大道シリーズ叢書 第30冊『大道唯識』
日本語版
◆ 前置・序 ◆
書名
南無阿弥陀仏
2010年11月12日　庚寅年十月七日（金）
懿勅崇心堂副主席　麻仙姑
大道シリーズ叢書第三十冊－大道唯識
矢に勤め矢に勇み、怠ること勿れ忽せにすること勿れ、早く完成を期し、叩首して恩に謝す
◆ 本文 ◆
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
成長の時は獲得のとき
己を超えて賞を掲げよ
◆ 跋・讃賀 ◆
仏来りて唯識の冊を讃賀し　  　弘めて展げて衆生を載す
◆ 前置・序 ◆
書名
2010年11月16日　庚寅年十月十一日（火）
崇心副座麻仙姑が、登台して恭しく懿旨を拝受するは格別なり
大道系列は弘化を展べ　  　殊勝なる因縁に徳意を主とす
謹んでご命令を承る
本日はまた、崇心宗脈が無極懿旨と昊天玉詔を恭しくお受けする大吉の良き日であり、誠に崇心宗脈のことを大いに慶びとするところであります。期を追い冊を重ねて上蒼の職志に依帰し、また天下の蒼生を引渡し成全することを以て、崇心宗脈より全世界へと推し進め、必ずや全員が心を一つにして達成せねばなりません。
佳辰の刻は既に至り、本宗脈より　虚空龍翔天尊、虚空鳳翔天尊、虚空落筆天尊を命じて三十里の外にて　無極懿旨を恭しくお迎えし、堂へと導かせる。また本宗脈より　無極城隍帝君、無極二関聖帝君、無極三関聖帝を命じて二十里の外にて　無極懿旨を恭しくお迎えし、堂へと請じ頒示せしめる。その他の神仏と学生、及び無極大道学院・院修学士らは列を整えてご到着を待ち、儀礼を欠くことなきように。
無極の御前  許飛瓊仙姑
無極の御旨を帯びて崇心に降り立ち　  　御前にお仕えして母の慈愛の情を伝える
飛瓊仙姑が降臨を許され　  　御旨を開示し慶び迎える
謹んで　無極の懿旨を奉じ、崇心堂に降りて示され、神人ともに伏し拝す。
懿旨開読
謹んで奉る
無極皇母大天尊  懿旨に曰く
母は理天の聖境におられ、地上の子供たちを絶えず心配しておられます。今、真に回帰できる者は稀なのです！皆、凡塵の五濁悪世に沈み、特に現代の科学技術文明の中では、「心念意識」の働きを真に理解することは甚だ難しく、自らの行いを振り返り、向上して超越することもできません。
まさに、およそ六万年もの間、向上超越の機会が非常に得難い状況が続き、母なる存在は塵世に生きる子供たちを深く心配されていた。それゆえ、母は幾度となく天界の仙仏たちを下界に遣わし、教えを説かせ、母の徳と美しい行いを広めさせてこられた。そして今、台湾桃園に「母心懿敕崇心堂」が丙子年に設立されて以来、一貫して殊勝なる大道シリーズの天書を著作し続けているのである。
現今、第二十九冊の完成を以て上奏を終え、理に於いて大道系列天書第三十冊を再び頒布すべし。その言を題して『大道唯識』と曰い、諸々の児女に提供し、真に明白せしめん。己が心念意識に対し、起心動念の中に在りて如何に自己を観照すべきかを了知せしむるためなり：眼・耳・鼻・舌・身・意。
唯識の理諦の観念と実践に入り、自らを向上させて超越的回帰を果たすため、崇心宗脈の全ての一級主管者が共同で著作に当たり、一部の諸天仙仏も陪席として参画する。命が下された日より直ちに著述を開始し、一日も早く完成させて世に頒布し、永く後世に伝え、広く多くの子女たちが天書の奥義を理解し、回帰の宝筏と成らんことを。
矢に勤め矢に勇み、怠ることなく忽せにせず、旨の到る日、早く開き著せよ。
◆ 跋・讃賀 ◆
南無阿彌陀佛　降讚賀於
南無東方薬師如来仏
南無阿弥陀仏　降讃賀於
◆ 前置・序 ◆
書名
無極皇母　無極懿旨を頒示し
儒教の聖なる教え
真の仏教の心髄
無極大道院
懿旨により崇心堂を賜る
庚寅年陽（ようげつ）月初七曰、戌の刻
ああ！今日は縁起がとても殊勝で、また麻仙姑姉妹の宗脈から無極懿旨が下されました。すでに下示は完了し、急いで無極に戻って旨を復命いたします。またの機会にお邪魔させていただきましょう。では皆様、またお会いしましょう。
懿勅崇心堂主席　虚空文澤教化天尊
崇心道場の主席を務める　文衡聖帝が聖意を明らかにされる
大道シリーズ再著作　　唯識の観念を主理として作る
本日はまた崇心宗脈が無極懿旨を恭しくお迎えする大吉の良辰であり、先ほど無極懿旨の恭迎と宣布が完了いたしました。続いて昊天玉詔を当堂にお迎えすることとなり、本宗脈の虚空彩虹仙姑、虚空彩花仙姑、虚空彩霊仙姑の三名を二十里の外にて昊天玉詔を恭しくお迎えするよう命ぜられました。
命ずるに、無極文殊菩薩、無極註生娘娘、無極大勢至菩薩をして十里の外にて昊天玉詔を恭しくお迎えし来堂せしめ、その余の神仏と学生及び無極大道院、院修学士らは班を整えて駕を待たしむ。
南無玄奘菩薩
南無西方より降来したまえる儀に　玄奘は旨を帯びて昊天と契る
菩薩の殊勝なる再会の時
大道唯識の著作期
本日は大変喜ばしく、再び昊天玉詔を携えて降臨し示されたことを、神人ともにひれ伏して拝受いたします。
玉旨を開き読み奉る
謹んで拝受いたします
玉皇大天尊　玄霊高上帝の玉旨に曰く
朕は九五の尊位にあり、常に俗世の衆生の生活の潤いとなることを心に懸けておる。特に地冥星に生きる者たちを見るに、今の時代の因縁はすでに科学技術文明の向上へと歩みを進めており、これは人類の衆生にとって大いに有益なことである。今こそ、中土の炎黄の子孫の向上を図るために、このような道を歩むことが必要であると理解できるのである。
また、科学技術文明の発展により、人々の世界により多くの福祉と恩恵がもたらされました。これこそが昊天の御意思であり、必ず実行すべきことです。今、台湾桃園の懿敕崇心堂は、丙子年の創設以来今日に至るまで、上蒼の使命を担い、優れた天書の宝筏を著作してまいりました。
また、人間社会の思想観念は、向上し超越することが非常に難しく、すべて人間の思想観念の限界に制約されています。「心を動かし、念を起こし、意に入り、識に蔵する」ことに対して施行することができません。今、崇心の仙仏の大いなる願いがあり、旨を請うて大道シリーズ第三十冊『大道唯識』を著作し、人間社会に向上超越を与え、印証施行を行うことができます。
朕はこの殊勝なる機縁が到来したことを観じ、理はかくの如き作為あるべきと考える。これは真に人類衆生の心念意識を向上させ、「明心見性、開悟證果」を如実に実現し得るものであり、極めて真実性に富む。また人類衆生の不足・欠如に対し、成長向上の必要に応じ、更に大寰星系と人類思想の進化を促すものである。
朕は大いに喜ばしく思う。崇心の仙仏の宏大な誓願により、再び唯識の理諦・観念・行いを融合させ、より優れた著作が成された。未来の天書という宝の筏を開くにあたり、多くの天機がこの天書の中に下化されることだろう。崇心の諸聖仏が尽力されたご苦労は比類なく、まさにこの著作を完成させるにふさわしいものである。
◆ 跋・讃賀 ◆
大道唯識の頌勉　　　　崇心宗脈の福德を為す
南無東方藥師如來佛　降頌祝於
南無本師釈迦牟尼仏
2010年11月19日　庚寅年十月十四日（金）
◆ 旨 ◆
完書繳旨
矢のように勤め、矢のように勇み、怠ることなく、疎かにすることなく、志を堅くして完成せよ。
◆ 前置・序 ◆
書名
寿命を全うして世を益し
教えを広めて啓蒙し
自らを成就し
衆生を救済する
昊天玉皇大天尊　玄霊高上帝が玉旨を降される
儒宗聖教の真仏心宗
無極大道院 懿敕崇心堂
庚寅年陽（ようげつ）月初七日、戌の刻
ああ、まことに天下の蒼生のためにこの上なく慶賀に堪えません。往昔の宗教唯識学が再び凡塵の世界に下化されるに至り、この有様この境涯はまことに崇心にとって大いに慶賀すべきことです。我は本日大いに悦んでおります。また皆様が著作にご相伴くださったことに感謝し、速やかに昊天に戻り御旨を復命いたします。いずれまたお邪魔いたします。皆様、ありがとう、さようなら。
懿勅崇心堂正主席　虚空上人
懿勅崇心正主席　　虚空上人登台期
大道は唯識に来たりて著作す　恭しく旨意を接し已に完畢す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、今晩は。本日は無極より降ろされた懿旨と昊天より降ろされた玉詔が、全て頒示されましたことをご報告いたします。真心より崇敬の念を覚え、期を重ね冊を重ねて著作される「大道系列天書」の連綿たる継承は、誠に賞賛に値し、人類衆生の益となるものであります。
今ここに「唯識学の理諦」を再構成し、更に殊勝なる妙理をこの天書に融合させ、世の中のあらゆる不足・欠如・習気に対処するよう整え、凡塵唯一の殊勝なる天書という宝の筏を提供する。これは人世間を向上させる指針として、また有情衆生が回帰・超越・円満・乗越の中で完全なる向上を成就するためのものとする。
これは未来のすべての天書著作に対する模範的な規章であり、なんと殊勝な天機でしょう！本宗脈のすべての学生たちは、「大道唯識」に対する明晰な体悟を強め、自らの不足がどのようなものかを真に認識する必要があります。そうすれば成長の契機が訪れるでしょう！次回は賛頌序の著作です、皆さん楽しみにしていてください。
2015年3月11日11時51分◎＃※   了解
◆ 本文 ◆
大道唯識第一回　  　何謂唯識心所臻
2010年11月26日　庚寅年十月二十一日（金曜日）
◆ 跋・讃賀 ◆
頌      祝
南無東方藥師如來佛　降頌祝於
南無  虚空上徳人天古仏
◆ 旨 ◆
完書繳旨
矢に勤め矢に勇み、怠ること勿れ忽せにすること勿れ。功勳教化、因縁殊勝なり。
◆ 前置・序 ◆
書名
南無、衆生は如来を念じよ
阿弥陀経を観じて自在たれ
◆ 本文 ◆
大道唯識第一回　  　何謂唯識心所臻
南無燃燈古仏
大道唯識第二回　  　唯識起源念識排
2010年11月30日　庚寅年十月二十五日（火曜日）
◆ 跋・讃賀 ◆
大道者所有道頌：
◆ 本文 ◆
大道唯識第二回　  　唯識起源念識排
南無虚空　上徳人天古仏
2010年12月3日　庚寅年十月二十八日（金曜日）
◆ 跋・讃賀 ◆
佛來讚賀唯識冊　  　弘展推廣眾生載
讃賀
大道の恭賀を申し上げます：
まさに自然のままに、すべての有情衆生に対して互いに支え合うことがあり、心の意識に啓発を与えることによってのみ、生存の拠り所となる条件が得られるのです。また、すべての人類衆生に対して言えば、どのような宗教宗派を信仰していようとも同じであり、いかなる国であっても区別なく、皆同じように生存しているのです。
人類の衆生は毎日、「新唯識学理」の応用の中に生きていますが、その「新唯識学理」の明晰さを徹底的に理解することができません。そのため、有情の衆生は常に無明の障害の中に深く閉ざされ、人界での輪廻を繰り返すこととなり、これもまたどうしようもない制約となっているのです。
唯識の了別とは：
すなわち人類衆生を依り所とし、人々に人間生存の現在において、誰もがこのように応用しているが、誰も「新唯識学理」を明瞭に通徹することができず、それゆえ自分自身が日々応用しながらも、人道の問題点がどのようなものか理解できず、またなぜこのような状況を設けて向上させねばならないのかがわからないということを理解させることができるのである。
もし「新たな唯識学の理」を完全に理解し通達することができなければ、人世間における一切の行動規範もまた、如何にして人類衆生の障害となるのかを知ることはできない。それ故に、上蒼の慈悲は、まさに仏教の学理を人類衆生の中に下ろし、一世人に与えて、自らの行動規範が如何に作用すべきかを真に明らかにし、人類衆生が向上し超越することを可能にするのである。
南無東方薬師如来仏　降頌祝於
◆ 本文 ◆
大道唯識第一回　　何たるをや唯識心の臻る所
古佛降著第四回　  　唯識變現有名則
南無虚空　理心光明如来仏
2010年12月7日　庚寅年十一月二日（火）
◆ 跋・讃賀 ◆
南無阿彌陀佛　降讚賀於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
庚寅年陽（ようげつ）月十一日、戌の刻
ああ、まことに天下の蒼生のために大いに慶賀すべきことです。崇心がこのような殊勝な理諦を人間界に下ろすことができたのは、まさに稀なる天機の示現であり、人類衆生が真に向上成長することを可能としました。まことに賀すべきことです！しばらく崇心宗脈にお邪魔し、天書著作全体の詳細と弘揚について共に議しましょう。
◆ 本文 ◆
大道唯識第二回　  　唯識起源念識排
古佛降著第四回　  　唯識變現有名則
南無虚空　御伝徳意古仏
2010年12月10日　庚寅年十一月五日（金）
◆ 跋・讃賀 ◆
南無阿彌陀佛　降讚賀於
南無東方極楽界　薬師如来降りて推し至る
◆ 本文 ◆
古仏降著第四回　　唯識変現に名有れば則ち
大道唯識第六回　  　實相法則人類為
南無虚空　落筆吉祥古仏
2010年12月17日　庚寅年十一月十二日（金曜日）
◆ 跋・讃賀 ◆
大道者所有道頌：
大道はただ識によって作られるものであり、これは人類の衆生の不足を修正するためのものである。
上蒼の慈悲の徳沢は、天下を教化して唯一の新唯識学の理を下す。この種の因縁は、かつては仏家のみに殊勝な理諦があったが、しかしこのような条件は今となっては、もはや仏家の弟子のみが体得しうる天書の宝典ではない。
それゆえに、台湾の八徳へと下化し、懿敕崇心宗脈の著作は、殊勝な天機は世間の新唯識理諦とは異なり、より高妙な天機の示現であり、また天下唯一の「大道唯識」の天書である。未来の四億余りの星系の主事者に向けて、この殊勝な因縁を受け入れ、この殊勝な著作が生まれたのである。
これは一般的な学理に留まるものではありません。古今の諸天の仏聖が降臨して著作されたことは、まさに人類衆生がこの時空に在る中で、天機が示現されることが極めて稀であることから、有情なる人類衆生に、回帰超越の殊勝なる宝筏を提供するためであり、このような因縁をもって成長を遂げる所以なのです。
唯識は人類の用いるものである。
新唯識学理の因縁は、広大な天地に生きるすべての衆生を依り所としています。これには崇心宗脈の諸天仙仏が降臨して著作をなされたことも含まれており、この因縁を下化させることで、実際には現代の人類衆生に向けられたものなのです。修行の有無やいかなる宗教にも区別なく、すべてに必要なものであり、人類に対して施行されるものなのです。
あらゆる衆生はこの状況の中に置かれているが、「心を動かし念を起こす」際に、いかに外界の色・声・香・味・触・法を見極め、それによって人体の機能である眼・耳・鼻・舌・身・意を引き起こすかを理解できない。これは末那識に入り、さらに阿頼耶識に伝わり、過去のすべての因縁を呼び起こして創造を始動させるのである。
ようやく「菴摩羅識」の成就に入ることができる。このように有情衆生が菴摩羅識を知ろうとするならば、相当に高いエネルギーと体悟が必要であり、初めてこの種の条件を備えることができる。また、「大道唯識」はこのような因縁のもとで、人類世界を教化し向上超越させるために下ってきたのであり、まことに慶賀すべきことである。
◆ 本文 ◆
大道唯識第六回　  　實相法則人類為
南無虚空　金筆智慧古仏
2010年12月21日　庚寅年十一月十六日（火）
大道唯識第六回　　実相法則人類為
◆ 跋・讃賀 ◆
南無東方藥師如來佛　降頌祝於
儒宗聖教の真仏心宗
無極大道院　懿敕崇心堂
天運庚寅年陽月十一日戌の刻
ああ！これこそが人道世界における最も殊勝なる因縁であり、それはまさに：懿勅崇心宗脈の著作が、未来の衆生の盲点に対して指標となることにある。これは人間界において極めて稀なる殊勝なる大因縁である。崇心を恭賀せん！また人類衆生の成長因縁を恭賀せん！崇心宗脈にしばらくお邪魔し、未来の著作と弘化の因縁について共に議することを願う。
◆ 本文 ◆
古佛降著第八回　  　智慧起現道德沿
南無虚空　銀筆大道古仏
2010年12月24日　庚寅年十一月十九日（金）
古仏降著第八回　　智慧起現道徳沿
◆ 跋・讃賀 ◆
南無東方藥師如來佛　降頌祝於
南無本師降崇心　　釋迦牟尼來導引
仏は序文を著して人間を励まし賀す
唯識の学理　大道を行く
序文　　自らを励まして
大道の殊勝なること：
上蒼は人類衆生の無明と盲点に対し、大道唯識天書宝典を下ろされる。これによって自らの行動規範がどのようなものであるかを知ることができる。また、仏教やいかなる宗教であるかを区別せず、すべてこの種の無明の障害に阻まれ、生存の中でいかに「新唯識学理」を応用して人として事をなすべきか、真に理解することは甚だ難しいのである。
この条件は、人間の衆生の無明の障害に対してであり、もしさらに一層の透徹した理解がなければ、人世間のすべての限界と障害をいかに取り除くべきかを知ることは非常に難しい。また、自分自身を累世の中に沈み込ませ、反復して輪廻するだけでは、根本的に向上し、成長することは難しいのである。
新唯識学の理諦：
信仰に入ることは、ただ来世でまた同じ制限を繰り返すだけなら、本当に悲しいことです。しかし、仏教の唯識の理諦によって、この世での行いや活動のすべてを完成させることができます。また、人間を含む衆生は、すべての名相がこの世の生存における障害を順調に取り除くためにあることを理解しなければなりません。
この中のすべての事象と名称概念を、もしも理解することができなければ、人間界で宗教的な修行に入っても、ただ他人の言うことを繰り返すだけで、まるで盲人が象を触るようなものだ。このような人間の衆生はあまりにも多い。上天の徳と恵みは、崇心宗脈という殊勝な縁を借りて、大道唯識を下化し、過去のすべての「唯識学」を再整理するのである。
そして、完全に「大道唯識」の天書の中で下化することができ、未来の四億星系および人類衆生に、より超越した向上と成長へ入ることを提供する。これは必ずや、すべての「新唯識学理」を通徹して如実に理解し、このような豊かな資糧源を持つことができるようになる必要がある。また、人間界に対してこのような殊勝な条件と機縁があることは、まことに得難いことである！
南無本師釈迦牟尼仏  降誕の序を述べて励まし給う
儒宗の聖教
真仏の心宗
無極大道院
懿勅崇心堂
庚寅年陽（ようげつ）月十一日、戌の刻
ああ！また崇心の著作に序文を寄せることができ、誠に崇心のためにこの上なく慶賀の至りであります！崇心の衆仙仏老師方のご教導を賜り、この殊勝な因縁に恵まれたことを、なお一層大切にしなければ正道であります。よろしい！しばらく崇心宗脈にお邪魔して、今後の著作の順序と弘揚について共に議しましょう。
◆ 本文 ◆
第九回  應用法則  眾生受益
南無虚空　龍天徳助古仏
2010年12月31日　庚寅年十一月二十六日（金）
第九回　応用法則　衆生受益
◆ 跋・讃賀 ◆
南無東方藥師如來佛　降頌祝於
南無虚空実宝界　　上徳人天共に来たりて推す
古仏正主席が登壇され　大道唯識が再び会を著す
諸聖仏と諸賢生、そして無極大道院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は仏家四大教主と教尊が共に会合されましたが、南無大日如来仏はまだ登台して共に語り合うことが叶わず、未来の開示をお待ちください。今、崇心にとってこのような殊勝な因縁があり、上蒼が最も優れた著作『大道唯識』をもたらされたのです。
過去の崇心における全ての著作を再び集め、より高深で殊勝なる学理へと昇華させました。また、今日天下第一冊となる『大道唯識』を著作いたしました。これは全人類衆生および四億星系の主事者に向けて著されたものであります。同時に、崇心の全ての学生と宗生が、より一層の向上を遂げる条件を具えること、これこそが真実の姿であります。明日はまた水曜日、全ての引渡しは平常通り行われます。皆様と共に学び成長してまいりましょう！
2015年、03月11日、11時52分◎＃※   了解。
南海古仏
◆ 本文 ◆
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　鳳天福祥古仏
2011年1月4日　庚寅年十二月一日（火）
古仏著作第十回　無常法則根本基
◆ 跋・讃賀 ◆
南無東方藥師如來佛　降頌祝於
南海の屏障に有情生じ
古仏降りて著し系列成る
◆ 本文 ◆
大道唯識第一回　  　何謂唯識心所臻
第一回　唯識とは何か　唯心が識る
何を唯識と謂うか　唯心の識むる所なり
有情なる衆生は、人道世界において、いかなる国や宗教の区別もなく、またどのような人種であっても、必ず「唯心所識」の条件を有しています。この唯心所識の作用によって、人道世界における一切の名相と行動を理解することができます。この世において、すべての有情なる衆生は皆、同じ機能と作用を持っているのです。
また、先人たちの教えを通じて、全ての行為と概念は生存の依存条件の中で作用するものであり、この認識によって全ての行動主体と事象を明確に理解する必要があります。したがって、人道の世界では人種・国家・宗教の区別なく、全ての事象に対する行為と動作を理解しなければなりません。
このような名相をありのままに理解することが必要であり、それによって初めて行為の規範がどのようなものであるかを深く理解することができます。つまり、心によって現れるすべての行動の本質を理解し、一つ一つの事象の名相を知った後に、行為の規範を応用することで、この世におけるすべての善良で良い因縁と条件の中で生きることを理解し、さらにどのように向上させていくべきかを知ることができるのです。
この時に人道世界に依拠するならば、異なる名相が行使されることとなり、必ずや
唯心所識を通徹し、人の心念によって行為の準則に至ることを要す。この唯心所識を通徹することが、人類の衆生においてできないならば、このような条件は如何にして生ずるか。正に、心念が起こった後に形成されるものがあるが故である。
唯識とは何か
種子の因が再び現れることなり
現代において理解できることは、心の意識が主導して、眼・耳・鼻・舌・身・意の伝達を担っているということです。これら眼・耳・鼻・舌・身・意の働きによって、色・声・香・味・触・法への連続的な作用が促され、その後、前五識が動き始めるのです。
人間の衆生は、外部の感覚神経系を通じて、色・声・香・味・触・法の情報を受け取ります。この時、内部の神経系はすでに外部の「感覚神経系」と相互に受け入れ合った後、つまり第八識に蔵されている一切の種子因が、さらに六識を通じて伝達されることになります。
これは第七末那識の判別に入り、さらに第八意識の中に入って、過去の経験を蓄積し、「毘羅性海」の種子因を引き出すことである。この時は刹那の間の行動体に過ぎず、これは極めて短い時間で、種子因を引き出して縁に触れることができる。
かくして、第七末那識の伝達を再び退転させ、第六意識が受け取った後、直ちに伝達される：眼、耳、鼻、舌、身が起動して、初めて人類衆生の一切の行為動作が生じる。これはまさに一連の刹那間の応用に過ぎない。もし刹那間の応用がなければ、どうして行為動作があり得ようか。
唯識とは何か
心によって識別される変現である
人類の衆生がこの世界に入るにあたり、人種と万物の蒼生を区別することなく、すべては同じです。人種には八識の種因があり、また三魂七魄が互いに交わり結びつき、それぞれの衆生の行動規範を形成しています。それゆえに、前世の記憶の再生があり、この前世の記憶の再生こそが、唯識の種因の基本的な作用なのです。
前回の含因が再び現れるのは、自己の八識田に蓄積された種子因であり、この種の含因はすでに人間の心（脳）の海に貯蔵されています。この時、触縁がなければ起動できません：心の海の記憶体は、善良なのか、悪陋なのか、平凡なのか？これが前回の記憶体の再生なのです。
人類の衆生は、前回の善良さ、悪しき醜さ、そして平凡さという種子の因の記憶を持ち、また現在の問題が再び顕現するにつれ、それを受け入れるか否かの分別が生じ、さらに前回の応用条件がどのようなものであったかによって、人類の衆生のすべての感情的反応が区別されるのです。
もし善良であれば、喜びの心が現れ、平凡であれば不快な感情も生じず、もし邪悪で卑しい者であれば、この時の感情的反応は非常に不愉快なものとなる。したがって、人間の衆生が問題点に対して示す反応は、前回の記憶がどのように再生されるかにも依存しているのである。
唯識の種因は、千万年にわたる含因の結合と同じである。
このような触縁による結果は、良善・平凡・悪陋によって区別され、前回の記憶を再構成・調整するものである。このような前回の記憶の再生は、往々にしてすべての因縁果報の連続であり、また人間衆生はこのような前回の記憶において、現在の事柄に大きな違いを見出し、すべての結果がどのようであるかを見たいと望むのである。
これはまさに人類の前回の記憶が再生されるに過ぎず、この種の前回の記憶が現在に取り込まれると、「心の反応」が生じ、同時に「感情的反応」が区別として現れます。この時、人類の衆生は、好ましくない感情的反応を抑制できるでしょうか？それとも喜びや平凡さに流されるでしょうか？それは各人の心の在り方次第です。
この「唯心」によって認識される経験は、現前の時空因縁に応用されることで、前回の記憶が再生されると同時に、今回の応用条件ともなります。ゆえに人類衆生は、前回の記憶を現在の心の状態や観念へと連続させ、あらゆる問題点の継続を促しているのです。果たして円満にできるでしょうか？必ずしもそうとは限りません！
この時、人類の衆生には一種の心の反応が生じますが、必ずしも感情的な反応とは限りません。誰もがこのような経験の過程を経ており、同じ出来事が人為的な要因によって形作られると、前回の記憶が現在の状況にも適用されます。もし人類の衆生に前回の記憶がなければ、問題点や疑問点に対する認識は形成されないのではないでしょうか。
唯識の種因は、これ人人皆之れ有り。
このような条件は、問題が生じた後、前回の記憶が再生されないため、相手や問題点を理解することができなくなる。人間の衆生はこのように、前回の経験が蓄積されると同時に、今回の問題点が生じた後、その前回の記憶を現在に留めるのである。
人類の衆生が記憶体を共有することはあり得ないが、この種の問題は必然的に存在する。前回の記憶が再生されるからこそ、現在の応用問題が顕現するのであり、もし前回の記憶が再生されなければ、一切の問題も情緒的反応によって顕在化することはない。これこそが唯心によって理解される記憶体の本質である。
かくして前回の記憶再生によって応用体が生じるのである。もし前回の記憶再生がなければ、現在の応用体は顕現しない。すべての事象の連鎖が、その都度このように組み合わさっていることを理解しなければならない。人と人、物と物の区別なく、すべて同じであり、万物の生きとし生けるものは皆そうであり、特に人間衆生はその通りなのである。
ただ心が識別するところより、因縁果報が起こり動く。
前回の記憶再生があったからこそ、この種の突出が継続するのであり、無明の中にあれば、前回の記憶再生は存在せず、人間衆生は皆このように、問題点を散らし抑制することになる。このような前回の記憶再生の突出が起こった後、すなわち人間衆生のあらゆる事象連鎖の継続となるのである。
すべての衆生は同じであると信じます。もし前世の記憶が再生されなければ、経験の蓄積もなく、すべての問題点はただ無明から現れるだけです。ですから、人間の衆生は前世の記憶の中にあり、すべての因果関係の連続があるからこそ、問題点の解決と円満を促すことができるのです。
あるいはさらに拡大してより多くの問題点が現れることもあります。このような因縁条件を理解する必要があり、人類の衆生はなぜ「新唯識学理」を認識する必要性があるのか、また無明の障害を取り除くための着力点を持つべきなのか、つまり、過去の経験から積み重ねてきたものを、現在の日常生活に応用する必要があるのです。
唯識はただ今に現起し、前回の記憶を借りて車を操る。
どの環節も同じく、　  　広くこのように我が家に伝わる
心念意識が伝導し来たりて　経験を用いて周到ならしむ
