大道シリーズ叢書 第25冊『大道因果』
日本語版
◆ 前置・序 ◆
書名
南無阿弥陀仏
2008年6月20日　戊子年五月十七日（金曜日）
崇心大主席　南天主宰  文衡聖帝
大道シリーズ叢書第二十五冊－大道因果
矢のように勤め、矢のように勇み、怠ることなく、疎かにすることなし。志を堅くして完成を期し、母の心の期待に応えん。
◆ 跋・讃賀 ◆
南無阿弥陀仏　降讃賀　於
◆ 前置・序 ◆
書名
2008年6月27日　戊子年五月二十四日 （金曜日）
懿勅崇心再び旨を接す　大道系列普く化を滋す
第三の大作二十五冊、  　理を弘め闡きて衆生の資と為す
謹んで  無極の懿旨  昊天の玉詔を拝受いたします
本日もまた崇心宗脈は、再び無極懿旨と昊天玉詔を恭しくお受けし、大道シリーズ第二十五冊の詔勅奉受の佳節を迎えることとなりました。崇心宗脈の体系としましては、この十二年間の一切の努力をもって、「大道シリーズ天書」第三巨冊の首冊を著作できるに至りましたことは、誠に得難き天機の良縁であります。
崇心宗脈の志を堅く保つことができれば、上天の特別な栄誉をもって弘化を推し広めることとなり、これは称賛と肯定に値するものである。本日、佳き時はすでに到来し、謹んで無極懿旨をお迎えする。本宗脈より虚空彩靈仙姑、虚空彩雲仙姑、虚空彩霞仙姑を命じ、三十里の外にて謹んで無極懿旨をお迎えし、堂に導く。
命により本宗脈の虚空道伝徳天尊、虚空落筆天尊、虚空理治法天尊をして、二十里の外にて無極懿旨を恭しくお迎えし来堂せしめ、その他すべての神仏と諸学生、および無極大道院・院修学士らは、謹んで列を整え御駕を待ち、儀礼を欠くことなきようにせよ。
無極の御前  麻仙姑
懿勅崇心副主席　  　麻仙姑、旨を奉じて懿を宣ぶ
大道シリーズ二十五冊　因果普化弘揚の義
謹んで無極の懿旨を帯び、崇心宗脈に降り頒示す。神人、俯伏す！
懿　旨　を　開　き　読　む
謹んで奉る
無極皇母大天尊　懿旨に曰く
母は理天の勝地におわし、凡塵の衆生を導き渡し、回帰超越を成就させておられる。凡塵の南贍部洲――台疆の母の心臓「懿敕崇心堂」において著作された「大道系列天書」はすでに二大冊を完成し、今や第三大冊の二十五冊に臨み、理をもって崇心宗脈に、より大きな闡述と著作をお与えになるべきである。
大道自然の法則は、因果によって全体の経緯を明確に規範し、情ある衆生に対しては、基本的な綱領と規律の観念を持つべきである。無明と無知を引き起こすことなく、繰り返し凡塵の世界に沈淪し、回帰の好機を得ることが難しいことから、再び天機良縁の著作を下化する「懿敕崇心堂」を設ける。
母は心から喜びを感じ、この二十五冊の天書に『大道因果』と題名を付け、世俗のすべての霊魂たちが真に因果の規範を明らかにし、すべての経緯と機能作用がどのようなものか、またどのように「大道の徳沢を明らかにし、因縁果報を理解する」ことを相互に受け入れ合うべきかを理解できるようにした。
因果応報がそのまま完うされるだけでなく、さらに上天が各人の「陰徳」に基づいて「徳性を加え」、福と果報を振り向けることになる。これは母なる心が崇心宗脈に期待する、ますます奮闘努力し、堅固な志をもって天地第一の奇書という栄誉ある「大道シリーズ二十五冊の天書」を完成させることである。
誠心誠意に努め、怠らず疎かにせず、志を固くして大道の因果を完成せしめん。
◆ 跋・讃賀 ◆
南無阿彌陀佛　降讚賀　於
南無東方　薬師如来仏
薬師如来降崇心　　大道因果頌勉開
◆ 前置・序 ◆
書名
無極皇母大天尊　懿旨を頒示せり　於
儒教の聖なる教え
真の仏教の心髄
無極大道院
懿旨崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月十七日、戌の刻
無極懿旨の頒示はすでに完了いたしました。おめでとうございます！崇心宗脈のすべての神仏と学生たちは、再び　無極皇母様のご肯定とお褒めにあずかりました。これは皆様の努力によって成し遂げられた殊栄でございます。すべての神人たちが心を一つにして大いに広められることを願っております。師匠は速やかに理天に戻り、旨を奉じます。皆様、お疲れさまでした。ではまた。
崇心正主席　虚空上人
虚空の因縁が崇心を降ろし　上人と共に諸の有情と会す
大道シリーズ二十五冊　人道を高める因果の行い
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は崇心宗脈体系が再び無極懿旨と昊天玉詔の大吉良辰を承ける日であり、崇心に対しこの上ない慶賀を申し上げます。天地第一の奇書たる第三鉅冊の首冊を、教理を闡明し教化する殊勝なる因縁とすることができました。
また、すべての神仏と学生、および有情の衆生らが、より大きな成長と超越を得られるようにする。このような殊勝な因縁条件は、まさに極めて稀な天機の良縁であり、崇心宗脈の聖仏および諸賢生らに対して、良き肯定をもたらすものである。先ほど、無極懿旨の頒示を恭しくお受けし終えたところであり、続いて昊天玉詔をお堂にお迎えする次第である。
命じるに、本宗脈の無極二・三関聖帝君を二十里外に派遣し、恭しく昊天玉詔をお迎えさせよ。また、無極広沢尊王、無極文昌帝君、無極司命真君を十里外に派遣し、恭しく昊天玉詔を堂までお迎えさせよ。その他の神仏と諸賢生、及び無極大道院の院修学士は、列を整えてお待ちし、儀礼を欠くことなきように。
昊天の欽差大臣　南無玄奘菩薩
昊天の勅使初めて降り来たり　南無玄奘菩薩列を成す
昊天の玉旨を奉じて頒布し、崇心道場に真理を記し載せる。
本日は初めて崇心宗脈に降臨され、誠に新鮮な感覚を覚えます。これにより、上蒼の慈悲の徳沢が広大無辺で、実に偉大であることが十分に窺えます。特に欽定された著作宗脈の正確性について、昊天玉詔を携えて崇心宗脈に降臨され頒布されたことに対し、神も人もひれ伏して拝受いたします。
玉の勅旨を開きて読む
謹んで奉る
昊天玉皇大天尊　玄霊高上帝の玉旨に曰く
朕は九五の尊位にあり、南贍部洲の教育文化課程に対し、「三綱五常・四維八德」を以て人道世界の行動準則とし、また五教の全ての伝播教化の因縁に対し、人道世界における平和な共存により深く融合し、多くの豊かな資糧源を提供し、有情なる衆生を利益するものである。
聖門体系においては、「懿敕崇心堂」が力を合わせて志を堅くし、上蒼より次々と授けられた優れた上乗の著作を成し遂げ、崇心宗脈に対して限りない肯定と賞賛を感じております。また、崇心宗脈は丙子年に堂を建立して以来、すでに十二年の歳月が経ち、「大道シリーズ天書」の著作に取り組んでまいりました。
さらに、期を重ね、冊を重ねるごとに、天が「信実の働き」の担い手として認められたのは、まさに崇心宗脈の神仏の導きが優れていたからであり、崇心の学生たちへの確信と賞賛でもあります。今や「大道シリーズ天書」第二十四冊が完成し、天の弘化という使命を、固い志をもって達成し、不屈の忍耐力で成し遂げました。
まことに天の大黒柱、朕心大いに悦ぶ。さらに「大道シリーズ天書」第二十五冊、その表題を「大道因果」とし、崇心宗脈に再び著作を継続せしむ。これにより有情衆生が因果のいきさつを理解し得んことを願う。単に因果の報いを負の側面として捉えるのではなく、常に福徳をもって衆生の因果の恵みとせん。
まさに　上天が待ち望んでいた継承であり、崇心がこの十二年もの歳月をかけて努力してきたことに感心する。天機の奥義を凡塵世界に示現し、さらに人道をより高く成全し、利益をもたらすこと。さらに崇心の神仏と学生たちは、この栄誉を通じて未来の仏乗果位を成就するよりどころを得た。これは自らの努力によって獲得したものである。
◆ 跋・讃賀 ◆
頌     励み
南無東方藥師如來佛　降大道因果頌勉　於
南無大日如来仏
南無大日如來佛　降序言　於
2008年7月1日　戊子年五月二十八日（火）
跋     一
矢に勤め矢に勇み、志を堅くして完成を期す。大道系列、寰宇に弘化せん。
◆ 前置・序 ◆
書名
書を完遂し旨を復命す。特別に犒賞し、弘化を提昇し、普く渡して回帰せしむ。
昊天玉皇大天尊　玄霊高上帝が玉旨を下されました。
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月十七日、戌の刻
謹んでお祝い申し上げます！崇心宗脈体系が再びこのような特別な栄誉に浴し、有情衆生の無明を真理の教化によって向上させることができ、初めて崇心に降りて玉詔を宣布されました。まことにあなた方のためにこの上ない慶賀と喜びを感じております！玉詔の宣布は完了いたしました！私は速やかに昊天に戻り、ご命令を復命いたします。またの機会にお邪魔いたします。皆様、ご苦労さまでした。では、また。
崇心主席　虚空文澤教化天尊
吉祥礼砲が天高く響き渡り　欽差大臣は天へと昇りゆく
無極昊天再び旨を頒ち　大道因果の徳意を挑む
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日もまた崇心宗脈体系において、ご旨意を恭しくお迎えする佳き良辰の吉祥なる時刻となりました。上蒼が再び「大道系列天書」第三巨冊―第二十五冊「大道因果」の著作を頒示され、有情衆生の因果を相互に連関させてくださったことに、心より感謝申し上げます。
未来の四億の仏弟子を成就させ、さらに二百余万の高科を借りて
技術者や人材、そしてすべての原霊子が成長を遂げることで、有情衆生が「因果の理法」という観念を理解できるようにし、悪しき災いではなく福徳を与えることができます。人為的要因による向上が難しい状況において、達成すべき条件を理解することが必要です。
崇心宗脈は、上天の大きな期待を担い、上天が確かに弘化教育の普及において肯定されることにより、自らを成就し、衆生をも成就することが必要です。これはまさに崇心宗脈のすべての神仏と学生たちが、必ず固い志を持って努力し、あらゆる困難な過程を克服し、人為的要因による成就に到達しなければならないことです。
皆様におかれましては、第二十五冊「大道因果」の弘化と普及に共に力を合わせ、有情衆生がより大きな向上と超越を成し遂げられるようご尽力いただきますことを心より願っております。皆様が共に学び成長され、真の功徳を積む拠り所を得て、「仏聖の果位」という超越の境地に到達されますことを祈念いたします。ご尽力、誠にありがとうございます。では、またお会いしましょう。
2015年3月8日19時44分◎＃※   了解＃；
◆ 本文 ◆
第一回　    因果規範
2008年7月4日　戊子年六月初二日（金曜日）
◆ 跋・讃賀 ◆
南無東方薬師如来仏　降大道因果頌勉　於
南無大日如來佛　降序言　於
南無燃燈古仏
虛空無極瑤池金母娘娘　親降跋三於
矢のように勤め矢のように勇み、志を堅くして完成させ、職務をよく果たし努力し、福徳は窮まりなし。
◆ 前置・序 ◆
書名
南無阿弥陀経開く　　仏は人間の因果を著す
大道シリーズは真に殊勝なり
二十五冊に真理を載せたり
讃賀
大道の肯定
自然と大いなる天地に向かい、すべての万物の霊と蒼生に対して行使と依帰を行い、多くの豊かな資糧源を与える。さらに人類の衆生に対しては、過去の不足や欠如、誤りを、人道世界の宗教の洗礼を通じて、欠点を修正し、向上へと引き上げる大きな因縁を得て、自らと衆生を益するものとする。
大寰天地の一切の原霊仏子に対しては、公正平等に施しがなされ、また未来の人類衆生の福祉のために、真に綿々と長く向上させることができるのは、まさに遺伝子の本質によって作り出され、過去の時空の因縁において、含因の積み重ねが形成され、それによって果報の報いがもたらされるのである。
因果に従う者への褒賞
有情なる衆生は皆、因果応報の報いがあると考え、怨親債主が討伐に来ることを非常に恐れています。しかし、知らないのは、上天が大いなる天地の有情なる衆生に福徳を加えるのは、まさに因縁を積み重ねることによって、未来あるいは現在のこの一生において報いとして得られるものであり、それは因果応報の真実性の中にあるのです。
これによって相当な拠り所が得られ、有情の衆生がこの一生において福徳を積むことができるかどうかは、正しい道であり、有情の衆生が最も切望する基本的な行いです。人類の衆生は「因縁果報」の往来する道理を理解し、仏教の真理である因果応報が存在しないと考えることはありません。決してそうではないのです！
大道因果著作の目的
未来四億の仏子たちにとって、すべての良き善き因縁条件は、向上と回帰を促し、また大きな方向性をもって集結することができます。「懿敕崇心堂」大道シリーズ第三巨冊－第二十五冊「大道因果」に著されたことは、未来の人類すべての衆生の福祉に対し、大きな方向性と明晰さをもたらすことができるのです。
良き善は増長を超え、悪しき災いと業果は減少し、このような因縁条件も良き方向へと成長向上する。崇心宗脈の体系に対し、心から慶賀の念を抱くとともに、上蒼が棟梁たる宗脈を正しく選ばれたことに、広大な人類衆生への真実の利益を感じる次第である。
この情景は称賛に値し、励ましに値する。喜ばしく、祝うべきことである。
◆ 本文 ◆
第一回　    因果規範
南無　虚空上徳人天古仏
第二回　   因果法則
2008年7月8日　戊子年六月初六日（火）
◆ 跋・讃賀 ◆
南無大日如来仏　降序言　於
◆ 旨 ◆
完書繳旨
矢に勤め矢に勇み、怠ること勿れ忽せにすること勿れ、志を堅くして大道系列を完成せよ
◆ 本文 ◆
第一回　因果規範
第三回　   因果追循
2008年7月11日　戊子年六月初九日（金曜日）
第四回　    因果定論
南無阿弥陀仏
◆ 跋・讃賀 ◆
南無阿彌陀佛　降讚賀　於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月二十四日、戌の刻
恭賀いたします。崇心宗脈の体系が「大道因果」を著作することができましたことは、未来の有情衆生である原霊仏子の向上にとって、まさに真実を理解し前進するためのものです。このような因縁と条件は、皆様と共に努力する必要があります。皆様にはご苦労をおかけし、崇心宗脈にしばらくご迷惑をおかけいたしました。今後の引渡会議でまたお会いしましょう。さようなら！
◆ 本文 ◆
大道因果第二回　　因果法則の基本構造
第四回　    因果定論
2008年7月15日　戊子年六月十三日（火）
第五回　   因果超越
南無　本師釈迦牟尼仏
◆ 跋・讃賀 ◆
南無阿彌陀佛　降讚賀　於
南無衆生皆如来　　東方瑠璃真世界
◆ 本文 ◆
第二回　　因果法則
第五回　   因果超越
2008年7月18日　戊子年六月十六日（金曜日）
第六回　    不昧因果
南無大日如来仏
◆ 跋・讃賀 ◆
頌     勉
大道の勉励
天地の造化を依り所とするがゆえに、人間世界はその中に生きる万物の霊長として、他の種よりも優れた知識と知恵を必ず持ち合わせている。自らを高め超越し、真に向上して成長することができ、今あるすべての良き因縁を糧に超越していくのである。
今や、上蒼はすでに「大道系列天書」の第三巻、第二十五巻「大道因果」を「懿敕崇心宗脈」に授け、著作に当たらせておられます。崇心体系にとってこの上ない慶びであり、必ずや上蒼の職志に従い、天地のために万民を立て、衆生のために心を立てるべく努力いたします。
また因果を通じて、より高く優れた真理を明らかにし、人道世界に大道の徳と恵みとは何かを理解させることができる。含因の本質を基礎として、人道世界のあらゆる生命の継承過程を可能にし、その中で因果そのものがどのようなものであるかを知ることができる。そうすれば、影が形に従うような機能と効果が得られるのである。
因果は人の行いに従う
天網恢恢、疎にして漏らさずということを理解できれば、福を造るにせよ業を造るにせよ、すべて現世と未来において報いがあるものだと分かる。したがって、人道世界における一人ひとりの因縁の積み重ねは、報いとしての福徳と業障をもたらすと同時に、大いなる世界のすべての原霊仏子たちのさらなる向上にもつながるのである。
すなわち、自らの成長を成し遂げること、これこそが上蒼が願うところであり、かつての「玉曆寶鈔」や「天堂、地獄両遊記」に続き、再びこのような殊勝なる機縁を整え、「大道因果天書」を解き明かし著作することを通じて、有情衆生に因果の法則の根本を悟らしめようとされるのである。
したがって、南贍部洲台湾桃園八徳の「懿敕崇心堂宗脈」は、再び上蒼の御意を奉じて、より大きな弘化を著作し、一つ一つの細かい過程を闡揚し、また未来の四億の仏子および有情衆生に対し、この理諦を規範として、より大きな成長と収穫を得ることができるようにするのである。
大道因果の所著作
未来の人類衆生が相互に成就し合い、相互に高め合えるようにすることは、崇心堂宗脈の体系こそが上蒼大道宗脈であり、また仏家のすべての仏尊・仏聖がこのシリーズ叢書の著作を護持され、より大きな弘揚と普及が可能となることは、誠に崇心に対してこの上なく称賛すべきことである。
◆ 本文 ◆
第三回　因果追循
第六回　    不昧因果
2008年7月25日　戊子年六月二十三日（金曜日）
第七回　    因果不昧
南無薬師如来仏
◆ 跋・讃賀 ◆
南無東方藥師如來佛　降大道因果頌勉　於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月二十四日、戌の刻
ああ！人界にはさらに大きな殊勝なる因縁があり、かつての「玉曆寶鈔」や「天堂・地獄両遊記」のように、因果応報と報いについてより詳細に補足した天の書が、この凡塵世界で著作されるとは、誠に感無量でございます！しばらく崇心宗脈にお邪魔し、未来に四億の仏子を導き回帰させる会議の成就に共に参りましょう。
◆ 本文 ◆
第四回　　因果定論
第七回　    因果不昧
2008年7月29日　戊子年六月二十七日（火）
第八回　   含因起動
南無瑠璃光如来仏
◆ 跋・讃賀 ◆
南無東方藥師如來佛　降大道因果頌勉　於
南無、衆生の智慧開かれんことを
大日如来と共に相会せん
人間の縁はさらに殊勝なり
大道の因果、徳は衆に帰す
序     言（じょ）
大道の成就とは
人道世界のすべての宗教は相互に向上し、人類世界の因果循環により豊かな資糧源を与えるため、上蒼の共議を経てこの「大道シリーズ天書」第三巨冊の第二十五冊－「大道因果」のすべての著作過程を定めました。人道世界における因縁果報が形成される起源の過程についてです。
著作『大道シリーズ天書』において、人間界で形成される原因は、福徳の報いとしての恩恵と、怨親債主による討伐とに分けられる。人間が作り出す「因はどこから来るのか？縁はどこから集まるのか？果はどこに帰するのか？報いはどこで償われるのか？」を真に理解することは、これらが相互に連関して作用していることを知ることに他ならない。
因果というものは理解できるものである
大いなる天地は、良からぬ因縁の積み重なりを昇華させ整え、良き報いへと転じさせる。因果が人世のあらゆる生き方に対し、いかなる心構えをもたらすべきか。悪業をなすことと福徳を積むことの区別によって、あらゆる善果の報償と因果応報が生じる。聡明なる者であれば、必ずや良き因縁を昇華させることができよう。
さらに、過去の良からぬ悪因を清算することもできる。これは、世の中のすべての因果に対して、より大きな清算と除去が可能である。あなた方は「大道因果」という殊勝な著作に巡り合い、今まさに上蒼の「第一天書」に対して、より大きな収穫と利益を得ることができ、その中にある詳細な過程を理解することができるのである。
大道因果天書の著作は、「真仏心宗、懿敕崇心堂」に対する肯定と賞賛であり、序文を通じて祝賀を表すものである。これにより、すべての崇心の神仏と学生が、より大きな向上と成長を得ることができる。これは単に上蒼の肯定だけでなく、仏教体系の多くの聖尊、聖仏の肯定でもあり、また崇心が著作した「大道因果」の天書に対しても、確かな肯定を与えるものである。
◆ 本文 ◆
第五回　　因果超越
第八回　   含因起動
2008年8月1日　戊子年七月初一日（金）
第十回　   成果定論
南無虚空　上徳人天古仏
◆ 跋・讃賀 ◆
南無大日如來佛　降序言　於
儒教の聖なる教え
真の仏心の宗派
無極大道院
懿敕崇心堂
戊子年蒲（あやめづき）月二十四日、戌の刻
よし！崇心堂体系が再び上蒼第一の天書――「大道因果」の著作を授かり、有情世界により大きな回収と収益をもたらすことを恭しくお祝い申し上げます。しばらく崇心宗脈にお邪魔し、未来の仏教による引渡しと四億の仏子の回帰について共に協議いたしましょう。皆様、ご相伴いただきありがとうございました。またお会いしましょう！
虚空文澤教化天尊  文衡聖帝
仏家の殊勝なる著作　　大道因果降来の由
すべての仏尊聖が降臨され　   　共に未来の回帰成就を議せらる
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は、南無阿弥陀仏、南無東方薬師如来仏、南無大日如来仏、南無本師釈迦牟尼仏、南無燃燈古仏をはじめ、諸仏聖仏尊が揃って崇心に降臨され、「大道因果」の著作についてご協議いただきます。
未来の有情衆生に対して真に明晰となり、因果循環の細部をより大きく成長させ、利益を得ることができる。本日は誠に大変な賑わいで、すべての仏教体系において、仏尊、仏聖、教主などの区別なく、皆がこの「大道因果」を賛賀し、頌勉し、序文を寄せている。さらに、南海古佛と南屏道済古佛が崇心に戻られ、共に議を交わされている。崇心宗脈の学生たちは騒ぎ立てず、会議に影響を与えないよう注意されたい。では、またお会いしましょう。
2015年3月8日19時45分◎＃※  了解＃；
◆ 本文 ◆
大道因果第六回　　因果を昧まず本應に該る
第九回  　  觸緣接續
2008年8月5日　戊子年七月五日（火）
第十二回 　  好壞報償
南無燃燈古仏
◆ 跋・讃賀 ◆
南無大日如來佛　降序言　於
南無、衆生の心の法が開かれんことを
燃燈の要門、自然に開かれる
古仏が降ろされた第一回、大道の因果規範を載せる。
◆ 本文 ◆
第一回　    因果規範
なぜ因果の規範が必要なのか
有情世界に生きる人類の衆生は、なぜ人道世界に降りて人間として生まれてくるのでしょうか。大いなる天地のすべての万物の霊性ある衆生の中で、この問題の本質がどこにあるかを理解できる者は、実に少ないと信じます。まさに有情世界において最も看破し難い困難な点は、人道世界におけるあらゆる生存の在り方にあります。いかなる心構えと視点をもって、人道世界の生活に参与すべきなのでしょうか。
人間の視点から、自らの不良な遺伝子の本質を修正し変革することで、必ずや不良な因縁を捨て去ることができ、自らの不足や欠点、過ちを正し、真実のままに向上し超越することができるのです。ほとんどの人間衆生は人道世界において五濁悪世の汚れを受け、この空間に来たのは単に「食べ、飲み、排泄し、雑事に追われ、眠る」ためだけではないと理解できる者はごくわずかです。
知らず知らずのうちに、人類の霊性の素質をより高次元の浄化へと向上させることが必要です。つまり、人間界の科学技術で言うところのDNAを、いかにしてRNAの優良遺伝子へと向上させるかということです。その中で、いかにして優良遺伝子RNAを高め、自らが発光するQNAを備えることができるか。大宇宙のあらゆる宗教は、その経緯と秘訣がどこにあるのか、真に理解することができていません。
それはまた、上昇し難い障礙を形成し、人為的要因によって自らの行為動作しか認識できず、人道世界が単に生きるためだけにあるのではないことを理解することもできなくなる。また、汝らは深夜の静寂や相当に静かな空間において、突破し難い「空虚な感覚」が生じることはないだろうか。この「空虚な感覚」は、いかにして自らが「虚空の感応」において成長するためのものとなるのであろうか。
大道因果著作の本来の意図
自己の仏性の因質が浄化される過程において、その奥義と秘訣は、因果循環への討伐と賞賛を区別することにあり、そこから有情衆生の因縁果報の循環、およびそれに関連する善悪禍福の問題が生じる。有情衆生はこの時空の因縁の中で、修行のあるなしにかかわらず、しばしば突破しがたい「空虚感」に襲われる。この「空虚感」はいったいどのようにして生じるのか。
もし「静寂の極み」に至ったとき、この「空虚な感覚」の中で、自ら往昔のすべての過程を知り得ることがある。これこそが、世の宗教が求める最高の境地――「虚空感応」であり、自らの過去・現在・未来の三世を貫いて繋がり、さらにそれぞれの生々世々の過程がどのようなものであったかを知ることができる。これはこの「空虚な感覚」が変化したものである。
そして、人間世界の最高次元である「虚空感応」として体得されるに至る。すべての宗教修行者がこの条件と境地に達することはできず、それは有情衆生の因果を連鎖させることである。もし真に極限まで静寂を得ることができなければ、浄化と向上を望んでも、断片的な継続に留まるだけで、累世にわたるすべての因果循環を相互に円満にすることは難しい。
全ての因縁果報によって受ける報いは、怨親債主からの報復だけではないことを知る必要があります。むしろ、多くの場合は恩返しとしての報いを受けることもあるのです。有情衆生は往々にして、因果応報の苦しみに陥ると、それは目に見えない力による弄ばれであり、非常に骨身に沁みる経験だと感じがちです。このような因果応報は大千世界において、有情衆生に自らの行いをどのように省みさせるのでしょうか。
大道の因果が著作を成し遂げる
このような悪しき苦しみをいかにして軽減すべきか。有情の衆生は因果の報いに対して、感謝の心をもって報いることができず、逆に、しばしば自らの心に甘え、情けに甘える心構えを抱いている。さらに、まさに「因の上に因を重ね、果の上に果を重ね、報いの上に報いを重ね、償いの上に償いを重ねる」状態に陥り、因果の業障が訪れることを悟ることができないのである。
多くの場合、借りを返すことで未来の仏陀、菩薩、高真などが成就されます。なぜそうなるのでしょうか。冤親債主による借りの返済は、必ずしも悪いことばかりではありません。一般には、それはどうしようもない因果応報だと考えられていますが、実は冤親債主による借りの返済は、しばしば逆説的な成就をもたらすのです。有情衆生は天の恩恵を理解できず、それが逆方向から福運を増すことになるとは気づかないのです。
財利が栄え、繁盛するにつれて、人々はしばしば道に背いてやって来る。もし討伐の中で感じたことを深く理解できなければ、別の角度から見るべきである。このような討伐の過程は、感謝の心を生み出して報いることができ、しばしば逆の不良な行動を、人間がすでに慣れ親しんだ平穏な日常生活に加える。これは現代の有情の衆生が深く理解できず、その中で逆の面での成就はどうなっているのか？常に業の負債を深め、苦しみと痛みをもたらしている。
すべての逆境による成就は、順境よりも心に深く刻まれ、逆境によって奮起する力は、より強い向上の原動力となります。有情の衆生は、平穏な生活の中で修行や人との関わりにおいて、より多くの成果を上げるべきだと考えがちです。このような見方は一般的な衆生にとっては当然のことです。しかし、真に修行を深め、未来の仏陀や菩薩、高真の境地へと進みたいと願うならば、
大道因果の構造
これは取るべからざることである。なぜこのようになるのか？これは千古より、人類が根本的に深く悟ることが極めて少ないことによる。上天が福禄と富貴を加えるのは、しばしば逆説的に人を成全するためである。これらの因果循環における善き因果は、なぜこのように人為的要因と相互に成全し合い、このような逆説的な形で成就させるのか。もしそうでなければならないのだろうか？否！人為的要因が因果循環の報いを受ける過程において、
過去がどのようなものであったかを問わず、天は各人の前世の福縁と福徳、福報の多寡に従って、一人ひとりが今生においてどのように正面と反面の成就をなすべきかを区別される。有情の衆生が最も悟り難く、耐え難いのは、平穏な生活の過程において、自らのあらゆる欠点、不良、過ちを改め直し、自らを向上させることができないことである。
これは最も理解し難い部分である。つまり理解できないのは、天がこのような正面と反面の報い、そして受容によって相互に完成させることができるのに、なぜ有情衆生がすべての悪しき因果応報の過程における試練をより楽に乗り越えられるようにしないのか、ということだ。これは人道世界の有情衆生が先人から誤った観念を教えられ、このような反面からの成就を深く理解することができないためである。
また、正面の成就よりもさらに上昇し超越するのが、「大道因果」が構築した枠組みと意味合いの規範であり、すべての秘訣と奥義の中で、有情の人類衆生により大きな成長と収穫をもたらし、さらに利益を得られるようにするものです。人道世界は過去のすべての因果をどのように完消するのか？どのように清算するのか？どのように向上させるのか？どのように超越するのか？
大道因果の法則
現代の世に生きる人間は、苦難や試練を非常に受け入れがたい過程と捉えがちで、このような考え方や認識が多く見られます。天の大いなる恵みを深く理解することが必要です。あらゆる逆境や困難が訪れる時、有情の衆生は世間の生活習慣の過程にどう向き合うのでしょうか。また、宗教修行に入り、真実の修行を実践する者にとっては、修行の成果を測る試練や検証がどのようなものとなるのでしょうか。
もし平穏無事な状況であれば、そもそも試練の成果がどのようなものか見えてきません。試練に直面することで初めて、はっきりと観察することができるのです。一人の宗教修行者が受ける試練と、一人の平凡で修行を積んでいない者が受ける試練、この両者を比較してみると、すべての心の歩みには先天的な免疫力による加護があることが分かります。一般の有情衆生に対しては、これ以上の成長と向上は望めないのです。
真の修行実践者に対しては、数多くの試練を経なければならず、そうして初めて、一人の真の修行実践者のすべての試練における力量がどのようなものかが見えてくる。あるいは単に名ばかりで「私は修行者です」「私は宗教的信奉者です」「私は学ぶ者です」と言っているだけかもしれない。実際のところ、ほんの少し人為的な要因による試練が加わっただけで、すぐに崩れ去ってしまう。人間の行為ははっきりと観察できるものなのだ。
このように自らを宗教修行者と認める者はどうであろうか？また、その成果はどうであろうか？まさに、各人の「智慧、心態、觀念、作為與應對」がどのようなものであるかを分別することで、真の修行者なのか、それとも名ばかりの者なのかが明らかになるのである！すべて真に向上し超越を望む者は、試練の過程と苦難の磨きに身を投じる。ほんの小さな一つの試練を通じて、逆境という苦しみの中で、自らの真実を知ることができるのである。
大道は因果の根本なり
試練と苦難に直面する者自身の「心構え、観念、行動、智慧、対応」はどうあるべきか。このような修練を積むことでこそ、真に未来において向上し超越を成し遂げる者となるのである。このような認識の過程を必ず持たなければならない。さもなければ、この広大な天地において宗教的修行に入った者で、自分自身の修行が十分に優れていると思わない者は一人もいないだろう。しかし、ほんの少しの小さな試練を与えられただけで――
それによって理解できるようになる：心の状態、知識、対応能力はどうなのか？また、他の因果を促して延長させることにもなる。あなた方が接触しているのはどのような種族なのか？おそらく人間の衆生であるはずだ！このような人間の衆生：人間である限り問題があり、問題があれば相対するものがあり、相対するものがあれば：是非、善悪、正誤、正邪があり、それは小さな試験問題の中で、多くの問題を延長させることになるが、それではどうなるのか？
考磨の過程は非常に大きな無念さを生み出します！常に誰かがぶつぶつと愚痴をこぼし、また誰かは心から納得せず、さらに誰かは激怒し、一方で誰かは心を動かさず黙って受け入れ、また誰かは知識と知恵を駆使し、誰かは行動で向上を図るなど、様々な対応の仕方があります。これは原因と結果がどのような結果を形成するか、その経緯を理解できなければならないということでしょうか？
もし自分が受けた試練をはっきりと認識できなければ、それはかえって逆効果となり、あなた方が向上しようとしても、根本的に不可能です。なぜそうなるのでしょうか？これは人間の衆生が環境に直面し、それを処理する際の心構えと過程に関わっています。時には自分自身の心構え、観念、知識、対応が合格点に達しているかどうか、もし合格点に達していなければ、次の試練が再び現れるときに影響を及ぼすことになります。
大道因果の超越
時に試練を通して観ることもある。有情の衆生は皆、それを取るべきでないと思い、そのような試練は受けたくないと考える。しかし、真に向上し超越を目指す者にとってはどうだろうか。もし常に平穏な境遇にいたなら、かえって日常生活の中で知らず知らずのうちに悪業を造りやすい。これは上蒼の慈悲の徳沢ではない。一般的な衆生にとっては、それはやむを得ないことである。
もし真に天の使命を授かった者に対してなら、それは取るべきではない。人間はただの旅人に過ぎない。この世のあらゆる物質的な享受は、あまりに豊かすぎると、かえって本来の天性と帰るべき方向を見失いやすく、しばしばこの世がとても楽しい世界だと思い込んでしまう。一般の衆生にとっては、確かにそうなりがちである。
しかし、天の職責と使命を担う者にとっては、平穏な生活の中に迷いやすい。このような縁と条件によって、自らの先天の本質が浄化されたことを見失い、帰るべき方向も見失ってしまう。有情の人類衆生がこのように沈淪する理由はここにある。さもなければ、すべての衆生は先天の大願力を持って下界に降りてきたのだが、真に使命を果たせる者は一体何人いるだろうか。多くは沈淪しているのが現実である。
有情なる衆生が次の世に再び戻ることを選ぶのか、それともこの現世において向上超越を果たそうとするのか、あなた方は答えられますか？もし一世で回帰できるというならば、あなた方が今受けている試練と苦難は、より多くなるでしょう。しかし、不平不満をこぼしたり、心から納得できずに嫌々ながら行うことになるのか、それとも…。
大道因果総体著作
もしこのような心構えなら、あなたは単に名ばかりの修業者、名ばかりの宗教信者、名ばかりの学生と言える。そもそもこういう人々は、先天の本質をどう浄化すべきかさえ理解できていない。ましてや一生で向上し超越できるなどと思うのか？また自分は今の生活に十分満足していると考える。これは人間界において福徳に恵まれた者で、この世で比較的満ち足りた生活を送れる人たちである。
当然、福報も比較的やや厚くなり、この世で福縁を積むことができますが、来世は同じようになるでしょうか、あるいは時空の因縁がすでに異なっているかもしれません。果たして本当に向上し、超越することができるのでしょうか？人道世界における相互の因果関係をより詳細に述べることで、あなた方の数千万年にわたる天機の奥義を明らかにできなかったすべてが、「大道因果」の天書の中で明らかにされるのです。
有情の衆生は皆、大きな回収と利益を得ているのに、なぜこの天機を人間界に示す必要があるのか？これは千古以来、人類の衆生が生活の過程で、なぜ自分たちの生活がとても快適で幸せなのか、またとても苦しく挫折や困難が多いのか、試練や試験が山ほどあるのか、これらはどのような原因によって形成されているのかを理解することが難しいからである。有情の人類の衆生は理解できるだろうか？すべて前世の因縁によるものである。
大道因果著首回　　　　著作本意降来会
人間世界は因縁によって成り立ち
善悪の区別はこのように定まる
千古の奥義を開き明かす　　因縁果報は互いに合致す
人間が福を造るか悪を造るかは　未来に回って来る報いは自らに在り
この偈は！有情の衆生、原霊の仏子たちよ、共に励まし合おう！未来の衆生の福祉と福報は、汝らが今この瞬間に、この天地における「第一手の資料」が自らの修行と改変によって、一切の因果を清算し化解するものであることを悟り得るならば、まさにその通りに現れるであろう。皆様、ご苦労さまでした。次回の著作にてまた続きを！皆様のご多幸を祈り、またお会いしましょう！
無極瑤池に鎮座する宝の仙童
無極の勝地に少人行き　鎮寶明らかに其の原因を白す
仙童今日神人と会す　　大道因果初めて親しむ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の修学士の皆様、こんばんは。本日は「大道因果」の第一主著仙仏であり、本宗脈の大宗師である南無燃燈古仏がご降臨され、「大道因果」の主たる体系と規範について、初めての解説を著作されました。次回はこの因縁の体系に基づいてさらに展開し、皆様により新たな思考の空間を与え、ご自身の未来におけるさらなる向上の可能性について考えていただけるよう導いてまいります。
汝らが心を込めて体得する様子は如何なるものか？今日ここに至るまで、皆様ご苦労さまでした。
2015年3月8日19時46分 ◎＃※  了解。
第六回　　因果を昧まさず
第十回　   成果定論
2008年8月8日　戊子年七月初八日（金）
第十三回  　 父母因緣
南無理心光明如来仏
第一回　    因果規範
南無上德人天佛　　虚空上人降著作
第七回　　因果不昧
第十回　   成果定論
2008年8月12日　戊子年七月十二日（火）
第三十回　  小人惡禍
南無　虚空上徳人天古仏
第二回　   因果法則
因果法則の基本的な作用
人道世界のすべての行為は、因果法則の規範と作用から離れることはできません。また、人道世界はなぜ人類の集団生活という要素に対して、相互成長のよりどころとするのでしょうか。これは大いなる天地の中で、すべての生存の方向性が、人々の相互の関わり合いから来ているからです。すなわち、陰陽、是非、ＯＸ、正誤、正邪といった方向性によるものです。
また、人為的要因が因果の循環に加わることで、因果の循環が絶えず相互に形成され続けることとなり、これが因果の法則を形作るのです。人道の生存における一切の相互関係、およびすべての善悪の因縁が良し悪しの果報となることを応用し、これは千古の昔から、第一元会であれ第二元会であれ区別なく存在してきました。
今に至る第三元会まではすべてこのように、一切の因因果果が相互に循環作用し、因果法則の公律条綱を進化させてきた。大寰宇宙の公正な規律に対し、いかなる人も皆、この規律と条綱を受け入れ、「因を含む」ことによって「果報」を得るという相互循環の中に入り、因果法則と公理条綱の内にある。
すべての有情衆生が人道世界に生きている中で、宗教修行と洗礼を受けるか否か、信仰を持つか持たないか、あるいは宗教を信じるか信じないかに関わらず、多くの無明の障害によって制限されています。なぜこのような制限と無明の障害が生じるのでしょうか？
因果の法則は極めて公正である
必要とされるのは、すべての衆生が人間界に生を受けることは、前世からのあらゆる因縁果報の蓄積を引き継ぎ、今生におけるすべての生存習性を加え、自らの生存経験の法則を高めるための行動を選択するものであることを理解することです。すべての衆生は前世からのあらゆる因果を受け継ぎ、それによって今生の生存行動が生じているのです。
これは千古以来、変わらぬ主体の法則である。なぜならば、現代はすでに科学技術文明の時代に入り、大宇宙の天地に存在するすべての衆生は、生存の方向性と行動のための福徳の基盤が提供されているからだ。では、なぜ自分は今生において地冥星の空間に生まれ、人間として誕生したのか？なぜ他の星体に生まれなかったのか？
これは、それぞれの過去世の因縁が異なるため、地冥星での生存条件しか持てないということです。また、すべての過去の人間界での累世の因縁が積み重なり、自分が人間として生まれる基本的な条件を形成しているのです。それはすでに長く存在しており、同じ地冥星の一部の有情衆生との間には、すべての恩恩怨怨、善悪良し悪しの因縁と果報があるのです。
必ず自ら償いと完消を行わなければなりません。もし地冥星において償いと完消を行い、福報を享受することができなければ、すべての衆生にとってあらゆる生存の方向性を突破することは極めて難しく、累世にわたる「因縁果報」の分差を形成し、さらに有情衆生が人道世界において自ら累世以来の因果を完消することができなくなってしまいます。
因果法則の規範
自らの行為と動作によって、自らに対しては分別して清算し完済し、受け入れ享福することができる。また、人為的な努力によって、この世のすべての行為と動作が生じる。これこそが有情なる人類衆生に存在するものであり、累世の因縁果報があってこそ、今生において享受し、また清算の動作を行う必要が生じるのである。
人界においてなぜこのような相互作用が存在するのか、また天地が徳沢の規範を演繹する中で、人間の行為と動作を通じて、累世にわたる生存の積習と習慣性が加わり、人為的な生存の枠組みにおいて、天地の演化が基本的な機能と効果として働くとき、人道の生存指向は人為的要因の様々な条件によって形作られることになるのです。
生存空間において、全ての有情衆生は自らの生存の方向性と生活習慣について、地冥星が長く安定した安住の地であるとしばしば思い込んでいる。しかしながら、自分が地冥星に生きることで、なぜ人道世界のあらゆる反面的な苦しみと困難に常に遭わなければならないのかを理解していないのである。
人道世界において、生存を志向する中で、すべての前世と累世が互いに重なり合い、積み重なった生存習性は、あらゆる衆生に共通しており、それによって多くの無明の障礙が形成されます。また、なぜ多くの不順や不如意があり、いかに努力しても無駄に終わり、さらに深刻な場合には事態が悪化するのでしょうか。
因果法則の必要とするもの
本来はごく普通の美しい出来事であっても、人間の要素が悪しき性格の作用に駆られ、経験不足や無明の障害によって、しばしば善良で美しい事柄を徹底的に破壊してしまい、かえって自分自身が対応に窮する結果を招くことがあります。このような人為的要因がなぜ生じるのか、その問題点を深く反省する必要があります。
また、なぜ自分自身の善良な善意が、相当な困難や苦痛を引き起こし、自身の良くない性格や無明の障害を形成し、物事への対処態度が良い結局に影響を与えるのかを検討する必要があります。自分には多くの経験が必要であり、知識を積み重ねて実践に応用しなければなりません。もしこのような過程に、さらに無形の力が加わって推進されるならば。
それは直接・間接に自分自身に影響を及ぼし、善良で美しい意図を持つすべての行為や動作は、「因果が形成される原因」となるのです。人為的要因によって形成される逆方向の行為や動作も、人道世界を経由します。なぜ因果が形成される業力が生じるのでしょうか？もし「福報」を因果に加えると、形成される過程はどのようになるのでしょう！
この種の本来ならば自らの善良な善意に影響を与える悩みは、互いにからかい合うことはできない。なぜ福徳が加わらない場合や「悪い災い」が訪れる時があるのか？人道世界において、人為的要因がどのようにこの因果関係に悪影響を及ぼすかは、人間の「福徳と悪い災い」という二つの異なる問題点にある。
因果法則の本来の意味
まず知る必要がある：因果の形成のいきさつ全体はどのようなものか？また、なぜこのような因縁果報があるのか？自らの因果の中に組み込まれているものこそ、人間界において必ず理解すべきいきさつであり、因果関係を信じる者と信じない者を問わず、すべての人間衆生は同じくこのようになっているのである。
あなた方はいかなる宗教の宗派も区別せず、まさに因縁果報の報償作用を引き受けているのです。つまり、因果によって形成される機能の効用はどのようなものか？これは千古の昔から、すべての人界の世界において、乾坤、男女、陰陽、あるいはその他のいかなる種の衆生も区別なく同じであり、人類の衆生に対して公平に追償しているのです。
このような因果関係が形成されると、それはあなたの今生今世、そして今生の後半生や来世にまで影響を及ぼし、あらゆる行為や動作に作用します。これは消すことのできない「因縁果報」による福徳の報いであり、また「因果応報」による怨みや借りの清算でもあります。この二つの作用から、いかなる人も逃れることはできません。
因果法則は、上蒼が早くから定めた規範であり、いかなる時空や因縁においても同じである。なぜ現代において、仏教の教理教育の中で、有情衆生に「因果法則」の必要性を信じるよう強く求めるのか。それは、現代の時空因縁を明確に理解しなければならず、それは誰もが同じだからである。
五教因果法則の働き
すべての宗教に対しては、まさに「仏、道、儒、耶、回」という五大宗教を依りどころとしている。もし帰家の理諦に基づけば、ただ一人の「アッラー－アッラーフ真主」のみを信奉し、その他は信じるに足らず、これもまた「先知、先覚」と呼ぶものである。もし耶家（キリスト教）に基づけば、また「ヤハウェ－イエス」を聖人としている。
まさに「博愛」を以て天下に行うことは、この博愛は内外の区別なく、すべて慈悲の救済の方法である。しかし、心の向上に関しては、上昇と超越を達成するのは難しい。もし儒家を中道の思想とし、中道を以て人世に臨むならば、言えることは、より超越した行為と動作が可能となるということである。
天地の進化という観点から見れば、これもまた一つの限界がある。道家の立場から言えば、以前からすでに数多くの道家の優れた真理の宝蔵が、人間界に降ろされてきた。しかし現在、人類の衆生が実際に応用できているのは、人間の生存に比較的適応しやすい一部の綱領や法則だけを、取り入れて利用しているに過ぎない。
人類の因果は殊勝なり
それゆえに道家の不足している点は、道法が非常に優れているものの、その伝承は後継者に恵まれず、さらに道家の精髄を探求し、内に向かってすべての不足点を探る人も非常に少ないことです。ましてや、仏家が全体の虚空法界に対して観る視点から見れば、それはさらに無窮無尽であり、仏家の理諦と相互に比べられるものは非常に少ないのです。
また、なぜ現代において仏教の真理を行動規範の主たる因縁とすべきなのか？あなた方が崇心に「真仏心宗」すなわち「真仏は心中にあり」という条件と因縁を加えたのは、いかなる理由からか？これは「仏教の真理」を基盤とし、さらに「道家」の先立つ優れた妙法を加えたものである。
さらに「儒家」の中庸思想を取り入れ、また「耶家」の博愛を加え、さらに「回家」の感覚は非常に心地よいものです！もしあなた方が本当に自分の天上の家に帰ったら、どのように感じるでしょうか。これが千古以来、証道して家に帰った後、再び凡塵の世界に身を投じることが少ない主な理由です。
因果法則の根本
根本的に、悟りを開いて還ってきた者が再び俗世に降り示現することは稀であり、仮にあったとしてもごく少数に過ぎない。これは古来より、人類の中で悟りを開いて昇華超越した者が、再び凡塵に降りてその過程を伝える例が常に少なかったからである。しかも、それぞれの悟りを開いて還ってきた者の方法は一様ではなく、単一のモデルで規範化することもできない。
あなた方は本当に幸運です。上蒼が「大道シリーズ天書」第三巨冊の第二十五冊－「大道因果」の天機を啓示されました。これは、あなた方のすべての因果関係の総合的な向上に対して、より大きな成就と明確さをもたらすでしょう。さらに、仏家の仏聖、仏尊、そして過去にすでに仏果の位階を証得した仏聖、仏尊たちにとっても同様です。
一部は降りてきて著作し、この種の天機の奥義を再び凡塵に重ねて伝える。これは千万年に一度の、超越的な殊勝な因縁である。あなた方はこれを掴むことができるか？大切にできるか？活用できるか？それはあなた方の努力次第であり、それによって未来の果報の差が生じるのである。
大道因果の法則は、千古より明らかに徹し難し
天機示現して凡塵に入る　　自己の因果実際に得る
超越と回帰に分別なく　五つの教えが融合するはこの界にあり
人道の生存に上下の分かれあり
昇進と墜落は人の為すところなり
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合うためのものであり、また崇心宗脈のすべての学生たちに対し、より大きな成就と超越をもたらすことができるでしょう。あなた方は単に一つの宗教に触れるだけでなく、「五教の教義」の修行方法に対して、より広い心で向き合い、より明確な理解を得て、真実のままに自らを向上させ、超越していくことができます。これは、自ら努力して成長するという、非常に現実的な道なのです。皆様、お疲れさまでした。すべてに吉祥がありますように。さようなら！
無極瑤池の鳳瓊仙女
無極瑤池に人影稀なり　鳳瓊仙女台に登りて迎え奉る
大道因果主仙仏　　上徳人天古仏因
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は「大道因果」を主著される仙仏、本宗脈正主席　南無虚空上徳人天古仏がご降臨になり、「大道因果」第二回を著作されました。この「因果法則」の篇を、前回の「因果規範」と相照らし合わせてご覧ください。
すべての神仏と学生に理解していただきたいのは、天機良縁が人界に降ろされ、あなた方に対してまた一つの大きな契機が開かれたということです。これは一般的な因果の書籍ではなく、あまりにも浅はかです！天地の進化と徳の恵みはどのようなものか？『大道因果』の著作を通じて、あなた方は回を重ねるごとに、因果応報と報償の法則を理解することができるのです。
2015年3月8日19時47分◎＃※  了承。
南屏道済古仏
第八回　　含因起動
第十二回 　  好壞報償
2008年8月15日　戊子年七月十五日（金）
第三十回　  小人惡禍
南無燃燈古仏
第二回　   因果法則
南屏の台湾の衆生霊に　道済降りて著作の因をなす
古仏の徳沢は千万千
大道の因果は親しく追い循う
大道因果第九回　　触縁接続成果排
第十三回  　 父母因緣
2008年8月19日　戊子年七月十九日（火）
第三回　   因果追循
因縁果報の道を辿る
人道世界の因縁果報は、相互に受け入れ、相互に吸収する行為であり、すべての衆生はこのようにしており、この限界から逃れられる者は一人もいません。人為的要因による「因果の追循」においては、善徳の陰隲も悪行の悪果も区別なく、すべて因果の追循が相互に循環する中で受け入れられるのです。
あらゆる事象の起こりと終わりの因縁、その生成と成就も、また、あらゆる時空、あらゆる環境、あらゆる因縁の働きと機能において、それぞれの衆生を区別することなく、人為的要因によって世代ごとに成長し、善悪福禍の果報を分かつのである。すべての衆生は、人道世界におけるすべての生存の方向性を持つ。
すべての人間は、天が定めた規範に従って行動し、またそれぞれの衆生の行いや振る舞いが互いを形成し合っている。人道世界におけるあらゆる動作と行動の基準には、善悪や禍福の因縁果報が伴い、それが未来や来世における裁きの分かれ目となるのである。
また、なぜこのような「因果の追従」が、あらゆる衆生のそれぞれ異なる世代にぴったりと寄り添うのでしょうか。このような状況は、わずかな例外もなく起こるのでしょうか。まさに、不可能なことではありません！あらゆる衆生が人道世界で生きるすべての過程には、前世のさまざまな積み重ねた習性と因を含み、それによって今生、今世があるのです。
人類は因果に従って追いかけてくる
もし前世からの様々な因縁と積み重ねがなければ、どうして「因果が巡る」という相互の働きがあるだろうか。前世の様々な状況が今のこの生、この世の中に組み込まれていることは、まさに因果の法則の基本的な枠組みに合致しており、物事が起こる過程においては、一つ一つの出来事の全体の成り行きを理解することが必要である。
この「因果の追従」においては、前世のすべての福と禍がこの時空に加えられ、また前世のすべての因果が人類衆生に追い従うのである。一人ひとりがまだ生まれる前から「色沢・分数・暗号・エネルギー」という四つの要素を持っており、これこそが人類衆生の今世における福禍報償の「依りどころ」―すなわち「碟憑（ディスクの証）」なのである。
それぞれの衆生の今生における福・禄・寿、富貴貧賤、順境逆境といった様々な区別に依拠し、ただ一種類の人間という衆生でありながら、さまざまな禍福の報いによる生活の層次を区別する。このような依拠は自らのこの一生に従い、それぞれの衆生の今生がどのような生存条件であるかを区別するのである。
前世に積み重ねた因果が「因果追循」によって今生に現れる時、果たして自分はどのような心境を感じるでしょうか。まさにあなた方の前世の積み重ねが今ここに現れているのです。このような因縁や環境の中、もし悪い環境に置かれているならば、自ら変えようとする心がなければ、好転させることはできません。
因果は根本の因縁に従って巡る
現在のこのような不良な環境に対して、より快適な空間へと変化させ改善することができます。これはまた「因果追循」の法則にも合致します。さらに因縁果報が人道世界に組み込まれており、あらゆる時空環境は因果の法則と綱領に従って循環しています。これは上天が制定した人道世界が、数多くの元会を経て報償されたものなのです。
今この元会において、この三万年間のすべての条綱と規律は、人道世界の因縁果報によって区別される：「前世に何の因を種いたか？今生に何の果を受けるか？今何の因を種くか？来世に何の果を得るか？」これは「前世、今生、来世」の三者を区別するものであり、すべての有情衆生はこの時空の環境の中にいる。
前世の業因と果報を引き受け、今生今世がある。あなたが今まさに行っている「業因」は、来世のすべての「果報」となる。善悪や優劣の区別なく、有情衆生に対する人為的要因によってもたらされる。「前世でどんな因を蒔いたか？今生でどんな果を得るか？今生でどんな因を蒔くか？来世でどんな果を得るか？」
すなわち、すべての衆生に対して極めて公正平等であり、人間界における相互の因縁と結果がどのようなものであるかを区別することはない。また、自らが積み重ねた習性もまた一種の相互因縁を形成し、前世の因果における「色合い、点数、暗号、エネルギー」によって区別される。それぞれの衆生は今生において、どのような因縁果報の償いを受ける過程を担っているのである。
人類衆生の累世因果
有情なる衆生がもし福報の賜物を受けるならば、いかなる抗いがたい不本意も生じることはないでしょう。しかし、無形の圧力による干渉を受けたり、怨みを抱く縁者や債権者が討伐に来た時には、往々にして心から進んで返済しようとはせず、むしろ自分はこの世において非常に善良であり、誰をも騙したり害したりしたことはないと思い込んでしまうのです。
また誰とも怨みを結ぶことはないのに、なぜこの世でどんなに努力しても、前世から積み重なったこのような、どうしようもない怨親債主の報いを消し去ることができないのか！有情衆生はこのような状況がどのように生じるのかを知ることができるだろうか？人道世界におけるすべての生存習性は、すなわち汝らが今この瞬間、前世と来世のすべての因果応報を通じて経験するものである。
今や時空の因縁は十六倍に縮まっています。かつての因果応報は、往々にして次の世になって初めて見ることができましたが、今ではこの世、この生において、このような相互の成就と因果の報いを見ることができます。しかも、このような因果応報の事例は次々と現れ、至る所で見られるようになりました。
有情なる衆生の一切の行為動作には、前世の全ての因が積み重ねられて今生・今世に現れることがあります。なぜ因果の法則は、一人ひとりの生々世々を追いかけ、少しの漏れもないのでしょうか？自分自身のこの生・この世における一切の積習は、必ずや自分自身の前世の所作・所為が今生・今世に積み重なったものに従っているのです。
大道因果追循の法則
有情なる衆生が宗教修行に入る者は、また別種の先天運命であり、命格と命盤も新たに調整されることになる。このような前世の因果の積み重ねが、今生に現れ出て、それぞれの宗教修行者ごとに異なる命盤が現れるのである。すべての宗教に入る者にとっては、運命の中で宿命に縛られることも比較的少なくなる。
自身の本来の宿命と運勢に従って行動しながら、別の宗教的な運命図に沿って段階を踏んでいく。修行者が宗教に入った後の行動について、変化があったか、それとも単に名義だけを借りて「私は宗教の修行者だ」「私は信仰心のある善良な人間だ」と自称しているに過ぎないかを見極めること。このような人々は実に数多い。
宗教に入った一人の行動から、その実態をはっきりと見ることができます。また、なぜ真に修行を積んだ者の行いは、自らの運命を改めて定めることになるのか。一般の者が宗教に入った後、果たして運命を変えられるのか。命格と命盤が変えられるかどうかは、自らの行いによって区別され、決定されるのです。
もし単に名義だけを掲げる者であれば、それもまた変えることはできず、依然として前世の因縁を引き継ぎ、それが積み重なって現世に至り、一人の宗教信仰者にとってはどうしようもないことなのです！人間の衆生は、自らの前世のあらゆる行いと動作を携えてこの世に生まれ出でるため、前世のあらゆる因縁が積み重なった因果をそのまま背負ってくるのです。
因果の法則は基本的な作用に従う
では今生、今世があるとして、それ以前の前世に対してはどうであろうか？また、このように一切の無明の根源を辿ることのできない状態は、有情衆生が生存する上で必ず生活の中に宿る習性となり、前世の色合いを通じてどのような点数に区分けされるのか？この点数はどのようなものか？その暗号はどのようなものか？エネルギーはどのようなものか？
これがまさに、すべての人間衆生がこの世で営む生活の「よりどころ」の違いであり、ただ一つの人間衆生にすぎないにもかかわらず、千百もの人間生活の「よりどころ」として区別され、「分數、色澤、密碼、能量」という四つの異なる要素によって、それぞれの人がどこに生まれるかを追跡することができるのです！
各人が生まれた後、それぞれの福徳の報いが異なり、生活も異なり、環境も異なり、習性も異なり、享受する条件も異なることになります。これらは、上天が既に定めた法則と施行基準の枠組みがあり、さらに前世の「色沢、点数、暗号、エネルギー」という四つの要素が人間の要因として加えられることによるものです。
各人の行いがその結果を決定する
また、様々な人類の衆生を区別して見ると、一人ひとりが遭遇する状況はどのようなものか。異なる色調によって異なる点数が区別され、異なる暗号によって異なる時空のエネルギーが区別されることで、異なる環境での生活が生まれます。有情の衆生はそれぞれ異なる遺伝子の本質によって成長し、まさに現在の生存の縁起として現れているのです。
人為的要因は生活環境と時空によって形成され、すべての衆生はどのような時空の因縁にあるかによって、どのような環境で生活することになる。どのような因縁のもとでどのような人付き合いをし、すべての行動規範はどのようなものか？これらはまさに早くから定められたものであり、人はただそれぞれの「前世の宿命」に従って生きているのである。
これは今生において事を行うに過ぎず、つまり人間界の先天の八字運命によって、あらゆる事柄に対して前世・今生・未来世の様々な一切を区別し、未来に蓄積される人間の生存と作為がどのようなものであるか、これはまさに現在の有情衆生が根本的に理解できない生活の因縁なのではないでしょうか？
有情衆生の行動規範
さらに、未来のすべてがどうなるかについても迷いと障りがあるのです！どの時空においても、自分自身の現在の行動基準を理解することはどういうことでしょうか？次の瞬間の過程はどうなるのでしょうか？なぜ古人は「吉凶未来先に兆しあり、人生の過程未来に躍り、因果衆生に追循し、絲毫も漏らさず今生に挑む」と警告したのでしょうか。
人界の一切の生活習慣において、どのような恩人や小人に出会い、どのような福報を享受し、どのような災禍に遭うかは、すべて既に定められている。それぞれの衆生の異なる行動基準によって、汝の今生の後半生や未来の生生世世における一切の因縁果報が区別されるのである。
自然と、天は有情の衆生の行動規範を、自らの第八識ICマイクロチップに刻印し、あなたのこの一生、この世のすべての行為を記録するのです。この第八識ICマイクロチップは、前世の様々な因縁を今生に積み重ねたものであり、もしあなたがそれを知りたいと思うならば、次の機会に続きを待つことになるでしょう。
人生の誕生には因縁あり
積み重ねた前世が今生を形作る
今世の行いが来世に受け継がれ
人の道を生きてまたそれに従う
八識の田に記憶が宿り　  　そこにI Ｃ微結晶あり
今生の行いを記録するは　前世の因果の基に相接す
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合うものである。自らの今生、この世における一切の行為と動作について、自己の生存の方向性を理解し、無明と無知の障害が如何なるものであるかを明らかにし、汝の今生この世に対して責任を持つことが必要である。せっかく人として生まれる機縁を得たのだから、自らを裏切ることのないように。さようなら。
無極中壇元帥
中道の人生は本来、至仁にあり
壇内の諸賢は大道を歩む
元来の古風な姿もまた愛らしく　   　風格満点で天真爛漫
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大道シリーズ主著仙仏・南屏道済古仏本尊が自ら降臨され、「大道因果」第三回を著作されました。「因果追循」の原則と本意について、相互に励まし合い、必ずや心を込めて努力し、崇心宗脈第六期の弘化導引に取り組み、全ての兄弟姉妹を導き帰還させねばなりません。皆様、ご苦労様です。すべて吉祥に満ち、またお会いしましょう。
2015年、3月8日、19時48分◎＃※  了解。
南海古仏
第九回　触縁接続
第十四回     夫妻情義
2008年8月22日　戊子年七月二十二日（金）
第三回　   因果追循
南開の大道は衆生を普く照らし　海上の珠光は人道を成す
古より因果は再び修め整えられ、仏は定論を著して有情を証せしむ。
第十回　   成果定論
第十五回   　夫妻恩情
2008年8月29日　戊子年七月二十九日（金）
第四回　    因果定論
因果応報の基本原理
人類の衆生が持つすべての生存習性には、生活の中に前因と後果が加わることになります。いかなる時空や因縁においても区別なく、すべての過程はこのようであり、前因と後果が相互につながり合うことで、有情の衆生は人道世界において、すべての人道的世界における「因果の定論」の循環の必然性を理解できるのです。
また、人道世界ではいかなる国も区別なく全て同じであり、すべての衆生が人道世界で生存する時、因果循環の定めから逃れることはできません。しかし、有情の衆生は、前世の因と現世の果を、人道世界における自らの行いや行動、そして全ての振る舞いに結びつけて考えることができないのです。
未来における善悪や禍福の判断基準は、福と禍、良し悪し、善と悪に分けられ、「因果応報」の法則が機能します。この大宇宙において、人間も万物の生きとし生けるものもすべて、この「因縁果報」の相互循環を受けています。有情の衆生が人間界で生活するとき、一人ひとりの衆生は皆、このようにして生きているのです。
あらゆる時空の縁起もまた同様である。これは地冥星を通じて「因果定論」を人間界の生活における一切の行為・動作に植え付け、さらに人為的要因がこのような制約に入り込むことによる。ではなぜ万物の生きとし生けるものは制約され、このような因果循環が相互に作用するのか？地冥星を理解するにつれ、すべては相互に対応関係にあることがわかる。
因果定論の作用
まさに相互に対立し、区別するものがある：乾坤、男女、陰陽、正邪、是非、正誤。また、有情の衆生は時空や国、因縁を問わず、因果応報の相互的な過程を奉じている。このような「相互対立」が、どうして「絶対」に至って成長することができようか。
すなわち、人界には相互対待の関係が存在するが、成長を超越する者もまた相互対待を通じて絶対に到達することができる。因果循環の制約を受けるとはいえ、「相互対待」によって「絶対に達する」ことが可能である。因果循環をさらに高みへと昇華させ、因果循環を完全に清算し消滅させることはできるだろうか。
また、有情の衆生には天機を知ることができないが、なぜこのような向上は人道世界の因果循環を超越できるのか？『相対から絶対に至る』という条件の中で、すべての衆生がこのような天機の良縁を得られるだろうか？必ずしもそうではない！ましてや、その中でどのような成就点があり、それがどこにあるのかを知ることはできない！
人道世界のすべての衆生が凡塵世界に入る時、あらゆる事柄に対して自らの体験を通じて経験を積み重ね、成長していきます。人間の視点と目線で人道世界を見るならば、人としての基本は永遠に変わることがなく、また人道世界で人として生きる時には、数多くの制約と障害が生じることになります。
因果定論の行うところ
これは人為的要因に対して、より広い思考と観念を持つことができなければ、人道世界の限界と障壁を打ち破ることもできない。もし限界と障壁をさらに設けるならば、すべての衆生は「食べ、飲み、排泄し、雑事をこなし、眠る」という生存を求めざるを得ない。人為的要因を経ずして、「食べ、飲み、排泄し、雑事をこなし、眠る」ことを成就させることはできないのである。
あなたがたは自分の身体を中庸に扱うことができず、貴重な命を簡単に失いがちです。また、生命を維持するには食物連鎖の仕組みが必要であり、それによって生存と安寧が保たれます。有情の衆生は、人為的要因によって「食べ、飲み、排泄し、雑事をこなし、眠る」という行為を向上・超越させ、食物連鎖の制約から解放されることができるのでしょうか？
如何にして食物連鎖の制限を受けない境地に到達できるか。これは有情衆生にとって、修行による向上が比較的容易であると言える。しかし、大多数の人間は食物連鎖の制限を受けている。より大きな向上と超越を望むならば、まず食物連鎖という関門を軽視し、その影響を減らすことが、真実の性質に合致するのである。
もし人類衆生が食物連鎖を用いない時、人類の生存はどうなるのか？これはまた天が与えた大いなる矛盾である。あなた方は食物連鎖を減らし、軽視し、超越できると考えるか？それはすでに人間世界を超越し上昇したのである！もはや食物連鎖のあらゆる制約を受けず、つまり因果の循環に左右されることもない。
因果の定論は互いに補い合う
その中にある奥義と秘訣はどこにあるのか？有情の衆生は、自分が人間世界にいる以上、食物連鎖を通じてのみ生存できると考えている。しかし、今の人間の衆生は、近い将来、食物連鎖における殺戮行為を減らし、すべての殺戮行為の残酷さを必ずや減少させ、人間の衆生の食習慣を変えていくであろう。
これは第二元会の時代からすでに存在していた科学技術文明であり、人間界をより大きく向上させることができ、食物連鎖による蓄積を経ることなく、この科学技術文明をさらに発展させることができます。太古の時代から、天はすでにこれを成し遂げており、殺戮を伴う食物連鎖はもはや必要ありません。しかし、現在は人間界の科学技術の限界によって制約されています。
この科学技術文明における食物連鎖や食糧不足の問題を向上させることはできません。あなた方はよく冗談で「仙仏は食事を必要としない」と言いますが、これは正しいのです。また、未来の科学技術文明においては、食物連鎖に伴う不要な殺生行為を減らし、より精緻な食糧と飲食の機能を実現することができるでしょう。
また、因果の障害を除去することも比較的容易であり、真に修行を実践する者に対しては、この食物連鎖がもたらす相互の制約的な因果の業障を減らすことができる。そなたらはこの観念を八識に深く根付かせ、因果の循環という定説によって、あらゆる人道世界の生存の在り方を、人の行為動作に植え付けることができるであろうか。
有情の衆生の因果循環
有情なる衆生が食物連鎖における制限を減らすことができるのは、まさに上昇へと向かう浄化があるからである。しかし、このような科学技術文明は、すでに次第に人道世界において実現されつつある。ただ、現在の科学技術がまだ啓蒙段階にあるため、完全に具現化することは難しく、一歩一歩段階を踏んで実践していく必要がある。
これは殺戮を伴わぬ食物連鎖であり、近い将来必ず訪れる。また因果の道理は、どの時空の段階における因縁や、その過程がどのようなものであっても区別しない。すべての有情衆生に対して同じく働く。なぜなら、前の因と後の果、そして未来の果は、まさに実相のままに結果をもたらすからである。必ずや良き善き因縁が増長していくであろう。
すべての衆生が、自分がどのような因を蒔いているのか、そしてどのような果実を収穫するのかを理解できなければ、「因果応報」の観念を人道世界の生活に取り入れることは難しい。すべての因縁果報は「種蒔きと収穫」の真実性において、一挙一動が過去の因と未来の結果を担い、そこに加わっていくのである。
これは古来より、すべての人為的要因による行為と動作である。もし前因がどのようなものであるかを理解できなければ、未来に果報が生じることを必ず知ることができず、従って賞罰の観念も一切持たない。それでは、人道世界には因果の循環は存在しないのだろうか？否！このような前因と後果の定論こそ、実に上蒼が早くから定められた条綱と律戒なのである。
因果の定論が報いをもたらす
このような条綱と律戒を公論として、有情衆生がどの国で生きていようと区別なく同じであり、どの宗教の宗派であろうと区別なく同じである。これは千古以来の因果循環の公論であり、非常に如実に回収されるべき必然性がある。それは人為的要因が公正平等の法則と公論に対するものである。
天下において行いを施すことができ、それゆえに自らがどのような因を蒔くかによって、どのような果実を得るかが決まる。大いなる有情世界のすべての衆生に対してこの道理は当てはまる。人類の開拓の歴史を広く眺めるとき、なぜ現代の世にこれほど多くの悪しき災禍と災難が存在するのかを理解しなければならない。それは人為的な要因が積み重なり、現在の良からぬ業の報いが現れているからである。
また、自分自身の前世の因縁とはどのようなものか？今生今世は前世の因縁を受け継ぎ、それが現在に積み重なっている。これは古来よりすべての生きとし生けるものの相互関係を指し、因果応報の定説と呼ばれるものである。人類をはじめとする衆生は、真に上昇し超越する者でなければ、このような制約から逃れることはできず、因果の循環の中で初めてそれを解消することができるのである。
このような能力は、「無漏神通力境」という大きな因縁であり、これは千古より有情衆生が根本的に知り得なかった天機の事柄である。人間の要素によって区別されるもの、それは向上へと昇華するか、あるいは堕落へと沈むかの分かれ道である。あなた方はこれをどう考えるであろうか？　上蒼はすでに多くの時空因縁の契機を備え、皆が悟るのを待っているのである。
因果定論の施行
因果循環の公理について、相互成長と向上を論じるにあたり、一般には人間衆生が生活習慣の中に入ると、因果循環に拘束され続けると考えるのは、まことに正しい。しかし、前因と後果を転化させ、向上する者の成長を促す道がある。これは人為的要因によって超越されるものである。
もし因果の法則が永遠に変わらないものだと考えれば、これらの超越者に対して、どうして人道世界の因果循環の中でより大きな向上が可能だろうか。このような考え方は、一般の人々にとっては、そもそもすべての経緯を真に理解することはできず、永遠に因果の法則の循環によって制限される障害を受けることになる。
また、この一生において、根本的に因果循環の法則を変えることのできない障害があるならば、それを向上させ超越することはできるのか、また人道世界に対してはどうなのか。縁起と因果応報を前向きに向上させることができるのか。もし向上させ超越することができなければ、永遠に因果循環の報いを受けるだけで、因果を向上させ超越することは非常に難しい。
なぜ、天は各人の因果循環を有情衆生の身に加えるのか。それは、人為的要因が真に向上して超越と昇華を達成できるようにするためである。そうでなければ、これらの既に果を証した仏聖者たちは、いかにして向上し超越を達成できようか。それは因果の定論という障害を解消し、より大きな成長を遂げるためである。
