天恩地徳は重く深い
第廿六回 懺悔
九如の天道に善縁を培う天心仁慈にして衆徳が顕れる
第廿七回 消災解厄
北天に道を布き聖教を伝え功徳を量り道の効果を学ぶ
第廿八回 行善錫福
南天において教えを開き善の書物を著し、斗のごとく行善によって福を授けることの殊勝なことよ。
第廿九回 化性
文をもって教えを開き衆生に伝え、栄えた末世において化性の道を明らかにする。
第三十回 戒律
下って南贍に達し天の書を著し、元始に安鎮して心は喜びに満ちる。
第卅一回 求道
心を合わせて道に向かい衆生を救い、天徳は心によって眠りを悟る。
第卅二回 善德齊家
精誠は天道を開くために伸べられ、忠誠心は明るく明徳にかなう。
第卅三回 孝道
中土の民情は善徳が深く、元始は天より本性を真に化す。
第卅四回 廣結善緣
阿弥陀仏を衆生が念ずる時、得難き思いが心に常に連なる。
第卅五回 福慧雙修
上の徳は心によって理を培い研き、元の心は初始においてその任を添えて顕れる。
第卅六回 圓滿
南に道を阐揚して心に賞でる。海の中に大道があり舟もまた揚がる。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
南贍部洲において書を著す者たちは皆虔誠であり、天道は私心なく、まさにその時は盛りでございます。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
大道心燈はすでに完成し、諸生の辛苦と労苦には殊勝なる功徳がございます。
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
仏家の「新唯識学」の根基は、すべての人類に大きな利益をもたらすものである。あなたが住む地球のいかなる地域にあっても区別することなく、すべて日常生活から始まり、良好な生き方があってこそである。全世界を一つにまとめて一つの惑星系とすることができても、美しい毎日があってこそなのである。これこそが人生というものなのだ。
推薦序
現世にまず善徳の種を蒔き、未来に因縁が巡り合う時、善根の因縁に良き発展があれば、善縁をもって善徳を培い、さらにそれを実践し、宗教の帰依に入る。修行の道において善縁を広く結び、さらに善縁によって芽吹き、善徳すでに善の兆しに入り、今後それによって善徳の因縁を成就することができるのである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
善を行えば聖門に天書を著し、理筆の陳生に天音の殊なるを伝える。
序一
我が心は十分に喜びに満たされる。今「大道心燈」のために序を記し、衆生を励まして真道の普く広がることを悟らせ、四方に弘揚させる。これによって「天道の運行」「大道の普化」「心燈の明性」を成就し、「人道の宣扬」に続け、必ず四衆を済度して天に帰る道に立たせるのである。
上天の普化、さらに「儒をもって教化の始まりとし、釈をもって帰依の場とし、道を以て規範として三教の合一を唱え、行うに偏ることなく倚ることない、それが正道である。現代の人類はすでに極度の奢侈と極度の欺瞞の境地に入った。ゆえに上蒼の大慈大徳の恵みをもって狂った波を巻き返し、末法の衆生に清明な末法の世界をもたらし、信仰の成長を向上させようとするのである。
今、我が理筆を導き、教化の方法によって理を説き人心を呼び覚まし、直ちに腐敗した頽れた風潮を指し示し、再び人天の大道に向かって前進し、清明な世に役立つよう、今道を布き理を降す。行善の諸生に期待する、心を一つにして善書の普及に尽力することを。
凡例
聖は書を著して凡例を示し、帝徳の巍々として大道による。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
古の訓えが今に頒布され大道が行われる。仏が世間を化して佳話を伝える。
第二回 大道與天德
道法五千が古今に伝わり、祖が修めた徳の恵みが吉祥を守る。
第三回 天道奧義
老水が潮に返って大道に帰る。祖が衆生に勧めて心の禅を悟らせる。
第四回 心德
天仙古聖が揃って助けに来る。尊駕が台に昇り諸々の憂いを醒ます。
第五回 念正
天尊が修行し念正を教える。降りて善を行い善き賢人を救う。
第六回 修身
修身と善行について述べ、世を醒まし衆生を利して清い霊を守る。
第七回 徹理
至高の徳の恵みを大地に播く。尊きが筆を降ろして理を徹し深きを説く。
第八回 修心
古徳が宣化することはいよいよ究めるべきである。仏は修心という自身の行いによって成る。
第九回 大道心燈
天に私心がなく公正を伝える。元の位に戻って天の行いに帰る。
第十回 以和為樂
文章を広く延ばして教化を広め、功德を省みて己の心を悟る。
第十一回 悟心
高座について理を説き衆生の迷いを渡す。人间で心を悟り再び後世に伝える。
第十二回 闡理
大道心燈は理を論じて阐述し、原始に帰って正気が充ちる。
第十三回 境轉與轉境
活発に法を弘めて世間に伝え、仏が人心を化して沈眠を救う。
第十四回 教化
柳の木は春に遭って再び枝を出す。星君が降りて道の真を叙す。
第十五回 三教合心
孚は人生の沈淪を憂い、衆生を庇護して聖歌を学ばせる。
第十六回 藩籬
菩提樹に善根を植え、薩達の意念が身心を善くする。
第十七回 磨難
菩提の法雨は磨難を述べ、薩時に頓悟して正気を了る。
第十八回 消業
至道は天に向かって虚空に帰り、菩薩が衆を教える天機を悟らせ。
第十九回 普渡
菩提の法音で衆生を度し菩薩の心で冥界を悟り多くの善きを救う。
第二十回 收圓之條件
菩提の樹種は本来の霊根、悟りに達して真心を衆生に渡す。
第廿一回 任務與修持
音声が耳に伝わり迷いを呼び覚まし菩薩が堂に降りて胸中を語る。
第廿二回 心念
蔵経を布教し心念を述べ、菩薩が降りて佳話を説く。
第廿三回 念識
古道の心性に念識を蔵し仏が人間を教化して迷妄を解く。
第廿四回 業因
道に合わせて修めれば今世を解し本来に帰って心に任せる
第廿五回 善惡因緣
上帝の教化は本性の理を説き善悪の因縁を引き延べる
第廿六回 懺悔
司命が宅を護り万民を救う真君が明らかに懺悔の言葉を述べる
第廿七回 消災解厄
星の光は災いを消し福の吉祥を降らす君は厄の解消を記すこれが必要である
第廿八回 行善錫福
星の光はきらめき心の燈は明るく輝いている。あなたがたが来て縁を結び、心の初めを共にしようではないか。
第廿九回 化性
梓潼が降りて大道を敷き、帝君が座について迷える者を救い目覚めさせる。
第三十回 戒律
水官は民を救い戒律を目覚めさせ、大帝の徳の恵みは善を育てること殊勝である。
第卅一回 求道
大道の心灯は天机を引き戻し、聖なる教えは努めて求めて天性に帰る。
第卅二回 善德齊家
武穆は千年にわたり忠誠を伝え、王帥は指揮して善徳を振るう。
第卅三回 孝道
地官は罪を赦して災いを消し、大帝は孝を説いて心の灯を培う。
第卅四回 廣結善緣
陀の光はきらめき功徳は深し。
第卅五回 福慧雙修
天官は福を賜い慧と双修し、大帝の著述に真道が現れる。
第卅六回 圓滿
古仏は天心を伝えることに熱心である。大道心燈は円満にして永く続く。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
文章は人々を目覚めさせ教化して修真の道へと導き、功勲を量り計って道理を伸べます。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
功勳を撥出し行善堂に賜し、天に体して道を行い、性の真を悟れ。
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
第一冊の「大道シリーズ天書」の剖析は、すべての良善なる因縁に対し、人類の衆生に智慧を展開させるものである。仏家の「明心見性（自分の心を明らかにし、本性を見ること）、開
推薦序
必ず人生の正しい道を導き、三悪道に堕ちないようにしなければならない。もしただ宗教の修行に入るだけでは功果円満の境界に達しがたいならば、「己が立ててはじめて他を立て、己が達してはじめて他を達す」べきである。互いに手を携えて進み、共に修行の道侶となり、和やかに祥らかに圓融にして、未来の修行において良き因縁を築くべきである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
大道の普化を己が任とし、無數の人を済度して心初を共にする。
衆生は迷い暗く、心の中は束縛されて、真に帰る場所を見出すことが非常に難しい。真に帰る向上を得ようとするなら、必ず心の中から本性を明らかにし、本性を明らかにしてから道心に帰り、天心に入って、すなわち元始の真如に回復する。衆生の心から見た人生の修行の過程は、必ずこの世で実行すべき目標がある。そうでなければ世俗の光景に沈み込んで自ら抜け出すことができず、どうして輪廻の苦しみを脱することができようか。今特に序を下して衆生を醒めさせる。
序二
必ず「人道の円整、地道の通明、天道の明清」の修行をもって大道に帰向する世は、もはや遠くない。天は大道を降して万民に広く教化し、道を心とし、心をもって心に印す。道と心が互いに印せば、霊性は自然に顕れ、「大道心燈」のために序を記し、人天を済度して共に極楽の郷に帰らんことを願う。
序三
我が序を降すに際し、諸衆生に「大道心燈」の要訣を深く体悟し、進んで無極虚空の聖境に帰還し、母娘の慈愛の御心を慰め、霊子たちの心愿を叶えることを願う。共に逍遥と楽清にして欠け目のない境地に返らんことを。
凡例
行善に降りて道門を啓き、示して諸生を励まして再び真を修めん。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
大道の心燈は天書を著す。理筆の因縁はまことに殊勝である。
第二回 大道與天德
大道と天徳が善の門を開き、行善堂の中で真心が込められる。
第三回 天道奧義
天道は理を説いて大義を貫く。奥義が世を醒まし迷える人々を救う。
第四回 心德
大道心燈が善の教化を始める。心徳の馨しい香りは悟りの華。
第五回 念正
人とは心の器であり、念が正しいかどうかはすべて自分次第である。人が心を立てるには、必ず「心正・念正・身正・行正」、すなわち四正を端正にしなければならない。そもそも人の世に生まれるのは僅か数十年のことで、いつも心猿意馬の中にあって、自分の心猿をつなぎ止めることができない。十万八千里を駆け巡るようなものだ。
第六回 修身
人は世に生まれ、天地の力を受けて生を享け、日月の光で明るく生きる。万物の霊長とされているのに、ただ毎日を忙しく過ごして夜になると見えなくなるようでは、心を定めて霊性を修めることはできない。修身を語ることもできず、修身がなければ体のために罪を造ることになる。修行に入れば必ず転機の余地がある。修身は人生の大きな課題である。
第七回 徹理
身を修める者は必ず理を明らかにしなければならない。初めて根本の基準を持つことができる。その基準は必ず悟りを開いて、理を明らかにして正しい理に背かないようにする。理を徹底的に理解して、初めて根性を立て、「理」を基礎として、すべての行いが正道に合うようにする。身を修めて理を自在に用いて成果を上げ、身と行いを正しくして背かないようにすることが、人倫の最も大切なことである。
第八回 修心
心が変わり念が走って四方に駆け回る。心を修める者は本来の本性を究める。もし本心を識ればすべて無生である。自性を求めて天に向かって行こう。修心の根本は自性の中に体得し、また体得の中でさらに実践する。衆生は皆盲目で惑いに迷い、功利に忙しくて、心性の追求には熱心ではない。
第九回 大道心燈
天道は公平で、万代に輪転し、すでに无数の大小の元会を経ている。しかし上古においては心性は純善で邪も悪もなかった。人の心がこの上なく善良だったからである。中古になると、人心に徐々に善悪が生じ、私心があって走り回り、この時代にはすでに先天の本来の本性を失い、心性の知識が蒙昧になって上古のようではなくなった。
第十回 以和為樂
聖なる示しは「和をもって楽しめ」と教え、帝の心は慈悲深く徳ある者と等しくある。
第十一回 悟心
人はこの世に生まれ、せわしく営み、忙しく動き回って生きている。みな日常の生活に盲目になっており、短い間でも澄んだ清らかな心性を持つことは極めてまれである。人というものは心の発動を主とするもので、心に印し、心を明らかにし、心で会得する。それはすべて個人の前世の縁と今生の因果によって影響される。仙仏や善書の教化にも多くの功労がある。これこそ人類の福分である。
第十二回 闡理
儒宗の聖教は、儒を宗とし、神を教とする。理を行じ守る面で正確な理論があってこそ、根基を立てて偏ることがない。必ず人々に信じ従い帰依させ、「理」によって天下に信じられ、四海のすべてに当てはまって背くことはない。必ず信念の中に正しい方針を持ち、よりどころとして正当な信念のもとに行動しなければならない。
第十三回 境轉與轉境
人生は苦しく短い。皆物欲に迷って沈沦し、悟って目覚めることを知らない。人生は常に境に転ぜられて境を転ずることができず、苦海に迷いもがき苦しむ。時に迷いの境に入って苦しみ痛む。また常に心境に苦しめられ境を転ずることが難しい。もしこの境をもって心境を転換することができれば、必ず心の主人となることができる。
第十四回 教化
人生において、日常の学校での教育のほかにも、社会教育の薫陶やメディアの広報の影響がある。現在の教育は心性の修養や道徳倫理の注入を提唱できていない。たとえ科学技術が一日千里の勢いで進歩し、遠くの土地の景象を映像で明確に見ることができるようになったとしても。
第十五回 三教合心
帝徳は巍然として教えを布き、君子は道を重んじ生活にある。
第十六回 藩籬
道場の主事者とは法船の舵取りの人員である。常各人の縁が異なるため、各人の成就も大きく異なる。衆生を渡化できれば必ずその前因後果がある。「人に善願があれば、天は必ず従う（助ける）」、また各人の德行と先天の条件の違いによっても定まる。
第十七回 磨難
道場の修子にとって修心と生活は、常に多くの困苦と難題に出会う。その一つは上天がその心志を試み、縁によって成道させようとするもので、無上法音を成就することができる。もう一つは自分の心态と行いによって自らかき乱され、考磨を招くことである。上天に対して言えば：考によって成道を成す、時としてそのようなことがある。
第十八回 消業
衆生の試練は各人の縁が異なり、生じる問題も各人の業因もまた異なる。この過程は他ならない：病の痛みが磨し、家庭の不順、事業の不順、金銭の空尽、業愆の身に纏わりつくこと、乃至種々の障礙など。向道心が大きく挫けることを生じる。業因が来た時、試練もまたこれによって衆生を成全できることを知らない。
第十九回 普渡
天・地・人の三界では修行と積徳が肝要である。善を積めば極楽に昇り悪を行なえば冥府に堕ちて罰を受ける。人間に生まれ生涯修行し功徳を積み身心を悟り霊性を円満明亮にすれば来世に悪因や不幸な業を繰り返すことはない。もし地獄の衆生が受ける苦しみを見れば世人は戒めを受けあえて悪因を作ることもない。
第二十回 收圓之條件
上天の「三曹普渡」はすべて無極が主宰し諸天界の聖神・仙・仏が協力して四億の仏子によって九二億の原霊子を救い解脱させて龍華聖境に帰還させる。無極皇母が新しい法を提唱し「三曹普渡」の本来の意味を定めた。それは原霊子たちを救って元の場所に戻すためである。
第廿一回 任務與修持
人生において因縁果報について言えばそれぞれ異なる因果がありそれが続いて業報と福徳を成す。世人は皆生はどこから来て死はどこへ行くのかを知らずどうすべきかどう完了するのかも分からない。それで因果が累世にわたって絶えず業を作らせこのように来たり去り去ってはまた来るのである。
第廿二回 心念
三世因果を今世で修め人世に生まれて皆後代を伝える。人間は善悪の念動によって多くの因縁に分かれ善があれば悪もある。善を為せば福を得て今生を楽しみ悪を為せば禍殃を受けて今生を苦しむ。人間の生存は「心念」に非常に大きな理由がある。念の初期に果がまだ芽吹かなければ因縁は起こらない。
第廿三回 念識
人間が世に生きるには眼・耳・鼻・舌・身・意の六識によってすべての因縁を営む。人間に用いられるのは六識だけにとどまらず六識を通じて行動を生ずればすなわち生生世世の因縁を生ずる。すなわち良い善き悪い禍の由来は必ず人類の心念の中にあってこの念識を働かせるのである。
第廿四回 業因
修道者は宗教の場において言えば皆先天の善願と善縁を備えている。この善縁と善願は仙仏の筆を借りて仙仏の意を伝えあるいは経義を流布して聖者の伝えた本来の意を体悟する。各人の悟性のばらつきや智識と業因の関係によってその行いと悟る本来の意味はすべて同じではない。
第廿五回 善惡因緣
儒宗聖堂の著作による教化は上天の応運の方便法門であり広く普渡を開いて衆生を修行に導く。末法において心を修め性を悟りこの生で修行の功果を積む。すなわち上に仏法の真理を求め下に衆生を教化することを前提とする。上天の「三曹普渡」に合致しまた収円に一分の力を尽くす。
第廿六回 懺悔
人間が世にあっては生活に追われ心性を省みる機会がほとんどない。上蒼は衆生に何をくださるのか衆生はまた上蒼に何を報いるのか。人生は毎日あくせくとして人を欺き自分の利益のために多くの恨みを造り生生世世因果循環を受けて脱出できない。
第廿七回 消災解厄
人間が世にあって業を造り脱出できない。もし真心に過去の過ちを懺悔すれば良心を取り出し黒心を洗い清めて紅心に変え必ず今世に悪業を繰り返さなければ災いを消し厄を解いて悪運が身に及ばず善性がここから発し福運が来て福報を受け悪の深淵に陥らない。
第廿八回 行善錫福
善徳は人の心の根本として初めて発するものである。人が善行を行って福を授かるのは、一念の間の心発による。内なる心が動き出し、善の働きが生じて善因となる。この善の働きは心の本源から湧き出るものであり、これを「善の根本」と呼ぶのである。善が行動に移されて果実となるならば、人生には必ず善因の由来があり、今生における善縁と福田を築くことになる。
第廿九回 化性
天・地・人の三才が並び、人は天地の中にあって万物の首長である。世々代々に人倫の道德を伝え、家を斉え国を治め天下を平らかにして、大同の世を築くべきである。しかし科学技術の文明と情報の発達によって、現代の衆生は智慧が大きく開け、人はそれぞれ主張と信念を持つようになり、各自の認識による観念を抱くようになった。
第三十回 戒律
宗教の教化教導には先天の条件がある。かつて五教の聖人が世にあって、皆「宗教」を教条とはしなかった。すべて後世の伝承者によって強引に付会され、宗教の戒律を行持する形となった。教条は後に来る者に依拠すべき道筋を与え、未来の宗教信仰を形成して人類の選択に供するものである。
第卅一回 求道
上天は広く教化し一道をもって貫き、多くの善縁を導いて道に入り修行させる。主に心の中で道の真髄を求めるのである。また求める者は多く、真に修行しようとする者もたくさんいる。この間、上天は広く衆生の進徳を導き、道を求めて修行するこの過程は、まさに天の寵児なのである。
第卅二回 善德齊家
天道の教えを演じて民心を救い、衆原霊の帰還と超越を期望する。現在の末世において民心はすでに失われ、良心は現れ難い。また異端邪説がこぞって現れ、人の本性を誘惑して迷いから抜け出せない。それゆえ上天はたびたび聖神仙仏を遣わし、宗派を開き脈を立てて民を教化し、「天音伝真」を唱えて人心を教化し、万民を救うのである。
第卅三回 孝道
人倫の道德は少しずつ道理に伝えられ、人心を教化して遠くを考え今に至らせる。古代の祖先が子孫を伝え今日に至って初めて私が存在する。枝葉が支え合い、春秋が巡ってまた一つ春。人生は素早く過ぎ去り、まるで春に芽吹き夏に伸び秋に収め冬に蔵すようである。これを一年の時の流れと言う。
第卅四回 廣結善緣
菩薩が降り来たりて心の篇を結ぶ。仏は縁ある者を度して万民を救い、今生において身心を悟らせんとする。
第卅五回 福慧雙修
天道の演化が人間に現れ、衆生が同じく徳の善心を顕して人間楽土を形成する。しかし今、人心はすでに正道から外れ、上天の教化は人心を醒ましめる。迷蒙を教化するためであり、末法の世において異端や邪説が相次いで現れ、もっともらしいが実は違う論調が頻繁に喧伝される。正しき理に見えるが、よくよく考えればそうではない。
第卅六回 圓滿
大道心燈の著作は、三十六回ですでに終わりに近い。儒宗聖堂から見れば、実に一種の斬新な試みであり、宗教の修持者に瓶頸を突破し依拠する基準を持たせるものである。この期間中、諸生の心力と苦労に対して漸く応答があり、現代の道場の修行者がこのような機縁に恵まれることはすでに容易ではない。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
聖なる御示しにより題跋は今まさに完成し、帝君のご徳によって保奏され、書はすでに成りました。
◆ 旨 ◆
書を完成し、御旨を収めて報告する
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
悟りて果を証するの見證である。真に上に成長し、昇華して超越しようとする者が、一世の中で実実に帰着し、円満に達し、超越の境地に至ることができるのである。
推薦序
大道が肇まり、陰陽が定位し、衆星が道を囲み、天心がすでに成った。人の道がその間に縁を継いで世界を形成する。天地日月星辰の理を受けて正道を得て大道を成す。昊天の恩は計り知れない。「帰還超越・円満超越」の成長とし、人世にあって確立し、生生不息に伝承を続ける。これこそ上蒼の望まれるところである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
今宵、無極虚空より降臨し、懿旨を賜う。本堂の福神に命じて十五里の外で御駕をお迎えさせ、本堂の城隍に命じて十里の外で御駕をお迎えさせる。その他の神人らは列を整えて御駕を待ち受けよ。失儀があってはならない。
序一
元始天尊、序の一を降す。
序二
西方の人天教主・本師釈迦牟尼仏、序を降す。
序三
南海古仏、序を降す。
凡例。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
心燈の著作は光明の面、人間の樂土は心が重んじられる處にある。
第二回 大道與天德
原霊を啓発して理天に帰し、虚無に戻って心性は明るく澄む。
第三回 天道奧義
人間で修行し無極に帰る。霊性が圆满に満たされ、真理が普遍に広がる。
第四回 心德
善を啓き頑を教え迷いを渡す。天に帰って逍遙に蓮花に乗る。
第五回 念正
念正の中に多くの心魔がやって来て乱す。だから念正の修行は大変難しい。心の中にもともと自分を惑わす前因後縁が多くあって、これらは皆念正の端に影響し、また自分の心性にも影響する。心性の中で「心の静けさ」に達することができず、時には外に走り、時には静かになり、本来の善性を隠して表さず、隠れて姿を消す。
第六回 修身
昔から「鼓は打たなければ鳴らず、玉は磨らなければ器にならず、人は学ばなければ義を知らない」と言う。修身の重要性が分かる。身を修めれば必ず家が成り、家が成れば必ず和楽である。それでもまだ足りない。修身は人生の第一歩に過ぎない。念正・心善から修身に至る過程に、善導する知識の教化による成長がある。
第七回 徹理
「理」を修めるには必ずひととおりの修行をしなければならない。理とは「道」であり、世界のどこに置いても通用する。昔から今に通じる正しい法則であって、初めて天地に응して正道に合う。もし理が偏って、正しそうで見せかけだけなら、その理は偏って「正」の綱を失う。理が効けば法も行うことができ、世界のどこに置いても通用する。
第八回 修心
自性を日に日に汚し、日に日に塵をかぶらせて、本性は清らかになるどころか、累世の冤罪を作り重ねる。これは心の中で体得できないことである。人生この世にあるのは何のためか、何を求めているのか、皆盲目である！また忙しくて手が付けられない。まことに仙仏もどうしようもないと嘆くばかりである。
第九回 大道心燈
天は慈悲あまねく、聖人を遣わして教えを立て、人心を教化して先天の本来に戻らせた。すでに科学技術の時代に入り、この時、民の智慧が大きく開け、教化を設けて人を導くことが徐々に認識されるようになった。しかし善知識の人々にとってのみ、まだ天の心を体することができる。一般の人々の知識に対しては、まだ啓発教化の中にあって、多少の効果があるに過ぎない。
第十回 以和為樂
降りて善行をなし、理を訓にして記す。諸の修養ある者よ、共に修め互いに親しみ合え。
第十一回 悟心
もし善知識の導きがあれば、内なる心の会得を成就することもできる。古来より今に至るまで世の出来事は多くの試練をもたらす。それはすべて「心性」を磨くものであり、外界の影響によって人生の様々な経験が生まれ、またこの心の中に生じる。心というものは千変万化し、一念の動きの中で、心猿を十万八千里の外まで攀缘させ、それを不可思議と言うのである。
第十二回 闡理
「理」に欠陥があれば、その言葉が正しくても、衆生に信じさせることは難しく、善き信者を導くこともできない。仙仏たちもまた悲哀を感じる。このようなあり方では、人々を真理に帰依させることは難しい。また真の「理」は四海に通用すると言っても、必ず国情や風俗習慣によって定まるものである。ここで用いれば善き信者に信じられても、別の場所では国情に背くこともある。
第十三回 境轉與轉境
しかしもし境を転ずることができなければ、必ず境に転ぜられて、心の中は生きているのがつらくなる。境転と転境とは、人生の中で実に検討する必要がある。人生は物欲に従って奔走し、日常の生活に忙しく、生計のために常に心を外に走らせて把定できない。またたびたび人をして考えさせるようなことをする。
第十四回 教化
このような因縁は、衆生の福分のよりどころと言うことができる。皆新法を唱え旧法を捨て、古風正俗も投げ捨ててしまう。科学技術が世を凌ぐのを拝して道徳が沦喪し、もはや古風正俗を取り戻すことは難しい。末法の際に、諸仙仏はたびたび聖堂に降り、あらゆる手段で顕化し、専ら心性の道理と文化、そして道徳教化に力を尽くす。必ず古風の清流の境に回復させようとするのである。
第十五回 三教合心
降りて善を行い宝書を作り、詩で善き衆生を呼び佳話を伝える。
第十六回 藩籬
各自が善願を立てても、心が定まらず性が清らなければ、その願力は大きく減じられる。だから善願を立てて「代天宣化」するにも殊勝な条件がある。誰もが成就できるわけではない。それはなぜか。持続する力に差があるからである。善念が動き、意がすでに明朗であれば、どうしようか。
第十七回 磨難
もしこのような試練を経なければ道基を成就することはできない。試練がなければ功力が顕現しない。どうするか。必ず考磨によってどの層次にあるかを知る。そうは言っても、試練によって正果を成す者の果実は実際に確かなものである。もし子孫の超拔に頼るなら、子孫が長く道途で修持し行えば、成就の道基は必ず安固である。
第十八回 消業
もしこのようであれば、衆生は必ずその徳性を感じ、仙仏も道果の成就を喜んで助ける。累世の縁は必ず消磨して正果を成す。このような特殊な大縁は、必ず累世の修持大徳があってこそ成し得る。今道場の多くの修子がこのような功果と条件を具備している。衆生の業障はこれだけではない。