人類の衆生は知るべきである
心を起こし念を動かすことが如何に大切か
この偈は、すべての有情の衆生が互いに励まし合うものであり、人間の衆生が心を動かし念を起こす過程においてどうあるべきかを示しています。もし経験がなければ、それは無明の始まりです。もし過去の記憶があれば、それを現在に引き継ぎ、自分が置かれた時空の因縁を認識し、
角度とは如何なるものか？すなわち人間の行動体と応用体を加えることができるのである。
このように唯識によって理解されるものは、すでに心の意識の中で応用されており、このような心の動きや念いが生じるからこそ、すべての事柄が唯心によって識別され、あらゆる因縁果報が展開されるのです。皆様、お疲れ様でした。大道唯識
この回をここで締めくくり、次回はさらに素晴らしい作品をお届けいたします。
無極中壇元帥
無極中壇元帥登　　大道唯識首回成
前回の良い経験を覚えておき　今に引き寄せて真に活用せよ
諸聖佛と諸賢生、および無極大道學院の院修學士の皆様、こんばんは。本日は大道唯識主著仙佛である南海古佛がご降臨され、第一回「何謂唯識、唯心所識」の前半を著作されました。次回は第二回を続けてお届けいたします。これは皆様に唯識学の理論を理解していただき、その応用法をご紹介するためのものです。
また、この一冊『大道唯識』が説く真理によって、皆様がご自身の置かれた時空と因縁をより深く理解されることと信じます。同時に、自らの無明による障害がどのようなものであるかも明らかになるでしょう。これこそが有情なる人類衆生が抱える迷いの障壁であり、いかにしてこれを取り除くかが正しい道であることを、次回より詳しく解き明かしてまいります。
2015年3月11日11時53分◎＃※   了解；
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　理治法古仏
2011年1月7日　庚寅年十二月四日（金）
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一      賛言
◆ 本文 ◆
大道唯識第一回　  　何謂唯識心所臻
南海の衆生皆如来なり　燃燈の心法再び開く
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　道伝徳古仏
2011年1月14日 庚寅年十二月十一日（金）
◆ 跋・讃賀 ◆
南海古仏　跋一に降りて讚言す
◆ 本文 ◆
大道唯識第二回　  　唯識起源念識排
第二回　唯識の起源　心念と意識
唯識の起源　心念と意識
有情なる衆生は、唯識の学理に対して、ほとんど触れる機会がなく、その中の問題点がどのようなものか理解することもできません。それゆえ、『唯識学理』に対して疑念を抱くことになりますが、実はすべての衆生、あらゆる種の衆生を含めて、皆同じく唯識の学理を必要とし、応用すべきなのです。
しかしながら、その中の応用過程、すなわち唯識学理の基本的な意図がどのようなものであるかを十分に理解していない。これは有情衆生に対して言えば、ただ日常生活におけるすべての行動規範を知っているだけで、なぜそのようにしなければならないのかを理解することができず、したがって「唯識の起源」がどのようにして形成されたのかを貫通して理解することもできないのである。
したがって、一知半解のまま地冥星空間に生きているが、必ず理解すべきことは、唯識によって生じるすべての動作が、眼が色を見、耳が声を聞き、鼻が香りを嗅ぎ、舌が味を感じ、身体が触れるという前五識の作用を通じてどのように働くかということだ。まさにすべての生き物が日々用いているものでありながら、その名称や概念を理解していないのはどういうことだろうか？
すべての外部神経システムの作用が、第六意識に伝わり現れることによって、
この第六意識は、過去の経験の蓄積を経て、前回の記憶を再生し第七「末那識」に入力し、受容するか否かの判別を行った後、初めて人間の行為動作が形成されるのである。
唯識の起源　なぜ心念意識なのか
これはまさに「外在神経システム」のすべての応用プロセスを起動し、なぜ唯識の起源があるのかを理解するものです。そのためには、外界のすべての色・声・香・味・触に対して、「意念が万法を起こす」という心念の起動の中に入っていかなければなりません。このように観察すれば、これは有情衆生すべてが応用する条件であることがわかります。
さらに、前回の記憶による判別について言えば、有情の衆生は皆このようなものであり、このような外部感覚神経システムを判別する際にも、それぞれが多くの前回の知識を蓄積しており、それは世の中の一切の因縁果報に対して起動し、また「触覚」を通じて因果の循環反復の動作を行うのである。
すべての良し悪し、善悪、禍福の因縁は、自らの行いの中に取り込まれます。もし心の意識が加わらなければ、人類衆生には因果の循環は生じず、いかなる「縁報」も現れません。この世には唯識の現れもなく、いかなる因果の絡み合いも存在しないのです。
有情なる衆生はこのような条件下において、あらゆる過程は自らの心が動き念いが起こった後に、第八識に蔵されるものであることを知らなければなりません。第八識に蔵されたすべてのものがあり、これらの過去の記憶を再び引き出すことによって、『毘羅性海』の中のあらゆる種子因が生じるのです。
唯識の起源は　毘羅性海の種子に因る
この「毘羅性海」の種子因は、第八識の中に蔵されており、広大な空間を照らし見ることができます。このように、一人の人間のすべての思考は、たった一つの頭脳に過ぎないのに、なぜ『毘羅性海』の中にこれほど多くの記憶を蔵することができるのでしょうか。その理由は何でしょうか。
ちょうど現代のディスクのように、膨大なエネルギー体を蓄積するものがあり、それが「毘羅性海」の中の一切の種子因、すなわち過去累世に蓄積されたすべてのものが、自らの脳裏に留め置かれるのです。これこそが一人一人の「毘羅性海」であり、すべての因果関係が脳内に深く根ざした種子因となるのです。
また、人間衆生が何度も輪廻を繰り返しても、そのすべては「毘羅性海」の中に一つ一つ刻み込まれています。これこそが、人間衆生が千百年も輪廻を重ねてきたにもかかわらず、依然としてこれらの「毘羅性海」の中にある種子の因縁が、縁起と因果応報によって促され、これらの因果を引き出すことができる理由なのです。
相応するものが「縁報」の促成にあること、これもまた人類衆生が最も理解し難い一環であります。なぜなら、これらはすでに一人ひとりの内に深く根付いているからです。何故、数千万年もの「毘羅性海」を経て、因縁果報の促成に遭遇するのでしょうか。また、これらの因果を引き出す原因こそ、まさにこのようなものなのです。
唯識の起源　心念意識の起動
人類の衆生は、いかなる時空にあっても必ず出会うものです。このような出会いの縁は、地冥星の空間に存在する楕円体が反復循環することで、すべての因果の蓄積を内包しているからです。いかなる時空や地域に隔てられていようと、遅かれ早かれ必ず出会う日が来るのです。
この因縁果報に対する分別はまさに真実であり、たとえ何世も輪廻を重ねたとしても、いずれ必ず出会う日が来るのです。因縁果報が存在するのはただ時空が転換するだけで、決して虚無に消え去ることはありません。また因果応報を善悪・禍福と分別することなく、すべてに必ず巡り合う時が来るのです。
有情なる衆生は理解できず、これほど長い時空を経ても、なおこのような討伐と償報があるとは、一体どうやって削減し、あるいは清算すればよいのでしょうか。必ずや、一人ひとりの第八識の中にあるDNA再生記憶体を観照すれば、このような因果の投影が反射され、すべての因果の清算と討伐が形成されることがわかるでしょう。
人類の衆生は理解できず、すでに数千万年も経過しているのに、どうしてこのような過去の因果を追及し清算できるのか？これはすべての人類の衆生、あるいはすでに悟りを開いた聖人・神仙・仏・菩薩など…すべて同じであり、追及するかしないか、報いるか報いないかに関わらず、すべて過去の因縁がそのまま「現前」することになる。
唯識起源の動機
時空の隔たりや因縁の長短にかかわらず、すべては相互に融合し合い、あらゆる因縁果報を形成します。善悪、吉凶、禍福の区別は、有情の衆生一人ひとりが心に念いを起こした後、外界の「色・声・香・味・触」を引き起こして現れるのです。
また、自分自身には「眼、耳、鼻、舌、身」の働きがあり、これらの因縁が感覚器官と対象との接触によって現れます。これは、悟りを開いた者も地獄に沈む者も、その他のすべての生きとし生けるものも同じであり、このような時空の因縁の中で、過去世の因縁と因果応報が現れるのです。
また、現在において討伐や清算が形成されることもあります。例えば、私たちはかつて見知らぬ人に出会ったことがありますが、その人に対してとても良い印象を持ったり、逆に悪い印象を持ったりすることがあります。そして、なぜか以前から知っているような感覚を抱いたり、その人を非常に好きになったり、また非常に憎むような感情を抱いたりすることがあります。
とあるわけのわからない感情が生じ、非常に嫌悪感を覚えることもあれば、非常に喜びを感じることもある。このような善悪の因果関係はここから生まれる。人間の感情的反応においては、良い感覚か悪い感覚かを区別せずに、すぐに感情的反応の中に、ある種のわけのわからない行動を形成してしまうのである。
唯識が現れを起こし　累世の善悪因果
また、この時、皆さんはどのように感じられるでしょうか。全く知らない人であり、何の恩も怨みもないのに、なぜとても愉快な気持ちが生じるのでしょうか。あるいは、相手に対して非常に嫌悪感を覚えることもあるでしょう。これは、千百万年にわたって積み重ねられたすべての善悪の因果が「毘羅性海」の中に留められ、再びそれを引き出されるためなのです。
これは人間の衆生が根本的に理解できない筋書きです。なぜなら、人間の衆生はこのような時空の中で、相手をまったく知らないのに、どうしてこれほど愉快な感覚が生まれるのでしょうか？人が言う「気持ちがいい」というのは、まさに爽快で、とても良い感覚が生まれ、その人と一緒にいたい、共に事を成したいと思うようになるのです。
逆に、相手に対して非常に不愉快になり、相手のすべてが嫌いになってしまうこともあります。相手がどんなに良い態度を示しても、何の喜びも感じられず、相手のすべてがひどく嫌になる。このような状況に皆さんも一度は遭遇したことがあるでしょうか？このようなわけのわからない感覚もまた存在するのです。
唯識の起源は因果が現在に投影されることにある
すべての衆生は、一度はこんな経験をしたことがあると信じます。動物であろうとなかろうと、同じように経験することです。人が犬に噛まれることも、前世の因果でその犬に借りがあったからで、今生で出会った以上、あなたを一口噛まなければ心の恨みが晴れないのです。あるいは、一部の人にはこのような経験がなく、理由もなく犬に噛まれたり、動物に追いかけられたりしたことはないでしょうか？
また、何が原因でこのようなことが起こるのか、皆さんはとても不思議に思うのではないでしょうか？私はただあそこを通りかかっただけなのに、本当に運が悪い！わけもなく動物に噛まれたり、理由もなく追いかけられたりするのは、あまりにも信じられないことでしょうか？この世では、自分が過去世でそのような因果応報を受けるようなことをしたかどうか、反省する必要があります。
はじめて、あらゆる事柄において現れ、善悪・良し悪し・福禍の区別を形成するのです。つまり、仙仏が常々言われるように、この世で人と怨みを結ばなければ、来世で人に嫌われることはなく、こうして広く善縁を結べば、多くの貴人に助けられるようになります。これこそが真実の本性なのです。
第八識はすべての現れを伝え呼び起こす
人類の衆生は、目に映る一切のものがあり、それが第八識に伝達されて現れ、それによって現在の因果循環の反復作用が生じるのです。また、それぞれの人が過去世で行った行いによってこそ、現在得ている一切のものがあるのです。唯識が現れる作用に対しては、それぞれの人が心を動かし念いを起こした後に初めて、縁と報いが生じるのです。
これはまさに真実であり、すべての衆生に等しく当てはまることです。悟りを開いたかどうか、人間として輪廻しているか、あるいは他の生物として生まれ変わっているかに関わらず、自らが行ったすべての行いは、いつの日か必ず同じように自分に返ってくるのです。ですから、人と悪縁を結んではなりません。その報いは非常に苦しく、また避けようのないものだからです。
知るべきは、人は他の人々と善縁を結ぶことができ、それによって未来の福報が加わり、また自分自身への良き加護ともなるということです。皆さんはこれを望まれますか？これは自ら努力して創り出すことができるものであり、まさに人類衆生のすべての良き因縁を増長させる条件となります。このような条件は、自らがしっかりと把握できるものなのです。
唯識の起源より変現す　　過去に種まかれたる因縁
時空を問わず　千百万年を経て再び顕現す
有情の衆生が事を行うには
必ず円満を期すが故に
人と善き縁を結ぶべし
悪しき事に関わることなかれ
この偈よ！有情の衆生と共に励まし合いましょう。すべての唯識の起源は前世の記憶が再生して現れたものであり、それをどう否定しようというのでしょうか。すべての善徳の因縁はまさに今生の作者であり、未来の福報と善縁を増すことになり、また皆がより大きな福田を持つことができるようになります。これをどういうことだと言うのでしょうか？
無極国際弥勒仏
無極国際の弥勒仏が、登台して共に衆仙仏と会する
崇心の皆さん、こんにちは。長らくお会いできずにいましたが、今日こうして共に集うことができ、大変嬉しく思います。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈の大宗師である南無燃燈古仏、大道唯識主著仙仏が降臨され、第二回『唯識起源、心念意識』を著作されました。これは第二回次にて著作されたもので、その中に示される毘羅性海の真意を理解されんことを願っております。これはまさに人世においてほとんど知られることのない因縁の記憶体であります。
このような殊勝な因縁と条件は、有情なる人類衆生のあらゆる知識の成長を促し、また皆が未来の学びにおいて、二回次にわたって著されたものを通じて、共に向上していくことを願っております。後日はまた今月の懺悔法会でありますから、心を込めて導き渡すことが必要であり、多くの方法がありますので、皆で共に努力していきましょう。
2015年、3月11日、11時54分◎＃※   了解；
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　彩雲光天古仏
2011年1月18日　庚寅年十二月十五日（火）
◆ 跋・讃賀 ◆
古仏降著の跋に賀す　大道唯識は帰航を引く
◆ 本文 ◆
大道唯識第二回　  　唯識起源念識排
南無虚空大天界　上徳の人天古仏推す
崇心の因縁は大いに比類なく
ただ識の現じる名相を以て為す
第三回　唯識の名相　一切を認識す
唯識の名相によって一切を認識する
有情なる衆生がこの世に生きるにあたり、生存の方向性を持つと同時に、多くの名相によって認識が行われます。この中で、あらゆる生存作用に対して、唯識を通じて現れる万物の名称は、異なる種の存在を必要とし、また各部位の名相に区分されます。このように一つの種であっても、多くの部位の名相が存在するのです。
人類の衆生は、これらの名相（名称）を認識する必要があります。そうして初めて、作用を様々な機能と区別することが可能となり、同時にこれらの名相を認識した後、それぞれの動作の中でどのように応用すべきかを理解できるようになります。また、作用と機能がどのようなものであるかを理解し、自らを利し、衆生を利することができるようになるのです。
これは人類の衆生にとって言えば、すべての人は様々な知識と観念を持つ必要があり、またその作用と機能がどのようなものであるかを理解しなければならない。これは自分が認識する名相において、すべての衆生がこのような必要を持つものであり、したがって様々な器物の名相をありのままに理解することが、正しいあり方なのである。
すべての認識される名相が、第八識の種子である阿頼耶識に刻み込まれるからである。
その中で、この種の作用と名称・形態は第八識の種子に蓄えられ、将来再び遭遇する際の行動の基盤となり、前回の記憶を再び引き出す機会を与えます。これにより、自分自身が真の機能と効果を得ることができるのです。
唯識の名相は、一切の作用を認識する。
また、前回の経験を通じて、今回の応用に必要なものが蓄積されました。これは人類のすべての者にとって必要なものであり、また人類の前回の記憶が再生された後に、今回の応用の必要性が提供されました。人類の衆生はまさにこのようなものであり、前回の記録が再び現れることによってもたらされるのです。
まさに人間の大脳中枢神経を通じて、前回の行動のすべてを記憶し、それを今回や未来のあらゆる場面に応用するため、人間の衆生には前回の記憶が再生されるのです。また、この前回の記憶の再生も、人間が再び新たな経験を蓄積して応用するためのものであり、これが一種の唯識再現の観念なのです。
人類の衆生は、このような記憶の再生を持つことが必要です。それによって、それぞれの因縁果報を結びつけ、善悪、良し悪し、美しさや様々な異なる因縁のあり方を区別し、自らの行いの中に取り入れて、善悪や禍福の区別を分けることができるのです。人類の衆生の因縁果報も、前回の記憶を通じて起動されるのです。
このような条件には、前回の記憶再生の異なる作用が必要であり、また時空の因縁に従って促進されるものである。この時、因縁果報は善悪・吉凶・禍福という区別性として現れる。人類衆生が生存の方向性を定める過程において、同時に全ての万物をそれぞれの名称と概念によって区別するのである。
唯識の名相と各種の認識
その後も区別があり、この名相のすべての異なる部位の名称は、あたかも誰もがご飯を食べる必要があるように、しかしご飯を食べるはただ一つの動作に過ぎず、このような条件にはまずご飯を炊く動作が必要であり、それがあって初めてご飯を食べる動作が生じる。この中で最初の動作は、茶碗と箸を取り出すこと、次にご飯をよそう動作が必要であり、その後はどうなるのか？
必ず一つ必要となるのは、箸でご飯を挟み口に運ぶことであり、この過程には多くの名称と動作が存在します。人類衆生にとってはただの食事という動作に過ぎないのに、それぞれの動作の名称を区別しなければなりません。人類衆生はこれらを理解した後、初めてこれらの名称を第八識の中に入力することができるのです。
ただ食事をするという動作一つを観じるだけで、これほど多くの名称と動作が必要となる。飯を口に運んだ後、よく噛んでゆっくりと味わうべきか？さらに食卓に並ぶ佳肴はいかなるものか？またどのような食べ物が自分好みなのか、一つ一つの動作の実相を区別して観じていく。
衣食住の充足は、人類の衆生にとって必須のものであり、それゆえに「民は食を以て天と為す」と言われるように、すべての衆生は衣食住を充足させるための行動が必要です。ただ「衣食住」という言葉だけではあまりに漠然としていますが、衣食住を満たすためには多くの行動が必要であり、また衣食住を充足させるためには通貨である金銭を用いてあらゆる食物を購入する必要があります。
唯識の名相は、一切の作用を認識する。
もし生の食物であれば、必ず調理の動作が必要であり、この調理もまた大きな学問となる。人類の衆生にはあまりにも多くの調理の学問がある。したがって、ただ腹を満たすという一つの動作だけでも、あまりにも多くの名称と動作に区別される。これらすべてが人類の衆生であり、まさに一人ひとりが学ばなければならない名称と動作なのである。
つまり、人類の衆生を基準点として、温飽と動作が可能であるということは、まさにこのように複雑なものであり、なぜこのようである必要があるのか？それはすべてが「唯心所識」という一切の名相を経なければならないからです。この唯心所識の名相は、また、すべての衆生が必ず認識を持たなければならず、この条件の機能からも離れることはできません。
あるいはまた、動作だけがあって名相や名称がなければ、その動作がどのようなものかをありのままに知ることはできません。ですから、有情の衆生は、唯心によって認識されるすべての名相や名称の動作を、人間の衆生の行為動作の中に取り入れることで、自然と習慣化された動作性へと変わっていくのです。
皆さんは初めて行動を起こすとき、このような名称がどのようなものかご存知でしょうか？おそらくすでに忘れてしまっているかもしれませんが、それでもこの名称の動作は覚えているでしょう。実はすでに名称を忘れてしまっているのに、自然とこのような動作ができるのです。この食事の動作について、皆さんは皆ごく自然な行為だと思いませんか？
唯識の種は因として人類の名相を成す
また、誰一人として「ご飯」を鼻に詰め込む者はいないでしょう！もしそうなら、鼻でご飯が食べられるでしょうか？いいえ、違います！しかし、誰もがすでに忘れてしまっています。ご飯は口から胃腸に入るべきものであり、その名称もとっくに忘れ去られていますが、それでもなお、ごく自然で実直な動作によって「ご飯を食べる」のです。
このような自然な食事の仕方は、誰もが知らず、すでに食事という名相や名称、動作の記憶も失われている。しかし、食事のたびに自然と多くの動作が次々と現れ、毎日このような食事の動作を繰り返すのである。
食事の動作は誰にとっても自然なものですが、しかし、このような最初の記憶の再生を経験する人はほとんどいません。しかもそれは数十年前に記憶されたものなのです。また、このような動作の名称もありませんが、しかし、このような動作の行為は存在します。次世代の新しい子供たちを教育する必要がある場合にのみ、再び記憶されるのです。
初めて経験したことを、また持ち出して応用するのが、人類の記憶再生です。すべての名相や名称、動作が現れるようになって初めて、人々はそれぞれのことを覚え、このように記憶再生するのでしょうか？必ずしもそうではありません。しかし、自然に応用できるようになったとき、これが人間の記憶再生であり、最初の経験を再び持ち出して応用しているのです。
ただ心の識別によって、一切の法界の名と相を変現する。
正しい方法と行為動作を与えること、また、毎回応用する際には、最初の記憶あるいは前回の記憶を再生し、今回の行為動作を積み重ねていく。皆が前回の経験を記憶し、すべての経験を蓄積する中で、「毘羅性海」の種子因も取り出して応用しているのだろうか。
これが人類衆生の行為動作であり、皆さんは「唯心所識」の一切の行為動作がどのようなものかを理解できるでしょうか。まさに唯識観念の記憶再生なのです。これは比較的高次元の記憶方式であり、すべての人類衆生と万物蒼生の行為動作も、すべて同じなのです。
ただ、人類の衆生には一種の記録が現れ、後代の新生に行動を教えるために人類の衆生に与えられる。また、他の万物の蒼生もこれらの経験を後代の子孫に教える。このような人類の衆生および万物の蒼生の行為は、すべて同じ機能と作用を持っている。
唯心によって識られる一切の行為動作が現れる際、皆さんは「唯心によって識られる」ということを通じて、すべての行為動作が「唯識の名相」を通じて認識され、生存における一切の動作の名称に過ぎないことを理解できるでしょうか。これは人類の衆生が上昇し超越しようとする思いから生じる、唯識の名相なのです。
五官五色はそれぞれ異なる名称と作用を持つ
もしあらゆる宗教を以てしても、この「唯識の名相」を相当にはっきりと分析することは難しい。各人の眼・耳・鼻・舌・身・意が動き始めると、色・声・香・味・触・法が連鎖的に生じる。この時点では、まだすべては外部の感覚神経システムに過ぎないのである。
さらに第六意識に入力された後、第七末那識を起動して判断と伝達を行い、受信するか否かの分別を経て、初めて第八阿頼耶識に送り込まれ貯蔵される必要があります。そして、すべての種子因が存在してこそ、この度起こった事柄を記憶として応用することができるのです。
そして将来の機会を待ち、これらを再び取り出して応用することで、それぞれの人の自然な行動が形成され、皆がこのような行動を十分に理解しているため、自然と応用されるようになります。これが人類の衆生が応用する自然の条件であり、また代々受け継がれていくものなのです。
また、これらのことは誰もが日常的に使っているが、その名称がどういうものかは必ずしも理解していない。それゆえ、行動や動作はあるものの、その名称がわからないという状況が生まれている。これは、誰もが自然に行っていることではあるが、その名称や機能がどういうものかを理解できないということだ。おそらくすでに忘れてしまっているかもしれないが、どうすれば取り戻せるだろうか？自ら体験して理解するしかない。
ただ心の示すままに現じ来たり　一切の行為動作連なりて
名称と動作を理解すれば　  　これ即ち唯心の現前を起こす
一つ一つの動作はすべて真実の如く
有情の衆生もまたかくの如し
自然に応用が生まれる時　名称を知らぬ間に既に失われる
この偈を、有情の衆生が互いに励まし合いましょう。唯心によって認識されるすべての名相と各部の名称の違いによって、その応用も異なってくるのです。皆さんはここに秘められたすべての奥義を、どうか細やかに体得してください。実は皆、すでに忘れてしまい、思い出すこともできませんが、その動作はとても自然なのです！次回はこの著作を続けましょう。
無極福德正神
無極の福德正神登る　　崇心唯識の著成する所
一切の名相を了知するは　  　自然として明証すべし
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈正主席  虚空上徳人天古仏が降臨され、大道唯識第三回を著作されました。一つの唯識起現行動体を分析し、皆様にそれぞれの動作が一種の名相であるが、異なる部位の名称を持つことをお悟りいただきます。
人類の衆生には多くの記憶再生があり、最初から現在に至るまで用いられてきたのは既に自然な行為動作ですが、皆がこの行動体の名称を忘れてしまったのです。それゆえ、「新唯識学理」の重要性がどのようなものかを理解することができません。信じることで、皆の記憶を再び引き出して活用することができ、知識を向上させ成長させるためには、まさにこのようなことが必要です。
現代においては、崇心宗脈のみが新たな唯識の真理を極めて平易な言葉で解き明かし、より明確にしています。これは人々の向上と超越に対して真実の助けとなり、まさに上蒼の大いなる慈悲の恩恵であり、人類衆生の成長と超越を促し、回帰への資糧の源となることは、誠に得難く貴重なことです。
2015年3月11日11時55分◎＃※　了解。
南屏道済古仏
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　彩霞徳天古仏
2011年1月21日　庚寅年十二月十八日（金曜日）
◆ 跋・讃賀 ◆
大道唯識跋三作　　　弘揚系列種因引
◆ 本文 ◆
大道唯識第二回　  　唯識起源念識排
南屏に唯識の書を開き展べるは　道済の徳沢　有情に徹す
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　彩霊福天古仏
2011年1月28日　庚寅年十二月二十五日（金）
◆ 跋・讃賀 ◆
大道  唯識  跋三  励み
◆ 本文 ◆
古佛降著第四回　  　唯識變現有名則
第四回　唯識変現 一切の名相
唯識が一切の名相を変現する
有情なる衆生は人道世界において、多くの名相の認識を持つことになります。宗教に入る者も入らぬ者も区別なく、皆同じでありながら、なぜ唯識の変現があるのでしょうか。また、人類の衆生として一切の名相を認識するようになり、このような状況は有情なる衆生にとって、自らの認識を基準とするものなのです。
