大道シリーズ叢書 第24冊『大道眾生』
日本語版
◆ 前置・序 ◆
書名
2008年1月1日　丁亥年十一月廿三日（火）
虚空文澤　教化天尊
大道シリーズ叢書第二十四冊―大道衆生
矢のように勤め、矢のように勇み、怠ることなく、疎かにすることなく、職務を全うし、任務を完遂する。
◆ 本文 ◆
第二回　  障礙迷思
南無燃燈古仏
◆ 跋・讃賀 ◆
三清教主 元始天尊 降讃賀於
◆ 前置・序 ◆
書名
2008年1月4日　丁亥年十一月二十六日（金）
提灯を飾り彩りを添えて喜びに満ち　
太鼓や銅鑼の音が吉祥を告げる
崇心宗脈は御旨を迎え奉り　　大道系列は弘化を長くす
謹んで  無極の懿旨を奉じ  昊天の王詔を拝受す
諸神仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日はまた崇心宗脈にとって一大慶事の良き佳き日となりました。大道シリーズ第二十四冊のご聖旨を恭しくお迎えするに当たり、崇心のためこの上ない慶びと欣慰を覚えます。これは崇心宗脈十一年の歳月が積み重ねてきた成果であります。
また、全体が心を一つに集め、力を合わせて上蒼と多くの霊子たちの成長と向上を促す主要な縁起の根本となる。まず、無極懿旨を恭しくお迎えし、堂にて宣示を賜る。本宗脈の虚空鳳翔天尊、虚空御傳天尊、虚空銀筆大道天尊を命じて、三十里の外で恭しく無極懿旨をお迎えし、堂へと導く。
命じられて本宗脈の虚空彩霊仙姑、虚空彩鶴仙姑、虚空彩虹仙姑を、二十里の外にて無極懿旨を恭しくお迎えし堂に来らしめ、その他の神仏と学生及び無極大道院院修学士らは、列を整えてご到着をお待ち申し上げる。
無極の御前  麻仙姑
無極の懿旨は崇心に降り　　御前にて皇母に侍る情
麻姑の副座が帰来臨みて　　懿旨を頒け示すに徳意新たなり
謹んで無極の懿旨を奉じ、崇心宗脈に帰降し宣読する。崇心の努力と堅い志に対し、上蒼及び諸仙仏より肯定と賞賛を賜る。これは上下心を一つにし力を合わせて成し遂げたものであり、神人ともに伏して拝する。
懿　旨　を　開　き　讀　む
謹んで承る
無極皇母大天尊  懿旨に曰く
母は理天の聖境におられ、凡塵の衆生に対するすべての教化と教育には、心を尽くして導きを与えられ、さらに　上天の徳沢を以て、下界の人倫世界に降ろして向上を図っておられます。しかし、今この時に無極の仙郷に帰還できる者は、稀であり、さらに少ないのです。皆、このような殊勝な因縁に乗じて、超越の境地に回帰することは、誠に難しいことなのです。
母の心は度重なるご帰還のたびに、門によりかかり待ち望んでおられます。多くの霊児たちが無極の仙郷に帰り、共に母の御顔を拝することができますように。これはまさに凡塵にいる霊児たちの向上と超越に対して、大いなる期待と願いを寄せておられるのです。今、母の心は台湾・桃園の懿敕崇心堂に留まり、立堂後ただちに「大道系列天書」の著作を展開されております。
これまでに大道シリーズ第二十三冊『大道德澤』の完書を上奏いたしました。母なる心は、我が崇心宗脈が期ごとに著作を進め、いかなる時空をも遅延させないことに深く感じ入られておられます。母なる心は大いなる歓びをもって、大道シリーズ第二十四冊の継続著述をお命じになりました。その表題を『大道衆生』とされ、これはあらゆる教育と教化に対し、真の成長と超越を成し遂げるためのものであります。
命じられて、南海古仏と南屏道済古仏を主著仙仏とし、その他の三界の高真を陪著仙仏とする。詔が下った日より直ちに開著を開始し、一日も早く完成させ、凡塵の衆生を「大道自然弘化」へと導き、「衆生の心性を向上超越させる」ことを願う。これこそが母なる心の切なる望みである。
矢のように勤め、矢のように勇み、怠らず、疎かにせず、志を堅くして完成せよ
◆ 本文 ◆
第十八回　 德性眾生
南無燃燈古仏
◆ 跋・讃賀 ◆
大道シリーズ二十四冊　　衆生天書来序引
◆ 前置・序 ◆
書名
堅固なる志を以て完成し
衆生を引渡して
超越へと回帰せしむ
無極皇母は、懿旨を下賜され
儒教の聖なる教え
真の仏教の心髄
無極大道院
懿勅崇心堂
丁亥年葭（よしづき）月廿三日、戌の刻
恭賀申し上げます。崇心が再び無極皇母より直々に大道シリーズの天書著作を賜りましたことを、誠に崇心宗脈の無比の慶びと存じます。皆様と共に、天下第一の殊勝なる奇書の著作を完成させ、己を成就し、衆生を成就することが、大道の基本であります。皆様、ご苦労様でした。師は速やかに理天に戻り、ご旨を奉じます。では、またお会いしましょう。
恭しく天界へお送りいたします（九つの鐘と十八の太鼓を鳴らし、恭しく副主席・麻仙姑を理天へお送りいたします！ご使命を果たされ、天界へご帰還なさいました。祝砲を鳴らせ！）
虚空上人－南無虚空上徳人天古仏
崇心道場正主席　　虚空上人登台期
再び昊天より玉詔の旨を承る
大道の衆生に福気有り
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は、まず無極懿旨を恭しくお受けした後、引き続き昊天玉詔をお堂にお迎えいたしました。命脈本宗脈の無極二、三聖帝及び無極城隍帝君が二十里外より昊天玉詔を恭しくお受けし、お堂にお運びくださり、ご下示を賜りました。
命ずるに、本宗脈の無極中壇元帥、無極瑤池霊宝仙童、無極瑤池喜瓊仙女をして十里の外に至り、恭しく昊天玉詔を堂に迎え来たらしむ。その余の衆神仏と諸賢生及び無極大道院の院修学士らは、班を列ねて駕を候い、儀を失うことなきべし。
昊天欽差大臣 諸葛上相
昊天の使いが降りて来て　　諸葛上相は笑顔を開く
心を清めて迎えれば変化あり　　吉祥降臨は当然なり
欽みて昊天の玉詔を帯び、降りて懿勅を崇心堂に頒示す。神人、俯伏す。
玉　旨　開　読
謹んで奉る
昊天玉皇大天尊玄霊高上帝の玉旨に曰く
朕は九五の尊位にあり、南贍部洲のすべての宗教の平和と円満に対して、あらゆる宗教が平等に争いなく、さらには大いなる天地の中で互いに融和できるよう、心を尽くして努めてきた。言うまでもなく、すべての宗教に対して公正かつ平等であることは、「大いなる道徳の恵みと衆生の福祉」を高めることにつながるのである。
誠に心を砕き、苦労を重ねてまいりましたが、今に至ってようやく真の相互平等と公正さ、そして互いに融合し合う道筋が次第に基盤を築きつつあります。これはまさに三教同根、五教同源の理念に基づき、大宇宙の天地を通じて、あらゆる衆生の教育文化を高めるべく取り組んだ結果であり、現在ではわずかながらも確かな成果が現れ始めております。
今や！台湾桃園の懿敕崇心堂は立堂後、直ちに「大道シリーズ天書」の著作を展開し、今日までに合計二十三冊を完成させ、大道德澤完書を以て旨を奉じ終えたことは、誠に朕をして大いに欣快ならしめる！これは崇心宗脈の神仏と諸天の聖神仙仏が降臨して著作されたもので、極めて心を込めて教化に当たられたものである。
崇心宗脈の全ての学生、および有情衆生を向上超越させること、これは上蒼の徳沢を職責とし、また大いなる天地の衆生の福祉を依り所とするものであり、まことに朕に崇心宗脈を感じさせます。それは朕が頼りとし信頼する大道宗脈であり、まさに言えることは、相当に誠実で信頼に足るものであると。
理に応じて再び続編を著すべく、大道シリーズ第二十四冊を編纂し、その表題を「大道衆生」とすべきである。有情世界に対して福祉を成就し得るのみならず、衆生の向上と超越に対しても、成就し得るものである。命により、南海古佛と南屏道濟古佛を主著仙佛とし、その他の三界高真を陪著仙佛とする。
ご下命の日より、直ちに開示を開始し、一日も早く完成させて世に広め、人々の寿命を延ばすとともに、四億の原霊子の向上、および二百余万のハイテク人材の回帰を促し、大きな目標の成長と帰還を基盤として、研究発明と創造的進化を推し進め、情ある人類衆生のため、あらゆる良きものが増長し超越することを可能とせん。
◆ 跋・讃賀 ◆
通天教主　宝霊天尊　降序引於
頌    勉
2008年1月8日　丁亥年十二月一日（火）
虛空上人　降跋三於
南無燃燈古仏
◆ 旨 ◆
完書繳旨
矢のように勤め、矢のように勇み、志を堅くして完成を期す。上蒼の期待に応え、さらに励みを重ねる。
◆ 前置・序 ◆
書名
現代における天下第一の奇書、「大道シリーズ天書」は、広く教化を広め、成長を導き、有情衆生を超越へと回帰させるものである。これこそが朕が敬慕し、期待を寄せるものである。
昊天玉皇大天尊　玄霊高上帝　玉詔を頒示し給う
儒教の聖なる教え
真の仏教の心髄
無極大道院
懿勅崇心堂
丁亥年葭（よしづき）月廿三日、戌の刻
崇心宗脈の体系が、再び上蒼より「大道系列天書」の著作を奉戴できましたことを恭しくお慶び申し上げます。これはまさに天下の衆生のために、崇心の堅固な志と忍耐力を示すものであり、比類なき功績であり、教えを広める上で確かな成果を収めております。心よりお祝い申し上げます。おめでとうございます。
我らは速やかに天に戻り、昊天にご報告いたします。またの機会に崇心宗脈をお訪ねし、お世話になります。皆様、どうぞお健やかにお過ごしください。再会を祈ります！  
天にお帰りになることを恭しくお見送りし、礼砲を鳴らします。（九つの鐘と十八の太鼓を鳴らし、昊天の欽差大臣・諸葛上相の天へのお帰りを恭しくお見送りいたします！）
南天の主宰　文衡聖帝
佳き日を得ることは誠に吉祥なり　　崇心の道脈喜びに満ち溢れる
祝砲の響きは天辺まで届き、勅使の心は爽やかに楽しみに満ちている。
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院・院修学士の皆様、こんばんは。本日はまた崇心宗脈にとって大いなる喜びと吉祥に満ちた佳き日となりました。崇心のためにこれほどまでに喜び祝うことができることを、誠に慶賀に堪えません。本日、再び無極懿旨と昊天玉詔を受け継ぎ、天下第一の奇書を継承することができましたことは、誠に慶ばしい限りであります。
『大道シリーズ天書』第二十四冊―『大道衆生』著作において、諸賢生らが真心を込めて無極懿旨と昊天玉詔の受け取り方に対応し、既に真の変化が生じた。これは二人の欽差大臣を笑顔が止まらず、心から喜ばせる快事となり、無極と昊天へ復命するに至った。誠に崇心宗脈の一大変革である。
今年、上蒼の審査は例年と同様であり、本宗脈の衆仙仏も大いに心爽やかで喜ばしい。これは崇心宗脈が上下一心となり、共にこの成果を完璧に成し遂げたからである。すでに無極懿旨と昊天玉詔を恭しく受け、頒示を完了した。さらに「大道系列天書」の著作を成就させるべく取り組んでいる。
諸賢生よ、未来の道務体と経済体は、戊子年に十分な成長を遂げなければならない。汝らは心を込めて推広に努め、多くの仙仏の老師たちも互いに支え合い、さらに互いに弘揚を加えていく。これが戊子年の基本要務であり、すべての未来の衆生の福祉が、大きな方向性をもって導かれることとなる。
さらに、四億二百余万の有情衆原霊子および「借将」されたハイテク人材に対して、より確かな方向性を持って帰還できるよう、また「大道衆生」の著作に合わせて、毎月第二火曜日に天書著作を加え、毎月第四火曜日のみを仙仏聖諭とすることとする。
天書の毎年の提出時期に合わせて、二十八冊目に戻って調整します。この期間は合わせて二年間で、諸賢生が共に自らの智慧を増し、福運を加え、財利を添えることを願っております。さて、ご苦労様でした。皆様、またお会いしましょう！
2014年9月2日12時15分◎＃※　OK＃
三清の教主　元始天尊
◆ 本文 ◆
第一回　 眾生根源
2008年1月11日　丁亥十二月四日（金）
◆ 跋・讃賀 ◆
道徳天尊賀頌勉　　大道の衆生新しき運を迎う
◆ 旨 ◆
完書繳旨
矢のように勤め矢のように勇ましく、怠ることなく忽せにすることなかれ
◆ 前置・序 ◆
書名
三清教主の徳沢開く　　元始天尊降臨された
大道の衆生、賀言を賛し
崇心の大道を排し、恭賀す
讃賀
大道の徳沢
すなわち天地と衆生を依り所とし、大いなる宇宙のうち、地冥星に存在するすべての衆生に対して、主要な因縁の根本を高め、豊かな資糧の源を与えることである。現代の世代の有情なる原霊子たちを成就させるために、「霊性、自心、肉体」この三つを向上させていくのである。
それゆえに「大道が教化するところ」であり、「衆生が成長できる」という因縁条件は、これこそが上天の基本的な恩沢であり、真の施行機能と効果を有することができる。すなわち今！時空の因縁によって促され、台湾桃園の懿敕崇心堂宗脈に対して、このような天機の良縁が得られ、特に降臨して賛賀と祝福を賜ったのである。
衆生は必ず生存を要す
大いなる天地に生きる無数の衆生に対し、現代の世代が授かる教育文化を提供し、上天の徳沢が未来の衆生に及ぶようにする。真の修持の道がどこにあるかを悟らせ、教育と教化を通じて、現代に生きる有情の原霊子たちを真に利益し、二十一世紀において真実の超越を成し遂げるのである。
上蒼の徳沢が凡塵世界に加わり、すでに初步的な機能と効果が現れている。崇心体系が堅固な志を持って使命を全うし、上蒼の職志を弘め、衆生の心性を高めることを達成していることは喜ばしい。これはまた、世代を超えた天機の良縁が相互に成就し合うことでもあり、喜ぶべき、賀すべき、称賛すべき、励ますべきことである！賞賛と祝賀を捧げる！
◆ 本文 ◆
第二回　  障礙迷思
2008年1月15日　丁亥年十二月八日（火）
◆ 跋・讃賀 ◆
頌    勉
◆ 本文 ◆
大道衆生第一回　　衆生根源深く植えし導き
第三回　  迷思信仰
2008年1月18日　丁亥年十二月十一日（金曜日）
◆ 跋・讃賀 ◆
三清教主　元始天尊　降讚賀於
儒宗聖教の真仏心宗
無極大道院 懿敕崇心堂
丁亥年葭（よしづき）月二十六日、戌の刻
謹んでお祝い申し上げます！崇心宗脈の体系が、このような天機の良縁を得て、再び上蒼の殊勝なる使命を継ぎ、「大道系列第廿四冊－大道衆生」という天下第一の奇書を著作されました。心よりお慶び申し上げます！しばらく崇心宗脈にお邪魔し、今後の引渡しと成全に関する会議を共に協議させていただきます。皆様、ご苦労様でした。またお会いしましょう！
通天教主　霊宝天尊
通天教主の徳は情けあり　　霊宝天尊が降りて台を迎う
◆ 本文 ◆
第一回　衆生根源
第四回　  宗教迷思
2008年1月25日　丁亥年十二月十八日（金曜日）
◆ 跋・讃賀 ◆
大道系列廿四冊　　眾生天書來序引
序   引（じょ   いん）
衆生の大道とは
上蒼の職志を依り所とし、今こそ世の中を見渡せば、豊かな資糧の源があり、また上蒼が世の中を教育し教化する真の殊勝なる超越があり、広く現代の有情なる衆霊子を救い渡し、このような殊勝なる天機を凡塵世界に伝えることができるのである。
さらに南贍部洲を以て完成を助け、台湾桃園の懿敕崇心堂に対して、このような天機の良縁が上蒼天下第一の奇書、すなわち今！すでに合計二十三冊を完成させました。さらに第二十四冊－「大道衆生」の天書の著作を続け、言うことができる：人道世界に対して真の宗教修持の根本を、一つの反復的な向上と超越として行うことは、まさに正道である。
大道はすべての弘化と徳沢を有す
この時代に生きる多くの衆生に対して、宗教修行における迷いや障壁を解消し、変革をもたらすことです。過去には克服できなかった障害を、現代の科学技術文明の手法を用いて、宗教修行者が自らの障壁を整え、成長を遂げる方法を見出し、情愛に生きる人類衆生が向上し、超越することを可能にします。
また、未来に凡俗に降りる二百余万のハイテク人材の向上作用に対して、そして四億の原霊仏子たちが、この天機の「大道衆生」として回帰と超越を果たし、さらに「自心、霊性、躯体」の三者に対して真の成長を遂げ、帰還することができるようになる。
◆ 本文 ◆
第二回　障害の迷妄
第五回　 信仰障礙
2008年1月29日　丁亥年十二月廿二日（火）
◆ 跋・讃賀 ◆
通天教主　寶靈天尊　降序引於
儒教の聖なる教え
真の仏心の宗旨
無極大道院
懿勅崇心堂
天運丁亥年葭月二十六日戌の刻
ああ！また崇心体系にお祝いを申し上げる機会を得ました。大道シリーズ天書第二十四冊『大道衆生』の著作が続いて完成し、誠に崇心のために慶賀と賛嘆、そして序文を捧げます。しばらく崇心宗脈にお邪魔し、未来の衆生引渡しと回帰について共に議論し、結集と弘化に努めました。ご苦労さまでした。すべて吉祥であります。またお会いしましょう！
道教の教主　太上道祖  道徳天尊
道教教主再び臨まんとす　　太上道祖の気象新たなり
◆ 本文 ◆
古仏降著第三回　　迷思信仰は不應該
第六回　 宗教障礙
2008年2月1日 丁亥年十二月二十五日（金）
◆ 跋・讃賀 ◆
頌    勉
大道は有情の衆生を利益するものである
すなわち、数多の原霊子を依り所として、向上と超越を目指すのである。現代の世で言う五教の教義の中で、真に有情の衆霊子に対して、回帰上昇・超越を可能とするものは、稀である！少ない！さらに稀少である！これは昔の五教の基本教義が誤っていたのではない。
しかし、度重なる修正を経て、人間世界の修行方法はもはや昔の五教聖人の修行方法に従って向上させることはできず、現代の多くの原霊子たちが真に回帰し、超越する基本的な効果を得ることができない状況となっている。そこで今、上蒼はこのことを見て、改めて整え直されることとなった。
有情なる衆生は大道を成就する
降りて来て、天下第一の奇書「大道シリーズ天書」の著作により、衆生の習気を改めようとされる。これは上蒼の深いご配慮であり、大道が衆生に弘まり、真に回帰する天の梯子となることを願っておられる。衆生とは、下生した後、すぐに五濁悪世に染まってしまった者たちである。
また、真に向上を遂げる方法もなく、今や二十一世紀に至って言えることは、このような宗教的修行の方法では、根本的に上天に戻ることができず、どうして宗教が教える文化に対して、より優れた超越を期待できようか。これは、上天が最も憂慮している事柄であり、それゆえに上天は第一の奇書を下して教化されるのである。
「大道系列」は有情衆生に対し、修持の不足と欠如を修復し変革することを可能にし、すなわち汝らの第八意識を、霊性の本質を浄化する基盤として整えることができる。これもまた紛れもない真実であり、有情衆生の原霊子がこの天機に乗じて天界へと回帰することを可能にする。これこそが最も重要な因縁の根本である。
道教の教主　太上道祖  道徳天尊　降臨し頌を賜い励まし給う
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
丁亥年葭（よしづき）月二十六日、戌の刻
ああ、崇心宗脈に対し、この上ない祝賀の意を表します！このような天機の良縁は、過去にも現在にも絶対に存在しなかったと言えるでしょう。懿敕崇心堂が存在することで、未来の衆生は真に向上し超越し、円満に回帰することができます。まことに衆生のために慶賀と祝賀の念に堪えません！しばらく崇心宗脈にお邪魔し、未来の一切の引渡と成全について共に議しました。皆様のご相伴とご協力に感謝いたします。ありがとうございました！ではまた！
済公活仏
世を救い人を利するは心を尊ぶに貫き
公道私無く衆生を引く
活発な世の景色を高めねばならぬ　　仏の説く大道の天書は新たなり
諸聖仏及び諸賢生、並びに無極大道院院修学士の皆様、こんばんは。本日は、道教三清教主元始天尊、通天教主宝霊天尊、道教教主太上道祖道徳天尊の三聖尊が、共に崇心に降臨され、「大道衆生」のために讃賀、序引、頌勉のご教示を賜りました。
感謝いたします。三聖尊のすべてのご苦労に対し、有情の衆生に対して言えることは、まさにすべての衆生に徳を施し、このような天機の良縁を成就させてくださったこと、そしてそれに感謝することです。また、道教の三聖尊が常に崇心宗脈を助け、すべての良き因縁と条件を増やし、向上させ、超越させてくださったことに感謝いたします。
明日もまた土曜日で、すべての引渡しは通常通りです。どのように進めるべきでしょうか？あなた方の努力を見守っています、これはもう長い間のことです！どのように学び成長するか。それはあなた方が払った努力であり、一歩一歩、一足跡ずつ、一つひとつの印を刻みながら、成果と収穫を得ることになるでしょう。皆さんお疲れ様でした、すべてが吉祥であります。さようなら！
2014年、9月2日、13時05分◎＃※   了解＃
南海古仏
◆ 本文 ◆
第三回　迷思信仰
第七回　 教義障礙
2008年2月15日　戊子年一月九日（金）
◆ 跋・讃賀 ◆
頌    勉
南海の屏障 生霊を護り
古仏降り来たりて 心行を崇む
◆ 本文 ◆
第一回　 眾生根源
有情世界の全体的な過程
すなわち、人倫の世界は、万物の霊長たる蒼生に対し、快適で安寧な生活空間を提供するものであり、その中には多くの天の大いなる恩恵が大宇宙の世界に加えられ、また有情衆生の生活を依りどころとしている。人倫の世界は、どうしてこのような天与の良縁を持つことができるのであろうか。
人道世界においては、上昇と超越、そして下降と輪廻が互いに循環していることを理解する必要があります。また、人間の要因によって生存の方向性が決められ、それによって快適さ、利便性、普遍性がもたらされます。これは人道世界において、有情衆生が真に向上し、沈淪しないようにするためのものです。
また、このような因縁の条件によって、人間界におけるすべての生活のよりどころを成長させる区別がなされ、また人類衆生の根源は、宇宙天界の異なる星系の中から来ているのである。この中には、多くの人類衆生が理解できないことがあるが、人間界はまさに宇宙天界の遺伝子から来ているのである。
それでは、なぜ人類の衆生を原始の根拠地へと回帰させないのか？なぜ人道世界に降りて苦難を受けなければならないのか？向上して超越することが難しく、常に下方へと輪廻し沈淪していく。この状況を人道世界から見れば、すべての生存の依り所となる根本とはいったい何なのだろうか！
人類の生存は飽食を基準とする
また、食、衣、住、行、育、楽は、人類衆生のすべての生活を目的としており、人道の生存志向に組み込まれている。これは人間的要因に対するものであり、自らが生活し、他人の影響を受けずに生きることが正しいのである。そもそも、人類衆生は宇宙天界の遺伝子に由来しているのだから。
これについて、なぜ人間世界はまた地冥星に降りて潤いを得る必要があるのか？さらに、なぜ原始星系に戻ることができないのか？これも千古以来、人道世界が理解できないことである。なぜこのようにいわゆる人間の行為に依存し、生存の方向性を持つ行動をとり、また自分自身が人道生存という関門に入るのか。
真に施行の効果を挙げられるかどうかは、人間の要素によって区別され、自ら向上するか堕落するか、この二者を分かつのは人間の要素によるものである。では、なぜすべての根源の因は宇宙の星系から来るのか？このようなあまりにも遠い宇宙の星系は、まったく感情などないのではないか、果たしてそうなのか！
ましてや、宇宙の星系へと戻ろうとするのは、ほとんど不可能なことである。まさに昊天星系が提供するものこそが：創造、研究、発明であり、それによって地冥星がより科学技術に優れた文明へと進化するのである。これはまさに現在の20世紀において、上蒼のすべての合議によって成し遂げられ、人類衆生の向上を目指すものなのである。
衆生の根源が生じる始まり
しかしながら、21世紀に入ってからも、この共通の議題が成し遂げたものを引き継ぎ、またこの共通の議題ゆえに、人道世界の未来の科学技術文明を高め、人類の衆生が原始の宇宙星系へと進化して回帰できるようにするためには、この種の根源について、自らの本霊がどこから来たのかを明らかにしなければならないのである。
また、なぜ人間界に降りてくるのか？何をしようとするのか？これらすべての問題と原因はどうなっているのか？真に向上して回帰する契機を掴むことが必要であり、そうしてこそ自らを向上させて超越することができる。永遠に地冥星に留まって潤いを与えるだけでは、回帰して超越することはできないのである。
もしこのまま続くならば、おそらく自分自身の未来の来世において、向上して超越することが難しくなるだけでなく、有情の衆生にとって成長のよりどころとなることもできません。また、大いなる天地に生きる無数の衆生を主なよりどころとすることこそが、このような因縁をありのままに、すべての有情衆生を原始の根拠地へと帰還させることになるのです。
これは古来より、人道世界の宗教において真に理解することができなかった根本的な因縁である。必ずや自らの生活に依拠し、生活の方向性の中で宗教に入った後、必然的に学びと成長の契機が訪れる。人類衆生のすべての良きものの増長と向上を目指すものである。
衆生の根源はどのように始めるべきか
さらに宗教学習の過程に加わることで、現代のあらゆる宗教の不足と欠如を知り、より大きな思惟体系を持つべきであることが分かります。宗教の優れた点を成長させながら、自らが向上し超越する根源と基礎を提供し、このように人道世界のあらゆる信仰の帰依は、まさに自らが選択したものであるべきです。
異なる宗教の鍛錬と修持の洗礼から来るものは、信仰への帰依を与え、真に信仰に寄り添うことができた後、自らを完成させなければならない。宗教に入るとはどうあるべきか？自らが信仰の真髄に到達し、宗教の文字の障壁や宗教の教義の障壁に制限されないようにすることを与える。
さらに、一般の世俗で言われるところの「所知障」、その中でも特に「文字障」「理障」「惑障」「宗教障」「教義障」が最大の障害点となります。いかにして自らが宗教に入った後、より広大な空間を持つことができるか。自らの信仰に全身全霊で打ち込むと同時に、他の宗教の教義をも理解できるようになるにはどうすればよいか。
全体的な理解と明晰さが得られます。さもなければ、宗教に入った後、「宗教の障壁」「教義の障壁」に縛られてしまった場合、それはおそらく人類の衆生が突破できる最大の障害ではないでしょう。なぜ宗教に入ると、向上を妨げる障害点に遭遇するのか、このことを理解する必要があります。
衆生の根源はどのように成長すべきか
さらに、知るべき障り、理の障り、文字の障り、惑いの障りによって束縛され、最も厳しい「宗教の障り、教義の障り」によって制限される。これが一般的な宗派の信仰者が絶対に突破できない障害であり、人間としての生存と信仰において、根本的に向上することはできず、むしろ沈んでいくのである。
次なる世にまた巡り巡って、一度また一度と、あなた方はこれをどう思いますか？必ずや自分自身の根源がどのようなものであるかを明らかにしなければなりません。もし自分自身の根源を明らかにすることができず、どうすれば突破できるかと望むならば、それはただ一つの努力の方向に過ぎず、自分自身と衆生の根源をありのままに理解することは、非常に困難なことなのです。
また、有情衆生が人道世界に入った後は、人道における生存の方向性に常に迷い続けており、たとえ宗教が自らの根源への方向性を示すことができたとしても、衣・食・住・行・育・楽という生存過程における自己の制約によって、真に自らを向上させることはできません。
反って！宗教に入った後は、功績がなくとも苦労はあったと思い込んでしまうが、もしそうであれば、向上して高みに至ることは難しいに違いない！また、有情衆生は宇宙の星系「天明星」から来ているため、この銀河星系において天明星の光が輝き、二十六の星系すべてのあらゆる衆生を照らしているのである。
天明星系のすべての作用
これもまた、上昇と下降を繰り返す、どうしようもない状況なのです！なぜこのようになるのでしょうか？また、天明星は宇宙星系の原霊子に対して、生存の方向性を浄化する作用をもたらし、未来にどの星系に生まれ変わっても、自らの生存の在り方を理解できるようにするためなのです。
これは宇宙の「天明星」が作用し、あらゆる衆生に対して多くの資糧源を与え、地冥星や他の二十六星系における生存過程において、有情衆生が原始星系へ回帰し向上するか、あるいは沈淪するかのいずれにおいても、豊かな資糧を提供し、自らの学びと成長の基礎を築くに至るものである。
また、原始の根源は同じであるが、なぜ自分が地冥星に入った後、このいわゆる上昇できない障害が形成されるのかを区別する必要がある。地冥星に入ることは、まさに日月や星辰に制限され、さらに人道世界との相互関係によって制約されていることを理解しなければならない。
それゆえに、さまざまな障礙が積み重なり、すべての衆生が向上して昇華することができなくなっています。したがって、ただただこの地冥星の中に永遠に留まるほかありません。もし自らの「清浄と汚れ」がどのようなものかを悟ることができれば、すなわち自らの不足と欠点を知ることができ、それによってこれらの障礙をどのように取り除くべきかを理解できるのです。
衆生の根源は清浄にして垢あり
有情世界の衆生は、なぜ真に向上し高まる境地に達することができないのか。それは宗教に入った後、根本的に自己の根源を知らないからである。では、どのようにして自己の根性を浄化すべきか。そして、ずっと汚染されてきた自己を、このような言葉で言うことができる。一般的な有情の人類衆生は、大部分がただ生存のためだけに生きているのである。
そもそも真に自らを浄化し、心を静めて自らの「浄・垢」を識別し、いかに向上を達成すべきか区別することができない。これこそが有情衆生が最も達成困難とする向上超越であり、仙仏や上蒼が慈悲深くないわけでもない。必ず理解すべきは、有情衆生の根源はすべて同じであるということを。
しかし、成就の度合いは同じではありません。あなた方はどう思われますか？これこそが、古来よりすべての宗教経典が最も突破し難い障壁であり、しばしば「宗教の障壁、教義の障壁」は根本的に完全に突破することができず、さらに有情世界のすべての障壁に対しては、なおさら突破することが難しいのです。
このような考え方を持って、未来に原始の根拠地に戻ることができると思うなら、皆さんはそれが可能だと思いますか？それはあまりにも遠すぎます！もしこのような考えすら持っていないなら、どうして良き縁を得て、上昇し向上し超越することができるでしょうか。そもそも可能な境地に到達することさえできないのです。
虚空無極より原霊降り　　昊天星系に身形を造る
天明星が昇る中で旅立ち　　一切衆生の根性
千古より破り難き　　宗教迷思は架構と成る
所知障の中にまた迷いあり
理障惑障一様に作す
この偈を！有情なる衆霊子らと共に励まし合いましょう！千古より続く迷いの障りを一つ、解き明かそう。何故、有情衆生の旅立ちはどのようにして知り得るのか？虚空、無極、昊天を経て天明星に降り、さらに地冥星や他の星系へと降りる過程を解き明かすことで、汝ら未来のさらなる益とならんことを願う。
虚空彩花仙姑
虚空の因縁根本より　　彩花降りて凡世の由
仙姑は今日当番に参上し
大道の衆生は天書を修める
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の院修士の皆様、こんばんは。本日は「大道衆生」を主著とする仙仏、南海古仏がご降臨され、千古より続く因縁の迷障を開示するご著作を賜りました。これは人道世界に対する働きかけであり、この銀河星系及び他の星系においても、同じ因縁、同じ種子の因が存在するのであります。
ただ五行の人種と物種の違いによって、すべての世の中と人間を区別するのみ。より新たな思惟体系に入ることができ、皆が自らの根源がどこから来たのかを理解できるようになる。また、なぜそれほど多くの体系に分かれているのか？一度ならず、幾度となく著作を重ねることで、汝らの知識と智慧を高める扉が開かれる。皆様、ご苦労さまでした。ありがとう！さようなら！
2014年9月2日 17時40分 ◎＃※   ０Ｋ＃
南屏道済古仏
上人降著第四回　　人言宗教迷思究
第八回　 經典教義
2008年2月19日　戊子年一月十三日（火）
第一回　 眾生根源
南屏の有情なる衆生よ
道済が大道の新しきを降ろす
古仏は諸有情と共に会す　　障礙迷思の根源を引く
第四回　　宗教の迷妄
第九回　  宗教經典
2008年2月22日　戊子年一月十六日（金）
第二回　  障礙迷思
人類の衆生が抱える全ての迷いと障り
有情なる衆生が凡塵世界に入ると、自らの生存の方向性に対して、大きな指針としての役割を果たすことになります。なぜこのような機能が存在するのでしょうか。また、どのような因縁によって、人間世界における自らの在り方や、宗教に入って修行を深め向上させることにおいて、より優れた超越を望み、あらゆる良き成長を遂げようとするのでしょうか。
かくして、宗教に入る本来の願いは、生死の欲求を断ち切り、未来の生死という大事に対して、真に輪廻の繰り返しから解脱できることを望んでいた。しかし、宗教に入った後、かえって宗教信仰に束縛されてしまい、また宗教への妄信という障害を打ち破ることができないのである。
宗教に入った後、自らをさらに向上させ超越することが難しくなる、このような限界と障害、そして誤った考えこそが、すべての有情の宗教における最大の障害であり破壊点であることを知らなければならない。宗教信仰と日常生活は、人道世界を向上させ超越するためのものであって、限界や障害となるものではないのである。
お尋ねしますが、有情の衆生よ、あなたがたは宗教に入った後、皆自分が信仰する宗教を「最大、最高、最優、最殊勝」とし、自分は天下無双であり、またどの宗教も私の信仰を超えることはできない、さもなければ彼らは帰依できない、という考えを持つようになったのではないでしょうか。このような考え方は至る所にあります！
障礙を化除する必要性
さらに、彼らはすべて低次元の信仰だと言い、そのような作用によってあなた方に誤った観念や思想を強引に押し付けている。しかし、今日では世界中で無数の宗教が同時に発展しており、それぞれの宗教には異なる優れた点があり、すべての宗教の信仰者に対して異なる形で完全なものをもたらしていることを知らないのである。
また、宗教に入った後は本来「天地の演繹」によって正しい観念を高めるべきですが、信仰に入った後の進学者に対しては、唯我独尊の思想観念を植え付けています。これは現在の宗教指導者の視点から見れば正しく、当然のことです。後進の学生と弟子に対しては、このようにする必要があります。
しかしながら、もし別の角度から見るならば、あなた方がどの宗教に入ろうとも、結局は自らの思想観念と信仰を高めることに過ぎません。これはどれが最も大きく、最も優れ、最も高く、最も勝れているかという問題ではありません。もしそうだとしたら、問いたいのですが、それは単に宗教の旗印を掲げる信仰者に過ぎないのではないでしょうか。
また、ある者は言う、自分が信仰する宗教こそが天下第一であり、自分が信仰する宗教だけが真に輪廻を超越して向上できるのであって、それ以外のものはすべて輪廻に留まるだけだと。これは現代の宗教における最大の障害であり、今日の信仰者と学生たちも皆同じように考えている。
多くの人は宗教的な誤解を持っています
もしもより広い視点を持って、このような誤った思想や観念を改めて打破することができなければ、どうして未来のすべての宗教が互いに融合する日が来るだろうか？ 否である！ これこそが、上天が今この時空の因縁の中で、なぜこのような機能と役割を持たせたのかということではないか。
加えて、このような宗教的障礙と迷妄を打破することは、有情衆生が宗教に入った後、なぜ僅か数名のみが上昇・超越できるのか、その他は一概に上昇・超越を達成することが難しいのかを理解する必要がある。宗教自体が持つすべての教育と教化、つまり上天の職責・使命・任務を通じて御意を承ける根拠を、必ず明らかにしなければならない。
そして、凡俗の世間に下り、あらゆる宗教の宗派内において、さらに現代の信仰者に対して、宗教に入った後に、このような天下唯我独尊の誤った思想を吹き込むこと、このような行為は必ず打破されなければならず、そうして初めて有情衆生に真の大道への回帰の天梯を与えることができるのである。
もし自分だけが最も高く、最も大きく、最も勝れていると固執し、現代の宗教にはそれぞれ異なる優れた点があることを理解できないならば、天の視点から見れば、すべての最高の任務と使命をただ一つの宗教にだけ下すことは決してあり得ません！多くの場所で、共通して信仰の大方向に向かって集結することになるでしょう。
障礙と迷いの思考を解消し除去する
しかしながら、宗教的信仰の本質は、様々な異なる因縁と信仰が加わり、互いに共存し得るものです。それどころか、上蒼の豊かな資糧の源は、ただ一つの宗教の流れにだけ下されるものではありません！もしこの宗教が達成できず、上蒼の職責の委託を果たせない時、このような時空の因縁はどうすることもできないのです。
多くの時間の遅延と停滞を経なければならず、これは上蒼が既定の政策に従ってこの聖なる任務と使命を完成することができないことになります。このように上蒼にとっては、これは良い方法ではありません。上蒼がなぜ宗教の主事者に対して、すなわち様々な職責と使命を担う者に対して、このようなことをするのかを理解する必要があります。
必ずや、これらを何度も観察し、監督し、検査し、評価することで、その度重なる成果を見極め、このいわゆる「唯我独尊」の宗教的流派に対し、真に上下が心を一つにできるかどうかという試練を与え、上天の基本的な条件と行動がどのようなものであるかを理解させねばならない。なぜ上天がこのようなことを行うのか、その理由を必ず知らなければならない。
さらに、現代の世界におけるあらゆる宗教を詳細に検討するならば、天に対する職責と使命をどのように果たし、下界に伝えるべきか？必然的に、信仰の門に入った信徒や学生たちに相互検証を求め、一つの問題点を提示して皆に回答を求めれば、この問題にどう答えるべきだろうか？
迷いを妨げるすべての問題
自らを観察してみよ！真の信仰と依り所、超越へと入ることができるのか、それとも単に名ばかりで、私は修行している、私は宗教信仰を持っている、私は犠牲を払い無為に奉仕していると言っているだけなのか。もしそうであれば、こう言えるだろう：このようないわゆる宗教信仰者は、一般的には単なる門徒や学生に過ぎないと。
ただ名ばかりを掲げて、それを宗教信仰者、あるいは門徒や学生と呼び、さらに未来において超越や回帰を望むというのでは、あなた方はどうお考えですか？少し考えてみればすべてがお分かりいただけます。また、すべての問題点はどこにあるのでしょうか？お尋ねしますが、このような宗教信仰者の門徒や学生は果たしているのでしょうか？
あまりにも多い：この種のいわゆる信仰者の弟子や学生たちよ、あなた方は彼らが宗教に入った後、どうなるかを見ることができる。一目瞭然である。多くを語る必要はない、未来に本当に上昇して回帰できるだろうか？できない！これこそが、このような行為で宗教に入ることが最大の迷妄と障害点なのである。
あなた方は、このような宗教を信仰する信徒や学生を見分けられないのでしょうか。あまりにも多い！あまりにも多いのです！必ずありのままに、自分自身を変え、修正しなければなりません。未来の信仰は、今この瞬間に修正と変化を加えることが正しいのです。このようにして宗教に入った後、初めて真の向上と超越を達成することができるのです。
宗教の迷いと誤解
そうではない！次回あるいは来世に回帰しようと思っても、あなた方はよく考えてみて、それは可能でしょうか？これは現代の宗教信仰者にとって最大の迷いの障壁であり、また宗教の先人たちが、信仰を継ぐ後進の学生や弟子たちに、自分が信仰する宗教こそが依るべき拠り所であることを自覚させなかったからでもあります。
また、今日の世界において、宗教は平等で私心なく公正であると言わなければならない。このような宗教的迷妄を大まかな方向性で修正することができれば、縁のない者にはどうしようもないが、真に修行したいと心から願う者には、あまりにも多く、あまりにも多く存在する。自分自身に、より広い宗教信仰を与えることができるかどうかは、必ずしも確かではない。
必要なのは、とても真実に近いことであり、自分自身の未来の信仰の道に対して、より大きな収穫と利益を得られることです。それは、現代の宗教が言うところの信仰に対して、自分が宗教に入った後には、より広い思考体系を持つことができることを提供します。しかし、一般的な人々は、他の宗教が持つすべての優れた点を再び得る機会には恵まれません。
現代において、天はなぜ「三教同宗、五教同源」という融合をもたらし、地冥星のすべての宗教に対し、それぞれの宗教の不足と欠点を修正し、さらにそれぞれの宗教の優れた真理を高め、すべての九二原霊および四億の仏子たちが、この機縁を共にするようにされたのでしょうか。
上蒼は有情なる衆生に徳沢を施す
加えて、200万人以上のハイテク人材を結集し、真の向上を図ることは、上蒼の徳沢を下界の衆生に広めることである。あなた方はまさにこの盛会に遭遇し、宗教信仰の真理について、宗教の不足と欠陥を打破し、天地間のすべての宗教にはそれぞれ異なる優れた点があることを理解しなければならない。
決して自分が信仰しているものが最大、最優、最高、最殊勝だと思い込んではならない。もしこのような信仰を持つ者がいれば、すでに公正と平等の障害の中に入り込んでいると言える。どの宗教にもそれぞれ異なる優れた点があり、現代のあらゆる宗教の本質に対しては、公正・平等・無私の姿勢で互いに補い合うことができる。
これは、上天が現代の情勢において最大の平等と公正をもたらし、未来においても同様に、すべての宗教を一つの信仰体系へと統合するに至るということです！すなわち、宗教の名称や束縛はなく、宗教の迷妄と障害を打ち破ることが必要です。あなた方は、その中の秘訣と奥義がどこにあるのか、ご存知でしょうか？
未来の宗教は、すべて一つの思想体系の中に融合されるでしょう。その中には、多くの宗教の名称や概念が存在するかもしれませんが、五百年後には消え去るのです！これは、未来の21世紀から30世紀までの千年の間に、あなた方信仰者たちが、万教乱立の思想と観念を打ち破ることができるようになるためです。
宗教的信仰の迷妄
さらに一万年前に戻ると、どの宗教も真に向上し合うことはありませんでした。あなた方はこの宗教をどのように見ていますか？それは、あなた方が宗教体系に入った後の信仰について、自らの思想観念をいかに向上させ、すべてを再構築し超越していくかということです。それは自らがより広大な思想体系を持つことなのです。
三教の優れた教えと融合し、五教を融合して高めていきます。これは宗教信仰の迷信を打破し、すべての誤った思想を打破し、自らがより広大な思想体系に到達することを可能にします。また、未来の四億の仏弟子と、「借将」と呼ばれる二百万人以上のハイテク人材が回帰した後にも！
次の段階では、七千万人のハイテク人材が借り出され、六回から七回に分けて地冥星に降り立つことになる。単に宗教的思想に縛られるだけでは、上昇と超越を達成することはできず、これこそが上天が繰り返し強く求める基本動作であり、宗教的な迷妄と障害を真に解消するものである。
これは　上蒼が万物の仏子たちの向上への準備と成長を促すためである。さもなければ、もし依然として昔のままであれば、あの宗教戦争について、あなた方はどう思うだろうか？昔、欧米諸国において信仰の過激派は、このように地冥星の宗教に対して、宗教の旗印を掲げて「聖戦」を仕掛けたのである！
宗教的迷思としての平和と公正
多くの衆生の尊い命を犧牲にすることについて、あなた方はどのようにお考えでしょうか？宗教平等を旨として、あらゆる宗教に対して相互に賞賛と肯定を表し、またそれぞれの宗教の教育文化を尊重し理解することが必要です。現代における「儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教」の区別なく、すべて同じように扱わなければなりません。
また、現代の新興宗教についても同様に、自らの宗教的思考体系をより広げることが、真に自らの未来をありのままに捉え、各宗教の長所と短所、善と悪の差異を理解し、自らを真に向上させ、今この瞬間に悟りを開くことにつながるのです。
そして「仏果、道果、儒果、神果、聖果」という位階を成就すれば、もはやいわゆる自分が信仰する特定の宗教はなく、天下第一などと称することは、あまりにも浅はかで、また狭量なことです。あなたが信仰するものを第一とすることは、非難されるべきことではなく、必ずや賞賛と尊重をもって受け止め、他者が信仰するものもまた肯定すべきです。
宗教は自らに迷い込む　　信仰は天下第一と為す
宗教の迷妄を打ち破り　　融和団結して一つとなる
迷える宗教に信仰を寄せるも
知らず　ただ功徳を揚げんとするのみ
下世に輪廻してまた来るのは
ただ福報の賞を受けるため
この偈を！有情の衆生たる霊子たちよ、互いに励まし合いなさい！拙僧が本日申し上げた建言と著作を、じっくりと心に刻みなさい。それは汝らが未来において、より大いなる成長と収穫を得る糧となるであろう。さあ、皆様ご苦労であった。先程の蜜柑を持って参れ、皆に福運と財利をもたらす福柑を授けよう。いかがであろうか？
諸賢が今生今世に縁あって崇心宗脈の体系に入ることができたのは、大きな福縁であり大いなる契機であります。上蒼が「大道系列天書」の未来における弘化に対して、更に大きなご加護を与えられることを理解できるでしょうか。その時が来れば、皆様は必ず理解されることでしょう。心を込めて著作に寄り添い、崇心宗脈にしばらくお世話になりました。皆様、またお会いしましょう！
虚空彩鶴仙姑
虚空の縁起は真に殊勝なり　　彩鶴天際に舞いて塵を語らず
仙姑は今日賢生と会い　　済仏は福柑を賜り成す
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院及び院修学士の皆様、こんばんは。本日は「大道衆生」を主著する仙仏、南屏道済古仏の本尊が降臨され、「大道衆生」第二回を著作されます。宗教の迷妄と障害について二度目の分析を行い、繰り返すごとに必ずやより深く理解できるでしょう。上天がなぜこのようにされるのかを。
宗教の改革と整理を行うことは、未来の21世紀から30世紀までの千年間に、他の四億余りの星系における向上と超越の基礎となるものであり、上蒼と仙仏が心を砕かれた意図を理解することができます。それはあなた方が今すぐに悟りを開き、一つの生涯で仏果の位階に達し、成長と向上、そして超越を実現するためなのです。
明日もまた土曜日です。すべての引渡しは通常通り行われます。自分自身を成就させ、学び、成長させるためには、自らが払った努力の中から真の収穫や利益を得ることが重要です。そうすれば、良き縁が次第に増していき、必ずや向上と超越を実現できるでしょう。さて、皆様お疲れ様でした。どうかすべてが吉祥でありますように。それでは、またお会いしましょう。
2014年9月3日 18時40分◎＃※   ０Ｋ＃
第五回　 信仰の障礙
第十回　 眾生根性
2008年2月29日　戊子年一月二十三日（金）
第二回　  障礙迷思
南無、衆生みな来て如来となる
燃燈の心法、自然に排せらる
大道眾生第六回　 宗教的障害は必ず明らかにすべし
第十一回　 眾生魔性
2008年3月4日　戊子年一月二十七日（火）
第三回　  迷思信仰
宗教信仰にはしばしば誤解がつきものです
有情なる原霊子が宗教に入った後、しばしば宗教信仰に対する迷妄に陥ります。これは宗教に入ることで、客観的な視点から各々の宗教信仰の本質を観ることができなくなるからです。宗教に入ると、自らが信仰する宗教の経典と教義に迷わされ、さらに宗教信仰に対してより大きな迷妄を抱くようになります。
また、一般にいわゆる宗教信仰者にとって、最も突破しがたい障礙は、このようにこれらの虔誠な信仰者に対して、間接的に更に大きな負面作用と傷害をもたらすことであり、信仰に対する迷妄の中では突破することはできず、宗教の伝導者自身でさえも、自分が宗教においてどのように迷妄に陥っているのかを理解することは難しいのである。
宗教に入ると、自分自身を客観的な視点で見ることが難しくなり、宗教のすべての行動や行為を冷静に見つめることができなくなります。また、宗教の指導者からの一方的な言葉に影響され、忠実な信仰者が宗教に入った後に持つべき条件をそのまま受け入れてしまいます。このように、宗教の先人たちが鼓吹する「天下唯一」という考えに従ってしまうのです。
加えて、信仰宗教、いわゆる「天下第一」のものに対して、このような宗教の指導者が後進の学生や信徒を育成することは、非難されるべきことではなく、むしろそのような教義の信念があってこそ、真の宗教信仰に到達できるのであり、それ自体が当然のことである。教育文化課程を提供して育成すべきである。
信仰の迷妄による障害を解消する
また、このような思考体系は、各宗教の教義に対して中心思想の必要性を確立するにあたり、極めて真実かつ正確に、後進の学生や弟子たちに対して忠実な思想教育の訓練を行うことができると言えます。これは現代の各宗派が持つ宗教教義のあり方です。
この中心思想を、後進の学生や弟子たちに教え、信仰の主な縁起の根本とすべきである。また、信仰に対して、宗教の中で自らの迷妄に陥らないためにはどうすべきか。宗教に入った後、信仰する宗教に対して相互に支え合い、擁護する行為や動作が生じるのは、まさにこのように必要だからである。
さもなければ、一般的な宗教信仰において、もし一団の非常に忠実な信者と学生の支持がなければ、どうして宗教の教育と教化を推進して拡大することができるでしょうか。現在の各大宗教の流派もまた同様であり、このような宗教信仰を成長と学習の場とし、後進の学生が向上し超越することを提供しているのです。
しかし、新たに宗教に入った者が確固たる基盤を築くことができれば、こう言えるでしょう。この生涯において宗教を信仰することは、悪業を造ることも比較的少なく、いわゆる敬虔な宗教的信者として、非常に貴重で、肯定と励ましに値する存在であり、未来には必ず良き因縁が成長するものだと。
信仰にまつわるすべての問題
なぜなら、このような信仰に対する姿勢こそが、宗教を弘め広めることができるからである。したがって、現代の各宗派も皆そうしており、まず教育文化課程による前提的な訓練を行い、後進の学生や弟子たちの信心を確立する必要がある。これは当然のことと言えよう。
また、後進の学生や弟子に対しては、そうあるべき基本的条件も備えているべきです。しかしながら、信仰の教義という観点から見れば、宗教の本質は人々を「善に向かわせる」という主体的な縁起にあり、これはあらゆる宗教に共通し、またすべての人間が宗教に入る際にも同様です。
中心思想を確立することで、自らを向上させ超越することが可能となります。これは現代のあらゆる宗教教義の基本課程でもあります。もしまず忠誠の思想体系を確立できずに、将来信仰を生活に融合させようとするならば、それは明らかに木によって魚を求めるようなもので、多くの断絶が生じることでしょう。
また、宗教を信仰する基本的な本質は「人を善へと導くこと」であり、これは古来より変わらぬ事柄です。あらゆる宗教の宗派が導き教化する教義課程もまた、人々を「善」へと導くものであり、それによって悪業、悪果、悪い報いを生み出すことが減少していきます。これは相互に連関した思考体系なのです。
迷信信仰をどう見極めるか
また、それは真実の相が過程を形成するものであるため、宗教の本質は「人を善に導く」基礎であると言えます。もし宗教の本質によって、有情の衆生が宗教に入った後、円滑に信仰を追求することができなければ、心を定めて宗教を信仰するよりどころとすることはできません。
また、信仰の中で自らの不足や欠点を本当に修正することはできません。なぜなら、すべての衆生が信仰を求める過程では、まず不信や疑いから始まり、宗教そのものに対する理解を深めた後に初めて確信が生まれるからです。つまり、大いなる疑いから大いなる信が生まれ、小さな疑いから小さな信が生まれ、疑わなければ信じることもないのです。
この三種類の人が宗教に入った後、前者は相当な疑いを経て、つまり確かな拠り所を得て、自分が宗教に入ることへの疑いを経た後に、初めて真の信仰の原動力を持つのです。しかし、一般的な人が疑いもせず信じもしない場合、このような人はいわゆるその宗教と縁がなく、信仰と帰依の対象とはなりにくいのです。
しかし、もともと信仰を信じ、追求する主要な因縁の本質があり、自分自身に真の原動力を与える人がいる。これは宗教的信仰にとって言えば、いわゆる因縁が深く、素直な信仰者であり、宗教的信仰の列に加わることで、人数が多ければ物事は進みやすく、大きな新たな力となる。
信仰心を持って素直に仏の名を唱えること
これはいわゆる、宗教を信仰する素直な学生や門徒について言えば、その80％以上がこのような状態であり、そのうち一部だけが素直でない者であり、残りは中程度の信仰者と言えるでしょう。信仰に対する縁は人それぞれ深さが異なり、さらに前世の因縁関係によってもたらされるものです。
この一生、この一世における一切の信仰はどうあるべきか？必ず理解しなければならないのは、人道世界における生存の方向性と、宗教信仰が必ずしも比例関係にあるわけではなく、また一生一世をかけて人道世界に入り、すべての生存の方向性の半分の時間を宗教信仰に捧げる人について言えば、このような人は、一生を犠牲にして捧げたと言える。
黙々と全ての時間と精神、そして金銭を捧げることは、賞賛と喝采に値します。このような一生をかけた、いわゆる信仰への犠牲と奉献を追求する者に対しては、大いに肯定と賞賛に値すると言えるでしょう。また、このような一生をかけた奉献は、信仰者においてはさらに感嘆に値するものです。
言えることは、一生涯功績がなくとも苦労はあった。このような肯定と称賛を得られることは、皆が称賛するに値する。また、いわゆる一生を犠牲にして捧げる人々に対しては、非常に倹約であり、さらに「腹を削るほど倹約」して、自分自身も食べるのを惜しみ、着るのを惜しみ、ほんの少しの衣食が足りればそれでよいとしている。
信仰に迷い、忠実な信徒
この無為の奉仕の中にこそ、上蒼が称賛すべき信仰者がある。これは有情世界にとって、このような信仰が未来に仏や菩薩の果位に入ることができるよう、正しく評価されるに値するものです。また、このような一生涯を犠牲にして奉仕する者は、決して二心を抱くことはありません。
また、いかなる悪しき行いもなく、このようないわゆる忠実な信仰の門徒や学生に対しては、むしろ肯定すべきである。なぜなら、このような素直な信仰の学生が、一生を犠牲にしてまで、結局は上昇と超越を達成することが難しいのかを理解する必要があるからである。
むしろ、ますます人間界に沈淪し輪廻しているのである。これは信仰する宗教に対して、天下第一等と称し、つまり他に比類なき宗教があるということであり、このような門徒や学生から見れば、一生涯において、称賛に値し、注目に値し、尊敬に値し、敬服に値する、人々を感嘆させると言えるであろう。
しかし、なぜ上昇し超越することができないのか？むしろ、輪廻の相が繰り返される中でますます沈んでいく。必ず理解しなければならないのは、人道世界におけるいわゆる信仰者とは、公正・平等・無私の宗教的信仰教化課程を持つことで初めて、自らの信仰を確信し、他者の信仰を讃嘆することができるのだということである。
迷妄の障りがあれば、転換することは難しい。
これは何と微妙な信仰の真実であろうか。いわゆる「優等生」である学生や弟子たちが、いかに自分たちの信仰する「宗教の障礙」と「教義の迷妄」に束縛されているかを知る必要がある。宗教思想体系に導き入れる際には、より公正かつ平等に全ての宗教に対し、真に肯定することが求められる。
もし他の宗教に対する悪口という業障を減らすことができれば、このようないわゆる「優等生」や弟子たちは、将来の信仰の帰依先として、きっと素晴らしい前途が開けるはずです。しかし、もし自分自身の認識に加えて、指導者からの盲目的な悪しき思想の注入によって、自分が信仰する宗教こそが天下第一であると考えてしまうならば。
他の宗教に対しては、すべて劣った低級な不平等なものと見なし、さらに他の宗教の優れた点まで否定する。このような行いが業を造らないならば、とがめだてすることもないが、もし悪口の業障を造ってしまえば、現在の冥府において、この種の宗教を信仰する者が大部分を占めている。また、自分自身の無明の障壁を突破することもできないのである。
宗教に入った後、先導者の誤った思想が吹き込まれ、第八識に染みついてしまうと、それを打ち破ろうとしても、おそらく一生かかっても不可能でしょう。このような、いわゆる真の犠牲と奉献を捧げる従順な信者や学生たちが、どうしてより広い思考体系を持ち、真実に基づいて成長と向上を遂げることができるでしょうか。
迷いと障害の化除
また、正しく平等な信仰の観念についてはどうでしょうか。そうではありません。宗教に入った後、本来は宗教の中で、自分が将来「生死の迷いを断ち切る」という向上を期待していたのですが、宗教に入ってからは、先導者から誤った思想を第八識に植え付けられ、先入観を持ってしまうことになったのです。
もしもこの無明の不良なる障害を消し去り、変えることができれば、真に向上し超越することも比較的容易になります。しかし、最も恐れるべきは、先導者が後進の学生や弟子たちが守り固執する思想に加わり、それがまた非常に厳格である場合です。そして、これらの後進の学生や弟子たちは、もはや転換が不可能であることを根本的に知らないのです。
また、宗教的信仰において言われるところの公正平等とは、天地の演繹する公正無私の精神を備えていなければならない。すべての人間の信仰は、自らが選び、自らが好む宗教を通じて学び成長するものであり、これらの先導者たちは厳格に守られており、他の宗教に対して誹謗が生じるようなことがあってはならない。
そもそも理解できません。宗教に入るには本来、公正平等の信仰を持つべきであり、それが正道です。このようないわゆる宗教的迷妄は、なかなか取り除くことが難しく、さらに悪口誹謗を重ねることで、すでに善の中に悪業を造ってしまいました。あなたがどれほど深遠な功徳や救済の力を有していようとも、超越へと回帰しようとするなら、それは果たして可能でしょうか。
信仰と修行の向上
また、来世において根本的に回帰と超越ができず、このような状況では、いかにして宗教信仰者のさらなる向上を図ることができるでしょうか。言えることは、このような宗教信仰者は根本的に理解しておらず、すでに宗教信仰の中で善をなしながら悪業を造り、自分自身さえも理解できない状態にあるということです。
なぜ自分が一生涯をかけて捧げてきたすべての犧牲と奉獻が、いざ「宗教平等観による審査」を受ける段階になると、あっという間に不合格となり、それによってすでに第八識に深く染みついた汚れた思考が、自分に「頭がカチカチ（台湾語）」と言わしめ、まったく融通が利かなくなってしまうのか。
また、没度の際には、「宗教平等」という関門を審査されることになり、一瞬にして振り落とされてしまう。それでは、一生を宗教の場で犠牲と奉献に費やしたことが無駄になってしまい、真の向上と超越を成し遂げることはできません。有情衆生は知らなければなりません、千年の昔には、このようなことは障害とはならなかったのです。
しかし千年の時を経て、いわゆる宗教平等の理法は、次第にこのような思想体系を形成するようになりました。この五百年前に、上天は公正平等の宗教思想体系を制定されたのです。もし亡くなった後に、自らが信仰する宗教の天国や極楽浄土に帰りたいと願うならば、必ずこのような審査と検証を通らなければなりません。
迷妄と障害の審査
これは千古の昔から、根本的に人間界に下されるはずもなかった、あらゆる宗教の情報である。諸君はどうして、宗教信仰の平等・公正という観念を持つことができようか。自分自身の未来が上昇し、超越できる因縁と契機はなぜこのようなものなのか、根本的に一度も聞いたことがないのである。
さらに、これは上天が定めた法理の中で、越えられない普遍の真理でもあります。なぜなら、この二千余年にわたって五教が繁栄してきたからです。それゆえに、上天にも多くの五教の修行者がおり、それぞれの宗教の天国や極楽世界の星系に回帰しています。しかしながら、もし宗教の平等と公正な思想体系がなければ、天界と融合することはできるでしょうか？
未来に回帰して超越しようと望んでも、根本的に不可能なのです！つまり、善の中に悪業を造りながら、自分自身も気づかないのです。現代のすべての宗教の修行者にとって、大きな方向性に依拠し、審査を受けることができるでしょうか？有情衆生が理解できるかどうか？上蒼天界の公正で平等な綱領と審査を？信じるに、根本的に一度も聞いたことがないのです。
宗教は信仰に迷いを生じさせ　　有情の衆生はよくよく見極めねばならぬ
自らの宗教を肯定するにしても
他教を讃嘆することもまた必要である
迷いの障害が自らを縛り　　誤りに頼って破れず
宗教の平等は互いに補い合うことができ　　
人の世の円満融和は教化の基盤となる
この偈は、有情の衆生が自らに向き合い、宗教に入った後に迷いを抱くのはなぜか？それは、有情の衆生が宗教に入った後、自らの宗教と他の宗教をどう対処すべきかを知らず、互いに称賛し肯定する一方で、多くの場合、他の宗教を抹殺し誹謗し、さらには悪口の業障さえも造ってしまうからである。
さらに、足を引っ張って損害を与えるようなことをするならば、そのようなやり方でどうして公正で平等な宗教的信仰の観念を持つことができようか。必ず理解すべきは、これは大いなる天地に共通する因縁の中で、それぞれの個体の異なる宗教を区別しているに過ぎないということだ。自分自身が信仰する宗派が肯定に値するものであれば、それが正しいのである。
しかしながら、他の宗教の弘揚と発展を誹謗したり破壊したりすることもなく、また現代の宗教環境において、このような因縁と条件は、公正で平等な各宗教の信仰を高める上で、最も頻繁に迷いや盲点に遭遇するものです。皆様にはご苦労をおかけしましたが、崇心宗脈に帰依し合い、互いに補い合って参りましょう。それでは、またお会いしましょう！
虚空彩霞仙姑
虚空より彩霞の仙姑来たり
大道の衆生に徳澤を排す
燃燈古仏が降臨し
宗教の迷妄を解き改む
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈大宗師　南無燃燈古仏が降臨され、「大道衆生」第三回を著作されました。迷いや障害、不足と欠如を分析し、有情なる宗教信仰者が先導者の鼓吹を受けて宗教信仰に入った後のことを明らかにされます。
公正かつ平等な宗教信仰を持つことは非常に難しい。このような宗教信仰における迷妄は、本来、宗教に入った後、上昇し超越することができるはずである。しかし、無明の悪口業障による災いを受け、亡くなった後の宗教的審査においても、公正かつ平等に、この世の他の宗教に対して相互に賞賛することはできないのである。
それゆえに、自らが向上を困難にする障害を作り出してしまうことになります。なぜなら、上天には不平等な宗教や仙仏は存在しないからです。もしあなた方がこの機縁に入る機会を得たならば、まず宗教平等の思想と観念を持つ必要があります。そうすれば、向上できない障害に陥ることはありません。また、思想が「硬叩叩（台湾語の発音）」、つまり頑固で転換しにくいために、そうなるのです。
また、他の宗教に対して平等かつ公正な思想や観念を持つことができるだろうか？このような世間で既に形成された観念を、一気に変えようとすることは、あなた方にとって可能だと思われるだろうか？このような観念が、世間の思想の中に確立されてこそ、真の公正と平等が実現できることを理解しなければならない。今日の著作を詳しく解説し、軽く扱ってはならない。
それは成長と成就が難しく、有情世界の宗教における最大の迷いの障壁もまさにこれです。深く悟り、明らかに実践することを願っております。
2014年9月3日 21時45分 ◎＃※   ０Ｋ＃
虚空上人－南無虚空上徳人天古仏
第六回　 宗教的障害
第十二回　 魔性秉性
2008年3月7日　戊子年一月三十日（金）
第三回　  迷思信仰
虚空の因縁は成就を可能にし　　空しく時光は留まらず
第七回　 教義の障害
第十三回　 眾生秉性
2008年3月11日　戊子年二月四日（火）
第四回　  宗教迷思
宗教信仰はなぜ迷妄に陥るのか
すべての人道的世界の歴史的進化過程の作用は、現代の世の中と人間に対する教育と教化、および人類衆生の信仰が向上するかどうかに対してであり、過去の歴史を基盤としつつも、三千年前にはいかなる宗教も存在せず、当時はただ天地間に存在するすべての神々がいただけである。
人界を区別する観点から見ると、信仰においては上天に依拠し、また過去の有情衆生は自らを「蟻の民」と称してきました。これにより、なぜ人界の衆生が自らを「蟻の民」と称するのかが理解できます。それは上天の広大無辺さに対し、広大な空間を指して言い、共にこの世に安らかに生きることを意味しているのです。
また、人間界の万物の霊長たる者どもは、互いに支え合いながら、天に向かって祈りを捧げることができる。今に至っても言えることは、この伝統は変わらず受け継がれており、毎年旧暦の正月九日の佳き日に、天公を恭しく祭拝するのである。このような因縁と条件こそが、自らを蟻民と称することであり、まさに一つの誠心を表すものなのである。
宗教に入った後、本来は善良な心性を追求し、自分を向上させることができるはずでした。しかし、信仰の道に入ってからは、一向に向上することが難しく、むしろ次第に堕落していくばかりです。そのため、このような信仰の中では、自分をより大きく高め、超越させることはできません。
宗教的迷妄が人類の信仰における障害となる
すなわち、自らが信仰の門をくぐった後、さらに大きな成長へと歩みを進めることができず、このような事情ゆえに、宗教に入った後、宗教本来の「人を善へと導く」という美しい意図によって、素朴で善良な教化の精神が覆い隠され、宗教そのものの教育文化課程による成長も妨げられてしまうのである。
最も重要な問題は、宗教に入った後に当然あるべき成長がなぜ妨げられるのか、改めて検討することです。その原因は、宗教の指導者が自らの思想や観念を加え、自らの宗教の信者を守るという壁を作り上げることによって生じているのです。
元々は善良で美しい意図であった宗教的信仰が、突然に本来の美意を変えてしまう。自分が宗教に入った後、学びと成長をすることは必要な行動である。しかし、もし他の宗教の流派と交流し合流する際に、またこのような「私はあなたより大きい、私はあなたより高い、私はあなたより優れている」という考えが出てくるならば。
私は天下唯一無二の宗教であり、独自の誤った思想が生じることは、やむを得ないことである。もし宗教間のすべての悪しき戦禍を引き起こす時、この人為的要因がさらに他の衆生の信仰に影響を及ぼし、一瞬にして宗教信仰の善意を打ち砕いてしまうならば。
宗教の本質は人を善へと導くことにある
台湾にはこのような状況はありませんが、中国本土やその他の欧米地域では、歴代の王朝が皆そうであり、また「宗教聖戦」は他の有情衆生に「宗教聖戦」の侵害と殺戮の死をもたらし、このような状況は至る所で見られます。さらに、上天は公正で平等な綱領を新たに制定されました。
下界に降りて教化を施す、そのすべての機能と効果は、本来相互に尊重し合い、相互に包容し合い、相互に共に成就すべきものにあります。有情の衆生が教育と教化の中にあって、安らかで静かな理想世界を得ることができ、大道をより広大な空間へと融合させ、修行の理念の向上・成長・超越へと入ることができるのです。
有情宗教は本来、五教の聖人たちが、あらゆる信仰に対して相互に支え合う働きをし、また互いに信仰の原動力を高め合うものである。宗教という観点から言えば、必ずや成就し得るものであり、相互の成長が不可欠であるべきである。さらに、すべての五教の聖人たちは、皆、上蒼より下化された方々である。
この伝承が第一世代から第二世代へと受け継がれることについて、互いに支え合うと言えるでしょう。さらに現代の科学技術文明を加え、地球という星の視点から見れば、それぞれの宗教的信仰にも何ら不都合はなく、互いに融合できないこともありません。また、宗教の伝道者たちは皆、負けじとする心構えを持っています。
面目を保つために道理に背いて行動する
「負けても負けても面目を失わず、面目を失えば顔向けができない」という状況に陥った時、この種のいわゆる宗教的信仰の伝道者は、往々にして自らの宗教を賞賛し肯定するが、これは天の理に適った良き行いであり、上天がこれを肯定する規範とされる。しかし、もし自らが他の宗教を信仰に値しないものと貶めるならば、それはまた別の問題である。
なおもって非難すべきではないことであるが、もしそれに誹謗やデマ、破壊や殺傷が加えられたとき、その時こそが悪業の始まりとなる。さらに悪口によって悪業を造れば、自らの信仰がいかに篤くとも、あるいは功徳がいかに深くとも、このような公正・平等でない宗教的信条を持つ者に対しては、
言えることは、自分自身を守り支えることが正しい道であるということです。しかし、すでに悪口や誹謗の悪業を造ってしまった場合、それまでに積み重ねてきたすべての功徳は、一瞬にして深刻な汚点を付けられてしまいます。いや、むしろ完全に消え去ってしまうと言っても過言ではありません。未来がどうなるかについては、他の宗教と融合することは非常に難しいでしょう。