第十九回 普渡
現代社会は功利主義が台頭しており宗教の修行者だけが冥府の罰を知っている。一般の衆生は知らず因果応報も信じない。地獄に堕ちる原因はまさに己の心を見失い不正を行い人を傷つけて己を利する様々な悪行を常に利欲に心を奪われて行い来世の悪業の因果を作っているのである。
第二十回 收圓之條件
時はすでに末法の盛期に入り釈尊の涅槃後すでに二千余年を経た。最初の千年は正法の時代第二の千年は像法の時代第三の千年は末法の時代である。時代の制約により弥勒の下生を待つだけでは竜華盛会に参加するのみで万教が一斉に発する中枢・根源となるのはまさに未来の時空である。
第廿一回 任務與修持
いつになったら「動の中で静を観じ静の中で動を観る」ことができるだろうか。人生は実に哀れである。衆生は苦しみながら根性は流されその苦に気づかずむしろ苦を楽しいことと見なし甘んじている。生存に向けた生活に常に大きな障害を作り仙仏はこれを見て本当に哀れに思う。
第廿二回 心念
人類の思考がまだ結果として現れる前、念が動いた初めに心はすでに発し果はすでに種かれ因由が展開する。だから人と人の間は必ず広く善縁を結んでこそ善縁に従って福田を成就できる。また人の心念は仏となり仙となることもできれば地獄に堕ちる種を蒔くこともでき、すべて心念の最初の発動によるのである。
第廿三回 念識
皆日常生活の中で生存のためのすべてを求め念識の中の一切の原由はこれだけではなく念識を働かせて正道・正理のすべてに合えばこそ善徳の本来の意味がある。そうでなく自由に発展させれば衆生の中で念識によって正念を行使する者が何人いるだろうか。
第廿四回 業因
このような因縁がまさに現在の道場におけるすべての問題の争論を形成する。修行者の立場から見れば善願と善縁は道場の教化を成就し衆生を導いて修行段階に入り功果も豊かに肯定される。しかし広く衆生を受け入れ門弟を招收する行為において手段を選ばないことがある。
第廿五回 善惡因緣
儒宗神教は必ず善徳の導きによって善堂に入りこれによって迷いを醒まし教導して再び罪を造り輪廻に入らず来世の苦を作らない。人生においてもし現世の生活のためにだけ疲れ走っていればまさに心を静かにして自分にこの生で何を為したかをまず省みることができないのである。
第廿六回 懺悔
九天：衆生の心にはその徳性を理解しにくい。まさに衆生の日常生活に最も近い。もし司命の火徳がなければ何によって衆生の日常生活の必需を灯すことができようか。衆生が世にある間九天司火の徳沢を理解しにくく火徳司命が終日衆生に寄り添い貧富貴賎に関わらず皆平等に扱うことを知らない。
第廿七回 消災解厄
これによって言えば災いを消せるか厄を解けるか。衆仙仏が代わりに解決するのではなく皆衆生自ら行い消除する。「紅心」があれば今生に多くの善功と福徳がある。衆生は知らないどうすれば「紅心」を持ちどうすれば「黒心」を捨てるかを。「紅心と黒心」を説き明かそう。
第廿八回 行善錫福
衆生は皆善を喜び悪を捨てる。善の果実は誰もが愛するものであり、善による福分けまた人生の修行に欠かせない功果である。善から発して、善行を行うことと悪を為すことは、心の中でどれだけ手放し、見通せるかにかかっている。「善を行くことと悪を為すこと」はただ一念の分別にすぎない。この心の動きこそが、将来の福と禍の分かれ目となるのである。
第廿九回 化性
末世においては、知識は世間を目覚めさせ人心を救うことができるが、物質の享受の下で人の心は浮華と奸詐に向かっている。どうすれば立ち直らせることができるか。必ず宗教を通じて衆生を教化し、道理をもって啓発しなければならない。「理」を前提とするが、古代の名文句が今日に至るまで、その多くは現代社会の潮流に適合し難いものがある。
第三十回 戒律
必ず修持者に戒律の中で行持し警戒させ、さらに自らその身を律することができるようにする。教条は心の内にあって、修持者に欠点を捨て身を正させ、模範的な修行者とする。宗教の戒律に対しては、人心を安定させ社会に役立つ働きがあるので、道理に応じて提倡し、皆が共に遵守するようにすべきである。
第卅一回 求道
因縁は出会い難く、機縁は巡り会い難い。また過去世に福縁を積み重ねてこそ得られるのである。三曹普渡において、人曹から始めなければならない。人が今生で天道を求めるのは、まさに累世に蒔いた含因があってこそ、この世で得られるのである。その間善徳が多いが、真に修行し錬磨する者は少ない。
第卅二回 善德齊家
しかし話す者は懇切でも聞く者は耳を貸さない。衆生は世の景色に迷い、人生の絡まりを脱し難く、多くの業障と煩悩がある。過去の業に関わる者もいれば、今生において迷いを引き寄せ迷いに入る者もいる。いつこの世を解脱できるだろうか。哀れかな、悲しむべきかな。天道の教化は万民を重んじ、天地人三曹に基づき、人曹からまず修めるのである。
第卅三回 孝道
人生を見れば「人の一生」を印证する。人類衆生の生存は短く、まことに感嘆させる。また歳月の交代の中で人類の生存を思うに、毎年一つ歳を取り、すなわち一つ歳を減らすのである。毎年一歳増えれば、人類の生存は一歳減るのである。
第卅四回 廣結善緣
人生は嘆ずべきかな、真に沈淪している。
第卅五回 福慧雙修
このような因縁の条件は、衆生を導いて迷いの中に偏った道へ走らせる。各宗派の争いや混乱も現れている。天地間に立つ者が正道に従って行けるかどうかは、正理を唱導して偏邪に陥らないことによる。これが現代の衆生にとって最も切実な追求目標であり、すべての人類の信仰と修持に大きく関わる。
第卅六回 圓滿
上天の教化は、必ず衆生に修持によって障害や困難を取り除かせ、修持の条件や方法において聖堂に全く新たな局面を与える。それゆえ仙仏たちもまたこれを喜ばれる。またどのような事にも始まりと終わりがある。この因縁は累世の中で結んだ果実であり、今まさに円満するのである。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
降臨して行善堂において諸生を教え導き、勉励して和楽の世界を実現し、心はさらに誠実になります。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
今宵、私は無極老母の懿命を奉じ、御旨を帯して宣読いたします。神人共々、伏し拝め！
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
天道に私情はなく、輪転する万代において、すでに無數の大小の元会を経た。上古の時代には心性は純粋に善で、邪悪も悪意もなかった。人心の善良さは比類なきものであった。中古に至っては、人心にはやや善もあり悪もあり、私心のために邪な道へと走るようになった。この時代にはすでに先天の本来の本性を失い、心性の知識もまた蒙昧に覆われて、上古のようではなくなってしまったのである。
推薦序
古より今に至るまで、天の覆いの恩に感じ、地の承载の恩に感じ、日の照りの恩に感じ、月の明るさの恩に感じる。星宿と五行が天地に貫かれている。もし人生において天の恩を感じず、愚かに悪をなして沈沦し、暗黒の気が蔓延すれば、諸天の仙仏はその不徳を察し、地上の各地に降りて教えを広め、あちこちに道場を開き、理によって人々を啓発し、衆生が迷いの中から立ち返るよう努めるのである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
無極の駕前におわします董双成仙姑。
序一
南天直轄の桃園行善堂。
序二
南天直轄の桃園行善堂。
序三
南天直轄聖堂の桃園行善堂。
凡例
一、「大道心燈」はすなわち無極の懿旨を承け、昊天の玉詔を頒ちて著書するものである。現代の衆生が苦海に沈み、人心の汚穢がすでに極限に達したために著作し、人性の浄化を向上させるものである。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
大道が始まり、陰陽が位置を定め、数多の星々が大道を戴き、天の心がすでに成就した。人間の道がその間を継いで世界が形成された。天地・日月・星辰を秉け、正しい軌道を得て大道が成された。天の恩恵は限りなく、慈しみの心が大いに開かれ、龍華會にて母のみ顔を慰めよう。人は世間にあって立ち、生生不息に伝延していくのである。
第二回 大道與天德
ああ、人生この世に生まれ、天地陰陽の力を受けてこの身を成しているのである。昔から今に至る无数の前世の中で、天を知り天を感じ、天に合わせてその徳性を体現できる者は極めて少ない。すでに末世に入り、人心は昔の純粋さを失い、修徳しても上古のような純善には戻れない。皆、汚れに染まって霊台は濁り、幾重にも重なった汚穢を清浄な法の水をもってしても洗い清めることができないのだ。
第三回 天道奧義
天というもの、地というもの、人というもの、この三才が鼎立して世界を形成している。天の心は善であって、万物の霊的に明るい清らかな性を教えて導く。帰ることができる者には先天の条件があり、一概には言えない。天に仕えれば必ず地にも従い、人に仕えれば必ず衆生を救う。これが千古変わらぬ理である。
第四回 心德
天のご恩は広大で、そのご徳は大地に満ちている。昔、三皇五帝は徳をもって人々を服させ、衆生に教えを説いて心性を悟らせ、理を明らかにして根本を究めて帰っていった。今はすでに龍華三会に入っている。母上は門によりかかって霊子たちの帰還を待ち望んでおられる。しかし霊子たちはなお執着に迷って目覚めず、母上は泣いて涙を流し、傷心きわまっている。どうしようもない、霊子で帰還する者が少ないとは。
第五回 念正
一つ一つの念の中に心に定まった正しさがある。しかし乱す原因は一つ二つではない。現世の生活のすべてに関わり、様々に思いがかりが生じて念が転換する。念が転換するから心を定めることができない。だからこそ念正には必ずしっかり修行を積んで、初めて確固たるものになる。念正の方法は各自の心の中にあり、四端を行い、四正を行うことである。
第六回 修身
初めてこの身修の段階を立て、人が修身できれば必ず性を養うことができる。性霊の中から陶冶し、陶冶の中から修身すれば、比較的容易である。偏ったり歪んだりすることなく、またすべての物事に定めがあれば必ず「正」がある。その定めが「正」の中にあって外に現れれば、修身に成果が生まれる。
第七回 徹理
さらに理によって身を修め性を養えば、人倫の根本基礎を立て、中を行なえば正しく、隅々まで偏らない。理の正綱であって、もし偏って歪める者があれば、理は人を導くこともできれば誤らせることもできる。言う：理を説き教を広めることは人生の必ず修めるべき本分であると。道の旅において「理があれば天下を歩き回り、理がなければ一歩も進むことができない」。
第八回 修心
世人はまだ目覚めていない。このことを論じれば、本当に仙仏も共に涙を流すことだろう。まことに嘆かわしく悲しいことである。心は本来の体の中の主人であり、念識の中で、人の眼と耳は最も外側の原識である。原識によって見聞きし、意識の中に伝え、さらに心から外に向かって手・足・鼻・口・体に呼びかけて行動が生じる。
第九回 大道心燈
もし悪業に引きずられ人心が険悪な輩について言えば、全く顧みようとしない。こうして天の普遍的な教化に大きな障壁を形成する。このような障壁は、悪業に縛られた衆生から見れば、自性は依然として純善で悪がないのに、行為においてはすでに正道から外れている者が、心を返すことが難しく、また元始の先天に戻ることが難しいのである。
第十回 以和為樂
聖門は教えを開くにあたり、理を最も重んじる。儒宗の神教は衆生を救い導く。神は儒学を根本として示されたが、衆生の心性の中では完全には解き明かせず、人生はなぜ生まれてきたのか、なぜ生きているのか、今生で何をなすべきか、いずれもまだ悟りきれてはいない。仙仏が降臨されれば、一人ひとりの衆生にすべて感应がある。その感应の中から、いかに行動すべきか、いかに調和すべきかを体会しなさい。
第十一回 悟心
起心動念——それはすべて我が心がそうさせているのであり、我が心がそう使っているのである。またこの心猿をつなぎ止めることができるだろうか、縛りつけることができるだろうか。実に難しいことだ。人の心念は最も容易に外界の縁に触れて結びつく。人心から観れば、このような機能は備わっているが、それは自らの肉体の中にあって、実際の行動や功能的な効果を生み出すものではない。
第十二回 闡理
往昔の聖賢が立てた言論は、善き衆生に信じられれば、民は帰依することができる。「心」を目覚めさせ、「理」が地理風土や民情に合っていれば、国土の民もみな同意する。理が正確で誤りがないことを「正理」とする。理というものはそれ自体に正邪があるわけではなく、ただ使う者の「知性と行為」によって認定されるものである。
第十三回 境轉與轉境
もし自分を束縛する一切を看破することができれば、また常に苦難に遭いながら自ら気づかないこともなくなる。必ず心を放下すれば、物境を転じて心境とすることができ、環境に適応して境に乱されない。しかし人生は実に何とどうしようもなく困惑したものか。もし一筋の良方でこの病を治すことができれば、境に苦しめられることはないだろう。
第十四回 教化
現世を観れば、衆生の福分は具足している。昔、人が遠方へ行こうとすれば、必ず車馬を借りて奔走した。現在は新しい交通手段で移動でき、人と人の関係を短縮し、人生の距離も縮小する。しかし却って人々はより疎遠になり、人と人の心の向上や道徳観念のコミュニケーションは。
第十五回 三教合心
宗教道場は教えを開き真理を伝え、人に悪を棄て善に従い、邪を改めて正に帰るように教える。屠刀を放下すれば即座に成仏する。このように善の中から衆生を導き、理の中で良民を目覚めさせる。これこそ上蒼が宗教を設けた目的である。宗教は教化をもって正理（真理）を伝えることを主題とし、伝教によって迷える衆生を目覚めさせて善を行わせる。
第十六回 藩籬
上天はすでに了知している。さらに願力と堅い志によってその成就を助け、立てた善願を完成させる。今の法船の舵取りは、己の心を公にして世に立て、受け持つ道門によって先天と後天とを分別しないだろうか。このようなことはただ人類の固定観念に過ぎず、各人の異なる固定観念を作っている。
第十七回 磨難
もし子孫が途中で志を退けば、道基は失われる。子孫の功により祖先を蔭するとはいえ、これは縁によって成就するだけで、自分の成就ではない。もし子孫が道基の縁を成就し、さらに自分の修持が力を入れれば、二つの助縁のもとで相輔相成し、果実はより実在する。
第十八回 消業
因果業障が来た時、試練の程度は常人が忍耐できるものではない。累世の中で怨親に煎熬迫害を受け、生生世世怨恨を化解できない。すでに領牒憑を持って前に来て債を討つ。だから仙仏もその身形を護ることが難しい。ただ過分にならないように告诫し、来世の業愆を造らないように避け、罪を得て祈るところがないようにする。
第十九回 普渡
この壁を打ち破ることができなければ今や冥府はすでに空間を広げ罪を犯した衆生を収容している。これは上蒼が慈悲でないからではなく世人が因果応報を理解していないからである。菩薩は因を恐れ衆生は果を恐れる。だからこそ「普渡」を主題として衆生を目覚めさせ上蒼の教化もまた三曹を共に度さねばならない。現世の衆生にはそれが見えず迷信だと言うのである。
第二十回 收圓之條件
収円の時期はすでに徐々に明らかになりつつあるが衆原霊の善縁と功徳によって差が生じている。それゆえ元の時間で定めることができず正確な時期は衆原霊子の心構えと行いによって早まったり遅れたりする。収円は儒・道・釈の三教にとって世を醒めさせる役割があり多くは中華の子孙で福分も厚い。
第廿一回 任務與修持
衆生が今生生活に追われ事業に流されていることを悟ればいつになったら一息つく機会を得て自分のために計画し才能を発揮できるだろうか。これは人類衆生が必ず知らねばならないことである。今生何のために来たのか何のためのものか。すなわち三つの使命と任務がある。
第廿二回 心念
動き始めに心念がすでに芽吹き因縁はようやく出たが果はまだ成っていない。しかし人と人の間の善悪の因由は必ずここから発し善悪が混ざって累世の良い悪いの因果となり輪廻は皆この念から出る。今生に福を受けて享受できるのは前世に種けた因縁がすべて善であったからこそ今世と来世に福報を享受できる。
第廿三回 念識
このようでは必ず衆生は心の帰すべき所なく累世の業因悪愆もここから生ずる。仙仏は念識の中に善き応えがあり正直公正にして私心がない。衆生は自分の思想観念の中を巡るだけで相手のために考えたり天下衆生の福祉のために思ったりすることは非常に難しい。
第廿四回 業因
善願とは言えすでに善願の本来の意味を失えば人を傷つけ自分も利益にならず未来の悪因の源を蒔く。修道者の心念の違いによって行いもまた偏りがあり外面に現れれば衆修行者を盲目に従わせさらに吹聴すれば善信と門弟を引き入れて面目を増すだけである。
第廿五回 善惡因緣
まさにこの静思によってこそ今生で罪を造る機会を減らせる。善堂を開いて教化する本来の意味はここにある。また教化の中で因果の実例を挙げて述べその間に実例を引用して教化すれば必ず善衆の心に恐れを生じさせて悪を為さなくさせる。
第廿六回 懺悔
日常の三度の食事の炉火照明の電灯そして心の内の元の心灯は皆九天司命の火徳の掌るところでありまた生活と最も密接で切っても切れない。日常の行いは皆自分の「三尸神」の監督を逃れにくく各家庭もまた司命の管轄を受け日常の行いは皆九天司命真君（灶神）の監督を受ける。
第廿七回 消災解厄
「紅心」の者は善良で福分の表徴である。人生の中で善心・善気・善相が頭に現れ仙仏は喜んで見鬼神も敬う。なぜこの紅心を持てるか。日常生活中に自分を利すると同時に衆生も利し自分のためではなく衆生のために考える。
第廿八回 行善錫福
善行を行うことは心の本源から生じ、悪を為すこともまたここから発する。善徳は日に日に増し、徳の業を積み重ねて満ち溢れるとき、善の本源は必ず福分へと転換する。今生では福分が厚いために福報を受け、また道業の果をも成就することができる。さらに福分の中から智慧をも求め、両者が備われば、この生において大いなる成就が得られるのである。
第廿九回 化性
それゆえ上天は教えを開き新しい法を司り、衆生が迷い沈む環境の中で依り従う道を与えるのである。こうして衆生は自分の心を用いて「化性」の段階に至り、この世を渡脱するのである。人は天地の陰陽を受けて生まれ、霊性は先天において純粋に善であって悪はない。しかし凡界に落ちて物欲に誘われ、生生世世に輪廻することになる。
第三十回 戒律
戒律は修持者にとって一種の基準となる依拠である。この依拠によって、衆生は修行の中で模倣し学習する目標を持つ。その目標は、この身をもって修行の鍛錬とし、戒律を犯させないことである。修持者自身から見れば、戒律とはまさに自分を律する基準なのである。
第卅一回 求道
それは導く者が人情で引き入れ、申し訳なさと気まずさを感じさせるからである。真に実修の段階に入るにはまだ距離がある。人数の多少で功徳を決めるのは、実に誤りである。求道の過程において、上天の慈愛は教派を分けず、九二原霊の帰還を導き、今の普化はまた新しい段階に入っている。
第卅二回 善德齊家
さらに人々に五倫五常を行わせ、人心を奮い立たせて教化の先駆けとする。こうして衆生を教化し、人倫の道德を全うしてまず行い、道を尽くす境地に入る。もし人倫の道德を尽くせば、家は必ず和やかに楽しみ、心は穏やかに祥であり、一人ひとりが家を重んじ、私心をなくせば、初めて家が整う。
第卅三回 孝道
生まれたばかりの子供もあっという間に年老い、老いて死んだ後、また次の春に新しい命が生まれる。人類の一生の交代は瞬きほどのことである。どうすればこの世を解脱できるか。どうすれば後代の子孫に伝承の光輝を残せるか。それは祖徳次第である。この因縁には必ず祖先に徳がなければ、優秀な後代の子孫は生まれない。
第卅四回 廣結善緣
真性を回復して身と霊を度す。
第卅五回 福慧雙修
理をもって教化しても、主観や角度がそれぞれ異なるため、客観的な立場に立って判断しにくい。真理に従えば永遠に矛盾することはない。しかし理を論ずれば、人の心念から発するため、個人ごとに異なり対立が生じる。修持の中で智慧をもって判断しなければならない。「正道」に合っているか、「正理」にかなっているかと。
第卅六回 圓滿
因縁の関係について、この書の出版に多少の波乱を経たとしても、同心合力して共に大道のために心力を尽くし、衆生の規範として応答を示すことができる。このような願力を明らかにすれば、天書の始まりと終わりの因縁に対して、共に同じ理念で行持し、四方に成就することができる。
◆ 跋・讃賀 ◆
あとがき
◆ 旨 ◆
懿旨を朗読する
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
上天の慈悲により、聖人を遣わして教を設け、民心を教化して先天の本来の状態に回復させる。すでに科学技術の時代に入り、この頃の民衆の知恵は大きく開け、教化に対してようやく認識を持つようになった。善知識について言えば、なお天心を体得し、一般の人類の知識に対して、啓発教化によって多少の効果を上げているに過ぎない。
推薦序
ただ現代の科学技術文明のみを頼り、迷信と呼ぶ。上蒼は衆生が沈沦していくのを忍びず、道と劫を共に降らし、先天の霊性の清らかさを回復させようとする。現代の科学技術の時代において「性霊の清らかな照り輝き」を知らず、本来の境地に帰還することができない。人類を繰り返す輪廻の限界に陥れさせてしまう。どうしようもないことである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
無極は旨を行善に頒ちて大道を普化し、心禅を悟らせる。
序一
天運辛未年五月二十九日。
序二
天運辛未年五月二十九日。
序三
天運辛未年五月二十九日。
凡例
二、無極老母これを見て、特に南海古仏に命じて理筆の陳生を導かせ、理によって教えを開き、世を醒ます木鐸として、濁を払い清を揚げ、人界を教化する。衆生よ、沈むなかれ、迷うなかれ、手を携えて共に理天の聖会に赴こう。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
昔から今に至るまで、天の覆う恩を感じ、地の載せる恩を感じ、日の照らすこと、月の明るさ、星宿や五行が天地に貫かれていることを知るべきである。しかし人は天の恩を知らず、愚かで悪をなして沈淪し、黒気が弥漫することとなった。諸天の仙仏はこの不徳を嘆き、人間界に降り立って方々に教えを説き、处处に道場を開き、理によって人々を啓発し、衆生を迷いから連れ戻そうとしているのである。
第二回 大道與天德
そのために心の中に矛盾が生じ、疑惑が次々と湧き起こり、さらに今世に何をなすために来たのか、何のために生きているのか、どのように今の世に向き合えばよいのかさえ分からない。心は常に空虚で、魂の潤いが不足し、ますます贅沢で欺瞞に満ちた心が絶えず現れる。それは上蒼が慈悲でないからではない。教化を受け入れられる者は、全力で成就させてくださるのである。
第三回 天道奧義
天の大徳は「生き物を慈しむこと」、地の大徳は「万物を養うこと」、人の大徳は「生き物を放つこと」である。天地に仕え、人倫において善を行いなさい。天道に帰ってその道を行い、天地に合えば必ず人々にも合わせることができ、人々に合わせることができれば鬼神に仕えることもできる。鬼神とは精霊の正と邪であって、正しく修めれば神となり、正を誤れば鬼となる。
第四回 心德
諸天の神仏は母上の悲しみに忍びず、慈しみの心を大いに現して再び人間界に降り、理をもって霊児を目覚めさせ、慈母の深い願いを理解させる。さらに聖堂に降りて道を説き理を研究し、精髄を以て解説する。霊子よ、悟って帰還し、慈母のお顔を見て喜んでもらいたい。心から感謝し、さらに衆生を教化して慈舟に乗り、速やかに帰還の途について、龍華会で集えることを願う。
第五回 念正
そうして念正の修行が確立し、さらにそれを用いれば、必ず收获がある。だから「念頭が起こるのは心の前である」と言う。この念がまだ発しない前には、まだ心も動かず念も起こらない。正しくなるか偏るかは、自分の前業と今世の宿業による。「正」であれば必ず成就がある。外に発せずとも、「正」は必ず心性の内に現れる。
第六回 修身
「身を修めるには必ず理を明らかにし物事を知り、天地を知り、神明に礼を尽くすべき」と言う。宗教の修行は教化の第一歩を立て、宗教の善導啓化は人倫の第一要件であって、すべてここから始まる。教えて迷える者を導くには、その徳性がなければならない。まだこの境地に至らなければ、常に学び、学んで用い、常に行う。
第七回 徹理
昔の諺に「理は公正で偏らず、方圆が正しく明を成し、皆人を立てて偉大なものとする」とある。だから理を保って行えば、世界のどこに置いても通用する基準となる。理は修行の根本であって、修行する者が理をもって宗教の啓発に向き合えば、必ず正しいものと偏ったものを見分けることができる。神通によって人を迷わせるのではない。もしそうすれば、未来に必ず変えがたい状況に陥る。
第八回 修心
すなわち善悪の因縁となり、善悪の因縁によって生生世世に、恩讐の業因を作り上げる。もし善い風潮を形成すれば天の大いなる幸いであり、悪い業を作れば諸天の仙仏を嘆き悲しませる。必ずまず善悪の動発を認識させて教え、理性を働かせて判断すべきである。眼と耳から伝わって意念の中に入る。
第九回 大道心燈
天が教えを設けるのは、このような頑固な人々をも救済するためである。因縁の種が成熟しているかどうかを観て、どのような方法でこの輩を教化し導くべきかを決める。このような頑固な者を教化し導くことは、善良な人を教化し導くよりも容易ではない。必ず心を倍加して、初めて効果が現れ、縁を借りて因果を成すのである。
第十回 以和為樂
心性の中である程度は明らかになっているものの、それぞれの立場や角度が異なるため、見方が変わり、さまざまな障害や困惑が生じてしまう。この点について論じれば、誰が正しくて誰が間違っているかは一概に定まらない。言うではないか——言う人には言う人の理があり、聞く人には聞く人の理がある、と。それゆえ、仙仏が衆生の立場からご覧になれば、まさに混乱極まりない状態であろう。
第十一回 悟心
またこの機能は既に人心の万変の源头を具えている。一念が動けば心はすぐに転じ、すでに方外の里程になっている。心猿をつなぎ止めようとするなら、必ず深い功夫を積んで、忙しく動き回る中でも心を止めて把定できなければならない。それは大変難しい。必ずひととおりの「禅定」の功力があってこそ、初めて心猿をつなぎ止めることができる。
第十二回 闡理
現今の衆生について言えば、時に一つの事柄を異なる観点から論じれば、人々は理に背いて行っているように見えるが、出発点は公正な善念によるものであり、事を成し遂げようとするものである。しかし集団の中で調和することは難しく、善念から引き起こされた行為も衆生の観点からすれば偏っており、その行いは既に他と異なっている。