また、人類の衆生に対しては比較的思考の余地があるため、あらゆる万物の名相を通じて理解します。異なる名相の作用には、異なる名相の機能と効果があります。これが唯識のすべての学理の準則です。では、なぜこのような認識が必要なのでしょうか？「唯識によって変現される」すべての名相が、どのようなものであるかを知る必要があるからです。
まさにまず「認識法則」があり、その後に「実相法則」が生じ、「応用法則」も形成されるのです。また、この三つは人類衆生にとって最も基本的なものであり、唯識学理の認識によって作り出されたものです。それゆえ、認識法則を経た後、すべての応用法則は万物の名相を理解し、実相法則を応用するものなのです。
このような認識法則を得た後、次に応用法則が続きます。
一方、すでに存在する万物の実相に対しては、すべての衆生が名相と名称を知る必要がある。すなわち、認識法則を応用して一切の実相の作用を理解する際にも、応用条件が存在するのである。
唯識の名相が変現する一切
人類の衆生に対して当然あるべき機能と作用について、自らをより深く認識できるようにするためであり、また人間に適用される条件については、一切の実相の本質を認識した後に初めて応用法則が生じるため、必ず知っておく必要がある：何が認識法則か？何が実相法則か？何が応用法則か？
このように世間に対して言うならば、すべての人は自らの生存条件に依存してこそ、応用の法則が生じるのです。また人類の衆生を区別せず、修行のあるなしや宗教信仰の有無にかかわらず、一人ひとりがこのような働きを持たなければ、何かを成し遂げることはできません。この世で人として生きる基本は、生命をよりどころとすることにあるのです。
また、生存の依り所とは、一種の向上成長・向上発展であり、もし向上成長・向上発展がなければ、ただ盲目に自らを惑わし苦しめるだけで、生存の方向性がどうあるべきかを理解することはできません。とても難しいことです！これこそが有情衆生が最も理解できない一つの環であり、なぜなら人間の衆生は、過去の最初の前回の記憶が再生されたことしか知らないからです。
最初の無明によって形成されたものに、どうして善良な生存志向があり得ようか。第二、第三、第四と続く修正と変革があってこそ、人類衆生にとっては必然の過程であり、また第二回目以降の修正と変革を経て初めて、真に問題点を克服することができるのである。
唯識は一切の名相に現起する。
このような条件を克服し、修正・改善を行う際に、人類の衆生も十分な成長を遂げます。最初の記憶再生については、すでに忘れてしまったとはいえ、この記憶再生の行為と動作を熟達させることができ、経験の蓄積に対して自然に順調に進むようになります。
このような条件下では、あらゆる事柄が同様であり、自然に順調に進むがゆえに、最初の無明が形成された過程を忘れ去ってしまいます。人類衆生はこのような条件下で、最初の出来事以降の修正と変化を記憶し、また全ての最初の記憶で覆い隠してしまい、再び生じることができなくなっているのでしょうか？
人類の衆生は二度目に、修整改変を経験の蓄積とし、また毎回の修整改変後に記憶され、その都度の全ての不順を覚えていきます。このような不順は骨身に刻まれる記憶の過程であり、どの人類の衆生にとっても同様です。問題点を深く記憶することで、初めて修整改変が可能となるのです。
自分自身の良くない行いや誤った経験に対して、これは人類の衆生に対して真実に即したやり方であり、それゆえに問題は、毎回遭遇する困難な点や誤った行いを修正することから生じる。人類の衆生の機能としての役割は、一人ひとりが良くない誤りを修正することを心に留めることにある。
唯識は一切の演化を変現しうる
しかし、なぜ人間の衆生は向上して超越することができず、むしろ毎回多くの奇抜な癖や性格が現れ、自らの向上成長に影響を及ぼし、問題点は依然として存在するのか？これはあまりにも理解し難く、まさに人間の衆生が知っていながらあえて犯す一種の行為であり、そのため甘やかして悪を育てる結果となってしまったのです。
人類の衆生は本来、修正して向上成長することができたはずです。ただ、姑息に悪を養い、怠惰に振る舞ったために、自らをずっと人道世界に沈淪させ、人間と動物を繰り返すことになり、毎回このようになってしまいました。互いに循環し変わり続け、より悪い結果を生み出してしまったのです。
これは人類の衆生に対して言うことである：すべては唯心によって識別される一切を経て、実相界の万物蒼生および全ての名相を認識し、自分が認識する一切の行為が、また自分自身の経験の積み重ねから来るものであり、前回の記憶の再生によって成り立つことを理解することができる。
もし彼を引きずり出したら、自分が以前の記憶をどのように認識していたかが形成されるだろうか。もし記憶が深く刻まれているなら、それは比較的骨身にしみるものとなるだろう。もし日常的な状況であれば、深い記憶作用を形成することは非常に難しい。このような因縁は、いくつかの順境においては、向上して超越することを高めることは非常に難しい。
唯識が一切の実相を変現し造作する。
なぜなら、順境においても、あるいは平常の境遇においても、それらはすべてすぐに消え去る過程であり、前回の経験を記憶することもできないからです。また、人類の衆生にとっては、深く記憶に刻まれなければ、これらの経験は忘れ去られてしまいます。そのため、人類の衆生にとって、すべての平穏な境遇において、真の記憶を留めることは必ず難しいのです。
まさに骨身に染みるような経験がなければ、自分を変える機会を得ることはできない。人類の衆生は、平穏な境遇や順境の中にいると、それ以上に努力することができなくなる。逆境の中では、すべての記憶が非常に鮮明であり、必ずやこのような問題点を常に心に留めることになる。
あたかも人類の衆生が車道を走行しているかのようで、その過程の一つ一つは自らが実際に経験した事実です。では皆さん、車が走行中に危険に遭遇したとき、なぜ緊急ブレーキをかけるのでしょうか？そうでなければ、これらの問題点は、人類の衆生のあらゆる行動の中でどのように存在しているのか、理解することもできないでしょう。
さらに、車両が走行中の危険に直面した際、いかに瞬時にブレーキをかけるかが問われます。さもなければ次の瞬間には、大きな衝突音とともに、心に相当な衝撃が走り、アドレナリンによる緊張が生じるでしょう。このような刹那の間に、いかに危険を最小限に抑えるかが重要です。
唯識の変現が生存の実相を成す
皆さんはこのような経験をお持ちでしょうか？必ずしもそうとは限りません。他人の傷つきや死を通じて、深くこのような痛みを感じることがあります。それはまさに生命が消えゆく作用であり、また傷つける問題に責任を負うことです。さらに、今後まだ多くの賠償問題が待ち受けています。これらすべてが重なり合って、人間の衆生の前世の記憶に対するものなのです。
時には自らが身をもって感じることもあれば、他人の被害を見て経験を積むこともありますが、その多くはメディアによって報道され、問題点が人間の第八識に深く刻み込まれます。そのため、人々はこのような被害や死に遭わないよう、強い警戒心を持つようになるのです。
また、皆の心の中にこそ、このような恐怖感が生じるのであり、それゆえに、問題点が現れるたびに、各人が直面する問題は必ず大同小異となるのです。これらはすべて、前回の経験の記憶が再生されることから来ており、人類衆生に対しては、この認識が八識の種因の中に深く根ざすことになるのです。
誰もがこのような記憶を持っている。交通事故は本当に恐ろしいものだが、みんなが恐れているのになぜ交通事故は絶えないのだろうか。よく言われることだが、自分が他人にぶつかるのは怖くない、怖いのは他人が自分にぶつかってくることだ。自分は注意していても、他人が必ずしも注意するとは限らないからだ。
唯識の変現する一切
このように一種の警戒心も生まれました。いつ交通事故が起こるか？必ずしもそうとは限りません。だからまたこう言います：車を運転したりバイクに乗ったりすることは「赤い服を半分着ている」ようなものだと。ではなぜ赤い服を半分着ているのか？それは人間の衆生が最も忌み嫌うことですが、必ずしも起こるとは限らず、かといって必ず起こらないとも言えない。だから確率は五分五分なのです。
「赤い服を半分だけ着る」という諺があるように、この種の人災は防ぐことができるが、毎日防いでいるわけではない。よく交通事故に遭う人もいれば、一生涯ほとんどそのような問題に直面しない人もいる。これは各人の運転方法や、個人のせっかちな性格とも関係している。
この問題は誰もが知っていて、理解もしているし、どう防ぐべきかも分かっているのに、なぜ繰り返し起こるのでしょうか？皆さんは怖くないですか？もちろん怖いです！怖くないわけがないでしょう。怖いけれど、現代では移動手段として車が必要です。歩いていては、かえって危険です。どうしてこんなことになってしまったのでしょう？
唯識の変現が人間の生存一切を成す。
車両の外見は鉄で人を包むようなものですが、もし人が歩くようになると、それは人が人としての役割を果たさなくなることであり、多くの問題が発生することになります。皆さんは「新唯識学の理論」をご存知でしょうか？まさにその通りで、自分自身や他人の経験が蓄積されることで、前回の記憶が再生され、再び活用されるのです。
すなわち、人類の「新唯識学理」が再び経験されたのであり、修行のあるなしにかかわらず、すべての衆生はこのようである。これこそが新唯識学理の基本的条件であり、また、すべての人々が同じものを持っているからこそ、この記憶が再生されるのである。この記憶は脳裏にあり、すなわち人間の八識の田畑の中にある。
これらの種子因に対しては、次に基本作用を適用する際にこそ正しく対処できるのであり、では人類の衆生はどうやって吉に趨り凶を避けることができるだろうか？必ずしもそうとは限らない！しかし、日常生活における一つ一つの事柄に対して如実に応用することが、まさに正道なのである。このような因縁のあり方は、実際に遭遇して初めて警戒心を抱くものなのだ。
前回の記憶がまた再生される  人間世界の衆生
潤おうとする生があるがゆえに　  　
かくして因縁もまたここに生ず
時は過客のごとく訪れ、記憶を残す
どの空間も皆、相応しい
前の経験をしっかりと覚えておく必要がある　次回に活用するのは自分自身だ
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、このような「唯識変現」の一切の名相作用を天書に加えて皆の成長を促せば、より大きな収穫があり、修行の有無を区別せず同じである。つまり、世の中のすべての乾坤の衆生がこれを使っているが、名相を知らないだけなのだ。
老僧が今日また参りました。皆さんは何が欲しいですか？先ほど多く用意した果物を持ってきて加持しましょう！皆さんに福徳と智慧を増す機会を与えますよ！これもすべての善き因縁条件の中で増長していくものです。加持が終わった後は、各自少しずつお持ち帰りください。欲張りすぎてはいけませんよ、分かりましたか！必ず各自が払ったものに応じて選択するのです。このような因縁条件は既にあなた方の八識の中に刻み込まれているのです。
無極壇徳  地蔵王菩薩
無極壇の徳なる地蔵王菩薩、登台し来たりて興旺せん
崇心の皆様、こんにちは
共に弘めて徳意を暢んじましょう
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は大道唯識主著仙仏　南屏道済古仏が降臨され、第四回目の著作として、唯識が一切の名相を変現することを分析し、すべての衆生の無明の障礙に対し、修行があるからこそ唯識が必要であり、修行がなければ唯識は必要ないという誤った考えを正されます。
実は、これは人間衆生が持つ無明であり、修行の有無を問わず同じものです。それは自己の矛盾点を解消することであり、また人間衆生はすべての生存の実相法則を知る必要があるからこそ、法則を認識して応用することができ、生存に対してそれを適用する必要があるのです。
また、さまざまな法則が相互につながり合っているのです。そうでなければ、人間は何のために存在するのでしょうか。これはまさに非常に大きな問題です。このたび数回にわたって記してきたことが、皆様に生存の実相がどのようなものであるかを理解していただく一助となり、人間の生存という名相の中に必ずや自らの成長による向上が存在することをおわかりいただければと信じております。
2015年3月11日、11時55分◎＃※   了承。
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　彩鶴寿天古仏
2011年2月11日　辛卯年正月初九日（金）
◆ 跋・讃賀 ◆
南無虚空上徳人天古仏　跋を降して三に勉励す
◆ 本文 ◆
古佛降著第四回　  　唯識變現有名則
南無、衆生は皆如来なり
理心光明、降りて排す
仏は言われた、大道は唯識の書にあり、根と塵が触れ合い現れ開く。
第五回　根塵相触れて  唯識起こり現る
根と塵が触れ合うとき　ただ識が現れ起こる
人類の衆生には一つだけ、外界の根塵と触れ合った後に初めて、この世のすべての「扶塵根と浄色根」という二つのものが動き出し、互いにすべての根塵の作用に接触するようになる。それによって人類の衆生のすべての行動規範が、それぞれの衆生のすべての行動の中に組み込まれることになるのです。
相互に接触した後に初めて、人類衆生の行為動作に現れるものであり、この行為は人類衆生に対して、理解・記憶・再生という作用を持ち、また全ての問題を形成する。世間において認識法則を用いて、前回引用した事柄の記憶を貯蔵するのである。
この時には、前回の記憶体が必要であり、それによって初めて相互融合の機会が生まれます。また、これによって人間界の全ての行為や動作は、前回の応用法則を経た後に、実相作用を理解する経験として形成されるのです。このような経験の蓄積は、人間を含む衆生に備わり、あらゆる因縁が現れる際のよりどころとなるのです。
人類の衆生一人一人には、前回までに蓄積された記憶体があり、それは応用されているのです。
前回の記憶の後には、今回実際に用いられる実相の体もあり、それが次回に応用できる条件として蓄積されます。このような因縁は、誰もがこのような記憶体を持った後、人類の因縁として展開されていくのです。
根塵が触れ合うことによって　初めて唯識の作用が現れる
このような条件において、いかに一切の根と塵が接触した後に応用するかは、すなわち人類衆生の因縁果報を引き出すことになる。この作用には、良し悪し、善悪、美醜、禍福の区別があり、人類衆生の行動の中には、一つの記憶体の再生があるのである。
前回の経験の蓄積を記憶したことで、その中に記憶された前回の事柄への対処が円満であったか否かによって、今回再び現れた事象を区別することができる。これはまさに前回の経験の蓄積を修正できるものであり、このような調整作用を経た後、さらに毎回の行動がどのようなものであったかが加わるのである。
次の応用条件として、もし人類衆生に根と塵が触れ合わなければ、唯識も現れない。これは人類衆生が必ず理解すべき一つの事柄であり、なぜそうなのかといえば、まさに人類衆生はすべて一つの身体を備えているからである。身体は頭と胴体、そして手足による行動を具えている。
また、これらは人類の衆生にとって必ず備えなければならないものであり、さらにそれぞれの人が因縁和合の中で、どう対応すべきか分からなくなる状態が生じます。また、自分に前回の記憶再生があるかどうかが形成され、もしすでに前回の記憶再生があるならば、今回の因縁の行動においても、必ずや見慣れないものではないでしょう。
根と塵が触れ合うとき、初めて唯識の働きが現れ動き出す
また、前回のICマイクロクリスタルの記憶を引き起こし、現代の人類衆生が言うところの前世の記憶再生、この過程は人類衆生に対して、前世の記憶再生があるかどうか、つまり無明の区別があるかどうかであり、もし前世の記憶再生が得られなければ、無明に対する障害となり、一種の心理的圧力となるのです。
もしも毎回の記憶体を通過するたびに、前回の経験が再生され、問題点の改善に応用されるとすれば、毎回通過した後には、また一種の修正の必要性が形成されます。そして人類の衆生は、このような経験の蓄積を経て、第八識の中にすべての因縁体を形成するのです。
この種の来植は、人の第八識の中に貯蔵されると、因に遇って縁となり、縁に遇って果となり、果に遇って報となり、報に遇って償いとなる。このように償いが果たされると、必ず再び因の起動に戻る。人類の衆生はこのように、前回の経験を記憶し、次回の蓄積とし、今回の経験の体として活用するのである。
前回の記憶再生があってこそ、今回の成果が得られるのです。これは外界から引き出される一切の色相を自らに取り入れることです。眼が色を見る中で、第六意識が伝達・応用し、区別せずに耳が聞く音響もまた第六意識に入力されるのです。
根塵相触れて、唯だ識の現起するなり。
この時、口も加わり、すべての因縁によって植え付けられたものが動き始めます。これが「舌が現れる」ことで、多くの味を味わうことになるのです。また、鼻が香りを嗅ぎ、それが嗅覚に入ると、鼻が香りや臭いを嗅ぐ動作が現れます。これらの動作に対して、一体どうなるのでしょうか？
また、手を動かして現前させなければならず、そうして初めて「身体の動きと触覚」に対して現前させ、応用することができます。これらすべてを備えていると、一つひとつが六識の中に伝達されます。このような条件は、人類の衆生にとって、すべての現前の中で、それぞれの動作の過程がどのようなものであるかを知るためにあるのです。
この時、手と足を同時に使うようになり、また身体の動きに伴う触覚は、感覚神経系の中の身体機能を引き出すことになります。外界のすべての縁起する存在に対して、人間衆生の生存法則を借りて、自らの行動や動作に相互接触が生じた後、一体どのようになるのでしょうか。
再び来るものは、第六意識の中に入って受容の過程を経ます。また、これらの行為や動作について、もし第六意識の中に入って相互に接触しなければ、現行を起こすこともありません。さらに、どのようにして自分が生存の依存の中で、「根塵相触」の後に初めて現行が起こることを必ず理解する必要があるのでしょうか。
根塵はなぜ相触れるのか
もし起現行がなければ、つまり人間衆生に対する起動もなく、第八意識の種子因が外へと押し出されることもない。すべての過去の経験の蓄積、これこそが人間衆生の記憶体であり、ICマイクロチップの記憶種子因でもある。これがすべての生存に関するあらゆる因縁を引き起こすのである。
人類の衆生は生存の過程において、すべての外在から現れることを理解しなければならず、そうして初めて人間の行為動作に入ることができます。つまり、現行のすべての行為動作が生じるのです。したがって、誰もが皆そうなのです。もし自分の行為動作がどのようなものであるかを理解したいのであれば、必ず心を込めて自分自身を検証しなければなりません。
また、人類の衆生が「根と塵」にどのように触れるかを理解する必要があります。これは、根と塵が互いに触れ合った後、すべての因縁が生じるようになり、人類の衆生の生存の方向性は、日常生活における毎日の行動に加えて、個人の「心の意識」によって形成されるものです。
因縁果報によって植え付けられた主導的な作用は、人間の思想観念の中に存在し、それによって因縁の良し悪しを区別する判断が生まれました。まさに人類衆生が、比較的良好で美しいものを好む性質を持つため、衆生の欲望もこのように形成されているのです。そして、すべての外見が粗悪で不良な物品を好まないのです。
根と塵は必ず触れ合ってこそ、初めて行動が生じる。
形成された好き嫌いの分別に対して、人間の衆生は自らに影響を与える思想観念を持ち、またすべての良き美しきものに対して愛着を抱くようになる。しかしながら、醜悪で不良なる物質から離れることはできず、やがて分別心が生じることとなる。
どういうわけか、自分が好まない物質は、いつまでも離れずについて回り、しかも自分が嫌うものばかりで、逃れようにも逃れられない。一方、自分が好むものはなかなか訪れず、嫌いなものばかりが頻繁に備わってしまう。まさにどうしようもないことこの上ない。
人類の衆生は、このようなやむを得ない状況の中で、必ず一生を生きることになります。これは自分が望んだことではなく、仕方なく次善の策として生きるのです。すると、六根と六塵が接触するすべての事柄に対しても、やむを得ないと感じながらも事実を変えることができず、心から納得せず、情けなくも不本意な気持ちを抱えたまま、すべてを受け入れることになります。
この人類衆生の「扶塵根」、つまり外界の一切の色相に対する認識、また「浄色根」、つまり人体の各外部器官に対する認識は、まさに自らが理解している一切を生活の中に取り入れることと同様であり、これは人類衆生の生存の方向性であり、また完全とは言い難い側面もある。
根塵相触れて万事起現す
どのように心の転換を図るか？それは人類衆生の生存に対して、より積極的な見方を持つことであり、やむを得ない状況の中で心ならずも仕方なく生きているという思いではなく、皆さんもそうではないかと考えてみてください。時には自分がすべてを求めると、かえって満たされず、求めない時には、なぜか大量にやってくるものです。
それはあまりにもどうしようもない生存であり、自らの福徳がどれほどあるかを知る必要がある。他人の福徳を羨む必要はなく、なぜなら誰もが持つ福徳はこれだけだからだ。より良いものを望んでも、それはなかなか訪れず、訪れるものは自分が望まないものばかり。仕方なくそれを受け入れるしかないのである。
冗談を言う前に、まず自分で鏡を見てみてください！自分自身も他人に好かれない存在ではないでしょうか？大半の人はそうだと思います。それゆえに、すべての衆生は生存において「扶塵根と浄色根」を活用し、心の持ちようを変えて生きているのです。
根塵が相互に触れ合うことによって、一切の縁起が生じる。
これが世の中、自分の思い通りになることがあまりないということであり、自分自身の条件もそれほど良くないので、仕方なくやるしかないのです！人生は思い通りにならないことが十中八九、思い通りになるのは一二に過ぎません。これが世の中の実相であり、ほとんどの人間はこのようなものです。
他人のありようをあまり気にする必要はない。自分を振り返れば、自分が他人に好まれない存在ではないかと分かる。他人を自分が好まないと言えるだろうか？それは難しい！人間の生き方とはそういうものだと信じ、日々好ましくないと感じることも、喜びの心で受け入れていこう！
得られたものが実に多いことに感謝し、考えてみれば素晴らしい考えが目の前に現れます。大切にしましょう！自分が持っているものすべてを、大きな喜びの心で、毎日受け取るものにどう向き合うか？そうしたいですか？心の持ちようを変えればすべてが変わります。しっかり努力しましょう！
心念意識の触れるところ
根と塵は相依い、また相助ける
人類の衆生はそれぞれ独自にありながら　ただ心の念いを転じて顧みる
人生かくの如し何ぞ計較せん

一生すべてこれ因縁の選びしもの
もし思いのままになればどれほどよいか
心を転じて喜びのままに逍遥せん
この偈は、人類の衆生が互いに励まし合い、根と塵が触れ合い、唯識が現れることに対して、今この瞬間に大きな変化をもたらし、現在のすべてを変えることができることを示しています。もし人類の衆生が自らの欲望を変えることができなければ、往々にして自分の望み通りに達成することはできません。また、自分自身を振り返ってみてください。自分はどれほど優れているでしょうか？まさに他人が好まない変わり者であり、考え方を変えれば、大きな縁と心からの納得が生まれるのです。
無極の白蓮華  観世音菩薩
無極の白蓮に座す観音菩薩、台に登りて喜びて相親しむ
崇心の諸聖賢は生を好み、皆が和やかに楽しんで天の音を迎える。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈　南無虚空理心光明如来仏が降臨され、大道唯識第五回を著作され、「根塵相触、唯識起現」を解き明かし、皆様にご理解いただけるよう解説されます。人間界にどうしてこれほど多くのやむを得ないことが存在するのかを。
自分が相手を嫌っているように、自分も完全ではないので、自分も他人から好かれない変わり者であり、さらには他人から嫌われるすべてのものであるなら、どうして自分を反省できようか？実は少し内省すればすべてが分かるので、やむを得ず受け入れよう！世の中のすべての不足や欠点を修正し、変えていこう！それが真実の姿なのである。
2015年3月11日 11時57分 ◎＃※   了解。
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　彩花麗天古仏
2011年2月15日　辛卯年正月十三日（火）
◆ 旨 ◆
大道 唯識 完書 繳旨
◆ 本文 ◆
古佛降著第四回　  　唯識變現有名則
南無虚空大世界　御伝徳意古仏推
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　彩虹耀天古仏
2011年2月18日　辛卯年正月十六日（金曜日）
大道唯識第六回　  　實相法則人類為
第六回　実相の法則  人類唯識
実相の法則は人類の唯識なり
有情なる衆生は、人間界に存在する以前から、すでに実相界に本来存在しており、多くは自らが生まれる前から存在しています。この実相界に対して言えば、それは古くから存在する実相体であり、すべての衆生はそれぞれ、輪廻を繰り返すごとに人道世界へと入ってくるのです。
このようなかねてより存在する実相界は、さらに有情衆生によってすべての行為の基準が行われ、人間衆生においては自己によって、すべての因縁和合の継続を成就し、生存の方向性の必要性を持つものである。知り得ることは、人間衆生が生まれる以前に、この実相世界はすでに存在していたということである。
また、自分がこの世界に入ると、多くの無形の障壁が生じ、この種の問題点がどこにあるのかを知ることもできません。まさにこのような因縁によって学び成長し、また、あらゆる衆生は、宗教的修行に入ったかどうかに関わらず、すべてこのようなものです。
このような問題点は、自分が生まれる前からすでに存在していたものであり、
いずれもこのようなものであり、また人間の寿命は百年ほどに過ぎず、多くは五十歳にも満たない寿命しかない。これは百歳の老人とどう比べられようか？ただ生命の長短によって、この世に生きているだけなのだ！
実相の法則は、人間の唯識によってなされる。
人類の衆生が生存に依存するのは、様々な業種から成り立っており、それによって食物連鎖と事物連鎖が結びついています。このような自らの福徳と経営方法は、すべて通貨連鎖の充足に影響を及ぼします。では、人類の衆生はこのような生存過程において、いかにして自らをより良く向上させ、超越させることができるのでしょうか。
修めるものと修めないものの区別もなく、宗教に入る者と入らない者も同じである。なぜなら、人間の生存のあり方は、他の有情衆生がそれぞれの業によって営み、食物連鎖の構成にも影響を与えるため、生存の安楽を満たすには多大な努力が必要だからである。
また、様々な業種が繁栄しているからこそ、自己の存在価値が生まれるのであり、これは人類が最も理解しやすい一部分に過ぎない。もし人類が実相界において生存するならば、あらゆる種類の業種が存在し、生存の方向性において必要性を持ち、日常の生活物資を提供しなければならない。