因果は万物の生きとし生けるものに従う
人類の衆生は、自分が地冥星に入ったら、永遠にこのような限界から抜け出せないと思うかもしれない？必ずしもそうではない！個人の努力と成長の要素を必ず観察し、自分自身のこの人生に対して責任を持つことができ、自分自身が真に超越できるかどうか、それは人類の思想観念において、因果の定論を高めることができるかどうかにかかっている。
さらに有情の衆生、聖者、神仙、仏陀と菩薩は超越し、思想と観念を浄化と成長に置き、この生の今この瞬間を成長に活用する。あなた方は「因果の定論」に対する公正かつ平等な理解を持っているだろうか。自らが地冥星に入ったのであれば、なぜ向上し超越することができ、限界や障害を解消できるのだろうか。
これがまさに秘訣と奥義の所在である。あなた方はすでにその中の精髄を体得しているだろうか？時として一つの事柄の経緯を見るには、それぞれの時空における因縁がどうであるかではなく、大宇宙の天地に生きるすべての人類衆生が、いかにして向上を目指すすべての因縁の根本を知り、秘訣がどこにあるかを理解できるかにある。
因果応報の法則
過去の一切の因果業障を、一つの生涯の中で完結させることができます。もし時空の因縁が整わない時には、この生涯においても多くの良くない悪因縁を減らすことができ、安心して精緻な修行を行うことができます。その中には、あなたが累世にわたって関わってきた多くの因縁があり、それらが互いに求め合い、互いに支え合うことになるでしょう。
また、どのように力を借りて力を生かし、より大きな成長と利益を得ることができるでしょうか。それは有情衆生に対して「浄化、浄心、浄霊、浄性、浄自體」のエネルギーを持つことができるかどうかであり、このエネルギーを自らのエネルギー体に取り入れることです。これは千古の昔から、人道世界に示現されることのなかった大いなる因縁であり、今、崇心の「大道因果」という天書の著作を通じて実現されようとしています。
このような奥義の一端を開示し、有情衆生により高次の向上をもたらすためには、多大なる努力が必要であり、初めてこのエネルギーが蓄積され、自ら光を放つエネルギーQNAに至ることができる。これは汝らに更なる利益と斬新な思考観念をもたらし、因縁果報の浄化と超越において、自らの努力の成果が如何なるものであるかを観じ、それぞれが得た結果が如何なるものであるかを分別するのである！
因果定論は先天に定まり　人の為す要因軽んずべからず
その中の大いなる奥義を了知すれば
自ら体が光を発し、具足して顕れる
多くの因縁が結びついてこそ成り立つものであり、一足飛びに到達できるものではない。
真に自心のエネルギー体を体得してこそ、初めて未来の成就を得ることができる。
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、人界における因果応報の道理を理解し、上昇超越へと向かうことを願うものです。仙仏、聖神、菩薩への道のりは、一歩一歩積み重ねて成就に至るもの。どうか近道を求めようとせず、着実に階段を登るように成長を重ねてください。
まさに「大道シリーズ天書」に対して著作を行い、また汝らにより大きな思惟体系を獲得させ、未来の自己のあらゆる成長と超越の糧とし、良き善き因縁もまた上昇増長し回帰へと至る。その実、受益するのは自分自身なのです！皆様、ご苦労さまでした。崇心にしばしお邪魔いたしました。ではまたお会いしましょう！
無極瑤池  喜瓊仙女
無極の因縁早く来たりて生ず
瑤池の聖地少なき人行き
喜瓊仙女が当番に来て、神人と共に良き縁を結ぶ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は南海古仏が降臨され、「大道因果」第四回を著作されました。また「因果定論」を別の角度から開示され、すべての人類衆生がより大きく成長し受益できるよう示されました。これは因果循環が相互に支え合う働きを持つことを示すものです。
また、人界において、人類の衆生がすべて上昇を望み、真の修行と実践によって聖神や仙仏をどのように超越するか？さらに、どのように因果を転換すべきか？それは、各冊の天書が一回ごと、一度ごとに著作されることを期待し、あなた方により大きな成長と利益をもたらすことにある。
2015年、3月8日、午後7時49分◎＃※  了解。
第十二回　　善悪の報い
第十六回  　 恩怨夫妻
2008年9月2日　戊子年八月三日（火）
第四回　    因果定論
南無衆生本如来　　阿弥陀経観自在
仏は大道因果の冊を著す　　因果超越して更に明白なり
第十三回　父母因縁
第十七回　   怨債夫妻
2008年9月5日　戊子年八月六日（金）
第五回　   因果超越
有情の衆生、因果を超越す
人道世界では、しばしば「因縁果報」の循環に自らを置き、そのような制限を受けた後は、この障害から脱することができないと考えます。一般的な有情衆生にとって「因縁果報」とはまさにそのようなものです。では、上蒼の衆仙仏、聖神、菩薩の場合はどうでしょうか。そこには向上できる者と向上できない者の区別が生じることになります。
この二つは相互に作用し、因縁果報を区別する。それゆえ、人界におけるすべての行為と動作は、因縁を超越して向上できるか否かによって分かれる。また、一切の有情衆生が理解できるかどうかに関わり、因果循環の中で成就を成し遂げるためには、人界における制限と障害をいかに理解し、いかに解消するかを知らなければならない。
上昇超越の聖神、仙仏、高真、菩薩などに対して、その超越条件はどのように向上させるのでしょうか。ここでは「因果超越」を区別し、極めて真実に即した動作があります。上昇超越の基本として、いかに成長すべきか、一切の行為動作について、人道世界において行為動作を向上させ、自らの生活の中に取り入れるべきです。
常に多くの乗り越えがたい障害に遭遇しますが、多くの場合、人為的要因は自分が信じる価値観や心の持ち方、考え方に基づいて行動し、それによって多くの障害が生じます。さらに、知っていても実行しない、実行しても迅速でないという状況さえあり、ましてや理解するのはなお難しいことです。これらの世の中に古くから存在する規範こそが、まさに自らが実践しなければならないものなのです。
因果は衆生との関係を超越する
だから有情の衆生は、よく自分に多くの原因や理由を見つけては、自分に逃げ道を作り、自分のすべての行動に対して自分を甘やかし、自分の中の悪を育ててしまう。本来なら向上し、超越するチャンスがあったのに、自分自身を成長させ、向上させることができず、本当にどうしようもないことだ。
かえってさらなる困難や大きな障害を生み出し、その理由は数多くあり、自らが向上し成長することが難しくなります。それどころか、繰り返し繰り返し、結局は自分自身がこの世でどうしようもない状況に陥り、現在のすべての行動や動きも消し去られ、真に向上して学び成長することが難しくなってしまうのです。
人間世界では、自分の行動に良くない思想観念や主観的意識を加えてしまうことがよくあります。人間としての生きる道理は分かっていても、それはただの過渡期に過ぎません。どうすべきかは分かっていながら、それを変える力がなく、方向を転換することが非常に難しくなってしまうのです。
自らの不足、欠如、過ちを修正し、昇華超越の境地に至れないことこそが、人類共通の病である。あらゆる事柄は先人たちの苦労の積み重ねによって伝承される。しかし、これらの先人が心血を注いで積み上げてきた経典、修行、戒律について、有情の衆生はそのすべての経緯を理解することができようか。
大道因果の向上
このようにすれば、より大きな成長の余地に向かって進みやすくなります。世の中では往々にして障害を乗り越えられないのは、まさに「自分が自分を甘やかし、自分が自分を害する」からです。人為的要因によって成長の機会が与えられた時、様々な知識と経験の蓄積を通じて向上を図ることは、それほど難しいことではないはずです。
しかしながら、人間衆生の強い志しと忍耐力、持続する力は往々にして一貫性を保つことができず、自らを向上させ超越すること、また有情衆生の成長に対して、自らが成就する契機を得ることも叶わない。人為的要因によって生じる障害は、「人類の生存の道」によって向上させることもできないのである。
未来において欲望はどのようになるのでしょうか？有情の衆生は往々にして理解することができません。自分がこの世に生を受けることには、生活に必要なもの以外にも、数多くの他の人々が自分の生存の方向性を支えていることを。自分が行い、為すことに依拠して獲得するものは、このようにして自ら修整し改めることにより、良くない欠点や不足している誤りを変えることができるのです。
有情なる衆生はなぜ人間界の生活において、必ず食物連鎖の構成に依存しなければならないのでしょうか。この食物連鎖が人間の生活に組み込まれるのは、過去の人々の経験をそのまま経験として受け継いでいるためであり、人間の力ではこれを修正し、自らの限界や障礙を変えることができないのです。これこそが有情なる人類衆生の最大の迷いの障壁なのです。
因果を超えることの必然性
食物連鎖に依存していることについて、有情の衆生は普段の三食と夜食で自分の食欲を満たしていると考えがちです。また、食物連鎖の中では、先人たちの経験が積み重ねられてきたのもこのようなものです。真に上昇し超越しようとする者は、食物連鎖への依存も比較的少なくなるでしょう。
人間界の食物は有情の衆生に供給されるが、これらの食物に人道的な殺戮行為が加えられているかどうか、また人道的でない加工行為が加えられているかどうか――これによって農薬残留や廃水汚染など様々な問題が生じる。真に向上し超越を目指す者は、必ずや食物連鎖におけるあらゆる欲望を減らしていくものである。
また、自身の腸胃も次第に浄化され、すべての汚れた気が取り除かれます。このような不良な気は生存の方向性に対して大きな障害となります。あなた方人間界では、自分が人間界の食物供給はまさに食物連鎖によって構成されていると考え、したがって三食に加えて夜食も摂らなければならないと思い込んでいます。
人界の一切の習慣性は、既に長い間「当然そうあるべきもの」と認識されてきた。果たして真に変えられるだろうか？否！もし一部の仏教体系が提唱する「午後を過ぎれば食事せず」という戒律のように、午後を過ぎれば一切の食物供給を断つことができたならば。有情の衆生がこの中の意味をはっきりと理解したとして、それでどうなるというのか？
仏教では午後からは食事をとらないことを勧めています
これにより、体内に入る食物の量を減らすことができます。体に入る食物が少なくなれば、必ずや不良な気を調整することができます。一般の衆生は往々にしてこのような観念と行為を受け入れることができません。しかし、「午後を過ぎては食べない」というのは、必ずしも正午を過ぎたら一切の食物を口にしないという意味ではなく、むしろ比較的少なめに食べるということなのです。
また、食物連鎖への依存を減らすことで、多くの殺生行為も減らすことができます。人間社会全体にとって言えば、食物連鎖への依存を減らせば、当然ながら自身の胃腸の消化負担も軽減され、身体への負荷も減らすことができます。これは慈悲の心と福を大切にする実践の現れであり、このような「午後は食事をとらない」という行いの意義はまさにここにあります。
必ずや、あらゆる人道世界の食物連鎖を変革し、殺戮行為や人工添加物に頼ることなく、未来に発明される食物供給によって有情衆生に利益をもたらすことができます。これにより、食物供給における殺戮行為を減らすことが可能となります。あなた方はこの契機と条件を理解し、それが徐々に地冥星において示現されていることを悟るでしょう。
それはあなた方の思想と観念において、このような条件があなた方の生存空間にあれば、多くの殺生と殺戮行為を減らすことができ、寿命を延ばし身体の病気の発生を減らすことができます。さらに、すべての世の中の病苦とがんによる悪影響に対して、正面的な価値があり、真の代替食糧を生み出すことにもなります。
生命を再構築して向上させる
これは未来の衆生に肉体を提供し、多くのエネルギー体を増加させることができます。あなたがたも殺生や殺戮の行為を減らし、食物連鎖を整え、有情衆生が必要とする食物を提供することができます。未来の科学技術は、ある期間内に一粒の錠剤を摂取するだけで、多くの有益なエネルギー体を生み出し、さらに長い時間生き続けることができるようになります。
さらに、いかなる病苦や癌も発生しない。このような時空の因縁を、あなた方はどう思うだろうか？羨ましいか？嫉ましいか？すべては未来において、このような時空の因縁に対して、どのように積み重ねて上昇し超越すべきか？より大きな成長の機会を得られるのである。このような時空の因縁こそ、まさに　上蒼が繰り返し人類衆生を修正してきた所以である。
過去の第一元会と第二元会における科学技術文明を、地冥星に移植し下ろすことで、真に超越し向上を目指す原霊仏子たちにとって、より大きな成長の空間が得られる。これはまさに、上蒼が繰り返し強く求めるものであり、真に修行の成長と向上を心から願う者たちに向けられた、より大きな収穫と報いを得る機縁なのである。
これは、未来において必ず実現される上天の徳沢であり、人道世界が高科技文明によって創造されることです。これは、上天がこの期間に定められた条綱であり、有情衆生は因果を超えて向上することができず、繰り返し地冥星に沈み、人として生まれ変わります。それについて、あなた方はどうお考えですか？自分で考えてみてください、このようなあり方でよいのでしょうか？
因果の追償を超越する根本
自らも心から望むのでしょうか？自らがそうだと認めるのでしょうか？上昇超越と下降輪廻という限界を区別する、このような人道世界の科学技術は、「第一元会と第二元会」のすべての科学技術文明の向上を借りて、この科学技術をさらに成長させ、再創造し、再発明することで、未来の蒼生の福祉により多くの利益をもたらすことができるのです。
全ての機能作用が食物連鎖への供給に対し、人間の生存志向に障害があれば、多くの殺戮行為や良くない殺生の行動を減らすことができます。いかに清浄な身体と生活空間を保つか？これは現代の世の中が考えるべき思惟観念です。言えることは、このような科学技術文明はすでに醸成されているということです。
これは未来の有情衆生に対して、不良な殺戮と殺生行為を減少させるものであり、このような創造こそが　上天の基本条綱に合致するものである。また、度重なる著作によって、因果を昇華し超越的な成長を促し、汝らにより斬新な思惟観念をもたらす。これは従来の因果関係に関する書籍の不足や欠陥、誤りを修正し、取って代わることになるであろう。
科学技術の創造は結果である
原因を含み積み重ね因果が働く
人類の福祉を創造し
利益は未来の衆生が受ける
殺生を減らせば　   　業障悪果自ずから消える
必ずしも食物供給の連鎖に頼らずとも、成就は当然大きく得られる
この偈を！有情の衆生と共に励まし合いましょう！いかにして常に真に健康な身体を保つことができるか？すでに今ここに示現しております。あなた方はこの盛会に縁あって参列できたでしょうか、発明や創造の後の恩恵に対して；それぞれの福徳の量はどれほどか？自身の努力はどれほどか？自らが回収するものはどれほどか？皆様がご相伴くださり、崇心宗脈のしばしの時を煩わせましたことに感謝いたします。ではまたお会いしましょう。
無極降道天尊
人生に幾度かあらん　仏教の教主降臨の会
人間の神秘を解き明かす　　未来の科学技術が真実となる
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日、仏教の教尊である南無阿弥陀仏本尊が降臨され、「大道因果」第五回を著作されました。「因果超越」の詳細な過程を「大道系列天書」の中で解き明かし、あなた方の思想と観念が真に向上するよう導かれました。
まさにあなた方にとって、たとえ千世百世を費やしても真に思惟し構築することは難しく、既に崇高なる心の下であなた方の度重なる思想観念を再構築してきた。あなた方もよく考えてみるがよい、今このような殊勝な因縁を得られる者は、稀であることを！これもまた、あなた方が著作に寄り添い、心を込めて耳を傾け、度重なる思想の改造によって、自らが利益を受けることになることに感謝するものである。
まだ分からないのは、あなた方に大切にできるかどうか、成就できるかどうか？あなた方のすべての努力と成長を見て、どれだけ応用できるか？また、諸賢生が「大道因果」著作の本意を理解できるかどうか、つまりあなた方に真の浄化と向上をもたらし、さらに多くの収穫と利益を得させ、如実に上昇し超越させることである。
2015年3月8日19時50分、◎＃※、了承。
第十四回     夫婦の情義
第十八回  　夫妻冤家
2008年9月9日　戊子年八月十日（火）
第五回　   因果超越
南無本師降り来たりて　釈迦牟尼の著作を排す
第十五回　　夫婦の恩愛
第十九回　   婚外情孽
2008年9月12日　戊子年八月十三日（金曜日）
第六回　    不昧因果
因果を昧まさぬ根本の行い
有情なる衆生が生存の過程において、人為的要因による成長を通じて、上昇し、基本的な作用を超越するに至るには、「因果超越」の概念を理解しなければなりません。これにより、有情なる衆生はより大きな向上を果たすことができ、因果と業の障りに絡め取られるだけにはならず、因果循環の法則を真に理解することが必要です。
因果の循環に従う過程を曇りなく見通すことができます。現代の有情衆生は、自分が人間界での生活を志向していると思い込み、永遠に因果の循環を超越できないと考えがちです。これは一般の有情衆生の思想観念です。もし超越する立場、すなわち聖神や仙仏の境地から見れば、因果を明晰に理解することができ、その根本的な因縁がどのようなものであるかを明らかにすることができるのです。
もし、この奥義と秘訣がどのようなものかを理解することができないならば、それはただの凡夫に過ぎません。因果応報の循環がどのように実在するかを根本的に知ることができず、どうやって自らを向上させ超越させることができるでしょうか。これこそが、上天がなぜ「大道因果」を著して、人類の綱常倫理を再調整するのかという、主な機能なのです。
人道世界は相互に対応する世界であり、これは人道世界が脱することのできない障害である。「因縁果報」に人道の生存指向機能が加われば、一体誰が因果の法則に絡みつく根本的なものから逃れられようか。因縁果報が相互に循環する中で、因果循環が訪れた時には、前世の因果がもたらすものを勇敢に受け止めなければならない。
因果法則の根本
自らが「因縁果報」の償いを受ける過程に直面すること、これこそが人為的要因を人間の努力によって取り除くべき理由であり、まさに正道なのです！「因の上に因を重ね、果の上に果を重ね、報いの上に報いを重ね、償いの上に償いを重ねる」ことなく、有情衆生に対して大局的な方向転換ができないまま、因縁果報の相互循環を解消しようとしてはなりません。
有情なる衆生は、なぜ因果循環を受け入れることができないのでしょうか。また、因果応報はすべて悪い結果をもたらすものだと思い込んでいます。もしそうであれば、「因縁果報の法則」を理解することはできず、向上の障害を乗り越えることも難しくなります。因果応報がすべて悪いものではないということも理解できないのです。
なぜ人界の因縁果報において、必ずしも悪因悪果に縛られず、むしろ「福運が増し、道性が高まる」ことが多いのか。それは有情衆生が向上し超越できるかどうかは、自らの思想観念が善徳福報へと転換できるかどうかにかかっており、過去の誤った観念に留まり続けるわけではないからである。
天の定めた公の法則、天地の秩序は、すべての人間が人道世界に入り、人として生まれるか、あるいは他の万物の衆生となるかに関わらず、前世と累世の様々な因果応報の積み重ねを引き継ぎ、現在の今生・今世があるのです。すべての過程は、前世と累世の様々な行いが合わさって引き継がれるものです。
因果の法則はどうして明らかでないことがあろうか
また、この今生、今世のすべての行為と動作について、古くから「前世の因を知らんと欲せば、今生に受けしところこれなり、来世の果を知らんと欲せば、今生に作すところこれなり」と言われています。これは因果が明らかであるという基本的な原理であり、まさに真実です。さらに、「儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教」やすべての宗教宗派を区別することなく、すべて同じです。
この中には、因果の法則を信じない宗教も一部存在しますが、すべての衆生が人道の世界に入ってからは、前世と累世のすべての積習の行いに従って、今生・今世があるのです。人為的要因が因縁果報の受容に加わることで、さらに善と悪に分かれる。これはまことに如実なる性質といえます。
なぜある者は、「衣食住行育楽」の中で楽に享受でき、ある者は三度の食事のために必死に働き、ある者はどれだけ努力しても、食べたり食べなかったりの生活を送るのか、その問題の核心はどこにあるのか？自分が「前世にどんな種を蒔いたか、今生でどんな収穫を得るか」を理解できるだろうか？
もし前世で少しも施しをしなかったのに、今生や現世に福報が増えることを願うなら、それはまるで銀行に預金がないのに、お金を引き出せるかどうかと同じです。また、理由もなく天に福を求めることは、さらに不可能なことです！自分が前世にどんな種を蒔いたかを理解しなければなりません。今生にはどんな福報を享受するかは、それによって決まるのです。
因果の根本を昧まず
これは公理であり綱領でもある。すべての有情衆生はこの制約から逃れることができない。ではなぜ、ある者はあまり努力しなくても、先祖や目上の人々が残した田畑や家屋、財産、そして後の福徳を享受でき、自分自身の生活がどうなるかについてあまり悩む必要もないのだろうか。生まれてからというもの、誰かが生活のあらゆる楽しみを整えてくれるのである。
さらに五官を見ても、特に大きな福報のある者とは言えません。ではなぜこのような状況が生じるのでしょうか？まさに前世の福報による種蒔きがどのようなものであったかに関わっています。どのような福徳と福報を蒔いたかによって、今生で享受する福の種類が決まるのです。これは前世で蒔いた福の種が、まさに今この世で収穫され、享受されているということです。つまり前世で善き種を蒔けば、今生でそれを享受できるのです。
さらに、上昇超越の区別はない：聖神、仙仏、菩薩、高真、すべて同じである！また、それぞれの上昇超越者には、それぞれ因縁果報の循環があり、まさにそれぞれの証道向上者に対しても同様である！また、因縁果報の報いと循環を曇らせなければ、良き超越が得られるのである。
ただ、これらの上昇超越者は、有情衆生を悩ます無明の障礙に対して、より大きな向上超越をもたらすのである。そうでなければ、これらの既に道を証した者たちは、どうして因果循環の障礙を超越できようか。「因果は曖昧ならず」という公理と綱要は、まさに動かしがたい綱要であり、人為的要因を通じてこれらの障礙の過程を明らかにするものであると理解できる。
いかにして因果の法則を覆さざるや
より大きな成長の経験を持つことができます。これらのすでに悟りを開いた者に対しては、因果の循環を曇らせることなく、すでに悟りを開いた者は、いかにして因果の循環を超越して向上するのでしょうか。因縁果報に対する理解は、まさに上蒼の基本的な条綱であり、また公律の基礎的な枠組みでもあることを知ることができます。天地の間にあるすべての万物の衆生を区別することはありません。
すべては同じく公理の条綱に従って遵守するものである。人為的要因あるいは証道者の基礎を以て、各々の時空過程を推定すれば、含因が生み出す過程を減らすことができる。さらに、既に発生した含因から制止を加えれば、このような働きこそが既に証道した者を区別するものであり、有情の衆生とは異なる所以である。
有情なる衆生は往々にして、このような悪因を制止することができず、縁起と因果応報が訪れる時には、常に試練と鍛錬となり、各々の悟りを得た者にとっての向上と超越の過程は、またそれぞれ異なります。しかし、悪因が蓄積されていく過程において、いかにして良からぬ悪因を制止し、その発生を防ぐことができるでしょうか。
まさにそれぞれの時空における因縁の変化こそが、未来の良し悪しの結末と善悪の結果を生み出すのです。このように見ると、一部の宗教信仰を持つ者であっても、必ずしも因縁果報を理解しているとは限りません。もし因果応報を信じることができれば、あるいは大いに明るい見通しが立つというだけでも、すでに良い方だと言えるでしょう。また、一般の人々には到底理解できるものではありません。
因果を昧まず、すべての功用
有情なる衆生は変わりうるものであり、元々定められた天の法則と使命任務、そして善悪禍福の報いと福徳の報いは、人間界に因果の法則を知らしめるものである。それぞれの衆生が因縁果報について理解することは一様ではなく、また一部には真に修行を積む人々がおり、彼らは比較的因果応報の報いを信じる傾向にある。
他の信仰者たちは、宗教に入っているものの、因果応報について語るときには非常に恐ろしいものだと考えていますが、ただ因果応報を知っているだけで、それが悪いことだとは理解していません。さらに多くの福報があること、まさに逆方向から加えられるものがあることを理解していないのです。これは古来より、自らの行いを通じて、本来定められた天の理法や法則を変えることができるというものです。
善因・善縁・善果・善報は、公理であり綱領である。悪因・悪縁・悪果・悪報もまた、公理であり綱領である。これは人間界における行為の法則である。ただし、善因・善縁・善果があっても必ずしも善報が得られるとは限らず、同様に悪因・悪縁・悪果があっても必ずしも悪報が現れるとは限らない。
なぜこのようになるのでしょうか。必ず一人ひとりを観察しなければなりません：心の状態、対応の仕方、智慧、行動のあり方はどうか。現在の有情衆生は往々にして法則・規範・普遍の理法に従って実践することができず、それは一人ひとりの行動に関わっています。縁起と因果応報の過程によって判別することができ、未来において善報と悪報のどちらを受けるかが分かれるのです。
因果を昧まずに向上するための基準
さらに進んで変化を遂げるには、物事の良し悪しや善悪、福と禍の報いの区別においてである。有情の衆生はなぜ人間の世に入った後に、互いに対峙するという制約を受けるのか、これが人間世界の公理である。この公理の中で、どうすればさらに向上し超越できるのか。まさに方法と脈絡が存在し、それを探求するのである。よく観察すれば必ずすべてを理解できる。
人道世界の向上と超越は、因果応報の超越の中にあって、因果法則の公正性を見失うことのないものである。因果法則こそが公正な綱領であり、人為的要因が因果応報の法則に従って遵守できるかどうかは、あたかも世間の法律が綱領であり、公理であり、また制度であって、皆が共に守るべきものであるかのようである。
もし規律を犯さなければ、これらの公理・条綱・法則があなたにどうこうできるでしょうか？奥義はまさにここにあります！有情の衆生は皆、一方に偏執してしまい、因果の法則・規律により大きく従うことができません。それならば、人道世界が定めた規律・公理・条綱・法則が、あなたにどうこうできるでしょうか！
同じく、天の法則、綱領、公理、制度も同様であり、汝は規章制度に従って遵守することができ、その律法を犯すこともない。また、これらの公理や綱領が汝に対してどうすることもできようか。これらを通じて向上し、人為的要因によって成長することこそが、まさに別の次元の境地・果位への向上なのである。
因果の条綱法則を昧まず
まさに有情世界と仙仏世界の基本綱領の行使であり、その中で最大の向上は、因縁果報をその中に加えることである。自ら心から甘んじて受け入れ、累世及び現在の行いがどのようなものであるかを問う。有情衆生はこのような限界から如何にして脱するかを理解できず、ずっとその中に深く留まっている。
さらに悪いことに、悪因に悪縁が加わり、さらに悪果の中に取り込まれると、悪しき障害が繰り返し輪廻することになります。これは紛れもない真実です。なぜ有情の衆生は理解できないのでしょうか。因果応報は決して曇ることなく、必ず自らが償いを受けて初めて消滅するものなのに、人間の衆生は往々にしてそれを消し去ることができず、かえって次の因果応報の償いを増やしてしまうのです。
ただ因果の循環を一つ促し、また一つ促すだけで、永遠にそれを解消し改善することはできません。まずは心を静めて、物事の経緯を少しはっきりと観察し、少し細かく理解する必要があります。そうすれば、経緯をどのように解消すべきか、その中にある障害と無明はどのようなものかを必ず理解できるでしょう。
人類の衆生は皆、因果を昧まさない。
因縁果報の道理を正しく理解して活用すれば、かえって多くの善い因縁を増やすことができます。このように長い時間をかけて積み重ねた善因縁の果報は、将来において大きな利益と収穫をもたらし、多くの貴人や善縁を増やすことにもつながります。その道理を理解して行動すれば、悪因・悪縁・悪果が必ずしも悪報として現れるとは限らないのです。
また、善い因、善い縁、善い果も必ずしも善い報いを得るとは限らず、自らの行いをどうするかを見極める必要があります。因果の法則は公正平等であり、人の作為が如何なるものであるかによって決まります。悪しき因果の結局を如何にして転換すべきか？まさに「因果を昧まさず」という最善の思想観念こそが、自らの行為動作を変えていくことになるのです。
あなたがたがこのような条件を満たすことができるならば、多くの仙仏の先生方は、あなたがたが今後「大道因果」の天書著作を通じて、より大きな向上と超越を遂げ、必ずや上昇し成長することを願っておられます。そうすれば、善き因縁と条件に恵まれ、回帰することができるでしょう。因果に縛られ続け、悪報を受けることもなくなるのです。おわかりいただけましたか！
よく考えてみれば、人のなすことはすべて
因縁果報として巡り来りて受け償う
因果を昧まず勇んで引き受けよ
必ずやその結果を変え得ん
上蒼は綱紀を以て架構と為し、自ら報償して大いに整修す
過ぎし日はどうあれ　向上し超えて良き成果を
この偈を、有情なる者同士が互いに励まし合いましょう。上昇超越の仙仏が説く「因果は昧まず」を詳しく解き明かし、皆様により大きな利益と収穫がありますように。またこの世において良き善縁を得て、すべての人々が恵みを受けられますように。皆様にはご相伴いただき、崇心宗脈のしばしの時を煩わせました。ご苦労さまでした。ではまたお会いしましょう。
無極喜楽天尊
人間にて得難きは　釈尊親しく降りて教授せん
因果の道理は揺るぎない基礎となり
有情の衆生に良き結果をもたらす
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日、佛教教主　南無本師釈迦牟尼仏がご降臨され、「大道因果」第六回を著作されました。前回の「因果超越」に続き、「因果を昧わず」の条綱を示現され、人類衆生のあらゆる良善を増長させることをお与えくださいました。
また、人為的要因に対しては自らの努力をもって、自らをより大きく向上させ超越させること、これは二千有余年の歳月の中で未だかつてなかった著作であり、あなた方こそまさに千百世を尽くしても得難きこのような天機良縁に、このような思惟観念を深く植え付けることができた。真に羨ましい限り！また慶賀すべきこと！皆様、ご苦労様でした。すべて吉祥なれ。では、これでお別れしましょう。
2015年、3月8日、19時51分◎＃※　了承。
第十六回　　恩讐の夫婦
第二十回   　情孽修整
2008年9月16日　戊子年八月十七日（火）
第六回　    不昧因果
南開の大道は普く群生を照らし
無上の至徳は人々が来たりて成す
大日如来七回を著す　　因果昧まず衆霊真なり
第十七回　　怨債の夫婦
第廿一回　   善德夫妻
2008年9月19日　戊子年八月二十日（金曜日）
第七回　    因果不昧
因果の法則は決して曖昧にならない
有情なる衆生は因果不昧の法則について、十分に理解しているわけではなく、一部の宗教では「因果」という言葉自体を信じないものもあります。また、「因縁果報」が有情なる衆生にとって、人道世界において生存する上でどのように「含因」を形成するのか？さらに、前因とはどのようなものか？その形成過程はどのようになっているのか？
未来の果報はどのように形成されるのでしょうか。現在の行為や動作はどうでしょうか。自分自身の将来の福や禍がどのようになるかも分からないのですか？人道世界の因縁果報において、一人ひとりの行為や動作は後に自分自身の果報に影響を与えるのでしょうか？「前因と後果」が生じるのです。前因がどのようなものであるかを理解し、後果がどうなるかを知る必要があります。
人間界において、世界が作り出したあらゆる事象を通じて、未来に受けるべき果報をどのように評価すべきか？一般の人々は、因縁果報がすべて悪いことや好ましくないことだと理解している。もし因縁果報をもとに「福報と福縁の増加」と「冤親債主による報復」を区別するとしたら、有情の衆生はこの二つの違いを理解することができるだろうか？
以上の昇進を遂げ、神祇、仏聖、仙菩薩、高真などを超越した者であっても、すべて「因果不昧」の公正な法綱を受け入れねばならず、いかなる層次、境界、果位も区別なく、すべて「因果不昧」の中に帰入するのである。なぜすでに道を証し聖神、仙佛、菩薩高真となった者たちも、「因果不昧」の追及を受ける必要があるのか？
因果の理は曖昧ならず、これを超越す
いかなる時空の因縁を区別することなく、ただこの時空に生きるすべての霊ある衆生において、いかなる次元の衆生の列であれ、それぞれの次元の境界と果位に応じた因縁果報が加えられる。しかし「因果は曖昧にならない」という理について、一部の衆生は理解せず、信じようとせず、因果の法則の条理を確かめようともしない。
信じようと信じまいと、あらゆる時空と局面において、「因果は曖昧にされない」ということが影のごとくつきまとっている。どうすれば、因縁果報の制約を超えて向上することができるだろうか。因果の法則と綱領は比較的複雑ではあるが、「綱領と戒律」に従って守っていく必要があることを理解しなければならない。
また、越えることなく、受け障りがあるでしょうか？いいえ、有情の衆生は、いかなる宗教や時空の因縁を分け隔てることなく、地冥星の相互対峙を受けています。では、どうすれば絶対に到達できるのでしょうか？それは、人間の行為動作によって「条綱と戒律」を施行し、「条綱と戒律」に因果の法則を従わせることです。
また、あらゆる「条綱、戒律、規範」は、あなたにとって何らかの障害となるでしょうか？いいえ、そうではありません。それらは「因果の理法は曖昧にされない」ことを主たる資糧の源とし、上昇超越の法則に従うことを高めるためのものです。さらに、あなた方も因果の法則に対し、人界のあらゆる宗教の流派を問わず、必ず同じく因果の法則の規律と戒めを受け入れなければなりません。
因果の理は明らかで、その条綱は乱れない
もし言うならば、因果の法則を信じない者がいれば、因果の法則の規制を受けないのか？否である！ただ各人の見方が異なるだけで、汝が信じようと信じまいと、因果の影響を受けないわけではない。すべての衆生は等しく因縁果報の報いを受けるのであり、そうでなければ、天の基本構造はどのようにして公布され、施行されるというのか？
因縁果報の行為と動作に対して、その内包する意義を如何に明晰に理解し、体得するかが求められる。人為的要因によって因果法則を超越し、制約を受けずに、「因果不昧」の綱領を如何に受け止めるべきか。まさに「因果不昧」の法則を超越して、上乗の列に入ることができるのである。
「下乗、中乗、上乗、大乗、菩薩乗、仏乗」などの区別なく、すべてこのようである。有情衆生の次元、境地、果位はそれぞれ異なり、各種の規律や戒律は牛の毛のように数え切れない。このように見るならば、それぞれの次元・境地・果位が異なる中で、どうやってそれを超越し、さらに向上させることができるだろうか。
これは人の行為動作に対して、「因果は曇ることなし」の法則を遵守することを求めるものであり、またこれらの法則は一目瞭然、つまりはっきりと分かるものであり、真に超越を望む者に最大の向上をもたらす。このように人の行為動作の中には、やむを得ず一部干渉を受ける部分があり、その干渉を受けた部分については、条綱制度に従って修正・改善していかなければならない。
因果の法則は決して曖昧にならない
人道世界において真に向上を遂げることができる。この過程で自らのエネルギーは「自ら光を放つ」エネルギー体に到達し得る。これにより有情衆生は自らにより大きな成長と利益を得ることができる。まさに自らが自らの主人となり、人道世界においてずっと自らの奴隷であり続けるのではなくなるのである。
これは有情衆生が最も向上しにくい障害点であり、「因果を昧ますことなき法則」と相互に照らし合うものである。この二つは異なり、「因果不昧」は一切衆生の行為動作に対して、各人の日常生活における一挙一動を追い、影が形に従うように、各人の八識田に記録されるのである。
「因果を覆さず」とは、大宇宙のすべての衆生が因果の法則に従って規制され、自らが行った善悪すべての行いが、わずかも漏れることなく、未来において福禍の報いとして現れることを指します。一般的な衆生は、人間界に生まれた後、この一生では上昇や超越の機会はないと考えています。
これこそが人類衆生の迷いの障りであり、なぜこのようになるのか。有情衆生は信仰する宗教の経典の明らかな道理に志を堅くすることができず、皆、宗教信仰の無明の思想の障害を受け、しばしば経典の本来の意味を誤って解釈してしまう。また、現代の人々は往昔の文言文字の意味合いを理解することが非常に難しいのである。
因果を昧まず、及び因果昧まず
現代では白話文が用いられていますが、信仰者一人ひとりの思想や観念、境地のレベルはそれぞれ異なっています。宗教を信仰するとは名ばかりで、修行者と自称するだけでは、自分自身に対して責任を負うことはできず、ただ生まれ変わりを繰り返しながら修行を積み重ねるだけに過ぎません。過去の時空における因縁や環境の中で、どのように経典が生み出されたのかを理解し悟ることは、非常に難しいことなのです。
長く続けて矛盾しないかどうかは、真の修行者にとって非常に大きな試練である。しかし、真の修行者は「宗教の障壁と教義の障壁」という二つの制約を受けやすく、大きな思想的変化を遂げる者は少ない。また、自らの無明の障害をすべて解消し、向上と超越を果たすことができる。
人為的な要因によって制限が生じ、過去の経典の迷妄の中に閉じ込められ、経典の内包する意味を明確に理解し通達することは難しい。このように、チベット密教の弁証法的経典は、より大きな向上が見込まれ、中原の炎黄子孫の宗教的思想観念と比べて、経文の中により明確に現れ、より広範な思考体系を持つことになる。
なぜチベットの弁証的経典は、中原の保守的で硬直したものよりもはるかに優れているのか？しかも、それは一貫して変わらず、宗教経典は活用すべきものであることも理解していない。宗教経典のすべての利点をうまく活用し、自らをより大きく向上させることができるのに、あなた方は今このような天与の良機に恵まれ、第一級の資料の中で学びを深めている。
因果が明らかであることの弁証
宗教経典の不足を、向上して学び成長する機会と見なすべきである。中国本土はチベットのすべての文言文字及び現代の白話文字に対して、異なる宗派体系の中で、より深遠かつ広範な思考構築を持つべきである。人道世界はすべての宗教経典に深く憧れているが、時空と因縁の違いを理解する必要がある。
各宗派の指導者や、過去の先達たちの思想・観念が、現代における宗教経典への多くの制約や誤解を形成しています。また、「因果の法則」を理解していないため、因果の法則が明確にならず、さらなる障害が生じています。これこそが、現代において「仏教」思想が重要視される所以です。
未来の教育の伝承と教化の完成とは、すなわち「儒家」の三綱・五常・四維・八徳を規範とし、「耶家」の博愛を加えて、人類世界のあらゆる善徳の縁を実践することです。この中でさらに「道家」の先天五行・八卦によって、有情衆生がいつ災いを起こし、いつ福に入るかを観るのです。
すべては深い関わりと定められた数理を持っており、最後に有情の衆生がすべての宗教の洗礼を受けた後は、まさに家に帰るべき時となります。また、「家に帰る」とは、清浄真実を本来の姿とすることです。この「清浄真実」の本質に対し、人間世界ではいかなる宗教を信仰するか、また信仰する宗教の行為や動作を区別することなく、取り入れます。
因果は昧まず、超越する
家に帰るための最も重要な資糧の源として、有情衆生はどの宗教宗派を信仰するかに関わらず、どのように「儒・道・釈・耶・回」の五教の精華を吸収するか？それぞれの宗教の核心的な内包と要義を悟ることである。単一の宗教だけを信仰するのではなく、それでは自分が信仰する宗教のどこが不足しているのか理解できない。
各宗教の優劣や長短はどのように判断されるのでしょうか。もしただ自らのみを賞賛するだけならば、未来に回帰する道が閉ざされ、真の超越と向上も叶わなくなります。さらに、信仰する宗教の「経典の文字の障壁」を解消することもできず、これは宗教における「教義の障壁と宗教の障壁」の中で、最も突破が難しい障害となってしまうのです。
また、宗教信仰は最も限界を突破することができず、まさにこのようなものです！「因果を昧まさない」根本がどのようなものかを知らなければなりません。もしただ宗教を信仰するだけで、因縁果報の違いがどのようなものかを知ることができなければ？それは単に「宗教信仰者」と呼ばれるだけで、根本的に向上して超越することは非常に難しいのです。
現代の人類の人口は約65億人に達し、そのうち半数以上が何らかの宗教的信仰の洗礼を受けています。しかし、この信仰者のうちの半分は、根本的に「因縁果報」の機能と作用を理解することができません。また、信仰が異なるため、受ける教化の過程も異なり、感じ方もそれぞれ違ってきます。
有情の衆生は皆、因果を昧まさず。
世の中の宗教信仰者を見ると、あまりにも多くの人々がただ名義だけを掲げ、いわゆる宗教信仰と修行をしているに過ぎません。なぜこのようになってしまうのでしょうか。衆生の習性と素質を理解しなければなりません。彼らはただ他人に付き従って敬拝し憧れるだけで、どこに人が多く集まり霊験があると感じれば、そこに信仰を追い求めて行くのです。すべては盲目的な崇拝に過ぎないのです。
自分自身の確固たる見解がなく、信仰の原動力となる意志を固めることも難しいならば、どうして信仰する宗教の教義の真髄を深く理解できるだろうか。そうなれば、信仰する宗教の経典や教義に対する迷いや障壁が生じてしまう。もし最初から信仰教育（教義）や教化の方法が間違っていたなら、後になってどうして正しい信仰によって変革を起こすことができようか。
しかも、すでに先に誤りを犯してしまった後で、後から修正や改変をしようとしても、根本的に不可能なのです。すでに根深く固まってしまい、容易には揺るぎません。このような信仰者は大半以上を占めています。上蒼の慈悲と恩恵により、各宗教の欠点や不足しているところを修正・改善し、また優れた点や殊勝なところをさらに大きく広め教化していくのです。
各宗教の欠点や不足を、『大道シリーズ天書』の著作を通じて補い、誤りを修正し、転換させることで、真の修行実践者がより大きく向上し、超越することが可能となる。「懿敕崇心宗脈－大道シリーズ天書」の著作本来の意図は、この綱領を以て成就の枠組みを構築することにある。
五教の経典教義の長所短所とその優れた点
そして、特別に優れた、得難い天機の良縁を、広く大衆に提供して参考とし、より大きな向上と超越を可能にし、いかなる宗教や宗派の区別なく、すべてに機会を与える。また、自らがより大きな宏観的な心の広さを持ち、より超越した眼光を持つこと、さらには斬新な思考と観念を持ち、自らの信仰によって固定化されないことが必要である。
自分が信仰する宗教だけを深く学べば、回帰できると考えるのは、確かに正しいことです。しかし、必ずしもそうとは限りません。それは、一人ひとりがどれだけ心を込めて精進するかによって判断されるべきです。自分が信仰する宗教の観念と行動が正しいかどうかによって、将来どれだけ大きな利益を得られるかが分かれてくるのです。
自分が信仰する宗教の「経典と教義」の長所を正しく発揚し、短所を補うことができれば、上天がなぜ「大道シリーズ天書」を著作されたのか、そのすべての意味合いを理解することができるでしょう。あなた方は本当に幸運です。このような天機の良縁に巡り会い、この時空の因縁の中でそれを慶ぶことができるのです。
この世で最も貴重な第一の宝を実際に手に入れ、資糧の源によって薫習され成長すれば、あなた方はより大きな悟りを得ることができるでしょう。上蒼の恩恵と慈悲とはどのようなものか？まさにすべての良縁が増長し、必ずや自分自身のこの一世を向上させ超越させることで、真の回帰に到達し、すべての人々が恩恵を受けられるようにするのです。
因果を昧ますことなく基盤とし、因果は昧まず互いに合致する
層次と境界を分けずに　果位は実に超越の期を得ん
人道世界の宗教は、優劣良欠が互いに競い合っている。
大道の系列は不足を補い
衆生の回帰成就を躍進させる
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、人為的な努力によって自らがより大きな成長と収穫を得られるようにするものです。すべての人類がこの一生において向上成長できることを必ずや体得し、過去のすべての不足や欠落、過ちを確実に修正し直すことができます。皆様のご相伴とご助力に感謝し、またお会いしましょう！
無極道真天尊
無極の因縁は真に殊勝なり
道真と天尊は相互に成す
大道は因果の根本なり
昇華超越し真に回帰す
諸聖仏と諸賢生、および無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は、仏教の南無大日如来仏がご降臨され、崇心著作『大道因果』第七回をお授けくださいます。前回の「因果不昧」に続き、「不昧因果」において有情衆生の不足と欠如を相互に補い合い、皆様がより大きく成長し、利益を得られるよう導いてくださいます。その中に込められた深い意味を細やかに味わえば、無限の恩恵を受けることができるでしょう。
2015年3月8日19時52分◎　了承。
第十八回　夫婦の怨み合い
第廿二回 　  夫妻善改
2008年9月26日　戊子年七月二十七日（金曜日）
第七回　    因果不昧
南無薬師如来仏　　大道因果来たりて降り作す
殊勝なる因縁を弘め広げんとす　含因起動して架構を成す
第十九回　　婚外の情けの業
第廿三回　  父母兒女
2008年9月30日　戊子年九月初二日（火）
第八回　   含因起動
含因起動の因縁
有情なる衆生がこの世において行うすべての行為や動作は、「因を含んで起動する」ことによって初めて「触縁に接続する」ことができる。触縁がなければ、成果に至ることも難しい。成果に至った後も、なお転換の余地は残されている。人間の衆生は往々にして、成果に至った後は償いの報いの相互性を変えることはできないと考えがちである。
まさに有情衆生が最も理解しがたい一つの事柄であり、また「因を宿し、縁に触れ、果を成し、報を償う」という四つの段階について、因を宿すことから始まる真実の性質を、人為的要因によって必然的に成就される過程として認識し、知識と智慧の成長を得て、人界における相互の関わり合いを通じて明らかにしていくのである。
なぜ有情衆生のあらゆる行為や動作には、因果応報の報いがあるのでしょうか。これは因縁果報が人間世界に組み込まれており、善果も悪果も区別せず、すべて人間の行為に対して誠実に報いるからです。それによってこそ、人類に対するすべての因縁果報が、人間衆生に追及されることになるのです。
因果の循環には、相応する如実の性質が依り所となり作用します。これは因を含む累積に対して、縁に触れて成果の報いを起こさせるもので、すべての有情衆生がこのようであり、また、それぞれの聖神、仙仏、菩薩、高真なども同様です。信仰する宗教の有無を問わず、すべて同じなのです。
含因基本構造
地冥星においては、人間として生まれてくる以上、あらゆる行為や動作に対して因果の循環が加わり、それによって含因の本質的構造が形成されます。有情衆生の過去の行いは、現在の結果として現れ、報いの相互関係を生み出します。人類の衆生の多くは、このような仕組みの中にあるのです。
人道世界はまさにこのような時空因縁の中にあり、あらゆる有情衆生はどのような時空因縁に入るかを区別することなく、因果応報の相互作用を受けます。また、人為的要因については、いかなる時空因縁であれ、同じく償いの報いの区別性において成就し、因縁果報があり、人類が因果循環に入ることを形成しています。
因果の循環が始動することを理解しなければなりません。つまり、原因の本質を含めて、あらゆる有情衆生の行為動作の中に組み込まれているのです。それぞれの行いは、自らの不足・欠落・誤りを改めることができて初めて、修正の動作が可能となります。このような修正こそが、自らの不足・欠落・誤りに対して、すべての因縁の動作を向上させることなのです。
また、いかなる時空の因縁に対しても、すべての行為動作の基本構造が生じ、今生に植え付けられます。すべての衆生は前世の因果に従った動作を繰り返すことによって、今生今世を得るのです。今生今世、人道世界に来て何をするのか？今生今世が、過去のすべての因を積み重ねた結果、必ずそれに従った動作が生じることを理解しなければなりません。
因果循環の主体作用
これは過去世の一つ一つの行いが、善悪を問わず、現在の今生今世において多くの結果を生み出していることです。前世の自分の行いについては、すでに覚えていないだけでなく、記憶が難しく、さらには少しの印象さえありません。このような記憶や印象は、今この瞬間に静かに心を落ち着けて考えることができるならば。
必ずや一片の記憶があるはずです。もし前世のすべての過程を、現在この世の未来の電伝映像の中に移植することができれば、記憶は再生され、あらゆる衆生の前世の因果を理解することができるでしょう。『天心鏡、地心鏡、良心鏡』この三者には、すでにあまりにも多くの同じ因縁が存在しています。
また、すでに宇宙全体に広がっているこの未来の科学技術文明は、あなた方の電伝映像を通じて視覚に現れることができます。さらに、前世の様々な記憶をICマイクロチップの内容に再現することで、すべての行いが極めて明確に理解でき、相互に補完し合い、確証を得ることができるのです。
今の人類の衆生は、自分は善良な人間であって決してそんな人間ではない、自分にはそんな行いや動作はないなどと、いつまでも強弁することはないだろう。それでは、「天心鏡、地心鏡、良心鏡」が現れた時に、どのような感覚を抱くだろうか。有情の衆生は、自分はとても能力があると思い込み、人間界での行いや動作、そして行動規範について
原因の本質に基づいて
皆が自分には大きな能力があると思っていますが、知っておかなければならないのは、もし前世の様々な福報が今の瞬間に加わっていなければ、あなたの現在の福分と福縁に多くの障害が生じるかもしれないということです。これは福縁があなたの生活の動作の中に加えられており、また福報がより良い者を指して、良好な生活の質と言うのです。
「衣・食・住・行・育・楽」のすべてが満たされ、何一つ憂いがないのは、前世において十分な福徳と福報を施し与えたからこそ、今生今世に大きな福沢と福報が多くもたらされ、あなたの現在の生活に加えられているのです。前世のすべての施しは、自分自身には見えていないのに、どうして「これはあなたのおかげだ」などと言えましょうか。
もし言うならば、前世に施しや犧牲奉獻があったからこそ、今の報いがあるというのは、あまりにも独断的である。一般の人々は、自分には福徳がある、自分はそういう者だと思い込んでしまうだろう。福報と恩恵が衣食住や娯楽を豊かにし、より快適で便利な生活をもたらすことで、「福禄、食禄、衣禄、住禄、享禄」といったさまざまな加護がもたらされるのである。
すべての福禄と福報は、あなたがたの今世に注がれるものである。もしあまりに長く享受すれば、必ずや一種の傲慢な心が生じる。これは私の能力と努力によって得られたものだと必ず思い込み、このような状況を福報や福禄が極めて厚いと考える人は、多くがこのような認識と心構えを持つものである。
含因本質の作用
もし彼らに災難や悪い禍いが降りかかれば、このような傲慢な心構えや考え方、行動はなくなるだろう。これは上天が一貫して用いている方法であり、良し悪しや善悪の福禍を問わず、有情衆生を互いに成全させる中で、有情衆生は「因の起こり」をいかに知ることができるのか？まことに理解し難いことである。
一切の有情衆生は、すべて因の起動を受けるものである。因の起動の前に、もしすでに示現していなければ、どうして起動することができようか。このような因の起動、すなわち因を含む本質は、まさに「無の中」に本来の本質を具足しているのである。因を含んだ後はどうなるのか？人間の衆生はまったく理解していない！
全ての衆生は、行動に先立って必ず自らの思想や観念を持ち、それによって善悪・好悪の区別が生じます。有情の衆生は人為的要因に対処する際、まず自らの思想観念を持ちますが、もしその思想観念が正しければ、多くの悪業や災い、悪果を招く機会を減らすことができるのです。
もし自分の思想や観念が正しくなく、しかも行き詰まってしまうなら、それによって苦しみを受けることになります。このような思想や観念はなかなか転換が難しく、有情の衆生が行うすべての行為や動作は、人為的要因によるあらゆる結果に影響を及ぼすでしょう。果たして正しい思想や観念を持ち、正しい行為や動作ができるでしょうか？
すべての因縁は源由を生み出す
物事の取捨選択は刹那の間に起こります。この刹那の間に感じ取るものは、往々にして因縁果報が自らの思想に加わることであり、それによって本来とは異なる意味や行動が促されることもあります。もし思想観念が正しくないと気づくことができれば、まさに自らの経験の過程を細かく観察し、それを修正していくことができるのです。
往々にして、原始的な因果応報の受け取り方を変えることができ、それによって過去に造った業や悪、災いに対して未来に受ける苦しみや試練を減らすことができます。これは自らが積み重ねた経験の法則を通じて修正されるものです。もし自分が明らかに間違っていると分かっていながら、それでもなお改めることができず、次の苦しみや災いが来ることを心の中で分かっていながら、そのままにしてしまうのです。
また、このような会合はどうなるのでしょうか。さらに、面目を失いたくないという心理状態に加え、強いて面子や体裁を問題にすると？このような人々は因果応報の循環の中で、すでに自分が間違っていると深く理解しているにもかかわらず、変えるのが難しく、自分で行き詰まりを感じながらも面目を保とうとし、どうしても面子を失ってはならないと強く思い込むことで、業の結果や悪い災いを自ら招いてしまうのです。
変えようとするのは非常に困難であり、すべての困難を解消することも難しく、またすべての災難や悪い禍は必ず次々と訪れる。これは大いなる天地の有情なる衆生が、因果がまだ形成される前に、それを変え、転換し、悪い災いや業果を造らずに済むように、解決の動きがあるということである。
含因は触縁において累積して形成される
もし一方的に面子を保つことばかりを強く求めれば、次の動作による苦い結果と試練は必ず次々と訪れることでしょう。その時になって苦しみ後悔しても、もう手遅れです。あなたは賢明な方のはずだと信じています！大いなる天地に生きる情ある衆生が最も理解し難いこと、それはなぜ因縁が積み重なり、触れる縁によって互いに作用し合うのかということです。
含因が前縁であることを明確にしなければならない。それはすでに無の中に形成されており、このように無の中に具足していないのか？そうではない。無の中にはすでに形成されており、ただ時空の因縁が促すのを待っているだけで、触縁が人の行為動作に加わるのである。また、このような人間の行為は、必ず思想観念によって促されなければ、行為動作が可能となるのである。
あなた方は、よくよく考えてみてください。果たしてそうではないでしょうか？もし思想や観念がなければ、どうして行為や動作があるでしょうか？それはありえません！必ず先に思想や観念が起こった後で、初めて行為や動作が促されるのです。しかし、思想や観念が確立されるのは、まだ行為や動作が現れる前のことなのです。
ただ時空の機縁を待ち、未来に成熟するのを待つだけです。有情の衆生は、なぜ行為動作が現れる前に触縁の相続が生じるのか理解できません。つまり機会を待って未来の果報を形成するのです。これはまさに善悪を分別せず、すべてに善悪と福禍の報償と報応があるということです。これは人類の千古変わらぬ定理であり、人生の善悪・好悪・福禍に対する未来の報償の根拠として非常に真実であり、少しも漏れることはありません。
人生の一世は人たるに値するもの
累世の行為が因果を生ず
常に業報に遭い凡塵に入り　思想を改造して障りを深く化す
前世の因が今に続き　縁に触れて汝の来るを待つ
善悪の果報は区別され、福禍の報いは時を待つ。
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、「含因」の第一段階を、崇心宗脈のすべての神仏と学生が互いに補い合って完成させ、「大道因果」の著作を通じて、有情の衆生が「含因の始動、触縁の継続、成果の判別、償報の善悪」を理解できるよう願うものである。
自らの行動と言動、あらゆる思想観念をここに注ぎ込むことこそが、まさに未来における「報いとしての福楽と報応としての禍い」の区別を成し、人類衆生が存在する福禍の報償と報応を形作るのである。汝らが共に作業に付き添い、崇心宗脈のしばしの時を煩わせたことに労を感謝する。皆様、またお会いしましょう！
無極進財天尊
無極天命は崇心に降り　財を進めて大家は皆愛引す
天尊今日は輪番に当たり来たりて、大道の因果を著し書を行わしむ。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は、仏教五大教尊の一人である南無東方薬師如来仏がご降臨され、「大道因果」第八回「含因起動」をご著作くださいました。これにより崇心は今後の弘化において、この「大道因果天書」をより大きく成全し、向上させることができるでしょう。皆様、ご苦労さまでした。すべてが吉祥でありますように。では、またお会いしましょう。
2015年、3月8日、19時53分◎＃※  了承。
第二十回　　情孽修整
第廿四回　  兄弟姐妹
2008年10月3日　戊子年九月初五日（金曜日）
第八回　   含因起動
南無瑠璃世界より来たる　　光如来仏の著作に載せられたり
第廿一回　　善徳夫妻
第廿五回　   手足親人
2008年10月7日　戊子年九月初九日（火）
第九回  　  觸緣接續
人生は世に生まれ、業因を積み重ねる
人類の衆生は成長して「因を含んで動きを起こす」相互の因縁に入ります。もし「触縁」がなければ、果報を現して償うことはできません。これは千万年を経て、ずっと続いてきた機能と作用であり、この大いなる天地の中で、すべての人類衆生が生存する最も基本的な条綱です。
いかなる国や宗教の宗派においても、それは人間世界における「触縁」の連続過程である。「含因基本」を「触縁の起動」に組み込むことで初めて「成果の分差」が生じ、それによって「果報が連続して訪れる」ことになる。これは人間世界において人為的要因が生活の営みに必然的に及ぼす影響によるものである。
このような状況ゆえに、まさに因縁果報から離れることはなく、すべてが相互に循環しているのです。では、なぜ触縁があって初めて含因の本質につながるのでしょうか。つまり、種子因の範疇においては、必ず含因の本質を引き起こすものであり、種子因の基本機能こそが、人類衆生が依存して連続していく所以なのです。
有情なる衆生は、あらゆる時空環境において、そのすべての機能作用は同じであり、「含因本質」に対して「触縁接続」を引き起こした後に初めて、「成果展現」が可能となるのである。善悪・禍福の区別なく、すべてこのようにしており、この条件は「含因が起動し、触縁が接続する」中に存在している。
縁に触れて連続する作用
成果を上げるためには、因果循環の相互作用的な働きから離れることはできません。多くの人々は、この世には因果応報しかないと思いがちですが、実は「含因起動」が起こった後、「触縁」に入るのです。したがって、「触縁」はすべての行動の基本的な基準となります。
いかなる環境や時空においても、「触縁」がなければ成果を得ることはできません。「触縁」という観点から見れば、その「触縁」とはあなた方にとって第二の手となる、すべての資糧源を継承するものであり、含因は第一の手となる基本的な主体です。これらは形も相もありませんが、確かに実在しており、ただ人間の肉眼では直接見ることが難しいだけです。
このように、第二の手がかりとなる資糧もまた非常に重要であり、さらに欠くことのできない主要な因縁の根本です。まさにあなた方が言うところの「触縁」が成果に入る、つまり媒介となるもの。この種の媒介は人道世界において、未来にさらなる成長と利益があるかどうかを区別することなく、必ずや各人の行為動作に従って循環していくのです。
換言すれば、それは触縁の媒介である。媒介がなければ、あなた方はどうして未来の第三層次を具足し、一つの「成果」を現すことができようか。このような媒介は、まさに潤滑剤と言える。潤滑作用は成果に至る前に必須であり、もし潤滑剤による調和がなければ、そもそも成果を得ることはできないのである。
触縁接続は主な功徳なり
これは生存志向の作用を通じて観察することができる。人道の生存志向が依存するのは、必然的に時空の因縁と環境の形成が必要であり、また時空の因縁と環境の形成がすでに具足しているが、潤滑油となる組み合わせが欠けている場合、まさに機能的な効果を発揮することができず、成果を上げることも困難となるのである。
例えば一本の木を観察してみると、時空の因縁と生育環境が整ったとしても、なお空気、日光、水、肥料（肥沃な土壌）が必要であり、初めて成長の可能性が生まれる。もし成長の過程で他の外的な力に破壊されれば、中途で枯れてしまい、まったく生長することができなくなる。
火事や台風のように、その他の要因や人為的な力によって破壊され、途中で枯れて順調に成長できないこともあります。この過程は小さな木にとって非常に重要です。もし中くらいの木や大きな木であれば、人の力ではまったく揺るがすことができません。たとえ時空の因縁と環境がすべて整っていたとしても。
しかしその過程において、順調に生長することができたとしても、少しばかりの火災や台風の襲来に遭い、金剛不壞の身を鍛え上げることができる。人類衆生のすべての生長過程もまたこのようであり、このような条件が人間に作用するのは、縁に触れた後、あらゆる事柄の経験過程に応用され、人と樹木は同じであると観ることができる。
人世间には必ず縁が巡り来る
人類は知識、経験、知恵を応用し、生活環境のあらゆることに直面する際、まず思想や観念を備える必要があります。つまり、人間の「原因を含んだ起動」がなされ、その後「縁に触れて継続する」ことを通じて行動が生じ、それによって事象の連鎖が組み合わさるのです。事象の連鎖が組み合わさる前には、必ず「縁に触れて継続する」過程が必要です。
互いに成果を成就させ合えるかどうかは、成果を現す前に、「触縁接続」の後に初めて成果が現れる可能性があることを明確にすべきである。「触縁」がなければ成果もない。観ることができる：人間と樹木は同じであるが、ただ人間の行為は動き回ることができ、触縁を選択し、取るか取らないかを選ぶことができる。
しかし、木々は取捨選択ができず、火災や台風の襲来を受け入れざるを得ない。それでも金剛不壊の身を保ち得る。人間の衆生も同じで、人生の試練を経て初めて、人間世界に安らかに立脚することができる。そうして多くの経験を積み重ね、成熟を増すことで、生活に困ることなく暮らしていけるようになるのである。
しかしながら、金剛不壞の身を具えることはできず、これこそが触縁の取捨であり、人間と他の衆生は異なるのである。大いなる天地に生きるすべての人の行為や動作は、まさに人間の含因が触縁に触れて起動するものであり、このような触縁は媒介となる。もし樹木を例に観るならば、生長の過程において、さまざまな風霜雨雪の侵襲を飽くまで受けるのである。
縁に触れて本質が作用する働き
初めは小さな苗木から大木へと成長することは可能ですが、花を見てみると：花は弱く、木とは比較にならず、また花は弱いため寿命も比較的短いのです。同じように一握りの花の種を土に植え、同じ時空の縁と環境、同じ生育環境を与えても、花の成長期は比較的早く訪れます。
「春、夏、秋、冬」というすべての循環過程を経て、一つの花が開花し実を結ぶには、媒介による伝播が必要であり、また花粉が花弁への媒介として働かなければなりません。さらに水と日光の調和が適度に保たれることが必要で、そうして初めて、やがて開花結実を見ることができ、生き生きと繁栄して美しい花を咲かせることができるのです。
また、水の調節が適度でなければ、将来の開花結果を見ることも難しくなります。人の行為動作も同じで、人は父の精と母の血を受け継ぎ、身ごもった後、十月の懐胎を経て初めてこの世に人として生まれ出るのです。もしその過程で、両親に多くのやむを得ない事情があるならば、この時こそが懐胎受胎の機会となる種子の因となるのです。
また、十月懐胎の後に人間として生まれ出ることも難しく、嬰霊（児）が形成されても、生まれ変わる前に結果もなく夭折してしまう。人道世界から見れば、この中の深刻さを理解することはできず、嬰（児）霊が中道に生まれる条件を整えるのは難しい。このような嬰霊（児）の夭折は、まさに現代においてあまりにも多いのである。
触縁媒介と種子因
赤ん坊が生まれ、もし幸運にも無事に生まれたとしても、その後の生育環境の良し悪しを見極める必要があります。これは種子の因縁に関わることで、赤ん坊が生まれた後には必ず食物連鎖による供給が必要です。もし食物連鎖の供給が不十分で、さらに両親が亡くなり、他の援助者もいないとしたら、どうなるでしょうか？
この赤ん坊が成長して大人になるには、相当な苦労と困難を伴うことでしょう。それは、含因種子の基本的な機能作用が「触縁による接続」の過程に入るからです。この「触縁」は媒介となるもので、生活の方向性において親の世話が欠け、年長者や親族・友人からのケアもなく、安らかに成長するために必要な多くのものが不足している状態です。
これは媒介の因縁に対して、十分に安らかな家庭生活を備えることができず、順調に成長して大人になることも難しく、多くの生存の障害が生じる。もし人間の衆生がこのような条件を備えていないならば、どうしようもないことだ！往々にして種子の因を破壊し消滅させたり、あるいは自生自滅に任せたりするが、実に哀れなことである。
しかし、上蒼の慈悲の恵みにおいては、天の生き物を慈しむ大いなる徳を体得すべきであり、あらゆる霊ある生き物に対しては食物連鎖によって供給され、すなわち他の「触縁媒介」に転換され、他者に移されて養育・世話されることになります。種子の因がより大きな利益を得られるかどうかは知る由もなく、必ずや全ての生長する空間によって定まるのです！
触縁媒介の始まり
まさに「触縁」という媒介が必要であり、この「媒介」こそがすべての因縁の始まりなのです。有情の衆生は生活の中でより大きな恩恵を受けることができます。なぜなら、それは上天の慈悲が大いなる天地のすべての営みに対してなされるものであり、「天には生き物を慈しむ徳があり、地には命を育む徳があり、人間には生き物を解き放つ徳がある」というのが正しいからです。
人類の衆生は他の種の衆生に対し、さらに放生と護生の徳を有している。もしこの三者をもって言うならば、必ずや食物連鎖における殺戮行為を減少させることができ、生活の方向性が相互に安適な作用を持つことができる。つまり、食物連鎖を通じて供給されるものが不足を憂うることなく、生活の安適な環境を得ることができ、有情衆生に利益をもたらすのである。
大寰天地の一切有情衆生は「触縁」の後に、異なる環境と時空を形成し、未来の良善なる成果の相互性へと入る。かくして「触縁」はまた一切の「好と悪、善と悪、福と禍」の分差を生じ、人為的要因は人の行為動作によって如何なるものであるかを区別することができるのである。
すなわち「善し悪し、善と悪、福と禍」の違いである。有情世界の一切の行為動作は、未来の時空における因縁の報いをどのように区別するのか？人類の衆生は、往々にして自らの行いを異なる自己認識と思惟によって捉える。それゆえ、「触縁の連続」に対して、いかなる未来の因縁が生じるのかという問題が形成されるのである。
触縁による種子因の働き
自分が未来の成果をどのように知ることができるのか？また、その継続性はどうなのか？人間の世界では、自分の種子の因がどのようなものかを知ることはできないのではないか？そうではない！人間の行動を通じて、自分の種子の因を向上させ、改造することができる。上に向かって学び成長する必要性があれば、良き善縁が増し、利益を受けることになる。
ちょうどあなたがた諸賢の生のように、この時空の因縁環境の中で、多くの仙仏の先生方がご降臨され著作をなさることを経て、あなたがたに知識と経験の成長と蓄積があり、未来に善く活用できる智慧が生まれる。このような機会は、千百年を経ても真の大契機は得難いものであるが、あなたがたはすでに今この時に得て、具足しているのである。
この状況において、自分がどれだけ心を込めたか？どれだけ努力したか？どれだけ知識を応用したか？自分がどれだけ精進したかを含めて、一人一人の学生の収穫と利益には、まさに異なる次元の段階的な違いがあるのです。あなた方は今夜の貴重な時間を犠牲にして、仙仏の先生方が著作されたものを共に吸収されているのです！
直に心と心を通わせ合うことができ、知識の成長と経験を高めることもできます。これは智慧が示す優れた条件です。もし今この瞬間を観て未来を見据えるなら、より大きな収穫と利益を得られるかどうかは、今この瞬間に必要な努力と向上にかかっています。まさにこのように、あなた方が利益と収穫を得られることは、今この瞬間の中にあるのです。
触れる縁が方向を定めて接続し
媒介が転じて互いに依り合う
人道は触縁を借りて用いるがゆえに、はじめて未来に果を結ぶ期節がある。
すべての生活のありようは
人の作為によって明らかになる
世界の国々を問わず　同じ因果の航路を辿る
この偈は、有情の衆生と共に励まし合うものであります。「含因起動」後の「触縁接続」を媒介として、より大きな成長と利益を得ることができる、これこそが真実の性質であります。本日初めて崇心宗脈の道場に降りましたが、実は以前より何度も崇心に来ておりました。ただ、これまで皆様と共に台上で研鑽を深める縁がなかっただけです。皆様、ご多幸であります。またお会いしましょう。
無極納福天尊
無極納福天尊が来臨され、崇心道場は天がご配慮くださる。
諸賢大家皆安好　吉祥如意財德開
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日、南無瑠璃光如来仏が初めて降臨され、「大道因果」第九回を著作されました。前回の「含因起動」に続く第二回次「触縁接続」を、相互に連携させて論述し、皆様の思想と観念の成長を促されます。