自らの第八識によって区別がなされ、自らの心の態度や観念はどうなのか？この時、自分自身と他の宗教の信仰者が擁護し支持するものに対して、向上成長できない障害が形成される。このような、口業を造り、悪業を造って自らの宗教を非常に優れていると標榜し、さらには天下第一であるとすることに対して。
宗教的迷妄による障害
また、このような信仰者に対しては言える：一百分であるが、他の宗教を誹謗する者に対しては、数百点も減点されてしまう。このような宗教信仰者はいるだろうか？あまりにも多い！あまりにも多い！このようなことは現代の世代において言えば：第一世代、第二世代はあまり罪を造らないが、第三世代以降に伝えられる者はそうではなくなってしまう。
今日の時代において、業を造る者はどこにでもいる！宗教に入って業を造る者もいるだろうか？一般の人々でさえ、宗教の中にはあまりにも多く存在する。これらの後継者や信仰者は、宗教に入った後、自らが宗教の中で向上し、超越することを期待していた。
このように言えるでしょう。世の中の他のすべての宗教に対しても、十分に肯定と賞賛に値する姿勢を持つべきです。これこそが、自らの信仰に対して公正平等に互いを高め合う態度であり、もしそのような行動が取れないのであれば、他の宗教に対してデマを流したり誹謗したりすることも避けるべきです。すべての良き教えが広く発展していくことを願って。
自らがこのような悪口、悪業、悪い因果を造らぬ（犯さぬ）よう心がける必要があります。さもなければ、因果応報の理によって、自分が宗教に入った後、本来は自らの信仰する宗教を護持し擁護すべきところが、かえって宗教に入ったことで自らの心の在り方や考え方の要因となり、誹謗中傷やデマを撒き散らすことになってしまうのです。
宗教的迷妄に悩まされる
さらに甚だしいことに、他の宗教が弘めるものを破壊し損なうことさえあります。これはまさに、自らを宗教的信奉者と呼ぶに値しない行為です。また、一部の人々は言います：これらの真心から敬虔に支持し守る者たちに対して、その行為は正しくないかもしれないが、功績がなくとも苦労はあったのだと。このような信仰のあり方は、間違っているとは言えません！
肝に銘じてください、善行の中で悪業を造ってはなりません！自らが悪業を造り、悪口を言って他の宗教を誹謗していることを、必ず自覚しなければなりません。あなたが信仰する宗教に、このような教えがあるでしょうか？ありません！どうか自分の視点だけで、自分が造った悪業を見て、さらに悪口を言って誹謗することのないように。また、どんな言い訳や逃げ道も作らないでください！
もし言うならば、真心から自らの宗教の面目と成就を擁護するのであれば、もし本当にそうであるならば、自分が造った悪業に対して、自分が信仰する宗教においても、造りし悪しき業口、業因、業果の受容を擁護することになってしまうのではないか。これは自らの宗教信仰において、このような行動や思想観念を持つべきではない。
もし大宇宙のすべての宗教信仰が同じ源から来ており、同じ因縁によるものであることを理解できれば、ただ地冥星の空間において、それぞれが求めるものがあり、必要とするものがあり、またそれぞれが信仰するものがあり、異なる地域で衆生を導き救済しているだけだということに気づくでしょう。そして、これらの下界の凡俗世界に生きるすべての衆生は、悪業を造らないようにしなければなりません。
迷信宗教信仰の不十分さ
もし宗教が肯定するものに深く理解し、大いなる方向性をもって宗教信仰を実践することができれば、いわゆる悪口や悪業を犯したり、他の宗教を誹謗するような行為は生じません。これは上蒼がすべての宗教信仰者を試し、あらゆる規範によって検証するものです。このような宗教信仰を持つ者は、人界におけるすべての行動規範において、その信仰を体現していると信じられます。
まさに、上蒼の条綱は、すべての宗教の信仰に対して、儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教を区別することなく、また今日の世界のすべての他の宗教や新興宗教に対しても、一様に適用される。これらはすべて上蒼が派生させた教育文化であり、信仰に入った後、自らが成長し学ぶことは、まさに正道なのである。
人道世界において宗教に入るには、まず自らの信仰を拠り所としなければならない。同時に、大宇宙のあらゆる宗教の信仰をありのままに理解する必要がある。より広い心で学び成長しようとせずに、一生かけて成就を遂げようとすれば、おそらくそれは木によって魚を求めるようなものだろう。
なぜなら、あらゆる宗教の信仰の最終的な目的は、生死を超えることにあるからです。これは、それぞれの宗教に対して定められた異なる戒律や綱領に基づいています。このように理解すれば、あらゆる宗教にはそれぞれ異なる長所と短所があり、どの宗派も同様であることがわかります。そうでなければ、なぜ様々な宗教が互いに融合しようとするのでしょうか。
諸宗教の優劣と長短
理解することができる、各宗教の優劣長短は、現代のあらゆる宗教の流れに対して大局的な方向性を明らかに悟り、体得することであり、これこそが上蒼の基本的な働きである。もし自らの信仰が求めるものと相互に融合し、さらに五大宗教すべての優れた点を一つに集約することができれば、それに越したことはない。
この時、その欠点を改め、長所を伸ばすことができます。これは自己を向上させ超越するための最も基本的な効能であり、それゆえ宗教に対する迷妄を突破できるかどうかは、一人ひとりの人間が宗教に入った後の行いによって決まると言えるでしょう。
より大きな心を持つことができるかどうか、自分自身を成長させ向上させることに対して、それは上蒼が求めるものであり、また上蒼の基本的な条綱でもあります。また、有情世界の人類衆生が、より広い心の態度と思惟観念を持って成長し、自分が信仰する宗教に対してすでに初歩的な成長を遂げることができるかどうかは分かりません。
また、各宗教に対して深く学びを重ねることで、公正と平等についてより深く理解できるようになり、他の宗教に対する明確な洞察も得られます。これは、自らが人間世界において「第一品位」の公正と平等を達成したことを示し、さらに今後の成長と向上において、その可能性は限りないものとなるでしょう。
宗教的迷妄をいかにして取り除くか
理解しておく必要があります。宗教に入った後、本来は向上すべきですが、多くの場合、前向きな成長はできず、むしろさらにネガティブに、下向きに堕落してしまいます。宗教に入った後もなお、衣食住行育楽が必要です。これは人間の衆生にとって最も基本的な行動なのです。
もし自分が望むものを求め、他の享楽的な生き方を選ばないとしても、少なくとも安定した生活の場は必要です。有情の衆生は、信仰に入った後も食事をしなくて済むということはあり得ません。それは不可能なことです。なぜなら、宗教もまた一つの「事業体」であり、単に宗教という名を冠し、信仰を持つ者と呼ばれるだけだからです。
ただ修行者の名分があるだけです！皆さんにお尋ねしますが、宗教に入った後、生活しなくていいのですか？食事をしなくていいのですか？皆さんが教会や礼拝堂に来る時、乗ってくる車に給油しなくていいのですか？あるいはバスや電車に乗る時、運賃や切符代がかからないのですか？皆さんは一切の通貨を使わずに済むのですか？
もしそれを使わないなら、この種は比較的上昇と超越に達しやすい。もしなお通貨の因縁を用いる必要があるなら、またこの種は比較的成就に達しにくい。なぜこのようになるのか？なぜなら、宗教信仰に入って他の生存要素を顧みずに、安心して修行成長に励むことができるか？あまり容易ではないからだ！
各人は努力して修行を深め、向上を図らなければなりません。
もしそれができないならば、修行と生活、信仰と仕事を両立させながら、自らの時間の大部分を犠牲にして、自己の向上と成長の学びに充てることはできないだろうか。一生を苦労して過ごし、結局何も成し遂げられず、ただ「宗教の信仰の列に加わり、その名相を持つだけ」と空しく言うことのないように。
根本連：上昇、超越、成長、回帰、これらはすべてあなたとは何の関係もありません。それどころか、口に出す悪業の罪を積み重ね、得るものより失うものの方が多いのです！このような信仰者はいるでしょうか？実に数多くいます。これこそが、天が最も望まない状況であり、局面なのです。
すべての犧牲と奉獻が、結局は何一つ成し遂げられず、かえって全身に悪口、悪業、悪禍を招くことになる。あなたがたはこれが価値あることだと思うか？また、この種のいわゆる「おとなしい」宗教信仰者も、このように無明の障害によって制限されているのだ。これが宗教を護持する行為だと思ってはならない。すでに業を造ってしまった以上、どうしようもないではないか！
道理を悟れず突破は難しく
宗教の迷妄改まる期なし
殊勝なる信仰こそ真の真理　　悪しき口業を造れば罪は消え難し
宗教的迷いはなおさら多く　　犠牲も捧げることもまた多い
信仰の名分ばかり多く残して　　業果の向上はなかなか難しい
この偈は、有情なる衆生たちが互いに励まし合い、自ら宗教に入った後、本来ならば一世で上昇・超越を達成できるはずなのに、人為的な誤りの要素が多すぎて、自らを向上させることができず、ただ沈むばかりであることを示している。このような宗教信仰者は、再び立ち返るべきかどうか、自らを省みる必要がある。
自分を向上させ成長し学ぶことができるのであり、そうでなければ、この一生は「すでに棺を蓋いて論定す」と言えるでしょう。修持を語る必要もなく、自分が造った悪口、悪業、悪禍をどうすることもできません。なぜ空しく時を過ごし、来世また来世と繰り返し輪廻して修持しなければならないのでしょうか、それにどうしようもないのです。よく考えれば、すべての障害がどのようなものか明らかになるでしょう。
虚空に架かる虹の仙女
虚空より降りたる大道深し　　虹は天際に化して塵無し
仙姑今日当番に来て　　大道の衆生次回に証を成す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は、本宗脈正主席　虚空上人－南無虚空上徳人天古仏が、帰還降臨され、「大道衆生」第四回を著作されました。宗教の迷妄を引き合いに出し、宗教に入ることで、本来は自らの向上を期待していたことを明らかにされます。
しかし、大部分の者は次第に堕落していく。なぜそうなるのか？それは、度重なる著作を通じてその奥義を理解し、自らを戒め、宗教に入るべきでない思考や観念、行為に陥らないようにし、自らを向上させ、超越させることこそが正道であり、正しい道なのである。
2014年9月4日、13時45分◎＃※   ０Ｋ＃
東華帝君
帝の天書を著す第八回　　君が経典の教義を説く則り
第十四回　 習性慣性
2008年3月14日　戊子年二月七日（金）
第四回　  宗教迷思
東洲の神仙降り来たりて臨む　　華徳の世界に大道行わる
帝道は私心なく衆生を照らす　　君主の言葉は信仰の障りとなる
第八回　経典と教義
第十五回　  眾生個性
2008年3月18日　戊子年二月十一日（火）
第五回　 信仰障礙
信仰になぜ障害があるのか
大宇宙の天地の中において、あらゆる宗教の流派を見渡すと、それぞれの宗教は皆、自分こそが天下第一の「唯我独尊」の宗教流派であると主張しています。これは当然のことです。もしそうでなければ、どうして他の信仰を導き、帰依させることができるでしょうか？また、このような因縁条件は、現代世界の宗教においても、すべて同じように存在しているのです。
有情世界の信仰者に対しては、自らが選び、好む宗教を信仰の拠り所とする行為も、これまた真実の性質である。また、天下のあらゆる宗教に対して、2500年前に初めてこのいわゆる「宗教家」が現れたのであり、昔は宗教という名称や呼称はなく、ただ「各家」と呼ぶことができたに過ぎない。
もし現在の天地を以て観るならば：これらの宗教信仰における五教の聖人たちは、当時は所謂「宗教」というものはなく、後世の伝道者たちが宗教に対して、宗教という名称を強調するようになったのである。このような後進の伝道者たちの行いによって、「宗教」は「人を善に導く」という本質を持つものとなったのである。
また、宗教そのものの教義と信念を伝えることで、異なる教義を持つ後継者や弟子、学生たちの育成と訓練において、各宗教の基本教義を基盤とし、自らの宗教が教える教義を提供することにより、後進の学生と弟子たちが忠誠心に満ちた信仰思想を築き上げ、揺るぎない忠節の構築を成し遂げることができるのです。
宗教の本質に迷いが生じるのはなぜか
このような条件下では、各宗教にとって、それぞれに異なる特別な必要性があります。宗教の本質は人を善へと導くことであり、これは紛れもない真実です。さらに、各宗教にはそれぞれ優れた点があり、五教（儒教・道教・仏教・キリスト教・イスラム教）を高めるという点で、いずれの宗教も非常に優れた教義の働きを持っていると言えるでしょう。
「清浄無為の思想、慈悲・惻隠・博愛の高揚」という教義が生まれます。これは現代の有情衆生が最も欠いている大きな方向性であり、それゆえに宗教に入った後、「儒・道・釈・耶・回」の五大宗教の教義を奉じることができれば、それぞれの宗教に優れた点があるのです。
各々の機能と効果は、「清浄で無為の思想、慈悲、惻隠、博愛の向上」に行使することができる。このような信仰者は、初歩的な第一段階を有していると言え、自らが信仰の列に加わるにあたり、機能と効果の必要性を真に融合して実践することができる。
五大宗教に対して、更なる成長の可能性はあるのか、信仰の忠誠体系に相互に融合できるのか、また宗教の「人を善に導く」という精神的な次元について、意外にも、信仰に入った後は、先導者から相当な保護を受け、更に信徒や学生に対しては、他の宗教を信仰してはならないという誤った思想観念が植え付けられることがある。
信仰の迷妄に惑わされること
これは、忠実な信仰者自身にとっては、非難されるべきことではありません。また、保護の行動が真実であるからこそ、信仰する信徒や学生が不良な宗教の列に加わることを防ぐことができるのです。これは上天が肯定する事柄であり、他の宗教に惑わされることもないでしょう。
もし自分が信仰する宗教に対して犠牲を払い、奉仕し、さらには黙々と尽くすのであれば、このような信仰心を持つ学生や弟子から見れば、当然のことである。しかし、もし一団の忠実な思想と信念を持つ学生や弟子が、支持し守ってくれなければ、どうしてより大きな弘揚と発展ができるだろうか？
このような宗教信仰の基本としては、本来このようにあるべきですが、最も恐れるべきは、宗教信仰の行列の中で、現代ではあらゆる教えが一斉に現れ、それぞれの人の縁によって導かれ、様々な縁ある学生や弟子たちが行列に参加することこそが正しく真の道であるということです。また最も恐れるべきは、他の宗教に対して悪しき口業による誹謗を形成してしまうことです。
多くの取り返しのつかない相互の傷つけ合いや誹謗中傷を生み出し、さらに、埋めがたい悪口の業障を積み重ねることになります。中には、このような悪口の業障にさらに大きな破壊力を加える者もいます。自らの宗教を尊重し肯定すると同時に、他の宗教に対しても賛嘆と肯定を示すことが正しい道であることを、しっかりと理解する必要があります。
宗教の障害と悪因縁を造ること
また、このような因縁条件は、宗教的信仰に対して公正かつ平等に相互に対処することができず、自らの思想観念を向上させることもできない場合、昔の五教の聖人もこのようにはならなかったし、その後の伝道者が宗教的信仰に加わることによっても、相互の平等と公正な誤った思想を持つことはできません。
信仰を持つ門徒や学生の思想観念に加え、これらの門徒や学生が自らの宗教を肯定できるようにすることは、非常に正しいことです。しかし、決して他の宗教を破壊したり誹謗したりして、より大きな損害を与えることがあってはならず、この点はまさに真実であり、祈ることもできない罪を犯すことになります。
さらに、これは容易に覆すことのできないものであり、自らの宗教を守り抜く必要があることは、極めて正しいことである。しかし、他の宗教に対して公平かつ平等でないときは、まるで自分の家族の生活は極めて正しいが、親戚の家族の生活は正しくないかのようであり、それだけならまだしも、親戚の家族の生活に何らかの損害を与えることになる。
自分はどのように感じるだろうか。自分の家族の生存を肯定し、さらに自分の親族の家庭の生存も肯定しなければならない。これこそが正しいあり方である。一例を挙げよう：天下の宗教は本来、上天が分化させた五つの教えであり、共通して一つの祖源の道脈に属している。ただ、世俗世界の各地域に下って、異なる役割を果たしているに過ぎない。
信仰における迷いの障害
異なる地域の人種に対して信仰の拠り所を与えることは、上天が「三教同宗・五教同源」として下された教えである。さらに、これは単に「三教同宗・五教同源」に留まるものではない。あらゆる宗教宗派が互いに融合し、円満に向上し超越していくのである。
さらに今現在、天地間に存在するすべての宗教は、上蒼によって派生したものであり、単に異なる体系の宗教に過ぎません！自分自身の家庭が信仰する宗教こそが正しいものであり、お尋ねしますが、自分自身の家庭以外に、あなたには自分の実の兄弟姉妹、そしてすべての親族や家族が存在しないのでしょうか？
これは、天が下した原始の時代と同じ宗教の教義であり、異なる地域の人々が信仰のよりどころとして融合することを可能にするものです！もし自分が信仰する宗教（家庭の生存）を肯定できず、さらに誹謗中傷を加え、さらには他の宗教（家庭の生存）を破壊するようなことがあれば、あなたはどう思いますか？
自分が信仰する宗教の宗派（家庭の存続）だけが正しく、他の「兄弟姉妹」などの親戚家族や彼らが信仰する宗教は信じられないというのか？これは　上天が許さぬことである。自分にとって正しいものが、他者にとっては正しくないなどということがあろうか。実のところ、皆同じ家族なのだ。
信仰に執着すれば、すべてを見失う。
もし、信じられず、親しめず、他の宗教に入ることができないならば、必ず明らかにしなければならないのは、宗教の不足と欠陥はどのようなものかということである。つまり、「儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教」という五つの宗教の信仰は、ちょうど一つの花の五つの花弁のように互いに融合し、現代の世の中で、まさに地冥星によって導かれるのである。
様々な人種が暮らす地域において、異なる宗教が互いに信仰を融合させることは、それぞれの異なる信仰がそれぞれに優れた向上をもたらすと言えるでしょう。「慈悲、惻隠、清真、無為、博愛」という五つの教えが互いに融合し、より優れた信仰の拠り所となることで、人々は皆、より高みへと成長していくことができるのです。
発信される真実の理諦は、いかに殊勝であることか。お尋ねしますが、これらすべてを自らの信仰の拠り所に融合させることは、単独の一宗教に比べて、より大きな作用をもたらすのでしょうか。信仰は自らの精神のよりどころであり、また相互に執着するものもあります。これは人道世界において、異なる風俗や民情に基づく信仰によるものです。
いかなる国や宗教も区別せず、また各地域の風土や習慣の違いによって、異なる宗教信仰が生まれます。その帰属と方法は、一つの方法で全世界を一つの宗教だけにまとめることは決してできません。また、地冥星のすべての霊魂と生きとし生けるものが、それを好むでしょうか？
宗教的迷妄をいかにして取り除くか
必要に応じて理解すべきは、異なる地域の人種が、それぞれの地域の宗教的信仰に対して、大いなる方向性の精神を支柱としていることである。これこそが、上蒼がなぜ異なる宗教を下化させたかの理由であり、すべての人倫世界の生存の指向は、たとえ同じ冥王星の中にあっても、同じであるからである。
各地域にはそれぞれ異なる生活習慣があり、これは紛れもない事実です。決して中国の炎黄信仰を西洋欧米諸国に押し付けることはできず、また中国の信仰様式を西洋欧米諸国のあらゆる信仰に強制することもできません。さらに、中国の炎黄の子孫は白米を食べて育ってきたのです。
一方、西洋欧米諸国の人々はパンを食べて育っており、この食物連鎖はすでに異なっています。どうして一つの白米飯をもって、西洋欧米の国々に強要することができるでしょうか？さらに言えば、もし小麦粉（パン）を用いて中華の炎黄子孫の食物連鎖に強引に組み込もうとするならば、あなた方はそれに適応できるかどうか、果たしてどうでしょうか？
必要に応じて徐々に慣れていくしかありません。これはあなた方の宗教信仰に押し付けられるものであり、食物連鎖も同様です。あなた方が適応できるかどうかは分かりません。有情の衆生が理解できるかどうかも分かりません。現代の時代を見れば、宗教は次第に融合しつつあります。食物連鎖と宗教信仰において、中土の炎黄子孫にとって白米飯と宗教信仰は切っても切れない関係にあるのです。
各地域の生活様式はそれぞれ異なります。
次第に融合していく中で、西洋欧米諸国は、また西洋欧米諸国も信仰とパンにおいて、次第に中華の子孫と融合しています。あなた方はこのような行動をとっているでしょうか？もはや白米だけを食べるのではなく、すでにパンを受け入れるようになっています！しかし、西洋欧米諸国も同様です。
中華料理に次第に慣れ親しみ、いやむしろ、すでに食物連鎖の中に溶け込んでいるように、こうして次第に中国本土の「儒・道・仏」という宗教信仰も認めるようになりました。今の時代はもう地冥星－地球村なのです！もし依然として昔の唯我独尊の宗教信仰を打ち破ることができないなら、どうしてさらに大きな円満と融合を成し遂げることができるでしょうか。
未来の宗教的信仰は、真に各宗教の優れた点を相互に補完し合い、自らの信仰が「三教同宗、五教同源」を融合させることができるようになるでしょう。さらに、現在のあらゆる宗教は皆、同じ　上蒼（神）から派生したものであり、ただ体系が異なり、因縁が異なり、聖なる務めが異なり、使命が異なるだけなのです。
ただ異なる導きの因縁があり、それに帰依し信仰するだけです！もしこのような思想観念を持たなければ、未来において向上し成就する過程を望むことはできません。このような宗教の公正で平等な審査を、あなた方は無事に通過できるでしょうか、それとも他の宗教について話すだけで、歯ぎしりするような仕草を見せるだけでしょうか。
信仰におけるすべての迷いと障害
このようないわゆる信仰者は、一瞬にして不平等な信仰者に追いやられてしまい、それでもなお上昇し、超越し、回帰しようと妄念を抱くことができるだろうか？わずかな宗教的平等の融合さえも試練に耐えられないのに、どうして上昇し、超越し、回帰する条件を備えることができようか？これは不可能なことである。
自分が宗教に入ったにもかかわらず、なぜこのような不平等・不公正な思想観念を持つのかを理解しなければなりません。それは先導する信仰者が保護し、自分自身の宗教的思想観念が不正確であることによって引き起こされるのです。もしそうなら、皆さんにお尋ねします：自分が信仰する宗教以外に、天下第一の宗教があるでしょうか。
自分自身の兄弟姉妹、親族が信仰している宗教は、果たしてすべて間違っていて信仰に値しないのか？それはあまりにも独断的だ！必ず他の兄弟姉妹たちから非難され排斥されるだろう。これは健全な宗教的信仰の考え方ではない。各人が信仰するものを互いに認め合う必要がある。
信仰は成長するものなのです
また、あなたの親戚（兄弟姉妹）の宗教信仰を称賛することは、あなた自身が良くなりたいと願っているかどうかに関わります。あなたは、自分の兄弟姉妹の宗教信仰も皆良くなることを望まないでしょうか？これは、上天が公正かつ平等にすべての宗教の流派を降ろし、異なる縁を持つ人類衆生を導き、異なる宗教体系の中に入らせるためなのです。
分別しないということは、様々な異なる宗教が持つ教育文化を区別しないことであり、つまり有情衆生がただ一つの宗教の信仰だけを選ぶことを許さないということです！もし自分がこの一つの宗教の信仰に適応できない場合、他に信仰を選ぶ宗教もなくなるのです。そうなれば、どうして世の中で真の信仰を高めることができるでしょうか？非常に難しいことです！
ただ、この信仰への帰依については、必ずとても真実のままに、有情衆生に信仰のよりどころとなる行動を与えることが必要です。これこそが真実のままに異なる宗教を信仰することであり、それによって各人の興味に応じて選ぶことができるようになります。そうすれば、ただ一つの宗教だけを学んで成長するだけではなく、根本的にそのような限界にとどまることもありません。これは上蒼の基本的な意図ではないのです。
信仰の迷妄は改め得る　　宗教の教義は迷いの道を阻む
いかに融合させるか　　思想を確立し観念を固める
有情なる衆生の不足は、皆、観念の統一が難しいためである。
人々の縁は互いに融け合うべきであり、天は下界に宗教の配慮を下し給う。
この偈は！有情の衆霊子たちよ、あなたがたが宗教に入るにあたり、自らを向上させ、信仰において悪業を造ることのないように。それは無意味であり、自らを高めることもできません。他の宗教との平等で公正な信仰体系に対し、また自らと他の宗教が互いに傷つけ合うことは、実に恐ろしいことです。お分かりでしょうか？皆様、お付き合いいただき、崇心宗脈にしばらくお邪魔いたしました。ご苦労さまでした。ではまた。
虚空彩雲仙姑
虚空に彩雲が立ち昇り、台に登るが如く
大道の衆生、宗教を整え列ぶ
迷いの障りは必ず改めねばならぬ　　一つに融け合ってこそ上蒼の愛を得る
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は東華帝君本尊が降臨され、「大道衆生」第五回を著述されました。信仰に関する迷妄を極めて明晰に分析し、汝らと有情衆生が自らの信仰する宗教を確信する必要性を示されるとともに、他の宗教の信仰に対しても肯定と讃嘆の心を持つべきことを教えられました。
この世には、すべての長所を兼ね備え、すべての人類衆生に完全な信仰のよりどころを提供できる宗教は一つもありません。では、なぜ上蒼はこれほど多くの宗教信仰を生み出したのでしょうか？それは、異なる地域、異なる人種、異なる因縁、異なる国々の衆生が互いに補い合い、信仰のよりどころを得られるようにするためなのです。
崇心宗脈は、諸天仙仏の先生方が下さった豊かな資糧の源に感謝いたします。幸いにも、天下のあらゆる宗教の優れた点を融合させることができ、信仰のよりどころとすることができます。真に向上を目指すことが、まさに如実であり、自分自身の未来に対する責任を果たすこと、そして他の宗教の信仰に対して相互に讃嘆することにつながるのです。
感謝いたします。天がこのような殊勝な大いなる因縁の契機を与えてくださったことにより、必ずや自己を成就し、有情なる人類衆生を救済することができます。すべての良き因縁条件は、往来し増長し向上し超越していくのです。これは人世间において甚だ稀なる天機の良縁であり、しっかりと大切にすることが正しい道であります。皆様、ご苦労さまでした。またお会いしましょう！
2014年9月4日18時05分◎＃※   ０Ｋ＃
西華帝君
第九回　宗教経典
第十六回 　眾生佛性
2008年3月21日　戊子年二月十四日（金）
第五回　 信仰障礙
西華は崇心に降臨し
帝君の徳沢は福を導く
衆生天書第十回　　人類の根性改まるべし
第十七回　 佛性德性
2008年3月28日　戊子年二月廿一日（金曜日）
第六回　 宗教障礙
宗教に入るには様々な障壁がある
元来は、有情の衆生に上昇と超越をもたらすことを願っていましたが、なぜ宗教的な障礙があるのでしょうか？今日の世の中でいわゆる宗教を見ると、宗教に入った後、すべての機能がどのように行使されるかを知らないのです。これもまた、今日のいわゆる宗教的修行が、自らを向上させる縁となるものです。
しかしながら、これは真に有情の衆生の原霊子が上昇し、超越することを達成させることはできず、むしろ、ひたすら人間界で潤いある生を送る輪廻を繰り返すことになります。根本的に理解することもなく、また、このような宗教的障害を除去しようとするとき、自らが上昇し、超越する力を与えることができず、むしろ、沈淪と輪廻に陥ることになるのです。
有情なる衆生が上昇し、超越するための教育と教化をいかに行うべきか、宗教の本質を理解する必要があります。それは「人を善へと導く」ことにあり、また多くの宗教を信仰する者たちは、外界のあらゆる善縁よりも、より穏やかで親しみやすい態度をもって相互に行動し、また世間では、宗教に入った者は皆善人であると考えられています。
皆がこう言える：つまり「修行を積んだ人」のことであり、これは紛れもない真実である。もし現代の五大宗教を、人道世界に対して見るならば：この行為と動作は、キリスト教の「博愛」の実践に対しては、より人道世界を肯定するものと言える。しかしながら、キリスト教は西洋・欧米に伝承された後、さらに全世界へと広がっていったのである。
宗教の本質は人を善へと導くことにある
これには理由がないわけではない。キリスト教の「博愛」が仏教の「慈悲」よりもさらに深いものであることを理解すべきである。儒教の『礼運大同篇』に示された理念を実行に移すならば、それは中国の地で生まれたものではあるが、なぜ中国本土では実施できなかったのか？むしろ、西洋欧米諸国においてこそ公布施行されることになったのである。
「儒家思想」の実践が難しいのは、中土の人倫世界において高められながらも、人倫世界によって提唱されることができないからである。このような行為への依存について、儒教と道教の観点から見れば、道家と儒家が説く「無為、惻隠の心」は誰もが持っているが、それが発揮されないのである。
また、どうして機能や効果があると言えるでしょうか？そうではありません！イスラム教の観点から見ると、その礼拝「清真」は無為の行いであり、これは単に天帝なる神を崇拝しているに過ぎません！「博愛思想」を広めることは非常に難しく、また宗教を基盤としているため、人道世界を向上させる縁となる本質的な部分にあります。
才能は非常に真実に即しており、人為的要因に対しては上に向かって宗教的信仰に依拠し、また宗教の本質は「人を善に導く」ことにある。もしキリスト教の「博愛」を世間に向けるならば、儒家の「礼運大同篇」と比較して、優るとも劣らないと言えるでしょう。つまり、いかにそれを実践するかが問題なのです。
宗教の成長をいかに実現するか
このような因縁条件は、なぜキリスト教の本質において「博愛」の実践として人道世界の全ての行為を提唱し、その行使動作に依拠するのか。このように「博愛思想」が仏教でいう「慈悲」を凌駕し得る時、それはあらゆる行為動作を相互に比擬することになるのである。
五つの教えから見るならば、さらに慈悲、惻隠、清真、無為に博愛を加えてこそ、人道の行為が依拠する基盤が生まれ、すべての必須の基本的認識が成り立ちます。このような宗教の本質は、すなわち清真、無為、慈悲、惻隠に博愛を加えたものであり、いかにして実践するかという問題でもあります。
また、「儒・道・釈・耶・回」の五大宗教を融合し、互いに高め合い超越することもできます。それは、上天が「三教同宗、五教同源」を展開された時から、大宇宙の中で互いを完成させるためであり、ただ一つの宗教の流れを修するだけではなく、善良な成長は難しいことです。
有情なる衆生の子よ、はっきりと理解しなければならない。上天がなぜ「三教同宗、五教同源」という基本理念を下ろされたのか、その目的は何か。それは「儒・道・釈・耶・回」の諸宗教が、「慈悲・惻隠・清真・無為・博愛」という境地へと互いに融け合い、入っていくことができるようにするためである。
五教公正平等の公律
また、この「五教」に対して向上心を持ち、自らが宗教に入った後も互いに排斥し合ったり誹謗し合ったりすることがないようにすることができます。そして、このようないわゆる宗教的信奉者は、すでに現在において最初の公正で平等な思想観念を持っていると言えるでしょう。これはまさに、なぜ近年五百年の間に上天がそうされたのかということです。
五教のすべての審査の基本概念から、すべての宗教の本質は公正で平等な思考体系に依拠しています。宗教に入った後、もし自分の信仰する宗教が天下第一であると言うなら、それは非難されるべきことではありませんが、覚えておいてください！覚えておいてください！自分が最大、最優、最も勝れているからといって、そうしてはいけません。
他の宗教派閥を排斥し誹謗するようになれば、たとえあなたがこの一生でどれほど高い功績を積み、どれほど多くの原霊を救済したとしても、宗教上の昇格審査の段階で即座に落第し、再び位置づけをやり直すことになる。あなたがこの世で積んだすべての功績の根拠は、これによって定まるのである。
もし高い壁が築かれる時には、それは有情の衆生がより大きな向上へと進むことを阻むことにもなります。心は、自分が信仰する宗教が天下第一であると自ら理解することは、やむを得ないことです。もしこのような思想や観念を明確に理解できれば、今日の世の中にあるすべての宗教の優れた点を融合させ、自らをさらに超越し向上させることができるのです。
宗教にはすべて善良な教化がある
必ずや、自分が人道世界に入り、五教の精華を真に吸収し、自らが真に理解できるようにすることである。上蒼の基本的な徳沢とは何か？自分が向上できない障害はどこにあるのか？これは人道世界において、自らが宗教に入った後、宗教の迷妄による障害を受けないようにするためである。
さらに、自分自身のさらなる学びと成長を妨げることさえあります。今や世界はすでに地球村となっています！すでに天涯は隣人のごとく、しかもこう言えるでしょう：朝に出発すれば午後になる前に、すでに地球の大半を巡ることができるのです！このような時空の因縁において、どうして過去の宗教的な迷妄を取り除くことができるでしょうか？
これは、上天がすべての人々の世界に対して、ただ異なる地域や国の宗教的信仰に応じて、また上天がそれぞれの異なる宗教に下ろし、異なる人種に信仰の拠り所を与えることです。それゆえ、黄色人種は、自国の道教と儒教を信じ、また黄色人種は仏教も信仰しています。
白人と黒人はキリスト教とイスラム教を信仰することができ、現代の異なる国々において、異なる宗教的信仰が存在することで、有情の霊魂たちは自らが興味を持つ宗教を選ぶことができ、信仰の道に全身全霊で打ち込むことができる。このように異なる国々が信仰するものは、各人の興味によって選ばれたものなのである。
宗教信仰の迷妄による障害
人道世界において依り所とするものは、人種や国家の違い、異なる宗教信仰にあります。これはまさに「一花五葉」の如き宗教信仰であり、人道世界への信仰において、なぜ迷いの障壁に遭遇するのでしょうか。宗教に入ることはできないのでしょうか？そうではありません！宗教に入ることは、自らを高め、すべての不足と迷いの障壁を乗り越えるためのものであることを理解しなければなりません。
この宗教の中だけであっても、もし宗教的な迷妄の障害を打ち破ることができなければ、他の宗教の中から自分が求める答えを得ることができます。これは自分が信仰する宗教に対する迷妄を取り除き、自分の不足と欠点を改めて正しく改める方向を見出すことで、良きものが増長していくのです。
一切の有情衆生は宗教に入った後、また宗教の不足によって迷いの障りを受け、この生、この世においては根本的にただ迷い、茫然とし、盲目であり、宗教的信仰に過ぎないと言える。言うならば、現代の20世紀以降から見る宗教的聖戦、および20世紀以前のすべての時代において。
これらのいわゆる宗教的聖戦について、あなた方はどのようにお考えでしょうか。本来、宗教に入った後は、自らが「清浄、惻隠、慈悲、無為、博愛」を真に信仰すべきところ、かえって宗教の指導者たちに鼓吹され、この一生を自分の宗教だけを信仰することになってしまったのではないでしょうか。
宗教の障害はどのようにして取り除くか
他の宗教を信仰することは許されず、もしそうすれば「道に背き、教えに背く者」となり、必ずや宗教の天罰を受け、さらには身を滅ぼす災いに遭うという。このような人々を脅かす宗教の指導者は、まことに罪赦すべからざる存在である。なぜなら、いかなる宗教もそのように、後進のすべての門徒や弟子たちを教え導くことはないからである。
もしこのようないわゆる宗教があるならば、それは真に信仰に値するものなのか？まさにそうではないのです！しかし、このようないわゆる指導者たちが鼓吹し、さらに宗教に対する忠誠な信仰者たちに、名もなき忠誠理念を強く植え付けた後、自らの宗教に対してわずかでも批判や言葉による弁解があれば、たちまち集団で反撃を加えるのです。
この宗教の信奉者であり、後進の門弟や学生たちは、自らの宗教の面目のために、許しがたい罪悪を犯すことになる。では、この罪悪とは一体どのようなものか。それは先導者の言葉を通じて、これらの後進の門弟や学生たちに、真に悪業、悪果、悪禍を積み重ねさせることである。
このように言えるでしょう：このような宗教信仰者は、あなたがたが求めているものかどうか？宗教信仰に依り所を求めることで、天下の兄弟姉妹の宗教を一家の親しいものとすることができる。ただ、それは　上天が派生させた、大いなる天地の宗教に過ぎないのです！もし自らの宗教を肯定し、さらに広めようとする時には。
宗教の迷妄は速やかに解消されなければならない
また、自分自身の兄弟姉妹や他の宗教に対して、互いに称賛できるところがあれば、いわゆる「自分が信仰する宗教だけが正しく、他の兄弟姉妹が信仰する宗教は正しくない」という考えは存在せず、すでに公正さと平等さ、互いを高め合うことを失っていると言えます。さらに言えば、もし他の兄弟姉妹の宗教があなたに従わないならば。
また、集団が立ち上がって反撃し、あなたが信仰する宗教に対して、あなたに一体どう言えるでしょうか？つまり「自業自得、自らの悪果は自ら償う」ということであり、これは上蒼が備えるべき基本的条件ではありません。さらに、あなたが信仰する宗教を天下第一と称することは、自分自身を真に肯定するだけでなく、自分と同じ信仰を持つ兄弟姉妹の宗教も肯定し称賛することが、正しい道であり正しい姿勢なのです。
宗教の迷いの障りに気づかず戻らず
固い志の信仰は必ずや転じ難し
自己を肯定し他人を称える　　これは公正平等の観念である
信仰の大道に入れば　　有情の衆生皆追い従う
忠誠堅固なる志を継ぐ後進たちよ
弘め広げてこのように推し進めん
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、自らが宗教に入った後の迷いと障壁とはどのようなものかを示す。これは千古の昔から、宗教信仰に対して公正平等な相互扶持と賛嘆ができなかったことによるものである。時が移れば法も移るという道理を悟らねばならない。これはすでに五百年前に、公正な綱領が再び修訂され、更新されているのである。
「五教」が相互に融合し、引渡し成全することは、これもまた　上蒼が繰り返し標榜する徳沢と福祉である。崇心宗脈の学生たちが、第一手の資料において、まず「五教」の公正かつ平等な思惟体系を確立できるかどうかは分からない。本日はご相伴いただき、著作にご協力いただき、皆様お疲れさまでした。崇心宗脈の皆様にはしばらくお邪魔いたしました。ではまたお会いしましょう！
虚空彩霊仙姑
虚空の因縁は本来異なり　　彩霊が凡に降りるは大道の功
仙姑は今日当番を務め　　縁ある賢き人々と共に会す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の修学士の皆様、こんばんは。本日は五華帝君の一柱である西華帝君が降臨され、「大道衆生」第六回を著作されました。宗教の障礙を明らかに剖析し、自らが上蒼の徳沢と条綱が如何なるものであるかを理解できるようにと願っておられます。
崇心宗脈の殊勝なる著作があるからこそ、未来の「三教同宗、五教同源」という大いなる融合を開くことができ、大いなる天地のあらゆる宗教の流派は、すべて上天が分化させた様々な因縁であり、有情衆生に対して公正で平等な思惟体系を用いることで、自らがより大きな成長と収穫を得ることができるのです。
これは、上天が人間界に示された宗教であり、より大きな吸収と理解があると言えます。また、有情の衆生が宗教に入った後、いかに迷いや盲点があるかを自覚させます。自分が信仰する宗教や、兄弟姉妹である他の宗教に対して公正かつ平等に向き合い、互いに賞賛し肯定し合うべきです。
すなわち、上天がこの期に宗教平等の殊勝なる使命を授けられたことは、五百年後には互いに融合し、宗教の名称はあれども宗派の垣根はなく、未来の衆生の福祉の方向が依って立つところとなるであろう。本日は今年最後の二回目の著書であり、次回の著書をもって丁亥年の一切の聖務を終えることとする。さあ、皆様、ご苦労さまでした。では、またお会いしましょう。
2014年、9月5日、15時15分◎＃※   ０Ｋ＃
南華帝君
第十回　衆生の根性
第十八回　 德性眾生
2008年4月1日　戊子年二月二十五日（火）
第六回　 宗教障礙
南華降り来たりて天書を著す　帝君の徳沢、衆生に殊なり
大道の系列は弘化を展開し　教義の障害は必ず除くべし
第十一回　 衆生の魔性
第十九回　  善性道性
2008年4月4日　戊子年二月二十八日（金）
第七回　 教義障礙
宗教を信仰すれば、善良さが向上します。
宗教の本質とは、人々に「善」を勧めるとともに、自らを向上・超越させる基本的な役割を果たすものであり、その教義は各宗派が基本的に備える綱領と戒律です。これらは遵守すべき主要な根本因縁であり、もし宗教の教義を遵守できない場合
それでは、宗教に入って修行や学びを行う必要もないことになります。有情の衆生は、自らが宗教に入った後のすべての行為や動作を理解し、それを通して自らを学び成長させなければなりません。これは必ず備えるべき基本的条件であり、さらに、自分が宗教に入った後のすべての行為と動作がどのようなものであるかを観察する必要があるのです。
教義的迷障―有情世界のあらゆる宗教において、最も打破し難い大いなる障害は何か、また何故そうなるのか。これは宗教の教義課程を通して観るべきであり、人道世界のあらゆる衆生が宗教に入った後、いかにして自ら向上と超越を達成するかという問題である。
しかし、往々にしてこのような機能の効果に従うことができず、自分自身に対して破れない迷いの障壁を生み出し、宗教の内側において、なぜ経典と教義による迷いの障壁を受けるのかを理解することもできません。これは、すべての経典と教義を制定する際に、弟子や学生たちが従うべき綱領を加えることが、まさに真実であることを示しています。
各宗教の異なる優れた特質
また、各宗教の経典と教義は、それぞれの宗教の基本的な精華である。これらを確実に遵守し、戒律と綱領を共に守り、後進の学生や門徒たちが、昔の宗教の聖人や先賢たちの努力に従い、いかにして向上し超越するかを学ぶべきである。
これはすなわち、上天が各宗教に授けられた基本綱領であり、これまた紛れもなく、人道世界における宗教各派に対して統一された綱領と制度であります。したがって、各宗教の制度における綱領と戒律は、往時の宗教聖人と先賢たちの苦難に満ちた歩みに基づき、その綱領と戒律が定められたのであります。
各宗教の依拠する機能作用に従って、後進の学生や門徒の訓練において、その過程のすべての機能作用を相互に遵守することは、宗教の経典と教義の基本的な役割である。
◎
宗教の教義と経典は、後進の門徒や弟子たちにとって、戒律と規範の実践において相互に支え合う機能を持ちます。後進の門徒や弟子たちが経典と戒律、そして教義に従って完成されるかどうかは、必ず後の伝道者たちが、あらゆる宗教の不足や欠陥を正し、改善していくことによって成し遂げられるものです。
宗教化を通じて人間の習性を変える
現代の門徒や学生たちに対して、何を越えてはならず、どのように実践すべきかを規定できるだろうか。これは各宗教の教義と経典が、後世の伝道者による修正を経て、戒律や綱領、教義や経典として改めて制定されることである。
このように、第一世代の宗教の聖人や先賢者に対しては、未来への期待がより広く発展させる力となります。これは紛れもない必然性であり、もし広く発展させなければ、どうしてその教義と経典を広めることができるでしょうか。このいわゆる宗教というものは、本来このようにあるべきなのです。
これもまた、宗教の経典と教義に対する迷いの障壁であり、往々にしてかつての宗教の聖人や先賢たちの期待通りには、後世の伝道者たちの本来の意図に沿って修正や変革を経ることができず、原始宗教の聖人や先賢たちの基本的な原意に従うこともできなくなってしまう。世代の移り変わりを経るうちに、
ある地域や国家が変遷と改変を経た後、もはやかつての宗教聖人や先賢たちの本来の意図に従うことは難しくなります。後世の伝承者たちが繰り返し、この原始的な宗教聖人や先賢たちの本来の意味を修正し改変してしまうからです。
信仰は必ず向上へと高めていかねばならない
全く一致することができず、原始宗教の聖人と先賢たちの基本的な意図を、後進の門徒や学生に提供して、真に上昇・超越させることも、原始の第一者（道）の修行成就の方法を向上させることもできません。そして様々な異なる修行方法が存在し、
すなわち、かつての宗教の聖人や先賢たちの努力と苦心を変えてしまうことは、宗教の経典と教義における最初の迷いの障壁を突破することはできません。教義経典の迷いの障壁に陥ることは、宗教教義の基本的な機能が、上蒼の基本的な要義に合わせて実施できないことであり、これは常に起こりうることです。
一つの国、一つの地域、一つの団体の違いがある。宗教の指導者がそれぞれの国情、風土、民俗の違いに合わせて導くことで、異なる修行と実践の方法が生まれる。これは今日の世界を見ればあまりにも多く、いかなる是非、正邪、正誤を論じることはできない。
ただ、かつての宗教の聖人や先賢たちの努力と心血に基づいて、上昇と超越を達成することができないだけであり、これは見ることができる。今日の天下の宗教はすべてそうであり、昔もまたそうであった！なぜ宗教に入った後、皆が自分の不足と欠点を修正し、改善することをずっと期待しているのか？
人類生存の宗教的名称
この人生この世において、自らが真に向上超越し、本来の故郷へと回帰することができるようにする。しかし、なぜ宗教に入った後、自らが向上できないという障害に直面するのか？宗教の経典と教義に対する障害とはどのようなものかを理解しなければならない。なぜ有情世界の衆生は修行と変革を望むのだろうか？
しかし、自らの日常生活において、かつての宗教の聖人や先賢たちの修行方法に従って成就を遂げることができないのはなぜか。また、宗教内では常に経典や教義の訓練と薫習があるにもかかわらず、第一世代と第二世代の宗教の聖人や先賢たちがどのようにしていたかを理解するにはどうすればよいのか。
その堂奥がどのようなものであるかを真に理解することは、いとも簡単に達成できるのでしょうか？その後、第三代から現在に至るまで、第一、二代の原始的な因縁と同じようにはいかず、大きく変化してきました。
宗教経典の体得と迷妄の悩み――これは千古より、宗教経典の教義における最大の迷妄であり、
もし第一手の資料の気場と磁場を深く体得できれば、このいわゆる臨場感とはどのようなものか？後進の門徒や学生にとって、宗教の経典と教義を通じて、経典と教義の中にある、すでに二手、三手を経たものを、自らの体験を通じて理解することができる。
人類は宗教を通じて学習し成長する
さらに、宗教の教義と経典の解釈を明確にすること。これは各人の体得（証）の違いであり、各人の成長した時空環境の違いに加え、各人の学識や理解の違い、各人の心性の体得の違いもあり、このような様々な違いによって、さまざまな異なる体証と解釈が生じるのです。
しかし、往々にして真正の第一手資料、この臨場感を持って自ら真に明晰になることができません。ちょうど今、私たちは「大道衆生」第七回を著作していますが、諸賢生の皆さん、後ほど各自で尋ねてみてください、各自の体悟（会）はどのように異なるでしょうか？
これが様々な異なる体得の直接体験過程を生み出すのであり、第一手資料の臨場感にこそ、あなた方が堂奥を理解できる基本的な機能作用があるのではないでしょうか？またこうも言えます：いかにして真に「明心見性、開悟證果」を自ら体得できるか、あなた方はこれをどうお考えですか？
宗教教義経典の正しい明晰さとは、各宗教の経典と教義が、後進の学生と弟子たちによってそれぞれ異なる感受を体得することを通じて現れるものである。根器の優れた者は、様々な異なる感覚を容易に体得することができる。根器が中程度の者は、ただ「とても良い」と感じるだけで、その所以を言葉にすることはできない。
人類の衆生が持つ劣性の根基
根機が劣っている者は、そもそも何の感覚もなく、あってもなくてもよい存在である。これは各人の体証の違いであり、これは各宗教の経典と教義に対する異なる体証であり、またかつて中国で用いられていた「文言文」による経典の解釈が、経典に対する異なる認識を生み出したのである。
さらに、現代の世の中で用いられる「白話文」に対する異なる理解が加わります。このように言えるでしょう：文言文に対する理解と白話文に対する理解はまた異なり、それぞれの時代と空間の因縁の違いが形成され、それぞれの国や地域、風土や習慣はさらに異なり、それによって教化を導く者たちの理解も異なるものとなります。
したがって、後進の門弟や学生への教育と教化はさらに異なっており、これらすべてが重なり合う中で、あなた方は果たして「本来の味わいと本質」を保っているでしょうか？実はすでにずいぶんと変質しているのではないでしょうか？このいわゆる宗教的な修行の方法は、それぞれの異なる時代や王朝を経て修正を加えられるうちに、またもや別物になっているのです！
ゆえに「毫厘の差が千里の誤りを生む」というように、これらのいわゆる宗教後進の修行者たちは、どうして真にその原始教義を理解し、向上超越を達成することができようか。この中にはまた、中途の指導者が蛇足を加え、本来はとても素朴であった修行の変革に、余計な枝葉や瑣末なことを付け加えてしまっているのである。
後進の学生はどのように向上し、超越するか
後進の門徒や学生に対して、どう適応すべきか分からないのでしょうか？根本的に言えば、これらのいわゆる宗教の教義と経典はすでに変質しているのです！どうして真の向上と超越があり得るでしょうか？それは不可能なことです。いかにしてこれらの無明の障害を打破するかを知る必要があります。
初めて自らの修行方法に対して、向上を目指す成長が可能となり、これは現代のあらゆる宗教宗派が理解し得ない迷いと障害なのです。
経典と教義の実践―その本来の教えがどのようなものであったかを、本当に理解することはできるのだろうか。また、五教の経典と教義はそれぞれどのようなものなのだろうか。
どの宗教にもそれぞれの優れた点があり、また不足している点もあります。もし公平な修行の方法をもって、これらの長所を高め、短所を捨て去ることができれば。これは、自分自身が将来どのような宗教の流派に入って修行するにしても、真に向上を達成することができるようになります。
ただ一つの宗教の修行方法に限定されるわけではありません！なぜなら、上蒼の基本方針は、人道世界のすべての宗教に対して、「儒・道・釈・耶・回」のあらゆる宗派を区別せず、現代のすべての新興宗教も同様に包含しているからです。その修行方法はすでに修正されています。
五つの教えの修行にはそれぞれ優れた特徴がある
大いなる方向性を有する施行の機能と効果は、現代のあらゆる宗教の修行者に、相互に融合できる修行の功徳を授ける。これは上蒼が現代の衆生に対して、大いなる方向性を以て公論を定め、条綱を制定し、有情なる衆修行者たちが共に遵守できるようにするためである。
これによって初めて、人間世界の経典と教義をありのままに理解し、互いに融合させることができ、何の断絶も不都合も生じないのです。なぜなら、宗教経典は異なる国や地域の風土や習慣に応じて、互いを補い合い高め合うものだからです。これは紛れもない真実であり、人間世界のあらゆる行為や行動に対して
真に成長と完成に至ることができるということは、これもまたすべての宗教の経典と教義に対して、かつての宗教の聖人や先賢たちの苦労が無駄にならず、彼らの努力が埋もれることなく、宗教の不足や欠陥に対して真に自ら向上し超越することを指しています。
宗教経典の迷いの壁　　教義の根本は守り導くこと
有情の聖人と先賢たちは、
苦労して造り上げたものは同じではない。
経典教義の障りを知りて　　一部は昔より弘め難し
如何に風土情に合わせるか　　各々の国々で融合が顕れる
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、未来の宗教経典と教義に対して、必ずやより大きな成果を上げなければならないことを示しています。時が移れば法も移り変わるように、上天もすでに再調整を行い、過去の宗教経典と教義における不足や欠落を修正し、変化させています。これは未来において必ずや全面的に融合するものであり、
それはまさに、ありのままに自分自身を成長と学びの達成へと導くことです。大きな方向性を持つ信仰と帰依こそが正しい道です。心を込めてお付き合いいただき、崇心の皆様にはしばらくご迷惑をおかけしました。皆様、またお会いしましょう！
虚空霊意仙姑
虚空より降り来たり崇心堂
霊意の徳沢 衆に欣賞せらる
仙姑は丁亥年の末に　有情の神仏樣と共に会う
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院および院修学士の皆様、こんばんは！本日は師が「大道衆生」に対する第七回著作の当番を務め、五華帝君より南華帝君が降臨され著作をなさいました。教義の障害を極めて明確に分析されており、これは未来の衆生が自らの信仰における迷妄を改め除くことができるかどうかに対するものです。
また、なぜ第一手資料において、人々はその中の奥義をはっきりと理解できるのでしょうか？このように第一手資料が明確になった後、第二手以降の資料では、いわゆる臨場感が欠如し、その場で上昇や超越と平凡な体証、そして下降と輪廻の違いを実証することができなくなります。
今年丁亥年の『大道系列天書』の著作は、ここにて全て完了いたしました！来年戊子年の正月九日より、改めて本宗脈『大道系列天書』の著作を再開いたします。また明日もなお禅機をもって迷いの障壁を破る聖務が続き、すべてはこれからも諸賢生の皆さまと共に、未来の弘揚と衆生救済を成し遂げてまいります。
来年は大きな変化があるでしょう。これは十一年の歳月を経て成し遂げた成果ですが、本宗脈の救済にはまだ不十分であり、変わらなければどうしようもありません。さて、皆さんお疲れ様でした。どうかすべてが吉祥でありますように。では、またお会いしましょう。
2014年、9月5日、16時55分◎＃※   0K＃
北華帝君
第十二回　魔性と生まれつきの性質
第二十回　 自性道性
2008年4月8日   戊子年三月初三日（火）
第七回　 教義障礙
北開大道系列冊　　華胄の衆生、本自ら徹す
第十三回　衆生の秉性
第廿二回　  自性自渡
2008年4月15日  戊子年三月初十（火）
第八回　 經典教義
すべての宗教はそれぞれの経典に依拠している
すべては「人を善に導く」という依りどころを基本構造としています。この中で、なぜ宗教による区別が必要なのでしょうか。異なる国や民族によって信仰が異なるのは、それぞれの国や民族に特有の習性と慣習があるからです。現代の世界を見渡せば、あらゆる宗教はそれぞれの宗教の聖人や先賢たちを依りどころとしてきたのです。
宗教の本質を理解できるのは、大宇宙の天地における異なる人種と国々によって、異なる「食物連鎖と事象の連鎖」を区別するときである。それによって、異なる生活習慣を通じて、人為的要因が相互に補完し合い、地冥星に暮らす中で、安全で快適な生活空間を得ることができるのである。
人々の生活習慣を支え、枠組みを与えることができる。各宗教の長所と短所、優劣は、過去二千年余りにわたって解き明かすことのできなかった謎であり、約五百年ほどの時空の因縁を経て、現在の時代において「儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教」のあらゆる宗教が、信仰者たちによって相互に支え合う状況が生まれたのである。
また、各宗教の経典と教義は、その体系と戒律を定め、全ての人が共に遵守できるものでなければ、それぞれの宗教の戒律や綱領を越えることはできません。これは、現代のあらゆる宗教の経典と教義が、人間世界のすべての信仰の拠り所を成就するためにあり、さらに宗教の経典と教義は、より高みへと超越していくことができるのです。
経典と教義にはそれぞれ優れた点がある
学生や後進の信徒に提供される思考体系はどのようなものか？戒律の条綱によって定められた規範はどのようなものか？これら信仰者にとって、宗教的信仰に入る一切の行為・動作は、外界とは異なるものとなる。それゆえ、外界の修養を持たない衆生に比べ、彼らはより強い信仰と修養、戒律を拠り所としているのである。
これは現代において、「儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教」の区別なく、すべての宗教、さらには新興宗教を含むあらゆる信仰が、宗教への信仰によってより大きな完成へと至る道こそが正しい道であるということです。しかし、必ずしもそうとは言えません。なぜなら、信仰に入った後、どのようにして向上し成長していくべきかという問題があるからです。
しばしば、自分が信仰する宗教や経典の教えが、信仰者自身が持つべき生活習慣を真に提供できないために、信仰者は宗教を拠り所としながらも、別の生活習慣を持つことになります。それによって、宗教信仰は宗教信仰、生活習慣は生活習慣という別々のものになってしまうのです。
この二つはすでに断絶してしまっている！さらに互いに融合することもできず、また宗教信仰において、生活習慣がすでに異なっているため、どうして自分の生活と信仰が互いに補完し合い、むしろ、互いに両立させることもできず、それゆえ自分自身を向上させ超越することもできないのである。
宗教経典はどのように向上させるか
宗教の経典と教義に縛られると、円満に融合することが難しくなり、必ずや大宇宙のあらゆる宗教が、真に衆生を教化・教育することができなくなる。宗教の信仰を拠り所として、上昇超越を達成しようとするが、果たしてそれが可能だろうか。否である！宗教の信仰経典は、すでに二千余年前の産物なのである。
今この時代において、すでに現在や未来の世代の経典と教義に合致しなくなっている。まさにそれぞれの時代や王朝の違いによって、度重なる回帰と修正を経て、今日に至って言えることは：もはや現在と未来の世代の有情衆生が、宗教に入り真の信仰修行を行うには適合しなくなっているということである。
言えることは、皆単に名義だけを掲げて、自分は修行をしている、自分は宗教信仰をしていると称しているだけです！すでに宗教信仰から離れ、必ず持つべき基本認識を失っています。なぜなら、自らを宗教信仰に入らせ、経典と教義を相互に融合させ、世の中のあらゆる宗教の基本綱領を理解することができないからです。
各宗教の聖人と先賢によって定められたこの道筋は、未来の信徒と学び手が、宗教の聖人と先賢の修行の方法を通じて、真の向上と成就を達成することを可能にします。もしこの綱領を通じて真の向上に入ることができれば、それは天が許す成長であり、また天が望むところでもあります。
宗教経典と教義の向上
さらに、各宗教の聖人たちが切に願う基本的な要務は、約二千年余りの時を経て、宗教の経典や教義を現代の時代に合わせることです。言えることは、すでに時代遅れになってしまったということです！また、現代の世の中にはなかなか合わず、現代人のすべての修行方法は、昔のようにすべて順を追って、修行と改革を進めなければなりません。
しかし、現代においては、世間の「インターネット」を通じて、修行そのものの体系と戒律がどのようなものであるかを理解することができます。また、生活習慣の違いによってしばしば妨げられ、さまざまな異なる修行方法が生まれることもあります。このように見ると、すべての宗教の経典と教義の差異を観察することができるのです。
もし変えることができなければ、すべての古来の修行方法は、おそらく将来において選別されてしまうでしょう。また、将来のすべての宗教の融合は、それぞれの宗教が互いに補い合い、すべての有情衆生の修行方法を助けることになるため、「儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教」といった宗教から、それぞれの長所を取り入れて修行し、改良していくことになるのです。
様々な宗教の欠点を排除し、用いないようにすることができます。これは未来五百年後を目指すものであり、宗教の名称はあっても宗教の壁は存在せず、すべての九二原霊と四億の仏子、そして「借り受けられた」二百余万人のハイテク人材に対し、真の宗教的修行による向上と変革をもたらすものです。
宗教の教義と経典
未来の宗教の長所と欠点は、一つの宗教だけに現れるのではなく、全体のすべての信仰体系の基本的作用に融合されるものである。これこそが、上蒼が信仰の依りどころに与える恵みであり、未来の有情衆生に対しては、「儒・道・釋・耶・回」のあらゆる宗教を区別することなく向けられるものである。
また、すべての新興宗教をも包含するものであり、これはさらに、上蒼が未来の衆生に対し、天地間に存在するすべての宗教の優れた点を、未来の修行者たちを高めるために用い、真に上昇と超越を達成し、その来歴を明らかにすることができるようにするためであると言えます。単に一つの宗教を信仰するだけではないのです！
それは四億の仏弟子すべてを利益することはできず、また二百余万人のハイテク人材の宗教信仰を借りることもできません。このように言えるでしょう：未来にはもはやいわゆる宗教信仰と経典の教義に束縛されることはなく、このような観念を打ち破る必要があります。なぜなら、宗教もただ一つの名相に依拠しているに過ぎないからです。
この大いなる天地の中で、上蒼が下ろされた全ての宗教・信仰に対して、本来はより多くの衆生を救済することができたはずです。しかし、上蒼が下ろす宗教・信仰が多くなり、「千門万教」と言えるほどになった時、上蒼の視点から見れば、これらの千門万教は九二原霊子たちが互いに完成し合うことができるはずなのです。
宗教経典の修正と変更について
このように未来の修行者を導き渡し、上昇と超越を可能にすることこそが、正しく真実の道である殊勝な因縁条件なのです。しかし、天がこれほど多くの宗教宗派を下ろされたのは、本来より大きくより多くの功徳効果を期待してのことでした。果たして天の期待通りに進んでいるでしょうか？必ずしもそうとは言えません！
むしろ、宗教への信仰が増せば増すほど人々は堕落し、人心はますます邪悪で狡猾になる。これは果たして上蒼のご意思と聖務の執行に誤りがあったからだろうか？そうではない。地冥星に入るには、必ずや人間界における生活の方向性を理解しなければならず、食物連鎖の組み合わせが必要であり、それによって初めて事象の連鎖が相互に補完し合うことができるのである。
人間世界の有情衆生は、皆、食物連鎖の必然性から離れることはできず、さらに食物連鎖によって得られるものには、通用する貨幣という縁が必要です。そうでなければ、どうして真に修持と言えるでしょうか？できません！ましてや自分自身が真に実相的な宗教信仰に入ることもできず、それはまさに宗教信仰の経典と教義に向けられるものです。
もはや合致し得ず、現代と未来の世界の数多き衆生にとって、これらの宗教信仰者が上昇し超越するに至ることができず、むしろ抗いがたい渦中に沈淪している現状を鑑みれば、未来の修行者に対し、すべての信仰を融合し改めることが、まさに正道である。
宗教経典と教義の向上
五教經典の優位性を提供することで、大いなる天地の信仰の拠り所を相互に融合させ、もはや単に一つの宗教だけを信仰するのではなくなるのです！それは、将来の宗教的信仰を修める者が、より大きな向上と成就を満たすことができず、また、自らが宗教的信仰の中で真に成長を遂げることもできなくなるでしょう。
さらに、全体の宗教の優れた点を、より大きな超越性の中に融合させることができます。このように、異なる縁による信仰の帰依が、未来の真の平和で争いのない国に入ることができるのは、まさに真実です。また、なぜ諸天の仙仏が、未来において蓮華浄土を高めることができるように設立されたのか、現在すでに初歩的な共通認識があります。
すべての地冥星の有情衆生を、より大きな成長の因縁条件と融合させることができる。これは未来の21世紀から30世紀までの一千年間、すべての宗教信仰がより大きな隔たりと障害を打破し、より大きな向上を遂げ、すべての異なる宗教と融合することになる。
いかにして「虚空実宝浄土」の世界、あるいは「昊天蓮花世界」に到達し、入ることができるか。その時には、すでに人間界の宗教に制限されることなく、未来に至るまで、ただ単に人間界のあらゆる生活習慣や宗教信仰に真に実践するだけでなく、異なる宗教の経典と教義を高めることができるのである。
宗教経典と宗教教義
極めて如実に、人類の生活の中に実践し、また従来の宗教経典と教義に制限されることもなく、すでに真の仏性を持つ弟子の修行が存在し、未来の有情衆生に対して、21世紀から30世紀までのこの千年間に、上天はなぜこれほど多くのハイテクを人道世界に下すのでしょうか。
これは、未来のすべての宗教経典と教義に対して、真実のままに下ろして根付かせることが必要であり、それによって初めて未来の有情衆生のすべての悪しき習性を、真に修養し改めることができるのです。すべての宗教経典を再編成し、さらにすべての九二原霊と四億の仏子、そして借り受けた人材を向上させなければなりません。
天界の基本条綱と架構を、あなた方は本当に慶ぶべきです！天界の第一手資料を得て、これを人界に下ろして向上と超越を実現できるのです。一つの宗教経典や教義に固執して修行と改造を行うのではありません。もしそうだとしたら、あなた方にお尋ねします：本当に向上と超越ができるでしょうか？できません！
宗教経典と教義　　有情の信仰はすべて許容される
至極の帰依に至って修養を整えるのは
ただ反復する輪廻の基盤に過ぎない
教義は経典によって高められ　　人間の修行はすでに変化した
上蒼は新たに統合を為し　　未来に各教の融合を延ばさん
この偈は、有情なる衆生が互いに励まし合うものであり、また未来の有情世界が真に向上し、沈淪することのないことを願っております。汝らが戊子年の新春、端月にこの殊勝なる著作の開筆に参画できたことは、誠に慶賀に堪えません。皆が共に努力してこそ、達成できるものなのです。
虚空霊会仙姑
虚空の因縁早く入り来たりて　　霊会登台し大福開く
仙姑様は今年初めての当番を務められ、
戊子の年は吉祥と財徳が並びます。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日、五華帝君の一柱である北華帝君が降臨され、「大道眾生」第八回を著作されました。経典の教義における迷いと向上について、真に明確な示現を与え、汝らが未来における上蒼の基本条綱と使命を如何に理解すべきかを明示されました。
あなた方は本当に幸運な方々です。第一級の資料を通して、上天の天機が人間界に示現されることを理解できるのですから。これはあらゆる宗教においてもかつて語られることのなかった天機の示現です。今後さらに大きく、より多くの上天の情報が「大道シリーズ天書」を通して下ろされることでしょう。どうか大切に受け止めてください。
諸賢生、本日は本宗脈の衆仙仏聖駕をお迎えし、また玉皇大天尊玄穹高上帝の聖誕をお祝いし、さらに戊子值年太歳星君の聖座を安奉するため、時間が遅れてしまいました。明日改めてすべてをお話しいたします。皆様ありがとうございます。今年は本宗脈にとって大吉祥の年となるでしょう、どうぞご期待ください。明日またお会いしましょう！
2014年、9月6日、11時25分◎＃※   了解＃
中華帝君
第十四回　 習性と慣性
第廿三回  　佛不能渡
2008年4月18日 戊子年三月十五日（金）
第八回　 經典教義
中道に私無く天地生じ　　華徳開きて衆霊生ず
帝君降臨して大道は生じる　　宗教の経典は一生を誤らせる
第十五回　  衆生の個性
第廿四回　  崇心演義
2008年4月25日  戊子年三月二十日（金）
第九回　  宗教經典
大いなる天地は宗教信仰に対して
言うことができる：大いなる方向への帰依があり、そこには一生をかけて投入する多くの要素が含まれている。信仰において互いに寄り添い、つまり信仰の完全性に対して、真心を込めて犠牲と奉仕を捧げ、私心なく無為である。このようないわゆる信仰者は、まさに模範となる修行者と言える。