第十三回 境轉與轉境
心境の転換とは、物境の変遷を意に介さず、物境が変わらなくても心境がすでに変わっていれば、すべての物事が容易に解決する。また「境に転ぜられる」ことはない。故に言う、「心は転ずれど境は転ぜず、境は転ずれど心は転ぜず」と。この境地はすでに人生の苦悩困惑を離れ、悟心して平坦な人生に到達できる。
第十四回 教化
世人は皆自己の利益に盲目になり、自分の前途（銭途）に忙しく、いかに衆生の利益を提唱するかを思わず、道徳風俗を改めて振興させようとも思わない。みな己の内心に迷い、顕現することができない。人と人の間には常に猜疑と疑心があり、少し油断すれば利益のために争い、互いに傷つけ合う。
第十五回 三教合心
さらに善道をもって衆生に教えを開き、修持をよりどころとし、心性の教化を目的とする。中土では昔から孔聖が杏壇を立てて正理を伝えたが、教門として説を立てたのではない。後の世の人々が勝手に付会し、特に宗派を強いて教と名づけた。孔聖の時代に教派があっただろうか。儒を「教」としたか。否である。ただ「家」として伝揚しただけである。
第十六回 藩籬
道場の中では必ず「天の大徳に合う」べきである。また衆教派に合って、互いに分け隔てず、標を立てて衆生を教え、どれが最も大きくどれが最も高いかに執着してはならない。だから形成される：最上の人も最下の知恵を持ち、最下の人も予想せぬ知恵を持つ。誰が悟れば誰が即座に生を超越し死を解脱できるか。各人の縁と智慧によって定まる。
第十七回 磨難
衆生に十足の信心をもって修持させれば、上の梁が正しく下の梁もそれに倣い、道基を成就する。必ず自分自身が為す方が実際的である。しかしその過程には必ず善縁の牽引があり、子孫も道場の中でさらに成就がある。過程は考磨の行使にあり、試練の過程がなければ功力のほどを顕現することは難しい。
第十八回 消業
もし業愆（冤親債主）が悟れば、「冤は解くべき、結ぶべきではない」との前提で、受ける困惑と折磨も少なくなる。勤めて功徳を修め廻向し、業愆を助けてこの苦を解脱させよう。共に修め共に励もう。これこそ上蒼の最も喜ばれること。試練はただ心性だけでなく、大きな障礙を生む。
第十九回 普渡
これはまさに宗教が人心を目覚めさせるために記したものである。これが真実の地獄の光景である。もし信じないなら現世の中でも見聞きできる。天国と地獄に生きることの差は内心と現実の分かれ目にある。心が正しく善徳があれば天国に昇り心が邪で罪を犯せば地獄に堕ちる。これは千古変わらない道理である。
第二十回 收圓之條件
上蒼の御意志は仙仏を通じて直ちに下され情報も迅速で修行者の条件と行いも上天の要求に合致しやすい。中土の修行者の善縁が深厚なためであり無極皇母や上蒼の配慮にも違いがある。「中土に生まれることは難しく仏法を聞くことは難しい」とはまさにこのことである。
一、累世の因果を償還する。
第廿二回 心念
善悪の因縁がなければ因果もまた芽吹きにくく果を成すこともできない。念が発る初めから正しく導いて行けば必ず未来に善因を行って果実を成し未来世に善縁を成して善果となる。これが善徳の証である。衆生は常に心念を善縁に転換して今生や来世に悪果の報いを受けることがないようにすべきである。
第廿三回 念識
もし善良で正確な観念で行っても一陣の熱気が去ればまた冷め三分間熱度では持続せず心が堅くない。必ず善良な心念の行持を強化し念識によって過去の認知経験を確固たるものにし未来の行為の根拠を促す。これが福と禍の分かれ目である。
第廿四回 業因
悪因を作らなければまだよいが悪因を作れば未来にどうすればよいか分からない。深夜に我が身を省みて天地に恥ずかしくないか大道に恥ずかしくないか。善願による成就とは言え善願の中で悪因を行なえば必ず門弟と善信を誤導しまた果てしない罪を犯す場所に入る。
第廿五回 善惡因緣
累世因縁の中で苦しい報いを受けるのは皆受苦・心を磨く・難に遭うことによって世人を目覚めさせる。もし福報善徳の加持があれば必ず衆生に従うべき道がある。また因果輪廻苦難の実例において次第に広く大きな効果を収めこの間の仏・道両教の先人および仙仏の苦心の教化も無駄ではない。
第廿六回 懺悔
だから善を為せば吉祥が降り悪を為せば災いが招かれる。もし衆生が常に自分の行いを戒めれば司命の監督を受けずに済む。また衆生は皆名利の追求に迷い特に現代は科学技術が発達し人類のすべての事は「金に向かう」ようになり心の中にお金の分量しかない。
第廿七回 消災解厄
長く行えば「紅心」が次第に現れすべて天理道徳に合えば鬼神が守り災禍は遠ざかる。「黒心」の者はすべての行いが自分を利して人を傷つける。これは衆生の習性であり一見間違いなさそうでも人生において道を歩むのを妨げる障害である。
第廿八回 行善錫福
最も優れた善因は、以前に発した徳の徴しである。「上徳」の者は自分の徳を求めず、「中徳」の者は善徳に執着し、「下徳」の者は小さな恩恵を施しては常に徳を気にする。この下徳はただ福分に変換できるだけでは、さらに深めることはできない。善行を行うには必ず「無為」をもって行わなければ、より大きな福分を具えることはできない。
第廿九回 化性
因果に拘束され、絡みつかれて、その枷から抜け出すことができない。また自性は何度も何度も人生の輪廻の渦に沈んでいく。毎日同じ輪廻を繰り返していて、いつになったら止まるのであろうか。衆生よ、心の内の明るい心灯をともして、本性を四方に照らし出し、自性の中から本来の姿を体得しなさい。
第三十回 戒律
古の聖人や先賢が定めた戒律によって、修行の目標に到達する。帰路において、必ず衆生が生活の中で自らを戒め励まし、初めて自分自身を管理し、自分自身を要求する。仙仏の旅の道のりを歩み、仙仏が世にあった時の行いを学び、模範の手本とするのである。
第卅一回 求道
この時期には衆生に求道の過程を通じて心を明らかにし性を悟り、己の心性を悟って、さらに衆生を導かなければならない。求める者が、ただ一指をもって天堂に名を登録し地獄から名を除けば十分だと思うなら、それは大きな間違いである。天道は教えを立て理をもって衆生を導き、道に帰ることを基準とする。もし一指だけで天に登れるなら、累世の因果循環を証明することはできないであろう。
第卅二回 善德齊家
上が正しければ下は必ずそれに倣う。だからこそ上が正し下に倣わせて、正しい道筋をもって道を行い、偏らず寄りかからず、家庭の道に向かって前進する。人倫の中で正しい行いが難しいと悩む必要はない。家庭の道は、必ず目上がまず模範となり、移默化に言葉と身をもって教えれば、一家が整い一家必ず和やかになる。
第卅三回 孝道
祖宗の祭祀は家を伝える最高の理である。中国は古より今日に至り、この少しずつを伝承するのは「孝道」にある。中土の人心は孝道を伝えてきたが、今日に至り時代の衝撃を受け、孝道は次第に昔から離れていった。父母を敬い養う心も次第に衰えつつあるが、幸いにまだ多くの孝子賢孫が維持している。
第卅四回 廣結善緣
広く善縁を結んで今修持し、妙理を悟り心に依る。種德は善より起こりて発揚し、重ねて今生において自らの悟りを開くのである。
第卅五回 福慧雙修
道を修める者は、この身を度脱できるかどうかにかかっている。修める者自身が必ず大智慧を具え、事理に従って判断し、事実の始末を正す。末法の衆生が各人の因縁と前世の業により、今世に道場で修持に入れるのは、自ら必ず大いなる因縁を備えている上、自身の心構えもまた大変重要である。
第卅六回 圓滿
事を波乱の中に始め、事を円満の中に完成する。その間に多くの外的要因があったが、それは各人の観点や角度の立場の違いによるものである。衆生が皆垣根を打破して共通認識を形成することができた。これこそ本書最大の殊勝なところであり、円満の中で、どの事柄も始めから終わりまで一貫して初心を以て行えば、自然に感応がある。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
行善堂の著作として、大道心燈の天書はすでに完成いたしました。この書は三界の高真たちが心血を注ぎ尽くし、天の音を降ろして成されたものです。これは聖堂において新法を掌り、道理を闡明する著作であり、現代社会の修行者および善根を持つ人々に適応できるものです。その道理は時代の情勢と人倫の道徳に合致しており、この過程を経て、宗教の修行者たちに戻り遵うべき一つの指針を与えることができます。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
恭しく奉ずる
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
悪業に引きずられ、人心が険悪な輩について言えば、根本的に省みることはできない。こうなれば上天の普化に大きな障壁を生じさせる。この障壁は悪業が衆生にもたらすものであって、自性はなお純粋に善であって悪はない。しかし行為においてはすでに正道を踏み外しており、心を翻すことは非常に難しく、元始先天の契機を回復することもまた難しいのである。
推薦序
もし共業が到来すれば、その時の苦しみも、後にはまるで過ぎゆく雲や煙のようであり、一瞬で忘れ去られる。警めとして戒めても、自らを戒めることは非常に難しい。ただ災厄は決して我が身に及ばないと信じ切っている。また共業が来た時に天が救えるか、神が救えるか、人が救えるか、いずれも難しい！各人の因縁は前もって定まっており、果報が今まさに到来すれば、諸仙仏といえど天を返す力は及ばないのである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
心燈の天書をひと冊著し、四方に広く天賞を分け与える。
序一
西方の人天教主・本師釈迦牟尼仏。
序二
南海古仏。
序三
南海古仏、序を降す。
凡例
三、本書は三界の高真の援助によって著作し、末法の世に修行の基準を設け、故郷への帰路を悟らせて、再び苦海に沈まないようにすることを務める。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
聖人は天を悟りてそのご恩に感謝し、賢人は天を悟りてそのご徳を敬い、庶民は天を悟りてそのご徳を畏れ、迷える者は天を悟りながら感謝の心を持たない。万物はその中にあって天地に覆われ養われ、日月星辰は正しい位置について光明を放っている。善悪や貧富によって偏ることがないのだ。
第二回 大道與天德
仙仏が幾度も教化を説いても、語る者は懇切であるのに聞く者は耳を貸さず、「アヒルに雷」のように全く理解しない。人心がこの有様では天心も失望してしまう。しかしそうであっても、衆生が堕落しているからといって見捨てることはされない。天のご大徳は比べるものがない。大道の運行は自然の中に行われているが、世の人々がそれを知らない。啓発教化しなければ、元の境地に戻る日は来ないのである。
第三回 天道奧義
鬼神が正しさを得れば、偏りは必ず廃れる。徳の恵みがあってこそ、必ず衆生に道理を悟らせる。「道理」とは道のことであり、路程である。これを行いに活かし、これを得て用いれば、必ず偏ることのない中正に合う。この「中」こそ天地の根本であり、人の世において行き過ぎも及ばないことも中道ではなく、人類の公理を形成する。
第四回 心德
心徳とは自分を修め自ら悟ることである。世の景色に迷ってはならない。善の道を説き、徳をもって施しなさい。功徳とは公の心と自己の心性による行いで、迷える者を教え目覚めさせて衆生を利益することである。徳とは心性の内に現れ、外に誠を持ってすれば道は公正で偏らない。心徳は永遠に後世まで残って朽ちない。世人が修める徳は身徳・正徳・公徳であって、「心徳」だけが不足している。
第五回 念正
内に充満して、外に形となれば顔に善い相が現れる。多くの人が念正で心が善く、本来の顔つきの凶悪さを改めて、慈愛に満ちた善い表情に変える。外から見て善い相があれば、仙仏も喜び、人々も喜ぶ。このような心念の違いは、「正と偏」の間に極めて大きな差がある。
第六回 修身
人世間に少しずつ徳性が生まれ、初めて説き広めることができる。だから修身の第一条件は必ず念正から始まる。念正を基礎としなければ、思うことは空しく、行うことは危険で、必ず悪い結果を生む。修行者は念が動いた時に正しく導き、正念の中を行えば、初めて善行が出てくる。
第七回 徹理
今、道場が林立して皆理を正綱としている。修行する者は理を基準とすべきである。そうでなければ人々が言うままに言い、盲人を導いているとも知らずに。だから今「理によって教を説く」ことは、必ず現代の世の人倫の基準に合わなければならない。もし宗教の指導者が理を根本とし、教化を第一とすれば、さらに衆生がこれを実践すれば、帰還に希望がある。
第八回 修心
まさに今の世人が言うように、まず頭脳を通して考えてから命令を出すべきである。何を為すべきか、何を捨てるべきか。人類の衆生に「起心動念」の初めに、まず善念の種を持たせ、その種の因から善行を出させる。人生に美好な未来があり、それは心の起動によって影響されるのである。
第九回 大道心燈
この輩の心性を注意深く観察し、どのように内心に隠された善性を引き出すか。人には皆善性があり、蔵識の中にこそある。蔵識の中には多くの因縁がすべて隠れて表に出ない。まるで現代のビデオレコーダーのようで、その一生の行いを記録し、それを取り出して再生すれば、すべてが映し出される。
第十回 以和為樂
しかし仙仏の角度から見たからといって、必ずしも正しいとは限らない。だから、どんなことでも心を尽くし力を尽くして成し遂げれば、その結果は上天のお計らいにお任せすればよい。善堂での修心は、教えを開き善に導くことにある。真理を用いて阐述するのであって、神の権威に執着し、神霊の霊験の素晴らしさに眩惑されて畏怖の念を抱くのではない。そのようなものは既に迷いに入っており、理によるものではない。
第十一回 悟心
そうであろうか。必ずしもそうとは限らない。必ず心を用いて把定し、この心の働きを徹底的に悟れば、心猿も素直に従い、馴服させることができる。いわゆる心を内観するということである。心を明らかにするには顕われやすいが、それでも痛く決心してこそ初めて「攝持」が可能になる。そうでなければ事端が降りかかれば、心猿はまた動揺し、すべての努力も無駄になる。
第十二回 闡理
善念に駆使されて、理そのものに対する正偏が生じる。人の角度や観点によって差異がある。この偏りと正しさは、単に衆生が見る目によるものでもなく、また国土の風情によって従うべきものでもない。ただし、結果は公正な善導によるものであれ、「理」に偏った行為をした者は、必ずその結果を自分で引き受けなければならない。
第十三回 境轉與轉境
心境の転換とは、物事に囚われず影響を受けず、すなわち心を放下して物境に転ぜられないことである。もし心境が常に困厄に遭えば、必ず物事に身が拘束され、身心が囲まれ、物事の影響を受けて、束縛から解脱することができず局限される。このような問題は衆生すべてが抱えており、多くの困惑を生む。
第十四回 教化
教化の中で、いかに人として生きるか、「利」に直面しても道義を思うか、いかに衆生を利益し、さらに己をも利益し、大衆や国家をも利益するかを明らかにする。教化の第一課として、人の世において施行すべき要務とする。まさに道徳観念を主導する必要がある。
第十五回 三教合心
釋尊の時代もまた同様であった。釋尊が在世の時、教門を主とせず、また釋者を貴いものともしなかった。ただ教化においていかに修持し、いかに戒を守るかだけであった。後の世の人が強いて「佛教」と名づけた。伝えられて今日に至り、佛教はすでに多くの変化を遂げ、たくさんの宗派となった。現在では比較的に人々に受け入れられている。
第十六回 藩籬
昔、釋尊が花を拈じて微笑んで迦葉尊者を渡した。今人の縁は異なり、開悟の方法も異なる。どの教派に属し、どの仙仏を信じてこそ成就できるというものではない。必ず各人が功夫を積み、真理の精髓を闡悟してこそ、この条件をもって入って向上すれば、了悟の境に遠くない。
第十七回 磨難
修はあっても試練がなければ、試練の過程がどのようか知らず、修為がどのようかも知らない。しかし試練の過程には順逆・顛倒・病厄などがある。心智と態度で対処するだけである。この過程は各人の縁不同・習性不同・環境不同によって、造就するところも異なる。
第十八回 消業
さらに周囲の環境に生じる。「時に与えず、求めても与えず」という様々な困惑現象で怨恨が尽きず、仙仏も排解を与えることが難しい。因果は必ず自分で受けなければならない。仙仏も因果を代わりに引き受けることはできない。衆生が自ら業因を植え、果は必ず自分で償わなければならない。誰も代わることはできない。その因その果は必ず自分で償受する。
第十九回 普渡
自ら体験せずに迷信だと言うが実際に遭った時にはすでに人身を失い後悔しても及ばない。最初からこうなると分かっていれば何必そうしたのか。現世の生きた景象は時に夢の中に現れ時に実例をもって衆生を目覚めさせる。冥王もまた時折伝票を送って知らせる。迷う衆生は迷い続けるが目覚めた者は実例をもって教化し戒めるべきである。それが正道である。
第二十回 收圓之條件
次にキリスト教とイスラム教について言えば中土から遠く離れており上天に偏りがあるのではない。霊的な示現がなく伝道者が不十分であったため情報も薄弱である。上蒼が慈悲でないのではなく地理的な縁によるものでありさらに元の聖人が教を立てたが教義の伝承を経て後世の伝える者が大きく偏ってしまったのである。
第廿一回 任務與修持
衆生が凡界に落ちてからすでに六万余年またどれほど迷ったことか。なぜこんなに多くの苦しみがあるのかを悟ることができるか。少し努力しただけで豊かな生活を得る者を見る一方で自分はどれだけ努力しても思うようにならず不平心を起こし天を怨み人を責める。前世の蓄積を知らずに今生の業となっていることを理解していないのである。
第廿二回 心念
悪は念が動く時すでに心が動き因はまだ成っておらず果もまだ結ばれていない。もしこの時に悪念を消すことができれば累世の悪因が果報を成すことを化解できる。しかし悪念が動く時すでに心が動いても消さずさらに火に油を注げば悪念はすでに因となり果報は来世か今生に必ず償われる。
第廿三回 念識
心念を正しく導くことが主題である。また正道の中でさらに善念を支えれば長く続く善縁が深く根付き後の善き動きには必ず無上の法喜を成就する。有情衆生は因縁において法喜を必要とし善徳の駆使を強化すれば今生と来世を成就する。
第廿四回 業因
自分の欠点を取り除かず道業善縁で衆生を導くとは言え常に自覚させなければならない。この行いは大道に適うか人倫に適うか教化に適うか。修持者は「師」として言えば道に入る前にその善願は無上の道果を成就するに足りる。それなのに成就に至らないのはなぜかその原因は何か。
第廿五回 善惡因緣
このように実例を引いて教化すれば衆生は次第に因果の実例を理解する。また世人が現世に遭遇する苦難と困窮も前世の因縁に関することを知らず今生になって苦厄が来て試練となる。また多くの実例に対して人類衆生はよく観察せず不信の態度で排斥して根拠のない話だとする者もいる。
第廿六回 懺悔
功果・善縁・道徳は脇に置いておき頻繁に果てしない罪業を造りながら気づかず生生世世因果に纏われ業を造りながら警醒しない。まさに上天は教えずして誅するに忍びず時に仙仏を顕化させ宗教の啓蒙によって衆生の良能・良知を目覚めさせようと期待する。
第廿七回 消災解厄
自分の利益だけを知り衆生を利することを思わなければどうして天の体を道に行い衆生のために福利を謀れようか。私心を自ら用いれば長く続けるうちに元の紅心は次第に黒心に変わる。また黒心の者は顔に暗い光が現れ暗く輝きがない。鬼神はこれを見て唾棄し怨む。身が衰え運が低くなれば厄運がやってくる。
第廿八回 行善錫福
今生の輪廻を解脱し、累世に積んだ業の借りを返し清らかにすれば、必ず清らかに人生の道のりを歩み終えることができる。上徳の者には真実の陰徳が加えられ、上徳の行いには多くの福徳が備わる。上徳は徳に執着しないので福分が常に身に随い、中徳の者は徳に執着して時々行うが、福分はあるものの、常に積み重ねなければ得られない。
第廿九回 化性
どうすれば本性の元の位置に帰ることができるだろうか。本性には善悪がなく、外部の物の誘いや行為によって判断されるものではない。自然の中にすでに存在しており、今生で死んだ後はまた別の場所に宿り、そこで死ねばさらに転々として宿る。このように反復して形成されるのである。人生はどこから来るのか。この由来は、必ず自分自身の功罪による加減に関係している。
第三十回 戒律
一歩一歩前に向かって進み、仙仏の在世時の教えを規範とし、戒を律としてではなく、戒を犯したことを懲らしめとし、戒を師と仰ぐ。戒をもって見れば、時おり過ちを犯しまた改善し、改善してもまた再び犯す中で、常に飛び込みまた飛び出しを繰り返し、自分自身も心を定めることができない。
第卅一回 求道
この中にこそ道の真髄を求めるべきである。衆生は皆他人の非を見て、自分の過ちを省みない。もし他人の過ちだけを見て自分の過ちを顧みないなら、他人は鏡に過ぎない。求道の過程において外を見る必要はない。身の外に道はない。真の道はまさに「自性」の中に求めるべきなのである。
第卅二回 善德齊家
一家が和やかに楽しければ心と心が通じ合い、家を整えることは家庭の和の原動力である。夫婦は陰陽の道である。家が整うには夫婦（陰陽）の支え合いが必要である。調和し陰陽を導いて正しい綱紀とする。夫と妻は必ず心を合わせて協力し、家庭の和合に心を尽くし、また子女の模範となる。
第卅三回 孝道
宗嗣の相続、孝道の伝承において、宗族に肯定を与える。大きな宗族には祖先の宗祠を敬拝する習慣がある。まさに「水を飲んで源を思う」の源頭である。軒先の滴を見なさい。少しずつ地面に落ちて行き違いがなく、長く続いて一つの穴を作る。この軒先の水滴は、まさに祖先の辛勤の種であり、後代になって初めてそれが分かる。
第卅四回 廣結善緣
衆生がこの世において道場に入り修持できるのは、すなわち前世に蒔いた善縁によるものであり、みな仙仏の教化と善徳の導きによるのである。人生は短くても、その短い時を以て万世に朽ちない基業と福分の向上・超越を築くことができるのは、「含因」に蒔いた善き種子があればこそである。これによってこそ、この世において修持の道に入る能够ができるのである。
第卅五回 福慧雙修
人類の衆生は皆、この一世にかけて自らを修持し上天に帰還しようとする。しかし各人の前縁が異なるため、般若（智慧）に欠け、甚だしい場合には良い境地にさえ至れない。修持者の依る宗派の教えも異なるため、各人の得るものもまた違ってくる。帰還の差が出、同じではいられない。
第卅六回 圓滿
一つの事柄を目前の視点だけで見てはならない。長期的に衆生の福祉に利益となるよう行うべきである。またその前因と結果は、短い時間で応答があるものではない。未来の歳月の中で、一二年後あるいは一二十年の後になって初めて花が咲き、実を結ぶ。そこに良い機能が現れるのである。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
著作の間、諸生はよく心を合わせて虔誠一致し、衆生を渡化するために尽心尽力いたしました。そして今、書はすでに完成し、また私が保奏した理筆の陳生に対する願いも、願力によってまず一つの務めを完成させることができました。これは最も先頭の始まりであり、これからもなお重責大任を担わなければなりません。天に体して道を行い、天に代わって教化を宣べることは、すなわち諸生の共同の責務です。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
無極皇母大天尊の懿旨に曰く
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
上天の教化は、またこうした頑迷な人々をも救い渡そうとするのである。因縁の種が熟したかどうかを観察し、またいかなる方法を用いてこの輩を導くべきかを考える。そしてこうした頑迷な輩を教化し導くことは、善良な人を教化し導くよりも容易ではなく、必ず心力を倍加してこそ成果があり、縁によって良き因果を成すことができるのである。
推薦序
徳業と禍業とは、自らの行いがなすものである。善悪の因縁は、返恩の心をもって天地の大いなる徳を感じれば、必ず今世において成就する。そうでなければ来世においてどうして理解し、掌握することができるだろうか。どちらもできない。ゆえに「感恩と回饋」によって必ず天地の大徳を理解し、徳性を合わせて行い、災厄の境地に堕ちない 것이다。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
謹んで懿旨を拝持し開読する。神人ら、伏して拝聴せよ。
序一
人生を教化して仏理を心に蔵し、天心は全く帰して大道の聖務が揚がる。
序二
南贍部洲に天書を著し、海中の珠珍は真如に返る。
序三
南天直轄道堂の桃園行善堂。
凡例
四、もし願いがあれば、上蒼に告げ、「大道心燈」の助印功徳を廻向せよ。南天が斟酌して願いを果たし、天心の徳に適うようにする。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
天の大いなるご徳は「生きとし生きるものを慈しむこと」であり、地の大いなるご徳は「万物を養うこと」である。すなわち天が生み地が養うのである。万物のなかで人が霊長とされながら、功徳を積み天地の覆い養う恩に報い、そのご徳の恵みを感じようとしない。
第二回 大道與天德
大道の運行は、この上なく公明正大で偏ることなく、累世の因縁によって中断されることもなく、常に公正で偏りがない。その運行は自然の理によるもので、人々はなかなかその理を理解しない。これこそ人生において最もシンプルで分かりやすいことなのだが、心を込めて体得し考える必要がある。宗教はこれによって正道の運行を説き、大道とはまさに偏らずに運行するものなのである。
第三回 天道奧義
喜び・怒り・悲しみ・楽しみがまだ発せないうちを「中」といい、発してすべて節度に適っているのを「和」という。「中」は天下の大本であり、「和」は天下の達道である。このまだ発せないうちの節度、未発とはもとの本性であって、偏ることなくすべてが節度に合い、すべて正道に合っている。これこそ元来、動くことのない原始の根性であり、善もなく悪もなく、声もなく匂いもないもの。
第四回 心德
心徳は外にあるのではなく、心性の中に本来備わっているものであって、後から修めて得るものではない。また行いだけで得られるものでもない。実に天真の徳性であり、もともと動くことのない原霊である。もしこの心徳がなければ世界を成すことは難しい。三字経に「人の初め、性本善」とあるが、この性善こそ徳そのものであって、外から求めて得たものではない。
第五回 念正
世の人の中には本来慈愛に満ちた善い顔つきの者がいる。環境の影響で慈眉善目が変わり、本来この世で修行成就して無極に帰ることができるはずだったのに、念頭が転換して本来の善い目を改め、極めて凶悪な顔つきになってしまう。これが輪廻して次の世となることであり、自らを失うことである。天から見れば、また一人の仏子を失ったことになる。