このような必然性があるからこそ、実相界におけるあらゆる存在の諸業種が通貨連鎖の組み合わせを備えるようになるのです。まさに諸業種が通貨連鎖の組み合わせを備えているからこそ、皆さんにお尋ねしますが、もし諸業種が存在しなければ、どうして人類が必要とする生活必需品を向上させられるでしょうか？できませんよね！
なぜ実相の法則に人間の唯識があるのか
したがって、人類の衆生は、様々な職業を通じて物品を創造し、人々が生活に必要なあらゆる物品を購入できるように提供することで、自らの生活に安らぎと快適さをもたらす空間を与えることができるのです。これこそが、あらゆる職業の実相の働きであり、また生存のためのあらゆる発明創造は、人類の衆生から生まれてくるものなのです。
すべての生活必需品について言えば、これらは存在界において必要不可欠なものであり、これらに依存しなければ、より大きな安楽を得ることはできず、多くの品物も不足してしまう。高い品質を維持する必要性があるならば、さらに皆さんに問いたい。生活の中ですでにすべての電器製品を備えているだろうか？また、移動手段として車も所有しているだろうか？
信じてください！すべての衆生の生きる方向は、実相界において生きることにあるのです。しかも、すでに他の後進国の生活様式を超越しており、まさに高等な生活実相空間へと歩みを進めています。さらに考えてみてください、過去30年から50年ほどの間に、これらの物は存在していたでしょうか？まったく存在していなかったのです！
また、なぜ現代の人類衆生は、皆このような条件を備えているのでしょうか？天に対して申し上げれば、人類衆生は中国や欧米諸国では、比較的このような享受ができるかもしれませんが、他の後進国では、このような享受はありません。さらに言えば、皆の生存における福徳は、果たして以前よりもはるかに向上しているのでしょうか？
実相の法則－人類の唯識作用
この実相法則が人間界に現れることは、まさに人類衆生を依り所としている。この生存法則の下で、人類衆生は必ずしもこのような享受を必要とするだろうか？必ずしもそうではない！しかし、有情衆生に対しては、すでに生活の快適さと利便性が広く普及し、人々もすっかり慣れてしまったものなのだ。
したがって、人類の衆生にとっては、生活の安楽さを向上させる必要性があります。皆がこの生活向上志向を持つことで、言えることは：この実相世界は有情衆生にとって、向上し成長し超越するものなのか？その通りであるべきです。ゆえに生存の志向も、必然的にこのような作用を持つことになるのです。
また、人道の実相世界の法則として、すべては自分自身が人間生活の中に取り入れることによって初めて、生存への志向と行動が生まれ、生活全般の安らぎが得られ、心の安らぎへの欲求も生じるのです。では、どのようにして心の安らぎへの欲求の中で、自己を向上させ、成長させ、超越させることができるのでしょうか。
生活が安楽になったからといって、心の安らぎを向上させ、それを超越することができず、ただ一般の衆生の行動をなぞっているだけでは、この一生が過ぎ去った後、来世も同じような条件に恵まれるでしょうか？必ずしもそうとは限りません。まさに人間の衆生はこの時空において、必然性を帯びているのです。
人間の衆生は唯識の思惟にあり
それゆえに、人間の心の安らぎと日常生活の向上は互いに補い合うものであり、これこそが向上と超越の契機となるのです。自分自身を成長させ高みへと導くことができ、この世にただ一度の人生を無為に過ごし、苦しみと無力感に埋もれてしまうことにはならないのです。
人類の衆生世界は、相互に対応し合う制約の中にあり、いかなる衆生もこのような障壁から逃れることはできません。まさに心の障壁があるからこそ、人類の衆生には「修養、調整、向上」が必要なのです。これこそが、人間世界を変革するための根本的な理由なのです。
有情なる衆生にとって言えば、これは一種の生存志向における行為であり、またこのような行為があるからこそ、人類が他の種よりも優れている原因が現れるのである。これは人間界にとって言えば、まさに実相世界が持つ生活法則であり、人類に創造と進化の余地を与えているのである。
実相世界とは唯識世間のことである
もし生活の法則がなければ、どうして高品質な生活の安らぎを向上させることができようか。まさに人類の衆生が宗教に入った後において、生存のすべてが空幻で虚しい世界であるとは言えず、これもまた虚ろな人生ではなく、すべては実実際際の生存の方向性の中で、自らの生活と良くない習慣性を修正することに至るのである。
人々は次第に物質的な生活の安楽を向上させる一方で、心の安らぎを整える必要性を欠いています。では、いかにして自らをより大きく成長させることができるでしょうか？まさにそれは、人間を含むすべての衆生が、繰り返し輪廻を重ねるたびに、なお向上して成長することができない中にあって、必ずや必要とされることなのです。
心の安らぎを得るためには、実相の如くに成長することが求められます。この実相界を「空幻の人生」と呼び、ただの滄海の一粟に過ぎないと見なすべきではありません。天地や宇宙の恒常的な統計においてはそのように見えるかもしれませんが、それは紛れもない真実であり、人類衆生が今ここに存在している現実の世界なのです。
実相世界は唯心によって認識される必然性
皆さんにお尋ねしますが、今この瞬間、一体誰が執筆し、誰が生活し、誰が向上しているのでしょうか？すべて自分自身なのです！他人が代わることはできません。人類衆生は生きる現実の世界にあり、またそれぞれの時空における縁起もすべて正しく、ありのままの性質なのです。そうでなければ、どうして心霊を向上させ超越することができるでしょうか？これもまた荒唐無稽な話でしょうか？
この心の向上を、ただ人間世界の一過客に過ぎないと見なすべきではありません。まさにこのような過客が多すぎるからこそ、自ら真に向上し超越することができるのです。さもなければ、宗教が説くすべては借り物に過ぎず、その場限りのものとなってしまいます。それでは、向上し超越することはあまりにも難しくなってしまうでしょう。
このように苦労して修行を積み重ねる必要もなく、ただ生活に順応して安楽に過ごせばよいのです。次にまた何度も何度も輪廻を繰り返すことを、皆さんは望みますか？誰も望まないでしょう。これは真に修行を積んで向上を目指す者に向けたものであり、一般の有情衆生だけに向けたものではありません。真実の性質についての概念を持つことが必要であり、それが正しい道なのです。
実相法界の人類は　  　それぞれの過程かくの如く推す
生きんがためにこそ　かくのごとく行う
人類世界を高めんと　自らの向上を成し遂げる
一歩一歩確かな足跡を　その一歩一歩がこの人生を確かなものにする
この偈は、すべての有情衆生が互いに励まし合うものであり、あらゆる生存の在り方に通じる。なぜなら人間の衆生は霊相界ではなく、実相界において生きているからである。ゆえに実相界における一切の作用は、すべて自らが感じ取るものであり、必ずや歿度を待って初めて霊相界に入るのである。これはまことにもって真実である。さて、霊相界は一切の実相を知り得るであろうか？ この問いは、縁ある時に再び説き明かすこととしよう。
無極元聖  関聖帝君
無極より因縁生を頒示し
元聖関帝、登台して成る
御傳天尊降り来たりて臨む　　古佛の名、此の証と作す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院、学院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈の南無虚空御伝徳意古仏－虚空御伝天尊が降臨され、大道唯識第六回を著作されました。実相世界における人類の唯識を分析し、思考構築の転換についてご提供くださいます。
これは人類の衆生がこのような過程において、新唯識学の理論を精進して理解し、自己の成長と超越を実現できることを意味します。また、本宗脈は「新唯識学の理論」をさらに精微に開示し、すべての人類衆生が直面する向上できない障害を分析し、問題点をいかに解消するかが正道であるとしています。
2015年3月11日11時58分、了解。
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　霊竅敏天古仏
2011年2月25日　辛卯年正月廿三日（金）
大道唯識第六回　  　實相法則人類為
南無有情の衆生来たり　  　虚空世界は明らかにし難し
筆を下ろせば吉祥古仏降臨す　法則を認識して人世に相応す
第七回　認識の法則  唯識の作用
法則を認識するは 唯識の作用なり
有情なる衆生は、この世において多くの無明の障害に直面します。自らが存在する全ての生存に関する名相において、その作用と様々な応用のあり方を認識することが必要です。それによって、一切の実相の法則を認識の法則へと導き、生存の方向性を定める名相を徹底的に理解し、あらゆるものを応用できるようになるのです。
また、一切の作為とはいかにあるべきか。これは人類衆生がこの時空において、すでに存在界の実相があるがゆえに、今必要とされる認識過程を明らかに理解し、また認識を経た後に、日常生活に応用できるようになることである。これこそが「新唯識学理諦」の重要な機能性である。
したがって、すべての人類衆生はこのような認識を経なければ、現在の世界に存在することができません。そうでなければ、人類衆生は日常で使用するすべての物品がまさに自分が活用できるものであることを知らず、その名称や概念さえ理解できないのに、どうして自らの生存の方向性を利益することができるでしょうか？あまりにも難しいことです。
これは人間の生活をよりどころとするものであり、もし人間の生活がなければ、どうして
すべての器具をどのように応用するのでしょうか？一つひとつの器具にはそれぞれ名称があり、機能や役割があります。これは生存の方向性において、基本的な動作が必要であるということです。もしこの基本的な動作がなければ、どうして応用することができるでしょうか？
法則を認識する 唯識の作用条件
有情なる衆生が生存の中で、日常生活の道具に対して、その名称や機能を理解することができなければ、どうして自らが利益を得ることができるだろうか。したがって、法則を認識するのは日常生活におけるあらゆる作用を通じて理解するものであり、法則を応用する必要性があるのである。
また、認識法則についても理解し、日常生活におけるすべての器具の応用を明らかにしました。これは人類の衆生に対して、このような時空の因縁条件の中で、必ず知っておくべき一つの事柄であり、そうでなければ日常生活の器具をありのままに通徹することが難しくなります。なぜなら、これは人類の衆生にとって最も基本的な応用法則だからです。
生活の中で、すべての享受と非享受を区別するようになります。人類の衆生は相互に群れをなす種であり、比較的文明的な社会に生きていることを理解すべきです。このような人類の群居社会には、多くの文明的な道具が実際に応用され、利益をもたらしており、まさに有情なる人類衆生を利益しているのです。
あたかも皆様が今お持ちの天耳通は、まさに現代の携帯電話のようなものです。誰もが少なくとも一台、あるいは複数台持っていると言えるでしょう。このような携帯電話は通信機器であり、かつての人類衆生にとっては到底見ることのできなかったものですが、現代ではさらに、重厚だった携帯電話が次第に非常に新しく軽便なものへと変化しています。
法則を認識し、上手に活用すれば、利益を得ることができます。
しかも機能は非常に先進的で、このようにさらに数年経つと、現在の非常に先進的な携帯電話もまた時代遅れになり、直接自分自身の生存に大いに役立つものへと変わりました。このように人類衆生の携帯電話は日進月歩で進化し続け、携帯電話を理解する上で、過去には十分に備えることができなかったこれらの機器を知るようになりました。
今、最新式のスマートフォンがあったとしても、もしこれを未開発国の人々に渡せば、多くの人は使い方がわからず、この平たいものが何なのかも理解できないでしょう。これが人間の認識の法則であり、その機能や役割はどうなっているのでしょうか？発展途上国では、まさにこのような状況で使われていると信じています。
有情なる衆生は皆、このような機能の効用を比較的よく認識することができ、また現代の世代に対して応用機能を生み出し、直接に認識条件の方法を用いて使用することができます。もしこのような器具の使用方法を経なければ、他人に渡しても使うことができず、すべて必ずありのままに知らなければなりません。その機能の応用はどのようなものか？
すなわち知識や概念を理解することで、次に遭遇した際には応用経験が生まれます。まさにこのような機能の蓄積こそが、人類にとって最も基本的な通信機器に対する文明なのです。皆さんにお尋ねしますが、新しい機器が登場したとき、誰もがすぐに使いこなせるでしょうか？必ずしもそうとは限りません。
人間の持つすべての器物には、それぞれ名称と形状がある。
教えを受ければすぐに使えるようになります。このように皆さんにお伝えしたいのです：過去の様々な制約は、現代では徐々にこの無明の障害がなくなり、文明の創造と進歩が可能になります。これは科学技術の時代が知る実相の世界であり、あらゆる器具の応用を理解した後、利益を受けるのは果たして誰でしょうか？
このような条件とは、すなわち自らが利益を得たということか。これは新たな唯識学理の必要性であり、またあらゆる実相界の作為を経て、さらに認識が器具に対して存在することを認め、応用機能の効果をもたらした。このように利益を得るのはまさに自分自身であり、また人類衆生がこの時空における科学技術文明の中で得るものと信じている。
あらゆる器具にはそれぞれ異なる名称と、異なる機能・作用があります。もしそれを使用すれば、大きな利益を得ることができます。さらに言えば、現代のコンピュータについて、皆さんはおそらく理解できるでしょう？このようにコンピュータは単なる名称に過ぎません。ここでの重要な点は、応用できることが最大の違いであり、また各人が応用する方法によって大きな違いが生じるということです。
これは、人間の衆生がこのような時空の中でコンピュータを利用するが、「コンピュータ全体」の各部分の名称を必ずしも知っているわけではなく、単に一つのコンピュータが組み合わさって使われているだけだと理解していることについてである。また、それぞれの衆生がコンピュータの利用を通じて、自ら利益を得ることができるかどうかについても問うている。
コンピュータの応用は人類の衆生に利益をもたらす
もし自分自身を益することができないならば、コンピュータは自分にとって単なる道具に過ぎず、コンピュータから成長の恩恵を受けたり豊富な知識経験を得ることは非常に難しい。また、現代のコンピュータはすでに至るところに普及しており、すべての国と国の距離を縮めている。
国境の影響を一切受けずに越えられるためには、コンピュータが必要であり、豊富な資源や食糧を大量に貯蔵できるのです。皆さんにお尋ねしますが、もし現代において知識や知恵がどこから得られるかを知らなければ、一体どこから手に入れるのでしょうか？まさにメディアとコンピュータからです！実際、ほとんどの人はコンピュータを通じて得ているのです。
これは現代の人間と時代遅れの人間を区別する基準であり、この時空における人類の衆生に対して言えることです。自分にこのようなコンピューター知識の応用力があるかどうかを理解することで、同時に生存の中で、過去には知り得なかった多くの知識と知恵を自らが得られるようになるのです。
これは現代の世代に向けたもので、有情衆生が21世紀に成長するためには、自らにより大きな利益をもたらすことが必要であり、まさに科学技術文明の成長に自らを導くことです。人類の衆生が生存するための方向性があり、また法則を認識することで、現代のコンピュータの役割がどのようなものかを理解できるようになるのです。
智慧の応用 新唯識学理との関係について
もし自ら体験しなければ、どうしてコンピュータの中に、あまりにも多くの人間の知識や知恵が及ばない応用範囲があることを理解できようか。それをいかにうまく活用するかは、まさに別の異なる恩恵がある。したがって、法則を理解する中で、必ずやコンピュータの実相法則が必要であり、それを自ら応用した後にどうなるかを経なければならない。
経験の蓄積による恩恵、そしてありのままの成長による恩恵が形成され、これらは人類衆生がこのような時空において最も主要なよりどころとなり、自らの生存利益の原動力ともなっています。もし皆が恩恵を受けることができれば、未来においてさらに新たな器具を開発することができるでしょう。
また、人類衆生の思想構築を向上させるために創造されたものは、同時に多くの新たな科学技術文明の道具を提供し、皆がより大きな成長と利益を得られるようにします。これは人類衆生の生存において当然のことであり、また非常に大きな効用があります。これが一つの認識法則であり、必要な応用効果を持ち、また必ず利益をもたらすものです。
一切の器具を明晰にせよ
その功用效益は是の如く宜し
認識する所用の大功能　  　就いて受益するは自己なり
唯識の作用が理を司り来たりて　人世の一切ことごとく意の如し
科学技術文明は道具を造り　生存法則の真実の意味
この偈は、すべての有情の衆生が互いに励まし合うものです。世の中のあらゆる存在と作用において、認識の法則を通じて経験の応用プロセスが開かれ、それによって真実の利益を得ることができます。また、現代の世の中の科学技術は、まさに日に千里、日に万里と飛躍的に進歩しています。
無極浄瓶　白衣観世音菩薩
無極の浄瓶白衣来たる　　観音菩薩賢きに会す
大道はただ識をもって理を主とし、人世の器具は大道によって開かれる。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈の南無虚空落筆吉祥古仏－虚空落筆天尊が降臨され、大道唯識第七回を著作されました。認識法則における唯識の機能を、人類がより理解しやすい機能作用として、皆様の認識のために分析して明らかにされます。
これは自らの身近なところから実際の行動を起こすことに由来し、このようなことは人間社会に大いに役立ちます。もし一つ一つの道具の名称と機能がどのようなものかを理解できれば、これらを応用することで大きな利益を得ることができ、また人間社会が向上し成長することを実質的に支え、有情の衆生を利益することにもなります。
2015年3月11日11時59分◎＃※   了解；
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　霊通智天古仏
2011年3月1日　辛卯年正月二十七日（火）
大道唯識第六回　  　實相法則人類為
南無虚空に伝わる人間界　金筆の智慧は徳浅からず
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　霊意大天古仏
2011年3月4日　辛卯年正月三十日（金）
古佛降著第八回　  　智慧起現道德沿
第八回　経験の法則  智慧が現れる
経験則 智慧現前す
人類の衆生は生存と同時に経験法則を持ち、このような唯識の観念の中で、智慧の顕現が引き起こされます。この条件は認識法則を理解した後、つまり経験法則の再現であり、また経験法則が智慧に顕現する形を成します。では、どのように応用すべきでしょうか？
また一つの機能と効果として、人類衆生の経験法則による再生を向上させるためには、必ずや智慧を起こし現すと同時に、経験法則を相互に運用し、知識を再現するということが必要です。そうすることで、善良で良い応用が生まれます。このような因縁条件こそが、すなわち智慧なのです。
人道世界において、このような智慧の現れはあるでしょうか？必ずや人類衆生が大きく向上できるかどうかを見る必要があります。さもなければ、ただ経験則の中に留まり、応用も難しく、より大きな向上と超越を成し遂げることはできません。同時に、人類衆生の生存志向を日常生活の中に投じてしまうことになります。
知識を応用する際には、まさに知識と経験を合わせてこそ、様々な
起現、またどうやって知識と経験を体用させるのか？必ず知る必要があるのは、智慧に対して具足しているかどうかである。もし智慧を具足することができなければ、ただ日常生活の中のすべてを導きとするだけであり、さらに上へと向上していくことは難しい。
経験法則はまた知識の応用でもある
そして経験や日常生活の知識を統合する段階に入ると、人間の生存が依存するものにおいて、大きな相補関係が生じます。このように言えるでしょう：一つの事柄は、人類の知識経験を積み重ね、次回再び活用する条件を生み出す。言い換えれば、このような条件は人間社会において比較的欠如していると言えます。
前回の経験則から来るものであり、主要条件として引き合いに出され、また相互に補完し合っている。人類衆生にとっては、前回の経験則の中で、今回の知識として具現化され、また今回の応用機能作用に対しては、知識によって応用され、経験の蓄積に加えられるのである。
もし利益を得ることができるならば、それは智慧が示すものであり、まさに非常に機能的な効果を持つものです。もし利益を得ることができないとしても、それは単に前回の経験を修正・改善して成長するに過ぎません。これは知識によって理解するものであり、人類の生存の方向性において、このようにあるべきなのです。
もし知識の運用がなければ、つまり経験の再生がなくなり、さらに人類衆生が智慧の恩恵を受けようとするなら、大きな障害が生じるでしょう。このように人類衆生は、この種の前回の経験再生を応用することによって、知識の蓄積と智慧の成長において、必ずや真実のままに恩恵を受ける必要があるのです。
経験則の適用
すなわち、以前の経験から得たことを今回の状況に応用し、知識によって理解できる生存の方向性は、必ず大きな助けとなるはずです。しかし、一部の衆生は何度繰り返しても容易に変わることができず、今回の応用が不十分であったのはいかなる理由によるのでしょうか。
もし目色が利くと言えば、人間が遭遇するあらゆる出来事に対し、最初は少し不慣れであっても、二度目以降には既に一度目の熟練があり、自身の不足や欠点を改め、誤りを修正する。次に同じ状況に遭遇した時には、これらの経験が積み重なっていることになる。
知識の応用において、人類が一つの過ちを繰り返し、不足や欠陥を恐れないのはなぜでしょうか。それは、自分自身の不足を変えることができさえすれば、次に同じ状況に遭遇した時に、自分にとって正しい行動を取ることができるからです。同じ過ちや不足、欠陥を繰り返すのではなく、常に改善を続けることができるのです。
人々の世界は、改めて変革を加える必要があります。人類の衆生は過去の経験の蓄積から来ており、知識を十分に備えた上で応用することで、利益を受けるか否かの区別が生まれます。すなわち、智慧の増長を応用することこそが、人類の衆生に対する教育と教化であり、既に相当な基礎が築かれているからこそ、智慧の増長を応用できるのです。
人生における経験と成長の必然性
したがって、人類の衆生は、このように経験を蓄積して再現し、同時に知識を積み重ねていくのです。これは「ICマイクロチップ」を基本的な機能効果としており、「ICマイクロチップ」の記憶機能を持つことで、自らが生存の方向性の中で、まさにこのように自らをより超越的に向上させていくのです。
そうでなければ、人類の衆生の頭脳の思考は、もしあまりにも聡明すぎると、どうやって彼らを善良な方向へと導くことができるでしょうか。悪しき方向へと進ませず、自分自身を業を造る渦中に陥らせないようにするには、人類の衆生が創造的に成長するか、それとも沈淪して墜ちるかは、すべて自分自身の選択にかかっているのです。
これは人類の衆生が、この時空において必ず持たなければならない認識であり、またこのような時空のすべてを認識したからこそ、人類の衆生に対してどうあるべきか？過去には出会えなかった殊勝な因縁を備えることができるのか？必ずしもそうとは限らない！しかし現在においては、あらゆる教えが一斉に花開いたからこそ、人類の衆生にはあまりにも多くの選択肢が生まれたのである。
このように人類の衆生は、世の中に入って行く中で、自分自身の未来がどうなるかを全く知らないのです。また、人類の衆生の幸福と災難は、常に人類の衆生すべての生存と結びついています。これは、近年ますます多くの幸福と災難が次々と発生することを理解する必要があるのです。
経験則と知恵の応用
あたかも福が多いように、災いもまた必ず多くなる。人類衆生にとっては、これを取り除くのは非常に難しい。このような災いは多くの制約をもたらすと同時に、人類衆生に多くの福をもたらすものであり、現在において一つ一つ現れてくる。したがって、これは人類衆生にとってまた一つの成長と向上であり、また殺傷力による破壊でもある。
また、なぜこのようになるのでしょうか。この時空の中で、もし太陽と月、陰と陽が互いに対応し合わなければ、人類衆生はとっくに超越していたはずです。このように考えてみると、現在のこの状況を理解することができるでしょうか。これは人類衆生の生存の方向性であり、いかなる時空の因縁の中にあっても、同じように当てはまるのです。
少しでも智慧のある方なら、今日仙仏が著作をなさった目的が何であるかお分かりになるでしょう。同じ一つの経験則であり、また人類衆生の知識を応用して、利益を得た後に初めて智慧となるのです。そうでなければ、人類衆生が利益を受けない時には、「良き智慧と悪しき智慧」に区別されてしまうのです。
人生はすべて過去の経験則を用いる
また、このような限界のある人間世界に、果たしてどのような衆生が長く留まりたいと思うだろうか？必ずしもそうではない！少しでも警戒心があれば、自分が置かれた限界の中で、情愛ある人間の衆生により大きな時空と縁が与えられ、自らを向上させる機会があることを理解するはずだ。
福祉が良好であると同時に、下降の渦に巻き込まれるような作用であってはなりません。もしそうであるなら、上天はなぜこれほど多くの福祉を下し、人類衆生に与える必要があるでしょうか。これはまさに上天の既定の方針であり、下化と成長の基準点として、有情衆生を利益するものなのです。
まさに人類の衆生が持つ全ての生存志向によって、あらゆる知識の応用を帰納し、経験の蓄積となす。ありのままに自らの成長に益し、これこそ智慧の増長である。有情衆生は人為的要因に対し、必ずやありのままに投入し、一切の行為動作の後に初めて、基本的な作為が生じるのである。
経験則の智慧が現れる
同時に、生存志向の中で自分自身に対してより大きな成長と利益をもたらすこともできます。もしただ生きるために生きるだけなら、なぜ人類の衆生はこれほど多く地冥星の空間に生まれ変わって存在する必要があるのでしょうか？そうではなく、まさに誰もが向上し、超越する機会を持ち、利益を得られるようにするためなのです。
このように智慧が増長し、さらに応用されることこそが、人類衆生が経験則として認識するすべての事柄であり、成長の拠り所となるものであって、単に生存のための生活に終始するものではなく、また「下意識」を形成し、輪廻の種子因となるだけのものではない。そうなれば、仙仏の先生方はいつも冷や汗をかかれることになるでしょう。
人類の衆生が向上して高まることのできない障害を感じ知ることは、まさにこのようにどうしようもなく生きていることである。崇心宗脈に対しては、人類の衆生のすべての未来の災難を解消し、向上して高まることのできない障害を消し去ることを担うべきであり、それによって今日の著作『大道唯識』の基本構造が生まれたのである。
殊勝なる因縁は比べるものなし　人間の生活もまた奇なり
なぜ上昇できないのか　それは理由が多すぎるからだ
経験則は誰にでもあるが　知識の成長には修練が必要だ