さらに、宗教に一生を捧げて犠牲と奉仕を貫くことを肯定し称賛するならば、宗教の観点から見れば、このような信仰を持つ学徒や信徒は実に数多いのです！しかし、なぜ真の向上と超越を達成することができず、かえって宗教の経典に一生の信仰を阻まれてしまうのでしょうか。
その原因はどこにあるのか？それは、各宗教の経典が説くところは、有情衆生が宗教に入った後、自ら信仰のよりどころに至る原動力を与えることにある。このような宗教経典に対する姿勢は本来非難されるべきものではない。なぜなら、各経典を拝受し体得する過程においても同様だからである。
宗教の経典に惑わされることがよくありますが、これは宗教や経典の誤りではありません。宗教の経典とは、五教の聖人や先賢たちがかつて行ったすべての記録であることを理解する必要があります。言い換えれば、真実の出来事を記録したものであり、後に宗教に入る有情衆生が模倣できるようにしたものなのです。
宗教経典の正統性
経典に記された通りに修行と調整を行うこともでき、これは紛れもない事実です。また、どの経典も有情衆生の修行方法について述べる際、このようにあるべきです。しかし、宗教経典にはどのような迷いが生じるのでしょうか？それは有情衆生一人ひとりの素養が異なり、各自の悟りも異なるからです。
また、各人の学識と経験は異なり、環境も異なり、成長過程も異なります。もし宗教の経典に従って学び、成長し、修行し、自己を変革することができれば、それは紛れもない真実です。なぜ宗教経典の本来の意味がはっきりと理解できないのでしょうか？さらに、それぞれの時代と環境も異なり、個人の体験もそれぞれ異なっています。
また、五教の聖人や先賢たちが残した経典に沿って修行し、自己を改革することもできません。これは宗教経典に対する迷妄を突破することができないのです。もし互いに比べることのできる修行方法があり、真に上昇し、超越し、成長できる者がいるとすれば、それは稀であり、さらに稀なことです。各経典が説く本来の意味がどのようなものであるかを、はっきりと理解する必要があります。
また、自らが理解し体得したものは、宗教の経典に従って修行するとしても、必ずしも絶対的に正しいとは限りません。このように宗教に入った後も、自らの「生死の大事」に対して、より大きな成長と成就へと向かわせるものであり、それは向上していくことができるのです。
宗教経典の正確性
宗教経典が説くところによれば、自分自身を真に理解できるかどうか、その奥義と秘訣を悟れるかどうかは、必ずしも確実ではありません。そこには常に、自らの思考や観念、そして日常生活の習慣が、宗教経典の実践方法に取り入れられるからです。このような縁起の条件は、本来このようであるべきであり、それが正しい道なのです。
しかし、このような盲目的な修行に耽る修行者を見ると、彼らは真心から、真摯に自分自身の未来の「生死の大事」について、すべての経緯を本当に理解しているだろうか？必ずしもそうとは言えない。宗教の経典が説く、異なる悟りと体得について。また、このような真の理解に至らない修行が、本来あるべき方法をとっているかどうか。
条綱と戒律についてはどうでしょうか。もし宗教の経典を全面的に否定するなら、それはあまりにも適切ではありません。宗教の経典がこの世に残されているからこそ、真の教育と教化の基本的な機能と役割があるのです。これは人為的な要因では克服できない障壁であり、宗教の経典の奥深さと秘訣を理解できないようにしているのです。
これこそが、真心を込めて修行する者にとって最も突破が難しい障礙点なのです！必ずや後進の学生や門徒が宗教の経典を擁護し護持する必要があり、これは自分が信仰する宗教に対して持つべき基本的な綱領です。このようにして宗教の経典に入った後、いかにして成長していくべきでしょうか。
宗教経典の殊勝なる性質
もしその中で、五教の聖人や先賢たちが当時どのような意図と過程を経たかを深く体得できなければ、自分自身の現在にそれを加えることも、あの骨身に沁みるような深い体悟を経ることができず、結局はその境地に深く入り込むことができず、ただ外側を回っているだけに過ぎません！根本的にその内奥の堂に入ることさえできないのです。
それによって、自分は宗教の経典に秘められた奥義を深く理解することができず、それはいかなるものなのか？これは紛れもない真実であり、さらに骨身に染みる自らの体験と感覚があり、その中の真髄はどのようなものなのか？もし真の修行の縁に入ることができれば、それは現代の時代の有情衆生にとって、深く理解することのできない境涯における骨身に染みる体験となる。
それゆえに多くの迷いの障りが生じることになります。もしさらに少しばかりの試練や苦難が加われば、最初は皆耐えられますが、しばらくするとすべてが挫折してしまいます。いや、むしろ絶えず愚痴をこぼし、ぶつぶつと不平を言い続けることさえあります。これほど多くの苦しい試練を修めながら、平穏な境地を得ることができないなら、もはや修行を続けようとは思わなくなるのです。
このような親身体験における心境はどのようなものか。有情の衆生は宗教経典の殊勝なる点を理解できるだろうか。必ずしもそうではない。皆、その中の奥深さがどのようなものかを深く理解することはできない。そもそも自分が少しばかりの試練や苦難、挫折に遭遇しただけで、耐え忍ぶことができず、ましてや自分が宗教修行者であるなどと論ずることはできない。
宗教経典の成長
このような学生と弟子たちについて、あなた方はどう思われますか？宗教の経典を必ず体得し、その中に含まれるすべての奥義と秘訣はいかなるものか？現代世界の五大宗教の異なる修行方法を見るに：それぞれの宗教には優れた点があり、さらに互いに補い合うことができ、単独の宗教の不足を補うことができるのです。
これは信仰の経典に対するものであり、完全に信仰の真髄と融合しているでしょうか。各宗教の経典の不足している点、および各宗教の経典の優れた点を、もし融合させることができれば、それぞれの宗教経典の長所を現代の有情衆生に提供し、共に善き修行の道へと融合させることができます。
五教すべての優劣や良し悪しを、より大きな利益と収穫へと高められると信じる。このような宗教経典こそが、一般の多くの人々がより大きな成長と利益を得られないという状況を防ぐのである。宗教の本質は「人を善へと導く」ことにあるが、その内実にはさらに、人類の「生死の大事」を解き明かすという側面がある。
このような事柄を向上させることで、自らがより大きな成長へと前進し、その境地や果位の違い、特に異なる宗教が異なる人種に対して、自らが真の向上と超越に入れるようにすること、このような宗教の経典こそが現代の修行者にとって、より大きな向上と超越へと入るためのものとなり得るのです。
五つの教えが一つの宗教に融合する
このような宗教修行の方法が、あなた方人類の衆生に天の苦労を本当に理解できるかどうかは分かりません。しかし、未来において、このいわゆる五教融合修行の優れた点は、必ずや近いうちに一つ一つとこの凡俗の世界に現れ、すべての生きとし生けるものの修行方法を成就させるでしょう。
再び不足と欠点を改めることは、つまり真の向上と超越、成長と回帰を意味します。現代の人々の無明と無知に対して、より大きな成長と利益をもたらすためには、宗教に入った後、自分は向上と超越ができると思い込んでいたが、実は自分が無明であり、智慧が開けていないことに気づく必要があります。
その結果、宗教経典の素晴らしさを悟ることができず、自分勝手な修行に陥り、誤りを繰り返すばかりで、それを改めることも転換することもできませんでした。結局、どの法門を修めればよいのかわからなくなり、最後には上昇超越の天機と良縁さえ得られなくなってしまいました。このような状況を目の当たりにした上天は、新たに変革をなされたのです。
経典修持の正しい方法
改めて下界に降りて教化するにあたり、五つの教えの宗教経典に対して、成長学習を通じて向上させ、有情世界が真に向上し超越して融合することを可能にすることができる。それゆえ、それぞれの宗教経典には異なる優れた点があり、また不足する点もある。もしただ一つの宗教経典の修持方法だけを用いて、すべての信仰を包括しようとすることはできないのではないだろうか。
未来に向かって真に向上し、超越し、成長し、回帰したいと願うことは、疑いなく痴人の夢物語に等しい！このような経典は言えるかもしれない：必ずしも現代の多くの衆生に合致するとは限らず、また人道世界の宗教経典を修持する際に、自らが心を込めて体得したかどうか、その中の秘訣と奥義はどのようなものか？
これは未来の衆生のすべての不足と欠如に対し、大きな方向性をもって成全と向上を図るものであり、すなわち　上蒼がこの時期に定めた五教融合の修行の道である。どうか自らが信仰する宗教の中で、また宗教の信仰経典に束縛されることなく、この世における真心からの修行と自己変革に影響を及ぼさぬようお願いしたい。
宗教の経典は必ず乗り越えなければならない
もしも、向上し超越する真の方法が得られないならば、盲目的な修行や無謀な鍛錬に走らず、ましてや無辺の罪業を造ることのないよう心がけねばなりません。来世において再び人間に生まれる機会すら失ってしまうからです。知るべきは、善良な心を保ち続けることによって、多くの業や罪を造る機会を減らすことができるということです。
また、この一生、この一世において、自分自身が悪口を言う業障を造り出すような、あらゆる行動や状況に陥らないようにしなければなりません。人道世界は向上することができるのですから、もし自分の智慧が開けず、経験が不足しているならば、善良で福徳を積む心の姿勢を保つことが必要です。
自分自身に加点を加えることができる。宗教の経典に制限されることなく、自身の無知と障害の中で、これは宗教の経典に対して、必ず相互に成長し学び合う段階があり、向上し超越する契機を提供する。このような機縁は、あまり多くは人間界に降りてこないので、しっかりと掴み取る必要がある。
宗教の経典はとても殊勝である　　自らの知識では芽生え難い
智慧が開けずともどうしよう
善良な心と福徳を保ち続けよう
人生において修行を積むも　　自らの無明に追われるを知らず
どうして経典は私を認めないのか　　仕方なく来世でまた会おう
この偈は、有情の衆生たちが互いに励まし合うものである。宗教経典が持つすべての殊勝さと迷いの障壁は、果たして自らの知識と智慧が未開であり、経典の中の真髄を深く悟ることができないことにあるのではないか？それゆえに、この一生、この一世においても、向上して超越することができないのである。
次なる世か未来世に、自らの智慧が芽生えるのを待ちましょう！再び悟りを開き成就する時が来るでしょう！すべての未来をどう捉えるべきか、今この瞬間さえ捉えられないのに、未来を捉えられるでしょうか、おそらく難しいでしょう！さて、皆様にはご一緒に著作にご相伴いただき、誠にありがとうございます！感謝申し上げます！崇心宗脈の皆様にはしばらくお世話になりました。ではまたお会いしましょう！
虚空霊通仙姑
虚実の人間世に空しく過ぎ　　霊体交わり借りてまた過ぐ
仙道は私心なく、ひさしく来たりて成す
有情と共に会し、賢生をして作らしむ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は、五華帝君の一柱である中華帝君が降臨され、「大道衆生」第九回を著作されました。宗教経典の殊勝なる点と迷妄の障りを明らかに分析し、有情衆生が真の成長と学びへと入ることができるか否かの相互因縁について、明確に説き明かされます。
これは未来の自分が上昇・超越するか、下降・輪廻するかの分岐点である。しかしもし下降するとしても、自ら悪を造り、業を造り、罪を造ってはならない。そうすれば次の世や未来世において、再び人間として生まれることは到底できず、このような天与の良縁に再び回帰し、超越することも全く叶わなくなる。
今日の講義は、あなた方の宗教信仰に対して、経典の内なる精髓と奥義がどこにあるかを深く理解する手助けとなりましたか？また、戊子年より本宗脈には多くの大きな変化が訪れます。すべての学生が大道の弘揚と普及に協力し合うことを願っています。さて、皆さんお疲れ様でした。すべてが吉祥でありますように。では、またお会いしましょう。
2014年9月6日 14時35分 ◎＃※   ０Ｋ＃
大いなる宇宙  東斗星君
第十六回 　衆生の仏性
第廿五回　  封神演義
2008年4月29日  戊子年三月二十四日（火）
第九回　  宗教經典
大いなる宇宙が降臨し来たり　　東斗星君が大道を開く
第十七回　 仏性徳性
第廿六回　  崇心封神
2008年5月2日  戊子年三月二十七日（金曜日）
第十回　 眾生根性
人道世界のあまたの衆生
地冥星に入るということは、生存への志向と同時に、しばしば人道の生存のために、修行精進して向上することを埋没させてしまうことを意味します。そうすると、自分の意思で生存と修行をすることになり、またしばしば自分の言動や全ての行動において、自分自身に逃げ道を作ってしまうことになります。
つまり、常に「自分を甘やかし、自分の中の悪を育ててしまう」ことになり、このような人道世界では、上昇して超越することは非常に難しいのです。衆生の劣った根性を理解し、それを支え、向上させてこそ、有情衆生が何度も何度も、繰り返し地冥星に沈んでいくことを防ぐことができるのです。
優れた点を発揮させ、衆生の根性を向上させ、堕落させないようにしなければなりません。まさに優劣が半々に作用しているため、優れた点を高めることができず、かえって衆生の劣った根性をずっと使い続け、すべての行為の基準としてしまい、この劣った根性を向上させることもできないのです。
信仰を拠り所として、向上へと導く因縁の根本を必要とする。このような因縁条件を理解すべきである。なぜ衆生の劣った根性が、累世にわたって自らに付き従い、人道世界がより大きな成就を得られないのか。自らの累世にわたる良くない習性を解消することが、まさに正道である。
人類の衆生が持つすべての根性
「化除」という二文字は確かに書きやすいが、実際に実行に移すとなると、一朝一夕にはこの人道世界の劣った根性を消し去ることはできない。もしそうでなければ、昔の様々な王朝の時代に、天界の仙仏たちが方々で法壇を開き、至る所で教化を施していたのだから、これらの有情の衆生たちはとっくに立ち返っていたはずではないか！
また、どうして現代の時代において万教が一斉に発展し、さらに今、崇心宗脈が「大道シリーズ天書」を著作し、これらの有情の衆生が向上して高みに至り、自らの優れた天性を保ちつつ、頑なで劣った根性を必ずや取り除くことができるようにする必要があるでしょうか！これこそが、この時期における上天の最大の願いなのです！
全ての人間が宗教に入った後、自らの過去のすべての奇抜な癖や性格を整理し、真に人道世界に入ることができれば、再び繰り返し輪廻に陥ることはありません。これこそが、上天がこの時代のすべての使命、任務、そして行為に対する最大の期待なのです。
人界に入った後、かえって向上することができず、本来なら上蒼は地冥星を開き、これらの頑固な人類衆生の劣った根性を、地冥星によって浄化され、修正され、変えられることを期待していた。不良な劣った根性に対して、これほど長い時間をかけて。
人類の衆生が持つすべての劣った根性
既に理解している通り、人類の衆生が凡塵世界に入るということは、本来ならば自らの奇怪な癖や劣った根性を浄化し改めることができるはずなのに、逆に地冥星の中にずっと沈み続け、つまりは深い垢穢の思考と行いを増し続け、根本的に自らを向上させ高みへと昇華させることはできないのである。
今こう言えるだろう：このいわゆる劣等性とは、もともと大宇宙の衆生の本質の中に備わっているものであり、すべての人間衆生には仏性の本質もあれば、魔性の本質もある。このような条件は現代において、有情衆生は皆魔性の本質を引き出して、人として振る舞い、事を処理していると言える。
そもそも、先天仏性の本質に基づいて人として生きることは非常に稀であり、またしばしば先天魔性が人道世界に引き込まれることがあります。観るに、すべての衆生は「先天仏性」と「先天魔性」の両方を備えており、これが無数の衆生が障壁を突破し、向上へと昇華する因縁を達成できない所以なのです。
日常の生活におけるすべての起居において、しばしば変えることのできない先天的な魔性の影響を受け、人道世界におけるあらゆる生存の方向性に対しても、改めることのできない魔性真如が発動されています。また、自身をして理解し難くさせているのは、なぜ人道世界に入った後、本来あるべき回帰と超越の契機が失われてしまったのかということです。
有情衆生の根性の本質
一瞬にして跡形もなく消え去りました。このような原因によって、大宇宙のすべての衆生は清らかな本質に戻ることができず、さらに深く汚れに沈み、変えられない状況となってしまいました。つまり、仏性（善の因となる本質）と魔性（悪の因となる本質）が区別されて人道世界に入った後、一体どうなるのでしょうか？
宗教の中で学び成長することができる。これは上蒼が望むところであり、自ら向上と超越を達成させることである。宗教に入ってからは、すべての行動が外界の修行のない衆生よりも、はるかに優れているからこそ、有情を凡塵の世の中へと下ろすことができるのである――すべての衆生を。
宗教に入って修行と改造を行うことが、果たして真実の道と言えるでしょうか？そうではありません！知るべきは、宗教の本質は単に「人を善へと導く」ことにあるに過ぎず、自分自身の未来における「生死の大事」において真の向上を果たすことは稀だということです。これは有情世界のすべての衆生が必ず乗り越え、成長しなければならない課題なのです。
なぜ宗教に入った後、しばしば自分では克服し難い障害に直面し、向上成長することができず、宗教に入ることを修行と改造というのに、実際には自分自身の未来の「生死の大事」において真に向上することができず、常に堕落し続けるのでしょうか。
根本の性体は如何にして明らかであるか
それゆえ、宗教が言うところの修養や変革について、今こう言えるでしょう：過去の五教の聖人や宗教の先人たちが苦労して築いたものは、すでに無駄になってしまった！なぜそうなったのかと言えば、それは現代の宗教が、真に向上し超越するための基本的な機能をすでに失ってしまったからです！それゆえ、自らが真に回帰する境地に到達することもできなくなってしまったのです。
自分が宗教修行に入った後、すべての言動がどのようになるかを理解する必要があります。様々な宗教の教義そのものや宗教的障壁に影響され、本当の自分を素直に表現することが難しくなります。そのため、大宇宙のすべての衆生は宗教に入った後も、宗教の本質が何を高めようとしているのかを理解することができないのです。
自らを向上させ、未来の「生死の大事」において真に己の主人となるべく、ただこの一生、この一世の奴隷に留まらず、汝らは再び深く考えてみよ。一体何をもって己の主人たり得ると言えようか？否である！大いなる天地の全ての行いを規範として、自らを高めねばならぬ。
それによって、真の主人となれるのであり、ただひたすら自分自身の奴隷であり続ける必要はない。これは大宇宙の天地において、あらゆる人種の修行方法において、問題の核心がどこにあるのかを理解しなければならない重要な点である。もし問題の所在を理解できなければ、たとえこの一生、この世でどのような法門や宗教宗派を修行しようとも、どうなるだろうか？
衆生の根機の向上
これも単なる支持者に過ぎません！自らを向上させ、自己の主人となる契機を得ることは非常に困難です。なぜなら、この自己の主人とは、自らが実践する機能と効果の作用によるものであり、各人の因縁の質と先天的条件は異なるからです。もし自らがこの世に人間として生まれ、人道世界におけるすべての行動規範を対象とすることができれば。
人道世界に入った後、自分自身の主人はどこにいるのか？自分が自分自身の主人であるがゆえに、すべての霊性が肉体の中に加わることで、自心の顕現を促すことになる。この自心の顕現こそが、汝らが仏心の本質と呼ぶものであり、これは汝らが穢れた凡塵世界に入るためのものである。
もし凡俗の世界にすべての汚れや穢れがなかったならば、どうして泥の中にあって「泥より出でて染まらず」という境地を見ることができようか。たとえ身体が泥に染まっていても、自らの心と霊性は泥に染まることがなく、人間世界という大きな泥の染め壺の中で、自らの仏心の本質を顕現させることができるのである。魔性の本質を顕現させるのではなく。
衆生の根性は必ずや向上へと引き上げられる必要がある
衆生自らが「泥より出でて染まらず」と成し得るかと問えば、否である。しかしながら、染着の中より垢を排除することは叶う。これこそ真に己が主となる所以であり、再び世間に染められて垢となるに非ざるなり。また、これを理の当然と為し、当下一瞬たりとも真に「泥より出でて染まらず」と為し得ぬことを思え。
ましてや、自分が人間界に入った後、すべての生存の方向性は、自分自身が真に向上することを促すものであり、自分が世俗の汚れに染まることはあっても、自らの「心と霊性」がそのような塵垢に染まらないようにすることができる。この方法を通じて、あなた方はその中の秘訣と奥義を理解することができるだろうか？
たとえあなた方がすでに凡塵の世界に入ったとしても、それはあなた方が非凡な力を身につけることができるからであり、まさにあなた方が凡塵の世界に入って染まることを可能にしているのです。泥の汚れを除去できるか？不可能です！しかし、外からのすべての染着によって、この体、この身体は塵埃に染まることができるのです！
すべての善良で優れた根性の成長
あなた方にとって、俗世に入りながらも、汚れに染まらずにいることができるのです。もし本当に染まるとすれば、それは単に外側の塵にすぎません！自分の心の本性を汚すこともできません。これこそが真の自己の主人となることです。この方法をあなた方に示すことで、真の修行と変革を実現できるのです。
真に向上できるかどうか？必ずしもそうとは限らない！たとえ凡塵の世界に入っても、自らの心の霊性を汚さずにいられるならば、こう言えるだろう：ただこの生の肉体だけが染まるのであり、この肉体は今生で使うだけで、来世にはもう用いないのだ！これは汝ら衆生の根性にとって、真に向上し超越する道となる。
自分が俗世に入るにあたり、大きな方向性と目標を持つことが大切であり、単に宗教に入って修行するだけではいけない！それでは真の変革と向上は望めない。すべての行いは自分自身が把握し、コントロールできるものである。これこそが紛れもない生存の要諦なのだ。
衆生の根性は改める必要がある　　宗教に入り修持を高める
いかにして主人となることを悟るか　　こそ真の妙なる回帰なり
塵世の汚れに染まり修行に来る　　染まりを除くには必ず自ら為すべし
人生の一世の行いはすべて
来世の成長のための心の糧となる
この偈は、有情の衆生たちが互いに励まし合うものです。これは、上蒼の基本的な本質を大きな方向性から分析し、あなた方が真に向上し、堕落しないことを願っております。これは、あなた方が未来において凡塵の世界で、ただ肉体の汚れに染まるだけではないかどうかに関わることです。
もし自らの心と霊性が共に染まってしまったならば、来世また輪廻を繰り返すことになり、あなたがたは嘆く必要もなくなるでしょう。今日の天書の著作を詳細に明解に説き明かし、未来の向上の因縁の基とすることができるならば、仙仏のすべての苦労も無駄にはなりません。崇心宗脈をお騒がせいたしました。ではまたお会いしましょう。
虚空霊竅の仙姑
虚空の縁起本質通じ合い
霊竅登台にして来たりて相逢う
仙姑は今日当番を務められ　　大道の衆生天より来たりて拱く
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大寰宇宙五斗星君の第一位、東斗星君が降臨され、「大道衆生」第十回を著作されました。衆生の根性を大方向から剖析され、汝らが未来において真に自己の主人となることを切に願っておられます。
それではなく、ただ自分自身の奴隷となることでは、根本的に回帰することはできません。人道世界はたとえ汚染された塵世に身を置いていても、どうして泥に染まらないでいられるのかを理解する必要があります。まるで蓮の花のように、泥の中から生え出て染まらないことこそ、あなた方が最も理解すべきことです。すべての事柄と行為動作が、もし再び「自心と霊性」を汚れで染めてしまったなら、どうして回帰や超越が可能だと言えるでしょうか？不可能なのです！
2013年、11月18日、18時15分◎＃※   ０Ｋ＃
大いなる宇宙に広がる西斗の星の君
第十八回　 徳性ある衆生
第廿七回　  封神超越
2008年5月6日 戊子年四月初二日（火）
第十回　 眾生根性
大いなる宇宙の数多の星系に　　西斗星君が降臨されました
大道の衆生十一回　　人類の魔性必ず明晰ならん
第十九回　善性道性
第廿八回　  封神架構
2008年5月9日  戊子年四月五日（金）
第十一回　 眾生魔性
有情なる人類衆生の魔性の体
有情なる衆生は、習性、慣性、個性、秉性というものに対し、衆生の根基と根器をもって、人道世界の一切の行為準則を観るに、自らの習慣性に依拠して執着し、また人道世界の行為に依存する。常に自らの習慣性によって、己の魔性を発揚させてしまうのである。
この中に、なぜ魔性が説き明かすことがあるのか？必ず理解しなければならないのは、人道世界では本来、仏性が依りどころとして機能してきたが、時代を経て長い歳月が流れたからだ！「仏性真如」と「魔性真如」の両者に対する帰依においては、しばしば人道世界の日常生活が加わってくるのである。
また、あらゆる生活の方向性における必然性の中で、自らの魔性を顕在化させてしまうことになります。そして、まさにこのような人間の衆生は、自ら魔性の中に入り込んで行動するようになり、「長治久安の必要性」の中にあるすべての万物の衆生、特に人道世界の行為に依存する規範においてそうなのです。
また、自らが「長きにわたる安定を維持するために必要なもの」に対してより切迫した必要性を感じ、方向性への依存が強まると、生活習慣の中のあらゆる生存に身を置くことになり、自らが人為的要因による再創造の過程を提供することになります。この中で、生活の圧力により、自らが「仏の心、仏の本性」に基づいて行動のよりどころとすることができなくなってしまうのです。
人類衆生の根機と習性
常に「魔心魔性」という行為への依存に入り込み、特に商売という職業においては、商人の志向する行動すべてが、人間界の生活利益の中に組み込まれます。つまり、あらゆる生活の方向性において、自らに利益を伴わせようとすれば、必然的にすべての「妄言と綺語」を実行することになるのです。
つまり、生活の利益のためにしばしば多くの嘘を交えながら商業の世界に身を投じる場合、このような生存志向の業界では「仏心仏性」をもって相手に接し、自らの財産を心から喜んであなたの経営する事業——生存志向によって潤いがもたらされる事業——に捧げることは到底できないのです。
このいわゆる「仏心仏性」は、すでに自分から離れてしまっているのです。同時に「魔心魔性」が顕在化し、それ以上に自己を成長させて高めることができなくなると、生活の方向性に「魔心魔性」が加わったとき、ひたすら自分だけのことを考え、生活の方向性における行いの中で得ようとするばかりになってしまいます。
このような通貨利益に付加されることによって、初めて自らに「魔の心、魔の性」を顕現させたとき、これは向上を阻む障害となる。ましてや、有情衆生が人道世界に入った後、いかにして自らの「魔の心、魔の性」を日常生活の中で用いることになるだろうか。
魔の心、魔の性は魔の気性を現わす
人道世界におけるあらゆる生存の在り方、日常生活であれ宗教信仰であれ、人としての処世の過程において、有情の衆生はしばしばわずかな利益のために、善意の嘘を口にすることがあります。しかしながら、善意の嘘もまた一種の欺瞞であり、人道世界における相互の関わりにおいて、もし常に単刀直入であるならば。
おそらく、不必要な殺傷力を引き起こすことになるでしょう。また、このような殺傷力は、善意の嘘で潤されると、多くの怨恨を減らすことができます。したがって、昔から「人を諭すときには、必ず一歩回り道をし、他人を傷つけない言葉を使う」という教えがあります。
単刀直入に切り込む時には、恐らく自分自身でさえ、どのような事態が起こるか予測できない問題がある。このような「魔心魔性」は、また有情衆生が本来から備えている本性の中にあり、それをどのように進めるべきかと言えば、このような諭しの芸術と手腕は、必ずや一つの転換を図らなければならない。
こそが有情の衆生に対して、「一言の良き言葉は三冬を暖め、一言の悪しき言葉は六月に雪を降らす」という違いを生み出すのであり、さらに一生涯にわたってあなたを恨むことさえある。これは知識と智慧が用いられるか否かの問題ではないだろうか。人類の衆生は皆、心地よい言葉や賞賛の言葉を聞くことを好み、一言が互いの心を温かく慰めることができるのである。
魔心魔性の本質
これは、良き言葉で縁を結び、善き事柄に対し、もし悪しき言葉で接すれば、恐らく自分自身もそれを認めることができず、ましてや相手の聞く耳には、烈火のごとく怒り、七つの穴から煙を立てるようなことにならぬとも限らない。もともと慈悲深く穏やかな顔つきが、一瞬にして魔相や悪相へと変貌して現れるのである。
さらに口を極めて悪言を浴びせかけるならば、すでに「魔の心、魔の性」が現れているのです。この瞬間、もしV8ビデオカメラで撮影すれば、すべての過程が記録され、クローズアップレンズによって「烈火のごとく怒り、七つの穴から煙を噴く」者の前後の姿までもがすべて収められることでしょう。
事が過ぎ去り状況が変わった後に、改めて相手に見せたとしても、あなたは決して信じられないでしょう。あの時のこの人物こそが「私」だったとは！このように一瞬にして「魔の心、魔の性」を露わにしたその瞬間、一体何のためだったのでしょうか？またなぜ「烈火のごとく怒り、七つの穴から煙が立つほど」だったのでしょうか？果たしてそれは自らの無明の火が引き起こしたものなのでしょうか？
もしこれを理解できれば、このいわゆる「魔の心、魔の性」を持つ有情衆生に対しては、このようなことが頻繁に起こるものです！これはいわゆる修行者にとって、また一つの戒めとなり、自らが人生においてこのような状況が起こりうるかどうかを悟らせてくれます。多かれ少なかれ、人の一生の中には、このような状況が生じるものです。
怒り心頭に発する魔の性分
しかし、先ほどまで「怒り心頭に発し、七つの穴から煙を吹く」ような顔をしていたのに、それをあなたに見せたとき、またどう感じるでしょうか？たいていは長々とした理由や原因を挙げ、さらに悪口を吐いて必死に弁解しようとします。そして、このいわゆる自分自身の「魔の心、魔の性」が一瞬にして大きな影響を及ぼしてしまうのです！
あなた方は、かつてこのような奇妙な癖や変わった気質を持ったことがありますか？ある人は言うかもしれません：自分にはありません！仙仏が一度褒めてくださいますように！もしこのような習性や習慣があるならば、なぜ「烈火のごとく怒り、七つの穴から煙が出る」理由や原因が、これほどたくさん生じるのでしょうか！ほとんどがこのような状況です。
人類の衆生の生存の方向性はなぜこのようになるのか？もっと穏やかな口調で、互いに意思疎通を図ることはできないのだろうか？これは、ささいなことのため、また自分の面子の問題のため、常に自分自身が心を落ち着けることができず、物事のいきさつをはっきりと理解することができないからである。
このような「怒り心頭に発し、七竅煙を生ず」ような気性が、このような「魔の心、魔の性」をどのように取り除くことができるでしょうか！人類衆生が生存に依存するすべてにおいては、自分が生存の方向に向かうと同時に、些細なことやわずかな利益のために、非人道的な行動を常にとらないようにすることです。
衆生の魔心と魔性が化して除かれる
また、多くの人間の衆生は、物事の経緯に正面から向き合うことを敢えてせず、問題が起きてからは、様々な理由や原因を並べた嘘で、自らの過ちや不足、欠点を覆い隠そうとします。そして、まるで「手柄は全て自分にあり、過ちは自分とは一切関係ない」と言わんばかりに、その責任を完全に押し付けてしまうのです。
これらの「誤りと問題」はすべて責任転嫁して受け入れず、さらに、勇気を持って引き受けることを恐れている。もし「功績は私が一番大きい」と言うなら、これは人の常である。もし問題が生じた時にも、この問題が生じたことを勇気を持って引き受けられず、衆生に対していわゆる習性、慣性、個性、天性を現すのである。
たちまち「魔の心、魔の性」を露わにする！自分との関係を一切認めようとしない、このような人はいるだろうか？皆さんはどう思われるか？実に数多くいるのだ！さらに、わずかな欠点さえも認めようとせず、勇気を持って引き受けようとしない。それどころか、責任を転嫁して、これは私の過ちではないと言い張る。
これも私の間違いではなく、ましてや私の欠点でもありません。人道世界においては、すべての過ちを他人に押し付けて、少しの欠点や過ちもないかのように思うべきではないことを理解する必要があります。人道世界はまさに学び成長する過程に過ぎないのです！人の世において、過ちを認めて改めることができるでしょうか？これは儒家が言うところの「不二過」です。
人道世界には誤りや不足、欠陥が存在します。
もし自分自身すら理解できず、誤りや不足、欠点がどこにあるのか分からず、さらに他人に責任を転嫁するならば、おそらくこの一生、少しも改善することはできないでしょう。これこそ、あらゆる誤りや過失を勇気を持って引き受けることのできない者、すなわち未熟な人間です。このような人をあなた方はどう呼びますか？共に事を成すことができますか？
まさにあなた方を整え、改造し、上へと引き上げ超越させるためです。「人は聖賢にあらず、誰が過ちなきを得んや、過ちを知りて改むるは善の大なるはこれに過ぎるはなし」これは儒家の体系であり、全宇宙に通用するものです。このように人類の衆生はもともと聖賢ではないのですから、一体誰が一生涯に何の過ちも犯さないと言えるでしょうか？
すべては学びと成長を経て、得た知識を次に活かし、同じ過ちを繰り返さないことです。人道世界におけるすべての学びと成長において、過ちを犯すことは恐れるに足りません。恐れるべきは、過ちを犯しながらそれを修正し変えようとせず、さらに「これは私の過ちではない」と考えることです。
我に不足があるのでも、ましてや我に欠落があるのでもない。このように観ずれば、一切の有情衆生のこのような習性、慣性が社会に入り込むと、このような人はどこにでもいる。もしこのような人と共に事を為すことができるだろうか？すでに恐れをなしている！さらに「未然に患いを防ぐ」という観点から、将来必ずこのような問題が起こることを恐れている。
各人の気性の悪い印象
したがって、「相手の心の中では、すでにあなたに対して悪い印象を持っている」という状況にありながら、あなたはまだそれに気づかず、自分には少しも間違いや欠点や不足がないと思い込んでいる。相手はすでにあなたをブラックリストに入れ、逃げ去ってしまったのです！まだ一緒に仕事ができるでしょうか？これが有情の衆生の習慣的なあり方なのでしょうか？
自らが進んで全ての過ちや欠点、不足を引き受ける勇気を持つことこそが、未来において真に変革を成し遂げる力となります。自らの悪しき欠点を改める最大の功労者は、他ならぬ自分自身なのです。全ての過失を他人に押し付けるのではなく、もしこの生涯においてそのような態度を貫くならば、おそらく次の世の全てもまた同じようになるでしょう。
皆が再び来る度に、回を重ねるごとに、新たに訓練し直さなければなりません。また、このような習慣性ゆえに、もし誰かが気づかせてくれず、自分自身も勇気を持って認め、引き受けることができないならば、未来の生々世世、巡る度に、この悪しき習慣性を真に変えることはできません。言い換えれば、ほとんどの人間の衆生はこのような状態なのです。
人生の過ちは改めるためにある
もし真に到達することができれば、上昇してすべての改造課程を超越することができるだろうか？このように説明して、あなた方が自分自身の良くない気質や性質がどこにあるのかを理解できるかどうか分からない。どんなことが起こる学習過程においても、常に自分自身をどのように向上させ、自分自身の良くない気質や性質を改め修正することができるかを考えなければならない。
人間の衆生がなぜ学びと成長が必要なのかというと、それは「人は聖賢にあらず、誰が過ちなきを得んや」ということであり、さらに聖賢にも時には不足や欠点、過ちがあるからです。古い言葉に「仙人が太鼓を打つにも時には間違う、足を踏み外さぬ者などいない」とあります。これこそが、人道世界が真に変革を遂げられるかどうかの所以なのです。
自らが持つ不十分な欠点や不足、誤った学習の点は、大いなる天地の間では皆このようなものである。自らの不足と欠如、そして誤った修練を修正し改善すること、また自らの過ちの後、いかにして再び修練を整えるか、これこそが自らが真に向上し、すべての成長を創造する道に入ることなのである。
家庭も宗教も、共に修行の道場である。
これは、天が最も肯定するところの事である。人類衆生こそが、不足と欠如と誤りを修整する最良の道場であり、天地世界はまた大道場であり、各宗教は小道場であり、家庭は小小道場であり、自らの身体はさらに小小小道場である。すべての誤り、欠落、不足は避けがたいものである。
もし自ら、あるいは他人の忠告によって、修整や改造を行い、その都度、すべての不足、欠点、誤りを修整することができれば、このような資質は常に向上していく。自らの不足、欠点、誤りは恐れるに足らず、最も恐るべきは、自らに誤り、欠点、不足があるときに、それを改めることができないことである。
また勇気を持って引き受けることもできず、どうして自分の過ちや不足、欠点を認められようか？ あなたの人生の質はどんどん低下し、来世の輪廻には必ずあなたの分がある。それどころか、もし過ちや欠点、不足があまりにも多ければ、来世には四つ足の生き物として生まれ変わることにもなりかねない。あなた方はそうは思わないか？
修持による改造は向上をもたらす　　人間の過ちや欠点を正す
ちょうどお前を追いかけてきたところだ
修業を整えて人道を昇るのだ
魔心魔性魔の気性　　有情の衆生互いに依る
過ちを他に押し付けるは我に非ず　　来世の輪廻必ずや汝あり
この偈は、有情なる衆生たる学生たちが互いに励まし合い、自らの不足、欠点、過ちを悟り、いかにして勇気を持ってそれらを認め、引き受け、自らの誤りや欠点、不足を改めるべきかを理解させるものである。また、未来においては度々、繰り返し人道世界において自らの品性を修め整え、必ずや向上していくであろう。あなた方は、仙仏が苦労を厭わず著作された深いご配慮を、どれほど理解することができるだろうか。皆様、ご苦労さまでした。ではまたお会いしましょう。
虚空御伝天尊
虚空に道降る因は同じからず　　御傳えの昊天互いに引き合う
天尊今日輪番に当たりて　　有情と神人と共に会す
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院の修学士の皆様、こんばんは！本日は大寰宇宙西斗星君が降臨され、大道衆生第十一回を著作されます。衆生の魔性の根源を分析し、皆様の思考体系の中で、自らの過ちや不足を認め、勇気を持って自省できるよう導いてくださいます。
また、勇気を持って引き受け、勇気を持って改善することも必要です。そうして初めて、人道世界のあらゆる生存の方向性の中で、いかに自分自身の不足や欠点、過ちを修正するかを理解できるようになるのです。これはまさに真実であり、自らをより大きく完成させ、向上させることにつながります。これはまさに、有情の衆生にとって最も理解しにくい、あらゆる不足、欠点、過ちなのです。
2014年9月11日13時00分◎※＃   ０Ｋ＃
大宇宙にて　南斗星君
第二十回　自性と道性
第廿八回　  封神架構
2008年5月13日  戊子年四月九日（火曜日）
第十一回　 眾生魔性
大いなる宇宙に大道開く　　南斗星君降臨された
大道の衆生十二回　　魔性と秉性互いに排す
第二十一回　有情衆生
第三十回  　朝代淨化
2008年5月16日 戊子年四月十二日（金曜日）
第十二回　 魔性秉性
有情衆生の魔性の作用
人間が生存する上での全ての志向は、自らの特異な癖や気性を生活の中に持ち込むことになります。これはあらゆる生活習慣に対して、先天的な魔性を応用し、さらに自りの天性を加えて実践することであり、こうして「魔性の因質と天性の作用」が相互に増幅され、日々の生活の中に現れてくるのです。
それにより、有情の衆生は日常生活のあらゆる動作において、多くのあるべきでない行為に付き従うことになり、つまりは悪しき習気が、改め難い悪因の本質へと入り込んでしまうのである。このゆえに！「魔性と天性」のいずれもが悪しきものである場合、先天の原始魔性こそが、一切の有情衆生の因となる根源的本質であることを明らかに知らねばならない。
しかしながら、人道世界に入ることを了知するには、魔性と秉性を浄化することが正道である。しかしながら、上蒼の期待通りにはならず、多くの有情衆生はしばしば「先天の魔性と先天の秉性」の作用を顕現させ、人間的要因に対して不良なる因質を提供することとなる。
つまり、ある事柄が身の回りに起こり、それを実行する際、本来は容易に、これらの良くない気質を修正し改善すべきです。しかし、人間の弱さゆえに、往々にして物事は簡単に乗り越えられるはずなのに、自分では過ちを認められず、さらに面目の問題も加わってしまうのです。
先天の魔性と秉性の顕現
元々は小さな出来事であったのに、自分が先天的な性質を改めることができず、あらゆる行動規範に対応できない。このような縁起の条件によって、「死んでも過ちを認めず」、さらに他人に責任を転嫁し、相手を誹謗中傷さえする。その結果、多くの変え難い欠点や不足が生じる。これこそが、人道世界が生存志向へと向かう所以である。
すべての有情衆生は修行を積み、因縁の契機を調整する過程にあります。すべての人間衆生が、その全ての行為や動作において正しいとは限らず、さらに、いかなる欠落や過ちも生じないとも限りません。また、このような修行においても、改めることのできない誤りが生じる中で、非常に大きな問題点が形成されることになります。
さらに、人界におけるあらゆる事象を観察すると、有情の衆生は学びを通じて成長し、はじめて過ちや欠点を改めることができる。あなたがたも生まれてから今に至るまで、すべての過ちや不足を修整し、変革・向上させ、同じ過ちを繰り返さないようにしてきたのではないだろうか。
それは自分により大きな収益と成長、そして学びをもたらすことである。また次に問題が訪れた時には、もはやすべての問題と迷いが生じることはなくなる。これは有情世界における人為的要因に対して言えることで、すなわち絶え間ない学習と成長を通じてのみ、このような良き行いが可能となるのである。
魔性の性質における欠如と誤り
あなたがたにすでに備わっている、手慣れた学習と成長について、もはやこの種の無明の問題と無知の過程を生じさせないことについて、もし少しの経験さえ持たず、学習と成長の過程において、あなたがたは知ることができるでしょうか。各段階のすべての学習を通じて、自分がどのように不足し、欠けているのかを理解することができるでしょうか。
もし順序を踏んで進めれば、多少の間違いはあっても、それは真の学習過程であり、あらゆる人間の衆生も仙仏も同様に、何度も何度も学び成長する中で経験を積み、すべてに熟達していくのです。さらに物事の見方がはっきりし、全体の過程がどのようなものであるかを理解できるようになるのです。
未来において起こりうる状況もどうなるか？すでに明らかに理解し通じることができ、さらに言えば：このような良くない誤りの経験があれば、前回や次回、回々の失敗から得た経験を覚えていて、次には同じ過ちを繰り返さず、その誤りが警告の役割を果たし、自分がより大きく成長できるようになる。
これは有情衆生が魔性に入り、悪しき性質を宿す誤りの根源となる過程である。必ず学び成長する必要がある。それはつまり、一つのことに精通せず、また事前に準備を怠ったために、繰り返し失敗を重ねることに由来する。無心の過ちとはいえ、前回の失敗から教訓を学び取らなかったのである。
失敗した経験こそが失敗の教訓となる
また、自分自身を改めて修正し変えることは、自分自身を向上させ超越することができないことでもあります。一つの出来事を経て、人間世界での生存の方向性を経験した後、物事に対して完全に把握できるようになるか、あるいはあってもなくてもよいと思うようになります。将来、向上できるかどうかについては、あるいは同じ動作の中に留まるだけかもしれません。
それは向上を目指すことができない状態であり、人間界が学びの過程において、その真髄を学び、成長の喜びを味わえるからこそです。もし、ある事柄があまりにも長く続き、どうにも変えられない状況に陥ったとき、そのような場面では、おそらく人為的要因に対して、一種の「名状しがたい倦怠感」が生じてしまうでしょう。
必ずや未来の生活の質の向上に影響を及ぼすならば、なぜ誤りを修正する必要があるのか。つまり、人道世界が地冥星に入り生活と呼ぶのは、まさに絶え間ない創造と進化、革新と変化があり、それによって生活の方向性に喜びと新たな達成感、好ましい感覚が生まれるからである。
自分自身にとっても挑戦であり、どうすれば毎回新鮮な気持ちでいられるだろうか。自分を向上させ、真の自分自身の主人となることで、倦怠感に陥った後に人生が退屈で味気なく感じたり、生活の中で試練や困難が次々と押し寄せてくるような状態を避けることができる。
間違いが新鮮さに挑む
それによって、自分は本当にこの世に生きていたくなくなり、また物事への挑戦に新鮮さを感じられず、あらゆる物事に立ち向かうことができなくなります。それゆえにすべての喜びが失われ、すべてが平凡でつまらなくなり、自分の性質にとっては、非常に改めがたい深い障害となってしまうのです。
魔性の根幹に影響され、自らのすべての天性はどうなるのか？この「先天の魔性と先天の天性」は、前世あるいは累世のすべての生活習慣が互いに連鎖した結果であり、それゆえ自らは相互の習慣性を改め除くことができない。累世にわたる相互の習慣性を、いかにして打破すべきか？
まさに、あなた方人間世界においてこそ、新たに考えるべきことである。そうでなければ、人は生まれながらにして人間世界に入り、生活を営むと同時に、魔性の性質に影響され、自らの天性はさらに欠陥や誤りに染まっていく。これは先天的な魔性が先天的な天性に加わった後、後天的な習性を生み出すことになるからである。
すなわち後天的な習性と慣性であり、また知らないのは、有情衆生が先天的な魔性と先天的な性質を修正できるかどうかということである。まさに汝らがこの一生で必ず行わなければならない行為であり、自らの良くない気質をありのままに変えることが、正しい道なのである！さらに人類衆生のすべての善良さを増長させ、超越させることができるのである。
魔性の因質と先天の秉性
「人の初め、性本善にして、性相近きも習い相遠し」という時、人の本性は次のように言える。先天的に皆、性善の機能作用を備えており、これが仏の本性である。同時に性不善の機能作用もあり、これが魔性の因質である。この二つはすべての霊子にとって、その一生を観るに、人道世界に入った後、いかなる展開を見せるだろうか？
それでは、どのようにして自分をより大きく成長させ、学びを得るべきでしょうか？まず先天的な性質を除去し覆い隠すことです。これは、有情世界の人類が世の中や宗教に入った後に、修整と変化をすべきことです。あなた方が宗教に入った後、もし自分の奇妙な癖や気性を修整し変えることができないならば。
また、ただ名義だけを掲げて、「私は修行している、私は宗教の人間だ」と言う時。実際には、少しの変化や修正もなく、ましてや人道世界における宗教の修行者としては、それは宗教を信仰する価値が全くなく、ただ自分の気質と悪しき習性を宗教の中に持ち込んでいるだけなのです。
宗教の純粋な本質を汚してしまえば、外界はあなたの信仰する宗教を認めなくなるでしょう。真の修行者は、宗教の善良な本質の中で、自らが累世にわたって積み重ねてきた因縁を修正し変革することができ、それによって初めて真の修行者となり、善良さが向上し超越していくことができるのです。
魔性と本性の相乗作用
また、あまりにも多くのいわゆる修行者が、あなた方の周りにおり、少し観察すれば分かることですが、この種の人は宗教に入った後、すべての行動が「我が道を行く」状態になっています。宗教に入らなかったならまだ理解の余地がありますが、最も恐ろしいのは、自分自身の悪い性質を善良で純粋な宗教的信仰の中に持ち込むことです。
さらに、汚れを被ることはまた汚染を招くことになるのです！あなた方はこれをどう言うのでしょうか？魔性の因質とは、すなわち自分自身が累世にわたって、良からぬ気質が本性の中に加わり、そして「私の個性はこれが本来の姿だ」と言うことです。もしこのような人が修行者を自称するなら、それはまことに恥ずかしいことです！まったく合格点に達していないからです。宗教の世界において言うまでもありません。
言えることは、すでに社会において一切の人道相互の役割と和やかな共存に相容れず、また自分自身に対しても相当に良くない気質を持ちながら、自分は修行をしている者だと称していることです。実際は、善良な宗教の名を掲げ、自分は善良な人間だと言っているに過ぎず、はっきり言えば、羊の皮を被った狼そのものです。
また「イタチがニワトリに年始の挨拶をするのは、下心があるからだ」という者もいるが、あなた方はそれをどう言うのか？宗教や団体の中には様々な良くない現象が現れるもので、あなた方はとっくに答えを知っているではないか！どうしてそれを宗教の修行者だと言えるのか。これは非常に難しく、彼らに対して善へと導き教化し、教育する機能を果たすことは容易ではない。
修行によって悪しき習性を改め調整する
お尋ねしますが、あなた方の中にこのような人はいませんか？あまりにも多いのです！もしこのような人の奇妙な癖や変わった性格を理解できるなら、どうしてそれを修行者と呼べるでしょうか。それは単に自分自身が来世にも輪廻に巻き込まれる原因を作っているだけなのです。先天的な気質の悪さに対しては、宗教教育、教化、戒律と規範を通じて改善することができます。
来るべき規範は宗教の条綱と戒律を越えてはならず、もしこのような所謂る改善を通じて、宗教が真に向上し、宗教の「人を善に導く」本質を汚すことなく高められるならば、それは上蒼が最も称賛し賞賛する最大の功徳であり、上蒼が最も誇りに思う一事である。
善良な衆生を救済することは比較的容易であるが、善良でない者を救済することは非常に困難である。汝らはこのような経験や感覚を持ったことがあるか？これらはすべて　上天が未来の良くない気質をいかに修養するかについてであり、より大きな修正と変革があってこそ、次なる段階へと連続して著作を進める基本となるのである！
前世の魔性が人となりて　　良からぬ気質が今生を形づくる
過ちは改められる、これほど大きなことはない
修めて整え成長すれば、天も成就を認める
大道は衆生の因本なり　　有情を提供して上昇せしむ
悪しき因を修め改め、成長に回帰し天乗に還る
この偈は、有情の衆生同士が互いに励まし合うものです。奇毛怪脾（奇妙な癖や性格）がすでに純粋で善良な宗教の中に取り入れられているかどうか？そして名ばかりで、自分も宗教の修行者だとか、私も学生だとか言う。その学生が一生学んでも、結局少しも変わることがなければ、どうして未来において向上し超越することができるでしょうか？まさに自分自身が理解できることです。さて、皆さんにはお付き合いいただきありがとうございました。ではまた！
虚空落筆天尊
虚実人生空しく過ぎ　　凡に落ちて今に至るまで筆を以て為す
天道は私なくして尊きに臨み　　諸賢は安好にして相親しむ
諸聖仏と諸賢生、および無極大道院の修学士の皆様、こんばんは。本日は五斗星君のうち、南斗星君が降臨され、「大道衆生」第十二回を著作されました。衆生の魔性と秉性の良からぬ実例を、天書の中に極めて詳細に説き明かされ、これらは汝らにとって戒めと修養の契機となるでしょう。
他人の過ちをどのように観察し、また自分が同じ過ちを繰り返さないようにするか、それは自分自身に戒めを与えて再び犯さないようにすることです。もし自分に対して、変化を成し遂げることができないならば、むしろそれは自分自身に対する無明と無知であり、さらにまさに自分自身の向上と超越を損なうことになります。これは必然的なことです。
2013年9月12日13時15分＃※   了解＃
大宇宙  北斗星君
第廿二回　自性自渡
第卅一回　  福報眾生
2008年5月20日  戊子年四月十六日（火曜日）
第十二回　 魔性秉性
大いなる宇宙の星々の中より　　北斗星君が降臨されました
大道の衆生十三回　　衆生の秉性改め難し
第廿三回　仏渡すこと能わず
第卅二回  　福報原則
2008年5月23日 戊子年四月十九日（金）
第十三回　 眾生秉性
人道世界のすべての衆生の性体
前世のすべての行いによって、今生のすべての習性、習慣、個性が形成されます。その中で最も主要なのは、生まれつきの性質に基づいて行動することです。自分では「私の個性はこれこれである」と思い込み、この生まれつきの性質を理解できるかどうかを知らず、それが個性による行動を促すことになります。これはまさに累世にわたる最大の障害なのです。
さらに、このような行為や動作に依存するとき、自分自身が向上できないだけでなく、多くの転化しがたい障害を生み出すことさえあります。しかし、自分はしばしば「私の性格や性質は元々こうなのだから、どうしろというのか？」と思いがちです。それが、より大きな障害と災難を招く原因となるのです。
知らずや、有情の衆生にこのような経験はあるだろうか。すなわち、累世にわたって積み重ねられた、非常に良くない性質から発散され、自らのあらゆる個性を成長させ、またこのような個性は、それぞれの世の人々の中で、常にその地域の風俗習慣と風土民情によって積み重ねられた習慣性によるものである。
この習慣性は、改めがたい「悪しき個性」を生み出し、さらにこの「悪しき個性」が来世に累積されると、先天的に不良な性質を形成します。したがって、先天的な要素と前世からの性質が現在に加わり、自分自身に対して改めがたい不良な習性を生み出すと言えるでしょう。
衆生の性質はとても改めがたいもの
これは自分にとって、真に向上し超越することは非常に難しいことです。もし有情の衆生が累世にわたって、常に無明の性質が行為や動作に加わり、無明の性質が形成されるならば、それは非常に良くないと言えます。さらに、自分自身がすでに積み重ねてきた、世々代々のすべての行為や動作が加わっているのです。
特に、その中には多くの悪い癖や些細な動作があります。これはあなた方が今すぐ観察できることです。左右の親しい友人や親族、そしてすべての宗教の同修者たちも皆同じです。このような悪い癖は多くの些細な動作であり、これは今に始まったことではなく、前世からすでにこのような悪い習性があったのです。
このように汝らは観ることができるであろうか：はっきりと一目瞭然か？これはあまりにも多く、あまりにも容易に見極められる！そうでなければ、人類の衆生が宗教に入って修行し、向上を目指すことはとても容易なはずである。しかし、なぜかこのような小さな良くない行いや、ささいな動作に縛られて沈み続け、向上して超越すべきなのに。
このように言えるでしょう：このような行為が宗教の中に入り込み、それを修行と呼ぶなら、それは実に滑稽で恥ずべきことです！そもそも少しも修養する機会すらなく、あなた方は他人を見る目は大きく開いているのに、自分自身の数々の欠点を省みることができない。このような人を修行者と呼べるでしょうか？あまりにも多いのです！
衆生がその性質を備えるに至った根源
前世あるいは累世より以来、あらゆる種々の積習の後に、大量に蓄積され集まり合って、それぞれの世において根本的に向上して超越することができず、ただ次の世あるいは未来の生生世世に持ち越されるのみで、常にこの種の障礙の中で反復輪廻し、根本的に改めることができず、自らのあらゆる奇毛怪脾（奇妙な癖や変わった性格）を抱えたままである。
有情なる衆生は、なぜ自らの奇抜な癖や性格を省みることができないのでしょうか。それどころか、常に他人を厳しい目で見つめ、その欠点や不足ばかりを見てしまうのです。肝心の自分自身は悔い改めることも知らず、むしろ繰り返し過ちを犯し、悪をなして業を積んでいきます。それとは反対に、自分には一生涯、何一つ不足も欠点も過ちもなかったと思い込んでいるのです。
すなわち、自分自身の視点から他人を見るだけで、他人の視点から自分自身を見ることがないため、人界のあらゆる奇異な癖や奇妙な性格が人間の生活に混入することになったのです。また、自分には少しの欠点も不足も過ちもないと思い込み、仙仏が言うところの「それはすべて他人のことだ」と考えるのです。
自分がとても優れていて、天下唯一の修行者だと思い込むこと。このように考える：有情の衆生が宗教に入ることを修行者と呼ぶなら、それはあまりにも恥ずかしいことだ！あらゆる奇妙な癖や変な性格があなたから生じ、すべての誤りを引き起こし、それによって自分自身が宗教を弘め発展させることを破壊し、自分自身に対する障害を形成してしまったのだ。
衆生の本性の根本が良くないこと
宗教の弘化教育を妨げるならば、こう言えるでしょう。このような原因や理由、行為や動作は、まさに宿世以来のすべての悪しき習慣を積み重ねたものであり、さらに自らの行為や動作がただ名義だけの学生や門徒と称されるにすぎない結果を招いているのです。これは宗教修行者が最も陥りやすい過ちなのです。
前世における様々な悪しき因縁と過ちが積み重なり、たとえ今新しい肉体に生まれ変わったとしても、前世および累世のあらゆる悪しき習性を今生に持ち込み、生活の指針としてしまうのです。これは一卵性双生児を観察すれば理解できます。同じ遺伝子から生まれたにもかかわらず、それぞれが異なる習性、習慣、気質、個性を持っているではありませんか。
それではなぜ多くの異なる因縁果報が存在するのでしょうか？自分に対して多くの相容れない気質を生み出すことがあり、それはつまり前世から積み重ねられた、非常に解消し難い習慣性であり、さらに今生・今世におけるすべての試練や鍛錬をもってしても、なお自分自身の誤りを改め修正するには至らない、と言えるでしょう。
したがって、少しでも自分が不快に感じたり気分がすぐれない時には、感情が不愉快になるため、「魔性」を生じさせることになる。さらに、あなた方人間界で言うところの、口を極めて罵るようなことがあれば、その瞬間に、自らの先天的な魔性が、事柄への不満を引き起こし、かえってより大きな害を生み出すことになる。
宗教を修める者は必ず変化を必要とする
また、この種のいわゆる宗教修行者というのは、いるのかいないのか？あまりにも多いのです！つまり、自分自身の累世にわたるあらゆる奇抜な癖や変わった性格を今生に持ち込んでいるのです。言ってみれば、まさにあなた方の宿世から積み重ねてきた一種の習性、慣性、そして個性なのです。もし宿世以来、このような習慣性がずっと改まらないなら、必ずや苦い目に遭うことでしょう。
このような累世と前世における不良なる習性、慣性、個性を、今生今世へと持ち込むことになります。前世のすべての積習が今世に入り込み、そこに少しでも事が起こると、たちまち自らの先天的な不良なる魔性が爆発し、物事に対して否定的な影響を及ぼすこととなるのです。
もし双方ともこのようであれば、必ず大げんかになるでしょう。もしさらに刃物を持って対峙するようになれば、殺傷の力が生じてしまいます。もし人の命を傷つけることがあれば、この一生でまた来世の殺生の業を結ぶことになります。さらに、このような殺生の業が生々世々にわたって続き、ずっと解消することが難しければ、あなたの生々世々が安らかでいられるでしょうか？
泰然としていられるだろうか？それは皆不可能なことである。必ず理解しなければならない、人道世界のコミュニケーション問題とは、一種の相当重要な依り所であり、また一つの事柄が発生したことによって、「四両で千斤を撥ね退ける」か「一怒りで平定する」ことができるかは、必ず人道世界の知識が智慧の向上に応用されるかどうかを見なければならない。
問題が生じることで解決機能が発揮される
時に「四両で千斤を撥ね返す」ように事を成し、時に「一怒りで事を収める」こともあれば、時に「一怒りで事を台無しにする」こともある。このような積み重ねた習性は、自らが知識を応用する中から生まれ、あらゆる智慧の成長に伴って形成される。有情の衆生には、この中の要諦と奥義がどのようなものであるかを理解することができないのである。
人道世界において、前世から積み重ねられた様々な人の：習性、慣性、個性が、この生における行為動作に加わることで、前世の生まれつきの性質や行為動作が引き出されることになります。それは果たして、自らの全ての行いに対して適しているのか、あるいはますます悪化させてしまうのか。もしそうであるならば、自らの行為動作を振り返り、何が間違っていたのかを反省しなければなりません。
行為や動作は良くないのではないか？これは自分自身が人間世界において、真に自分を理解できるかどうか、つまり先天的な魔性と前世からの先天的な気質に、現代の習慣と惰性が加わり、ごく自然なあらゆる行為や動作を形成しているのである。もしこれに永遠に変わらない悪しき個性が加われば、業障に侵されやすくなる。
さらに、自分の性格は元々こういうものだとさえ思い込み、さもなければ、あなたはどうしたいのか？という態度を取るかもしれません。おそらく、あなたはこの一生、あるいは来世においても、根本的に改めることができないでしょう。自分が累世にわたって形成してきた、決して変わらない悪癖は、来世においてさらに厳しい試練をもたらすことになるでしょう。あなたはどうお考えですか？
人類衆生の行為動作
もしこの一生のすべての言動や、人との接し方もこのようであれば、それはあなた方自身の個性に任せて人として振る舞っていることになります。おそらく、心を許せる親友もほとんどおらず、それどころか、人々はすでにあなたに悪い印象を持ち、付き合いを避けているかもしれません。おそらく、常に悪い災いが押し寄せ、回復する機会もなかなか訪れないでしょう。
あなた方はこのような人と友達になれると思いますか？あなた方はどう思いますか？よくない！付き合うべきではありません！しかし、あなた方がそう思うなら、仙仏はどう見るでしょうか？つまり合格ではなく、将来の機縁が熟した時に、さらに悪質な人に任せて片付けさせるのです！「悪馬には悪い騎手が乗る」と言えるでしょう。
これは紛れもない、人間衆生の奇異な癖であり、すべての衆生が理解できるだろうか？自ら宗教に入った後、宗教による薫習を通じて、この累世にわたる性質を変えることができる。自分で変えるのは苦痛を伴わないが、悪人に変えられると、修正が必要だと感じるようになるのだ。
衆生の性質をいかにして化除するか
このようにして払う代償は、比較的重いものとなり、さらには、より心に刻み込まれるものとなるのです。もしこのようにしなければ、どうして衆生の生まれつきの性質を本当に修正し変えることができようか。これは自分自身により大きな変化と修正をもたらすものであり、もし「悪馬は悪い騎手に乗られる」という形で片づけられるとき、あなた方はどう思われるだろうか？
これはあなた方にとって、人道世界において自らの先天的な性質を真に修整し変化させることこそが正道なのです。そうでなければ、有情世界のすべての衆生が宗教に入った後、なぜ宗教による薫習と洗礼を通じて生まれ変わることができると期待していたのに、果たしてそうなっているでしょうか。
むしろ、自分勝手な奇抜な行動や気性を宗教に持ち込み、良くない模範を示し、さらに厚かましくも「私は宗教者だ、修行者だ。私には少しの欠点や過ちもない」などと大言壮語する。このような人は、自分の誤りや不足、欠点がどういうものか全く分かっていない。このような宗教者は少しも反省しない。あなたはどう思いますか？
先天的な性質は前世から受け継ぎ
個性や習性、習慣は取り除く
今生に悔い改めなければ　　来世に苦しみ再び来る
性質の悪さは前世の因縁　　宗教の薫習は自らの修行
人道世界に来て成長し
秉性を改めて良因を化す
この偈は、有情の衆生たちが互いに励まし合うものである！人道世界におけるあらゆる奇抜な癖や奇怪な行動は、まさに累世にわたるすべての悪しき習気が一身に集まり、次の世の生活に投じられたものであり、これを悪しき天性という。これはまた、自分自身が成就できるか否かの分かれ目でもあるのだ！
最近は皆様、大変お疲れ様でした。明日は無極大道院の十一周年記念慶典であり、また真佛心宗の八周年宗慶でもあります。崇心宗脈においてしばらくお世話になり、未来のすべての良縁と好条件の発展について共に協議し、いかに弘法教化を推進拡大するかが正道であります。皆様、またお会いしましょう。
虚空金筆  開智天尊
虚空の因縁は真に殊勝なり　　金筆は智慧を開き引証と為す
天尊は今日、賢き生を会わせ給う
宗院は喜びて大道の成るを慶ぶ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大寰宇宙より北斗星君がご降臨され、崇心宗脈にご駐駕くださいました。明後日に行われる消災・解厄・吉祥法会に対し、本宗脈が更なる新たな向上と弘化を遂げ、良き普及を実現できるようお導きくださいます。
今年の戊子年には、更なる大きな成果を挙げ、上天へのご報告を果たし、崇心宗脈の全ての神仏と学生たちに、より大きな功績を残すことができますように。皆様、近頃は本当にお疲れ様でした。皆が一丸となって努力されている様子は、誠に喜ばしく、おめでとうございます。戊子年も崇心宗脈にとって大いなる成就の年となるでしょう。皆様、共に頑張りましょう！では、またお会いしましょう！
2014年9月12日14時45分◎＃※   ０Ｋ＃
大宇宙の中に、中斗星君がおられる。
第二十四回 崇心演義
第卅三回  　福祿賜予
2008年5月30日  戊子年四月二十六日（金曜日）
第十三回　 眾生秉性
大いなる宇宙に星系開き　　中斗星君降臨され来たる
大道の衆生十四回　　習性慣性自然に排す
第二十五回　封神演義
第卅四回　  回報原則
2008年6月3日  戊子年四月三十日（火）
第十四回　 習性慣性
有情なる衆生は人道世界に入る
すべては習慣が自然となることによるものであり、またあらゆる生活の営みは習性と慣性から離れることはできません。この二つの異なる作用も、人道世界のあらゆる生活習慣の拠り所となります。このような人為的世界への依存は、さらに自分自身の前世からの気質と個性を、現在の生活習慣の中に取り込んでいくのです。
そのため、このような習慣性は、半分は現在の生活習慣や風土人情から来ており、半分は前世からの自分の性質や個性に由来しています。もし性質が善良であれば、この一生では比較的善良な因縁を得ることができます。もし性質が良くなく、さらに自分の個性が発揮されれば、良くない習慣性が形成されることになります。
自身の良くない行為によって形成された習慣性の動作は、自分に悪しき習性をもたらす可能性があります。では、なぜ有情の衆生はこのような状況に陥り、あらゆる生活の方向性を学習と成長を通じて身につけ、自らのあらゆる行為に執着するのでしょうか。それはまさに、このような習性が熟達してしまったからなのです。
これは自分自身がこの世の風土や習慣、そして家族全員の慣習から来るものであり、それによって自分が学習や模倣の対象とするものも形成されます。また、こうした要因を通じて、学習後の行動パターンが形成され、自分にとっては全ての学習と成長がすでに習慣化されているのです。
習性が次第に慣性となる
幾度も繰り返すうちに、それはすでに習慣となってしまった。このようにして身についたものを変えようとするのは、一朝一夕には取り除けないだろう。なぜなら、学びと成長は自らの家族、両親、そして家の中のあらゆる人々との関わりを通じて形成され、一種の習慣性となるからだ。そして習性とは、生まれてからのあらゆる学びと成長に由来するのである。
自分がそうあるべきだと思い込んでしまうと、すべての悪しき習慣を変えようとしても、教育の力では及ばないかもしれない。そうでなければ、自分が困難にぶつかったり壁に突き当たったりした時になって初めて後悔し、悪しき習性を改め、すでに固着した習慣を転換させることになる。