第六回 修身
善念を強めて行えば、必ず大きな行いが生まれ、標柱となって堕ちない。修行する者は万物や世の務めを自分自身と一つにすれば、あなたと私という区別がなくなる。自らを発揚して、修行者の第一歩とする。世人は皆「何を修行するのか、それは愚かな者のやり方だ」と言う。人の世は常にこのような無明である。
第七回 徹理
もし理を基礎としなければ、言うことはすべて空しい。そもそも理は、現代の時勢に合うだけでなく、「人倫大道」の基準であって、初めて正確に間違いない。教を広める方法はそれぞれ違うが、その理は皆同じである。迷える衆生は悟りにくいので、まず理を明らかに教えて、行いを偏らせないようにする。初めて理を広める原則に合うのである。
第八回 修心
心は人の行為を主宰する。この「心と性」は一体に属しているが、理由は異なる。「心が動き念が転ずる時、蔵識はまだ発せず、心が動き念が転ずれば意識はすでに明らかなる」。心から号令を発して一切の因縁の原動力となる。必ず善悪の念が初発し、行動によって身・口・手・足の行いを導いて、人の行為となるのである。
第九回 大道心燈
必ず一生の風霜雨雪、因縁果報が形成された原因を顕現する。「蔵識」がまだ成熟していない時には、発出しにくい（取り出して観察しないために形成されない）。この時には因縁果報に引きずられず、冤罪の糾纏もない。それ以前に原始の根性をどう行えばよいか。
第十回 以和為樂
儒宗の神教は万民の基準を立て、衆生を渡化して理を明らかにさせ、真理に背かないことを正しいとする。聖堂は一般的な濟世の宮堂とは異なる。聖堂は上天の普遍的教化と世を救う重大な責務を担っているゆえ、「理をもって渡化すること」がまさに当然である。ただ仙仏の霊験にのみ執着し、理によって教化しなければ、成果を挙げることは難しい。
第十一回 悟心
悟心の功夫とは、心が動くまさにその時に、源头をしっかり押さえ、分別の心を起こさず、対待の心を起こさず、心猿をしっかりつなぎ止めて消滅させることである。すべての源头に何の牽引もなければ、分別も対待もない。人は天地の陰陽を受けて生れ、日月の普照によって明らかになり、生き生きと息づいているのはすべて陰陽の対待による。
第十二回 闡理
衆生の「善因縁」を成就することができるならば、「理」に悖るように見えても決して理から偏ることはない。理論上は偏失であっても、その成就は必ず公正な善念によるものであり、成長がある。理が四海に通用するということは、単に個人の立論が正しいか衆生の感じ方だけで決まるのではなく、善悪の動念と行いにある。それが正しいのである。
第十三回 境轉與轉境
濟世の中で理解できることは、すべてこれに迷っているということである。人生のあらゆる物事も同じ方式で、心を「取り出して、放下する」ことができない。どんなに教化しても無駄である。心境が一切を主導しながらこれに惑い、これに困惑している。どうして心を取り出して放下できようか。
第十四回 教化
古の聖哲賢士は、儒家の礼運大同篇を後世の規範とし、さらに大同世界を衆生の目標とした。「独り自分の親だけを親とし、独り自分の子だけを子とせず、幼い者には養うところがあり、壮年の者は用いられるところがあり、老人には終わるところがある」。自分の老人を敬して他人の老人にも及び、自分の幼子を愛して他人の幼子にも及ぶ。これらはすべて社会にさまざまな貢献をするものである。
第十五回 三教合心
道について言えば、老子（太上道祖）は函谷関で、一角の青牛に逆に乗って、五千言の道徳経を残した。もし現世の道門はすでに衰えたとしても、道門の神聖を重んじる者は以前より多い。三教の中で宗派のために互いに攻め合う事態を形成し、聖神仙仏を皆涙させている。
第十六回 藩籬
個人の縁と舵取りは必ず藩籬を撤去し、善道を尊んで衆生を教化すべきである。それが正しい。人類衆生も比較的顕現を重んじ、真理に従って帰依しない。舵取りをして善き衆生を奪い合わせ、また垣根を囲ませ、教派の中で些細な事柄のために、互いに攻撃し誹謗することが起こる。
第十七回 磨難
考題も千奇百怪で多種多様である。総括すると「心态・身体・智慧・言詞・應對」の五項目を試練の過程の根拠とする。もし試練に及第せず、通過できない時は、次の問題でさらに試練を強める。すなわち試練の中でどう行動すべきかを明晰にする。
第十八回 消業
因果論の自然法則において、人が行善し功徳を積めば、あるいはわずかに転圜できるかもしれない因果の業債。また多くの業愆は功徳をもって廻向し難く、必ず個人の引受けをもって業を完了して完済すべきである。現世に見る凄惨な実例を時折見聞きする。これで衆生を警惕し来世の因を造らず、悪果とならないようにする。
第十九回 普渡
「衆生を普渡する」ことを現世から見れば一日修行するだけで冥府で千年修行するよりはるかに勝る。必ずこの一生を大切にし広く善縁を結び宗教の善き修行者に親しみ今生の福徳と善縁を開きなさい。崇拝の形をもって仙仏と縁を結び布施を行って善縁を結ぶ。二つを並行すれば今生で縁を結ぶことができる。
第二十回 收圓之條件
また正しい道に導くこともできず偏ったものに対しては比較的寛容である。世間に伝えたものは儒・道・釈の三教に比べても劣らずむしろそれ以上である。キリスト教が世人にもたらしたものは博愛を導き正しい道徳を四方に広められることでありまさにその教えが人を惹きつける所以である。
第廿一回 任務與修持
下元甲子年（民国73年）に三世因果の大清算があり累世の冤親債主がそろって現れて取り立てる。さらに牒令を受けて討伐する者もいる。衆生は累世の借りをどう返済すればよいかを知らず苦しみの中にさらに不如意が加わり試練に遭って異端の心を生じる。皆累世の因果を清算する方法を知らないからである。
第廿二回 心念
これは「含因」が動く時に自分が考えて行動し必ず他人を介して結果が決まる。もしこの念が動く時「因縁果報」はすでに芽吹いており因縁が巡り合う時を待って果報となる。この時には自分も他人も災いを受け未来は人を損しても自分も利益にならない。
第廿三回 念識
衆生が善縁の中で成就できれば悪殃を受けない。それに対してどうすべきかを明らかにすべきである。そうでなければ事が起きた時に放下し見通すことができず未来に受けるのは必ず悪縁の果であり今生で受ける 것도 역시 그러하다。一人が善を導けば衆人は皆我がことのように感じ感召を受けて善業を成就する。
第廿四回 業因
修行してしばらくすると称賛や褒美によって次第に高慢・驕慢・自己過大の心理を生ずる。これ自体はまだ差し支えないが自心から発せられれば必ず心念の発動によって行いとなり外に現れれば他人を損して己を利する者は必ず地獄の種を蒔く。
第廿五回 善惡因緣
知らないことに今生の福禍と善悪は皆前世および累世に蒔いたもので今世に因縁が巡り合って果実と業報を成就する。善徳福報の果実は今生において衆生の享ける福分は昔に比べて厚い。上天がかつて幻化させた法術は今世から見ればすでに回収したものが非常に多い。
第廿六回 懺悔
善徳道業をもって今生を育て果てしない罪業を造って後悔が及ばないようにすべきである。衆生は迷って自分を中心とし利益を目的としているが自分の外にまだ広大な人類衆生があることを知らない。人は皆この心同じくこの理同じくすべての事はただ自分を利する先走りとなり良心は覆われ善念は広がり難い。
第廿七回 消災解厄
すなわち人は「因果に報いなし」と言う。しかし「因果に報いなしではない」。因果の法則は不変の理であり時運・福徳・祖徳前生今世の行い皆関係がある。時空が転変し縁によって果を成す。因果に報いなしではない。現代は「因果応報はすでに十六倍に短縮した」。
第廿八回 行善錫福
下徳の者は小さな恩恵を施しては徳を忘れず、意識して善を行うため福分は少ない。続ける人がいなければ途絶え、福分は尽きてしまう。しかしこれが善の根である。下徳の者がこれをきっかけに進んでいけば、やがて自分の善行を意識しなくなり、中徳に至っては上徳に少しずつ近づくのである。
第廿九回 化性
そうでなければ、もし関係がないならば、衆生はなぜ功徳を立て善行を行う必要があるだろうか。また自性の中では、必ず自分の修行の功果と先天の条件によって、善き者は功果を加え、悪しき者は徳行を減らされる。「善悪」にしたがって天堂と地獄の判断が形成されるのである。人類衆生の功果と業障こそが、輪廻の種となる因を作るのである。
第三十回 戒律
また戒律に従うということで言えば、他の人があなたに要求を加えることはできない。必ず自分自身を律してこそ、宗教信仰の戒律に適合する。すなわち「戒」と「律」の両者の間には違いがある。宗教信仰と修持者を形作るには、まさに信仰する宗教の「戒律」を守る必要がある。
第卅一回 求道
上古の人々は、なぜ聖賢となれたのか。それは自分の非（罪）を省みて、他人の罪過を見なかったからである。まさにその通りである。自分の非を掘り出し、真心をもって懺悔すべきである。皇天は悔い改める者に罰を加えない。聖賢は過ちの中で改め、二度と犯さなかった。人が聖賢となれる理由もここにある。
第卅二回 善德齊家
今の夫婦は現世の環境にあって物欲に誘われ、また人と比較し、あれこれ気にする。だから人と比べると悔しい思いをする。なぜ他人が幸せで良い夫や良い妻に巡り合えるのかと考え、なぜ自分だけが思い通りにならないのかと歎くのか。すべて前世の因果業障に関係しているのである。
第卅三回 孝道
伝承にこう言う。「軒先の水滴を少しずつ見よ。孝行な者は孝行な子を産み、不孝な者は不孝な子を産む。もしあなたが親を十六両敬えば、後代の子孫は一斤を返す」。この孝道の還元法は中国の孝道の継統を打ち立てた。「どのような子が欲しければ、あなたがどのくらい親を敬うかを見よ」とは、中土炎黄子孫の根本である。
第卅四回 廣結善緣
人類の衆生は現世において、終日物質的享受に迷い、いかにして今生を了脱すべきかを考えない。忙しさの中で迷い、さらに迷い、わずかな休みの瞬間さえ得られない。仙仏もまたこれを見ることを喜ばない。衆生に望むのは、忙しさの中にあって心の霊性を静め、よくよく考え体悟してほしいということである。人生は本当に生活に忙殺されるためだけにあるのだろうか。
第卅五回 福慧雙修
今世の修者について論じれば、各人の前縁と業因は異なり、修持の道に導かれるとはいえ、誰もが必ず帰還できる保証はない。正しい道筋と大いなる智慧を持って初めて、成就の見込みがある。この条件を得るには、大変な努力が必要である。
第卅六回 圓滿
このように衆生の視点を宇宙全体に広げれば、大道に合うことができる。もし我とあなたの間にだけ執着すれば、必ず狭いために多くの論争を生む。このような視点は衆生の福ではない。長期的に考え、前後を見渡してこそ正しい。すべての事において円満を求めるならば、道に合うことができる。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
大道心燈はまもなく刊行されようとしています。この書が世に出て後、広く教化を宣べることができます。修行者の皆さんに望みます。修持の道のりにおいて、まず自らの行いが道理にかなっているか、道を尽くしているか、をよく考えてください。道理にかなった上でさらに道を尽くせば、必ず人倫において自性を修め、心性を整えることができます。この性は外に求めて得られるものではなく、まさに自らを振り返り、自らを変えて気質を転化することなのです。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
行善道堂は天に体して堂を建て、道理を闡明して四方の衆生を渡化し、今やすでに六つの寒暑を経ました。神人が命を尽くし、天に体して道を行ってきたことを、母娘は非常に喜んでおります。今、理筆の陳生が「大道心燈」を著作し、天に代わって教化を宣べることがまず完成し、人間世界にすでに曙光が現れ、「光明の灯台」を提供して道しるべとすることができます。
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
仏が説く三世の因縁果報とは、「前世の因を知りたければ、今生で受けているものがそれであり、来世の果を知りたければ、今生で行っているものがそれである」という教えである。現代の衆生は果たして理解できるだろうか——生はどこから来るのか、また死はどこへ行くのか、自分の運命と行き先を自分で主宰できるのだろうか、と。いや、できないのである。この世の一切を知らなければ悟ることは難しく、理解することもできないのである。
推薦序
上蒼の教化は、必ず衆生に修行によって障害や困境を取り除かせようとするものである。修行の条件と方法において、聖堂に全く新たな局面の機会を与える。ゆえに衆仙仏もまた喜んでこれを見守る。またいかなる事柄にも始まりと終わりがあり、この種の因縁は累世の中で結んだ果実であり、そして今すでに円満となったのである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨を開読する。
序一
人天の教化、三曹が帰して収円し、宇宙虚空の万物に善を開く。
序二
古の道の人生は皆純粋に善にして、仏の理を啓いて善に添い著す。
序三
天運辛未年五月二十九日。
凡例
五、本書のある所には仙仏の加護がある。勝手に捨ててはならない。仙仏に対する冒涜となることを避けよ。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
上古の時代、天に合わせてそのご徳性を体現していたので、人の性は純善であり悪はなかった。中古になると天からやや遠ざかり、天を遠くから敬い、人の心は半ば善で半ば悪となった。さらに近古になると天からさらに遠のき、人心は極めて贅沢で欺瞞に満ち、清明な盛の世はもはや訪れず、人々は迷いに沈んで堕ちていき、天のご恩を知ることもないのである。
第二回 大道與天德
今の時代に至って、黒い風がすでに大気の運行の道を覆い、光を遮り、現世の共業と災禍が次から次へと続いている。今、中華の大地に嵐が襲来しているのは百年ぶりの珍事である。衆生はその理由を理解せず、ただ気象の異常だと思っている。人心が極めて邪悪になっていることを知らず、上蒼はこれを通して衆生を戒めようとしておられるのである。
第三回 天道奧義
すべて光の明るさ、水の清らかさのようであって、透き通り瑕がなく、先天の徳の徴しがある。しかしながら、その徳の徴しは大道の名に応じたものであって、原霊の増減によるものではなく、原性の区別によるものでもない。すべて本来の位地と本来の姿を持っている。このようにして必ず心性を高めて本来の面目に至り、霊性に増減がないようにする。
第四回 心德
善人と悪人の根性は同じである。環境の違いによって異なる心性が形成される。だから徳の有無によって、両者の差は大きくなる。人類が静かに心を落ち着ければ、その徳性は皆同じで、心性は皆平等である。この本来同じ徳性が、各人の置かれた環境の違いによって異なる遭遇を生み、宿命と運命もすべて同じではない。
第五回 念正
念正の修行は常に心の中に立てなければならない。そうでなければ慈愛に満ちた善い顔つきを作ることは難しい。修行者の表情が善ければ、仙仏も喜び、世人も喜んで交際する。このような念正は、世人と広く善縁を結べるかに関係する。もし念々忘れなければ、必ず善念を導いて出発点とすることができる。
第六回 修身
考えてもみないのか、世人が皆修行しなければ、どんな社会になるのか、どんな世界になるのか。「人が禽獣と違うのはほんのわずか」と言うが、それは人に智慧があり霊長であるからで、人は考えることもでき物を変えることもできる。しかし物が時には人を変えることもある。人が修行しないために、物に人が変えられる。その過程は「未知と無明」によるものである。
第七回 徹理
そうでなければ、ただ神通の顕現にばかり迷って、聖神仙仏が在世時の行動基準を考えない。すべて大道真理に合っていて、亡くなった後の徳性が人々の模範となった。衆生がその徳性を学んで神となり賢となり聖となるのは、現世において再び大道真理を基準とし、聖神の歩みに従って身を修めることであり、まことに楽しいことではないか。
第八回 修心
この行為の中で衆生を利し社会を利益すれば「公善」となる。自分を利しつつ他も善く顧みれば、人生に必ず美好な未来がある。そうでなければ「善念を抑圧し、悪念を起こして」、ただ自分を利することだけを図り、社会の大衆を損害する。作る悪行が業因に変わって発芽し、未来の果報は必ず自分で償わなければならない。
第九回 大道心燈
すなわち蔵識の中でまず防ぎ、先に廻向することができれば、未来の果報の中に、すでに善き応報の先使いがある。どうしてか、たとえ受ける悪果があっても、多くを減らすことができる。このような廻向は大きな功徳がある。衆生は皆どう行えばよいかを知らない。ただ生生世世の中で盲目になり忙しく、忙しく来ては去るだけである。
第十回 以和為樂
必ず衆生に、修心養性によって今生を解脱できるのだという実感を持たせなければならない。そうすれば教化の前提はすでに立つのである。さらに神霊の霊験を感じさせ、常に心の中に仙仏が存在するのだと思わせれば、その性は定まり、心は堅固になる。濟世渡化の成果は豊かなものとなり、善き信者は聖門の学生となって新たな力となり、人が多ければ仕事もはかどるというものである。
第十一回 悟心
また分別心の牽引によるものである。もし分別と対待をほぼ消滅させることができれば、起心動念に互いの牽引や縁に触れて起こることはない。念頭を転換して心猿を制止し、心の世界を開くことができる。衆生はみな心念の転動によって業愆を造る。起心動念は業でないものはなく、因でないものはない。
第十二回 闡理
理を説き教化することは、個人の観点や立論によって成り立つものではない。仙仏の立論に合致して述べて規範とすれば、自然に道に背いて走ることはない。仙仏は様々な理論を印证し、善書の中で阐述するが、それは必ず深い思慮を経て成されたものである。大道をよりどころとし、人倫を正しい基準とするのである。
第十三回 境轉與轉境
衆生よ、事に当たれば「どうして一歩退いて考えないのか」、さらに「一尺退いて事の一部始終を見れば」来龍去脈がわかり、困惑がどこにあるか、その症結はどこにあるかを理解できる。事理を统筹して用いることができれば、必ず智慧を用いて事に向き合い、心境を転ずることができる。そうすれば心境が転じない方がおかしい。
第十四回 教化
現在の教育は、ただ衆生に己を利益することを教え、一技の長を学んで己の身を利益するだけである。ただ衆生を利益することと衆生を教化することが欠けている。すなわち宗教が信仰によって、社会教育の不足を補い、国家法律の不足を填め、宗教が衆生を教化し、心性を高めて己をなし、さらに社会を利益するのである。
第十五回 三教合心
このような局面は仙仏たちが望まないところである。どうしてこの藩籬を取り払い、他人の長所を賛同し、自分の短所を改善し、個人の心性を提唱して、衆生を教化しないのか。大衆が団結して和やかに暮らすことを最終目標とすべきである。人類の「自性と霊性」の成長に対して、これこそ人為的な要因の必要性である。
第十六回 藩籬
このような条件から悪因循環が形成される。因因果果は自分で償う。後の継承者も真理を明らかにしない。本来はその徳性に合い、衆派と衆教の力を合わせて衆生を教化し、真理を悟らせて修持させるべきである。ただ貪って信者を増やし、分別心を生じて攻撃誹謗するのではない。
第十七回 磨難
その心态を試み、身心を磨くのは、どのような態度を用い、どのような心智で向き合うかだけである。試練の過程は各人の根基の深浅によって、出る題目が異なり、形成される答えも人によって異なる。しかし試練の過程で、いかに智慧と心态を用いて応答するか。
第十八回 消業
因を防ぐ最も良い方法は、「看開して放下する」。短い六字であるが、実行しようとするとかえって困難が重なる。事端が来れば煩惱を生じ、さらに無明火が上昇して般若（智慧）の啓発を阻断する。甚だ良知を蒙蔽し、後に悔いても遅い。
第十九回 普渡
仙仏は自然と修行者を迎えに来る。因縁が継続して絶えなければ心をもって証を得て心をもって修行すれば回帰への道は明らかである。道を勇猛に進み疑問に遭えば困惑を解き信心を加えて一つの力を成しこの一生を善道に導いて退かないようにする。これが普渡の第一過程に過ぎない。
第二十回 收圓之條件
現代において「三教同宗・五教同源」であり各教には長所も短所もある。長所を総合して五教の立世基準を形成し長所を取り短所を捨てる。これこそ弥勒が下生した主な理由であり蓮花仏国の世界に不可欠な条件と伝承の目的である。
第廿一回 任務與修持
こうした衆生は現時点でその智慧や福分を受けることができずもし善徳の因縁による教化があれば因果循環を理解し功徳廻向によって苦境から脱する手助けができる。しかし冤怨や瞋恨の心が非常に強く和解できず同じ運命を味わってようやく止める者もいる。
第廿二回 心念
心の起動により念頭が開く 眼耳鼻舌身意が来る
第廿三回 念識
念識において：悪念を抑制すれば必ず心性の探求を強化する。そうでなければ善念はその力を発揮できず「識」に左右されて悪業の原因もここにある。衆生が念識において正道の法則に従い善念を行えば人生に満足のいく生活がある。
第廿四回 業因
修持者の心性よ必ず記せよ：高慢・驕慢・自己過大、また自己の優越感に操られてはならない。たとえ全功を尽くしてもすでに他を利していない。大道は「正」の導と言う。己を利し他も利してこそ正道に適う。もし己だけを利して他を損なえばすでに正道に背き天に還る道は閉ざされ地獄への道は自然に開く。
第廿五回 善惡因緣
古代の人は雲に乗り霧を操り今人は飛行機でさらに遠い実境を飛び越える。古人には天耳通があり今人は遠く離れた地で通信映像・電話で連絡する。古人は外出に徒歩や馬今人は外出にオートバイや自動車がありさらに冷暖房や音楽も楽しめる。
第廿六回 懺悔
このように罪を造らず怨みを結ばないことができるか非常に難しい。仙仏が時に実例をもって現すのは他ならぬ衆生に造業の機会を減らさせるためである。有情衆生がそれぞれ一分造業の機会を減らせば衆善は必ず一股の善風の成就を増す。造業の中にも故意にする者と無意識にする者とがある。
第廿七回 消災解厄
昔下世および累世に実証を見たのは皆今生に見られることで人類世界の因果の取り立ては非常に恐ろしい。良い因を蒔けば良い果を得悪い因を蒔けば悪い果を得る。「誰がしたことは誰が受け誰が食べた飯で誰が腹を満たす」と。誰も代わることはできない。
第廿八回 行善錫福
上天もまたこのように善を行うことを喜ばれる。善徳がすでに備われば、悪から遠ざかることになる。悪を行う者を一人減らせば、必ず善徳の者が一人増える。両者は一体の両面であり、わずか「方寸」の心の中にあるだけのことである。福田は必ず現世の人生において実際に行動してこそ、はじめて成就するのである。これが人としての基本的な行いである。
第廿九回 化性
善の功が満ちて福報がすでに備わっていても、さらに自分の心性を超越しようとしないならば、福報の中に智慧の増長はなく、累世の中でまた自分を見失うことになる。このような衆生は福田を植えることだけを知り、心性の超越を求めなければ、単に輪廻の種を蒔いているにすぎない。向上を望むなら、それは非常に困難なことである。
第三十回 戒律
「戒」とは衆生が宗教に入って依拠するところ、自分の欠点を正し目覚めさせるための要求である。戒の中には犯さず、入らない。戒は修持者に心の警戒と行動の指針を与え、仏となり仙となるための規範となる。戒律は修持者に対して各宗教の宗派によって異なり、それぞれに違う。
第卅一回 求道
衆生は皆、聖神仙仏賢哲は遥かに届かないと言うが、自分こそが仙仏の種子であることを知らない。「悟りと迷い」の間にあるだけである。悟った者が仙仏聖神賢哲であり、迷った者が衆生凡夫に過ぎない。悟りと迷いの違いによって、仙仏と衆生もここで分かれる。道を求めて後は外功が必須であり、さらに内果も兼ね備えるべきである。外功をもって内徳を培うべきである。
第卅二回 善德齊家
今生は過去の業を消し終えるのである。もし喜びの心と和やかな念をもって、家庭のために上天に感謝すべきである。私にこのような夫と妻を賜ったのは、まさに「灯籠を灯してももう見つからない」ほどの条件であり、また自分の福報である。これだけしかないのである。何を争い何を求め何を気にするのか。
第卅三回 孝道
孝道は人生に欠くべからず。人生は「孝」を根本とする。「百の善の中に孝が第一」をもって子に孝を教え親に孝を敬うことは、世人が必ず明らかにすべき一つの課である。「妻や子を思って両親を遠ざける」のはすでに孝の正道を離れている。今生であなたがどれくらい親を敬うかによって、後代の子孫がどれくらいあなたに報いるかが決まる。
第卅四回 廣結善緣
有情衆生には、誰にでも前因の業果がまとわりついている。「仏法は広しと雖も、縁無き人を度しがたく、天の雨は大しと雖も、根無き草を潤しがたし」。人生においては、まず未来に善徳の種子を蒔き、広く善縁を結ぶ方法で衆生と善き縁を結ばなければならない。善縁は一朝一夕で功が現れるものではない。
第卅五回 福慧雙修
天道の演義、衆星が道を取り囲む。人間が善の極みに立って万物の霊長となるのは、今世の修持にかかっている。明心見性の境地に入れるかどうか。もしこの境地に達しなければ、今生に来世再び修するための因を蒔くだけである。そう思うと、仙仏たちもまた深い悲しみを共にするのである。
第卅六回 圓滿
各人の前業と修持は異なり、願力と使命もまた違う。智慧と見解も同じようにはなり難い。こうして多くの議論が生じる。誰が正しくて誰が間違っているかは、各人の立場で決めるものではなく、事の前因と結果によって判断すべきである。そこに円満な結末がある。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
それによって善い氣と善い相が四周に充満し、自ら前後を思って熟考した上で、再び大道を引いて行えば、やがて「心」の性「燈」の光が四方に放射して現れ、自己を超越し、二度と六道の輪廻に沈沦することはありません。上天は広く教化して三曹をことごとく普渡します。ゆえに人曹からまず始めるべきであり、人身を得難く、また心性を明らかにし難いことを思うべきです。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
諸子たちが心を合わせて虔誠一致し、共に大道のために尽心尽力してくださったおかげで、将来の宗教信仰において人間世界に「清泉の浄化」をもたらすことができます。この誠意は賞賛に値します。母娘は特に十二万の功勳を賜り、行善堂の主席を通じて諸子たちに賞賜いたします。また行善の神仏たちの功勳にも三等を追加いたします。
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
今生ではなぜ生まれ、なぜ生きて、なぜ行じるのだろうか。このようにして衆生に因を明らかにし果を悟らせ、これを鏡鑑として引き上げ、仮の身を借りて修行し真に還元し、来世の罪業を再び造らぬようにする。心の闇がまだ晴れないままで、どうして「大道」の「心燈」の光を灯すことができようか。まことに難しいことである！