功徳を積んだ後に智慧が現れ　善を積み重ねて成就を成す
この偈は、すべての有情衆生と共に励まし合うものである。世の中の経験則は、日常生活における知識の働きから生まれ、また経験則の応用を積み重ねることでこそ、智慧はより大きく成長する。まさに自らが把握し、掌握できる成長と向上なのである。
無極浄瓶天衣観世音菩薩
無極浄瓶観世音　　天衣菩薩有情を会す
金筆智慧古佛降り来たり　大道唯識天に還るを導く
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈の南無虚空金筆智慧古仏－虚空金筆開智天尊が降臨され、大道唯識第八回を著作されました。一つの経験則の智慧を応用して示現し、人類衆生の生存の方向性を分析するものであり、まさにこのようなものであります。
また、人間の衆生に対しては、このような機能と効果があるからこそ、自らの知識を応用し、経験を積み重ねて成長することで、智慧が増すのです。このように人間の世に対して、もしただひたすらにこの世に執着し続けるならば、それは来世に再び輪廻する種子の因となり、これを超越することは極めて難しく、どうしようもなく繰り返しこの世に沈淪することになります。
2015年3月11日12時00分◎＃※   了解；
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　霊会道天古仏
2011年3月11日　辛卯年二月七日（金）
古佛降著第八回　  　智慧起現道德沿
南無仏教開機縁　虚空銀筆大道顕
第九回　古仏の著作　　応用法則衆生篇
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空　上徳人天古仏
2011年3月15日　辛卯年二月十一日（火）
第九回  應用法則  眾生受益
法則を応用すれば　衆生は利益を受ける
人類の衆生は、生存の機縁によって人道世界に入り、潤いある生を営むものである。このような条件は人類の衆生にとって、快適で便利な普遍性を持つ。したがって、人為的要因によって形成される生存の方向性は、他の種の衆生よりもより優れたものとなる。これは、人類の衆生がこの生存過程においてどのような在り方をするかということである。
このような行動が必要であると同時に、人類衆生を生存志向へと導きながら、さらに向上超越を促すものでもあります。まさに人類衆生がこのような時空の機縁の中で、より大きな成就を得て、より大きな使命を担い、自らの成長と超越を実現するためには、真実に基づいた向上が必要なのです。
それは単に生存の法則――衣食住行育楽――を適用するだけではなく、自分自身を向上させることは極めて難しい。もしこのような状態なら、このような人間の衆生は来世に再び輪廻する種子因に過ぎず、根本的にさらに超越的な向上はできず、ただ繰り返し輪廻するだけである。
このような条件の中では、もはや天の恩恵ではなく、ただの前回の記録に過ぎないのです。
再生を思い起こすことは、まさに経験の蓄積であり、それがあってこそ後に応用して利益を得ることができる。だから人類の衆生もこのような条件の中で、過去の経験則を応用し、自らが再び良き利益を得られるようにするのである。
応用法則　人類衆生皆な受益す
すべての有情衆生に対して同じ条件のもと、また人類衆生が前回の経験を応用した後、前回に達成した経験の蓄積は、自らが利益を受けるためのものであり、あたかも人類衆生にとって相互成長のようである。もし物事を理解していなければ、大きな利益を得ることは難しい。
人類の衆生は、もし前回の経験がなければ、今回再び応用して利益を受けることはできません。ですから、人類の衆生は自分自身の無明に対し、また過去の様々な経験を現在に持ち込み、前回蓄積した経験を再び引き起こすのです。つまり、前回のすべての軌跡を応用して、これが基本的な動作として必要であることを理解するのです。
また、人類の衆生に対して、より大きな利益をもたらすことができてこそ、真実の性質と言える。さらに、人類の衆生はこのような生存過程において、あらゆる事柄に前回の記憶再生があるため、前回の記憶再生を応用した後、今回の応用過程において、自ら修正や変更を行うべきかどうかを考えさせるのである。
あるいは前回の経験を踏襲し、さらに自己の生存志向と現在の状況を統合することで、今回の生存行動が生じたのです。つまり、人間衆生の生存志向においては、生存志向の中でどのような行動を取るのかを理解する必要があります。これこそが、人間衆生にとっての「生活の過程」と言えるでしょう。
応用法則により有情は利益を受けることができる
このような生存の方向性においては、食物連鎖を基準とし、通貨連鎖を組み合わせとしています。この組み合わせの中には事物の連鎖が必要であり、それによって初めて通用貨幣による報酬が満たされ、十分な金銭を得て家族を養い生活を支えることができるのです。したがって、生存の方向性に対するこの法則は、すべての人類衆生が必ず応用しなければならないものなのです。
もし人類衆生が食物連鎖を必要としなければ、通貨も必要なく、ましてや事務連鎖を組み合わせることもないでしょう。したがって、一つひとつの動作はすべて密接に関連し合っており、欠くことのできないものなのです。人類衆生にとってまた別の得難い損失である、人類衆生の生存に対する方向性の必要性は、まさに真実そのものなのです。
また、どのような存在も食物という基本的な作用から離れることはできません。これが食物連鎖であり、すべての衆生にとって基本的な条件が必要です。しかし、必ずしも通貨連鎖を適用する必要はなく、通貨連鎖に必要なものは他の者が供給し、また事務連鎖の必然性に対しても同様です。
このような人間衆生の福報は、比較的良い方であり、またこのような人間衆生から見れば、浮き沈みの激しい過程の中にも、食物連鎖の必要性はある。しかし、必ずしも通貨連鎖が必要なわけではなく、必ずしも事務連鎖が必要なわけでもない。これが人間衆生の幼少期、あるいは三宝に手を触れない人間から見れば、どのように映るだろうか？
応用の法則は人類自身が皆恩恵を受ける
一生の福報も比較的良い方ですが、他人に対しては必ず如実の事務連鎖を持たなければならず、それによって通貨連鎖の組み合わせが具足されるのです。これこそが他人への供養において必ずそうあるべきことであり、いかなる有情の人類衆生も区別なく同じです。また、子を育てることも同様に、その中の事情を理解しているでしょうか？
人類の衆生はこのような条件の中で、必ずや過去の経験の蓄積を応用し、通貨チェーンを構成する要素を満たす必要がある。また、事象チェーンを通貨報酬の備えを満たすものとする。人類の衆生は、一生涯を通じて通貨チェーンや事象チェーンを全く必要としない者はほとんどおらず、多かれ少なかれ事象チェーンがあって初めて通貨チェーンが生じるのである。
この法則を応用して利益を得るのは、まさに人類衆生自身なのです！また、通貨チェーンを組み合わせてこそ、事務チェーンを応用した後に報酬が得られるのであり、人類衆生により大きな利益をもたらしてこそ、不足に悩むことなく、あらゆる事務チェーンを応用した後に、このような報酬を回収することができるのです。
そのため、人類の生きる方向性は、自分自身の生活がこうあるべきだという考えから来ています。あらゆる命ある衆生も同じです。なぜなら、人として生きるには「行動してこそ人であり、行動しなければ人ではない」からです。では、なぜそうなのでしょうか？真に人として生きることは非常に難しく、自ら実践しなければ行動にはつながりません。
実務応用に役立ってこそ、通貨として流通する
このような生き方において、行わなければ仁（人）ではなく、行うことによって初めて仁（人）となるのです。人としての行動は、行為や動作を伴うことから生まれます。まさに生存を志向する営みの中で、通貨による報酬の一端を得ることにこそ、人類衆生の最も基本的な行為動作があるのです。
誰しもがそうであり、何の働きもしないのに報酬を得られる者など一人もいません。必ず働いてこそ報いがあるのです。そうでなければ、働きもしないのに、どうしてこの世に生まれてくる必要があるでしょう。まるで他の動物のように、働く必要もなく人間に飼われ、一定の時を経た後に屠られ、命の糧とされるようなものではありません。
皆さん、考えてみてください。人間は働くことで活力が生まれるのではないでしょうか？そうでなければ、まるで他の動物のように、育て上げられてから屠殺されるようなもの。その時、どのように感じるでしょうか？おそらく、人間は誰もそれを望まないでしょう。また、人間が飼育する動物は、食物連鎖に組み込まれた後、どうなるのでしょうか？
応用法則は日常生活に活用できます
人類衆生の世界において形成されるものは、一分でも衆生を育み功徳を積む性質を持つことができます。これは紛れもない真実であり、人類衆生に対してこのような育成と功徳をもたらすのです。そうでなければ、人類衆生はどうやって食物連鎖から糧を得ることができるでしょうか？まさにこのような循環の理由こそが、生存の方向性と密接に関わっているからなのです。
また、誰も食物連鎖の供給から離れることはできません。これは人類が法則を応用するものであり、生存の方向性はこのようであるべきです。したがって、人類の衆生はこのような法則の応用の中で恩恵を受け、自らも恩恵を受けています。法則の応用の中に、人類のあらゆる事柄の連鎖に加わる必要があることを理解しなければなりません。
初めて十分な通貨報酬と善良なすべての回収を備えることができ、これこそが対応する用法則が自らの経験から来ており、自らが利益を得ることで、このように皆が利益を得、またずっと継続していくことになります。さらに生存志向に対して応用されることで、さまざまな異なる回収を区別し、自らを利益するとともに衆生をも利益することになるのです。
笑うべきかな人生はかくの如し　　応用する法則同じきこと是なり
生存志向の機能は、食物連鎖において物資を供給することにある
すべての衆生は仕事をしなければならない
様々な縁が集まってこそ、物事を成し遂げることができる
回報を得るために
通貨チェーンはこのように有効である
この偈は、すべての有情衆生と共に励まし合うものである。人類の生存法則に対しては、まず実相法則を適用し、次に認識法則が同時に経験法則へと入っていく。このように適用される法則は、人類衆生に利益をもたらすものであり、その中には通貨報酬による恩恵も含まれる。これがあって初めて人類の生存志向が生まれるのであり、このような因縁条件こそが、人類衆生のすべての生存実相なのである。
無極白玉 観世音菩薩
無極白玉観世音  菩薩登台に有情を会す
応用法則人類にあり　  才能もて如実に奉行す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院、学院修学士の皆様、こんばんは。本日は、本宗脈　南無虚空銀筆大道古仏－虚空銀筆大道天尊が降臨され、大道唯識を著作され、応用法則が人類に利益をもたらす条件を天書の中で詳細に分析されました。皆様が真実のままに向上成長されることを提供いたします。
すべての人類衆生に対するこのような応用法則においては、まさにこのようであるべきであり、また応用法則が存在するからこそ、人類は真実の利益を受けることができるのである。そうでなければ、応用法則の中には経験の蓄積も存在せず、人類衆生が大きな利益を受けることもなく、真実の生存の方向性も生まれないであろう。
この方向性は、人類の衆生すべてが基本的に備えるべきものである。また、本宗脈は明後日、この地域の浄化法会を成就させるために、これらの有情の善縁にも成就の機会を与えることができる。いずれも自らの努力によって獲得するものであり、それがすなわち真実の性質である。同時に、皆に良き成長の機会をもたらすものである。
2015年、3月11日、12時01分◎＃※   了解；
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無燃燈古仏
2011年3月18日　辛卯年二月十四日（金曜日）
第九回  應用法則  眾生受益
南無虚空に真理を伝え　龍天の徳助けて聖義を闡く
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無阿弥陀仏
2011年3月25日　辛卯年二月廿一日（金曜日）
南無本師 釈迦牟尼仏
2011年3月29日　辛卯年二月廿五日（火）
第十回　無常の法則  人生は一つの如し
無常の法則 人生は一つの如し
有情なる衆生が人道世界に入ると、真実の法則が引き起こされ、人道世界に応用されます。この条件は実相世界にとって、成長を助けるものとなります。また、人間世界にとって理解すべきことは、無常の作用が引き起こされ、現世に現れるということです。
この無常は、あらゆる有情衆生に対して極めて如実であり、生存の方向性においてはすべて一体としてこのように生存している。この過程は人間世界にとって「常なる如き生活」であり、また「有常の中」で無常による潤いある生を営んでいる。この時、無常の法則こそが、人類衆生が必ず理解すべき一つの事柄なのである。
また、無常に対する認識は、生存の中の不確実性から来るものであり、なぜ不確実性が存在するのか。それはあらゆる問題点に対して、一種のバランスを取りにくい作用が加わるためであり、これは無常の法則が日常の生活維持における実践性に応用されることによるものである。このような因縁条件は、なぜこのような変化をもたらすのだろうか。
無常の起伏の中でこそ、人間の衆生が理解すべき動作があるのです。
このような条件は、あらゆる事象に存在し、生存の正常性を妨げることはありません。したがって、生活の正常性に停滞することはないのです。知っておくべきことは、生存の志向性が生じると同時に、それは生存の作用の中に組み込まれるということです。
無常の法則 人生は如何にあるべきか
そして、すべての事象の起伏を引き起こす。このような起伏こそが、人類衆生にとって最も理解しにくい問題点であり、なぜこのようになるのか？無常の法則に基づくすべての生存において、人類の行為や動作は根本的に正常に行使されることはなく、これは人類衆生が無常の法則の中でどのようになるのかを指している。
また、すべての事象は同じ作用を持つことはなく、それゆえに無常の生滅が生じる。次に応用する際には理解できるようになる。生存の方向性を追求する過程において、人類の衆生は無常の中にあり、このような問題点が現れ、生存の方向性に対する考えが絶えず揺らぐことになる。
したがって、人類の衆生は、このような生存の在り方において、あらゆる事象の浮き沈みの中で、根本的に停滞することはないと理解しなければなりません。人類の生存法則が揺れ動くからこそ、すべての生存の根本が絶えず浮き沈みを繰り返し、大きな差異が生じるのです。
このような差異は、生存の中で現れ、条件に依存して生じるものであるからこそ、無常の法則に対しては平穏の中で生きるべきであるはずなのに、すべての生存の方向性は起伏に動かされ、永遠に平穏であることはなく、ただいくつかの恒常的な作用があるに過ぎない。
無常の法則は定まらず浮き沈みする。
次なる瞬間に何が起こるか、日常は絶えず変化して生命を潤す。人類の衆生はこのような絶え間ない浮き沈みの中で、どうして自分たちの生活が永遠に安定していると言えようか？否である！このような不安定な生存に対して、どの衆生も次の瞬間の行動がどうなるかを知ることはできない。
この世における生存の方向性は、自らの生活過程を存在として活用し、いかにしてそれをより大きく発揮させるかという問いから生じる。必ずや人類衆生のすべての志向はどうあるべきかを観なければならない。それは、有情衆生が生活の中において、また一切の事柄において、均衡と平穏な生活を得ることが難しいからである。
一人一人は絶えず変化の中で生きており、また生存の過程においては、常に大きな障害に直面し、次の瞬間にどのような変化が訪れるかも分かりません。ですから、人類の生存における変化は、絶え間ない浮き沈みの中で、生活の方向性とその応用を際立たせているのです。これこそが人間を含む衆生に共通する無常の浮き沈みなのです。
このような無常の変化があるゆえに、どの段階も平穏に進むことは難しく、絶え間なく変化する無常の起伏が生じる。このようにして、人類衆生は生存の中で、次の瞬間はどうなるのかと問うであろうか。必ずしもそうとは限らない！また、変化の働きが人類衆生にもたらすものを知ることもできない。
無常の法則に導かれて
この困難な作用は、根本的に人類の生存に伴って存在し、一種の無明の障害に依存している。では、なぜ人類の衆生は絶えず変化し続けるのか？それぞれの衆生を観察すれば分かるように、人類の衆生は生まれた後、生存の方向性を学び始め、一挙手一投足、生活の過程のすべてが絶えず変化しているのである。
特に一人の小さな人間の衆生は、子供が言葉を覚えた後、次第に青少年へと変化し、さらに青年はあっという間に若壮年となり、その後は壮年となり、しばらくして次第に身体が衰え、再び老年の時期を経て間もなく、再び老いさらばえた姿となるのです。
ただ一人の人間の衆生は、生まれてからというもの、あらゆる段階で絶えず変化し、あらゆる事柄についても同様である。さらにこの中を観れば、人間の衆生にはなぜ存在があるのか。幼年、少年、青年、青壮年、壮年、老年を経た後、ただ残るは、老いさらばえた一つの身体だけとなるのである。
同じ一人の人間が、このような生存の作用に対して、誰も何の違和感も覚えず、ただ人の寿命がこのようなものだと感じるだけで、何かを為す中でも理解できず、この中で無常の変化は一体どうなっているのか？無常の法則は絶え間なく変化し、絶え間なく揺れ動いていることを理解しなければならない。
無常こそ人生の原動力
すべての有情衆生は区別なく、動くものも動かぬものも、すべて同じであると理解すれば、無常の法則がどこから来るかがわかる。それは、一瞬、一時、一日、一月、一年と連続して集積されるもの、これが人生の一世代である。では、一瞬、一時、一日、一月、一年の中から、何を知ることができるだろうか？
知るべきである、人世の生存はなんと無常なことか。有情衆生は長く保持することができるだろうか？否である！まさにすべての衆生が無常の作用の波動の中にあるがゆえに、次の瞬間、次の瞬間に何が起こるか？皆、知り難いのである！人類が長くこの星球に住むことができるだろうか？
この無常の中にある恒常は、正しい道の生き方の方向性であり、何の不都合もありません。なぜなら、すべてが生存法則の必然性であり、同時に生存の方向性の中で、人間としての一生をどのように自ら体験し、この無常の変化を味わうかということがあるからです。
無常なる人生は変化測り難し
生まれたばかりの赤ん坊が、数十年の歳月を経て、老いさらばえた老人へと変化していく。この無常の法則がどのようなものか、皆さんは理解できるでしょうか。自らの生きる方向が揺れ動き、次の瞬間にはどう変わっているか、それはとても難しいことです。まさにこの無常の変化こそが、絶えず人間という衆生を侵食しているのです。
そのため、多くの異なる側面が存在し、一人の人間の中にさまざまな変化を生み出します。これは人類衆生にとって最も理解し難い問題点ではないでしょうか？なぜこのようになるのでしょうか？おそらく誰もが、自分がこの世に生を受けて何を為すべきか、自覚していないのでしょう。極めて理解し難く、そのような観念すら持っていないのです。
人間は皆、この世においては、食べること、飲むこと、排泄すること、眠ることさえあれば、生活が安定した後は、他のすべてにあまりこだわる必要もなく、あまり悩むこともなく、ただ安らかで快適な生活を求めればよいと思っています。だからこそ、人間の衆生は皆そうであり、何も驚くことはありません。皆このような心の状態の中にあり、より大きな成長や向上を遂げることは難しいのです。
無常なる変化、これこそが人生の一世なり。
また、生存の指向性は一定期間後に絶えず変化するものであり、物事と自分の顔や身体も、人が生まれてから次第に成長し、壮年に至って体が衰え始めることから、人類の衆生の寿命はわずか百年にも満たない短さであり、これもまたどうしようもないことなのです。
また必ずや大地に還り、しばし時を待ち、再び別の身体へと転換するに過ぎず、これを逝去したと謂い、また俗諺に云う「この世を過ぎ去る」となる。このような人間界において、どうしてこの世界に永く留まることができようか。否、残すことができるものは、ただ子孫を継ぐ存在のみである。
さらに時間が経てば、やがて白骨となってしまう。この時、人生で何をあれこれ思い悩むことがあろうか。生きている間にすべてを所有できるだろうか。いや、できない。これはただ時空の旅人に過ぎず、この空間に何を留めておけようか。ただ生きているこの瞬間のすべてがあるのみで、あらゆる物や品をどうして所有できようか。
変化する事象は無常であり、作用するものである。
ただ借りて使う、借りて見る、借りて所有するだけのことです。時が経てば、どんな物も自分のものではなくなります。その時、どんな思いが浮かぶでしょうか？ああ、あまり気にすることはありません。所有していたすべては天地に返され、残るのはこの瞬間の因果と業だけなのです。
聡明な人は業を造らず、自らを沈淪の苦果に陥らせることはしません。むしろ向上を求め、超越しようとします。そうでなければどうするのでしょうか？この世に生まれてきたのは、ただ食べ、飲み、排泄し、眠るためだけなのでしょうか？また、子孫を残すことについて言えば、数十年後にはその子孫たちはあなたのことを全く知らないのです。
また、どうして一生懸命に物質的な享受を追い求め、子孫に残そうとして悪業を造る必要があるのでしょうか。少し考えてみれば、人間という存在はこのようなもので、無常の法則の中でただ一世を生きるに過ぎません。時が経てば、誰もあなたの努力を忘れてしまうのですから、どうして気にかける必要があるでしょうか。
無常の法則に変化せられ　人間の因果互いに掴む
旅人であることを悟らねばならぬ　心の華は永らえ難し
有情の衆生が生まれ生きる
すべては有情に帰す
無常の変化を体得し
超越性を高めて安定を得る
この偈を、有情の衆生と共に励まし合いましょう。人類の衆生はこの時空において、自らの一生がただの時間の旅人に過ぎないことを必ず悟らなければなりません。真実のままに向上し超越してこそ、より長遠な寿命と存在を得ることができるのです。一体誰が永遠に変わらず存在し得ましょうか？あまりにも難しいことです！
また滅びざるを得ず、永遠にこの世に存続するのは、また怪物一人である。自分でよく考えれば、すべてを理解できる。この世はただ：借りて使い、借りて見て、借りて所有するだけであり、どうすることもできない！この世のすべての因果と業の障りも、自分自身で引き受けるしかない。子孫は代わりにはならない。悟ることができるだろうか？
無極默徳 観世音菩薩
無極の黙徳観世音　　菩薩登台して有情を会す
龍天の徳助け古仏降る　無常の法則はっきりと認めよ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。
今、本宗の法脈において、南無虚空龍天徳助古仏－虚空龍翔天尊が降臨され、大道唯識第十回を著され、無常の法則、人生の一大転機を天書に詳しく解き明かされ、人類衆生の無明に対して開示をなされた。
有情なる衆生をより大きく成就させるためには、無常の法則をいかに理解すべきか？自分が生まれてからずっと、身体と顔立ちが変化し、あらゆる生存の方向性も変わり、あらゆる時空の中で変化し続けていることに気づくことができる。これこそが無常の起伏である。
明日は国定休日で、もし誰も訪ねて来なければ、一日休んでも構いません。これは正しいことです。中華民国建国百年記念は、多くの善縁が集まって弘化の行列に加わる機会を与えてくれました。ですから、皆さんの学びと成長にとって、このように導き、教育教化を通じて成長していくことが必要なのです。
2015年、3月11日、12時02分◎＃※   了解。
南無東方  薬師如来仏
2011年4月1日　辛卯年二月廿八日（金曜日）
南無虚空大天界　鳳天福祥古仏推
大道唯識第十一回
恒常の法則は有情を為す
第十一回　恒常の法則 有情かくの如し
恒常の法則、有情かくの如し
大道は広く化育し、すべての万物蒼生の生存の方向に対して、相互に支え合う関係が生じ、すべての人倫世界の生活過程において、進取的な向上が可能となる。人倫世界の生存を観察すれば、絶え間ない変動の中で成長していくことが必然であり、これはまた無常の変化から導かれるものである。
一つ一つの動作はすべて真実の性質であり、有情衆生が生存の方向を取る時、このような無常の波動が生じる。生存の一切の実相もまた、このような状況の中で生きているのであり、では有情衆生に対して、いかなる生存の保障があるだろうか？いずれも難しいことである。つまり、人間の世において、いつ命が尽きるかはまったくわからないのである。
これが有情衆生であり、一種の無常の波動作用である。より大きな向上と成長は可能だろうか？無常の波動は、恒常の志向の中から生じるものであることを理解しなければならない。それが正しい道であり、それゆえに恒常なるものに対して一貫した態度を持つことが、より大きな向上につながる正道なのである。人間は無常の中にあってこそ、恒常を得ることができるのだ。
また、有情の衆生に対して区別なく、人種と物種はすべて同じであり、それゆえに
恒常不変の法則に対応するには、無常の波動が作用する必要がある。これは有情の衆生が人道世界に入るにあたり、どの過程も無常の波動を経てこそ、このような恒常性が生じるのである。
恒常にして一なる法の則り
したがって、人類の衆生を基準点として、全面的に考察すると、このような無常の波動は、それぞれの時空の因縁によって作り出されるものである。また、無常の波動があるからこそ、無常を通して恒常不変の姿を見ることができる。これこそが有情衆生にとって最も観察しがたい障害であり、なぜそれが障害となるのか。
まさに無常の波動があり、それが恒常不変の導きとなる。これは人間が人道世界に入る際、無常を一つの波動の始まりに喩えるようなものである。このような無常の波動は、あらゆる時空における人間にとって普遍的なものである。では、なぜ無常の波動が存在するのだろうか。
人間の衆生は、時空の流れの中で常に「無」という常態を持ち、人為的な造作によって絶え間なく波立ち、潤いある生を営んでいます。皆さんはこの無常の観念を理解できるでしょうか？とても難しいことです。では、このような「無」の常態を、あらゆる事象の連鎖の組み合わせにどう対処すればよいのでしょうか？
さらに皆さんにお尋ねしますが、先ほどの時空の因縁の中で、崇心宗脈に来る前の生活環境はどのようなものだったでしょうか？まさに崇心宗脈に来てから、あらゆる変化が絶え間ない波動を生み出しているのです。これこそが無の常態であり、このような無常の波動があるからこそ、善良な成長が生まれるのです。
無常は変化し、恒常は一如たり、有常は造り成す。
したがって、それぞれの時空は同じであるにもかかわらず、因縁の空間と時間の空間は異なっています。先ほど遭遇したすべての出来事は、崇心宗脈に来る前に経験した無常の波動に似ており、まるで前回の作用のようでした。しかし、時空が転換し、すでに数日が経過したため、この時空もまた異なっているのです。
時空が異なる時間軸で計算され、すでに別の時空へと移り変わった今、これはもはや前回と同じ著作ではありません。また、仙仏も異なり、内堂の人員も変わっております。ただ禅師の「天音伝真」のみが同じですが、著作の回次もすでに違っております。