更なる高みへと進み、天地が演繹する真理を深く理解できるようになることこそ、諸天の仙仏が労苦を厭わず降臨して著作を残された所以であり、汝らにより大きな思惟と観念を授けるためである。次回は「因縁に触れる」に続く「果報の償い」の完全性について、さらに真実のままに説き明かそう。本日はここまで、皆様お疲れさまでした。どうか吉祥に満ち、福を納められますように。ではまたお会いしましょう！
2015年、3月8日、19時54分◎＃※　了承。
南海古仏
第廿二回　夫婦善改
第廿六回　   至親關係
2008年10月10日　戊子年九月十二日（金）
第九回  　  觸緣接續
南海の衛は萬霊を護る　古仏は降りて因果の因を著す
大道は宇宙に広がり、成果は定論を導き業を創る。
第二十三回　父母と子女
第廿七回　   親戚朋友
2008年10月14日　戊子年九月十六日（火）
第十回　   成果定論
有情なる衆生は成果として現れる
人道世界に生を受けた後、人間は自らの行いに対して必ず因果応報が巡り、その因果応報の相互作用と清算の中で、人類は「含因の本質」の基本的な働きが何であるかを理解すべきです。また、それぞれの時空における因縁が持つべき条件はどのようなものかを知る必要があります。
人間世界で明晰に生きることができれば、「因を含み、縁に触れ、果を成し、報いを受ける」という相互循環が生じます。それゆえ、仏教の殊勝なる理諦は、有情衆生にとって必要な「因果応報」という思想観念を明らかにするだけでなく、恩を施し報いる相互性を理解することで、善なるものが増長し超越していくことを知ることができるのです。
もし大いなる天地が、人為的要因によって形成されるべき条件を経て、まさにこのようになるならば、因を含み縁に触れた後には、必ずや結果の基本的作用が生じ、善悪の果報となって現れる。その報いは自らが身をもって受けなければならず、これは人間世界に本来備わる相互循環の理である。これによって善悪・良し悪し・福禍の区別が生じるのである。
人道世界における因縁果報の償いを受けた後、「含因本質」が発揮する機能はどのようなものか。知らなければならないのは、人道世界には因果循環によるすべての報いのほかに、なお「苦苦」の環境と「壊苦」の時空が存在し、それに「行苦」の作用が加わるということである。
成果の定論は如何なるものか
この中には多くの人が、「苦苦（くく）、壊苦（えく）、行苦（ぎょうく）」という三つの苦しみの試練がどのようなものかを理解できていません。苦しみの中にある苦しみは、環境を変えることが非常に難しく、人為的な要因によってその苦境を取り除くことができるのか？ 苦しみの環境の悪さ、このような苦しみの試練はまさに人為的な要因によって引き起こされたものであり、なぜこのようになってしまったのでしょうか？
必ず人道世界において通徹せねばならぬ。どうしてこの生、この世の中に苦しみの環境が存在するのか？つまり、自分が前世で行った所業はどのようなものだったのか？どうして他人は楽に安楽で快適な生活を送れるのか？どうして自分はそのような条件に達せず、安楽で快適な生活を送ることができないのか？これによって各人の福と禍が異なるのである！
これは有情衆生にとって最も理解し難いことである。なぜあなた方のこの世のあらゆる苦しい生活が、前世のすべての善悪の因縁と相互に関連しているのか？苦しみに満ちた環境を修整し変化させなければならない、これこそが真実の姿である！さらに自らの生活環境の不足に対して、向上させて良く変化させる必要がある。
自らが苦しみの苦しみの中で、無明の障害や前世の因果による報いを改め除くことができる。これは苦しみの環境に対して、相当に大きな堅固な意志と忍耐力が必要であり、それによって初めて苦しみに満ちた生活の不足を修整することができるのである。人道世界には「壊苦」が存在するため、人類衆生が生まれてから老死するまでどのような道を辿るのかを理解することはできないのだ。
成果の定論は如何にして壊苦に対し修整を行うか
あらゆる年齢における新陳代謝は極めて明瞭であり、すべての衆生は生まれ落ちて無知な幼少期を経て、純真な童年期を過ごした後、社会と学校の教えによってこの時空環境における一切を認識するに至ります。このような過程における「壊苦」とはいかなるものか？さらに青少年期、青年期、青壮年期、壮年期、老年期へと進んでゆくのです。
すなわち日暮れの残暑の過程であり、これは日暮れの残暑のような人生において、あらゆる衆生が決して永遠に変わらぬ肉体を持ち得ないことを理解できる。人間世界では生まれてから老いて死ぬまで同じ一つの肉体であるが、なぜ壊苦があるのか。あらゆる時空の節目も同様であり、春に生じ、夏に育ち、秋に実り、冬に蔵するという循環なのである。
この一連の循環作用を通して、草木の一生の過程がどのようなものか理解できます。毎年、季節ごとの移り変わりはどうでしょうか？もし木々の生長を通して観察できるならば、人間世界も同じであると体得できるでしょう。また、壊苦が人道世界においてどのように作用しているか？この壊苦がすべての人世をどのように損なっているかについても。
様々な新陳代謝の循環に過ぎないのです。人道世界において永遠に存続し壊れないものなどあるでしょうか？いいえ、ただ時空の旅人としての生存過程に過ぎません。もし壊苦の交替を体得できなければ、まさに自分がこの一生を過ごす住処——環境、家屋、衣服、靴、車両…これらがあまりにも多すぎるのです。
世の中では、各人の成果によって評価が決まる。
お尋ねしますが、有情の衆生よ、あなたが生まれてから今に至るまで、どれほどの生存に必要な物品を取り換えてきたでしょうか。それぞれの物品はどれほどの時空の歳月を持ち、どれほど長く壊れず、変わらないままでいられるでしょうか。ただ、人間の寿命と物品の寿命を比べれば、それは一種の貴重な比較であり、人間も万物もすべて時空の過客に過ぎないことを深く悟ることができるのです。
人道世界というのは、まさにすべての新陳代謝の交替と入れ替わりであることを理解しなければならない。誰が壊苦の苦しみを受けずにいられようか？いや、誰もそうではない。では、どのような行為や動作に依拠すればよいのか？行苦を生活の中に持ち込むことになる。人道世界には一部の人々がいて、生まれつき多くの財産や食禄などの様々なものを授かっている。
これは比較的少数の人々であり、大多数の人々は比較的苦労して忙しく、この世の良し悪しの生活過程を経験してきました。多くの有情衆生は行苦の過程を経なければならず、それによって初めて自分自身の生活が比較的安楽になり、自分自身の認識する観念を取り入れることができます。しかし、人為的要因の中で、しばしばある部分の福徳が欠けているのです。
自らの不足や過ち、欠点に対して、多くの行苦が生じることになります。このような状況は、あなた方のように現世で成就を望む者にとって、行の苦しみはより深刻です。もし有情衆生の立場から見れば、行苦の試練はまた別の次元の境地への向上であり、もし行の苦しみがなければ、どうして利益を得る喜びがあり得ましょうか？
行為の苦しみの研磨はまたいかがなものか
まさに行苦に対して、どのような心構えで物事を理解すべきか、自分が心理的障壁を作り出していないか、もしそうならば、手放し、広い視野を持つことが必要です。一つひとつの行苦は自分自身の経験と成長を育むものであり、苦しい試練とはなりません。このような心構えはすでに執着を捨てた状態であり、さらに多くの障壁を突破することができるのです。
自分自身が向上し成長していくことができれば、人生における苦しみは存在しなくなります。人道世界の「苦苦・壊苦・行苦」という三つの苦しみに対して、どのように知識と智慧を用いて構築していくべきでしょうか。過去の様々な不足を成果の定論として捉えるのを改めるべきです。仏教では「命中有時終須有、命中無時莫強求」（縁があれば必ず得られ、縁がなければ無理に求めてもならない）と言います。
これは有情なる衆生に対し、宿命中にない物質を貪り求めてはならず、さもなければ横禍によって自ら災難を招くことを戒めるものである。一般の人々にとっては、あまりにも達成困難な希望や欲求でない限り、思想や観念を変え、行動を努力することで得ることができ、宿命中に得られない希望や欲求を変えることができるはずである。
もしこのようにできるならば、まさに崇心宗脈が掲げる「命中に時無き時は造り成すべし」の原理であり、またすべての学生に戒めとして、このような過去の宿命決定論を改めること、これこそ崇心宗脈において成立せず、必ず改めねばならないことである。命中に時無き時は造り成すべし。この造り成す原理とは、過去の宿命による成果の定論を変えることなのである。
成果を定論として成す
これは「苦しみに満ちた人生、壊れゆく過程、移り行く生命」に対して、宿命によって定められた結果を修正し、因果応報の束縛を超越して向上することを可能にするものです。真に上昇と超越を求める者にとって、これはまさに成就への道であり、宿命の定めた報いの悪しき結末に陥ることはありません。
すなわち、人為的要因によって人類の一切の行為を改変することは、まさに真実であり、有情衆生がこの時空においてより大きな利益と収穫を得、より大きな向上を遂げることができる。人の行為と動作は含因の本質を変化させ、その原始的な因質の一切の過程はまた人の行為と動作によって含因の本質を修整するものである。
このように因は動かず、ただ触れる縁の善し悪しによって、未来の成果の定局がどのようになるかが決まります。成果の定局は必ず再び償いの報いの分判に入り、善悪の結末を成し、自ら因果関係の報いを受けることになります。これは成果の定局が人為的な要素によって修正され、一般の有情衆生にとっては信じられないことなのです。
成果の定局における変異
成果が現れる前に修正や改善を行うことができますが、報いが善悪・禍福の差別として分かれる段階になると、人間の世界では上蒼と仙仏の先生方の深いご配慮を心で理解することができず、一般人の考え方では理解しがたいものです。人為的要因によって積み重なった因果応報の後にも、まだ挽回の余地があるのです。
禍福の分け目は人為的要因によるものである。過去の良からぬ過ちを改め修めることが正しい道である。かつての無明の時代には過ちは避けがたかったが、今や知識、経験、智慧はいずれも向上している。もし依然として昔と同じようなままであれば、あなたが学んだ知識を応用することも何の役にも立たない。
「菩薩は因を畏れ、衆生は果を畏れる」という戒めを理解しなければなりません。菩薩が因を畏れるとは、原因の段階で断つことであり、衆生が果を畏れるとは、結果の段階で断つことです。このように結果の後にさらに報いが続くのであり、もし依然として結果の段階で悪い因果を断ち切ることができなければ、おそらく悪果や悪報の中に陥ってしまうでしょう。これは必然的なことです。
菩薩は因を畏れ、因の上で断つ
衆生は果を畏れ、果の上で断つ
報いを受け入れることは即座に改め難いが、心の在り方と観念は必ず転換せねばならない。
因縁果報の始まりは、果報の後に因の初めに返る
因の中に果があり、果の中に因がある
人界の道理もまたかくの如し
この偈を、有情の衆生と共に互いに励まし合いましょう！「果報は確定している」ということをありのままに変え、含因の本質を減らすことができます。縁に触れた後、すべての成果が定まることは、未来の良し悪しを分ける差となります。有情の衆生に参考として提供し、互いに励まし合いましょう。皆様、お疲れ様でした。崇心宗脈をお騒がせいたしました。それでは、またお会いしましょう！
無極道円天尊
無極の因縁深く厚くして　道円は台に登りて結構を闡く
天尊は諸神人と共に会し、因果の定論はここに作られる。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大道シリーズ主著仙仏である南海古仏が再び降臨され、「大道因果」第十回を著作されました。「成果定局」をさらに深く掘り下げて分析を加えられております。すべての神人たちが、成果が定まる前に修行を改め変化させられることを、切に願っておられます。
成果を善悪・禍福の区別に当てはめることができるでしょうか。人為的要因が結果において原因を断つ最善の方法でありながら、人の世では往々にしてこの中の奥義がどのようなものか理解できず、良からぬ果報を受けることになってしまいます。では、どのように心構えと観念を変え、対応すべきでしょうか。これこそが成果を変える最も重要な働きなのです。
2015年、3月8日、19時54分◎＃※  了承；
南屏道済古仏
第二十四回　兄弟姉妹
第廿八回　   同儕朋友
2008年10月17日　戊子年九月十九日（金）
第十回　   成果定論
まことに人間にて見ることは難く
崇心法会に普く縁を施す
円満に成功し原霊を渡す 六期大道の顕現を慶賀す
第十一回　普化が縁を成す（報償の分判）
普化成就のご縁をいかに報い償うべきか
有情なる衆生が人道世界に入り生活するようになると、「因果」という二文字だけを知る心の状態が生じますが、「因果」の中にあるすべての関連する詳細な問題を理解することはできず、ましてや普く化して縁を成し（償いの報いを分け判じ）、因縁果報を明らかにすることは難しく、常に多くの無明の障害に遭遇することになります。
また、自分自身の向上を困難にする悩みを生み出し、償還報いの分け目がすでに結果の定局に入っているのに、どうして結果の定局を通じて、自分自身の問題や障害の点を変えることができるのでしょうか？これは有情衆生が最も理解しにくい点です。なぜすでに果報の中に入っているのに、なおも変えたり転換したりできるのでしょうか？まるで不可能なことのように思えます！
現代の世に生きる有情の衆生は、自らを悩ます問題の本質を理解できず、また一般の人々は因縁果報が相互に循環する道理について、「因果」という二文字だけを知っているに過ぎません。因縁果報が作り出す過程において、いかに変化が生じるのか、根本的に理解することはできません。ただ人間を含む衆生に「因果」が存在するということだけを知っているのです。
根本的に理解していなければ、その内部の詳細や過程がどのようなものかを知ることはできません。そうなると、すべての問題を好転させることは非常に難しく、再び三たび沈淪を繰り返すことになります。これはまさに有情衆生が最も脱し難い限界と障害であり、またこのような限界と障害は、有情衆生にとっては目に見えない殺傷力となっているのです。
償いの報いの分け前を判断する来龍去脈
また、どれだけの人が深く理解し、この因果の中で向上し超越できるでしょうか。それは大覚智慧を持つ者だけが備えるものであり、報いの分け前はどのように決まるのでしょうか。報いの連鎖に入ると、人間の世界では報いの問題を向上させることは非常に難しく、しばしば人間の世界には怨親債主からの追及しかないと思われがちです。
知らずにいるのは、有情の衆生が累世にわたって、すべての因果応報が相互に循環し、しばしば多くの福分が自らの生活の中に加えられるということである。この中で、いかにして人類衆生の福祉を増すことができるのか？前世の行いによってこそ証拠があるのであり、このような福報は理由もなく加えられるものではなく、もしあるとしてもそれは一時的なものに過ぎない。
これは衆生の福徳と財運を増やすものであり、また福徳が深い時に、人間の衆生は往々にして、自分が努力したから、そして自分の福徳によって得られたのだと思い込み、自分の能力がいかに優れているかと思いがちです。しばしば福の中で悪業を造り、福徳の中で罪の借りを作るのです。
長く幸せを享受するための時空の因縁があっても、縁が大きく損なわれる恐れがあります。では、なぜ人類の衆生にはしばしばこのような福分が加えられるのでしょうか？これは累世にわたって、自らがどれだけの善徳の因縁を積んできたかによるものであり、自分自身で理解できるでしょうか？そうではありません！しかし、往々にして修行する者にとって、このような福報が加えられるのです。
普化の基本条件
物事の加減もわきまえ、自らの行いを慎み、福を大切にする心も持てるようになります。しかし、一般の衆生がこのような福分を見る場合、往々にして自分は元々こうあるべきだと思い込み、大きな福報を持つ者は傲慢で他人を見下す態度をとり、自分の福報がいかに深いかを誇示するようになります。
もし威張り散らして贅沢を尽くし、さらに多くの因果業障を作り、まして福を大切にすることを知らなければ、次の瞬間には苦しみがやって来て悩ませる恐れがあります。今の有情衆生に対しては、自分がいかに厚い福分の報いを受けているかと思い、この時こそ一層大切にしなければなりません。これらは累世にわたって得難い殊勝な因縁なのです。
自らに福徳を授けることは、自身の福分をより長く満たすことができる。人界における因果応報の尊さを心に刻み、慎み深く天や仙仏の恩恵を大切にすべきである。これは汝ら人間世界における行いであり、また汝らの過去世と累世から今に至る、そして現在この生における因縁果報に対するものである。
自らの生活の中に取り入れ、また人間の行いとして、必ずや普遍的な教化成就の教育課程を為す必要がある。汝らが辛苦を惜しまず捧げ献身し、無私無為で為したことに対し、このような行いによって汝らの犠牲と献身、及び無私無為の奉仕が更に加わる。それによって教育文化の課程が生じ、人類衆生を戒め警醒させるのである。
普く教化することは貴重である
よく大切にしなければならない。それぞれの時空の縁は、上天の恩恵と仙仏の加護によってもたらされるものであり、それによってより大きな効用と利益が生まれ、あなた方人間世界においてより大きな収穫と報いを得ることができる。これは人間の行いを通じて、過去の良からぬ因縁の蓄積を転換するものであり、これは紛れもない真実である。
このように広く衆生を救い、広く施しをなし、広く教化を施す教育は、陰陽の両方に利益をもたらし、陰徳を積むことができる。あなた方は理解できるだろうか、上天と仙仏の先生方が、一たびならず、再たびならず、三たびならず、あなた方に功徳を積み、願いを果たす機会を与えてくださっていることを。これは上天が最も重要と考える基本課程であり、教育と教化を通じて向上を図るものである。
一般の人々は、人道世界においては、怨親債主による報復以外には、一切の福分や福報が加わることはないと考えがちです。これは世間一般の認識です。このような教化普及の課程は、あなた方にとって、過去の良くない因縁を改め修整する機会となります。あなた方にとって、今こそは　上天が与えた絶好の機会なのです。
もしこのような天機の良縁がなければ、あなた方はどうして速やかに積み重ね、修行を遂げて願いを成就するという真実の報いを得ることができようか。まさに「善の循環」であり、教育と教化の課程でもある。さらに大きな成長と向上が得られるのである。もしこのような成長がなければ、あなた方はただ宗教の経典の中で、真の修行者と自称するだけにすぎない。
報償の分判と分別
己の知識と観念はどうであろうか。もし仙仏の視点から観るならば、一世で仏果の位階を成就しようと願うことは、おそらく天に登るよりも難しいであろう。これは、汝らが一世で成就を遂げようとするか、あるいは多世をかけて成就しようとするかによって、自らの心の姿勢と観念、そして行為の在り方において、汝らにより大きな成長と向上をもたらすのである。
しかし過去にはこのような天機良き縁がなく、生々世々を経た後に再び人として生まれ変わり、このような殊勝なる大因縁に遇うことは稀であった。汝らが今行っている行為や考え方に対しては、必ず自らの思想観念を改め、修整しなければならない。今ここに言えることは、このような行為や思想観念に対しては、必ず反省を加える必要があるということである。
仙仏の先生方は繰り返し強く要求され、あなた方は次第に仙仏の先生方の深いお心遣いを理解できるようになりました。これにより、仙仏の先生方も安心して教育を施すことができます。これは崇心宗脈が十二年もの歳月をかけて努力して達成したものであり、報いの分け前が良い結末か悪い結末かを決めることができます。あなた方は将来の報いが善良なものであることを望みますか？それとも望みませんか？
わずかでも希望があるならば、しっかりと努力し、真摯に取り組み、志を堅く持ち続けることで、初めて成功の可能性が生まれる。その過程には数多くの試練と検証があり、それらを一つひとつ、幾度も乗り越えることで、天の試練を通過することができるのだ。あなた方の中に真の修行と努力がある者たちよ。幾度もの試練を経てこそ、次第に向上を遂げることができるのである。
崇心法航の開示
しかしながら、あなたがたに対して、もし少しでも試験や検証を加えるならば、おそらく一部の人はなかなか受け入れがたく、それではもう来ないと言うでしょう！このような人はいるのか、いるのです！それどころか、大部分の人です。あなたがたのすべての努力が、志と忍耐力を強め深く根付かせ、行動力をもって使命の達成に至ることができるように。
あなた方の努力が、上蒼と仙仏の先生方に認められ、期待されることを願っています。皆で一緒に「崇心法航」に乗り、無極理天を超越して虚空実宝浄土世界に回帰しましょう。あなた方は望みますか？望みます！しかし、あまり早く承諾しないでください。これは必ずや、一筋の志を持って生涯をかけて努力しなければならないことなのです。
さらに、非常に大きな固い意志と忍耐力、そして苦労と努力が必要で、初めて達成できるものなのです。少しでも試験や検証があると、あなたたちはまたぶつぶつ文句を言い、果たして向上し超越できるのかと。それは不可能です！必ず固い意志と忍耐力を持ち、さらに歯を食いしばり、一生を犠牲にして奉仕し、大衆に奉仕し、私心なく無為の姿勢で尽くさなければなりません。
あなた方は、世の中の物質的な享受や所有に、心を開き、見通すことができるでしょうか。もしまだ心を開けず、見通せないなら、いざ帰る時が来ても、なおこれらの物質にしがみついて離さず、その時、仙仏の先生が導いて帰ろうとしても、あなたにとっては重すぎはしないでしょうか。仙仏があなたを引き上げられず、そのような衆生はいるでしょうか。
報償を分かち、判じて取捨を決す
一部です！天上の家に戻りたいと願うことは、果たして可能でしょうか？人の行動は自らの努力の中にあり、奇怪な癖や気性を捨て去ることで、あなた方の努力によって自らの良くない習性、慣性、性質、そして嫌な個性を改めるのです。時には、上蒼と仙仏の先生方が必ずや検証されます。学生の成績はどうなっているのでしょうか？
少しばかりの試練、ほんの少しの苦難、一つの課題で試されると、すべての学生の修行の力と評価はどうなるだろうか？一部の自分を学生だと思っている人々は、他人が自分に対してほんの少し不快に思ったり、無心の言葉が無意識に自分を傷つけたりすると、すぐにそうなってしまう。
ちょうど台湾のことわざにあるように、「起毛基不揚，駛性地」とは「わがままを言う、気まぐれを発揮する」という意味で、仙人や仏陀の先生にさようなら、もう来ないよ！と言うようなものです。これは人為的要因によって引き起こされたもので、仙人や仏陀は手を出さず、ただ傍観しているだけです。これによって、誰もが持つ習慣、惰性、個性、天性が非常に良くないものであることがわかります。
このような人々を宗教の修行者や学生と呼ぶのは、まさに腐った木は彫り難しというもので、自ら成就して回帰する機会を放棄しているとは、まったくもってあってはならないことです！わずかな検証や試験にも耐えられず、一体誰一人としてどのような成績を収めているのか分かるでしょうか？あなたは合格していますか！これは全人類に対する一瞬の試験によって、はっきりと理解できることなのです。
報いは自らが決めるもの
努力するもしないも、すべて適切なり
因縁果報は明らかにすべし　因果のみを知るは明晰を難くす
因を含む過程の始まりは、触縁が互いに必要とし合って育まれることにある。
成果はすでに来て分別し　報いは分かれて善悪に至る
この偈は、すべての有情衆生に、より大きな思想と観念を提供し、自らの努力の中で、自分自身とすべての人々が互いに励まし合い、より大きな利益を得ることができるようにするものです。今日、師匠がまた来ました！あなた方はどのような加護を望みますか？智慧を増し、福徳を少し加えましょうか、いかがですか？早く受け取りなさい！
もう少しで十分です。エネルギーを加え、知恵を加え、財運も加えましょう。皆さんはどう感じますか？後ほどまた飲み物が出ますよ！羨ましがらないでくださいね！本日の皆さんの普施法会は非常に成功し、皆が心を込めて努力され、大いに評価に値します。後ほど議長よりご褒美を賜ります。ではまた！
崇心主席 文衡聖帝
戊子の年、心を崇めて普く施しを行う
八月八日の吉祥なる日
すべての有情に大吉祥を祝い  父の節句に祝辞を捧げます
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大道シリーズ主著仙仏、南屏道済古仏本尊が再び降臨され、「大道因果」第十一回「普化して縁を成す－報償の分判」を著作されました。誠に喜ばしいことです。崇心宗脈は戊子年の普施法会の中でこれを授かりました。
すべての学生の皆さん、昼夜を問わず本当にお疲れさまでした。一週間、二週間と忙しく動いてくださり、また皆さんのご協力にも感謝いたします。崇心宗脈は皆で力を合わせて努力し、「大道シリーズ天書」の普及と弘化を推進し、より多くの善縁を引き寄せて共に精進していくことが大切です。皆さん、本当にお疲れさまでした。すべてが吉祥でありますように。ではまたお会いしましょう！
2015年3月8日19時55分、了解。
第廿五回　　手足の親人
第廿九回  　 福氣貴人
2008年10月21日　戊子年九月二十三日（火）
第十回　   成果定論
南無、衆生の無限の遷りに
上徳至聖、降り来たりて言を賜う
人天古仏は因果を著す　　善悪の報いは判然と顕れる
第廿六回　   至親関係
第三十回　  小人惡禍
2008年10月24日　戊子年九月二十六日（金曜日）
第十二回 　  好壞報償
善悪の報いは分かれて訪れる
有情なる衆生が人道世界に入れば、人為的要因による多くの事象に遭遇し、物事の善悪の判断に差が生じます。特に人と人との間では、一言や一事の食い違いから反目し、仇となることがしばしばあります。このような因縁の条件は、現代においても過去と同様に存在しています。
しかしながら、現代はなおさらそうであり、また一つの事柄や一言の不快さによって、双方が不愉快になり、取り返しのつかない欠陥や傷つけ合いを生じさせてしまう。このような状況において、もし自らの考え方や気性を修め改めなければ、多くの善き縁がかえって多くの敵を生むことになりかねない。
よくあることですが、一つの出来事や一言の気に障る言葉で、相手を一文の値打ちもないかのように軽蔑してしまうことがあります。このような状況に対して言えば、人間の衆生はなぜこのような感情的反応を示すのか、それは自らの奇妙な癖や気性を改め、さらに自分自身の誤り、不足、欠点を正していくことが必要です。そうしてこそ、親しい友人も見知らぬ人になってしまうことを防げるのです。
このように反省できるかどうか、自分の誤った悪しき思想と気性を。このような人間の衆生に対して観察すると、また生活の中で、少しでも聞き苦しいことや不快、不愉快なことがあると、もともと善き因縁であったものを敵対関係に変えてしまう。このような状況は現在においてますます多く見られ、非常に得難い善き因縁を大切にすることも知らないのである。
善悪の報いと因果応報
真の度量を持つとは、何事においても、あるいは一言一句においても、自分に合わないことがあれば、必ず誤りや欠点、不足を修正することが正道である。有情の衆生はよく、自分には何も間違いや過ちはないのに、なぜ一歩引いて相手に譲らなければならないのかと思う。これらはすべて相手が悪いから、自分がこうした行動をとる原因なのだと。
現代の世に生きる人々にとって、この時代を振り返ってみると、常に良からぬ行いをしがちで、他人と悪縁を結ぶことも多く、自らの過ちを繰り返しながら、かえって自分には何の非も過ちもなく、自分こそ真の善人であると考え、ただ自らの悪しき性分に苦しめられているのです。
しかし、このような善き人でも、しばしば過ちを犯すことがあります。特に、ある事柄や言葉が気に入らず、双方の態度が相容れない場合、感情的に非常に不快な状態に陥ります。このような状況を観察すると、感情的な不快感とはいったいどのようなものなのでしょうか。人間の衆生は、しばしば多くの感情的な不快感を抱えるものです。
つまり、感情が不快な時、自分自身に対して：習性、慣性、気質、個性はどうなっているのか？もし時空の因縁という観点から見れば、感情が非常に不快な状態で起こることはどういうことか？それは一種の非常に大きな破壊力であり、この感情の不快さこそが、人類が古来からずっと存在してきた基本的な習性なのです。
人間の感情の善し悪しが反映するもの
人為的要因による過ちの中では、しばしば自分が決めつけた見解に基づき、また自分は絶対に間違っておらず、すべて相手が悪く誤っているために、事態が取り返しのつかないところまで悪化してしまうことがあります。人間はなぜこのような感情的反応を持つのでしょうか。つまり人間の衆生の感情は非常に不快であり、感情の良し悪しという区別を形成しているからです。
感情に不快を覚える時、なぜ良し悪しの区別が生まれるのでしょうか。これは往々にして、一つの事柄や言葉が耳に心地よいか否かによって、物事の良し悪しを取捨選択し、態度が中道であるかどうかが大きく関係しています。もし相手の態度が悪く、言葉が鋭い場合には特にそうです。
すべての衆生は、相当に不愉快で、さらに不快に感じるでしょう。それゆえに対立が生じ、それぞれが個性や気性を持っています。では、自分自身の不快な感情をどのように処理すべきでしょうか？問題点に対してどのように修正を加えるべきでしょうか？なぜ人道世界では、しばしば不快な感情の中で、物事の良し悪しを成し遂げるのでしょうか？
時にはこのように形成されることもよくあります。感情的反応には両極化した違いがあり、人為的要因として自分の観念がしばしば加わります。もし良い因縁が訪れた時、この感情的反応には多くの善良な因縁が含まれますが、もし自分の奇妙な気性や変わった性格が加わると、必ずしも良い因縁とはなりません。なぜこのようになるのでしょうか。
有情なる衆生は情緒を分別す
人間は皆、自分の感情的反応に基づいて物事を判断し行動します。あらゆる行動規範は、過去に形成された観念を状況に対応させることです。もしここに悪しき因縁が訪れたなら、おそらく反目し仇となる事態を招き、さらには刃を交えるまでに発展し、双方が殺し合う局面を形成することでしょう。それによって未来あるいは来世において悪しき結果が形作られることになるのです。
人類の衆生はこのような状況の中で、どのようにしてこのような事態を解決すべきでしょうか。もし自分が正しいと信じて殺戮行為による報復に走れば、良い結果にはなりません。まさに自分自身に対して「怨みに報いる怨みはいつ終わるのか」という状況を生み出すことになります。それなのに、自分には一切過ちがないと一方的に思い込んでしまうのです。
相手が人をあまりにも軽んじ、言葉で挑発し、態度も非常に傲慢で、さらに横暴で理不尽である。もし双方が一歩も譲ろうとせず、気勢が一向に収まらず、より大きな人的被害を引き起こすに至れば、このような冤罪や負債の問題は積み重なっていくばかりで、どうやって解決すればよいのか。まさに非常に頭の痛い問題である。
人為的要因という観点から、なぜこのような状況が生じるのでしょうか？必ず前世の因果関係がどうであったかを観る必要があります。また、現在の善悪の区別において、有情の衆生は常にこのような状況下で対応するため、収拾がつかない局面を招きがちです。さらに、人道世界における行動規範の必要性は、人間がしばしば良からぬ行動をとることに起因しています。
善悪の報いはすべてその働きによる
それゆえに、過去の一切の思想や観念が、現在の行為や動作に加わり、これが経験の蓄積によって事象が発展するのである。すべての衆生は前世の一切の良し悪し、善悪の因縁を経て、はじめて今生この世を得る。人は生まれた後、それぞれ受ける教化や教育が異なるため、物事に対する見方にも異なる差異が生じるのである。
人類の衆生は生活の方向性を定める際、必ず自身の家族や外界と接触しなければなりません。どの人類の衆生も、一人だけで孤独に生きることはできません。特に現代は集団で暮らす社会であり、地域社会の人々に生計の糧をもたらす過程において、それぞれが異なる機能と効果を発揮しています。
有情なる衆生は、人間界に生を受けた後、自らの力を社会や国家に奉仕するものであり、すべての衆生は「一本の草にも一滴の露」のように、それぞれに役割がある。誰一人として群居生活から離れることはできない。もし群居生活から離れたいのであれば、よほどの才能を持ち、生活が豊かであるか、あるいは修行者である場合に限られる。
他人の食物連鎖や生活の連鎖に頼る必要がなく、このような人は人間社会の共同生活から離れ、孤独に一人で生きることができるため、人間生活に必要な多くの食物連鎖や生活の連鎖が減少し、すべての生活維持条件が大きく減る。衣食住行や教育娯楽の面での利便性、快適性、普及性も低下する。
人類は安らかで快適な生活を求める
このような人々は、多くの仕事や食物への欲求を減らし、本来「衣食住行育楽」において満たされていたはずです。この状況から見ると、有情の衆生は一人で孤独に生きることができますが、大きな方向性や欲望がなければ、しばしば解消し難い寂寥感が生じます。このような人々は、集団生活における相互性に欠けているのです。
あなた方はどうお考えでしょうか。一部の宗教を信仰する人々の中には、真の修行と実践に傾倒する者がおり、この方面において生死を超えようとする者は、食物連鎖や事物の連鎖を減らし、大きな目標に向かって進みます。また、善悪の報いを受ける機会を減らし、善い因縁も悪い因縁も訪れたとき、それぞれの人の知識や観念を通じて、対応する行動や動作を判断します。
ある事柄の始まりから終わりまでの過程をどのように区別するか？このような過程は人為的要因によって判別されるものであり、どのような観念と方法を用いるべきか？それぞれの事柄に対して、善い因、善い縁によって善い結果と善い報いとなるのか、それとも悪い因、悪い縁によって悪い結果と悪い報いとなるのか、その区別をしないのである。
双方の態度が誠実であること、また言葉遣いにおいて良き態度を持ち、悪しき態度を持たないことが必要である。さらに良き言葉と悪しき言葉が加わることで、結果として善悪の区別が生じる。人間の衆生は物事に対して非常に敏感であり、より微細な観察や感受ができるかどうかは必ずしも定かではない。
善悪の報いの相互因縁
また、常に外見ばかりを見て内面を見ず、あらゆる事柄の形成は、もし外見だけを見ていると、取り返しのつかない欠陥を生みやすく、多くの災いや損失を招くことになる。さらに、人的要素によって決まることもあり、一体どうやって一つの事柄の成り行きを観察すべきか？つまり、その内面に含まれるものはどうなのかを観るのである。
これは人類の衆生にとって最も理解し難い、微細な観察を要する問題である。鋭い観察力による判別が必要であり、またこのような良き態度とコミュニケーション力を高めて分別しなければならない。いかに良き態度とコミュニケーション力を基礎として応用するか？それが未来のすべての善悪の報いの結果を分別することになるであろう。
人間は往々にして、自分が見る角度は相当に正しいと思い込み、全てを自己を中心として考えがちです。もし自分が認めたことを基礎とするならば、それは正しいと信じています。しかし、なぜ自分が認めた観念が、しばしば多くの埋め合わせの難しい欠陥を引き起こすのかを理解する必要があります。なぜ微細な観察と判断力を支えとして持たなければならないのでしょうか？
このようなエネルギーを、あなた方は十分に備えることができるでしょうか？必ずしもそうではありません！自分自身が認めていることの中には、しばしば自己を向上させることのできない障害を生み出し、また人道世界こそが修行によって改造されるべき実相の世界であることを理解できないことがあります。もしすべての衆生が「食べること、飲むこと、排泄すること、雑事をすること、眠ること」という五つのこと以外の何かを求めないのであれば、どうして向上できるでしょうか！
善悪の報いと報償の区別
なお、自らの「身体、霊性、自心」の三者が相互に結びついていることを如実に認識できるならば、有情の衆生は自らの見解が相当に正しいと思いがちですが、実はそうではありません。前世の因縁と現在の生活環境、知識経験に加えて、対応する智慧の態度と観念によって、多くの異なる行為が形成されるのです。
なぜ人類の衆生は多くの階層や境地を区別するのか、修行の程度はどうなのか？それは人類の衆生が何を求めているのか、どう実現するかということに関わる。それによって初めて、自分自身にどう要求すべきかがわかる。自分が求めるすべての過程を達成できるかどうかは、あなた方の生活の方向性にかかっており、未来において目標を達成できるかどうかの分岐点となる。
有情なる衆生は常に、大いなる弘願、大いなる力、大いなる方向を持つことがあります。しかし、時を経て時空が異なる中で、自ら立てた大いなる弘願を真剣に実行することはなく、自らの努力の方向は往々にして願力はあるものの、実行力が足りない状態に陥ります。そのため、堅固な志と忍耐力、そして持続的な力を備えて弘願を果たす条件を整えることができなくなるのです。
まさに相当な欠乏と不足があるのです。このような広大な誓願に何ら間違いや誤りはなく、ただ自分自身の認識が足りず、努力が不十分であるために生じる誤差に過ぎません。人は往々にしてこのように行動するもので、誠にどうしようもないことです。誓いを立てたのに達成するのが難しく、もし良い報いがあれば、それは人間が最も喜ぶことであり、心が晴れやかになる願望でもあります。
善悪の報いの差別あり
人間はこのような状況において、欲望を追い求めるあまり、往々にして自分自身を見失ってしまいます。もし悪い報いが訪れて耐えなければならない時には、よく苦い顔をして非常に不機嫌な表情を浮かべます。人間世界の言葉を借りれば、まるで世界中の人が自分に借りがあるかのようです。このような苦しみや不機嫌な表情は心境を表し、同時に顔にも現れるのです。
人間の世界においては、「良し悪し、悪し良し、善悪、悪善、福禍、禍福」を区別せず、これらはすべて一つの時空の旅人としての因縁の現れに過ぎない。いかに知識と経験を活用して転換・変化をもたらすか？それが智慧の向上である。なぜ有情の衆生は次々と不満足な悪運に遭遇し、試練を受けるのか？
まず自らの不足や欠点、誤りがどこにあるかを反省しなければなりません。物事の成り行きを理解し、これらの不運や不満を改め修正することで、初めて不運や不本意な出来事がもたらす報いを真に取り除くことができます。このような思考と検証を通じてこそ、数多く取り除き難い障害を減らすことができるのです。
人道世界は「情と理、道と義」の外ならず、金銭と人間関係の不足において、自らの不足・欠如・過ちをいかにして障礙を化解し、具足を得るか。それは自らの努力によって変革と獲得をなし、自らに安らかで適切な生存を与えうるこそ、まさに正道である。
良縁悪縁はすべて過程なり    福禍の由来は既に生ず
善悪の区別は人の行いによる
報償と報応は善悪によって分かれる
父母の縁もまたかくの如く　夫婦の良縁もまたかくの如し
兄弟姉妹は皆同じく
未来の子孫は更に真実の如し
この偈を、有情の衆生と共に励まし合いましょう！善悪の報いを区別し、自らの未来に良き福徳善縁の報いが訪れ、悪しき禍い悪縁の報いではなく、皆様が良き福報に恵まれ、災いや禍いがありませんように。皆様に感謝し、またご一緒に作を為すご苦労に感謝いたします。ではまたお会いしましょう！
無極善道天尊
崇心道脈正主席　　南無上徳古仏契
降り来たりて因果の冊を著作し
善悪の報いは時空の期に応ず
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は大道因果主著仙仏本宗脈正主席　南無虚空上徳人天古仏－虚空上人が降臨され、「大道因果」第十二回を著作されました。善悪の報いの違いをより詳細に分析し、皆様が良きご理解を得られるようお示しくださいます。
大道因果著論はすでに完成し、これから徐々に実質的な事例の佳境に入っていきます。皆で一緒に仙仏の著作過程を拝聴すれば、あなた方にとってより大きな収穫があるでしょう。これは崇心宗脈が「大道シリーズ天書」第三巨冊－第廿五冊において解き明かしたもので、あなた方に無限の恩恵をもたらすものです。皆様お疲れ様でした。すべて吉祥であります。ではまたお会いしましょう！
2015年、3月8日、19時57分◎＃※  了解。
第二十七回　親戚と友人
第三十回　  小人惡禍
2008年10月7日　戊子年九月初九日（火）
第十二回 　  好壞報償
南無無上なる衆蒼霊　燃燈心法新たに引き直す
古仏は十三回降臨されし 　 　父母の因縁恩徳の情
第二十八回　同輩の友
第三十回　  小人惡禍
2008年11月4日　戊子年十月初七（火）
第十三回  　 父母因緣
有情なる衆生は如何にして自らの父母を選ぶか
自分が選んだ両親との縁を理解することすらできないのに、どうして子孫になることができるでしょうか。もし両親との間に前世や累世の因縁がなければ、その子孫として血脈を継ごうとしても、おそらく達成は難しいでしょう。したがって、人道世界の善悪の因縁によって区別され、子孫にとっては善徳の因縁となるか、悪禍の因縁となるかが決まるのです。
また、恩返しに来る者や借金の取り立てに来る者、あるいは平穏な縁によって、人間の衆生はなぜ親子の縁を結び共に暮らすのか、生活や学習成長の中で枝葉のように連なり受け継がれていく過程にあるのか。そしてなぜ未来において善悪や福禍の縁が分かれるのか。
また、善悪の報いによる償いの受容は、日常生活の中で現れることが多く、前世の善悪や禍福の因果応報に対するものである。有情衆生が人道世界に生まれた後は、父母の養育と教育を受けて成長するため、親の習慣的な影響が子孫の生活習慣全体に及ぶことがしばしばある。
まさに「身をもって教えることと言葉で教えること」の両方が生存環境に影響を与え、また「しつけ」においても極めて重要です。人間の生存の方向性とは、父母二人のDNAが非常に優れていれば、生まれてくる子孫も非常に優秀になるということです。遺伝子の本質、すなわち現代人が言うところの「DNA」の遺伝子においても同様です。
父母因縁の基本構造
生育環境が異なれば、将来の成し遂げる成果も同じではなく、また親のDNAが比較的平穏であれば、平穏な子孫を生み出します。もし親のDNAが比較的良くない場合、生まれる子孫は親の生育教育に影響を与えます。これが古人の言う「どのような親から生まれたかで、どのような子供が育つ」というものです。
同じ両親から生まれたものは、まるで同じ型から作られたように全て同じである。古くから「龍は龍を生み、鳳凰は鳳凰を生み、鼠の子は穴を掘る」と言われるが、これは世間の諺である。両親の習慣的な動作はどのようなものであろうか。それは子供自身の全ての習慣的な動作に影響を及ぼし、そのようになるのである。
親の身をもって示す教えと言葉による教え、そして行動や動作は、すべて子孫の学習と模倣に影響を与えます。また、環境の差別化作用も、子供の将来の性向の区別や形成に影響を及ぼします。もし親の習慣性、慣性、天性、個性が非常に良好であれば、生まれてくる子孫も必然的に非常に良好なものとなるでしょう。
もし両親が平凡な性格であれば、その子孫もまた同様であり、もし両親の習性が非常に悪く、それを変えることができない場合、優れた子孫を得ることは基本的に不可能です。また、遺伝子突然変異による改善もほとんど期待できず、「非常に大きな陰徳」がなければ、そのような可能性はほとんどないでしょう。
父母と子供の縁は、実に選び難いものだ。
このような遺伝子の突然変異が起こる可能性があり、また両親の習性、慣性、個性、天賦の性質はどのようなものでしょうか？子孫はまさにそれと同じになるのです。まるで同じ型から作られた製品のようで、夫婦二人の結晶でもあり、男女それぞれが形成され、乾坤（陰陽）がそれぞれ半分ずつの確率を占めています。まさに男女、乾坤が婚姻によって結ばれた結果なのです。
すなわち陰陽の交わりがあり、父の精と母の血によって子孫が誕生する。これは自らの遺伝子の本質に関わることである。人間の行為と動作は、人類の婚姻における配偶者選択を通じて夫婦を形成する。このような夫婦の習性、習慣、天性、個性がどのようなものであるかによって、どのような子孫が生まれるかが決まるのである。
父母が子を育てる過程はどのようなものか？「善良、平凡（順調）、悪質」という三つの因縁に区分することができ、この三つの因縁の中にはさらに三十余りの種類に分けられ、それぞれに十二種類以上あり、全体でおよそこのように区分できる。この三つだけでも三十六種類以上の区別がある。
もしこの中で人として生きる際に、善良な因果が比較的多ければ、世間で言う「悪い竹から良い筍が出る」という現象が生じます。また、両親の遺伝子の本質において、遺伝子変異による改善が起こることもあります。仮に両親の福徳と因縁が比較的平穏で多くなくても、平凡（順調）な子孫を生み出すことができれば、それも十分に素晴らしいことなのです。
父母の因縁によって善悪が形作られる
もし父母が犯した悪業が非常に多く、また改めようとせず、怨みと恨みが報いを受ける形となれば、未来には一部の「冤罪を受ける者」が生じる。そうなれば、怨親債主（怨みを持つ親族や債権者）が彼の家に転生し――子孫として生まれ変われば、必ずや彼に大きな苦痛を与え、前世に負った業の借りを償わせ、報復することになる。
前世の因縁が善悪いずれであったか、また自分自身の子孫を選ぶことができるか？否である！あるいは比較的裕福で善徳のある両親を選ぶことができるか？これも不可能である！まさに自分自身の前世の因縁によってこそ、今世であなたの家に生まれ変わる可能性があり、必ずやあなたの前世における善悪の因縁と結びついているのである。
あなたがたの家の子孫として生まれてくる者は、必ず両親の職業やすべての生活習慣を受け継ぎます。それに加えて、それぞれの人が前世から持ってきた習性と慣性が重なり合い、一人ひとりの今生におけるすべての習性と気質を形成するのです。つまり、これは遺伝子のようなものであり、一朝一夕に変わることは決してありえません！
また、父母自身が自らの改造と修整を経て、子孫への因縁において、不良な遺伝子を改造変化させ、善良で徳のある者へと変化させることができるかどうかは、非常に大きな契機と因縁が必要であり、それに加えて父母自身が受け継ぎ改善しようとする意思を持ち、さらに多大な陰徳と福徳を積み重ねてこそ、十分に備わり達成できるものである。
いかにして良き子孫を残すか
一般的に、人々は自分の子孫が生まれる前に、遺伝子の本質を変えることができることをあまり知りません。まず「福徳と陰徳」を積み、それを廻向する必要があります。将来どのような子孫が生まれるにせよ、大きな害や深刻な怨みによる報復、あらゆる悪しき災いを大幅に減らすことができるはずです。
この種の者は優れた子孫を生み出すことも比較的容易ですが、最も恐れるべきは、自分自身の前世の因果をまったく知らないことです。どうして良好な子孫を持とうと望めるでしょうか？また夫婦が結ばれた後、まず子孫を改良する方法を応用しなければならず、必ず善良な功徳を加える必要があります。
もし両親が常に「布施、寄進、貧困救済、橋梁建設、道路整備」など様々な善行の因縁を積んでいれば、本来生まれてくるはずだった不健全な悪しき子は、比較的遅れて生まれるか、あるいは消滅することがあります。真に陰徳と福徳を備えた者は、天の審査を経て、悪しき因縁を持つ子孫の運命を転換させることができるのです。
一部の陰徳と福徳の功果によって、悪しき因縁に絡み合う者へと転じることができる。人為的要因は強烈な悪禍の種子因が生み出すものを変えられ、父母の悪しき因縁をより大きな成就へと転換し得る。将来不良な子孫が生じるかどうかについては、すでに不良な遺伝子を変化させ、報いの因果を転換しているのである。
父母の縁、善悪の縁
有情なる衆生が良縁に恵まれた両親を得たいと願うならば、必ずやこの世において良き因縁を生み出す行いをしなければなりません。なぜなら、このような良き因縁は、有情なる衆生が前世において互いに助け合い、救い合い、さまざまな善行を積んだことによるものだからです。今世において善徳の因縁を結べば、来世あるいは幾世にもわたって、より良き善徳の因縁が現れやすくなるのです。
善い行いの因縁には相互に報いる作用がある。もしすべての善い行いや良いことを行うことを望まないならば、来世に良い両親や良い子供との縁を持つことも、おそらく十分には叶わないだろう。もし前世のすべての悪しき因縁によって不足や負い目があるならば、あなたの来世にはそのような不足を償うことが生じるであろう。
一糸一毫も決して漏れることはなく、あなたの前世における人間としての行いがどのようなものであったかによって、今生ではそれに応じた良縁・悪縁が生じるのである。善・平・悪という区別がある。有情の衆生が「良き子孫を得るにはまず徳を積まねばならぬ」と望むならば、もし平穏な子孫を望むのであれば、徳を積むことに心を砕く必要はない。
もし一生のうちに多くの人と怨みや恨みを結べば、来世にはおそらく多くの怨親債主があなたの家に生まれ変わり、あなたの父母、夫婦、兄弟、姉妹、子供、甥姪孫、親族など、あまりにも多くの存在として現れるでしょう。さらに動物として生まれ変わり、あなたがとても好きで、可愛がり、寵愛する存在となるかもしれません。
前世の仇敵が今生ではペットのように慈しむ
心から進んで世話をし、あなたの一生をかけてペットに報いる。また、あなたが最も好きで大切にしている家族として生まれ変わり、どんなに苦労や犠牲があっても一切の不満を抱かず、いかなる労苦も厭わず、ひたすら最高の物質的享受を与え、前世で人に負ったこのような借りを返し報いたいと願う。
今生、あなたの家に生まれ、最も愛する親族となるのは、自ら進んで牛馬となって前世の負い目を償い、報いようとするからです。また、親が自分の子供を選ぶことができるでしょうか？いいえ、皆それぞれが前世の行いによって、今生であなたの家族となるのです。
最初はあなたをとても喜ばせ、心から甘んじて受け入れ、喜んで行い、甘んじて受け、また楽しんで行うことでしょう！他人があなたに「そんなに苦労しなくてもいい、そんなに疲れなくてもいい」と言うと、かえってあなたに叱られ、それでもあなたは心から喜んで牛や馬のように世話を焼くでしょう。しかし、未来の時空においてこそ、本当の報いがすべて訪れる時なのです。
汝をして手も足も出ず、骨身に刻まれる思いをさせよう。その時こそ、天の理が明らかであり、因果応報の巡りが如何に恐ろしいかを知るのだ。これはもはや現代では日常茶飯事となり、たとえ親から生まれた子孫であれ、善きも悪しきも必ず報いを受ける。世の中には多くの善良な父母がいるが、どうすれば先んじて「福徳と陰徳」を積めるのか、その方法を知らないのである。
親はどのように選べばよいか
必ずや良善の積み重ねがあり、未来の善徳の因縁を増すべきである。現代メディアが報道する内容は、「八卦事項ばかりを報じ、善良で忠義な事跡を報じない」と言えるが、それではどうして善良で公正な社会倫理道徳が育つだろうか。これこそが現代の世代における教育や教化の不足、欠如、そして誤った行いによるものである！
人類の道徳観念が喪失するだけでなく、多くの場合、黒白を転倒させ、さらに是非の道理さえもわからなくなっています。誰もが行うことに報いがなく、見えないわけではないと思ってはいけません。今、一人ひとりにまだ福徳が残っていることを知る必要があります。ただ、あなたがそれに正面から向き合いたくないだけで、今すぐには将来の報いが見えないと思ってはいけません。
はっきりと理解しなければならないのは、古代において「因果応報」の現れはすでに十六倍も短縮されており、過去世でしか見られなかった報いが、今では現世において多くの因果応報と報償の実例を見ることができるということです。もし因果応報が悪しき災いの報いとして現れるならば、それはより一層心に刻まれることでしょう。
もし因果応報が善行の福報を増やすものであるならば、一般の人々はそれをほとんど実感できず、またすぐに消えてしまうだろう。このような因果応報の増加に対して、人間界のメディアがこれらの善行や良い事跡をもっと報道すれば、多くの世の中の証しと戒めを増やすことができるのではないだろうか。
崇心大學は必ず施行される
より大きな社会的教育の機会を持つことができる。しかし、上天が崇心宗脈に「崇心人文科技大学」を設立させた基本的な意義もここにある。いかにして子供の教育を基礎とし、必ず成人教育課程においても根付いた基礎を全面的な教育に組み込むか、これこそが激流を押しとどめる必要性となるのである。
さもなければ、現代の時代もただ技術科目の生計を立てる技能や知識の教育に重きを置くだけで、人としての品徳や人倫道徳の規範を教え導くことがなく、これらの有情なる四億の仏子たちが不良教育の渦中に沈んでしまうことになり、どうして彼らに因果応報の主体となる観念を理解させることができようか。いかにしてより大きな浄化を図ることができるだろうか。
上蒼が「崇心人文科技大学」の設立を望まれるのは、単なる一般的な教育に留まるものではありません。人倫と道徳観念を教化し、いかなる宗派や流派も区別せず、皆で互いに助け合い、世界全体を浄化し、人間社会の教化を高めることを推し進めることです。まさに、情ある人類衆生を利益するものなのです。
父母の縁は選び難く　自分の福徳の善し悪しによる
前世の因縁が今生に至り
その家に生まれ禍福をなす
夫婦の縁は前世に定まり　今世に結ばれる情が生ず
良き子孫を求めたいならば、福徳と陰徳を積むことが必要である。
この偈を！共に有情の衆生として互いに励まし合おう！親と子の縁による相互成長を、更に大きく分析する。次回は南無理心光明如来仏が霊感によって著作され、あなた方人間界における夫婦の縁に対し、更に大きな成就をもたらし、円満で幸福な良き家庭を築くことができるであろう。
次回は「理心禅師」が如何に十五年という歳月を費やし、伴侶を導きながら自らも大きく向上させたか、その過程をご紹介いたします。これは上蒼が良き事例として示され、皆様の参考に供されるものであり、夫婦の良縁と善き条件が如何に良き家庭を築くかを示すものです。皆様、お疲れ様でした。どうぞお元気で。またお会いしましょう！
無極満徳仙姑
無極の因縁は真に殊勝なり
満徳は台に登り理の真を闡く
仙姑は今日当番を務め　  　有情なる諸賢生と共に会す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈大宗師　南無燃燈古仏がご降臨になり、「大道因果」第十三回を著わされました。人道世界における「父母因縁」を解き明かし、人世間の一切の行動規範が人為的要因によって形作られ、未来の教化と成長を分かつものであることを明らかにされました。汝らはこの第一手の資料をもって、互いに補い合い成就するのであります。
2015年3月8日19時58分◎＃※　了承。
第二十九回　福気の貴人
第三十回　  小人惡禍
2008年11月7日　戊子年十月初十日（金曜日）
第十三回  　 父母因緣
南無理心光明来　如来如去真実在
大道因果十四回   　 夫婦の情け道理に従う
第三十回　  小人惡禍
2008年11月11日　戊子年十月十四（火）
第三十回　小人悪禍
第十四回     夫妻情義
有情なる衆生の夫婦の情けと義理
人間の衆生が凡塵の世界にあれば、婚姻による結びつきが生じます。これは生養教育の機能であり、まさに人倫の大徳の基本綱領であり、人倫伝承の主要な基本機能でもあります。また、父母の養育の恩徳が子女に伝承されるには、必ず夫婦の情義が必要であり、夫婦の恩愛の情誼が互いを成全する主要な因縁の根本となります。
人倫を継承する基本的な機能はまさにこれである。人類の衆生がなぜ夫婦の情義を持つ必要があるのか、人道世界において互いに共に暮らす必要があるのかというと、それは婚姻の主な因縁の根本として、上は父母の教養による成長と向上を受け継ぎ、下は子孫への教育を伝えていくことができるからである。これこそが人類に必要な必然性なのである。
すべての有情衆生は、父母から受け継ぎ、自らを経て子孫へと伝えられ、生まれ育てられ教育されながら慈しみ守られてきました。子や孫、後の世代へと連綿と受け継がれる命の流れの中で、父母の生み育てる慈愛と教育なくして、子孫へと伝え継がれるいかなる者がありましょうか。かくして、脈々と続く伝承の役割が果たされるのです。
人倫道徳の基本的な作用は、人道世界において行使されるものであり、いかにして人倫道徳の継承が良好な子孫を残すことができるか。自らの子女や子孫が、父母の言行を模範とし、学び模倣する対象としていることを理解する必要がある。また、父母や目上の者たちの良き身をもって教えることを基本としている。
夫婦の契りは人倫の大本なり
言教を処事の要義とするのは、人倫の大徳の基本綱領であり、父母による養育教育を経て、将来成人に至り、婚姻を結んだ後、子孫へと伝承し延長していくものである。また、天地のすべての衆生は、婚姻による相互の成全から離れることはできない。
夫婦の縁が結ばれ、連理の枝となった後、夫婦としての付き合い方を学び始めます。もともと一人で生活していたところに、隣にもう一人が加わり、共に暮らすようになります。二人はこの時初めて夫婦生活のあり方を学び始め、そこに周囲の親族も加わって共に生活する中で、学びながら成長していくのです。
以前の二つの異なる家庭環境で、それぞれ二、三十年の歳月を生きてきた二人は、当然ながら二、三十年の異なる成長環境の差異を抱えています。この異なる成長環境を経た二人の男女が夫婦となり、一人の夫、一人の妻としての在り方を学んでいくのです。これは人倫の大道のほんの始まりに過ぎません。
先生と奥様のご縁組みは、天地の陰陽を定めた大いなる礼法に基づく結びつきであります。乾坤のご夫妻はそれぞれ異なる家庭に生まれ育ち、成人されてから初めて一つの夫婦として結ばれました。このような殊勝なご縁は、提灯を掲げて探しても二つと見つからぬほど稀なるもので、まことに感嘆と祝賀に値することでしょう。
夫婦の情義が存在する根本
中国の婚姻制度は、周代に古礼が制定されてから、現在の民国時代に至るまで様々な形態を経てきました。古代の王朝では、男性が複数の妻妾を娶ることが許され、女性にとって比較的不公平な制度でした。現代では、一夫一婦制が確立され、男性は一人の女性を娶り、女性は一人の男性に嫁ぐという形に変化しました。これは長い時代の変遷を経て、現在の結果に至ったものです。
今日、もし一女が複数の夫を持つことを認めれば、中国の炎黄の子孫が古来より受け継いできた礼法と明らかな教えを受け入れることはできません。さらに、世界各国の潮流も一女一夫制が主流となっています。また、このような風潮は現代の男女平等の理念に合致し、まさに揺るぎない規範であり、女性の権利が拡大して示されている証でもあります。もはや古い時代の良からぬ束縛を受けることはないのです。
次第に昔の一夫多妻の観念を取り除いていくことは、上天が定めた有情衆生の人倫道徳の規範であり、まさに「一夫一妻」の夫婦の情愛の道である。上天の基本的な規範は、異なる環境で育った男女の夫婦を結びつけて共に生活させ、異なる生育環境を持つ二人を一つの家庭に組み合わせるものである。
このように、天が定めて後世の子孫に伝える人倫の大道は、人の世において夫婦の婚姻を結び、天地を共に拝し、次に両親を拝し、夫婦互いに拝する儀礼を経て、新婚の部屋に入った後は、即ち人生の一大喜びとして子孫の喜びへと受け継がれます。また、このような喜びに満ちた雰囲気の中では、優れた後代の子孫を生み出すことができるのです。
夫婦の情愛と情義
まさに歓びに満ちた雰囲気である。心を解きほぐし互いに結ばれ、子孫のDNAが乾坤の夫婦によって熱情をもって受け継がれるならば、必ずや優れた子孫が生み出される。これはまさに現代科学が証明するところに符合し、もしも良からぬ雰囲気や恐怖に苛まれる中では、比較的正常でない心理を持つ子孫が生じることにもなる。
そして優れた子孫を得たいと願うならば、優れたDNAによって創造されることは難しくなるでしょう。また、この夫婦の結びつきは、父の精と母の血が子孫の遺伝子に加わることによって成り立っており、人倫の大道における夫婦の情誼は、家庭全体が円満に繁栄できるかどうかに関わってくるのです。
なんと感慨深いことか、天の慈悲に感謝します。優れた子孫が創造し継承するものは、良好な雰囲気と不良な雰囲気によって形成され、それは未来の良し悪しと優劣の遺伝子継承に影響を与えます。夫婦の感情は家庭全体の構成に影響し、繁栄と徳の恵みを継承します。これは現代の科学技術文明が証明できることです。
夫婦二人が相互理解を深めるためには、結婚生活が始まった後、二人の習慣、癖、性格、そして自己認識の面で、しばしば異なる視点が生じ、一部の不一致は避けられません。もしそうであれば、双方の認識とコミュニケーションを強化する必要があります。
夫婦の情愛は互いに支え合うもの
このようなコミュニケーションは非常に重要です。双方の立場や認識がどうであれ、どのようにコミュニケーションを取れば、お互いの立場ややり方を認め合えるでしょうか。そうでなければ、双方の間に争いが生じてしまいます。ただし、一方がより強い説得力を持っていたり、譲歩したりすることで、双方が互いの視点を認め合える場合もあります。
ここで双方の見解が均衡を保ちにくい場合、共に生活することは非常に困難となります。もし一方が強引で相手が認められない場合、口論の余地が生じます。現代は時空の因縁がすでに異なり、双方の認識の角度も観念において一致しにくく、もはや昔の道徳規範を用いることはできません。
現代の有情衆生は、必ずや新たな道徳規範の模範を必要としています。人倫道徳の規範を教育によって完成させることは、今の時代ではもう一つの時空の因縁によって成し遂げられるべきであり、過去五十年ほどの歳月を振り返れば、中国の炎黄の子孫である女性たちが認識してきたのは「三従四徳」という婦人の道に依拠するものでした。
この一生、一旦嫁ぎ先に入った後は、夫を第一とし、全ての行動規範は夫を尊ぶことを旨とします。女性は菜種の運命であり、夫の良し悪しによって「良き性質と悪しき性質」が分かれ、女性の菜種の運命を区別します。もし夫が妻を慈しみ愛すれば、妻は良き居場所を得て、家族の世話にも比較的余裕を持つことができます。
夫婦は人倫道徳の基本である
もし夫が怠け者で働かず家計を支えず、しかも飲酒、女遊び、賭博にふけり、妻は苦しみを味わうことになります。さらに、頻繁に口汚く罵り、険しい顔を向け、殴る蹴るなどの悪行を加えるならば、夫婦の情愛は円満に保たれず、一般の人々の日常生活においても決して許されるべきものではありません。
聖門の古訓戒律の条綱に「夫婦の情誼、二色あるべからず」とあるが、この二色なきとは、すなわち旦那は遊興や賭博にふけらず、怠惰で贅沢を好まず、妻は勤勉に家を治め、浮気をしてはならないということである。現代の言葉で言えば、「浮気はしてはならない」ということであり、このような状況があれば、聖門の大忌を犯したことになる。
聖門の体系から言えば、まさにこのような戒律であり、また現代世界の各大宗教もまたこのような戒律である。いかに夫婦の情誼をもって互いに結ばれ、人倫の大徳を高め、倫理道徳の規範とするか。二つの異なる生活、すべての善良な良い習慣が一つの家庭を組織してこそ、正しい道なのである。
この中で、夫婦双方は、夫の両親に対してどのように孝行すべきかを理解しなければならず、そうすることで子孫に伝える際に良い模範を示すことができる。夫の立場から言えば、義父母は二、三十年も手のひらの上の珠のように大切に育てた娘を、あなたの家に嫁がせたのであり、彼女の生活習慣や日常のリズムは、もはや昔とは異なっているのである。
夫婦の情義の根本
先生はまず、妻を導き、妻がより早く家族の生活に溶け込めるようにすることが、夫としての務めです。また、婿として義理の両親に対しては、自分の両親と同じように孝行を尽くし、思いやりの心を持って接することが大切です。なぜなら、義理の両親は大切に育てた娘をあなたの家に嫁がせてくれたからです。
人情の道理を理解すべきである。「人の娘を愛して妻とするならば、その岳父母に孝行しなければならない」と同じく、「人の息子を愛して夫とするならば、必ず夫の父母を敬い仕えなければならない」。これが人倫の道である。まさに崇心宗脈が主要な規範として掲げる縁由であり、人々の模範としてこの世に実践していく所以である。
自分の両親は両親だが、妻の両親は両親ではないのか？自分だけの両親に孝行するだけではいけない。これは正しい考え方ではない。自分の両親と妻の両親に対し、同じように平等に敬意を払い、孝行と世話を尽くすことが大いなる孝の道である。そうすれば、妻や子供たちもまた同じように孝行するようになる。一滴の水が源に還るように、孝行の道もまた巡るのだ。
人道世界とは、人間の行為が因果関係に組み込まれ、相互に作用し合う世界です。過去が善因縁であれ悪因縁であれ、今すでに夫婦として結ばれた以上、過去の良くなかった点々をどうだったかと考えるのはやめましょう。誰一人として完全無欠な人はおらず、人は誰しも多くの長所と短所を免れないものです。
夫婦の情愛と情義はどのように実践すべきか
一、相手の欠点をどう受け入れるか。二、相手の足りないところをどう理解するか。三、相手の献身にどう感謝するか。四、今あるすべてにどう満足するか。五、お互いの気持ちをどう思いやるか。六、意見が合わない時にお互いにどう話し合うか。以上の六つをすべて実践できれば、必ず良縁に恵まれるでしょう。
夫婦の縁を良いものとして結び、長く家庭の幸福を築くには、悪縁を改め、改めて天地に誓いを立て、夫婦間の悪い癖や変わった気性を調整し、改めるべきです。そうすれば、現在のすべての悪縁が修正され、変えられ、良き善縁へと転換されるでしょう。
良き善き因縁に恵まれた夫婦はなおさらそれを大切に保ち、皆が互いに慈しみ合い幸せな家庭を築くことを願っていることでしょう。もしも良からぬ悪因縁が訪れた時には、双方が相手への愛情を忘れず、相手の長所を多く思い起こし、欠点ばかりを責め立てることなく、心を静めて問題の核心がどこにあるのかを話し合うことが大切です。
双方の見解の相違を解消し、互いに「足るを知り、感謝し、包容し、善く理解し、思いやり、コミュニケーションをとる」ことで、双方の冷戦を終わらせることができ、それが夫婦の幸せな付き合い方です。実際、夫婦が円満に暮らしたいなら、一方が大声を出せばもう一方は小声で、その場で正面衝突せず、すべてを和らげて転換することができるのです。
夫婦共に修行する主な因縁
思い起こせば、昔、無極元君麻仙姑恩師が崇心堂副主席の職を引き継がれる際、無極皇母大天尊は特に、副主席麻仙姑が下界に降りた後は、必ず崇心において「夫婦共に修行し、家庭を円満にし、子孫に福を及ぼす」ことを実践するようお言葉を賜りました。以来、崇心宗脈はこの明らかな教えを一貫して守り続けております。
無極皇母大天尊が自ら綱領を示され、これを実行するよう命じられました。これに基づき、崇心宗脈に対しても、すべての学生がこの綱領を実践するよう求められています。いかにして崇心宗脈のすべての学生が「夫婦共に修行し、家庭を円満にし、子孫に福徳を授ける」という綱領を、崇心宗脈の全体系の各家庭において確実に実現させるかが課題です。
これは、無極皇母大天尊の慈悲の恩沢が崇心に注がれ、この良き知らせを崇心のすべての学生に伝え、自分自身と親族に対してより大きな成就をもたらすことができるというものです。崇心宗脈は、上蒼の基本構造を主要な機能として実践し、その基本精神を通じて、自らが修持を重ねて天機の良縁を改めることができるようにするものです。
また、自分自身の親しい友人や家族にも、「夫婦共修」の徳の恩恵と基本綱領を共に享受させることを忘れてはなりません。これはまさに、無極皇母と麻仙姑恩師の慈悲深い徳の恩恵であり、また天地に六十億余りの人口があっても、一生のうちにあなたと共に生活し、互いに一生涯支え合える人はただ一人しかいないのです。
妻は一生を捧げて見返りを求めません
言えることは、提灯を掲げて探しても二番手はいない、もっと大きな感謝の心を持って、あなたの主人と妻に感謝できるかどうか？特に主人は家庭全体の大黒柱を担い、妻は家族の大小すべてのことを切り盛りし、夫と妻が互いに助け合って家庭全体を繁栄させているのです。
家庭の内外すべてを妻が切り盛りしている。現代風に言えば、妻は「一生涯の専属家政婦、しかもあなたから給料をもらっていない」ようなものだ。もし給料を支払うとしたら、あなたはいくら払うだろうか。月々で見ればさほど多くなくても、長い期間で計算すれば、それはとても大きな金額になる。
（仮に毎月の給与を平均2万5千元とすると、1年で12ヶ月ですから30万円、10年で300万円、20年で600万円、30年で900万円となります。これには年末賞与や各種手当、さらにインフレの影響も加わっていません。計算してみると決して小さな金額ではなく、すでに1千万円を超える額になります）。
このように先生としてのあなたは考えたことがありますか、一生涯の中で、自分の妻が若く美しい時からあなたの家に嫁ぎ、先生に従って衣食を切り詰め、苦労して蓄えながらあなたのために家庭のすべてを切り盛りし、舅姑に仕え、兄弟の嫁たちと仲良くし、子を産み育て、そして親戚間のすべての礼儀上の付き合いなど、様々な問題を。
夫婦の情義の基本綱領
辛酸苦しみはすべて腹の中に飲み込み、中には衣装代にお金をかけるのも忍びない人もいて、長年経つうちに顔色の悪い妻となり、もはや青春の美しさは失われてしまう。さらに結婚して長年経つと身だしなみを整えなくなり、外見から見れば、かつての若く美しく優しい妻の面影は、すでにどこにも見当たらなくなっている。
何のときめきも起こらず、むしろ距離を置きたくなることもあります。若い頃から年老いるまで共に歩んできた苦労の歳月、二人で喜びも苦しみも分かち合い、一生の青春を犠牲にしてきたのに、後になって相手が良くなかったと知り、年老いてから見捨てられてしまうこともあります。男は家庭の妻を重んじなくなり、すでに色あせて新鮮味がなくなったと感じると、外で道を踏み外し始めるのです。
一人と別れてはまた次を求める、それで次の男性や女性がもっと良くなると思う？そんなことはありえない！多くの人は満足を知らず、わずかばかりの金銭を手にすると、苦楽を共にしてきた妻を追い出そう（離縁する－離婚する）と考える。このような移り気で冷酷な男性の末路は、決して良い結果にはならない。
人の心は今、あなたの金にしか向いていないと悟るべきです。いずれ財産が尽き、金がなくなれば、誰も寄り付かなくなるでしょう。後悔しますか？憎しみを感じますか？嘆き悲しみますか？こうなるならば、なぜ最初から家族を捨てて子を離れ、別の女性に走ったのでしょう。次の女性との関係も長くは続かないでしょう。また、妻としても軽薄であってはならず、浮気をして次々と人を愛するようなことはしてはいけません。
夫婦の情愛と縁の結びつき
また、火遊びは自らを焼くことになり、あなたもご主人に緑の帽子を買ってかぶせるようなことになるのです。浮気の刺激の渦に溺れないでください。新鮮さが過ぎれば、あなたもすぐに捨てられてしまうと信じられないのでしょうか。一時の新鮮さと刺激のために、一生の後悔と汚名を残すことになり、振り返ろうとしてももう遅いのです。
現代のこのような不倫事件は実に多く、男女を問わず結末は良くなく、気づいた時には手遅れで、後悔してももう遅いのです。自分の夫や妻こそが「天下一、他に並ぶ者なき最良の伴侶」と心に刻むことが大切です。