推薦序
円満であれば万物を調和させ、円満であれば物を損なわない。尖ったものや角ばったものはすべて物を傷つける。修道もまた同じである。まず自らを円融すれば、すなわち自性を円融にして妨げがない。道のうちの収円の要義もまたここにある。また成就する——あなたができる、私もできる、皆ができる、円満して充実し、自性すなわち「満円」を得るのである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
謹んで奉ずる。
序一
天運辛未年五月二十九日。
凡例
六、もし誤りや欠落があれば、それは写本の過ちである。大徳賢士の自ら捨てて誤りなからんことを望む。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
ただ現代の科学文明だけを信奉して、それを迷信だと断じている。なんと天の時がまさに差し迫った緊急事態であることに気づかないのか。天はこの姿をご覧になり、衆生の沈淪を忍びず、大道と劫を同時に降して、先天の霊性の清らかな状態を取り戻させようとされているのである。
第二回 大道與天德
衆生の善気と悪気が集まって共業が形成される。それは天の順序が乱れているからでもなく、大道が正しい道を外れているからでもない。人心の善悪の因縁が直接的に関係しているのである。このように大道の運行は人の力でどうこうできるものではない。しかし人の善気（良い風俗）によって、福徳と善業を増やし、天地の造化を好転させることができるのである。
第三回 天道奧義
天道とは、古には自然の法則と言い、今では人々が好んで分別し、誰が最も大きく誰が最も高いかと論じている。天道の奥義はそんなところにはない。天道はそもそも人の本性における自然の法則であって、最も平凡なものであり、議論する価値すらない。世の人々はまさにそうで、大自然の単純な道理を人為的に複雑にして、手の届かないものに変えてしまう。
第四回 心德
各人の運命が違うのは、天が慈悲でないからではない。先天の心性と徳性は皆平等で、与えられているものはすべて同じであり、特別な人に多く与えたり少なく与えたりすることはない。天は至極に公正で、衆生に与えるものは皆同じである。ただ累世の衆生の善悪の因縁が増えたり減ったりすることによる違いなのである。
第五回 念正
だからまず善念と心正の源を立てることができないなら、賢者の道理や善い書を常に振り返り、常に実行すれば、慈眉善相の表情を現すことができる。善を求める念が先立てば、必ずまず善念の心正を行い、まだ芽を出さない前に顔つきの始まりを変えることができる。
第六回 修身
まさにその通り、事理を極めることは難しい。人が事理を明らかにし、極めれば、人が物を変えることができ、物は人を変えることができない。この理を悟り、人が万物の霊長であることを思い、禽獣と違うのはこの点にある。累世の宿業があるままに身を修めなければ、自らを超越できず、将来の成長に大きな障害がある。
第七回 徹理
理を説くことは学問に始まり、自然に従うと、心のうちに一片の天地が広がる。順らえば正しい軌道を得て、自然に偏ることがない。逆に自然の法則に違反すれば、正しい軌道を得られず、偏りが生じる。さらに「理」を心の修行に当てて考えれば、天は至極に正しく、その理に私心がなく、人自身の運行に矛盾しない。
第八回 修心
さらに時節が熟すのを待って、悪果もまた自分で受けなければならない。これこそ衆生が累世に恩讐を繰り返す原因である。人類衆生の起心動念に対して、まさにこの種の行為の働き、人のなしたことによって、未来の福禍がどうなるかが決まる。苦しむか享受するか、その分かれ目となるのである。
第九回 大道心燈
仏が三世の因縁果報を説く。「前世の因を知りたければ、今世に受けているものがそれである。来世の果を知りたければ、今世に行っているものがそれである。」今の衆生は、生はどちらから来るのか、死はどちらへ行くのか、自分の運命と行き先を主宰できるかと問われても、できない。今世のすべてを知らなければ悟るのは難しく、理解もできない。
第十回 以和為樂
堂のすべての務めをわずか数人だけで行おうとすれば、どうしても力不足になる。しかし力を分配した後に、固く結びついた一つの力にまとめ上げれば、必ず成し遂げることができる。さらに衆生の力を発揮して、堂の運を日が中天に昇るがごとく成長させることができる。堂生が入った後は、まず理を明らかに教え、次に礼節をもって教えよ。
第十一回 悟心
善悪の形は影が形に付き従うように、行善も作悪もすべてこの心念による。どのように凡心を転じて道心と為すだろうか。それは必ず今生の修持次第で定まる。この世に善徳の縁がなければ、また今生を虚しく過ごすことになる。もし心を悟ることができず、かえって業愆を造るようであれば、己の心を振り返って源頭を制止することができれば、すべての物事に必ず新たな展開が開けるであろう。
第十二回 闡理
理を説き教化して後代に伝えよう。
第十三回 境轉與轉境
物境が来たれば、必ず心境をもって向き合うべきである。一切の物境はただ縁にしたがって成るだけである。どうやって物境を淡くできるか。人類の生活にはある程度の享受があるが、享受がなくても楽しく生き、欣慰と幸福を得られる。ただし十分な智慧を備えて転換すれば、物境や環境の中でも影響を受けないことができる。
第十四回 教化
知識が豊富であることは、現代において己を利益する。また広大な心胸をもって衆生を利益すべきである。佛教の提唱する「縁なき衆生にも大慈を、同じ体を持つ者として大悲を」のように、この心胸をもって衆生を渡化する。礼運大同篇の「独り自分の親だけを親とし、独り自分の子だけを子とせず」にまさに通じる。これこそ儒家の教化の精華である。
第十五回 三教合心
三教の聖人は宗派を主としない。ただ後継者が信者を奪い合い、繰り返し自らの宗教を最も優秀と標榜し、他人の信仰する宗教を最も劣ったものと貶める。すなわち分別心を持ち、来世の果を種し、非常に他人を容れず、自分に罪を造っていることを知らない。
第十六回 藩籬
このように業因が形成されれば、悪業の牽纏を逃れ難く、天界に帰ることができず地府に苦しめられる。ただ在世に行った功果は、この世の分別心に固執するだけで、迷いを引きずり再び迷いに入る。その殃いは自ら成って祈る所もない。また：儒・道・釈・耶・イスラムの宗教は、一花五弁の宗教であり、すべて先天の徳業を承けるものである。
第十七回 磨難
まさにこれこそ仙仏老師が普段教化する題目であり、個人が了悟認知する一切の縁である。すなわち多くの考題の答えが派生する。また磨難は衆生の習性に対して、各人の習わしの言葉と持つ問題、種々の原因が異なるため、磨難において人によって異なるのはどのようにか。すなわち大きく異なる。
第十八回 消業
必ず平時に痛く決心して、遭遇する事端を淡く見開けば、肇因の本源を減らすことができる。世人は常に事端に遭えば、「平常心」をもって静かに観ることができない。事端の来龍去脈を見れば多くの煩惱が生まれ、心が静まらなければ事端が生じやすく、心が静まれば事端は発芽せず、悪果は育たない。
第十九回 普渡
衆生をこのように導き入れ順を追って一歩ずつ修行させる。衆生はすでに善縁を備えているから次に自分の短気な性格を一つずつ取り除き日々実践し年月を重ね少しずつ欠点を直す。外面が整ったら次に内面の徳を修め生はどこから来て死はどこへ行くのかを明らかにする。
第二十回 收圓之條件
収円の条件として各宗派・各教に必要なのは良くない習慣を打ち破り自己満足に陥らず互いに攻撃し合わなければ来世地獄に堕ちる原因を作らない。各指導者は大公無私の心で行動し衆生と門弟のために万年朽ちない基盤を築けば迷いを導いてさらに迷いに入ることはない。
第廿一回 任務與修持
もし過度に報復すればまた来世に悪因が纏わることになる。仏は言う恨みは結ぶよりも解くべきである、と。冤怨であっても相手を道に従って修行させ「徳をもって怨みに報いる」ことができれば功徳廻向せずとも上蒼が自然に定め苦しみを脱する手助けをする。このような衆生は必ず知らねばならない今生で受けているのは累世に積んだ福徳と業報であることを。
第廿二回 心念
色声香味触法を排し 引動して六識を内に載す
第廿三回 念識
念識は：眼・耳・鼻・舌・身の前五識によって根塵が互いに接触して第六「意識」の受け取りに入りさらに第七「末那識」に分別判断させさらに第八「阿頼耶識」に貯蔵させ因縁が和合することで一切の果報を成就する。
第廿四回 業因
高慢・驕慢・自己過大は衆生において常に見られるものである。それは教化者の念識の中の不正な関わりであり伝承者もまた弊害に気づかず無理に当てはめてすべてを受け入れてしまうからである。だから教化は必ず「理」に従って行い必ず「正」によって発しなければ盲を導いて自ら気づかない。
第廿五回 善惡因緣
これらの条件は現世衆生の福報において誠に深厚で古代の帝王家の生活環境に比べて遥かに勝る。皆衆生の福分によるもので上蒼の賜ったものである。もしこの福分を善く使って多く衆生のために福利を計画すれば福報を楽しみ尽くす時に来世の悪因を造らなくてすむ。
第廿六回 懺悔
前者は知りながらわざと犯す罪が倍になり自ら受け悪果も倍になり自ら償還する。後者は無意識で自らが知らない。この無意識の罪業は減少するとは言えやはり因果は自分で受けねばならない。これをもって言えば上蒼は必ず教化を提供して警醒させ衆生の罪業に「懺悔」の心で対処させる。
第廿七回 消災解厄
災難の主因は衆生の業因が纏わって果報を成すことである。また善徳因縁で福報を受ける時にさらに多くの福徳陰功を積めばよい。悪業が来れば消災（功徳）の元手としまたこの元手は先に善布施を行い先に功果廻向をすれば災厄の来臨を防ぐことができる。
第廿八回 行善錫福
もし死んでから善行を行おうとしても、すでに人身を失っている。再び善を行いたいと思っても、それは個人の造化次第である。今生において善行の基礎を築けば、必ず来世に善の種が顕現する。この善の種は常に心の中に置き、善がまだ発していない段階でも行動に移せば、常に善を思い心に留めることで、次第に善の気と善の相に転換していくのである。
第廿九回 化性
この世を解脱するには、まず自ら懺悔し、戒律を行じる中で本性を内観し、日常生活の中で過ちを正していかなければならない。衆生は皆「理」が顕現することを求める。しかし「理」とは、公正にして私心がなければすなわち「道」なのである。衆生は皆理の中にあってそれぞれの角度から見ているが、客観的な立場から事の来歴と結果を見ることをしない。
第三十回 戒律
「律」とは、戒を犯したときに罰則があること。衆生には皆自分を甘やかす心があり、自分の過ちを許し、かつたびたび姑息な行いをする。律から言えば、戒を犯せば罰則があるから、同じ過ちを再び犯さない。戒律を犯せば懲罰があり、初めて次回を目覚めさせて同じ誤りを繰り返さず、これを避けることができる。そうでなければ変えることは非常に難しい。
第卅一回 求道
もし内徳を培うだけならば、修身養性に留まり、輪廻を脱することは難しい。輪廻の中で衆生はすでに善徳を備えている。般若（智慧）がなければ、累世ただ善徳のみということになるのか。善徳に般若を加えて、内性の「格物」を導くのがこの生である。「格物」によって初めて本来の本性が見え、一指で天に登れるわけではない。
第卅二回 善德齊家
人は皆、夫妻婚姻の間で互いに相手の過ちを見て、自分の過ちや欠点を省みず、一方的に相手を要求する。必ず知らなければならない。夫婦の間では和を貴とし幸福を重んずることを。相手を変えようとするのではなく、まず自分をどう変えるかを考えることを主とすべきである。夫の心の中の賢き妻・良き母・賢き嫁となるべきである。
第卅三回 孝道
そうでなく一方的に物質的な生活で子女に享楽させ、現代風の親孝行な子にしようとすれば、後になって子孫から返ってくるものは理想に届かない。むしろ人生の中で子女に孝道を根本として教え、子孫が孝を行う姿を見、衆生は周囲の多くの実例を手本とすべきである。
第卅四回 廣結善緣
現世においてまず善徳の種子を蒔けば、未来に因縁がめぐり合う時、善根の因縁が良き発展をする。善縁をもって善徳を培い、さらにこれをもって行持し、宗教の依り帰る処に入る。修持の道において善縁は必ず広く結ばれ、また善縁をもって芽生えさせ、善徳はすでに善の兆しに入り、その後これをもって善徳の因縁を成就することができる。
第卅五回 福慧雙修
仙仏が慈悲深くないわけではない。現世において「人類最大の敵は、他人でも外的なものでもなく、自分自身なのである」。自分の放縦不羁のために、自分を甘やかし自分を許して、本来の自分を見失うことを積み重ねる。衆生は常に自分を戒め、自分を励まし、手を当てて自省し、気質を変えていくことができるだろうか。
第卅六回 圓滿
どのような事にも円満を求めれば道に合い、道に合えば道を尽くす。「人道が円満であれば地道も円満、天道もまた円満」。天地人三者の円融もここに見られる。すべての事が円満であれば争いはなく、我とあなたの区別もなく、また多くの悩みも生じない。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
今まさに「大道心燈」を著作する理由もまたここにあります。人類の衆生および宗教の真の修行者たちに望みます。皆、心をもって心に印し、心を明らかにして性を変化させることを。著作の中で、その道理について自分の立場に固執してはなりません。全体を観る視点に立つべきです。もし客観的な立場から見るなら、必ず得るものがあるでしょう。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
これからも一層和楽を本とし、共に普化のためにそれぞれの職責を尽くし、原霊を渡化して本源に帰らせて成就超越させ、母娘の心を慰めてください。母娘が首を長くして待ちわび、時に涙し、原霊が帰ってこないことを嘆くことのないように。諸子が母娘の慈愛の期盼を深く體悟し、「大道心燈」の著作が完成した今、神人共に叩拜して御恩に謝します！
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
必ず様々な試練と心の印可を経て、初めて至善完全の境地に達することができる。どのようにして「大道心燈」の照り輝きを灯すことができようか。外功を修行することは必須の条件である。しかしそれは功徳と福報にとどまるだけであり、心性を超越するものではない。むしろ福報の順調な境遇の中でかえって自分を見失い、来世の果報を再び造ることになりかねない。
推薦序
願わくは衆生のいかなる事柄もすべて円満でありますように。満の中に調和の喜びがあり、円満の中に自性を見いだす。円満は修行者に不可欠の、必ず修めるべき道の行程である。大道心燈は円満をもって結ぶ。祈る、衆生が未来において、すべての事柄が円満であり満円でありますように。家庭も幸いなり、修道も幸いなり。すなわち必ずよく努力せよ。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
無極皇母大天尊の懿旨に曰く。
凡例
南天文衡聖帝、序を降す。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
現代の科学技術の時代、衆生は皆、金銭や富を求めることに迷い、快楽に溺れて、自らの霊性を清らかに澄み切らせることを知らない。そのために本来の境地に戻ることもできず、人類を輪廻という限りない枠の中に閉じ込めたままにしているのである。
第二回 大道與天德
そうして初めて善い方向に世の風潮を導く力が生まれる。また大道の運行は自然であり、春夏秋冬の節気が明らかで、数多の星々も正しい位置について偏らない。陰陽を調和して宇宙を形成する。千古変わらない定理であって、天地の造化にはすべて定数がある。いつ災いを降し、いつ福を降すかは、すべて衆生の行いが共同で作るものに関係しているのである。
第三回 天道奧義
衆生に「丈二の金剛も頭に触れられない」ような感覚を与える。これは今の世の誤った考えであって、人間が自然の法則を理解し、自然の中から天道の奥義を悟ることができれば、人の世にどのような争いがあろうか。すべては私心が原因であり、自分を高く持ち上げ、自慢し、狭い了見で威張るといった陋習なのである。
第四回 心德
今日に至る時空の回転によって、極めて大きな差別が生じた。時に衆生が逆境に遭うのを見て、天を怨み人を責める。天が平等に与えた徳性について知らず、逆境の障害は自分の徳性がすでに尽きて災いが従ったものである。順境は徳が加わった結果であって、初めて福分を持って享受できるのである。
第五回 念正
だからさらに言う、心正と善念は常に導き、常に啓発しなければならない。一人の善念と心正が周囲の環境に影響する。各人が正しい心と善い念を発散させ、善気を形成すれば、災いの来臨を変えることができる。蓬莱仙島のここ二十年、宗教の人々の善念の導きによって、黒気が清明に変わった。
第六回 修身
一国の半数の国民が修行すれば、その国に善気が満ちて、災難や悪縁が必ず遠ざかる。もし国民が皆修行しなければ、災いはすぐそばにやってくる。これは修身と動念に関係する。ただ修行するだけで教化し善導しなければ、散漫で活気のない悪因を形成し、人生はこれに制限される。
第七回 徹理
身を修め家を調えるのは人の本分。必ず思いを正しくしなければならない。
第八回 修心
天道が教えを打ち立てるのは、必ず衆生に「善悪の因果を明らかに」させ、「念が動き始めた時から教化して変化」させるためである。衆生と自分の未来に福祉を創造することができる。教えを立てる目的もここにある。しかしこれが最終目標ではない。必ず衆生を導いて段階的に進み、一歩一歩着実に、一歩を踏み固めてさらに一歩進むのである。
第九回 大道心燈
今世に何のために来たのか、何のために生きているのか、何のために行っているのか。このように衆生に因を明らかにし果を知らせて、これを鏡として引き上げ、仮の体を借りて真を修めて元に戻す。初めて来世の罪業を作らない。心の暗闇がまだ晴れないのに、どうして「心燈」の光を灯せようか。まことに難しい。
第十回 以和為樂
進退に秩序があり、長幼の別が明らかであることは、すべて理の始まりである。さらに修持において、何が正しく何が間違っているかを明らかにさせ、善悪の因縁に対しては善をもって知識を導き、段階を追って教え、知らず知らずのうちに感化し、さらに進んで心性を修持すれば、必ず人道を明らかにし、功果もだんだんと圓滿になるであろう。
第十一回 悟心
もし心を用いて努力することができれば、これこそ今生における基準と目的の実践である。心について言えば、人心は千変万化で、どうしてその心を降伏させることができようか。以前の方法を用いたのでは、わずかな間修整するだけである。もし常に心を廻らし内照して、外に向かって「人心」を追い求めなければ、心性の中の「仏性の灯火」を灯すことができる。
第十二回 闡理
必ず真理が明らかになる。
第十三回 境轉與轉境
もし人と高低を比べず、むしろ人生を淡泊に過ごすことができたら、なんと爽快な楽しみではないか。どうして人と細かく比較しようか。人生の一切の物事は、ただ見て、使って、所有しているという「借り」に過ぎない。どれが完全にあなたのものか。どれが長く保存できるか。無常が来た時、どれだけ持って行けるか。誠に難しいことだ。
第十四回 教化
このような「世界大同の蓮花仏国」が実現しないことをどうして憂えようか。衆生が解脱して帰らないことを。教化の目的は必ず衆生にはっきりと知らせるべきものである。この時代はもう昔ではない。自分だけが良ければよいのではなく、周囲のすべての人も良くし、すべての同胞をもっと良くし、この社会をもっと良くしなければならない。
第十五回 三教合心
礼運大同篇に言う、「独り自分の親だけを親とし、独り自分の子だけを子とせず」と。そうすれば自分の父母は親だが、他人の父母は親ではないのか。このような分別心があれば公道を失う。考えてみなさい。恭敬の心をもって他人の父母・親戚・子女に向き合えば、人もこの心と同じくし、心もこの理と同じくして、衆生の利益にかなう。
第十六回 藩籬
五教の聖人が世に立って天下太平を開いた。伝えられて今日に至りすでに原教義を失っている。また宗教戦争が現今世界で頻繁に起こり、多くの急進分子が相手を攻撃し、自分を犠牲にして「聖戦」と言う。これは宗教の平等教義を明らかにしないために起こり、常に有情衆生を苦難の中に置く。
第十七回 磨難
必ず磨難の過程において、あなたがどれほどの重責大任を担えるかを見、それだけ磨難が徐々に加えられる。また各人の承受力と考磨によって、同一の標準で測ることはできない。磨く面も千差万別である。この中に一大原則がある。まさに「心性与び態度」と「應對と作為」である。
第十八回 消業
事端の総源頭は「心」にある。「心」は必ず普段から常に調教し、動かず走らせずすれば、事に遭っても慌てることなく、悪因を造ることもない。心を降伏する方法は「平常心」による。また平常心とは言え簡単だが、事端が来れば容易に七上八下し、対処のしようもなくなる。
第十九回 普渡
天国に昇り地獄に堕ちるのはただこの臭い皮袋に過ぎない。どうしてこの肉体に束縛されて今生の業因を作ることがあろうか。これをもって解脱し心性を内観し純粋な状態で人世間の不良な因果を完消し自ら因果を清算し問題を解消する。
第二十回 收圓之條件
果てしない罪を犯す場所に入らないために指導者は心を開き各宗派・各教の長所を受け入れ私心を改め捨てれば宗教の間で正しい道を得て広く善き信者と門弟を集め信仰する宗教・宗派をさらに発展させることができる。
第廿一回 任務與修持
もし「福徳」を善く活かし大切にすれば己を利し人を利して福徳は長く続き享福は尽きない。「業報」が来れば懺悔の心で返済し喜んで返し功徳をもって再報いれば仙仏の取りなしで陰陽共に利し求める円満を達成できる。
第廿二回 心念
念転じて識種すでに明白 八識の輸送貯蔵台
第廿三回 念識
因果の投影または現証を引き起こし業因と善縁を成すのは必ず前六識の行いによって決まる。また末那識の中では現在の行いによって分別判断する。もし心性の纏わりを超脱できなければ「菩提の智慧」と「煩悩愚迷」の分かれ目である。
第廿四回 業因
欠点の発現は皆人の生活の行為動作から引き出されるもので先天から持ってきたものではなく現世において後天の習性に染まり環境によって引き出される。古人が言う「修道一年は仏が目の前にあり修道二年は仏が天际にあり修道三年は仏がすでに見えない」と。この欠点を取り除かなければ今世のすべてを円満にすることは難しい。
第廿五回 善惡因緣
悪運の試練は前世および累世に蒔いたものである。現世で言えば「過ぎたことは過ぎたが来るべきことは追える」。衆生は道理を知らず常に天を怨み人を責める。「自分の難行は自分が行い自分の運は自分で解く」とは知らないではないか。逃避せず勇敢に向かい自ら引き受け困難を解消し厄運を受け入れ業障を完消すべきである。
第廿六回 懺悔
業果が来れば功徳廻向をもって因果を完全に清めるべきである。今生は必ず自性を向上させる。また懺悔は衆生が造った業によって悪因が来て試練となるのである。静かな夜に我が身を省み今生でどんな業因を受けどんな悪厄を受けているのか。必ず今生および累世に蒔いた悪因によって今因果が現れこの厄に遭っている。必ず完消すべきである。
第廿七回 消災解厄
もし悪業が来て試練する時になって消災すればその時消災できるのはごく一部だけである。衆生に「悪い因を造らなければ悪い果を受けずに済む」と理解させる。
第廿八回 行善錫福
悪を為すこともまた同様である。常に己を戒め、善徳をもって福田を成就しなさい。人の心念は公正を根本とし、善を本とすれば、人生の正道から外れることはない。この善徳は人生において必ず備え追求すべきものである。善徳が深厚であれば、業因も磨くことはできず、さらに功徳を廻向すれば陰界陽界の両方に利益をもたらし、皆大いに喜ぶことができる。
第廿九回 化性
しかし問題の全体については、必ず道の本質を基準として拠り所にしなければならない。そうして一つの事の成否を見極めようとするなら、その端緒が見えてくる。そうでなく衆生の個人的な角度から見れば、果たして正しいと言えるだろうか。いわゆる心性の超越とは、必ず一つの問題の過程においてそれぞれの長所を見つけ出して影響を与え、心が坦然とした境地に至り、心から喜んで服せるようにならなければならない。
第三十回 戒律
信仰の戒律は守らなければならない。規則に違反することがあってはならない。
第卅一回 求道
もし一指で天に登れるなら、世人は修行の外功内果を要せず、ただ一指で閻王の束縛を脱することができる。衆生は勝手に好き勝手に振る舞えることになる。皆考えてみなさい。この理が通るだろうか。累世の因果業障は、必ず今生で完済しなければならない。それが因果循環の報いに符合する。
第卅二回 善德齊家
まさに妻の心の中で、どう変えて賢き父・良き夫・賢き子となるべきかを考える。そうすれば家庭は必ず和やかになる。現代の環境は核家族が多く、すでに目上の人と同居しにくい。それでも折りに触れて訪問すべきである。もし目上の人と同居できれば、孝道を尽くせて「家に老人一人あれば宝の如し」はまことに得難い。
第卅三回 孝道
両親の一生の辛勤、田や財産を積み重ねて後代の子孫に伝承しても、何人が両親の苦労に感謝し、両親の恩徳を発揚できようか。皆難しい。財産を子孫に分け与えれば、後になって老いた自分に一碗の満ちた食事ももらえない。こんな後代の子孫を望むか。ああ、こうなるなら最初からそうすべきだった。
第卅四回 廣結善緣
必ず人生の正しい軌道を導き、三悪道に入らせない。もし単に宗教の修持に入るだけで功果円満の境地に達し難いならば、「己れを立てて他をも立て、己れが達して他をも達させる」ことが必要である。手を取り合って共に進み、修持の道侶となり、和楽に祥和に暮らして、未来の修持において良き善因縁を築くことができるのである。
第卅五回 福慧雙修
必ず自分の成就をもって他者を成就し、自分の力を衆人の力と合わせて、共に手を携えて明心の境を創造しなければならない。心性に深い功夫を施し、人生無常を体悟し、自らを超越して開悟の境地に達すれば、自らが実りある利益を得ることができる。向上と超越が、すなわち成就の根拠となるのである。
第卅六回 圓滿
この円満の中で自分の力を尽くし、争わず奪わずに、無上の道業を成就する。衆生は知るべきである。円満な人生は円満な家庭をもたらし、円満な家庭は周囲を円満にし、周囲の円満は一里の円満、多くの里の円満、一国の円満となり、すべての国（宗派間も）が円満になれば、天下太平にして円満にして欠けるところがない。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
「大道心燈」の著作の道理は、繰り返し深く领悟しなければなりません。決していい加減に読んで서는なりません。公平な心をもって、各章各節を詳しく吟味すれば、必ず得るものがあります。自分の立場に立ってこの書の真髄を體悟し、體悟した後は自ら身をもって実践すれば、開悟の境はすでに遠くないでしょう。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