これは恒常の中に無常の変化があり、人類衆生にとっては異なる時空の環境へと転換するものです。人類衆生は、無の常態の中で、いかにして次の行動を起こすべきかをどう知ることができるでしょうか。これは「無常」の作用に対して、「恒常」を追い求めることができるということを指しています。
必要に応じて、人類の衆生がこのような時空の中で、どのようにして自らを「無常の観念」と「恒常の作用」に入らせるかを理解しなければならない。両者を相互に応用することによってのみ、「無常と恒常」の作用において、すべての事柄をこの観念に応用することができるのである。
常に作用して生活は変わらない
皆さんに理解していただきたいのは、人間の世界はこの世に永久に存在し得ないということです。これはあらゆる時空の変化に対して言えることであり、「無」という常態を通じて、人間の生存の方向性を知るのです。皆がこれを常態的な作用だと思い込んでいますが、知らず知らずのうちに、あらゆる時空の因縁の中には、「無」という常態が恒常的な方向性をもたらしているのです。
もし単に有無の常態だけがあるならば、なぜ人類の衆生は絶えず変化の中にあり続けるのでしょうか？これは同じ一つの事柄であっても、時間と空間が異なっているのです。それぞれの作用に対して、異なる生存の志向を人類の衆生の観念に加え、一種の固定化された観念として作用しているのです。
このような固定化された動作となり、つまり無の常態をもって、恒常存在が相互に結合する中で、人類衆生はこのようにして、恒常一如の中に入り、生存の方向性に対して大きな変化をもたらし、知識観念も形成されるに至りました。このようにして、知恵の向上が必然的に求められるのです。
また、人類の衆生は、恒常不変の観念に入ることは極めて稀であるが、それぞれの生存過程においては無常によって変化していることを理解できる。このような時機は、人類の衆生にとってはまた一種の体得し難い知識観念であり、無常の常態がまさにこのようなものであるという認識を形成している。
常に一様にして常ならざる姿なきがごとく、衆生と相い和す。
しかしながら、「恒常如一」を理解することができるようになるには、「無の常態」よりもはるかに少ないものである。これは人類の衆生が無の常態に入るために必要な観念であり、正しいものである。では、どのように言えばよいのだろうか。人類の衆生が生存の方向性において、大きな迷いを抱え、それをどのように解消すべきかわからないということを理解することができるだろうか？
言えることは、恒常なるものは無常の絶え間ない揺らぎの中から生じ、それによって恒常への志向が生まれるということです。皆さん、改めてこの時空に生きる人類衆生をよく観察してみてください。果たして、永遠に変化せず、この人類世界に長く存続し得る者が何人いるでしょうか？いないのです！私たちは、人類衆生がただ無常の旅人に過ぎないことを、ありのままに理解することができます。
極めて稀なのは、長く持続し恒常的なものであり、また恒常的な完全な現れに対しても、それはあたかも人間の世がただ時空の瞬時の過程であるかのように、皆さんももう一度よく考えてみてください、人間の世について言えば、山河が主であり、人は客であると言えますが、これは一体どういう意味でしょうか。地球の空間に存在する山河大地は、自分が生まれる前からすでにあったのではないでしょうか。
さらに、千百万年もの間、このように続いてきたのであり、ただ異なる姿で現れるだけに過ぎない。また、人類衆生にとっては、山河大地の一つの種族にすぎず、いったい何が永遠に存続できようか。実に難しいことである。つまり、人類衆生がこの世に来るのは、ただ仮に住み、仮に使い、仮に生きるだけであると理解できるのである。
恒常は本より自然にして無常なり、自然なり
両手に何も持たずに来て、また両手を空にして帰る。さて、皆さんはどれほどの物を持って来て、どれほどの物を持って去ったでしょうか？何一つないのです！ただ借り住まいの空間に存在し、自分をこの冥界の星に存在させているだけ。これが人類衆生のどうしようもないところでしょうか？また滅度の中にあって、必ずこのようでなければならないのです。
聡明で知恵ある者は、このような限界をどう見据えるべきだろうか。皆さん考えてみてください、せいぜい百年の光陰、まさに両手を空にして来て、また両手を空にして帰っていくのです。本当に持って行けるものは、ただそれぞれがこの一生で積んだ福と禍の別れ目だけで、時空の過程として留めておくだけなのです。
この百年にわたるすべての生存志向の無念さに加え、人類の衆生はただひたすらに食べ、飲み、排泄し、眠ることを繰り返してきた。果たして人々の福祉は増しただろうか？あまりにも難しい。それゆえに増え続ける多くの業障の因果が、自らのすべての善良な生存志向を打ち砕いているのである。
皆さんは、これらの波動の中に、無の常態があるかどうかを観ることができますか？それはまた、無の常態の中に、恒常不変の変化の過程があることになり、皆さんは皆、恒常不変の中に、また一つの常態があることを理解できます。それはまた、すべての衆生がこの世に入り、生まれてから老いて死ぬまで、同じ作用をしていることを形成しています。
人生は一度きりの旅、借り物の身なり
ただ仮に住まわせてもらい、借りて使い、一時的に所有しているに過ぎず、最後にはこの肉体から離れなければならない。小さな子供から次第に年老いて体の弱った身体となり、全身に病を抱え、どうすることもできず苦しみながら去っていく。かつてのすべての富、愛情、所有物、楽しみも、ただ記憶の中に留まるだけである。
さらに難しいのは、このような時空の縁を再び取り戻すことです。どうすることもできません。過去のすべてを思い返せば、甘くも苦く、心が痛み、挫折し、困難を乗り越えて人生を歩んできました。最後に最後の息を引き取り、この世に一生を残すだけです。この時、誰か何かを持ち去ったでしょうか？何もないのです！
ただ両手が空っぽで数着の衣類が増えただけで、常に孤月が星辰を照らす中に身を置き、ひたすらコオロギの絶え間ない鳴き声を聞くのみ。もっと環境に優しくするなら、あなたに火をつけて焼却しても、残るのはわずかな骨灰だけ。このような状況で、みなさんは一体何を気にしているのでしょうか？何を計算しているのでしょうか？ましてやどうしようもないことではないですか！
無常の変化により、後世の者は祖先を知ることができない
さらに数年が経つと、残されるのは子孫たちが訪ねてくることだけになり、さらに数十年後には、これらの子孫たちもあなたのことを忘れてしまいます。これが「無」という常態の中で生きるということです。ですから、永遠に変わらないものは、この世に生きるすべての人間や衆生にとって、ただ無情に打ちのめされるだけの存在なのです。
幼い子供が年老いてよぼよぼになるのを見れば、人は永遠不変のものなどあり得ないと理解できるだろう。極めて難しいことだ。無極や虚空天界に戻ることもまた、非常に難しい。ただこの世に残されるのは白骨の山。地に臥してコオロギの歌を聴き、長く寄り添うのもまた良きことではある。
ある者はただ骨壺を残すのみで、マンションに住み、隣近所は互いに寄り添って暮らすしかない。皆が「無の常態」と「恒常不変」の働きについてどう理解しているだろうか？難しいことだ！はっきり見通し、達観できるだろうか？必ずしもそうとは限らない！見通せず、達観できないとして、どうすればよいのか？まことに無念なことだ！
無常こそ人生の常態なり
無常の法則がこの世を形づくる
恒常なるが如き本質生ずる  恒の常態もまた生なり
いかにして解脱するかは智者なり
一切の根基を明白に徹す
人生は巡りまた新たな一生
いかんせん後世は塵を忘れぬ
この偈を！有情の衆生と共に励まし合い、『新唯識学の理論』に対する造詣においては、必ずや理にかなった実際のものとして、それを完全に現わすことが正道である。さもなければ、ただ一切の名相を理解しただけで活用できず、空しく人世に学び成長するのみで、後になって誰を責められようか！まさに、向上超越することは甚だ難しいのである。
無極巧聖理　観世音菩薩
無極巧聖理観音　　菩薩登台に有情と会す
人類の衆生は無常なり　常に一つの如くこの生を行ず
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日、本宗脈の南無虚空鳳天福祥古仏－虚空鳳翔天尊が降臨され、大道唯識第十一回を著されました。そこでは、恒常の法則と衆生一如の在り方が天書に示現され、皆が一切を了知するための示しが与えられています。
皆さんに理解していただきたいのは、この一生において、どのように自分自身の生き方をより高めていくかということです。ただ宗教の中で「唯識学」を懸命に研究するだけで、多くの専門用語を学んでも、結局まったく役に立たないというのでは、本当にどうしようもありません！そこで仙仏の先生方は、より簡単な方法を用いて、「新唯識学の理論」を明らかにすることを始められたのです。
皆様が一目で理解できるように、自身の生存における障礙から如何に脱出し、如何に向上するかが正道であることを示し、皆様が心を込めて研鑽されることを願っております。これにより大きな助けとなり、皆様が回帰を超越することも可能となるでしょう。共に学び成長し、知識を増やし智慧を高められることを心より願っております。
諸賢生はよく覚えておくがよい。禅師の講義には必ず来て聴聞せよ。なぜなら、自らの学識が不足し、理解することが難しいからこそ、最も重要なことなのである。さもなければ、自ら無明でありながら講義を聴かず、未来において向上を望んでも、ただ崇心宗脈の学生という名ばかりを掲げるに過ぎず、まさに非常に恥ずかしいことである。その時には、ただ人世に留まるしかなく、向上し超越しようと望むことは、木によって魚を求めるようなものである。くどくどと言うのはここまで、よくよく考えてみよ。
2015年、0311、1203◎＃※   ０Ｋ；
南無大日如来仏
2011年4月5日　辛卯年三月三日（火）
南無有情の衆生霊　
虚空天界より来たりて相迎う
理治法古佛降著　　無我法則可超引
第十二回　無我の法則  誰か超越せん
無我の法則 誰かこれを超越せん
有情なる衆生が人界に入ると、多くの無明が生じます。特に唯識の道理に対する無知は甚だしく、これは有情衆生が論蔵を理解し難いためです。いかなる時空においても、いかに論蔵を分析し、無明を理解し、生存の方向を妨げる行為をいかに取り除くべきかを知るべきでしょうか。
自己を超越するという向上は、これは論蔵によって必然性を解消するものである。過去の時空においては、仏教唯識学の理諦である「無我の法則」は非常に正しかった。しかし現代において再び「無我の法則」を説くならば、もしすでに私という存在がなければ、どうして現在の向上や超越があり得ようか？あまりにも難しい！
自分自身が向上成長できないということは、無我の法則に対する一つの迷妄であり、これによって多くの衆生が向上超越の成長を遂げることができず、まさにこの限界にこそ問題がある。この世において、いかに精進し向上すべきか？真摯に検討を重ねなければならず、そうして初めて真実の向上成長が実現するのである。
人類の衆生に対して、この地冥星空間全体に生存している中で、もし
自分を重んじすぎると、多くの向上を妨げる障害が生じます。この身体に執着しすぎると、必ずや向上成長を困難にする障害を形成し、これがまた今生においてこの時空に入った際、向上成長を超越することができなくなってしまいます。
無我の法則の規制
これは昔、仏経に説かれたことである。なぜ「無我の法則」という基本要件が必要なのか。広大な宇宙空間全体から見れば、人生一世はわずか百年の短い歳月に過ぎず、百年を超えて生きることは難しい。このように天地宇宙の悠久な時間と比べれば、人間の生存期間はあまりにも短いのである。
つまり、天地宇宙の恒常性と比べることはできず、それゆえに人間界のすべての生き方に対して、極めて短い時空におけるやむを得ない状況であり、また人間界に存在するたびに繰り返される輪廻の中で、このような時空に生きているため、自分自身も大きく向上させることは非常に難しいのです。
生命に対しては、永遠の視点で真実に向き合い、互いに向上し合うことが必要です。そうでなければ、まるで神霊世界の五百年の歳月のようになってしまい、千年、数千年の時を超えて向上することは非常に難しいのです。この神霊世界と人間世界を比較すると、人間の寿命よりも十倍以上も長い歳月に及んでいるのです。
もし人類の衆生が百年ごとの輪廻を経た後、すぐに再び人間として生まれるわけではなく、ある者は数百年の時を待たねばならず、あるいはさらに長い悠久の時を経て初めて再び人間として生まれ得るならば、これは人類の衆生が毎回の輪廻において向上を遂げることよりも、さらに困難なことである。
無我が成る法則ならば、人類は何を以て向上を求めん
つまり、今この瞬間においても、それ以上の成長は望めず、したがって人類の生存にはどうしようもなく、ただ時の旅人に過ぎません。しかし、「山河が主であり、人は客である」という基本的な理論はまさにこの通りで、山河が主であるからこそ、人類を含む衆生は、ただこの山河の空間に仮住まいするだけなのです。
そもそも成長を超越していないのに、人間社会がより大きな向上を望むのは、木によって魚を求めるようなもので、超越して向上することは非常に難しい。これが有情衆生のどうしようもないところだろうか。「無我の法則」の根本的な意味についてもそうであり、無我の法則があるからこそ、どうすれば正道なのかが問われるのだろうか。
過去においてそうであったように、現代の時代は科学技術文明の初期段階に入り、全ての生活の方向性も、全人類の衆生に快適さと便利さが普及しています。これは過去の帝王の家が享受していた生活よりも、むしろ勝るとも劣らないものです。ですから、人類の衆生がこの時空において、より大きな超越と向上を遂げられるかどうかは、やはり分からないことなのです。
逆にずっと堕落し続ける主な原因は、あまりにも安逸で、あまりにも快適で、あまりにも便利なことです。これは人類衆生の陳腐な観念と行いであり、さらにこのような状況では、人間の心性と霊性が主導する場合、このような条件は無我の法則という観念に基づき、当然そうあるべきものです。
人類の生存と存在の方向性には警戒が必要である
自身の生存志向の限界の中で、より大きな向上を図ることができるのであって、単にこの世で生きるためだけに：食べ、飲み、排泄し、眠るだけの人生を送るのではありません。このような人々にとって、来世再び人間として生まれる機会を得たいと願っても、自分が望むように、自分の心のままに人間になれるとは限らないのです。
また、この世は無常の旅人であり、いつ生命の危機が訪れるかは極めて知り難い。いつ交通事故やその他の災難が起こるかも同様である。生命の消滅については、根本的に知り得ないことである。このような状況を、自らの生命に対してどうすることもできず、またこのように限界があり、さらなる向上も叶わないと言えるだろう。
自らの生存の安寧と保障を可能にするため、無我の法則に対しては、無常なる生命の流れの中では、まさに保障を持つことが非常に難しいのです。これは一種の無常に揺らぐ生命であり、より大きな向上も困難です。そうでなければ、どうして人類の衆生は成長し超越することができるでしょうか？あまりにも難しいことです！
また、まさにこのようなことゆえに、生命を理解しがたい過程の中に置き、自らも到底見通すことのできないまま、次の瞬間はどうなるのか？これは無我の法則に対して、生命の矛盾点に適応させているに過ぎず、果たして私はこの冥界の星の空間に永く存在し得るだろうか？極めて難しいことである！
生命の進取は無我への過程である
これはほんの一瞬の時が、すべてを変化させるに過ぎない。子供から青少年へ、さらに青年、壮年、老年へと絶え間なく移り変わる中で、元はただ一人の人間であったものが、数十年の歳月を経て、それぞれの顔立ちを変えていく。皆さんにお尋ねしますが、どうして私という存在があると言えましょうか。まことに難しいことです！
人々の世はまさにこのようなものであり、そこには「私」という存在があります。もし「私」がなければ、みなさんにお尋ねしますが、誰がこれを超越できるでしょうか？非常に難しいことです。ですから、超越して向上するということは、自分自身を理解することであり、人々の世にはどうしようもないことがある中で、自分を無常の命の中に置いて生きていくことです。いつ命が終わるのかも分からないのですから。
また、人間の衆生に対してはこのように作用するため、命が消えることは決して高齢者だけの特権ではなく、生命が消えゆく無念さの現れです。だからこそ、人は「棺桶は死んだ者を入れるもので、年寄りを入れるものではない」と言います。この無常の生命の周期は、一部の高齢者だけが亡くなるわけではないことを示しています。
これは無常なる生命のやむを得ないところであり、だからこそ「無我の法則」をはっきりと理解する必要がある。そうしてこそ健全な成長が可能となる。さもなければ、有情衆生はあまりにも安逸に、あまりにも快適に、あまりにも便利になり、あらゆる事柄が一人ひとりの向上を阻害する要因となってしまう。
無我の法則を、いかなる人が超越するというのか。
あまりにも安逸で、あまりにも快適で、あまりにも便利であるがゆえに、超越へ回帰しようとする思いが生じないのです。このような限界はまさにそういうものです。まさにこの安逸さ、快適さ、便利さ、そして普及性があるからこそ、人々は繰り返し地冥星に沈淪し続け、これまたどうしようもない障害となっているのです。
人類の衆生が未来に再び人道世界に入ろうとするのは、比較的困難なことになりました。現代の世の中では、すべての生命に再び一度の機会を与えていますが、もしそれをまた掴み損ねたなら、どうして次の成長と向上の機会があるでしょうか？この世の中で、どうしてさらに大きな利益と収穫を得ることができるでしょうか？非常に難しいことです！
また、有情の衆生が無我の法則を持つのは、無常の生命が変化する中で、この生命の消滅をどうすることもできず、それを昇華させ超越することで、より大きな成長を遂げることができるからこそ、真実の性質と言えるのです。この世においては、生命の周期の変化を完全に掌握することはできず、また無常の波に翻弄されれば、必ずや成就を得ることは難しいのです。
これは無我の法則を未知の無明の中に置くことで、まさに人類衆生が常に上蒼の下で安逸な時機にあり、安楽を享受している状況に対して、つまりは方便として普及させたものである。果たして警覚心を持ち、世の中のどうしようもないことに対して自ら向上し超越することができるだろうか。
生命の周期的変化
この無我の法則があるからこそ、次なる成長の段階では、必ず如実に向上し超越しなければならず、無常の波の中に留まり続けてはならないのです。いつ自分が亡くなるかも分からないのに、人々は自分には決して死ぬ日など来ないと思い込んでいます。それは、その日がまだ訪れていないからでしょうか？
知らず知らずのうちに、生命の波動は刻々とあなたのそばに迫り、いつ手を下すかを窺っています。しかも一度殺せばそれで命は尽きてしまうのです。この時、誰もが無常の波動がいつ訪れるかを知ることができず、無明の障礙を知ることも難しくなります。「無我」に対し「有我」があるからこそ、向上成長があるのです。
皆さんにお尋ねします：もしすでに無我であるならば、いったい誰が向上し超越することができるでしょうか？そもそも不可能なことです。真に一生のうちに向上し成長し超越するためには、必ず「我あり」でなければなりません。このように「無我の法則」のもう一つの次元は、まさに「我ありの向上」なのです。そうでなければ、成就することはあまりにも困難です。
無我の法則は、人世の過客なり
皆さん、もう一度考えてみてください。もし本当に「我」が存在しないなら、一体どうやって向上することができるでしょうか。つまり、天地宇宙と比較してみると、天地宇宙の恒常性に対して、人類はわずか百年の寿命しかありません。神々に対しては、五百年から千年の時光しかなく、これはまた十倍の差があるのです。
この世は極めて短い生命の周期に過ぎません。考えてみれば、あまりにも価値がないと感じるのではないでしょうか？次の輪廻で向上し超越できるかどうかは分かりません。だからこそ、無常の波の中で、無我の存在として生きるのです。しかし、真に「我あり」と自覚してこそ、向上し超越することができるのです。
さもなければ、他人はすでに向上し超越しているのに、まだ自我が残っていて、繰り返し輪廻を続けているとしたら、あまりにも割に合わないのではないか？考えてみれば、「無我の法則」の基本的な働きがどのようなものか、理解できるだろう。賢き者はただちに人生のすべてを体得できるが、無明の者は依然としてこのような渦の中を繰り返し、どうしようもないのである。
超えんと欲せば必ず如実にせよ　  　人の世の過程は皆かくの如し
我というものがあるからこそ
我が無ければ何に帰すことがあろうか
天地は常に宇宙を生み、人類の歳月は百年を現す。
互いに比べて神明の長を思う
反省して空しく留まるはかくの如き真なり
この偈は、すべての有情衆生と共に励まし合うものである。世の中のどうしようもないことはまさにこの通りであり、無我の法則も理解している。天地宇宙の恒常と比較すれば、人の世はあまりにも短く、あまりにも多くの苦難と試練があり、なかなか心を解き放つことができない。必ずや苦海の中に沈み続け、いつ飛び出せるか？定かではない！それは自らの選択によって分かれるのである。
無極妙蓮  観世音菩薩
無極妙蓮観世音　　菩薩登台會有情
無我の法則によって解き明かす　限界と障害の存在する原因を
諸聖佛と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は、本宗脈の南無虚空理治法古佛－虚空理治法天尊が降臨され、大道唯識第十二回「一つの無我法則、誰がこれを提昇して大道天書の中で剖析するか」を著作されました。
過去の経典による迷妄を解消するために、無常の変動の中では「無我の法則」が基盤であることを理解できる。しかし、もし「我」がなければ、どうやって向上し超越できるだろうか？あまりにも難しい！つまり、「我による向上」が必要であり、それによってこそ真実に沿って成長し向上することができるのだ。
2015年、0311、1203◎＃※   ０Ｋ；
南無虚空　上清通天古仏
2011年4月8日　辛卯年三月六日（金）
南無虚空より降臨せし　道を伝え徳を古仏に安排された
大道唯識十三回
超越法則必ず應該すべし
第十三回　法則を超え、成就を高める
法則を超越し成就を高める
有情なる衆生が「唯識学の理諦」の作用に入ると、その中の妙理を日常生活の拠り所として善く用いることができず、経典の中で多くの名相に束縛され、また人世間におけるすべての修持と向上を展開することもできません。執着があるため、その行いを変え難く、さらに改め難くなり、向上できないという障害に入ってしまうのです。
人類の衆生に対してはどうしようもなく、それゆえに過去の「唯識学の理諦」を貫通することができず、理解しがたい障害が生じている。これは現代社会に遍在する現象であり、また天の大道真理には、多くの応化作用があるべきで、初めて融通無碍に実践できるということも理解できないのである。
理解すべきは、実相の法則、認識の法則、経験の法則、応用の法則においても、無常の法則、恒常の法則、無我の法則が形成される中で、必ずや超越した法則が存在するということです。これこそが有情衆生にとって最も理解し難いところであり、まさに人間衆生が最も基本的な作用として理解すべきことなのです。
また、無我の法則があるからこそ、この世を観るには、必ず非常に
多くを超越してこそ、初めて真の理解が生まれ、向上は成長の必須条件であると分かる。そして上に向かって成長し向上することは、修練の中でこの種の問題を必ずあるがままに克服することから来るのである。
新唯識学の理諦とその作用
人間が宗教に入った後、世の中のすべての応用範囲において、このようにする必要があるのです。これこそが人類の衆生が修行を積み上げる際に、多くの障害に遭遇せず、真実の性質にかなう方法です。そうでなければ、経典論蔵を明確に理解していても、それを活用できなければどうしようもありません。
また、出世のみに偏り、入世としての実践がなければ、この世においては経典や論蔵を理解するだけで、全く応用することができず、日常生活に落とし込んで自らが利益を得ることもできません。これはすべての宗教修行者に対して、向上成長を促すためのものです。
成長があってこそ成就があり、多くの知識と智慧によって向上することができます。これは有情衆生が宗教に入った後に持つべき基本的な観念であり、また人類の衆生に対して、信仰に入って向上することを如実に示すこともできます。ただ経典論蔵の中で明らかにされるだけではないのです。
もし論蔵を上手く活用して応用することができなければ、向上させることも難しくなります。崇心宗脈が著作した「新唯識學理諦」は、過去の経典とは根本的に異なっています。これは現代において、上界の高次元の仏聖たちが人間界に降りて教化を施しているからであり、過去の経典をそのまま人間界に適用しているわけではないのです。
法則を超越することで、成就を高めることができます
必要に応じて実際に活用し、利益を得てこそ、大きな助けとなります。これが経典論蔵を活用することの必要性であり、同時にこの超越の法則を用いて、すべての四億の仏弟子を教化し、超越へと導き、ただ人間界に留まって繰り返し輪廻することを避けさせ、人間界が自らの成長と超越をはっきりと自覚できるようにするのです。
同時に、新唯識学の理諦を理解し、単にこれらの名相を記憶するだけに留まらないことが必要です。これがなければ、新唯識学の理諦の超越性を突破することはできません。このような「超越の法則」は、新唯識学の理諦を学ぶ上で必要不可欠な基本条件であり、皆さんはお分かりでしょうか。これは世の修行者が、超越へと回帰するために必要な精華の綱要なのです。
ただ人間界に留まったり、信仰に入るだけでは、人間の衆生がなぜ宗教的修行を必要とするのかを理解することはできません。まさに、人間界から宗教的修行に精進するすべてのことが、根本を超越するために活用されるかどうか。それこそが、自分自身の成長にとって、より大きな助けとなる真実なのです。
さもなければ、ただ人界に来て宗教に入った後、また宗教の経典に縛られてしまい、どうやってその束縛から抜け出せようか。必ず実践的な応用が必要であり、新唯識学の理論を日常生活の中で実践することこそが真の実践性であり、自らの信仰を真に向上させ、成長の基盤とすることができるのだ。
唯識の学理は法則を超越する
あらゆる宗教の経典は超越性の中にあって、根本的に人々を世間において向上させることはできず、ただ名相の作用を理解するだけに留まり、少しも実践に応用することができません。どうして自分自身を利益させることができるでしょうか。したがって、経典と論蔵を徹底的に理解するには、実践を通じて超越を応用することが求められます。
このようにして、すでに自己の生存の方向性に入りつつ、さらに「世に入って成長する」という段階があり、また将来の「出世間法」により大きな実現が可能となる。このような条件のもとでは、人類の衆生が修行する上でも大きな助けとなり、自らがより大きな成長と向上を遂げることが必要であり、まさにありのままに自らを益するのである。
過去の経典論蔵に固執するだけで、応用が難しいものではなく、むしろすべての宗教信仰者に対して、新唯識学の理論的真理において、このようにあるべきことを如実に理解させることです。そうでなければ、ただ「唯識学」の論蔵の名相を理解するだけで、それを応用することが難しく、大きな向上も期待できません。