ある人は反問するかもしれない。そんな条件はありえない、彼より何百倍も優れた人はたくさんいる、と。もしこのような考えを持つなら、まず自分にそのような福徳があるかどうか、自分にそのような実力があるかどうかを確かめる必要がある。ちょうど世間の人が言うように：あなたにそんな幸運があるのか？もしないなら！まず自分の実力をよく考えてみるべきだ。
自分にどれほどの才能があるのか、どれほど容姿端麗なのか、どれほどの財産があるのか？そして自分にそのような能力があるのか？もしそれらがなければ、あれこれ文句を言わないでほしい。そもそもあなたにはその条件も能力もないのだから、次の男性や女性がもっと良いだろうなどと思わないでほしい？ましてや自分自身が所有したい、欲望や要求があるというのに。
夫婦は提灯を灯して探しても二人目はいない
このような考え方を持つ有情衆生はどこにでもいます。古くから言われているように、「新しいものが来ないと、古いものの良さを大切に思うことを知らない」とは、つまり満足を知らず、感謝せず、大切にせず、自分の家庭を愛護しないことです。自分が前世で払った努力と積み重ねた善い因縁をはっきりと理解する必要があり、それはただ自分と夫あるいは妻との間の情誼だけなのです。
より多くの愛情を得たいなら、今こそしっかりと掴み取るべきです。そばにいる愛らしい妻や、尊敬すべき夫に対して、より多くの愛情と思いやりを注ぎましょう。足りない部分があれば、必ず修正し改善し、真心を込めてすべての愛情を完璧なものとし、大切に思い少しでも多くを捧げれば、きっと善良で良い結果が訪れるでしょう。
今すぐに、多くの実りある収穫を得ることができると信じています。あまり遠い未来を期待する必要はありません。二人がかつて恋愛に燃えていたあの過程を思い出してみてください！過去の甘い愛情を再び味わいたい、再び創造したいと思いませんか？勇気を出して、パートナーにあなたの愛を大声で伝えてみてください。
心の奥底に長く秘めてきた想いを、偽りなく誠実に、甘く感謝に満ちた言葉として表しましょう。ここ数年、長きにわたり相手があなたのために払ってきたあらゆる労苦に感謝を伝え、真心を込めて表現することで、相手にあなたの真摯な気持ちが届くはずです。幸せはきっと、あなたの手の中にあると信じて。
夫婦の愛情は勇気を持って伝えましょう
人は感情の生き物です。相手のために少し多くを捧げ、少し多く心を配り、愛情も少し多く注ぎ、そして時折ほんの少し甘い抱擁とキスを添えましょう。これは現代の時代が生んだ表現なのです。自分が口を固く閉ざしているだけで、相手の全ての献身が当然のことであり、そうあるべきだと思い込むなら、それは間違いかもしれません。
もし自分もかつて試みたことがあり、相手が全く反応せず、白い目で見られ嘲笑された後、もう幸福な生活を刺激する勇気がなくなってしまったら、おそらくこの先、一生を黙々と過ごすことになるでしょう。夫婦の情誼は粘り強く求め、勇気を持って誠実に表現しなければなりません。
少しの幸せを感じたいなら、自分で努力して創り出す必要があります。これはまさに夫婦の感情にとって最高の成果であり、信じられないならもう一度試してみてください！これは天が有情の衆生である夫婦の倫理的生活のあり方として、あらゆる生活経験を子孫に伝える基本的な機能と効果なのです。
また、どのような夫婦の甘美な生活を望むか、そして優れた子孫や子供たちを望むかについては、親自身の行動が子供や子孫が学び成長する手本となることは、まさに真実です！これは身をもって教え、言葉で教える基本的な課程でもあり、有情の衆生に対しては、世間の善徳を説く警句を引用します。
天下の恋人たちが皆結ばれますように、天下の伴侶たちが皆心通わせる恋人同士でありますように。
孝順父母を基盤とし、義理の両親を敬い仕えることで一人前となる
優れた子孫は自らに頼る　  　模倣と学習が成長の時期
夫婦は互いに敬い愛し合う
子孫代々手本として学ぶ
善悪は自らが分配し、真実の善徳は財源を開く
この偈を！有情の衆生と共に励まし合いましょう！崇心体系のすべての学生とも共に励まし合い、あなた方の家庭生活が幸せで円満であることを願っております。皆様、ご苦労様でした。すべてが吉祥でありますように。あなた方と諸仙仏の先生方、そして無極大道院・院修学士の方々のご協力に感謝申し上げます。では、またお会いしましょう！
無極善道仙姑
無極の因縁はとても殊勝であり、善道の仙姑が登壇して誠を尽くす。
大道の因果が作り出すもの
有情の夫婦の情誼は真実なり
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は、本宗脈　南無理心光明如来仏が提霊方式により著作し、また「大道因果」第十四回「夫婦の情義（よしみ）」において、世の中の夫婦が守るべき節度について、多くを説き明かしております。
また、多くの警句や夫婦円満の方法について、どのように応用すべきか、ぜひ心を込めて理解していただきたいと思います。その中の奥義と秘訣はいかなるものか、試してみれば必ず多くの利益と収穫があり、良き縁と条件が生まれ、より大きな円満な生活を得ることができるでしょう。皆様の幸せと円満をお祈りいたします。
注記：本稿は理心光明如来仏が人間の視点から夫婦の道を解釈したものであり、分量はやや長いものの、夫婦の関わりにおいて大いに役立つ内容となっております。皆様の参考に供する次第です。
2015年3月8日20時00分◎＃※   了解。
南無観世音菩薩
第三十回　  小人惡禍
2008年11月14日　戊子年十月十七（金）
◆ 跋・讃賀 ◆
跋     一
◆ 本文 ◆
第十四回     夫妻情義
南無観世音降来す　　菩薩登台し賢を会す
大道因果十五回　夫婦の恩愛家運開く
第三十回　  小人惡禍
2008年11月18日　戊子年十月二十一日（火）
◆ 跋・讃賀 ◆
虚空無極皇母　自ら跋一を降す
◆ 本文 ◆
第十五回   　夫妻恩情
有情の衆生の婚姻
人間世界に生存した後、必ず男女の乾坤婚配があり、子孫を伝承する基本的な役割を果たします。異なる乾坤の男女二人が婚配した後、双方の情義と情誼を通じて夫婦の恩愛の感情が形成され、互いに高め合いながら子孫の繁栄を伝承していきます。男は外を治め、女は内を治めるのは昔からの慣わしです。
今やこのような行動様式と思想観念はすでに変化し、欧米諸国で女性の権利が高揚した後、中国の炎黄の子孫も欧米諸国に倣い学びました。この女性の権利高揚が中国に導入されることで、世界の天地乾坤における男女には、視点の相互転換と権利の均衡が始まりました。
また、中国本土における男女平等の権利にも大きな衝撃を与えました。さらに、中国の昔からの仲介役は、男女の婚姻を天地の理に基づいて取り持ち、仲介者の言葉を通じて、元々全く面識のなかった双方が、仲介者の言葉を経て、両親の同意のもとで一つの家庭を築くことになります。当時は現代のように頻繁に会うこともほとんどありませんでした。
このように結婚前には一度も会ったことがなく、相手がどのような顔をしているのかもわからないので、会おうと思うと胸がドキドキして「恥ずかしい」気持ちになります。また、相手をまっすぐに見ることがとても難しく、以前の農業社会では一部の人々が、新婚の部屋に入った後も目を閉じたままで、相手を一目もまともに見られないこともありました。
夫婦の婚姻後の恩情
夜明け前から仕事に出かけ、十日から半月、あるいはそれ以上経ってようやく夫や妻の顔をまともに見られることもよくありました。美醜の別なく、それを受け入れて甘んじるのです。このような状況は結婚後に始まり、夫婦の愛情を育んでいくもので、多くの人は運命を受け入れ、心から納得して生きていました。
この貴重な婚姻を大切に思い、家庭全体を支え始めたのも、仲人の言葉によるものだった。そもそもお互いを知らない二人が、一つの家族を構成するに至ったのは、昔の人が言うところの「女は菜種のごとき運命、良きにつけ悪しきにつけ夫に従って一生を過ごす」というものだ。このようなことは現代の時代に照らせば、またもや夢物語のような話である。
もし男性が家族を養う責任を果たすことができれば、妻も比較的平穏で安定した生活を送ることができ、喜んで青春のすべてをこの家庭に捧げるでしょう。古代の男女の婚姻は、現代の考え方とは異なります。昔は離婚の事例などほとんど聞くことがありませんでしたが、現代は考え方が変わってきています。
このような双方の美しい結婚生活を支えるものは、天と多くの仙仏の目から見ても、まことに真実にかなっている。男は外で働き、女は家を守る。この中で男性の地位は女性よりも権利が少し大きい。そうなのだ！女性は家で子を育て、家庭生活のあらゆる重荷は女性の肩にかかってくる。
夫婦の情愛の在り方
さて！夫は帰宅すればお茶も食事も用意されるのが当たり前と思い、妻が家庭でどれほど苦労しているかを全く理解していません。これは当然のことどころか、到底納得できるものではありません。妻は家族により快適な生活環境を整えるため、青春のすべてを捧げてきたのです。
ただこの家族の生活のすべてのため、喜んで牛馬のように働き、一生の美しい享受を犠牲にし、またただ子孫のためだけに。もし夫が愛し大切にしてくれれば、妻は比較的安らかな報いを得ることができるが、もし夫が怠け者で努力しない時は、女は苦しみを受けることになる。
前世の因果の良し悪しの循環に応じて、こう言えるでしょう。女性は菜種の命であり、この一生は自分が選んだ、嫁いだ夫の家において、良くても悪くてもすべて自分が選んだ運命であると。双方が知らないうちに一つの家庭を組み、昔の考え方は比較的保守的で、結婚の良し悪しにはすべて甘んじて運命を受け入れていたものです。
互いの風変わりな癖や性格を比較的寛容に受け入れ、適応できることから、妻は夫を貴ぶというのが、中国の子孫たちが認める考え方である。一方、欧米諸国のやり方はそうではなく、人は一生のうちに自ら結婚相手を選ぶことができる。今となっては、欧米諸国には多くの優れた点があり、中国の認識する考え方に取り入れられるものがあると言えるだろう。
夫婦の愛情の情誼
このような結婚の認定は、自らの心のあり方や考え方においても大きく異なる。もし夫婦の愛情を基礎として構築されるならば、離婚という考えは一切生じず、必ず相手と「相互理解」を図り、いかにしてこの家庭を真に円満かつ融和あるものにするかを考えるはずである。これは欧米諸国の婚姻の優れた点である。
世の中のすべての婚姻において、夫婦双方とも提灯を手に探し回っても、これ以上にふさわしい相手はいないという考え方は、すでに現代の思想とは相容れないものとなっています。かつてこのような婚姻は、心から望んで家庭を築き、円満で楽しい生活を送るためのものでした。夫婦双方には、家庭の円満と繁栄を維持する共通の責任があったのです。
これこそが、夫婦それぞれが異なる責任、権利、義務を持ってこの小さな家庭を繁栄させるという、ごく自然な在り方なのです。これは夫婦の愛情に基づく絆の必然性であり、「夫は妻を宝とし、妻は夫を貴ぶ」という互いに慈しみ合う情誼を理解しなければなりません。また、妻が夫を貴ぶということは、天地の道理にかなった当然のことなのです。
もし夫を桶の側板と蓋に、妻を桶の底と箍に例えるならば、これは昔の人間世界で言われていたことである。ご飯を食べるには桶が必要で、これで盛りつける。いわゆる「飯桶」というものだ。この飯桶に側板と蓋がなければ、炊き上がった一釜のご飯は冷めやすく、保温のためには飯桶が必要なのである。
桶板、桶底、桶蓋に桶箍を加えれば　それが円満となる
古代の飯桶：農業時代においては非常に重要なもので、一つの飯桶を組み立てるには、桶底に加えて円形の桶板が必要であり、これは必須の道具と物品であった。このように桶板と桶蓋があり、また桶底と桶箍（たが）があって初めて、一つの「飯桶」として組み立てられ、それぞれが必ず備えるべきものとなったのである。
したがって古人はこう譬えました：妻は飯桶の底と箍（たが）であり、夫は飯桶の板と蓋であると。これらが揃って初めて飯を盛る「飯桶」として成立するのです。これは極めて重要であり、天地の道理に適った組み合わせなのです。この「飯桶」の譬えを家庭の構成に見立て、将来の繁栄と創造を願うものであります。
民は食を天と為す、人道世界の生活は食事の動作から離れることはできず、また食事には必ず飯櫃が必要で、これが家庭の夫婦の組み合わせに喩えられる－飯櫃である。現代ではすでに炊飯器に変わったが、昔の飯櫃は周囲の板で支えられており、一つの飯櫃を組み立てるにはまず底が必要であった。
桶の底が揃ったら、次には桶の側板が必要です。側板が揃っても、桶を箍（たが）で締めなければ、飯櫃全体を組み立てることはできません。また桶の蓋も必要で、そうして初めてこの飯櫃は完璧に組み上がります。現代の人類は想像できるでしょうか、昔このような飯櫃で炊かれたご飯が、いったいどのような味だったのかを。
夫婦の責任と義務
現代のアルミ鍋や電気炊飯器で炊いたご飯よりも、はるかに香ばしく感じられるでしょう。これは「古法を以て現代に譬える」のです。夫婦という家族の構成は、実に微妙なものです。まるで「箍（たが）は桶から離れず、桶は箍から離れない」ようなもので、どちらか一方が欠けても、家庭は家庭として成り立ちません。
諸々の妻は子と離れ散り、夫は敗れ女は亡くなるという、このような苦痛の状況に汝らは遭遇したことがあるか！古の言葉に「糟糠の妻堂より下さず」とあるが、汝らはこの天の下で汝と相応する者はただ一人のみであり、二人以上を得ることは甚だ難しいということを悟っているか。婚姻について言えば、決して子供の遊びではなく、必ず互いに忍び合って安らぎを得なければならない。
もし夫婦が喧嘩も口論もしないならば、それはまことに稀なことです！さらに珍しいことです！このような夫婦は必ず褒め称えられるべきです。人生の道のりで互いに寄り添い、一生涯の中で、すべての雑多な事柄は実に多く、それぞれの夫婦が家庭のために捧げる心の力と血の汗、そして辛酸苦労は、まことに筆舌に尽くしがたいものです。
一つの家庭が円満に繁栄し続けることは、いかに容易ならぬことか。夫婦の情愛と節義において、互いに堅く志を立て忠実に愛し合い、夫と妻、そして子供たちがより大きな安らぎと安定した家庭を得られるようにするには、双方がより大きな犠牲を払い、家族全体の安楽な生活を支えていかなければならない。
夫婦の情愛と義理
このような考え方をあなた方は受け入れられるだろうか？必ずしもそうとは限らない！試してみる価値はある！一生を通じて親しく愛し合い、さらに相手を深く愛し、浮気心を持たないことが必要だ。人間の中で、あなたと夫婦になれるのはたった一人だけであり、この人はあなたの一生の伴侶であり、あなたの今生を共に過ごす人なのだ。
いかなる困難な環境にあっても、耐え忍んで様々な苦難を乗り越え、互いに支え合う情誼を持ち、深く愛し合って一生をかけて築き上げたものこそ、夫婦の絆は時を経ても新たな輝きを放つ。このように「夫は妻を宝とし、妻は夫を貴しとする」心を一つに結び、夫婦は互いに敬い愛し合って永遠に続くのである。
一人を見ては愛し、また次の人を見ては愛し、結局は誰一人としてあなたと共に白髪になる人もいない、それはなんと悲しいことか！また、あなたが造った悪業、造った罪の借り、造った悪果を、一体誰のせいにできるというのか、すべてはあなた自身の行いがもたらした業障であり、あなたのこの一生に対して報いを受け、来世もまた同じことになる！あなたはそれを望むのか？
その時になって後悔しても、生涯を変えることは難しく、一生悔やんでもどうしようもない！貧しい夫婦は何事も悲しみに満ち、このような状況で情愛に満ちた夫婦関係など、あなたたちは望むだろうか？皆、望まないはずだ！人生一度きり、このような事態に対しては、必ず真剣に環境を改善し、夫婦双方が努力する方向性を見出し、幸福で円満な良い家庭を築く必要がある。
夫婦の情誼の擁護
夫婦がよく口論しても、軽々しく離婚を口にすべきではありません。まず心を落ち着けて相手の長所を見つめましょう。妻が青春のすべてを惜しみなく捧げ、この家庭のために無償の犠牲を払い、家族のために自分を捧げてきたことに感謝できるでしょうか。また、夫が一日中この家庭のために苦労して働いている姿にも目を向けましょう。
さらに一生懸命に働き、懸命に稼ぎ、一途に家庭の繁栄を願い、後顧の憂いなく、夫のすべての長所を思い起こす。あなたは感謝の気持ちを持てるだろうか？人生の低迷期には、どのように耐え忍んで乗り越えるべきか。この時こそ、感謝の心で相手に感謝することができれば、あなたがた二人が離婚という過ちを犯すことは決してないと信じている。
また、双方の欠点を修正し、コミュニケーションを取り、根本的な改善を行うこともできます。この時、夫婦は真心を込めて、真に夫婦の愛情と情誼を大切にし、生まれた子供たちのことを考えてみてください。もし夫婦が離婚したら、彼らの生活はどうなるのでしょうか？古人も言っています：口や舌がどれほど上手に使えても、時にはうっかり噛んでしまうこともあるものです。
その時、あなたの子供たちは他人をパパやママと呼ぶことになるかもしれません。あなたは心から納得できますか？どんな喧嘩や口論、是非や正誤の後でも、心を込めてお互いを修復し改善する気持ちを持ち、真心を込めて相手を愛し続けることが必要です。相手の欠点や過ちばかりを考えてはいけません。
夫婦の喧嘩は意見の相違を改善する
世の中に十全十美の完璧な人はいません。誰にでも多少の欠点はあるものです。相手の欠点を寛容に受け止め、その改善を見守りながら、常に相手への感謝の気持ちを忘れず、「愛」という言葉を口に出すことが大切です。たとえ相手が「またその古い話？聞き飽きたよ、新しい話題はないの？」と繰り返し言ったとしても、何度断られても決して落胆せず、志を失わないことです。
勇往邁進して、真摯に相手に伝え、理解してもらうことが必要です。あなたの心の中で相手がどれほど大切な存在であるか、夫婦が長く真心を込めて、自らの愛を表現すること。しばらく経てば、夫婦の愛情と絆は必ず大きく深まり、真心はきっとお互いの心を動かすでしょう。
それは自らの思想や観念、そして行動をもって、貧しくとも懸命に働く夫婦の努力を改善し、家庭の繁栄と生活環境の向上を実現し、夫婦の固い愛情と絆を育むことである。汝らはこれを理解できるか？実践できるか？変革できるか？大切にできるか？汝なら必ず成し遂げられると信じる。
情義の恩は山の如く重く　夫婦の情誼は自らに染みる
両想いが子孫を育み　貧しさも富の岸辺へと変わる
夫は妻を宝とし大切にし　妻は夫によって富貴を顕す
情愛深く義理堅き良き夫婦は　繁栄円満に福徳も増す
この偈を！有情の衆生と共に励まし合い、夫婦の情誼に込められたすべての恩愛を、現代社会における一つの実践方法として分析し、明らかにする。天下の夫婦が互いに励まし合い、幸せな家庭を築けるよう願って。皆様、お疲れさまでした。崇心宗脈にしばらくご迷惑をおかけしました。ではまたお会いしましょう！
無極伝道仙姑
無極より降りて凡塵に至り　 　道を伝え惑いを解き迷いを破る
仙姑今日は当番に参り　大道因果の天書篇
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日、南無観世音菩薩本尊が降臨され、「大道因果」第十五回を著作されました。前回の「夫婦の情義」と連続する内容となっております。どうか恩愛の薄いすべての夫婦が、互いに励まし合う契機となりますよう願っております。
本宗脈は近時、夫婦の累世因果を討伐し、双方向の円満を実現する活動を開始しました。これは無極皇母が常々願っておられることであり、すべての世の夫婦の婚姻が、人為的な変革と仙仏の加護を通じて成就されることを望んでおられます。必ずや新たに（崇心によって）結ばれ、心を改めて再出発することで、多くの夫婦の離別や怨み合いを減らすことができるでしょう。
もし明日仙仏にご報告し、より大きな開示と分析をいただければ、夫婦、子、兄弟、父母などに対する怨みや借りも、円満に成就されるでしょう。さて、今日はここまでとし、皆様お疲れさまでした。すべてが吉祥でありますように。ではまたお会いしましょう！
2015年、3月8日、20時00分◎＃※   了解；
南無大勢至菩薩
◆ 跋・讃賀 ◆
娘娘跋二来て賀を道す 大道因果完書の期
虛空無極瑤池金母娘娘　親降跋三於
2008年11月21日　戊子年十月二十四日（金）
◆ 本文 ◆
第十五回   　夫妻恩情
南無、衆生有情の愛に帰命し奉る
大勢至菩薩来たりて著作を排す
菩薩は因果の帳簿を降ろされ、
恩愛の夫婦も必ず徳を改めねばならぬ。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋     二
◆ 本文 ◆
第十六回  　 恩怨夫妻
恩愛と怨恨の夫婦が別れを告げる
人道世界において、夫婦となった後には、三つの状況が生じます。一つは恩愛の夫婦、一つは平順の夫婦、もう一つは恩怨の夫婦です。この三つの状況と条件は、異なる生活環境に育った二人が夫婦となった後、必ず多くの異なる見解と、それぞれの異なる視点を生み出すことになります。
人道世界から観察すると、すべての新婚夫婦は、最初は互いに馴染み、訓練し合う一種の暗黙の了解を築く過程にあります。人類の衆生の中で姻縁により夫婦となる者を見れば、現在60億以上の人口の中で、あなたと夫婦になれるのはただ一人だけです。また、現代世界の潮流と法律は、一夫一婦制を共通の規範として推し進めています。
もしこのような規範を離れれば、正式な「夫婦」という名分はなくなり、夫婦としての基本的な枠組みからも外れてしまいます。これは上天が人道を基本構造として、一夫一婦制が天地・男女の道理により適合し、公正で平等な相互対応が可能となるように定められたものです。それなのに、なぜこのような因縁に満ちた夫婦関係が生まれてしまうのでしょうか。
異なる生育環境を持つ二人が、生活背景から理解するに、女性が夫の家に嫁ぐ際、人為的要因によって学び成長する。夫の家の生活習慣を全く知らない状態から、生活の些細なことを学び頼りにする。これらの些細なことが学習と成長の過程に組み込まれ、一人の女性が夫の家のあらゆる生活習慣に順応していく。
恩愛と怨恨の夫婦が学ぶべきこと
妻となる者にとっては、一家の生活習慣すべてを背負い、その後徐々に一家全体の習慣を切り盛りしながら、生活の中で学び成長していくのです。坤道（女性）が夫の家に入る際には、必ずある期間を経て慣れ、適応するための調整が必要であり、また人為的要因によるすべての生活習性を、円滑に調和させる働きかけが求められます。
自分がこれまで培ってきた生活習慣を夫の家風に溶け込ませ、過去の生活様式を見直して改めることで、家族全体の暮らしに大きく貢献することになります。最初のうちはどうしても多くの不慣れさがあり、失敗も頻繁に起こるものですが、これには学びのプロセスが伴います。日常生活の中に取り入れていくうちに、次第に要領を得て、より上手にこなせるようになっていくのです。
女性が夫の家に入る時、家族全体を円満に成長させることができ、夫婦の間には真の相互補完と相互向上があります。夫は必ず導きを行い、妻が速やかに状況に適応できるようにする必要があります。新婚の甘い蜜月期を経て、子孫を残し、代々受け継いでいくことができるのです。
坤道が夫の家に入った後、すべての苦労や喜び悲しみは、夫君には到底理解できないものです。これは夫婦の愛情を通じて、本来は親密に成長し合うはずなのに、なぜ多くの不適応や考え方の違いが生じるのでしょうか。夫婦それぞれの習慣、惰性、個性、気質は一体どのようなものなのでしょうか。
恩愛と怨恨の夫婦の経緯
女性が夫の家に入った後、学び知るべき事柄は非常に多くあります。どのようにして家庭全体を切り盛りし、成長を学ぶか、また人としての世界において、夫婦が愛情を育むか、あるいは不和に陥るかの分かれ目は、夫婦が共に心を込めて学ぶことを望むかどうかにあります。さらに、家族全員も適応するための時間と空間を与える必要があります。
客観的条件が必要であり、この客観的条件が家族の円満さを左右するかどうかによって区別されます。恩愛の夫婦と恩怨の夫婦、この二つは親密な愛し合う者と醜く憎しみ合う者との違いです。恩怨の夫婦と恩愛の夫婦、この両者が示す様相は、もし時間が長く経過した場合、恩愛の夫婦と恩怨の夫婦はそれぞれどのようになるのでしょうか。
新鮮さが薄れ、夫婦がもはや言い争いや喧嘩をしなくなると、次第に平穏な関係が築かれていく。ここにおいて「恩讐の夫婦」と「恩愛の夫婦」は、次第に「平穏な夫婦」という共通の姿へと収斂していく。この三者の違いについて、恩愛の夫婦は論ずるまでもなく、平穏な夫婦もまた常の道を歩みながら一生を過ごしていくのである。
縁あって結ばれた夫婦が互いに変わり合えるかどうかは、互いに高め合うか、それともずっと反目し合ったまま一緒にいるかです。長い年月が経つと、反目し合う夫婦は常に争いを繰り返すようになります。このような夫婦は、自分の視点や認識の価値がどこにあるのかを理解し、互いにコミュニケーションを取ることで、異なる視点や認識を解消できる必要があります。
恩愛と怨恨の夫婦の認識
一組の夫婦が結婚するとき、このような縁による結びつきは、人間が羨むものです。なぜ他人は簡単に仲睦まじい夫婦になれるのに、自分の伴侶は自分の苦労をまったく理解してくれず、いつも小言ばかり言うのか。どの家庭にも言いにくい事情があるものですが、さらにその事情を相手に延々と説教し、まるで供養でもするかのように説き聞かせるのです。
このような状況は、双方にとって「それぞれの家にはそれぞれの難しい事情がある」と言えます。因縁浅からぬ夫婦にとっては、まさに前世の悪い因縁が、今の人間界に植え付けられた結果であり、本来ならば仲睦まじい夫婦家庭であるはずなのに、事は思い通りにはいきません。このように長い年月が経つうちに、苦しみもあれば楽しみもあり、辛さもあれば甘さもあり、それらがすべて絡み合っているのです。
夫婦喧嘩や意見の相違は避けられないことであり、古くから「枕元で喧嘩しても、床の先では仲直り」と言われてきました。これは世の人々に、夫婦は互いに意思疎通を図る必要があり、特に争いや口論がある時は、双方が一歩譲ることで初めて円満な解決が得られることを伝えています。古くから言われる「枕元で喧嘩しても、床の先では仲直り」は、情ある衆生の向上を促す教えなのです。
一組の怨み合う夫婦を愛し合う夫婦に変えることは、古来より、夫婦双方の立場から見て、互いに融合し合い、夫婦として円満であることが正しい道である。一組の夫婦が怨み合う夫婦になる前は、本来愛し合うべき夫婦であったはずなのに、なぜ怨み合う夫婦になってしまったのか、双方が反省する必要がある。
恩愛と怨みの夫婦が修繕を整える
相手の思想観念と感情の触れ合い、および生活習慣などの様々な問題について、双方が問題を提起し、共通の解決方法とコミュニケーション手段を探る。また、不仲な夫婦は、必ず問題の核心を真摯に捉え、双方向のコミュニケーションと融合を図らなければならない。これは、不仲な関係にある者たちが問題点を認識する上で、必ずこうあるべき姿なのだ！
さもなければ、一組の怨み合う夫婦はどう感じるだろうか。有情の衆生はよくこう言うものだ：すべては相手の間違いや悪いところで、私に何の変わった癖や気難しいところがあるだろうか、ただ相手がずっと私を理解してくれないだけだ、と。このような状況では、双方にはまったく接点がなく、ましてや反省やコミュニケーションが取れるはずがない！このような状態で怨み合う夫婦にならないなら、それはむしろ不思議だ！
自分自身の変わった癖や気性がどこにあるのかも分かっていない。愛情のある人間の夫婦は、他人よりもお互いをより理解できるものであり、夫婦間で互いの生活習慣や変わった癖を目の当たりにしているのではないだろうか？不仲な夫婦がお互いの変わった癖や気性を検討し、双方向のコミュニケーションを通じてどう修正し変えていくべきかを話し合うことこそが、問題解決の必然的な道なのである。
このような怨み合う夫婦は、時にいくら話し合い、反省しても、無駄に終わることがあります！人為的な要因で変えられるものは、必ず双方の話し合いと反省を通じて、多くの怨み合う夫婦が生まれることを減らし、愛情深い伴侶となることができます。しかし、時に前世や累世で結ばれた怨恨と因果が、今の時空の因縁の中に移植されることもあるのです。
夫婦の怨み合う縁が結ばれる
前世の怨念が今生に植え付けられたこのような縁は、初めは必ず恩愛に満ちた蜜月の時期があり、それは三年から五年ほど続きます。しかし時が経ち因縁が巡ると、それぞれの認識の角度が異なるため、双方の認識の角度が対立するようになります。もしこれを変えることができないならば、双方の心の持ちようや考え方、価値観、生活習慣を改めて調整する必要があります。
もし双方の争いがあまりにも深刻で解決の余地がない場合は、このような状況を改善するための一つの方法があります：必ず「天地を改めて拝し、新たに結合する」必要があります。この種の問題点に対して双方の条件を、まず全面的に理解した上で、初めて修復を進めることができます。これが基本的な条件となります。
これは双方が深く愛し合っていることが必要であり、浮気心を起こしてはならず、ましてや不貞を働いてはならない。現代風に言えば「浮気はするな」ということだ。このような状況は往々にして収拾がつかず、修復も難しい。人間世界の感情において、第三者に割り込む隙を与え、もともと調和のとれていた家庭や結婚を壊すことがあってはならない。
挽回の余地があるかどうかという問題は、事前に備えることが必要であり、それが正しい態度である。さもなければ、相手も必ずしも本意ではなく、往々にして報復心から生じることが多い。男性は許され、女性は許されないというわけではなく、時と場所の因縁によって、多くの浮気者が生まれてしまうのである。
恩愛と怨恨の夫婦はどう修整するか
このようにして事態が拡大し、収拾がつかなくなるまで進み、しばしば離婚という結末を迎えます。夫婦という人倫の根本においては、何が行えるか、何が行えないか、何が家庭と結婚の妨げとなる石なのかを、確実に理解する必要があります。不仲な夫婦とは、まさにあなた方が注意を怠り、相手に付け入る隙を与えてしまった結果なのです。
常にあなたの本意ではないが、時と縁が重なり、第三者を招き入れることになる。婚姻に絡みつく障害となるが、双方の不倫が修復不可能な段階に至らない限り、先人の経験を戒めとして心に留めねばならない。さらに忘れてはならないのは、人為的要因によって、仲睦まじい夫婦が怨み合う夫婦へと変わりうる実例であるということだ。
必ず肝に銘じて、警戒を怠ってはならない。さもなければ、一生後悔することになり、社会コストの負担を生じ、あなた自身も幸せな家庭を失うことになる。人類のすべての善良な生活習慣は、往々にして前世で結ばれた善悪の因縁に、現在の生活過程が加わり、夫婦双方の円満で愛情深い家庭生活に影響を及ぼすのである。
仲の悪い夫婦はどうやって和解すればいいのか
このとき怨み合う相手が形成されると、時空が長くなるにつれて自分の結婚生活に絡みつき、夫婦の感情にも影響を及ぼします。このように時間が長くなるにつれて怨恨は深まる一方で、どうやってこれを解消すればよいのでしょうか？以下のいくつかの点を参考にしてください。
一、夫婦双方が心を落ち着けて、腰を据えて話し合うことは必要です。
二、双方は欠点や不足、不十分な点を検討し、改善も必要である。
三、双方がそれぞれの立場や価値観を持つことも、共に調整し合わなければならない点です。
四、家庭の生活経済は、双方が共同で負担する必要があります。
五、 男は外で働き女は家庭を守るという考え方は、もはや現代社会の状況に合わず、男女双方が家庭内の大小様々な事柄に対して、共に責任を負い協力して担っていくべきです。
六、 子供の教育においては、夫婦のどちらかが厳しい役割を担い、もう一方が優しい役割を担うことが必要です。そうすることで、子供が一方に依存することを防ぎ、子供を立派な人間に育て上げる希望が持てます。少なくとも、子供が道を踏み外すことはないでしょう。
七、父母に孝行し、兄弟姉妹、嫁同士も互いに親しみ愛し合うことは、「箍（たが）と桶」の関係のように重要であり、実質的な役割を果たすものです。
八、 それぞれの家庭の生活背景は異なります。いかにして自分の家庭を円満にするかは、「妻が桶の箍となる」ことと「夫が箍を桶に締める」こと、二人の共同の努力にかかっています。特に女性の側は、より柔軟性に富んでいます。
九、自分の家庭のほかにも兄弟姉妹の家庭があります。他人に「あなたは自分の家庭だけを顧みて、それ以外には一切参加しない」と思わせてはいけません。そうなれば、あなたは大家族の一員としての立場を失い、私心が強すぎて円満とは言えません。
十、 良き夫婦とは、互いにコミュニケーションを図り、互いに反省し、互いに慈しみ合い、互いに支え合い、互いに補い合い、互いに融和し、互いに成就し合い、互いに創造し合い、より幸福な家庭を築くことができる者である。
十一、双方の両親に対しては必ず恭しく孝行を尽くし、自ら体を気遣い挨拶を交わすべきである。一人の娘があなたの夫人（妻）となったからには、義理の両親に対しても孝行を尽くすことが人倫の大道である。嫁に来たからといって、義理の両親への孝行を絶つようなことがあってはならない。
十二、さらに父母に孝行を尽くさなければなりません。両親と同居しているかどうかにかかわらず、あなたは父母から生まれた身ですから、父母に孝行するのは天地の道理に適った当然のことです。誰も孝の道を消し去ることはできません。「孝順な親からは孝順な子が生まれ、親に逆らう者からは親不孝な子が生まれる」これは古来より絶えることのない孝道の伝承なのです。
世の夫婦は互いに慈しみ愛し合う
なぜ自分だけはそれができないのか
怨い合う縁は前世の因縁
いかに解くか悟らねばならぬ
恩愛の夫婦は真心を育み
円満なコミュニケーションは振り返りの中に
双方が誠意をもって修整すれば　次回には必ず解消できる
この偈を、有情の衆生と共に励まし合いましょう！恩愛の夫婦をいかにして双方円満ならしめるか、また怨み合う夫婦の、累世にわたる怨念の絡み合いをいかにして解きほぐすかについては、次回の著作にて詳しく分析いたします。皆様、お疲れ様でした。どうぞ一切吉祥であります。崇心宗脈にお邪魔いたしましたが、これにて失礼いたします。またお会いしましょう！
無極理法仙姑
無極の因縁互いに排し
理法降りて崇心に来たる
仙姑は今日当番を務められる
大道の因果が夫婦を載せる
諸聖仏と諸賢生、ならびに無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は南無大勢至菩薩本尊が降臨され、「大道因果」第十六回を著作されました。一組の恩愛夫婦と一組の怨偶夫婦を分析され、有情衆生の夫婦婚姻生活と、離別に至る原因について、次回により詳しく説き明かされます。皆様、ご苦労様です。どうぞ吉祥あれ。では、またお会いしましょう。
2015年、3月8日、20時01分◎＃※  了解；
南無文殊菩薩
◆ 跋・讃賀 ◆
虚空無極地母至尊　親降跋二於
◆ 本文 ◆
第十六回  　 恩怨夫妻
南無、衆霊皆成就せんことを
文殊の徳沢、蒼生を佑けんことを
菩薩降著第十七回
怨みある夫婦は必ず互いに責め合う
◆ 跋・讃賀 ◆
大道因果著跋三　　弘化推廣寰宇成
◆ 本文 ◆
第十七回　   怨債夫妻
夫婦の継承には性が必要である
まさに人為的な要素によって、天下のすべての夫婦が形成され、子孫を継承する根拠となる。これは天地の道理にかなった規範であり、いかなる国においても同じである。このいわゆる子孫の継承は、また相当な必然性を有している。もし夫婦の結合がなければ、どうして子孫を後世に伝えることができようか。
有情なる衆生は人倫の功徳を以て生活を営み成長するが、その中には必ず一組の夫婦の善徳の因縁、平順なる因縁、そして冤債の因縁という三つの関係が関わっている。人倫の大道における行為と動作は、伝承にとって必須のものであり、人から人への伝承こそが、人と人とが互いに因縁として作用し合うことであり、これは古来より続くすべての良き規範の所以である。
祖父母や父母に対する孝養、そして子孫への慈愛の徳は、広く宣揚し守り伝えていくべきものです。これは人倫道徳をもって教化を広めることであり、祖先から連綿と受け継がれてきた血脈の継承は、人間の世界が絶えることなく発展し、繁栄を推し進めていくために欠かせないものです。そうしてこそ、優れた子孫が育まれるのです。
人々の世のすべての夫婦を見ると、ちょうど提灯を灯して探しても二人目はいないようであり、大いなる天地のすべての人倫における婚姻は、子孫を伝えることを目的としている。その中には、一体となって互いに支え合うことができる夫婦も多く、こう言えるだろう：両親の情愛を除けば、どんな関係も夫婦の情愛が互いを高め合うことに及ばない。
なぜ怨みの縁で結ばれる夫婦があるのか
兄弟姉妹の情誼よりもさらに勝るものとして、人類の衆生はどのような要因によってこのように成し遂げられるのでしょうか。また、なぜ親密な夫婦関係が築けるのか、本来は善き徳の因縁であるはずなのに、なぜしばらくすると新鮮さが失われ、さらには互いにあれこれと不満を抱き、双方に多くの認めがたい点や、思想観念と行動の不一致が生じてしまうのでしょうか。
古代の婦人としての徳は、現代の結婚生活にも参考になる。相手の共通理念を認めることで、平穏な夫婦や不仲な夫婦も親密な愛し合う関係へと昇華できる。『天下の夫婦は皆、もとより縁あって結ばれた者』というが、縁あって結ばれた後、果たして天下の夫婦が皆、互いに慈しみ愛し合いながら一生を過ごせるだろうか。
現代の人間は「恋人」をどのように見ているでしょうか。皆、一定期間の新鮮さを感じるだけで、長く続くと変化が難しく、新鮮さが失われてしまいます。世間で言う七年目の危機も、まだ七年に達しないうちからすでに耐えられないほどになり、さらには浮気や離婚に至ることもあります。
このような要素は、新鮮さを求める恋人同士において、長きにわたり志を変えず深く愛し合うことができるでしょうか？もともと自分が好きで選んだ相手であり、自分が認めた相手である以上、夫婦としての情愛を深め、より親密な関係を築くことで、はじめて子孫へと受け継いでいくことができると信じています。
怨みある夫婦は満たされず
本来親しい夫婦であったはずなのに、なぜ最後にはお互いに目障りになり、あれこれと小言を言い合い、さらに生活のあらゆる出費がすべて金銭に関わってくる。もし収入が支出に追いつかなければ、夫婦は頻繁にお金のことで口論し、家庭の大小さまざまな問題から隙間風やわだかまりが生じてしまう。
もし福報に恵まれているならば：この方面の問題を軽減することができ、さらに子供が生まれた後、養育や教育、そして様々な生活のプレッシャーが加わることで、もともと仲の良かった夫婦が、家庭の様々な要因の影響を受け、お互いに大きな溝ができ、双方の認識や視点にも違いが生じてしまうのです。
また、すべての事柄が思い通りにならない時には反感を抱き、夫婦双方により大きな不満を生じさせます。特に夫婦双方が感情を上手く発散できないと、口論に発展し、双方の怒りをさらに大きくしてしまいます。誰も一歩も譲ろうとせず、双方が一歩引いて、頭を下げて問題を解決することもできません。
さらに怒りが頂点に達すると、言葉もますます聞くに堪えなくなり、相手を見れば見るほど軽蔑の念が募り、ついには物を投げつけて怒りを晴らすことさえあります。善し悪しの判断もなくいきなり拳を振りかざし、これによって双方の不満はさらに増大します。特に怒りの炎が最高潮に達した時には刃物を持って向かい合い、双方に非常に大きなダメージを与えることになります。
夫婦が争いを起こした場合、どうやって和解すればよいでしょうか。
この時、もし周りの人が止めに入らなければ、双方は大きな悪影響を受けることになる。争っている問題について、双方とも自分には何の間違いもなく、すべてあなたのせいだ！すべてあなたが悪い！あなたが悪いから私が怒るのだと思い込み、互いに一歩引くことを嫌がる。もともと仲睦まじい夫婦だったのに、どうしてこのような結末を迎えてしまったのだろうか。
このような状況は、一両日で解消できるものではなく、必ずしばらくの冷戦期間が続くでしょう。もし双方が心を落ち着けて、互いの怒りを改めて見つめ直すことができなければ、この状態はいつまでも続くことになります。お互いに手を出し、口論もした後で、自分自身が相手に対して申し訳なく感じるようになった時、初めて状況に転機が訪れる余地が生まれるのです。
もしずっと相手があまりにも残酷で、自分はまったく間違っていないと思い続けるなら、この問題はより深刻な結果を招くでしょう。お互いのすり合わせがまだ強化を待っている段階では、何度も何度もすり合わせを重ねなければなりません。数回後には双方の怒りも収まり、この時こそ「枕元で喧嘩しても、寝床の端では仲直り」というように、和やかにお互いを補い合うことが容易になるのです。
これは新婚夫婦の一組で、どちらも一定の時間をかけて互いに馴染んでいく必要があります。時には言い争いをしたり、揉め事を起こしたりして、双方が自分の不満を吐き出すことで、改善や和解の余地も生まれやすくなります。また、元々異なる環境で生活してきた二人にとって、自分たちが認識しているのはただ「夫婦としての親密な感情」だけを維持することなのです。
怨みの縁で結ばれた夫婦が形成される
一般の人は物事に対して双方向のコミュニケーションや寛容さを持つことがあまりありません。しかし、双方がコミュニケーションを取った上で互いに寛容になり、さらには良くない行動を改めることができるならば、そのときこそ和解の余地が大きくなるのです。もし双方が互いに寛容になることができないならば、おそらく両者の溝は深まり、多くの隔たりが生じてしまうでしょう。
これは新婚夫婦であれ、結婚歴の長い夫婦であれ、避けがたいことです。もし天の目で見るならば、夫婦は結婚した以上、互いに慈しみ愛し合うべきなのに、なぜこのような親密さの欠如が生じ、双方が激しい怒りを燃やし、果ては喧嘩や口論といったあらゆる争いが起こるのでしょうか。
このように怒りが収まった後も、お互いに謝罪や詫びをすることができなければ、夫婦が元通り仲直りするのは難しいでしょう。もしそこに親族や友人の扇動や誇張した言葉が加われば、本来は「喧嘩してもすぐ仲直りする」はずの夫婦関係に、大きな破壊力をもたらすことになりかねません。
この時、親族は介入しない方が良い。世の中の夫婦というものは皆そういうものだ。喧嘩すればするほど仲が深まることもあれば、手が出れば出すほど互いを理解し合うこともある。ただし、必ずしも毎回そうとは限らない。中には、ちょっと手を出しただけで大変なことになる者もいる。「私は金縁の器だ、触るのも許さぬ、ましてや手を出すなどもってのほか。すぐに裁判所で会おう！」というわけだ。
怨みと借りの夫婦は前世からの因縁
さらにその後は、燕が別れの道をたどり、離婚という結末を迎える！夫婦の問題は大小さまざまだが、何よりも大切なのは、夫婦双方が「夫婦の縁」を大切にしているかどうかだ。もし怨みと借りの絡む夫婦であれば、問題はさらに深刻になる！次の瞬間には相手を訴え出る、これがあなた方の世で言うところの－傷害、ああ！何と無意味なことか！
口と舌がよく噛み合うように、この時こそ心を静めて、事の経緯を分析し、問題の成り行きを考えるべきではないでしょうか。往々にして、もとは些細なことなのに、双方の激しい気性が譲ることを知らず、どちらも負けを認めようとしない。こうなれば、面白いことになるのは目に見えています。どうしてそこまでしなければならないのでしょう！
このような状況は、怨みと借りのある夫婦にとって、本来は些細なことのはずなのに、なぜこれほどまでに収拾がつかなくなり、口論や殴り合いの激しい気性が現れ、互いに一歩も譲らず、強い方が弱い方を打ち、弱い方が強い方に仕返しをし、そうしなければ自分に申し訳が立たないと感じ、最終的には双方が傷を負い、心が痛む思いをするのでしょう。このような夫婦のあり方には、まだ理解の余地があると言えます。
夫婦の双方に怒りを鎮めてもらい、事が過ぎ去った後に少し後悔するのです。あんなに強く叩くべきではなかったと、傷跡を見て初めて申し訳なく感じます。しかし自尊心が邪魔をし、面目も保たねばならず、誤りを認めようとしません。「さもなくばお前はどうするつもりだ！」と、双方の感情はここまで来てしまうのです。
怨債の夫婦は一種の業縁である
自分に逃げ道を与え、過ちを認めて一歩引くことができるかどうかは、往々にして将来の夫婦生活をより広く幸せなものにする鍵となります。これは高学歴者であっても同じで、周囲にはこのような夫婦が非常に多く見られます。今ここで述べていることは、まだ修復不可能な夫婦関係の行為には当たらず、夫婦双方にはより大きな和解の余地があるのです。
もし怨みの因縁で結ばれたのであれば、通常は女性が比較的弱く、男性が比較的強い傾向があります。一般的な夫婦の場合、前世や過去世で積み重ねた怨みの業と借りが、今この時代に転換して夫婦の縁となったのではないでしょうか。つまり、前世であなたが人を欺いたなら、今生ではあなたの家族として生まれ変わり、繰り返し報いを求めてくるのです。
また、女性は比較的弱く、欺かれやすい面もありますが、時空と因縁の違いによっては、男性が女性に欺かれて非常に悲惨な目に遭うケースも現在では存在します。ただし、このような事例は比較的少数であり、ごくわずかです。また、報いを受ける過程では、双方の立場が入れ替わり、女性が男性に、男性が女性に転生して報復を行う方が、より容易な場合があります。
前世であなたは人をあまりにも欺きすぎました、今世になってあなたが欺かれる番となりました。このような恩恩怨怨が引き起こす多くの現世報の実例は、この過程において、しばしば変えがたい状況を形成します。あなたが前世で多くの人に負ったものを今生で返済する、これこそが因果の法則の条綱に合致するのです。
夫婦の怨みと借りは、これがすり合わせの経験である。
怨みの因縁で結ばれた夫婦に、さらなる改善の余地はあるのか！それは双方の気性がどうであるか、視点がどうであるか、対応がどうであるか、認識がどうであるかにかかっている。また、このような人間の衆生が夫婦となるには、必ずお互いに対する認識と理解が必要である。あなたはまだ彼を愛しているのか？それともすでに不貞を働いてしまったのか？それによって夫婦の情誼はすでにどん底に落ちてしまっている！
このような状況はまた別の問題です。もし一時の激情だけで、まだ深く相手を愛しており、よく二人の甘い思い出や相手の様々な長所を思い出すなら、それはまた一つの期待となります！双方が離婚していないうちは、まだ大きく改善する余地があり、修復の可能性もあるのです。
因果の循環に対処するには、双方の怨みと借りを解消し、夫婦としての情義を新たに築くこと以外にありません。ただし、すでに離婚してから相手の長所を思い返すのは避けるべきです。もし相手がまだ独身であれば、関係を修復する機会は残されていますが、相手が再婚してしまえば、あなたには一切の機会がなくなります。双方が互いを愛しているかどうかが鍵となります。
夫婦の怨みの借りはどのようにして解消すればよいか
これは最も重要な一環であり、もしすでに相手への愛情がなくなっているなら、相手の死んだ心を再び燃え上がらせることなどできるはずがありません！この時点で関係を修復しようとしても、非常に困難になるでしょう。もし長い時間をかけて双方の感情を見つめ、お互いに試練を乗り越える時間を与えることができれば、大きな変化が生まれる可能性もあるのです。
この一筋の希望を捨ててはなりません。夫婦の縁が破鏡重円を果たすためには、どのようにすればよいか。これは比較的希望が持てる向上点です。双方の認識を通じて、もしまだ少しでも愛し合う気持ちがあれば希望はあります。しかし最も恐れるのは、その心がすでに死んでしまっていることで、どうやって再び灯をともすか？それはすでに不可能なのです。
離婚する前にしっかり考えてください。事態が相当深刻になってから、相手の長所を思い出すようなことのないように。修復できる可能性があるのに努力せず、手の施しようがなくなってから元のさやに収めようとしても、時と状況はすでに変わっており遅すぎます。後悔はその後ずっとついてくるもので、情ある衆生はよくこのような過ちを犯します。残念なことです！
怨みの借りは変えられぬものにあらず　　離縁の前に見定めよ
双方の長所と短所を　改めて見直し合い育て合おう
足るを知り忍耐し思いやりを添え　感謝し包容して善き理解を持つ
コミュニケーションは良い方法です　互いに一歩譲れば永遠に愛し合えます
夫婦の怨みと借りをめぐる転換について、次回はさらに精彩ある著作をお届けします。これは上天が現代の世に、離婚後の夫婦により大きな転換の機会を与えんと願っておられるからです。今、崇心宗脈には仙仏新たに「夫婦縁円満和楽灯」を設立されました。これにより、将来離婚を考えている現代人に警鐘を鳴らし、崇心宗脈にしばらくお邪魔いたしました。皆様お疲れさまでした。ではまたお会いしましょう！
西方理経菩薩
西方極楽の大世界　　理経相い助けて心を崇め来たる
菩薩は今日輪番当番を務められる
大道の因果と徳性が開かれる
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は南無大智文殊菩薩が降臨され、「大道因果」第十七回を著作されました。今回は「怨債夫妻」の前半部を分析し、次回では夫婦が離別した後の修整について、果たして自らの望む通りになるかどうかを論じられます。
あるいは、すでに縁が切れてしまった場合、どうやって円満に収めるべきか。人類の夫婦双方における「因果論」を明確に理解することで、より大きな利益を得ることができ、世の中の夫婦の離婚という苦境も減らすことができる。「芝居が現実になる」ことになって後悔しないよう、皆さんと共に学び成長していくことを願っています。皆さん、ご苦労さまでした。ではまたお会いしましょう！
2015年、3月8日、20時02分 ◎＃※  OK。
南無普賢菩薩
◆ 跋・讃賀 ◆
跋     三
◆ 本文 ◆
第十七回　   怨債夫妻
南無普賢菩薩降り給う
大道因果 吉祥を兆す
縁起の勝れたるを以って教化を為す
夫婦の怨みは同じからず
◆ 跋・讃賀 ◆
虚空無極瑤池金母娘娘　親しく跋三を降す
◆ 本文 ◆
第十八回  　夫妻冤家
夫婦はどうして怨み合う仲になるのか
有情なる衆生が人道世界に入ると、婚姻が形成されます。この婚姻によって男女、乾坤が結合し、その中で夫婦は本来甘美で蜜のように仲睦まじい組み合わせであるはずです。なぜかしばらくして子孫や子供ができると、養育や教育に関する異なる理論と視点が生まれ、双方の立場によって違いが生じるのでしょうか。
時に夫はこうすべきだと考えても、妻はそう思わず、一方が同意しないこともあります。長い時間が経つと、夫婦の親密な感情に影響を及ぼします。さらに、「薪、米、油、塩、醤油、酢、茶」などの生活費や、多くの人間関係上の付き合いなどが必要となり、しばしば夫婦の認識に影響を与えます。
また、夫婦間で金銭のやり取りが滞り、双方が金銭的プレッシャーに耐えられなくなることもあります。これはちょうど台湾のことわざにある「口論の種―すれ違いの機会」のようで、夫婦のどちらか一方、あるいは双方が一歩譲ることができれば、夫婦関係はより円満に保たれます。しかし、もし双方の認識の隔たりがあまりにも大きく、溝が次第に深まっていくと、事態は深刻になります。
このようなことは、もともと仲睦まじかった夫婦にも影響を及ぼし、普通の諍い夫婦へと格下げしてしまう。もし双方の認識の隔たりがあまりにも大きく、かつ互いに意思疎通ができない場合、夫婦の感情は次第に冷え切った状態へと追いやられてしまうだろう。たとえ同じ屋根の下に暮らしていても、冷戦状態に陥ってしまうのである。
敵同士の夫婦と夫婦の敵同士
同じ部屋で過ごすのではなく、別々の部屋に分かれて暮らすようになると、感情は次第に薄れていきます。夫婦が顔を合わせるたびに口論する機会が増え、時間が経つにつれて顔を合わせても言葉を交わさなくなり、時には相手がとても嫌に感じられるようになります。こうして元は恋人同士だった夫婦が、やがて敵同士のような関係へと変わっていくのです。
ちょうど台湾のことわざに「冤家、冤家、冤でなければ一家にならず、夫婦にはならない」と言うように、このような状況は今や至る所に見られます。もとは提灯を手にしても二つと見つからない、あなた以外には嫁がない、あなた以外には娶らないと思えるような良き伴侶だったのに、それが以前に仲人の言葉によるものであれ、自分たちの恋愛で結ばれた夫婦であれ。
ここまでくると、こう言えるでしょう。かつてのあの清らかで新鮮な感覚は、いつの間にかどこかへ消え去り、相手を見れば見るほど気に入らなくなり、時には口論や挑発の末、殴りつけたくなるほど憎しみに燃えることもある。なぜあの頃の仲睦まじい夫婦の情愛や絆は、どこへ行ってしまったのだろうか。
なぜ仲睦まじかった夫婦がここまで縁を切ることになり、お互いに相手が気に入らなくなってしまったのか。この時こそ、お互いの歩調と方向を見直すべきです。もしずっと相手が気に入らないと感じているなら、まずは心を落ち着けて、かつて愛したあの人がなぜ以前のように美しく、あるいはハンサムではなくなってしまったのかを改めて思い返してみてはいかがでしょうか。
夫婦双方の捉え方が異なる
あの頃、この人以外は嫁がない、この人以外は娶らないと思っていたあの良人は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。そして「仇同士の夫婦、夫婦の仇同士」の生活はどのようなものになるのだろうか。夫婦の仇同士としては、口論は避けられず、互いに摩擦を起こし、口げんかや言い争いをすることもあるだろう。少しぐらいなら問題ない、これはよくあることだ。
しかし、仇同士のような夫婦の場合、改めて見直す必要があります。お互いの新鮮さはとっくに消え失せており、このような状況があなたの身にも起こりうるのです！自分自身も感覚が麻痺し、化粧をしなくなり、身だしなみを整えなくなり、相手を愛おしむこともなく、気持ちを表現することもなく、ただ平坦で味気ない日々を送っていないでしょうか。
様々な問題が重なると、多くの要因となり、あなた方二人の間に深い溝が生じます。かつて知り合ったあの美男子と美女も、今では髪は薄くなり、お腹は出て、ウエストも太くなり、もはや美男子でも美女でもありません。自分自身も同じように、かつての容貌を取り戻せないのではないか、考えてみてください。
また、どうしてあなたの配偶者の欠点を嫌って、より大きな波風を立てる必要があるでしょうか。これはまた、双方が円満になる障害を突破できないことになり、「夫婦の怨み合いと怨み合う夫婦」という行為の中で、必ずやあなたたち二人の間に深まっていき、繰り返し夫婦に対して怨み合うことになります。このような状況は夫婦双方にありますが、あなたはどうお考えですか。
夫婦は互いに思いやりの心を持つべきです
夫婦の怨み合いと怨み合う夫婦：これが形成する問題は、人間世界の有情衆生には七年目の痒みがあるが、現代では七年も待たずにすでに痒みが生じ、しかも皆「近水楼台先得月」、つまり不倫をしてしまうのです！これにより夫婦の一方は、相手が何をしているのか、なぜ時間の試練に耐えられなかったのかを理解することが非常に難しくなります。
自らの幸せな家庭を捨ててまで浮気をし、他人を愛することを選ぶ。かつて自分が愛したあの美しい良人や美しい嬌妻は、もはやどこにもいない。有情なる衆生にとって言えば、感情に問題が生じたのか、それとも時の流れが積み重なったのか、もはやかつての親密な愛し合う夫婦ではなく、むしろ見れば見るほど気に入らず、ますます見知らぬ他人のようになっていく。
このような状況は防止すべきか、あるいは片目をつぶって見て見ぬふりをするかですが、もし後者を選んだ場合、恐らく失うことになるのは幸せな家庭そのものでしょう。そして、あなたが愛する伴侶に対し、あなたが機会を与え、相手に浮気や不倫の理由や原因を数多く作ってしまっていることにもなるのです。
これは自分自身の不注意と放縦によって引き起こされたものであり、自分の婚姻を破壊することになり、今後は頻繁に大喧嘩になる恐れがあります。考えてみてください、これでいいのでしょうか？価値があるのでしょうか？本当にこれでいいのでしょうか？自分自身の考えはどうなのでしょうか？人類の衆生の縁による結合と破綻は、すべて自分自身が創造し、掌握することができるのです。
夫婦はどのように反省すべきか
結びつけようとしたり壊そうとしたりするのはやめてください！元に戻せるかどうかはまた大きな問題です？相手に浮気相手がいるのか、すでに手がつけられないところまで行っているのか、まったくどうしようもありません！夫婦双方がどこが悪かったのかを反省しなければなりません。自分は行き過ぎていなかったか？相手の行動は到底許せないものだったのか？
このような問題に直面した時は、まず心を落ち着けて、腰を据えてしっかりと自己反省することが必要です。この時こそ、決して感情に任せて行動してはなりません。現代に生きる私たち人間は、まず自分自身を振り返り、結婚に対する考え方や行動が正しいかどうか、結婚を失うことにならないかどうかを検討すべきです。もしお互いに心を静めて腰を据え、しっかりと話し合うことができないならば。
お互いがそれぞれの長所と短所、良い点と欠点をよく見つめ直し、わがままを貫かないこと。次の男性の方がもっと良いだろう、次の女性の方がもっと良いだろうという考え方ですが、このような考え方や行動は、どんな良い結果をもたらすでしょうか？今この瞬間さえしっかりと掴むことができないのに、ましてや次はどうなるでしょう？結婚を遊びのように考えてはいけません！
もし子供がすでに生まれているなら、すべての養育と教育は自分の子供に対して責任を負うべきです。あなた方はこれらの問題をまったく考えず、ただこの結婚を早く終わらせて、また新しい人を好きになったり愛したり、次々と変えたいだけなのでしょうか。もしそうなら、まさに人間が言うところの、新鮮さを求めるだけの話です！
夫婦二人の習性はそれぞれ異なっている
もしこのような考え方があるならば、より広く放縦に走りがちで、人間の夫婦の情愛はなぜ常に不倫の渦中にあり、なかなか止められないのか。もし次の男、次の女の方が良いと考えるならば、その中で男が残忍で凶悪な殺戮の現象を起こさない限りは。
飲み食い、女遊び、賭け事に精通し、さらに怠け者で妻を履き古した草履のように軽んじる。女性については浮気性で、不貞を働き、家で怒鳴り散らし、夫を蔑み、金遣いが荒く、怠惰で働かない。このような男性や女性は、できる限り諭し、改心させることができれば、必ずや幸せな家庭を再び築くことができ、それが正しい道である。
そうでなければ、もし暴力が身に及んで事態が収拾つかなくなり、すべての子供たちの未来を考えたとき、果たして耐え忍び受け入れられるだろうか？そうでなければ、絶対に軽々しく離婚を口にしてはならない。さらに回復困難な結局を招き、次の男性や女性が必ずしも良くなるとは限らない。もし最初の結婚で経験がなかったのならばなおさらだ！
もしかすると「自分が見極められず、経験不足で騙された」のかもしれません。目が覆われているなら、そろそろ目を覚ます時です。自ら決意を固めなければなりません。子供の養育と教育は確かに重要な問題であり、両者でしっかり話し合い、はっきりさせなければなりません。その中にある全ての問題点は、いったいどこにあるのでしょうか？
夫婦二人の盲点
もし双方が受け入れず、さらに大げんかを始めるなら、それは正常な人間の婚姻生活ではなく、正常な離婚の理由があると言えるでしょう。もし離婚するなら、起こりうるすべての問題を詳細に考え抜き、自分自身が未練を残してまた一緒に戻り、また殴られるようなことがないようにすべきです。あなたはこれが幸せだと思いますか？
もし破鏡が再び円くつながり、互いにすべての問題を検討して解決できれば、このような状況は皆が賛同し、喜んで祝福することでしょう。また、双方の生活に対する考え方がこのようであるべきかどうか？もし離婚後も未練が断ち切れず、戻りたいけれども大きな変化ができないなら、心の中はためらいと不安に満ちてしまうでしょう。
双方が腰を据えて改めてよく話し合い、互いの不足や欠点、過ちをはっきりと認識させ、夫婦として新たに変化し、新たに調整し、改めて天地を拝むようにすべきです。これは上蒼の慈悲深い恩恵であり、一部の夫婦には一生のうちに複数の配偶者を持つ宿命があることに対する配慮なのです。
男性が「三妻四妾」を娶る、あるいは女性が「三夫四男」に嫁ぐといった運命を持つ者も、自らの運命を改めることができる。これは上天が認めるところであり、夫婦が「天地を再拝する」ことによって縁を結び直すことが根本である。双方が不幸な結婚への恐れを抱くことなく、旧交を温め直せば、必ずや幸福な婚姻を築くことができる。
夫婦の怨み合いはまたどうなることか
なぜ夫婦が敵同士のようになってしまうのか。双方の認識や価値観を改めて見直す必要がある。すでに新鮮さが失われているのではないか、また互いにずっと目障りに思っているのではないか、それが原因で夫婦は長い間、この家庭に戻りたくないと感じてしまう。夫の側には多くの理由があり、それゆえ家に帰らない口実も生まれてくるのである。
妻の側では、このような理由で家を逃げ出すことは比較的少なく、子育ての全ての責任が女性に多くかかっている。人類の婚姻関係には、夫婦双方が無償の奉仕に対して互いに感謝することが必要である。世間の諺に言うように、妻を娶るとは家に労働者・使用人を迎えるようなものだ。
いかなる給料も支払われず、より良い生活環境も与えられていない。このような女性は台湾の労働者や家政婦として、一生懸命働いてきたのに、最後には男性からあれこれ文句を言われる。これは夫が妻に対して取るべき態度ではない。もし男性が女性は簡単にいじめられると考えているなら、現代はすでに女性の権利が向上し、高まっている時代である。
昔はよく聞いたものだ：姑が嫁をいびるという話を。しかし今では嫁もやがて姑になる時代。現代の嫁たちの知識レベルはかなり向上している！博士、修士、学士などたくさんいて、どの女性も自分なりの考え方と行動のスタイルを持っている。今の時代の嫁は、昔のように姑にいびられるような嫁ではないのだ。
現代の嫁はもう頭を上げています。
現代は逆の時代です。嫁にいじめられないだけであれば、それは大きな福報であり、喜ぶべきことです。世の中の時空と因縁は昔とは異なっています。親も少し賢くならなければ、陰で嫁に白い目で見られることはありません。これは時空と因縁が異なるからです。
孝道の伝承における主な因縁の根本としては、真心をもって孝道の本来の姿を取り戻すことが必要であり、大きな方向性をもって教化すべきである。夫婦双方が自らの言動に対して抱く、それぞれの価値観は、すでに昔とは異なっており、なぜ双方がますます共に生活することが難しくなり、次第に互いを嫌うようになるのか。
これは夫婦が家庭生活の中で、あまりにも長く親密さや新鮮さを感じられず、何の留保もなく長時間接しているうちに、すべての新鮮さが失われてしまう状態です。あまりにも長く一緒に生活していると、一種の冷静な段階が生まれます。これは、いわゆる「冤家夫婦」が変化を起こし、少しだけ情趣を増やすために必要なことなのです。
実際、夫婦の仲がどうであれ、時には甘く、時には酸っぱく、時には蜜のように、時には親密に、時には口論し、時には争い、時には愛し、時には憎み、時には口も聞かず、つまり相手を無視することもある。でも心の底では、「なぜあなたは一歩引かないの！」「なぜあなたは間違いを認めないの！」「なぜもっと私を許してくれないの！」と思っているのです。
夫婦の怨みはどうすれば解消できるのか
どうして私に謝らないの！お互いに自分の考えを固執し、自尊心と見栄のせいで；私は絶対に間違っていない、私こそ正しい、私には正当な理由がある、私は犠牲を払っている方なのに、あなたは私を全く大切にしない、あなたは私を全く愛していない、あなたはもう全然ロマンチックじゃない。
そのまま無感動になり、もう何の愛情も湧かず、私や家族のことを気にかけたり世話をしたりすることさえなくなってしまいました。夫婦双方に生じた様々な問題による困難を、どうやって乗り越えればよいのでしょう！男性の皆さん、もう少し譲ることはできませんか？一歩引いてみれば、視界は開け、海は広く空は果てしなく、最も愛し、最も好きな妻と些細なことで争う必要はないのです。
必要に応じて婉曲に伝え、優しい言葉で諭すことが大切です。最も親しい伴侶である妻に対しては、真心を込めて甘い慰めの言葉をかけ、少しばかりの喜びを惜しまず与えてあげてください。そうすれば、相手から返ってくるものは、あなたが言う「ほんの少しの甘い言葉」以上のものとなるでしょう。少なくとも、温かく幸せな家庭が築けるはずです。
有情ある衆生に対しては、深く相手を愛するべきであり、夫婦の幸せの道は永遠に保たれる。あなたは賢明で、それを実践できるだろうか？女性は水でできているようなものだ。あなたがどう整えるかで、彼女はどう受け入れるかが決まる。あなたがどれだけ与えるかで、彼女はどれだけ返してくれる。喜んで行い、甘んじて受け入れることもきっと多いだろう。あなたはそれを望みますか？
怨み合う夫婦はどうやって円満にすべきか
さらに、あなたのこの一つの家庭のために牛や馬のように働き、青春の全てを犧牲にして捧げることはごく普通であり、しかも妻である女性が払っている犠牲はまだまだたくさんあります。情ある衆生である男性よ！仙仏の先生方の苦言を心を込めて理解しなければなりません。また、「女性は水の如し」ということをはっきりと認識する必要があります。
相手のすべての欠点と長所を受け入れることができ、果たして天下の夫としての男性たちは、妻を深く愛することができるだろうか？これはまさに、現代のすべての「冤家夫婦」と「夫婦冤家」に対して比較的深く分析を加えたものであり、あなた方は良き結婚生活を望み、幸せな家庭を築くことを願っているのである。
白髪になるまで共に歩み、琴瑟相和して仲睦まじく、慈しみ愛し合って家庭の幸せを継承することもできるが、あなた方はそれを成し遂げたいと思うか？必ずしもそうとは限らない！また、あなた方に忠告するが、天地を再び拝し、過去の良くない結婚生活を改めることで、あなた方にとって非常に大きな学びと成長がある。夫婦の付き合い方とは、ただ真心を持って相手を大切にすることにある。
真心から深く相手を愛し、誠実にこの一生、この世を全うすること、すなわち恩愛に満ちた幸せな家庭を築く原動力となる。夫婦としての愛情を育むには、まず自らが真心を捧げることで、初めて相手からの応えを得られる。ここに願う：想い合う人々が結ばれますように、結ばれた人々がいつまでも想い合う者であり続けますように。共に努めましょう！
夫婦の怨みは自ら招くもの　夫婦の争いは互いに欺くもの
もし双方の道理を改めることができれば
静かに心を落ち着けて互いに反省を始めましょう
暴力を身体に加えてはならず、ましてや過ちを改める時期を誤ってはならない。
夫婦が真心を込めて愛し合えば　幸せな愛情は白髪まで続く
この偈をもって、有情の衆生と共に励まし合いたい。たとえ：
夫婦家庭は平穏が常なり
仲悪き夫婦は必ず改まるべし
前世の業を消し去ることができれば
夫婦の情愛は円満に現れる
これこそが、人間の夫婦が共に白髪になるまで添い遂げ、他人の目を羨むことなく、自ら円満で和やかで幸せな家庭を築き、家族に温かさと後顧の憂いのない安心を与えられる道であり、これはまさに天と仙仏が願ってやまないことです。また、中台地域の高い離婚率をこれ以上増やし続けるべきではありません。これは良い現象とは言えません！
双方が感情的になっているときに離婚のサインをしてしまうと、結局後悔するのは自分自身であり、後の子孫にも苦しみをもたらすことになります。まずは双方が忍耐と誠意を持ってコミュニケーションを取り、問題点に対して融和と解決を図ることが必要です。現在、崇心宗脈では最近開設された「夫妻縁円満和楽灯」によって、夫婦双方の怨みと負債を解消しようとしています。
これは初めて、人間界において灯を点け示現することで、夫婦間に累世にわたる冤罪を消し去り、新たに幸福円満な家庭を築くことができる。あなた方はそれを望みますか？自分自身の努力によって得られるものであり、常に自ら努力を惜しまなければ好転するのです。夫婦の「情義と情誼、そして情感」を大切にしなければなりません。
西方伝経の菩薩
西方世界より降臨し来たりて　経を伝うるには必ず智慧の開くを要す
菩薩は今日当番を務められ、
大道の因果は思いのままに整えられる。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日、南無普賢菩薩本尊が降臨され、「大道因果」第十八回を著作されました。夫婦家庭において互いに冤家となる関係を如何に相互に成就させ、幸せな家庭生活を築くべきかについて、より一層の向上と理解が得られることを願っております。
今日、仙仏の聖なるお言葉が、皆様を導き救うことができるかどうかは分かりません。各人が悟る内容は異なるものであり、どの家庭にもそれぞれ難しい経典があるものです。また、各人は「大道因果」という天の書物を通して学び成長することで、すべてを理解できるようになるでしょう。皆様、お疲れ様でした。どうかすべてが吉祥でありますように。さようなら！
2015年、3月8日、20時03分◎＃※   了承。
南無虚空蔵菩薩
◆ 旨 ◆
完  書  繳  旨
◆ 本文 ◆
第十八回  　夫妻冤家
南無、衆生下りて凡塵に在り
虚空に蔵するは因果真なり
菩薩降著第十九回
婚外の情、業を造りて苦の因となる
第十九回　   婚外情孽
有情なる衆生の婚外情の業
現代社会はすでに男女平等の時代となっており、欧米諸国の影響が中国本土や台湾にも及び、女性にも外で働く機会が与えられています。妻が労働力と精神、時間を費やすことで得られるこの収入は、家計を支えるもう一つの収入源となっています。
しかし、男は外で働き女は家庭を守るという時代はすでに過去のものとなった。もし妻のもう一つの給料が家計を補助しなければ、現代では夫の給料だけでは家庭のすべての支出を賄うのは難しく、人道的な世界において夫である男性も、かつての威厳はなくなり、改めて平等な権利を確立しなければならない。
これらの家庭の主婦である妻たちは、夫と対等の立場に立てるだけでなく、家庭の子供たちの精神的支柱でもあり、子供たちが模倣し学ぶ対象でもあります。また、現代の世界はすでに男女平等の時代に入り、さらには女性が男性を上回る状況さえ生まれています。これはもともと欧米諸国の産物でしたが、中国に取り入れられると変化を遂げました。
職業女性にとって、家庭の支出において夫の不足を補い、二重の収入で家計全体の支出をバランス良く賄い、大きな支えとなる力強い柱を提供できます。これは共働き世帯がより豊かな家庭生活を送る上で重要な要素です。また、職場に立つ女性は、男性と対等に渡り合い、多角的な交渉を進めていくことが求められます。
不倫の罪が形づくられる
職場やその他の場面では、男女が接触する機会や時間も比較的多くなります。このように男女が近づく機会が増え、長時間接するようになると、「近水楼台先に月を得る」という状況の影響もあり、もし一方が相手に好意を抱き、さらに家庭内に少しでも不満がある場合には。
このような双方の接触の中で、互いに心中の満ちた不満を訴え合うと、お互いを憐れみ愛する気持ちが生まれやすくなります。もし、さらに片方が意図的か無意識か、半ば拒み半ば受け入れるような態度を取り、あるいは同僚の間で他の地域へ一緒に出かける機会があれば、花の下で月明かりの下、非常に優雅な雰囲気の中で、かなり大きな浮気の可能性が生じることになります。