無極皇母が懿旨を頒示された場所
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
必ず「知」から転じて「識」とし、「識」からさらに変じて「智」とし、「智」からさらに「慧覚」に成就させるのである。人類にとって「慧」とは経験の積み重ねであり、人生の一切が無常で短暂であることを体悟し、今生で実践すべき修行の道を徹悟して、自己を成長させ利益を得るのである。人類は「唯識学」によって進むのである。
推薦序
事を変難の中で始め、事を円満の中で完了する。その間に多くの外的要因があったとしても、それは皆各人の観点と角度の違いによる論じ方である。衆生が皆藩屏を打ち破って共通の認識を形成できること。これこそ本書の最も勝れたところであり、円満の中に必ず一つ一つの物事の始まりから終わりまで一貫して初心を保てば、自然と感應があるということである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
母は理天の聖地にあって、宇宙のすべてはその中に含まれる。行善聖門が普化に尽力し、母に代わって憂いを分かち大いに道務を振るうのを見る。先に「行善果報記」の著作を命じ、続いて「暗路明燈」を、さらに「光明人生」を受け、共に三部の天書によって人々を啓発教化し、すでに効果を上げている。
凡例
南天直轄道堂の桃園行善堂。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
天は慈しみ深く、今の世の人々が天地に覆われ養われるご恩を知らないのを見てもなお、幾度も仙仏を遣わし、縁を通じて縁ある者を救い、人間の頑固な性質を解きほぐして、完全なご徳性に戻らせようとしておられる。今日に至るまでの教化によって、道場で修行する者だけは目覚めることができるが、一般の迷える人々には感謝し福を惜しむ心がなく、ただ自分の利益になることだけを考えて、手段を選ばず行っているのである。
第二回 大道與天德
天は地の変化によって位置を定め、地の変化は人の行いと関係している。今すでに天の運行は変化し、功業が人類に加えられていることは浅からぬことである。今の世の人々は最も福分がある。人生において大道が自然に運行することを理解すれば、人生も大道と同じ理であって、すべてに位置があり、働き休むことに乱れがない。これこそ大道の運行の最も重要な点なのである。
第三回 天道奧義
自然の法則を生活の中に活かして体悟すべきである。また天道はもともと自然に備わっていて、求めなくても自然に満ち足りている。天の運行も同様である。太陽は東から昇り西に沈む。毎日そうであり、毎月そうであり、毎年そうである。これが自然の法則であって、すべて正しい理に背くことはない。
第四回 心德
この両者の違いは前世からの積み重ねであって、何を恨みようか。前世は茫々として知ることができず、今世を知るだけである。あれこれ気にしても仕方がない。むしろ懺悔の心を持って天に感謝し、心性を磨く機会を得たのだから、どうやって罪業を消し、災いを遠ざけるべきかを考えるべきである。
第五回 念正
今、世界では戦争や天災が絶えない。ただ宝島だけが善気が天に充ちて、頹廃の風を善き風に変え、災いを遠ざけて吉祥に向かうことができる。念正と心善は互いに支え合い、念正があれば必ず心善である。心善に加えてさらに実践すれば、一股の善気が生まれ、体を守る力が生まれる。
第六回 修身
宗教は人を修身に導くことができる。様々な異なる因縁によって善悪の因縁も異なり、修行の関わり方も違う。しかし広く世界を見れば、中土は礼儀の国であって、修行の過程も他国と違う。また仏教には正しい理念が伝わっていて、衆生を善導して修行を実践させることができる。
第七回 徹理
常に反省して改善し、悪業を作って人の身を失ってはならない。
第八回 修心
「大道心燈」を天書として著す理由がここにある。これによって衆生にどうすべきかを教え、どのように一歩一歩修行して高めるべきかを示す。教化によって道に向かって前進し、再び業因悪果に引きずられず、退く心を起こさないようにする。今、天の普遍的な教化はすでに新たな段階に入り、昔の教化の方法とは異なっている。
第九回 大道心燈
必ず多くの試練と印心を経て、初めて至善完璧に達する。どうやってこの「心燈」を灯して輝かせようか。外功の修行は必要な条件である。しかしそれは功徳と福報に過ぎない。心性を超越することにはならない。福報の順調な状況の中で、また自分自身を見失い、さらに来世の果報を作ってしまう。
第十回 以和為樂
人の性がだんだんと融け合い、さらに「心をもって心に印す」ようにして修めていけば、堂生はみな堂務を重んじ、たとえ異なる見解があっても、「包容の心」で向き合い、「和楽の心」で共に過ごすことができる。これこそ堂のこの上ない幸いである。これこそ衆生も仙仏も喜ばれる圓滿な和楽であり、向上と成長がもたらされるのである。
第十一回 悟心
もし自らの欠点を悟ることができれば、衆生に対して心を外に放り出すことをやめるであろう。もし心を内にたくわえなければ、すでに本心を失い、常に罣礙があり、なかなか手放すことができない。すると陰陽の対待を生じ、物事に対立が生まれる。このように内心が明らかでなく本心を失えば、どこに行って自我を取り戻せるだろうか。いずれも難しいことである。
第十二回 闡理
天地の至理は大いに公正であり、福沢を創造して大道を開く。
第十三回 境轉與轉境
ああ、人生よ。人生よ。それはまさしく一場の夢、とても長く長い夢に過ぎない。目覚めた時にはすでに別の空間に転じている。衆生は何を求め、何を比べようか。因果が現前する時、すべての善悪は自分で受ける。誰も代わりに受けることはできない。みな各自の行いによって、それぞれ償わなければならない。
第十四回 教化
教化の因縁はまことに殊勝にして、一切の功効はまた実に真なり。
第十五回 三教合心
あなたが人を三分敬えば、人もあなたを敬い、三分を返してくれるだろう。このように分別心がなければ、来世の果報を造ることはない。しかし現世の地獄府にはまだ多くの修持者がいる。「地獄の門前には僧道が多い」と言う。このような心态を持つ者は、必ずしも悟ることができない。
第十六回 藩籬
要するに法船の舵取りや主事者は、正邪を見極めねばならない。たとえ旁門左道（外道）にあっても、善念正理によって修めれば果を成し、上天の肯定を受けることができる。正教門派にいて邪な道を行えば、帰ることができるだろうか。思えばわかる。正教門派によって修めることは、己を向上超越させることである。
第十七回 磨難
磨は身にあり苦は心にある。
第十八回 消業
これに無明火の勢い加わることで、すべての因果の造りはすべてこれによって突显する。言う「平常心」は必ず常に冷静な頭脳を保って向き合い、考えよ。どう為し、どう行うべきか。必ず深い思慮があってこそ、悩みによって禍端を生じ、また他へ波及することはない。
第十九回 普渡
本性を正せば霊光が自然に現れ仙仏がこれを見て霊気を注ぎ全身を加持する。内面の道種が次第に芽吹き本来のものを備えてさらに外に向かって善功陰徳を積み重ねまず己を確立してから他者を利する。長く行っても初心を忘れなければ功徳と果報が満たされ自らを変化させて普渡をさらに一歩進めることができる。
第二十回 收圓之條件
私心のために衆生と門弟を誤った教えに導き果てしない苦海に陥らせてさらに罪を犯しながら気づかない。だから伝承者は正しい導きと正念の方法で後進と門弟を教えるべきである。それが正しい道理であり上蒼の密かな助けを得られればこそ収円の第一課程であり原霊子を向上させることである。
二、天から授けられた使命を完了する。
第廿二回 心念
外に向かい推動して現行を起こす 未来の業果は善悪を分かつ
第廿三回 念識
「末那識」は今生の思考に用いられるだけである。一方「阿頼耶識」はまさに一切の貯蔵場所であり縁に遇って果を成す。善悪なく善悪の種子を含むことで無上の菩提を成就して自己を超脱しどうして「仏性真如」を顕すことができるか。これによって人類思惟の奥義に入る。
第廿四回 業因
業因が来れば耐え忍び忍耐と誠意で円満に行なう
第廿五回 善惡因緣
誰も避けたり代わったりすることはできない。上天も密かにいくらか助け必ず衆生に転機の余地を与える。天に人を絶つ道はない。人が逃避して業果を引き受けなければ永遠に業果の存在を変えることはできない。今生で逃げられても来世に元金に利子を付けて償還すれば誠に割に合わない。
第廿六回 懺悔
仏は言う「往昔に造った諸々の悪業は皆無始の貪瞋痴によって身語意のために生じた一切の我が罪根を今皆懺悔する」と。もし真心で懺悔すれば悪業は消え至誠で懺悔すれば悪果は速やかに清まる。これは真心をもって自分の誤りに懺悔し修正変化を作るのである。
第廿七回 消災解厄
まさにこれだけである。他の悪業が来ればその時のすべての業因の現れは必ず衆生自身が引き受け自ら苦しむ。誰も代わることはできない。
第廿八回 行善錫福
また善徳の深厚なるものは、一朝にして得られるものではなく、世間において少しずつ積み重ねて成るものである。衆生はしばしば福のある人を羨むが、実は福報は善行の積み重ねから来ているのである。善徳の人を手本とし、仙仏を模範として、一歩一歩着実に歩んでいけば、いつの日か必ず福徳が満ち溢れるのである。
第廿九回 化性
「衆生は理を求めて道を求めない」。この理は正しいが、ただ自分の非を省みるだけでなく、過ちを形跡なく改めていくべきである。なぜなら、道は低い处にあり、高い处にはない。低い处の中に道は満ち溢れている。高い处は遥かに届かない。しかも人はせいぜい七尺ほどの体で、それ以上背が高いこともなく、上天の道に対して衆生は捉えきれず体得しがたいのである。
第三十回 戒律
修持とはまさに大変革である。そうして初めて向上し成就がもたらされる。
第卅一回 求道
求道において先に得て後に修めるのは、実に上天の廣大な慈愛である。衆生は貪欲に迷い、一指を経なければ内性を見て悟ることができない。ただ一指を経れば天に登れるというのは、これは世人が着相に迷っているだけである。この一指を経なければ道が得られないと思っている。実は、道を得るには自分自身から「格物」によって致すのである。
第卅二回 善德齊家
必ず人道の中で伝え継ぎ、少しずつ本来の姿に還っていく。善き家に住み善き道に処し、善き心で善徳を行い、善き家庭に合えば、家の中でそれぞれが道を行う境地に至る。また人道の中で衆生は皆道を尽くし難く、ただ「自分のしたいこと」を優先し、「責任を果たす」ことを重要としない。
第卅三回 孝道
また孝道に欠ければ、後には必ずダメな子孫が生まれて苦難を与え、不孝の罪を消すことになる。昔に言う「生きているうちに親に一粒の豆を差し上げることは、死後に豚の頭を拝するよりまさる」と。慎終追遠しても、もはや親子の昔の情景を取り戻すことはできない。まことに悲しいことである。現代の人類の孝道の中で、必ず変えなければならない欠陥である。
第卅四回 廣結善緣
広く善縁を結ぶことは、すなわち宗教修持に必ず備えるべき条件である。衆生はみな善性を具え、またみな仏性を持っている。ただまだ発せずまだ悟っていないだけである。宗教の修持において、累世と現世において衆生と多くの善縁を結び、広ければ広いほど力が大きくなり、人も多くて事が運びやすく、善徳の因縁を成就することができる。
第卅五回 福慧雙修
衆生は現世の生活に迷い、福報という面で見れば、現代の人々はもはや古代の帝王の生活に劣らない。因縁の殊勝さによって今生が成り立ち、衆生はますます容易に手に入れることができる。しかし逆にしっかり掴むことが難しく、今持っているものを大切にできるだろうか。得やすいものは失いやすいのである。
第卅六回 圓滿
丸いものは物を合わせ、丸いものは物を傷つけない（尖ったものや角のあるものは物を傷つける）。道を修めるのもまた同じである。まず自らを円融できれば、自性を円融して障りがない。道の中の収円の要義もここにある。実現するのである。あなたも円く、私も円く、皆が円くなれば、丸く丸く満ちて、自性がまさに「満円」する。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
今宵、降臨いたしました！「大道心燈」の天書に跋を記します。有情なる人類の衆生に祈願いたします。皆が自性を明かに悟り成長し、良きことを学んで成長し、自分を成就するとともに衆生をも成就することができますように。皆が上に帰って超越できるようにと。皆が心を尽くし努力し、光明が自らと人類の衆生を照らすことを期盼いたします。共に励みましょう！
◆ 旨 ◆
完書繳旨
南天直轄の聖堂、桃園行善堂
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
もし宗教において、すでに自らの「意識形態」が高揚していれば、調和と喜びは非常に難しい。自分の_fixedな見解と信者の多少によって決めようとし、香煙が盛んであることと神秘的な虚飾ばかりが目立つのではないかと。こうなればすでに修持の正道を離れ、専ら信者をかき集めて見栄を張るだけである。宗教の修行者にとっては、必ず理によって正道に導き入れなければならない。
推薦序
一つの事柄を目先の眼光だけで見るべきではない。長期的に衆生の福祉に利益をもたらすものを実行すべきである。またその前因後果も短い期間では応答することができない。未来の歳月、一二年あるいは一二十年の後になって、ようやく花を咲かせ果を実らせるのである。すなわち良き功徳と利益があるのである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
今、南天の取り成しにより、理筆の陳生の訓霊がすでに成った。母は陳生が宿世において天を体して道を行い弘願を完成するのを見届け、今特に「大道心燈」天書一部を行善道堂に降臨させて著作させる。南海古仏に命じて主著の仙師とし、陳生を導いて理によって教えを開き、金指によって書を伝える。
凡例
天運辛未年五月二十九日。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
そのために因果が因果を生み、もともとのご徳性は汚れ、ただ自分の利益のみを前提として、因果を恐れず、人生を顧みず、感謝の心を持って人々に接することがない。このような険しく欺瞞に満ちた奢り迷った世界が形成され、そこに人の因縁が加わり、善悪の区別が常に抜けがたいものとなっている。人生において天のご恩に感謝し人々に報いなければ、清明な境地を得ることはできないのである。
第二回 大道與天德
天のご恩は増えることもなく、天のご徳は減ることもない。それにはすべて原因がある。私たち人間が勝手に変えられるものではない。人に善徳の福分があれば、必ず天の運行によるものである。「大道と天徳」はまさに人間が戴くべきものである。天は人を生み地は人を養うのに、人は天地のご恩に報いることができず、累世の罪過を今世で清算しなければならないのである。
第三回 天道奧義
決して今日東から昇って西に沈み、明日西から昇って東に沈むことはない。そのようなことがあれば、すでに自然の正しい理から外れている。大道は自然の中で修行し、ありのままで行なうだけのものである。后人が余計なことを加えたために、神秘的で難解なイメージが加わり、修行する者は見て引いてしまい、足がすくんで進めなくなっている。
第四回 心德
各人の心性と徳業は後天の受け方によって異なり、多くの逆境を生じるのは実のところ自ら招いたものである。徳を修め性を養うとは、徳性を本来の状態に戻すことである。衆生は平等で差別はない。だから言う、仙仏は徳業が極みに達した、だから成ることができる。衆生は徳業が尽きた、だから堕ちる。両者の違いは徳業の成就にあるのみである。
第五回 念正
心は身のすべてを支配する。福禍を造就し因果の業となる。
第六回 修身
人倫を教え悪習を改めさせ、四海に広めても矛盾しない。その基準は「修身」にある。また道教の修行はまた違う。古世には衆生を善導し、仙聖が時折顕現した。今末法に入り、修行の過程は昔とは違うけれども、その枠を脱することはできない。
第七回 徹理
身を修めても用心深くあれ。無明の障害に近づいてはならない。
第八回 修心
天は仁慈であって、衆生の心の中で自らの「心燈」を灯させる。衆生は心の中の灯光に気づかず、内に閉じこもって外に現れない。もし外に表せば、必ず聖神仙仏の輝きが頭を覆うのと同じになる。ただ衆生がまだ「心燈」を灯す方法を知らないだけである。聖神仙仏も衆生が修行して成ったもので、一朝一夕にできるものではない。
第九回 大道心燈
必ず「知」から転じて「識」となり、「識」からさらに「智」に変わり、「智」からさらに「慧覚」に成就する。人類にとって「慧」とは経験の積み重ねであり、人生のすべてが無常で短いことを体得することである。今世に修行の道を進めるべきことを徹悟して、自分を成長させ利益を受けるのである。
第十回 以和為樂
もしこのように行ずることができれば、それは道務だけにとどまらない。家庭や周囲の人や事柄についても同じである。必ず修心によって周囲に善気が広がり融け合い、誰もが自分と一緒に共に過ごすことができれば、必ずさらに善徳の人士を招き入れ、みな同じように感化される。これこそ己をもって他を渡化し、また己の行功立徳をよりどころとすることなのである。
第十一回 悟心
明悟して自らが心を起こせば、念が動けば必ず現行が現れる。
第十二回 闡理
理の玄機を化して衆生を渡し、経験と智慧をもって向上させる。
第十三回 境轉與轉境
そもそも物境は縁を借りて成るものではないか。もし人生に有益なことを行い、衆生に還元すれば、必ず良好な善境が得られる。物境と心境は互いに関係しており、人が看破し放下することができれば、すべての争いや困厄は消除し、自分を束縛し局限することもない。
第十四回 教化
自らを成長させて愚痴を化し、受益して福祉を得ることができる。
第十五回 三教合心
ただ正門教派が真理を伝えるならば、あなたの見解に関わらず、他人の教えを見たならば歓喜心をもって赞叹しなさい。この「随喜功徳」はなんという微妙か。さもなければ一方的に他人を排斥すれば、また他人からも排斥され、因果がまた一巡する。あなたが他人を排斥すれば、今度はあなたが他人から排斥される。それについてどう思うか。
第十六回 藩籬
人類が宗教を信仰するには、必ず「正念」「正善」「正徳」「正心」「正行」の功果を立てなければならない。上天はその正しさを観て帰依させ、さらに現世において「五正」によって衆生を教化する。どの宗脈にも執着せず、どの教派にも分け隔てて修持しない。道場は衆生の力によって教派を成し、すべて正果を成すことができる。
第十七回 磨難
難題が現れ痛苦の行い。
第十八回 消業
試練の過程には業障によって促されるものもある。しかしその中に各人の行いと習性によって感召する部分もある。相当大きな関連がある。だから必ずまずこの心をもって「定・静」の工夫をし、耐力をもって堅持して成就する。試練を一種の「消業」の方法としてこそ、成就がある。
第十九回 普渡
累世の因果を償い天から授けられた使命を果たす。
第二十回 收圓之條件
「収円」は宗教の流派の中で自分の心性と欠点を取り除き平等な心で衆生を導くことである。道場の大小や門弟の多少を頼らず先天・後天に執着せず仙仏聖神の序列にも執着しない。自分の心と習慣を正しくすれば人と人の間の壁を打ち破ることができる。
第廿一回 任務與修持
上蒼が教えを立て人を利するには必ず理由がある。天が与えた才能には必ず用がある自分の力が弱いなどと言ってはならない。各人の累世の因縁は異なり修行と功徳にも差がある。今世に人として生まれた以上それぞれ異なる任務と使命がある。それは各人の行いによって決まるのである。
第廿二回 心念
善悪の議論の中で衆生は皆「起心動念」の始まりを知らずそれは非常に恐ろしいものである。心念の発動によって善徳に導かれて福田を成すこともあれば悪孽に導かれて災いとなることもある。衆生に願う今世で人と累世の悪因を蒔かなければ今生や未来世の悪果に遭うことはない。
第廿三回 念識
人類は宗教の修行だけでは人体機能のすべてがどうなっているかを体悟しにくい。必ず「如来蔵」の清浄識すなわち第九識「菴摩羅識」に入らねばならない。過去宗教経典で知ったことがさらに明確になり今の時空において人生は必ず道業の果実を成就する。
第廿四回 業因
完消し化解して向上できる 陰陽両利で人間で修行する
第廿五回 善惡因緣
善悪因縁は不変の定理である。今生でどんな善因を蒔けば来世は必ずどんな福徳を受け今生でどんな悪因を蒔けば来世は必ずどんな悪厄を受ける。少しも違わない。因因果果の中で変えられない時には必ず徳業をもって悪業を消し功過が相殺できればこそ善徳を再び造ることができる。
第廿六回 懺悔
衆生は毎月朔望の日および毎年旧暦12月24日に司命が天に還る前に台所の前（現代はガスコンロの前でも同じ）で今年最近犯した悪業を碗にさらけ出し二度と犯さないと誓う。誠実であるほど灶君（灶神または灶文公）の感応を得る。
第廿七回 消災解厄
もしこうであれば仙仏も密かにいくらか助けて消災し衆生の心に拠り所を与えて再び悪因を造らせない。これこそ消災の本来の意味である。また厄解けの中の消災はすでに前因がある。しかし厄運は現世のためではない。累世にすでに蒔いたものもあり共業の負担もあり今生の行いの現世報もある。
第廿八回 行善錫福
いわゆる「捨てれば得るものがあり、表で行えば裏に報いる」ということである。このように善行を満ち溢れるほど行えば、人生に福を創造できる。善行を行い福を惜しむことが衆生の求めることであり、福を惜しむには善行を行ってこそ得られる。福を惜しみたいと願うなら、まず自分に問いかけなければならない。どのくらい行い、どのくらい成就したかと。陰徳が満ちれば、福徳の財は必ず降りてくるのである。
第廿九回 化性
衆生が地に立って歩いていくには、必ず低いところにあってこそ真の道を得ることができる。こうして真道の中にあってこそ「化性」の要件が整うのである。また化性とは、あらゆる事において道に合い、かつ全てにおいて道を尽くすことである。五倫が皆道に合って行われればよいが、もし道に背けば、災いと病気が必ず身に降りかかる。
第三十回 戒律
戒律を身に犯さなければ、どうして戒を犯して関所を通れぬことを心配することがあろうか。
第卅一回 求道
人身はなんと微妙なことだろう。この身は歩き動き、様々なことを話すことができる。これは大道（自らの身）が発展した源頭である。自らの身をもって「格物」による道の真髄を考え、天の大徳と万物の良性を合わせれば、必ず微妙な道理が存在する。悟った後は、真夜中の夢の中でも嬉しくて笑い出すだろう。本当に上天の造物の精巧さに感謝する。
第卅二回 善德齊家
道を尽くす（責任を果たす）ことは、快適な生活を求め享受に欠けがないだけではない。必ず「孝道を行い仁善を為す」ことを先導として、初めて家庭を道德の道筋に導くことができる。「道德をもって家を興す」れば悪い子孫は生まれず、善き家に善をもって教えを開き、徳をもってよりどころとすれば、どうして家庭の繁栄を心配することがあろうか。
第卅三回 孝道
人類衆生は皆過ちを犯しやすい。だからこそ今からまず実行し、自らの身をもって親に孝行し、さらに子女に孝行を教え、将来嫁や婿になった時にも義理の両親を敬えば、親に孝行ができ、必ず兄弟は和合し妯娌は争わない。「何を財産で争うのか、得ればそれを失う」、無常が来れば持って行けるだろうか？
第卅四回 廣結善緣
一人が成就すれば衆人も成就し、互いに支え合って、共に宗教の発展に努める。現世の仏教・道教両教の修行者は、すでに次第に垣根を取り払い、他教を受け入れることができるようになった。これこそ宗教修持に欠かせない心の広さと懐の深さである。五教の長所を融合し、優れた点を取り入れて短所を捨てれば、各宗派の包容によって蓮花仏国の世界を見ることができる。
第卅五回 福慧雙修
得と失の間には陰陽の区別と事物の対待がある。対待と分別心を脇に置き、これによって輪廻に陥らないようにしなければならない。分別と対待（陰と陽、強と弱、日と月）は皆五行の中にあって、脱出し心を引き上げることは難しい。この檻から飛び出すことができるだろうか。心性を内観して、自性を引き出して発揮すべきである。
第卅六回 圓滿
円満満円は成就である。有情衆生は皆必ず修めなければならない
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
南天文衡聖帝が跋を授けられた場所
◆ 旨 ◆
完書繳旨
天運辛未年八月二十八日
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
広く善縁を結ぶことは、すなわち宗教の修行において備えるべき条件である。衆生は皆善性を備え、また皆仏性を持っている。まだ発現していないだけで、まだ悟っていないだけなのである。宗教の修行者は、累世と現世において、衆生と共に多くの善縁を結び、広ければ広いほど力が大きくなり、多くの人が集まれば事が成し遂げられ、善徳の因縁を成就することができるのである。
推薦序
このような円満の中で、自分の心力をもって争うことなく奪うことなく、無上の道業を成就するのである。衆生は円満の人生を知り、必ず円満な家庭を築き、円満な家庭は必ず周囲を円満にし、周囲が円満になれば一里が円満となり、多くの里が円満となり、一国が円満となり、すべての国が円満になれば、天下太平にして円満に欠け目がないのである。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
上課の期間に際し、毎週水曜日に無極殿において「金指天音」をもって著作し、毎週土曜日に「桃筆伝真」をもって主席殿において著作する。共に諸天の聖神仙仏方々をお迎えして三十六回を共著し、心の向上の勝れたことを説き明かす。また辛未年十月十五日に書を完成させ、世に頒布する。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
聖人が教えを打ち立て、理によって人々を啓発すると、衆生は縁に応じて救われていく。天が設け地が立てたものだから、人の心に教化を啓すには、まず天地のご徳性を知らなければならない。そうして初めて人生の根本を確立できるのだ。人の性質は天地に覆われ養われていることを知るべきだ。人の体に例えれば、頭は天であり足は地である。人は天を戴き地に立って、地（足）の助けによって歩む。それがなければ歩むことができようか。
第二回 大道與天德
そもそも天には天の徳があり、地には地の徳があり、人がその徳に合うこと。これこそ三才に必ず備わるべきものである。天が災いを加えて慈悲でないというのは、人が徳に背いて共業を形成したからである。これによって鍛錬し業を消して、世を清明に目覚めさせる。世の人々は福が身に随うのは当然だと思っている。悪業が加われば天を怨み人を責める。福も禍も人が自ら招いたものなのだ。