これは崇心仙仏老師の慈悲の徳沢であり、より大きな向上へと下化されることこそが真実の性であり、超越の法則を対して向上成就の基本作用を果たすには、必ず知っておく必要があります。超越とは何を超え、何を越えるのか。これこそが「新唯識学理諦」のすべての応用としての働きであり、あらゆる応用を「心性と霊性」の浄化に向けることです。
成就を高めるには、超越の法則を理解することが必要です。
八識田の中のすべての種子因を浄化させるべきであり、これこそが真実の性質である。つまり、毘羅性海の中の一切の種子が浄化されることである。これは非常に心を込めて行わなければならず、そうして初めて真実の浄化の中において、累世にわたって毘羅性海に蓄えられたすべての種子因を、優れたものはそのまま成長させ続け、善良なものも保ち続けることができるのである。
いくつかの悪しき種子の因に対しては、覆い隠して根を張らせ芽を出させず、縁に触れることもなく、過去の悪しき因縁の中に入り込むことを防ぐことができる。また、今や時代は科学技術文明の時代に入り、世の中のすべての悪しき縁もここで断ち切られるべきであり、そうしてこそさらなる向上が可能となるのである。
これは、過去のすべての毘羅性海において、一切の不良な種子因が覆い隠され、浄化されることこそが、真実の本性である。なぜなら、これらの不良な種子因が浄化され覆われることによって、次第に沈殿していき、またそれらが覆われるのは、自らの浄化作用によるものだからである。
これらの悪しき種子の因縁が芽を出す機会を与えず、他の優れた善良な種子の因縁を継続して保持することが必要であり、自らをより大きな成長の中に置くことです。これは皆さんが「新唯識学理諦」で学ぶべきことが、まさにこのようにしてこそ、向上し増長し超越できるのだと理解していただくためです。
人生は無常なり、いかにして向上し超越するか
そうでなければ一生涯、ただ宗教の名称や形式を理解するだけで終わってしまい、数十年の犠牲と奉仕を空しく過ごすことになります。皆さん、これは果たして価値があるでしょうか？あまりにも難しいことです！経典や論蔵の真意を活用し、開かれた心で体得することが必要です。そうすれば自ら大きな利益を得られ、学習の過程もまさにこのようにあるべきなのです。
したがって、崇心宗脈が著作した『新唯識學理諦』は、まさに過去の唯識学とは異なるものであり、千余年前のこれらの教えは、現代において活用の恩恵を理解することが難しくなっています。皆様がこの世において、まず『新唯識學理諦』を理解し、過去の唯識学を繰り返し用いるのではなく、新たな学理に目を向けることが求められています。
それは名相が多すぎて、なかなかありのままに上手く活用できず、まるで自分が毘羅性海に入り、あれほどの種子因を見たとしても、どうやって一つ一つの種子因を区別し、それぞれにどのような作用があるのか見分けられるだろうか？あまりにも難しい！新たな唯識の学理と真諦を理解するためには、さらに大きな向上が必要なのだ。
毘羅性海に含まれるすべての種子因を、一目見ただけでその作用を理解できるようになるにはどうすればよいか？これは、人間の衆生がその働きを理解できない状況に対して、仙仏の先生方が非常にわかりやすい道理を用いて、皆がその働きをどのように理解すればよいかを示しているのである。これは、皆がその内包する意味をより容易に解析できるようにするためである。
生存の実相はどのように向上し、超越できるのか
また、四億の仏子たちが向上し超越するために、今日の超越法則を著作するのであり、そうでなければ誰もが理解し難いからです。その中で重要なポイントは何でしょうか。今日の著作の後、皆さんが新唯識学の理論的真実をより理解しやすくなることを信じています。これこそが、上蒼がなぜ『大道唯識』を著作する必要があったのかという根本的な理由です。
また、崇心宗脈の学生たちや、すべての有情衆生が一目で理解できるように、これらの新たな唯識学の真理、すなわち実相の法則、認識の法則、応用の法則、経験の法則、無常の法則、恒常の法則、無我の法則、超越の法則、これら八つの法則の応用を徹底的に通達できるようにする。
これらを理解できれば、「新唯識学の理論的真実」の大半をほぼ把握したことになります。これはまさに、この時空に生きる人類衆生が、煩雑な唯識学の術語を学ぶことなく――それらは理解し難いものですが――「論蔵の機能」を活用して向上・超越する道です。さて、皆さんはこれを応用できるでしょうか？ご自身で判断してください。
新唯識学の原則　根本を貫き通して明晰に徹す
活用すべきは経典大論蔵　  　理則を起こして直ちに益を受く
唯識学を再び応用しようとすれば　名相が多すぎて把握し難い
自己に固執して凝り固まれば　懸命に学んでも無駄に終わる
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、世の中で唯識の学理を活かして活用することが正しい道である。さもなければ、ただ名相を有するだけで、どうやってこれらを善く利用して自分自身を益するかを知らず、何の役に立つだろうか？まさに自分自身のこの一生の修行を無駄にし、最後まで名相の中でもがくだけであり、それでは何の意味があろうか！
無極聖蓮　観世音菩薩
無極聖蓮観世音菩薩、登台して有情を会す
大道唯識十三回　　法則を超越し天の音を揚げる
諸聖佛と諸賢生、及び無極大道学院、院修学士の皆様、こんばんは。本日、本宗脈の南無虚空道伝徳古仏－虚空道伝徳天尊が降臨され、大道唯識第十三回を著作されました。人類衆生が超越法則を理解できず、またそれがいかなるものであるかを悟れないことについて、その中にある全ての恵みを体得できるよう説かれています。
すなわち、毘羅性海を浄化する中で、不良な種子の因が引き上げられ覆われることにより、これらが発芽せず、触れる縁を持たせないようにするのです。そうしてこそ、真に自己の成長が得られ、過去の誤った修整を改め、不足や欠けを補い、引き上げと超越が可能となり、これこそが正道なのです。
2015年3月11日12時04分◎＃※   了解。
南無虚空　青華救苦古仏
2011年4月15日　辛卯年三月十三日（金）
南無有情の衆生霊　   　虚空の彩雲　徳意に導かる
光天古仏降り来たりて臨む 　  　縁起の法則を本因と為す
第十四回　縁起の法則　因果の顕現
縁起の法則 因果が現れる
有情なる衆生が人道世界に入った後は、縁起の作用が引き起こされ、同時に因果が現れます。人類衆生の生存の方向性において、いかに行うべきかを知り、またいかに因縁を現すべきかを理解するのです。これはまさに、人世間のすべての因果の投射に対して、因縁果報の始まりと終わりをいかに為すかという問題です。
「含因、触縁、成果、償報」の相互関係がどのようなものであるかを、しっかりと理解する必要があります。また、「含因、触縁、成果、償報」というプロセスがあるからこそ、人間を含む衆生の因果応報が形成され、これは人間世界において「因縁果報」の応報と報償において、善悪の区別が生じる所以なのです。
人間の世に対しては、多くの問題点が現れてきます。また、どのようにして実相の法則、認識の法則、経験の法則、応用の法則、無常の法則、恒常の法則、無我の法則、超越の法則を経た後に初めて現れる「縁起の法則」を繋ぎ合わせるか、これが新唯識学の理論を主導し、依り所とするものです。
これこそが「新唯識学」をいかに適切に応用するかについてであり、その来歴を明らかにすることができる。
脈作用の過程においては、必ずや如実に超越法則を応用しなければならない。そうでなければ、一切衆生の向上成就はありえない。また、超越法則に対しても、その全過程が如何なるものであるかを、相応に如実に理解する必要がある。
縁起の法則はすべての法則をつなぐ
同時にこれらの法則を明らかに通徹することが、すなわち真実の本性である。なぜなら、新たな唯識学の根本原理は、あらゆる衆生の心の動きや念い、意識の蔵識に由来するからである。また、どの人の心念意識からも離れることはない。これこそが、修行の有無を区別せず、すべての心念意識に対して真実を如実に知ることが必要であることを示している。
人間がこの世にただ食べ、飲み、排泄し、眠るためだけに存在しているわけではありません。そもそも、この世におけるすべての生存の障がいがどのようなものかを理解することさえできないのです。ですから、人類の衆生は生存の方向性を模索する過程において、仏教の「新唯識学の真理」の必要性を理解することができるのです。人類の衆生とはまさにこのような存在なのです。
「縁起の法則」に対しては、まさに理解できない障害であるが、このような障害があっても、理解できないからといって軽減されるわけではない。生存に対する障害と同じく、この矛盾を人間衆生の心念意識の中に加えるのである。これは、皆の無明に対して現れるものである。
このような問題も、生活の中で現れることがあり、自分を苦しめながらも、どうやってこの障害を乗り越えるべきか分からずにいると言えます。このように、賢明な人であれば、心の意識の中にある無明を除くことを知り、同じようにこれらの記憶を「ICマイクロチップ」の中に刻み込むことができるのです。
縁起の法則 因果が起こり現れる作用
また、次回に再び来た際に、このような経験を積み重ね、浄化と障礙の除去を実践に応用することができます。これは、人類の衆生が縁起の後に、すべての因果と縁に触れることについて、どのように理解すべきかという問題です。大半以上の人が理解することは難しく、このような無明の現れにどう向き合うべきでしょうか？
無明があるからこそ良知があるのであり、これは無明を対象としてそれを化除し、また良知を応用するものである。より大きな向上を如実に成し得れば、新たな唯識学理の実践に応用することができ、日常生活の中では、すべての過程が相互に連鎖し、また相互に融合していくのである。
これは新たな唯識学の理論に対して持つべき基本的な考え方であり、単に順序立てて著作するだけではありません。人間衆生にはそれぞれ異なる習性と慣性があり、それによってすべての現象が生起し、自らの努力によってさらなる向上が促されるのです。さもなければ、「唯識学の法則」に従って応用しようとすれば、多くの矛盾が生じる恐れがあります。
これはまさに人間世界に適用される条件であり、また異なる時空の作用によってすべての法則に対して言えることである。九大法則において、すなわち実相法則、認識法則、経験法則、応用法則、無常法則、恒常法則、無我法則、超越法則、これに縁起法則を加えたものに区別なく当てはまる。
縁起の法則により、一切は性空である。
必要に応じて、各々の過程をありのままに理解すべきであり、それらは実際の作用に応用されるものである。また、これらの法則を相互に関連付け、縁起性空の作用について、それは現れ出たものの如実なる応用の中から、いかに自らを利益すべきかを学ぶべきであり、名相に執着することなく、また順調に施行することが難しい状況を避けるべきである。
したがって、縁起の法則、すなわち因果によってあらゆる行為が現れ、多くの「依他起性」があり、さらに「遍計所執」に入り、世の中のすべての「円成実性」の行為を実行し、善悪、良し悪し、禍福を区別します。このように、長い道のりを経て応用する必要があります。
最後になって初めて気づくのです。これらはすべて自分が固執していた観念であり、この世に空しく来ただけだったと。それでもまだ変えることはできるのですが、最も恐ろしいのは、少しも変える機会さえ与えられず、しかも自分が一体どこで間違ったのかも分からず、どう変えればよいのかも分からないことです。あまりにも困難で、円成実性の中で修正を達成することもできません。
したがって、人類の衆生は、もし自分の過ちがどのようなものかを知らず、自分自身で過ちを改め修正する方法もわからないならば、これはまさにどうしようもない人間界である。これらの変えられない人類の衆生に対しては、より大きな超越と向上を成し遂げることは難しく、これもまた非常にどうしようもない人間界の現実である。
縁起性空は偏計所執すべからず
これもまた、仙仏の先生方が前回に次いで超越の法則を説き、縁起の法則の重要性を解き明かされた所以であります。まさにこのようにして依他起性が形成されるのです。この時、世の中のすべての無明は、自らの生存の志向に従って、自らの無明から現れるものに追従し、過去の経験を持つこともできなくなるのです。
また、自らが困難から脱し難いことをありのままに認め、同時に世の中のあらゆる障礙を生み出している。もしこのような渦中から一歩離れて自己を観察することができれば、なぜそのような状況に陥ったのかという原因が明らかになるだろう。そうすれば、自分が他者に依存して性質を起こし、偏った計らいに執着していることに気づく。この段階に至ると、そこから抜け出すことはおそらく困難を伴うものである。
これは偏計所執の問題点に対するものか？何度も繰り返し形成され、自分自身の無明の障害に対して深く理解した。ああ！人の世はこのようにどうしようもなく生きるほかなく、自分がなぜこのような渦中に陥ったのかも理解できない。また、このような問題の障害から抜け出すことも難しい。
より大きな智慧を持って向上し超越することが必要であり、そうして初めて自分自身の無明の障害がどのようなものかを理解できる。もし善知識や経験豊富な人がいれば、問題を解消し、自分自身がこの渦中から抜け出すこともできる。では、なぜ人は無明の渦中に陥ってしまうのだろうか？
偏計所執には客観性が乏しい。
往々にして偏った計らいに執着する個性を、これが当然のことと見なすと、無明の障礙に対して働きかけることになり、まさに自分自身に与えられたものであると思い込み、それが正しいと信じ込むことで、より公正で客観的な視点を持つことができず、自分が渦中に陥った原因が何によって形成されたのか、またどのようにしてそれを解消すべきかを観ることができなくなってしまうのです。
「縁起の法則」の過程に対しては、善悪・禍福といった分別を離れ、どのような心の状態がこのような局面を形成したのかをありのままに見つめることが必要です。したがって、人間社会においては、衆生が無明に陥るたびにその実態を明らかにしなければなりません。また、無明があるからこそ、より大きな向上が可能となるのです。
ですから、無明は恐れるに足りません。最も恐るべきは、自分が偏った考えに執着することです。それでは、公正で客観的な視点を持って、すべての問題点がどこにあるのかを見ることができなくなります。これこそが縁起の法則の最も基本的な作用です。皆さんは、問題点を理解し、まずその成り行きをはっきりと見極めなければなりません。そうして初めて、大きな利益を得ることができるのです。
さもなければ、一瞬にして渦中に巻き込まれてしまったらどうしようもないではないか。全く割に合わぬことである。しかし、世の中を見渡せば、この渦中に陥らぬ者があろうか。言うなれば、一人一人、一事一事すべてがこのようであり、夫婦の縁組みも、事業の経営も、子孫を継がせることも、すべての問題点の存在も、例外ではないのである。
負担は人それぞれの立場で異なるものです。
また、誰一人としてこの渦の中に入らない者があろうか！それでもなお、喜び勇んで生きており、これこそが世の中のすべての実相の世界だと思い込んでいる。無明に対して言えば、ただはっきり見えるか見えないかの違いであり、時には苦痛の負担、時には甘美な負担、時には平凡な負担という区別があるだけである。
それぞれの衆生の心の状態や考え方はどうであろうか。もしそれが甘美な負担であれば、心から喜んでそれを行い、苦しいとも思わず、勇往邁進してずっと続けていく。もしそれが苦痛な負担であれば、心からは納得せず、情も伴わず、たとえ行ったとしても心の中で不平を言い、早くこの渦中から抜け出したいと願うことになる。
もしこれが普段の負担であれば、ずっと続けていくこともあり、苦しいこととは思わないでしょう。では、なぜこの世には異なる負担があるのでしょうか？これは一人一人の人間の心のあり方や考え方の認識が、生活の中のすべてを導き、心から進んでするか、仕方なくするかの違いを生み出すからではないでしょうか？
これが「縁起の法則」であり、人間のあらゆる法則を繋ぎ合わせて応用するものだ。皆さんは理解できるだろうか？賢い者は飛び越えられるが、そうでない者はその中に入り込んでしまう。また、普段の負担を背負い、縁に従って生きていく。やがてまた同じことを繰り返すことになる。これが人生というものではないだろうか？
嘆けり、人生は渦の中に入るが如く
恩愛の情もて白髪となるまで
心から進んで行うことこそが　縁起の法則は私である
苦しみの重荷に甘んじず　早く離れることが肝要なり
再び渦中に足を踏み入れることはできぬ
振り返れば既に業障の咎あり
この偈は、すべての有情の衆生が互いに励まし合うものである。世の中のすべての縁起の法則は、性空の中に入り、生存の志向の中に存在している。一人ひとりが皆そうであり、世の中に入る心の状態や観念は繰り返されるだけである。理解できるだろうか？自分自身のすべての認識がどのようなものであるかを観察すればよいのだ。
無極白慈蓮  中壇元帥
無極白慈蓮元帥、中壇に初めて登台された
崇心の恩師方に感謝し　後進を導き教えを伝える
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院、学院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈より、南無虚空彩雲光天古仏－虚空彩雲仙姑が降臨され、大道唯識第十四回を著作されました。縁起の法則による因果の生起と顕現を、天書の中で詳細に剖析されています。これは、人世間の全ての無明の障礙に対して示されたものです。
第一回目の講義で開示したように、皆様が更なる向上と超越を遂げられることを願っております。また、前回示された超越の法則を通じて、人間界における全ての生存の在り方において、真の向上がなければ成就はあり得ないということを、ありのままに理解できたことでしょう。さらに、過去の考え方では、男性のみが仏になれるとされていましたが、これは一方を軽んじる偏った見方であります。
しかしながら、現在の元会に依れば、根本的に坤道（女性）で成仏できる者は一人もおらず、南海古佛以外には皆無である。しかし、第一、第二元会に至っては、成仏できる坤道が非常に多く存在する。これを明示し、また坤道も「仏果の位階」を成就できることを示すことで、人界に数千年続いてきた無明を打破するのである。
2015年、3月11日、12時05分◎＃※   了解；
南無虚空　福麻万徳古仏
2011年4月19日　辛卯年三月十七日（火）
南無、衆生ことごとく如来のごとし
虚空に彩霞、徳意愛
古仏降著の唯識冊　依他起性に障害在り
第十五回　依他起性　作意行為
依他起性に作意し、行為す。
有情なる衆生は人道世界において、しばしば多くの生存の障害に遭遇し、人間衆生の生活に多くの無明を生じさせます。この無明は人々の世の中で向上成長の原動力となりますが、なぜそうなるのでしょうか。それは、無明があるからこそ変革を望み、問題のいきさつ全体を理解しようとするからです。
このことについて言えば、無明の障害をどのように修正し変えていくべきか。これこそが正しい道であり、無明の障害があるからこそ、真の除去を望むのである。この部分を理解し難いのは、まさに有情衆生がどのような境地にいるかによって、無明に対する除去の方法が異なり、その心の働きがどのようなものであるかを明確に知る必要があるからである。
これは、人間の衆生が生存を志向する際に、同時に他者の行いに依拠するという性質を指しています。また、このような行為はすべて他者の意図に依拠していることを理解しなければならず、それによって生存の中で互いに助け合い、同様に問題点に対して譲歩することで、円満な生存空間が生まれ、円満な調和が成就されるのです。
これはまた、すべての衆生に対して、人間世界において必ず持たなければならないよりどころである。
性は、他に依ることで、すべての事象と煩悩が主宰するようになり、自らが意を起こした後、すべてのことはどうなるのか？円満に成就できるのか、それとも円満な意を起こすことができないだけなのか？
依他起性 行為作意
まさに分別できるものであり、人類の衆生の行為規範を理解することは、ちょうど相思相愛の新婚夫婦のように、最初のうちはお互いの長所や短所を理解することが難しいものです。このように、誰もが多くの長所と短所を持って生活を潤し、それによって夫婦間のすべての意図がどのようなものであるかを理解することができるのです。
縁あって夫婦となった者なら、誰しも二人が一つに溶け合い共に生きていけることを願うでしょう。しかしこの願いは、必ずしも自分が望む通りにはならないものです。同じように相手も、互いに慈しみ愛し合う心を求めているのです。これは一組の夫婦という観点から見れば、幸せな家庭と甘美な結婚生活に容易に入っていけるはずの道理なのです。
このような期待は双方の意思にかかっているため、大きな包容心と相互の譲り合いが必要です。もし包容心や譲り合いの心が失われた時、夫婦双方はそれぞれ自分の意思を押し通そうとし、これは夫婦関係にとって決して良いあり方とは言えません。
すると、相手の性格に合わせて、お互いに包容と譲歩をすることが当然だと思うようになります。しかし、もし包容や譲歩ができないなら、必ずしばらくすると次々と表面化してきます。そうなれば、夫婦間で争いが起きないほうがおかしいでしょう。これもまた、お互いに対する心の働きであり、それは一人ひとりの習性や慣性から来ているのです。
他に依って起こる性質の行為は、作意の違いによって異なる。
一方が相手の性格に依存し、それを我慢や包容、あるいは我慢や包容をしないことで区別すると、夫婦間の口論が生じ、一定期間のすり合わせが必要になります。新婚夫婦にとっては、双方の習慣や癖が最初から円滑に生活に馴染むことは難しいものです。
これは相手の長所と短所、優れた点と欠点を踏まえて、生活の方向性における融合性を際立たせることです。また、問題をすり合わせる過程では、一定の時間を経て初めて、双方の習性や慣性を理解し、問題を円満に解決して幸福な家庭を築くことができるようになるのです。
もし一方の主張が強すぎれば、もう一方は必ず譲歩しなければなりません。さもなければ、喧嘩にならないほうがおかしいでしょう。まさに相手の性格に合わせて行動の基準を定めるからこそ、新婚夫婦は最初のうちにこのような問題が生じ、その後で円満な関係が築かれるのです。
特に、双方の生活環境が異なり、すべての習慣や慣性も異なり、さらに価値観も同じではない場合、口論の余地が生まれます。このように他者に依存して性質が生じることで、譲れない局面が生まれるのです。また、人類の衆生が生存していく中で、必ず遭遇する問題点でもあります。
依他起性に依りて、作意行為は同じからず。
これは人間の生存における相互関係を指し、区別なく：夫婦、親子、兄弟姉妹、親族、同僚、友人など、あまりにも多くの問題が関連しています。どうすれば円満な生存環境を築けるでしょうか。互いに包容し、譲り合うことが必要です。そうして初めて、一日中争い続ける状況を避けることができるのです。
また、他の人と接触するときには、必ずこの「依
「他起性」の動作とは、本来は自分が固執している事柄でありながら、相手を円満にするために譲歩し、さらに事態に融通の余地を持たせることです。もし融通が利かずに自説を貫こうとすれば、おそらく大きな争いの余地が生じてしまうでしょう。
問題点に対しては、根本的な助けにはならず、逆に問題をより収拾のつかない状況にしてしまう。そのため、他人の意見に頼って事を処理することになる。また、このように他者に依拠して起こる性質に対する配慮は、相手の立場や見解を寛容に受け入れ、自分自身の当初の意見を変えることである。
このように心を向けると同時に、大きな違いが生じます。これは依他起性において、誰であろうと区別なく、このような包容心と忍耐力を持つということであり、また自己の生存の方向性において、相手の立場の違いから来るものであっても、自らの中に「包容心と忍耐力」を保ちながら行動させることにもなります。
依他起性は必ず容受と円満を要す
人間の衆生はこのような行為の中で、相手の性質の起こりを以て、それが当然のことと見なし、また問題を円満に解決する。これは双方の異なる角度に対して成全を行うものであり、時には非常にどうしようもないことである。そうでなければ、争いの余地が生じ、皆がそれを望むだろうか？そんなことはあり得ない！
したがって、夫婦間や人間関係においても同じことが言えます。別の視点から見ると、夫婦関係や人間関係において、夫婦双方は相手の視点が異なるからといって、相手を無視したり軽んじたりしてはなりません。同じ屋根の下で共に生きる以上、双方のどちらかが忍耐と包容を示す必要があるのです。
夫婦の離婚問題が生じることはありません。これは夫婦間の
依他起性に依って、自己の無明の障害を改めるよう修整するが、人間関係と夫婦関係及び親情はまた異なる。人間関係においては相手を無視することもできるが、異なる観点と無理な認識は、親情においても夫婦と同じであろうか？必ずしもそうではない！
しかし、他の人間関係においては、このような相互の忍耐と包容はなく、時には異なる角度から見ると、双方の立場が異なり論点も異なるため、相手の立場を融合させようとすることがあります。つまり、双方が互いに融合できない時には、必ず二人が真っ向から対立することになります。
人類の衆生は日々、依他起性に依って生きています。
双方の異なる視点が行動の基準を形成するが、必ずしも円満とは限らない。逆に多くの問題が生じることもあり、そのような行き過ぎた場合には相手を無視することもでき、相手に振り回されることはない。双方の視点は問題点の利益に焦点を当てつつ、いかにして円満を生み出すかが問われる。
人それぞれ価値観の違いがあるゆえに、相対的に言えば、他に依る起性も存在しない。また、人類の衆生が生存の中で、まさにこのように、自らの生存の方向性を決める際には、自らの認識と観念に由来するものであり、双方が互いに譲り合い、包容し合う過程においてはどうであろうか？
すべての衆生に対して、物事の問題においてはこのようにあるべきであり、また問題が悪しき方向に進むのを食い止めるべきである。人類の衆生はこのように他に依って性を起こすのであり、まさに一人ひとりの人間の意図的行為であって、自身の観念がどうであるかによって左右されるものではない。古くから言うように、「性を知れば好いて相い居る」とは、他に依って性を起こすことであり、また相手の欠点や価値観をも受け容れることなのである。
有情の衆生は依他起性に依る。
また、人類の衆生がこの種の問題に対しては、非常に大きな包容性を持つことになり、同様に非常に大きな円満さを持つことになります。もし人々が依他起性の中で互いに包容し合い、譲り合うことができれば、多くの問題が生じることはなく、問題点に対しては依他習性に基づいて物事を処理することで、より大きな向上があり、より大きな円満さも得られるのです。
したがって、人類の衆生は自らの生活領域において、必ずこのような行為を持つ必要があります。それは人類の衆生に向けられたものであり、生活の方向性において当然そうあるべきであり、自分がそう思うからという理由だけで決めつけるべきではありません。それはあまりにも独断的であり、円満に調和する日は訪れないでしょう。さらに、問題に対する認識は、自分自身の認識や観念から生じているのではないでしょうか。
そして、物事に対する見方が異なるということが生じます。これは、情を持つ人間の衆生の個性と習性による作意であり、自分と他人との間に隙間を生じさせてしまいます。どうすれば円満にできるのでしょうか？さらに大きな向上を遂げるためには、まさにこの世の中で実践することにあります！そして、この世において真の利益を得ることができる者は、良き善き報いを得ることになるのです。