現代の衆生にとって言えば、以前は結婚して七年経たなければ「七年の痒み」が来なかったが、今の時代の因縁の中では、もう毎日が痒みの連続で、七年も待つ必要など全くなく、すぐに浮気や不倫に走ってしまう。職場では互いに近い関係になることが多く、加えて現代社会がオープンになっているため、不倫の機会は絶えず増え続けている。
また多くの場合、職場だけで形成される浮気に限らない。人と人は感情の動物であり、本来は欧米諸国だけで発生していた状況が、中国本土や台湾に移入された後、さらに様変わりし、むしろ「婚外情の業」をより狂ったように作り出している。これはまさに現代人が言うところの、浮気や不倫である。
不倫の罪は家族に申し訳ない
このような浮気や不倫は、自分にとってとても新鮮で、刺激的なことです。こんな楽しいことが自分に起こるなんて、試してみたいと思うかもしれません。しかし、この一連の経緯について、皆さんにお尋ねします。自分が先に楽しみ、後で苦しみや罪悪感を背負うことになる。それを恥ずかしいとは思わないのでしょうか？
また、自分の夫や妻に対してどのように向き合うべきか、これは「婚外の情事」において最も避けるべきことです。現代の人々は、こっそりと隠れて行うことが刺激的で新鮮だと思うかもしれません。あなたがそう思っているなら、もし事が露見して人に知られたら、自分の家族に向き合って心穏やかに毎日を過ごせるでしょうか？決してそうはならないでしょう！
もし発見されなければ、有情の衆生は他人が知らないと思い込むでしょうが、それは間違いです。天が高くて耳目がないと思ってはいけません。一人一人の行動や振る舞い、一言一句のすべてを、上蒼は詳細に記録しています。それは一人一人の身に備わるICマイクロチップの中に、生々世々にわたって決して消えることなく刻まれているのです。
あなたの行いは冥府の地心にある業鏡の中と、あなたと相手のICマイクロチップの中に記録されている。つまり人間の第八意識に刻み込まれた「紅杏出牆（不倫）」という大きな汚点は、現代のビデオカメラのように一挙一動をすべて記録しており、偽造や誹謗は決して不可能で、ごまかそうとしてもごまかせないのだ。
不倫の罪深き経緯
物事の始まりには他のことを言う必要はない。この世において、あなたはすでに人の妻あるいは夫となっている。現代の法律と制度は一夫一妻制である。もしあなたが他の身近な人に対して、手段を選ばずに親しみを誘うことができるなら、あるいは自分はすごいと思っているかもしれない。もしそうなら、あなたはあまりにも甘い考えを持っている。
次にはお前の家族が、お前の行いに対して清算と報いを受けることになる。さらに次の世では、お前は女に生まれ変わり、人に弄ばれて恥を知らず、いわば「人は皆夫となり、人は皆妻となる」ようなありさまとなるだろう。もし自分が遊びすぎれば、現代に流行する病であるエイズがお前の一生を付きまとうことになろう。
さらに、薬物依存症が発作を起こし、膿んで瘡ができると、他人はもう近づこうとしなくなる。これは単に現在の報いだけにとどまらず、家族にまで迷惑をかけ、さらに自分自身の来世に悪業の報いをもたらす。このような人為的要因によって造り出された罪業は、必ずありのままに理解しなければならない。現在、このような報いの事例は実に数多く、皆様が警戒することを切に願う。
有情なる衆生には、一部の女性や男性が「羞恥」という二字の書き方を本当に知らないのか？教育と教化から手をつけねばならない。他人の妻や夫を弄べば何事もなく、報いもないと考えるのか？これはまさに無明の認識であり、未来には必ず良からぬ結末が汝を待っている。
婚外恋の快楽
思うなかれ、汝が今、容姿端麗で風采堂々とし、三寸の舌を振るい、気前よく優しく思いやりがあり、これらの善良な人妻に手を出せば、汝は今、意気軒昂で、そう遠くないうちに、天は必ずや汝の今生のすべての福報を先に消し尽くすであろうと。
さらに汝のすべての財産と家業を破滅させ、汝の家庭を崩壊させ、すべての物質的な享受が消失してしまう。つまり、今世においてただ一匹の花を集める蜂と、一本の腐った桃の花、俗に言う「謷花叢（謷は敖と読む）」のために、自分自身の累世にわたる福報をすべて失うことになる。これで、汝は価値があると言えるだろうか？
おそらく来世、あなたは再び人間として生まれることはできず、家禽として生まれ変わるでしょう。雄鶏として生まれ、大勢の雌鶏を連れていると、必ずやあなたの望む通り、一生涯多くの雌鶏が朝な夕なに寄り添い戯れることになるでしょう！その時、またどのように感じるでしょうか？本当に楽しく一生を過ごせるのでしょうか、あなたの現在の行いはまさにこのようなものなのですか？
もし坤道の女性が自らの容貌で男を誘惑し、自分には大した才能があると思い込み、若さと美貌を頼りに他人の財産を騙し取り、他人の幸せな家庭を破壊するならば、このような問題はあなたの今生、この世において真の「心の平安と安らぎ」を得ることを非常に困難にし、若い頃に身体や容貌を頼りに他人を欺くことになります。
婚外情による業の問題
その時には全身に瘡毒が満ち、悪臭を放つようになり、すべての男はすでに汝のもとを去ってしまう。来世には豚の母や乳牛として生まれ出で、体には常に大きな乳首の列を背負い、子豚や牛の子（現世では機械で乳を搾られる）に吸われて大いに楽しむ。汝は生々世々、豚の母や乳牛として生まれ出で、永遠に大いなる喜びを得るであろう。
今生、あなたが人を裏切り、欺き、騙し、害しても、すぐに報いがないと思ってはいけません。「因果応報」が十六倍に加速されていることを理解すべきです。かつては因果の報いを見るのが難しかったものが、現代人にはすべて加速され、ありのままに見聞きできるようになりました。これは、情愛に縛られる人間には、まったく理解できないことなのです。
この種の問題は、自分が望もうと望むまいと、半ば拒み半ば応じる形で生じるものです。そこには一種の新鮮さと刺激があり、その瞬間はとても快活です。しかし、事が終わった後はどうでしょうか。往々にして、一時の快楽が一生の苦しみとなるのです。自分の夫や妻に対しては、このような感覚はすでに麻痺しており、もはや感じることはありません。
なぜ外部や職場では、このような状況がよく起こるのでしょうか。それは長く接しているうちに自然と情が生じ、あなたが相手を思いやり、相手があなたを思いやるうちに、次第に愛情のような感情が芽生えてしまうことです。実際、これは兄弟姉妹のような情愛に留まるべきものです。もし男性が深く関わりすぎた場合、引き返せる者もいれば、深みにはまって抜け出せなくなる者もおり、それによって家庭が崩壊してしまうことがあります。
不倫の情事は長くは続かない
もし女性がこのような状況に陥った場合、その大半は引き返すことが難しくなります。なぜそうなるのでしょうか？これは夫婦生活の中では比較的単調で退屈であり、新鮮さや刺激が欠けているからです。もし出会った相手がただの花摘みの蜂のような存在であれば、それはまだ手に入れていないうちはしつこくつきまとい、一度手に入れた後は腐ったもののように扱う（謷＝音は「ごう」）ようなものです。
簡単に見捨てられ、使い終われば新鮮味がなくなり、戻ろうと思えば比較的容易だが、ただひたすらに耽溺し続ける者がいることを恐れる。この一生で円満な家庭を築こうとするのは、天に登るよりも難しいほどで、まさに自らが家庭の幸福を破壊した結果である。現代社会における婚外情の罪深さを、必ず心に刻んでおかねばならない。
夫や妻、家族に暗い影を落とすようなことをしてはなりません。このような恥ずかしい思いは、身内にも顔向けできず、さらに近所の批判や陰口の的となり、自分自身もあなた方―舅姑、両親、夫、妻、子供、親族、社会―に顔向けできなくなります。
常に一時の遊びや楽しみのために、取り返しのつかない恥ずかしい行いをしてしまうが、それは価値があると思うか？このような問題をどのように防ぎ、二度と繰り返さないという強い意志と忍耐力を保つかは、自分自身が自制できるか、あるいは信仰によって方向を転換できるかどうかにかかっている。これは自分自身の人生に対する責任なのである。
不倫の罪は終わらせなければならない
世界中のあらゆる宗教は、この種の婚外情事に対して同情を示すことはなく、むしろ償い難い罪と見なしています。これは現代において、どのような名門宗教を信仰していても同様であり、特に「儒教・道教・仏教・キリスト教・イスラム教」においてはなおさらです。儒教の聖なる教えの体系もまた同じく、これを戒律として掲げています。
まず最初から断固として制止しなければなりません。相手にも自分にも、夫にも妻にも、機会を与えてはなりません。もしこの制止方法が効果を発揮しない場合は、まず双方に大義を理解させれば、「白骨観による思惟構築」という方法を用いることができるでしょう。
その女性はとても美しく、優しく思いやりがあり、人の気持ちをよく理解する。男性はとてもハンサムで、洒落ていて面白く、気前も良い。このような相手に心惹かれ、夢中になってしまう。もしこの時に仏教の「白骨観」で考えれば、大きな悩みはかなり減るだろう。最も恐ろしいのは、自分も心が動いてしまい、胸がドキドキして、欲しいけれども手に入れられないと感じることだ。
不倫の罪は自分次第
また、相手が媚を売ったり猛烈に迫ってきた場合、きっぱりと喝を入れて厳しく断ることができるか。決して侮辱したり侵害したりするような行動を取ってはならない。もしどうしても止められない場合は、自分の夫や妻と相談するか、あるいはその環境から離れることで終わらせることもできる。それによって他の問題が派生するのを避けるべきである。
人は感情の生き物であり、人と人が親しくなるときには、必ず節度を厳しく守り、人に見えないところでも欺くことなく、一時の虚栄心に駆られて過ちを犯し、自分の家族に恥をかかせてはなりません。あなたはどうしてそんなことを忍んでできましょうか。人としての根本とは、必ず確実に心に刻みつけて忘れないことこそが、正しい道なのです。
もし自分も少しでも心が動き、このようなことをしてしまい、不倫の罪深い刺激も味わった後、次の瞬間には！苦痛と後悔が自分について回り、どうしようもない！つまり他人の批判に遭い、指をさされて恥ずかしく傷つくことになる、これでは何の意味があるだろうか？慎重に戒めよ！
人の世の夫婦の縁は、前世に定められており、偏りを生じてはならない。
夫婦仲睦まじく白髪まで添い遂げ　円満な家庭に幸せと繁栄が続く
他人の妻や夫を害せば報いを受ける　全身に罪業が積もって耐えられない
束の間の快楽が一生を台無しにし　未来の報いは苦しみの業となる
この偈を！共に有情の衆生と互いに励まし合いましょう！世の中の不足や欠点、過ちを昇華し超越するための戒めとしなければ、あなたは昇華し超越することができるでしょうか？少しでも触れてしまえば改めることはできず、消し去ろうとしても可能でしょうか？否です。よくよく考えてみてください！皆様、お疲れさまでした。崇心宗脈にしばらくお邪魔いたしました。またお会いしましょう！
西方道研菩薩
西方極楽の大世界　　道を研ぎ登台し賢者を会う
菩薩は今日輪番に当たり
大道の因果の末席に並ぶ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は仏教の南無虚空蔵菩薩が降臨され、「大道因果」第十九回「婚外情の業、良からざる所行」を著作されました。これにより、悪しき業の報いは必ずや自らの将来のすべての良き福報を消し去り、家族に恥をかかせることを、皆様にご理解いただきたいと存じます。
これは大変良からぬことであり、得るものより失うものが大きい悪縁と情愛の負債です。皆、これを戒めとすべきであり、今生における貴重な修行の機会を無駄にせず、正道を歩むことが肝要です。また、虚空蔵菩薩は本宗脈と非常に深いご縁がありますが、著作を通じて降臨されることは比較的少ないのです。さて、本日はここまでとさせていただきます。皆様、お疲れさまでした。では、またお会いしましょう。
2015年、3月8日、20時04分 ◎＃※  了承。
南無阿難陀菩薩
南無、かくのごとく我聞きき、阿難陀来たりて慧智を展ぶ。
大道因果二十回　情の業を修め整え業を消し逝く
第二十回   　情孽修整
婚外恋の罪業をどのように修めるべきか
有情なる衆生が人間界に入ってからというもの、情愛と愛情への欲求を支えとして生きてきました。人類は「情愛、情欲、情縁、情感」によって互いに結びつき、欲求があるからこそ創造と前進があるのです。もし世の中のすべての欲求を捨て去るならば、それは覚有情の上乗なる菩薩道においてのみ可能な境地であります。
有情なる者は、本来情愛と恩讐の要素を備えており、これは人と人とが互いに支え合い感情を維持するものであり、感情の感性と理性を区別し、いかなる衆生も区別せずすべて同じである。これは紛れもなく人間の感情に対する真実であり、夫婦の情愛、親子の情愛、父母への情愛、親族の情愛、兄弟姉妹の情愛、そして親友の情愛を区別することはない。
様々な縁によって人間界に生を受けた後、人は常に感情に束縛され、人間世界における感情の要素が互いに絡み合いながら生活を営みます。人間は感情の生き物であり、感情の働きによって生きていると言えるでしょう。現代はまさに、婚外情の業（ごう）―浮気が横行する時代と言えます。欧米から中国に伝わった後、その傾向はますます深刻化しています。
他者の良い縁や風習は学ばず、かえって多くの良くない風習の気風ばかりを学んでしまう。これは有情の人類衆生の誤りであり、欠落であり、不足である。ただ情縁によって連なり続けるからこそ、夫婦の婚姻によって結ばれることができ、また夫婦が結ばれてこそ、一つの家庭生活が営まれるのである。
情の業を解消する方法
これは、天がずっと待ち望んできた主要な因縁の体が、一夫一妻制という規範のもとで、人類衆生の行為動作を実行するにあたり、夫婦双方に対して責任を負うべきものであると言える。言うならば、古代の人類は比較的善良で誠実、徳を備えていたが、現代の人類の男女は、比較的規範や倫理を守らない。
自分には魅力があり、またハンサムで美しい容貌を持っていると思い込み、他の人々の視線を惹きつけることができる。これはまさに古人が言うところの「悪目で見つめ合い、交わる」ことである。現代の言葉で言えば、目で電流を送るようなもので、まだ結婚していない者は、必ず両想いでなければ相手の心を動かし、連理の枝を結ぶことはできない。
これは一つの家庭の創造の始まりである。かつて欧米の開放が中国大陸にも流行し、多くの欧米諸国の良い習慣、良い縁、良い成果があったが、人々の長所を学ぶどころか、最も悪質な浮気―婚外情の罪悪を中国大陸と台湾に持ち込み、人々の心を汚染してしまった。
すでに離婚率が世間で一二を争うほど高くなり、より大きな悪影響を引き起こしています。これは取り除くべき最大の障害であり、さもなければちょっとしたことで軽々しく離婚を口にするようになり、本当に良くありません！人間は自分には外縁、特に異性縁があると思いがちですが、まだ結婚していない男女にとっては、このような縁の要素が必要なのです。
情の業を化除し修整する
相手を引き寄せて結びつくためには、まずは魅力を放つ必要があります。一度結ばれた後は、一夫一妻制の責任感を持ってお互いに誠実であることが、ごく当然のことです。しかし、なぜか自分の虚栄心が働き、「近水楼台先得月」の関係や、お互いの感情の交流と気遣いによって、その原則が揺らいでしまうことがあります。
さらに良好な雰囲気の中で、双方の不倫を招いてしまいました。このような一時的な不倫は、あってはならない情欲の過ちを犯したものであり、長く続けば双方の家庭の円満に影響を及ぼします。本当にすべきではなかった、千に一つもあってはならぬ、万に一つもあってはならぬことです。また、このような良からぬ行為は、自身の家庭に波風を立てることにもなります。
特に双方の家族が恥をかくことについては、どうやって近所の好奇の目に顔を向ければよいのか分からない。このような行為は人々に指差され、陰で批判や噂の的となる。あなたは一時の快楽のために、自分の両親、夫あるいは妻、そして子供たちを含む家族に恥をかかせる。このような行為が価値あるものだと思うのか？
ある人は深く恥じ入り、ある人は新鮮さと刺激を求めるのは構わないと考え、ある人は全く気にしない。とにかく、あれこれ言うのはあなたの勝手、私のことにまで口を出すな、というわけだ。そして、このような人の行動は、もはや地域社会から認められにくくなっている。
婚外情の罪業と未来の因果
そもそも恥を知らず、それどころか我が道を行き、少しも悔い改めることがない。人間の世で既に「恥」とは何かを知らないのである。来世には必ず雄鶏や雌鶏、あるいは乳牛や雄豚、雌豚に転生し、毎日お前には大勢の遊び仲間がいて、共に暮らし、一生を快く過ごすことになるだろう。
また、すでに相当大きな情の罪を犯してしまったが、それを変える方法はあるだろうか？必ずや真心から懺悔し、二度とこのような情の罪や他の悪しき因縁を繰り返さないことが必要で、そうして初めてあなたが犯した情の罪を変える可能性がある。また、ある男女は自分が非常にハンサムでスマートだと思い込んでいたり、妖艶で美しいと思い込んでいる。
相手を次々と手玉に取り、弄ぶことこそが人生の醍醐味であり、これを味わわねば人間界に生まれた甲斐がないと考えるならば、あなたは誠に祝福すべき存在です。来世には、あなたの望み通り、愛しい遊び相手が幾人も傍らに現れ、戯れ弄ばれることでしょう。そうして四つ足の獣として生まれ変わるのです。
多くの雄鶏と雌鶏、乳牛、雄豚と雌豚があなたのそばに寄り添い、これらの美男美女は絶え間なくあなたに付き添い、一人を使い終わればまた次の者に取り替え、多くの遊び相手を与えて戯れ遊ばせます。ちょうどあなたが人間であった時と同じように、このような人は自分こそが天下無双の美男美女だと自惚れているのです。
各人が造る業は後代にまで累が及ぶ
この一生、人間として生まれる機会を得たのに、まっとうに人として生きようともせず、どうして向上し超越することができようか。禽獣にも劣る恥ずべき悪事ばかりを重ね、たちまちこの世の福徳を使い果たしてしまう。このような調子を外した情聖や恋人たちは、来世にはもはや情聖でも恋人でもなくなるのである。
むしろ残された者は、また禽獣の仲間入りをし、あなたもその一員となり、あなたが他人を弄び、他人もあなたを弄ぶ、そんな痛快な一生一世を喜んで過ごすのか？問題は情の業がもたらす来世の輪廻だけではない。これらの人々は、自分の行いが極めて正しいと思い込み、家族に対しては、誰かがあなたの借りを返してくれることになる。
古来より言われていることである：青楼の妓女は皆、前世で他人を弄んだ者が生まれ変わったものである。汝が今生今世で他人を弄べば、他人もまたその道をもって汝に返すのである。これは「その人の道をもって、その人の身に還す」ということであり、人道世界の有情衆生に対して、汝は自分の家族に代わって借金を返済してほしいと思うか？もちろん、そのようなことは望まないであろう！
嫌ならそれで済むと思うのか？自らが輪廻転生して来世では青楼の娼妓となり、また家族はお前がこの世で犯した悪業の報いを受け、妻や子、子孫にまで償わせられることになる。しかし、一人が犯した悪業はその者一人が背負うだけでなく、家族にまで累が及ぶのだ。
情念の修整と変革
ましてや、妻子や子孫にまで因果の連鎖を引きずり、逃れようとしても逃れられず、当然誰かがあなたに代わって返済することになります。あなたが犯した罪業は、他人の目にはどう映るでしょうか？これこそが現代における現世報であり、このような現世報には必ず原因があり、いかなる時空や因縁も飛び越えることはありません。
これはまさに現世報で、今や交際クラブの女性、コールガール、ホステス、遊び相手の女性などがあまりにも多いのです！そのほとんどがこのような因縁から生じています。現代の一般的な「貧しさを笑い、売春を笑わない」という価値観からすると、こうした人々は自分が楽しめて、なおかつ簡単に金が稼げるのだから、なぜやらないのかと思うかもしれませんが、このような金は早く入ってくるが、早く消えていくものだということを知らないのです。
また、このような金を儲ける者が良い結果を得られるだろうか。眼前の華やかさだけを見てはいけない。背後にある様々な苦しみや問題を理解できるだろうか。どうか一時の快楽のために、一生、いや多くの生涯にわたる苦しみを招かないでほしい。このような悪因縁の報いは確かに現れ、決して消え去ることはない。因果応報は早いか遅いかの違いだけなのだ。
善悪の報いは、影が形に従うように、一人ひとりに付きまとう。これはまさに、世の人々に戒めの心を与え、過ちを重ね続けることなく、自ら変わることを願うものである。人間は前世の因縁によって今生に生まれ、過ちを犯し業を作ることは避けがたい。しかし、「因果応報は無情であり、誰も代わりに受けることはできない」ということを知る必要がある。
因果応報はどのようにして知ることができるか
これらはすべて災いが妻や子孫に及び、さらにはあなたが来世で清算し報いを受けることになるのです。古訓に「他人の妻や女を犯せば、自分の妻や女も人に犯される」とありますが、これはまさに極めて公正平等な扱いであり、早くから現代に伝わり実証されています。天が高くて耳目がないと思ってはなりません。人間のあらゆる行為や動作は、自らの第八識の中に深く刻み込まれているのです。
それがあなた方の言う「IC微結晶」である。これは偽造不可能で消滅することもなく、各人の「色調、点数、暗号、エネルギー」を入力するだけで、一生涯のすべての行い、行動、発言、語ったことが、ことごとく詳細かつ実態通りに各人の第八識の中に記録されていることが分かるのである。
有情なる衆生が因果応報さえも理解していない場合、自分が知らなければ問題ないと思ってはならない。一つの出来事は始まりから終わりまで、すべてICマイクロチップに刻印され、多角的に記録され詳細に記載される。たとえ強弁してそのようなことをしなかったと言っても、記憶媒体は十方立体の空間を通じてそれを記録している。
すべてはありのままに現れ、あなたのすべての心の動きや思いがどのようなものであったかを記憶します！すべての行動や発した言葉は、あなたの前に明らかにされ、証拠が揃っているためごまかしようもなく、まさに真実そのものです。もし冥府の地獄にある「地心の鏡」によって映し出されるならば、対聯に「孽鏡台の前には善人なし」とある通りです。
因果応報は互いに成就し合う
深く心に刻む必要があります。人類の衆生が一時の快楽を得る代わりに、千百世にわたる悪しき汚点を残し、生々世々にわたって因果応報を受けなければならない。これが価値あることだと思いますか？人道世界とは「生命改造の世界」であり、人類の衆生は自ら選択することができるのです。上昇して超越するか、それとも沈淪して輪廻するか。
この人道世界は、生活の感情と生命の継続する過程を離れるものではありません。すべての生命の感情において、多くの人があなたと結びつくことになります。家庭生活であれ、職場での就業であれ、宗教的な修行であれ、人間関係やあらゆる因縁による造作であれ、あなたと同じ布団を共にできる人は、ただ一人だけなのです。
そして、あなた方世間の人が言うような、布団をかけてただおしゃべりするだけというようなことは、絶対にありえない問題であり、ましてや現代においてはなおさらです。天の定めによれば、人が悪事を働き、過ちを犯し、罪を造れば、必ず自ら修めて改め進まなければなりません。過去のすべての無知については、まだ情状酌量の余地がありますが、もし知っていてわざと犯すのであれば、罪は一等重くなるのです。
人が過ちを犯し、悪事を働き、罪業を積むことは皆同じです。真摯に懺悔し、心から悔い改め、次に罪悪や罪業、過ちなどを再び犯さないことが、自らを修め変革する最大の原動力となります。一部の人は、次の男性や女性の方が良いだろうと考えていますが、今この瞬間に変革の契機を掴めないのであれば、どうしてそれが可能でしょうか！
貧しき夫婦は何事も悲しみに満ちる
次に会う男性や女性はもっと良い人だろうと期待するかもしれません。もちろん、中には次の相手の方が良いというケースもあるでしょうが、それはあくまで少数派です。あなたはその幸運な一人ではないのです！多くの場合、次の男性や女性は前よりも悪い状況になります。台湾のことわざに「選びに選んで、竜眼売りを選ぶ」というのがあります。
さらに言えば、今この瞬間さえも大切にできず、あれこれと不満ばかり言っているなら、次に来るものはさらに悪くなるだけです。これは自分の福徳がこの程度しかなく、大きな福徳が備わっていないからです。より良い伴侶を得ることなどできるでしょうか？ 次の男性や女性がより良くなるでしょうか？ そうはなりません！ ましてや、そんなことを望むべきでもありません。
人道の生活は前世の因果によって決まり、今生においてどのようなレベルの夫に嫁ぐか、あるいはどのようなレベルの妻を娶るかは、前世の縁によって定められた因果の条件によるものです。自分の生活が他人に及ばないと嘆く必要はなく、自分にどれだけの福徳と福報があるかを理解しなければなりません。それによって初めて決定され、満たされるのです。
一般の人々はよくあれこれと嘆き、東を怨み西を恨み、夫を怨み妻を恨んでいます。福徳もなく家計を管理することもできず、家庭を顧みることもできません。稼ぐお金は哀れなほどわずかで、このような貧しく卑しい夫婦は何事も悲しみに満ちています。しかし、ある種の人々はとても心から満足し、夫婦共に真面目に、努力し、懸命に働き、さらに少しばかりの知識と知恵を加えています。
貧しき時の妻は堂より下さず
無一物から身を起こし、家門を輝かせ祖先の名を高めることもできる。これは諦めない心が悪しき生活環境を変え、良き夫と良き妻が努力し、さらに目上の者や親族との間も円満に和やかに努めることができるからだ。またこのような雰囲気と気勢こそが、「糟糠の妻は堂より下さず」の精神で家庭のために懸命に奮闘する姿勢なのである。
夫婦が結ばれた後、双方が心を一つにし、力を合わせ、舟を共にするように、この家庭に対して全身全霊で尽くすことで、良い結果が得られます。もし家庭が繁栄し、向上発展することを望むならば、夫婦や家族は非常に心を砕き、努力し、懸命に働く必要があります。そうしてこそ、今後十～三十年の努力によって、良い結果がもたらされるのです。
しかし、もし築き上げたものを破壊しようとするなら、一瞬にして数十年の苦労を無に帰し、影も形もなく消し去ることができる。人類の良き縁や善き因縁を成就するには大変な労苦を要するが、破壊するにはさほど時間を要せず、たちまち消え失せてしまう。心に銘記せよ、幸福な家庭を築くことはまことに難しく、どうか大切に慈しみ育てられよ。
夫婦の縁は天が定めるもの
一夫一妻に情が宿る
真心を込めて守り抜く
一家の良き縁となる
浮気の情けは不貞の始まり　時空の縁が巡り合わせる
題を借りて発揮するは根本的に誤り
下世に償還す業果の追及
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、夫婦の縁と不倫の業を修め整え、また著作全体を通じて、人界をあるがままに互いに補い合い、改め化解する機会を得ることを述べています。崇心宗脈の十二年堂慶は明後日にあたり、奇しくも台風が訪れ、浄化と成就をもたらすこととなりました。
台湾全体の良くない気運に対し、非常に大きな助けとなります。皆さんはまたこの盛会に参加できたのも、理由がないわけではありません。皆で力を合わせてこの法会を浄化し、台湾の未来の穢れと不浄を、清らかで明るい天地へと転化させることができます。今日は崇心宗脈が円満に終わるまで残り、それからお戻りください。皆さん、お疲れさまでした。またお会いしましょう。
西方道展菩薩
殊勝なる因縁が素晴らしい出会いを生む
台風の日に無為の境地を現す
台湾の天地を浄化し
大道を弘めて衆霊を帰せしむ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は西天大乗院の院尊、南無阿難陀菩薩がご降臨され、崇心宗脈において「大道因果」第廿回を著作されました。「情孽修整」の改造についてご開示くださり、これにより自らのさらなる成全と向上がもたらされ、人類衆生が良縁ある夫婦の縁を大切にするよう導かれます。本日はここまでとし、皆様お疲れ様でした。またお会いしましょう。
2015年、0308、2007◎＃※  ０Ｋ；
南無弥勒菩薩
南無衆生本如来　弥勒世界未来開
菩薩降著廿一回
善徳夫妻福禄載
第廿一回　   善德夫妻
人類の衆生、夫婦によって分かたれる。
すべての夫婦の生活様式は、「善徳夫婦、鴛鴦夫婦、恩愛夫婦、平順夫婦、怨債夫婦、冤孽夫婦」に分類され、また夫婦の区別によって様々なパターンがあります。この中で善徳夫婦が示す模範は、結婚後の生活の方向性と日常において、摩擦がほとんどないことです。
また、ほとんど喧嘩や争い、騒ぎもなく、気に入らないこともなく、双方のわだかまりも生じません。一方で、生活に不安や不満を感じ、双方が価値観の異なる角度を認め合い、冷戦状態に陥ることもあります。このような夫婦は、人道世界において離婚しないとしても、世の中では稀有な存在と言えるでしょう。
昔の結婚は仲人の言葉によって決められ、相手のことも全く知らないのに、どうして結婚後は長く婚姻の調和を保ち、生活において互いに譲り合い、境遇に安んじて、すべての争いを忘れ、何の不満も持たず、喜んで一切を犠牲にし、家族全体の繁栄のために努力することができたのでしょうか。
善なる徳を備えた夫婦は、前世と累世において互いに善徳の因縁を結び、今この時空において婚姻の縁が結ばれました。これには既に先天の善徳が備わっており、男女が乾坤のごとく結ばれるこの婚姻には、前世においても相当に良好な福縁と福報があり、また累世にわたる善徳の種子の因も、比較的強く発芽し成長しているのです。
善き夫婦の基本的条件
このような前世と累世から善なる徳の因縁が備わり、種子因も比較的強烈に存在しているため、不良な夫や妻を見つけることは比較的困難となります。なぜこのようになるのでしょうか？まさに前世及び累世におけるすべての布施と種まきが、他の人々よりもより如実に円満に成就し、人道世界における善なる徳を備えた夫婦としてのすべての行いがそうさせているのです。
ただ今世だけで結果が生じるのではなく、はるか前世と累世において、このような善徳の因縁は他人よりも一層強く、このように善徳ある夫婦のすべての福報の享受も、他人よりもずっと多く得られるのです。あなた方は羨ましく思いませんか！もし一組の乾坤、男女がまだ婚姻を結ぶ前に、それぞれ三度の選択の機会があるとすれば。
つまり、「良好、普通、やや劣る」という結婚の状況を区別し、なぜそうなるのかということです。一般的に、まだ結婚していない若い男女はまさにこのような条件にあります。良好なもの、普通のもの、やや劣るもの、あらゆる結婚の縁を成就させるにあたり、本人の婚姻縁の福徳も非常に強く、双方の良好な因縁も比較的現れやすいのです。
もし自身の婚姻縁が普通のものであれば、相手との婚姻もまた普通のものとなります。これは強い種子の因が現れた結果です。もし双方が絡み合う婚姻縁が比較的良くないものであれば、それは下等な婚縁であると理解できます。成就する夫婦の婚姻縁も比較的良くないものとなり、これは選択可能なことです。
夫婦は縁によって選ばれる
また、前世における善徳の種子の因縁が相当に強烈であるため、出会いや選択する婚姻縁の対象は、いずれも相当に良好な配偶者となる。もし一般的な婚姻縁であれば、比較的普通の夫婦としての配偶者となるが、前世における夫婦の婚姻縁の組み合わせが不良であった場合、どれほど優れた相手に出会っても、やはり理想的とはならない。
なぜこのようになるのか！夫婦として結ばれる因縁は、自分自身の前世や累世において善縁を結んだかどうかによるものなのか？善縁が多くあるときには、あなたと夫婦として結ばれる縁も比較的多くなり、一般的に夫婦として連理の枝のように結ばれることもそうである。もし夫婦としての良縁が良くない場合、出会う三度の選択もすべて同じようになる。
あなたにとって最高のものが、他人にとっては最悪のものであり、あなたにとって最悪のものが、未来においてはまるで台湾のことわざ「冤家でなければ夫婦になれない」のように形成されるのです。これがなぜ他人の夫婦生活は一生恩愛に満ち、ほとんど喧嘩もせず、一方で自分の結婚生活は語るに足らないのか！なぜこのような違いが生まれるのか、深く反省したことがありますか！
自分が嫁いだり娶ったりした相手は皆良人ではなく、一日中騒ぎ立て、争いをやめない。どうしてこうなったのか？争わず、騒がず、揉め事を起こさない方がむしろ不思議だろう。これは前世あるいは累世にわたる婚姻の縁が、あなたが出会い選んだ相手の良し悪しを分けているのであり、このような良縁も悪縁もすべて個人が選んだものなのである。
人それぞれ前世の因縁は同じではありません
つまり、夫婦の縁は生まれる前から決まっているもので、誰もあれこれと不満を言って、どうしようもないところまで嫌がるべきではありません！自分がどれほどの器量があるかも分からず、相手が自分に見合わないなどと思い込むのはよくありません。自分の実力をよく秤にかけ、自分にどれほどの能力と力量があるか、よく考えてみる必要があります。
縁を結んで夫婦となったのに、心はまだ外の女性や男性を想い、しかも自分の力量を知らないこのような者は、相手を欺き辱め、凌辱し暴力を振るうなど、あらゆる非人道的な行いをし、さらに言うには「すべての過ちは相手が悪いのだ」と。このような人は自分に何の非も欠点もないと思い、まさに身の程知らずというものである。
このような人は自分自身を省みようともしない。前世において少しも善い縁を結ぶ種を蒔かなかったのに、この世で天があなたに伴侶を与えてくださったということは、天が既にあなたを厚く遇していると言える。そうでなければ、今生ではとっくに独り身でいるはずであり、相手のあれこれに文句を言うべきではない。まさにこの通りなのだ！
夫と妻の長所がどれほどあるか、少しも考えようとしない。普通の人は、まったくないと思い、さらにはわずかな取り柄もないとさえ考える。しかし、あなたは相手がすべて欠点で、長所は少しもないと思っているのではないか！もしそんな人なら、自分にはあまり長所がなく、欠点ばかりだということが、まったくわかっていないのだ。
夫婦の縁は良し悪しを問わず
こう言えるでしょう。妻があなたの家庭を世話する台湾人メイドや労働者のすべての報酬について、あなたは毎月給料を支払っていないし、朝晩あなたの家の一切を整えてくれているのに、あなたはこれらの台湾人メイドや労働者の貢献が報酬に値しないとでも思っているのですか？これは一般の大男子主義者の悪い考え方です。
夫婦が立場を変えて、互いに役割を入れ替えてみることを想像できないだろうか。妻が坤道として外を切り盛りし、夫が乾道として家庭を守る。同じ方法で相手に対応したら、自分はどう感じるだろうか？まったく想像すらできない。今生、すでに夫婦の縁を結んだ以上、永遠に相手を愛し、永遠に相手に安らぎの巣を与えなければならない。
勇んで責任を引き受けることでこそ、双方により大きな安心感を与えることができる。もし相手に安らぎの巣や安心感を提供できないなら、双方にとって、心からあなたのためにすべてを捧げ犠牲を払うことができるだろうか？もしかしたら相手はとっくにあなたを見限っているかもしれない。しかも、今の時代はもう昔とは違うのだ。
昔、夫婦が結ばれる前には、互いに顔も見たことがなく、もし会ったことがあれば相手の人となりを知ることができた。一般に仲人を介して結ばれる者は、多くは婚姻後に初めて双方の感情を築き、理解を深めていく。乾道である夫の担う責任は比較的重く、坤道である妻への責任はより心から進んで果たすものである。
人の運命はそれぞれ異なるもの、他人を羨む必要はない。
古くからの教えにこうあります。「鶏に嫁げば鶏に従い、犬に嫁げば犬に従い、乞食に嫁げば袋を背負う」。これは人間に対する批判や軽蔑ではなく、一種の比喩なのです。富貴な夫婦も、普通の夫婦も、貧しい夫婦も、それぞれ前世からの福の縁がどれほどあるか、福報がどれほどあるか、これらはまず自分自身の力量をはかるべきことなのです。
自分が裕福な家の令嬢を娶って妻にできれば、三十年の苦労を減らせるだろう。また、豪門の婿殿を夫にできれば、一生富貴を享受できる。そう思うのは自由だが、それはあなたの分け前ではない。つまり、そのような福報がないのだ。なぜあの人はそんな運命を持っているのに、あなたにはないのか。
必要なものは自らが創り出すべきであり、そうしてこそ夫婦の長きにわたる愛情が可能となる。他人を羨むことなく、自らが創り出せるものと心得よ。互いの長所を多く思い浮かべ、自らの欠点や不足を改めるよう努めよう。双方が感謝の心をもって相手を大切にすれば、離縁など起こり得ぬと信じるがよい。
相手の貢献に感謝の気持ちを持てるでしょうか。夫の長所は何でしょうか。妻の長所は何でしょうか。常にお互いの長所を思い浮かべ、互いに包容し合い、双方が腰を据えて静かに反省してみましょう。双方のすべての短所は何でしょうか。感情に任せて行動してはならず、必ず相手の不足、欠点、過ちを包み込む包容力と雅量を持つ必要があります。
恩愛の夫婦は人々が羨むもの
修正と改善を加えてこそ成功があり、努力があれば変化の機会もあるのです。人は聖賢ではありませんから、一生のうちに何の過ちもなく、不足や欠点がないということはありえません。双方は温かい雰囲気の中で、心を落ち着けて対話することが大切です。相手の不足点だけを指摘するようなことは避けるべきです。
さらに、欠点や過ちが山ほどあると、ついカッとなり、頭に血が上り、口汚く罵る醜態をさらすことになります。これはまさに「功徳の林を焼き尽くす」行為であり、ひどい場合には殴る蹴るにまで発展します。このようなコミュニケーション方法はないに越したことはありません。誰もが相手の立場に立ち、自分自身の偏屈な気性や様々な欠点を修正できるかどうかが問われるのです。
両者の未来に円満な結果をもたらすためには、仙仏が言われるところの「汝らはこれを体得できるか！」ということを理解しなければなりません。これこそが、上天が最も重視する縁の根本なのです。あらゆる悪しき環境が身にまとわりつき妨げとなるときにも、時空の変化によって相手を見捨ててはなりません。どんなに過酷な状況であれ、忍耐強く乗り越えていかねばならないのです。
また、相手を大切にし、深く愛し、修整と改善の良い方法を持つことができなければならない。世の中の夫婦は、もともと婚姻縁が良くない因縁だと思わないでほしい。時には世俗で言うように、三歳、六歳、九歳の差は沖煞に犯されると言われるが、それは人間界の術士や命相家の言葉であり、今ではこのような沖煞はすでに流行していない。
夫婦揃って修行するという考えを実践に移すべきです
不吉や良くないと考える必要もありません。常に人為的な努力が無形の干渉を上回り、夫婦の縁は自らが創り出すもの、それらすべての沖煞に勝つのです。現代人はもはやこのような沖煞を信じていません。もし夫婦間に沖煞があると考えるなら、それは往々にして心理的要因が人為的要因を上回っているのです。
人為的な要因を用いてこの種の障礙を解消し、天地を再び敬い拝むことができ、また夫婦間の離別という劫難を解消し、さらに離別の劫難を改造することができる例は、今日あちこちに見られる。天地を再び敬い拝み、さらに仙仏の成就と祝福によって、一組の良くない悪しき夫婦、および喧嘩して離別しようとする夫婦を円満に和解させることができる。
双方に改めて修整と変化を与え、夫婦が互いに慈しみ愛し合うよう導き、必ずや仙仏が祝福する情感と婚姻の縁を大切にするよう促す。そうすれば、この夫婦は離別するだろうか？否である！仙仏の化解と祝福を通じて幸福な家庭を築くことができ、また昔の時代に　無極皇母が副主席　麻仙姑に命じて降凡させ、崇心において職務に就かせた時のように。
昔日の約束は今すでに果たされました。
既に開示された後には、「夫婦共修」の意義がまさにこのようなものである必要があります。一組の夫婦の心構え、観念、思想と行動、行為の結果を見ることができ、夫としての模範となるか、妻としての手本となるかどうかを観察すべきです。また、崇心宗脈の学生は真剣に「夫婦共修」の基準を実行し、人道世界に広めるべきです。
すべての恩愛夫婦、恩讐夫婦、怨念の夫婦が運命を変えられるように、そして天が定めた夫婦共修が実践されるように。これは千古の昔から続く人為的要因による思想観念を、占い師の惑わしや俗説の影響を受けないように再構築したもので、もはや流行遅れとなっています。夫婦が真心から愛し合うことが、まさに正道なのです。
まさに　上天は新たな法をもって世の中に向かい、夫婦の情愛の離別を減らし、現代社会のコストを削減する。あなた方はどう思うか？夫婦双方の情愛を大切にしなければならず、そうすれば離別の苦境を減らすことができる。互いの性質を知り仲良く暮らすことは、愛情ある人間が必ず理解すべき思想観念であり、必ずや幸福な良い家庭を築くことができるだろう！
人の世の一生の情縁は　前世に定まりて偏り失うことなかれ
結婚前は三度選び
結婚後は縁が現れず
思いを馳せるべからず、婚外の情に
このような情の業は縁を断ち難し
下世また来たりて悪果を償い
天に羞じ罪孽に循う
この偈は、有情なる衆生が互いに励まし合うためにあります。夫婦の縁は前世で定められ、生々世々に積み重ねられた様々な因縁が、人の力で良くも悪くもなるのです。今生の夫婦の情愛と婚姻は如何なるものか？あなた方はどのような因縁を選び、どのような福田を蒔くのでしょうか。幸せか否かの境界は自らが決めるもの、しばし崇心宗脈にお邪魔いたしました。皆様、またお会いしましょう。
西方文采菩薩
西方世界より降臨し来たりて　文采妙筆に花開く
菩薩今日は当番に来られて
大道の因果は末法の世に記される
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は八大菩薩の一尊、南無弥勒菩薩がご降臨され、「大道因果」第二十一回を著作されました。「善徳夫婦」の因縁を通じて、すべての衆生と共に励まし合おうとされています。いかに心安らかに幸福な家庭を築くか、夫婦双方には必ず思想・観念・行動があり、行動の後には結果が生じます。皆様はこれをご存知でしょうか。皆様のご多幸をお祈りします。ではまた。
2015年、0308、2008◎＃※   ０Ｋ；
幽明教主　南無大願　地蔵王菩薩
幽冥教主降臨し来たる
南無大願地蔵開かん
王者は仁義に敵無く
夫婦は善く改めて福運を載す
第廿二回 　  夫妻善改
夫婦はどのように善く改めるべきか
有情世界に生きる多くの衆生は、二十世紀において、道徳倫理の衰退を経験してきました。かつて中華の地に輝いた威厳ある道徳秩序は、人道世界における拠り所を失い、かつての良き夫婦の情誼は見られなくなり、代わって不幸な高離婚率が蔓延するようになりました。
人間の生存において、夫婦や倫理観念が次第に失われ、双方の感情を深く根付かせることが難しくなっています。人倫道徳がなぜこれほどまでに衰退してしまったのかといえば、現代の潮流に影響され、自分自身もその衰退の一員であることに気づいていないからです。人倫道徳をどのように再構築するか、さらに三綱五常や四維八徳の枠組みを築くかが課題となっています。
改めて、心から心を尊ぶところから出発し、人倫道徳を実践していくことは、未来の人倫世界にとって基本的な理念概論が必要です。有情の衆生は自由恋愛を経て、お見合いや仲人の言葉によって夫婦となります。自ら選ぶにせよ、運命に従って選ぶにせよ、すべて人倫の大徳を基本の枠組みとすべきです。
これは天が人倫の大本として定めた基礎的な縁であり、あなたと結ばれるべき相手はただ一人だけである。この縁を大切にすべきである。また、このような婚姻は非常に殊勝なものであり、夫婦双方はこの婚姻を「最も良く、最も善く、最も美しく、最も真に、最も誠実に」実現するよう努めるべきである。これこそが夫婦の道というものである。
夫婦善改の作用
しかし、多くの人が結婚生活において、少しでも思い通りにならないことがあると、寂しさに耐えられずに外へ目を向け、いわゆる「不倫の罪－浮気や不貞」に走ってしまいます。大宇宙の天地に生きる有情の衆生は、文明が進み、開かれた国々であればあるほど、男女平等の観念から、「貞操」は自由に取引できるものだと考えがちです。
知らず知らずのうちに、多くの無明の病が不貞潔から次々と引き起こされています。例えば、過去のあらゆる性病や現在のエイズなど、これらはすべて不貞潔から派生したものです。不倫の男女の情愛も一時の快楽に過ぎず、少しも恥じる心がなく、非常に恥知らずなことです。
かえって人生は短く、楽しまなければいつ待つのかと考え、このような男は忠実でなく、女は貞潔でない者は、幽冥の世界に数多く存在する。もし理解しなければ、また神聖な婚姻を戯れ事にしてしまう。あなたの家には既に多くの種が蒔かれており、あなたに代わって種の因縁を返し、代償を払う人がいる。これは人間世界の病である。
古くより言われております：この世で良縁に恵まれず離縁した場合、あなたと相手との間の恩愛と怨恨はすでに断たれたものの、心から納得して償いを受け入れていないならば、来世においても再び縁が結ばれることになるのです！さらに古くより伝えられております：一世で円満に償い終えられなかった婚姻関係は、七世代にわたって繰り返し縁を結び、償いを続けることになるということを、あなたはどうお考えになりますか？
夫婦善改の条件
あなたが相手に借りがあるか、相手があなたに借りがあるかに関わらず、それは双方により残酷で悲惨な報いをもたらすことになります。それでもよろしいですか？こうして「想い合う者はついに伴侶となり、伴侶は皆想い合う者となる」という形が生まれます。互いを深く愛し合い、時間、空間、環境、人為的要因によって絶えず変化する双方の姿を経ていかなければなりません。
かつては大変な美男子であったが、今では次第に本来の面影を失い、髪は薄くなり、ビール腹も目立つようになってきた。背中もだんだん曲がり、額の皺も増えてきた。かつての美しい女性は、顔には横肉がつき、体形は外側に広がり、むくんだようになっている。
顔には深い皺が刻まれ、歯も次第に抜け落ち、互いを深く愛し続けられるだろうか。中には、ほんの少し煌びやかな金銭を手にしただけで、より若く新鮮な相手を求める者もいる。だが、相手があなたと共にいる理由は、ただあなたの煌びやかな金銭目当てに過ぎないのだ。
この時、あなたはまだ糟糠の妻のことを思い出すだろうか？また、かつて苦楽を共にした夫のことを？それともただ若いあの人のことだけを考えているのか！古くから言う：「新しいものは古きを知らず、宝として大切にしない」と。昔、あなたと共に苦労を分かち合った夫や妻は今どこにいるのか？もし軽々しく離縁を口にするなら、それは実に簡単なことだ。
夫婦が善行を積めば、良縁が結ばれる
しかしながら、あなた方双方の業の借りがまだ清算されていないうちは、次の世でもなお互いに絡み合い続け、さらには七世の間もずっと絡み合うことになります。これが夫婦の情の借りであり、すでに心から喜んで清算し返済し終えたならば、次の世ではもう絡み合うことはありません。これはとても詳細に、それぞれの人の八識の田に記録されているのです。
しかし、今すぐに一人見つけては愛し、次から次へと移り変わる自分を威風堂々と能力があると思わないでください。来世にはあなたは乳牛や雄鶏・雌鶏、雄豚・雌豚などに生まれ変わるかもしれません。あなたのそばにはずっと遊び相手がいて、あなたを快適にさせてくれるでしょう。しかし、あなたはそれをどう感じますか？悲しいですか、それとも楽しいですか？嬉しいですか？
人間に夫婦の縁が生じるのは、古くから「十年の修行で同じ船に乗る縁ができ、百年の修行で共に枕を並べる縁ができる」と言われるように、これはまさに強烈な種子の因が現れたものである。なぜこのようになるのかというと、これはただ今世だけの因縁ではなく、累世にわたって、あなたに善徳の因縁があったか、あるいは平凡な因縁や悪しき因縁があったかによるのである。
この三つは福禍、善悪、そして良し悪しの夫婦縁を生み出します。もし双方が恩返しに来る時、このような両方の夫婦が共に恩を返す場合、家庭は比較的豊かで平安に安らかな一生を過ごせます。もし平凡な夫婦縁であれば、良きも悪きもあり、喜びも悲しみもありながら、平穏に争いなく一生を過ごすこともできます。
夫婦善縁の根本を改める
もしも醜悪な夫婦縁によって結ばれたならば、古くから「貧賤夫婦は百世に哀しみあり」と言われるが、互いの悪しき業因の結果を次第に改善し、双方とも心から共感し合えるようになるだろうか。この家庭のために一筋の力を尽くし、夫婦双方が心から進んでこの家庭を守り支え、家族の大小の成員を慈しみ育てることができるだろうか。
幸福な家庭が築けるのである。もし悪しき因縁で結ばれた夫婦の場合は、最初は相手を大いに気に入り、熱心に求めるものの、中には嫁ぐ前から口論が絶えず、ひどい時は大げんかになり、時に刃物を持って向かい合うことさえある。このような悪しき因縁の夫婦は、もはや珍しいことではない。
さらに問題が生じることもある。一つには、相手のことが気に入らない。二つには、相手は誰も私の言うことを聞こうとしない。三つには、相手を愛してはいるものの、行動や言葉が相手に強い圧迫感を与えてしまう。四つには、すでに不倫をしており、夫に恥をかかせ、さらに既に家を出てしまっている。
このような男は、少しばかりの金があるとすぐに心変わりし、すでに結髮の妻を冷宮に追いやりめったに帰らなくなり、あらゆる良からぬ醜い行いが次から次へと絶え間なく起こる。本来良き伴侶となるべき二人が、なぜこのような結末を迎えることになったのか、まことに悲しいことである！どうすることもできぬことよ！
夫婦一世の良き縁
己の貞節と忠誠を堅く守るためには、双方が人倫道徳に基づき誠実に実践することが必要である。儒家の聖人や現代の宗教の基本教義においても、これは二度と過ちを犯さないという点で共通している。特に夫婦の縁という観点から見ると、現代社会では男性が交際や接待で外出し、遊郭の女性に夢中になる「火山孝子」となる例が少なくない。
両手を差し出して金銭を捧げ、名士の女性に裕福な生活を送らせておきながら、このような行いを、すべて家に持ち帰って生活費に充てることもできたはずです。それなのに、家の妻や子供たちを苦しい生活に追いやるとは。また、男性の社交や付き合いは当然のことと思われていますが、信仰を持つ者にとっては、このようなやり方はもはや通用しないのです。
これらの社交的な付き合いをしている人々に対してこそ、商売が成り立ち、金銭は早く入っては早く出て行くものだ。もし家庭内の波風が立たなければ、それは本人の福徳が厚いからである。しかしもし家庭内の波風が立ち、もともと互いに敬い合っていた夫婦の情愛が次第に消え失せてしまえば、つまり夫婦が互いに氷のように冷たく敬うだけの関係になったとき、さらに残酷な問題が現れることになる。
この夫婦の感情生活は、もともと互いに敬い合う仲であったのが、次第に冷ややかな関係に変わり、さらには刃向かい合う敵対関係へと発展し、家庭全体の平穏など望むべくもありません。これは夫婦関係が最も脆弱で危険な、冷え切った恐怖の瞬間です。そこへ双方の親族や友人がそそのかしを加えるならば、なおさらのことです。
夫婦の縁の改善
元は愛し合う伴侶であったはずが、この出来事をきっかけに夫婦の暮らしは一変してしまったことでしょう。このような状況に婚外の情事が絡み合えば、最後には収拾のつかない事態に陥るのは必定です。しかし昔の人々は夫婦の絆を大切に守ることを知っており、たとえ口論や争いが起き、時には刃物を手にすることさえあっても、安易に離縁を口にすることはなかったのです。
このような冷戦状態は、双方が家庭の円満と和楽を守ろうという心さえあれば、往々にして大きく改善されるものです。もともと愛情深い夫婦であるためには、夫婦双方が感情的に結びつき、互いに意思疎通を図る必要があります。夫婦は互いに敬い合うべきであり、その時には双方はもはや冷戦状態ではなく、新婚時代の愛情に満ちた関係に戻ることができるのです。
お互いに礼儀正しく接するようになるでしょう。この「礼儀正しさ」とは、離婚を考えている夫婦が、互いの欠点や過ちを耐え忍びながら話し合い、時間をかけて沈殿させることで、関係を修復しやり直す機会を得ることです。この原則は、相手に再び立ち戻る機会を与えるものではないでしょうか？決して軽々しく離婚を口にしてはいけません！
時に双方の視点が異なり、立場が違い、生活様式が異なり、教育背景が違い、学識が異なる。様々な違いがあっても、結局のところ、一組の夫婦ではないだろうか？すべての違いを霧散させ、改めて天地に誓いを立て、良縁を共に確認し、新たに築き直せば、円満な結末が訪れるだろう。
縁あって夫婦となったならば、大切に慈しみ愛し合いましょう
このように人世間の偈語を引用する：「足るを知り、恩に感謝し、包容し、善く理解し、思いやり、よく通じ合う」、この六句の名言は、大いなる天地のすべての衆生が互いを成全するためのものであり、この偈語はすでに人道世界で発酵し始めており、必ずや夫婦の情愛をさらに深く根づかせ、より深い婚姻の因縁の根本となることが、まさに正道であります。
妻たる者は、必ず夫君の両親に感謝しなければなりません。この世にあなたの夫に代わる第二の人はいません。夫たる者もまた、妻の両親、すなわち岳父母に感謝し、大切にしなければなりません。彼らがあなたに賢い妻を与え、あなたの家族のために一生を犠牲にして献身し、しかも給料をもらっていないのですから、この点だけでも感謝すべきです。
世間一般の言うように、「妻は結納金と引き出物で娶ったものだから、給料を払わなくても構わない」というような男性は、考えてみると少し不誠実だ。もし、立場を変えて考えてみたらどうだろうか。もし夫があなたと同じように、結納金と引き出物で娶られたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。
夫婦善解の動作
人生には足るを知ることが必要であり、全ての環境は良くても悪くても自らの運命であり、今こうしてこのような環境で生活しているのです。この中で、たとえ生活環境がどれほど悪くても、それを甘んじて受け入れ、楽しみを見出し、怨み悔やむことなく全てを犠牲にし、足るを知り運命を受け入れ、苦労に耐え努力して奮闘してこそ、初めて家族を繁栄させる力が生まれるのです。
さもなければ、座して食を喰らい山を空しくするのみで、どうしようもない。汝が環境に打ち勝つことができなければ、満足と感謝の心も知ることはない。双方のすべての不足、欠点、過ちを包容しなければならない。そうして初めて、少しずつ変えていくことができる。もし包容できなければ、円満な家庭生活もあり得ない。夫婦に少しの欠点や不足、過ちがある時は、必ず穏やかな言葉で諭さなければならない。
これこそが真実であり、お互いに対してより大きな慈愛と善き理解を持つこと、これは非常に重要な縁のポイントです。なぜ多くの夫婦は、たった一つの目配せや小さな合図だけで、お互いを善く理解できるのでしょうか。このような善き理解こそが、夫婦の最も深い慈愛の原動力なのです。もし善く理解できなければ、ただ一時的に寛容に受け止めるだけに過ぎません。
善良な夫婦は必ず善く改めるべし
非常に大きな爆発力を生み出すこともあり、また変化するかどうかは定かではありません。時に感情を抑圧しすぎると、生じる爆発力は非常に恐ろしいものになります。しかし、時には爆発した後、双方が検討を重ねることで、すべての困難な点をどのように転換すべきかを理解できる場合もあります。この時、思いやりは非常に重要であり、どのように真心をもって関わるべきかが問われます。
夫婦の間では、すべての欠点や問題、そして間違いについて、お互いが心を落ち着けてコミュニケーションを取ることが非常に重要です。しかし、双方のコミュニケーションにおいて、常にお互いが相手の非や間違いを主張し続けると、将来さらに大きな爆発点を生む可能性があります。お互いに心を静め、真心から相手を思いやり、相互にコミュニケーションを取ることができるでしょうか。
夫婦双方が共に認められる方法について、皆さんはどうお考えでしょうか。その中には必ず「知足・感恩・包容・善解・関懷・溝通」が含まれていなければなりません。これらを、世の中の離婚を考えているすべての夫婦、仲睦まじい夫婦、平凡な夫婦に提供し、より円満な向上を図り、しっかり実践していただきたいのです。皆さんはどうお考えですか？
十年の修行で同じ船に乗る縁を得
百年の修行で同じ枕を共にする縁を得
前世の因縁は既に定まり　夫婦共に改めて業を修めん
足るを知り感謝に包容を加え　善く理解し思いやりを持って通じ合う
世の夫婦の良し悪しは　運命は自らが作り出すものと心得よ
この偈は！すべての有情の衆生に対して、未来の21世紀から30世紀までの千年の時空因縁の中で、幸せで慈愛に満ちた夫婦生活を築くことができれば、それはプラスの作用をもたらし、成長の余地があるのです。一言意見が合わないからといって、軽々しく離婚を口にするのではなく、まずよく考えてみてください！それはまったくもって価値のないことです。
本日は執筆時間がやや長くなりましたが、夫婦縁に関するすべての内容はここまでで述べ終えました。次回は幽冥世界・第一殿の秦広王天子が執筆を担当されます。皆様にご相伴いただき、心より感謝申し上げます。崇心の気運はもはや昔のようではなく、その勢いは非常に盛んとなっております。誠におめでとうございます！おめでとうございます！しばらくの間、崇心宗脈をお騒がせいたしました。では、またお会いしましょう！
西方文殊菩薩
西方より文題登台来たり
菩薩見会に賢生開く
南無地薩菩薩降臨　夫婦善く改めるは是れ当然なり
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥教主　南無大願地蔵王菩薩がご降臨され、「大道因果」第二十二回を執筆されました。「夫婦が善く改まる」という殊勝な因縁を、すべて天書の中に明らかにされ、すべての人界の夫婦がより大きな慈愛とコミュニケーション、包容を持つことができるようにされました。皆様、ご苦労様でした。またお会いしましょう。
2015年3月8日、2009年◎＃※　了解。
幽冥天子第一殿 秦広王
幽冥の世界より儀式を降ろし　天子が台に登り賢契と会す
第一殿の秦広王が記す
父母と子の因縁の始まり
第廿三回　  父母兒女
父母と子女の因縁
有情なる衆生の生活の営みはすべて、父母の情愛が子の生活を支えることに通じる。一組の夫婦が結ばれた後のあらゆる縁は、必ずや子孫という結果を生み出す。この状況を父母の立場から見れば、相当な心血と苦労を注がなければならず、つまりは細やかなところまで気を配り、最善を尽くしてすべてを犠牲にし、子や家族に捧げることとなる。
もし父母が自分の子供たちに対して注いだ心血の結晶について言えば、無為の心で与えるものであり、自分の子供が賢明であろうと平凡であろうと愚かであろうと、あるいは知的障害があろうとも、すべて自分が生み、育て、心血を注いだ結晶である。言えることは、子供に対して細やかな気配りを欠かさず、また生み育て教育する根本であり、それによって疲れや苦労を口にすることもない。
これは古来より、人間の世界では理解し難いことであり、なぜ自分で子孫を選んで生み育てることができないのか。まさに「因果の法則」を明らかにする必要がある。どの親も自分が良い子孫を持てることを願っているが、果たして自分の望み通りに達成できるだろうか？必ずしもそうとは限らない！
ここにはなお多くの善悪、禍福、善因悪縁が存在し、また自身の子孫たちはどのような者たちか――それは報いを求める者、平凡な者、恩に報いる者など、いくつかの状況に分けられる。有情の衆生は理解し難い、なぜ人間界にこのような区別があるのかと。まさに前世の因縁の結果なのである。
父母と子はどのように因縁を生じるのか
それは、あなたの前世と累世の善悪の因縁がどのようなものであるかに関わってきます。すべての夫婦は、子供たちが立派な人間になることを願い、少なくとも世の中に災いをもたらさないことを望んでいます。しかし、自分の子孫を自分で設計したり選んだりできるでしょうか？それは不可能です。それはまた、人類衆生の累世の善悪の因縁がどのようなものであるかに関わってくるのです。
前世や累世において、良き種を蒔き、福徳を深く耕してきたかどうか、善き因縁があるかどうかが関わってきます。もし子宝に恵まれたいと願うなら、比較的容易に叶えられるでしょう。一般的には、平穏な子孫に恵まれるだけでも十分幸せなことです。もし、子孫が意思疎通が難しく反抗的な性格であれば、まずは自分自身の性格を振り返ってみる必要があります。
また、自分と子孫との間に善き縁があることをどう望むか？もし恩返しに来る者であれば、それほど不思議には感じないだろう。平凡な者であれば、一生平穏無事に過ごすだろう。しかし、もし非常に良くない子孫に遭遇したら、どう思うだろうか？
良し悪しや平凡さがあり、また業の借りや報いの悪い因縁が残っているのは、前世や累世の因縁を互いに合わせて評価したもので、将来どのような子孫が生まれるかなどが決まります。しかし、必ずしもすべての者が報いを受けるわけではなく、その中にはあなたが前世や累世で他の人に施した恩恵も多く含まれています。
親子の縁
今生今世、私はあなたの家に生まれ、あなたの子となり家系を継ぎます。恩返しであれ仇討ちであれ、すべてはこの時空の因縁によって結ばれ、今世の命が与えられるのです。これは人間の生存の理から逃れることはできません。もし恩返しの縁であれば、誰もが喜び受け入れやすいものでしょう。そうではありませんか？
もし仇を討つために来たのであれば、このような怨親債主のすべての報復行為は、時に人道の時空因縁の条綱と倫理と全く相容れないことがある。しかし、多くの人間の衆生は、このような人道の生存に合わない報復の条綱と倫理が、人道世界で認識されている観念と融合しにくいと考えるのである。
有情なる衆生がより広い視野と心でその経緯を観察すれば理解できるように、このような人道倫理と因果応報が相容れない実例は絶え間なく生じ続けるのである。すなわち、上天の条綱公理によって、報いを求める者はその父母として、あるいは自らの子女や親族眷属として生まれ変わることもあり得るのである。
すなわち観じるのである：前世と累世において如何に人を踏みにじり、虐待し、侮辱してきたか、このような報いの因果をはっきりと解き明かさなければ、また有情衆生を心から納得させることは難しい。何が為すべきことで、何が為すべきでないかを理解し、さらに上蒼の公正なる条綱と倫理の必然性を悟らねばならないのである。
父母と子の善悪の因縁
人々の間の関係は、恩返しに来たものと報いを求めるものの二種類に分けられる。一般的な有情衆生が普段行っていることは、すべて人倫道徳の規範に合致し、また公理を生活のよりどころとしている。互いに人倫道徳の規範に対して、生活の秩序を人倫に依拠させることが、人為世界の根本であり、本来このようであるべきなのである。
しかし、因果応報を求める者にとっては、このような例や行為とは異なる。一組の夫婦が全身全霊を注ぎ、倹約に倹約を重ねるのは、ただ自分の子供たちに快適な生活環境を与えたいからである。世界中の親という親は皆、このような心構えと信念を持ち、行動をもって子供たちを慈しみ守っているのである。
すべての人間は生まれた後、両親のそばで成長します。両親の身をもって示す教育、言葉による教育、しつけといったすべての言動は、子供たちが模倣する対象となります。あらゆる生活習慣や日常の慣習を学びながら成長していくうちに、時間が経つにつれて、前世の遺伝子の本質がどうであれ、それらの影響を受けるようになるのです。
この遺伝子の本質は、過去の累世がどうであれ、今この時に至れば、両親の生活習慣と互いに結びつき、両親の影がその中に加わることになる。このように古くから言われている：「龍は龍を生み、鳳凰は鳳凰を生み、ネズミの子は穴を掘るのが上手い」。これはまさに、すべての人類衆生の生活習慣がこの通りであることを示している。
親の遺伝子と子の本質
両親がどのような習慣を持っていようと、子供は自然とそれと同じ生活習慣を身につけるものだ。これは古来より、すべての生活習慣の条件がそうであった。前世や累世にどれほど優れた遺伝子の本質があっても、それは現在のこの世の影響を受けて前世の遺伝子の本質に影響を及ぼし、遺伝子の本質がどのようなものであっても区別されることはない。
すなわち、善き行いも劣った行いも共に影響を受けるということです。このように、生まれてからの全ての行為や動作、生活習慣はすべて同様であり、善悪や優劣を区別せず、皆親の関係を受け継ぎ、模倣の対象となるのです。また、風土や習慣、生活様式も前世の遺伝子の本質に影響を与えるのです。
親から生まれた子孫たちは、親のすべての生活習慣や風土人情を受け継ぎ、さらに各家庭にはそれぞれ異なる生活習慣があります。様々な生活環境の中で、彼らは学習と模倣の手本を見出し、十数年から二十年の歳月を経て成長し、やがて自らの生きる空間を築いていきます。
このような時空の因縁の中で、同じ型から作られた製品のように、子供は親の習慣をそのまま受け継ぐことがよくあります。もし敏感な人であれば、自分の様々な癖や奇妙な性格が、子供を通して自分がどのような質の人間であるかを知ることができるでしょう。
子供は親の心血の結晶です。
これは、すべての子供たちが習慣的に理解すべきことです。自分自身がどのような習性と慣性を持っているのかを。また、親と子は密接に関係しており、まさに遺伝子の本質がそのまま複製されているに過ぎません。もし自分の遺伝子の本質がどのようなものかを理解できないならば、よく観察してみてください：自分の子供たちのすべての生活習慣はどうなっているのか？区別することができるでしょうか！
はっきりと、いや一目瞭然に、自分自身のすべての生存習慣がどうなっているかがわかります！なぜそうなるのか、その中にある遺伝子の本質が移植され、あなた自身の子孫、つまり子供たちの中で、両親がそのまま再現され、学習と成長、そして教育、教化の機能がどのように働いているかがわかるのです。
汝の遺伝子の本質を通じて、必ず移植された複製が生まれる。つまり同じ型から作られる製品はすべて同じであり、しかも自らの製品が優れていると思い込み、常にそれを抱きしめて離さず、汝の子孫は永遠に変わらないと考えるが、汝にとっては大いなる誤りである。
親子の間のすべての恩愛や憎しみは、このような天性によるものであり、善悪、福禍、良し悪しを区別せず、倫理の規範はすべて人間に対して平等である。このような社会道徳の規制は、また子が親に対する倫理的な社会的責任であり、それは道徳規範を完成させ、良き因縁を生み出すことにある。
父母の恩は山よりも大きく　 　子の情は絡み合いて
報恩の労は永遠に尽きることなく　討伐もまた復讐のごとし
社会倫理の道徳　　父母と子女の情愛は澄み切る
因果の理を悟りて討伐すべし
悪縁を造らざれば福更に多し
この偈を！有情の衆生と共に励まし合いましょう！父母と子の相互の因縁は、因果応報の区別と因果の福報について、最初の著作として、次回はさらに優れた精彩を放つ分析を続けます。この中には多くの報いがあり、現代社会の道徳では評価できず、因果応報によってのみ区別できるのです。
本日は再びお目にかかれて大変嬉しく思います。崇心宗脈を訪れるのも数年ぶりですが、その気勢はすでに大きく変化しており、誠に喜ばしいことです。おめでとうございます！しばらく崇心宗脈にお邪魔いたしまして、皆様にはご苦労をおかけしましたが、すべて吉祥であります。またお会いしましょう！
南天降道天尊
南天の因縁が崇心に降り　  　降りし道は無限の大道の情
天尊今日輪番に当たりて　大道因果の導きを為す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥天子・第一殿秦広王が降臨され、「大道因果」第二十三回を著作されました。親子の縁と因果応報について、初めての分析を行い、情ある人間の衆生が理解できるようにとされています。
なぜ両親の生活様式の影が、自分自身と同じように現れるのか、自分はそれを変えられるのか！これは一種の遺伝子の本質によって形成されるものだ。崇心宗脈は、すべての原霊仏子に対し、遺伝子の本質を向上させて超越するよう導く。過去の良くない風土や習慣、あるいは両親の生活習慣や癖をずっと真似続けることではない。
人間の生活過程はこのようなものです。皆さんはもう一度よく考えてみてください。自分の子供たちが成長してそれぞれ独立した家庭を持つと、もはやかつての親の生活習慣とは異なり、それぞれの家庭生活を持つようになります。これはすでに多くの大きな変化が生じていることであり、社会全体はこのように進化し創造されてきたのです。
2015年、0308、2010◎＃※  ０Ｋ；
幽冥天子第二殿 楚江王
幽冥世界の衆生霊　天子二殿に降り来臨す
楚江王は二十四回を著す　　兄弟姉妹の情義深し
第廿四回　  兄弟姐妹
兄弟姉妹はどのように生まれるのか
父母から生まれた子供たちは皆、兄弟姉妹としての縁で結ばれています。この因縁は非常に深く、なぜ同じ父母から生まれるのかというと、そこには前世や累世にわたって積み重ねられた善悪の因縁が数多くあり、今生において兄弟姉妹という最も親しい縁を結ぶことになったのです。大いなる天地の中で、同じ型から生み出された存在なのです。
各々の生物種において、まさに同じ体系、同じ因縁、同じ父母の遺伝子本質であり、共通の因縁によって生み出された同じ産物である。その中にはまた、異なる善悪や良し悪しの因縁があり、それによって異なる福報と報いがどのように分かれるかが決まる。これは同じ父母から生まれ、養育され教育された兄弟姉妹の因縁である。
兄弟姉妹という言葉で考えてみましょう。同じ両親から生まれた子供たち、また伯父・叔父やおばの子供であるいとこたちは、祖父母という同じ血筋から生まれた者同士です。幼い頃から一緒に暮らすことも多く、非常に親しい関係にあります。このような絆は、きっとこれから先もずっと続いていくことでしょう。
その後、成長して各地に離れ住むようになっても、結婚式や葬儀、慶事などの機会があれば、必ず一堂に会し、兄弟姉妹の情を生きる支えとし、絆を保ち続けます。この縁は極めて深く、この世において自らの兄弟姉妹や肉親を選ぶことはできません。また、兄弟姉妹の情は、同じ屋根の下で共に暮らす中で育まれるものです。
父母が生みし兄弟姉妹
すると、二、三十年の時が経ち、それぞれの兄弟姉妹の生活習慣、癖、気質、そして個性はどのようなものになるでしょうか。一人ひとりの異なる習慣や癖、個性や気質を理解できることが、兄弟姉妹として互いに包容し合う情誼なのです。もし善く理解し、共感することができれば、相対的に兄弟姉妹の感情もより円滑になるでしょう。
必ずや父母の養育の恩に感謝することができるでしょう。彼らが注いだ心血と労力がいかに大きなものであったかを。また、父母にとっては、手のひらも肉ならば手の甲も肉であり、どちらがより多いということはありません。同じ屋根の下で暮らす兄弟姉妹の情誼は、外の者には理解しがたいものなのです。
家庭生活の起居や生活習慣はどのようなものであっても、同じ屋根の下で暮らすことで、親から受け継いだ同じような遺伝子の本質が染み込んでいく。また、生活の中で、それぞれの兄弟姉妹の異なる習慣性を知ることができ、それが日常生活の中に現れてくる。成長した後は、誰もが結婚することになる。
元々家庭は次第に住みきれなくなり、木が大きくなれば枝分かれするように、それぞれの家族が各地に分散すれば、互いの摩擦も減らせる。もし同じ屋根の下で暮らしていれば、摩擦が起きないはずがない。また、兄弟姉妹や親族の間では、些細なことから隙間風が吹くこともよくある。
兄弟姉妹の情誼