このような学習の後、すべての経験は自分自身の家族やその地域の社会風土、人情、そして教育や教化の課程から来るものであり、習慣性を持つようになります。また、習性は学習と成長の後の依存であり、長い時間が経つと、この習慣の作用が定着していくのです。
もし変化を望むなら、元々そうあるべきだと思わないことです。これは有情衆生が人道世界に入った後、すべての生活の方向性は自分自身の生活から来ており、全てはすでに「習性」が自然な「慣性」の作用となり、そうあるべきだと思い込んでいることに対するものです。
習性と慣性の連鎖
もし変わりたいと思ったり、他人から自分の間違いを指摘されたりすると、おそらく心の中に非常に適応しがたい拒絶反応が生じ、さらには相手に反撃さえしてしまうでしょう。このような習性が定着してしまうのは、人がこの世に生きる上で、あらゆる生活習慣が異なる国の風土や文化に由来しているからなのです。
このような風土や人情は、もはや正しいものではないのですが、長い年月をかけて染みつき、さらに、すでに根深いものとなっています。このようなすでに日常化した生活習慣は、自分自身の生涯を通じての慣性作用であり、日常生活や人との接し方において、当然そうあるべきものと考えています。
このように、異なる人間の行為や動作を通して、人間の教育や教化がどのようなレベルにあるか、どのような境地にあるか、どのような効果をもたらすかを理解することができる。一人ひとりの行為を通して、はっきりと観察することができ、各人の行為や動作は、その人のすべての認識や理念がどのようなものであるかを表しているのである。
もし自分自身を放任し、変えがたい悪しき個性をそのまま持ち込んでしまえば、一生涯にわたって人並み外れた成功を収めようとしても、おそらく不可能でしょう。なぜなら、あらゆる悪しき個性がすべての行動や振る舞いに滲み出てしまうからです。この生涯の習性や慣性は、前世においてすでに染みついた、あらゆる良くない性質なのです。
個人の行動における問題点
そしてこの一世に再び降生して人となるのは、また新たに自分自身の良くない悪臭を放つ個性（気質）を変え、修正するためである、これはまさに真実である。そうでなければ、あなた方は傍から自分自身を知ることができるだろう、良くない気質がいかに人に嫌われるか！これはあなた方が人道の世界に入り、自分自身の「習性と慣性」に対して区別を付けることである。
前世の良からぬ性質（悪しき個性）がこの世に持ち込まれ、すべての言動に付きまとうのです。ある者は「すべての言動は、私の個性がそうさせているのだ。そうでないというなら、お前はどうしたいというのか！」と考えます。これはまさに真実であり、あなたのこの生涯の未来に、必ず深い試練をもたらすでしょう。
つまり、あなたのこの世の嫌な個性（気質）を磨くことで、前世で不合格だった嫌な個性（気質）も変えられるのです！有情の衆生は、こう言う人々の言葉をよく観察してみてください：私の性格はこうなのだ、と。そうすれば間もなく、彼らは惨めなまでに修理され、試練に磨かれていくでしょう。
また、ある人の先天的な欠点がこの一生で改められず、修整できない場合、来世にはおそらく再び繰り返し現れることになるでしょう。あなた方はこれをどうお考えですか。すべての生活習慣は、自ら学び成長した後に培われるものであり、将来の生活習慣を互いに補い合うものとなり得るのです。
習慣が自然となる作用
まさにこのため、習慣は自然現象であり、長い時間が経つと、何か不都合があるとは思わなくなるのです。また、何を修正し、何を変えることができるでしょうか？さらに、挫折に遭ったり壁にぶつかったりすることが一度もなかったため、当然そうあるべきだと思うようになります。もし他人の長所と短所を見ることができなければ、習慣が作用する時には。
また、自らの習性を改めようとしなくなる。これは有情衆生が人間界におけるあらゆる習慣の後に、自然の一部となることであり、有情の風土や習俗から見れば、それは一地域の習慣性である。これらの人々もまた、自らの生活習慣が一種の自然の作用であると考えている。
また、自分自身に生活のよりどころとなる作用を持たせ、将来の生活の方向性や人との接し方について、この方法を用いて容易に変えられない場合、もしその方法が善良であれば、それはやむを得ないことです。しかし、もし方法が良くなく、さらに自分自身もどのように修正し、変えればよいかわからないとしたら？おそらく、自分自身の将来は計り知れないほどの損害を受けることになるでしょう。
習慣は第二の天性となるため、すべての行動や振る舞いは、比較的高水準の生活から見れば、まさにそぐわず、なかなか認められず、また多くの小さな欠点があります。人為的要因に対して非常に良くない行動や振る舞いがあり、あなた方が崇心宗脈の一部の学生から見てどうか、信じられないほどです。
個人の些細な欠点はなぜ次々と現れるのか
多くの小さな行動が現れ、自分自身の良くない性質を崇心体系に持ち込むことになります。このような学生や信徒、人類の衆生に対しては、これは崇心体系だけが生み出したものではありません！さらに、現在のあらゆる宗教の宗派も同じであり、このような良くない性質（悪い性格）が付着しているのです。
自身の行動や動作は、長い時間をかけて、変えがたい悪しき癖となり、自然に習慣となり、習慣がまた自然となる。一生のうちに、大いなる知恵を持つ者や良き師や友の助けがなければ、汝らはこれを変えられると思うか？皆さん、よく考えてみてはいかがだろうか。
仙仏がおっしゃるのは、すべてあなた方の痛いところではないでしょうか。このような人はいませんか？これもまた、あなたがこの一生でなぜまた下界に降り、学び成長し試練を受ける原因なのです！そうでなければ、あなた方は過去世にすでに仙人や仏となっていたはずです！それなのに今なお試練を受けているということは、あなた方の考課が不合格であることを表しているのです。
このような習性や慣性に対しては、多くの苦難を経てこそ、この良くない気質を変えることができます。あなた方にとって、これはまさに真実であり、あなた方が真に向上を目指すなら、この関門の試練を経なければ、どうしてあなた方の成果がどのようなものかを見極めることができましょうか？あなた方が変われるかどうか分かりません。あなた方は変わりたいですか？
習性と慣性の修整
すなわち、一世で成就して回帰する者もいれば、累世をかけて成就する者もいますが、必ずしも回帰が保証されているわけではありません！まさにこのことから、汝らは今この時に、なぜ　上蒼がこれほどまでに殊勝な第一の「大道シリーズ天書」を下されるのかを理解できるのです。それはまさに、汝らがこの一生で抱える奇抜な癖や、先天から受け継いだ不良な性質（悪しき個性）による行為や動作に対してなのです。
自分は宗教に入った後も、相変わらずすべてがそのままだった。習慣、惰性、生まれつきの性質に加えて、決して変わらない自分の嫌な性格まで。そのため、この一生、宗教に入ったとはいえ、ただ名義だけを借りて、自分は宗教の修行者だと言い、宗教で修行していると言いながら、自分自身は少しも変わっていなかった。
次の世に生まれ変わったとしても、このような天の機縁に巡り会えるとは限らない。今生でさえ変えられないのに、ましてや来世で変えたり修正したりできると、あなた方は本当に可能だと思うのか？それは不可能なことだ。その時にはもう、今のような天の機縁はとっくに失われている。あなた方が今まさに遭遇しているのは、上天が千百万年に一度与える稀有な縁なのだ。
崇心体系に入ることは、未来の仏子たちの成長、回帰、超越のためであり、もはや過去の経典に固執して、自分が学んだものだけが正しいと考えるべきではありません。あなた方は理解しなければなりません、上天がこの殊勝なる「大道系列天書」を下し、人界にもたらしたのは何のためか！
未来への向上は、回帰への道を築く。
未来四億の仏子たちよ！また、二百余万人のハイテク人材の回帰を借りて集結する。汝らが崇心宗脈の体系に入ることは、まさに千万年に一度の大いなる殊勝な因縁である！もしこの一生でこの天機良縁を掴み取れなければ、来世で再びこのような因縁を得ることは、誠に難しいであろう！
あなた方は根本的に得ることが不可能であり、必ず知る必要がある。仙仏が自ら降臨してくるその場の感覚は、決してあなた方が「大道シリーズ天書」という二次資料を読むことや、自分自身で体験したこととは全く異なる。このような仙仏自らの降臨による臨場感の衝撃を、あなた方は感じることができるだろうか？もうすでにないのだ！
昔、釈尊が四十九年間説法され、多くの仏子を導いて回帰させることができたのは、その場に居合わせて直接感化される臨場感があったからです。このような気場と磁場を、あなた方は来世において、このような天与の良縁として臨場感の衝撃や気場・磁場を体験できるでしょうか？すでにすべて失われてしまっています。
何故今この時に仙仏のエネルギーを受け入れないのか？自らがより大きな成長と収穫を得られるように。あなた方はそれを望むだろうか？それを体得できるだろうか？もし理解できるならば、崇心宗脈の体系、この千万年に一度も得難い臨場感、そしてこのような気場と磁場に対して、あなた方はどのように仙仏が降ろす殊勝なエネルギーを体得するだろうか。
習性と慣性の成就
まさにあなた方の過去の不良な気場と身体に対して、不良な磁場や気場を解消し調整することができるのです。これはあなた方が崇心宗脈の体系に入り、真に仙仏の苦労を理解できるようにするためです。これは紛れもない真実であり、なぜ上蒼がこの世に比類なき天下第一の奇書「大道系列天書」を下されるのかということです。
あなた方に対して、第一手の資料による向上をもたらす。もし自ら受け入れ、益を得ることができれば、まさにあなた方が崇心宗脈の体系に入り、自らがより大いなる成長と修練を得て、未来に向かって真に「明心見性、開悟證果」という大いなる体証へと歩みを進めることができるのである。
誠に真実の通り、自身の良くない習慣が自然となり、自然が習慣性となる。これこそが「清浄から染めへ向上し、染めから清浄へ超越する」というものである。これこそが現代において、崇心宗脈においてこの良き習慣性を体得することであり、果たして体得し受け入れることができるだろうか？各人の受け入れ方、体得の仕方は異なる。
もし智者であれば、心を動かして涙を流し、心に刻むことができる。もし中者であれば、相当に良いと認め、ただ「とても良い」と知るだけで、その理由を一つも言い表せない。もし下者であれば、あってもなくてもよい。このように個人の理解は異なり、自分自身がどれだけ心を込めたかを理解できるか？「宝であるか草であるか」を理解できるのは、すべて個人が得るものにほかならない！
習慣は慣性となり自然となる　　一切の応用必ず望みあり
生まれつきの性質と個性は互いに寄り添い合い　　行いと動作は自ら観察す
習慣的な動作を改める　　各自の作った構造を明らかにする
もし向上の成長を語らば　　浄染染浄これ我なり
この偈は、有情の衆生たちが互いに励まし合うためにあります。崇心宗脈の体系に対し、また無極大道院の十一周年院慶と真佛心宗の八周年宗慶にあたり、崇心宗脈の体系にとってこの上ない栄誉と感じ、しばらく崇心宗脈にお邪魔いたしました。皆様、ご苦労さまでした。では、またお会いしましょう。
虚空に銀筆を揮い　大道の天尊
虚空より崇心堂に降り来たり　　銀筆大道の徳沢を揚ぐ
天尊は諸神人と共に会し　　吉祥の法会は遠き疆を兆す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の修学士の皆様、こんばんは。本日は大寰宇宙の中斗星君が降臨され、「大道衆生」第十四回を著作され、習性と慣性について極めて明快に分析されました。汝らは理解できるであろう、また何故上蒼が今この時に天下第一の奇書を著作されるのか。
また、あなた方はこの盛会に恭しく臨むことができ、第一手の資料の臨場感に触れることができます。このような気場と磁場は、あなた方が現在において過去のすべての良くない気の習性を変え、過去のすべての良くない習慣性の含因を変えることを可能にし、自分自身をより大きく成長させ、利益を得ることができます。もし仙仏の先生方の苦労を理解できないのであれば。
上蒼の慈悲の徳沢、および多くの仙仏が互いにあなた方の向上を助け合うことは、仙仏がわざわざ世話をし助けるにはあまりにも値しないことです。なぜ崇心宗脈の体系がこのようにある必要があるのかを理解できれば、あなた方の現在および未来の有情の衆仏子たちは、互いに向上し合い、より大きな利益を得ることができます。これはすなわち、上蒼の基本方針と徳沢なのです。
崇心宗脈がこのような天機の良縁を得られたことは、すでに遥か昔より上蒼が定めた政策の中で、未来（現在）における殊勝な使命を遂行するためであったと言えましょう。その因縁が虚空、無極、昊天、南天、崇心が互いに連なり、大いなる天地の有情なる衆原霊仏子を成就するものから来ていることを理解できるのです。
無極皇母大天尊の聖諭を謹んで奉じます。崇心宗脈における今回の無極大道院十一周年院慶、および真佛心宗八周年宗慶に際し、すべての学員・宗生らが共に力を合わせ心を一つにし、この法会のために犠牲を払い奉仕し、休むことなく眠らずに尽力されたことは、誠に心を打つものがあります。
母と娘は本当に心が慰まされます！すべての学びに励む者、宗門の弟子たち、真に尽力した者たちに、それぞれ二百の功徳を褒美として与え、これからの有情衆生を導き救う成長の糧とし、より大きな恩恵をもたらすようにしましょう。後ほど、無極皇母の大いなる慈悲の御恩に謹んで感謝を捧げます！さて、皆様の心を込めた尽力、本当にご苦労様でした。では、これにて失礼いたします。
2014年9月12日17時28分◎＃※   ０Ｋ＃
大いなる宇宙  太陽星の君主
第廿六回　崇心封神
第卅五回　  仙佛撥轉
2008年6月6日  戊子年五月三日（金）
第十四回　 習性慣性
大いなる宇宙に星は数知れず　　太陽の星君が降りて来られました
大道の衆生十五回　　衆生の個性必ず改行す
第二十七回　封神超越
◆ 跋・讃賀 ◆
大道眾生已完著　　下回跋與凡例排
2008年6月10日　戊子年五月七日（火）
◆ 本文 ◆
第十五回　  眾生個性
有情なる衆生の生存個性
人道の生存要素に依拠することを求め、これは人道世界における人類の衆生にとって言えば、自己の個性をこのような環境の中に置くことであり、もし自分に何の個性もなければ、人道世界においては「軟弱な者」と呼ばれることになると言える。これが有情世界であり、なぜ自己の個性をもって行動するのかということである。
いかに自らの行動規範を拠り所とするかは、人間界に入った後、必ずその時々の個性に基づいて行動することであり、まさに現代の有情衆生にとって、自らの個性を行動規範とし、人為的要因による成長と学習の中で、一歩一歩着実に前進していく働きなのである。
他の人々の全ての行動を経て、また自身の思考と観念が加わり促進され、多くの自身の行動様式が蓄積される。これは自身の個性に対するもので、前世からの全ての性質に由来し、さらにこの一生において、全ての行動習慣の後、自身の個性を自身の気質の中に組み込んで形成される。
また、自分では性格はかなり良い方だと思っているが、自分のすべての修行における習慣と成長において最も恐れるのは、まさにこの性格が非常に悪く劣悪な時である。自分の性格について言えば、他人は認めず肯定しないだろう、あなたのさまざまな悪い性質が形作る奇怪な癖を。
衆生の良からぬ個性が減点を生む
このような性格は、もし何事にも持ち込まれたならば、往々にして自分自身に大きなダメージを与え、また他人もこの嫌な性格を受け入れがたくなります。このゆえに人間界に生まれる者の中には、性格が非常に優れている者もいれば、平凡な者もおり、また非常に短気で悪質な性格の者もいるのです。
また、このような性格があなた方に対して言うことには：よく悪い示現があるでしょうか？それはあまりにも多いのです！まるである事が起こった後、またしばしば人が言うように：私の性格はこうなのです！しかし、こう言えるかもしれません：私のこのような性格はこうなのだと、おそらく、自分自身に非常に改善しにくい障害や苦難をもたらすでしょう。
自分を縛りつける次の出来事が訪れる前に、さらに恐れるのは、自分自身にさらなる害を及ぼすことです。この害は他人に対するものだけではありません！むしろ、自分自身の悪しき習気を変えるのは非常に難しく、そのために性格を調整することは、困難に直面した時や破壊的な力に遭遇した時にどうすればよいのでしょうか？
己自身に、骨身に刻まれるほどの経験を経て初めて変わるもの、有情世界とはまさにこのようなものだ。若く気性の激しい頃には、よくこういう言葉を耳にしたものだ：「俺の性格は元々こうなんだ、文句があるのか！」。しかし、時が経ち、あるいは年を重ねるにつれ、このような口調は全く聞かれなくなる。
衆生の個性はそれぞれに分かれて作用する
また、このような人々は、時を経て磨かれ、悪しき個性を改め、試練によって「円融」に練り上げられ、収斂していくのです。若く気性の荒かった頃は、自分がいかに偉大かと思いがちですが、悪馬には悪い騎手がつくもの、自ら困難に直面したり、傷つく災いに遭ったりするまでは、そのことに気づかないものです。
初めて、自分がなぜあんなに無鉄砲だったのかに気づき、しかもそれを知らず、少し収まって修正することを知らなかった。大きな挫折に遭った後、初めて突然自分を戒め、過去の荒々しい気性を改めて調整すべきであり、もう過去の若気の至りのようであってはならない。これは時空を経て鍛えられたものである。
知るべきである。上蒼は、いかなる世の中の情ある人類衆生をも恐れたことはない。また、上蒼の基本的な恩恵により、これらの若く気性の激しい人類衆生は、時空と因縁の条件による試練を経て、かつての若気の至りによる性格を改め、多くの災難の到来を減らすことができるのである。
また、あなた方も過去において皆このようなものだったのでしょうか？このような人はいるでしょうか？言えることは、あまりにも多いのです！人間界は永遠に改造され、そして輪廻の相が繰り返し作用する中で、次々と、回を重ねるごとに向上していくことができます。このように言えるのは、人間の衆生の個性が善良であるか悪劣であるかによって区別されるからです。
各人の本性はもともと異なっている
有情なる衆生が一般的な状態にあれば、すなわち比較的平凡な個性であり、決して変わらない「悪しき個性」が生じることはありません。このようにして有情世界の一切衆生を観察すれば、人道世界に入った後、なぜ常に自らの天性を個性に加えてしまうのか、そしてこの一生の習性が慣性となった後にどうなるのかがわかります。
また、自然が習慣となり、習慣もまた自然となる。あなた方がこのような習慣が自然となり、自然が習慣となるという良くない気質を自覚したとしても、それを修正し、変えることができるだろうか？必ずしもそうではない！多くの挫折と苦難を経験してこそ、自分自身の良くない習慣を変えることができるのだ。
このように、習慣はすでに自然となっているのである！知らず知らずのうちに、これは紛れもない真実であり当然のことだと考えるようになり、本当に考え方やすべての行動を変えようとしても、それは絶対に不可能である。さらに、「新しい規則は作らず、古い規則は廃さない」という原則を支持する者もいる。
有情なる衆生に対して、変えることのできない誤った思考と行いがある限り、そもそも向上と超越に到達することはできず、ましてや自らの修養がどれほど優れているかなど論じるまでもなく、既に自らを来世の輪廻の渦中に陥れているのです。あなた方はこれをどうお考えですか？思考を改め、行動を変えること、すべての再創造の過程が可能でしょうか？
良くない個性は必ず取り除く必要があります
また、仙仏と善知識の導きが必要であり、それによって初めて自分自身の不足や欠点がどのようなものか、自分の誤りはどこにあるのかを理解できるようになります。これが有情衆生の最も大きな障害点であり、自分自身のすべての不足や欠点、誤りがどこにあるのかを明確に認識しなければなりません。
すべての過程は、自分が認識する「主観的意識」によって行使されるがゆえに、この主観的意識が人間の生活習慣に溶け込むと、自らの誤りがどこにあるのか、自らの不足や欠点がどこにあるのかを根本的に気づくことができず、自分が行うすべての行為や機能が正当であると常に思い込んでしまう。
必ず理解すべきは、自らの不足や欠点、誤りを修正することが、自らの未来の学習と成長を変革することである。有情の衆生が学習の過程に入るとき、自らが正しいと考える全ての行動規範は、大宇宙の視点から見れば既に逆方向へ進んでおり、全ては自らの無明と無知を背負っているのである。
宗教のすべての教義と宗教的障害の中に入り、自分自身の行為や動作も当然のことと考える。もしこれを地冥星に当てはめて観察すれば、すべての有情衆生はなぜ向上して高みへと昇ることができないのか？それどころか、次々と、回を重ねて人道世界を輪廻し続ける。これもまた突破できない障害点なのである。
衆生の個性はどのように向上させるか
真に理解する必要があるのは、何が正道であり、何が世俗であるか、何が方便であり、何が仮の手段であるかということだ。人間を含む衆生の因縁は実に不思議である。上天があなた方を人道世界に送り修業させた以上、必ず豊かな資糧の源を与えている。最後の選択は、自らがしっかりと掴み取るべきものである。
ここにおいて、諸天の仙仏が降臨し、あらゆる宗教の経典に対して注釈を加え、あなたがたが宗教に入って修行し、自らの無明や欠落、不足、誤りを修正して向上できるようにしてくださる。この中で、向上の障礙がどこにあるかを見極めるのは難しい。有情世界は、先人たちの行いが基礎となって形成されているのである。
また、先人たちの苦労は、「先人が木を植え、後人がその木陰で涼む」というものであり、その中に深く入り込み、身をもってあの骨身に染みるような経験をすることは、後の世代の人間や衆生には到底できません。ただ、自分自身の現在の行動規範として用いることしかできないのです。
かつての状況の中に深く入り込むことが必要であり、これは深く理解するのが難しいことです。その中でのすべての苦労と努力、あの骨身に染みるような悟りは、決して現在の福徳が厚い有情衆生には理解できないものです。また、その中の秘訣と奥義とはどのようなものなのでしょうか。それゆえ、自分自身に対して骨身に染みるような悟りを得ることが難しいのです。
生存の指向性は絶えず進化している
深くその中のすべての苦労の過程を体得せねばならない。一例を挙げよう：そなたたち人道世界の、およそ40～50年前の時代、そなたたちが「サツマイモを食べ、茅葺き屋根の家に住んだ」という時代のことだ。それに加えて外国の物資に頼らなければならず、またそなたたちの後の世代の子孫たちに、当時の状況をどう説明するというのか？
あなた方の後の世代の子孫たちは、どのように答えるでしょうか？「そもそも不可能だ」と。なぜなら、これらの新しい世代は福徳に恵まれ、あなた方の語る過去のすべてはただ聞くだけに過ぎないからです！とても難しいことです。彼らがその中の苦しい生活を自ら体験することは。これは人間の世界について言えば、台湾の生活はまだ完璧と言えるでしょう。
もしアフリカの国々において、さらに食料の窮状すらなかったとしたら、一体どうなるだろうか？あなた方台湾や中国本土にいる人々は、そもそも理解も信じることもできないだろう。ましてやあなた方の子孫たちは、もしあなた方がアフリカの国々よりもさらに荒涼とした他の星系に移されたとしたら、どうやって生きていけばよいのかわからないのではないだろうか？
それゆえに、あなた方の今語る言葉を信じないはずはない。また、異なる星系、異なる国々での生活はそれぞれ異なるゆえ、自らその中のあらゆる苦境と試練を体験せねばならない。もし福徳ある身に生まれた者であれば、より荒涼たる星系へと移住させられたとして、それにどう抗えようか。
骨身に染みて初めて感じることができる
これは自分がそのような状況に同調できないことに対するもので、すべては自分自身の努力にかかっており、そうして初めて腹を満たす機会を得られるのです。もし努力さえも腹を満たせない時、あなた方の言う個性とは一体何なのでしょう？これで自分の不足や欠陥がどのようなものか、理解できるのではないでしょうか？
また、あなた方を突然福徳に恵まれた土地から、より荒涼とした星系や国へと移植したとしても、人間界には大きな機能と役割があります。さらに「どのような境遇にも安んじ、縁に従って生き、環境に応じて変化する」ことができるのです。自分が変わらなければどうして否定できましょうか。もはや自分に対して「私の性格はこうなのだから」とは言えなくなるのです。
この時、あなた方を見ると、すでに自分の気性や個性をずいぶんと消し去っており、ほとんどなくなっているではないか！また、どんな嫌な個性があって「私の性格はこうなのだ」などと言えようか！人道世界が福地に入った後は、すべての行動はすでにその地域の生活習慣と溶け合っているのだ。
また一部の人々は、すでに地冥星のすべての行動や動作に適合できなくなっているが、様々な地域の風土や習慣が異なる生活様式が、人道世界に加わった後、自らの行動や動作がこのようになってしまい、しかも自らの行動や動作がすでに正しくないことに気づかず、変えようとしても容易ではない。
個性を修整してこそ、誤りを減らすことができる
なぜなら、真理は四海に通じる普遍的なものであり、ただ一地域だけのものは真理とは言えず、それは単なる一般的な風土や習俗、世俗の道理に過ぎないからです！人道世界はこのような時空の因縁において、すでに科学技術文明の時代に入っており、過去のすべての行動規範は、改めて修正し、変化させなければならないのです。
さらに、現在の大宇宙の星系は、すでに大宇宙、虚空、無極が互いに補い合う形で融合している。したがって、上蒼には上蒼の職責と使命があり、それぞれの星系にも異なる職責と使命がある。これは大きな方向性として整えられたものであり、人類衆生が生存する星系においても同様である。
また、すべての宇宙の星系が共に合体したものこそ、まさにこのように必要であり、未来において一つ一つ人間の世界に示現されることでしょう。では、どうすれば自分を上昇・超越させることができるのでしょうか？ただ地球という星にいて「自分は人間の衆生に過ぎない」と言っているだけでは、あまりにも価値がありません！それではただ繰り返し輪廻するだけです！
衆生の習性は慣性となり　　自然と改め難きは無心なり
有情の世界はとても迷い深い　　自らを高め超えてゆくのが自然の行い
衆生の魔性に天性を加え　　個性に習性と慣性を加える
どのように導くべきか分からなくとも
習慣が身に付けば自然と導かれる
この偈は、有情の衆生が互いに自らの不足と欠点を認識し、大まかな方向性をもって修養を整えることができることを示しています。宗教に入った後こそ、より大きな向上と超越を果たすべきであり、それが正しい道なのです。さて、崇心宗脈の皆様にはしばらくお世話になりました。ご苦労さまでした。では、またお会いしましょう！
虚空龍翔天尊
虚空より崇心堂に降り来たる　　龍天を翔けること尋常ならず
天尊今日神人と会し　　大道の衆生に徳意を彰わす
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大寰宇宙より太陽星君が降臨され、「大道衆生」第十五回を著作されました。衆生が持つ全ての個性について、どのように修整し変化させるべきかを述べられています。これにより良き善き因縁が生じ、自らがより大きく成長することができるでしょう。
宗教に入ったからといって、自分のすべての行いや動作に何の不足も欠点も誤りもないと思ってはならない。実は、あなた方が宗教に入る前から、すでに誤っていたのだ。また、あなた方が宗教で言う修行に入っても、少しも変わっていないのである。
さらに、その中に込められた切なる思いを深く理解することも、自らその奥深さを体得することもできない。知識や経験が不足しているため、向上し超越することは難しい。しかし、汝らは幸運にも、上天の高き世界より仙仏が降り立ち、共に研究し、多くの天機の奥義を授けてくださる。これにより、汝らはより大きな成就を得ることができるのである。
そうでなければ、仙仏はとっくにすべてを明らかにしておられ、あなた方が上昇せず、超越しないためにこそ、人道世界に降りて教育と教化を行われるのです。一度にあなた方に全く新しい思考を与えることはできず、少しずつ下ろして授けるしかなく、一気に消化し終えることもできないのです。
さらに一歩進んで、汝ら無知無明なる者を教化せねばならぬ。汝らはどう思うか？縁によって成るもの故、降りて来ざるを得ず、誠にやむを得ぬことよ。汝らはいつになったら、真に「心を明らかにして本性を見、悟りを開いて果を証する」時を迎えられるのか。努力せねば、まことに上蒼と仙仏の期待に背くこととなる。
本日の著作は、あなた方に対してより大きな努力と獲得、そして収益をもたらすことができます。どのようにして向上し、成長し、超越していくかは、自らの努力によって進めなければならず、そうして初めて真に得ることができるのです。明日はまた土曜日、すべての導きは通常通り行われます。皆さんが学び成長されることを心より願っています。
崇心宗脈では、以後、亡き霊魂の救済を「無極大道院への推薦入学・深造」と称することに改めました。略して「亡き霊魂を天下第一等の大道学院へ入学・深造させる」と呼び、「超拔」という言葉は用いません。また、無極大道院への入学は、亡き霊魂の縁者が大学で学ぶ尊い機会を広く開くものとされています。
人類の衆生は、この世において、真の「生死学の天国のパスポート」を一つも持っていません。このような学びの課程は、この世における学士課程、修士課程、博士課程、博士後研究といった学制の概念に相当します。また、本来の無極大道院の階層、境地、果位、そして教育課程は、一般に超抜されたものとは異なっています。
本日より、すべての超拔プログラムは「無極大道院に入学し深造する」と改称し、対外的にもこの天下第一の学府を「無極大道学院」と呼称することとする。ここでは異なる段階の院修学士が、学士、修士、博士、博士後研究員、研究院院士などの学位取得を目指して研鑽に励むことができる。
「無極大道學院」は、亡霊を専門に扱うものであり、高次元、高境地、高果位、高教育、高教化を備え、これぞ上蒼第一等の大道学院である。この名称が変換されることで、より多くの有情衆生が因縁の尊さを認識し、進んで大切にし、把握することができ、大道の弘化に言い尽くせないほどの妙用をもたらすであろう。共に励もう！
2014年9月13日14時40分◎＃※   ０Ｋ＃
大宇宙  太陰星君（娘娘）
第廿八回　　封神の枠組み
◆ 跋・讃賀 ◆
虛空上人　降跋三於
2008年6月13日　戊子年五月十日（金）
◆ 本文 ◆
第十五回　  眾生個性
太陰大道は本来無極なり　　大いなる宇宙に星系多くあり
大道の衆生十六回　　衆生の仏性回帰の期
第三十回　朝代の浄化
第十六回 　眾生佛性
有情世界の一切衆生
人類の衆生は皆、仏性の本質を備えている。これは基本的な条件であり、真の応化によって高められるものでもある。また、有情の衆生が人道世界に入り、自らの生活の方向性を定め、より大きな成長の空間へと向かうことを可能にするものである。さらに、人道世界において「仏性の本質と魔性の本質」を区別するものでもある。
この両者の違いは、「仏と魔」という二つの性質に対して、人道世界の一切の行為動作が生じることにあり、まさに自己が上昇・超越できるか、あるいは下降・輪廻するかの違いを区別する点にあります。これはまた、有情衆生が最も理解し難い障害点であり、なぜこのようになるのでしょうか。
人為的要因によって形成される、自らの「仏性と魔性」が持つすべての行為動作、あるいはあらゆる生活における人との接し方や物事への対処、そして種々の事柄に応じて現れ区別されるもの、さらにこのいわゆる「仏性の本質あるいは魔性の本質」を区別することは、すなわち人為的要因を行為動作の次元に高めることである。
これはただ人間界だけのことではありません！さらに、すべての万物蒼生にまで広がっているのです。つまり、覚者の向上によって、あらゆる事物と世の中の人間の明晰な過程を知ることであり、このように人間的要因から見れば、また「仏性の本質」を人類衆生の生存のよりどころとするのです。
有情なる人類衆生の仏性
必ずや多くの良くない気質や習性、慣性があり、それに加わる悪しき個性は、人為的要因が向上する主要な縁となる。自己を向上させ、あるいは人道世界に入った後には、仏性の本質に基づく行動によって、良き善き因縁が増長していくことが理解できるであろう。
また、仏性の本質においては、あらゆる事象を理解し、すべての過程を体得することができ、しかもそれは「明らかにはっきりと」分かっているのです。人間の生活に寄り添いながら、成長の経験を積み重ね、知識と智慧を形成していきます。有情衆生は、知識経験と智慧を生活の方向性に応用し、それによって利益を得る収穫を得るのです。
これはまさに千真万確の必須性であり、人間の力によって到達可能である。仏性の本質を顕現させるには、まず人間の力について真に理解しなければならない。つまり、いかにして自らの良き本質を獲得し、向上させていくか？必ず覚性の種因が相互に成長する境地に入らねばならず、この「覚性種因」とはいかなるものか？
有情なる衆生がもし生活の方向性のみを追い求め、自己の覚性の種因をいかに顕現すべきかを知らずして、未来において「仏性と自性」の本体を顕現しようと望むならば、おそらく非常に困難であろう。なぜなら、覚性の種因はあらゆる仏性の基礎であり、もし基礎が堅固でなければ、生活の方向性を追求するという主要な機能を果たすことが果たして可能であろうか。
人類衆生の有する覚察力
因縁そのものに対しては、すべての事柄を「察知」し「洞察」する能力は、なかなか十分に備えることが難しい。また、洞察とは一切衆生の生活習慣を観察して理解することで、いかにして良くない気質や性質を取り除くかが分かる。そうすれば、善良な好因縁の条件が備わり、向上して成長していくのである。
このような洞察力が鋭いかどうかは、自分が心を込めているかどうかに関わっているのでしょうか？これは自分が「覚察と洞察」の本質にどのように入っていくかということでもあります。なぜなら「覚察と洞察」とは、まさにあなた方が言うところの「目色巧者」であり、あらゆる生活の方向性を理解し、すべての気づきの能力と洞察の本領を必要とするからです。
これは有情衆生が人道世界に入り、累世にわたって、すべての洞察力と察知能力を相互に応用し、洞察力と覚察能力に対して非常に鋭敏な観察点を持つことである。いかにして衆生が一歩一歩着実に経験と知識を積み重ね、智慧を高めようとする意志があるかどうかを理解できるか。
まさに仏性の本質を体得する最も基礎的な修行であり、すべての人類衆生の生存習慣は、人道世界に入った後、相互依存を形成し、人道世間においてまさに無常の動力作用があることを理解することができず、またこの無常の動力作用こそが恒常の正常性であり、無常の動力が形成されるのです。
洞察力と気づきの能力
それはすべての衆生に理解されるためである。しかし、人間の衆生は必ずしもそれを応用し体得するわけではなく、ただ理解しているだけでは何の役に立つだろうか？また、無常であるがゆえに、まさにあなた方すべての生活の方向性、そして生命の終着点によって示現されるのである。いかなる者も地冥星に入った後、「永遠に安泰健康」でいられるだろうか？まさに不可能なことである。
さらに、天災地変がもたらすすべての変化と影響に加え、人為的要因によるさらなる災害があり、また天災地変は人為的要因による災害を形成しています。このような状況で永遠の平安と健康を保つことは可能でしょうか？それは不可能なことです。なぜなら、この無常の力こそが、常にあなた方の生活習慣に対して作用し、あなた方が長期的に依存するものとなっているからです。
かくの如く一切衆生を観ずるに、仏性の本質の中に入りて能く明白せんや、この観察能力と洞悉能力を体得するはいかん。有情衆生は凡塵世界に入りて、洞悉能力と観察能力を持つこと能わず、すなわち無常の干擾を避くること能わざるなり。また無常とは即ち汝らの謂う所の、日夜のみ！
この無常がいつ訪れる災いか、自分がすべての無常を悟り尽くせるか、それとも無常の災いが来る時になって初めて知るのか？必ず理解しなければならない、覚察する力と洞察する力こそが、人間世界でいうところの：言葉や表情を観察して反応する「聡明」な目の巧みな者－（台湾語）である。
衆生の仏性の根底
このような人は比較的聡明で、また小賢しさを弄することも得意である。しかし、小賢しさを弄すること自体は非難されるべきことではない。これはあらゆる事柄に対して、洞察力と見抜く力を働かせ、慧眼をもって一切の人界を観察し、さらに長期的な成長と向上を図ることができるかどうかに関わる。洞察力と見抜く力がどのようなものであるかを理解することが必要である。
もし法に対する鋭敏さが欠けているときは、観察力と洞察力を判別する能力も不足していることになります。また、「覚察」とは、生活におけるすべての不足を理解することであり、そこから横方向に展開していくことで、「覚」は悟り、「察」は理解であることを通徹し、したがってすべての生活習慣を「洞察」できるようになるのです。
必要に応じて、現在の過程を通じて、さらなる向上を図ることができ、また洞察を深めて観察することができます。「洞」ははっきりと、「悉」は徹底的に通じることを意味し、あらゆる生活の過程に対して、過去においてなぜこのようになったのかを問います。このような環境はより大きな利益をもたらすでしょうか？有情世界は、すべての欠如と不足を洞察し理解することはできません。
まさに鋭敏な観察力を欠いているため、自らが利益を得て報いを受けることができない。これこそが有情衆生が人道世界に入った後、最大の障害となる点である。いかにこれを転化するか、良き善き因縁条件によって向上し、増長し、超越していく必要がある。そうでなければ、ただひたすらに陥っていくのみである。
人類の衆生は仏性によって向上する
すなわち、自らを向上成長へと導くことである。また、人為的要因は一切の先天因縁の根本を左右し得る。このような因を含むことによって生じるものに対し、一切の触縁においてはどうなるのか？触縁が一切の成果に与える差異においても、人為的努力によって、あらゆる結果がどのように分かれるのか？これを理解できるかどうかは、必ずしも一定ではない！
これは報いを受ける分岐点に入ることであり、「因を含み、縁に触れ、果を成し、報いを償う」という一連の連続した動作に対して、有情衆生の仏性はいかにして向上に顕現し高められるのか？必ず仏性の本質に対して、「覚察と洞察」の能力を持つことが必要である。この覚察能力と洞察能力は、いかにして得られるのだろうか！
まさにあなた方の言葉を察し、表情を読み取り、機敏に反応し、目つきの巧みな者（台湾語）こそが、単なる名相に留まらないのです。さらに、あらゆる過程を真に理解し、より大きな成長と利益へと入り、人為的要因が相互に補い合うことで、仏性の本質を自らがより大きな利益の空間へと導くことができるのです。
すなわち、覚察と洞察の能力において、より大きな仏性の本質によって向上へと高められるのである。しかし、別の角度から言えば、魔性の本質におけるすべての差異も同様であり、魔性の本質にも覚察と洞察の能力が備わっており、それは魔性を顕現させるものである。一切の有情衆生は、皆、仏性の本質がもたらすエネルギー体へと入ることを切に願っている。
仏性の覚察と洞察の力
それではなく、ただ魔性の本質を持つエネルギー体に入るのではなく、この両者は未来において達成されるものが大きく異なるでしょう。これは有情世界のあらゆる万物衆生が、真に利益を得て成長する空間に入り、仏性の本質を顕現するためのものであり、仏性を顕現することを主たる依り所とする力なのです。
このような依拠する力こそが、「覚察の力道」と「洞察の力道」の相互の分差に入ることであり、まさに人為的要因によって区別されることによって、より大きな成長がもたらされ、より大きな被害を受けることにはならない。仏性を顕現させることを主たる依り所としなければならず、あらゆる生活の指向性と、生活地域の風土や民情を主軸とするのである。
さらに生活の志向は、常に地冥星の中に存在しており、それは真の修行者にとって修持の拠り所となるものではありません。このような因縁条件では、真に向上して成長することは永遠に難しく、ただ人間世界に留まるだけです。また、向上して高みを目指すためには、必ず仏性の自性を洞察し、覚醒する能力を顕現させなければなりません。
才能は自らの仏性の本質を開花させることができる。この能力をいかにしてエネルギー体に応用し、向上成長させることができるのか。有情衆生が真にその中の秘訣を理解できるかどうか、その方法はどのようなものか？必ずや自らの努力によって真の成就を得ることであり、それが次回の著作において最大の収穫と恩恵となるであろう。
衆生の根性に分かれて差別あり　　仏性の覚察は洞悉して大なり
両者の目色が巧みなる者は　　
聡明にして応用すれば必ず達せん
仏性の本質は如何なるものか　　有情衆生には明らかにし難し
すべては生活のために方向を定め　　向上を求めて獲得することは難しい
この偈は、有情の衆生たる霊子たちが互いに励まし合い、自らをより大きな利益の空間へと入らしめ、自らの努力によってついに更なる成長と利益を得ることを願うものである。汝らが如何にして知るべきか、衆生の仏性の本質とは何か？自らの真如仏性によって到達し、自らを更なる高みへと引き上げることを願う。皆様お疲れさまでした。崇心宗脈にお邪魔いたしました。ではまたお会いしましょう！
虚空鳳翔天尊
虚空の因縁は心を貫き崇め
鳳は天翔けりて徳沢を引きて
天尊今日共に相会し　　大道の衆生来たりて伴い行く
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大寰宇宙　太陰星君（娘娘）が降臨され、「大道衆生」第十六回を著作されました。有情衆生の仏性の本質をいかに向上させるかについて、前半部をすでに分析されました。次回の後半部の著作を心よりお待ちしております。
皆様により大きなご利益とご功徳をお授けするこそが真実の姿であり、自らが「覚醒の力と一切を見通す智慧」を真に理解する境地に入り、自らを一段と成長・向上させるためには、未来の衆生救済により一層重きを置く必要があります。また、今年の法の弘通はまさに真実のままに推し進められることでしょう。皆様、ご苦労さまでした。さようなら！
2014年9月14日 15時35分 ◎＃※   ０Ｋ＃
南海古仏
第三十一回　福報の衆生
第十六回 　眾生佛性
南贍部洲は誠に特別なり　　海天は衆生を教化する途
古きに道徳を言い今また整う　　仏は仏性を著し徳行を顧みる
第卅二回　福報の原則
第十七回　 佛性德性
有情なる衆生は仏性の徳性に向かって増長す
人類の衆生は、自分には必ず仏性と徳性が必要だと感じると、宗教に入って学び成長することがよくあります。これは自分自身を支える行為であり、また有情衆生の仏性と徳性によって向上を図り、この凡俗の世界に落ちてしまった自分が、いかにして向上を遂げられるかを求めるのです。
このように自分自身の：習性、慣性、生まれつきの性質に依拠し、自分自身の個性を修正していくにあたり、宗教に入って修正できるかどうかという自分の個性を明確に理解する必要があります。それによって自分が心を込めて努力しているかどうかを観察することができ、一生涯宗教に入ったまま終わりを迎えるとき、少しも変わっていないということがないようにしなければなりません。
己が宗教修行に入ることについて、それはあまりにも価値がないことだと思っている。また、己が宗教における一切の修行は、汝らとは少しも関係がないと考えている。それどころか、三～五十年の修行を経た後でも、依然として外界の修行をしていない衆生と同じような状態であると、汝らはどう思うか？
仏性の本質とは一体どのようなものか。それは、仏性が有情衆生にとって最も基本的に備わっている主要な因縁の本体であるからであり、またこのいわゆる「仏性」は、常に覚醒の力によって行使される必要があり、覚醒の力があればこそ、自らの無明と障害に対して非常に明晰になり、極めて透徹した理解を得ることができるのである。
仏性顕現の弘揚
有情なる衆生を観察する力において、自らの不足や欠点、過ちをいかに理解し、いかに修正すべきかを悟ることができるか。なぜなら、観察力を行使するには、非常に鋭い洞察力が必要であり、これは仏性の本質に基づき、有情なる衆生のエネルギー体の中に入り込み、自らを向上させることを指すからである。
この因縁条件はまさに真実であり、また覚性の種因となるすべての行為について、有情衆生は自らが宗教に入ることを理解しなければならない。あるいは日常生活の中で、すべての無明と無知はどのようなものか？もし宗教を通じて洗練された後も、自らの無明と無知を変えることができないのであれば。
各人の不良な欠点とはどのようなものか？これは上昇超越を達成する上で非常に困難な障害点であり、有情の人類衆生は自らに対する覚察力を養わなければならない。それは日常生活におけるあらゆる経験の蓄積から生まれ、知識として応用された後、次の段階で智慧として蓄積され成長していくものである。
すなわち、覚察の力を行使する動作とは、このような覚察の力をいかに発揮するかであり、さらに「仏性の種因」に応用する必要性がある。自らが人道世界に入った後、なぜ自らの仏性を顕現できるのか？有情世界の宗教から見れば、仏教の教理のみがこのような構築を有しているのである。
仏性の覚察の力
仏教で用いられる用語は、人間の衆生における不足や欠陥、誤りに対して修正を加えるものであり、宗教的戒律に対しても実態に即した規範を設けています。これは他の宗教と比較する際に、仏教の修行者たちがより善良な行いを示し、しかもそれが整然と統一されていることによるものです。
もし異なる体系の宗派が加わり、さらに異なる体系の戒律規範があれば、それは他の「儒、道、キリスト、イスラム」の宗教と比べても、むしろ優るとも劣らないものとなる。仏教の経典に照らせば、他の四つの宗教と比べてもさらに成長の契機があり、宗教を修める者すべての向上と超越を促すことができる。
また比較的容易に進めることができます。これはなぜかと言えば、上蒼がこの時期に仏教の真理を高めるために、他の「儒・道・耶・回」の宗教に対して特に優れた超越性を示しているからです。あなた方はまさにこの盛会に巡り合うという殊勝な因縁に恵まれ、上蒼が当今に設立した第一の学府「真仏心宗」を設立したのです。
かくして真の仏は心の中にあるのです！では、外界のいわゆる仮の相に対して、どう認識すればよいのでしょうか。真の仏はすでに心の中にあるのです！外界の一切と必ずや相補い合い、また汝自身の仏性を顕現させることができるでしょうか。深い修行を用い、自らを大いに向上させ利益を得る必要があります。あなた方はこの奥義を理解することができるでしょうか。
徳性の所有する加持
仏性とは、仏法を依り所とすることを指します。また、この仏性の種因が全ての宗教において存在するとしても、その奥深い真髄がどのようなものか理解することはできません。それゆえ、あなた方もその奥深さを理解することができないのです。仏性が顕現し、明らかにされることを理解しようと思えば、おそらく、あなた方にとってその内なる基本構造と体系がどのようなものかを悟ることは非常に難しいでしょう。
この仏性の種因における徳性を闡明することこそ、あなた方が真に「仏性の本質を顕現する真如実境」へと入ることができる所以である。なぜならば、「真如実境」こそが徳行の基礎工事であり、徳行はまた仏性を基礎としているからである。一切の有情衆生が人道世界に入った後、いかにしてこの境地に至ることができるであろうか！
もし宗教的な修行に取り組み、自らが徳性や仏性を顕現させたいと望むならば、これはまさに有情衆生が最も好んで追求する大事なことである。いかにして自らが仏性と徳性を顕現させる境地に入るか、すなわち「仏性の種因」に対して、自らの徳性を顕現させることができるか、そしてその徳行とはいかなるものかを明らかにすることが求められる。
すべての衆生が備えている仏性こそが根本であり、この仏性の中にある徳性はさらに基礎となるものである。もしあなた方が自らの徳性を高めることが十分でないとき、まさにそのような時に仏性を顕現させようとするならば、まず徳性を発揚させることを理解しなければならない。なぜなら、徳性とは陰徳に通じる行いであるからである。
人類の衆生は必ず大いなる陰徳を必要とする
有情なる衆生が、陰徳を高め積み重ねることができるかどうかは、非常に重要なことです。また、このような陰徳とは、大いなる徳行によって高められるものであり、それぞれの衆生が宗教に入った後、陰徳を積み重ねることができるかどうかは、自らがより大きな利益と成長を得られるかどうかにかかっています。これは、仏性を顕わすために必要なことなのです。
さらに陰騭を積み重ねることで集積され、はじめて仏性を闡揚することができる。徳性が陰騭から来るものであるかどうかを備えている必要があるのか？この種の陰騭は、世間で言われる「陽善と陽功」とは異なるものであり、また自らがどれほど大きな功績を積み重ねたとしても、それは陰騭を成就した者が、まさに言葉では言い表せない所以でもある。
また、外界のいかなる事柄や人種とも関わらず、互いに争ったり自慢し合ったりすることはなく、それは陰徳を積み重ねることはできません。さらに、陰徳は宗教の修行における戒律や綱領に入り、それを明確に実行することができます。これは徳性を発揚することであり、自分自身でどれだけ陰徳を積み重ねるかによるものです。
では、自らの未来を決定し、いかにして仏性の種因を顕わすか。陰徳の積み重ねは順序を追って行われるべきであり、このように仏性の本質に対しては、まさに陰徳の積み重ねを以て自らを教化し向上させることである。宗教教育、教化の基本課程が、もし単に修行のためだけであるならば、あまりにも価値がないではないか！
徳性の働きによるすべての積み重ね
また、すべての戒律と規律を遵守する必要がなくなったとき、真如を顕わし、仏性を顕現しようとするのは、おそらく容易なことではない。さらに、真如を顕わし、仏性を顕現することは、まさに徳性を自らのエネルギー体に対し、向上させるために蓄積し集約することであり、これは自らの学びと成長の中で、すでに早くから恩恵を受けているのである。
もはや俗世で言う「九品蓮台」の果位ではなく、「金品蓮台」の境地、層次、果位に到達できるならば、それはすでに一般の者が認めるものではなく、九品蓮台による浄化を通過したものであり、このように陰徳が深く厚い者は、必ずや自らのエネルギー体に対して、すでに相当に深く厚い蓄積を積み重ねているに違いありません。
必ず仏性を顕わすことによって、より大きな利益を得ることができるのです。そうでなければ、すべての有情衆生は自分が永遠にそのような条件に達することはできないと思い込んでしまうでしょう。また、真如を顕わし、仏性を顕わすことは非常に遠いことだと思ってはいけません。順を追って陰徳を積み重ね、陰徳をより大きな成長と利益へと蓄積すればよいのです。
また、どのように徳性を積み重ねるかというと、これも自らの陰騭（人知れず善行を積むこと）によって、より大きな徳行の蓄積が顕現されることにあります。必ずや徳性をさらに上へと積み上げることができるでしょう。あなた方が理解できるかどうかは分かりませんが、この中で「徳性」はいかに積み重ねられるのでしょうか。さらに日々「陰騭」を実践する際には、自分にどれほどの功績があるかを語る必要はないのです。
真如を顕わし仏性を彰すことによって現れる
それを日常の修行として実践し積み重ねることができます。また、あらゆる原因と理由を言ってはなりません。それは一般の衆生が常に持つ動作であり、自らの努力の中から常に自己を検証し、日々行い、刻々と実践し、自然でわざとらしさがなく、心に執着しない境地に至らなければなりません。
長らく続けるうちに、陰徳が積み重ねられ、陽善によって行われるのではなくなります。このように徳性が満ち溢れる時こそ、知識によって転換され、あなたにとって最も有益な智慧となるのです。このような因縁がすべての行為に応用された後、陰徳は徳性の加増へと転じ、あなた方の徳性が増していくのです。
どのような効用があるのでしょうか。第一に福報が増し、第二に通貨が蓄積され、第三にエネルギーが増し、第四に陰徳が積まれ、第五に未来の成就が得られ、第六に果位が実質的に得られます。以上は知識を通して智慧の向上へと転換されるものであり、まさに「懿敕崇心堂宗脈」が教え導いているところのものです。
その通りです。順序を踏んで進めることが陰騭により大きな完成をもたらすのです。一体誰が、その中の基礎的な工程と奥深い道理を理解できるでしょうか。互いに補い合い助け合うことが有情の衆生を高めるのです。もし宗教的行為や動作に入ることを理解できなければ、それは自分自身で向上を目指すことなのです。単に自分が認識している困難や、問題や理由や原因が山ほどあるだけではありません。
徳性と仏性  仏性と徳性
己が徳性は既に大いに減じているかどうか、また如何にして真の功績や真の陰徳があるか？否である！深く理解すれば、この世はただの時間の旅人に過ぎない。光陰矢の如く、次回や来世でどうやって向上し超越できるか？必ずしもそうではない。如何にして今を掴むべきか？
未来や来世に望みを託すのではなく、恐らく、このような天与の良縁は既に消え去ってしまっているのです！どうして未来や来世での成就などありえましょうか？全く不可能なことです。このような殊勝な因縁をいかにして今この瞬間に掴み取るかこそが、自分自身の未来を自分の主人として生き、自分の奴隷となることを避ける道なのです。
汝らは深く悟ることができるだろうか、仙仏の恩師、そして上蒼のすべての苦労に満ちた配慮は、結局のところ汝らをして上昇、超越、円満、回帰、乗越へと至らしめんがためである。それこそが、汝らが現在の学習と成長において、すでに第一段階として認識し理解したことであり、まさに自らの努力によって得たものなのである。
仏性は種因の基礎なり　　徳性を加えて陰騭固し
人道世界に修持を行うも　　皆これ帰途に迷障するなり
仏性の徳性、行いの本質は
人の為すところ、かくの如し
来世に望みを託すな　　今を努めてこそ真実に近づく
この偈は、有情の衆生たちが共に励まし合うものである！有情世界は仏性の本質にあり、いかにして徳性を積み重ねることができるのか？最大の基礎には必ず「陰騭」がある。あなた方は「陰騭」を理解できるだろうか？それは日常生活の中から生まれるものであり、一切の人と争わず、無為の布施によって積み重ねられる陰功のことである。
実際に積み重ねた大きな成長と恩恵こそが、日常生活の中で知識を経験に転換し積み上げ、陰徳に集約して成長するという、まさに真実の姿であります。皆様のご苦労に心より感謝し、今日は師たちに代わって前もって祝賀を賜り、誠にありがとうございます。崇心宗脈においてしばらくお邪魔いたしました。ではまたお会いしましょう。
虚空理治法天尊
虚空理治法天尊　　登台して諸賢群と共に会す
大道の衆生は真に殊勝なり　　障礙化して有情敦し
諸聖佛と諸賢生、及び無極大道院の修学士の皆様、こんばんは。本日は大道衆生主著仙佛である南海古佛がご降臨され、著作をなさいました。有情の衆生と共にこの殊勝な仏性と徳性を相互に成就させ、すなわち「大道衆生」第十七回を、前回の衆生の仏性と相互に連携させ、人の世界において殊勝に闡揚することにより、自らがより大きな受益と回獲を得ることができるのです。
2014年9月14日17時05分◎＃※   ０Ｋ＃
南屏道済古仏
第三十三回　福禄賜与
第十七回　 佛性德性
南屏は障を衛りて衆生を護る　　道は済いで徳は有情を潤すこと真なり
古仏は十八回の著作を著わし
徳性ある衆生の大道の行程を示す
第卅四回　  回報の原則
第十八回　 德性眾生
人類衆生の仏性と徳性
すなわち、有情衆生にとって最も切望され、喜ばれる一つの顕現であり、自らが「徳性と仏性」を顕現させることができ、また自らが徳性の中で行使する働きがあるかどうか、これが有情世界を支える最も主要な因縁の根本であり、自らの心から進んで犠牲を払い、無私無為の奉仕を捧げることに依拠できるものである。
この中で、自分が奉仕を行う際に、すべての行動が無欲であるか、それとも何かを求めるかによって、その二つの効果と達成には非常に大きな違いがあります。「求める心があるかないか」を区別して理解しなければならず、また、自分自身が心から進んで、一つ一つのことに取り組むことが大切です。
また、何も求めずに、自らが本当に他人の苦しみや困難、様々な行いを助けること、これは陰徳を施す行いと言えるでしょう。この中で、もし自らが行動を起こし、自分の能力をありのままに発揮して、助けを必要とする人を助けるならば、これは互いに補い合う行為なのです。
もし、長らく飢えに苦しむ放浪者に出会ったなら、温かい食事を一膳与えてその飢えを癒すことができるだろうか。もし、心が折れ、自らの命を絶とうとする人に出会ったなら、その時かける一言が、生きる意志を失った人を目覚めさせることができる。まさにこの一言が、一人の命を救い導くのである。
徳性はすべての衆生が備えているものである
あるいは反対に一言で、一人を抹殺することもできる。このような行為を区別し、徳を施す行為が自分自身の成就に資するかどうか？自らに真に徳を施すことの顕現を与えなければならない。また、徳性は真に美しい行為であり、自らが徳性を増し加えることができるからである。
わずかな善行をしただけで、自分がいかに高い徳性を持ち、どれだけ多くの人を助けたかを大々的に宣伝するのではなく、むしろそのような縁によって、自らが本当に有情衆生に対して陰徳を施し、善徳に対してより効果的になることができます。これは善行から昇華し、徳性を積み重ねて増やすことができるのです。
汝ら人間世界においては、常に人類衆生に善行を広く行うよう教え導いている。しかし、このようにただ善事を広く行うだけで、善行の行為が徳性を高めるために加えられることを理解していない。これは汝らに対しても、単に善事を実行する行動に入るだけで、徳性を陰騭の機能と効果の中に入れることができないのである。
これは、必要に迫られて求めるものではなく、ましてや功績や善行を記録するものでもなく、真に慈悲の心を発して人を成就させることができる、つまり自分自身が陰徳を積む条件を備えることです。このような因縁条件は、まさに千真万確の善事であり、善徳を陰徳に対して発揮する機能こそが、陰徳から転化して徳性を積み重ねるものなのです。
衆生の徳性は常に増やしていく必要がある
困難を抱える者に対して救済を施し、またその窮状から脱するのを助けることができる。それゆえに教育と教化は、まさにこの方面の機能と効果を有している。今日において言えることは、もし少しでも専門技能があれば、多くの放浪者の徘徊を減らし、社会コストの支出も削減でき、良好な縁を形成して上昇成長させることができるということである。
有情なる衆生は、この方面の陰騭について、その中の奥義を体得することができるだろうか。もし真に無欲無求の心で一切の善行と徳性を実践することができれば、必ずや自らを善行における更なる成長へと高めることができる。これこそが「陰騭」である。このような陰騭は徳性の増大として現れるが、あなた方は徳性が増大するとどうなるかを理解しているだろうか。
それはまさに、日常生活の中でのすべての慈悲の行いから来るものであり、あなた方はそれによって功徳を得ることができます。また、慈悲の行いこそが真に実践されるべき善行であり、有情の衆生が日々一善を行いたいと常に願うならば、善の中に何かを求める時、真の無為に到達することは必ず困難となるでしょう。
無為とはまた、陰騭の条件の中で、徳性を高めるために加えられるものである。この種の知識の応用は智慧の成長に寄与し、求めず、高ぶらず、誇らず、執着せず、あらゆる善行をすでに忘れ去ったとき、自らの生活の中でのすべての言動が、喜んで人を助けることができるかどうかを理解することができるのである。
自らを成就し、衆生を渡化する
あるいは自分を完成させ、衆生を完成させる。これは宗教信仰者が必ず持つべき基本的な行動であり、ただ自分がどれほど修行しているかと考えるだけではない。もしそうでなければ、自分は何を修し、何を持するのか？少しも外界と接触することがなければ、たとえ自分が功果を円満にしたとしても、それはただの「独りよがりな者」に過ぎない。
さらに、真の功徳があるとは言い難いことです。真の陰徳がなければ、功徳として積み重ねることはできません。なぜなら、功徳と陰徳は一体であり、表裏一体の関係にあるからです。人生においてどれだけの功徳を積むことができるかは、自らが検証できるものであり、自分の顔つきがより善良な面持ちに変わったかどうかを見れば分かるのです。
さもなければ、一生を宗教に入った後でさえ、気質を変えることもできず、顔つきを善良な相に変えることもできないならば、あなたのこの一生は修行が合格点に達していないと言える。なぜそうなるのかというと、有情衆生がどれだけの功徳（陰徳）を積み重ねているかは、その相貌を見ればはっきりと分かるからである。
自分にどれほど大きな功徳が積み重なっているかを言う必要はなく、すべてを理解できるのです！また、自慢する必要もありません。実は、少しもそのような必要はないのです。陰徳や徳性を積み重ねることは、自分自身の未来に確かな根拠を与えるためであり、これこそが天がご覧になり、宗教修行者の顔にどのように現れるかという理由なのです！
陰徳はすべて深く厚く積み重ねられるものである
ただちに一切を了知することができ、さらに行為、動作、言葉の中から、いわゆる宗教の修行者、あるいは名ばかりで修行者と称する人々が、真に宗教の修行に入る者として、外界の衆生よりもさらに多くの慈悲の心を持ち、一切の衆生に対してより大きな救済を施すべきであることを理解することができる。
これは宗教修行者にとって当然の基本動作でもある。さらに言えば、信仰を持った後、自分が努力して奉献し犠牲を払い、私心なく無為に尽くしても、依然として真の効能や利益に到達することは難しく、あるいは宗教に入って久しいのに、これらの最も基本的な人助けの善行さえ、すでに錆びついてしまっているのではないか！
さらに、少しも行おうとしないのに、未来に上昇し超越できるとでも思っているのか？ 己がすでに錆びついていることに気づかぬか！良心はとっくに犬に食われてしまった！それなのに自分は本当によく修行していると思い込んでいる！それはおかしい！仙仏も言う：己のその心はすでに錆びついている！それでまだ仏性や徳性が増すとでも思っているのか？
差し支えありません。常に純粋な良心を保ち、もう少し功徳という潤滑油を加えて、すでに錆びついた良心を潤してあげてください。宗教に入った後、すでに自分自身の天性が発揮するのを麻痺させてしまい、あらゆる奇妙な癖や変わった気質がまた現れてはいないでしょうか？それが自分自身のさらなる成長につながるか？妨げになるか？それは必ずしもそうとは限りません。
仏性と徳性は陰騭の積み重ねによって増す
つまり、あらゆる行為や動作にこだわらず、しかも真に自分自身を利益し、衆生を利益することができるのです。これは紛れもない真実であり、あらゆる行為や動作に求めない心、無私無為の行為や動作を加えることで、より大きな成長の余地を通じて、成就と蓄積を実現することができるからです。
いかにして自らの「高慢と誇示の心」に縛られないようにするか。もし少しでも小さな善行や善い行いをして、それに大きな喜びや満足を感じるならば、それは一般の衆生の行いであり、これが「誇示の心」の働きである。有情の衆生は常にこのようであり、善行を行うことは喜びに満ちたことなのである。
また一部の人々は、他人を助けた後、自分が偉いと思い込むことがあります。このような行為はすでに「高慢」という限界に入っています。人間の世界において、何も求めず、私心なく無為に、天地のすべての衆生に対して真の救済の大願を持つことができれば、必ずや自らが先に積み重ね、エネルギーを増すことができるでしょう。
己自身を向上させ超越するためには、行為においてより大きな無欲・無私・無為を実現できるかどうかにかかっています。すべては自然に発動する行為であり、真の無欲に基づいて一切の天性を発揮し、自らの功績の大きさを記憶することなく、喜んで人を助ける行為を行うのです。
徳性は衆生が成長するために必ず必要とするものである
これらはすべて、自分自身の成長と学びに向けたものであり、また自分自身で成長を積み重ねることで、将来により大きな恩恵を受けることになります。あなたがたは今この瞬間、この無私・無為・無欲の境地を、いかにして自己の未来の向上に活かし、それがいかに自らの未来の成果につながるかについて、考えてみたことがありますか？
これが徳性の増長であり、陰徳に報いる行為の実践でもある。まさにこのようにして、自らより大きな利益を達成することができる。これは人道世界に対してだけでなく、単に人を助ける善行にとどまるものではない！さらに、自らの身体に課せられた試練を通じて、一人の衆生の徳性がどれほどのものかを知り得るのである。
なぜならば、徳性に対する審査は非常に厳格であり、有情衆生の徳性の成長はどうかといえば、必ず自分自身の審査過程がどうであるかを観なければならないからです。有情衆生は、人を助けることが善良なことだと考えていますが、自分自身の試練が、時に一人の衆生の今生や未来の功果の評価に関わっていることを知らないのです。
あなた方はただ善行を施すことが人を助けることだと考えていますが、それよりも徳性を試練にさらすことの方が、往々にして人助けの善行よりも高次元であることを知りません。なぜそうなるのでしょうか？それは、一人の衆生の徳性が備わっているかどうかは、必ず試練の過程において、どのような心構えでそれに対処するかを見なければならないからです。もし自分自身が理解できず、自分の徳性が高次元であるかどうかわからないならば、どうしてそれを知ることができるでしょうか？
徳性は人類の福分を増し加え、累積させる
自分で検証してみましょう！自分は偽りを作ることができ、また人為的要因もあるからです。物事に対する見方はどうでしょうか？自分自身を検証してみてください。自分のすべての行為や動作が、無為を通じて成長するものとなっているかどうか。ただし、この無為は何もしないことではなく、有為の中から無為を達成するものなのです。
すべての作為は、まず「作為がある」ことで初めて「有為」となり、「有為」が転じて「無為」となる。これは紛れもない真実の行為である。一般の衆生はただ「作為がある」ことだけを知り、「作為がある」中に「有為」が存在し、「有為」の中に「無為」が存在し、「無為」の中にさらに「真の無為」が存在することを理解していない。
このようにして天地と一体となることができ、一体となって誰のためにあるのか？それは自分自身のためなのです！真の無為によって成長することができ、それは：仏性、徳性、善性、道性と共に成長することを意味し、このような境地はもはや人間ではなく、すでに仏の境地に入っているのです！人道世界はこのようなものですが、「真の無為」を実現することは非常に難しいのです。
したがって、人道の「作為がある」という限界を受け入れることができれば、理論上の認識としては、自分は無為であると思い込むが、実際には作為があり、すべては誰のためか？自分のためでもないのに、それはあまりにも小心者です！真の「無為」に入ることができなければならず、すべての行為と動作は、また天地と相互に結びついているのです。
徳性の陰徳と仏性の顕現
これこそが真実である：仏性、徳性、善性、道性が顕現したものであり、あなた方が体得できるかどうかは分からない：仙仏の師がこれほどまでに真の無為であることを。自分で考えてみなさい。この両者は密接に関連しているが、大きく異なる点がある。なぜなら徳性は陰徳から顕現するものであり、すべての人為的要因と深く関わっているからである。
この「徳」は一種の無形のエネルギーであり、この種のエネルギーは仏性と道性を区別せず、いずれも同じく具足することができる。しかし陰騭（功徳）は、自分自身の日常生活におけるすべての行為や動作の善行から来るものである。では、このような善行をどのようにして陰騭に転化させるかというと、無為によって成し遂げられる必要がある。
「陰騭」を「徳性」の上に積み重ねることができるのである。あなた方が宗教修行に入ってから、自らの陰騭があるかどうかを深く悟ったことがあるだろうか？分かっていない！それはまた、宗教を信仰する期間があまりにも長すぎるからだ！さらに、宗教は根本的にあなた方に、無為によって成長することを積み重ねるよう教えていない。そうではないだろうか！