第三回 天道奧義
大道の中で「徳性」もまた最も重要である。もし徳がなければ、現世の人生で「銀行に預金がない」ようなもので、何を引き出して受用できようか。こう考えるなら、人は徳を修めなければならない。本当に徳を修めなければならない。「徳性は霊性を輝かせる」、徳は万福の源であって、徳がなければ福もなく、通貨も持たないのだから、どうやって徳を修めようか。
第四回 心德
仙仏は仁慈であって、自ら聖神仙仏となることにとどまらず、人間に降りて衆生にこの心徳を修めさせる。この心徳を外に表せば、正徳・公徳・陰徳となる。このように自分に「福徳があれば」福分が従い、さらに「慧覚」を修めて高めれば、両者が並行して天に帰る希望が生まれる。
第五回 念正
誤りを今すぐ調整して修める。すべての因縁は自分で作ったもの。
第六回 修身
修行する者は、次第に仏教と道教の両方の方法を融合して、一つの標準にまとめる。今の天道の道親たちは皆この標準を持って、四方に広めている。これは人の行いによって、すべての良くない困厄を変えることである。修身には、必ずすべての良くない習慣や悪しき考えを捨て去らなければならない。
第七回 徹理
良くない劣った習性を変える。成長して高めれば福徳が迎えられる。
第八回 修心
修心は体の行いに関係する。心が変わり念が変わって行為が作られる。
第九回 大道心燈
さらに宗教の教化、善堂の善書、善き知識の互いの支えによって、自分の歩みを調整することができる。さらに「心性」に向かって「覚性」の備えを求める。「覚性」とは、善人や悪人によって差別があるのではなく、外縁によって成るものでもない。衆生が本来持つ先天の体による、すなわち本来の根性である。
第十回 以和為樂
もし本当にこのようであれば、善気を善因縁に転じ、人類衆生の心性がすべて明るくなって本来の性に復るようになれば、善功はすでに成就したということである。もし衆生が理を明らかにできないのは、みな立場が異なるだけである。必ず自分の行いを振り返り、天理良心に叶っているかどうか、圓滿に叶っているかどうかを省みなさい。
第十一回 悟心
知るべきは為人の善の根本、悪念を起こさず身形を護ること。
第十二回 闡理
圓滿に帰ってさらに超越し、無辺の仏性の顕現を彰す。
第十三回 境轉與轉境
境転心転互いに転じ、化転転化また互いに伝える。
第十四回 教化
人間を化育して導き引き上げ、科学技術の文明により福報は新たである。
第十五回 三教合心
三教は同宗、五教は同源。すべて地域と縁の関係によるものであり、誰が最も大きいか、誰が最も良いか、誰の信者が最も多いかということではない。これらはすべてすでに正道を偏離し、甚だしく道に背いて行っている。仙仏が喜ばれるのは、大衆が和睦して共に暮ら同舟共済し、上蒼の普化に尽力することである。
第十六回 藩籬
藩籬を囲って障礙を生じ、私心はすでに現れて解けがたい。
第十七回 磨難
一切の障礙を檢討すべし。
第十八回 消業
人類衆生は毎日すべて消業している。生まれてから蓋棺論定に至るまで、毎日向き合うことも消業の一部である。父子、妻女、親戚、周囲の一切、人々の縁はすべて消業の中にある。信じないか。考えてみればわかる。毎日の言葉、争いは何のためか。実はただ業障を消除する一部に過ぎない。
第十九回 普渡
仮の体を借りて真を修め本来に還り現代の科学技術を超える。
第二十回 收圓之條件
共に大道のために力を尽くせば必ず外縁を円満に調和できさらに心性の修行が加わる。自分の観点だけで物事を見ず個人の心で周囲を測ってはならない。この点が最も重要でそうしなければ矛盾が生じ累世の障害を広げることになる。
第廿一回 任務與修持
各人に与えられた使命はそれぞれ異なる。どの立場にあってもそれぞれ異なる任務がある。簡単な例として：一家の主人となれば家族の妻子を世話する責任と義務があり父母を養い親に孝行すべきである。このように子供としての孝行心で親に仕えるのが責任と義務である。
第廿二回 心念
今の念が動く時にしっかり押さえて発芽させない。仏は言う「念が起こるのは恐れるな気づくのが遅いことを恐れよ」と。これを行えば必ず収穫がある。衆生に願うのは皆この心念の根本を成し過去の欠点を改めて修しすべての不足と過ちを除けばこそ向上し成就があるということである。
第廿三回 念識
「菴摩羅識」の根基はまた成仙作仏の原本である。これによって人の一生に必ず豊かな善果があり仏性もまた顕すことができ修持の中においてもまたこれを得ることができる。しかし内功だけで外果がなければ善功果がなく修持を養うに利益せず修持の過程で人生に多くの障害がある。
第廿四回 業因
仙仏恩師が来り助けて 転じて入学して修行する
第廿五回 善惡因緣
また功過が相殺できない時業因果報は必ず自分で償還する。善悪には絶対の定数がある。仏は言う「諸悪を作らず衆善を奉ず行」と。わずか八字だがその意味には非常に深い体悟がある。何を善とし何を悪とするか。簡単に言えば天下大衆の福祉を利するものが善の本である。
第廿六回 懺悔
懺悔に前業を赤誠の心で仏前に礼懺を皆で行う
第廿七回 消災解厄
上蒼は常に実例をもって世人を警醒し衆生に警戒を促す。仙仏の慈悲もまた事前に暗示警告する。しかし衆生は依然として我が道を行き因果が現れた時に後悔しても遅い。人類衆生は皆知らねばならない因果が形成される原因は何なのか。必ずしも一定ではない。
第廿八回 行善錫福
善行を行えば必ず福が授けられる。三年間福を造り続ければ、徳が守ってくれる。
第廿九回 化性
化性とは必ずはっきりと理解するべきものである。その全過程は真実なのである。
第三十回 戒律
ただ堅く守り越えなければ、どんなに多くの戒律があっても心は煩わない。
第卅一回 求道
「天の我に才を生ずるは必ず用あり」。上天が衆生に与えるものは全て公平で、誰に多く誰に少ないとは言わない。衆生は皆平等である。世人がもし目や手や足を一つ欠いていれば、それこそ不公平である。もし持っているなら、それは累世の自分の行いによる加減乗除の結果として形成された因縁果報である。
第卅二回 善德齊家
善徳の因縁は人の行いによる。教化と修身の伝承が導く。
第卅三回 孝道
お金とは一時的に預かっているだけである。親に孝行し親に従い、自らの身をもって模範とすれば、子女もまた同じようにする。少しずつ返っていくのだから、後代の子孫に財産を残すより良くないか。「孝道」は人世間の道徳倫理の規範に欠けず、人類に対してもまた同様である。
第卅四回 廣結善緣
もし包容の心を持てば、必ず自ら心を開放することができ、各教派の間で争うことはなくなる。これこそ衆生の福分であり、まさに上天がお喜びになることである。宗教の一派において、もし信者を囲い込み高い垣根を築けば、必ず隙間や摩擦や衝突が生じ、長続きすれば多くの隔たりができ、弊害まで生むことになる。
第卅五回 福慧雙修
明心悟性の後、もし長久に初心を変えずに保てば、丹書の詔が下り、輪廻の束縛を離れて逍遥に無辺の境地に至る。このように衆生に手本を立てるには、まず衆生を導いて難関を突破させなければ成就はない。もし現世の福楽の享受だけに迷っていれば、智慧（般若）は現れにくく、心性を外に顕すことはできない。
第卅六回 圓滿
人世のあらゆることに円満が必要である。向上と超越は求められることに応ずべきである
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
南天直轄の道堂、桃園行善堂
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
一人が成就すれば、衆人もまた成就し、互いに手を携えて共に宗教の発展に努力する。現世の仏教・道教両教の修行者たちは、すでに徐々に藩屏を打ち破り他教を受け入れるようになった。これこそ宗教修行に必須の心の広さと胸襟である。五教の長所を融合して長いものを取り短いものを捨て、各宗派の包摂するところによって、蓮花仏国の世界を見ることができるのである。
推薦序
理心光明禅師、大道シリーズ第一冊の再版に際して記す。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
母は行善の神人が大道を共に体し、儒宗聖教を助け、天に代わって教化を広めるのを見る。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
地は引力によって万物を引き寄せ、天はそのご徳によって万物を頂いている。人は皆、地を踏んで生を受け、天を戴き地に立っている。天は災いを加えることもなく、福を与えることもない。それは人倫の道において自ら行い、自ら為すことによる違いなのだ。
第二回 大道與天德
福を享けていれば必ず禍がやってくる。禍がやってきたら必ず徳行によってそれを解消しなければならない。徳によって業を消し禍を遠ざければ、福報が必ずやってくる。この三つの関係が三角のように成り立っていて、業因も如此、福報も如此、徳業も如此、互いに密接に関係しているのである。
第三回 天道奧義
自然の法則とは、「徳」とは人の根本であって、すべての「縁」の母である。上古の諸天の仙聖仏は徳を修めて身を潤し、人々に修身養性を教え、「徳があれば火を操り、私心がなければ天に昇れる。道があっても徳がなければ魔となり、道があって徳があれば仏（聖神仙）になれる」と教えたのである。
第四回 心德
慈愛なるお母様にお目にかかることができる。衆生がこの心徳に従って、この人世間の根本を正しく立てる。心徳の真の霊明は、人が世に生まれて初めて足場を持つ根本である。そうでなければ来世もまた輪廻を繰り返し、いつ天に帰って超越できようか。心に懸念があって突破できないなら、しばらく静かに心を沈めてみなさい。
第五回 念正
徳は己の心によって陰徳を積む。良い念は悪の来るのを転換する。
第六回 修身
善く教化して衆生を導き、本来の霊性を啓発して正しい考えを持たせ、初めて修身を第一歩とする。修行する者がまだ気が短く慌てているなら、どうして修行を語ろうか。もしすべての欠点を捨て去らなければ、どうして修行の道がありえようか。
第七回 徹理
よく考えてみると、食物は口から入って喉を通り、食道を経て胃や腸に入り、自然に順を追って進んでいき、何の影響も受けない。新陳代謝を促し、これがまさに理の始まりである。また公正な至理として、理当然に迷える者を教えて悟らせ、認識を転じて智とし、己を高め、さらにこれを用いて衆生に利益を与え、大地がすべて理に従って成り立つのである。
第八回 修心
善悪を明らかにすれば悪業を作らない。常にこの生を守って禍が来ない。
第九回 大道心燈
大道の根基は有情の衆生。人間に入れば福徳の種となる。
第十回 以和為樂
人が世に処し事に当たるには和楽を要する。
第十一回 悟心
心が動き念が転ずるのは誰にでもあること、その始まりを知らずに業を造り求める。
第十二回 闡理
まず人倫を修めてから周囲に影響を与えれば、必ず潜移默化を達成し、正しく偏失のないものにできる。「教」を理においてこそ、従うべき基準ができる。その理は必ず現世の人倫に合って、初めて道を合せるように教えることができる。さらに進んで道を理に合わせ、人心に合わせれば、このような理を論ずるに初めて根基があり、偏ったり歪んだりすることはない。理とは、人倫において用いるもので、教化によって人生がどこから来たのかを悟り、なぜ生生不息であるのかを知り、必ず自然界の中で「理」を印证し、またどこへ帰るのかを知る。この「理」自体が人の心に深く根ざしてこそ、人々に信じ従うように教えることができる。このように阐述する「理」が、ようやく信仰の根本に合致する。
第十三回 境轉與轉境
もしその妙角を識ることができれば、それは決して普通の智慧の観るところではない。
第十四回 教化
有情はすべて恩恵を蒙り、創造し広めて道徳を迎えよう。
第十五回 三教合心
天時は緊急で、もう時間がない。衆生にどうして互いに標榜し、攻め合う時間があるだろうか。まことに仙仏をして無駄にどうしたものかと思わせるだけである。衆生の縁をもって成就をなすならば、誰の縁がどこにあろうと、その場所で修持をすればよい。また各人の縁に関わることでもあり、それぞれの選択を祝福し尊重すべきである。
第十六回 藩籬
いかん、困惑してみなを苦しめ、突破できず痛苦が来る。
第十七回 磨難
すべての問題の原因を。
第十八回 消業
消業を人類衆生が知りて、ようやく造福して慧智がある。
第十九回 普渡
四つを応用して大いに成し衆生を普渡して願いが真に叶う。
第二十回 收圓之條件
各人の角度と観点が異なれば多くの困惑を生じ本来の智慧を開くことができず自性を覆い隠す。自性が清明でなければ必ず個人の業因の纏わりと関係があり試練に遭って困惑から抜け出せず不信感が生まれ志を退いて誹謗を生む。
第廿一回 任務與修持
さらに言えば：夫として子供を育てれば妻子を世話する責任がある。妻として生まれれば夫を世話し舅姑に仕え子供を育てる義務がある。各人の任務は各人が尽くし各人の責任は各人が担う。誰も代わることはできず誰かが代わるとしても本人の意志が必要である。
第廿三回 念識
念識は四つの動作に区分される 起心動念が架構を成す
第廿四回 業因
未来に成就して教化を広める 上蒼が特別な証果を下賜する
第廿五回 善惡因緣
天下の蒼生を損なうことが悪の徴である。行う前にまず自分の心性の区別を定めよ。善悪はわずかに一枚の薄膜だけである。善をなすことができながらなさなければ必ず来世に不良の因を蒔く。悪をなす者が善に改めれば必ず来世に善の因を蒔く。両者の差は非常に大きく善悪対論の本来の意味もここにある。
第廿六回 懺悔
衆人の大きな力を集合し共に完了を助けて罪孽を清める
第廿七回 消災解厄
ではどうすれば予防しどうすれば消滅しどうすれば悪殃を造らずに済むかを知らない。必ず衆生に心を取り出して見せなければならない。結局自分の「紅心」は汚染されているかどうか。そうすれば厄解けは仙仏の教化を待つまでもなく自分で解決できる。だから言う「自分の難は自分で解き自分の厄は自分で消す」と。
第廿八回 行善錫福
心に念を起こすにあらかじめ求めるものがなければ、上天の恩賜として天の助けがやって来る。
第廿九回 化性
性体の仏性に徹底的に通じ、性の種を深く悟って智慧を得る。
第三十回 戒律
信仰や修行の環境には各宗派によって違いがあるが、成就できるかどうかは各宗教の宗派が定めた高低によるのであって、一概に論ずることは難しい。必ず各教・宗派の修行を基準としてこそ、戒律はその効果を発揮する。人類衆生が戒律を踏み越えなければ、善き利益がある。しっかりと努力しなさい。
第卅一回 求道
衆生の中でもし目や手や足が一つ余分にあれば、さらに不公平ではないか。怪人となって人々と違う存在になるのか。そんなものを望むか。仙仏も衆生と同じく霊躯を備えているだけで、仙仏だからといって衆生より目や手足が多いわけではない。上天は公平公正であることが分かる。
第卅二回 善德齊家
広く陰徳を積んで子孫を庇えば、福德によって後代が栄える。
第卅三回 孝道
孝道の中でまず自分自身から始め、さらに妻にも孝行をさせる。妻は夫を尊ぶ。孝を行えば必ず家が整う。妻に取り入って両親を顧みず、もし両親を顧みなければ、「因果循環の報い」とはいえ、すでに人道に欠ける。こうして人道に欠ければ、家は必ず整わず、後に不孝によって苦しみを受ける。そんなことで得をするだろうか。
第卅四回 廣結善緣
もし宗教において、すでに自我の「意識形態」が高ぶれば、和楽は難しくなる。自分の偏見や信者の数によって、香華が盛んであるか虚飾が華やかであるかで決めるようでは、もはや修持の正道から外れている。ただ信者を囲い込んで体裁を取り繕うばかりである。宗教の修持者には、必ず理をもって正道に導くことが必要である。
第卅五回 福慧雙修
心の燈は初め灯し難く、次第に明心の境地から離れていく。どうしたら了脱できようか。福分を求めた後さらに智慧を求め、智慧をもって福分を育て、また智慧をもって福分を増すことを修道の基準とすれば、今生に必ず成就がある。
第卅六回 圓滿
人としての成功は円満にすべきである。未来に大いなる善縁があるだろう
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
天運辛未年八月二十八日
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
理心光明禅師、大道心燈天書の再版に際して記す。
推薦序
丁酉年中元、二〇一七年八月。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
今すでに成就がある。よって旨を頒ち、特に行善の諸神人を激励し、聖命をさらに受けて全力を尽くし天命の聖務を完成させよ。書が完成した暁には、母は道果を授けて分憂辛労を報いるであろう。行善の諸神人よ、天命をさらに受けて道の旅を続けよ。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
また福も禍もそれぞれ人の行いに従ってやってくる。これらは皆、人が自ら招いたものであり、天や地が災いや福を与えているのではない。この道理を悟ることができれば、天地のご徳がよく分かる。世の人々は天地が公平であることを知らず、心を暗にして求めては、限りない業と罪を作り、もはや転換することが難しくなっているのだ。
第二回 大道與天德
大道が始まって宇宙が形成され、陰陽が分かれて、一つの理から二つの道となり、三才が鼎立し、四象に分かれ、五行が兆し、一つの理が万般の事物に散らばり、万般の事物が一つの理に帰る。それを畳めば微細になり、広げれば六合に満ちる。七情六慾を、必ず八徳——孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥によって克服しなければならない。
第三回 天道奧義
天道の中で徳を離れることはなく、両者は並行して矛盾しない。人生の無常を悟り、短い数十年のうちに、食うこと・眠ること・幼少期を除けば、本当に修心（修徳）に使える時間はすでに限られている。生ある時間を大切にすべきである。理を働かせて慧を明らかにすることこそ真機である。また人生の道を助けて、霊明の本来を有するところとなる。
第四回 心德
口に「天の慈愛なるお母様、私を導いてください」と三度唱え、（さらに氏名と生年月日・住んでいる場所・求めていることと直面している困難を詳しく述べる）心を込めて自問し、過去を振り返り未来を考えれば、すぐにお母様の霊とつながることができ、自然と道理を悟って、お母様と心が一つになるのである。
第五回 念正
心徳は億万の霊を成就させる。心が動く念の初めに知る。
第六回 修身
念が初めて生じた時、善悪を明らかにする。行いを正しくして徳を完成させる。
第七回 徹理
天地の大徳は、生ある霊と万物を育てるのに、すべて理が正しく偏らない。春夏秋冬に順序があるのは天地陰陽の大きな理である。道には必ず正しい導きの働きがある。そうでなければ四季が乱れ、人倫は必ずその災いを受ける。もし修行する者が理を明らかにして真理に背かなければ、天道はそもそも私心がなく、衆生の大いなる幸いとなり、宗教の大いなる幸いとなり、修行の大いなる幸いとなるであろう。
第八回 修心
心の源は身の器である。行為を導くのは体である。
第九回 大道心燈
万霊を広く伝えて高め、帰還し超越して円満に終わる。
第十回 以和為樂
情緒の影響があれば調和は難しい。
第十一回 悟心
通徹してその中の門窍を知り、信仰を改めて業障を休める。
第十三回 境轉與轉境
境を転ずるには必ず功夫を明らかにし、心を転ずることは違い、技術ではない。
第十四回 教化
一人ひとりが感恩の心をもって向き合えば、あなたが私に感謝し、私があなたに感謝する。そうしてみな互いに感謝し合う。社会は源々とした善気で満たされ、昔の聖境に回復できる。宗教の教化目的はすでに達した。衆生よ、どうして私心を捨てて公心を出し、己を顧みるとともに大衆をも顧みないのか。どうであろうか。
第十五回 三教合心
誰がどの宗教の宗脈に縁があるか。その者が上天の負う聖命を完成できる。そうすれば衆生が救われないことをどうして恐れようか。重ねて言う。天下の衆生がただあなたの一つの宗派にだけ帰り、他の宗派がすべて退出して、あなたの一つの教えだけになったら、衆生を完全に教化できるだろうか。そうすれば離脱現象が生まれる。
第十六回 藩籬
垣根を壊して分別をなくせど、すべて固化して妥協し難い。
第十七回 磨難
困難と厄運は常にあり、造化が人を弄ぶ、強めて求めず。
第十八回 消業
歓喜喜んで喜んで進んで行えば、福慧が加わり長く続く。
第十九回 普渡
己を成就させて衆生を度し向上し回帰して超越を証する。
第二十回 收圓之條件
しかしながらそれはまさに地獄の種を蒔くことであり仙仏が嘆くだけである。収円の第一過程では必ずまず心性を磨き清め本来の自性に帰る。自性が霊的に明るくなれば体悟があり常に「初心」を保てば神となり仏となり仙となり聖となることは十分可能である。
第廿一回 任務與修持
各人が負う任務を完了できなければ責任を果たさないことは失职である。来世にまた来て返済しなければならない。だから今世で喜んで完了すべきでどうして来世まで待つのか。それはまた時空が変わり人生はどうなるか。把握できるか完全に清算できるか分からないものである。
第廿三回 念識
意蔵識に入って区別する 人類の業因の結ぶ果
第廿四回 業因
修道子は皆常に我が身を省みて天地良心に恥ずかしくなく他人を損なわないことを前提とする。これが現代の修行者が備えるべきことであり教化の備えるべき態度である。そうでなければ自ら気づかず衆生を誤導すればその罪は逃れがたい。また善化では常に仙仏と交信し常に自ら反省すればこそ正確な観念を立て誤導がなくなる。
第廿五回 善惡因緣
このような心境の転換はまた別の時空であり完全に清償できるかはまた別の問題である。累世を経ていつになれば解脱できようか。ああ！人類衆生は本当に苦しい。苦しみによって仙仏も共に涙を流す。また現世の「善悪対論」は衆生が本来具えている仏（善）性にある。
第廿六回 懺悔
過去に作った諸々の悪業今懺悔して罪を消す
第廿七回 消災解厄
有情消災に努力する 業障の干渉はやむを得ない
第廿八回 行善錫福
善には善の報いがある、その過程をよく見なさい。真心を込めて行えば、真実を見失うことはない。
第廿九回 化性
性を化した人は明らかである。本性に留まって動くことがなければ、それは奇中の奇である。
第卅一回 求道
大道の初めは、すなわち人の源頭である。外に道を求めてはならない、内に道を求めてこそ得られる。もし外に求めて先天大道を得ても自分に道がなければ、自分が立たなければ、道はどこから生じようか。求道の過程では、まず自分自身の「起伏する心の中の平静」、「思考する心の中の降伏」を反省しなさい。
第卅二回 善德齊家
家を整えるには必ず修行が必要である。長く続く中で志を堅くする。
第卅三回 孝道
心を痛めて過去の過ちを改めなさい。孝行な子はあなたの行い次第である。
第卅四回 廣結善緣
理を拠りどころとして修めるにしても、各人の立場や角度が異なるために、多くの争いが生じる。必ず理をもって再び道に入らねばならない。道に合致する者には必ず真髄が見え、道理に適う者もまた思考と格物を深めねばならない。事の本源を見れば終わりまで見通せ、必ず見聞が広がり、問題に対して良き知恵をもって向き合うことができる。
第卅五回 福慧雙修
福報が具足するには積み重ねが必要であり、慧覚を得るには必ず努力しなければならない
第卅六回 圓滿
身を修め家を調えれば後世を庇い、必ず優れた賢い子孫が輩出する
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
丁酉年中元、二〇一七年八月。
推薦序
丁酉年中元、二〇一七年八月。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
母の意に背いてはならない。謹んでこれを仰せ、叩頭して恩に謝せ。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
もし共業がやって来れば、その時は苦しみ悩むが、後になればまるで眼前を過ぎる雲や煙のように、あっという間に消えて忘れてしまう。戒めとして目覚めよと言われても、自らを戒めることはなかなか難しく、ただ災いが再び自分に降りかかることはないと考えている。しかし共業がやって来た時、天が救えるか。神が救えるか。人が救えるか。いずれも難しい。各人の因縁は前世に定まっており、果報が今まさに臨んでいる時、仙仏といえどもどうすることもできないのである。
第二回 大道與天德
儒の四正と四非は、人が修正し手本とするための基準であって、一つを得て修めれば、残りの八徳もすべて備わる。古今の天徳はこの理から偏ることはない。天徳は人の体において自然に運行するものである。世人が五穀を食べて口に入れた後、自然に食道を通って胃に入り、小腸で吸収・消化されるのと同様である。
第三回 天道奧義
大道の運行は徳をもって人々を服させる。周の文王・武王が数百年の基盤を築くことができたのは、すべて徳を修めたからである。人生もまた同様で、どの家に徳があれば、その家に福分がある。福と徳は並行して、徳をもって天下の衆生に利益をもたらす。今の世界全体も同じことで、徳によって天下を得る。これが公理である。
第四回 心德
心は身のすべてを支配する。人間の福禍を推し進める。
第五回 念正
災いが降りかかっても、仙仏が見ておられればその禍を変えることができる。善気が体に充ちて仙仏が守ってくださるから、危険が平和に変わる。屡々見られることである。心念を端正にし善念を身に帯びれば、人々も喜び仙仏も喜ばれる。衆生に望む、これを人生の出発点として、今日から試してみれば必ず分かり、また実証できるであろう。
第六回 修身
良くない思いがやって来る。その場で遮断すれば福徳がある。
第八回 修心
念が動き意が生じて心に伝わる。福禍を作るのは本来の意である。
第九回 大道心燈
心燈が古の暗闇を照らし破る。仏性を顕わにし天徳を顕わにする。
第十回 以和為樂
未来に仇恨を残すだけだ。
第十一回 悟心
人心の中で常に自らを振り返り、自らの心に問いかければ、問えば問うほど真実になり、観れば観るほど明らかになって「心灯」が四方に光芒を放つ。心の中に本来を見ることができれば、必ず今生を徹悟できる。ただ、この心を何に用いるかによって、心灯の明るさは長く続かず、念頭がすでに転じてしまい、心に光がなくなったり、時に光明があり時に暗くなったりする。
第十三回 境轉與轉境
深くその中に入って初めて道を知る。
第十五回 三教合心
宗教は人に示す、歓喜心をもって賛嘆し、真誠心をもって鼓勵し普化する。衆生がもう一人使命を担う。赞叹せよ。そうやって積累していく。一人が悪を為すのを減らし、一人が善を為すのを増やせば、無形のうちに二人分の弘化が増える。これこそ上天の喜ばれるところ、三教の門の中で互いに攻め合い排斥し合ってはならない。
第十六回 藩籬
必ず観念を変えて転ぜよ。
第十七回 磨難