特に子供同士の付き合いにおいては、多かれ少なかれ言葉や身体的な衝突が生じ、生活上の様々な摩擦が起こります。また、互いに相容れない行動が多く見られる上に、祖先や目上の人に対して、わずかな蓄えや田畑・家屋などの財産があると、その分配をめぐってしばしば多くの争いや障害が生じます。
前世に積み重ねた因縁があってこそ、このような機縁が生まれ、同じ家庭に生まれ育つことができたのです。これは累世にわたって修めてきた福報であり、どうして他人があなたの家に兄弟姉妹として生まれたいと願うだけで、因縁が具足するでしょうか？そうではありません！それぞれの人が前世の因縁を持っている必要があり、同じ父母から生まれた善悪、良し悪し、福禍も区別しないのです。
今生においてこのような殊勝な機縁があり、同じ両親から生まれた兄弟姉妹として共にいること、このような非常に稀な機縁は、まさに千万分の一と言えるでしょう。このような殊勝な縁を大切にし、兄弟姉妹としての情誼を育むことができるでしょうか？必ずしもそうとは限りません。それぞれの前世における因縁果報は皆異なっているのです。
今生今世において、なぜ異なる因縁果報が生じるのかというと、それは父母の種子因のうち、どちらがより強烈であるかによる。その強い種子因がより発芽し根付きやすく、まさに強烈な種子因が受胎の機会に投入されることで、有情衆生は根本的に自らの子孫を選ぶ権利さえ持つことができないのである。
兄弟姉妹は互いに深い情を抱く
どのような遺伝子の本質によって生まれるか、もし自分の子孫を選びたいと思うならば、それは非常に厚い福徳と、相当に発達した医学技術がなければ達成できない。また、兄弟姉妹はどのような因縁によって、自分の家に生まれ、互いに生活を共にする原因はどのようになっているのか？
まさに、天ははるか昔から人知れずにすべてを整えており、それぞれの前世の因果によって、父母の家に生まれ、子孫としての道を歩むことになる。未来がどうなるかは、なぜ古人が「良き子孫を得たければ、まず徳を積め」と言ったのか、またこのいわゆる良き子孫とは、先祖がまず徳を積まなければ、賢く孝行な子孫を得ることができないという所以である。
もし平凡な子孫を望むなら、あるいは悪しき子孫を望むなら、また因果応報による子孫を望むなら、あなた方はどれを選びたいでしょうか。もちろん、多くの人は良い子孫を望むでしょう。では、良い子孫を望むなら、まず福徳を積むことができるでしょうか。陰徳のエネルギーが十分に備われば、きっと叶うでしょう。
まさに自分自身の兄弟姉妹に対して、それぞれ異なる因果関係によって、異なる福報が加わり、また異なる因果の報いがあるのです。さらに兄弟姉妹がこの世で共に過ごす時間を大切にできるかどうか、この世のすべての縁に対して、未来の情誼を持つかどうか、このような縁の条件には、必ず良き善き福報が備わっている必要があります。
兄弟姉妹のすべての因果
兄弟姉妹それぞれの因果は皆異なります。同じ両親から生まれた子供であっても、一人ひとりの因縁果報は同じではありません。ある者は恩返しに来た者、ある者は平凡な者、ある者は借りを取り立てに来た者です。必ずや、親と子の前世におけるすべての因果、そして自身の遺伝子の本質がどうであるかを観察しなければなりません。
これは天の巧妙な配慮であり、自分がどれだけの陰徳を積み、功績を重ねるかによって、未来にはそれに相応しい優れた子孫が授かるのです。もし何代にもわたって、あなたがほとんど布施を行ってこなかったなら、良き子孫に恵まれたいと望んでも、それは叶わぬ願いでしょう。人間世界における自分の兄弟姉妹に対しては、必ず同じ両親との深い因縁があるのです。
未だ家を分ける前の二、三十年にわたる相互の縁の中で、どのようにして兄弟姉妹の情誼を大切にすべきか。縁起の果報による償いや福徳の施しがどのようなものであれ、人道世界においては自らの兄弟姉妹に対してより大きな寛容を持つべきであり、また父母の苦労に感謝する心を持つことが、良き家庭を築き、自らも良き子孫を得るための基盤となるのである。
古くから言われています。「子供を抱く時、初めて親の恩を知る」。このように子育ての苦労を経験しなければ、どうして親が子供に注ぐ細やかな配慮と尽くすことのない思いを理解できるでしょうか。この感情はまさに天よりも高く、地よりも厚いのです。また古くから言われています。「孝行な親からは孝行な子が生まれ、不孝な親からは不孝な子が生まれる」と。
子孫の孝行はすべての根本である
古くから言われておりますように、教えを伝え継ぐことは未来の人道世界に対してであり、「孝道を家に伝える」ことがその根本であります。父母が長年にわたって蓄積し、子孫に伝える財産は、まさにあなたが奮闘や努力をしなくても得られるものであり、また父母が公平に配分した中で、あなたと兄弟姉妹が得るものは、まさにその一部であります。
親が不公平で、兄弟姉妹には多く与え、自分にはほんの少ししか与えてくれないと感じることはありませんか？心に不満はありませんか？時には親に対して強い拒絶感を抱くこともあり、特に親が兄弟姉妹に財産を不公平に分配したと感じた時には、訴訟を起こして法廷で争うことさえあります。
これはまさに真の不孝の子の行いである。汝らは考えてみよ、天が下の人類衆生のうち、汝と同じようにこのような福分と福報に恵まれる者が果たして幾人いるか。満たされぬ時には、一歩退いて考えてみてはどうか。他の貧苦の衆生は、日々の生活さえ三度の食事に事欠くことが常なのだ。
自分があまり苦労しなくても、両親が残してくれた財産の一部を手にすることができる。これは天から降ってきたような幸運であり、同じ人間なのにどうしてこんなに差があるのだろうか。自分自身の心を比べてみれば、そこにある差別心はまったくもって好ましくない。今の世の中には、このような人間がまたしてもあまりにも多い。兄弟げんかなど、まったくもって価値のないことだ。
兄弟姉妹のすべての情誼
知足できるか？感謝の心を持てるか？善く理解できるか？寛容でいられるか？思いやりを持てるか？よく意思疎通ができるか？いずれも難しいことです！どうしてこのような財産があるのに、なお貪り飽くことを知らず、しかも大いに満足しない衆生がいるのでしょうか。一食あれば次の食事に困るような衆生のことを考え、自分と比較してみてください。自分がいかに幸運で福徳に恵まれているか。
人にない財産や田畑を持つことができるが、古くから言うように、計算し尽くすことはできず、求めれば人との和や公平を失ってしまう。人の計算は天の計算には及ばず、得るのも早ければ失うのも早く、さらには人倫道徳や親族の情までも失ってしまう。それに値するだろうか？情けと義理を持って共に生きることこそが大切だ。誰に兄弟姉妹がいないだろうか、誰に父母や目上の者がいないだろうか。
皆同じく親に育てられ、兄弟姉妹としての情誼を育んできたのに、どうして時が経つにつれ、子供の教育や嫁同士の不和によって、せっかくの兄弟姉妹の確かな情誼が損なわれるのでしょうか。また、姉妹の配偶者たちの異なる性向によって、あなたがた姉妹の感情までもが妨げられるとは、なんと無益なことでしょう。
人はそれぞれ異なる因縁果報を持っています。その中には非常に多くの要素が含まれています。いかにして兄弟姉妹との情誼を大切に扱うかは、あなたがこの生、この世において持つべき基本的な情誼です。では、なぜ同じ兄弟姉妹でありながら、一人ひとりの因果と運命が異なるのか、それはどのような原因によって形成されるのでしょうか。
兄弟姉妹それぞれの因果
これは同じ両親から生まれた子供たちで、一人ひとりの前世の因果はそれぞれ異なります。今生においては、同じ両親の胎内を借りて一つの家族の成員として生まれてきましたが、人間界にはまさに亡くなったすべての総体集合があり、また来世においても再び同じように一緒に生まれ育つかどうかは、あまり可能性が高いとは言えません。
人は皆、前世の因果によって、未来のすべての生存因縁が決まる。これは紛れもない真実である。今、目の前にいる兄弟姉妹に対して、互いに情誼と情義を持つことができ、また自分が為すべき行動を取ることができるならば、それだけで既に基本の綱領は合格点に達している。さらに、兄弟姉妹が困難に直面し、あなたに助けを求めてきた時には、必ず彼らを助けるべきである。
まさに権利と責任、義務を持って兄弟姉妹を助けるべきであり、これは情義として当然のことです。上蒼の巧妙な配慮により、冤親債主を討伐するために、あるいはあなたの兄弟姉妹として生まれてくることもあり得るのです。あなたはそうは思わないでしょうか！それは、討伐と福報の加増との違いに過ぎず、前世のすべての因果に対する償いでもあるのです。
兄弟姉妹それぞれの因果
また、なぜ兄弟姉妹にこのような状況があるのかと言えば、同じ両親から生まれた血のつながった兄弟姉妹は、道理で言えば他人よりも感情と情誼がより円満であるはずです。このような感情の層が存在するがゆえに、因果の報いと福徳の加護もまた、極めて真実味を帯びて現れるのです。まさに今この瞬間から報いは始まるのです。
さもなければ、他に何があって、あなたと累世にわたって因果の討伐を共にすることができようか？否である！また、因縁果報の討伐の中で、あなたに破敗する機会があるのである。また、あなたの前世にどんな因を蒔いたかによって、今生・今世にはそれ相応の果実を収めるのであり、あなたは因縁果報の討伐と福報の加増が、すべてこのようにして来るものであることを了知することができるのである。
なぜ天は巧妙に、あなた方兄弟姉妹に対して前世の破滅と討伐を仕向け、また自分自身に良縁を分け与えるように仕向けるのでしょうか。前世の福報が兄弟姉妹に加えられることについて、あなたはどう感じますか。すべての良縁、福報、財運は、兄弟姉妹を通じて知らせが届き、大きな福報が集まって加えられるのです。人道世界の繁栄と破滅は、前世の善徳の縁と悪しき縁がどのようであるかに関わっています。
兄弟姉妹の良き縁は
同じ父母の因縁によるもの
善悪吉凶は分別なり　前世の因果かくの如き機
兄弟の情けは比類なく大きく　姉妹の心は真実の義
なぜに破滅して償うのか　　前世で人に負いしを今生で返す
この偈は、すべての有情の衆生と共に励まし合うものである！兄弟姉妹の情義と情誼を分かち合い、福運と破滅を相互に補い合い、分析することを通じて、因果応報の循環に対して、いかにして完全に清算し、心から納得し、いささかの不満や怒り、恨みや嘆きも抱かず、さらに真実をもって情義と情誼の決着をつけることができるかを示している。
長らく降りて来られず、崇心の諸賢生と共に語らい、また「大道シリーズ天書」の著作について対話を続けて参りました。本日こうしてご一緒でき、誠に大変嬉しく思います。崇心宗脈のこのような気勢に対し、既に良き福徳が導きとなっております。未来は大いに期待できるものでしょう。本日は崇心宗脈にて暫しお邪魔致しました。皆様、またお会いしましょう。
南天普化天尊
南天の因縁が心を崇めて訪れ
普く道果の徳沢を開く
天尊今日は輪番当番を務められ、因果天書が登壇に参ります。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥天子・第二殿楚江王がご親駕され、「大道因果」第二十四回を著作されました。「兄弟姉妹の情誼と情義」について、極めて明瞭に分析を加えられ、有情衆生がその中の全ての因縁の起こりと結末を理解できるようになさいました。
同じ両親から生まれた兄弟姉妹であっても、各人の習性、習慣、気質、個性はそれぞれ異なる。時に双子の兄弟姉妹であっても、必ずしも同じ運命や気勢を持つとは限らない。ましてや一人ひとりが、異なる因果応報と善良な福報の循環を有しているのである。
2015年、0308、2011◎＃※   ０Ｋ；
幽冥天子第三殿  宋帝王
幽冥世界が降臨し来たり　　三殿宋帝が書を著わし並ぶ
大道因果二十五回　手足の親人楽しく和やかに
第廿五回　   手足親人
手足の縁、親族の縁
人間が生存する過程においては、必ず自分の親族と家族が存在します。それは互いに生活の面倒を見合い、支え合うためです。人間が成長する過程において、これらの兄弟姉妹や親族は自分にとって非常に重要です。両親と子供の間の情愛以外にも、兄弟姉妹や家族との間には非常に親密な関係が築かれています。
手足や家族、親族が共に生活することにより、あらゆる機能や働きは、有情衆生に対して大きな相互補完の役割を果たすはずです。まさに古人が「虎を討つにはやはり兄弟の力が必要」と説いたように、人道世界には倫理綱領に依拠する必然性があり、この縁によって人倫と親情が保たれ、あらゆる行為や動作が生まれるのです。
各家庭の者が生活の世話をし、すべての行いが親族の倫理に守られて営まれる。これは天の授けであり、人のよりどころである。そこには親族への帰属感があり、人倫道徳によって親族縁を全うし、兄弟姉妹眷族として共に暮らすことができる。これはまことに羨むべき倫理的親情と言えよう。
また、倫理道徳の規範に従って維持することもできる。人道世界の日常生活は人為的な要因によって世話されるが、どのようにして倫理と親情をより大きく成就させるかは、良き因縁によって同じ家庭に生まれ育つことが必要である。古くから「十年の修行で同じ船に乗り、百年の修行で共に枕を並べる」と言われており、このような因縁の条件は非常に貴重なものである。
親族眷屬と手足の縁
また、このような因縁によって家族として生まれる機会を得ることは、非常に稀な縁であり、人間同士が互いに成長し合うことが正しい道である。しかし、因果応報の理においてはどうであろうか。この因果応報こそ、前世と累世によって形成され、今生におけるすべての善悪の因縁となっているのである。
親しい人々の生活に身を置き、互いに恩返しや恨み返しをするということは、一つひとつの行動がどのようなものであるか、前世の因果関係がどのようであるかに関わってきます。なぜ同じ家族の一員でありながら、恩返しに来た者もいれば、恨み返しに来た者もいれば、家系を継ぐために来た者もいるのか。それらがすべて未来の目的を形成していくのです。
まさに過去世のすべての因縁果報が、未来の成果を促し、善悪の因縁果報を今生今世に植え付けているのです。前世の福と禍の因縁こそが、今生今世のすべての相互作用を生み出し、それが良いか悪いかによって、人為的要因の善悪と福禍が区別されるのです。
この善悪と福禍の区別は、この家庭に福報の加増と悪禍の報いをもたらします。すでに果報の中に入っている以上、どうして最も軽い懲罰まで減らすことができるでしょうか。もし福報が加わるときには、どうすればより大きな福報をもたらし、福の縁を延ばすことができるでしょうか。これは心のあり方と行動に関わることです。
親しい人との手足のような情誼
果たしてありのままに返済と報恩をさせるべきかどうかは、まさに有情衆生が最も理解し難いことの一つである。人間界の有情衆生には、自分以外にも多くの家族構成員、すなわち自分の親族が存在する。このような人倫の親情は、有情衆生の生活の方向性において、家庭全体の教育の模範と深く関わっている。
一つの家庭を例にとると、父母の「身をもって教え、言葉で教え、しつけをする」ことは、倫理を基盤としています。父母の言行や振る舞いは、すべて親族や家族が模倣する対象となります。また、父母の行動や態度は、すべての家庭構成員の将来の行動や態度、人との接し方、物事への取り組み方、そして心構えや考え方に影響を及ぼすのです。
もし宗教的信仰があれば、行動にもよりどころができ、両親や目上の人の行いにも模倣する縁が生まれます。「上梁正しければ下梁も正しく、上梁正しからざれば下梁は歪む」というように、これは教育における模倣行動であり、目上の人や両親の行動を通じて、良し悪しの習慣の差も生まれてくるのです。
この家族の教育水準がどのようなものかを理解できるだろうか。どのような家庭があれば、どのような行動規範が生まれるのか。古くから言われているように、「孝順な親からは孝順な子が生まれ、不孝な親からは不孝な子が生まれる」、「門前の水を信じられなければ、軒先に滴る一滴一滴を見よ」と。古人の言葉は非常に正しく、父母に対する言動や振る舞いはどうあるべきだろうか。
父母も子孫も皆同じ血縁である
必ずや全ての子女や子孫、あらゆる親族や家族の言動に関わり、まさに一つの綱領的条件があって伝承と依拠がなされる。人道世界の言動はまた一代から一代へ、一世から一世へと伝えられ、中国の炎黄の子孫は倫理と親情をもって、あらゆる人倫道徳の依拠となる行動を維持しているのである。
また、人倫道徳の構築を軽視することはできません。倫理と親情はそれぞれの家庭の模範的役割を果たします。親は祖父母の家風を受け継ぎ、自分は親の教育を受け継ぎ、後の子孫や子供たちも自分の教えを受け継ぎます。すべては両親や祖父母のあらゆる言動が、自分自身の生活習慣の中に取り入れられていくのです。
人としての行動規範の枠組みは、家庭教育の水準によって伝承されるものである。人的要因は教育水準に良好な模範をもたらすことができるが、人類の衆生はしばしば教育と教化に抵触する行動を起こし、多くの悪しき手本を生み出すことになる。これはまさに、父母や祖父母がどのように人として振る舞っているかに深く関わる問題なのである。
昔は人類には教育が普及しておらず、今日では文盲は大きく減少しました。有情の衆生における親族関係や兄弟姉妹の情愛は、あらゆる倫理と親情を支え合い、相互関係の枠組みを築くものです。自分と共に育ってきた家族と共に生きることは、いかに容易ならざることでしょうか。父母にとっては、手のひらも肉ならば、手の甲も同じ肉なのです。
手足の親族と眷属は互いに因縁を結び合う
どちらが良い悪いという関係ではなく、前世や累世の善悪の因縁によって、同じ両親から生まれた子供でも、福徳に恵まれて恩返しに来る者は、比較的両親の慈愛や寵愛を受けやすく、もし怨みを晴らしに来る報怨者であれば、比較的両親の慈愛や寵愛を得られにくいということになるのです。
これは親としての心情である。子供が良かれ悪しかれ、皆自分自身の心血の結晶であり、苦労して育て上げたのだから、愛おしくないわけがない！まさにこのような縁によって、この親子の情は頂点に達する。親が子供を愛おしもうと、愛おしまざると、全ては親から生まれた子なのである。
自身の手足の情誼はどうして断ち切れようか？いや、断ち切れない。しかし、兄弟姉妹への因果もまた同じである。ある者は、ただ父母が腹を借りて生んだだけに過ぎず、未来の一切の因縁果報による報いと償いも、また過去の因果に対する報復であり、もはや現代とは異なる。どうして言えようか！
まさに「時空因縁」が十六倍に縮まったことで、以前はほとんど見られなかった因果応報が今や目に見えるようになりました。これをどう変革し、業果の報いを減らしていくかは、一人ひとりの行動や振る舞い、そして累世にわたる因果の清算のあり方にかかっています。それは人道世界における兄弟姉妹、父母と子女、親族関係を通じて実現されるのです。
手足の情、親族の縁、これらは因果の理に基づくものである。
手足の情誼を心から喜んで返済すれば、本来の業障因果の討伐をしばしば減らすことができ、人為的な努力によって業果の討伐を軽減し解消することができる。これは、上蒼が最も誇りとする一種の因縁果報の討伐であり、人道世界での日常生活において、累世にわたる総決算を行うものである。
すべての因果関係を解消し軽減し、良き変化をもたらすことが正道であり、さらに人為的要因によってより大きな成就が可能となる。人為的要因をもって前世の因果の報いを克服し、良き変化を生み出し、また過去の悪しき行い、すなわち汝が誰を辱め虐待したかによって、今生今世にはその者が汝の家に生まれ落ちることとなる。
汝が最も好み、最も慈しむ者、前世のすべての行いと動作を、逆の方向から成就させることで、汝に大きな苦労と配慮をさせ、過去のあらゆる善悪の因縁を、今生において家族の一員として汝の家に生まれさせ、自らの父母、夫婦、子女、兄弟、姉妹、親族、そしてすべての成員となるのである。
また前世において、あなたが人をあまりにもひどくいじめ、あまりにもひどく踏みにじったその時、怨みを返すことなく直接あなたの家に生まれ落ち、まさにあなたに前世を改めて変える契機を与えてくれた。これは天の巧みな計らいであり、あなたの前世が人を欺き、人に背き、人を損ない、人を害し、人を傷つけ、人を殺害する…など、あらゆる業障の因果を問わずに。
兄弟姉妹は善悪の因縁に牽纏せられ
この世において、あなたに業を改め清める機会が与えられる。このような成全は、有情衆生にとって真の業障消滅の天与の良縁である。また、あなたが注いだ心血と慈愛は人一倍深く、常にこの家族を思い、前世の行いを償おうとしている。
対象：人を傷つけ、害し、殺害し、踏みにじる行為…これを「愛護と慈しみ」の方法に置き換え、彼らを成し遂げ世話することこそが、まさに因果応報の償いである。あなた方はその巧妙さをどう思うか、そうではないか！また、父母の恩情はいかがであろうか？夫婦の情誼はいかがであろうか？子供との親情はいかがであろうか？
兄弟姉妹の情愛はどうであれ、親族が共に暮らすことはどうであれ？その中にはあまりにも多くの善悪の因縁があり、それが今世のあらゆる行為や動作に刻み込まれている。あなた方から見れば、前世と累世のあらゆる善悪の因果が、未来の報いとして互いに補い合い、すべての善悪、良し悪し、福と禍の区別を生み出しているのである。まさに極めて公正で平等な報酬と報復であり、人々に警戒心を抱かせるものなのである。
父母との縁は良くも悪くもあり
兄弟姉妹は懐のように温かい
親戚眷屬自家人 　 　一切惡禍必要改

親族眷属、身内の者たちよ、
一切の悪しき禍は必ず改めなければならない。
人はこの道を歩みて一生を過ごす
起居生活かくの如く真なり
いかに成長し変化するか
悪しき因果は災いを招き、善き行いには仁愛が宿る
この偈は、すべての有情衆生が互いに励まし合うものです。手足や親族を自分の家族と見なし、それぞれが報いを求めに来た者と恩返しに来た者であると分かれば、前世と累世におけるすべての善悪の因縁がどのようなものであったかが明らかになります。まさに福と禍の区別であり、この時に心から喜んで償い、来世に悪しき因果を再び造らないことができるかどうかが問われるのです。
また個人の心の状態や考え方、行動の仕方も形成されます。どう改善していくかが正しい道なのです！心から崇心の「大道因果天書」の著作に感謝し、すべての幽冥天子が相互に大いなる因縁を成就し、有情衆生が教育によって成長し教化が成就できるようにさせていただきました。皆様、ありがとうございます。しばらくの間、崇心にお邪魔いたしました。それでは皆様、またお会いしましょう！
南天斉揚天尊
南天の世界より降り来たりて儀を整え　天の音を斉しく揚げて情義あり
天尊は今日、輪番の当番に就かれ、大道の因果を記す書の時期を定められました。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥天子第三殿の宋帝王がご降臨され、「大道因果」第二十五回を執筆されました。「手足親情眷属」について詳しく分析し、どのように親族間の因果業障を互いに清算し、人類衆生の普及に役立てるかを論じられています。
しかも心から進んで償いをすることができてこそ、はじめて累世にわたる業障を真に取り除くことができる。もしも世に出て自分の家族のために働くことができなければ、どのようにして報いを求めるのか。これについては次回の著作で一つ一つ分析し、あなた方に天機の良縁を真に理解してもらおう。つまり、情ある衆生が互いに助け合いを提供することであり、それは人間界に対して善良な規制をもたらすのである。
2015年、0308、2012◎＃※   ０Ｋ；
幽冥天子第四殿 五官王
幽冥世界の衆原霊　四殿天子降り来たりて迎え奉る
五官王は第二十六回を著す　　至親の関係は徳意を引く
第廿六回　   至親關係
人類の最も親しい関係
人道世界の倫理道徳規範は、有情衆生が家庭の繁栄を維持することを可能にします。これには、父母、夫婦、子女、兄弟、姉妹、およびすべての家族成員が最も親しい関係にあり、すべての人道的世界に親情の倫理を相互に結びつけて提供し、すべての生活上の問題点を解消することができます。
古くから言われているように、「虎を打ち賊を捕らえるには兄弟が頼り」というのは、千古の昔から、最も親しい関係は切り離し難い縁であり、この親情よりも貴重なものはなく、最も親しい関係の倫理道徳を破壊することもできません。一つの家庭において、すべての兄弟姉妹は同じ父母から生まれた子孫なのです。
ここで言う人道世界とは、遺伝子の本質が同じであり、同じ家庭から生まれ、同じ環境で育った子孫は、その遺伝子の本質が非常に似通っているということです。この遺伝子の本質が非常に似通っていると同時に、生活習慣も同じになります。このような家族の成員は、親子の情愛の温かさをもって互いを補い合うのです。
いかなる悪い環境においても、互いに助け合い、情誼を重んじて支え合い、互いに思いやるものがある。古くから言われている「虎を打ち賊を捕らえるには兄弟が頼り」という格言は、兄弟姉妹や家族全員を含むものであり、これはあらゆる物事の良し悪しに関わらず、互いに支え合い思いやるという真実を表している。
至親関係の相互因縁
さらに、内側に向かって一致し相互に支え合うことがあり、外側に向かって砲口を向けるような不足は生じない。これは兄弟愛が姉妹の感情をも包含し、また最も親しい関係が同じ生活を一時共有することで、兄弟姉妹がそれぞれ結婚した後も、すべての感情がなお相当に良好に維持されることになる。
もし家族の一員に何か事があったり、結婚や葬儀、慶事などの日取りがあれば、遠近を問わずすべての家族が集まり、大家族としての天倫の楽しみを共にする。このような親族の倫理は、互いの絆を深め感情的に寄り添い合うものであり、縁起によって結ばれたこの有情世界において、良きことも悪きことも共に支え合い、互いに慈しみ合うのである。
共同に受け入れ、処理することで、物事を解消し円満に収めることができます。人道世界における生活の方向性は、道徳や親族間の倫理規範に依拠しており、まさに最も親しい関係が相互に依存し合うものなのです。人道世界には最も親しい関係が存在し、それぞれの兄弟姉妹が婚姻した後、生まれてくる子孫たちの間にも、相互に深い親族としての感情が働くのです。
一組の父母から生まれた子供たちは、それぞれに縁組の因縁があります。このように婚姻を結んだ後には、兄弟とその嫁たちからなる家族、姉妹とその婿たちからなる家族が生まれます。これらは妻の実家と夫の実家によって形成され、すべての親族関係は、それぞれの人が持つ善良な情誼に差があるかどうかによって維持されるのです。
至親の関係は互いに寄り添い合うもの
もしも親密な情誼がなく、さらに多くの親族同士の結びつきも持てないならば、その人は比較的孤独で、姻戚家族の成員と溶け込むのが難しくなるだろう。それゆえ、人道世界の有情衆生は常に異なる役割を変え、一人の人間が父母、叔伯、兄弟姉妹の配偶者、そしておば、叔母、おじなどになることができるのである。
有情なる衆生は、一人ひとりが多くの役割を担い、異なる世代の立場を演じることができます。まさに同じ一人の人間でありながら、異なる役割を引き受け、異なる世代の立場を演じることができるのです。また、どの視点に立つかによって、その役割や世代の立場は入れ替わります。ですから、人は常に異なる役割と異なる世代の立場を演じているのです。
また、夫と妻から派生するあらゆる親族関係こそが、親戚同士の縁を結びつけるものである。人類は群居動物であり、同じ地域に住みながらも、しばしば一つの地域を往来し、あるいは異なる国や他の地域へと移動する。これはまさに「驛馬星動」を形成し、遠く離れた他国へと旅立つこととなる。
これは親情の集いであり、別離の思いや疎遠の感情の中にあっても、この一生のすべての親族との情を保つことができる。たとえ千里万里隔たっていても、また今の時代は科学技術の恩恵により天涯も隣人の如く、時空や国境の環境を問わず、電伝やビデオ通話で迅速にお互いに連絡を取り、意思疎通を図ることができる。
親密な感情にも親疎の差がある
この科学技術文明は人類の衆生にもたらすものとして、より大きな機能と効果があり、兄弟姉妹の情誼を維持し、比較的長く堅固に保つことができます。肉親関係において相互に連絡を取り合い、善悪の因縁を区別せず、夫と妻のすべての親族に対して相互に補い合い、同時に善良で良い因縁を増長させることができます。
あなた方は、自分自身や夫婦のすべての親族関係に対し、一筋の深い縁を保ち続けていますか。どれほど遠く離れた時空の環境にあっても、この親族の情愛を維持し、互いを高め合うことができます。また、前世のすべての因縁果報が、今この世の今生に植え付けられているのです。
有情世界の万物衆生が互いに結びつく時、まさに古くから言われる「虎を打ち賊を捕まえるは兄弟に限る」という良い縁であり、すべての良い結果は自分自身の兄弟姉妹としか分かち合えない。もしそれが良くない縁であれば、すべての兄弟姉妹、および関わる親族を困窮と苦痛に巻き込むことになる。
このような善悪の因縁果報はどのように報いを求めるのかというと、それは良縁と悪縁の区別に関係しており、皆兄弟姉妹の近親関係や親族関係の中で、互いに絡み合い結びついているのです。もし良縁であれば良い福報が加わり、もし悪縁であれば互いに報復し合うことになるのですが、一体どういうことなのでしょう！
至親の因果報いをどのようにして解消するか
そうなれば、すべての家屋敷や田畑、父母や先祖が苦労して蓄えた財産がすべて消え失せてしまうことになります。まさに世間で言う「富は三代続かず」ということで、あなた方はこれに対してどのような感慨や痛みを覚えますか！頭を抱えますか！恨みますか！無念に思いますか！このような報いと因果応報の差は、人道世界においてはどうしようもないことなのです！
このような因果応報の裁きは、有情の衆生には理解し難く、いつ因縁果報による裁きが訪れるのか？実に難しいことです。往々にして最初は、すべての親しい関係者に甘い言葉を与え、次第に因果の業障による裁きが形作られ、徐々に表面化してきます。もし警戒心が足りなければ、その時にはもう遅いのです。
一生懸命に努力し、苦労して築き上げたものが、やがてすべて跡形もなく消え去り、また一からやり直しになるでしょう。さらに、無一文になるだけでなく、数百万、数千万、数億もの借金を抱え、債権者が毎日のように取り立てに来るようになれば、この人生で立ち直るのは非常に難しくなり、耐えがたいほどの苦しみを引き起こすことになるのです。
この前世と累世において、いつ造られたかも分からない悪しき「業因、業果、業障、業報」が報いを求めて来るとき、有情の衆生のうち、一体誰が悟ることができようか。天があなたに与えた福徳と財運、そして生涯をかけて苦労して蓄えたすべてのものは、次第に消え去っていく。これはまさに前世の因果が公正に報いを求めることに符合しているのである。
親族関係の討伐が形成される
改善できるでしょうか！それはまた、一人ひとりの福報と陰騭がどのようなものであるかに関わってきます。必ず仙仏に祈願して転換を請い、一人ひとりの福報と陰騭を、前世の怨親債主との間で移転の働きをさせなければなりません。そうすれば、この世における多くの討伐の働きを減らすことができます。また、双方の怨債がどのようなものであるかも見る必要があります。
しかし、すべての人がこの方法を使えるわけではありません。一体どれだけの衆生がその中のいきさつを理解できるでしょうか？いいえ、できません！前世と累世にわたるすべての因果循環は、まず冥府の地蔵殿に訴え出た後、もし冤罪を造った者自身の気勢が非常に強ければ、冤罪を受けた者が討伐しようとしても、そもそも不可能なのです。
南無地藏王菩薩の大いなる道理による啓示により、この場面ではただちに討伐を行うべきではない。冤罪を受けた者はこの因果の報いを求めることができるが、一時的に時空の因縁を遅らせ、その気勢が弱まるのを待ってから討伐に及ぶべきである。もし冤罪を造った者が生々世々にわたって気勢が非常に旺盛であるならば、いかにして討伐すればよいのか？
まさに、上天は冤罪を受けた者に、冤罪を作った者の家に生まれ変わり家族となることを定められたのです。この時、報復を求めることも比較的容易になり、冤罪を作った者に大いに好かれ愛されることとなり、また喜んで受け入れ、細やかな気配りを惜しまず注ぐことができるのです。言うなれば、まさに前世で冤罪、欺瞞、辱め、侮辱、侵害などを受けた者に対しての真の報いと言えるでしょう。
最も親しい家族も円満にすることができます
この世で互いに決着をつけ、前世の因果業障の清算を果たすために、あなたは前世で人を虐げたが、今生ではあなたを掌中の珠、心の肉のように慈しむ。前世の記憶はすべてなくなり、異なる視点と役割へと再調整され、かつてのすべての横暴、傲岸、強権は改めて変えられていく。
有情なる衆生に対しては、自分自身の最も親しい因縁に深い慈愛を抱き、進んで牛や馬となって前世のすべての因果業債の報いを償おうとする。自分ではなぜそうなるのか理解できないが、これは因果応報の直接的な受報に合致し、また進んで家族のすべての田畑や財産を破壊するために来るのである。
怨みを抱く者に対しては、相当な苦痛と苦しみを共に感じる。もし破壊され尽くし、さらに怨みを抱く者に身体を損壊された後は、すべての親族、財産、人間関係、家庭、そして様々なものが次第に遠ざかり孤立し、ただ一人だけが残る。さらに怨みを持つ債権者に対しては、心が晴れやかになるような喜ばしい報復の行動を取ることになる。
また人間の行為を例に取ると、一つの出来事の経緯がどのようなものかを見ることができる。まさに千真万確であり、有情衆生に因果応報の恐ろしさを戒めているのだ！怨みを造った者は、今生で人間として生まれ出る時、前世と累世における善徳の因縁と悪しき因縁が区別され、もし二人以上の子孫が同時に報復に来るならば。
親密な関係における苦しみと変容への対処
二人以上の怨親債主がいる場合、怨みを抱いた者がこの世で苦海から脱したいと願っても、おそらく自分の思い通りにはなりにくいでしょう。怨みを抱いた者と怨みを受けた者の双方が、地蔵殿に訴え出た後、一部の者はすでに討伐の許可を得て報復に来ています。これは、上天の公正平等な因果応報の法則に合致するものです。
しかし、必ずしも有情の衆生が認識する観念に合致するわけではなく、人道世界の規範と公理には、「哀れむべき人には必ず憎むべき点があり、憎むべき人には必ず悲しむべき行為がある」と古くから言われています。また、古来の言葉すべてに対しては、ただ人道世界の行動基準によって判断するのではなく、因果の報いとその成り行きを観察しなければなりません。
それは因果応報の法則に合致せず、大宇宙の天地に存在するすべての有情衆生が認識し、依拠する規範体系に対してである。一つの事柄は結果のみを見るのではなく、必ずその全経緯を観察しなければならない。これはまさに、上天が頒布された公正な規範体系が相互補完の原則を持つことができることに対するものであり、人道世界になぜこのような因果応報が存在するのかを問うものである。
人類の最も親しい相互の縁
これは前世と累世以来の、すべての因因果果を総合的に合わせたものであり、それによって多くの因縁果報の討伐が生じるのです。これは上蒼の公正な原則であり、地冥星に存在する因果循環にも合致しています。有情衆生がこの中の事情を理解できるかどうか、またその根本的な理由は一体何なのか？まったく分かっていないのです！
さもなければ、ただ見るだけではいけない。討伐後に残された誤った認識を、善人は報われず悪人は罰せられないと考えるなら、いかにして冤罪を被った者と冤罪を犯した者に対して、公正な規範を施行できるだろうか。また、この世の因果応報と善悪禍福の区別について、有情の衆生が理解できるように示すこと。善悪には必ず報いがあり、ただその時期が早いか遅いかの違いだけなのである。
決して現在の人生で見る認識や観念ではなく、因果応報の全ての報いでもありません。また、天網恢恢疎にして漏らさず、全ての因縁果報は決して少しも漏れることはありません。有情の人類衆生の全ての生存の方向性は、悪因を作らず、悪果を形成して償うこともないことが正道なのです。
至親の倫理を基盤とし　父母と子女は皆相応しきを得る
兄弟姉妹の眷属　　至親の関係から始めよう
因果を討伐するは容易い　　ただ親戚の誼を保つべし
お前に心から償いをさせてやる
天の大道の義に叶うこととなる
この偈を！有情の衆生と共に励まし合いましょう！「因果の討伐」に関するすべての基本的な観念を、いかに討伐して変化させるかが、次なる相互成長と善徳の契機となります。有情の衆生に対して人道世界におけるすべての無知と無明を解消し、また因縁果報の討伐を真実のままに完全に消滅させることとなるでしょう。
有情ある衆生が心から喜んで償いをなすことを願う。前世の一切の因果と業障を、こそが真実をもって今生において前世の業果を完済し、清算できる道である。皆様、ご苦労さまです。崇心の気勢は非常に盛んであり、未来において四億の仏子を引渡すには必ず大いなる成就があるでしょう。努力せよ！努力せよ！崇心宗脈をお騒がせすることしばし、皆様、またお会いしましょう。
南天正倫天尊
南天の主は聖諭を頒ち　  　倫を正す大道は化機を弘む
天尊は共に崇心堂を助け、四億の衆生を引渡して回帰の期に至らしむ。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥天子第四殿の五官王がご降臨され、崇心体系において「大道因果」第二十六回を著作されました。「至親関係の因果業報」の善悪の区別を、前回の著作と相互に連結させながら、詳しく分析してくださいます。
次回はさらに精彩を放つ展開が続きます。「大道有情、大道衆生、大道因果」という三冊の天書が相互に連関し、有情衆生の因果業報に対して如実に修整と改造を行うことができれば、より大きな実際の効力を発揮するでしょう。まさに有情なる人類衆生が受益し、向上超越するためのものなのです。
2015年、0308、2013◎＃※   ０Ｋ；
幽冥天子第五殿 閻羅王
幽冥の世界より儀式を降ろし　天子五殿にて賢契と会す
閻羅王の二十七回目の審判
親戚や友人たちの善悪の基盤
第廿七回　   親戚朋友
親戚や友人との縁
有情なる衆生が人道世界に入った後、人間関係の良し悪しや善悪の区別を付け始めます。その中で良い友人と悪い友人、良い親族と悪い親族を区別し、また自分を「主体」とする基本構造を以て、他の人類衆生を「客体」として互いに組み合わせるのです。
これらの良き親族や友人たちは、しばしば自らの生活環境や福徳を築き上げ、日常生活により大きな快適さと便宜をもたらすことを理解する必要があります。一方、良からぬ親族や友人たちは生活に悪影響を及ぼし、さらに残酷な生活環境へと陥らせ、ひいては終日借金に追われ、焦りと苦悩に苛まれ安寧を得られなくなるのです。
このように善悪や良し悪し、親戚や友人との縁によって、あなたのすべての行動基準を区別し、また人間関係の良し悪しが、現世と来世においてどのように福禍の報いとして分かれるかを理解するならば、自らの家族に対しては互いに補い合い、親戚とは相当に親密な関係を保ち、親情や倫理のよりどころとして結びついていくのです。
それゆえに、自分自身が親族関係の主体であり、前世の善悪の因縁によって、今生におけるあらゆる生活の良し悪しが分かれるのである。このような因縁による福報や財産の清算と完済をいかに行うか。親族は非常に親密な因縁の対象であり、その中でも親族は常に自分によい知らせをもたらしてくれるものである。
親戚関係の因縁の根本
良質な情報があるからこそ、外部よりも一歩早く、あなたに共有して完成を助けるのです。この種の情報は、各人の福徳の有無や、自らの判断力の欠如や不足に関わります。もしそれに冤親債主が討伐に来る時が加われば、まさに自分と親族に対して非常に残酷な打撃力を形成することになります。
古くから言われている：「虎を打ち、賊を捕まえるには実の兄弟」と。なぜ多くの実の兄弟の間には非常に強い殺傷力が存在するのか。これには前世のあらゆる因縁果報が関わっており、あなたにとって良いか悪いか、善か悪かによって親族の縁が区別されるのであれば、むしろ非常に良好であるべきではないか。なぜ多くの無情な殺傷力が生じ、家族全員に波及してしまうのか。
より残酷な行為を引き起こすことになる。その原因は、前世のすべての因縁果報によって判断されなければならず、これがこの世での相互因縁を形成する。累世を経て、前世のあらゆる悪因縁が現在の今生に入り込み、まさに因縁果報が相互に追償し合うことに符合し、それによって一日も早く清算し終えることができるのである。
この種の因縁果報の清算と完済は、必ずや自分が累世にわたって行ってきた行為のすべての清算結果に対し、各人の因果を加減乗除した後に形成されるものである。各人が累世にわたって積み重ねた因縁果報の結果が、いつ清算されるべき時機となるかは、しかしながら各人の福徳の違いによっても制約を受けるのである。
親族は因果によって報いを求める
もし一世のうちに償いを完遂する必要がある場合、時に各人の因縁果報や福徳がまだ不十分な時は、必ずや次の世を待たねばならず、つまり二世、三世、あるいはさらに長い時空を隔てて初めて清算できるのです。元々償還できなかった時空の因縁に対しては、ただ待つしかないのです。
必要な福分や福報が既に一定量蓄積された後、このようにして返済を求めようとする時、その時は比較的容易に返済する能力がある。また、相手が業を積み重ねすぎて、一生涯貧困に苦しみ、まさに散財同然の状態であれば、どうして返済を求めることができようか。これが因縁果報に対する報いの必然性である。
未来の生生世世に渡る加護として、主に討伐を根拠とし、各人の主体性を否定することはありません。もし福報に恵まれた者がこの世に加わるならば、すべての討伐行為は、上蒼による清算と統計を経た後、人為的な福報が不足している者に対しては、一生涯貧窮に苦しむこととなるでしょう。
さらに、困難が続き貧困と病苦が同時に襲うこともありますが、時に一定の福徳を積むことで、因果応報の清算が形成されることもあります。また、「冤みを造る者と冤みを受ける者」の両者において、それぞれの因果応報が独立して清算される一方、縁によって絡み合った部分は必ず「冤みを受ける者と冤みを造る者」を結びつけることになります。
親族や友人からの非難
怨みを抱く者と怨まれる者の間で行われるすべての報復行為は、自らの親族の縁の中に生じて報いをもたらすものであり、これは比較的容易に起こり得ることである。また、一部の報復は非常に強烈であり、双方から見れば、このような順調な報復による清算の中には、非常に大きな因縁が含まれている場合がある。
「冤みを造る者と冤みを受ける者」が家族の一員となると、造冤者は非常に可愛がるようになり、掌中の珠、心の肉のように大切にします。男女の区別なく同じで、さらに縁が深く非常に可愛らしく、家族全員に愛され、まさに一種の相互吸引力が働くのです。
双方により深い縁を結ばせることは、人道世界のすべての人間衆生の弱さに合致するものである。もし好ましくなければ、どうして報いを求める根拠が得られようか。あらゆる事柄の因縁の過程は、いかなる時空の因縁であれ、すでに数百年、数千年、数万年を経ている。どうしてこのような因縁果報を一つに結びつけることができようか。
まさに天地の中心において、地心鏡と人（良）心鏡の違いは、「地心鏡と良心鏡」という両者の因縁が相互に結びついていることにある。時空がいかに悠久で長遠であろうとも、すべての因縁果報は互いに連なり合い、天網恢恢疎にして漏らさず、しかもほんのわずかも漏れることはないのである。
親族や友人による因果応報の報い
親戚や友人との関係において、最良の因縁を求めようとする場合、互いに知らないがゆえに、求めることも困難であり、あなたに対して償いを求めることもできず、ましてやあなたに対して破壊や清算を引き起こすこともできません。すべての「因縁果報」の清算において、償いを求める必然性があるのは、まさにいかなる時空をも曇らせないからです。
さらに、天の基本構造と綱領に合致しており、時空の長短を問わず、報いは必ず訪れ、少しも漏れることはありません。また、累世にわたるすべての因縁果報を統計・決算し、加減乗除を経た後、誰が誰にどれだけ借りがあるか、誰が誰にどれだけ借りがあるかを計算することになります。
これはどのような因縁によって生じ、どのような条件の下で報いを求めることができるのか、有情の衆生は誰も理解することができません。自分が累世にわたってどれだけ多くの人に借りがあり、それぞれの人にどれだけの借りがあるのか、いつどのような時空の因縁で追及されるのかを。人それぞれ因縁が異なることを信じることは、まさに有情の衆生にとって最も理解しがたいことの一つです。
いかにして物事の経緯と結果を理解すればよいのでしょうか。もちろん、そこには跡をたどれるものがあります。それぞれの出来事の吉凶はどうなるのか？よく、吉凶が現れる前に前兆があるものです。「冤みを作る者と冤みを受ける者」を区別すると二種類あり、一つは人間の衆生、もう一つは無形の亡霊です。この両者の追及と償いには、いずれも脈絡をたどることができます。
親族や友人による債務の取り立ての仕組み
このような良し悪し、善悪は、まだ起こる前に「感応、夢のお告げ、直接の目撃、他人からの注意」など、さまざまな形で先に示され現れるものであり、さらにその裏には脈絡が見出せることもある。人間が感じ取る感応は、多くの場合、近い将来や半年以内、あるいは一～三年の間に、感応や直接の目撃、夢のお告げとして現れるものである。
また、他人が様々な形で示してくれる忠告も、往々にして気に留めず、記憶にも残らず、すぐに忘れてしまうものです。この中で、ある亡霊が討伐を求めることにより、このような因縁があなたの生活の中に溶け込み、その脈絡を辿ることができると同時に、まさにあなたの福報が次第に衰退していく局面となっているのです。
まずはあなたの身近な貴人との縁を断ち切り、次にすべての福徳を退けます。この時、亡霊が討伐を始めるのも比較的容易になり、多くの場合こうした条件下で討伐が行われるのです。人間の運気が旺盛であればあるほど、親族による討伐はより激しくなります。人間の衆生は日常生活の中で、よくこうした事柄を取るに足らない些細なことだと考えがちです。
そもそもあまり気に留めず、あるいは忘れてしまい、しばらく時間が経つと、より大きな破壊力を形成することになる。有情の衆生に対しては、必ず警戒心と判断力を備えなければならない。実は、上天は亡霊が因縁を討つことを許す際、必ず一～三年前、あるいは最近では半年以内に「夢での示現、感応、直接の目撃」など、様々な形で前兆を与えてくれるものなのだ。
親戚や友人ほど討伐しやすいものはない
もし警覚心のある人であれば、どのように事前に防ぐべきかを理解し、仙仏の慈悲の示唆があれば、それが真実であるならば、今この時にどのように回避し防ぐべきかに警戒すべきです。しかし、時空の因縁の下で、月日が流れ、長い時間が過ぎると、心も次第に緩んでしまいます。
かつての警戒心はもはやなく、もう大丈夫だと思い込み、さらにはこのことをすっかり忘れてしまった。しかし、逆に時空の中では、目に見えない亡霊の討伐が進行しており、機が熟するのを待ち続けながら、すべての追及事項は依然として着々と進められている。人間の衆生が時空の長さに心の警戒を緩めてしまったまさにその時こそが、討伐の最良の機会なのである。
有情なる衆生は、思いがけなく討伐を受けると、往々にして抵抗できずにどうすればよいかわからなくなり、どのようにして完済し清算すべきか、これこそが上蒼の慈悲の徳沢が、すべての衆生に対して公正平等に眷顧し護佑するものであり、有情なる衆生と無形の亡霊を区別せず、同じ公正平等な機会を提供しているのです。
人類の衆生を討伐するのは、比較的あなたが心から納得し、さらにすべての心血を注いだ結晶を捧げることを可能にします。往々にして後世の子孫によって討伐されるのは、まさにあなたの前世の行いなのです：権勢を頼んで人を虐げ、他人の財産を奪い、人の愛するものを残酷に扱い、悪性が極まり、様々な非人道的な行為などが、すべての因果の積み重ねを形成しているのです。
亡霊と人類の討伐の違い
この前世のすべての業果は、人間の衆生が最も理解できず、また認めようともしないものです。前世のすべての因果行為は、もはや検証することができず、これが自分自身の行いであることを証明する証拠もありません。よく人はこう言います：「私の前世にそんなに悪辣なことがあっただろうか？またそんなに残酷なことがあっただろうか？そんなに非人道的なことがあっただろうか？」と。
これは決して私が間違えたわけではありません。私は善良で忠実で誠実な者であり、このような残酷で悪質なことをするはずがありません。大半の有情の衆生も否定するでしょう。もし、あなたの言う通りなら、そんなことはあり得ません！あなたもしていないのですか？それでは亡霊はどうしてあなたを見つけられるのでしょうか、これは間違いではないのですか？
必要に応じて、人類の衆生は各人の「色合い、点数、暗号、エネルギー」を通じて理解すべきです。各人の遺伝子、すなわちICマイクロチップの違いは、これは偽造することができないものであり、無形の亡霊との因縁を清算する際には、このような状況の中で汝を見つけ出し、すべての報復を引き起こすことになるのです。
このような状況は、あなたが三世にわたって蓄積したものを一代で使い果たすと言えるでしょう。それだけにとどまらず、あなたのすべての財産、田畑、家屋、そして何もかも失わせ、さらに数百万、数千万の負債を負わせ、この世で立ち直るのが非常に困難で苦痛に満ちた日々を送らせるのです。すべての有形無形のものがあなたを責め立てる時、まさにこのようなことになるのです。
上蒼の定め給うた条綱
なぜ無形の亡霊を討伐するのか、そして人間が討伐するのはまさに千百倍も軽微なのに、どうしてこのようなことが起こるのか！まさに「怨みは解くべく、結ぶべからず」という中で、無形の亡霊を討伐することについて、世の中の正統な宗教や宮堂を通じて調停や説得を行えば、比較的諦めがつきやすいが、無形の亡霊が機縁を得て調停に応じるかどうかは必ずしも定かではないのではないか？
もしも各宗教や宮堂の仙仏、神々による調停と勧告の機縁があれば、過去のすべての怨恨を今この時に手放すことができます。この時、無形の亡霊はより大きな成長と利益を得ることができ、討伐の因縁と結果も大きく軽減されます。もし無形の亡霊が心を落ち着けて調停と勧告を受け入れられなければ、それは叶いません。
冤を造る者に対してより残酷な追償が形成されることになります。このような因果の討伐が無形の亡霊と人類の衆生に対して追償する際の区別は非常に大きく、また因縁果報による討伐をどのように転換し、和解の機会を得ることができるかは、必ずや冤を造る者自身の心構えと観念がどうであるかを見る必要があります。常に円満に解決できるとは限らないのです。
この中で冤罪を作った者自身が、心から甘んじて受け入れる心構えを持つことで、この冤罪の借りを消化しやすくなります。これは上蒼と仙仏が望む円満な結局です。もし冤罪を作った者が信じず、ごまかし、帳消しにしようとせず、さらにひどい場合は口汚く罵るようなことがあれば、その時こそ冤罪を作った者の未来には苦しみが待ち受け、常にこのような状況に陥ることになるでしょう。
無形の亡霊討伐の破れ果て
常々あなたの家庭に干渉し、あなたをいつもびくびくさせ、一日中安らぎを得られないのは、あなたが信じようと信じまいと、前世と累世のすべての悪しき因果が報いを求めているからです。この一生で蓄えたものはすべて使い果たされてしまいましたが、冤罪を被った者たちはどうなっているのでしょうか。今生で求めているすべてが円満に解決するかどうかは定かではありません。なぜこのようになってしまったのでしょうか。
冤みを造った者が現世の福報を消し尽くすことで報いを受けるのは、ただ被害者が過去の累世にわたる怨恨を解消するに過ぎず、このような報復は「冤みを造った者と受けた者」双方にとって何の益もないのです。来世はどうなるでしょうか？これは有情の衆生が最も犯しやすい過ちであり、まさに容易に忘れ去ってしまうことなのです。
時空の因縁が再び巡り来て、またしても汝らはどうすることもできまいか？汝のこの一生のすべての努力、そして汝が好み、大切にし、心から愛するすべてのものを消し去り、破壊し、汝を満たすことを許さず、さらにすべての人との関係、親族関係、すべての「良き縁」からも汝を引き離すのである。
さらに、あなたに対して相当の嫌悪感を抱き、すべての人間関係、親戚関係、友人関係、さらには家族さえもあなたを許さず、嫌い、憎むようになる…など、あらゆる支援の道が次々と断たれ、あなたのすべての努力は無に帰するだけでなく、むしろ多くの負債を抱えることになる。
冤親債主が無形の姿で討伐に来る
あなたが今生この世で顔を上げられず、毎日大勢の債権者が取り立てに来て、東に隠れ西に逃げ、永遠に立ち直れないようにしたら、人間はどんな気持ちになるだろう？どうしようもないだけだ！この世にはこのような状況が至る所にあるが、どうやってこの問題を解決すればよいのか。人為的要因に対しては、変化こそが最善の方法である。
この方法は、まさに心から喜んで返済するものであり、まるで自分の子供に対するかのように犠牲を払い、無私無為に返済し、世話をすることである。もし返済を望まないなら、自分はすべてがゼロに戻り、すべてが一からやり直しになり、再び独りぼっちになるという心の準備をしなければならない。これは比較的消極的なやり方である。
しかし積極的な方法としては、前世の怨親債主（冤罪を受けた者）に対して、まずこれらの前世で冤罪を受けた者たちに回向することが求められます。有情の衆生はまたこう言うかもしれません：いつ怨みを持つ者（怨親債主）に遭遇して報復されるかわからないのに、なぜ先に回向しなければならないのか？もちろん回向しなくても構いません、自分に解決する能力があればそれでよいのです！
前世にどれだけの負債があるかを知ることができるでしょうか？いいえ！まず廻向することで、後の討伐も軽減され、さらに怨親債主も手放すことを望むのです！もし討伐の令状を受けて来る者がいれば、必ずあなたの前世がどれだけ人に負っているかを見るでしょう。今生ではそれだけを清算し、それだけを廻向すべきです。そこには根源があり、すべての経緯には、辿ることのできる脈絡があるのです。
有情の衆生が前世において負った借り
さらに言えば、これはかなり公平かつ公正なことである。前世のすべての因と果が今生に持ち越された後、天があなたがいくら清算すべきかを計算し、冤親債主に返還するのだが、その請求があまりに過剰な場合がある。この中には非常に重要な動力体があり、今生で返した一切は、必ず来世で再び差し引かれることになる。
もし今生においてすでに報いを受け終わったならば、来世にはもうつきまとってこない。最も恐ろしいのは、怨親債主がすでに報いを求めに来ているのにまだ信じず、無形の亡霊に取り憑かれた結果に対しても依然として我が道を行き、さらには口汚く罵ることであろう。おそらく今生今世において、多くの苦痛が身を侵すことになり、まさに因果応報の公正な原則に合致するのである。
冤親債主は無形の存在として干渉してきますが、この無形の干渉は有情の衆生には見ることができません。もし人間に対して形ある姿で攻撃してくるならば、比較的警戒しやすいものです。形ある姿での攻撃に対しては、警戒心が生じて防ぐことができます。また、一般的な攻撃の方法は形や相があるものですから、そこには手がかりをたどることができるのです。
冤親債主が示現する
まずあなたに十分な好意と喜びを生じさせ、相手を認め、好きになり、賞賛する。すべての良い表現を、自分が好きだという心の状態と観念の中に完全に示し、あなたにこの中のすべての好意と喜び、そして慈しみが非常に強烈になることを十分に信じさせる。これは有情衆生が最も防ぎにくいことの一つである。
相手の甘い言葉を聞いて気に入ると、まるで相手の蜜の矢に射抜かれたかのように、容易に抜け出せなくなります。この時、全ての判断力を覆い隠す目隠しがなされ、古くから「鬼が目を覆う」と言われる状態に陥ります。この状況は、あなたにとっては心から進んで受け入れるものでありながら、またどうすることもできないものなのです。まさに、被害を受けた者――怨みを持つ縁者や債権者にとって、より大きな報復の機会を与えることになるのです。
人間の衆生は、しばしば「鬼に目を隠される」ことがある。自分自身の判断力がいかに鋭く、警戒心がいかに優れていようとも、この状況、つまり汝の運勢が下り坂を歩み始める時、未来の苦果はすでに汝を待っている。心から甘んじて償うことができるのか、それとも前世の行いが理解できずにいるのか？
親族の因縁は報いを求める基　  　友人の善悪は関係の縁
甘い言葉をかけてあげる　相手の素敵な話しぶりを賞賛する
怨みを作り怨みを受けるは皆一つの縁
怨親債主に良き機会を得たり
目を覆えば理を見難く　判断誤りて報いの期を償う
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合うものである。また、親戚や友人に最良の機会を討つべき理由があるならば、どのような心構えでそれを成就させ、前世の因縁と果報を解消できるかが、上蒼の公正な法理と規律に合致するのである。今日、崇心宗脈の気勢が非常に盛んなのを見ると、未来の弘化は期待できるであろう。
南天斉揚天尊
南天の天界より崇心を降ろし　共に大道を揚げて衆生を導く
天尊今日は当番に来られて　大道因果の天書が新たに
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥天子第五殿・閻羅王がご降臨され、「大道因果」第二十七回を執筆されました。「親戚朋友善悪因縁」を分析され、このような無形と有形の討伐に対し、いかに完消と清償を行うべきか、皆様により大きな明示を与え、すべての人々が共にこの成就と向上を果たせるようにすることこそが、まさに正道であります！
2015年、0308、2014◎＃※    OK；
幽冥天子第六殿 卞城王
幽冥の世界に原霊を渡す
天子六殿の徳意に導かれる
卞城王は二十八回を著す　　　　　同輩の友、情義に厚し
第廿八回　   同儕朋友
同輩および友人関係
親族や家族は同じ親密な関係であり、同輩は一般の友人よりもより近しい関係です。親族関係と友人関係は比例関係にあり、同輩について言えば、朝も晩も共に過ごすことでより大きな因縁の体があり、また親族、友人、同輩を区別することが促進されます。つまり、あなたを知っているからこそ、報いを受けることができるのです。
良き親族、良き友人、良き同輩、そして悪しき親族、悪しき友人、悪しき同輩は、因縁果報においてはこの条件によって、報いを求めるものと福報をもたらすものの二つに分かれます。有情衆生に対し、前世におけるすべての良し悪し、善悪、禍福の因縁が現在のこの生に植え付けられることによって、「因縁果報」が形成されるのです。
これはまさに、人類衆生の生活における因果の法則を循環させており、未来のすべての報いと福報を分かつものである。友人に関しては、親戚の範囲には含まれず、友人とは「益者三友、損者三友」と区別される。つまり損得は半々であり、それゆえに良好な心の通じ合う友人は、親戚よりも一層深い交わりを持つことになるのである。
良好な親友関係は、互いに補い合いながら成り立つものです。良き親友は身を挺して助け合い、互いを高め合うことができます。このような真の親友関係は情義をもって交わり、友情をもって支え合うものです。どんな事柄や問題があっても、共に情義を尽くし支え合い、共に歩んでいくのです。
同輩の友人によって定義される
人界において親族が果たす役割は、非常に親密な関係を持つことです。友人には直接的な親族関係はありませんが、良き理解者は自分の肉親よりも親密になることがあります。これを「義兄弟の契りを結ぶ」と言います。また、友人の義理や友情には相応の支援や交流をすべきであり、それはあなたがどれだけ誠意を尽くすかによって決まるのです。
他人から見返りを得られることが、友の定義である。自分にとっての損得で友を区別するのは、まさに「益者三友、損者三友」である。その中で、友が義理堅く支え合えるか、真心をもって交われるかによって、良き友か悪しき友かが分かれるが、これらは顔には書かれていない。
善き友と悪しき友を見分けることは必要であり、一朝一夕で真の情義や友情の厚さを知ることはできません。必ず何か事が起こった後で初めて、自分が交わっている友が損友か益友かを理解し、誰が自分に情義を尽くし、誰が友情を示し、誰が足を引っ張り、誰が責任を一切取らないかを知ることができるのです。
誰が落井下石（らくせいかせき）をし、誰があなたを火坑に押し落とし、誰がさらに死体を滅跡したのか。これら損益三友（そんえきさんゆう）は、自分が普段から払ってきたすべての行いを通して、自分の言動がどのようなものであったかを観察するものである。なぜ他人の交わる友人は自分を助ける貴人であり、自分が交わる友人は多くの言い訳を並べるばかりなのか。
友人同士の損得
良いことは自分には縁がなく、悪いことには巻き込まれ、さらには足を引っ張る者が大勢いる。自分にとっての益友と損友の行いを区別するには、一人ひとりの心構えや行動に加え、前世や累世の因縁果報も関わってくる。それによって善福と悪禍の因果応報が分かれ、あるいは福報が巡り来るのである。
まさに自分が今生で人をどのように扱い、物事をどのように受け入れ、対応するかが、他人が同じように自分に接する態度に影響を与えるのです。自分が受け取る結果や報いは、すべて自分自身の行いによって決まります。同じ職場、会社、そしてすべての関連する組織においても、共に働く多くの人々が存在するのです。
区別なく宗教団体と事業団体、その他の団体において、このような縁はまさに縁であり、さらに多くの同僚同士の相互的な縁があります。古くから「十年の修行で同じ船に乗る縁を得る」と言われますが、もし縁あって同じ団体で共に働くことができても、必ずしも同じ部署にいるとは限らず、前世からの様々な縁が分かれているのです。
この世でどのような善い因縁や悪い因縁が共に働くかを区別するには、そこには前世と累世が重なり合った善悪の因縁が多く含まれており、あなたが人としての処世を円満にできるかどうか、周囲の同僚との同僚としての絆は、友人よりもさらに深い関係にあり、互いに共にある因縁があるのです。
同輩の因縁はまたどのようなものか
古くから言われていることですが、互いの性質を知ることができれば、良い関係を築いて共に生活することができます。この共同生活や協働において、同僚同士がお互いの習性、習慣、個性を理解し合うことができれば、それぞれの習慣性を把握することができ、同じ職場で共に働くことができるようになります。
このように同僚と共に働く中で、どのような行動や振る舞いが人から好かれるかということは、職場において必ず理解しておくべき考え方である。もし人から好かれない状況があれば、自分自身の人間性を理解し、人との接し方や物事の進め方を反省すべきである。人から嫌われるような人物は、同僚からの相互支援も得にくい傾向にある。
あなたの人生では、貴人が少なく、小人が多いのです。しかし、貴人も小人も顔に書いてあるわけではありません。普段のあなたの言動や立ち居振る舞いが、他人の目には奇抜で風変わりな人に見えるかどうかです。まるで世間で言われるように、あなたは変わった人です。このような変わった人は、周囲のすべての人と相容れない存在となるでしょう。
また、簡単に他人から排斥されてしまうこともあります。そんな変わり者に対して、あなたはこう言うかもしれません：自分の行動の不足や誤り、欠点を反省したことがありますか？これはとても難しいことだと思います。なぜなら、誰も自分が変わり者だとは思わないからです。同僚の間で互いに仲良くやっていけるかどうかは、一つの職場単位の中でのことです。
誤った行いを改める
自分では全ての言動や行動が極めて正しく、何の誤りや欠陥、不足もないと思い込んでいる。この中には、本来ならば得られるはずだった多くの機会が、容易に流れ去ってしまうことがある。この問題の根本的な原因はどこにあるのか？それは、あなたがこの組織や集団の中で、人々から変わり者と見なされていることにある。
互いに打ち解けることができず、常に一人で行動し、さらに性格がかなり孤高で、一緒に仕事をすることもできず、この部署や団体のすべての制度にも適合できない場合、人々は陰で指をさし、常にあなたの足を引っ張り、デマを流し、さらに誹謗中傷を浴びせることになります。
もし昇進の機会があったとして、時期を選ぶならば、普段からあなたは人付き合いが苦手で、他人の一言で押しつぶされ、昇進の機会を失ってしまいます。自分で考えてみてください：なぜ自分より遅く入った後輩の同僚が、すでにあなたの上に昇進しているのか、そしてあなたは一生懸命努力してきたのに。
後になっても、依然として一つの単位や団体に溶け込むことができず、言えることは：仕事はまだ及第点だが、人との関係では互いに円満になれず、まさに自分の嫌な性格が、あなたの人生に必要な多くの良い機会を阻んでいるのです。もしこの問題点に気づくことができれば、あなたにとってあまりにも惜しいことではないでしょうか？
同僚間の支え合いと足の引っ張り合い
このような仲間同士の情誼と相互扶助は、時に他人の一言が、ある人に大きな成功をもたらすこともあれば、ある人のすべての苦労と努力を無にし、本来の機会を消失させてしまうこともある。では、あなた自身の性格はどうだろうか？人との接し方は？なぜ他人の努力は周囲から認められるのだろうか。
自分はとても努力し、よく尽くし、とても正直で、剛直で不正を許さず、貪欲でもなく清廉潔白で、他人の是非も言わない。それなのに、なぜ同僚たちはみな自分を好かず、嫌い、排斥し、認めてくれないのだろうか。自分はそんなに人に好かれないのか？まずは、自分の人付き合いの中で、他人の目には変人に見えていないかどうかを理解する必要がある。
奇抜な性格や変わった癖がたくさん出てくると、みんなと円満に融合するのはとても難しくなる。また、一つの団体や組織の中で、互いに融合し合えず、団結して円満にやっていけないなら、どうしてさらに成長できるだろうか。他人から「付き合いにくい孤高な人物」と見なされれば、たちまち他人の目の敵、肉に刺さった棘のように扱われてしまう。
たとえあなたが他人の是非を口にしないとしても、他人があなたの背後で指をさして噂するなら、それはあなたが一緒に仕事をすることができない人物だということです。同僚たちの間で区別される自分に、変わった癖や奇抜な性格はないか、あるいは変人ではないかと振り返ってみてください。もしそうであるならば、自分がこれまでに払ってきた努力や犠牲、そして社会の規範を守ってきたことを深く自覚する必要があります。
益者三友、損者三友
なぜ他人は自分よりチャンスが多いのか、自分にも昇進の機会はあるのに、毎回人選の検討で落とされてしまう。同僚たちと比べてみると、自分は公に尽くし法を守り、清廉潔白で曲がったことができない人間だと思っているし、自分でも善良で忠義厚道な人間だと思っているのに、なぜ集団や部署の中でうまくやっていけないのだろうか。
他の同僚たちは皆、間違っていて、不十分で、欠けているというのか？そうではない！まさに自分が関係を決めつけているのだ。自分が見る限りでは、奇妙な癖や変わった性格など全くないのに、なぜ同僚たちの目には、あなたは変人どころか、この部署や集団の中で互いに溶け込むことさえできない人間に映るのだろうか。
もしそうならば、あなたは自らのすべての行動が、もはや一つの組織や集団に溶け込めないと考えているのでしょう。そのため、あなたには援助者が減り、足を引っ張る者が増えているのです。しかし、はたしてそれらの同僚たちが皆、卑劣な者なのでしょうか？そうではありません！あなたにとって、一人ひとりの同僚、一人ひとりの人々は、この世においてあなたの援助者であり、また足を引っ張る者でもあるのです。
あなたがどのように人として振る舞い、事を処理するかを見ていると、実は誰もが自分自身の恩人であり、また他人の恩人でもあるのです。自分は他人にとっての小人であると同時に、自分自身にとっての小人でもある。あなたはこれを信じますか？友人同士には支え合う責任と義務があり、どんな問題や困難を解決するにも、往々にして自分自身が理解できない無明の障壁に阻まれているのです。
友達や仲間の尊さ
友人や同僚との間では、他人の経験と過程こそが、自分に欠けている一部分である。また、自分が困難や挫折に直面した時、同僚や友人は往々にして自分の貴人となる。一言で目を覚まさせてくれることも、一つの方法で物事を明らかにさせてくれることも、しばしば多くの困難や挫折を変えてくれるものである。
また、金銭や物資の援助は、多くの難関を乗り越える助けとなります。友人に対しては情けと義理を尽くすべきであり、これはすべての人が実践する価値のあることです。一方で、友人や同僚の中には、あなたの足を引っ張るような人も多くいます。例えば、デマを流したり、中傷したり、陰口を言ったり、トラブルを起こしたり、密告したり…などです。このような悪影響が長く続くことは避けるべきです。
良き知恵ある同僚や友人は、自らを助ける貴人であり、良からぬ同僚や友人は裏切り損なう小人である。貴人と小人は、自らの視点によって定まる。他人は自らの貴人でもあり、また自らの小人でもある。同様に、自らは自らの貴人であり、自らは他人の小人でもある。
これが貴人と小人の行いの違いです。他人と自分はまさに主体と客体という区別があります。また、自分がこの世でより多く、より良い貴人に恵まれるか、それともより多く、より悪い小人に出会うかは、すべて自分自身の行いによって決まります。真に心通う良き友人を得て、自分にとって有益な存在とすることは、自分自身の努力にかかっているのです。
仲間や友人が力を貸しに来る
むしろ常にあなたの足を引っ張り、さらにデマを流して騒ぎを起こすのではなく、実はあなたの変わった癖や気性を指摘しているだけです。他の人たちがみなあなたに悪意を持っているとか、足を引っ張ったりデマを流したりしていると思わないでください。自分自身を反省したか、過ちを改めたか、身を正したか、しっかりと一からやり直しましょう！
もしそうであれば、以前あなたに反感を抱いていた同僚たちは、次第に好感を持つようになり、再びあなたに親しみを覚えるでしょう。もしあなたが自分の変わった癖や性格を改めることができれば、あなたにとっての貴人はさらに増え、福徳や善良で美しい縁も絶えずに訪れるようになります。これは自分でコントロールでき、変えることもできることなのです。
自分が主体であり、他人が客体である。逆に他人の立場から見れば、他人が主体となり、自分は客体となる。このように立場や観点の違いが生じる中で、自分の立場から他人を見ることは必ずしも正しいとは限らない。むしろ一歩身を引いて、皆と同じ場に身を置いて共に事に当たるのもよいだろう。
分別することなく互いに思いやりと包容を示すこと、さらに人間関係において相手を成就させること、これこそが自分に貴人と小人がいるかどうかの違いを分けるものである。情け深い人間的な要素が自分を他人に歓迎される存在にし、それは自分の行いによって区別され、また自分にとって貴人と小人の違いを区別することができる。しっかりと変えていく必要がある。
同輩は共に集い  　　友は本来情けあり
困難や挫折が訪れても揺るがず　支え合い助け合う真心の絆
知性は必ずや共に集うことが可能であり
同じ処に一つに在る時を期そう
言葉は思いやりを込めて励まし合い　円満に和やかに過ごせば幸せが訪れる
この偈を、有情の衆生と共に励まし合おう。また、なぜ他人には多くの貴人や機会があるのに、自分はどれほど努力しても無駄になるのか。その原因は、まず自分の奇抜な性格や癖を反省しなければならない。他人の目には変人と映っていないだろうか。もしそうであれば、汝のこの世には小人が多く、貴人が少ないことが分かるだろう。