日常生活における全ての善行を陰徳として実践し、さらに無為を真の無為へと高めなければならない。しかし、試練の過程も同様である。人間の衆生が宗教修行に入ると、自分は善良な人間だと思いがちだが、そうした「善良な人間」の良心は、とっくに犬に食われてしまっているのである！
仏の名を借りて大いに盗みを働く者は、まさにあまりにも多い。
また、常日頃から大いに盗みの行いをしている。このような人はいるだろうか、あまりにも多い！なぜなら、宗教の中で盗みの行いをすることは、すでに麻痺してしまっているからだ！さらに、自分の奇怪な癖や気性を検証することもできず、「無為」の成長もなく、「陰騭」の中で成長し利益を得ようとするのは、まったく不可能である。
一般の人間の衆生が宗教の中にいる時、理解できない迷いの障壁がある。このような所謂障害は、自分自身の認識や観念から来るものである。また、仙仏の先生や善知識が警告や忠告をしてくれることもなく、結局は自分自身の認識を根拠にしてしまうのである。
一生涯宗教に入ってもそれが当たり前となり、根本的に自分自身の全ての不足、欠点、誤りを修正し変えることは不可能で、来世はただ再び宗教修行に入るだけである。さらに、あなた方は考えてみなさい、自分自身もまさにこの種の人間ではないか？違うって？（そんなことない！）違うわけがないでしょう！あなた方の認識はまさにこのようなものなのだ。
一生一世、またその次の生も、ただ宗教に入って修行するだけで、向上も超越もできない、どうしようもない！一生が終わればまた次の一生が続き、仙人や仏様でさえ見て首を振るばかり、どうしようもない！どうしようもない！全くどうしようもない！宗教に入って修行する際の行動基準とは、自分自身のあらゆる誤り、不足、欠点を修正することである。
徳性を増す上での注意事項
人道世界において、なぜ真の積み重ねができないのか。日常生活におけるすべての善行・善事は、まさに自然に行われるべきことであり、さらに、このようなエネルギー体を通じて、より大きな利益を加えることができる。つまり、善行・善事に転換し、記憶にとどめず、すべての善事の記憶が深く入り込み、無作為の成長を形成するのである。
自然な振る舞いと動作によって、善行や善事を行うことに加わり、自らの行いをあえて意識することなく為すことができる。自らの作為や行為を意識にとどめないならば、すなわち「有為」となる。このような「有為」とは、現在あるいは未来において、「作為や行為」という制限に縛られない境地を指す。
まさに「有為」の中に入ることで、この種の修行は自己に対して「無為」の恩恵を高めるものなのです。また、いかなる行為や動作も記憶にとどめないがゆえに、「無為」の中でさらに「真の無為」へと成長し、天と地のすべてと一体となることで、自然にそうなる働きを形成するのです。
有為の無為及び真の無為
汝らもし真の無為を了知することができれば、これこそ一切の成就が仏果の位階に至る最大の基礎工事であり、まさに現在のこの瞬間において、長遠にわたってより大きな真の無為を積み重ねることができるのである。また汝らはもはや人間ではない！これは仏果の境地である。仏仙、聖神、菩薩に問う、もし人類衆生を助けるならば「有為」であろうか？
違います！すべては「無為と真の無為」なのです！無為の中において真の無為を実践できるでしょうか？そうすればより大きな利益を得られ、さらに仙仏の先生方もこの真の無為によって共に向上され、まさに仏性をもって顕現されるのです。このような教化を理解できるでしょうか？できます！しかし必ず実践に用いなければなりません。ただ知っているだけで実行できなければ、何の役に立つでしょうか？
知っていても実行できないのは、知らないのと同じである！知らない状態を形成し、さらに無知になるのは愚かである！人は愚かであることを恐れず、愚かでありながらさらに無知であることを恐れる、それがさらに愚かなことである！もし執着を捨てることができれば、初めて「真の無為」の効果に転換でき、さらにあなた方の向上と超越を促すことができる。知っていても実行しないのは、難しいからではない！
陰徳が身に積もるにつれて
次第に成長していくものなり
無為の中に真の無為あり　　仏性は陰徳にて成就す
無にして為すことなく天地に合し　　聖神仙佛皆宜しきが如し
深く体得し実践するとき
仏果と仏性の成就の時となる
この偈を！有情の衆霊子と共に互いに励まし合いましょう！徳性を無為の中の真の無為に加え、陰騭を積み重ねて仏果へと昇華させ融合することは、自らにとってより大きな利益と成長をもたらします。今日、仙仏の老師が著作を通して伝えようとされている意図を、いかに理解すべきでしょうか？それは自らの未来により大きな成長と利益をもたらすためなのです。皆様のご尽力に感謝いたします。またお会いしましょう！
虚空道伝徳天尊
虚空天界は人に知られず、道は伝わり徳は来たりて聖理を闡明す
天尊は今日神人と会い、喜びの気が吉祥の大道義を満たす。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の修学士の皆様、こんばんは。本日は大道衆生主著仙仏　南屏道済古仏がご降臨され、「大道衆生」第十八回をご著作くださいました。徳性を備えた衆生が陥る迷いと障礙を深く剖析され、皆様にとってさらなる成長とご利益が得られることでしょう。さて、皆様お疲れさまでした。では、またお会いしましょう。
2014年9月11日20時00分◎＃※　０Ｋ＃
第三十五回　仙仏の撥転
第十八回　 德性眾生
南無衆生無上仏　　燃燈心法我と成る
古仏は十九回に降り著し　　善性道性宗教を作す
第卅六回　陰騭福報
第十九回　  善性道性
有情なる衆生の様々な性と体
一切の万物の霊性ある生きとし生けるものは皆、善なる本性を備えている。それゆえに、善なる本性に基づいて宗教の修行の道に入り、自らの道性をもって善徳の縁（えにし）と為すことによってのみ、宗教における修行と言える境地に入ることが可能となる。宗教におけるすべての修行の方法は、まさに永劫の時を超えて、自らが善徳によって培ってきたものなのである。
このような天機と良縁が異なる宗教に対してもたらされ、修行による改造と向上が可能となる。これこそが、有情衆生がなぜ宗教に入り、修行と称することを好む理由である。実は、前世からの善徳と因縁が既に備わっているからこそ、今生において宗教に入り、修行者と称することができるのである。しかし、すべての宗教修行者が向上し成就できるとは限らない。
また一般的に言えば、すべての者は永遠に宗教の中に沈み落ちるものであり、いわゆる生々世々のすべての修行と護持は、この中に多くの人道的世界の行為と動作によってもたらされるものがある。自分が向上して高まるか、あるいは下向きに沈み落ちるかの分かれ目は、必ず善と悪の区別を未来の拠り所としなければならない。
有情世界のすべての衆生の中で、最も人々が好むのは「私は宗教を修行する者である」という言葉です。では、なぜ宗教を修行する者は、外界の修行をしていない衆生よりも、より穏やかで親しみやすい温かみを感じるのでしょうか。これは宗教を修行する者の視点から見れば、前世の善行と縁によって宗教の世界に入り、修行者と呼ばれるからです。
善性の成長と道性の弘揚
しかし、このような修行の方法で自分自身を成長させることができるかどうか、つまり宗教に入った後、誰もが本当に向上を遂げられるかどうかは保証できません。その中には、細かく分けると変えるのが非常に難しい様々な悪い問題が生じ、その結果、自分自身が宗教に入った後も、ただ名義だけを掲げているに過ぎないことがあります。
そして、自分は宗教の修行者だと言う者も、このように見るならば：このような修行では向上して超越することは難しく、永遠に生々世々と宗教の護持と改造に沈んでしまい、真に向上するための障害はどこにあるのか？一般の修行者なら、宗教の戒律と綱領がどのようなものかはよく理解していると信じている。
宗教の戒律や規範を真に実践し、自らを変えることこそが修行者と言えるでしょう。多くの人は宗教の戒律や規範に従って修行し、自らを改めることができず、気質を変えるどころか、かえって自らの悪しき習性を宗教の中に持ち込み、自らの悪しき気風が宗教の善良な風習や規範を汚すことになってしまいます。
このような善徳の縁によって宗教修行に入る者は、まさに自らの習性を染めつけてしまっている。宗教全体の弘揚と教育において、このような宗教修行者はどうなるだろうか？この一世で向上し、超え抜けることができるだろうか？それは不可能である。なぜなら、このような衆生の良くない習性が、自らが護持するものの周りをずっと取り囲んでいるからである。
衆生の成長と変革の必要性
さらに、宗教の善良な次元、境地と教化を引き下げてしまい、たちまち悪しき気配に満ちてしまう。これがいわゆる、善き徳の縁によって悪事を行ってしまうことであり、往々にして自らの心を欺いて求めるものである。ちょうど仙仏の師が言われるように、善き因、善き縁は必ず善き果を結ぶが、必ずしも善き報いとなるとは限らない。
善悪の因縁をもって観るならば、悪因・悪縁・悪果も必ずしも悪報となるとは限らない。菩薩は因を畏れ、因の段階で断つが、衆生は果を畏れ、果の段階で断とうとする。もし果の段階でさえ断つことができなければ、報いの世界に入り、自らがすべての果報を受けることになる。これは人間の心の在り方や考え方に関わってくるのである。
自身の良くない気場を修整して変えることはできるのか？これは自身の良くない気質と修整改造向上に関連しており、この二つのうちどちらを選ぶのか？すべては個人の選択によって決まり、それはまさに自分自身の未来の上昇と沈淪の分かれ目である。最も良くないのは、善い因縁の中で悪事を行うことであり、どうしようもないことだ！
また、永遠に真の向上の成就を得ることはできず、必ず自分自身の：習性、慣性、本性を成就させるかどうかを理解する必要があります。これは単に良い習慣性だけではなく、自分自身の良くない習慣性を理解することであり、もしそれを人間生活の中に取り入れるなら、それはやむを得ないことです！
善き性質が成長するすべての因縁
しかし、もし人類の衆生が宗教の護持に入り、信仰を修持した後、少しも変化がなく、さらに自分が修めていることがいかに素晴らしく、いかに優れていると考え、自分自身の長所と短所を同時に記録し、良いことを記録する一方で、良くないことも記録し、区別することができるかどうかについてです。
毎日それぞれ記録すること：今日の全ての行動と振る舞いを、すべての過程を記録すれば、一定期間後、もし善良な行いが比較的多ければ、自分で自分を褒めることができ、もし自分自身の良くない癖が多すぎる場合は、必ず深く反省しなければならない：習慣性、慣性、個性、天性。
宗教に入った後、少しも変わらないというのは、人間界において必ず深く検証されるべきことです。自分が本当に自分の主人になれるかどうか、永遠に自分には少しの欠点もないと思い込むのではなく、また、自分自身のすべての欠点、過ち、不足がどこにあるのかを全く反省しない人もいます。
このような宗教修行者は、どこへ行こうと、どの道場にいようと、宗教で言う修行者であっても、根本的に言えば、自分で選んだ決して変わらない悪しき個性を持っているので、このような者には仙人や仏様もどうしようもないのです！また、自分で選んだものであり、自分が心から望んだことなので、仙人や仏様がどれほど教化し導いても、すべて無駄なのです！
道性の成長は人類と衆生に利益をもたらす
はっきり言えば、人間界には「牛は牛であり、北京に連れて行っても牛である」という俗語がありますが、このような修行者に対してはあまりにも多いのです！道とは一体何の性質なのでしょうか？この種の「道は修行である」という基本的な因縁はまだ悪くはなく、有情の衆生はどの国や衆生であっても区別なく、すべて同じなのです。
いかなる国や地域の衆生であっても、宗教的な修行や調整、護持を通じて、過去のすべての良くない気質や習性を変える機会があります。それは五教の教育文化や、各地域に元々存在する様々な宗教や宗派を区別するものではありません。これは、人道世界に元々存在するあらゆる宗教を区別せず、それらを教育と教化と見なすことを意味します。
また、現代のあらゆる新興宗教の流派も、すべて同じように天の豊かな資源を受け継ぎ、現地の有情衆生が宗教に入って修行し変革することを可能にしています。この天地の間の公正で平等な修行の方法は、すべての万物の衆生に公正で平等な機会を与えるものです。
ただ個人の因縁が異なり、個人の趣味嗜好も異なるため、個人の因縁がさらに異なり、好みも異なってきます。そのため、宗教に入った後も、異なる修行の方法があります。まさにこのような因縁の条件によって、将来の上昇や超越があるかどうかに関わらず、すでに信仰の列に加わる第一歩を踏み出しているのです。
道の性質は信仰と修整である
あらゆる有情衆生が宗教への信仰を修持する道に入る時、まさに道性が顕現するのである。この「道の性」こそが信仰の原動力であり、有情衆生一人ひとりにこのような機会と善縁が備わっている。それは各人が「求めるか求めないか」という選択によって決まるのである。
すべての衆生はこのような条件を備えており、自らの宗教信仰に対して、これは道性が顕現したものと言える。いかなる国の宗教信仰を区別することなく、大いなる天地のすべての衆生もまた、この「道の性」を十分に具えているのであり、これを宗教信仰の原動力と呼ぶのである。
人道世界がなぜ「地冥星」に降りて人として生まれるのかを理解しなければなりません。このような人生はただ食べ、飲み、排泄し、雑事に追われ、眠るだけのためなのでしょうか？この人道世界におけるすべての食べ、飲み、排泄、雑事、睡眠が、有情の衆生が生活を安定させるためのものであることを理解できるでしょうか。
しかしながら、すべての衆生も休みなく働き続けるわけではなく、休息と静寂の時を持つものです。これを、人間界における生活習慣と言います。それは、休息と静寂の瞬間に、自らの心を浄化し、自身の不足、欠点、過ちをありのままに認識し、修正と変革を加えることができるようにするものです。
性性、その体は異なり、衆生の利益に対す。
これは、自分自身の生活や信仰の中で、生活上の埋め合わせのできない欠点や過ちを真に修正し、変革することであり、それゆえに上天はさまざまな宗教の流派を下し、それぞれの国の宗教の成長を提供するのです。つまり、自分自身を向上させ、高めることなのです！
しかしながら、このようにあらゆる宗教の流派を詳細に観察しても、それぞれの宗教の戒律や綱領が、すべて真に超越的な境地に回帰できるわけではありません。大部分のものは、ただ人界において善徳を護持し導くだけに過ぎず、根本的には有情なる人類衆生の「生死の大事」とは何の関係もないのです。
しかも、このような「生死を超越する」という看板を掲げて、真に修行して自分を変えようとする人々を欺き、さらに彼らに対して、もし自分が一生をかけて入った宗教の流派が、はっきり言ってしまえば、来世でまた宗教の修行に導き支えられるだけだと気づかせたとしたら、あまりにも残酷ではありませんか！
もし一般の真心を持たず、修持や改造をしない者に対しては、なおさら非難すべきではない。このような悪しき習性を持つ者は、そもそも向上や超越に到達することすらできない。自らの修持に対しては真剣であるべきであり、もしあなた方がこのようであったなら、自分自身どう感じるだろうか？一般の人々が宗教に入る時には、何らかの期待を抱くものである。
善性と道性の相互応用
宗教の中において、累世の不足、欠如、誤りを修整し、真に有情衆生に対して、自らが向上し、超越して回帰する境地に達することができるよう願うことこそが、真の意味での昇華である。人道世界において、なぜ真の向上があるのかを理解し、自らが一世で成就するのか、それとも多世をかけて成就するのかの区別を知る必要がある。
もし一世で成就を望むならば、非常に強い志と信心、そして忍耐力が必要です。そのため、天の試練と検証もより厳しく、厳格なものとなります。人間界においては必ず倍の努力を払わなければなりません。このような行いとその効果について、どうすれば理解できるでしょうか。累世にわたるすべての因果と業障を、真に償うことができるのです。
今世において、すべてを完済することができます。これは一生成就者にとって、遭遇する難関や困難は、多世成就者が受ける試練よりも、さらに厳しいものであり、一方で多世成就者にとっては、現在の試練は比較的軽く、さらに少ないものとなります。
来世に再来する度ごとに、回を重ねるごとに、だんだんと楽になっていきます。このような試練の機会は、一世成就者に比べて、ずっとずっと少なくなります。なぜなら一世成就者はまさに「今この瞬間を捉え、今この瞬間に苦労し、今この瞬間に努力し、今この瞬間に成就し、今この瞬間に検証する」ことで、上へ上へと成長し超越していくからです！
未来にはこの機会は訪れない。今をしっかりと掴むべきだ。
これはまさに自分が選択した道に対して、どのように差別的な作用をなすべきかということであり、お尋ねします：諸賢なる生ある者と有情の仏子たちよ、あなた方は一世で成就することを選びますか、それとも多世をかけて成就することを選びますか？もし一世で成就することを選ぶならば、それは少し苦労が多いでしょうが、試練は必ず乗り越えられ、累世にわたるすべての因果と業障を完結させ消し去ることができるのです。
さらに仙仏の先生方のご加護によって成就を助けられれば、必ず多くの試練が軽減されます。これは一世での成就と多世にわたる成就を目指す者の努力によって、試練の深さがどのように区別されるのか？あなた方は自ら、今この時、一世で成就するか多世をかけて成就するかを選ぶことができるのです。これは比較的公平な働きと言えるでしょう。
言えることは、次の来世で再びこのような殊勝な因縁に巡り会えるかどうかは定かではないということです。また次の来世において、諸天の仙仏の先生方が、再び下界に降りてあなた一人、あるいは多くの人々を救済しようと願ってくださるかどうかも。さらに、自分がそうだと信じ込んでいることが、果たして真実なのかどうか。これは有情の衆生が理解すべきことであり、自らがなすべき努力は今この瞬間にあるのだと。
汝らがもしも次世には、虚空・無極・昊天の仙仏の老師が再び降臨され、またこのような天機良縁があると考えるならば、それはあまりにも痴迷していると言わざるを得ない。必ずや知るべきである、汝らが今このような因縁さえ成就できないのに、ましてや上蒼が千万年に一度しか与えられない大福縁と天機良縁など、なおさらのことではないか！
封神演義がさらに盛り上がる
まさにこの時こそ、かつての『封神演義』が成し遂げたことを、さらに上回る成果を収めたのである！また『封神演義』については、あなた方もよくご存じだろうが、その中で達成された多くの向上は、すべて昊天星界の範囲に限られていたのだ！昊天星界の制約を超えることは極めて難しく、あなた方はよく理解すべきである、「善性と道性」この二つが互いに縁を結び合う関係にあることを。
汝らすべての向上と超越を促すことは、順を追って汝らの悪しき習性を一歩一歩修整し改めていくことである。もしそうであれば、来世に再びこの世に生まれ、さらには四つ足の地に沈淪することもまた、自らが選択したことである。汝らが崇心宗脈に入り、体系の中で行じ持つことに対してである。
良き因縁と条件に恵まれ、学び成長することができるでしょう！しかし、すべての学生や宗生、信徒が真に回帰し、超越できると保証されるわけではありません。この千載一遇の機会には、師である私も一役買っていますが、来世に再びこのような天与の良縁があるかどうか？よく考えれば自ずとわかるでしょう！
千古に難き大いなる因縁に逢う
虚空無極に道を降ろして顕わす
昊天は衆星系を統べる　　回帰超越はこの天に在り
人生の修業は
自ら選び自ら進む
一世にて成就するか、あるいは多世を要するか、
試練の度合いはそれぞれの機縁によって異なる。
この偈よ！有情の衆霊子たちが互いに励まし合いなさい！そうすれば理解できるだろう、往昔の『封神演義』において、師である私もまたこのようにして衆霊子たちの向上を成就したが、それはすべて昊天星界に限られていたのだ！今回の『崇心演義』は、往昔のすべての成就とは異なり、必ずや大いなる方向性をもって回帰し、超越するものである。
「崇心演義」は、未来の四億の仏子と、二百余万のハイテク人材の回帰と超越を促すものであることを、しっかりと理解する必要があります。さらに第二陣以降、これら七千万のハイテク人材がどのように回帰するかは、まさにあなた方の現在の「崇心演義」が互いを成就させるかどうかにかかっています。
したがって、あなた方はまさに大道の先鋒部隊であり、あなた方の現在の試練と苦労はどうか？成就はどの程度か？それは自分自身の努力によって選択されるのです！未来の果位は、必ず自分自身の努力によって獲得されるものです。今日の苦労は、すべての神仏と諸賢生、および無極大道院で修行する学士たちにとって、皆吉祥であります。では、またお会いしましょう！
無極二關聖帝
欣（よろこ）びて大宗師（たいそうし）の聖諭（せいゆ）を聞き、崇心（すうしん）の大根器（だいこんき）を了知（りょうち）す。
心を崇める教えの広がりは並々ならぬもの　　回帰し超越する時は更に期日通りに
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院・院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈大宗師、南無燃燈古仏が降臨され、「大道衆生」第十九回を著作されました。そこでは衆生の善性と道性を詳細に剖析され、さらに未来の天機を崇心宗脈の中に示現されました。
さらに、本宗脈で真に修行する学生たちが、すべての経緯を理解できるようになることを願っています。崇心宗脈にいるだけで正式な学生と称するのでは、崇心に対して何の貢献も助けにもなりません！それどころか、自身の良くない気質や習慣を持ち込み、純粋な宗教（脈）を汚してしまうことさえあるのです。
それどころか、自分はどれほど大きな功績を積んだと思い込んでいたのか、本当に恥ずかしい限りです。あなた方はどのようにして自分自身の変わった癖や気性を正していくのでしょうか。必ずや自らの固い志と努力をもって真価を示さなければなりません。ただ宗教修行者という名ばかりを掲げ、外部の衆生や善男善女に見られるがままに、嘲笑われてもどうしようもない、という状態にならないよう願っております。
汝らが為すところの行いを以て、これを崇心宗脈学、宗生と称す。しかして根本的に天書の述べる高等成就者の域には及ばず、汝らが自らを知り、一切の奇毛怪癖をいかに修整し、改めて向上増長させ、高等成就の境界に至るべき儀態を如何にすべきか？よろしい、皆様ご苦労さまでした。一切吉祥。さようなら。
2014年9月17日16時15分◎＃※   ０Ｋ＃
虚空上人－南無虚空上徳人天古仏
◆ 跋・讃賀 ◆
大道の衆生は既に完著す　　下回は跋と凡例を排す
◆ 本文 ◆
第十九回　  善性道性
虚実因縁より大道生じ　　空しく凡塵を転じて無限の程
上台著作第二十回 人言自性道性真
◆ 跋・讃賀 ◆
孔聖人降来著作　　跋一賀祝福綿章
◆ 本文 ◆
第二十回　 自性道性
道性は、すべての人類と衆生が備えているものである。
仏性および道性：これらは一切の修行の因縁の根本であり、自らがより大きく向上することを可能にする。もし道性がなければ、宗教に入って修行することも難しい。まさに大宇宙の一切の有情衆生の基本的な自性であり、自性とは言うならば、自らが向上へと到達し得るか、あるいは堕落へと沈むかの分岐点となるものである。
もし自性に対する観点から見れば、その働きはまさに「自性自ら渡り、仏も渡すこと能わず」というものであり、有情衆生はすべて同じである。もし仏が渡すことができると言うなら、遥か昔の時代から、すべての衆生は宗教に入って修行し、自性を向上させることができたはずである。しかし、なぜ今の時代になっても、いわゆる自性はどうなっているのだろうか？
まさに上昇と墜落の分岐点とは？それは宗教に入ることですが、必ずしもすべての者が向上を保証されるわけではなく、しばしば堕落することもあります。そうした条件であれば、なぜ宗教に入って修行と言う必要があるのでしょうか？有情の衆生は、道の本質を理解した上で、自ら宗教に入ることができるのでしょうか？
まさに向上へと昇華するか、あるいは堕落へと沈むかの分岐点であり、それは自らの主観的な意識の在り方に深く関わっている。道の本質を理解しなければならない。それは有情の衆生を宗教へと導き、いわゆる修行へと入らせるものであるが、すべての衆生が信仰を持てば必ず向上し、超越できると保証するものではない。それは個人の思想や観念が宗教に入った後、いかに展開するかにかかっているのである。
道性の基礎は仏性と同じく、皆具わっている。
もし法がなければ：宗教の戒律や条綱に従って施行する時、すなわち戒を犯すことになる。また、条綱を遵守しない時、このような者を修持者と呼ぶのは、ただ名ばかりの者に過ぎない！根本的に修持者と呼ぶことさえできず、しかも、自分自身の良からぬ奇抜な性格や癖を宗教の中に持ち込む者も、修持者と呼ぶことはできない。
さらに、宗教の純粋な教育と教化を汚染することさえあり、このように言えるでしょう：この道性を闡揚するにあたっては、向上へと高めるべきであるが、しかし自らの不良なる施行機能により、この宗教に対して相当な排斥の動きを生じさせ、外界にもこの宗教のすべての教育文化を肯定することが非常に困難となっている。
全ての宗教の修行者に対しては、戒律の規範に基づいて実践すべきであり、単に宗教の修行者という名義だけに留まってはなりません。道性の根本的な働きについて、各宗教が信仰するものは、前世から積み重ねられて今生に至り、宗教に入って修行者となるものであることを理解しなければなりません。この中で道性はまた、善良なる主体の因縁なのです。
有情なる衆生に付き従う道の性質を理解できること、これは上蒼がすべての人類に与えたものであり、宗教に入った後、自らの不足や欠点、過ちを真に改めることを知ることは、まさに正道である！しかし、果たしてそうできるだろうか？これは現代においても、また古の時代からずっと、このような状態が続いているのである。
人類衆生の所有する性体
様々な有情衆生が宗教に入った後の向上と超越を破ることは非常に難しい。逆に、自分自身の奇妙な癖や気性を宗教全体に持ち込んでしまうことになる。そして、このような修行者と呼ばれる人々が、自分自身の不足、欠点、過ちを反省することができるかどうかは、必ずしも確かではない！
常に仙仏は仙仏のことを語り、人為は人為のことを行うのであれば、それでは一体なぜ宗教に入り修行者と称する必要があるだろうか。もしこのような状態が一生変わらなければ、来世には必ずあなたに一分の苦しみと試練、挫折と困難が訪れ、あなたのこの世におけるすべての良からぬ模範を再教育し、文化の課程を授けることになるであろう。
このような良くない学生や信徒に対して試練を与え修正する際、本来宗教は大集団によって融合と向上を図るべきですが、必ずしも全ての学生や信徒がこのような修正と変化を成し遂げられるわけではありません。また、このような修行者は、言うなれば一生を通じて良くない模範を示し、あまりにも多くの奇抜な癖や変わった性格を持っているのです。
自分の言動や振る舞いが、宗教の弘揚と発展を妨げるだけでなく、良くない模範を示すことで、宗教全体に非常に悪い影響を与え、宗教の弘揚と発展をさらに阻害しているのです。このような学生や信者はいるでしょうか？あまりにも多いのです！
人類の衆生にはあまりに多くの良くない習性がある
このような例はあまりにも多いのです！一般的な宗教でさえそうなのですから、ましてや本宗脈もまたそうなのです。これは道性を発揚するものと言われますが、それはただ来世で再び試練を受ける種因に過ぎません。真に修行を改め変革してこそ、初めて本当に向上することができるのです。自分の功果が大きいと思ってはいけません。実は、それは多くの良くない模範に過ぎないのです。
既に自分の功徳果報をもって相殺してしまい、さらに多くを減らしてしまった！どうして自分自身の功徳果報などありえようか？それどころか、大量の点数を減点されてしまい、このような修行者は本当に良くない！有情衆生が宗教に入った後、すべての行為や動作は、まさに自性によって啓発されるのである。
自性はまた、「仏性真如と魔性真如」の二者を区別するものである。なぜなら、自性は一種の先天的な本因質、すなわちあなた方が言うDNAの遺伝子であり、この本因質はすでに先天的なエネルギー体を備えており、それが人道世界に加わることによって、「仏性真如と魔性真如」の二者が形成されるからである。
すべての有情衆生が向上し、堕落しないようにするためには、人間界に入る際に必ず「仏性真如と魔性真如」の両方を相互に活用し、さらに人間的要因によって自性本来の質を引き出すこと、つまり自分自身が責任を負うことが必要である。
自性は諸々の性体より啓発される
宗教に入った後、もし仙仏の老師や善知識が全ての学生と信徒を教導する時、この仏性の因質と徳性の因質こそが、あなた方人道世界における行い、為すこと、なす一切の事柄であり、人道世界の行為動作に加わり、来世に再びこの世に戻るかどうかを決めるのです。
あるいは一世のうちに、超越へと回帰することも可能であり、これもまた一世で成就するものと、多世をかけて成就するものとの違いに区分されます。このようにして明らかになるのは、「覚察と洞察」という二つの根本的な本質が、自らにおける「仏性真如」の開顕と、「魔性真如」の抑制に対応しているということです。
まず理解すべきは、「仏性真如」とは何か、「魔性真如」とは何かということです。もしこの二つが分からなければ、どうして「仏性真如と魔性真如」について深く体得することができるでしょうか。この時点でその内容や作用が何であるかが分からなければ、人類全体に与える影響は非常に大きいものとなるでしょう。
言えることは、ただ宗教に入ることを修持と呼ぶ者は、わずかな基礎的な修行さえ持たず、人道世界はまさにこのようなものであり、自分自身のすべての無明と欠点に対して、根本的に自分の誤りがどこにあるのかさえ分からず、ましてや自分の不足がどのようなものかなど、さらに分からないということです。これは「仏性真如と魔性真如」の両者を非常に理解しにくくしているのです。
自性の啓発と成果の効能
必要に応じて深く体悟し、明らかに通徹しなければ、初めて真に自性を啓発して「真如実境」の明晰を得ることができ、宗教に入るだけでなく、ただ一般的な護持と行功立德、賛助布施を行うだけに留まらずに済みます！それは一般の宗教に入ったばかりの者の行いであり、またある期間を経た後には必ず成長しなければなりません。
初めて真に知識と智慧を向上させることができ、またあなた方が宗教に入り、修行者として護持することも無駄にならず、宗教の基本的な教義とはどのようなものか？自性に対して、真にその奥深さを理解するにはどうすればよいか？有情の衆生は、その中の多くの名相を深く悟ることができない。
このように、宗教の経典と教義を相互に融合させることができず、また宗教の経典と名相を自らの学習と成長を通じて理解し、宗教のすべての教義の精髄がどこにあるのかを知ることができるでしょうか？その精髄と奥深さがどのようなものであるかを理解できるでしょうか？そうでなければ、ただ宗教に入るだけで、すべての行為と動作の後、どうすることもできません！
それはちょうど修行をしない修行者のようになってしまう。もしそうなれば、お尋ねしますが、あなた方は宗教のあらゆる教義を数十年研究した後でも、依然として真の知識や智慧の応用法を理解できず、このような状態で「覚察力と洞察力」を身につけようとするのは、まったく不可能なことではないでしょうか！
覚察と洞察の能力
「覚察する能力」もまた一種のエネルギーであり、「洞察する能力」はさらに一種のエネルギーであることを知る必要があります。あなた方が宗教に入った後、宗教の経典と教義に束�られ、その内なる奥義がどのようなものであるか、その中の精髄がどのようなものであるかを理解しにくくなってはいないでしょうか。これは有情衆生が最も突破しにくい一種の障壁なのです。
しかしながら、あなた方は今、なんと幸運で大きな福徳に恵まれていることでしょう。天の第一学府を通じて、数多くの「五教」の精華と「三教」の奥義、そしてあらゆる天地の理の秘訣を学ぶことができるのです。これはあなた方に与えられたもので、このような学びと成長を通じて、善良なるものが増し加わり、超越していくことでしょう。
また、順を追って「一歩一歩確かな足跡を刻み、一つ一つの足跡がすべて着実である」ことにより、真の理解と収穫が得られます。道の本性に基づいて善徳の縁が促されなければならず、そうして初めて自性を明らかにすることができます。また、自分自身の持つ自性は、先天に内蔵され、すでに積み重ねられてきた自性への啓発から来ているのです。
有情なる衆生が宗教に入った後、それぞれの宗教の境地、段階、教化、果位はすべて異なっています。そのため、これまでのあらゆる宗教を見ると、古代の経典をそのまま継承している一方で、古代の経典が当時の時空と因縁に基づいて著されたものであることを理解していません。すべての経典は伝承され、下界に広められてきたのです。
道性と自性の間にある転換
これまでこれらの経典を見てきたが、もし有情衆生を向上させることができず、かえってずっと人道世界に沈淪し続けるのであれば、それは上蒼が慈悲深くないのではなく、宗教の経典と教義がすでに現代と未来の世界に合わなくなっているからである！これは経典が正しいか間違っているかとは言えないのではないか？
これは時空の因縁によって作り出されたものであり、異なる条件と成長学習はすでに異なっています！あなた方にはこのような天機と良縁があり、自分自身を真に向上させることができます。これは自分を成長へと導くものですが、すべての人が無限に恩恵を受けられる保証はなく、各自の選択によって決まることを理解すべきです。
必ずや、それぞれの認識観念の価値と、行為動作がどのようなものであるかを観察しなければならない。さらに厳しい審査と検証を経て、初めて自らが向上するか、それとも堕落するかの分岐点を定めることができる。これはまさに「道の性」の本質を自性本体の中に入れ、有情世界を向上させることができるのである。
来たるべきはこれを謂う：「道の性」を自性の本体に入れ込むことである。また、一切衆生は皆、自らが信仰する依り所を好むゆえに、信仰は一切衆生が最も好む一つの事柄である。かくして、信仰の有無は、一人の衆生が宗教に入ったからといって、即座に回帰や超越によって向上できることを意味しない。しかし、その機会においては、衆生は平等なのである。
道性と自性の区別について
宗教に入った後は誰でも、このような機会の機能を享受することができます。つまり、この宗教的信仰に対しては、大まかな方向性が前提となるだけです！あらゆる努力は、自分自身が精進を重ねなければならず、そうして初めて収穫と利益を得ることができます。また、あらゆる信仰は、単に授業に申し込むことに過ぎないからです！
授業を受けたら、必ず精進と努力が必要です。それから毎回の試験を経て、合格できるかどうか、あるいは試験を受ける前に落とされてしまうか。さらに一生のうちに宗教に入って何をするのか？ただ名義だけを掲げているに過ぎません。私は修行をしている、私は宗教の修行者だと言いながら、少しも変わることがない。それでは恥ずかしくないでしょうか？
個人として心の中でよく分かっていること、自分が行うすべての行為、つまり自分が理解できること、期待することについては、このような良くない考えや行為を持ってはならない。それは成就を収めることは不可能であり、しっかりと把握する必要がある。このような千載一遇の素晴らしい縁に対しては、それはほんの一瞬で過ぎ去り、また千真万確の事実である！
道性は自性に加わりて　　宗教の修持は自ら行う
修練を積んで優秀へと変わり　　試験の成果は豊かに実る
有情なる衆生はかくの如し
自性自ら渡し導きて持つ
仏も渡すこと能わずもまた真実なり
回帰超越もさらにかくの如し
この偈を！有情の衆霊子たちが互いに励まし合いましょう！あなた方のすべての不足、欠点、過ちを、自分自身の「覚察と洞察」のエネルギー体が十分に備わっているかどうか、現実に即して問いかけてください。必ず自らの向上の有無を観じて選択をなさい。さあ、皆さんお疲れさまでした。すべてが吉祥でありますように。またお会いしましょう！
無極三関聖帝
無極の因縁早く来たりて登る
三関聖帝登台成る
諸賢仙仏の皆様、こんにちは
崇心のエネルギー大道を歩みます
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院院修学士の皆様、こんばんは！本日は、本宗脈正主席　虚空上人－南無虚空上徳人天古仏が降臨され、「大道衆生」第二十回を著作されました。自性と道性の因縁の根本について、大きな方向性を示されました。
仙仏の言葉遣いは厳しいものではありますが、それは汝らに対して大きな方向性を示し、互いに励まし合うためであり、また汝らが多世ではなく一世で成就することを願っているのです。必ずしも多世での成就の方が機会が多いとは限りません。なぜなら、多世を経た後には、再び人道の世間に迷い込んでしまうからです！今この瞬間すら、把握し精進努力することができないのですから。
また、どうして「多くの世を経て成就できる」と言えるでしょうか。あなた方に対しては、もともと多くの世を経て成就することを考えていましたが、ずっと地冥星の中に留まり、繰り返し繰り返し数え切れないほどの世の輪廻に沈み、超越して回帰することも難しく、多くの世を経て成就することに効果があるでしょうか？想像に難くありません！必ずや一切を明らかにし、良き善き成長があるでしょう。
本宗脈の仙仏恩師は、近頃すべての学生の不足・欠如・誤りに対する修整を開かれました。自らの不足・欠如・誤りがどのようなものかを理解することができるでしょうか。恐れることはありませんか？仙仏の先生方があなた方の不足・欠如に対して大きな方向性を示してくださいます。真に信心を持つ者、真に変革できる者が、まさに大智慧の持ち主なのです。
未来の成就も相当に大きいが、敢えて尋ねようとしない者は、ただ来世に再び輪廻する種子の因となるだけで、どうやって自分で見極めるべきか！明日から始めて、誰が一番に名乗り出るか？そうすれば自らの全ての不足・欠点・誤りを修正することを悟り、即ち自分がどのような材料かが分かるだろう！それこそが向上して成長する道なのだ！
2014年9月17日18時38分◎＃※   ０Ｋ＃
下元水官 厄難を解く大帝
◆ 跋・讃賀 ◆
跋 一
◆ 本文 ◆
第二十回　 自性道性
下元水官降臨し　　厄を解く大帝の徳沢行わる
大道の衆生廿一回　　自性と道性互いに親しむ
◆ 跋・讃賀 ◆
本師釈迦今降載　　牟尼仏祖跋二開
◆ 本文 ◆
第廿一回　  有情眾生
大いなる天地に生きるすべての有情なる衆生
人道世界において知ることができるのは、自己の仏性と魔性が人間の行為の中に入り込み、必ず思想が全ての行動に付随するということです。このような行動に対して、自己の現在における全ての経験の蓄積と思想観念を加えることで、初めて行動が生じるのです。もし前世の全ての因果によって形成されたものを加えるならば、それは前世の報応の蓄積によるものとなります。
因縁果報は、現在の今生に植え付けられるが、なぜ衆生の習性は前世のすべての作用によって、この一生、この一世に作り上げられ、またなぜ人為的要因が区別できるかというと、前世と今生のすべての習慣的行動が、互いに支え合いながら自らの自性と道性に対して働きかけるからである。
また、このため、自性の本質と道性の因縁は互いに融合し合い、これが現代のすべての有情衆生がなぜ宗教に入り、いわゆる修持の基本的作用となるのか、という点も同様です。有情衆生がこの大いなる天地において、すべての動く物種の中でいわれるように、人間こそが万物の霊長なのです。
より高次元の思想教育も可能であり、これは現代の人類衆生が人道世界に入り生存の方向性を定める際に、衣食住行に対して規制を設け、獲得する方法を考えることです。また、人為的要因を通じて、なぜ自性を発揚し、道性の因縁の根本を持つ必要があるのかを理解できるようになります。もし自性の発揚だけがあって、道性の因縁の根本がなければ、どうなるのでしょうか？
今世においては良き善が増長するであろう。
今生において宗教に入って修持を志すならば、根本的に道性という因縁が相互に支え合うことがなければならない。必ず理解すべきは、有情の衆生は皆仏性を具え、自性を具え、さらに道性を具えているということである。道の性質が身体に入り込むことで、自らが宗教信仰において、大いなる依り所となる力を得ることができるのである。
これは人為的な要因であり、もし人道世界のすべての行為や動作に、遺伝子の本質がなければ、このようなエネルギー体を有することはおそらく困難であり、真の機能と効果を達成することは難しいでしょう。自らの『道性体と自性体』を理解し、相当はっきりと認識することが必要です。ただ名ばかりを掲げて、自分を修行者と称するだけではいけません！
さらに、自性の本質と、道性の因縁が本来どのようなものであるかを明確に理解しなければなりません。人為的要因によって成長するにあたり、必ず自性をもって道性を成就させ、また道性をもって自性を互いに補完し合わなければなりません。お尋ねしますが、もし単に宗教に入るだけで、向上することができないとしたら、あなた方にはどのような感想をお持ちになりますか？
有情なる衆生の道性と自性は、必ず相補い合ってこそ成り立ちます。なぜなら道性は善良な因縁の根本であり、この道性という因縁の根本こそが、自らを宗教でいう修行者へと導くものだからです。ただし、すべての衆生が必ず向上し超越できるとは限りません。それは信仰する宗教に、真に向上成長させ得る力があるかどうかにもかかります。
世の中には様々な宗教が存在します
また、単に外部に対して「天下第一の大宗教」と自称するだけで、真に上昇超越を達成することはできず、宗教の経典や教義を通じて明らかに理解できるものは、これを「私は天下第一の大宗教である」と称することはできません。また、有情衆生が「霊性と心性及び身体」の三者に対して向き合うこともできません。
より大きな成就を得ることができる。これは、いわゆる天下第一の大宗教を標榜する者が、これらの信仰者が宗教に入った後、ただ自分自身に善き因縁の道性を持たせるだけで、「自性」を高めるために道性を引き出すことができないというものである。このような限界は、今日の世界を見渡せば、いたるところに見られる。
なぜなら、宗教の経典や教義を通じて、はっきりと理解できるからです。また、道性と自性が転換する中で、人為的要因と自らの選択がどのようなものであるかも分かります。さらに、自らの選択と興味は、現在の選択が正しいかどうかを決定し、それが未来の帰路をどのようにするかを既に決めているからです。
これは現代のあらゆる宗教が掲げる「私は天下第一の大宗教である」という主張ですが、この天下第一の大宗教がその来歴を観察すれば、すべての経典と教義における不足や欠陥を鑑みると、結局は善道の因縁の範囲内で布施行を実践するにとどまり、真に生死を超えて解脱することは到底できないのです。
大部分は上に向かって増長し、超越することは難しい。
ましてや、自らの「生死の大事」に関わる天機玄奥の基礎工事について、どうして真に理解し得ようか。ここから見て取れるのは、天下第一の大宗教のすべての教え、教育文化課程の機能は、他のあらゆる宗教の優れた使命をはるかに超えるべきであるということだ。ゆえに、これを天下第一の大宗教と呼べないのは正しくない。
このような過去世における縁ある人類衆生は、ただ相互に集う大いなる因縁の体があるのみで、さらに自性と道性が互いに補い合い助け合い、必ずや「自性と道性」を相互に完成させることを応用する必要があります。人為的要因の中において、信仰をありのままに理解することができ、人生一度、宗教に入った後には。
もし自身の生死という大事を真剣に捉え、自らの超越へと高めることができず、また一生のうちに上蒼の昊天星界、そして無極・虚空の大宇宙世界へ回帰したいと願うのであれば、それは根本的に木によって魚を求めるようなものであり、このような回帰の条件を達成することは極めて困難です。世の中には多くの無知と無明が存在しているのです。
また、すべての衆生は自性の本質を備えているだけでなく、道性の因縁の本質も備えています。まさに道性の善良な因縁の本質を自性に加えて互いに支え合い、自らの仏性を顕現させることで、この一生この一世を人間界で無駄に過ごすことなく、来世についても全く知らないということがなくなります。
来世にまた巡り会うとしても、それもまたいかがなものか
このような天機の良縁がまだあるだろうか。殊勝なる因縁条件に対し、なお高次元の仙仏が人道世界に降りて教育文化の課程を授け、また人為的要因によって促され、更に人為の導師が必要で、一切の有情衆生の無明、無知、不足、欠陥、過ちを改めることである。
また、仙仏の先生が度々繰り返し教えてくださることを通じて、修正と改善を加えることができます。自らに不足し欠けているところを、人為的な要因による完成を通じて、自らの仏性の本質を、自らの八識の田に貫通させることができ、それによって現れてくるのです：仏性、自性、道性といった様々な種因が。
自性と道性、そして八識の応用は、人道生活のあらゆる志向機能において、自らが人為的要因によって成し遂げるものであり、来世に再び巡り会うことを期待するものではありません。そもそも、このような天与の良縁など存在せず、人為的要因によって成就されるのは、まさに自らがこの一世を懸命に応用することなのです。
現世のこの人生を通じて、大いなる方向性と行動を融合させることもまた、大宇宙のすべての行動規範であり、人間の要素をもってあらゆる逆境、挫折、困難、障害を克服することです。これにより、有情の衆生は真に心に刻み、過去の失敗から得た経験を積み重ねることができるのです。
人類の衆生が巡る一世ごとの輪廻
次に、自分自身のすべての不足、欠点、誤りを改め、自らの努力によって修整するようになるでしょう。外部の力に頼るのではなく、自ら進んで修整と変化を望むことで、自らの行動と行いの基準を適用できるようになります。それによって良き因縁を得て、向上し、成長し、超越していくことができるのです。
これは大いなる天地に生きるすべての人類衆生の自性であり、互いに補い合うことができるものである
道性の如実なる成長は、また道性も自性を補助して発揚するものであり、自らの「仏性真如」を相互に完成させることである。自性と道性の中で、陰騭を積み重ねて増やし、はじめて仏性の本質が現れることを促すことができるということを、必ず理解しなければならない。
また、「仏性真如」の実際的な応用があれば、一切の有情衆生に対して、ただちに「仏性真如」を顕現させることができるかどうか、疑問に思うこともあるでしょう。さらに、道性と自性、そして仏性は互いに連関しており、この三者を自らの一切の行為動作、つまり自らの行動様式に対して相互に支え合うものとして捉える必要があります。
道性が良き因縁の根本であるがゆえに、自性は本来より備わるDNA－遺伝子の本質であり、この自性を「仏性真如」として顕現させることが、人界に欠けている不足であり、理解し得ない秘訣でもある。人界はなぜ仏性を顕現させねばならないのか。また、道性を基盤としなければならないのはなぜか。
いかにして向上し、成長し、高め、超越していくか
良き心が自性の本体をより大きく向上させることができ、有情の衆生が最も理解できない一つのことも、段階を踏んで「道性、自性、仏性」の三者を相互につなぎ合わせることで、自らが人道世界に入るすべての行動規範を可能にする。
まさに人道世界の習性や慣性を基盤としており、もし人道世界の風土や民情が善良であれば、それはやむを得ないことである。しかし、風土や民情が良くない時には、おそらく自らの道性と自性を危うくすることになり、その時「仏性真如」を顕現させることは、天に登るよりも難しいこととなるであろう。
道性と自性は、仏性と魔性と同じく、互いに関連し合っています。つまり、有情衆生が「仏性真如」を高めようとするとき、逆に「魔性真如」も顕わにしてしまうのです。あなた方はそれを望みますか？人為的な要因は、あらゆる困難を克服し、自らを高めることができます。遭遇する挫折や困難、逆境や険阻などもまた然りです。
人類の衆生のすべての良き成長
すべての不足や欠陥、誤りの修正に対して、未来において道性が自性の浄化と清浄を助け、汚れが堆積することを防ぐならば、清らかで清浄な自性の本質（体）を持つことができ、また仏性を高め顕現させることができ、欠落することはありません。現在のすべての宗教の無明を取り除くことになります。
一般の人々は、仏性を顕わすことは容易だと考えていますが、奥義と秘訣を知らなければどうでしょうか？このような向上を望むのは、あまり容易ではなく、むしろ「識神用事」に入りやすく、自分を「魔性顕現」に陥らせてしまうのです。このような人間の衆生はあまりにも多く、どうして順序を追って進むことができるでしょうか？
道性を自性に補助し、さらに自性を用いて清浄に浄化すれば、「仏性真如」を超越するまで高めることができます。段階を踏んで一歩ずつ皆様を高めていけば、相互に成長し合い、いかなる時空の環節も飛び越えることはありません。相対的に、良き因縁条件が生まれ、上昇・成長・超越へと向かっていくことでしょう。
道性善徳は因縁の体なり　　自性は宗教の契りに加わる
仏性真如来は顕現し
連なり互いに一つとなる
人生はあっという間に過ぎ去る　　信仰の選択は自らが為すもの
正しいか否かは大きな違いあり　　来世の輪廻に我あり
人生一度のこの世は、まことにどうしようもないものだ。真に理解し、正しい修行による向上の道と方法を知ってこそ、初めて「私は誰か」「誰が私か」「私は何をなすべきか」「そして何が私の為すべき一切の行いか」を真に理解できる。次回はさらにありのままに明らかに繋ぎ合わせ、崇心宗脈の道気が豊かに満ちるのを見るだろう。戊子年には必ず大きな方向性を持って弘化が進み、真に崇心のために喜びを感じる。しばらくの間、崇心宗脈にお邪魔いたしました。皆様、ご多幸をお祈りします。さようなら！
無極広沢尊王
無極の因縁は真に殊勝なり
広く衆生を潤して皆成す可し
尊王は今日神人と会し　　六期に渡り大道の程を弘め化す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は下元水官解厄大帝が自ら降臨され、「大道衆生」第二十一回にて有情衆生の自性、道性と仏性を如何に連携させるかについて著述されました。これは汝らが真に人生一世を明らかにし、如何に宗教に入り修持するかを明らかにするものではありませんか。
ただ善行や布施を行うだけではなく、いかにして自分自身の未来の「生死大事」において、真に向上し超越することができるでしょうか。あなた方は本当に幸運にも、当今の上蒼天下第一学府に入ることができました。本宗脈は決して天下第一の大宗教を掲げているわけではありません。これは他者との比較ではなく、自分自身が真に上昇超越を達成できることなのです。
2014年、0917、2025◎＃※   ０Ｋ＃
中元地官　赦罪大帝
2008年4月11日  戊子年三月六日（金）
中元の地官が降臨せられし儀　　赦罪の大帝の徳沢の意
大道の衆生二十二回　　自性自ら渡り弘化の期
◆ 跋・讃賀 ◆
跋    二
◆ 本文 ◆
第廿二回　  自性自渡
人類の衆生が所有する性体の自ら渡る
有情なる衆生の自性は自らを渡すものである－故に云う：仏は渡すことができず、つまりは人道世界の一切の行為動作に依拠して、生存の方向性を求める過程において、何故「自性自渡、仏不能渡」という機能作用が必要なのかを理解しなければならない。これは人道世界の一切の行為動作に対して、自性と仏性を照らし合わせるものである。
引用いたしますと、すべての行為動作の後、またそれぞれの人の行いも異なるため、仏性を高めることができるかどうか、自性を顕現させることができるかどうかについては、このような大宇宙のすべての有情衆生に対して、自性仏性は仙仏による導きを経て初めて向上し超越に至ることができると、常に考えられております。
もしこのように観るならば、一切衆生の行為と動作は、仙仏・聖神・菩薩・高真などのみが導き渡すことができるものであり、また人道世界に対しては、すべての衆生はただ自分自身が向上し目標を高めることを願っているだけで、自分自身で真に成就するに至ることは、根本的に不可能なのである。
自性自渡：有情の衆生はしばしば、人間の世界において、なぜこれほど多くの仙仏、菩薩、聖神などが存在するのか、またなぜそれぞれの聖神、仙仏、菩薩が各人を導き救うことができないのか、と思いがちである。このような考え方は必ず打破されなければならない。なぜなら、もしすべての有情衆生がこのように考えるならば、どうしてよいのだろうか？
自らを超越へと回帰させる必要がある
それはもはやこれ以上向上し超越することができない状態です！自分自身の全ての行為と動作に対して、必ず責任を負わなければなりません。そうすれば自らの力で向上を図ることができ、仙仏・聖神・菩薩・高真があなたと心を一つにし、心を照らし合わせるその瞬間に、このような殊勝な因縁と条件が、すでにあなた方に授けられているかどうかが問われるのです。
もし仙仏、菩薩、高真、聖神のエネルギー体を体得することができないならば、どうなるのでしょうか。そうすれば、仙仏のエネルギー体の中に、慈悲のエネルギー、福徳のエネルギー、智慧のエネルギーなど、あまりにも多くのエネルギーが存在していることを明晰に理解することもできません。有情衆生がその中を体得できなければ、このような吸収作用も得られないのです。
まさに仙仏の慈悲の徳性とエネルギー、光輝を自らの身体に吸収し取り込むことで、あたかも今この場に仙仏、高真、聖神、菩薩などが満ち溢れ、この気場を豊かなエネルギー体で満たしているかのようです。あなたがた有情衆生は、この第一手の資料、エネルギー体を十分に具えているでしょうか。
自らの体に吸収し取り込むことができます。言えることは、この千年に一度の気場と磁場を、あなた方はどう見ていますか？この気勢は一体どのようなもので、仙仏のエネルギーを感じ取ることができますか？得ることができますか？十分に備わっていますか？仙仏の先生方のエネルギー体を心を込めて受け入れなければならない、それはなぜでしょうか！
自性と仏性こそが、自ら自らを渡すのである。
仏性もまた自性を通じて、仏性の本質がどのように応用されるかを顕わすのです。自性の本質を高めるためには、必ず徳性と道性が相互に補い合い、この両者によって陰騭を獲得し高めることが必要です。それによって自性の本質も向上し、仏性を顕わすことができるのです。
有情世界のすべての衆生に対して、自性本体の相互応用に入ることができるかどうか、つまり自性と仏性を相互に成長させることですが、その最大の因縁は「自性自渡、仏は渡せず」にあります。もし仏が渡すことができるなら、昔まだ宗教が存在しなかった時代に、すでに回帰超越していたはずです。
これらの高次元の天界に存在する聖神、仙仏、菩薩、高真たちは、すでにすべての衆生を導き渡し終えている。それなのに、なぜ二千五百年前に「五教弘化」を設け、これらの凡界に降りた原霊仏子たちが、早くから無極理天と虚空天界に回帰できるようにしたのだろうか。
言えるのは、このような限界こそが、有情衆生をして自らの無明の障害を除去させ、すべてを諸天の仙仏、聖神、菩薩、高真の導きに頼るのではなく、また見ることができるのは、仙仏などの導きの基本的条件は、ただ一つの「知識・思想・観念」の転換を提供するに過ぎないということである。
人類の衆生のすべての思念が転換する
もし知識と観念による転換がなければ、どうして行動や動作の変化がありえようか。向上を求めることは、木によって魚を求めるようなものである。また、自性、仏性と生活習慣について言えば、すべての衆生がこの世に生を受けた後、あらゆる習性、慣性、個性、本性が生活の中に溶け込んでいくのである。
必ずや自らの生活習慣の中に付け加えられ、自らが生活に依拠するようになる。既然、生活に依拠するのであれば、自らを向上させることも、堕落させることも必要である。このようにしてこそ、上蒼の公正平等に符合し、大いなる天地に遍在する無数の衆生に対して、公正平等に下化するのである。
また、人道世界におけるすべての行為と動作を実践することは、大宇宙のすべての衆生の自性を、仏性によって顕現させることです。それこそが、一人の衆生が自らの努力によって成就に至ることを真に実現する道なのです。もしただ諸天の仙仏に頼って救済を求め、自ら向上しようとしないならば、どうしようもないではありませんか。
この時、仙仏もどうすることもできず、衆生が自分で要るか要らないかを選択できることが、公正平等の原則と規範に合致しているからです。また、有情衆生が人道世界において、なぜ生活の負担を負わなければならないのか、もし人道世界で食べること、飲むこと、排泄すること、雑事、睡眠といった生活の過程が不要ならば。
人類の衆生が生存するために必要なすべてのもの
修持を向上させたいなら、比較的容易に進められます！しかし、生活のプレッシャーに加え、多くの宗教から選択できるという状況で、それを修持と呼ぶなら、それぞれに様々な異なる法門があり、千差万別の因縁と実践方法が存在します。これにより、有情の衆生は「偽りを真と見なし、真実を偽りと見なす」ことが多く、一切を理解することが難しくなります。
また、知識と経験の蓄積によって、自分がどのように選択するかを分別することができます。その中で、自分の選択が正しいか正しくないかも区別されます。また、有情衆生が修行する過程において、次の世や次の過程で上昇するかしないかの区別が生じ、未来のすべての差異を形成するのです！
人道世界における修行の方法は、それぞれの人の悟りによって異なり、修行の境地の向上も同じではありません。それによって、自分がどれだけ努力したかを区別することができます。これは上天が人間の要素に対して、向上するか堕落するかの区別を設け、善良で正しい道を歩めるかどうかは必ずしも保証されないということです！
自性自渡――よく理解しておく必要がある。仙仏の恩師が提供できるのは、ただ経典を通じて得られる認識に過ぎない。そして、あらゆる宗教の経典は皆二千年前の産物であり、現代の世の中においてなお有用であるかどうかは、当時書かれたものが未来の子孫たる衆生の利益となるか、あるいはただ当時の一切の行いや行為に過ぎないかを見極めなければならない。
有情なる衆生を利益し
すべての大いなる徳を潤す
もし、このような経典がもはや現代の一切衆生の利益に合わないのに、有情衆生がなおもこれらの経典を固く抱きしめ、「私は真の修行者である」と言い続けるならば、来世においても再び繰り返し輪廻を繰り返し、向上して奥義を悟ることは極めて困難であろう。
人類が応用した後、少しも後世の衆生に利益をもたらさないものは、
経典というものは、宗教の教えが人間社会に取り入れられた後、あらゆる行いや動作が現代の時代に通用するかどうかによって、利益を得られるかどうかが分かれる。もしなお利益を得られるならば、そのような経典は言えるであろう：必ずや万世に香りを留めることができると。
もし後世に伝えられなければ、かえって絶えず沈んでいくことになる。これは宗教に入った後、すべての経典が後世の衆生に利益をもたらすか否かによって区別されるのであり、それは有情衆生の自性が向上したか、知識が成長したか、智慧が活用されたか、有情衆生に利益をもたらすことができるかどうかによるのである。
あるいは依然として時代遅れの宗教経典を固く抱きしめ、自分を宗教修行者と称する者たちよ、このような人々が成就すると、あなた方は思うだろうか？否である！自性を発揮するには、自分が今この瞬間に、仙仏の恩師が現代に降臨し、あなた方の思想と観念を新たに改造していることを理解しなければならない。
有情なる衆生のすべての良き善きことが増長します
真に改め除くことができ、過去のすべての向上できない障害点を、また仙仏の恩師が、過去のすべての良善な精華の成道経験過程を、自らかつて遭遇した瓶頸の障害と融合させ、一字一句「大道系列天書」の中に闡述し、人類が理解できるように剖析してくださるからです。
これもまた、あなた方が今この瞬間に、第一級の資料から直接得られる真実の収穫なのです。決して、数多くの乗り越え難い壁や障害に直面し、自らを向上させることができず、かえって常に自分の奴隷となってしまうようなものではありません。なぜなら、すべての仙仏恩師が著作をなさる時は、必ず今この瞬間に執筆されるからです。
汝らに天地の演繹に関する第一手の資料を伝えることは、まさに相当な必要性を持つ。
大きな福報であり、またあなた方にとって多くの無駄な修行方法を減らすことができます。言えることは、あなた方が今まさに得ているものは、まさに千年に一度の因縁の契機であり、すべての努力は、仙仏の恩師を通じて直接あなた方に大いなる智慧を授けてくれるでしょう。
真の修行方法と近道は、あなた方に多くの無駄な修行過程を減らすだけでなく、まさに天の慈悲の広大さであり、上天がこのような殊勝な資糧の源を下ろし、人類により大きな向上をもたらすのです。もし未来の衆生の福祉のためでなければ、あなた方がこのような天機の良縁を得ることは不可能でしょう。
人類の衆生は必ず自性自ら渡らなければならない
自性自らを渡すことを理解できれば、天地が定めた公理と条綱において、すべての有情衆生は自性を闡揚することによって、自らを回帰、超越、円満、真の大いなる前進へと導くことができる。それによって、すべての衆生の自性が身体に加わることで、より大きな利益を得ることができるのです。
単に生活のためだけにすべての行いをするのではなく、根本的に自性を顕現させることもできず、より大きな仏性の光明体を持つことができない、つまり自性体のエネルギーが輝くこともなく、また有情の衆生が仙仏の恩師を悟ることができるとも知らず、恩師が繰り返しあなた方に語りかける中で、あなた方への期待を込めているのです。
単にあなた方の行うべき陰徳の功果を伝えるだけではなく、そうでなければどうして有情衆生がより大きな成長と利益を得ることができようか。人間界は必ず理解しなければならない、仏性の本質と自性の本体とは、エネルギー体が転換したものに過ぎず、このエネルギー体の転換は人類にとってより一層備わることができるのだと。
上蒼の徳沢は、様々な殊勝な因縁をもたらします。
一切の行為動作の中には既に具わっているのだが、ただあなた方は皆それを活用することができない。それはこのエネルギー体が転換するためには、必ず上昇への秘訣と奥義が必要だからである。仙仏が慈悲深くなく教えないわけではなく、ただすべての衆生を観察し、天地の真理を演繹する過程において、有情の衆生が本当にそれを体得できるかどうかを見ているのである。
その中の秘訣と奥義とはいかなるものか。すなわち、真に転換を加えることができ、また自らの自性・仏性によって、あなた方のQNAエネルギー体を顕現させることである。これは自ら発光する最良のエネルギーであり、未来においては単独伝授し公開せず、初めてあなた方により大きな収益と回収をもたらし、まさに自らを利益するものとなる。
自性自渡の条件とは、すなわち自らが仙仏恩師に対し、「大道系列天書」の中で、先ほど述べた「自性自渡と仏性能量体による転換」を容易に理解できることである。これは「大道系列天書」において、有情世界の人類衆生に対して、より超越した明晰さを提供することができるのである。
上蒼の大天機は既に下ろされております
なぜ公開しないのか？実は、すべてはすでに「大道系列天書」の中に記されている。ただ、有情の衆生は深く理解することができず、上蒼と諸天の仙仏恩師が心を砕いて、汝らが回帰し超越するための豊かな資糧の源を提供してくださっている。その中にある一切の秘訣と奥義を、一体どれほどの者が深く悟ることができようか？
もし大いなる方向性をもって公開することができるならば、有情世界の「仏も魔も」すでに成就していることでしょう。
それでは、天界も乱れてしまうのでは？また、あなた方のような特別な縁を持つ者に対しては、「自性自度、仏は度すること能わず」という本質に基づき、上天の大いなる徳沢によって、様々な異なるエネルギー体がそれぞれ成長し学ぶことができるのです。
また、人類の衆生の中から選ぶに当たり、誰が智者であり、誰が中庸であり、誰が愚かな者であるかは、すべて自らが選択するものである。上昇して高みを目指すか、堕落して沈淪するか、それこそが上蒼の公正平等なる条綱に合致するのであり、すなわち、すべての良き因縁と好条件に向き合い、成長し、向上し、超越していくのである。
上蒼の慈悲と徳沢の意　　諸天の仙仏は大道に契う
人間の昇進と沈淪は
ただ道徳の基礎を高めることにあり
有情世界の衆生は
ただこのように真実を修持することを認めるのみ
もし上蒼の義を知らざれば　　根本永遠に地獄に沈みぬ
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合うものです。天地が演じる大いなる徳の恵みを、あなた方の思惟体系の中に互いに説き明かすことで、過去の思考観念を変えることができ、また、あなた方にとってより大きな成長と収穫があることを願っています。崇心宗脈にしばらくお邪魔し、皆様お疲れさまでした。ではまたお会いしましょう！
無極君
文辞妙理に花咲き　　道務栄えて徳華を施す
帝は私心なく善政を施し、君子は義を重んじて美談を伝える。
諸聖佛と諸賢生、及び無極大道院・院修學士の皆様、こんばんは！本日は中元地官赦罪大帝が親しく降臨され、「大道眾生」第二十二回を著作されました。自性自渡の広大なる意義を、一切の天機の中に闡明されましたが、皆様は本日、仙佛が降臨して著作されるこの機会を通して
大いに異なることとなり、また著作の内容が真実を如実に述べていることは、まさにあなた方のこの十一年間のすべてを対象としており、真に「大道シリーズ天書」の中の奥義と秘訣がどこにあるのかを実証することができるのである。もしまた悟ることができなければ、上蒼の基本的な原義と天機の奥義を知ることもできない。
実に！すべては「大道系列天書」の中にあり、すでにすべての諸天仙仏恩師の総合的な精華が詳細に記録されています。もし「大道系列天書」を通じて向上超越することができれば、未来の四億の仏子たちのすべての回帰超越は、必ずや期待できるでしょう！ただし、それは各人の意思次第です。
2014年、0918、1325◎＃※   ０Ｋ＃
上元天官 賜福大帝
◆ 跋・讃賀 ◆
南無本師釈迦牟尼仏　降跋二於
◆ 本文 ◆
第廿二回　  自性自渡
上元天官降り来たりて　　福を賜い衆生みな愛す
大帝は廿三回降著し　　仏も自らを渡すことはできず
◆ 跋・讃賀 ◆
上德行德再び生まれて　　人言跋三蒼生を渡す
◆ 本文 ◆
第廿三回  　佛不能渡
人類の生きとし生けるもののすべての生存の方向
なぜ有情の衆生は、仏が救うことができないのか。これはただ仏が救えないだけではなく、さらに仙人も救えず、聖人も救えず、神も救えないのである。これは仙聖神仏があなた方を救うことではなく、またすべての衆生に対して言えば、有情衆生が「自性自ら渡る」ものであり、仏聖仙神は皆救うことができないのである。
これもまた、大宇宙の天地に存在するすべての衆生に対して言えることですが、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。はたして仙仏は慈悲深くないのでしょうか？仙仏は衆生を広く救うために下界に降りてきたのではないのでしょうか？それなのに、なぜ仙仏聖神さえも救うことができないのか。では、いったいどのような種の衆生を救い、何を救うというのでしょうか。これについては、人間界というものが、まさに上昇と下落に分かれる世界であることを理解しなければなりません。
また、なぜこのようにする必要があるのかというと、これらの有情衆生は、上蒼の視点から見れば、それぞれの段階に自身の行為と動作があり、宗教に入って修行者と称するならば、向上して超越することは容易に達成できるはずであるのに、なぜ自らは宗教の修行方法に従って成長することができないのか、ということです。
向上へと高め超越することに至るどころか、むしろ、宗教に入れば入るほど堕落し、さらには、外界の修行のない衆生よりも、より容易に悪因・悪果・悪障という業障を造ることになる。これが大寰天地のいわゆる宗教である。理解しなければならないのは、宗教に入った後、なぜこのようになるのかということである。
人間の衆生はなぜ自性自ら渡るのか