努力して難関を突き破り、向上して福徳の修を具足せよ。これに「智慧」を与えて今後の重責大任を承受する根拠とする。だから試練は衆生を脱胎換骨させ、大業を成就させる。もし試練に及第せず、磨も通過しなければ淘汰される。さもなくば次の試練で、時機を与えて時宜に適した教え導き、時機に応じて校正して、棟梁として器となり才となるようにする。ようやく上天の求める条件に合致し、試練を通過できる。衆生に願う、試練の過程を明らかにすることを。これは己にとってさらに高い向上超越の契機となり、未来の成長の根拠となる。だから人類衆生は、この成就の主要な縁を欠いている。どうしようか。
第十八回 消業
業障が来ても恐れるに足らず、最も恐れられるのは智慧の届かぬこと。
第十九回 普渡
衆生はまだ今生何のために来たのかを知らない。なぜ生きるのか何をすべきなのか。ただ生活に追われているだけではこの一生を解脱することは難しい。普渡から言えばこの生を明らかにせず衆生の罪苦は必ず行うべきことを悟りきらねばならない。
第二十回 收圓之條件
収円はその作用を明らかにし衆生を普く教化して努力を尽くす。
三、仮の体を借りて真を修めることによって本来に還る。
第廿三回 念識
識種が引動して心が起こる 動念を意識に入れて配置する
第廿五回 善惡因緣
この善性の中に時空環境の違いによって各人の観念もまた異なる。だから一つのことごとに賛否毀誉が半々である。ただ天地良心に恥ずかしくなければこそ安らかに生きられる。実はすべての事を最善を尽くせば様々な問題が現れず円満に達成できる。
第廿六回 懺悔
恩師にお願いして加被を賜り転じて前世の悪孽を
第廿七回 消災解厄
様々な方法をすべて試した それでもなお苦しい期間が続く
第廿八回 行善錫福
真心こそが天地の鉴を動かすのである。福と善と徳に満ちた者が、真に善き人なのである。
第廿九回 化性
どうして良い未来を創造するだろうか。体性を覚知して、道の土台に帰るべきである。
第卅一回 求道
求道の過程はまことに殊勝である。必ず知らなければならない、ただ個人の登りにあることを。
第卅二回 善德齊家
宗教信仰もまた擁護する。円満に和やかに幸福に馳せる。
第卅三回 孝道
あなたが十分尊敬すれば、子孫は皆帰ってくる。
第卅四回 廣結善緣
自らを導いて一片の祥和な心境（性）に入ることができれば、霊と体とを分け、自性を明らかにし、さらに衆生を教化することを求める。自性の発揚は、一つ一つの事柄において心を道に合わせ、理を争わず、理の中で「正と偏」を導くことで行き過ぎを防ぐ。道に合えば、自らの心の霊を発揚して顕著にすることができる。外に求めることなく。
第卅五回 福慧雙修
人世において福と慧の両方を持ち、衆生に施して利益を受けさせることができる
第卅六回 圓滿
ただ願う。衆生のいかなる事も円満であることを。満の中に和楽があり、円満の中に自性が見える。円満は修持者に不可欠の道程である。大道心燈は円満をもって終わる。衆生が未来において、すべての事が円満かつ満円であることを祈願する。家庭も幸いであり、修道も幸いである。だからこそ、しっかりと努力しなければならない。
◆ 前置・序 ◆
編輯誌
丁酉年中元、二〇一七年八月。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
無極皇母、懿旨を頒示す。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
天地の覆い養うご恩に感謝しよう。感情ある万物の衆生よ。
第二回 大道與天德
栄養分が全身を潤し、不要な廃物を体外に排出し、糞便として捨てる。このように自然に運行しているのである。もし少しでも乱れがあれば、人の体はその災いを受け、苦痛に悩まされ、健康な体を保つことが非常に難しくなる。
第三回 天道奧義
世の人々は最も「福徳正神」を好むだろうか。毎月初めと十六日に必ず「福徳正神」に祈って福徳を求める。もし自分自身に福徳があれば、自分の心で福徳を求めなくても、福徳が自然に守ってくれる。逆に、自分に福徳がなければ、「福徳正神」に祈ったところで守ってもらえるだろうか。いずれもできない。
第四回 心德
もし誤りを調整して修めることができれば、すべての因縁は自分で作ったものだ。
第六回 修身
正しい行いは根本で重要である。常に念の転換を受けて福禍が選ばれる。
第八回 修心
このような働きをすれば、衆生は修行に何の珍しいこともなく、ただこれだけだと思って、捨ててしまうだろう。このようなことでどうやって心を修めようか。進んで心燈を灯すには、衆生がどのように取捨選択するかにかかっている。
第九回 大道心燈
光明の传承が後代に興る。一生の幸福に限りがない。
第十回 以和為樂
なぜ苦しんで業を造り、争いを起こすのか。
第十一回 悟心
心の中には自ずから仏性の光輝がある。ただ心の中でどう用いるかだけである。心の為すところと用いるところを明らかにして、引きずられて今生を無駄にしてはならない。心よ心よ、その心を降伏させることができれば、必ず今生を成就して本来に帰ることができる。人類衆生がみな「自我の本心」を取り戻して、帰依し超越することを願う。
第十三回 境轉與轉境
もとはこのようではなかったのだと。人生において必ず自分の心性と行いの成長超越を高め、さらに衆生を利益して受益させることができる。己自身はすでに早くから受益しているのだ。そして累世の因縁果報に遭うこともなく、必ずこの身を修め、心に罣礙なく回返することができる。どうであろうか。はは。皆さんは必ず努力しなさい。
第十五回 三教合心
肝心なのは互いに連絡し、互いに尊重することである。そうして初めて上蒼に代わって多くの良才を渡化して帰らせることができる。理にかなってこの心态で、自分のために、上蒼のために憂いを分かち合う。上蒼のためと言っても、「天は語らず言わず」ゆえ、実は自分のために天堂に昇る条件を創造し、資糧のよりどころを作るだけなのである。
第十六回 藩籬
不良の業を造ることはない。もし明らかにすることができれば、上天が伝世して数千年の変遷を経て、今日に至りすでに万教斉発し、時・地・人の縁によって教化する。また縁のある場所でこそ修めるべきである。縁は上進と効勞心を成就する。どれを大きいとし、どれを先天とするに執着せず、これによって渡化すれば、効果は確立して間違いがない。
第十八回 消業
心を真誠に合わせて転じれば、仙仏が助けて消業は大きい。
一、累世の因果を償還する。
第二十回 收圓之條件
異なる体系を区別し向上して成就し大同を築く。
第廿一回 任務與修持
衆生は皆この身体が仮の器であることを知っている。仮の器とは言え今世においては紛れもなく実在する身体である。六識（眼・耳・鼻・舌・身・意）に左右され四大（地・水・火・風）によって成る身体は呼吸が止まれば生きることができない。まさに一息の間のことである。
第廿三回 念識
四つの動作は皆互いにつながる 各々関係があって分けられない
第廿五回 善惡因緣
善悪の因縁は前世に造り今生のまさに今すでに到来する
第廿六回 懺悔
だから灶君（司命）が世人に告げる懺悔すれば業が消える。懺悔は必ず真心を用い真心は天地を感動させる。このように悪業は必ず消える。天下の有情人類衆生に願う皆真心で懺悔して過去の因果業障を化解し清白な今生を成就して極楽に帰還せん。
第廿七回 消災解厄
厄解けに悪業を造らなければ災殃は降りてこない
第廿八回 行善錫福
さらに福徳をもって衆生に利益をもたらしなさい。衆生に利益を与えれば、それはすなわち自分自身に利益することである。時には過去の業因が試練をもたらし、業の借りがまだ消えず、福徳もまだ満ちていないために、なかなか満ち溢れることができない時がある。そのような時でも、気を落としたり志を退めてはならない。さらに努力を重ねれば、必ず福徳が満ち溢れるのである。
第廿九回 化性
有情の衆生よ、周囲を見れば、これが誤りでないことが分かるであろう。すべての事に「道」を尽くせば必ず「理」に合う。道と理は互いに補い合って化性が成就する。衆生が一方的に「理」の字の上で争ってはいけない。「理を争えば必ず憤死する」と。だから言うのだ。理とは「離」であり、道こそが正統であり、偏らず寄りかからぬこと、これを言うのである。
第卅一回 求道
記録は入学の名前に過ぎない。まだ多くの課題の成就が必要である。
第卅二回 善德齊家
もし物質的享受だけを知って善道を教えなければ、「お腹がいっぱいになれば淫らな欲望が起きる」というように、享楽に走りやすく心身を迷わせ、堕落の心を育て、どうしようもない子孫を作ることになる。家庭の生活の中で、子孫に善道を行わせ、善徳の子孫を生み、家を興して長く続けるべきである。一首の偈をもって衆生と共にはげみたい。
第卅三回 孝道
孝行な者は孝行な子を産み、不孝な者は不孝な子を産む。
第卅四回 廣結善緣
広く良き善因縁を結び、人に方便を与えて福田を蒔く
第卅五回 福慧雙修
双修を得られる時は注意すべきである。福が来すぎれば禍が寄りかかる
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
南天直轄の桃園行善堂。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
この空間の中で成長し、安らかな福運がもたらされる。
第二回 大道與天德
よく考えてみると、人の体は小さな周天のようであり、宇宙の天地は大きな周天である。運行の理は人の体の構造に合致している。世人がこの大道の運行を理解できれば、天徳が必ず備わる。これを人の体の修行に用いれば、栄養となる食物をすべて吸収し、自分に合わない廃物を体外に排出する。これが体の機能である。
第三回 天道奧義
人類はどこからこの世にやって来るのか。昔の教えを明確に知る者は極めて少ない。
第四回 心德
徳は自分から作り善を広める。良い念は悪の来るのを転換する。
第六回 修身
善悪が未来の果を分別する。受けて報いるのは自分で作ったもの。
第九回 大道心燈
「覚性を備え」、覚性によって外に向かって逆観し、さらに退転して識とし、さらに心に向かって号令を発し、さらに外に換える。眼・鼻・耳・舌・体を働かせれば、光明が顕現して、善性の純潔な環境がある。「覚」をもって「識」に換え、さらに外に向かって働かせれば、必ず悟って、心の中でさらにそれを求めることができる。
第十回 以和為樂
万事が圓滿であれば人々は称賛する。
第十五回 三教合心
三教が伝述して万霊を救い、教義は異なれど気象は新たである。
第十八回 消業
因縁際会はまさにこのようである。体会できるか。この心をもって行えば多くの紛争を減らせる。この世で受けるのは前世の行い。今世に消業できるならば歓喜の心态で承接完成すべきである。業果は快速に消失する。こうなれば衆生は感じる、心が平らかに、心が静かに、心态が平衡になる。
二、天から授けられた使命を完了する。
第二十回 收圓之條件
条件はそれぞれ異なり数種あり復古と普渡を五教が支える。
第廿一回 任務與修持
衆生は知らない人生はただ生活に追われるだけあってはならない。心を静めれば智慧が生まれ「一心不乱」には神妙な思考があり人生の究極と本源を悟ることができる。これを行ない継続して坚持下去すればやがて善気が全身に満ち光明吉祥の瑞相が現れる。
第廿三回 念識
もし善功果の修徳を加持できれば無上の道果を成就することができ非常に立派である。自分の行いに功徳があると執着すればそれは菩薩行のあるべき心構えではなくただ人世間での応用に過ぎない。
第廿五回 善惡因緣
報応の善悪は皆実のごとく悪禍は修め直して善報に変わる
第廿七回 消災解厄
もしすでに報いの取り立てがあれば懺悔廻向で悪因を改めよ
第廿八回 行善錫福
私たち南斗・北斗の星君は、皆様に一分の力をお貸しいたしましょう。善徳を行持する信心をお与えいたします。人類の衆生が皆福徳に満ち溢れ、さらに私心なく無為で求める心もなくあれば、真の福徳が備わるのです。あなた方はいかが思いますか？
第廿九回 化性
衆生が理解できるようになれば、すべての物事に対して、必ず「道の中に理を求め」さらに「理の中に道を求める」べきです。道を尽くして初めて道に合うのです。人道を尽くし、地道を返し、天道に帰れば、化性は容易になります。決して「理」の中で求めてはいけません。ただ「道」の中に取るべきなのです。そうすれば「化性」にすでに近いのです。
第卅一回 求道
自分が天下第一だと思っている者は、宗教の平等を失う。
第卅二回 善德齊家
殺すことを戒め、生あるものを放つことは、天地の命を好む徳を体せよ。
第卅三回 孝道
信じないなら軒先の水を見よ。少しずつ行き違いはない。
第卅四回 廣結善緣
互いに助け合い共に和楽に暮らせば、未来に必ず財と徳が加わることだろう
第卅五回 福慧雙修
智慧の増長は福よりも勝り、悪業を造らなければ天の徳にかなう
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
天運辛未年五月二十五日。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
人々に報いるならば大きな福恵があり、宇宙の星々が共に徳をもたらす。
第二回 大道與天德
それはまさに人の修行の過程のようだ。修行する者は自身の欠点や良くない習慣を取り除き（欠点と業障）、栄養分をすべて取り入れれば、必ず自分に利益がある。大道の運行もまた同様で、良くないものを外に捨て去り、さらに改造・変化させて、純粋で清らかな運行を取り戻すのである。
第三回 天道奧義
天地の大徳は生き物を慈しむこと。万物を育てることは容易なことではない。
第四回 心德
心徳は万物の霊性を成就させる。心が動き念が生じる初めに。
第六回 修身
衆生は皆仏性を持っている。仏性は衆生が必ず備えるべきものであり、外に求めることなく、仏性に入って「身において修め起こせば」必ず成就がある。清明な世はもう遠くない。衆仏子に望む、これをもって「悟性」の世界に入り、帰還すれば希望がある。
第九回 大道心燈
この生を渡脱して本来の位に戻ることができれば、まさに衆生を救済する最終目標であり、「三曹普渡」を最も重要な里程とする。「大道心燈」は「修心」をもって衆生に説法する。深く悟ってほしい。衆仙仏が皆喜んで助けてくださる。
第十回 以和為樂
広く善きを結んで良き縁とする。長く積み重ねて陰騭が豊かになれば、人に恥じない行いをすれば神仙となれる。身を置いて立場を替え、相手のために考えを巡らし、互いに立場を入れ替えて考えてみなさい。もし自分がこの状況と立場に立ったらどうだろうと。我が身を他人に比べてみれば、多くの争いや困惑を消し去ることができる。そうすれば修持の道において多くの障害を減らすことができ、団結して和やかに過ごすことができる。これこそ人生の大きな楽しみではないか。
第十五回 三教合心
それぞれ縁ある者を救い帰依させ、あらゆる信仰を歓迎する。
第十八回 消業
再び来世の悪因を造らない。一切の事端ももはや生じない。さらにこの世の道業を完成できる。冀望する「衆生がみな喜んで業障を消除せん」ことを。また要求する「歓喜喜んで業愆を完済せん」ことを。「修持の道が平坦であらん」ことを。
三、仮の体を借りて真を修め本来に還る。
第二十回 收圓之條件
なお多くの分別がありすべて収円の異なる働きである。
第廿一回 任務與修持
今生の任務はすべての人にあるそれぞれ異なる使命に就く。
第廿三回 念識
「意識」が受け取り「末那識」に分別し「阿頼耶識」に貯蔵し「菴摩羅識」を導いて真如を顕し仏性（自性）を明らかにすればこの生は必ず人生の輪廻を超脱し開悟の境地に達する。これを衆生と共に励もう。
第廿五回 善惡因緣
善報を悪果に変えてはならない人生一世で非常に難しい
第廿七回 消災解厄
現代の宗教は懺悔による業消しを提唱し良くない良心を取り出しきれいに洗い汚れた黒心を善徳の布施で洗い功徳の法水で洗う。真心で懺悔すれば災いが消え紅心に回復する。これで厄が解けさらに真心で果報の試練を引き受ければ災難苦しみは速やかに身を離れる。
第卅一回 求道
執着し固まれば変え難く、困惑の障りとなって向上し難い。
第卅二回 善德齊家
広く陰徳を積んで、代々の子孫がさらにこのようであることを願う。
第卅三回 孝道
人が孝を行えば、天はあなたを裏切らない。天はまた孝行な子孫に報いを加え、衣食に困らせない。しかし真心をもって孝行をすべきである。うわべだけの偽りや、いい加減な態度であってはならない。ただ表面的な飾りだけでなくてよい。真心誠意をもって、前の枝はどこから来たのかを思うべきである。今の葉はそのままにある。どうすべきか。必ず真心をもって親に身を尽くし、孝道に欠けずして、初めて孝順の子孫なのである。
第卅四回 廣結善緣
人道の世界も本来このようであり、善縁を積み重ねることもまた同様である
第卅五回 福慧雙修
祈願する。衆生にみな福分と智慧があり、福慧双修をすれば修持の道も平坦になる。さもなくば智慧だけを修め福分を修めなければ、人生は必ず業障に磨かれ、道のりは平坦でなく退転の心が生じる。衆生に願わくは、みな福慧双修をと。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
行善の主座、玄天上帝。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
遺伝子を改造して優れたものとし、万物の霊性を高めて仏性を完成させる。
第二回 大道與天德
大道は根本より衆生の霊なり。成就して超越すれば性は清浄なり。
第三回 天道奧義
天道の奥義は徳の根本。生き物を護り、人の本分として真理を明らかにすべき。
第四回 心德
これこそ衆仏（霊）子应有的本分と行い方である。万法は唯心から生じ、心が万法を生み、一つの正しさが万つの邪を破る。心の中でお母様を常に念じていれば、自然と多くの応験がある。衆仏（霊）子よ、深く悟ってほしい。一念が動けば三千大千世界に通じる。衆仏（霊）子よ、この道理を深く体得して今世を修行しなさい。
第十五回 三教合心
心を合わせて汝と我を分かつなかれ。
四、現代の科学技術を超える。
第二十回 收圓之條件
人世間は「自性・徳性」によって向上し功果によって確立され自らを高め超越して円満に帰還する。帰還はすでに遠くない。蓋棺論定の後無極に帰還し共に龍華盛会に参加する。その時弥勒はすでに賢者たちの帰還を待っている。
第廿一回 任務與修持
円満に完成させることが最も重要来世に因果を残さない。
第廿五回 善惡因緣
執着の心を打ち破って修めればすなわち変えて良い成就ができる
第廿七回 消災解厄
人類は仙仏に災厄の解消を祈り仙仏は人類の真心の懺悔を祈る。まず自ら災厄を解消しさらに仙仏の仲介調停によって必ず円満で和やかである。
第卅一回 求道
「性が明白であれば天は澄み、心が静かであれば地は安らかである」。こうして大道に合い、大道が生ずる。人人が格物して、道の真髄により、心を明らかにし性を化して真道が現れる。初めて真の体悟がある。「性体（霊体）と躯体」の区別された性は、すでに一般的な有情衆生ではなくなっている。
第卅二回 善德齊家
すべての家庭に善徳の子孫が末永く生まれることを祈願します。
第卅三回 孝道
古代の二十四孝が今日に伝承されている。世人はこれをさらに発揚すべきである。天の報いは多く逆境によってもたらされ、多くの不思議な現象と言うことができる。この霊異はまさに上天の顕現であり、衆生を目覚めさせるためである。天の霊異は時に科学の論理では理解し検証しがたい。真心誠意をもってすれば「金石も開く」と思うべきである。そうして得るのである。
第卅四回 廣結善緣
因縁果報において良善を結び、上天の良いお返しとして福報が授けられる
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
重ねて昊天の玉旨を拝受し、本堂の福神に命じて十里の外で御駕をお迎えさせ、重ねて本堂の城隍に命じて五里の外で御駕をお迎えさせる。その他の神人らは列を整えて御駕を待ち受けよ。失儀があってはならない。
◆ 本文 ◆
第一回 感恩與回饋
徳業と禍業は自分の行いによって生じる。善悪の因縁を感謝と報恩の心で天地のご大徳を感じることができれば、必ず今世で成就する。そうでなければ来世でどうして理解でき、どうして把握できようか。いずれもできない。だからこそ「感恩と回饋」によって天地の大徳を理解し、徳性を合わせて行いに活かし、禍殃の境地に陥らないようにすべきなのである。
第二回 大道與天德
もし障害を明らかにすることができれば、自然に成長して身体を守る。
第三回 天道奧義
道理と徳性を常に行えば、陰徳を積み福報が生じる。
第四回 心德
「霊山を巡礼すること」や「霊界と交信する修行」の渦に流されてはならない。未来に必ず転回の難しい苦境に入ることになる。これは厳しく戒めなければならない。真理によって自分を高められなければ、ただ輪廻の枠の中に閉じ込められるだけである。どう成長し超越すればよいか分からず、智慧という根本がないために突破できない。
第十五回 三教合心
互いに賛嘆してこのようになせ。
第十九回 普渡
これこそ人類衆生が今生で果たすべき四大任務である。衆生はこれから離れられない。これを実践し悟れば普渡の効果は深遠で妨げがない。この生で何をなしどのような徳を積みどのような功徳を修めどのような身を全うしどのような果を完了すべきかを理解してほしい。地獄が空になり地藏菩薩の大願が早く成就して共に極楽逍遥の聖境に帰還できることを願う。
第廿一回 任務與修持
修行し改造して向上する成就できなければ真を明らかにできない。
第廿五回 善惡因緣
それぞれの事柄について皆正理に従って行い善く動いて発揚する。公道は自ずから人心にある。効果は各人の観点の違いによって多くの答えを生む。賛否毀誉は各人の観点では決まらず天下に立てばこそ正綱となる。功果もまた上天によって分別され評価される。
第卅三回 孝道
孝行の道は人の根本。親子の伝承は人の根。
第卅四回 廣結善緣
敬業の中で考えることによって、一つ一つの事の奥深くにおいて必ず一反三することができる。前を観て後を思えば真実の姿が見え、心の仏性を引き出す。人間は皆、仙仏は求め難いと言うが、実は毎日一人の仙仏が自分につき添っていることに気づいているだろうか。もし気づいたなら、仙仏があなたを祝福するだろう。すでに「化性」の段階に入ったことを意味するのだから。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
昊天の欽差大臣、徐仙翁。
◆ 本文 ◆
第二回 大道與天德
天徳の慈悲なる御心が注がれる。有情の人類は悟るべきである。
第三回 天道奧義
必ず自分自身に福徳を備えなければならない。見てみなさい。自分自身の福徳の心性を引き出すことができるかどうか。そうすれば福徳が随い、徳業が至る。また人生に生まれれば、光明に満ちた前途がある。天道もそうであれば人道もそうである。天道の奥義とは、まさに自然な福徳と徳業の中に、行いと為すことがあるべき正確な道筋があるのである。
第十五回 三教合心
共に助け合って攻撃するなかれ。導き成長して天国に帰れ。必ずまず自分を救って次に他者を救う。己を立てて他を立てることを達成する。だから「本が立てば道が生じる」「己が達すれば人も達する」。どうして楽しまないか。来世の悪果を造ることもない。人類は向上し超越すべきである。帰依、超越、圓滿、乗越を実践する。これこそ正道である。
第廿一回 任務與修持
来世にまた一回りがあって嘆くべきことにまた苦しい世に入る。
第卅三回 孝道
綱常倫理は実行すべきである。代々の伝承は深く芳しく流れる。
第卅四回 廣結善緣
上天の要求を待つまでもなく、天機を悟って自らを向上させることができる。人類衆生がみな一日も早く「化性」し、自らを成就し、衆生を教化できることを祈願する。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
大道を聖堂に至らしめ、心燈の馨香は他とは異なる。
◆ 本文 ◆
第二回 大道與天德
なぜ人間に生まれたのか。それは誤りや欠点を改めるためである。
第廿一回 任務與修持
どうすればこの身体を最も有意義に活かせるか。仮の体を修行してこの生の帰還を完了しなければならない。今世において外の功徳を積み内の果を成し内も外も円満にして功徳が備われば帰還に希望がある。功徳をさらに積み善の光明エネルギーが自性を導いて行い先天の大道に回復し無極に帰還して本源を究める。
第卅三回 孝道
人類の道徳は倫理の常道を守る。孝行は孝行な子を産む。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
共に天徳を体して書を著し、玉詔を頒ちて栄光を得る。
◆ 本文 ◆
第二回 大道與天德
大道と天徳は、人自身が実践して初めて効果が現れる。そうでなければ天のご恩は善くない人には注がれず、天のご徳は善き心のない人は救いがたい。善悪はここから分かれる。人の心がこうであるから天の心もこうであり、人はまことに幸いである。天徳もまことに幸いである。
第卅三回 孝道
不孝は不孝な子を産む。軒先の水滴を少しずつ見よ。
◆ 懿旨と諸序 ◆
懿旨
謹んで昊天の玉詔を拝持し、降臨して開読する。神人ら、伏して拝聴せよ。
◆ 本文 ◆
第卅三回 孝道
これをもって子孫に孝行を教えれば、天は必ず報いをお加えになります。真心をもって行い、逝った後には孝道を尽くして天界に帰入します。どうぞ衆生が皆孝を行ない道を尽くし、親を顕し親を高め、親に誤りを犯さず親を辱めないことを願います。衆生が皆「親への孝行」を人生の根本としてくださいますように。私たちも衆生の孝行を助け、衆生の罪を赦し災いを消しましょう。
◆ 懿旨と諸序 ◆
玉詔を開読する。
謹んで奉ずる。
玉皇大天尊・玄靈高上帝の詔に曰く。
朕は九五の至尊にあって、儒・道・釈の三教の昇降権衡を統括する。南贍部洲の南天直轄聖堂、桃園行善堂を見れば、以来道務は弘く展開している。朕の心は喜びに満たされる。今、母娘より「大道心燈」天書一部を頒じ、衆生に広く教化する。特に重ねて一道の詔を下して確認し、弘揚に役立てる。
よく「大道の運行、心燈の闡明」を体得すれば、今世に迷い沈む衆生に清らかな心の光を与え、「性理修真」の契機を明らかにし、「霊性清明」の境地に達して、先天の赤子のごとき本性を回復し、共に理天の聖境に至り、無極虚空の天界に帰還する。
広く九二原霊を済度して帰還させることは、母娘の慈愛の御心であり、実際の効果を持つ。人類衆生の思想と観念の成長を向上させ、生存と信仰に「身・心・霊」の実質的な超越があり、堅固な基礎を確立すれば、真の利益があり、繰り返して沈沦することはないのである。
朕は龍心大いに悦ぶ。特に「南海古仏」に命じて主著の仙師とし、理筆の陳生を導いて理を説き教化し、世俗の頑迷な輩を覚醒させ、道門を開き、心を一つに力を合わせ、団結一致し、濁を激して清を揚げ、共に天命の真理伝述を担い、末法の世の清明を完成させよ。教化に携わる諸子は共に力を合わせ、再び迷いに沈んではならない。
朕の意に背いてはならない。謹んでこれを仰せ、叩頭して恩に謝せ。
昊天玉皇大天尊・玄靈高上帝、玉詔を降して
南天直轄の桃園行善堂。
天運辛未年五月二十五日。