逆に、あなたは人気のある人であり、あなたのこの世でのすべての貴人は比較的多く、悪人は比較的少ない。これはまさに真実である。自分はその中の奥義がどこにあるのかを心得ることができるだろうか？よく考えてみよ！皆さん、お疲れ様でした。崇心宗脈にしばらくお邪魔し、著作にご相伴いただき感謝します。ありがとう、また会いましょう。
南天仙道天尊
南天の世界より降り来たりし儀
仙道は私無くして情義あり
天尊今日は輪値に当たり、大道の因果を著す期に臨まれる。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院の修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥世界天子第六殿の卞城王がご降臨され、「大道因果」第二十八回を著作されました。親戚友人に関する後半部分と、同輩友人との殊勝な因縁について記されております。ご覧ください：あなたはどのような条件と因縁をお持ちでしょうか。
同じ組織の中で、なぜ多くの人に認められる人もいれば、認められない人もいるのか、その理由はどこにあるのか。今回の著作を通じて、あなたの善徳と縁が形成されるかどうかは、自分が良かれと思って行ったことが他人に認められない時、まず自分自身の誤りや矛盾点がどこにあるかを反省しなければならないという関係にあることが理解できるだろう。
もしも自らを改め、自らの過ちや欠点、不足を反省することができれば、他人からの肯定と認同を得ることができる。時には一言の良し悪しが人を傷つけ、長い時を経て、あなたの背後で噂され、機会を待って報復されることもある。このような状況は至る所にあり、人と怨みを結ぶことは避けるべきである。
古くから「一言の温かい言葉は三年の温かさをもたらす」と言われ、あなたの長所は永遠に記憶される。逆に「一言の悪意ある言葉は一生の恨みを生む」もので、小人を生み出す主な原因となり、あなたのすべての努力を否定してしまう。おわかりだろうか？皆さんが「善人となり、善き心を持ち、善き言葉を語り、善き行いをなし、善き運を招く」ことが正しい道であると願う。
2015年、3月8日、2015◎＃※  了解；
幽冥天子第七殿 泰山王
幽冥の世界にて原霊を渡す 泰山王降りて崇心に臨む
天子の著作二十九回、福気と貴人に衆生欣びる
第廿九回  　 福氣貴人
貴人の福気が増し加わる
自らの行いや振る舞いは、人間関係における行動として現れます。その中から、恩恵をもたらす人（貴人）と害をなす人（小人）の区別が生じます。すべての善悪の因縁と、この世でのすべての行動が重なり合うことで、自らが巡り会うのが貴人か小人かが分かれるのです。また、貴人から与えられる縁は、自然と福を添えるものとなります。
もし悪縁が多いと出会えば、自分の福気が引きずり下ろされることにもなる。もし福気があまりにも引きずり下ろされれば、自分の福報や良好な人間関係の縁、そして良い出来事が大きく減少してしまう。このような状況は、自分の生活において、人間関係や職場において、必ずや解消し難い障害を生み出すことになる。
人道世界において生活の方向性を定める時、自らが多くの貴人となり得ると同時に、自らも他人の貴人となることができます。この過程において一つの事柄を区別する鍵は、まさに自らの生き方にあります——貴人となるか小人となるかの違いです。このような貴人による支援と導きこそが、福徳を増し加えることにつながるのです。
さらに財産を増やすだけでなく、人間関係も増やすことができる。貴人は必ずしも財産や通貨を持っている必要はなく、時には一言で、落ちぶれた人を目覚めさせることができる。すでに生存の意味を見失った人に一言で気づかせることで、往々にして大きな活力が生まれる。また、一般の人々が善い徳と縁に満たされていない時にも。
有情なる衆生の行為動作
このような状況では、常に良い機会が生まれ、能力のある人を選んで担当させることになります。目上の人があなたのために良い言葉をかけてくれれば、多くの機会を得ることができるでしょう。もしその人が善行の因縁を備え、円満な人柄であれば、さらに大きな成功のチャンスに恵まれます。なぜこのような福縁があなたに降りかかるのでしょうか。
普段から広く善縁を結び、互いに円融和合を心がけ、他の人々にあなたの能力を認めてもらい、この職務を担いこなすことができると確信してもらう必要があります。このようにして得る福気と縁は、つまり他人が認め、あなたのすべての行いを肯定することによって、福報が加わるのです。人間の衆生は常にこのようなものです。
己が一切の行為動作は、前世と累世及び今生の所作所為によって今生に植え付けられたものであり、今生において受けるべき善徳の因縁と悪禍の因縁とを分別する。もし善徳が具足する時は、この生の一切の行為動作によって、汝は何の理由もなくして、自らが夢にも求める一切を得ることになるであろう。
また、善行の因縁と財産については、前世と累世の善悪の因縁によって、福報を受けるか災いを受けるかが分かれます。さらに、目上の人の引き立てや、あなたが知り合いで親しい同僚、親戚、友人を通じて、あなたのすべての言動が他者から肯定され、認められるようになるのです。
貴人による推挙の福縁
また、善徳が満ち溢れて身に備わる時には、大勢の有情衆生があなたに深く憧れ、認め、従い、さらにはあなたを大いに称賛するようになります。このような前世からの善徳の因縁を、あなた方は理解できるでしょう。自分はそれほど才能豊かな人間ではないのに、なぜこれほど多くの人々に賞賛され、認められ、従われる魅力があるのかと。
世間でよく言われる言葉を借りれば、貴人の引き立てによって、包装と宣伝を経て、「天の時、地の利、人の和」の三つが揃えば、必ず出世し、名声を広め、名利を両立させることができる。このような貴人の引き立てという幸運が訪れるのは、前世の善行と縁によるものであり、成就するために必要な要素なのである。
かつて平凡だった人物が、多くの人々の憧れや共感を集め、さらには賞賛され熱狂的に追随されるようになるのは、いったいどこに原因があるのでしょうか。人生において、他人に少しでも多くの恩恵を与えることができれば、それは未来の時空の縁の中に積み重なり、やがてそれはあなたが過去の幾多の世で、人々を助け施しを行ってきた結果となるのです。
結ばれた善き徳の因縁によって、この一世において前世の善徳の因縁が倍加してあなたに返ってくるのは、まさに上天が有情の衆生に常に大いなる福縁を与え、前世の布施行を報いるためである。もしあなたが今生で吝嗇貪慾に陥り、さらに一毛さえ惜しんで施さず、貧しい人々を救済する布施をほとんど行わなければ、このような人は福縁に恵まれ難いのである。
貴人の引き立てによって成し遂げられたもの
また、何事にも細かいことにこだわり、まったく度量がないと、来世には貧しくてお金に困り、救済も受けられず、一生貧乏に苦しむことになります。もしあなたが常に貧しい人々を助け、私心なく無為に犠牲を払って奉仕し、さらに見返りを求めず、「三輪体空」の心で行動し、多くの衆生を施し救済するならば。
未来、あなたが得られる報いは計り知れないものとなるでしょう。これは予測できることです。なぜ同じ人間でありながら、ある人は才能も能力もなく、努力もしていないのに、非常に大きな福報に恵まれているのでしょうか？その理由は、前世の善い因縁が積み重なったからにほかなりません。
自分がこの世で行うすべての言動が、他人から認められ、肯定されるかどうか。もし人から肯定されるならば、多くの人は上手に表現できず、「あなたはなんて素晴らしいんだ！」とは言わないかもしれない。しかし心の底からは、あなたを大いに肯定し、大いに賞賛し、大いに尊敬している。なぜこのように、現世を見ず前世を見るのか。
前世においてそれぞれが結んだ善徳の因縁によって、果報に違いが生じます。また、一人ひとりが結ぶ善悪の因縁も異なるため、他人があなたと出会った時に好感を抱くのです。このような前世に蒔かれた福田が、今世になって芽吹くのです。つまり、前世で貧しい人々を救済し、多くの困窮者を助けたからこそ、今生においてこのような福報を得られるのです。
貴人の長所と小人の短所
未来に良縁が訪れる時、これまでに積み重ねてきた善き縁の人々は、必ずやあなたを支え、力を貸してくれるでしょう。過去の恩に報いるため、またたった一言の良き言葉があなたに大きな成果をもたらし、さらには福徳を増し加えることができるからです。このように普段から築き上げてきた豊かな人脈は、すべて善きもの、美しいものなのです。
未来の時空の縁の中では、多くの良き縁が互いを成就し合うことでしょう。「一言の優しい言葉は三年も温かく、一言の悪しき言葉は一生を恨む」と言えるほどであり、それどころか、未来の生々世々にまで仇討ちを残すこともあります。一つの良き縁、良き人間関係には、必ず大きな福徳が支えとして与えられるものです。
これは良好な因縁の人際関係と大きく関わっているのでしょうか？そして、あなたが今生において貴人に助けられて成長し、より大きな向上と収穫を得られるかどうかを分けるのです。この世の中で、なぜ善悪の因縁が存在し、自分の生活の方向性が前世の善悪と福禍の因縁によって集結された関係であるのか、まさにそれこそが問われるところです。
これは、今生で出会う福徳ある貴人か、足を引っ張る小人かを区別するものであり、つまり普段から他者と円満に融和できるか、また何事にも細かいことまで気にし、さらには他人に対して種々の不満や怒り、恨み、嘆きなどを抱くかどうか…など、あなたのあらゆる生活の方向性に対して、人為的要因による良し悪しの差が生じるのです。
善悪の福禍に差別の相あり
善と悪、福と禍の区別は、まさに自らの行いや人との接し方、また自らの言動にあります。時に一言の良し悪しによって、このような状況は至る所に見られます。よく無心の一言が、心ある人には耳障りに聞こえるものです。人生においては、常に善へと向かって高めていくことが必要です。
また、「善き心を多く持ち、善き言葉を多く語り、善き人となり、善き行いを多く実践し、善き運を多く引き寄せる」ことが必要です。もしこのように実践できれば、あなたの出会う人は貴人が多く、小人は少なくなるはずです。日々の生活の中で、積極的に善縁を結び、自らの心の持ち方や考え方を、善良な思考へと高めていくことが大切です。
もし宗教に入る縁があれば、それは善き因縁であり、あなたが今後出会う善き縁もきっと多くなるでしょう。自分のすべての言動、立ち居振る舞い、行動、所作について、他人の目から見て「善人」と「変人」のどちらに映るか。まさにこの行為の判別こそが、善人と変人を分かつ違いなのです。
あなたの今後の善悪の因縁、および貴人と小人の多寡を区別するために、人と人との関係を善の徳と悪の禍とに分ける必要があります。良くない習慣を修正し改善しなければならず、それは自分にも他人にも利益をもたらします。貴人は自分が遭遇する福の縁であり、どうして理由もなく出会えるでしょうか？
貴人の推薦による成長
前世の一切の因縁果報を、今この世の中に取り入れる必要がある。また、前世の一切の善悪の因縁を、どのようにして汝の今生の一切に植え付けるか。汝の前世における一切の善徳の因縁がどれほど多く種を蒔いたかは、汝の前世の善縁に生長する機会を与えることであり、如何にしてこの種の善徳の因縁を、より大きく育成させるかが問われる。
これはまさに、あなたの前世と累世に蒔いた福報が今生に植え付けられたもので、非常に優れた福気がもたらされます。これは人間関係の転換に必要なことです。古くから「縁あれば千里も遠からず、縁なき者は顔を合わせても知らぬ人」と言われるように、このような前世の善行と因縁が今世の福報となり、福気が加わり、大きな福報を形成することにもなります。
それゆえに、人為的要因は成功にも失敗にもなり得るものとして区別される。あなたの今生におけるすべての善き徳と縁は、目上の人からの推薦や引き立てを受ける際に、しばしば一言の褒め言葉が、あなたに多くの福分を加え、数多くの幸運が添えられ、また多くの福報が訪れることになる。あなたは想像すらできず、よく夢を見ているのではないかと思うことさえあるだろう？その通りなのだ！
その理由こそ、あなたが前世で積み重ねた善徳の因縁によるものであり、それゆえに今生で報いを受けるのです。これは原因なくして起こるものではなく、また理由もなく付け加えられるものでもありません。前世に蒔いた種が今生で実を結び、さらに良き因縁が熟したときには、必ず善徳を備えた貴人が手を差し伸べ、大きな成就をもたらしてくれるのです。
貴人のご配慮によりご支援を賜る
有情なる衆生よ、もし汝の善徳と因縁が多くないならば、まず自らの行いを振り返る必要がある。なぜ、才能や手腕も汝に及ばず、能力や人脈も汝よりはるかに劣り、外見にも才覚や財運が感じられない者が、すべてにおいて汝に及ばないと感じられるのかを。
また、なぜあなたよりも大きな福報と富貴があるのかというと、それは人間関係や累世にわたるすべての善悪の因縁が、各人の努力に大きな影響を与えるからです。古人も「小人と怨みを結ばず、君子と縁を結べ」と言っており、そうすれば災難も比較的少なくなるのです。
君子と交わるには、美辞麗句は必要なく、心と心で通じ合って交われば、必ずや大きな信頼を得られる。一方、おべっか使い、追従者、へつらい屋、巧言令色の者たちは、普段の振る舞いを見れば、生涯を通じて便宜主義に走りがちで、このような人々はあまり人を怒らせないものだ。
真の正人君子は認められないものではなく、むしろ正人君子の一生の言動はすべて天と地に認められ肯定される。このような正人君子は往々にして自らの貴人となり、必ずしもあなたに大きな富や利益をもたらすわけではない。なぜそうなるのかというと、人生はしばしば他人に多少の利益を与え、また多くの迷える人々を良き言葉で目覚めさせるからである。
人類の衆生が持つすべての善き行い
様々な人々を利し助ける善行に対して、一部の人々はこれを愚かな行為と見なす。非常に骨が折れる割に報われず、何の見返りも得られないと考える。しかし、真に聡明な人々は、損をすることがすなわち得をすることだと考える。有情の衆生はこのような考え方を知ってはいても、ただ知っているだけで実行するのは難しく、また実践することができないのである。
皆さんは騙されすぎることを恐れ、もはやこのような善き心を持たなくなっていますが、以前に他人に与えた油（利益）が、将来かえって途切れることなく、大きな見返りと収益をもたらすことを理解できるでしょうか。人として、物事を行うに当たっては、「あまり細かいことを気にしない」「あまり比較しない」「自分自身を律する」、この三つが世の中の良薬なのです。
これらはすべてあなたにとって大きな向上となり、自身が向上しにくい障害点を理解することができます。それは多くの善良な因縁条件によって構成されているのです。人生一度きり、あまり計算せず比較もしすぎず、必ず善良な良縁が訪れて実現させてくれるでしょう。それを体得し、心に刻んで忘れぬよう、肝に銘じなければなりません。おわかりですか？
一生の苦しみは短いものなのに
細かいことばかり気にして迷い続ける
他人の成果と比べる時には　自らの実力をよく見つめよ
貴人は良善で好因縁に恵まれ、人に油水を与えて多くを添える
小人の巧言は諂媚を加え
誹謗と中傷は汝の名声を傷つける
この偈を！有情の衆生と共に励まし合いましょう！「大道因果」の貴人福気を加えて著作を進めることで、崇心宗脈のこのような盛んな気運を目の当たりにし、未来の弘化に確かな助けとなるでしょう。皆様のご相伴を賜りながらの著作に感謝いたします！崇心宗脈にしばらくお邪魔いたしました。皆様、ご多幸でありますように。では、またお会いしましょう！
無極豁落霊官  王天君
崇心道場の王天君　豁落霊官が台に登りて臨む
大道因果の天書は
広く衆生を教化し 徳ある有情に及ぶ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥天子第七殿　泰山王が降臨され、「大道因果」第二十九回を著作され、貴人の福気を成就されました。未来の有情衆生に対して更なる成就と向上を与えるべく、皆様がすべての著作内容をよく考えられるよう、ご提供いたします。
皆様には、天がこの書物を著された深いご配慮をお分かりいただければと願います。四億の仏弟子と九二原霊を中心とする教えは、未来において必ず良き因縁をもたらし、向上・成長・超越を遂げながら、自らを利し有情衆生を利するものとなり、やがては立派な成就を得て回帰することができるでしょう。皆様、ご苦労さまでした。ではまたお会いしましょう。
2015年、3月8日、2015◎＃※  OK；
幽冥天子第八殿 都市王
幽冥より出でて崇心堂に来たる
天子、因果の章を著作す
八殿都市王降り来たりて、小人の悪禍、孽障を造る
第三十回　  小人惡禍
小人はどのようにして悪の災いを形成するのか
有情なる衆生が人道世界に入った後は、潤いある生を営み生活の方向性を定める中で、知らず知らずのうちに多くの因果による業障を造ることになり、それによって汝の今世および来世におけるすべての善き徳の因縁が、自らの福報を減じる障害となって現れ、また数多くの悪しき禍いが加わることとなる。
この問題が形成されるのは、しばしば口論や誹謗中傷によってもたらされ、また口論や誹謗中傷で他人を傷つけ、自分自身にも大きな打撃を与えることになります。これは有情衆生が最も気づきにくい無明の障害です。この「形なき障害と無明の障害」をどのように取り除くべきか、自らの「身・口・意」の三つにおいて行わなければなりません。
これらを整えて「身口意」の浄化に対処するにあたり、なぜ自らがこのような無明と無知の障害を受けるのか、まさに有情衆生が最も貫き通すのが難しい点であり、また「身口意」の三者を浄化することにあります。人道世界にどうして小人がいるのか、それは小人と顔に書いてあるわけではなく、また全くないわけでもありません。
これは人間関係において非常に微妙な作用であり、人付き合いにおけるあらゆる欠如と障壁を形成します。他人が自分に対して抱く、認めがたい不足感は、しばしば自分の行動や言動によって、無意識のうちに他人を傷つけていることに気づかず、なぜこのようなことになるのか理解できないままなのです。
いかなる因縁によって小人は生ずるや
このように言えるでしょう。「一言の優しい言葉は三年も温かさをもたらし、一言の悪意ある言葉は一生恨まれる」と。さらには、あなたを万劫不復の境地に追いやることさえある。このような小人は、防ぐに防ぎきれないものです。では、どういう者を小人と呼ぶのでしょうか。また、小人も人であり、正人君子も人である以上、君子と小人の境界線は一体どこにあるのでしょう。
これは人間界におけるすべての行為や動作に対し、各人の異なる生活習慣、習性、気質、そして「臭い個性」が加わることによって生じるものである。本来は普通のことでも、自身の「臭い個性」を通して行われると、「私の性格はこうなんだから」「じゃあどうしろっていうんだ」といった態度になりがちで、こうした人間はまさに「臭い個性」によって突き動かされているのである。
往々にして最も他人を怒らせてしまうだけでなく、傍で見ている人さえも心の中で疑問を抱く。なぜこうなるのか？これはまさに醜い性格や行動の癖であり、さらに問題が起きた後、互いに一歩引くことを知らず、それどころか「自分は間違っていない、あの人がああしなければ、私に問題はなかったのに！」と言い張るからだ。
このように、一枚の銅貨だけでは音が鳴らないが、二枚がぶつかればチリンチリンと響く。私の性格はまさにこのようなもので、どうしようもない。よく人を怒らせておきながら、自分は偉いと思い込んでいる。知らず知らずのうちに、人々は陰で指をさし、あなたに印をつけているのだ。「君子の復讐は三年待て」と言えるだろう。
小人は原因の基本なり
しかし、三年後に初めて仇を討つというわけではなく、時空と因縁は互いに循環し合っている。未来において機会さえあれば、その時に仇を討っても遅くはない。これこそが「小人が怨みを結ぶ」原因であり、「身・口・意が良からぬ」人間の種である。一種は腐った性格ゆえに、死んでも過ちを認めず、それどころか自分を偉大だと思い込んでいる。
そうなると、このような人はあちこちで人と悪縁を結び、多くの人に恨みを買い、しばしば多くの仇敵を抱えることになります。未来の時空の中で、彼らが復讐に来るのも遅くはありません。また別の場合は、恨みを心に刻みつけ、復讐の機会を時空の因縁が熟すのを待ち続けるのです。人が言うように、地球は丸いのですから、いつか必ずあなたに巡り会う日が来るでしょう。
このような時空の因縁から見れば、まさに最初の者が元々嫌な性格で、二番目の者は恨みを心に刻みつけている。この両者は皆、自分こそが正人君子だと思い込んでいる。もし彼らを小人だと言おうものなら、死んでも認めないだろう。さらに、小人が仕返しとしてもたらす災いは、往々にして自分を正人君子と自認する者には、とても対処しきれないものとなる。
その中でも特に、あなたが以前持っていた嫌な性格、つまり他人をいじめたり、辱めたり、侮辱的な言葉で傷つけたりしたことが原因で、相手を怒らせ、陰で噂されるようになったというケースがあります。この原因については別の状況も観察できます。時には、このような卑劣な人と一緒にいると、たった一言で大きな衝突を引き起こすことがよくあります。
小人は禍の防止を憎む
この時、事柄を率直に話し合うことができれば、争いも比較的容易に解決できます。最も恐ろしいのは、双方が相容れない状態に陥った時で、大げんかに発展する可能性があります。たとえ小さな事柄であっても、顔を真っ赤にして争うことになり、一般的には、争いが過ぎ去れば、心に留め置くことはありません。
それは比較的恨みを抱きにくい人に出会った場合で、双方の怒りが高ぶり、少し発散させれば事は過ぎ去り、特に恨むこともない。しかし、ある種の人は非常に恨みを抱きやすく、あなたとの間に非常に良くない悪縁を結び、未来の時空の因縁の中で、双方が既にその環境を離れているにもかかわらず、それが生じてしまう。
このような人はいつまでも恨みを抱き続け、機会をうかがって将来の時空で報復（復讐）しようとするので、実にどうしようもない。意図的であれ無意識であれ、あるいは知らず知らずのうちに、すでに人を怒らせていることに気づかず、自分はとても善良で能力があり、優秀だと思い込んでいるのです。
知らず知らずのうちに、あるいは意図的か無意識かに関わらず、他人の自尊心を傷つけ、目に見えない屈辱を与えてしまうことがあります。そうなると、相手はあなたの能力に対して大きな疑問を抱くようになります。能力はあるかもしれないが、人間性は合格点に達していないと考えるのです。このような人にとっては、自分が気づかないうちに、あるいは意図的か無意識かに関わらず、他人に影響を与えていることになります。
小人は禍いの生ずることを憎む
また、すでに衝突の引き金を引いてしまい、さらには他人を一文の値打ちもないと批判し、面と向かって辱めて恥をかかせ、その場を立ち行かなくさせることさえある。あなたにとってその瞬間は、大いに気分が良いかもしれないが、時空が交錯するうちに、誰の勢いも長くは続かず、幸運の気も永遠に自分についてくるわけではない。
あなたを辱めた者であっても、決して永遠に落ちぶれて浮かばれる日がないわけではない。この問題の根本的な原因は、この世で言えば、人に三分譲って少しの利益を与えることで、将来より多くの報いと恩恵を得られ、本来起こり得た災いを減らして受けずに済むということにある。
そして問題点を相互に円融にすることができるのは、小人の悪禍が生じたことに対して、多くの災難を減らして現れることができるからです。小人が現れるのは、まさに過去の言葉が無意識に侮辱となり、また物事が円満でない上に、さらに残酷に他人の自尊心を傷つけたことによって引き起こされ、しかも自分自身も気づいていないからです。
こうした小人は顔に書いてあるわけでもなく、君子も顔に書いてあるわけではありません。ただ人為的な要因によって縁が結ばれたり怨みを買ったりするのです。双方とも物事の始まりに際しては、人と怨みを結ばないよう心がけるべきです。ではなぜ他人にはこのような因果応報の問題が生じず、自分だけがこのような因果の問題に遭遇するのでしょうか。
小人は禍を憎むならば、必ず身を修め整えねばならない。
必ずや、あなたの日頃の振る舞いや人との接し方が円満であるかどうかを観察しなければなりません。ありのままに修正していくことが必要です。自らの「身・口・意」の三つを浄化するよう変えていけば、将来より大きな害を生むことはなく、未然に防ぎ小人の悪しき災いを消し去ることもできます。これは双方の過去に積もった怨みや様々な問題から生じるものなのです。理解できるでしょうか、ご自身でお考えください。
また、人為的要因によって相手を批判し、中傷し、誹謗する…これらすべては「身口意」の三つによって生じるものです。人為的要因という観点から言えば、皆さんにお尋ねしますが、「誰の前で人を語らず、誰の背後で人を語らざる者があろうか」と。他人を批判する際、それは中道に適っているでしょうか？聞こえが良いか悪いか、また相手がどのように感じるかはどうでしょうか？
一言の言葉の中に、聞き心地の良いものと悪いものがあり、それは相手と怨みを結ぶか否かの分かれ目となります。もし身・口・意の行いを慎み、清らかにすることができれば、特に同僚や友人との利害関係においては、細心の注意が必要です。人の財の道を妨げれば、しばしば思わぬ災いを招き、これまで積み重ねてきた善縁を消し去ってしまうことにもなりかねません。
さらに、あなたを一生涯恨むこともあり、この恨みの念は継続し、さらに来世や累劫の世にまで記憶として持ち越され、八識田の中に深く根を下ろす。一生涯および累劫の因果がすでに「因に遇えば縁となり、縁に遇えば果となる」という形を成し、何の理由もなく相手を見ただけで、非常に嫌悪感や深い恨みの感情が生じることになる。
小人は禍の困擾を憎む
さらに、理由もなく相手を修理したり破壊したりすることもあるが、これはどのような問題から生じるのか。相手自身も不可解に感じるだろう。この世では相手を知らず、汝と深い恨みもないのに、なぜ自分にそのような行動をとるのか。このような状況は、過去世におけるすべての悪い因縁が結びついた結果である。
時空因縁のすべての関係において、互いに連鎖し「因に遇えば縁となり、縁に遇えば果となる」のです。果実はすでに現れているのに、どうやって消し去ることができるでしょうか？できません！それぞれの種子の因は必ず未来に残り、生々世々の中で報いとして現れるのです。このような状況を、あなたがたは価値があると思いますか？いいえ！
これは累世にわたって消えにくい恨みの感情であり、過去世における因縁、果報、恩愛、怨念がどのように結ばれ、現在の今生に植え付けられたかを示しています。この時、人為的要因によるすべての相互干渉が生じ、あなたに対して非常に強い嫌悪と恨みを抱き、また自分自身も理由なく他人の侮辱や傷害に遭うことになります。
さらに、面識すらなく、まったく知らない相手に、自分がいつその人を怒らせたのかもわからない。まったく見当もつかず、どう考えても理解できず、なぜこんなことになるのかと首をかしげるばかりだ。このような原因で生じることは、有情なる衆生の一部が経験したことがあるだろう。往々にして、一言の言葉の行き違いや挑発から始まる。
どんな人が小人なのか
自分もこのようになりたくはなかったのですが、相手の態度と言い方があまりにもひどく、腹が立ってしまってこうなってしまいました。これも自分の嫌な性格のせいであり、前世からのすべての因果を受け継いで今世に植え付けられたものです。このような小人の悪意は、実に冷酷で情け容赦なく、私を傷つけ破壊してきます。
この時、あなた方人間界の背後にある全ての問題は、次々と現れ出て、関連する事柄に窮しどうしようもなくなり、あなたにとっては到底対処しきれないほどの害が絶えず現れることになるでしょう。それはただあなたの前世からの報いであり、また今生今世においても、小人の悪事や災いが山積みになっている時なのです。
汝は前世に様々な悪しき因を種としたかどうかを思い起こし、また今生において遭遇する一切の問題と障礙が、汝の現在の問題がどこにあるかを知り得るかどうか。自ら確実に問題を明らかに知らなければならず、繰り返し繰り返し、心に甘んぜず、情に願わず、悪しき因果によって造り出されたものとすべきではない。
小人は禍の修整を憎む
これは、天が因果の完消を肯定する相互成全ではありません。双方がどのように因縁果報を相互に清算できるのか、自分がなぜこのような悪果の報いを受けるのかを理解しなければなりません。もし有情衆生の視点から見るならば、あなた自身も前世では正人君子ではなく、一人の小人であったのです。
前世で他人に負い目を作ったからこそ、今生では立場が逆転して、他人があなたを：いじめ、報い、害し、返済するのです。もしあなたの前世が小人であったなら、今生もやはり小人でしょうか？自分自身が最もよく心得ているはずです。小人と正人君子は顔に書かれているわけでもなく、すべての問題点を判断するのは難しいのです！
自分は小人だろうか？それとも他人が小人だろうか？あるいはすべてが小人、小さい小人、もっと小さい小人に過ぎないのではないか。あなたは自分が小人だと思うだろうか！絶対に自分が小人だと認めることはないだろう。しかし実際には、すべての行動や振る舞いは、まさに小人のそれに符合している。このような小人はいるだろうか？あまりにも多い。
君子の福報は貴人を顕わし
一言既に出でれば駟馬も堅し
信用が確かで人々の羨望を集め　生涯の幸せに人望が厚い
小人は禍いと災いを引き寄せて報復を招く
行いと動作が円満でない
口に出る悪しき言葉は人の身を傷つけ　生々世々に罪業を積み重ねる
この偈を！有情の衆生と共に励まし合いましょう！人為的要因によってなぜ小人の悪禍が生じるのか、その原因が形成されるのをあなたは感じ取れるでしょう。誰もが正人君子になりたいと願い、小人にはなりたくないと信じています。まさにこのような原因によって形成されているのですから、有情の衆生に対して、より良い人間関係の円満を実現することを願っております。
また、至るところで人と怨みを結ぶことなく、汝の生々世々において多くの貴人の支えと導き、助けを減少させることになる。皆が良き人縁と善き徳の縁を持つことを願う！これは自らが良き益を受け、成長するためである！皆がご苦労を重ねて共に著作に取り組んでくださり、心から感謝しております。崇心宗脈においてしばらくお邪魔いたしました。皆様、またお会いしましょう。
無極斗口霊官  馬勝天君
無極霊官馬勝君　斗口至情互いに群れをなす
大道の因果が来たって著作す　  　有情の貴人と小人の心
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥世界天子第八殿・都市王が降臨され、「大道因果」第三十回を著作されました。「小人悪禍」の様々な状況を既に天書の中に記され、これにより有情衆生が理解できるよう導かれます。
なぜ自分は理由もなく、多くの小人に出会い邪魔されるのか。これもまた何が原因かというと、普段の言行や言葉遣いが、意識的か無意識かにかかわらず他人を傷つけているのに、自分ではまったく気づかないからである。この問題の核心はどこにあるのか。今日この書を著した後は、すべての人間関係が円満に変化し、真実の性質にかなうようになることを願う。
2015年、0308、2016◎＃※　ＯＫ；
幽冥天子第九殿 平等王
幽冥の世界より儀式降り来たり　九殿の天子書を著す期に臨む
平等王著第三十一回
因果善悪直ちに契う
第三十一回　善悪の因縁（直接報償）
善悪の因縁はどのように直接に報いを受けるのか
有情なる衆生は因果の中で、往々にしてその内包を知らず、いかに生活において善悪の因果の所業を以って全うするか？このような観念を基礎的な枠組みとし、すなわち「直接に償いの報いを受ける」と「間接に償いの報いを受ける」との区別であり、また有情なる衆生を以って全うするとは、善悪の因果と人間関係を以って討伐の根拠とするのである。
人間界において依存条件として作用し得るのは、人為的要因を自らの習性、慣性、素質、個性として取り入れ、その地域の風土や習慣に融合させ、生活の主たる基盤を形成することである。では、その原因はどのように生じるのだろうか？有情の衆生は、いかにして人為的要因を応用し、無形の討伐を清算し完遂すべきであろうか？
これが最も正しい考え方であり、その通りに実践すべきです。なぜ善悪の因果が直接的な報いとして現れるのか？これもまた、有情の衆生自身の行いがどうであるかによって区別されます。人為的要因によるものは「直接的な報い」として現れ、この報いは善悪の因果によってどのような結果をもたらすかによって区別されるのです。
もし善良な因果を直接の受報者に対して論ずるならば、必ず直接の受益者が存在し、もう一方が善報を施す者となる。しかし、受益者であれ施与者であれ、この両者を以て論ずるにしても、因縁果報は次のように観ることができる：兄弟姉妹や夫婦親子など、すべての眷属の因縁は一体どのようなものであろうか？
善悪の因果によるすべての報い
有情なる衆生は、現世の人為的な造作に直面し、前世の因果と福徳を加味して、この一生をいかに生きるべきか？それによって自らの親族や眷属の縁も区別され、またどのような条件と因縁があるのか？自らの親族や眷属に対する因果の報いは、受益者にとっては大変な労苦を伴い、多くの痛惜と配慮を注ぎ、受益者に対しては多くの特別な愛着を持つことになる。
このような行為は親子の倫理規範を与え、なぜ祖先が子孫に伝承する時、互いに特別な感情が生まれるのか？子孫に対する愛情と世話は至れり尽くせりで、十分に快適な生活条件を与えながら、自分自身は非常に倹約し、受益者のために真の犠牲と奉仕をしている。
また、一生をかけて慈しみ愛し、その生涯のすべての苦労を積み重ねて、この受益者に与える。美味しいもの、良い着物、使いやすいもの、すべての良い物質は、受益者が楽しむために残される。なぜこの受益者は、他人から見ても、それほど大きな福縁の条件を持っていないのだろうか？
この施し手に対して、慈しみ愛し、労を惜しまず世話を焼くことができる。このような因果関係が互いに作用し合う者同士は、施し手と受益者という二人の親密な因縁によって結ばれている。そしてこのような良き因縁こそ、前世で結ばれたものであり、今生において報い返し、償われるのである。前世で結ばれたすべての良き因縁は、今世において共に生きる中に入ってくる。
善き因縁は直接に報いをもたらす
このような親情倫理の生活はどのようなものか？親情倫理が互いに緊密に結びつき、前世のすべての善良な因縁を今生に植え付け、善良な因縁が親族により大きな利益をもたらすことができるようになる。皆さん、よく考えてみてください！自分が親となれば、自然と子供の世話をしようと思うようになるものです。
しかしながら、親たる者は、自分と子供との間に一層親密な関係があるかどうかに関わらず、すべての良い物質的・快適な享受は子供に与え、自分は衣食が足りればそれでよい。さらに一生懸命に働き、真面目にお金を稼ぐのは、子供の生活に不足がないようにするためである。
衣食に困らず安定した生活を送らせ、高等教育を受けさせ、海外留学までさせることができたとしても、留学後はどうなるのでしょうか。善い徳と縁のある者は、両親のもとに戻って孝行し、質素ながらも心のこもった暮らしで親を喜ばせ、家系を継ぎ、一家団らんして天倫の楽しみを共に分かち合うでしょう。これは比較的良い結末と言えます。
もし前世の悪しき因縁が重なり合うならば、このような状況は異郷の地に留まり帰らぬこととなり、父母をしてはらわたがちぎれる思いをさせ、ついには両親の臨終にも戻らず看取ることもない。このようなあり方は現代社会の倫理に容れられず、孝行の基本に背く行為であり、まさに前世の怨みの借りを今生で報いるものである。
今受けているのは前世の因果である
有情なる衆生は理解できるであろう：父母、夫婦、子女、子孫は皆、前世の善悪の因縁が、現世に植え付けられて報いとなって現れるものであると。前世と累世における一切の因果関係を、いかにして完全に消し去るか？そうすれば、後代の子孫はどうなるのか？ただ同じ遺伝子の本質が延々と続いていくだけである。
また、後世の子孫は理解できるだろうか、祖先が苦労して払った犠牲を？それはあなた方後世の子孫に幸せを享受させるためであり、もし祖先に徳があれば、必ず徳のある後世の子孫が現れ、もし祖先に徳がなければ、必ず徳のない後世の子孫が現れる。これは天地の道理であり、公理と規範である。また、善悪の因縁果報に対して報いを与え、人の力によってそれを成就させるとは、いったいどういうことなのか？
人情的な関係と親族間の倫理が相互に縁起することを考えると、人間の行為は各人の因果関係を、前世の福徳と悪報と緊密に結びつけるものである。また、人間の行為や動作は自らの福徳と悪報を今世に植えつけることとなり、これは福徳による恩恵を受ける者とそれを施す者との関係においても同様である。
この両者の因果関係に対して、受益と施与の区別があり、この受益者と施与者は、まさに前世で積み重ねられたものが現世で報いを受けるものです。しかし、有情の衆生は皆、このような因果関係に基づいて、父母、夫婦、子供、兄弟、姉妹、子孫…などの眷属を持つことになるのです。
善悪因果の分かれ目
すべてのものには相互の因果関係があり、この親情に対して直接に報いを受ける。それは人為的要因によって良し悪し、善悪、福禍の因縁果報が成されるからであり、汝らはまさに喜んで行い、甘んじて受けるのである。人為的要因によるすべての行為は、さらに生存の方向性に生活の一切を植え付け、すべての良き善き因果を現起させることとなる。
もし悪報をもって討伐するならば：最初は皆、相当に愛し大切にするが、しばらくすると因果応報が生じ、悪報の殺傷力が現れる。この種の殺傷力は直接的に殺害するものではなく、一種の破壊的な力の行為である。この破壊行為こそが、汝が一生をかけて愛し、大切にし、所有してきたものに対して行われるのである。
来たる破壊は汝を満たすことを困難にし、また破壊の力で全ての人々の関係と親情を引き裂き、すべてを離散させた後、さらに冤罪を造った者に残酷な傷を負わせることを耐え難くさせ、骨身に徹するほど痛く、苦しみは比類なく、すべての困難と障害を解消することも困難にし、前世で冤罪を造った者を袋小路に追い込む。
一般的には、対処しきれずにただ引き延ばすしかなく、この種の問題の核心は、まさに有情衆生が最も因果応報を理解し難く、その成り行きをどうしても把握できない点にある。有情衆生に対しては相互に絡み合う牽纏が生じ、その中には報いの要素も含まれる。人類の衆生はこれをはっきりと見極めることができるだろうか？
因果の直接的な報いの根拠
すなわち前世のすべての因果が、すでに報いの準備段階に入っている。この時、もしその経緯を理解し、あらかじめ廻向と防備を行うことができれば、因果の報いが直接受ける者に対して非常に如実である場合、相互に向上することができる。つまり、人為的な方法で全ての報いの作用を解消するのである。
その来歴が理解できないときは、因果応報の破壊力と殺傷力に絶えずさらされることになる。これは人間の心の観念として認識され、善悪の因縁が相互に調整されることで、報復の応報を軽減することができる。もしさらに応報の力を日常生活に取り入れるなら、自らが身をもって償わなければならない。
前世の因果応報を軽減し、清算することはできるのか？それはあなたが心から喜んで償うことができるかどうかにかかっている。身近な人に対してより大きな寛容を持つこと、これはまさに人間界における因果の清算の仕組みであり、こうして生じるものなのだ！もしこの道理を理解し、因縁果報が互いに解消し合うものであると悟れば、未然に防ぐ行動を取ることができるようになる。
必ずや、今世で遭遇する困難や行き詰まりも、かなり減少するでしょう。これは人為的要因が真に心から納得し、一生涯をかけて完全に解消し、取り除くことによるものです。これはまさに親情と倫理によって区別されるものであり、親情によって因縁果報をはかる時、比較的にも心から納得しやすく、親情と倫理が相互に絡み合う因果関係の中にあります。
善悪の因縁は直接または間接に報いを受ける
人間の親情倫理における世話の縁について言えば、人間は感情を持つ生き物であり、いかなる縁であれ、長く共に生活を続ければ、血縁のない者同士でも互いに慈しみ合い、世話をし合うようになるものです。これは人間の情感に非常に微妙な関係があり、さらに親情関係を善良な形で維持しながら世話をするものなのです。
人間は共に暮らすうちに、次第に情が生まれ互いに融和し、お互いを包容できるようになります。そうすれば互いの情愛も生まれてくるのです。古い言葉に「虎を打ち賊を捕らえるには兄弟が頼り」とありますが、これは単に血縁の兄弟だけを指すのではなく、共に生活する仲間や、同じ部署・団体・職場で働く同僚たちをも含むのです。
皆が比較的よく知り合っており、それぞれの人の人となりや性格もよく理解しています。これは、人間の感情が未来に生み出す善悪の因果に直接影響し、互いに報いを受け合うことになります。親族関係による直接的な報いであれ、友人関係など間接的な報いであれ、すべてを理解できるようになるのです。
善悪の因果は常に直接に報いを受ける
人間の因果関係とは、直接であれ間接であれ、あなたに対する善福や悪禍を区別するものであり、有情衆生のすべての行為や動作は、現在と未来において相互に因縁果報をもたらします。善悪や禍福を区別することなく、同じ時空において追償と報応がなされ、これは上蒼の公理と条綱に符合し、報償の根拠となるものです。
善悪や禍福、良し悪しの区別による違いはなく、ただ各人の努力と行動の如何によって、報いの多寡が分かれるのである。なぜこのような区別があるのか？それは一つの事柄に対する良し悪し、善悪、禍福の区別であり、本来、汝が前世で人に負ったすべての部分は、百分の百返済すべきものである。
善悪、良し悪し、幸不幸においては、人為的要因による行いによって、報いが軽減されたり倍増したりする場合がある。この中で、善悪・良し悪し・幸不幸の因果関係を応用し、人間の行為や動作によって、心から進んで償いを果たした後は、本来ならば十分あるいは百分の報いを受けるべきところが、大きく軽減されることが多い。
人類の前世の因果が今生の報いとなる
もし、悪い因果に過酷な討伐が加えられると、「因の上に因を重ね、果の上に果を重ね、報いの上に報いを重ね、償いの上に償いを重ねる」ことになり、「因縁果報」の償いを受けた後、福報が増すか災いが増すか、あるいは福報が減るか災いが減るかといった違いが生じます。これは人間の衆生が理解できることです。
人の行為と動作を区別する上で、業の債務が軽減された償い、元本と利息を合わせた償い、あるいは倍返しの恩返しや倍返しの報いがあり、それによって善悪、禍福の因果を分別します。つまり、人間のあらゆる因縁果報によって、親族が直接報いを受けるか、あるいは人間関係を通じて間接的に報いを受けるかを区別するのです。
善悪、良し悪し、福禍の因縁があるが、あなた方はまさに今この時の因縁の中で、成長と学習の思想観念を形成し、少しずつ多くの善良な思想観念を積み重ねていけば、計り知れない大きな恩恵を受け、人との怨恨や憎しみも大いに減らすことができる。まさに自分自身を向上させ、超越していくのである。
善悪の福禍には皆時があり、良し悪しの報いは更に然り。
直接に報いを受ける因果は、
親しい人や眷属こそが真実である。
観念と行為に動作を加えれば　報いは福と禍に分かれる
間接的な報いは討伐として現れ　前世の因果がその仕組みを形作る
この偈を！有情の衆生と共に励まし合いましょう！汝らすべてに対して：善悪、良し悪し、福禍を、人類衆生への直接的な報いか、あるいは人間関係を通じた間接的な報いか、人の行いをありのままに区別し、大いなる消滅と倍加の裁きを分かつことになる。皆様にはご苦労をおかけしてご相伴いただき、崇心のこの気勢はまことに優れており、必ずや未来においてより大きな教化の功徳をもたらすことであろう。しばし崇心宗脈をお騒がせいたしました。皆様、またお会いしましょう！
無極天官武財神 趙公明元帥
無極の因縁降り来たりて　天官武財神登りて引く
趙公明元帥の賢者と会す
大道の因果、新たに著作す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は幽冥世界天子第九殿・平等王がご降臨され、「大道因果」第三十一回を著作されました。「直接受報」における親族の情愛と倫理、善悪の因果を極めて詳細に開示されましたが、人道世界はこのすべての経緯を理解することができるでしょうか。
もしずっと良くない報いを受け続け、どうやってそれを解消すればいいかわからないなら？それは人間関係の因果において、自分の思想観念を思考体系の中に取り入れ、それによって完成させているからです。これはまた、情を持つ人間の衆生が必ず理解すべき思想観念でもあります。そうして初めて、真実のままに成長し利益を得ることができるのです。皆様、お疲れ様でした。ありがとうございます。さようなら。
2015年、0308、2018◎＃※  ０Ｋ；
幽冥天子第十殿 転輪王
幽冥世界教化の期
天子十殿降来の儀
転輪王は三十二相を具え、人々の関係は間接的な縁によって結ばれる
第三十二回　人間関係（間接的な報い）
人間関係における受け取りと報い
有情なる衆生が人為的要因によって法を為す場合、人間関係の間で報いを受けるか、親戚関係で直接報いを受けるか、この二者は区別できる。人間関係において直接報いを受けるか間接的に受けるかを区別しないのは、人為的要因によって人間関係をその依拠条件と為すからである。この中には、人間関係における良し悪し、善悪、是非が存在することになる。
促成とは成就と破壊であり、また区別とは各人の行いであり、それによって人間関係の優劣良欠が生じ、未来の果報を形成する。また人間関係においては、直接と間接を区別せず、この問題の中には人為的要因が相互に影響し合う。ではなぜこのような行動が起こるのか？人類衆生は根本的に理解することができないのである。
いかなる宗教団体、組織、あるいは家庭においても、互いの性格を理解してこそ、平和に共に暮らすことができます。普段から人々が示す奇妙な癖や、それぞれの持つ厄介な個性のせいで、他の人があなたの習慣や行動に同意できなくなることもあるでしょう。それではどうすればよいのでしょうか？
人為的要因による全ての行為動作において、人の行いを加えることで、人間関係の良し悪しを区別し、他人があなたに対してどのような印象を持っているかを区別する。自分自身がどうすることが正しいのか分からず、選択や判断が非常に難しいため、行ったことは他人に認めてもらえず、加えて行為動作も非常に良くないものとなる。
間接的に報いを受けるとはどういうことでしょうか
人間関係の不和がしばしば生じ、また自分自身の変わった性格や癖のために皆と打ち解けるのが難しくなります。あなたが他人を快く思わなければ、他人もあなたの行動を軽んじるようになります。さらに口が悪く、よく他人を怒らせてしまうため、他人があなたに恨みを抱き、あなたのすべての行動を認めなくなるのです。
職場における自身のすべての言動は、他者と調和することができず、常に陰で指をさされ、なぜ多くの人があなたの足を引っ張り、さらにはデマを流して中傷するのか。あなたのすべての行動に対してさらに認めようとせず、このような人間関係の状況では、自らの行動を深く反省する必要があります。
すでに他人の目には変人と映っているのでしょうか。もし一二人が「あなたは変人だ」と言うだけなら、個人の見方や立場の違いによるものですから、あまり気にする必要はありません。しかし、もし大多数の人があなたの言動に同意できないなら、あなたは本当に他人の目には変人と映っており、一緒に仕事をすることもできなくなっているのです。
このような人は、本当のところ、普段の振る舞いにおいても真っ直ぐで公正無私、人としても行いもきちんとしている、つまり正真正銘の正しい人間です。このような正しい人間は、自分自身の視点から見れば、他人の目にはすでに印をつけられていて、他人が言うことはすべてあなたを狙ったものだと思い込んでいます。
人類の衆生の行い
汝がなす一切のことは、まさに他人の論評の的となり、常に人々の茶飲み話や愚痴の種となっている。その背後には、汝の悪口を言う大勢の人々がいる。このような生き方や行いをしながら、自らを品行方正と考える者は、すでに大衆の中に溶け込むことができず、円満に付き合うのは極めて難しい。
もし本当に理解できるならば、あなたはすでに他人から変人だと思われており、互いに融和もできず、付き合う価値もない人間と見なされていることが分かれば、多くの煩わしさが増えるでしょう。自分はどう感じるでしょうか？職場において、あなたは自分を法律や規則を遵守する人間だと思い込み、物事を杓子定規に進め、公のことは公のやり方で処理し、しかも道理があると譲らない態度を取っています。
他人に対する言葉遣いは非常に辛辣で、情理法の融通が利く場面でも融通を利かせようとせず、少しも人情味が感じられません。これにより、多くの人があなたに対して非常に不満を抱いており、また多くの敵を作っています。常に権力を笠に着て人を威圧し、上司にはへつらい部下には威張り散らし、威張りくさっており、部下の面倒も見ずに他人を見下しています。自分ではこれが当然だと思い込んでいるようです。
あなたは任務を遂行しているのであり、全て他人が間違っていて自分は誰にも申し訳ないことはしていない、という問題は公務上はそうかもしれません。しかし、情理法が互いに円満に調和する場合には、人に少し便宜を図り余地を与えることもできます。人に便宜を図ることは、結局は自分自身の便宜を図ることにもなり、知らず知らずのうちに敵を作ることもありません。
間接的に報いを受ける不良な人間関係
自分の能力や福徳が優れていると思ってはいけません。時空と因縁もそれぞれ異なるのです。現在の状況を通じて他の因縁に転換していくことであり、誰の福徳も永遠に頂点に留まることはありません。将軍や宰相の地位も時空が移り変わればその座にはいられず、まさに古人が言う「風水は巡り、十年は河の東、十年は河の西」という通りなのです。
台湾のことわざに「丸い人は平らになり、平らな人は丸くなる」とあります。得意で勢いのある時の気炎を覚えておくべきであり、必ず失勢し落ちぶれた時のことを理解しなければなりません。あなたが今勢いに乗って高ぶり、他人に対して傲慢で、非常に横暴に振る舞い、威張り散らして大勢の人々を怒らせ、さらに他の人々への言葉で、多くの人を傷つけてしまったのです。
他人の目は、今あなたが勢いに乗って得意になり、威張って悪事を働くとき、あなたのすべての悪しき行いや動作を第八識の中に深く植え付け、また今あなたに欺かれ侮辱され陥れられた者たちの、さまざまな悪質な行為を、一つひとつICマイクロチップの中に記録する。時空の因縁が異なるゆえに、この世か未来世で再び出会う時が来れば。
まるで仇敵のように、あなたに対して非常に無愛想で、大きな敵意を持ち、あなたに非常に不快な思いをさせます。それなのに、どうして理由もなくこのような怨みを受けて、過去のすべての行いに対して報復されるのでしょうか。もし今生においてもまだ一部の記憶が鮮明であれば、前世と累世の時空における因縁によるものかもしれません。
悪をなせば報いあり、因果応報
これこそ真にどうしようもないことだ。このような自分が累世にわたって行ったことについては、そもそも何の記憶もなく、わけのわからない怨みや冤罪に遭っている。そのすべての経緯をどうして理解できようか？いや、できないのだ。それは累世の因縁がすでに過ぎ去ったことであって、今この人生でのすべての行為や動作ではないのだから。
これこそが、汝自身の過去におけるすべての悪しき行いが結んだ悪因縁が、今この世に現れ出でたものである。汝がかつて振るった横暴な振る舞いや、人を辱めた悪行に対して、そのすべての過去を知ったところで何になろうか。ならぬ！このような無明の過去こそが、汝の悪因縁を促し、必ずや今この時に悪報と悪果を受けることとなるのである。
このような問題は、自分自身のすべての過去に対してどういうことか？まさに他者が自分に降りかけた悪い因縁であり、あなたに対して言えば：前世と累世の善悪の因縁を理解せず、このように形成されたのか？無明の怨恨も生じ、他者がさらに軽蔑の目で見るとき、自分は何も間違っていないと思い、すでに先に業を造っていたことに気づかないのである。
知らず知らずのうちに、あなた自身の行動や仕草は、あなたが累世から引き継いだ奇妙な癖や変わった気質であり、さらに前世で積み重ねた良くない習性が今世に移植され、その習性、慣性、生まれつきの性質、そして生々世々変わりにくい悪い性格が、この世に入ってからもずっと続いているのです。
間接的な報いを受ける討伐
現世において前世の仇敵に出会っても、あなたには全く見覚えがなく、どうしてあなたに対して強い怨みや憎しみを抱き、さらなる報復行動を起こすことがあるでしょうか。このように、あなたは普段誰とも怨みを結んでおらず、深い恨みもないのに、なぜ今このような報いを受けるのかと考えるでしょう。
また、自分自身のすべての行動は、他人に対して申し訳ないことはないと考えているが、その中の経緯を深く理解できるかどうかはどうだろうか？なぜ他人はあなたの言動や態度、話し方の口調を非常に嫌い、非常に認めず、非常に不満を持ち、非常に怒りを覚え、根本的に相容れないのか？
このような状況では、自分自身が相当深く考える必要があります。また、どこで間違いを犯したのか、あるいは職場において、すでに多くの人々と怨みを結んでしまったのかもしれません。過去世であなたと怨みを結んだ者たちも、あなたに対して報復の心を抱き、未来や来るべき生において、時と因縁が熟するのを待ち、再び報復を企てるでしょう。
このように、あなたはそれに価値があると思いますか？また、あなたは自分を剛直で義理堅い人間だと思っているでしょうから、この一口の気が飲み込めないのです。この一口の気が飲み込めないから、とても衝動的になり、多くの無明の殺傷力を生み出してしまうのです。他人により残酷な行為をもたらすことになり、このような人はこの生涯で、あの一口の気がどうしても飲み込めないのです。
間接的に受ける報いの悪い人間関係
本来ならばかなり円満な結局を迎えるはずだったのに、往々にしてその一息を飲み込めず、より大きな損害を招いてしまう。有情衆生になぜ「直接的な報い、間接的な報い」が存在するのか？まさにこのような原因によって形成されるのである。また、自分の肉親である兄弟姉妹、夫婦親子、父母眷属らも皆、このようであることを区別しない。
また、親しい友人や親族、同僚の間、あるいは同じ宗教、団体、部署、職場においても、まさにこのような理由から生じ、非常に悪質な悪縁となり、将来において形成されるあらゆる悪縁は、まさに一口の気を飲み込むこともできず、心を静めて冷静に考えることもできず、忍耐も持てないものとなるのです。
自らを底知れぬ深淵に追いやる。有情世界のあらゆる衆生は、本来、自分が出会うすべての人々が良き縁であることを願っているはずなのに、どうして良き縁を得られないのか。むしろ、ずっと悪しき人間関係に陥ってしまう。また、自分の行いが自分自身を善人と認めているかどうかについても。
このような善良な人には、きっと多くの善良な人々が集まり、互いに融け合うはずなのに、なぜ自分が多くを捧げた後で、かえって他人に自分の苦労を認めてもらえず、なぜ大勢の人があなたの足を引っ張るのでしょうか？このような行いは、すでに多くの人々の恨みや不満を引き起こしているのではないでしょうか？
人類の因果は様々に異なり、報応もそれぞれに異なります。
人間関係の縁において、自分が他者の感じ方を円滑に調整できない場合、このような状況では自らの言動、すなわち言葉遣い、口調、態度、行動のあり方を改めて見直す必要があります。もし自身の人間関係が非常に良好でないならば、自らの行いを深く顧みるべきです。
汝は既に悪しき因縁の中に入っているが、ただ汝自身がまだ気づかず、自分の全ての言動が人々から大いに嫌われ、不満を持たれ、認められていない。もしさらに言葉が鋭すぎれば、それはまるで針のように直接他人の心臓を刺し、少しの余地も残さない。このような状況は、すでに汝の良からぬ行いによって生じたものだ。
多くの悪しき因縁を引き寄せ、また自分勝手に振る舞い他人の気持ちを顧みないため、人間関係においてもより円満な境地を得ることができません。このような悪しき因縁と態度は、未来あるいは来世、さらには累世にわたって必ず苦しみの果報をもたらすでしょう。未来の苦果と痛みがどのようなものか、理解できるでしょうか？あなたの生々世世に甚だ悪しき因縁をもたらすことを、自分は価値あることだと思いますか？まったく価値のないことです！
一世の功名は百世の冤み
善縁を積み重ねて福報の縁となる
人生の因果は如実に現れ、悪果は来世に業の咎を報いる
直接に報いを受けるのは身内
間接に報いを受けるのは仲間
善悪の因縁は皆自ら造る
何ぞ苦しんで悪を造りて仁を守らざる
この偈は、すべての有情の衆生が互いに励まし合い、間接的な報いの因縁を理解し、世の中のあらゆる事象の成り立ちを分析することを願うものである。現在の冥府には、まさにこのような事例があまりにも多く存在するが、どうすれば実例をもって有情の衆生に警告を与え、自らがより多くの、より大きな善徳の因縁を積み、向上して超越することができるだろうか。
また、権勢や職場において、他の者をいじめたり辱めたりしてはならない。「一世の功名は、百世の冤債（怨みの借り）」に相当し、まったく割に合わない。今、あなたの福報が良好であっても、永遠にすべてが良いとは限らない。時空は瞬く間に過ぎ去り、未来はどうなるかわからない。このような状況はあまりにも多い。自分の悪しき因縁が、まさにこのように生じることをよく心得よ。
自らの過ちや不足、欠けている点が何であるかを知る必要があります。そうすれば、多くの悪しき因果応報を減らすことができます。この世のあらゆる時空において生じる縁に対し、人と悪縁を結ばないようにしましょう。必ず未来において報いを受けることになり、苦しみと痛みを感じて割に合わない思いをすることになります。皆様、お疲れ様でした。すべてが吉祥でありますように。崇心宗脈にしばらくお邪魔いたしました。皆様、またお会いしましょう。
無極顕徳元帥　温瓊天君
無極顕徳元帥登　溫瓊天君会賢生
大道の因果を来たって著作す
天下第一の真に殊勝なり
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、今晩は。本日は冥府天子第十殿　転輪王がご親臨され、崇心において「大道因果」第三十二回を著作されました。「間接的な報いを受ける」事例を詳細に剖析され、なぜ人世において自らが理解し難いのか、悪しき因縁がどのように訪れるのかを明らかにされました。
なぜ他人は多くの善良な因縁を得ることができるのか。自らの行い一切の行為動作は、未来の善悪の因縁と善果・悪果に対して相互に区別する作用があり、さらに自らの不足や欠点を反省するものである。真に崇心宗脈の未来に対しては、「層次を提昇し、気質を変化させる」ことを軽々しく見過ごしてはならない。
2015年、3月8日、2019◎＃※   了解。
南屏道済古仏
南屏道済降臨し来たり、古仏著作し因果を排す
大道の系列は次第に広がりをみせ　知足と感謝の心を持つことが理にかなっている
第三十三回　足るを知り恩に感謝する（言葉は人を傷つける）
知足と感謝の枠組み
有情ある衆生が人道世界に入った後、自他の因果によって、すべての過程のいきさつを知ることができるではありませんか！因果のすべての成り立ちに対して討伐と報恩を行うにあたり、また人間衆生の行為と動作によって、「感謝と満足を知る」過程と、「怨みと憤りを報いる」という転換がそれぞれ生じるのです。
これは人為的要因によって成長するものであり、人間世界で生きる上での方向性であり、因果応報の観念を理解し、どのように行動すれば人との怨恨を減らせるかを知ることができる。また、このような人為的要因による完成は、必ずや各人の行動に加えて、あらゆる善悪の因縁によって、未来の善悪の因果が相互に支え合うことになる。
この世の問題については、有情の衆生が良きことも悪しきことも、「満足すべき必要性」と「感謝する確かな心」を持つことを理解させねばならない。この世での生き方としては、あらゆる事柄が「良し悪し、善悪」に関わらず、生活の過程において必ず物事を判断できるようになることを理解することが必要である。
人類の衆生は皆、自分が遭遇するすべてが良い出来事であることを願っていますが、往々にして自分の意思や考え通りにはならず、望むことが思い通りになるとは限りません。自分は善悪の因縁と良し悪しの因果応報の区別を理解し、物事の問題点をありのままに深く見通し、自分自身の前世の福徳の縁と悪しき災いがどのようなものであったかを明らかにすべきです。
知足の過程とはいかなるものか
すべての衆生は、自分の行いが良い結果をもたらすことを願っているはずです。しかし、その過程にはしばしば理解しがたい迷いがあり、また物事の軽重緩急を判断することができず、鋭い言葉で他人を傷つけてしまうことも少なくありません。
このような人は往々にして他人を傷つけていることに気づかず、なぜ自分の何気ない一言が他人の自尊心に大きな傷を与えてしまうのか理解できません。また、他人に対する言葉遣いが非常に鋭く、その言葉が直接的に相手の自尊心を傷つけているにもかかわらず、自分は優れていると思い込んでいるのです。
しかしながら、他人の心の中では血が流れているかもしれない。どこか間違ったところがあったからこそ、相手はあなたに対して言葉が鋭くなったのではないだろうか。自分を振り返ってみれば、確かにどこか間違っている部分があるかもしれず、修正して変えていくべきだ。相手は善意であなたを諭しているのだから、自分も感謝の心を持って修正していくことが正しいあり方だ。
相手の自尊心を傷つけることも避けるべきです。最も恐ろしいのは、言葉がより鋭くなって言い争いとなり、元々の善意や良き意図を損なってしまうことです。面目を保とうとするあまり、双方にさらなる傷を負わせ、それで敵を作らないというのは、実に不思議なことです。古い言葉にも「一言の優しい言葉は三年も心を温め、一言の悪い言葉は一生恨まれる」とあります。
知足と感謝の条件
この一言に傷つけられ、生々世々にわたって悪循環の因果に立ち向かうことになる。このような状況はまことにどうしようもなく、また有情の衆生が最も心から離れがたいことの一つである。言葉で他人の自尊心を傷つけると、それが故意であれ無意識であれ、本来なら向上する機会があったはずのものを、悪しき因縁へと変えてしまう。
たった一言で人を傷つけ、本来成長すべき善徳の縁を損ねてしまうことについて、自分はどう思うだろうか。この問題は、一人ひとりの言葉遣いや口調に関わる極めて重要なことであり、細心の注意を払わねばならない。同じ宗教や団体、職場で人々が共に過ごし、同僚として働くことは、実に容易ならざる事柄なのである。
このような縁は非常に稀有なもので、皆が兄弟のように仲良くすべきなのに、どうして口論や争いが起こるのでしょうか？他人を言葉で傷つけながら、その原因を解消できなければ、相手は恨みを抱き、自分は何の感じもなく、何の過ちも犯していないと思い込んでしまうのです。
ある者は根本的に自己の欠点や過ちを省みることがなく、むしろ常に他人に対して口調が非常に鋭く、つまり台湾の諺で言う「話し方が剣のように鋭い」という状態です。このような人は一生涯において、他人よりも多くの悪い因縁を結びつけることになります。また職場では非常に横暴で、他人に対して少しも情けをかけようとしません。
人間が共に生きるには、互いに感謝の心を持つことが大切です。
結果として他人により大きな損害をもたらすことになる。このような人としての在り方、物事の進め方は、一切の余地を残さないと言える。自分では公正無私で、私情を挟まず、容赦なく公事を執行していると思い込んでいるが、それはつまり他人の生計の道を断つことにほかならない。自分の福徳や能力が非常に優れていると考え、英雄主義の後押しもあって、他の人々のあらゆる努力を無に帰せしめてしまうのである。
さらに、自分が表現を好むあまり、他の宗教や団体、組織、家庭に対してより大きな損害と苦難をもたらし、しかもこのような人は少しも気づかず、すでに他人に取り返しのつかないほどの打撃を与えてしまっている。そのため、他人は骨の髄まで恨み、あなたの肉を食らい、骨をかじり、鮮血をすすって心の怨みを晴らしたいとさえ思うのである。
一途に機会を待ち、復讐を企てる。もし視点を変えてみれば、あなたも同じように他者から扱われ、あなたに打撃を与えられたとき、どのような気持ちになるだろうか？これは有情衆生が悪業を造る際の奇妙な性分である。あなたが言うように、同じ職場や団体にこのような人はいるか？まさにあまりにも多いのである。
個人英雄主義に走り、自己顕示や大げさな手柄を好む者は、同僚間の相互友愛などまったくなく、ましてや互いの情義を以て物事を成就させることなどない。このような破壊力は、まさに悪しき因果の源となる。人として、また仕事をする上で、できる範囲で融通を利かせ、人に便宜を図ってやれば、後々、多くの良き人縁に恵まれるものである。
知足の成長と感謝の心構え
人間世界では、知らず知らずのうちに、しばしば他人を傷つけていることに気づかないものです。このような自己の能力の発揮において、もし自分自身と他者を円満にすることができれば、より大きな善縁と福徳を得ることができます。また、一つの宗教、団体、組織の中で、もし円満を欠くならば、外部への弘揚と発展を図ろうとしても、その効果は大きく減じられるでしょう。
さらに言えば、同じ場所で足踏みしているだけでなく、むしろ後退し続けることさえあります。また、こうした同僚の間では、陰で指をさされて噂されることも比較的起こりやすいのです。あなたは今生においてすでに十分な悪因縁を結んでしまっており、どのような組織、どのような団体、どのような宗教においても本来は善因縁であるべきところが、逆の結果になってしまっているのです。
汝の個人英雄主義と、人に見せびらかしたいという気持ちのせいで、他人を完膚なきまでに打ちのめし、癒しようのない傷を負わせてしまった。このような状況は、良縁や善徳の因縁の中で悪果を結ぶことになる。汝はこれが価値あることだと思うか？否！これではより大きな成長や向上も望めない。すべての行いの後、一体どうなるというのか！
あなたの言動は、他人の目にはまさに変人と映っているのに、あなたはただ自分の職責の範囲内で実行しているだけだと思っている。こう言えるだろう：すでに善縁の中で悪い禍の種を蒔いてしまったのだと。これは良き縁ではなく、いかなる組織、団体、宗教においても、本来は良き縁であるべきものだ。
縁起の法に依ることを感謝します
皆が共に集い、共に働くことができるのは、善き因縁によって成就されたものであるべきです。しかし、一人一人の風変わりな性格や、他人に対する辛辣な言葉遣いがある中で、そのような人々と共に働くのはどのような気持ちでしょうか。有情の衆生は、なぜ自分が全身全霊を捧げても認められないのでしょうか。
他の人々と良くない悪因縁を結ぶことになります。普段の振る舞いを見ると、自分は努力して貢献していると思い込み、自分の特異な性格や傲慢な態度が他人を圧倒していることに気づかず、さらに自分の担当する職責において、他の同僚に対してしばしば言葉が鋭く、話し口調が非常に衝撃的で、このような口の言葉は、有情の衆生によく起こることです。
なぜ自分にこのような状況が起こるのでしょうか。誰もが他人から尊重され、認められることを好み、また良き縁に恵まれた仲間と共に仕事をしたいと願うものです。このような人は、多くの良き縁を強く望む傾向があります。もしあなたが他人に対して、良き言葉であれ悪しき言葉であれ、非常に鋭い口調で話したり、あるいは非常に衝動的な態度を取ったりするならば。
汝がこの生涯において、どのような職場にあろうとも、汝が結んだ悪しき因縁はすでにあまりにも多いと信じる。すべての同僚の間で、自分は無私無為に尽くしていると思い込みながら、他人の目には、目立ちたがりで個人英雄主義と映っている。もしすべてのことが他人を傷つけなければ、まださほど問題はないが。
人々が共に過ごすのは縁があってこそ
もし悪意をもって相手を中傷し、他人の自尊心を踏みにじり、それを職務と心得ているならば、あなたにとってはすでに多くの敵を作り、将来には多くの悪縁や怨親債主による妨害が生じるでしょう。なぜ自分をして他人に感謝し、互いに支え合う良縁を育むことをさせないのですか。
また、なぜ他人に対して口調が鋭く、しばしば人を怒らせるのでしょうか。このような人は常に自分を第一とし、他人や同僚を二の次にします。しかし、人間は社会的な生き物であり、縁あって共にいる以上、互いに助け合い、感謝し合い、支え合い、気遣い合い、導き合う必要があることを理解しなければなりません。
自分がどれほど能力が高くても、皆を円満にすることができれば、皆があなたを好み、認めてくれると信じています。最も恐れるべきは、あなたの見方や視点が受け入れられない場合です。もしそのような人であれば、どうしようもありません。どうしようもないのです！有情の衆生が同じ組織、団体、宗教の中で共に働くには、必ず円満であることが必要です。
誰しも他人から認められたいと思うものであり、人間関係が始まったばかりの頃は特に良いところを見せようとします。それはまさに他人からの肯定を得たいからです。もし仲間同士が互いに慈しみ合うことができれば、当然より大きな成長が期待できます。このような仲間同士の相互配慮こそが、友情をより深く育み、互いを大切に思う気持ちを育むのです。
知足と感謝の確かさ
別れた後も連絡を取り続けるような関係は、良縁が必要です。機会さえあれば、人はあなたに知らせてくれるでしょう。そうすれば、あなたの貴人も多くなるのです。もし常に敵を作るようなことをすれば、未来の時空の縁の中で、同じように反撃を受けることになるでしょう。
汝がかつて気炎を上げ、全てが横暴で憎むべき様子であったことを、常に記憶に留め、汝に対して恨みを抱き続けるであろう。このようなことは、どれほど時空が過ぎ去ろうとも、常に第八識の中に記憶され、過去の良からぬ怨恨に報いる機会を待ち続ける。これは有情衆生が最も犯しやすい過ちと不足、欠点であり、まさにここにあるのだ！
他人から受けた恩恵に対しては、常にその施しを心に留め、また他者へと施しを広げ、第八識にしっかりと蓄えておく。時空と因縁が巡り来たる時を待ち、他者から受けた恩恵には必ず報いる。これは日常の人間関係の中で培われるものであり、一人の人間の処世の姿勢がどのようなものかを知ることができるのである。
自分が築いた人間関係の良し悪しを通じて、自らの行いを理解することができます。つまり、世の中の良し悪しや善悪の因縁を、未来の人間関係に対してありのままに捉え、善悪や良し悪しに応じた報いが生じることを知るのです。それらは一人ひとりの第八識に刻み込まれ、未来のすべての善悪・良し悪し・禍福の因縁を形成していくのです。
知足と感謝をもって完成させる
あなた方は様々な条件を選ぶ際、自分と他人を成就させることについてどう考えていますか？皆さんはきっと、自分がより好む善い徳と縁を選び、良くない悪い災いの縁は選ばないでしょう。また、普段の人との接し方や物事の処理において、「身・口・意」の三つの点から自分を検証するとき、言葉遣いや口調は、より穏やかであるべきではないでしょうか。