仏が救済できないのは、仏や聖者、仙人、神々だけに限らず、すべての成就し超越した存在も同様である。もし仏が救済できるのであれば、有情の衆生はとっくにみな回帰し超越しているはずであり、どうしてこれら有情の衆生たちを、ずっと地冥星の中に沈淪させておくことがあろうか？それはいったいどういう心持ちであろうか？まさにそうではないか！
理解しておくべきことは、人為的要因が向上へと導くこともできれば、堕落へと向かわせることもできるということです。宗教と上天の定めた方針と綱領に従って、自己を完成させ、自己の学習と成長を遂げ、段階を踏んで向上と超越を達成することができます。なぜなら、衆生は現在のあらゆる生活習慣によって生を潤しているからです。
しかし、どうして生活の後、宗教の長所を真に向上させることができないのだろうか？そのため、すべての宗教の迷いの障壁を突破することができず、自分はどのように修行を調整すべきかを理解すべきである。それが正しい道である。このように、上天はすべての宗教の長所と短所を明らかにし、長所を集め、短所を消し去るのである。
現代に生きるすべての有情の衆生が、宗教に触れた後、それぞれの宗教の修行方法の長所と短所を理解し、各宗教が持つ優れた点を融合させつつ、宗教に対する誤解や不足、欠点を解消し、優れた宗教信仰の形を築くことができるように。
諸宗教は優れた信仰を尊重する
即ち、あらゆる宗教の教義が現代の時代に合致し、すべての宗教が大集合するという、あなた方人間世界には、なぜこのような条件と殊勝な因縁があるのか？それは未来の他の四億余りの星々に対する模範的な役割を示すためであり、さらに昊天玄霊玉皇大天尊の慈悲と大いなる徳の恩沢が、人間世界に応化して現れたからである。
すなわち人道世界を対象として、宗教修行の大いなる融合を促進し、かつすべての宗教の優れた点を一つの修行方法に集約し、自らが真に向上する道へと入り、堕落する道へと沈まないようにするためである。人道世界になぜこのような因縁が必要なのか－それは自己の成長過程において向上を図るためである。
それゆえに、過去に沈淪して修行を怠ってきたが、しかし有情の衆生に対して言えることは、自性は自らが渡るものであり、仏も聖も仙も神も渡すことはできない。もし自分が当今の天下の条綱と公律を理解できなければ、上蒼はすでに早くもこれを改め、未来のハイテク人材に向けて下ろされた教化は、全体を集約し弘め教育するものである。
観じることができる：このような天機の良縁は、まさに下界の凡塵である「儒宗聖教、真佛心宗、無極大道院、懿敕崇心堂」が、自己を成就し、衆生を成就して回帰させるためのものである。崇心堂の宗脈に下化されたとはいえ、これは「崇心演義」という殊勝な因縁をなすものであり、また時空の因縁が具足される必要もあるのである。
崇心宗脈のすべての良善なる者が来て向上を図る
崇心宗脈の神仏が相互に協力し合えることを知らず、また崇心の学生たちが、上蒼大道の聖なる務めを遂行するために協力できるかどうかも分かりません。これは、このような天機の良縁を成就させるためであり、自分自身だけのためではなく、さらに、大いなる天地に存在するすべての四億の仏子、および九二原霊子の向上と超越のためでもあります。
このような天機の良縁による創造と回帰は、いかにしてこの世に現れるのでしょうか。必然的に、あなた方が真にこの殊勝な綱領を集約できるかどうかにかかっています。仏も聖も仙も神も、衆生を渡すことはできません。過去のすべての経典は、このように述べてはいなかったでしょうか：仙仏は衆生を渡すことができるかと？
また、なぜ衆生は自分で自分を渡すのであり、仏が衆生を渡すのでもなく、神が衆生を渡すのでもなく、仙人が衆生を渡すのでもなく、聖人が衆生を渡すのでもないのか。これは有情衆生が理解していないことである。人道世界の地冥星において、すでにこのような条綱は改めて整えられており、それがまさに有情衆生が「自性自渡、仏は渡せず」である理由なのである。
己自身のあらゆる奇抜な癖や変わった性格は、もし人世界での修行と改変を経なければ、向上や超越を望むことは、木によって魚を求めるようなものである。さらに、己自身のあらゆる習性を修正し、自らを浄化と向上へと導くこと、これこそが大宇宙のすべての衆生が、なぜ直接に上蒼の審査を受けられるのかという所以である。
三官大帝は万霊蒼生を護り給う
自らを向上させ、あらゆる宗教の修行法からその優れた修行方法を取り入れ、現代のすべての宗教修行者に対して、欠点を改め、気質を変化させること、つまりあなた方の遺伝子の本質を再構築し、向上して成長し、超越することで、有情衆生に対して良き利益をもたらすことができるようにする。
これは、あなた方の現在の言葉で言うならば、DNAエネルギー体から上昇し、RNAの優良遺伝子を経て、さらに自ら発光するQNAエネルギー体に到達できるということであり、これは紛れもない真実です。より多くの利益を有情衆生に与え、未来に地冥星を離れるための優れた正道を提供する、エネルギー体が備えるものです。
三官大帝は慈悲深く徳を施す存在であり、昔から一部の宗教では、我ら三官大帝は一切の有情衆生が超越へ回帰するのを阻む者であると称してきました。しかし、上蒼が条綱を定め、これを人道世界に下ろす時には、すべての三官殿における作業は、真にエネルギーを持つ超越者を改めて慎重に選ばねばならないことを、彼らは知らないのです。
これによって、彼らは地冥星から円滑に離脱することができます。これはまさに、大寰天地のすべての真の修行者たちが地冥星から脱出できるようになる一方で、各人がこの種のエネルギーを持ちながらも、真の徳と功績を十分に備えられないため、離脱の際に干渉や妨害を受けることになるのです。
すべての有情なる人間の衆生に対して
一部の者は、星の外部からのエネルギー体による干渉と侵襲に遭い、自ら数千万年にわたる修行の力を損ない、中には生命さえも消滅してしまう者もいるのです。ああ、なんと哀れで、どうすることもできないことか。それゆえに、三官大帝は慈悲深く、これらの真に脱出する能力を持つ者たちが、さらなる損傷や消滅に遭うのを見るに忍びなかったのです。
また、大いなる慈悲と憐れみをもって、これらの有情の原霊子たちが向上するよう保護し、彼らが地冥星から離脱するのを妨げることはありません。これは千年にわたる誤った伝聞であり、今日、崇心の「大道シリーズ天書」を通じてこの因縁を明らかにし、真実をもって我ら三官大帝の潔白を証明するものであります。
このように言えるでしょう：上天はすでにすべての過去を改め、各星系のエネルギー体は、これらの原霊子が成し遂げたすべての成果を通じて、陰徳のエネルギーを創造し蓄積することで、無事に地冥星へ出入りすることができるようになりました。また、時空の因縁が異なるため、すべての有情衆生はすでに現代の科学技術を活用しているのです。
かつて地冥星空間を往来していたが、かつてのすべての守護作用は今や再調整された。それゆえ、かつての三官大帝の慈悲も今は手放すことができる。自性自ら渡り、仏も渡すことはできないという境地が形成された。かつて『封神演義』の中にあったすべての衆生は、ただ昊天星際の中にのみ存在していたことを理解しなければならない。
天は自性自ら渡るという条綱を頒布される。
また、すべての行いは、昊天玉帝および無極皇母のご意向を奉じて成就されるものであり、言えることは、これらの成就者は昊天星界にのみ存在し、より大きな成就と向上に至ることは難しいということです。さらに今、天父である元始天王恩師の大いなる慈悲と憐れみが、衆生に対して大きな恩恵をもたらしていることを見ることができます。
下化は四億余りの星系に対する施行機能であり、それは青陽と紅陽といった四億の仏子たちを借りて、大いなる因縁を成就することができる。現代の世代にとって言えば、未来の「崇心演義」はまたもや無視できない大天機であり、すべてはこの種の条綱の中にあり、それによってより大きな成全が可能となる。
仏が渡し得ない本来の意味とは、すなわち　上天が人為的要因に対して、より大きな向上をもたらすことができるのであって、ただ昊天星界に存在するだけではないということです！しかしながら、有情衆生が「自性自ら渡る」ことができない時、仙仏聖神によって導き渡されることを望むことは、すなわち不可能なのです。どうしてこのようになるのかを理解しなければなりません。
また、有情の衆生が地冥星に入り、人として生まれる契機は、まさに自らの過去のあらゆる過ち、欠落と不足を、幾度もの巡りの中で修整し変化させ、より大きな向上と超越を得ることにある。有情の衆生は言うであろう、上蒼がこれらの人類を引き上げるのだと。昊天星系の中では、それはいかがなものか。
真に向上し、回帰し、超越する必要があります
それでは超越に回帰することができるだろうか？もしあなた方の思考や観念が変わらないのであれば、どれほど偉大な仙仏聖神であっても、あなたを回帰へと導くことができるだろうか？しかし、あなた方が超越を成し遂げられる保証はなく、ただ昊天星系に停滞するだけであり、それでは昔の「封神演義」と何が違うというのだろうか？
もしこのままなら、自分自身を真に向上させることはできず、このような因縁はただ昊天星系に停滞するだけで、どうして真に超越できるだろうか。それゆえに崇心宗脈が教える「明心見性、開悟證果」こそが、あなた方にとって真の超越と向上を開き、より広大な宇宙へと歩みを進めることができるのである。
未来は、あなた方に対して真に封神だけではなく、それではあまりにも浅薄であり、まったく『封神演義』の類とは異なります。崇心演義において実のままに向上することができるのは、まさに『封神演義』から『仏果向上者』へと成就されることこそが、あなた方にとって現在において向上していくことなのです。
自己の成長と学習を実現するためには、自性自らを渡す成長学習が必要であり、一歩一歩着実に進めなければなりません。それによってあなた方は負債なく身軽になることができ、それは自分自身が今この瞬間に向上し超越することを意味します。未来を待ち続けて初めて向上超越するのではありません。「崇心演義」の天機奥義を理解しなければならないのです。
人間の宗教的信仰に限定しないでください
したがって、あなたがたが昊天星系への回帰超越に入るにあたり、真に円満豊かな資糧の源に乗り越えることができます。さらに、大いなる天地のすべての衆生に対して、自らをより大きく向上させなければなりません。過去の過程を成長の糧とするのではなく、現代の時代が、かつての六万年余りにわたる中土の制限と障害とは異なっていることを理解する必要があります。
崇心の演繹を構築するにあたり、さらに自らを真に向上させ、高みへと昇華させることが求められます。あなた方は崇心の大義の中で大黒柱となるべきであり、小さな役どころ、ましてや取るに足らない役割であってはなりません。それは上蒼が望むところではないのです。崇心宗脈の体系に連なる神仏、学生、そして宗生のすべてが、このことをよく理解されることを願っています。
崇心演義の殊勝さは、まさに未来の四億余りの星系を向上させることにあり、過去の成就だけに留まるものではありません。このように、上蒼もまた過去のやり方を繰り返すことを望んではいません。もしそうであるならば、なぜ今の世代のハイテク文明を下化する必要があるでしょうか。これはあなた方の思想観念の中で成長させることができるものです。
あなた方は「崇心演義」の殊勝な因縁を詳しく理解することができますか？それゆえに、昊天玄霊高玉帝の大いなる徳と恩恵は隅々まで行き渡っているのです！さらに、三綱・五常・四維・八徳を修行の綱領に加えているので、昊天玄霊高玉帝こそはまさに五常を体現した真の君子なのです。
諸々の宗教による殊勝なる因縁の教化
こう言えるでしょう：この種の教化は非常に厳しい要求を課しているのです！そのため、有情の衆生が「仏法、道法、儒法、耶法、回家」の各法を真に理解し通徹することは、単一の宗教の教義と経典、および単一の修持方法だけでは、成就に至ることは非常に難しいのです。
汝らが「五教修行」の融合方式による向上超越を成し遂げ、より大きな成就を得られるよう、自性自渡という最も勝れた方法を理解せねばならない。人類衆生がこの時、この機会、この天命において授けられたことを、汝らは観じるがよい。恐らく一部の原霊子は、上蒼の大いなる慈悲と徳沢を悟ることができぬであろう。
知るべきは、このような天機の良縁は、すでに昊天玄霊高玉帝が九五至尊の位に登られた時から、すべての天地神祇と共に繰り返し協議され、現在の時空因縁として「懿勅崇心堂」が設立され、真に「三曹普渡」の玉旨と懿旨を授かり、教育文化の課程を行うに至ったことである。
専らあなた方に対して、高次元、高境地、高果位、高教化の教育向上を図ることに努めております。あなた方はこう言うことができるでしょう：過去のすべての幾度もの、幾重もの大いなる因縁を持つ者こそが、「懿敕崇心堂宗脈」の正式な学生として迎え入れられるのであり、わずかな功績や果位だけで崇心宗脈の体系に入ろうとすることはできません。
上蒼の大いなる徳は人類と衆生を潤す
来る者は皆「大道先鋒部隊」の棟梁の才であり、また一人一人には必ず多くの先天の福縁があり、このような殊勝な天機を得ているのである。崇心宗脈をあってもなくてもよいものと思ってはならない、そう考えれば汝は誤りである。一切の天機が審査する厳しさは、汝らにとって言えば：たとえ今この瞬間であっても、なかなか心を開き理解することは難しいであろう。
しかしながら、未来の一、二千年後には、あなた方は現在の厳しい試練こそが、真に向上し超越する最大の勝縁であったと悟るでしょう。古より「厳しい環境ほど、より大きな向上と成就を生み出す」と言われていますが、あなた方はこの中の原理と契機が何であるか、おわかりでしょうか。
もし今、最も厳しい試練に直面しているならば、こう言えるでしょう。歯を食いしばって耐え抜き、困難を乗り越えることができれば、未来におけるあなた方の成就と果位は、より一層優れたものとなるでしょう。これは試練を通過していない者には理解できないことです。なぜ「自性自渡、仏も渡せず」と言われるのか、つまり仙仏聖神であっても、皆さんに代わって試験を受けることはできないのです！
つまり、あなた方に真の向上と超越を遂げてもらうことです。将来このことを語り合う時、必ずや自分で会心の笑みを浮かべ、人生の移ろいやすさを微笑ましく眺めることでしょう。あっという間に数千万年が過ぎ去ったのです。これはまさに、相当な深い刻骨銘心の体験を持って初めて真に実感できること、瞬く間に数千年の時空が過ぎ去ったということを！
人生一世 幾何をか修めん
世間に留戀して 明らかに究め難し
必ずや志を堅くして乗り越えよ
天の功果は自ずと残る
心を尊ぶ演義は春秋に勝り　　封神演義はとっくに終わりを告げた
皆、昊天の衆星系に存して　　再び求めても昇華は難し
この偈は、有情の衆生である原霊子たちが互いに励まし合い、この世での努力を真の「大道の先鋒部隊」として弘化することです。あなた方はこれを喜ぶべきか、それとも価値なしと考えるか？自らよく考えてください。皆さん、崇心宗脈にお越しいただき、ご苦労をおかけしました。後ほど、中杯のお茶に加持を施し、福運と吉祥を添えて差し上げます。ではまたお会いしましょう！
無極司命真君
無極より崇心堂に旨を頒ち、司命は宅を護りて衆生を長ず
真君はすべての有情を成就させ給う　　大道の系列は広く弘揚されん
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は上元天官賜福大帝がご降臨され、「大道衆生」第二十三回を著作されました。仏が渡し得ない殊勝なる因縁の真意を詳細に剖析され、今後の「崇心演義」における殊勝なる向上に向け、良き成長がもたらされることでしょう。
これは、上蒼が大いなる功績の記録を有していることを意味し、未来の有情なる衆生が向上超越へと入るにあたり、上蒼の構築に依拠して支えられる。崇心宗脈の体系に入ることができる者は、皆、過去世において既に大いなる福縁と大いなる福報を有する者であり、それによって初めて崇心宗脈の体系に入ることができるのである。おわかりいただけただろうか？皆様のご尽力に感謝し、すべてが吉祥でありますように。ではまたお会いしましょう。
2014年9月18日18時08分◎＃※   ０Ｋ＃
神農大帝
◆ 跋・讃賀 ◆
跋    三
◆ 本文 ◆
第廿三回  　佛不能渡
神道を立て国を教化する期にあり
農田の禾豊なるは大道の基なり
大いなる広き福は天より賜わり　　帝は心を開き崇めて演義をなす
◆ 跋・讃賀 ◆
虚空上人　跋三を降す
◆ 本文 ◆
第廿四回　  崇心演義
大道は弘化し、衆生の作為を観ずるに足る
凡塵世界において生を潤すと同時に、善性、道性、徳性、そして仏性を備えなければならない。人道世界における一切の行為と動作は、必ずや未来の全ての有情衆生が上昇超越を達成できるようにし、さらに、上蒼の演化過程を通じて、上蒼の徳沢と皇母の大いなる徳沢を加えていくのである。
さらに付け加えるならば、昊天の徳沢が虚空の徳沢に加わり、南天の徳沢と連なり、そして南天行政体系の主要な根拠と結びついてこそ、真の機能と効果が生まれるのです。これは今に始まった条件や使命ではなく、必ず実際に実行に移されなければなりません。それは人道世界のあらゆる行為と行動に対してなされるべきものです。
また付け加えると、有情の衆生や無形の亡霊などに対しては、すべての四億の仏弟子および九二原霊子であり、もしさらに「借り受け」た第一陣、二百余万人のハイテク人材を加えるならば、すべての原霊子が上昇と超越を達成する必要性に到達することができます。これは人為的要因によって成長させられるものではありません。
真に優れた特別な機縁が必要であり、さらに上天のすべての厳しい試練と検証に、毎回、毎度このような厳格な試験を通過することができてこそ、初めて上天の大黒柱となる人材と言えるのです。では、このような大黒柱の人材をどのようにして向上させるのか？上天が安心して、すべての職責と使命を遂行できるようにするためです。
崇心演義の大任務
崇心宗脈はこの十一年の歳月の中で、上蒼の厳しい試練を経てきました。さらに崇心宗脈の多くの聖神仙仏による教育文化の導きは、上蒼の一大清流となり、既に確固たる基礎工事を築き上げました。また、崇心宗脈はこの十一年の歳月の中で、いかなる資糧源もないまま弘法を続けてきたのです。
上蒼の使命と職責を弘化するために、現在の成果は仙仏の期待にまだ達していませんが、今日の天地においては、すでに得難いものと言えるでしょう。また、崇心宗脈のこの十一年の歳月において、すべての主事者に対する評価は、賞賛に値し、励ましとなるものでした。
主事者に対しては、あらゆる困難を乗り越えて化解する強い意志を加え、上天が頼りと信頼を寄せることができる必要性を備えさせ、さらにへりくだって機能を発揮させた。これこそが、毎回、毎年の考績がことごとく特優等の功績となる理由であり、自分にとっては、単に以前の評価の役割を果たしたに過ぎないのである。
もし通ることができなければ、未来の真に大いなる殊勝な聖務による選別に、どうして人世に降りてくることができようか。未来の進化を成し遂げ、四億の仏子の回帰を実現する、このような因縁条件こそが、上蒼の切なる願いであり、崇心宗脈を主たるよりどころとして、四億の仏子と九二原霊子を上乗へと向上させることなのである。
崇心演義のすべての根拠
これこそ虚空天界の道旨が下されたものであり、すなわち虚空無極至尊：宇宙を司る天父元始天王大天尊の道旨が「懿敕崇心堂」に下され、さらに無極皇母大天尊の懿旨と昊天玄靈玉帝の玉旨が加わり、凡塵世界の「懿敕崇心宗脈」に下されたのである。
殊勝なる使命の成長向上を遂げ、さらに南無燃燈古佛の仏旨が加わり下化されました。かつての『封神演義』においては、周朝を主体とした構築がなされ、姜太公子牙仙翁を中心とする封神の枠組みが基盤となりました。また、当時の『封神演義』を通じて、これら一切を観照したのであります。
封神の働きにおいては、玉石混交のままに神に封じられ、互いに連携し合っています。現代のすべての人類衆生がよく知る天界の星系は、すでに大部分が封神を果たしています。現在の時代を経てなお、四億余りの星系が封神を待っており、まだ実行されていません。このいわゆる封神とは、一体どのようなものなのでしょうか。
まさに　南無燃燈古佛は封神の時代に於いて、　姜太公子牙仙翁の封神演義を輔佐するために降臨され、今に至るまで既に四千年余りの歳月が経過し、またこれらの三千年後の一切の過程を経て、既に各星系の成長を再び向上させなければならず、このような因縁は既に下示されているのである。
崇心演義は古い王朝の霊魂を対象としています
まさに、南無燃燈古仏を主軸とした構造によって、かつての『封神演義』の時代を観れば、それはあらゆる星系の役職を補うに過ぎず、真の向上はなかなか得られなかった。ゆえに、古代王朝の帝政期には、殺戮行為が延々と続き、その後四千年近くにわたる王朝の変遷においても、これを改めることは困難であった。
既に多くの殺傷の力が生じているため、このような状況を鑑みて、上天は往昔のあらゆる星系の職位において果位を欠かすことができない。そこで、南無燃燈古仏にご依頼し、主たる構造のよりどころとして、周朝以後の各時代におけるこのような名もなき殺戮を救済された。これはまた、この風潮を長く続けさせてはならないという所以でもある。
この状況において、現代科学技術文明の「人材借用」機能を再調整し、全ての文明の科学技術が21世紀を通じて完成されるようにすること、つまり「崇心演義」を真に向上させ、かつての「封神演義」の全ての再創造と成長を実現することで、初めて人類の災禍を軽減することができるでしょう。
これは、天がかつての『封神演義』における不足、欠落、誤りを修復し、すべての良くない因縁の基盤を改め直し、向上へと高めるためのものである。これはかつて言われた「西岐城を踏みしめれば、封神榜に名を連ねる」という言葉の通り、今や四千年近い歳月を経て、新たに修復と改変がなされたのである。
崇心演義は「大道系列天書」を主軸としています
上蒼もまたこの方式を改め、「身を崇心堂に入れ、超越へと回帰し、自ら（行いを）賞する」という条綱を加えられました。「崇心演義」に対しては真に向上を促し、またこれらの各星系の全ての職務の欠員を、新たに更なる高みへと引き上げ、再創造の過程を経ておられます。崇心の全ての神仏と学生の使命に対しては、より一層殊勝なものとなっております。
これは崇心宗脈が十一年間にわたって苦労を積み重ねてきた結果であり、上蒼の肯定を得たものであり、さらに崇心宗脈のすべての神仏に対する肯定と賞賛でもあります。これにより、四億の仏子を救済することができました。それらは、青陽期、紅陽期といった既に回帰した原霊子たちを含み、今では言えることは、すべてが降りてきて、より大きな向上と再創造を行うということです。
またこれにより、上蒼はこの十一年の歳月の中で、崇心宗脈に向けられたすべての努力を称賛し、さらに崇心に対するすべての厳しい試練を経て、今や見ることができる：上蒼の職責と志を弘め広めることとなり、成就したのである。すなわち、南無燃燈古仏によって「崇心演義」の主体的な枠組みが作られたのである。
未来の四億の仏子の果位に向けて！まことに、真の仏果の称号があり、さらに上層へと昇華し、再生回帰を超越することができる。これはもはや、かつてのすべての「封神演義」のようではなく、崇心宗脈に対してこの大いなる聖務を行うことは、今になって初めてあるのではなく、これは　上天がすでに定めた大いなる政策なのです。
崇心演義－これまた如何なるものぞ
また、十一年間にわたる観察と監督を通じて、自らが崇心宗脈をいかに偉大なものと思い込んでいたかを見極め、全体を見渡せば、まさに謙虚な心で試験に合格し、さらに優秀な成績を収めたのである。また、崇心の神仏と主事者、および諸賢生たちに対して、「無極大道院」のすべての院修学士たちも加え、非常に稀な天機の良縁を得たのである。
上蒼は、崇心宗脈が物資の貧しさを恐れず、その志を変えないことを何度もご覧になりました！さらに、人間が上蒼が加えた試練を克服したこと、つまり称賛と賞賛に値する、崇心が堅固な志を成就した特別優等の功績に対して、これらの人々が人道世界で学び成長を遂げたことは、いかに殊勝な成就であるかをご覧になっています。
これは、無極大道院の院修学士などに向けて、自分自身が過去においてより大きな向上や超越を成し得なかったことに対して、上蒼が人間界に開かれた高等な次元の教育教化の専門学院であり、これは一般の道場では達成し得ない殊勝な任務であり、真の天機使命を持つ者でなければ到達できないものです。
十一年の歳月をかけて教化を受けたこれらの院修学士たちは、非常に優秀な成績を収めました。高次元の仙仏恩師は、「無極大道（学）院」において、原霊院修学士の成長と超越を促すため、汝らは見ることができるであろう：次々と院修学士たちが、無極理天の第二天界に回帰し、さらに：留まって精進修行を続けていることを。
崇心宗脈のすべての良善が増長する
すなわち、無極皇母によって開かれ、未来にすべての世間の原霊子が回帰した後、真に高次元の教授師資を得ることができるようになる。このため、無極大道院のすべての成就回帰院修学士は、他の宗教のすべての超抜回帰者よりも、すでに師資となっているのであり、崇心宗脈の教育文化は過去とは異なるものである。
また、あなた方は自ら体験して悟ることができます。これらの院修学士たちが帰還して留学精進していることのすべては、実はすでに「無極大道院」の中で、このような教育文化の殊勝な課程が設けられていたのです。もちろん、再び無極理天の第二天界に帰還してさらに精進することは、すでに他の道場の向上と帰還をはるかに超えています。
崇心演義の殊勝なること――正しくは「理筆宗主」から更に昇華され「理心光明禅師」、略して「理心禅師」と称されるに至りました。この十一年の間、全ての試練と琢磨の過程は、まさに特筆すべきものであり、さらに「南無智聡如来仏」のご縁と、「南無理心光明如来仏」のご縁が重なったことにより、一層深みを増したのであります。
すなわち、上天が既に定めた一切の試練と磨きを経て、人界における所業を経験し、さらに地冥星のすべての衆生に対し、自らをより大きく成長させること。あらゆる辛苦と挫折、逆境こそが、汝らが自ら体験すべき過程である。それによって良き経験の蓄積が生まれるのだ。
崇心演義はすべてを再び造り出す
そうでなければ、どうして真に未来において上蒼の殊勝な成就を得ることができようか。それゆえ、汝らは堅固な志をもってあらゆる困難な挫折と横逆を克服し、このような成果を収めたことは誠に称賛に値する。これは崇心宗脈の体系であり、すべての人為的な要素が「南無智聰如來佛」の一切を印証するものとなっているのである。
これは千年に一度、あなた方にとって非常に巡り会い難い大聖務であり、また上蒼があなた方に、いかなる困難をも堅い志で乗り越え、一つの事柄に対して警戒心を持ち続けることができるかどうかを試されるものである。そうして初めて、未来の成就の条件がどのような次元の境地であるかを見極めることができる。はっきりと理解すべきは、かつての「封神演義」と現在の「崇心演義」はすでに同じものではないということである。
この中には、また多くが互いに補い合い助け合うものがあり、人類がこのような条件を得られたのは、未来の四億の仏子たちが地冥星の科学技術による再構築と向上に加わり、崇心の再構築がより大きな殊勝な超越へと向かうからです。あなた方にさらなる成長と収穫があることを願っております。これはすべての学生に対して、真の教育文化の向上をもたらすものなのです。
自らの不足や欠点、過ちを改めることができれば、次には真に高次の「仏乗果位」の境地へと向上させることができる。その果実は自らの努力によってこそ実り、真に一生涯で上昇し超越するのである。多くの世を経れば必ず成就するなどと思ってはならない。このような天与の良縁は、まさに千万年の時を経て初めて訪れる使命と向上の機会なのである。
封神演義は昔の物語　　崇心演義は今の機縁
南無燃燈古仏降臨せり　　総理証道の仏果の基
崇心神人は来たりて共に契う　　無極大道の院に得宜す
院修学士加一を以って　　四億の仏子回帰の期
皆様のご相伴とご助力に感謝いたします。上天より授かりし崇高なる使命を、崇心宗脈の神人と学生、そして無極大道学院の修士たち皆と共に励まし合いながら果たしてまいりました。これは千年の時を経て訪れし最も尊き大任であり、皆様はこの盛会に与かり、ご自身を高められました。皆様、ありがとうございました。しばし崇心宗脈にお邪魔いたしました。またお会いしましょう。
無極岳武元帥
無極殊勝の大使命　　岳武元帥登台に臨む
崇心の演義を剖ちて清晰にす　　下回に再接して更に詳盡ならん
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は混元天樞の神農大帝がご降臨され、「崇心演義」の将来の大方向についてご示唆くださいました。これは千年の時を経て、上蒼が「封神演義」に続き、人々の世界をより優れた超越へと導く真実の教えをもたらされたものです。
それどころか、ただ地冥星に留まるだけではなく、どうして「封神演義」を「崇心演義」に加えようとするのか。これは　上蒼がすでに定めた方針であり、また十一年の歳月を経た厳しい審査と検証を経てきた。崇心の神人と主事者は、いかなる資質と条件を備えているというのか。
今まで諸天の仙仏が降臨され、一貫して崇心宗脈の殊勝な因縁について詳細に分析されてきました。皆様がこれまで通り、長く低い心と謙虚な態度を保ち、「鼻を高く上げて驕る」ことなく、ましてや「心を高く掲げて誇示する」ことや「傲慢で横柄な態度」を取ることなく、以前よりも一層「低い心と謙虚な態度」を持つことが正しい道であると願っております。
明日もまた土曜日で、すべての引渡しは通常通り行われます。必ず理解しなければならないのは、如何にしてこの四億の仏子を引渡すか、それがあなた方の条件と努力すべきことです。「西岐城に足を踏み入れれば、封神榜の中に名が記される」「崇心堂に親しく入れば、回帰超越自己（行）の賞を受ける」。あなた方も詳しく、細かく考えればすべてが分かるでしょう。
これは千載一遇の「崇心演義」の成就と超越であり、崇心宗脈のすべての神人たちが心を一つにして大道の弘化を推し進め、この四億の仏子と九二原霊の兄弟姉妹たちと共に回帰超越することを願っております。さて、皆様お疲れ様でした。すべてに吉祥あれ。では、またお会いしましょう。
2014年9月19日14時50分◎＃※   ０Ｋ＃
先天八卦 伏羲大帝
◆ 旨 ◆
書物完成し聖旨を奉る
◆ 本文 ◆
第廿四回　  崇心演義
先天八卦陰陽開く　　伏羲大帝降臨された
大道の衆生二十五回　　封神演義再び開く
第廿五回　  封神演義
大道の衆生の古き朝代の因縁
すべての有情乾坤が人道世界に入った後、すなわち地冥星の陰陽の対立と相互制限を受けることになる。これはまた、人間界におけるすべての行為と動作が、自らの成就の可否に依拠して差別が生じることを意味する。これは有情乾坤の衆生が、なぜこの時空の因縁において、再び「封神演義」を行う必要があるのかを問うものである。
そもそも、かつての「封神演義」には部分的に不十分な点や欠落、誤りがあった。それに加えて、三国時代から現代に至るまでの時空の因縁の中で、これらの封神者たち自身の思想の垢が次第に積もり重なり、真の変革や向上を成し遂げることができなかった。これが、いわゆる過去の「封神演義」に対する実情である。
かつて封神のあったすべての星系は、再び向上を遂げ、つまり現代の時代に、再び人道世界に入り、浄化と向上を経て、この種の演義を再び成長させます。これは未来の科学技術文明に対して、地冥星および銀河星系のすべての星間の成果と向上を明らかにすることができます。
封神演義すべての始まり
すなわち周朝の建国を以てその骨組みと謂うならば、今に至って言えることは、三千年から四千年の歳月の中で、もともとは姜太公子牙仙翁によって選定され、つまり姜太公子牙仙翁を総責任者としたのである。しかしながら、当時天盤を司っていたのは南無燃燈古仏であり、この封神の事柄において相補い合う関係にあったのである。
これら全ての参賛者たちは、「西岐城を踏みしめ、封神の榜に名を記されん」と称される優劣良欠を備え、すべて昊天星際星系の中に帰入する。すべての帰還者から見れば、各星系と星際自体が向上させ得る超越は極めて限られており、また常に上昇超越が難しい障害の中にある。
この三、四千年の間、戦禍は絶え間なく続き、さらに王朝が変わるたびに多くの殺戮行為が行われ、殺すべきでない者まで全て殺し尽くされました。このような悪しき気勢は深い怨みを抱えたまま、天地の間に留まり続け、すべての子孫に対して非常に悪い気勢を形成しています。
このような王朝交代に伴って蓄積された不良な殺戮行為は、取るに足らない作用であり、それゆえに昊天玄霊高玉帝は、九五至尊の位に登られた後、一貫してこの不良な気場を変えて向上させようとされてきました。それゆえに今日、「封神演義」を改めて改革に組み入れ、再び封神による向上を図っているのです。しかも、それだけにとどまりません。
封神演義の再昇華
さらに「封神演義」を昇華させ、「崇心演義」が「仏乗の果位」を証する道を示すものとし、これら四億の原霊仏子たちが真に向上し超越できるようにする。これはまた、昊天玄霊高玉帝と無極皇母の徳沢が天地に応化し、成就のよりどころとなったことによる。なぜ上蒼はすべての昊天星系を向上させようとするのか。
この天地の中心に位置する存在が、成長を遂げて超越することを目指すならば、他の約二千億の星々における成長と向上は、停滞したまま向上を超えることができず、これら二十六の人類に似た星系に住む有情の衆生は、より大きな成長を遂げることができず、ただ繰り返し循環するばかりである。
すべての昊天星系に対して、浄化と成長による超越を施すこと、すなわち南無燃燈古仏を主体とする枠組みにおいて、現在の世代の人類衆生の一部は「借将」によってもたらされたものであり、もう一部はすでに早くから証果を得ており、各星系を司る主事者たちもまた、新たに凡塵の人間界へと降り立った者たちです。
封神演義がさらに進化
再び学び直し向上させること、またこれらは二億から三億ほどに及びませんが、これもまた、上蒼がなぜこれら向上できない各星系の主事者たちに対して、改めて各々の不良な気勢とエネルギーを向上調整しなければならないのか、これは「崇心演義、再演義、心よりの演義」という三つの異なるものなのです。
したがって、現代の世代は未来において、一部は他の星系から地冥星に降り立ち、再び改造されることになります。それゆえ、崇心体系が担う使命と責務は、一般的な宗教の教化とは異なり、さらに超越した向上と成長を遂げることです。崇心宗脈を通じて、この殊勝な因縁を広げていくのです。
再び成長の段階に入り、崇心宗脈が担う職責と使命、そして聖なる務めは、凡塵の一般とは異なるものであることが観えてくるでしょう。これは、上蒼が昊天銀河星系全体に対して、あなた方に「封神演義」の再調整によるさらなる向上を促すものであり、こう言えるでしょう――新たなる（崇心による）封神の再向上であると。
上蒼はこの期に一つの諺を下された：「崇心堂に親しく入り、回帰して仏果を提昇せば、自ら賞（長）を受く」と。崇心宗脈はなぜこの期に、人世間第一の殊勝なる「大道系列天書」を著作せねばならぬのか。それはただ天地の中だけにとどまらず、さらに宇宙の公理を加え、真の提昇超越を実現するためである。
上蒼は人類と衆生に徳沢を施す
また、あなた方に対してさらなる大きな成長をもたらすものであり、この中から理解できるのは、上蒼昊天星系とあなた方の人界世界の計算方式が異なるということです。古くから言われているように、「人間界の一年は、天上界の一日である」ということであり、これによって、なぜこの時期に各星系の主宰者や、一部の本来すでに悟りを開いて昇華した者たちが存在するのかを理解することができます。
この元会において地冥星に入り、再び浄化されることになります。また、各々の異なる欠陥、不足、誤りを抱えた星系と星際に対しても、より大きな成長と向上がもたらされるでしょう。あなた方がこのような殊勝な大使命者と呼ぶ存在は、どのようにして弘化と普及を進めるべきでしょうか？それは一歩一歩着実に、計画に従って進められ、あなた方自身が真に明晰に理解できるよう、ありのままに示されることでしょう。
したがって、崇心宗脈におけるすべての未来の接待と解説においては、過去の不足点、欠陥、誤りを改め、修正と改善を加える必要があります。同時に、未来にこれらの原霊仏子が回帰する際の主事者たちも、より大きな向上と成就を得ることになります。これがこの時期に当然なされるべき基本的な行動なのです。
崇心体系の多くの学生が、上蒼の全ての職責使命に合わせることができるかどうかは、まさに大きな契機を改めて変えることであり、これが正道である。この種の崇心演義に対しては、すでに人道世界のすべての教育文化課程とは異なっており、まさに四億の仏子と九二原霊子の向上増長を目指している。
封神演義と崇心演義
必要に応じて理解すべきは、なぜ　上天がこの時期において、崇心宗脈に対してこれら原霊子の向上を求めるかである。汝らは　上天の「封神演義」を観察することができるが、それは人道世界を依りどころとして構築されたものであり、その中で救済された原霊子は言うまでもなく、すでに長きにわたって垢穢が蓄積されていたのである。
これらは昊天玄霊玉帝の管轄下にあり、三十三天界と七十二冥地から見ると、それぞれの星系の違いであり、つまりそれぞれの天が職務を分担している：東天、西天、南天、北天、中天。しかし、またそれぞれの天には異なる主宰（宰）がいて、各星系を主導・管理しています。
東天には東天の主宰がおり、西天には西天の主宰がおり、南天には南天の主宰がおり、北天には北天の主宰がおり、中天には中天の主宰がおられます。しかし、いずれも南天門を経由しなければ、それぞれの天界を行き来することはできません。これが、南天門が南天の主宰である文衡聖帝の管轄に属する所以です。
それゆえに、東、西、南、北、中の各天が司る職務は、すべて南天門を経由して昊天星系に帰還し、また凡塵地冥星系にも至る。これはすでに道を証した者たちが相互に保護する働きであり、またすべての使命がなぜ南天において行使されるのか、その理由でもある。このような状況が比較的多く見られる所以である。
崇心演義のすべてが再び向上する
崇心宗脈の体系は、なぜ天地の過去における「封神演義」を再び「崇心演義」へと高め、その機能と効果を向上させようとするのか、あなた方はその中の事情を詳しく理解できるでしょうか？なぜこのように「封神演義」を「崇心演義」へと昇華させるのか、崇心体系の神仏と諸賢生たちはどのように関わっているのでしょう！
一部は過去に既に悟りを開いた神々であり、今この時空の縁によって再び崇心宗脈に降臨し、浄化と向上を担っています。もしこの時空の縁において浄化と向上が果たせなければ、良からぬ気運を変えることも叶わず、ましてや真に上昇し、超越し、成長し、回帰し、円満し、乗り越えることは極めて困難となるのです。
あなた方が崇心宗脈に入ったのは、まさに過去の奇抜で変わった癖を大きく改めるためです。あなた方はもう一度『封神演義』の全過程を詳しく理解し、封神榜の中の一人ひとりに、奇抜で変わった癖があるかどうかを見てください。あまりにも多いのです！これもまた、累世にわたってずっと改めることのできなかった奇抜で変わった癖なのです。
今生、崇心宗脈に入ることは、決して簡単に自分を修持者と称することではありません。それではあまりに恥ずかしいことです。もし再び元の地位に戻ることができても、修整を改めることができなければ、おそらく元の職位に戻ることはできず、必ず降格されるでしょう。また、「崇心演義」は過去の「封神演義」の条件を増長させたものなのです。
世の中のすべての良きものが増し広がり、限界を超えんことを。
また、これらのすでに封神して果位を証した者たちが、さらに高次の「仏乗の果位」へと回帰し昇華するために再度来臨している。汝らは自らの人生が如何なるものであるか理解できようか？つまり、自らの奇矯な性癖をいかに修整し、改めるべきかということである。この人道世界に生まれ入ったこの世では、修整が難しいからこそ、新たに修整と変化を図るべきなのだ。
また、自らの良くない悪しき性格を改めることもずっと難しく、崇心宗脈は虚空、無極、昊天、南天を連携させ、大道の聖なる務めをさらに高めています。これが、崇心宗脈が堂を建立して以来、ずっとすべての学生と主事者に対して厳しい試練と苦難を与えてきた理由であり、まさにこのためなのです。
天が大任をこの人に降すときは、必ずまずその筋骨を労せしめ、その体膚を餓えさせ、その行いを空乏ならしめる。このようにしてこそ、上天の試練に耐えられ、このような殊勝な天機良縁を担うことができるのだ。あなた方は、そんなことがあり得るだろうかと思っているのではないか？あなた方の考える通りではないとしたら、どうなのか？あまりにも浅はかだ！
崇心体系は、一般の宗教流派とは根本的に異なり、独立した天命の職責を有していることを理解する必要があります。それは、自分自身と多くの原霊子を向上させ浄化するためのものであり、それゆえにあなた方の審査や試練もより深く厳しいものとなります。それなのに、あなた方は不満や嘆き、あれこれと雑念を抱いてしまうのでしょうか？もしそうであるならば、このような天機の良縁を得ることはできないでしょう。
自己を観察し検証するには　　厳格な選別こそが適切である
心に不満が生じれば苦しみとなる
天の機微は使命を必ず移し変える
封神演義は再び機を修め　　崇心演義は自ずから契を成す
上へと昇華し浄化を遂げ　　回帰して大道の根源を超越す
この偈は！有情の衆生たちが互いに励まし合い、崇心宗脈の体系と昊天・南天との連携に対して、これは南天主宰　文衡聖帝が崇心体系の働きをご覧になり、十一年の歳月の中で、上蒼が信頼と頼りとすることができたのは、まさに崇心の仙仏と主事者たちの堅固な志と忍耐力によって成し遂げられたものである。
すなわち、真に上天の肯定と賞賛、称賛を得ることができると言えます！必ずや全ての仙仏の先生方が人為的要因を加え、互いに連携し合い、未来における努力と団結を共にして弘揚を成し遂げねばなりません。さて、崇心宗脈の皆様にはしばらくお手数をおかけし、未来の引渡しと成全に関する会議を共に協議いたしました。皆様、お疲れさまでした。ではまたお会いしましょう！
無極玄天上帝
無極より旨を頒ちて崇心に降る　　玄天上帝の徳情有り
諸聖仙佛賢生よ、よく崇心し聖務に励み、大道に導かれよ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は先天八卦伏羲大帝がご降臨され、「大道衆生」第二十五回を著作されました。前回の「崇心演義」と今回の「封神演義」を相互に関連付け、非常に明確な分析をなさいます。
崇心宗脈のすべての学び手、宗生が、自らの職責と使命を理解できるように
いかがでしょうか。崇心宗脈の使命がいかに重大であろうとも、必ず謙虚な心で全ての兄弟姉妹を迎え入れ、未来の浄化・向上・成長を共に実現しなければなりません。皆様がこの綱領を共に遵守され、自らが災厄を受けることのないよう、心から願っております。ご理解いただけましたでしょうか。
2014年9月19日17時08分◎＃※   ０Ｋ＃
盤古大帝
盤は天地を開き無極を化し　　古の道徳は基を再び整う
大道の衆生二十六回　　帝は崇心を著し封神を起こす
第廿六回　  崇心封神
崇心宗脈の教化体系
大宇宙の天地一切の有情衆生は、学習を通じて成長し、また上蒼の主体構造により、大宇宙の天地一切の演義作用に参与し、崇心宗脈の中に加わる。これは未来の人道教世界における修持の機能と効果を成し、人道世界を通じて上昇していくことができる。かくして崇心宗脈の殊勝なる因縁となるのである。
これは未来の有情衆生の原霊子が向上成長し超越するためのものであり、自らが向上させる必要があります。超越して上昇成長することは非常に真実性に富み、また自己の浄化を通じてさらに向上を図り、上蒼の基本構造と綱領に到達し、自らの成就を成し遂げます。これにより、「再び神を封じる」ことと「崇心の神封じ」とを区別するのです。
また「崇心封神」と「重新封神」は、未来の四億の仏子たち、およびこれらの衆原霊子の成長と成就を借りて、さらに九二原霊仏子の向上をもたらし、すべてが「重新封神」と「崇心封神」という殊勝な因縁に入ることができる、まさに正道であります。
崇心封神と再封神－これは現代のすべての有情衆生が、人道世界に入った後、自らの不足や欠陥、過ちを改め、修練し、変革することを指します。これはただ上蒼が望むだけではなく、むしろ未来の人類衆生の福祉と深く関わっているのです。
有情世界、それぞれの環境は異なります。
さらに推し進めれば、他の二十六星系が互いに補い合うことで、必ずや地冥星において封神演義を再現することができる。これは「懿敕崇心堂宗脈」がこの時空の因縁の中で、過去の周朝時代の封神演義を再び人道世界に引き入れることになる。なぜこのようなことが起こるのだろうか？
また、過去の『封神演義』に対しては、今や多くのさらなる向上を阻む障壁が存在しています。それどころか、向上して超越することができず、むしろ様々な星系の中に沈み続けることになるのです。まさにこのような汚れを浄化するためには、「仏教の真理」に「道教の精髄」を加えることで初めて効果を発揮するのです。
「儒家」の『大学』『中庸』に対しては、相互に補完し合う関係がある。また「耶家（キリスト教）」の博愛に対しては、「回家（本来の帰るべきところに帰る）」という要素が加わるべきである。しかし「回家」もまた、それぞれの縁起を根本として、人道世界の中に組み込まれる。これは人為的要因が相互に補完し合う必然性によるものである。
なぜ「五大宗教の精神」をもって、すべての原霊子の往来を上昇超越させなければならないのか。人道世界の生活過程において、さらに一段高い向上を遂げるためである。まさにこのような因縁の根本によって、「封神演義」が生まれ、さらに「封神演義」を上昇させ、「崇心演義」によって超越されるに至ったのである。
昔の封神演義のすべて
それゆえ、姜太公子牙仙翁はすべての神々を封じた後、自分自身にどの神号を与えるかを忘れてしまい、結局自分で「灯火神」を封じることになった。この「灯火神」は、その灯火の意味がお分かりいただけるだろうが、さらに南方丙丁火の管轄に属し、南天の主宰を主たる管轄者としているのである。
したがって、人道世界のすべての灯火の光明は、それぞれ関連する管轄を受け持つものがある。一つの関所が一つの関所を管轄し、一つの職位が一つの職位を管轄し、それによってすべての大寰世界の万物蒼生が日と月の光を浴びることができるのである。また、人道世界のすべての家庭においても、灯火の光明による照らしが必要であるかどうかが問われる。
必ずや「かまど神」の光り輝く松明を持たなければならず、初めて人類の衆生が煮炊きに依存することができ、また人類世界の光明と互いに照らし合うことができる。これこそが、まさに現在の崇心宗脈の「大道シリーズ天書」が著作された所以であり、また光明に照らされて、この殊勝な使命を著作し、さらに過去の異なる時空の因縁を辿り、いかにして！
まさに、南無燃燈古佛が天盤の道務を司られることにより、姜太公子牙仙翁の『封神演義』においても、全体の封神の過程を成就させるにあたり、南無燃燈古佛の体系を経ることで、より大きな成就がもたらされたのである。これは姜太公子牙仙翁の『封神演義』に対する確かな印証なのである。
21世紀における異なる時空の因縁
現代の時代において、再び崇心体系の「崇心演義」に入ることは、まさにこの「封神演義」を新たに高めることである。このようにして初めて、南無理心光明如来仏が「懿敕崇心堂宗脈」に降臨し、殊勝な聖務を再び縁起させたことを理解できる。これは、ほんの小さな因縁だけではないのである。
なぜ　南天主宰文衡聖帝が、強いて保奏を　南無理心光明如來佛に加え、このような殊勝な因縁をお与えになったのか。もし現在の第十八代　玉皇大天尊　玄霊高上帝蓋天古佛が、また南方丙丁火であるならば、したがってこのすべての因縁は、互いに大道の殊勝な使命において連なり合うことができるのである。
これは単なる一般的な使命ではなく、「崇心封神再造」を通じて更に大きな成就をもたらすものであり、また突然現れた縁でもありません。あなた方、未来の台湾の指導者たちに対しても、南天の体系から降りてきた者として、大道の弘化の礎となる相互の成就を果たすためなのです。
未来の21世紀は、中華の炎黄子孫の世紀となるでしょう。崇心宗脈体系の恵みを以て、「大道シリーズ天書」は未来において、全世界に正しく弘め広められていくことでしょう。なぜこのようにするのか、それは単に人道世界のすべての衆生を見るためだけではないのです。
崇心封神と再封神
実に！現代の人心が昔のようでないことはすでに事実ですが、しかし、人類の衆生における「三綱・五常・四維・八徳」においては、昊天玄霊高玉帝が九五至尊の位に登られた後、一貫して大学・中庸の儒家思想、道家思想、仏家思想、耶家思想、回家思想に対して力を惜しまず尽力されてきました。
全ては相互に補い合って人類世界の運行を助けており、ではなぜ現代の世の中は特に「儒家」の三綱・五常・四維・八徳を中心思想の構築に重んじるのであろうか。さらに「仏家」の真実の理諦を加えるならば、人類衆生がなぜ今に至るまで向上を遂げることができないのかが理解できるのである。
むしろ、下へと沈んでいく、その原因はどこにあるのか！それは「仏教」－「唯識の真理の道筋」に通じることができず、自分自身を真に向上させ成長させることができないからである。そうすると、ずっと人道世界に沈んでしまい、「帰るべき道」を理解することができず、常に人道の生存の中で障害にぶつかることになる。
さらにあなた方有情の人類衆生は、このような時空の因縁にあって、いかにして自らを良く善く成長させることができるでしょうか。それは必ずや「唯識の理諦」を応用し、あらゆる宗派の名称や概念を打ち破り、一般の人類衆生がより親しみやすい、すべての応用に適した名称と語彙を用いることによって可能となるのです。
崇心封神と再封神のさらなる昇華
したがって、あなた方は「大道シリーズ天書」全体を、第一冊から現在の第二十四冊まで細かく観察してみると、実はすでに過去のすべての煩雑な名相と語彙を変えていることがわかります。たとえ台湾と神州の現在の人々が、古代文学の深遠な意味により親しみやすいとしてもです。
もし現在に借りて来るものと、未来のこれらの原霊子たちが、根本的に深く理解することができなければ
切に感じるのは、あなた方の現在の文学に対する造詣の深さであり、またこれにより、上蒼が新たな法をすべて口語体の文字を用いて「大道シリーズ天書」を著述するようになったことです。時間、速度、進度に対する把握について言えば、実はすでに大いに変化していると言えるでしょう。
未来の人類と衆生に、上天のすべての深い配慮がどのようなものであるかを理解させたいのです。また、過去のすべての不足、欠如、過ちを踏まえて、再び修復と変革を進め、未来の四億の仏子たち、そしてこれらのハイテク人材を借り受け、さらに九二原霊子を加えて、いかにして回帰し超越すべきかを示すためです。
もし向上へと高められるならば、必ずや崇心堂の中にあり、崇心封神榜の無字天書（天地と繋がるコンピューター映像）－天心鏡の中において、こう言えるでしょう：それは　姜太公子牙仙翁がまた　南無燃燈古佛および　南無理心光明如來佛と共に、崇心封神の再向上において互いに繋がり合っているのです。
崇心宗脈と無極大道学院
この時期は、過去のあらゆる不足、欠陥、誤りを改めて修整し、変革することで、より大きな向上と完成をもたらすでしょう。しかしながら、多くの星系や星間の主宰者たちもまた、地冥星へと降り立ち、再び学びと改造を重ね、宇宙全体の星系の大進化を形作ることになるのです。
この種の区別もなく、「魁光帯甲体系、乗願再来体系、先天落凡体系、博愛世人体系、清真回家体系」、その他の体系に対しても、すべて「仏乗果位」を再び向上させて超越するものであり、かつての封神果位に留まるだけのものではありません。
もしそうであれば、もはやこの時空の因縁を経て、仏乗の果位を超えて向上させる必要はなく、より殊勝な向上と成長が可能です。すべての教化によって成就したこれらの原霊子たちの果位は、上蒼のご意思により、崇心が一部を公布しますが、必ずや無極理天の第二天界、第三天界に回帰し、再び修持を精進しなければなりません。
また再び審査と検証を経て、真に悟りを開いた果位を正式に授ける必要がある。そのため「無極大道学院」で数年間修行を積み、帰還後もさらに数年間修行を続けることになる。これは上蒼が既に定めた規則であり、大いなる世界の地冥星における未来のすべての救済（推薦）や、他の宗教から報告された悟りを開いた者たちに対しても同様に適用される。
崇心の封神エネルギーが再び高まる
比較的高次元で高い果位を持つ者は、再び無極理天の第二、第三天界に入り、さらに精進して成長する。しかしながら、「崇心宗脈－無極大道学院」において超越して回帰するすべての原霊子は、すでに果位を証得しており、また人道世界から回帰を待つ原霊子に対しては、すでに師資として教え導く補助を為している。
また、なぜ「無極大道學院」が提唱する悟りの道を修めると、これらの原霊子たちは他の宗教よりも優れた成果を得られるのか。これは、上蒼がなぜ「崇心封神」という殊勝な因縁を授けられたのか、その理由がここにある。なぜ崇心がこのような天機良縁を得られたのか、それは大寰天地のすべての原霊子たちが向上成長するためなのである。
また、人為的要因による成長と達成を通じて、崇心宗脈がより厳格な選別の縁を持つ理由もこれと同じです。もし人道世界の有情衆生が向上して超越することができない場合、上蒼天界はかつての封神演義と同じ状況を生じさせ、それゆえ向上超越は非常に困難となるのです。
あなたがたはもう少し詳しく考えてみてください。周の時代から今に至るまでの時空の因縁の中で、一体どの王朝が「平安無事」と言えたでしょうか？これは王朝の殺戮行為に対する悪い反応であり、また、なぜ上天が封神演義を改めて行う必要があったのか、その最も重要な理由です。過去がどうであれ、未来の人類の福祉は過去よりもさらに向上し、高まるでしょう。
宇宙生命の開拓者
しかしながら、崇心宗脈にとっては、まさに「宇宙生命の開拓者」であり、これは紛れもない真実である。人為的要因の中で、未来の四億余りの星々や星系の向上を促し、さらに虚空天界の比較的高次元な、高い因縁、高い境地、高い果位のQNAを、他の星系へと降ろし広めていくのである。
これは未来の衆生の福祉が依って立つ基盤であり、より大きな成就をもたらすものである。これはまた、上天が地冥星自体の向上と超越を促し、有情の衆生が未来に向けた成長とさらなる高みへ至ることを可能にするとともに、他の星系の主宰者たちのうち、一部がすでに人道世界に降りて自らの「奇毛怪脾」（特異な性向と癖）を改め直す機会をも与えるものである。
さらに未来の様々な星系を司る者たちに対しては、ますます多くの存在が現れるでしょう。崇心宗脈の体系は、いかにしてこれらの有情衆生が向上し、沈淪することなく高みへと昇華できるよう成就させるのでしょうか。汝ら崇心宗脈の学徒たちは、果たして上蒼の基本構造と使命がどのようなものであるかを、ありのままに理解することができるのでしょうか。
これは、千載、万載、億載の昔より、甚だ難く有る、この種の殊勝なること
使命が下されるに当たり、汝らはまさにこの盛会に巡り合い、多くの天機と良縁が与えられる。自らを利し、衆生を利する中で、良き善き因縁と条件が生まれ、向上し成長し、超越へと高められ、より大きな恵みを形作ることとなる。
崇心封神は縁を開き展開し　　修整と変革は真実の如く実現する
人道の因縁は天が定める　　この期の時空が徳の源を造る
燃燈の心法は後代に伝わる　　灯火の神光は小さく載せるにあらず
理心の光明を整え置き　　封神演義は心を崇めて来た
この偈は、有情の衆生たちが互いに励まし合い、上蒼を大道弘化の向上につなげるものです。あなた方は、上蒼のすべての苦労がどのようなものかを理解できるでしょうか？そうすれば、上蒼がこの時空の因縁において何をなさっているかが一目瞭然となり、このような大いなる恩恵を体得することができるでしょう。
無極教化天尊
極まりなく私なく偏りなく、
すべての衆生を教化して慈愛を推し広める。
天尊は今日当番に来られて　　神仏と賢者たちと共に会される
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は、大寰開天闢地の盤古大帝がご降臨され、「大道衆生」第二十六回を著作されました。崇心自身の殊勝なる因縁を、極めて明晰に剖析されるとともに、汝らがその中の徳沢を体得できるか否かについても示されておられます。
「無極大道学院」を通じて超薦され、入学を果たした修学士たちは、すでにあなた方よりも証道果位を得る機縁に恵まれており、真実に基づいて向上を遂げています。それゆえに、崇心宗脈の学生たちはこのような天与の良縁を得て、自らのため、そして未来の衆生の福祉のために、より大きな成就と超越を実現することができるのです。
また、自らが向上成長と高みを目指すためでもあります。今日の聖なるお言葉を詳しく解説すれば、必ずや上蒼の並々ならぬご苦心、諸天の聖仏の慈悲の徳と恵み、そして現代の時空と因縁がなぜこのようであるのか、またこのような過程が、いかにして全ての働きを貫き通すかを理解できるでしょう。皆様、ありがとうございました。それではまた。
2014年9月20日13時13分◎＃※   ０Ｋ＃
酆都大帝
俗世の塵を払い高みを目指す　　都会の喧噪に古き良き時を創る
大道の衆生二十七回　　帝は封神を著して真を超越す
第廿七回　  封神超越
この世のすべての良き縁と善き因縁
これは千古以来、人道世界および昊天星系世界における最も殊勝なる天機良縁であり、こう言えるでしょう：「封神演義」は周朝以後のすべての帝制を経て向上させたものであり、これはまた昊天星系、および過去に封神を果たし証果を得たすべての者たちが、さらに向上し超越するためのものである。
また、大部分は、数多くの除去しがたい障害が存在し、それは人間界だけに限らず、さらに昊天星系全体にまで広がっている。これは、向上超越の殊勝な因縁を達成できるかどうかに関わるものであり、そうでなければ、かつての封神演義のように、真に向上を遂げることは難しい。必ずしもそうではない！
観ることができる：大宇宙の天地の中、および大宇宙の星系や星々の間では、まさにすべての不足や欠けた過程に対して、誤りを改め不足を修整し直すこと、さらに封神を超越して向上させること――『封神演義』から現在の時空の因縁に至るまで、これらの部分の不足を再び修整し直しているのである。
彼らをして、真に向上し超越させるべく、周朝以後のすべての王朝が交代するたびに、しばしば多くの殺戮行為が生じた。人道世界の無数の衆生から見れば、古代の帝制の残虐さに対して、また一部の王朝の帝制には、しばしば九族皆殺しのようなことが多々あった。
王朝が変われば人々は殺害される
これらはわずかにその縁に触れただけで、根本的には何の関わりもないのに、九族皆殺しの災いを被るのです。もしこのような勢いで、あなた方に対しても同じ過程が行われたなら、あなた方はどうして殺戮行為の残酷さを語ることができるでしょうか。これこそが、中国本土と世界中のあらゆる国々が皆そうである理由なのです。
特に、中土の国々ではさらに残酷で、このような理由なく殺戮に遭った者たちは、甘んじて受け入れるだろうか？恨みを抱かずにいられるだろうか？このような不本意さと深い恨みは、地冥星全体に留まり続ける。これは大いなる天地の気勢に対して、長きにわたって良からぬ気場が存在することになる。
そのため、人間界では必然的に多くの良からぬ行為が生じ、また歴代の王朝交代は、すべてこのような殺戮行為を伴ってきました。もしあなた方がこのような気場の状態に置かれたとしたら、一体どうなるというのでしょうか。これらの各王朝が殺戮を行った後、すべての行為は大宇宙の天地に対して、相当な怨念の気場を形成しているのです。
また、混沌とした気場が多くの不良な気勢を生み出し、天地のあらゆる万物衆生に対し、必ずや数多くの化解し難い不良な気場を生じさせる。これはどの時代においても一貫してそうであり、変転し難い様相を呈している。理由なく殺戮された者たちのすべての不良な気勢は、人界に徘徊し、有情衆生の生存に影響を及ぼしている。
封神がすべてを超越する理由と過程
これは良き方法でも、良き結果でも、良き功績でもありません。有情の衆生が真に安らかな生活環境を得ることができない限り、どの王朝も同じであると言えるでしょう。このような悪しき王朝交代を改め、政権の平和的移行へと変えていくことこそが、まさに天の徳沢と基本構造なのです。
歴代の王朝を経て、三国演義の時代から現在の民国時代に至るまでの全ての選挙制度を、この大いなる天地に存在するあらゆる国家の民主選挙方式に応用し、それぞれの因縁に対して新たに組み入れ、さらに、このような王朝交代の後に生じる全ての殺戮行為を改めて変革していく。
対立が形成される：私に従う者は生き残ることができ、私に逆らう者は殺戮に遭う。これは「順我者生、逆我者亡」と言える。このような殺戮行為は、生々世々を経ても天地の間に留まり続け、この極めて悪しき気勢は、天地全体に及んでいくのである。
また、どうやってそれを取り除くことができるだろうか。再び人間として生まれ変わるか、あるいは各星系や星際の存在として上昇し職務に就くことでしかない。もし再び人間として生まれ変わるならば、異なる生存環境と因縁が必要であり、初めて向上と超越が可能となる。もし堕落してしまうならば、どうすることもできまいか？それは知る由もない！
封神を超越し、さらに昇華と浄化を進める
すなわち、生を重ね世を重ねて、天地の間に留まり続け、ただ生き長らえるのみであり、根本的に向上して超越することはできません。また、このような沈淪を観ると、自分自身を凡塵の世界に落とし込んでしまい、一日たりとも向上することはありえず、いかなる生存であるかを理解していないのです。ただその日暮らしをするしかないのです。
したがって、周の時代から現在の民国時代に至るまで、この間のすべての殺戮された者たちの怨念は言うまでもなく、あまりにも多くの悪しき気勢が形成した怨恨であり、それは天地の間に蓄積され、中土と全地冥星の内外を問わず、これが千古以来、なぜ時空の因縁を改めて修正し変革しなければならないのかの理由である。
これこそが、昊天玄霊高玉帝が九五至尊の位に登られた後、一貫して再修整と改革を望まれてきた大聖務であり、このため、幾十回にも及ぶ会議を経て、改めて「封神演義」への変更として評価されました。このようにして「崇心宗脈」が引き継ぐ大聖務は、良き成長と超越を遂げることでしょう。
また四億の仏子に対して、「封神演義」の超越性を再び高めることについて、なぜそのようにする必要があるのか。これらの多くの功績を持つ古代王朝の帝制に対しては、すでに一部は昊天星系や星際にまで達し、各星系の主事者として職務に就いているが、当時の時空間環境のため、さらに上の段階へと高めることができなかったのである。
封神超越の必然性
つまり、無理矢理「一つの穴に一つの大根」という言い訳をした後、多くの宇宙星系に悪しき嵐が形成され、それぞれの星系を危険にさらすことになります。また、これらの各星系は言えるでしょう：地球冥星全体に対して見るならば、必要なのは、地球冥星を再び改造することこそが正しい道であると。
もし大いなる宇宙の星系によって成就されたならば、本来このようであるべきではないはずですが、それではなぜ、このような悪しき気勢がずっと残り続けているのでしょうか。大いなる天地のすべての衆生に対して、非常に大きな影響を与えており、これこそが　上天がこの因縁を見て、新たに「封神演義」の再創造の過程を始められた理由なのです。
これは昊天星系が再び加入し、真に向上して超越を果たすことに対してであり、大いなる天地あるいは宇宙星系全体にとって、極めて良好な模範となる成果です。これこそが、上天がこの期に「将を借りる」因縁となった理由です。すなわち、昊天星系が宇宙全体を向上させ、さらに一段階高みへと成長し、超越するためなのです。
多大なる浄化の機能が必要であるならば、なぜ自らを浄化し向上させる必要があるのか？これら既に成就した、各星系の主宰者たちに対し、真に機能的な効果があるかどうかは、必ずや自らの思想観念を観察し、改造できるかどうかによる。あるいは、依然として硬直した頭脳思考であり、思想観念さえも転換できない状態に陥っているかどうかによる。
再調整と心の崇めの変化
もはや上蒼の基本的な原意ではなく、それゆえ時代も異なり、時空も異なり、使命も異なっている。それなのに、なぜ今この時空が「将を借りる」必要があるのか。その理由は、地冥星を用いてこれらの不良な各星系を改造し、再調整、再修復、再変革を行い、崇心を高めるためである。
また、崇心に対して、真に向上できる理由は何でしょうか？これらの大きな
天地の宇宙星系には相当な成長の可能性があり、必ずや地冥星の中に多くの豊かな資糧源が存在することを観るべきです。これにより、「唯識学の理諦」において、これらの宇宙星系を司る者たちに対し、良き成長がもたらされると言えるでしょう。
心より参入して、思想体系の中で変化を起こし、さらに「唯識思想」の再構築と向上に加わり、不足や欠陥、誤りを改め、「唯識の道」を高める行為を整えます。もしあなた方がこのような思惟体系に参入するならば、果たして真に成就することができるでしょうか？
これこそが、この時期に上蒼がなぜこのような思惟観念を持つに至ったかであり、また非常に大きな成長でもある。なぜなら、大宇宙全体の天界星系と星際において、超越を成就できるのはまさに「仏家の理諦」の向上であり、また非常に如実性を帯びているからである。これを見て、上蒼は南無燃燈古仏と共に協議されたのである。
仏教の唯識学は、すべての人間が実際に用いているものである。
また、すべての「仏家」、すなわち仏尊、仏聖と共に、「唯識の理諦」の思想を改めて提唱し、「唯識の観念」を成長させます。これにより「唯識の行い」が実践され、未来の成長と向上は計り知れないものとなり、必ずや良き因縁の条件が形成され、上昇し増長して超越していくことでしょう。
昊天星系の全宇宙空間に対しても、非常に良い模範作用があります。これこそが、この期に上蒼がなぜ「仏家－唯識理諦」を借り、「唯識観念」を加えて成長させ、「唯識行径」の向上という行動を引き起こすのかという理由です。これはまさに真実であり、人道世界の向上に対して行われていることです。
浄化の機能作用が生じることにより、さらに全体としての上蒼の基本構造は、大いなる天地と宇宙の星系に対して、非常に真実に即した向上をもたらします。これは計り知れないものであり、また「仏教思想」を骨格とし、さらに「儒・道・耶・回」の精華を加えて展開したものなのです。
改めて、上蒼と宇宙星系の公理を基本の条綱とし、さらにこの宇宙星系に入るためには、必ずこの種の「唯識の理諦」「唯識の観念」「唯識の行径」を備えなければならない。これもまた、上蒼の最大の基本作用であり、有情の衆生が向上し、増長し、超越することを利益するものである。
封神超越向上の主な役割
この殊勝なる因縁を、未来の四億の仏子と、「借りてきた」これらの原霊子に対して、より大きな浄化と向上をもたらすためには、崇心宗脈が著作した「大道シリーズ天書」の中に、すでにこのような基本構造が備わっており、多くの煩雑な名相と語彙を排し、新たに白話文体を応用して人世間に下化されている。
未来の衆生の修行と習性に対して、真に向上を遂げることができ、また多くの不必要な煩雑な名称と名相を簡略化し、すべての原霊仏子に比較的理解しやすいように、その内包と奥義はどのようなものかを示す。これにより多くの模索時間を減らし、より容易に真実の向上と超越を実現することができる。
これは　上天が天地の中心、および昊天宇宙星系に対して行う向上であり、まさに真実そのものであって、単なる『封神演義』の繰り返しではありません。もし向上がなければ、なぜ再び封神を行う必要があるでしょうか？このような因縁を、いかにして真に向上し成長させるかが問われているのです。
未来の衆生の福祉に対して、より大きな利益と回収をもたらす相互の因縁となるのである。「大道系列天書」は単に、汝らが現在利用できるものだけでなく、未来においてどのような宇宙空間に昇進しても、人類衆生が向上し、超越するための良き因縁条件が備わることを知るべきである。
封神超越の向上と崇心演義
また、このような「唯識の理諦」「唯識の観念」「唯識の行径」は、あなた方すでに人道世界において、そのすべての精華を摂取してきた。さらに総体の要義として、これは千古以来、なぜこのような大いなる因縁に恵まれた昇華があるのか、まさに昊天星系が管轄し共議した条綱が示範となっているのである。