人との接し方や物事の処理も比較的円満であれば、あなたの結ぶ善縁はきっと多くなるでしょう。もし自分の言葉遣いが非常に鋭く、話すことがまるで剣のようで、口調も非常に激しいならば、どんなに苦労して努力し、犠牲を払って奉仕しても、ただ多くの敵を作る結果になるだけです。
口を開かずとも、まだ他人を怒らせることはないが、口を開けばさらに悪くなる。どうすれば言葉を慎み行動を正し、悪業を減らすことができるのか。また、これらの敵は悪人ではなく、あなた自身が普段気づかない小さな細部や、無意識のうちに多くの人を怒らせてしまったことによるものであり、これらはあなたが未来に必ず受けなければならない苦しみと試練である。
他人があなたに対して悪意を持つことを責めてはいけません。あなたにとっては、自分が以前に悪い因縁を蒔いた結果であり、それが悪い結果と醜い種子の原因となっているのです。あなたはそれを嘆くでしょうか？ そうすべきではありません。むしろ、自分自身の不足や欠点、過ちをどのように修正し改善するかを考えるべきです。そうすれば、「足るを知り、感謝する」という第一課が何を意味するのか、きっと理解できるでしょう。
善き師との縁は互いに通じ合い、一切の因縁には皆種がある。
口に出す言葉が鋭すぎて　相手を傷つけるのは賛同しがたい
因果応報はこの通りにあり、報いは公平で真実のままである。
かつて蒔いた因の種は
今、悪しき実として報いる
この偈を！有情の衆生が互いに励まし合いましょう！足るを知り感謝する第一の教えを、善悪の因縁によって蒔かれた種はどのようなものか？これは有情の衆生が最も犯しやすい病と奇妙な癖である。今日、師であるわたしが再び来たが、あなた方は師であるわたしにどのような良き果実を授けてほしいと願うのか。ああ！悟りを開くことはあなた方もとっくにできている、ただ応用ができないだけなのだ。
師が著した意味を理解できるだろうか？有情衆生はこのように善き縁によって、自らの善行と悪業、善悪の因縁を区別するのだ。よく覚えておくがよい。「一言の温かい言葉は三年も温かく、一言の悪口は六月の雪のごとし」と。さらに、一生涯汝を恨み、それに加えて生々世々にわたって永遠に汝を怨むことになるのだ。
今日のことを心に留めよ。師としてのすべての戒めは、人類衆生が向上し成長するためのものである。決して！他人と悪縁を結んではならず、必ず他人と良き善因善果を結ばねばならない。そうすれば後に良き善き好因縁が生じ、向上し超越して増長する。これこそが正道である。理解できたか！皆様、ご苦労さまでした。すべて吉祥なれ。さようなら！
無極国際 観世音菩薩
無極の国際観世音菩薩、登台して有情と会す
大道因果が来たって著作す　人類の善悪の原因
諸聖佛と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は南屏道済古仏本尊が降臨され、「大道因果」第三十三回を著作され、諸聖仏と諸賢生らと共に会し、如何にして他の人々と共に足るを知り恩に感謝する行いを為すかについて、有情衆生と人々が悪縁を結ぶことについて詳細に剖析されます。
悪縁をどう転化し、善縁をどう向上させるか、これはあなた方の未来におけるさらなる成長と収穫につながるものであり、一歩一歩確実に、着実に歩みを進め、上へと成長していくことが必要だと信じています。皆様、お疲れ様でした。すべてが吉祥でありますように。さようなら。
2015年、0308、2020◎＃※  了解です。
南海古仏
南開大道は群生を渡し
海中妙理は智慧を呈す
古の言葉に道徳を再び弘め化す
仏は包容を著し善く真を解す
第三十四回　包容と善解（行動が人を傷つける）
包容と善解の機能と作用
有情衆生が人間界において行う行為には、言葉で人を傷つけることもあり、良好な人間関係を築くのは難しいものです。このような因縁の働きによって、しばしば人を怒らせてしまいながら、自分ではそれが言葉で人を傷つけていることにも気づかず、他者への尊重も欠いてしまいます。逆に、すべての人間は互いに尊重し合うべきなのです。
また、貴賤や貧富を区別してはならず、すべてが有情の衆生の一人であり、皆が他人からも互いに尊重されることを望んでいる。もし互いに尊重し合い、互いに成就し合うことができれば、それはお互いの間に調和が生まれ、他人を尊重し、さらに互いに包容し合い、善く理解し合い、他人の権益を損なうことのないことである。
このような人間関係は、人と怨みや恨みを結びにくく、多くの悪しき問題の発生を減らすことができ、良い縁となります。また、自分の言葉で他人の自尊心を傷つけると、相手に恨みを抱かせ、長年深く交わってきた親しい友人との良好な関係も、一瞬で消え去ってしまうことになります。
これはよくあることですが、なぜそうなるのでしょう。どの人間にも、多かれ少なかれ言いにくい本音があり、心に秘めた小さな秘密もたくさんあります。長年深く付き合ってきた親友同士でも、意図的か無意識かに関わらず、相手の言いにくい痛いところに触れてしまったとき、どうやって状況を好転させればよいのでしょうか。
善く解し包容するの基本
この時、無心の一言であっても、深く傷つけたり自尊心を損なったりすれば、知らず知らずのうちに痛いところに触れてしまう。このような場合、相手が寛容で理解を示してくれれば、大きな問題にはならないだろう。心からの謝罪が必要だ。もし相手が恨みを抱けば、長年築いてきた良き友人関係や深い友情も壊れてしまう。
これは最も慎むべきことである。自分と他人の区別をつけず、しばしば無心の一言が相手の痛いところを突いてしまう。何を言うべきか、何を言うべきでないかを知らねばならない。もし言葉が人を傷つけるならば、それは意図的か無意図的かの区別がある。もし双方が包容し合い、善意をもって理解し合うならば、問題の溝もいずれは解消される日が来るだろう。
しかし最も恐ろしいのは、言葉で人を傷つけた後、そこから生じる怨恨が消えず、さらに行動で人を傷つけることによって多くの害を生み出すことです。これを変えようとしても、おそらく解決するのは難しいでしょう。また、言葉による傷つけは心の奥深くに存在し、もし行動で人を傷つけるようになると、あなたは今生において多くの仇敵を抱えることになります。これは良い現象ではありません。
常に未来に報復の準備をしている。古くから言う；君子の仇を討つには三年待っても遅くない、今生で果たせなければ、来世で再び怨みを晴らすと。その形成は「言葉で人を傷つけたり、行動で人を傷つけたりすること」にある。次回と来世の怨みの区別は、まさにここから怨みを結ぶ原因が生まれ、未来の善悪良し悪しの報いを引き起こすのである。
どのように包容し、善く理解するか
有情なる衆生はなぜ、人と怨みを結ぶ主な原因がこれほど多いのか？もし他人と怨みを結ばなければ、他人に自分への不満を抱かせることもない。したがって、人間の行動や言葉が人を傷つけることも、汝の敵の多さを分けることになるのか？有情なる衆生は、自分が人から好かれる存在であることをとても喜ぶ。
しかし、なぜ言葉や行動で、理由もなく、あるいは意図的か無意図的かを問わず、人を傷つけてしまうことが多いのか？自分自身も気づかず、何の感覚もない。この自分でもわからない障害が、自分自身に無明の煩悩をもたらし、他人と仲良く過ごす善縁を壊してしまう。どうしようもないことだ！
有情ある衆生は往々にして、自分の好みや気性によって他人の権益や自尊心に影響を与え、自らは気づかぬうちに、すでに他人の将来の報復の原因を作ってしまいます。なぜこのような行為や言動があるのでしょうか。このような人々は口から災いを招き、また言葉遣いや口調の悪さによって業を造ることになるのです。
また、行動をもって人を傷つけることは、あなたの生々世々において変わりうるだろうか？必ずしもそうではない！他人に報復され、鉄板を蹴るような痛い目に遭って初めて、自分が他人に与えた傷の深さに気づくのである。もし自らの欠点、不足、過ちを深く反省することができなければ、このような人は常に多くの怨みを買う親族や敵を作り出すことになる。
善く理解し包容するには、いかにすればよいのか
もしあなたが変われないなら、どうして良き理解と包容を持つことができようか、どうして良好な人間関係を築けようか。これこそが人と怨みを結ぶ始まりの原因なのだ。有情衆生が人道世界に生まれれば、必ず他の人間衆生と共に事に当たることになる。このような因縁はなんと微妙で殊勝なことか。
こう言えるでしょう。まさに非常に良好な善因縁であり、古くから「十年修めて同船の渡りを得、百年修めて共枕の眠りを得る」と言われてきたように、人世间はまさにこのような因縁で成り立っています。同じ一団の人々と共に仕事ができるというのは、いかに微妙で殊勝な因縁でしょうか。思い巡らせば、この有情世界においてあなたと共に仕事ができるということは、いかに容易ならざることか。
もし他人と仲良く付き合うことができない場合でも、悪縁を結ぶことは避けましょう。将来の悪果や小人の足を引っ張ることを防ぎ、あなたの人生における貴人を大きく減らさないためです。また、人為的な要因で物事を処理する過程においても、他人と怨恨を結ぶことは避けるべきです。それは非常に良くないことなのです。
有情なる衆生は習気が良くなく、物事が自分の意に合わないと見るや、感情の反応が甚だ不愉快となり、他人に対して悪口を吐いて侮辱し傷つける言葉を発し、さらに行動や動作で他人を傷つけてしまう。これにより未来の悪果を造るだけでなく、おそらく生々世々の中で、多くの怨みを抱く親族や小人があなたの足を引っ張ることになるだろう。
人々が共に生きるには、寛容と善き理解が欠かせません
あなたのすることなすことすべてが目障りで、あれこれと文句をつける。なぜ人間には現世と前世の悪因縁が生じるのか？今生で出会った悪因はすでに果報となり、時空の因縁が熟するにつれて、あらゆる因果が自らの努力に影響し、他人も認めずに大量の不満を漏らすのである。
この時、かなり落ち込んでどうしようもないと感じることはありませんか？あなたにはこのような経験の過程がありますか？あまりにも多いのではないでしょうか。人間界における生存の過程は、まさに前世と累世のすべての因縁果報を、今この世の行為や動作に組み込むことであり、どんな人であれ前世のすべての恩や怨みに従って完消していくのです。
あなた方が今世で受けているすべての善果と悪果は、前世のあらゆる行動が因を積み重ねて形成したものであり、それが現在の生活全体に織り込まれ、貴人と小人の区別を生じさせています。前世はすでに遠く消え去り、目にすることも証明することもできません。今生で出会うすべての出来事を、前世へと遡って推し進めることは果たしてできるでしょうか。
あなたが今生で出会う貴人と小人は、様々な原因によって形成されるものです。あなたが寛容に善く理解できるかどうかは、必ずしもそうとは限りません。有情の衆生は往々にして、自分は一生誰も害したことがなく、誰とも怨みや恨みを結んだことがないと思いがちですが、自分がすでに知らず知らずのうちに、あるいは意図せずに他人を怒らせていることに気づかないのです。
前世の因果の功徳と作用
それに、自分の誤りや不足、欠点がどのようなものかさえまだ分かっていない。それなのに、大言壮語して恥じることなく、「私は誰とも怨みを結んでいないし、誰とも悪い縁を結んでいない」などと言う。このような問題は、言葉遣いが非常に攻撃的で、態度も非常に悪質な行為であり、他人を意図的か無意識かを問わず、批判し、中傷し、誹謗し、デマを流すなどしている。
さらに相手の口調や態度、動作に不満を抱く場合、まずは自らの言動を振り返る必要があります。自分の行動が他人の利益や自尊心を傷つけていないか？相手が理不尽にもあなたの横暴な態度、悪辣な口調、傲慢な物言いによって傷つけられ、さらには周囲の人々までもが傷つけられていないか？
自分自身の過ちをまだ理解していないのに、どうして真の変化を一日もたらすことができようか。それは不可能なことです！このような人は気炎を上げ、横暴に振る舞い、言葉遣いが悪く、職権を利用して他人をいじめ、まさに自己顕示欲が原因で、自ら得意気になっていますが、すでに他人の自尊心と権利を傷つけているのです。
また他人の恨みを生み出し、心に恨みを抱いてもどうしようもない。このような人はいるだろうか、あまりにも多い、あまりにも多い。自分の過ちを反省できるだろうか？試してみてほしい！他人の自尊心や利益を傷つける前に、必ずよく考えて行動し、一方的に他人を傷つけながらも気づかず、それどころか「私はこうするのだ」と思い込んではいけない。
包容と善解の主な働き
人は感情を持つ生き物です。あなたが他人を三分尊敬すれば、他人もまたあなたに三分の敬意を返してくれる。これこそが礼には往来があるというもの。人と人が互いに尊重し合うことは、善良さが互いを高め合うことである。有情の衆生は永遠に頂点の地位に留まることはできず、人生は一世、長江の後ろの波が前の波を押し流し、前の波は砂浜に消えていくように移り変わっていくのです。
古き世代は新しき世代に移り変わり、人の世は実に微妙なものである。古き世代は必ず新しき世代に伝承されてこそ、正しい道である。その中で、いかに接し、いかに尊重し、いかに教え導き、いかに育成し、いかに選び分け、いかに創造するか。これらすべては自らの心の持ちようと観念の中にあり、円満に成し遂げられれば、良き因縁が生まれるのである。
あなたがたは同じ職場で共に働く機会に恵まれましたが、このような縁は非常に稀有なものです。まさに、どれほど容易ならざることであり、またどれほど得難い縁であることかと言えましょう。人と人が共に過ごせば、摩擦が生じるのは避けられません。もし一言気に入らない言葉や、一つの行動に不満を抱いただけで、わがままを発揮して職場を離れ、二度と戻らなくなるようなことがあってはなりません。
このような人々は、性格と気性が非常に問題があり、自らの未来に対して確固たる信念を持つべきです。これが未来に成就できるかどうかの分岐点なのです。また、同輩の間で摩擦を起こすことがよくありますが、自分自身または相手の不足、欠点、誤りを検討した後、すべての過ちがどこにあるのかを理解する必要があります。
包容と善解は必須の性質である
包容と理解を持つことができ、このような包容と理解も、双方が本当に自分の過ちを改め、同じ過ちを繰り返さないことが正しい道です。有情の衆生は、どの宗教や宗派も区別なく同じであり、このような人為的要因はしばしば発生し、すべては人と人との間の問題によって引き起こされるのです。
同僚間の相互コミュニケーションを通じて、反省と修正を行うことができるでしょうか？このように包容と理解を持ち、他者に対してより大きな利益と効果をもたらすことで、言葉や行動による傷つけを改めることができます。人類の衆生が共に働き、共に生活することは、いかに微妙なことであり、縁のあることでしょう。
すべての宗教、団体、組織、そして家庭において、人と人の間のあらゆる人間関係を問わず、また、天地、男女、父母、夫婦、子女、親族、友人、同僚など、すべての人類衆生において、一人ひとりに多かれ少なかれ、不足や欠点、過ちがあるものです。
知足と感謝の心があってこそ、善く理解し包容することができます。これは世の中に共に暮らすすべての有情の衆生にとって、物事の問題に対して良からぬ行いを生じさせ、相手をいじめ侮辱し、あるいは種々の横暴な行為に及ぶような時空の因縁に際しては、汝はその場で他人と善縁を結べないとしても、人と悪縁を結んではならないということです。
人と人との間には互いを包み込む心が必要です
善縁を結べないのはまだしも、決して！他人と悪縁や怨恨を結んではなりません。果たして一生涯、常に大きな福報や勢いを得られるでしょうか？それもどれほど続くものでしょう？人生はまるで一つの芝居のようで、舞台に上がり下りし、将となり相となり、まさにそれぞれが今生の一場の戯れを演じているに過ぎないのです。いったい誰が永遠に勢いを得られるというのでしょうか？
優勢を善用して人類と衆生に福をもたらすべきであり、運気が盛んな時に他人を損なってはならない。もし「一世の功名、百世の冤債」となれば、得るものより失うものが大きい。それではどれほどの勢力や福徳があろうか？あっという間に消え去ってしまう。誰にも台本はなく、すべてが生放送である。よく考えてみよ、一度きりの人生にリテイクはないのだから。
現代の民主選挙制度を見るとき、誰が権力を握り、誰が民に幸福をもたらし、誰が悪政を振るい、誰が退場するかを見れば、未来の結末がどうなるかが分かるでしょう！「善く理解し包容する」ことを通じて自らを戒めねばなりません。情ある衆生の中で、永遠に権勢を保つ者などいるでしょうか？永遠に福報を享受する者など、いや、いないのです！
人間の衆生に対して、権勢を得た後も失った後も報いは次々と続いてくるもの、それにどれほど長く横暴でいられようか。有情の衆生は、勢いがある時に大衆のために福を積み、勢いを失った時には、数え切れないほどの報いが返ってきて、永遠に享受し尽くせないようにするべきである。これこそが真に聡明で大いなる知恵を持つ者が取るべき行動なのである。
口に出る言葉で事を荒立てるな
人を害する行いは為すべからず
人生の高低差は　起伏定まらずに付き従う
将相の座は戯れの如く　  　権勢得て人を侮るべからず
失勢して初めて苦しみの極みを知る　どうして悪をなしたのは自分自身なのか
人生の一世の過程は、あたかも芝居を演じるが如し。誰が今この瞬間の勢いに乗っていることが、いかなるものかを理解できようか。時空が巡り巡って勢いを失った時、初めて自らの過去の過ちを知る。その時には既に罪悪にまみれ、悔いてもどうしようもない。これは本当に良くないことだ。今日戻ってみて、崇心宗脈には大きな変化があり、全ての気勢も以前とは異なっていることに気づき、あなた方に対して心から喜びを感じる。崇心宗脈にお邪魔いたしました。皆様、ありがとうございました。
無極東瀛  観世音菩薩
人生はあたかも一場の戯れの如し　東瀛の観音舞台に登る儀
諸聖賢生の皆様、ごきげんよう。
因果天書は次第に完成の時期を迎えております。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は「大道シリーズ」主著仙仏である南海古仏が降臨され、崇心において「大道シリーズ」第三十四回を著作されました。包容と善解の主要な因縁の根本を、行動による人を傷つける因縁の問題を如何に化解すべきかについて述べられます。
有情なる衆生は、すべての無明の障害を取り除くべきであり、これは人間としての衆生が理解すべきことです。人生一度きりの旅路において、一人ひとりが他の人々と善縁を結び、機縁を大切にすべきです。もし未来の時空で再び出会ったとき、仇同士が顔を合わせて目を血走らせるようなことになれば、それはまったく割に合わないことです。本日はここまでとさせていただきます。皆様、ありがとうございました。では、またお会いしましょう。
2015年、0308、2021◎＃※   ０Ｋ；
南無虚空より降り来たりて臨みたまう　上徳の人天　古仏の親
大道因果三十五回　　善悪の報いは徳の意に導かれる
第三十五回　心を通わせる（善悪の報い）
関心とコミュニケーションの基本的な役割
有情なる衆生が人道世界に入ると、すべての行為と動作に対して善悪の報いと応報が生じる。この中で、どのように善悪を区別するべきか。人間社会における物事の見方は一致しているが、上天の視点から見れば必ずしもそうとは限らず、それぞれの時空における因縁によって心が動き、念いが起こるのである。
全ての問題と事柄に対して区別を始め、有情衆生の全ての行動と動作がどのようなものかを理解しなければならない。もし互いに意思疎通と配慮ができれば、問題の核心点に対してより大きな円満な向上が得られる。つまり、人道世界で言うところの、問題の障害点を解消するにはこのようにすべきである！そうすれば、多くの業障因果を減らすことができる。
人と人が互いに接触した後、口に出る言葉が耳障りになり、話し口調が非常に刺々しく、態度はさらに悪く、双方の行動も乱暴になってしまうことがあります。そうすると互いに対立するようになり、これは異なる視点や見解を解消することが非常に難しく、根本的にお互いを円満にすることが極めて困難な状態となります。
すべての衆生が触れる人間関係において、双方の異なる見解の問題点に相互の接点を見出すためには、互いの対話が必要です。そうして初めて、相手の視点がどのようなものかを理解できるのです。問題点がどこにあるのかを互いに明確に認識しなければ、真に問題を解消することはできず、双方の見解の相違も容易には理解されません。
関わり合いとコミュニケーションの必要性
人と人との間のあらゆる問題点は、口に出す言葉が受け入れがたく、話し方が非常にきつく、態度も悪く、さらに行動が横暴であることに起因し、これが人と人との間に障害点を形成し、見る者に強い嫌悪感を抱かせる。また、人為的要因による障害は取り除くのが難しく、それゆえに互いに歩み寄ることもできないのである。
人の行動においては、多くの人が良好な成果を上げることを好む傾向があります。このような傾向は、当然のことと言えるでしょう。何事においても、始まりから終わりまでの過程には、多くの問題が生じるものです。問題が発生した後は、多くの人々が互いに協力し、支え合うことが必要となります。
良好な結果を得るためには、双方が問題に対する見方が異なる場合、どのようにして問題点について合意を形成するかが重要です。また、双方が心穏やかに互いを尊重し合い、問題の核心となる相違点について、円満なコミュニケーションを通じて異なる意見を調整することで、改善の余地が生まれ、良好な結果につながるのです。
コミュニケーションを取る前に、まずお互いに心を落ち着けて思いやりを持つことが必要です。腰を据えてしっかりと振り返り、このような問題がどのように生じたのかを理解することです。双方が心を落ち着けて話し合えば、良好な結果が生まれます。人と人との対話を通じて、すべての問題点を明確に説明し、はっきりと理解させることができるのです。
関心の主な目的
また、互いに高まる怒りを解消し、双方の異なる見解を円満に解決することができます。困難や障害を取り除き、人間関係においても誠意を持って円満に解決すべきです。つまり、このように、真心を持って双方の異なる見解や問題を解決し、また、人がいれば問題が生じ、問題は双方の異なる視点や見解を通じて生じるものです。
総合的に相互共通の答えを形成することこそ、人と人とのコミュニケーションに必要な要素である。すべての人間関係は、それぞれ異なる視点から観察され、実践される。人と人との間では、視点の違いによってしばしば大きな隔たりや障壁が生じ、その結果、ただその場で足踏みするだけの状態に陥ってしまうのである。
このような隔たりと障壁は、双方に共通の接点があって初めて解決の可能性が生まれます。人間は物事の見方が異なるため、コミュニケーションを通じて共通点を見出せれば問題を解決できますが、もし双方の立場が異なり、物事に対する見解が違う場合、互いに意思疎通が図れなければ、共通点を見いだすことはほぼ不可能です。
物事には完璧な答えはなかなか見つからないものです。人それぞれ考え方が異なり、視点も当然違えば、意見の相違も生じます。そうした問題点が生じた後、誰もが自分の見方とやり方が正しいと思い込んでしまう。そうなると、お互いの深い絆にも影響が出てきてしまいます。
思いやりのあるコミュニケーションは摩擦を減らすことができる
相手がまったく道理をわきまえていないと思い、また相手が意思疎通の難しい人間だと考えれば、双方の立場から相手の異なる意見を認めることは非常に難しくなる。これがまさにその原因なのである。意思疎通の方法には、相互の心からの配慮が必要であり、そうして初めて双方が認める条件のもとで実行に移すことができるのだ。
このような配慮こそが、双方の潤滑油となります。コミュニケーションに潤滑油を加えることで、本来の摩擦作用を軽減することができます。双方の摩擦が生じた後は、腰を据えて問題の核心を共に議論すべきです。一人ひとりが物事をどう捉えているのか？そして双方が真摯に事態を理解し、思いやりをもって対話できるかどうかが大切です。
問題点を理解した後、双方の認識の角度と、相手の異なる角度がどこにあるのかを把握することが、思いやりのあるコミュニケーションの最も重要な目的となります。双方が自らの偏見やそれぞれ異なる視点を手放すことで、初めて真摯な相互理解が可能となるのです。まさにこのような姿勢が求められます。
有情なる衆生が互いに思いやりを持って交流し合うことで、双方の問題を不足や欠点を補い合いながら解決することができます。特に弱者を思いやる側に立つ時こそ、まさにこのようにあるべきです。必ず真心を持って接し、強者としての心構えや振る舞いをしてはなりません。自分がとても有能で偉いと思い込み、他人への行為を施しと考えるような態度は取るべきではないのです。
コミュニケーションと思いやりの利点
有情なる衆生のコミュニケーションにおいては、双方の立場や物事への態度がどうであれ、互いを思いやることが慈愛の現れであり、慈悲の心から発せられるものである。それは自らの内から発せられる天地のエネルギーであり、相手の共感を呼び起こすことができる。この身から発せられる慈悲と仁徳のエネルギーが、双方を潤すのである。
双方が、自分が堅持している見方や行動が将来どのような効果を生むのかを認め合えるようにすることです。問題点について双方が共に認め、異なる視点を解消するよう努める。そうすることで、双方は落ち着いて席に着き、問題の核心について互いにコミュニケーションを取る必要性を認め合えるようになるのです。
人と人は感情を持つ生き物であり、職場と家庭を問わずそう言えます。夫婦がなぜ口論し、時には喧嘩までするのでしょうか？この問題に対する双方の立場は異なり、また双方の出発点は、いずれもこの家庭を良くしたいという思いからです。その中で、夫婦双方が果たす役割もまた異なってくるのです。
実際、角度も異なれば、視点も異なり、認識も異なる…など、多くの相違点があります。これにより、夫婦二人はそれぞれ異なる役割を担うことになります。双方の全ての方向性と目標は、この家庭を基準点としており、一人ひとりのやり方や方法、そして認識や教育もまた異なっています。
人類の衆生は互いに思いやりを持ち、交流を深める
問題が生じると物事の見方も異なり、情愛深い夫婦であっても、いざ事が起これば双方の立場が違うため、物事の見方や対応について意見が対立することがよくあります。その際、双方は往々にして激しく口論し、互いに譲らず、声は次第に大きくなり、さらに言葉遣いが少し鋭くなることで刺激されていきます。
喧嘩の状況が生じる可能性があります。どんなに仲の良い夫婦でも「口と舌が噛み合う」ことがあるように、人と人は感情を持つ生き物であり、夫婦の絆はその感情の結びつきをさらに深めたものです。普段から過度に親密で占有欲が強いと、些細な言葉の鋭さが双方を傷つけることになりがちです。
相手の自尊心を傷つけることになり、そうなれば口論や喧嘩はごく普通のこととなる。古くから「寝床で喧嘩しても、寝床の端では仲直り」と言われるように、さっきまで大声で言い争っていたかと思うと、あっという間に元通り仲良くなっている。あなたがまだ彼らのことを心配して気をもんでいる間に、あの夫婦は喧嘩も殴り合いも終わらせ、もう怒りも収まっているのだ。
これが夫婦というものだ！まるで子犬のように、喧嘩したり罵り合ったりしてもどうしようもない、人間とはそういうものだ、あなたも経験があるだろうか？今の人々は言う：家庭の幸せとは喧喧諤諤の中にこそあるのだと；職場であれ同じ組織や団体、家庭であれ、この「口と舌も互いに噛み合う」ような問題は後を絶たない。
コミュニケーションの必然性と配慮の実相性
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。同僚と一緒に過ごし、仕事をする時間が比較的長くなり、ある程度親しくなると距離感がなくなり、むしろ親密さが増します。このように日常生活を共にし、職場で一緒に働き、すべての共同作業において、多くの機会がこのように形成されるのです。
また多くの貴人と小人がいるが、これらの貴人や小人は顔に書かれているわけではない。必ず事に遭遇してから初めて次々と姿を現す。一体誰が真に心を通わせられる友なのか？誰と共に事を成し遂げられるのか？世に言うように、「日久しくして人心を見、道遠くして馬の力を知る」のである。
有情なる衆生が友人や夫婦といった情愛において、かつては道徳的情義や三綱五常・四維八徳の思想を重んじ、感情の絆もより強く、問題があれば互いに情義をもって支え合っていた。しかし現代では欧風が広まり、中華の子孫たちは功利主義を重んじるようになり、かつての道徳的情義を失いつつある。
配慮とコミュニケーションにおける視点の違い
三綱五常や四維八徳はとっくに顧みられなくなり、では人と人との情はどうやって保てようか。古人が「善悪は必ず報いがある、ただ早いか遅いかの違いだけだ」と言ったように、人との関係を真心から大切にすれば、将来の良し悪しの報いの差となって現れる。良好な人間関係を築くには、必ず周囲の人々を真心から気遣わなければならない。
自身の親族や友人たちは、自分に善き縁が現れるようにするものであり、あなたのすべての努力と将来の人脈関係に大きな助けとなる。人間社会になぜ思いやりとコミュニケーションが必要なのか？それは他者があなたの誠意を感じ取れるようにするためであり、情ある衆生は皆、善き言葉や善き語りかけ、称賛と肯定を喜ぶものである。
あまり好まないのは、悪口を聞くことです。中傷や批判の言葉こそ、人間の衆生が口にする言葉の行為の作用なのです。あなた方も少し待てば、他人に誠実に善い言葉や称賛の言葉をかけることができると信じています。それを聞いた人も心地よく、爽快な気分になることでしょう。もし人に悪口や中傷の言葉をかけたら、どうなるでしょうか！
有情の関わりは互いに通じ合う
他人の心理的な感受を信じれば、非常に不快で耳障りなものとなり、この状況は人間と動物の両方に共通しています。人間も動物も、他人の優しい言葉や称賛の言葉を聞くことをより好むものです。このようにして、人と人との間には、言葉や言動による相互作用が生まれます。なぜ他人の優しい言葉が多いのでしょうか？
自分がどれだけ努力しても、言葉が流暢でなく、いつも心を込めて良い言葉、優しい言葉、美しい言葉を話そうとしているのに、他人が聞くと、どうしても共感できず受け入れられないと感じてしまう。なぜこのようになるのか？それは普段から良い言葉を話す習慣がなく、比較的良い言葉、優しい言葉、美しい言葉を使う機会が少ないからである。多く学べば必ずできるようになる。
今後は自分自身も少し変えて、良い言葉を多く口にし、善き言葉を多く語るようにすれば、良い運気も巡ってくるようになる。このような良き言葉、善き言葉、好ましい言葉を多く口にするうちに、次第に滑らかに話せるようになる。それに真心を込め、他人に対して誠実に関心を寄せることが大切だ。そうすれば、人も喜んであなたと付き合い、問題があれば互いに話し合い、助け合って解決することができる。そしてあなたはより大きな利益を得られ、必ず良い運勢へと転じることができるだろう。
人生の一世には言葉を大切にすべし
良き言葉、優しい言葉、多く良き言葉を
人と人との関係を和やかにする話し方　幸運を呼び込む優しい言葉遣い
思いやりは真心であり、コミュニケーションも互いに導き合うものです。
すべての貴人は多寡あり
まさにこのような原因である
この偈は、有情の衆生が互いに補い合い、助け合うことを説いています。もしあなたの周りに今、貴人（助けてくれる人）が少ないと感じるならば、より一層心を込めて他人を気遣い、誠実な心で互いに理解し合うべきです。そうすれば、貴人は次第に増え、小人（邪魔をする人）は自然と少なくなるでしょう。皆さんがこの道理を今日から理解し、実践していただければ幸いです。ご一緒に学んでくださり、ありがとうございました。
無極藍衣金聖 観世音菩薩
崇心道場正主席　虚の空上徳古仏の意
藍衣金聖観世音　登台して共に諸賢契と会す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈正主席、南無虚空上徳人天古仏が降臨され、「大道因果」第三十五回を著作されました。「関心とコミュニケーション」の方法が、善悪の因果応報をどのように形成するかについて、詳細に分析されています。
自分を助けてくれる人を増やし、自分を妨げる人を減らす方法は、すでに本書の中に書き記しました。その応用方法は皆さんにお任せしますが、共に学び成長することは必要不可欠です。このような縁と条件は非常に稀なものですから、どうか大切にしてください。また、自分自身の努力があってこそ得られるものです。皆さん、お疲れ様でした。どうかすべてが吉祥でありますように。さようなら。
2015年、0308、2022◎＃※  了解。
南無衆生如来顕現す　　燃燈古仏降来の縁
大道因果三十六回　　円満成就の徳意篇
第三十六回　円満成就（因果完清）
因果が完く清まり、円満に成就する
有情の衆生は人道世界において、しばしば自らを転換し難い窮地に追い込むことがあります。その中でも特に人為的要因が、世の中のあらゆる生存の方向性に対して因果循環を伴わせるのです：さらに、人為的要因がなぜ因果の報いの循環を生み出すのか、また因果の福報がどうして加わってくるのか？
これは人類の衆生にとって最も理解し難い事柄であり、因果応報がいつ訪れるのか、福報がいつ加わるのかも分からない。誰一人として教えてくれる者はなく、このような因縁がいつ起こるのか、皆茫然として知ることができない。ただひたすら待つしか他に方法はなく、全てが善悪とは限らない状況にある。
人界にはこのような因果の報い、および因果の福報の加増があり、有情衆生は自らが行い、為し、作り、造る一切の事柄を観照すべきである。因縁果報は無形の力であり、この無形の力が加わることは、神通力でさえ到底敵わず、転化することも難しい。
仏は「神通力は業力に敵わず、業力は願力に敵わない」と説かれました。真理をもって因果応報と比較することさえ難しいのです。これは大宇宙の人類にとって最も理解しがたいことであり、このような状況において如何に円満に成就すべきか。因縁果報による報いはまさに影が形に従うが如く、有情衆生の一切の行為に付きまとっているのです。
円満成就し因果完清す
いかなる時空、環境、宗教、国であっても区別なく、大宇宙の天地に生きる人類と衆生のすべての生存の方向性と行動には、必ず因果が形に従って身に加わる。この因果随形は前世の行いによるもので、すべての因果は現在のこの世に積み重なっているのです。
自らの行為や動作に対しては、目に見えない力が働いており、これは人間にとって最も理解し難い無明の障壁であり、因果応報の力、すなわち業報と福報でもあります。人間は往々にして自分がどれほど偉大であると思いがちですが、知らず知らずのうちに、この目に見えない業報の力によって、この世において報いを受けることになるのです。
また、福徳の加増という二つの面から区別することができます。もし福徳が加われば、自身の能力がどうであれ、多くの才能ある人々があなたの事業拡大や財産の蓄積、人脈の拡大と富貴の創造など、あらゆる世間的な良い報いをあなたにもたらし、すべてがあなたに帰することになります。
自分の能力に対して、有形無形の面で大きな助けとなります。もし人為的要因から見れば、なぜ自分の能力が最も優れているわけではないのに、最高の事業と富を創造し、人間関係の様々な面で成功を収めることができるのでしょうか。まさにあなたが前世あるいは累世で積み重ねてきたものがあるからこそ、今生における良好な条件が得られるのです。
悪因悪果の災い
すなわち、善行と徳による福報が、あなたの現世に加えられ、あなたをより大きく成全する。これは上蒼が福報として加えるもの、有情衆生はこれを望むか？大半の者は望むであろう！有情衆生は自らが前世および累世において行った行為によって、今生に受けているのである。
今世のあらゆる悪因、悪果、悪報による償いを受けるに際し、一般の有情衆生はおそらく理解していないでしょう。自分自身の前世での行いがどのようなものであったかを。そのため、しばしば心から納得せず、不本意なまま悪因、悪果、悪報による償いを受け入れ、常に天を恨み人を咎め、事態に怒りをぶつけ、さらに問題を深めて怨恨を募らせるのです。
それは非常に難しいことです。恨みを持つ相手や借りのある相手からの報復に対して、心から感謝の気持ちを持つこと。また、そのような報復を全く認めず、さらに悪口を浴びせること。このような否認の態度は報いを消し去ることができるでしょうか？決してできません！恨みを持つ相手や借りのある相手からの報復に対しては、全くどうしようもないことであり、人間は比較的快適で安楽な生活を楽しむ傾向があります。
しかし、これらの怨親債主による執拗な追い討ちの中には、多くの辛酸苦しみが伴います。あなたを絶え間なく付き従い守護するのは、他の因果による怨親が追い討ちをかけるのを防ぐためです。これらの怨親債主による追い討ちは、風雨に打たれるような打撃を受けながらも、なおも絶え間なくあなたに対して追い討ちの動作を加え続けるのです。
世の中のすべての業障は完消することができる
これもまた一種の守護の働きであり、さて汝はどう感じるか？ 百感胸に迫る思いであろう！もし立場を入れ替え、汝が他人の怨親債主となって報復に来たとし、しかも一刻も休まず相手に付きまとうとしたら、自分自身に対してどうするだろうか。最初はきっと緊張するが、しばらく時が経ってから、因果応報の理を知るに至るのである。
これは一般の人々が理解できるものではなく、また簡単に一撃で討伐できるものでもありません。時には一般の神々や凶悪な神々、門番の神々の妨げを避けなければならず、また討伐の機会は残り少なくなっています。もし他にも多くの怨親債主がいて、あなたが討伐しようとする対象を争おうとしているならばなおさらです。
このように見てみると、あなたはどのように感じられますか？これは人間の衆生が想像できるものではなく、その中にあるすべての辛さや苦しみはいかばかりでしょうか。なんと嘆かわしいことか。なんと嘆かわしいことか。有情の衆生のすべての言動は、自らの言葉や行動の拠り所となるものに対して、まさにこの怨みを生み出す者が、今生においては苦しみがより多くなるのです。
相手にあなたの善行の喜びを感じさせたり、あなたの横暴な迫害の苦しみを感じさせたりすることで、自分の行いが何であるかを区別するのです！有情の衆生のすべての行為は、各人の思想や観念から行動が生じるものであり、もし感謝の心を持って、今受けているすべての苦しみや痛みに対処できなければなりません。
福報と悪殃の形成
また、このような福報を享受することも、すべては一時の時空因縁が瞬く間に転じたものに過ぎません。何が長く自分をこのような苦痛の責め苦に留め、また自分が福報を享受することを区別させるのかといえば、それは前世の行いすべての因縁果報に関係し、今生・今世のすべての因果問題を引き受けることになるのです。
良き受容も悪しき受容も、今この瞬間の行いを正しく理解することが大切です。それはあなたの後半生や来世、さらには幾世にもわたって、善き縁と悪しき災いの因縁がそれぞれ現れることになるからです。これは人間の行いがもたらすものであり、古より「前世の因を知らんと欲すれば、今生受けているところを見よ。来世の果を知らんと欲すれば、今生なしているところを見よ」と説かれてきました。
一切の有情衆生の行いと動作に対して、とても真実に、自分自身が福徳や悪禍の中にいることを自覚させ、有情衆生は皆、福徳を喜び、悪禍を望まないと信じるべきです。もしそうであるならば、今行おうとする全ての事柄において、まず自分自身に問いかけてみてください——自分はあまりに過分で、仁に外れたことをしていないかと。もしそうであれば、必ずよく改めるべきです。
人は三綱五常、四維八徳に従って生きることができるだろうか。人として生きるには正正堂堂とすべきであり、「角ばって四角四面」であってはならない。角ばった生き方は円融を欠き、あらゆる面で他人を傷つけてしまう。人としてなぜ「正正堂堂」であるべきで、四角四面であってはならないのか。その理由は、自分も他人も傷つけないためである。
円満成就し業果を完消する
このような人は、自分が正しい道を歩む誠実な人間だと信じていますが、人付き合いの面では不十分であり、すでに多くの人々を怒らせていることに気づいていません。各人の行動はそれぞれの思想や考え方に基づいており、自分自身が円満に対処できるかどうかは定かではありません。
人道世界における宗教修行者にとって、基本的な観念を持つことが必要です。人類の衆生が人間として生まれることは、非常に容易ならざる事柄なのです。有情の衆生は「二十年後にはまた一人前の好漢となる」と考えがちですが、それはあまりにも天真爛漫であり、根本的にあり得ないことなのです。常に長い時間をかけて醸成されることを待たねばなりません。
必ずしも再び人間として生まれる機会があるわけではなく、世の中では二十年経てばまた一人の英雄好漢が現れるなどということは、根本的にあり得ないことです。天地の法則において陰は三十年、陽は三十年、合わせて一甲子となります。この一甲子の歳月において、すべての衆生が持つ一生はわずか二、三十年に過ぎないのです。
また、今の人生においては、根本的に向上して超越する機会を得ることは非常に難しい。あなた方はよく考えてみてほしい、自分がこの世に生まれてから、すべての行動に変化はあったか？気質は変わったか？自分の知識と知恵は向上したか？自分の次元と境地は高まったか？
金品蓮台と九品蓮台は同じではありません
対する  上蒼の大道真理を、ありのままに応用しているか？自分自身の無明に対して、それを化除しているか？これらはすべて、汝の今この時に、必ず身の回りに示現する。古よりまた云う：「自性自渡、仏は渡すこと能わず」と。もし仏が衆生を引渡すことができるならば、有情の人類はとっくに回帰しているはずであり、どうして今また万教が一斉に起こる必要があろうか。
沈淪する有情衆生に対して、向上へと引き上げる因縁の根本となり得る。それぞれの人の因縁条件が異なるため、自ら選んだ信仰宗教において、修行が正しい宝を選び得るかどうかが問われる。それとも自らの信仰宗教は、ただ来世にまた巡り巡って、繰り返し宗教修行の信仰に入るだけのものなのだろうか。
汝に対して言えば、つまりは生々世々ずっとこのような状態であり、信仰宗教の修行に出入りするだけで、根本的に向上し、超越することができず、また忠実な信仰者にとっては、非常に悲しいことである！このような人間の衆生は存在するか？宗教を信仰する者の大半以上が、このような状態なのである！
有情なる衆生は、自らの奇抜な性格や癖を、宗教的な洗礼と鍛錬を経て、生まれ変わり、泥の中にあっても染まらぬ境地に至ることができるだろうか。宗教を信仰する者が求めるのは、まさに「九品蓮台」を必ず上昇させて超越することであり、つまりは崇心宗脈の仙仏の老師が説かれた「金品蓮台」へと向かうことなのである。
各人の縁は心の在り方によって決まる
これは現代の宗教において、常に人々に成就を促していることです：九品の蓮台に至ることは、まさに極めて正しいことです。そして、あなたが選択した信仰する宗教が宝を正しく選んでいるかどうか？もし自分自身の福徳と機縁が非常に大きければ、宝を正しく選ぶ確率も、他の人よりさらに多くなるでしょう。これは紛れもない真実です。宗教に入った後、以下のことを通じて達成できるかどうか：
一、資糧位。
二、加行位。
三、精進位。
四、円満位。　　五、成就位。
この五つの位階とは、すなわち有情衆生が人間界を経た後、真に向上し超越できるかどうかは、自らがこの世において、累世にわたる因果の縁を総括し清算することにかかっている。それによってこそ、この一生において仙仏の師の加護と成就を得ることができるのである。
宗教は人類の思想観念を制限する
お互いに支え合い、助け合う中で、すべての因果に対して冤親債主を誠実に討伐し、業因果報を完全に清算することができるか、皆さんはできるでしょうか？ぜひ試してみてください！有情の衆生が自らのすべての業因果報を清算し完済することができれば、あなた方の未来の修行の道もより平穏なものとなるでしょう。
さらに、とても気楽に円満を成し遂げ、成長と学習の殊勝な境地に到達することができます。これは人間の因果に対しての討伐であり、自らの心から進んで成し遂げることで、長らく討伐してきた怨親債主たちが互いに円満を成し遂げ、超越できるようにするのです。あなた方はこれができるでしょうか？また、それぞれの人が自ら成し遂げることを通じて。
円満なる成就を得て向上し、またすべての業因果報を完済し清算することができれば、まさに未来において借り一つない身軽さを実現し、これこそが仙仏の先生方の期待と希望するところである。世間でよく知られる「九品蓮台」を経て、さらに殊勝なる「金品蓮台」へと向上することが、真に円満なる超越的成就となるのである。
円満成就の因縁は、　殊勝なる天機が顕わす。
業因と業果及び業報は、一生のうちに清算して業の咎を消す。
大道の因果は既に完遂され　有情衆生の綱常は新たなり
互いに連なり合い
弘化して迷いを醒まし導く
この偈は、すべての有情衆生が互いに励まし合い、人為的要因において互いに成就し合い、また因縁果報の善き徳の縁によって、自らが過去に積んだ一切の業因果報の束縛を解きほぐし、悪因・悪果・悪しき災いを完全に消滅させることを目指すものである。これは、あなた方がこの世においてより大きな成長と学びを得るためであり、皆が共に成就し合い、作り上げていくことを願ってやまない。皆様、ご苦労さまでした。どうかすべてが吉祥でありますように。さようなら！
無極紫衣銀聖　観世音菩薩
大道因果三十六篇　　無極紫衣銀聖顕
観音菩薩が登台して臨まれ 　 　大宗師が著作を選定されました
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は「大道因果」を主著される仙仏、本宗脈の大宗師である南無燃燈古仏がご帰降になり、「大道因果」第三十六回を著作されました。これは有情衆生が円満成就するにあたり、すべての因果を完全に解消するためのご開示を詳しく説き明かすものであります。
有情なる衆生により大きな成全と向上をもたらすことができる、これこそが仙仏の先生方が繰り返し強く求められることであり、汝らが順を追って一つ一つ成就に至る必要がある。「大道因果」三十六回はここまでで完了し、次回は跋と凡例を著作する。本日はここまで、皆様のご尽力に感謝し、またお会いしましょう。
2015年、3月8日、2023◎＃※  了解。
虚空  無極皇母大天尊
虚空無極より凡塵に降り　　無極皇母崇心に登る
大道因果跋一作　　恭賀崇心天書成
◆ 跋・讃賀 ◆
跋     一
大道の化すべきところは次のとおりである。
このように、大宇宙のすべての衆生を依り所とし、すべての原霊児を真に向上させるため、上天は人道世界の生活に対して、より大きな成就をもたらすよう配慮されている。母なる心の尊いお言葉によって崇心堂が著作した大道シリーズの天書を見れば、まさに冊々回回ことごとく殊勝な理諦を備え、人道世界に下ろされて資糧の源として十分に活用されているのである。
人世界のすべての原霊児たちに、より豊かな資糧を与え、自らを向上超越の因縁の根本へと高める。すべての原霊児が人道世界において、因に応じて果報を得ることは、まことに如実であり、自らの行いが向上へと向かうか、あるいは沈淪へと向かうかの分岐点となる。
因果の公正さ
実に、人為的要因によって成長と学習が進み、日常生活における規範を通じて、人界にはなぜ「因縁果報」が存在し、それが禍福と善悪の因縁による報いとして区別されるのか？多くの原霊たちは、因果応報に入ることは、すなわち良くないこと、好ましくないことだと考える傾向があります。
しかしながら、このような報いは「報酬と報応」の二つに分けられることを知らない。それは福と禍、善と悪の区別であり、因縁果報が報酬と報応に入ることで形成される。この二つの区別は、すべての原霊子が人間界において、必ず善良な因縁を実践しなければ、未来に善良な果報を得ることができないということを指している。
大道因果の成就：
人道世界において、生活の過程の中で「因とは何か？縁とは何か？果とは何か？報とは何か？」を理解することができる。因果応報と報償において、因縁果報が加わることによって、「善福の報償」と「悪禍の応報」が形成される。大いなる天地の衆生の霊たちには、これを知ることは非常に難しい。
なぜ「善き道の福報」と「悪しき道の禍報」の報いはどのようになるのか？これこそが『大道因果』を著した本来の意図であり、母なる私は今日特に崇心宗脈体系に降臨し、跋文の一節を祝賀として贈る。崇心が人道世界において、良き善き因縁を増長させんことを願う。これこそが正しき道である。
虛空無極皇母　親降跋一於
儒教の聖なる教え
真の仏心の宗旨
無極大道院
懿旨により崇心堂を賜る
戊子年陽（ようげつ）月二十一日、戌の刻
よろしい、崇心宗脈体系が今年の教化を確実に推進し、すべての良き因縁と条件を提供できたことを心よりお慶び申し上げます。これにより、すべての子らが真に優れた契機を得て、自らを向上させ、回帰し、超越することができますよう。諸賢なる子ら、ご苦労さまでした。それではまたお会いしましょう。崇心宗脈にしばらくお任せください！
虚空無極  地母至尊
虚空無極より来儀降り　地母至尊台機に登る
跋     二
大道の主要な因縁の根本は
大宇宙の四億の仏子と九二原霊子が下界し、凡塵世界に入って以来、この五濁悪世に沈淪し続けていることには、上蒼が心を痛めている理由がないわけではない。多くの霊児たちは下界した後、往昔の根本を忘れ、方向を見失い、いかにして故郷に帰るべきかも分からなくなってしまった。
五教の聖賢が導き手となり、迷える道を指し示してくれても、宗教に入っても自ら心を込めて体得し、努力精進しなければ、真の向上は難しく、そのため沈淪する者は多く、回帰する者は稀である！これは上蒼が最も煩悩と憂いとされることで、一日も早く多くの霊児たちを無極仙郷へと導き渡すことを切に願っておられる。
五教の教化により更なる完成が可能となる。今、母心桃園懿敕崇心堂において「大道因果天書」を著作し、凡塵人世間に「大道有情衆生の因果」を了知せしめ、凡に落ちた原霊児に真の回帰天梯大道と超越成長を授けんとす。
因果の道理は明らかにすべきである。
人為を通じて全ての動作を成就する中で、多くの霊魂たちの行いを通じて、自らの功績と徳性がどのようなものであるかを評価し、いかにして自らの回帰の道を見出すべきかを問う。崇心宗脈「大道シリーズ天書」は、塵世に沈む多くの霊魂たちにとって、いかにして自らの帰還を達成すべきかをより明確に示す一冊一冊の書である。
まさに、上蒼は凡塵にいるすべての霊たちが、上蒼と母なる存在および諸天の仙仏たちの深い思いやりの心を理解し、真に天機に回帰する良縁を得ることを願っておられます。上蒼が人道世界の宗教に寄せる期待は、聖なる使命を担う者たちが志を堅くして成長し、原初の霊たちを導いて回帰させることにあるのです。これはまことに得難く貴いことなのです。
大道因果著作と弘化：
崇心堂の体系は、上蒼の職志に対し、一切の辛苦を克く尽くして、弘化導引を行い、有情なる四億の仏子および九二原霊児らが、人類の含因が何であるか、起動が何であるか、触縁が何であるか、成果が何であるか、報償が何であるかを理解できるよう、種々の過程を通じて衆原霊児の障礙を明らかに示すものである。
自分が行うべきこと、為すべきこと、成すべきこと、成長すべきことはどのようなものか。一部分を理解しているに過ぎず、常に道に背いて行動しているため、真の向上と超越は難しい。今、上蒼が崇心宗脈に『大道因果』を著作するという殊勝な因縁を与え、自らに深く関わる全ての因縁が動き始めた。
また、触縁が果報を生み、善悪の因縁によって福禍の差が生じる。これが未来の善福と悪禍の区別に影響し、有情の衆生たちに、いかにして悪を造らず、業を造らず、良からぬ悪果を身に招かないかを諭している。このようにすれば、より容易に回帰の日を迎えられよう。母なる心は大いに喜び、特に崇心に降りて激励と祝賀の言葉を賜う。
長遠に弘化して尽きる期無く
大道系列の機を推広す
人は因果の理を悟りて　福禍自らその報いに帰す
虛空無極地母至尊　親降跋二於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
戊子年陽（ようげつ）月二十一日、戌の刻
よきかな！よきかな！崇心宗脈の体系に留まり、共に未来の引渡しの事誼を議し、しばらくお邪魔いたします。皆様、ご苦労さまです。ではまたお会いしましょう！
虚空無極  瑤池金母娘娘
虚空無極より凡塵に降り　瑤池金母眾霊を生ず
跋     三
大道のすべての良き善き作用：
自然と有情の衆生の生活過程に対して、人道世界には自分以外に、夫婦としての行為の作用がある。西洋文化の東漸を経て、中土の炎黄子孫の長所と短所は、夫婦双方の壁と隔たりを突破することがずっと難しいままである。この世の中では、夫婦以外に、あなたと相互因縁を持つことができる者は多くは言えない。
古くから言われる「一途に一人に仕える」という観念は、次第にこの時代の潮流に飲み込まれつつある。これこそが夫婦の道を人倫の大綱として実践し、自分の家庭の良し悪しや優劣にかかわらず、苦楽を共にし労を惜しまず、自らの家庭のために犠牲を払い奉仕するという、真実のあり方なのである。
これは、上天が最も誇りとする基本的な作用であり、あらゆる良縁善縁の中で、すべての原霊児たちに、夫婦の和合の縁が長く揺るぎなく続き、より大きく円満で甘美な幸せな生活を送れるようにし、互いを大切に慈しみ、一生涯を通じて深く愛し合うことを与えるものです。
因果の明晰さと行動：
有情たる夫婦、父母、子供、兄弟、姉妹など一切の眷属は、皆あなたが前世で積み重ねた善悪の因縁と福禍の別れ目であり、良し悪し、善悪の良否を問わず、福禍の異なる因縁は、自分にとってより大きな成長と学びとなり、いかに生活の中で成長を遂げるべきかを示しているのです。
良き善き好因縁の条件が生じ、累世以来の一切の因縁果報、すべての報償と報応を完消するには？これらはみな自らが前世に積み重ねたものであり、またこの生のただ中にあって、この世では必ずや勇敢にすべての不良なる悪禍の到来に直面し、自らが如実に完消し清償できるようにせねばならない。
大いなる天地に生きるすべての有情の霊魂たちよ、一つの生涯の中で償いを果たし完結させることができれば、来世において再び同じ過ちを繰り返す必要はない。さもなければ生々世世、巡り巡る輪廻の中で、繰り返し償いを続けることは割に合わぬこととなる。必ずや堅固な志を持ち、良からぬ報いを真に完済し、自らを高めねばならない。
そして来世を再び造らず、さらに悪しき因と悪しき果を生じないことで、夫婦、父母、子女、兄弟、姉妹、甥孫、親戚、友人、同僚など、あらゆる善悪の因縁に対して、より大きな利益をもたらすことができる。母なる歓喜が特に降臨し、崇心宗脈の体系に道賀の言葉を授け、跋三をもって激励された。
虛空無極瑤池金母娘娘　親降跋三於
儒宗聖教　真佛心宗　無極大道院　懿敕崇心堂
戊子年陽（ようげつ）月二十一日、戌の刻
母心は特に崇心体系を祝賀し、大道因果著作の完成を喜び、しばらく崇心宗脈をお騒がせし、共に未来の引渡し方向について会議を行います。よろしい！皆様、お疲れさまでした。ではまた。
虚空無極  驪山老母
虚空は果てしなく真に特別なり　驪山の景色は心を喜ばせて穏やか
老母降り来たりて凡例を著す
娘娘と共に普き大道に駐す
凡 例
大道は依帰なり。
すなわち、有情なる人類衆生を依り所とし、あらゆる一挙一動は自らの因果の法則に基づき、この世における行いとして発現する。これにより、さらなる向上の機縁が与えられ、未来の人類衆生が安楽な生活を営むための行いとして、より大きな成長の契機がもたらされるのである。
大道は因縁によるものなり。
世の中のすべての縁は、夫婦、親子、兄弟姉妹、親戚、同僚、友人たちが互いに支え合い、善良で美しい福徳を与え合うことで成就される。また、大道を歩む者自身も当然そうあるべきであり、情愛を持つ人間衆生の存在する空間においてこそ、良き善き縁が生まれるのです。
大道は禍福を司る。
人の行為や動作はすべて因縁果報の中にあり、善悪や福禍の区別があります。すべての衆生にとって、因果に入ることは良くないことだと思われがちです。しかし、知らず知らずのうちに福報が加わり、逆方向から加持されることで、すべての有情衆生は成長と学びを遂げ、長きにわたって福報の徳に包まれることができるのです。
大道を行ずる者は利益を受く
人道世界における教化の拠り所は、教育と教化を依り所とし、その中でも特に三綱・五常・四維・八徳を適用することが必要である。これによって初めて、人間界において自らと家族に対してより大きな利益をもたらし、人類のすべての霊子の良き規範を高め、自らを利し衆生を利することができるのである。
因果に従う衆生：
人道世界の行為動作には区別があり、良き行いには福の報いが、悪しき行いには禍の報いがある。これは因果が公正かつ平等に働くためである。すべての善良なる人々は、有情の衆生が因果の理においてこれ以上悪を造らず、禍を転じて大いなる福報が訪れることを願っている。
因果の善し悪しについて：
人間関係の良し悪しや自身の生活過程において、家族を加えて相互に支え合い、世話をし合うこと。そしてそれぞれの親族に対し、恩返しに来たものであれ、借りを請求しに来たものであれ、良き縁をどのように保ち、良からぬ悪縁を速やかに解消すべきか、実践的な機能と作用を持つべきである。
因果の討伐：
すべての禍福の分別は、今生において人道世界の中で、どのような善縁と悪縁に出会うか、その中で善性と道性を、いかにして最善かつ最大の利益を発揮させるか。有情の衆生は「大道因果」の天書の効能を必ず理解しなければならず、人々に因縁果報に対する討伐を完了させ、消滅させることを与えるのである。
また、因果応報によるすべての福徳について互いに励まし合い、すべての因果循環の過程において真に警戒心を持つことで、「悪しき災い、悪しき禍、悪しき結果」を絶えず生み出すことなく、自らを変えがたい状況に追い込むこともありません。これは智者が取るべき道ではありません。
大道因果著作の意図と内包：
これはすべての有情の衆生に対して、いかなる国や宗教、宗派、人種の区別なく等しく、この世に生きる者であれば誰もがこの因果を受けるものである。これは公正平等なる「大道－因果」の天書に記されたものであり、また天と諸仏の慈悲の賜物でもある。
大道の因果の殊勝なること：
玉曆宝鈔及び天堂・地獄両遊記に記されていない因果論を補完し、有情の衆生たちが自らの不足している点がどこにあるかを理解できるようにする。これにより、各自の生活の中でより大きな向上と完成が得られ、過去のあらゆる過ちを改めることができる。
大道因果天書の完成による弘化は、崇心体系の大道系列天書「読書会」に対して更に大きな成全をもたらし、「功徳会」に対しても更なる向上を促すことでしょう。これは上蒼が崇心の『大道系列天書』が世界に弘まり、自らを成就して多くの霊魂を導くことを切に願っておられるからです。
大道因果の願い：
人々の世における有情の衆生と多くの霊魂たちは、自らの無明の障りを抱えていますが、大道シリーズの天書―『大道有情衆生』『大道因果』という「大道有情、大道衆生、大道因果」の三冊の天書を成就させることによって、これら三冊の天書は互いに連環し、より大きな導きと広大な教化をもたらすことができるのです。
また、崇心宗脈体系が教育・教化を通じて実践的に弘め拡大していることは、まさに上蒼が待ち望んでいたことであり、また多くの母なる存在と仙仏の先生方の願いでもあります。大道因果の天書はまさに著作完成を迎えようとしており、その弘化と普及に携わるすべての「参加、著作、編纂、印刷支援、解説、善縁の配布」に対してです。
上蒼はあなたが払った努力に対して、未来の福徳報いとして振り向け、より大きな成就と成果を与え、あなた方により大きな資糧の源を授けます。それによって四億の仏子と九二原霊児が回帰し超越することを成就させます。これはまさに自らが向上し増長して超越するものであり、またそのまま自らが利益を受けることなのです。
虚空無極　驪山老母娘娘　自ら凡例を降ろし賜う
儒宗の聖教
真仏の心宗
無極大道院
懿勅崇心堂
戊子年陽（ようげつ）月二十一日、戌の刻
皆様には凡例完成にご相伴いただき、崇心宗脈にてしばしお邪魔し、今後の引渡成全についてご協議いただきました。ご苦労様でした。ではまたお会いしましょう。
大主席　南天主宰　文衡聖帝
殊勝なる因縁によって促され
虚空の母と娘たちが揃って登られる
崇心宗脈大主席　天恩の懿旨を賜り証を得る
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院及び院修院士の皆様、こんばんは。本日は誠に稀なることに、虚空無極の衆母娘親が降臨され、崇心体系の著作『大道因果』跋一、二、三と凡例への祝辞と激励を賜りました。まことに衆母娘の慈悲深き徳沢に感謝し、崇心宗脈体系へのお心遣いとご成就に心より御礼申し上げます。
この一冊の「大道因果」天書の出版が、有情の衆生に自らの家庭と人間関係を円満にし、自らが無限の利益を受けながら、幸福で満ち足りた家庭を築くことができるようもたらされることを願っています。これは、無極皇母が再三、副主席である麻仙姑に崇心宗脈の主な任務として託されたことです。
励行すべきこと：夫婦共に修行し、家庭を円満にし、福を子孫に及ぼし、共に励まし合い、共に調和し、共に円満になること。そうすれば、幸福で円満な良い家庭ができ、共に未来の成長と超越を創造することができます。皆様、ご苦労様でした。すべてが吉祥でありますように。さようなら！
2015年、0308、2025◎＃※   ０Ｋ；
副主席 麻仙姑
麻姑の副座が登台して臨み、崇心宗脈の気象は新たなり
大道因果の完書を納め　   　有情の衆生と円満に親しむ
◆ 旨 ◆
完書繳旨
本日もまた崇心道脈にとって大いなる喜びの良辰吉日でございます。上蒼への願いを込め、大道シリーズ第二十五冊『大道因果』を完成させ、ご報告申し上げます。これは崇心宗脈の体系が、未来の有情衆生に対し、人道世界において如何にして悪しき災い、悪因、悪果の絡みつきを減らし、解消していくべきかを示すものでございます。
有情なる衆生が人道世界において、より大きな向上と超越を果たし、『大道因果天書』の殊勝なる意義を知る縁を授かるため。また今日この佳き日、良き時に至り、上蒼の徳沢を蒙る崇心宗脈の体系に対し、「大道因果」を完遂し、上蒼の天命によるすべての成就を以て御旨に応え奉るべき時であります。
本宗脈より、虚空道伝徳天尊、虚空落筆天尊、虚空銀筆大道天尊を三十里の外に派遣し、無極懿旨を恭しくお迎えし堂に来たれ。本宗脈より、虚空彩虹仙姑、虚空霊通仙姑、虚空霊竅仙姑を二十里の外に派遣し、無極懿旨を恭しくお迎えし堂に来たり頒示せしめ、その他の神仏と学生及び無極大道院の院修学士らは、列を整えてお出迎えの準備をし、礼儀を欠くことなかれ。
無極の御前  九天玄女仙姑
無極の御前に因縁深く　　　　九天玄女の旨を頒ち成る
大道の因果は既に完遂され　　　　有情の衆生は徳意真なり
本日、崇心に降り立ち、再び無極懿旨を携えて参りました。これは全ての神人に対して、上蒼の職志を依り所とし、大道系列天書の著作による弘化を宇宙空間に推し進めるという決意を確かなものとするためであります。更に堅固な志と忍耐力をもって成し遂げんとするその姿は、まさに喜ばしく慶ばしいことであり、神人ともに深く敬服いたします。
懿旨開読
謹んで拝受いたします
無極皇母大天尊　懿旨に曰く
母は理天の聖境におられ、凡塵にいるすべての霊児たちの回帰と向上のために、あらゆる方法を尽くして導きを与えられ、迷える子らが天地の真理を体得し、修行によって向上し超越できるようになさいました。南贍部洲のすべての霊児に対し、公平なる天機と良縁をお与えになるため、特にこの殊勝なる因縁を再び凡塵に降ろされたのです。
母なる心は桃園の懿勅崇心堂に心を尽くし、また崇心が丙子年に堂を立てて以来、「大道系列天書」の冊々回回の著作において、少しの漏れもなく、また毎回の書の納めと完成においても、常に上蒼の期待に沿って成し遂げ、堅固な志と毅力をもって達成してきたことを観ておられる。これは崇心宗脈のすべての神人たちが心を込めて使命に尽力してきたからである。
いかにして自らを成就させ、また多くの霊児たちを回帰させることができるか。崇心体系の諸聖仏と諸児女たちに、この殊勝なる天機の超越的回帰を成し遂げていただくようお願いする。母なる心は崇心宗脈の努力を大いに慰めとし、大道シリーズ天書第二十五冊『大道因果』を完書し旨を奉げたことを、まことに感心し欣快に思う。
この褒賞と栄誉は天の記録に銘記され、広く世に知らしめられるべきである。これにより崇心宗脈の神仏とすべての子らが、未来に回帰し超越する拠り所を得ることができよう。これは汝らの努力と固い志が成し遂げた成功の勲である。母なる心は大いに慰められ、命を受けて派遣された玄女仙姑を賞賛し、無極の瓊漿三壺を賜う。
崇心道場の茶会に参加し、諸聖仏と諸賢児女たちの労苦を労うとともに、三等の功勳を加えて崇心の衆聖仏の昇進を祝う。この有様はまさに模範とすべきものであり、母なる心はこの大黒柱を得て大いに喜び、自らを成就し衆生の霊を成就させ、回帰を超越して円満を乗り越えることを成し遂げた。
無極皇母より懿旨が下される
儒宗の聖教
真仏の心宗
無極大道院
懿勅崇心堂
天運戊子年陽月二十四日戌時
ああ、まことに崇心宗脈の体系のためにこの上なく慶賀に堪えません。また、われら無極の姉妹である麻仙姑および崇心宗脈のすべての仙仏の導きが立派であることを、喜び賀し、感服いたします。無極懿旨の頒布はすでに完了し、私は速やかに理天に戻り、いずれまたお邪魔いたします。皆様、ご苦労さまでした。では、またお会いしましょう。
正主席  虚空上人
崇心道場正主席　虚空上人登台の儀
大道因果完書を納め奉り　上蒼の徳意に感謝の期を致す
諸聖仏と諸学生、及び無極大道院の修学士の皆様、こんばんは。本日は無極より懿旨が下され、崇心宗脈の体系に対し、すべての肯定と賞賛が示されました。崇心のすべての神人たちの努力を認め、確かなものとされました。
先ほど、無極懿旨のご下示を恭しくお受けし、すでに完了いたしました。引き続き、昊天玉詔がお堂にお下りになり、本宗脈の無極城隍帝君、無極司命真君、無極広沢尊王に命じて、二十里の外で昊天玉詔を恭しくお迎えさせられます。
命じるに、本宗脈の無極国際観世音菩薩、無極東瀛観世音菩薩、無極紫衣銀聖観世音菩薩、無極藍衣金聖観世音菩薩を十里の外に派遣し、恭しく昊天玉詔を堂へ迎えさせます。その他の神仏及び学生らは列を整えてお待ちし、礼儀を欠くことのないようにいたします。
昊天の勅使　李太白仙翁
天帝の勅使李太白　　仙翁が玉の詔を携えて開く
崇心堂宗脈を恭賀す　　大道因果完書に載る
本日またも昊天の玉詔を携え、崇心宗脈の体系に降臨する。度重なる玉詔の頒示に際し、崇心宗脈がその都度十分なる進展を遂げていることを深く感じる。毎度の詔勅発布にも深い感銘を覚える。上蒼が有情の衆生に対し慈悲の恩沢を広大深遠に垂れ、微細に至るまで眷顧し護佑されていることに。
より大きな成全と向上を成し得るが、今や崇心宗脈の体系があり、志を堅くして衆生の向上のために努力するのは、崇心の衆聖仏の導きが適切であることの肯定であり、また崇心の学生に対しても相当大きな期待があり、さらに賞賛と称賛に値する。この種の殊勝な因縁条件は非常に得難いものである！玉詔を携えて開読を賜り、神人ともに平伏す。
玉旨開読
謹んで奉る
昊天玉皇大天尊 玄霊高上帝の玉旨に曰く
朕は九五の尊位にあり、南贍部州の全ての宗教教育が相互に融合する中、五教を依り所とできる者は稀である。今、上蒼は台疆－桃園の懿敕崇心堂に派命を下され、丙子年の立堂以来、大道系列の天書著作は、期を重ね冊を重ねるごとに、上蒼の真実なる理諦をもって下化されている。
現代の五教すべてに不足する部分を補い、真に向上を望み超越を求める修行者たちが、この天与の良縁に乗じて、殊勝なる理諦を融合させられるよう導く。今、崇心堂の諸聖仏と学生たちは、上蒼のため、大道のため、さらに自分自身のため、そして衆生のために、大道の先鋒部隊として広めていくことができる。
天地の真理を説くこの殊勝なる奥義は、真実の理諦をもって教化とし、自らを成就するとともに衆生を済度するものであり、このような条件は誠に慶賀と称賛に値する。また崇心宗脈は、人世間の未来の衆生の福祉に対し、極めて大きな殊勝な因縁を有しており、さらに上蒼の徳沢によって新たな法を司り、大乗の伝法機構としての役割を担っている。
儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教といった諸宗教に対して、より大きな円満な融合を与え、互いを成就させることに力を惜しまず、これまでに大道シリーズ全二十五冊『大道因果』を完成させて天に奉じました。これはまさに崇心宗脈の比類なき固い志と不屈の努力の賜物であり、期ごと冊ごとに時間通りに著作を完成させ、一冊も漏らすことなく天に奉じてきた成果であります。
大いに評価し称賛に値するものであり、崇心宗脈を主導される理心禅師、林堂主聰智、林院主美鸞の、教育と教化に注がれた御尽力に対しても深く敬意を表します。これらがより広く推進され弘まって、人類衆生の向上と超越に寄与し、未来の有情衆生の回帰において、より大きな収穫と利益をもたらすことを心より願っております。
朕は心より喜び、この殊勝なる天機の功勳を銘記すべきであると考える。黄榜に掲げて天下に明らかに告げ、崇心学生の未来の成就の依りどころとし、未来の四億の仏子の回帰、および二百余万の高科技人材の円満なる集結に対して、より大きな向上をもたらすのは、崇心仙仏の導きが適切であるからであり、理にかなって各々の功績に三等を加えるべきである。
また教育文化の実践を通じて確立され、これは崇心宗脈の体系であり、未来において過去にはなかった下化を、人道世界の大いなる因縁として、未来の下化のよりどころとするものである。このような条件は、汝ら大道の先鋒部隊にとっても、また人々の世における福祉という大いなる聖務として実践されるべきものである。
弘化を推し広め
世界の隅々まで届け
自らを成就し
衆生を済度する
昊天玉皇大天尊  玄霊高上帝　玉詔を頒示し
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
戊子年陽（ようげつ）月二十四日、戌の刻
あはは！老仙がまた崇心に玉詔を授けに参りましたこと、まことに慶賀の至りでお喜び申し上げます。崇心にとってもこれ以上の栄誉はございません。玉詔の授与が完了いたしましたので、老仙は速やかに昊天に戻りご復命いたします。またの機会に皆様のお邪魔をいたしましょう。では、これにて。
大主席　南天の主宰  文衡聖帝
九霄に鳴る砲声天辺に響く　昊天の宣べる旨玉詔の縁
太白仙翁降臨し来たり　   　主席恭しく送り徳意を顕す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、今晩は。本日は、昊天欽差大臣・李太白仙翁が再び降臨され、昊天玉詔を頒布されました。たびたびにわたり、崇心宗脈の体系を確かなものとされ、崇心が今後、広く有情衆生を引渡し、超越へと回帰させられることを切に願っておられます。
皆様が共に協力し、上天が崇心体系に更に大きな使命を下されるようお願い申し上げます。未来の科学技術文明の時代において、真実をもって向上を遂げ、超越し、自らを成就して衆生を利益し、その恩恵を受けられるようになります。大道シリーズ天書二十五冊『大道因果』はここに全巻の著作を完了いたしました。皆様のご尽力に心より感謝申し上げます。すべてが吉祥に満ち、またお会いできる日を願っております。