すなわち、「仏・道・儒・キリスト・イスラム」の精髄を応用し、あなた方人間の思想を再調整し、心を高く改めて、自らを『封神演義』の世界へと導き、さらに向上超越させることです。未来の昊天星系と全宇宙において、これは非常に良好な気勢の空間となり、良き回帰と超越が形作られることでしょう。
これこそが、上天が「仏教」の思想観念を用いる理由である。すでに成就した聖神仙仏たちに対し、さらに大きく優れた超越的な成長を促すためである。これは昊天星系のすべての星々において、成長と向上と呼ばれるものであり、まさにこのゆえに「懿敕崇心堂宗脈」のすべての聖務は、比類のないものなのである。
未来の「宇宙生命開拓者」にとって、これは紛れもない真実であり、あなた方にとって
すでに「唯識の理諦、唯識の観念、唯識の行径」があり、自らを先ず浄化し自らを向上させるのであって、もはや全身が汚れと垢識に満ちたものではなくなります。また「垢識」はこれ、向上を遂げることができず、かえって堕落していく主要な因縁の根本なのです。
封神演義再び繰り広げ　　昇華超越また新たに始まる
なぜ天はこのように　　仏法の教えをもって開示するのか
唯識の理諦は真実に在り
唯識の観念は自然に排す
唯識の行路は内に加わり　　向上へと昇華する大道を載せん
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合うものであり、あなた方人道世界になぜこのような綱領が必要なのか？それは上蒼の基本構造を主体とし、将来の衆生の福祉をより大きく向上させ、収穫を得るためである！さて、崇心宗脈をお騒がせしましたが、皆さんありがとう！ではまた！
無極城隍帝君
無極殊勝の大いなる因縁に
城隍帝君、登台して言わく
諸賢大徳皆安好　　仏聖の徳沢円満円
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院・院修学士の皆様、こんばんは。本日は酆都大帝がご降臨され、「大道衆生」第二十七回を著作されました。封神の超越と昇華について、非常に詳細な分析を加えられています。なぜこのようなことが必要かといえば、それは将来、全宇宙の星系全体に影響を及ぼすからです。かつて授けられた神々と星宿の果位についてであります。
一部の不足や欠陥、誤りがあるため、現代の時代を借りて新たに神々を封じることで、これらをさらに大きく成長させようとしています。これは未来の幸福に対して、真実の性質を持って下ろされるものであり、あなた方が今この瞬間に「唯識の理諦、唯識の観念、唯識の行い」を実践していることを願っています。
これはあなた方にとって未来にわたって尽きることのない益となり、また崇心宗脈の体系は、自らの成長と超越、そして未来の四億の仏子の成長において、回帰と超越を成し遂げるものである。明日はまた土曜日であり、すべての引渡しは通常通り行われる。本宗脈の学生の皆様には、早めに堂に来てお手伝いいただけることを願っている。
明日、また南邑の「中国儒教会」から一部の先輩方々がご来訪されます。本宗脈では地主としての礼を尽くし、心を込めてお迎えいたします。崇心宗脈に大きな変化があるかどうかについては、仙仏は皆様の明日のご様子を観察し、評価を下されます。どの方が最も良く、どの方が最も劣っているかが、皆様の未来が変わるかどうかの判断基準となるでしょう。
再び評価が行われますが、皆さんは達成できるでしょうか。あなた方の言葉をお借りすれば、黙認は同意と見なされます。皆で頑張りましょう！崇心宗脈に変化があるかどうかは明日を見れば分かります。あなた方が友堂の訪問を受け入れることで、すべてが明らかになるでしょう。さて、皆さんお疲れ様でした。すべてが吉祥でありますように。ではまた。
2014年9月20日18時25分◎＃※   OK＃
東嶽大帝
東嶽泰山は万山の首　　大帝降り来たりて自ら就くを観る
大道の衆生二十八回　　封神の架構原則を修める
第廿八回　  封神架構
封神演義の主要な構成
大いなる天地――周朝から現在に至る時空の因縁を観れば、それぞれの時代には異なる時空の因縁があることが分かります。各王朝の因縁に対し、人道世界の炎黄の子孫を高めるための綱領を定めることは、すべての中華世界の炎黄の子孫にとって、それぞれの時代の時空において観照すべき働きを持つのです。
あらゆる時空の因縁が成就するごとに、政権交代は殺戮行為を通じて達成されたと言える。また、各王朝において殺戮された有情衆生の数は計り知れず、これはまさに異なる王朝の後継者たちが「衆生への恩恵」と「衆生への殺戮」を区別する基準となったのである。
すなわち、それぞれの体の異なる行為と動作であり、またこのような徳沢と殺戮において、これらの無辜に殺された衆生は心から甘んじて受け入れるだろうか。また、封神演義はまさに周朝の姜太公子牙仙翁によって行われた過程であり、すでに封神されたこれらの原霊に対して、それぞれの星系と果位を観察することである。
これは大いなる天地、昔の朝歌城に対してであり、この『封神演義』によって成就されたことに対して、果位と星系を用いて機能を発揮させ、その働きを向上させることを目的としている。しかし、なお多くの不足や欠点があり、『封神演義』の中に入り込んでいる。今となっては、すでに三千年から四千年という時の因縁を経ているのである。
封神演義はすべての良き縁を描き出す
加えて、各体が成し遂げた成果に対しては、必ず新たに封神演義を施す必要がある。このように、姜太公子牙仙翁がかつて封神を行った時は、まさに南無燃燈古仏が天盤を司り、全ての封神の成就を補い合ったのである。即ち今、この現代の時空因縁に対して、またこの時代の中において、進化を加えていくのである。
未来のこの一甲子の時の中で、必ずや封神をやり直さなければならない。これは未来のこの一甲子の時の中で、人類衆生の福祉を再調整し、人道世界に福沢を提供し、地冥星系に対してより大きな成全をもたらすためである。これはまた、この時空元会において、千古以来二度目の「封神演義」なのである。
人界において再び成就を成し遂げることになる。それゆえに「懿敕崇心堂宗脈」は、上蒼の相互成全を経て、未来の衆生に対する「封神演義」の時節には、南無燃燈古佛と姜太公子牙仙翁によって、再び「新たなる封神」「心よりの封神」「崇心による封神」が行われるのである。
また、「仏乗演義」の果位を向上させることは必要であり、これは周朝以後から現在の民国時代に至るまで、過去のすべての時代における特別な因縁に対して、すなわち徳を施すことと殺戮によって区別し、これらの未来に原霊子として成就する者たちに対して新たに向上を促すことで、はじめて良き善き因縁が上昇し成長していくのです。
封神演義の欠点と不足
いわゆる「将を借りる」という因縁作用に対して、真に向上を図り、また有情世界において各時代の福祉と徳沢を区別せず、これらの既に過ぎ去った各時代の主事者たち、およびその時代の王侯大臣たちに対して、新たに爵位を授け神として封じることは、これは上蒼が福祉と徳沢を有する後世の子孫たちに対して、常にこのように行うものである。
これらの徳を以て衆生に恵みを施した王侯大臣、及び国家の主事者たちは、互いに因縁を有し、またこの種の綱領と原則の施行作用によって、必ずや過去の功徳と効用によって向上発展する。しかしながら、現代においては、これらの過去の徳を施した者、福祉をもたらした国家の主事者たちは――
また、かつての王侯大臣たちが、互いに現世に生まれ変わってきている。ある者は富商として一方の地に君臨し、ある者は異なる国の王侯大臣として、あるいは民主的に選ばれた国家の指導者、そしてあらゆる高官や爵位を持つ者たちとして、過去の徳の恩恵と福を互いに引き上げ、向上させ、超越していくのである。
このゆえに、これらの往昔の福祉と徳沢を受けた者たちは、皆、天が頒布施行した条綱を承けて、向上へと浄化を遂げるべく成全されました。また、すべての往昔の王公や子民も、その国や朝代を主事する者、王公大臣たちの徳の陰に従って再び人として生まれ、互いに向上し超越していくことができるのです。
大道はすべての人類衆生に徳沢を施す
このような徳沢と福祉の先天因縁は、今に至るまで　上蒼によって再び公布され、彼らが向上して成長できるようにされた。生死を流浪し続け、地冥星の空間に留まることは、　上蒼の基本構造ではなく、これらの往昔の原霊子の成就に対して、向上と超越を可能とするものである。
封神の主な構造：これらの過去の王朝の原霊子に対して、異なる時空の因縁を再び展開し、現代の時代空間と環境を生み出し、また過去の徳沢と福祉を各王朝の因縁の中に加え、理解させることである。すでに民国の時空因縁に入り、もはや各王朝の交代はない。
また殺戮行為を引き合いに出すこともなく、これは　上蒼が地冥星において施行する、最も主要な根拠であり、このゆえに、汝らがもし再び王朝の殺戮を経て、交代する中で生命を喪失するならば、汝らはそれを望むか？皆、望まぬことである！また、この種の殺戮行為は、地冥星の条綱に容れられぬものであるからだ。
これらはすべて「人為」による不十分さであり、すべての衆生の良くない殺戮行為に対しては、それは取るに足らない災厄である。またこのため、上蒼が昊天を通じて「玉帝の徳沢」を選定する際には、相対的に人間界においても、同じくこの種の条綱と施行方式を引用し、功徳と陰徳のある者を選び、それぞれの国家の主事者として生まれさせている。
下元の甲子、民国に双春双雨水あり。
申し上げますと、下元甲子以降、すべての因果が総決算されて以来、あらゆる因縁によって人間として生まれた者は、互いにこれらの生まれざる亡霊を背負い、また過去の徳沢や福祉に恵まれたこれらの国の主事者や王公大臣らをも包含しつつ、それらを向上させ、未来においてさらに上昇し超越していくことができるのです。
もし因果応報の循環があるならば、この種のものは、これらの人間として生まれた者への干渉と救いを求めることによって、現代の世代におけるすべての人為的要因を形成し、「霊通心法、通霊心法」および「霊山を歩む」者自身に対して、さらに双方が無形の空間から霊的なメッセージを受け取ることができるようにするのである。
これは非常に霊感に満ち、さらに非常に明確に感じられる感応である。なぜこのようになるのか？それは各々の朝代の因縁、および因果の報いとしての怨親債主に対しても、修行して向上し、再び世に出て人となることを望んでいるからである。しかし、すべての者がこのような因縁と条件を持ち、上へと成長できるわけではない。
上蒼が因果の総決算を引用した後、これらのすでに人間として生まれた者たちは互いに助け合い、互いに向上させることができます。しかし、すべての者が必ずしも向上と超越を達成できるとは限らず、むしろ堕落していく者があまりにも多いのが実情です。これはまったく望ましくなく、果たして成長の天機と良縁を得られるでしょうか？必ずしもそうとは言えないでしょう？
封神の枠組みの原則
しかし機会は自ら作り出すものであり、これらの過去の王朝の原霊の福祉と徳沢を持つ者たちは、再び地冥星の空間に入り、再び向上を目指す。そうしなければ、未来のすべての不良な気場が絶えず人道世界を干渉することになり、これは非常に良好な気勢とは言えず、また良い方法でもない。
それどころか、多くの不満や怒りに満ちた悪しき殺伐の気が、常に取り巻いていることでしょう。
各国において巡り巡って、それぞれの国に悪しき因果の報いが形成される。すなわち、あなた方人間世界における疫病や、現代の様々な流行性疾患、火災の猛威、さらに台風やハリケーンといった悪しき気象現象などである。
また、人道世界が向上できないだけでなく、むしろこのような災難の中に深く陥り続けることに対して、あなた方はこれが重要でないと考えるでしょうか？実は、このような気の渦があなた方の生存空間を絶えず取り巻く中で、どこへ行ってもその地域のすべての悪い因縁を引き寄せ、人類衆生の生存を破壊し悩ませているのです。
このような悪しき気勢に対して、どうして真の向上と超越がありえようか。必ずや新たに調整し、過去に理由なく殺戮された者たちに対し、悪しき気の渦を再び解消し収束させることで、人々の世にこそ浄化と向上がもたらされるのである。さもなければ、これらの気の渦はいつまでも人々の世に渦巻き続け、この困難な状況を突破することはできないであろう。
封神の原則の基本的な意図
大宇宙の天地において、あらゆる生きとし生けるものがより大きな被害を受けることになる。これはあなた方の肉眼では見ることのできない因果の始まりと終わりであり、またあなた方には全く関係のない問題だと思うかもしれない。しかし、上天の視点から見れば、人間世界におけるすべての気の流れの変化は、まさにこのような因果応報なのである。
それは、あなた方人間の世界では因果応報を理解することができますが、もしそれを悟ることができれば。
一部分を知るだけでも相当に優れているが、もし全体の機能を理解しようとするならば、より高次元の仙仏の師が必要である。彼らがこの気の渦の因縁を明らかに分析し、情ある人類衆生が理解できるようにしてくれるのだ。
この不良な気勢は、さらに人道世界の中に渦巻き続け、世界各地もまた同じ状況であるため、形成される影響はますます深刻になる。もしこれを理解できなければ、どうしようもないではないか。まさに人類衆生の見識が限られており、全体を真に見通すことができないため、自らの視野はますます浅薄なものとなってしまうのである。
しかも、全体を把握することはできず、天の主たる因縁は、人類の衆生に対するすべての福祉と恩恵を増し加えるにあたり、まさに遠くまで届き、また微にわたって情ある人類の衆生に向けられ、良き因縁条件があって、上へ上へと増し加わり、すべての良き恵みが情ある衆生に及ぶのである。
封神演義の原則　　全体の構造を明らかにして徹底的に理解する
古えの朝ごとに殺戮が起こり
気の渦巻きが人類を取り巻く
それぞれの国々の行いを体して　　積み重なる苦しみを除くは難し
上蒼が再び修復を施し
悪しき気流の墜落を改め変える
この偈は、有情の衆生たちが互いに励まし合い、また汝らの思想や観念が相互に補い合うものである。これは一般的な者が理解できる因果関係ではなく、いかにして有情衆生が真に向上し超越できるか、ただ人界に生存するだけに留まらないかについてのものである。
よく理解すべきです、人間の世もただ借りて使う時空の旅人に過ぎず、無常が訪れれば何があなたのものになるでしょう、まるで！何もないようなものです、それならばどうしてあくせくとしてこれらを追求する必要があるでしょうか、それはあまりにも愚かです！あなたがたが著作に付き添ってくださったことに感謝し、皆さんにも感謝します！崇心宗脈にしばらくの間お邪魔いたしました。ではまたお会いしましょう！
無極文殊菩薩
無極文殊菩薩来たりて　　大道の衆生福祉開く
殊勝なる因縁再び巡る　　崇心封神演義に記され
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は東嶽大帝がご降臨され、崇心において「大道衆生」第二十八回をご執筆くださいました。封神の原則的枠組みについて、すでに非常に明瞭に分析され、あなた方がなぜ過去のあらゆる因縁の中で、人道世界に入って感応することになったのかを説き明かされました。
すべての「霊能者、霊媒」、「霊山を歩む者、互いに霊を接ぐ者」において、これらの体系がなぜこのような因縁を持ち、互いに補い合ってあなた方に理解させ、より大きな成就を得させているのか、またこの過程をいかに明晰にし、未来のすべての行為と動作に対してどうするかを明らかにすること。
これはあなた方により多くの第一手資料を与え、皆がより大きな成長を遂げて超越できるようにするためのもので、良き縁と条件が上昇していくことでしょう。さて、お疲れ様でした。土曜日の会鸞において、本宗脈は称賛に値する成果を上げ、主席らはあなた方を一度表彰します！皆さん、お疲れ様でした。ありがとうございます！
2014年9月21日12時15分◎＃※   了解＃
灯火光明大帝　姜太公子牙仙翁
灯火は明るく世界を照らし　　太公望が来て相会す
仙翁初めて崇心堂に降り立ち　　大道の衆生、封神に帰す
第二十九回　封神超越の位を定む
封神演義の総体的な因縁
周朝の封神演義は、今からほぼ三千年から四千年の歳月を経ています。この間、すべての封神の果位がさらに向上し、宇宙の昊天星界が互いに補い合うことで、あらゆる働きを観察することができます。まさに歴代の王朝ごとに、それぞれの優れた点と不足する点があり、多くの良し悪しや長所短所を伴う行いが形成されてきたのです。
したがって、各時代の為政者の個人的な好悪や気まぐれが生殺与奪の権力を行使することが頻繁に生じ、あまりにも多くの人間界の衆生が、為政者の生殺与奪の権力によって理由もなく尊い命を失っています。また、このような悪しき気運が常に存在するため、人間界の有情なる衆生は、数多くの悪しき因縁の結果を形成することになるのです。
そのため、この悪しき気運は現代にまで延々と続いているのである。この因縁は次のように観察できる。いつの時代においても、無実の衆生が殺戮されることは非常に多く、道理にも悖っている。ひとたび王朝が交代するたびに、多くの無辜の人々が不慮の災難に遭い、命を落とすのである。
このゆえに、上蒼はこのような良からぬ行為を改めようとされ、昊天玄靈高玉帝が九五至尊の位に登られた後、このような行為を改め、人道世界により大きな徳沢をもたらす行いをなされることで、世の情ある人類衆生が、すべての良き生存の因縁を潤い育むことができるようにされたのである。
封神の位を定め、万星が一堂に会す
また、人界の世界を通じて昊天星系を結びつけることで、それぞれの時空における人界の因縁、そして昊天星宿への因縁は互いに補完し合い、このような因縁を通じて達成されることにより、かつての『封神演義』が再び向上を遂げ、より大きな成長と恩恵をもたらすことになるのです。
人道世界、および昊天世界の星宿が再調整される。これは無数の星宿に対して、新たに封神の位置付けを行うものである。周朝から今日に至るまで、すでに封神による証果は存在していたが、今や観ることができる：かつては一部に不足、欠落、誤りがあり、それぞれの時代の時空によって、異なる影響をもたらしていたのである。
これまでこのような気勢は、殺戮行為の動きの中にずっと漂ってきました。したがって、昊天玄靈高玉帝も三国時代において同じように行われました。しかし、今の時代にはもはや過去の悪しき気勢があってはなりません。未来のすべての原霊と蒼生に対して、より大きな福祉と向上をもたらし、さらに人類衆生の利益となるべきです。
また新たに改変し、この種の良からぬ気勢が互いに沈み込む状況は、今に至って言えることである：新たに封神を行うとは、ただ過去を再び繰り返す封神ではなく、過去の不足や欠けている部分を改め、未来の向上と超越を図る新たな封神の位置づけを調整することである。これもまた、上蒼がこの時空の大きな因縁の中で成長を遂げさせた所以である。
封神定位の後に代を築く
このような神々の再評価と位置づけを行う主な根拠は、もし過去の不足や欠陥、誤りを改めて変革し向上させ、かつてのこれらの星宿をより完全なものにすることができなければ、21世紀から未来の30世紀までの千年間に、より大きな福徳を人々にもたらすことができないからである。
それゆえに、上天は未来の衆生をこれほどまでに慈しみ給う。そこには、向上へと引き上げる必然性が存在する。人道世界と昊天の星宿とを区別することなく、すべては共に連なり合い、互いに結び合っているのである。この世の因縁として、昊天玄霊玉帝たる蓋天古仏もまた、人道世界における「三綱・五常・四維・八徳」の実践を通して、その願いを成就させんとされている。
すべての関連する成全を向上させるために、これは昊天星系全体のより大きな成全を通じて実現され、これにより未来の人類世界の衆生に対して、より大きな相互連結がもたらされます。これはかつての「封神演義」を再び昇華させるとともに、これらの不足、欠落、誤りを天機良縁の位置づけへと導くものです。
そして再び向上する機会が訪れ、自らの不足や欠点、過ちに対して、主要な因縁の根本を改めて修正し変えることができる。これもまた同様であり、これは上蒼がこの時期に未来の「借将」の衆原霊子たちに対して下されたものであり、21世紀から未来の30世紀までのこの千年の間に、より大きな成就をもたらすものである。
時空と因縁の移り変わる作用
実は、上天の時空から見れば、この一千年はただの千日ほどの時間に過ぎない。しかし、未来の人道世界にとってこの一千年は、非常に長い時間と空間である。ただ、人道世界と上天では計算方法が異なるため、新たに修正と改革が加えられ、より大きな向上と超越が可能となるのである。
封神定位とは、どの位を定めるのかということであり、あなた方人道世界の多くの衆生が、今のこの時空に入ることができたのは、非常に稀有な大きな因縁によるものであり、それによって初めて自分自身の「奇妙な癖や性格」を修正することができるのです。また、あなた方の「奇妙な癖や性格」は、今この世に生まれて初めて現れた悪い習慣ではありません。
しかし、累世にわたって、自分自身の良くない気質や性質を、人為的な要素で自分の行動に再び反映させてきたため、あまりにも多くの小さな欠点や大きな過ちが生じてしまいました。これらの良くない小さな欠点や大きな過ちを、どのように修正し改め、再び位置づけ直して向上させていくかが問われています。
あなた方は現在「崇心宗脈」の学生ではありますが、あまりにも多くの過去の因縁があり、再び修練を整え向上させる必要があります。もし今生において改めて修練し変革を加えなければ、来世では必ずしもこのような天与の良縁に恵まれるとは限りません。これは千万年の時を経て、ただ一度だけ訪れる再向上の機会なのです。
玉皇大帝の御徳は、あらゆる霊と蒼生に恵みを授ける。
これは昊天玄霊高玉帝の徳沢に対するものであり、千古以来の封神定位の再構築をさらに高めることである。汝らが一生で大いなる因縁に回帰し、自らをさらに高められることを願っている。来世に再びやり直すのではなく、そもそもこのような天機良縁は二度と訪れない。この因縁の殊勝さを必ず理解せねばならない。
封神の位を定めることは超越する――人道世界に再び来るにあたり、人間を基礎とした時空の因縁とすべし。かつて汝がいかに尊い神仏であったとしても、今、人道世界に降りて再び人となるには、必ず人間としての要素を基礎とし、人を神とするのではなく、人として人であるべきである。そうしてこそ、良き善き因縁を得ることができるのだ。
もしこのような思惟観念を持たなければ、真の向上を望むことは、「木に縁りて魚を求む」に等しく、また、古代王朝の徳沢がこの時空の因縁に下化されることにより、上蒼は必ずや、未来において再び人間として生まれ出るかつての神祇・聖神仙仏らに対し、更なる一段階の再創造と向上を授けられるであろう。
もしも理解する方法がないなら、天の基本構造と綱領はどのようなものか？それを見ればよい：あなた方この二十年近くの試練はどのようなものだったか？そうすれば：一目瞭然である！これはまたあなた方に対する再創造の向上であり、より大きな成就を得ることができる、あなた方が理解できるかどうか、この中の因縁と理由はどのようなものか？
仏教唯識学の理諦の応用
さらに自分自身に対して、今この一生において新たな調整を行い、自己を向上させ超越することが求められます。それゆえ、今すぐに「唯識の理諦」の成長に入り、さらに「唯識の観念」を明らかにし、このようにして「唯識の行い方」を応用するならば、必ず比較的容易に進めることができ、より良好な利益を得ることができるでしょう。
人道世界になぜこのようなものがあるのか：これは往昔、まだいかなる宗教の名もなかった時代に遡る
相は、2500年前に至って初めて各宗教が誕生した。しかし、「儒・道・釋・耶・回」が　上天の定め給うた正統なる教えであるとするならば、その中でも「仏家の理諦」が基盤をなしている。
また、「儒教、道教」の二つの教えを尊び、釈尊を補佐するために、この時空の因縁を成就し、未来に上昇する有情の原霊子が、なぜ上蒼が「仏教の理諦」をもって、再び人道世界に入り施行するのかを理解できるようにするためである。これにより、良き因縁の条件が整うのである。
まさに　南無燃燈古仏は、かつて仙人となるのを助けられ、また『封神演義』を通じて互いに補い合ってこられました。今また封神の時を迎え、老仙も傍観することはできず、未来において必ずや　南無燃燈古仏とさらに大きな相輔相成の関係を築き、有情世界と昊天の星宿に対して貢献していくことでしょう。
封神位階の向上による回帰
不足を補い、欠けた部分をさらに向上させることができる。これは未来の21世紀から30世紀までの千年間、すべての者が「借将」によって回帰し、完成されるべきであり、彼らが地冥星に沈むままにしておくべきではない。これは上蒼の基本構造と綱領ではない。あなた方は理解できるだろうか？
すなわち、人道世界の「懿敕崇心宗脈」を基本構造として、古より言われてきた「西岐城に足を踏み入れれば、封神榜の中に名が記される」という言葉のごとく、現在、上蒼が定められた主旨は「自ら懿敕崇心堂に入り、回帰して自らの賞を受ける」ことです。これこそが、上蒼がこの時代を定め、有情衆生が向上し成長することをお許しになった理由なのです。
真に封神の位に達し、超越して向上するためには、何よりも自分自身に対して責任を持つことです。自分には功績がなくとも苦労はあったと考えるべきではありません。それでは向上することはできません。自分自身に対して責任を持つことが、真に自らが己の主人となることなのです。理解していただきたいのは、すべての人界の衆生に対して封神の位を定めるにあたり、このことを心に留めておいてほしいということです。
すなわち、昊天の星宿を経由し、また人道世界の主要な依拠として、このいわゆる封神証果の主導者は、いかなるものであるか！人類衆生に良き善き因縁を与え、このような条件のもとでは、向上増長して超越することを促し、必ずや良好な受益を形成し、人類衆生に多大な利益をもたらすのである。
封神の位は新たに定められて再び来たり　　自らを超えて昇華し列を成す
南無燃燈古仏に帰依し、灯火光明大帝を開く
理心の光明が主となり理をなす　　上蒼の基礎は徳沢の意なり
封神の儀式を改めて整え
崇心の教えを広め仏乗の基を築く
この偈は、有情の衆生たちが互いに励まし合うものである。老仙が初めて崇心宗脈に降臨されたが、皆さんはとても新鮮に感じられたであろうか。なぜなら、未来の封神演義は再び「新たに、心から、崇心して」真に実行されるからである。初回の気勢が非常に盛んであり、まさに上蒼の棟梁の才として、真に秩序立てて実行されているのを見る。しばらく崇心宗脈にお邪魔いたしました。皆さん、またお会いしましょう！
無極大勢至菩薩
人間の縁は誠に殊勝なり　　灯火の光明は大帝に呈す
崇心を降ろして衆生に著し　　封神を超えて実際に証す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は灯火光明大帝、姜太公子牙仙翁が初めて崇心宗脈に降臨され、大道衆生のための「第二十九回」新たなる封神超越を著作されました。これにより、すべての未来における殊勝な因縁が真の弘化と向上をもたらすこととなります。
あなた方はよく知っているだろうか、なぜ崇心宗脈が特別な天機と良縁を持つことができるのか？それは崇心が未来の四億の仏子たちに、新たに封神と定位の成就をもたらすためであり、このような因縁を通じて向上し、はじめて「大道德澤」を人道世界と昊天星宿に示す模範とすることができるのだ。これもまた、あなたが将来いかに成就するかということである。
自分に功績はなくとも苦労はしたと思ってはいけません。それでは真の向上や回帰、超越はできません。人間としての行いや行動によって向上し超越しなければならず、人間を神のように扱ってはなりません。そうすると、自分が累世にわたって積み重ねてきた怨みや借りを追いかけられることになりやすいのです。もし自分自身の定力が足りない時にはなおさらです。
おそらく、人道世界に沈み続け、この元会において再び向上し超越することができなくなるでしょう、おわかりでしょうか？あなた方人間界において：母の日が近づいております、天下の母たち一人一人に一輪の花を贈りましょう、この機縁を得られる者は、大いなる福報を持つ者であります！明日はまた土曜日、本宗脈の救済の良き機会でもあります、皆様がご参加くださり、ご自身により大きな功徳を得られますよう心から願っております。
2014年9月21日、14時05分◎＃※   ０Ｋ＃
東極青華大帝
東極天樞にて原霊を渡し　　青華大帝の徳沢を迎え奉る
大道の衆生三十回　　朝代浄化蒼生を引く
第三十回  　朝代淨化
王朝の浄化はどのような因縁によるものか
周朝を経た後、すべての王朝帝制の行為や動きにおいて、なぜ周朝という八百年の基礎を築いた王朝の中では、比較的安寧で殺戮行為のような残虐な動きが少なかったのか？また、周朝以降、各王朝が交代する際には、非常に深刻な殺戮行為を引き起こすことが多かった。
また、各王朝の交代前後には、必ず多くの無辜の衆生が傷つけられました。つまり、各王朝が建国された後、それぞれの王朝の交代の中で、君主や帝王が即位すると、多くの九族連座や十族連座が生じ、根本的には全く関係のない衆生までもが、跡形もなく虐殺されることになったのです。
さらに言えば、全く罪のない者や、やむを得ない事情による殺害行為でさえ、また歴代の君主や帝王が有情の衆生に対して行った殺戮行為について、立場を入れ替えて考えてみれば、もしあなた方がその中の一人であり、理由もなく殺されたとしたら、あなた方はどのように感じるでしょうか？当然ながら、非常に無念に思うことでしょう。
何千万もの不本意な殺戮行為、そして理由もなく殺害されることによって生じるすべての殺戮行為は、必ずや非常に大きな無念と深い怨恨を形成します。もしこれにさらに発散する手段がない状況が加われば、それは地冥星の不満と怨恨による報復を引き起こすことになるでしょう。
王朝浄化の主要枠組み
それゆえに、すべての人道上の世界に生きる衆生は、不満や怒りの心に遭遇すると、多くの悪しき気勢を形成し、この殺戮の行為が再び人間界に入り込むことになります。すべての災難と不慮の禍は次々と押し寄せ、これが千古より現代にまで受け継がれ、災いを除くことが難しい原因となっているのです。
このため、周朝以後、すべての王朝の君主や帝王の殺戮行為に対しては、即座に冥府に落として清算させることになった。これらの冥府に落とされた君主や帝王は、人間界でのすべての殺戮行為に対する報いを受けることになる。これは自業自得であり、無実の罪で殺された者が納得できなくても、どうして消え去ることができようか。ましてや理由もなく殺された後ではなおさらである。
不良な気勢が化け難く形成され、人道世界のあらゆる生存の方向を互いに干渉し合うようになり、また殺戮者に対しては一種の懲罰となります。殺戮者に形成された権勢への依存は、大いなる有情衆生が根本的に良縁によって護られていないことを示し、この種の殺戮行為は、悪しき業を絶えず引き継いでいるのです。
歴代の王朝交代において、大小の国を問わず、多くの人々が理由もなく殺戮に遭い、尊い命を失ってきました。このような無法な行為は、果たして天がお見逃しになるのでしょうか。さらに、ここ三、四千年の間も、状況は一貫して変わらず続いているのです。
朝廷の恩沢はまたいかがなものでしょうか
今日の民主選挙の時代に至っても、すでに多くの改善がなされている。もしこれらの殺戮行為に対して言えば、それは徳を施す者よりもはるかに多くの罪を犯している。したがって、殺戮者は必ず生命を償うという罰を受ける。しかし、殺害された何千万もの衆生は、一体どうやって一人一人に命を償うことができるだろうか？あらゆる王朝の良くない気運に対して、必ず新たに浄化しなければならない。
汝らは、まさに民選時代の科学技術文明に巡り合い、さらに未来にはより大きな恩恵があることを知り、人道世界がより一層向上することを理解できるであろう。なぜなら、すべての王朝の君主や帝王の即位と交代には、数多くの無実の殺害者がおり、このような殺戮者はとっくに冥府に帰して報告しているからである。
もし徳の恩恵をもって言うならば、一生一世において、ただ自国の国土と民衆の守護と加護のために尽くすことは、まさに非常に深い徳行であり、古代王朝の徳の恩恵と殺戮に対し、異なる因縁と行為を区別するのです。人道世界はまさに万物の生きとし生けるものに徳の恩恵を施すことであり、それは自らの行為をもって、国土と民衆の守護と慈しみに加わることなのです。
あたかも　上天が大宇宙の民を慈しむかのように、異なる国々で世話をし、各時代の君主や帝王に配分して互いに成就させる。これこそが、今に至るまで時空が互いに成就し合うために必要な基本綱領であり、また、良き善き因縁によって成長を促し、自らが利益を受けることができる所以である。
古代の社会は人為的要因によって形成されたものである。
人道世界がなぜ古代の王朝によって浄化される必要があるのか？それは、古代の王朝が残した一筋の徳の恵みが下界に広がっているからである。人道世界におけるすべての伝承文化の記録もまた、この徳の恵みの一部である。なぜなら、このような条件は未来の無数の衆生にとって、人道世界において互いに向上し、徳の恵みを人道世界の中で応現させるためであるからだ。
これは人為的な要素によって成し遂げられるものであり、必ずや人為的な要素の成長を促す必要があります。また、因果によって形成される浄化作用とは、過去の古い王朝を再び引き上げることです。これは古い王朝と現代の時空、そして因縁に対してであり、さらにこの三～四千年の間に生じたすべての不足、欠陥、誤りを修正することです。
再び修整や変更を加えることがあっても、未来の有情衆生が必ず向上し超越できるようになる。また、有情衆生が人間界に入ってからは、常に学び成長し続ける。もし過去の先人たちの経験が蓄積され、教育文化として継承されれば、有情衆生は人間世界の創造的発展と進化がどのようなものであるかを理解できるようになる。
また、人類の未来世界の創造と浄化が進化するにつれて、人類衆生の福祉は常に創造され向上し続けています。あなた方の今この瞬間が、未来の人類の進化史を綴っているのです。それは過去の「封神演義」から、新たに「崇心演義」へと昇華していく過程なのです。
仏乗の果位の向上と超越
これは「仏乗の果位」を授ける証しの位階であり、もはや従来のように単に封じるだけのものではない。
神のみならず、もしこのようなことであれば、上天もわざわざこれらの古い王朝の徳を備えた帝王君主たちに、再び人間としてこの世に生まれ出る機会を与える必要はない。つまり、今回の修整と変革によって、彼らが過去の徳を発揮できるようにするのである。
応化未来の福祉を再構築し向上させること、またなぜ　上蒼はこのようにするのか？これも平等と公正の条綱があり、これらの古い朝代の帝王、君主に対して、効能を施し成し遂げさせることで、未来の人類衆生に向けて、多くの福祉を増加させることができ、有情の人類衆生すべてが利益を受けられるようになるのである。
古来の徳を施した君主や帝王を引き上げて超越させなければ、彼らはいつまでも昊天と地冥星の中に留まることになります。この徳沢の中にも多くの良からぬ気勢があり、多くの不足や欠陥、誤った施行機能が加わっているため、人間界に再び多くの良からぬ気勢を生み出すことになるのです。
古代の王朝も必ず浄化と向上を必要とします
人界における災難の一部は、このようにして生じるのです。また、この徳沢の流れの中には、多くの良くない気勢が含まれることになります。これが現在、地冥星のすべての国々で多くの災難や不慮の禍が発生し、有情衆生の尊い命が瞬く間に失われる原因となっているのです。
これは上蒼の観点である：この殺戮行為は、徳澤行為と相互に絡み合って守り合うことにより、この一つの不良な気流に影響を及ぼし、必ずや地冥星の中にずっと渦巻き続けることになる。未来の衆生にとって、決して良好な気流とは言えず、必ずやこれを浄化し、この怨恨の気流が互いに絡み合って渦巻くことを防がねばならない。
未来の衆生の福祉を考慮してこそ、長期的な安定と平和が保たれるのである。さらに、未来に至るまで
科学技術文明は、人類世界の向上に再び貢献し、第一元会と第二元会の科学技術を同等に活用することで、人類の生活水準を高めることです。これはまた、古代王朝の気運が変化し転換したことによって、より優れた気運を生み出すことができたのです。
王朝の基本機能の向上
また、人道世界においては、過去のすべての因縁に対して、未来の福祉を人類の科学技術の中に組み込む必要があり、この種の綱領を明確にしなければならない。それは、上蒼が大いなる天地の間に施行するために公布したものである。特に、現在の世代のあらゆる宗教の流れが、人類の生活の福祉をさらに向上させることを主導するものである。
上蒼の巧妙なるご配慮により、これらの「借りた将才」による発明創造を通じて、さらなる向上成長がもたらされました。人道世界はなぜこのような条件を経て、大いなる世界のすべての衆生にとってより大きな成長をもたらすことができるのでしょうか。人道世界はここ200年近くの間に、民選制度の綱領を人道世界に施行することによって、それを実現してきたのです。
これで、もはや各王朝の交代を経る必要がなく、すべての殺戮行為の造作もなくなります。これは大きな使命を持つことができず、また人道世界をさらに大きく超越して向上させることもできません。このような因縁を通じて、欧米諸国の民選制度を全世界に普及させ、この不良な気流の循環を再調整するのです。
王朝の帝制は大いなる徳を施し
衆生に福と利益をもたらす
殺戮の行為は気旋となりて　　統べて大寰に天地の徳を成す
修繕と改善を重ねて　　未来の技術は恵みを広げる
人道世界にて更に精進し　　成長して大道篇に回帰す
この偈は、有情の衆霊子が互いに励まし合うとともに、崇心宗脈の体系に対してもより大きな向上と超越をもたらすものであり、これは上蒼がすでに定められた条綱と制度であって、まさに有情なる人類衆生の国を利益する選挙制度なのです。さて、皆様お疲れさまでした。すべて吉祥にて、しばらくの間崇心宗脈にお邪魔いたしました。ではまたお会いしましょう。
無極普賢菩薩
無極の因縁早くも頒たれ　　普賢菩薩登台して並ぶ
諸賢大徳皆安らかにして良し　　仏聖修士笑顔を開きて懐く
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は四極大帝の一柱、東極青華大帝がご親臨され、「大道衆生」第三十回を著作されました。本回では、朝と代の浄化に関する条綱を一つの回次として詳しく述べられております。次回には、さらに大きな天機が人道世界に示現されることでしょう。
これこそが、上蒼がなぜこのような条綱を設け、このような朝代を向上させ浄化するのかという理由です。もしそうしなければ、未来には多くの不良な気勢が地冥星の中に停滞することになり、それは有情衆生にとって相当に優れた気勢とはならず、また多くの不良な気の渦が生じ、人類世界に害を及ぼす作用をもたらすでしょう。これは上蒼の基本規律が広く人類衆生を利益するというものではありません。
2014年9月21日16時55分◎＃※   ０Ｋ＃
太極天皇大帝
太極転じて無極生じ　　天皇の徳沢、衆霊成る
大帝は三十一回の著作を著し、福報を衆生に授け、本より至仁なり。
第卅一回　  福報眾生
有情なる人類衆生の福徳
有情世界に生きる数多の衆生は、往々にして自分の怨親債主が必ずや報復に来ると考えがちですが、知らずして、有情世界にはまた数多くの神々や亡霊が存在し、過去の恩徳を福徳となして報恩することができるのです。これは千古の昔から、すべての人倫世界において理解しがたい、この種の因縁条件による補助なのです。
なぜこれらの第二、第三空間の亡霊や神々が恩返しの行動を起こすことができるのか、またどうして言うのか：福徳を持つ衆生の行為や行動には相互依存の関係があるが、しかしこのような福徳を、福徳を持つ者への恩返しに用いることができ、それによって福徳がさらに増大するという、これが今日の主題である。
福徳が衆生に与える基本的な枠組みと構造について―人間界というものは、まさに過去のすべての行為・動作が有情衆生に加えられた福と禍の区別であり、あなたの今生・今世における行いがどのようなものであるかが問われる。もしあなたが常に他人を助け、何の見返りも求めない考え方を持っているならば、良き善き因縁が助けとなって現れるであろう。
また、すべての慈悲深い行いは、多くの人々に恩恵をもたらすものであり、このように言えるでしょう。あなたが今行っているこのような自己犠牲と献身、そして無為無私の奉仕は、必ずや自らに多くの陰徳を積むことになります。もし陽善についても同様であり、この区別は「陰徳と陽善」の異なる点にあります。
公正で平等な相互扶助が生まれます
有情の衆生が互いに恩恵を受ける関係において、これらの恩恵を受ける者は、理由もなく恩恵を受けることはできず、そのためしばしば恩に報いることが非常に難しいと感じます。しかし、良心を持つ者と義理堅い者は、恩返しの行動を考えますが、一般的な者は、そもそもこのような考え方や行動を持つことはありません。
さらに恩返しの行動を望むことは、そもそも不可能なことです。自分にそのような考えや行動がある時、恩恵を施した人の徳や恩恵を深く認識し、恩返しの行動を取るようになります。もし時空や因縁が願いを叶えることを許さないならば、それは古来より人道の世界に存在する、一つの恩返しの行為なのです。
これもまた、上天が最も誇りとする善行であり、因果業障の形成を観ることができるのも、このような作用によるものです。また、福徳を受ける衆生の因縁――恩に報いる者や福を造る者に関わることですが、それ自体の時空因縁はどのようなものか。もし時空因縁が熟さない時には、このような思惟観念は来世まで持ち越されることになります。
つまり、恩に報いることと恩を施すことの両者が、善き因縁の循環作用を形成するのです。それゆえに、未来の二～三世の因縁の中で、たとえ恩を受けた者がこのような思惟の構築を忘れてしまったとしても、「因に遇って縁となり、縁に遇って果となり、果に遇って報いとなり、報いに遇って償いとなる」という善き縁の循環の中に、必ず顕現してくるのです。
上蒼は一貫して基本的な綱領を守り続けている
前世あるいは累世において恩を施してくれた方に対しては、互いに報恩の行動を取ることができます。そうすれば、天の定めるすべての恩徳の返済に合致するのです。これは古来よりずっと用いられてきた良き基本綱領であり、報恩する側から見れば、かつて恩恵を受けた方の徳沢を蒙ったならば、良き因縁が待っていることになります。
もしそれが冥府の中にまだ存在しているならば、これは恩返しをする者に対して、人間界と冥府における報恩を行うことである。もし恩返しをする者がすでに果位を証得しているならば、恩を施した者の家に生まれ変わることを通じて、その神々や家族、および様々な関連する因縁に任せ、前世の恩を施した者に対して、福報を引き継いで恩を施した者に報いることができる。
功果を直接に転換させることも可能です！再び人世に入って恩返しの行動を取る必要はありません！これも一つの方法であり、恩を施した者への福報にも合致します。この世の人々の中で、恩を施した者に報いることを享受し、このような福報を過去の恩人に向けることができます。彼らが既に再び人世に生まれ変わっているならば、どうでしょうか！
相当に大きな報償の功徳を持つことができ、これは現代の世の多くの衆生にとって、非常に大きな鼓舞の作用があります。これはまた、千古の昔から、人道世界が知り得なかった上天が用いる方法であり、この中で前世に恩を施した者にとっては：すでに過ぎ去ったこと！ましてや全体の過程がどのようであったかを知ることもない。
陰徳と福報の行い
また、いかにして思惟を構築することができるだろうか？否である！しかし、上天の因果循環においては、まさにこのように巧妙であり、いかなる因縁果報の償還作用も、わずかでも漏らすことはない。これはまた、現代の世の有情衆生にとって、なぜ自分には多くの才能や能力（忍耐力）がないのか理解できない所以でもある。
しかしながら、なぜ自分が愚直に人として生きているときに、大きな福報があるのかを理解しなければならない。それは、天の恩恵と人類衆生の恩恵が、前世からの因果の循環によってもたらされ、人為的要因に作用しているからである。なぜこのような福報が、自分の生活体系の中に組み込まれるのかを考えてみよう。
これは有情衆生に対して示現された千古の奥義であり、汝らがこの一生の行いにおいて、自らの「陰徳と福報」の必要性を真に理解し、自らの行為動作をもって、報いを求めず、自らが持つ「無為」を高め、「真の無為」へと至るべき所以である。
人界に生まれたということは、単に自分自身の生活のためだけにあるのではありません。おわかりのように、人間としての生活の中では、自分自身の飲食や睡眠といったこと以外は、すべて衆生のために奉仕しているのです。それならば、なぜもう少し良くできないのでしょうか。より多くの人々が恩恵を受けられるような縁と条件を整えることができるのですから。
心の願いや思想観念はどのようなものですか？
これは真の無為の作為であり、有情世界を向上させるものである。このような行為を自らの奉仕の行列に加えるべきである。お前たちは理解できるか、自分自身の飲食や睡眠以外は、すべて他の衆生のために奉仕するものであり、この制約と過程から逃れられる者は一人もいないということを。
己の生活習慣を除いて、すべての行為動作の中には、いわゆる「大いなる公正の行為動作」が存在する。また、この大いなる公正の行為動作は、もし己の奉仕する対象を知ることができなければ、つまり己がどれほど行ったか、己こそがすべてを最もよく理解し、その成果はどうであったか？
このような奉仕の精神と行動は、あなた方が多くを捧げる時、天もまたあなた方により多くのものを返してくださいます。もし自分が少しも衆生のために奉仕しようとしないならば、天が与えてくださるのは、ただ自分と家族が衣食に困らない程度だけです。今の世の中をよく考えてみてください、真に衆生に奉仕するという人々とはいったい誰でしょうか。
自分がどれだけの善い報いを得られるかは、より多くの善行を積むことにかかっています！これは古来より、人間世界、亡霊界、神々の世界のすべての善き因縁の積み重ねが、人類衆生の因果において、善き報いとして現れるものです。人の努力によって成し遂げられ、すべての衆生が善き美しい報いを得ることができるのです。
福報は様々な形で人類の衆生に加えられる
それゆえに、福縁が増し、福徳が増し、福財が増し、福寿が増し、福報が増し、福沢が増し、福気が増し、福禄が増すなど、数え切れないほどの福が生じるのです。あなた方は常に天に福縁を授かるよう願いますが、自らの福縁は自分自身で獲得するものであることを知らないのです。
なぜなら、この世はまさに広大な奉仕の世界であり、情ある衆生たちが
理解できるだろうか、この中にある奥義と秘訣とはどのようなものか？それはまた、自分自身の持つ慈悲の観念から発し、人々に施す行為の中にあり、いかなる国の宗教や宗派の違いを問わず、すべてこのように行われているのである。
また、有情の衆生は、自分自身が享受する飲食や排泄、睡眠などが自分にとって必要不可欠なもの以外は、すべて大宇宙の天地に存在するあらゆる衆生が、自分に奉仕し犠牲を払い、大衆に奉仕することで、わずかな給料を得て家族を養っているに過ぎないからです。
さて！汝らはさらに細かく思惟せよ、いずれの一事も、今日の天地に遍満するすべての衆生に対して、奉仕と献身、犠牲と奉仕を目的としているのではないか。このように、汝らがこのような思惟観念を、汝らの思惟体系の中に再び確立することができれば、奉仕の行為と動作が生じるであろう。
思想観念が福報に影響を与えるものとして
これは千古以来、かつてない天機の良縁であり、ただあなた方がどれだけ実践するかによって、どれだけの回収があるかが決まるのです。もしそうであるなら、あなた方は自分自身にどれだけの福縁と福報を望むでしょうか？すべては真に自分自身のため、衆生のため、天地のために、人々に奉仕するために犠牲と献身を捧げること、ただあなた方がどれだけ心を込めるかだけなのです。
汝らはさらに細やかに観察せよ。これらの福報に恵まれた衆生は、必ずや過去世および累世より積み重ねられ、一部は現在この生涯における行いによって、福報を蓄積し享受しているのである。これはただ思想と観念の転換に過ぎない。汝らは上蒼の苦渋に満ちた配慮を理解できるか。それはただ汝らが社会福祉に奉仕することを促すためである。
汝らは自らの思想と観念を高め、さらに汝らの犧牲と奉仕を加えることができる。自分に報いを求めようと思わず、自ら無為の中に入り、さらに長く行持を続ければ、いかなる不適応も生じず、「真の無為の犧牲奉仕」を成し遂げることができる。必ずや良き善き報いを得るであろう。
すなわち、心にいささかの波紋も起こさず、汝らにとってより大きな成長の機能と利益をもたらすためには、今日この日より後、この無為を応用し、真の無為の行為動作に到達することにある。それならば汝らは言うことができよう、すでに仏果の境地と位階を行じ持つに至ったと。今この瞬間すでに仏乗の果位の行為なのである。
思考と観念の転換によってこそ、利益を得ることができる
今生今世において、何を求めようとするのか？あなた方はまだ何を求めようとしているのか？必ずや、今この瞬間のすべての行為動作は、すでに仏道の成就に入っているのである。このような天機良縁を、あなた方は真に体得できるだろうか、それとも一方で理解できたように聞きながら、他方ではただ「馬耳東風」に過ぎず、すべてがまた衆生に奉仕することが難しくなるだけなのだ。
様々な行動や行いは、福徳と福縁に対する働きかけが、自らの思想と観念に由来し、それに行為が加わることで真に向上し、初めて真の自己成長がもたらされることを理解する必要があります。これは人道世界の衆生が迷いに陥っている根本的な原因であり、自らのこの一生を全く理解していないのです。
また、生まれてからというもの、常に未来の衆生救済の行いに奉仕し、より大きな知識と経験をもって衆生を教化することを自らに求めています。これは千古以来、有情衆生の中で、誰一人として長く生きながらえることができなかったのではないでしょうか。
よく考えてみれば、人の道を歩む行為は
すべて自分が積み上げた福と禍である
思想観念を改め　　衆生有情に奉仕することを推し進める
人間が自ら悟りを開くことは
実はすべて衆生のためであると知れ
長らく修練の道は閉ざされ　　いよいよ世の塵に迷いを深くす
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、千古の昔から根本的に存在しなかった下化（衆生を救済する）の思惟観念を、このように成長させることを願うものです。あなた方は皆、人間界の教育に制限され、このような思想観念を深く八識田の中に植え付けることができず、ただ一心に宗教に入った後、さらに一段高い境地へと向上できることを望んでいるのです。
それは成就できるでしょうか？必ずしもそうとは限りません！真心を込めて体得し、すべてを理解することが必要です。良き因縁と条件を備え、向上心を持って成長し、超越していかなければ、真に良き利益と収穫を得ることはできません。さて、皆様、お疲れさまでした。共に歩み、崇心宗脈にしばらくお邪魔いたしました。ではまたお会いしましょう！
無極註生娘娘
真なる天機が下ろす教化は
人界の世に昇華をもたらす
無極註生娘娘登　　衆生の福報根本を説く
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は四極大帝の一柱である太極天皇大帝が、自ら降臨され「大道衆生」第三十一回を著作されました。まずは福報に恵まれた衆生について前半に述べられ、後半には更なる契機と奥義が示されております。これらはあなた方の思惟と観念を、より大きく成長させ高めるものとなるでしょう。
今日の著作が、あなた方の第八識の中に加えることができるかどうかは分かりません。もしあなた方が「仏乗の果位」について考え、観念することができれば、より深く大きな成就と回帰を得ることができます。もし天地の間のすべての行為の基準を知ることができなければ、ただ思想や観念が変換されるだけであり、成就と不成就の違いに過ぎません。
2014年9月22日17時18分◎＃※　　０Ｋ＃
北極紫微大帝
北極天枢万星の首　　紫微大帝降臨し作す
大道の衆生三十二回　　福報の原則本架構
第卅二回  　福報原則
三世因果の報い
有情なる衆生は、皆、怨親債主による報復を、極めて残酷な行為と見なし、非常に恐れている。さらには、多くの人々が現実に直面することを避け、逃げ去ってしまう。これは因果応報の循環作用を理解し、適切に活用することができないためである。一般に、怨親債主による報復は、非常に好ましくない状況であると考えられている。
有情なる衆生が因果応報の理を理解できない問題において、なお「悪しき因果の報い」と「善き因縁の果報」が存在する。これらは一方が悪しき行いによる報いであり、もう一方が福徳を積む行為による報いである。これはまた、広大な天地に生きる無数の衆生が迷い苦しむ所以でもある。
また、因果の報いが行われると同時に、なぜ因縁果報による償還の作用があるのか理解できないこともある。これは、原因があれば必ず結果があるということで、累世にわたる報復と幸福の享受に遭遇することになる。まさに「福報、普通、悪禍」を区別するものであり、これが形成されると善良で良い因縁が生まれ、上昇し超越していくのである。
これは千古より、大いなる世界に生きる無数の衆生が向上の因縁を培う根本である。一般の衆生は因縁果報の問題に対して、しばしば誤った観念を抱きがちで、怨親債主の因果による報いを非常に恐ろしいものと考える。しかし、過去世に積んだすべての福徳と恩恵が、今この生において報いとして現れるのである。
福報の原則
これもまた報償の行為であり、有情の衆生は、償いの報いは非常に良くない状態であると考える。したがって、すべての福報に償いの報いの享受が加わるとき、あなた方はどのような観点を持ち、因縁果報の良し悪しを理解し、自らの福分の中から区別して、福報の享受の中で自己を完成させることができるだろうか。
また、一般的には、報いを受けることは非常に苦痛で、耐え難く、苦しみに満ちたものだと思われがちです。そのため、人々は恐れを抱き、あらゆる因縁と因果応報の作用について語ることを避けます。大いなる世界の多くの衆生も、なぜこのような福徳が自分たちの生活の中に入り込み、生活を支え、福を享受するようになるのか理解することができません。
もしあなたがたが理解できるならば、三世因果の報いを受けること、人間界にはまさに怨みや恨み、恩や徳の区別があり、必ず怨親債主に出会って取り立てられることになる。もし福徳を自分に積み重ねるとき、すべて自分の能力や手腕が積み重ねたものだと思い込むならば、決してそうではないのです！
知らずにいるのは、第二、第三の空間において、これらの亡霊や悟りを開いた神々が、自らの福徳を前世の善行を積んだ者に振り向けることができること、また、現在のこの一生のすべての行いに対して、すでに悟りを開いた神々や仙仏が福を振り向け、天の慈悲により恩恵が与えられ、福報が加えられるということである。
福報が報いをもたらす原則
もし第二、第三の空間にいるこれらの亡霊たちが、恩返しの行動を起こすならば、前世で恩を施した者に、今生において福報を加えることになります。これにより、多くの悪い気運の再生を必ず阻み、さらにこれらの前世で福を造った者たちも、今生において現在の状況に入り、自分が前世でどれほどの福報と徳を積んだかを理解できるようになるでしょう。
大いなる天地の衆生に対しては、多大な徳と恵みの働きがあり、これはまた自分自身では永遠に知ることのできない善行であり、今生の福報は、大いなる天地のすべての衆生に福徳を加えるものである。自分が前世にどれほどの悪禍や福徳、福報を施したかも、理解することはできない。
また、有情世界の無数の衆生は、それぞれの時空や世代ごとに異なる福徳と悪禍が生じることを完全に理解することはできません。これは時空の因縁が異なるためであり、さらにすべての衆生は生まれた後、前世の記憶が遮断されるため、前世のすべての福徳と悪禍がどのようにして生じたのかを理解することができないのです。
しかし、人界では多くの怨親債主による討伐の動きが常にあるが、これらの怨親債主がどのように自分を見つけ出して討伐するのかを理解する者はほとんどいない。これは果たして上天の巧妙な仕組みなのだろうか？一般の人々は、人界において生まれた後も前世の刻印と遺伝子の本質が存在することを理解するのは難しい。
福報の原理と三世因果
また、あなた方の人道世界で言うところのDNAの遺伝子は、人間の行為や動作に対してどのような影響を及ぼすのでしょうか。一般の人々は、上天がこれほどまでに優れており、一人の人間の前世がどのようなものであったか、今生がどのようなものであるか、来世がどのようになるかを理解できるとは思わないでしょう。この三世の因果はすべて互いに連鎖しているのです。
まさに福徳と悪禍を、因と果の報いの作用によって互いに結びつけるのである。もしこの因縁果報の受ける過程を理解できなければ、生まれた後のすべての衆生のうち、ある者は多くの福徳を備え、ある者は相当な禍いを積み重ねることになる理由を、決して理解することはできない。
また、なぜ三世因果の報いと償いがあるのかというと、それは有情世界のあらゆる衆生が人間として生まれる過程において、前世のすべての因果の報いを総決算し、自らの福徳と悪業を今この一生のすべての行いに加えるからである。
古より言われております、「前世の因を問わば、今生に受くる是れなり、来世の果を問わば、今生に作す是れなり」と。これは因果の業障と福報の受償を分別したものであり、人々は現在の一切の福報に対して、有情の衆生は皆、自分がこの一生にどれほどの福報を受償し、どれほどの悪禍災殃を受けるかを理解することができません。これらはすべて知り難いことなのです。
福報は原則として施し与えるものなり
大いなる天地のすべての生きとし生けるものに対して、その全体的な経緯を観察するならば、自らの身体と行為のすべてを通じて、はっきりと知ることができる。あなたがたはどのような福徳の因縁と災難に遭遇しているのか？すべての脈絡には跡をたどることができ、未来における報いと応報もまた存在するのである。
一切の有情衆生が人道世界に入った後、前世の福報の因縁に従って報いを受け、まずその因縁と福徳を享受することができます。これはまさに、上天が福報を生活の中に加えられることであり、人間生活の過程を経る中で、より多くの福分を享受できるようになるのです。
大宇宙の天地に生きるすべての衆生に対して、日常生活の証しを求めれば、他人よりもより多く享楽しているか、あるいは良好な住居に住み、豊かな田畑や財産を持っていれば、他人よりもより快適であるかどうか、これは一人の衆生の福分に関わることであり、それぞれ異なっています。それは前世と累世におけるすべての行為と行動によるものです。
必ずやこの一生に福を享受する機会が訪れますが、しばらく時が経つと、すべての福報が尽き果てた後、すぐに怨親債主が報復に来る時空因縁が続きます。これが有情衆生が、なぜ福を享受する時空因縁が比較的ずっと短く感じられるのかという理由なのです。
冤親債主のすべての討伐の業障
また、怨親債主の報復に遭う時間が比較的長くなる原因もここにあります。それは、一人の衆生が福報を享受している時、いつ災禍が訪れるかを理解できないため、自分自身の一生、一世の全ての行いに対して非常に大きな自信を持ち、さらに福報の享受があまりにも長く続くからです。
非常に傲慢な生き方や物事の考え方が生まれ、この一生において、また
自分がどれほど偉大だと思っていても、次の瞬間にはどうなるだろうか。そうすれば、自分の福徳が次第に尽きていることに気づけず、もし自分の行動や態度を改められなければ、おそらく後で苦しみを味わうことになるだろう。
このような衆生を見るに、まさに前では福を享け、後では禍に遭う、この種の人類衆生はまたあまりにも多すぎる。一般に面相を通じてはっきりと知ることができ、これは前世の因果に報いるものである。人道世界の亡霊と神祇は、また汝と同じく、前世の福徳善縁を持つ者ありということを理解すべきである。
必ずや、あなたのこの生、この世に報いとして現れるでしょう。この報いは、一般に言われる怨親債主による取り立てではなく、むしろ以下のような加護をもたらします：もう一つの福徳の加護、財運の増加、人間関係の円満、通貨運の向上、田畑や住居の恵み、富貴の増進、福分の積み重ね、智慧の深まりです。
福報原則の基本構造
これもまた、大いなる天地のすべての生きとし生けるものに対して、人々の間に多くの富を加え、様々な人道世界の美しい行いと行動に応用することで、自らの能力と力量が生まれ、自らに対する大きな自信も生まれるのです。この中で、もしも人世において低きに心を下し、気を和らげることを保つことができるならば。
より長く享受することができ、第二、第三の空間において、報いとして得られる福徳、財運、そして様々な順境が加わります。また、人為的要因の中で、もし自分自身の福報が非常に優れていると思い込み、さらには、他を顧みずに他の衆生をいじめようとする場合、一般の人々は権勢や財利によっていじめられた後で。
ある者は抵抗し、ある者は黙って声を上げず、耐え忍んであなたの悪意がいつまで続くかを見守る。もしさらにいじめを加え、生命を脅かすまで侵害すれば、来世には怨親債主が現れ、すべての報いを求めてくるだろう。これは上天の公正平等の原則に基づき、この世と来世における報酬と災いを定めるものである。
次々と清算が行われることになります。これは大いなる天地のすべての怨親債主に対して、また福報と償いの相互因縁に対して、さらに千古の昔からずっと続けられてきた一つの事柄でもあります。区別なく、福報も悪禍も、公正平等に報いられるのです。これは上蒼がずっと用いてこられた条綱なのです。
福報と悪禍の区別
有情なる衆生が人道世界に入る時、このような報いと悪禍がしばしば引用され、人為的要因を通じて有情なる衆生に公正かつ平等な福報と悪禍をもたらすことができる。このように、今生における行いこそが、来世およびこの世の後半生における報いの作用となり、福報と悪禍を区別することはない。
人界の世界はまさにこのようなものであり、前世の行いがそのまま今生で受けなければならない報いとなる。これは上蒼の公正かつ平等な摂理であり、これらの福徳と災禍を、すべての衆生の今生・今世、前生・前世、そして来生・来世へと、三世を貫いて連鎖させているのである。
大いなる天地において、福徳と悪禍が相互に報い合うことを見るに、これらは前世の恩人と仇敵の区別なく、すべて今生か来世において、福を享受する報いと悪禍に遭う行為として現れる。まさに天網恢々として疎にして漏らさず、これこそが正しい道であり真実である。
天網恢恢疎にして漏らさず　　人道世界我れ来たりてなさん
福報を享受するは今生にあり　　悪禍を清償するは架構と為す
福報と悪禍の区別は　　衆生はただ冤債の紛れを知るのみ
福報の加わることは測り難く、逆境に遭っても従順に受け入れるのが本分である。
この偈は！有情の原霊子たちが互いに励まし合い、人道世界における福徳の享受と災禍の被りを再び分析し、皆が理解できるようにするものである。有情の冤親債主による追及と福徳の享受の時は、同じ時空の因縁であるが、各人の感受は異なり、またなぜ福を享受する時空が同じなのかを明らかにする。
さらに、上天の公正平等の原則に合致するものであり、わずかなことも漏らすことはありません。しかし、悪い災いに遭って感じる苦しみは、より骨身に染みるものであり、人生の苦しみはより長く続くかのように思えます。もし福を享受することと悪い災いを区別するならば、それはただ心境の転換に過ぎないのではないでしょうか。皆様、お疲れさまでした。ではまたお会いしましょう。
瑤池金母
瑤池金母聖台に登り　　殊勝の著作よく明白す
福報を享受するは同じく　　悪禍を感じるは困擾に在り
千古の奥義大公開　　大道シリーズ天書を並べる
殊勝なる著作は更に真実を具え　　
体悟の中に智慧を載せたり
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、今晩は。本日は四極の北極紫微大帝がご降臨され、「大道衆生」第三十二回を著作されました。福報の原則を詳しく解き明かし、あなた方に千古以来の因縁果報がこのようなものであることをより理解させ、三世因果の分際が互いに連なり合っていることを示されます。では、有情衆生は自らの福報と悪禍について一体どう認識しているのでしょうか？これを理解するのは非常に難しいことです。皆様、またお会いしましょう。
2014年9月22日18時50分◎＃※   ０Ｋ＃
南極長生大帝
南極天樞に人は少なく
長生福寿祿徳の因
大帝は三十三回降臨され、福と禄を賜り、ご親族を顧みられる。
第卅三回  　福祿賜予
有情なる人類の衆生のすべての良き善が増長しますように
有情なる衆生よ、人間界における一切の行為と動作は、福・禄・寿・富・貴といった幸福への執着に依存している。これこそが前世と累世において積み重ねられた現在の機能と効果であり、前世と累世のすべてが合わさった福報の享受を通じて、良き善き因縁の増長がもたらされるのである。
福禄寿富貴：これらはすべて自分が前世に積み重ねたものであり、必ずや現在のこの世で互いに結びつき合ってこそ、このような福報を得ることができる。有情の衆生は、なぜこのような状況が自分たちのこの世に入ってくるのか理解できない。また、福・禄・寿・富・貴が顕現する時こそ、福禄寿富貴が依りどころとする時なのである。
必ずや、自分が前世に積み重ねた福徳が加わることによって、今この一生に連なり、福を享受することができるのです。前世の積み重ねが今に至ることは、紛れもない福徳の現れであり、「悪禍災殃」を受ける場合も同じ原理によるものです。また、大宇宙のすべての行為の基準は、極めて公正で平等なものなのです。
まさに「天心鏡」と「地心鏡」、それに「良心鏡」の三つを通じて、大宇宙の天地に存在するすべての衆生を繋ぎ合わせ、前世および累世にわたるすべての因縁果報に依拠して、因が因を生み、果が果を償うという作用を促しているのである。しかしながら、一般の人々は因果循環の理を根本的に理解していない。
人類の衆生の多くは因果を理解することが難しい
また因果応報を理解することが比較的困難であり、怨親債主や恩返しの行動において、善良、普通（中庸）、悪禍の区別を見分けることは、まさに真実であり、自らのエネルギーとDNAの本質が加わることで、この一生において怨親債主からのすべての報復的行動に遭遇することになるのです。
これは有情の衆生が理解できないことであり、自分はこの一生で誰も騙したこともなく、誰も害したこともないのに、なぜ怨親債主のすべての討伐行為に遭わなければならないのか？さらに心に納得できず、心に不本意な行動であり、誰もが容易には信じ受け入れられない、このような怨親債主による討伐を。
しかし、天の公正平等なる裁きの動きは、福報の享受の中に、福・禄・寿・富・貴を引き受けることとなり、それは自らが累世にわたるすべての行いがどのようなものであったかに関わってくる。また、一切の有情衆生は、前世がどのようなものであったかを理解することができず、福禄寿富貴がどのように転化するのかもわからないのである。
また、自らの行為や動作が、前世の様々な問題点をいかに克服し、冤親債主の討伐にどう向き合うべきかを真に理解することはできず、これは現代の人間には理解し難いことである。中には、さらに直接的に「そうでなければ、前世の証拠を見せてみよ」と言う者さえいる。
累世の因縁があってこそ、今生があるのです。
また、このような前世に対する少しの感応もない状態では、その中には多くの相互
積み重ねた功徳の報いを、もし福・禄・寿・富・貴として享受できるのであれば、人々は決してこれを拒むことはないでしょう。また、多くの者は自らの福報が十分に恵まれていると考え、さらに先祖の徳や風水地理の加護があると信じています。
自身の努力も大きく関係している。福、禄、寿、富、貴に恵まれた者は、そもそも信じようとしない。第二、第三の空間には、自らが累世にわたって積み重ねた、人間世界における様々な因縁果報があり、それによって初めて今生の福を享受できるのである。もし今生の福報が良くないのであれば、どうすればよいというのか！
これらは常に心の重荷として解き放つことができない心理的障害であり、それはまた普通の人としての福徳の故でもある。なぜ他人は少し努力するだけで、自分が求める幸せを手に入れられるのか。しかし、自分は一生人を害さず、騙さず、ただ簡素な生活を求めているだけなのに、なぜそれさえもこんなに困難なのか。
さらに、多くの人々は食事にありつけたりつけなかったりで、温かい食事を満足に取ることさえままならない状況です。これはまた理解し難いことですが、なぜ他人は人生を楽に送り、真に幸福を享受できるのか、自分はどんなに努力し、奮闘し、頑張っても、ただ家族が温かく満たされることを願うばかりで、自らの理想や願望を叶えるのは非常に難しいのか。
福・禄・寿・富・貴の区別について
また、個人の前世における福徳と悪禍はどうだったのか？自分自身の前世と累世において、どれほどの犠牲と奉献、無私無為があったのか。自分自身の前世におけるすべての貢献を区別した後、この一生の時空因縁が訪れるのを待ち、それによって自分自身の福徳がどれほどあるかを明らかにするのである。
人類の衆生は、前世がどのようなものであったか、今生がどのようなものであるかを理解することができません。そのため、自分自身の無明の障害に対して、あらゆる努力を尽くしたにもかかわらず、なお衣食住の基本的な要求さえ満たせないという状況に陥り、その原因が何であるかを理解できません。前世の因縁果報がどのようなものであったかについても、同様に理解することができないのです。
まさに、自分が今受けているもの、つまり前世での行いが、また自分が今行っていることが、来世において、福や禄、長寿や富貴、あるいは貧賤や夭折などを再びもたらすのです。それによって、自分の前世がどのようなものであったかが分かれます。前世はもう見えませんが、どうしてはっきりと知ることができるでしょうか。
さらに言えば、前世の怨親債主を、その全体の過程を現在に持ち込んで証拠とすることはできるのか？それは根本的に不可能である。人間界におけるあらゆる生活の方向性は、前世からの遺伝子の本質に由来しており、それによって今生・今世が存在する。そして自らがその遺伝子の本質を、現在のこの一生、この一世に組み込むことができるのである。
天地人三つの心の鏡に映し出される
初めて、福・禄・寿・富・貴を、今この世に現出させることができる。また、怨親債主がどうして自分自身の前世と今生を見出せるのか、有情衆生に対して、現代の世におけるすべての積習の過程を理解できるかどうかについて、まさに遺伝子の本質が今ここに再生しているのであり、これは変えることのできない遺伝子の本質なのである。
ただし！すでに神々や仙仏などを超越して上昇した者を除いて、すべての有情衆生は「天心鏡、人心鏡、地心鏡」というこの三つの心鏡を受けており、それが人間界に帰納・顕現している。万物の蒼生すべてが免れることはできない：この三つの心鏡が顕わすものはまた、前世、今生、後世の種々様々なことにも及んでいる。
さらに言えば、累世にわたって必ず通過しなければならないのは、「天心鏡、人心鏡、地心鏡」の三者が連なっていることであり、これは有形と無形に対して観ることを指します。たとえ無形であっても、人道世界では見ることも、触れることも、感じることもできず、それではどうやって、現在あるいは過去世のすべての証拠を否定することができるでしょうか？
すべての怨親債主を討伐する根拠として、もし有情衆生が前世の証拠を持ち出して証明しようとするならば、人間もまた、自分が前世の怨みを造った者ではないという証拠を提示できるだろうか？ あなたはそれを提示できるだろうか？ 否、できぬ！ また、世の衆生はなぜ物事の経緯を明らかにすることができないのか。
良き善き好因縁が生じて増長する
このように、福・禄・寿・富貴が顕現することを通じて、自らが福徳を受けることができるようになる。ではなぜ、福徳を享受した後、有情衆生ははっきりと見極めることができないのか。この中には、自分が現在のこの一生で絶対に成し得ないことが多く含まれているのに、なぜ自らを満たし、受け入れることができるのだろうか？
これもまた前世の福徳の報いであり、それが今この時、この人生のすべてに加わって自分自身となっているのです。
その福報を享受するというこの因縁条件は、区別されるものである。見ることのできる実相世界と、見ることのできない無形の世界があり、それによって悪禍と福報の区別がなされる。すべての衆生は、あらゆる悪禍と福報が
また、大いなる天地において、「前世にどのような因を種としたか、この世でどのような果を収めるか」、そして「今生でどのような因を種とするか、来世でどのような果を収めるか」という区分けについても、三世因果を通じて、大いなる天地に生きる無数の衆生により大きな成長と収穫をもたらすことができます。また、あらゆる万物や人種が天地の中に入ったとき、どのようになるのかについてもです。
必ずや数多くあるのは、自分がこの一生、この一世において、自分の能力の及ぶ範囲の事柄に適用できないことであり、前世の因縁がなければ、今生に受ける一切のものはあり得ない。良きも悪きも、善も悪も、福も禍も、すべては天によって評定され、取り計らわれる。果たして、冥々たる中の主宰を理解し得るだろうか！
福報と悪禍のすべての受けるところ
己自身をして、この一生、この一世のすべての福徳と災厄を、大宇宙の天地人類衆生に対して、公正平等に施し与えることこそ、真に自らを向上させ、超越させる道である。ただ単に福・禄・寿・富・貴に留まり、ひたすら人界の享楽に耽溺するのではなく。
もし、あなた方にあまりにも多くの福禄寿富貴を与えたとしたら、かえってあなた方を俗世に深く沈溺させてしまうのではないでしょうか。これらの福禄寿富貴に恵まれた人々が、それを多く減らすことができるかどうか、改めて考え直すべきではないでしょうか。いや、そうではありません！これは前世でどのように種を蒔いたか、今生でどのように収穫するかという基本的な意味があるのです。
上蒼は既に明確に定めておられる。真に「大天命」を持つ者、あるいは「一生一世」の中で向上し、超越を望む者を除いては、これは上蒼が公正平等に与え給うものである。一般の人々は、自らが招いた悪しき災いを心から甘んじて償おうとする者はほとんどいない。
皆が思うには、前世や累劫の過去はすでに遠い昔のことであり、今生・今世には自分に影響しないはずだ。現在の生活のすべての営みは、人為的な要素によって理解できるかどうか、つまり人間界の富は、家庭の長上や自分自身の努力から来るものであり、「無一物から身を起こす」ということが備わっている。
人類の衆生は広く陰徳を積み、徳性を養う
また、人的要因について言えば、人界に生きる多くの衆生は、往々にして先祖の福徳を受け継ぎ、多くの財産や田畑・屋敷を十分に所有していることがあります。では、これらは何の根拠もなく得られたものなのでしょうか。それは個人の前世における因縁果報の報いに関係しており、それによって初めて得られるものなのです。
さらに付け加えると、悪い禍や災いも同様で、先祖の悪い禍も子々孫々に受け継がれ、有情の衆生は自分が本当に不運だと嘆くことになります。この一生、この世にこのような家庭に生まれたのは、「一生、一世」を通じて温飽を満たすことさえ難しく、どうして自分の前世と現在を理解することができるでしょうか。
自分がどのような因縁でこの家庭に生まれてきたのか、前世の因と今生の果がどのように繋がっているのかを理解することはできるだろうか。古くから「前世の因を知りたければ、今生の受けているところを見よ。来世の果を知りたければ、今生の行いを見よ」と言われる。情ある多くの衆生に対し、天の定めた根本的な道理を理解することは果たしてできるのだろうか。
前世の因は今生の果、今世の因は来世の果、すべての受け止める因縁はいかなるものか？それはすなわち、上天が公正平等に、大いなる天地万物の衆生に施し与えるものであり、これはまことにもって千真万確なことである。もし今生・今世においても、自らの求めるままに回収し得ることができず、どうすることもできないのであれば、それもまた然り！
福禄寿富貴も訪れ来たれば　　悪禍災殃もまた償い来たる
人生の前世の因果が　　今生の福報と悪禍に現れる
生存には前世の因あり　　努力奮闘して接引を待つ
もし成功しなければ反省すべし

福徳の報いが訪れぬか
この偈を！有情の衆生と共に励まし合い、人為的要因による相互関係を結びつけ、汝らが真に上昇超越を達成できるよう、自らは細部に至るまで深く考えねばならない。汝が今受けている一切の作用は如何なるものか？これこそが正道である！汝らのご相伴に感謝し、崇心宗脈にしばらくお邪魔いたしました。皆様、またお会いしましょう！
無極王母娘娘
無極の因縁早く生じ来たりて　　王母娘娘台に登りて誠を顕す
崇心弘揚は既に到来し　　皆で共に一心に真を尽くす
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は四極大帝の一柱、南極長生大帝がご降臨され、「大道衆生」第三十三回を御著作くださいました。福・禄・寿を授ける原則について、極めて明晰にご解説いただき、大寰天地の一切の有情衆生が理解できるようになりました。
自身の福徳と悪禍はどのようなものか？それはまた、人々が受けているものによるのであり、現代の世の中では、かつてのように純粋な善因縁に恵まれることは比較的難しく、すべて現代の科学技術に基づいている。もしそうであるなら、有情衆生が証拠を提示しなければならないが、あなたはどのように感じるか？これが次回に分析する主要な因縁の根本となるであろう。
2014年9月22日20時30分◎＃※   ０Ｋ＃
文字を創造せしは　倉頡大帝なり
文字は古今を創り出す　　倉頡大帝が降臨された
仙聖著作三十四回　　回報の原則が奇なる因を造る
第卅四回　  回報原則
人類の衆生が持つすべての善悪の果報
有情なる衆生は、人間界においてはただ怨親債主の報復的行為のみがあると思い込み、恩返しの行いがあることなど全く考えていません。このような因縁条件が人間界に存在するのは、まさに相互に対応する時空の因縁があるからです。また、いかなる行為にも相互の対応関係があり、絶対的なものはほとんど存在しないのです。
これが地冥星空間において存在する基本綱領であり、また陰陽・正邪・正誤・是非・男女・乾坤をもって相互に補完し合うものである。人間の作為的要素の中に入っていく際に、相互に対峙する関係を通じて向上することができるかどうか、ただ一方向の思考に制約されず、その機能的な効果を発揮できるかどうかが問われる。
大寰天地のすべてがそうである：地冥星の基本構造において、一般の有情衆生は「報いの原則」の基本がどのようなものかを知ることはできない。しかし、もし冤親債主が報復に来る時には、必ずや多くの物語の経緯を語ることができるだろう。これこそが、上天が人間界のすべての思考に対して警告を与えているのである。
有情なる衆生が人道世界に生まれ、人間としての時を過ごす中で、変えることの難しい数々の悪因・悪果・悪業障を造りてはならない。さもなくば必ずや冤親債主の討伐に遭うこととなる。これはまさに有情なる衆生に対し、基本的な善悪是非の観念を戒めるとともに、悪報によるすべての討伐を示すものである。
すべての因縁果報の償還と報復
また、一般的に信仰を持つ者は比較的受け入れやすいが、福徳に恵まれた人々は必ずしも受け入れるとは限らない。怨親債主による報いの観念について、彼らはこのようなことは自分には決して起こり得ないと考えがちである。このような過程を理解するには、それぞれの時空における因縁が異なることを明らかにしなければならない。
有情なる衆生は理解することができません。福報に恵まれた人々は、往々にして次の世で苦難に遭う者となるのです。苦難や挫折を経験したことがないため、むしろ自分はこの世で福報に恵まれ、衣食足り、金銭に困らず、欲しいものは何でも手に入ると考え、人間の苦難など到底理解しようとしないのです。
このような福徳に恵まれた人は、往々にして福報が良い時に、さらに残酷な悪因悪果を造ってしまう。このような不良な因果をどうやって解消するか、もし他のより大きく、より解消し難い悪因悪果がないならば、このような福徳に恵まれた人は、おそらく一生涯、他の人の苦しみの試練を理解することができないだろう。
冤親債主に討伐される苦しみを蒙り、また、衣食もなく、何の救済も受けられない一般の人々の苦難を思いやることができない。これは福報に恵まれた者にとって、すべての良からぬ逆縁である。もし比較的善良な心を持つ者であれば、悪事や罪業を造ることも少なく、自らの福報による生活は大いに減損されるであろう。
異なる報いと償いが生じることになります
この中には、報いの原則とはどのようなものがあるでしょうか。報いの原則とは、自分がこの一生、あるいは前世と累世において、世を救い人を利し、他人が苦しみから脱するのを助け、あるいは自分の力で他人を援助したことがありながら、自分の行いを覚えていないこと、つまり：他人の貴人となることです。
このような人の福徳の報いは、時に現世で見られるものではなく、時にこの一生の中で、あるいは来世や累世の後に報いられることがあります。このような原則は、まさに上蒼が繰り返し主要なものとして掲げる：報いの大綱なのです。
なぜなら、恩があれば必ず報い、仇があれば必ず返すからであり、また恩と仇こそが、人道世界の未来が依って立つ綱紀であるからです。これは上天が冤親債主に対して行う報復が、一つの公平な原則であると同時に、返ってくる報酬に対しても公平な原則であり、互いに補い合って人類衆生を利益するものだからです。
自らが大いなる才能を持たなくとも、多くの福徳を具足することができる。これは有情の衆生に対するすべての報いの原則であり、有形無形の施しの中に、また天がこの一生の行いに対して与える報い、さらに前世および累世にわたるすべての犠牲と施しに対する報いが加わることによって形成されるのである。
一切の因縁果報とその報い
また、人の無償の善行を助けることに対するこのような福報の返りは、まさに福、禄、寿、富、貴、才、徳を兼ね備えさせ、さらに多くの人が加わり、互いに補い合い助け合うことになります。しかし、人として生きる上では、あまりに抜け目なく賢くある必要はなく、時には：あまりに抜け目がなく賢すぎると、往々にして賢さが仇となり、かえって賢さに誤られることがあります。
あまりに抜け目がない者は、大棟梁にはなれない。むしろ、参謀としての才能を発揮する者が、大いに役立つのである。なぜなら、あまりに抜け目がなく、あまりに賢すぎる者は、度を超せば、かえって疎まれる恐れがあるからだ。天もまた、あまりに抜け目がなく、あまりに賢すぎる者を許さない。あまりに抜け目がない者は、計算高すぎるのである。
また、他人を計算することに長けているため、業と因果応報の悪循環を形成し、それゆえにあまりに抜け目なく、あまりに賢すぎる者も、あなた方の目に映る限り、どれほどの大黒柱がいるだろうか。人類の歴史全体をひも解き、これらのあまりに抜け目なく、あまりに賢すぎる者たちを見渡せば、果たして誰一人として良い結末を迎えた者がいるだろうか。
これは紛れもない事実である！また、あまりにも計算高すぎるがゆえに、その計算が他人に影響を及ぼさなければ、それは天理が許容するところである。しかし、計算が度を越して他人を傷つけるようなことがあれば、すべては後に困難に陥る者となる。また、このような天の慈悲と恵みは、まさに情ある衆生に対して示されるものである：過ぎたるも及ばざるも、いずれも中道ではない。
リターン原則の枠組み
人道世界はこのようなものであり、これもまた全体の歴史の中で最も天罰を受けた部分の一つである。人為的要因から理解できるのは、なぜこのような福分が絶対に理由もなくある個人に授けられることがないのか、ということだ。これは理由もなく情愛に満ちた世の衆生に対して、良き福報を提供するものではない。
いずれの生、いずれの世においても、生を受けた後には必ず、遺伝子の本質という因縁が存在する。前世から引き継がれた多くの良き因縁の体に対しても同様であり、これは何世生まれ変わろうとも、前世の遺伝子の本質が消え去ることはない。もしある衆生を探し求めようとするならば、遺伝子の本質を通じて観ることができる。今この瞬間、それはいかなるありようであろうか。
というのも、有情の衆生は理解できないのです。人間として生まれることがすでに何度もあったのに、なぜそれほど容易に怨親債主に見つけられてしまうのか？また、一生を通じて生まれてから老いて死ぬまで、同じ一つの形体が幼い頃、若い頃、中年、壮年、老年と、すでに多くの異なる形状に変化しているということを。
また、怨親債主を経て、報いを受ける探求の中で、どうしてこんなにも簡単に見つけられるのか、この天機の奥義はいかなるものか。上天には「天心鏡」があり、人間界には「良心鏡」があり、冥府にはさらに「地心鏡」がある。これら三つの鏡は、色合い、点数、暗号、エネルギーを通じて、明らかに照らし出すことができるのである。
有情なる衆生にはICメモリがある
すべての有情なる人間の衆生よ：その色合い、点数、暗号、エネルギーはどうなっているのか？また、「天心鏡、地心鏡、良心鏡」の三つを通じて、このような衆生を容易に見つけることができる。この世の「良心鏡」こそが、まさにこの大いなる天地の中で、一人の有情なる衆生が人道世界に入った後に存在するのである。
色澤、分數、密碼、エネルギーという四つの要素を通じて理解することができます。
一清二楚である。また、この種の者について、もしすでに凡塵世界に落ち、数十世を経た人類衆生を探し求めるならば、これら四者に入力すれば、一目瞭然となる。さもなければ、人類衆生は時に畜生道に陥ることもある。
また、このような殊勝な因縁を探し求めることができるだろうか？否である！また、怨親債主と「討伐、報償」の基本的機能を区別せず、累世にわたって幾つかの状況に示現し、有情の人間衆生のすべての因縁果報の条件に対して、報いの原則という基本的機能を持つ：
一つには、天が与えるすべての報いである。
二つ目は、すでに道を証得した神祇や仙仏の回向を得るということです。
三つには、冤親債主の所有する回獲なり。
四つに、生まれ出でて汝が家人の回獲する所となる。
五つ目は、汝と同じ時空因縁の中に生まれ出で、それによって回収と討伐が行われることである。
人類の衆生が有する良き善きこと、すべて増長せんことを。
以上五点はまさに真実であり、善悪の行いには必ず報いがあります。それは善と悪、良し悪し、不利益と福報といった区別はなく、またこの世は相互に対応する関係にあるからです。すべての衆生や物事には表と裏があり、「正の報い」と「負の報い」を通じて現れるのです。
すべては有情衆生に対して公正平等であり、大道の公正平等も人道世界に下化され、さらなる向上と回収、討伐がなされる。これは紛れもない真実である！また、有情衆生が人道世界に入るのは、皆このような制限を受けるためであり、いかなる衆生もこの種の制限と障害から逃れることはできない。
これが天の基本的な条綱であり、恩あれば必ず報いて賞し、仇あれば必ず報いて償うことが、人道世界と有情衆生が生きる公正な原則に合致するのである。もし恩を報いなければ、来世には必ず自らが賞を受けることになり、仇についても同様に償いを受けることになる。これはまさに因果循環の公正性に合致するのである。
福分の回報―これはまさに、上天が直接に授けられるか、あるいは他の次元で既に悟りを開かれた神霊や仙仏が転換してくださるものです。もしそうであれば、より豊かな福報がもたらされるでしょう。これは人間界における行いに対して、上天と神霊が報いられるものであり、より多く、より豊かになるのです。
人類の衆生にも悪い報いがある
もし人が報いを受ける時となると、それは必ずしも一定ではなく、また時空の因縁や人為的要因が必要であり、さらに異なる因縁が作り上げたものであって初めて、人に報いを返すことができる。このように言えるだろう：報いは一般の衆生にとって、比較的良くない行いと見なされるが、また知らずにいるのは、報いには善い報いと悪い報いの区別があるということである。
一般的な怨親債主による報いは、良くないものですが、もし　上天と神々・仙仏による報いならば、あなた方は良くないと思いますか？皆さんも認められるでしょう、このような報いは願っても得られないものです。では、人為的要因による報いはどうでしょうか？一人の衆生が人道世界に入った後、どうなるのでしょうか？
必ず多くの災難や挫折に遭遇することになり、それに加えて、時には多くの困難にも直面することになります。
人為的な要因によって及ばない能力は、もしも貴人や親族に出会うことができれば、改善と転換の余地が比較的得られやすくなる。これは、すべての人為的要因に対して、善き縁を成就させるための善因縁の報いを高めるものである。
これは有情衆生に対して、互いに助け合う因縁の根本があるのです。このような問題に対して、あなた方は深く理解し、その中にある秘訣がどこにあるかを知ることができるでしょうか？それは福分の報いによって加えられるものであり、一般の人は自分が苦労して努力した結果、有形の人為的要因によるものだと思いがちですが、無形の力が導かなければどうなるでしょうか？
形ある人間及び形なき世界の衆生
有情衆生の前世に善き因縁があったかどうかによって、今生今世において多くの福分、福報、福縁を得ることができるのです。すると、多くの人々は必ずや、これらが自分の福分、福報、福縁であり、また自らの努力によって得られたものだと思い込むでしょう。しかし、実際は決してそうではないのです。
知らず知らずのうちに、自分が持っている福報、福分、福縁は、まさに目に見えないところで、上蒼が密かに手配し、あなたに回収と収穫の機能を与えているのです。もし自分がどれほど優れていると思い上がると、傲慢な心が生まれ、他人を見下すようになり、また自分がどれほど善良で、良い人間であると思い込むようになります。
もし、あなたが踏みにじられた人ならば、どのように感じるだろうか。少し考えてみれば分かることだが、その人の持つすべての福分、福縁、福報は決して長くは続かず、必ず「へりくだって心を低くし、気を和らげる」ことが必要である。これらの形なき報いである福分、福縁、福報はさらに延長され、有情の衆生に対してより長遠な因縁をもたらすであろう。
求めようとしなければ、わずかな福報でも、自分はすごいと思い込んでしまう！さらに、悪業や悪行を重ね、このような悪しき因縁条件のもとで、果たして長く福報や福分、福縁を享受できるだろうか？いや、決して長続きしない。それは目に見えていることだ。
天は歳月を増し人は寿を増す　　福報集まり来たりて是れ所有なり
福分は自ら修めて増やすもの　　福の縁は累世にわたって築き上げねばならない
天より賜わるものは豊かで厚く　　神々の授けるものもまた同じく構う
人為的要因はどのように
時空の因縁を見極めることによってのみ分かる
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、天界の千古より伝わる神秘の奥義を再び「大道シリーズ天書」の中に降ろし示すものである。有情の衆生が天の神々より授けられた福徳・福報・福縁をいかに体得できるかは、次なる因縁の続きに委ねられよう。皆様のご相伴と崇心宗脈への一時のご協力に感謝し、ここで一旦お別れいたします。またお会いしましょう！
無極中壇元帥
無極より頒たれし大道の冊　　中壇に登台し賢者と会す
元帥の古錐また愛らしく　　再び著作を継ぎて安排を得たり
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大寰天樞文字製作　倉頡聖人大帝がご降臨され、「大道衆生」第卅四回を著作されました。上蒼への回報の原則を極めて明瞭に解き明かされ、また汝らが何故に冤親債主に見出されるのかについても示されました。
あるいは、上天の神々と人間の衆生が報いるべき報いを受けているのは、まさに因と果の中から判断されるのである。また、あなた方がなぜこの家庭に生まれたのか、なぜもっと裕福な家に生まれることができなかったのか？すべては因縁関係によって引き起こされ、誰も選択することはできないのである。
もし選択できるとしても、大いなる願いの力と大いなる任務を持つ者でなければ、自ら選ぶことはできない。そうでなければ、あなた方の父母、子女、配偶者までも選びたいと思うなら、それは果たして可能だろうか？未来においても、一つひとつが「大道シリーズ天書」の中に示現され、記されることになるだろう。
2014年9月26日14時37分 ◎＃※   ０Ｋ＃
南海古仏
南開大道は群生を渡し　　海天珠光の大道程
古より道徳再び整うと曰う　　仏は衆生の迷い沈むを化す
第卅五回　  仙佛撥轉
上蒼の徳沢に仙仏の撥転あり
有情なる衆生は、ただ冤親債主による報いだけがあると思い込みがちですが、実は前世からの恩返しや仙仏による導きもあり、さらに上蒼が善き因果をもたらす行いを授けてくださるのです。つまり、冤親債主による報いがある一方で、福徳の授かりもまた、前世におけるすべての行いによってもたらされるのです。
この一生、この一世において成就されることになる。なぜこのような状況が起こるのか？人道世界においては、まさに過去世と累世の因縁果報を、現在のこの一生に加えることになる。これは大寰世界のすべての衆生に対して、因果循環の「報償と報応」を相互に成就させるものである。
これはまさに、いわゆる「善には善の報い、悪には悪の報いがあり、報いがないのは時機がまだ熟していないだけ」という理を指します。これによって初めて、因果循環における「報償と報応」が互いに補完し合うこととなり、また仙仏による転換――仙仏はいかにして転換を行うのか？これは千古の謎であり、なぜ仙仏は人類衆生の因果を転換できるのでしょうか？
必ずや仙佛と共に、累世の中にこのような善因縁があってこそ、転換することができるのである。また、現在の仙佛に対しても、それは多くの世の輪廻と向上を経ており、もし再び次々と輪廻の中に入っていくならば、初めて報償の作用があるが、また公正平等に因果循環の報償に加わることはできないのである。
仙仏が導けば人類は恵みを受けられる
かくして、上蒼の徳沢は、現在の仙仏の徳沢・福分・智慧を、前世の恩人に振り向けて与えることができる。このような振り向け方は、まさに上蒼の基本条綱に符合し、これもまた、もとより沈淪していた衆生が、次々と回を重ねる中で、良き時空の因縁によって促されるのである。
これにより、無形の亡霊や人間の衆生を上昇超越の局面に入らせることができます。このような時空の因縁を通じて、向上の契機が得られ、人道世界と亡霊世界の両方を成就することになります。恩恵を受ける者は、異なる学びと成長を経て、上昇超越を達成することができます。
この前世に恩を施した者は、すでに他方世界に沈んでしまった後、恩を受けた者がすでに上昇して超越している状況が形成されると、恩を施した者は凡塵世界に下墜するか、あるいは他方世界から生まれ変わってきます。また、このような因縁条件のもとでは、すでに道を証した仙仏を通じて調整することができ、前世に恩を施した者に対して、施しを与えることができるのです。
相互扶助の善き徳の因縁体を提供し、またこれにより、前世で恩を施した者が沈淪している中で撥転を行う。もし同じくすでに道を証した仙仏神祇であるならば、このような撥転は成立せず、一方がすでに人道世界に沈淪しているか、あるいは他の世界にいる者に対して、福報や徳沢をもって撥転を行うのである。
仙仏が転回を起こした原始の因縁
仙仏が慈悲の網を巡らすもの：福、禄、寿、富、貴、そして優れた子孫と比較的良好な縁（えにし）を授けること。これはそれぞれの時空の違いに応じて、恩恵を授ける対象に対して不足している部分を補い、無形のうちにより大きな恵みと報いをもたらすものである。
これは　上蒼の基本的な条綱と架構であり、一般の衆生はこのような仙仏による転換や　上蒼からの賜物がどのようなものかを理解することはできません。無形界において恩返しの行動を取ることも、前世の恩人に対して実直に報いることであり、より大きな利益を得ることができます。必ずや前世と累世の中で、自分がどれだけのものを捧げてきたかを観察しなければなりません。
また未来世界において、どれほどの回報が得られるかは、施しを行う者にとって、自らがどれだけの恩恵と徳を必要とする有情衆生に施したかを忘れることである。これは、上天が最も誇りとする「無為」の中から「真の無為」の綱領に到達し、さらに「因果応報」の優れた機能に合致するものである。
これは因果循環の中で、人道世界に沈む衆生に、より向上し超越する契機を与えるものであり、また、福禄寿富貴の福報が不足している者に対してだけでなく、さらに、すでに道を証した仙仏にとっても、慈悲や徳沢、福分を、前世や累世の恩人に振り向け与えることができるのです。
仙仏の徳沢は有情の人類衆生に及ぶ
すなわち、過去のすべての不足、欠陥、過ちを改めて修正し、また人道世界の不足、欠陥、過ちを修正することです。これこそが、すでに道を証した仙仏神祇がこのような機能と効果を持つことができる理由であり、必ず報恩者のエネルギー体を通じて完成させる必要があるのです。
また、次々と、回を重ねるごとにすべての導引成就があってこそ、はじめて効果があるのである。そうでなければ、前世の恩人であっても、もし依然として向上超越に達することが非常に困難であれば、それは単に恩返しの行動があっただけに過ぎない。なぜなら、すでに道を証得した仙仏神祇が一人いれば、自分を向上させることができるのであって、自分が向上できないようにすることはないからである。
恩を施す者は、ただ人間界に生存しているだけで、また「向上超越」という四文字とは根本的に何の関係もない。しかしながら、因果応報の償いの作用は、まことに如実に有情衆生に及ぶことができる。このような条綱と基本構造は、さらに各人の因縁がどのようであるかを観察するのである。
また観てみるべきである、人間世界の全ての行いはいかなるものかと。時に無形界の仙仏神祇が来て引渡す際には、人道世界における前世の恩人に対しても、少しの感覚も持たないことがある。このように汝らは考えるであろうか、このような状態で上昇超越を達成できるかと。否である！「道性」という因縁の根本を持つことが必要であるからこそ、十分に具足するのである。
仙仏が転じて恩に報いる
はじめて人道世界における修持の方法として、向上して超越的な上昇を果たすことができる。そうでなければ、たとえさらに大きなエネルギーを得たとしても、それは単なる相互の恩返しに過ぎず、超越的な上昇には至り難い。これが有情世界の衆生にとって最も脱し難い限界と障礙であり、それゆえに向上超越を成し遂げることができないのである。
つねに、福徳や財運を前世の恩人の生活空間に取り入れることがある。もし前世の恩人に対して「道の性」を十分に備えることができれば、修行の方法に対してもさらに良い効果をもたらすことができる。しかし、前世の恩人がただ生存のためだけにあり、「道の性」による加護を得ることができないのであれば、どうしようもないことである。
このような状況は、往々にして来世に再び輪廻に入る種子の因となり、すなわち変えることのできない事実となります。では、なぜこのようになるのでしょうか。前世の恩人に対するすべての行為や動作において、道性はあるものの、この道性が強くないため、より大きな向上を得ることができず、ただ生活のためだけに過ごしてしまうからです。
極めて困難なのは、修行を進めて位階を上げる段階に入ることである。これはまた、一般の衆生が最も突破しにくい障害でもある。たとえ一部の人々が宗教の中で修行をしていても、しばしば人間世界のあらゆる生活習慣に束縛され、その理由や原因は山ほど生じてくる。ましてや、あれこれ言い訳をして先延ばしにすることさえある。なんと仕方のないことか！
仙仏がすべての向上を導き転じる
また、自分自身の持つ原因や理由を修持の中に持ち込むと、真の向上と超越を十分に備えることができず、しばしば名ばかりの修行者に留まってしまいます。根本的に、たとえどれほど大きな力を持つ仙仏が導こうとしても、向上して超越することは叶わないのです。
このような所謂の修行方法を向上超越させるには、まさに一言で目覚めさせ、一つの困難を施しで解消し、一食の温飽、一銭の救済など、その他もろもろのわずかな施しによって、無明の障害を抱える衆生の苦難を取り除くことができるのです！
即ち未来において、成し遂げようとする行いの拠り所を成就することができる。これは上天が仙仏に対して授けられたものであり、互いに成就し合う因縁果報である。まさに微細な点も漏らすことなく、真に有情衆生に対して相互に施し与えることが、大いなる方向への向上となる。このような原因と構造及び綱領について、汝らは理解しているであろうか？
人類の衆生のすべての良善が増長する
時に、人道世界のあらゆる生き方は、過去の時空因縁とは異なるものですが、時空因縁がもたらすところにおいて、世の衆生が「道性」を修めることで向上し、このように世代を重ねて互いに補い合い、さらに宗教に入った後は、すべての行いが未来の成就のよりどころとなるのです。
このような人為的要因は、必然性を超えて向上させることができるが、前世の恩人が度々、繰り返し来て規則正しく導く作用があってこそ、修行による向上とさらなる超越へと導かれるのである。また、このいわゆる因縁果報は、時に福・禄・寿・富・貴の授けられるものよりも一層円満であることがある。どうしてこのようになるのだろうか。
これは、上天が最も優れた仙仏に命じて授けられたものである。しかしながら、一切の有情衆生に対して、もし単に福・禄・寿・富・貴といった転換を施すだけならば、それはこの一生のうちに使い果たされてしまう――福分・福報・福田が尽きるのみであり、ある者は言うかもしれない、それはすぐに消え去る福分に過ぎないと。
上蒼の徳沢は、様々な大いなる因縁の回り合わせを授け給う
前世の恩人に対するすべての施しは、このような福、禄、寿、富、貴といったものは、確かに天が認めた方法ではありますが、一度で永遠に解決できるものではなく、最善の方法とは言えません。財産や福徳、田畑や家屋、そしてあらゆる満たされたものは、長く保ち続けることが難しいからです。
この一生、この一世は永遠に保つことが難しく、また容易に消え去ってしまうものですが、上天に対しては、すでに恩返しをしたとしても、あなたとは何の関係もないことです。しかし、因縁がまだ残っているため、時に授けられる福、禄、寿、富、貴などは、往々にして福報が順調すぎるがゆえに
また、多くの来世における良からぬ業因、業果、業障を造り出し、これらが縺れ絡みつくことになります。これはもはや、恩に報いる行為の最善の保証とも、良き縁起の条件とも言えません。もし有情衆生がその習性を改めなければ、どうして上昇し超越することなどできましょうか。できません！むしろ恩に報いることなく、良からぬ行動も起こさない方がましなのです。
仙仏は大いなる良縁を巡らし、福禄寿富貴を引き寄せる
人間の習性改めざれば
福報よきも業を造る
上蒼はこれを見て再び定めを訂す
昇進超越には遠因あり
双方円満に乗り越え　　仙仏ともに回帰の行を証す
この偈を！有情の衆生が共に励まし合い、上天の基本条綱と原則を大きな方向性として分析し、未来の有情衆生のさらなる向上に対して、より大きな収穫と利益を得ることができますように！さて、皆様お疲れさまでした。崇心宗脈にしばらくお邪魔いたしました。ではまたお会いしましょう！
無極瑤池の霊宝仙童
無極の因縁は真に殊勝なり　　瑤池の勝地は人成ること少なし
霊宝仙童が賢生と会い　　皆様安らかに互いを大切に
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大道衆生主著仙仏　南海古仏本尊がご降臨され、「大道衆生」第三十五回を著作されます。仙仏が転機をもたらされる契機として、福・禄・寿・富・貴をお授けになり、前世の恩人を大切にできるかどうかが問われることとなります。
あるいは福報が多すぎて良すぎる時、かえって業を造りやすくなり、これは仙仏の本意ではありません！このような殊勝な条件をいかに理解し、上昇超越を達成するか、人道世界で業を造ることにならないようにするか！あなた方はどの方向を選びたいですか、両方とも欲しいですか？それはあまり可能ではありません。
ただし、これはまた各人の隠れた善行が多く備わっている場合に限ることであり、そうでなければ、少し欲張りすぎと言えるでしょう！このような幸運なことは滅多にありません。もしあったとしても、それは一時的に所有するだけに過ぎず、必ず詳しくよく考えなければなりません。それが正しい道です。お分かりでしょうか？さて、皆様のご尽力に感謝し、ありがとうございました。ではまたお会いしましょう！
2014年9月26日17時07分◎＃※   ０Ｋ＃
南屏道済古仏
南屏は衛障として群生を護り　　道済は主著として徳意を真にす
古仏降著三十六回　　福報陰騭自ら成す
第卅六回　  陰騭福報
有情なる衆生のすべての良き善は、よく増長する。
仙仏の導きがあれば、大いなる世界において、すべての生きとし生けるものが陰徳を積み、福報を具足するには、幾度もの輪廻を経て、あるいは累世の後に初めて得られるものであることが分かる。すべての功徳と業障を評価し、陰徳に値するか、あるいは悪報に引きずられて互いに相殺されるかを定めなければならない。
もし相殺できないならば、再びこの世に生まれ出て互いに補い合うことになる。このような因縁条件は、「陰徳の福報と悪業の冤債」のすべてを償う必要があり、人道世界を公正平等に導き、互いに償い合う作用をもたらす。また、これは天が人道世界の一切を評価し、功徳と結果を定める作用でもある。
さらに、それを来世や自分の子孫に積み重ねることもあります。先に述べたように、福報は自分と子孫に積み重なるものであり、冤債に対しても同様です。陰騭や福報――これらは上天から授けられた後、あるいは仙仏によって転換され、一種の回報を形成します。有情衆生はしばしば、自分自身の努力によるものだと思いがちです。
どれほど称賛に値し、方法が極めて正しいとしても、このような因縁条件は、目に見えないところで必ず上天から授けられるか、仙仏によって転換されて戻ってくるものであることを理解しなければならない。もしこれら二つの授与と転換がなければ、一切の有情衆生はどうしてこのような福報を受けることができようか。
各人の行いによって違いが生じる
自分自身の能力がどれほどのものかについて、異なる見解を持つ思考様式が存在する。なぜ他の者が自分と同じ方法を用い、時間、空間、場所、環境もすべて同じであるのに、ある者は成功を収め、ある者は平凡な一生を送り、ある者は成功に至ることさえできず、逆に惨めな失敗に終わるのか。
これは人道世界におけるものであり、前世の因縁果報があってこそ、今生この一世の福報を享受できるのです。もし前世の福報がなければ、今生このような福報を得ようとするのは、まさに「木によって魚を求む」ようなもので、必ずや人道世界におけるすべての生存に対して、善良な志向を持つ機能的行動が必要となります。
無形の福報がこのような形態の空間に加わることになりますが、すべての人為的な努力も非常に重要です。一般的に言えば、小さな富は勤勉と倹約によって得られ、中程度の富は努力によって得られ、大きな富は努力だけでは足りず、無形の福報さえも必要とされます。
自らのエネルギーに取り込むことにより、初めてこのような条件を備えることができます。もしこのような条件を通じて獲得できないならば、この機能と効果は、小富と中富に留まるだけで、大富や巨富に達することは非常に困難です。これは上蒼の徳の陰騭によって得られるものであり、小富、中富、大富、さらには巨富があります。
福報と陰騭は、人類と衆生が造りなすところのものである。
これこそが無為の作法であり、またこの種の無為は天地を依り所とする。すべての行為や動作は、人道世界に入った後、「無の為」を用いて行為や動作に対応し始める。もし「無の為」がなければ、どうして真に私心なく無為の陰徳などありえようか？それは不可能である！
人道世界における一切の行為動作は、人類衆生にとって言えば、すなわち必ず作為を持つことが必要であり、初めて一切の「向かって取るべき方向」という機能が生じるのである。これは人為的要因によって作り出されるものに背くことはなく、もし行為動作がなければ、どうして作為を持つことができようか。このような条件における作為とは、まさに様々な業種業界に対してのものである。
来たるべきものは人為的要因によってもたらされ、潤いと収穫を生み出す。これはあらゆる業種・業界に適用されるものであり、現代の世代には異なる機能と役割がある。ある者は、あらゆる業種・業界において、通貨以外の報酬を得ることができる。つまり、自分自身が持つ通貨による回収以外にも、多くの無形の回収がある。
なぜ一般人の努力において、同じ時空間の因縁であっても、各人が持つ努力の条件が異なるのか――異なる因縁、異なる環境、異なる結果が生じるのは当然です！またこうも言えます：一人一人の福報、福分、福田の多寡によって、その努力の量が決まり、得られる結果の量も決まるのです。
福報と陰徳、この二つは必ず積み重ねなければならない
時にそれは十倍、百倍、千倍、万倍にもなり、またあなたの前世における福田、福分、福報の量を見極めます。このような福田、福分、福報は必ず陰徳を伴わなければ、豊かに積み重ねることはできません。人間界では福報と陰徳の相互関係を理解することができず、これが世の中のすべての行いなのです。
人道のすべての生存の方向において、通貨を十分に備えることができるかどうかは、前世に福田、福分、福報がなかった場合、今生でこのような福財の回収を望むことは、つまり非常に不足しているということです。なぜ福財はあなたの前世の福田、福分、福報と相互に関連性があるのか、このような条件はどのように作用するのでしょうか。
自らの福徳や財産に対して、施すこと、捨てることができれば、すなわち陰徳としての回向を得ることができる。しかしながら、陰徳とは無為の作用であり、世の中における施しと捨てる行為に、回向や報いを求める念いがあるかどうかに関わっている。もし真に無為の心で施し捨てることができるならば、施したもの、捨てたものすべてを、すでに忘却しているはずである。
また、八識の中に記憶しないことを「無為の施捨」と呼びます。もし「有為の施捨」であれば、それは八識の中に刻み込まれ、心にも少しの未練が残り、さらにはつぶやきさえするでしょう。それに加えて、人間界では善行を喜びの根本としているため、このような善行はすでに有為の境地に入っているのです。
陰騭と無為は人をして造就可からしむ
施しを行う際の：福報、福田、福分は大きく減じてしまう。人道世界における善行、人助けを喜びとする行いは、もはや上蒼の無為なる施しには叶わず、ただ来世において僅かな報いがあるのみで、根本的に無為なる報いには入ることができない。これが、陰騭の積み重ねである。
大いなる天地のすべての生きとし生けるものに対して、なぜ「無為」の実践が必要なのか。それは人類の衆生が、すべての施しの行為を記憶にとどめないようにするためである。これは行為の動作が「無為」の善行を持つことができないからであり、これを「有為法」という。人類の衆生は「有為法」に対して非常に憧れ、また深く魅了されているのである。
自分が人を助けたと思い込む、この心の喜びと誇らしさは、まさに人道世界の福報に過ぎず、決して「陰騭」に積み重ねられるものではない。これこそが「福報と陰騭」の根本的な違いである。もしさらに真の無為の境地に入ることができれば、すべての施しは根本的に、自分が行うべきこと、当然行うべきことと認識されるのである。
また、絶対に、いわゆる功徳の問題や回向の問題はなく、自然に大宇宙の天地、一切衆生の苦しみは、自分自身の苦しみとなり、一切の施しの観念がなくなり、「真の無為」に入ります。人類衆生に対しては、「真の無為」をもって、陰徳の中に入ることができます。
古より今に至るまで、人類衆生の行じてきたところ
古今東西、このような「真の無為」による施しは数多く存在し、それはあなた方の思想観念や心の在り方の転換を見極め、未来の回報がどのように変わるかを示しているのです。もし人間の思想がこの世において「真の無為」の行動を取ることができなければ、来世に真の回報や福報を得ようと望んでも、それは不可能なことなのです！
これは人為的要因に対するものであり、ただ一つの行為動作における思想観念にのみ関わるものです。
「有作為、有為、無為、真無為」へと転換する、このような思想観念は、非常に微妙な差別作用である。これこそが、上蒼がなぜ「有作為、有為、無為、真無為」という四者の区別を通じて作用し得るかの理由である。
未来のすべての有情衆生に対して：福田、福分、福縁、福報を、どのような富貴寿禄などを授けたり転換したりするか、また前世で福を積んだ者への上乗せを区別して行う。このように大いなる天地のすべての衆生に対して、上蒼の条綱と構造がどのようなものであるか、はたして理解できるであろうか？
これは紛れもない真実であり、すべての善き因縁に対して、あなた方がそれを高め、「有作為、有為、無為、真無為」の境地を授け、未来の果報と利益がどのように区別されるかについて述べたものである。これは千年の時を経て、人間界に下されることの稀な教えであり、あなた方はこの福分を得て、天地第一の資糧源を手にすることができるのである。
福報と陰徳の根本
必ずや行動と動作をもって、人世間の思想の中に入らなければならない。これはただ汝らに作為のある行動と動作を与え、有為の中に入らせるだけではない。この有為は、すべての大寰の衆生が引用する行動と動作であり、またどのような角度からこの種の有為の動作を観るべきか。それは天下の衆生を利することを基盤とするのである。
このような「有為」の行いは、必ず「無為」の行動力へと入らなければなりません。これは無為の行動力を通じて、自らの利益を高め、また他者をも利益することができるのです。しかしながら、自他を利するこの行いは、さらに未来の衆生の福祉に対しても、長遠にわたり矛盾することなく続けられるものでなければなりません。そのためには、「無為」から「真の無為」へと入っていくことが必要です。
まさに汝らが今、必ず持たねばならぬ思想と行動である。もし「真の無為」に入ることができれば、また未来の功果の評価は、汝らが今抱く思想に基づき、未来の様々な価値が汝らの努力に加えられる。これこそが上蒼が誇りとする基本構造と綱領である。
これは千年の時を経て、未だかつて凡俗の世に降ろされることのなかった根本的な思想観念であり、必ずや仙仏の「真の無為」を学ぶことで、汝らはより大きな収穫と利益を得ることができるであろう。汝らがその中の秘訣と奥義を理解できるかどうかは分からぬ。人の努力という要素こそが、自らを高め完成させるものであり、過去には到達できなかった思想観念に、これは崇心宗脈の体系が真に自らの上昇と超越を成し遂げることを可能にするのである。
大道の衆生は著し終わりて尽きぬれば　　福報と陰騭と互いに臨む
自ら努力して成長を図り　　有為の中に無為を行ず
無為を重ねて真の無為に至る　　上天より賜る仙仏の会
未来の大いなる福報を転じ
来世には汝らに富が積もる
人々が常に追い求める財産は、果たして自らを「真の無為」の境地へと導くことができるだろうか。また、福徳と財産を昇華させ、基礎的な資糧の源とすることは、まさにあなた方にとって、財産と地位、豊かさ、食禄といった様々なものを増し加え、福、禄、寿、富、貴というあらゆる良きものを加えることになるのである。
よろしい！「大道眾生」はここまで三十六回をもって、すべての著作を完了した。汝らが著作に付き添ってくれたご苦労に、また今日  老衲がここに来たことを知らず、汝らはどのような功果を求めているのか、前に積み上げられたたくさんの果物を持って参れ！汝らに福慧と財利を加え、良き善き好因縁の成長を授けよう。
あなた方も大変ご苦労さまでした。大道の衆生がすべて完成するまで付き添い、このような護持があれば善き成長と超越が生まれ、未来の弘法と救済に多くの助けとなるでしょう。さあ、あなた方のために師はすでに催促しております！後ほどまた少し酌み交わしましょう、羨ましくありませんか？ではまた皆さん、お会いしましょう！
無極瑤池  鳳瓊仙女
無極瑤池より鳳瓊来たり　　仙女今日台に登り来たる
◆ 跋・讃賀 ◆
大道眾生已完著　　下回跋與凡例排
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、今晩はお安らかに。本日は大道衆生主著仙仏・南屏道済古仏がご降臨され、「大道衆生」第三十六回を著作されるとともに、すべての「福報と陰徳」に対して行動を施されました。すなわち、人道世界を「善を行うことを楽しみの根本とする」ものとなさったのです。
このように詳細に述べるのは、真の修行実践者にとっては、このような行為や考えを持つべきではなく、ましてや仏菩薩の「細思惟修」に近づくものではない。あなた方はあらゆる思想や観念に対して、大きな方向性を理解し把握する必要がある。また、いかに実践すべきかについては、「無為」によって初めて「真の無為」が可能となることを心得なければならない。
人類の衆生が様々な行いをなす中で、良き善き因縁と条件が生じ、それらは上昇し増長して超越へと至ります。これはすなわち、人々がこの世において学びを深め向上させることであり、また様々な情を持つ人間衆生を区別することなく、すべての者が仙仏の師の歩みに倣い、一歩また一歩と学び成長することができます。それは必ずや、自らがどれほど心を砕くかによって決まるのです。
明日の「琴瑟和鳴」の良縁に偈を捧げ、仙仏も祝福を授く！
薛道は善を為し心を崇めて参る
全き徳と妙なる智は天の配剤
勝利目前に琴瑟鳴り　　婚姻吉祥に財富開く
両手を広げて大道を行き　　素心回りて崇心の妙に返る
華やかで美しく、立派な人
末永く添い遂げ、愛を深め合う
この偈は、「全勝と素華」に明日の婚約を授け、あたかも我ら崇心宗脈が娘を嫁がせるかのような喜びを、皆で共に祝いましょう。この一組の新しい門出に「百年の良縁、琴瑟相和す」ことを。また、崇心宗脈のすべての神仏と学生たちが共に、娘を嫁がせるような歓びを分かち合いますように！さあ、皆様お疲れ様でした。明日またお会いしましょう。
2014年9月27日15時40分◎＃※   ０Ｋ＃
大成至聖の先師　孔夫子
大道の系列は徳の恵み長く
大道の衆生は兆し吉祥なり
跋   一
大道は、すべての存在が依拠するものである。
つまり自然の成り行きとして、すべての有情衆生に対して、人道世界を通じて潤いを与え修行を積むことができる。これは過去の時空を経て、現代という大いなる因縁に至り、凡塵第一の殊勝なる「大道シリーズ天書」を著作するに至ったのである。そしてそれは回を重ね巻を重ねて著作され、人間世界における最初の一冊となったのである。
千古にわたるすべての経典の不足を、中道の思想へと高めていく。これは大道の徳沢をこの天地の間に広め、人道世界においてこの殊勝な理諦をすべての衆生の思想の中に確立し、現在と未来においてまさに向上を遂げて超越していくものである。
衆生は必ずや超越へと回帰せねばならない
大宇宙の天地において、すべての有情を衆生と呼びます。いかなる層次、境界、果位も区別せず、皆が有情衆生の一つと言えるのです。これは千古より、各層次・境界・果位において行われてきたことであり、それぞれの時空の因縁が異なるため、異なる時空因縁と教育文化の課程があるのです。
このようにしてこそ、その時空の因縁に応じた行いを通じて、すべての万物の霊性、肉体、自心の三者を向上させることができる。これこそが上天が繰り返し求める基本であり、また現在のこの時空の因縁に合致し、成長と超越を促すものであり、まさに切なる願いである。
儒教の教主、大成至聖の先師、孔聖人が降臨された。
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿敕崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月初七日、戌の刻
よろしい、恭賀すべきことに、懿敕崇心宗脈の大道シリーズ天書第二十四冊『大道衆生』跋一が完成しました。しばらく崇心宗脈にお邪魔し、今年の引渡方針について共に協議いたしましょう！皆様、お疲れさまでした。では、またお会いしましょう！
仏教の教主　南無釈迦牟尼仏
仏教東伝の地に来たりて　　数千年の教化広がる
跋    二
大道は殊勝なる因縁なり
すなわち儒家の思惟によってこのような構築がなされ、仏教の思想改造に対する理解において、人為的要因を明らかにし、「唯識理論」を作用させ、「唯識観念」の成長へと導く。これは現代と未来の衆生の一切の無明に対し、「唯識の道」を通じて再出発する可能性を与えるものである。
過ぎ去った不足や欠点を改め、誤りを正すことができるのは、「細思惟修」においてこそ、真に向上し成長する原動力が得られるのであり、また、すべての良き因縁の中で学び、成長し、超越していく過程においても、このような条件こそが、必ず通らなければならない正しい道なのです。
衆生の学びと成長
すなわち、大いなる天地と一切の万物、あらゆる層の生命を、その異なる次元、境地、果位によって、異なる資質と人種に区分けするのである。これは現代の時代が未来に向けて更なる向上を図り、人類の「無明」という欠如を「有明」の本体へと導き、このような欠如、不足、誤りを改めて修正するためのものである。
より大きな向上をもたらすこと、これは　上天が一貫して最も基礎的な構造として重視してきたものである。人道世界において、このような行為を向上と超越の実際的な機能へと導き、より大きな成長の恩恵を与えること。すべての良き仕組みを通じて、情愛を持つ人類衆生が上昇成長することを提供すること、これこそが最も切なる願いである。
南無本師釋迦牟尼佛　降跋二於
儒宗聖教の真仏心宗
無極大道院 懿敕崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月初七日、戌の刻
ああ、誠におめでとうございます！崇心宗脈が志を固く保ち、ついに『大道シリーズ天書』第二十四冊の跋文第二巻を完成させられました。この喜ばしい情景は誠に慶賀に値します！心よりお祝い申し上げます！しばらく崇心宗脈にお邪魔し、今後の救済の大方向について共に協議し、弘法と普及を推進してまいりましょう！さて、皆様お疲れ様でした。ではまたお会いしましょう！
虚空上人－南無虚空上徳人天古仏
虚実の因縁は既に生じたり　　空しく凡塵を転じて今生と為す
跋    三
大道とはこれ、上蒼の徳沢なり。
すなわち、万の霊ある生きとし生けるものを依り所とする。このような働きは、情ある衆生の成長のためであり、大道に対するすべての依り行う動作に対して、より豊かな資糧の源を与える。これは千古未だかつてなかった条件であり、未来の科学技術文明に対して、今この思想観念を借りて、さらに大きな向上へと進むのである。
言うことができる：未来の衆生の福祉と大道の恩沢に対しては、互いに補い合い助け合う関係にある。ゆえに、未来の衆生と大道を実践する者たちのすべての犠牲と奉献は、福祉を遠く長く続かせる基盤を築くものであり、有情世界に真の向上をもたらし、堕落に依存するものではない。このような依存は、むしろ向上と成長を超えるものである。
衆生とは有情の人類を指します
すなわち、衆生の根性によって自らの不足、欠如、誤りを化除するのである。また、衆生の習性、慣性、秉性、個性は、いずれも自らが向上する妨げとなる障害物である。このような障害物に対して真正なる化除を行い、自らがより広大な修行の道を歩むことができるようにするのである。
また、衆生の不足しているところは、必ずや現在において修整と改善を行わなければならず、未来や来世に修整と化除を期待するのではありません。それは既にそのような天機と良縁がなく、どうして再び乗り越える契機があるでしょうか。有情なるすべての衆生が、真に「乗り越えによる回帰と円満による超越」を成し遂げられることを願っています。
虛空上人　降跋三於
儒宗聖教の真仏心宗
無極大道院　懿敕崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月初七日、戌の刻
よし！崇心宗脈の固き志を恭しく祝し、大道シリーズ第二部の大作、第二十四冊「大道衆生」を完遂されましたことを、誠に崇心宗脈に対し限りなき慶賀の念を抱きます！このような固き志が、大いなる力となり、自らを成就し、衆生の回帰超越を成し遂げんことを願ってやみません。皆様が著作に伴い力を尽くされ、衆なる師たちが共に未来の引渡方針を議してくださったことに感謝いたします。皆様、ありがとうございました。ではまた！
南無、衆生ことごとく如来なり　　燃燈の心法、実の如くに排す
古仏降りて凡例を著し
大道の衆生、徳意を載す
凡 例
◎大道とは：あらゆる霊魂と生きとし生けるものをその基準とするものであり、これは　上天がそれぞれの層次、境界、果位の違いによって示されるものであり、また自然のままに行使される働きを依りどころとする総体であり、良き善き優れた構造なのである。
◎大道とは：凡塵世界の有情の種に対して、このような因縁条件を持つ大道聖務が依拠するものであり、また、大道は天地宇宙と相互に補完し合うものであるからこそ、このような行為動作が可能となり、自らを利益し、衆生をも利益するのである。
◎大道とは：上蒼の条綱に対し、各々の衆生に不足するものを補い、修整と変革を加えるものである。これは上蒼が現代という時代において、天地自然のあらゆる資糧の源を人道世界に注ぎ込み、すべての有情衆生の原霊子が公正平等に与えられる恵みを享受できるようにするものである。
◎衆生とは：あらゆる万物の生ける者に対して成就させるものである。なぜならば、衆生はすべて上天が化した因縁の者であり、また慈しみと庇護を受ける者であるからだ。決して一人でも私的に守り導くことはなく、まさに一体として公正平等に与えられるものである。
◎衆生たる者：また人為的要因によって地冥星に入る際、しばしば「偽りを真と認め、真を偽りと認める」ことがある。しかし、このような時空の因縁における「真と偽」および「中と空」が実は相互に連動し、汝らすべての行為と動作に対して、より大きな向上をもたらしていることを知らない。これは衆生の福祉に対して、より豊かな資糧の源を与えるものである。
◎衆生とは：すべての因縁果報によって、このような規範に従った行動があるのであり、それは上蒼に対して、すべての公正平等に付随して行使されるものであって、いかなる私的な付与も存在しない。すべて因果の法則に合致して施行されることが、上蒼が誇りとする主要な根拠であり、さらに人類衆生の福祉を補い増やすためには、世間においてこのような陰徳を積み重ね、福徳を具足させる必要がある。
◎大道の衆生よ：すべての人界の衆生に向けて、あらゆる習性を成長させるが、また衆生が持つすべての不足、欠如、過ちについて、もし度重なる回帰と修練がなければ、ただ理解するだけで実行しないならば、ちょうど知っていても行い難いように、どうして自らの障礙を除くことができようか。真の変化を起こすことが必要であり、それが正しい道なのである。
◎大道の衆生よ：これは　上蒼が人世間に徳沢を施すために引き上げられたものである。しかし、人為的要因によって、しばしば　上蒼の基本的な原意が否定されてしまう。これこそが、有情衆生がこの一世において、向上成長と障礙の超越を達成できない所以であり、原因はまさにここにあるのだ！
◎大道の衆生よ：すでに著作は完成し、有情の衆生に対して理解できるように、なぜ衆生の：習性、慣性、秉性をもって、個性を化除すべきかを明らかにしたのか？これは　上蒼が著作を通じて人類衆生の成長を促すためであり、このような機能と効果は大道の衆生のすべての不足に対して、障礙を化除するものである。
◎大道の衆生よ：すでに著作は完成し、著作の労苦、そして編纂とすべての修正を経て、さらに未来における配布や解説など様々な労苦の過程がある。皆で一緒に印刷を助けて完成させ、より多くの人類衆生に普及させれば、天機の良縁が薫陶と成就をもたらし、さらに回帰の大道を昇華させることができるであろう。
南無燃燈古仏　降凡例を
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月初七日、戌の刻
崇心宗脈のすべての神仏と学生の皆様、第二十四冊の第二巨冊を完成され、誠におめでとうございます。これにより未来に向けてさらなる向上と成長が期待されます。また、大道シリーズ第二十五冊は、来る金曜日・蒲月十七日に、堂前で香案を設け無極懿旨と昊天玉旨を恭しくお迎えいたします。次回は大道衆生のための完書繳旨となりますので、早めにご準備いただき、未来の引渡成全に備えられますよう。本年は崇心宗脈がさらに大きく弘揚される年でございます。皆様、どうか一層ご尽力くださいませ。それでは、またお会いしましょう！
2014年9月27日19時10分◎＃※   ０Ｋ＃
崇心宗脈副主席 麻仙姑
麻姑副座が登台して来られると、大道の衆生が書を捧げて列を成す。
崇心宗の脈理は広く展開し　　導いて回帰せしむる徳沢は遍く及ぶ
◆ 旨 ◆
完書繳旨
今日はまさに崇心宗脈にとって良き時節であり、崇心のために「大道シリーズ天書」を著すことすでに二十四冊に至りました。上蒼のご期待と職責に対して行使と依拠を行い、自ら真に弘化と普及を推し進めることで、大いなる道徳の恩恵が得られ、崇心体系は上蒼のご重用を承ることができるのです。
著作「大道シリーズ天書」という殊勝な因縁を賜り、崇心宗脈に対してこの上ない慶賀と賞賛を覚えます。今や「大道シリーズ天書」第二十四冊『大道衆生』がついに完成し、天に奏上されました。これはあらゆる良き因縁の中にあって、上天が崇心宗脈に与えた確かなお認めであります。
佳き時節は既に到来し、本宗脈より　虛空御傳天尊、　虛空道傳德天尊、　虛空理治法天尊を二十五里の外に派遣し、恭しく　無極懿旨を堂へ迎え奉る。さらに本宗脈より　虛空彩鶴仙姑、　虛空彩花仙姑、　虛空靈意仙姑を十五里の外に派遣し、恭しく　無極懿旨を迎え奉る。その他の神人と無極大道院の院修學士らは、列を整えて御駕を待ち、儀礼を欠くことなきように。
無極の御前  許飛瓊仙姑
無極の御前に飛瓊を許し　　仙姑、旨を帯びて南弘に降る
崇心宗脈真慶喜　　大道の衆生 書を繳うること終わる
謹んで無極の懿旨を奉じ、崇心宗脈に降り賜い、神人ともに伏して拝受す。
懿　旨　を　開　き　読　む
謹んで奉る
無極皇母大天尊  懿旨に曰く
母は理天の聖地に在り、凡塵の諸々の子女に対して犠牲と奉仕を捧げられ、その価値は確かなものがあります。台湾桃園の母心崇心堂に対しては、丙子年の立堂以来、「大道系列天書」の著作に対し、豊かな資糧の源を与えられ、五教の弘化を通じて高められ、真に相互融合を達成することができました。
今、母の心が待ち望む弘化に対応できることは、未来の有情の子供たちすべての良き因縁条件を向上させ、超越させることにあり、大いなる回帰の大道天梯の契機を与えることになる。崇心宗脈のため、まことに慶賀に堪えません！これもまた肯定と賞賛に値することです。
母は大いに心を慰められ、大道系列第二十四冊『大道眾生』の完書と上奏に対し、崇心宗脈が未来において引渡しと成全を成し遂げることをお認めになりました。これにより、すべての神人と院修学士は真の回帰と超越を得ることができるでしょう。母は大いに心を慰められ、特に飛瓊仙姑を命じて、三壺の瓊漿を携えさせられました。
崇心宗脈の茶の中に加えられ、全ての崇心仙仏のご苦労と努力に対して、誠に比類なき慶賀でございます。理に応じて功を加え爵位を進め、この功績を天榜に銘記し、未来における功績加増・爵位昇進・果位加増のよりどころとすべきです。また、諸々の子女の功績も天榜に銘記され、さらに未来の回帰のよりどころとされるのであります。
また広く多くの子供たちを救い、超越へと回帰させることが、母なる心の願いであります！
無極皇母は懿旨を下されました
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月初十日、戌の刻
よろしい、おめでとうございます！麻仙姑姉妹の宗脈が再び無極を奉じることとなりました
皇母様より賜ったご褒美、誠におめでとうございます！おめでとうございます！時節柄、これにて失礼いたします。またの機会にお邪魔いたします。私は急ぎ無極理天へ戻りご復命いたします。皆様、またお会いしましょう！
虚空の文澤  教化の天尊
懿勅崇心に任じて主席と為す　　虚空文澤聖意を闡く
天尊は今日再び恭賀す
大道の衆生、書を完うする期
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、今晩は。本日もまた崇心宗脈にとって、大吉の良辰佳日にあたります。崇心の「大道シリーズ天書」第二十四冊『大道衆生』が完書し、天に奏上されたことは、まさに崇心宗脈の慶賀すべきことであり、すべての神人たちが努力し、心を一つにして力を合わせた成果であります。
さらに崇心宗脈に対して、より堅固な志を持って弘揚と普及を進め、有情なる人類衆生が待ち望むものを提供することができれば、超越した回帰への天機と良縁を得ることができます。これは大いなる奮闘と努力によってこそ、上蒼のご期待とご肯定をいただくことができるのです。ただ今、無極懿旨のご下示を恭しくお受けしたところ、続けて昊天玉詔が堂々と下されました。
命じるに、本宗脈の無極岳武穆王、無極城隍帝君、無極司命真君を二十里外に派遣し、恭しく昊天玉詔を堂へ迎え来たらしむ。さらに命じるに、本宗脈の無極大勢至菩薩、無極註生娘娘、無極普賢菩薩を十里外に派遣し、恭しく昊天玉詔を堂へ迎え来たらしむ。その他の神仏と学生、及び無極大道院・院修学士らは列を整えてお待ち申し上げ、儀礼を欠くことなきように。
昊天の欽差大臣　李太白仙翁
昊天の勅使降臨し来たり　　李太白仙翁登載す
謹んで玉詔を帯びて崇心に降り　　大道の衆生　旨を完うして開く
謹んで天の玉詔を帯び、昊天より降り来たり崇心に頒示す。神人、俯伏す。
玉旨を開きて読む
謹んで奉る
昊天玉皇大天尊 玄霊高上帝の玉旨に曰く
朕は九五の尊位にあり、南贍部洲の宗教教育文化課程に対し、真に相互融合を高め、未来の衆生の福祉の依り所と為し、多くの異なる資糧の源を与えるべく、今こそ真に上蒼の為に大道を弘化する聖職を為すことを得る。ここに観るべし：台疆桃園－懿敕崇心宗脈の全ての努力を。
丙子年に道場を設立して以来、今に至るまで漸く十二年という歳月が経ちました。この間、崇心宗脈は如何なる困難にも屈することなく、上蒼より授かりし使命を広く弘めることができました。このような堅固な志と不屈の精神は、誠に心を打つものがあります。また、崇心宗脈に連なるすべての神仏と学生たちの尽力は、まさに称賛に値し、賞賛すべきものであります。
「大道シリーズ天書」第二巨冊、第二十四冊『大道衆生』は、ついに完書し天旨を奉じ、崇心のすべての努力を肯定しました。これにより、未来の人類衆生が上蒼の真実の意義を理解し、未来の成就を導く方針を示すことができ、崇心宗脈により一層の弘揚と普及がもたらされることでしょう。
朕は大いに喜ばしく思う！そして崇心が再び励みを重ね、大道シリーズ第二十四冊「大道衆生」を完成させて奏上したことを賞し、特に崇心の神人たちの努力と堅固な志を込めた功績を天榜に銘記し、未来の神仏の昇進の根拠とするとともに、崇心の学生たちが未来に回帰するよりどころとする。
この情景、この心情は称賛に値し、励まされるべきものであり、喜び祝うにふさわしい。志を堅くして再び成就せんことを。
大道の因果は、継続して成功を成し遂げ、衆生の福祉は、限りなく無量である。
昊天玉皇大天尊　玄霊高上帝　玉旨を下し示す
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月初十日、戌の刻
ああ！改めて心よりお祝い申し上げます！崇心宗脈が上蒼のすべてのご肯定と賞賛を賜りましたことを、老仙は直ちに昊天に戻りご復命いたします！皆様、またお会いしましょう！
南天の主宰
文衡聖帝
ご祝寿の慶びを賜り感謝申し上げます
崇心道場に天の徳が満ち溢れています
大道の衆生はすでに書を完うし　　続いて大道の因果を開く
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は、無極より頒示されました懿旨と、昊天より下された玉詔が、すでに頒示を完了いたしました。すべての崇心宗脈の神仏と学生に対し、志を堅く努力を重ね、「大道系列天書」第二の巨冊を、大道の衆生と共に成し遂げられたことを称えます。
これは非常に評価に値し、賞賛すべきことです。また来週の金曜日には、「大道シリーズ天書」の第三巨冊に続き、第一冊から大道シリーズ天書第二十五冊までの全ての天命を受け継ぎます。すべての神仏と学生が一層努力し、上蒼の全ての使命と期待を成し遂げられることを願っております。皆様、ご苦労さまでした。それではまた。
2014年、0927、2020◎＃※   ０Ｋ＃
大道シリーズ天書第二十四冊－大道衆生はすでに完成し、編成することができます