縁起の法則は意を造作す　依他起性は宜しきが如し
自らの分際を慎み守り、相手との相互依存を賛同す
もし生存が共にあると言うならば
それは円満と和気に他ならない
互いに包容し、多く忍び譲ることで、問題や事柄は変化し移ろいゆく
この偈は、すべての有情の衆生が互いに励まし合うものであり、依他起性に対してどのように包容と忍譲をすべきか？これは非常に深い修行であり、もし包容と忍譲ができなければ、多くの争いが生じるでしょう。これは依他起性によってこそ助けられることであり、つまり人と人との間に相互の良き接触があってこそ実現できるのです。
無極白慈蓮　福德正神
無極白慈蓮の福徳にて、正神登台し共に来たりて言う
初めて縁を結ぶ神人に会う　庚寅の末に寒さが次第に忍び寄る
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、今晩は。本日は本宗脈より、南無虚空彩霞徳天古仏－虚空彩霞仙姑が降臨され、大道唯識第十五回を著作されました。一つの依他起性の作意を解き明かし、皆様が理解できるよう詳しく分析されることは、大いに助けとなることでしょう。
この人類衆生の生存に対する姿勢は、忍従と包容の中で高みを目指すことであり、自己の認識に固執して集団の調和を損なうことではありません。これは人類衆生がこの時空において必要とする基本的な行動であり、皆様と共に学び成長していきたいと願っております。
新春が間近に迫り、今年のすべての聖務を終えようとしています。今年は台湾にとっては吉祥の年と言えますが、全世界にとっては吉祥の年ではありませんでした。来年はさらにその傾向が強まるでしょう。皆さん、どうかご用心ください。未来の災厄が訪れる前の平穏を！自分が持っているすべてのものを大切にしてください。
努力して学び成長することで、自らを向上させ超越することができます。その時になって再び無極大道学院に入るようなことになれば、学院の学士たちに笑いものにされるでしょう。このことを心に刻んでおく必要があります。人間界で努力し、未来の成就のよりどころとすることが、自らが得るものなのです。
2015年、0311、1206◎＃※   ０Ｋ；
南無虚空　文沢教化古仏
2011年4月22日　辛卯年三月二十日（金）
南無虚空天界より来たり
彩霊福天古仏を排す
大道唯識十六回
偏計所執に衆生危うし
第十六回　偏計所執  衆生執固
偏計所執、衆生は固く執着す
有情なる衆生が人道世界に入ると、多くの事実に偏った不正確な理由が生じます。それゆえ、真実の意味を向上させることは難しく、この人道世界において自らの執着を知り、あるいは問題を理解し難いが故に、自らに対する偏った計らいと執着を固着させることになるのです。
これはまた、人類の衆生が生存の方向性において、どうしてこのように偏って執着し、完全さを保つことが難しいのか？それゆえ、偏執が生じるのは正しくなく、道理を実践する際の制限や障害の中で、いかにそれを取り除くべきか？偏った考え方に執着することが何であるかを理解する必要があり、また、どこに偏っているのかを明らかにしなければならない。
人類の衆生は、この種の問題点がどのようなものかを理解することができません。人類の衆生が生存の方向性を求める中でも、信仰の中でも同じことが言えます。なぜこのような問題が生じるのでしょうか？まさに人間の思想や観念に、異なる角度からの考えが加わることで、一人ひとりに対する見方が異なってくるのです。
見方が異なれば、生じる視点も違ってきます。往々にして問題に対しては
ただ一つの種類があるだけなのに、人類の衆生は多くの問題を生み出し、それによって自らの視点も他人の目とは異なってしまいました。これは一人ひとりに対して言えることで、人類の衆生が抱える問題点は同じであるにもかかわらず、そこから派生する見解は異なっているのです。
偏計所執はまた唯識学の障礙である。
この種の問題点から人類の衆生を観察すると、生存への志向も同じです。つまり、異なる角度で物事を見るからこそ、同じ問題でも、そこから生じる視点と対処方法も異なる作用を持ち、思想や観念にも違いが生じるのです。
このように人間の衆生の思想観念において、一つの事柄に対して肯定的な思想が生まれることもあれば、普通の思想が生まれることもあり、さらに異なる角度からの思想が生まれることもあります。これらの多種多様な観念は、一つの事柄に対する見方と角度を異ならせます。果たして、他の人々は皆間違っていると言えるでしょうか？それはできません！
人はそれぞれ視点が異なるため、生まれる見解や考え方も自然と違ってきます。さらに、人間の衆生が行う行為や価値観も異なるため、導き出される答えも当然変わってきます。このような問題点は人間の衆生においてそうであるだけでなく、実はあらゆる思想や観念においても違いが生じるものです。それゆえ、異なる思想や観念が存在するのです。
角度によって考え方も異なりますから、一方に偏るのは避けられません。そのため、問題点に対する異なる思考に加え、異なる時空の角度から物事の始まりと終わりを観察すると、異なる問答が生まれます。では、このような問答が生じた場合、どうなるのでしょうか？
偏計所執のそれぞれの位はすべて同じである。
人類の衆生が同じ一つの事柄を観るに当たって、異なる答えが生じます。もしただ一方に偏り、それに執着するならば、これは偏計所執の方向を生み出すことになります。同時に、正道の観念から生じるものもあり、また平常の境界が突き出てくることもあります。この三つが人類の衆生に対して向上をもたらす際には、異なる結果の現れが生じることになります。
人間の衆生には、しばしばこのような因縁の広がりがあり、それによって問題点が繰り返し現れます。自分とは異なる観念が広がることで、皆が同じ事柄に対して異なる見方を持つのです。もし人間の衆生が造作をなさず、問題点も現れなかったとしたら、どうなるでしょうか。まさに各人の視点の違いが原因なのです。
異なる問題点に対する見解があり、正しい観念が生まれ、さらに普通の人々が持つあってもなくてもよい観念があるからこそ、人類の衆生は言えるのである：異なる角度からの観点は誤りか？そうではない！それは各人の異なるレベルであり、各人の思想や観念も異なり、各人の行いも似通うことは難しいのである。
このようにして、一つのことを統合する方法がなく、これが人生なのです。例を挙げてみましょう！太陽は東から昇り、毎日見ることができますが、もしある日太陽が見えなくなったら、気持ちはどうなるでしょう？またある日、風が吹き、雨が降り、霜が降り、雪が舞う日には、どんな気持ちになるでしょうか？
天気の変化によって心境も異なってくる
寒さが厳しい日々も訪れるでしょう。このような心境は、人間の衆生一人ひとりに異なる心理的要因があり、世の中に時折雨が降り、風が吹き、霜が降り、雪が舞うのも悪くないと考えるかもしれません。しかし、別の心境が生じた場合、どうなるでしょうか。
それぞれの時間が形成される際、心境は同じでしょうか？いずれも難しいことです。それゆえに、季節の移り変わりによって生じる異なる気の流れは、それぞれ異なる心境をもたらします。だからこそ、人類の衆生は多くの異なる角度から応用することができるのです。これが一つの事柄であり、各人が表現する心境もまた異なるのです。
それゆえに言えるのは、これは偏計所執であろうか？そうとは言えないのです！これはただ人間衆生の異なる角度からの観点に過ぎません。自分が見ているものと異なるからといって、それを偏計所執と言えるでしょうか？このように異なる角度から観察すれば、人間世界のあらゆる行為は、それぞれ異なる角度からの観点を生み出すことになるのです。
それによって、ある者は一生涯向上し続けることができ、ある者は一生涯平凡で凡庸であり、ある者は一生涯困窮に苦しみ、ある者は一生涯福報を享受し、ある者は一生涯衣食に不足がなく、ある者は…あまりにも多くの「ある者」がいるのです。これが異なる視点であり、各人の立場によって異なり、観念も異なります。
偏計所執、衆生は執着して固執す。
人世間に存在するすべての問題点は、その根本は同じですが、各人の因縁や時空環境によって生じる形は大きく異なります。もう一つの例を挙げると、人類衆生の問題点に対する見方はそれぞれ違うのでしょうか？そのため、人類衆生は日常生活の中で、常に多くの問題を生み出しているのです。
また、その問題点は、様々な問題に対する見方が異なるため、各人の行動の視点も異なってくることです。しかし、時空の縁起と環境の中で、一つの出来事に対する関わり方も異なってきます。では、なぜこのようになるのでしょうか。それは、その瞬間にはそうであったとしても、しばらく経ったり、数年後には変わっているからです。
同じ問題に再び遭遇したとき、そこから生じる結果は異なるものになるでしょう。このように、問題に対する角度や見方が成熟しているかどうか？あるいは遭遇する問題点が少し増えることで、一つの事柄に対する見方に経験と知恵が備わり、すでに成熟しており、過去に初めて経験したときに適用したようなことは、もう生じなくなるのです。
そして物事に対して少し融通性を持つようになると、このような偏った執着は、不正確な角度から見たものですが、人類の衆生はまさにこのように、この不正確な角度と観念を自らの行いの中に取り入れ、さまざまな問題点が現れてくるのです。現代の人類の衆生の様々な習性の違いに対して。
偏計所執は、すべての衆生がそれぞれに有しているものである。
生存の違い、記憶の違い、思想の違いがあっても何ということがあろうか。それによって異なる偏った計らいと執着が生じるだけである。実は視点を一つ転換さえすれば、いつまでも偏った執着に陥ることもなく、固定化してしまうこともない。時空、環境、思想の応用が必要であり、それによって過去に遭遇した矛盾点を解消することができるのだ。
自らの思想に取り入れて成長すること、これこそが問題点を解消する最善の方法であり、最適な角度からの対策です。実のところ、人類衆生はこう言えるでしょう：「一事を経なければ一智は長ぜず」と。人類衆生はまさにこのようなものであり、困難な問題に遭遇しなければ、向上を促す超越へと進むことはできないのです。
常にすべての執着の実践に偏りがちです。この世はただ時間と空間、環境が再投影されたものに過ぎません。「偏計所執」を対象として、向上し超越する方向へと変えていくことにおいて、私たちは皆同じです。また、物事に対する見方が異なるため、生まれる答えも異なってくるのです。
偏って執着する計らいは、いかにして転化するのか
一つの事柄を見るに、どうして正しいか否かと言えるだろうか。まさに各人の視点が異なり、各人の経験も異なり、各人の時空も同じではない。ある時間を経てから思想や観念も成熟する。皆さんにお尋ねしたい、生まれてから今に至るまで、すべての思想や観念はどれほど変わっただろうか？果たしてあまりにも多すぎるのではないだろうか？
それぞれの時空において、変化するものは異なります。また、すべての人において同じであれば、なぜ思想や観念が変化するのでしょうか。そして、行う事柄もまた変化するのでしょうか。実は、みな同じ人間なのです。しかし、一人の思想と行動を向上させることで変えることができ、多くの悩みの発生も減らすことができるのです。
古人は言う：一事を経なければ、一智は長ぜず。世の中には、物事の見方が異なるために悩みが生じ、変えようと思う者もあれば、一生どう変えればよいか分からぬ者もある。向上して超越することも難しく、これが「偏計所執」の固着であり、変え難くもどうしようもない所以である。
一生の苦労は誰のためか
ただ自分が為したことのため
一方に偏った執着心は、いかにして自ら縛りから解き放たれるのでしょうか。
人それぞれ視点が異なり、時空の環境は想像しがたいものです。
成長すれば苦しみは減り
偏った執着はどうして広められようか
この偈は、すべての有情の衆生が互いに励まし合うためのものです。人生は一つの観念や思想を改めることに過ぎませんが、問題にはまた、時間、空間、因縁、環境の違いがあります。数年が経てば知識も成長し、世の中の試練や経験も多く積まれ、その時には智慧も増していくのです。
大いに異なるところがあります。この時点では、偏計所執（へんけしょしゅう）は既に放下（ほうげ）されており、人類の衆生も若い頃のような無鉄砲さはなくなり、何事にもあまりこだわらなくなっています。皆様にはご一緒に著作に携わっていただき、誠にありがとうございました。庚寅年（こういんねん）もまもなく終わります。皆様の辛卯年（しんぼうねん）がより一層ご発展されますようお祈り申し上げます。では、またお会いしましょう。
無極白慈蓮　観世音菩薩
無極白慈蓮観音菩薩、登台して有情を会す
人間の縁は前から定まっている
ただ、考え方の違いで行動が異なる
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院、院修学士の皆様、今晩は。本日は本宗脈より南無虚空彩霊福天古仏－虚空彩霊仙姑が降臨され、大道唯識第十六回を著作されました。これにより今年のすべての聖諭が完成し、皆様に対しても円満に結了いたしました。すべての聖務は滞りなく完了いたしました。
これは皆様が一年間かけて積み重ねてこられたすべての努力の結晶です。来年はさらに良くなると信じております。また、今年最後となる「禅機破迷障」の聖務も、明日を過ぎれば今年の全てに終止符が打たれます。来春からはより大きな弘揚と推進がなされ、すべての功徳が自らを成就させ、広く衆生を救済する、真に素晴らしい成果が得られることを期待しております。
2015年、3月11日、12時07分◎＃※   了解；
南無虚空　仁徳忠義古仏
2011年4月29日　辛卯年三月二十七日（金）
南無、衆生は皆仏性を具え、
虚空に彩鶴、徳意新たなり。
寿天古仏降り来たりて臨む 円成実性に本因を造る
第十七回　円成実性　真如起現
円成実性 真如現起
有情なる衆生が人道世界に入ると、生存に向けた多くの習性があり、必ず多くの問題や欠点が生活の中に加わります。これによって引き起こされるのは、まさに「依他起性」と「偏計所執」が存在し、日常生活における固執に影響を与え、それゆえに変えることが難しくなるのです。
もしあまりにも偏りすぎると、生活の基盤となる性質において、多くのどうしようもない出来事が現れます。この時、問題点に対して潤いを与えることが、一種の相当な働きかけとして潤いをもたらすのです。言えることは、誰もが生活の中に多くの問題を抱え、一つ一つの出来事が人の行動に影響を与えるということです。
自分が望む方向に修正を加えようとする際、まさにそうあるべきなのだと言える。つまり、この種の問題点は、自分の生き方に対して、自らの欠点を修正し改善するものではあるが、往々にして自分の望む通りに修正することができず、かえって自分の習性に引っ張られて前に進んでしまうのである。
人類の衆生の習性は、いかにして円成実性において完現に至るか、これが
人間の行動は、自らの生存志向に基づいて異なる拠り所を持つため、有情衆生にとってはまた一つの非常に取り除きがたい障害となる。では、なぜこのような障害があるのだろうか？自らの習性と欠点に対して、どのように取り除くのが正道であろうか？
円成実性は人類の真如が現れ起こるものである
有情なる衆生は、しばしば自らの欠点と習性がどのようなものであるかを見極めることができません。そうすると、多くの問題点が生じてきます。では、このような欠点と習性をどのように修正し、改めることができるでしょうか。相当な大きな意志力が必要であり、それによって初めてこのような欠点と習性を転換し、解消することができるのです。そうしてこそ、真に自らを益することができるのです。
有情なる衆生が人道世界に入ると、多くの問題や様々な習性と欠点が生じます。では、これらの習性と欠点をどのように取り除くべきでしょうか。これはまさに修行の一つであり、強い意志と忍耐力が必要でなければ達成できません。さもなければ、問題点を理解しただけで、自らの習性と欠点を修正し変えることはできないのではないでしょうか。
また非常に大きな悪影響があります。このような問題は、人間の衆生が障害のポイントを理解できないものであり、また人間の衆生が依他起性において、固執に陥ることに向けられたものです。それによって一方に偏ってしまうのです。なぜこのような人間の衆生に偏計所執が生じるのでしょうか？まさに多くの人々が、一方に偏りながらも、それを理解することが難しいからなのです。
また、人間世界は一方に偏り、善悪、良し悪し、禍福などを区別せず、すべてがこのようになってしまった。さらに、人間の衆生は皆一方に偏っているため、「偏計所執性」に対して調和を図ることになるが、すでに一方に偏執しているだけでなく、人間世界がまさにこのようであることもはっきりと見ることができなくなっている。
円成実性真如が顕現する
「円成実性」における「真如の顕現」を望むならば、それは達成不可能となる。なぜなら円成実性においては、まさに人類衆生が問題を円満に成就させているか否かが問われるからである。人間世界においては、円融を以て事に当たり、問題点に対処すべきであり、あらゆる事柄の始まりからこのようにあるべきなのである。
また、これは日常生活の中で人間の衆生がどれだけ寛大に相互に向き合えるかという点にも応用できる。それゆえ、儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教など、いかなる宗教も区別することなく、すべてが「偏計所執」の現れを担い、それぞれの宗教の長所を際立たせているのである。
そうでなければ、どうして衆生を導いて信仰に至らせることができようか。問題に対して解決できず、かえって信仰者に対して、心の中の真の執着を打ち破ることができない。また、どうすれば自分が信仰の中で一方に偏ることなくいられるだろうか。偏った考えに執着する行為が、いかにして解きほぐされるかを理解しなければならない。
実は一方に偏執しないことが、すなわち「中庸の道」を理解する鍵であり、これはあらゆる宗教にとって極めて到達困難な条件である。このように儒教思想においては、自らの優れた点にも偏らず、自らの不足にも執着せず、「中道の思想」によって円成実性へと入ることが、真の向上をもたらすのである。
円成実性は如何に施行すべきか
その中には偏りのない「中道」というものがあります。しかし、どの宗教も一方に偏りがちで、真の中道を構築することは難しく、中道思想を高めることも困難です。では、なぜ人類は繰り返し輪廻を続けているのでしょうか？まさにこのような偏った思想や観念があるからなのです。
もし人間の思考が加われば、真の中庸の道は存在しなくなります。これこそが、あらゆる宗教が信仰の中で、この世において自らが向上成長を遂げられない原因を形成している所以であり、これは極めて深刻な破壊力なのです。
さもなければ、信仰を持つ者たちはとっくに西方極楽世界や天国世界に帰っているはずです。なぜ今なお人間世界に輪廻し、沈淪しているのでしょうか。来世もまた同じことの繰り返しでしょう。これこそが有情衆生の宗教信仰における無念さというものです。
実際、全ての宗教の聖人が慈悲深くないわけではありません。もし同じ宗教の聖人が再び俗世に降りて衆生を教化しようとしても、人類のこのような悪しき習性を変えるのは難しいでしょう。信じようとしない者もおり、二千余年もの昔から固く守り続けてきた執着を堅持し、それどころか自分自身のそのような修行こそが正しい道であると思い込んでいるのですから、どうしようもありません。
円成実性、真如より起こって現ず
自らがこの相当に高度な条件と考えるものは、いかなる宗教を修持する場合でも同じであり、この種の「円成実性真如が顕現する」ことを知る必要があります。真如が顕現する過程においても、円満和合して円融成長へと至るのです。このような条件と修持の方法は、実はすでに凡塵世界に広く伝えられています。
偏った一方に執着しない修行さえすれば、人間世界は大きく向上する。逆に、偏った一方に固執してしまうと、向上成長することはできなくなる。これこそが人類衆生の最も深刻な問題である。実のところ、修行は自らの分内のことであり、宗教に入っているか入っていないかに関わらず、すべての者に等しく当てはまることなのである。
また、偏った見方に固執しているため、自らの奇抜な癖や修行上の欠点を根本的に改めることができず、人間の衆生はこのような形で行動している。自分がそうあるべきだと考えていることに固執し、それによって行動を変えることができなくなっている。一つの事柄に対して、人間の衆生にはそれぞれ異なる指示と見解があるのだ。
一つの大きな方向性を用いて、人類衆生の行いを観察すれば、いかなる問題に遭遇しているかが理解できるであろうか？これは人類衆生が宗教に入る際に直面する最大の破壊力に対するものであり、いかにしてこのような破壊力を回避するか？つまり「執着して固執する」ことをしてはならないのである。
円成の作用は円満なる実際性を有すべし
初めて修行において「赤子の心」と半端な心持ちを保つことができるのです。さもなければ、すべての宗教は皆、自分たちの信仰する宗教が天下第一であると人々に伝えています。そのような天下第一であるならば、執着や固定観念を持つべきではなく、また他人の欠点を批判して自分の長所を引き立たせることもすべきではありません。
これこそが、信仰において天下第一である者が、当然こうあるべき姿であり、それゆえ円成実性において必ず真如が現前することになる。このように真如が現前すれば、自らの「仏性の種因」が増し加わり、「魔性の種因」の高まりを減じることができる。この時こそが最も殊勝なる時空であり、真如仏性の境界へと入るのである。
このように真如仏性とは、自らが日常生活の中で、自らの仏心・仏性を照らし見ることにあります。これは円成実性への第一歩に過ぎず、また自らが未来において、なお多くの努力と実践すべき条件があることを示しています。すなわち真如が現れ出で、生存と相互に融合していくのです。
また、真如が顕現する際には、必ず仏性真如によって顕現されるべきであり、魔性真如によって顕現されたり突出させたりしてはなりません。これは、自己の真如が顕現する実際の過程における区別であり、魔性真如によって突出させるのではなく、自己の魔性に対してそれを除去すべきです。このようにしてこそ、正しい道となるのです。
可笑しきかな人生信仰の道　それぞれの段階で様相異なり
他に依って起こる性質で人となる
偏った計らいに執着するのは理解し難い
誰もが仏と魔の性質を併せ持つ　なぜなら人間として目覚めることは難しいから
自らに円融できずして　本性の清らかさを満たすは甚だ難し
この偈は、すべての有情衆生が互いに励まし合い、世の中での成長はすべて自己の認識を基準とし、それによって問題に対して円満な解決ができず、「円成実性」の真如を現すことも難しく、真に自分自身の主人となることができず、かえって常に自分自身の奴隷となってしまうことを示しています。
無極徳意　観世音菩薩
無極の徳意蓮観音　登台して共に諸の有情を会す
大道唯識辛卯の年　筆を開き弘化の大道を行く
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、今晩は。本日は本宗脈の南無虚空彩鶴寿天古仏－虚空彩鶴仙姑が降臨され、『大道唯識』第十七回「円成実性、真如起現」を著作されました。これを剖析して皆様に提供し、異なる思惟構築の参考とさせていただきます。
辛卯年の新春に筆を開き、皆様にまた吉祥の始まりをお届けします。同時に、崇心宗脈の全ての学生が、更なる超越と向上へと入ることを願います。これはすなわち、大道唯識をもって著作し、皆様に認識の観念を提供し、過去の全ての唯識学を、現代的な新たな方法で著作するものであります。
皆様に分かりやすくお伝えしますと、すべての「新唯識学の理諦」が明らかになり、また崇心宗脈の仙仏老師が来年の大いなる弘展を期しておられるため、多くの方法も応用されています。皆様の努力と貢献を通じて、まさにご自身の成長を高め、超越の中で円満を成し遂げ、四億の仏子たちが回帰されるのです。
2015年3月11日12時08分◎＃※   了解；
2011年5月3日　辛卯年四月一日（火）
南無虚空大天界　彩花麗天古仏推
大道唯識十八回　   　すべての心所は必ずや会い難し
第十八回 五心所 善悪各分
五十一の心所 善悪それぞれに分かれる
有情なる衆生が唯識学の理諦に入るには、必ずこの中の51の心所を明らかにし、それらを識別して理解する方法を知る必要があります。もし心を込めて51の心所を徹底的に理解することができれば、すでに大半の時間を費やしたことになります。また、このような名相を研究する「唯識学」は、専門的に精通して初めて理解できるものです。
また一般の大衆にとって、唯識学の理論を専門的に深く理解しようとすれば、その中の真の意味を本当に理解することはおそらく難しいでしょう。このような古代から伝わる深遠な意味合いの中で、現代の時代において言えば、すでにその意味合いや作用を理解することは非常に難しくなっています。それゆえ、その深遠な意味合いがどのようなものであるかを理解する必要があるのです。
はっきり言えば、実はただ善心所・悪心所・平常心所の三つに分けるだけです。もし無理に51心所に細分化すれば、おそらく人間の衆生には理解が非常に難しくなるでしょう。「唯識学理」において、このような心所の障壁を、どうやって「51心所」の枠組みを突破していくのでしょうか。
それぞれの心所において、どのように活用し、どこに限界があるかを、ありのままに理解する必要があります。
いかがでしょうか。もしその中の内実を理解することができず、あたかも順を追ってその作用を知ろうとすれば、多くの時間をかけて統合することになりますが、それでも本当に理解できるとは限らず、あるいはその中の一つ一つの作用をはっきりと記憶することもできないでしょう。これもまた一種の迷いの障壁ではないでしょうか。
五十一心所の運用
まさに有情衆生は「善心所、悪心所、平常心所」という区別に入り、人類衆生は『唯識学』の理諦を研究するにあたり、名相によって局限されることなく、これが人類においてより大きな向上が得られないのは、ただ時間と空間を「心所作意」を理解することに浪費しているからである。
この条件は「心の作意」にあり、自らがはっきりと応用できるようにするためのものであり、ただ名相の中をぐるぐる回っているだけではありません。これは人類の衆生が「唯識学理」を学ぶ過程において、必ず取り除かなければならない障害であり、そうして初めてその名相に限定された真の意味を理解できるのです。
また、「善心所、悪心所、平常心所」の三つに区分し、人間衆生に対する認識を区別しています。これらの名相を排除しても、唯識学理の専門的な学習には影響しません。仙仏の先生は現代的な名相を引用して、「善心所、悪心所、平常心所」の三つに区分しているのです。
はっきりと分かるように、皆が一目で理解できるように、このような限界と障害を取り除くことができれば、多くの模索の時間と因縁を減らすことができます。これは「善心所、悪心所、平常心所」を応用し、自分自身の無明が現れる中で、真に「新唯識学理」の応用を理解できるように、実態に即して対処することです。
五十一の心所の了別
人間の衆生は、時空の循環の過程を経て、しばしば多くの無明の障害に遭遇し、世の中のすべての生活を妨げています。このような状況は、すべての人間の衆生にとって、大きな向上の作用をもたらすものです。また、このような限界を捨て去り、多くの名相に頼らなくなることで、初めて向上が可能となるのです。
したがって、無明に対しては、必ずや向上の障害から抜け出せずに深く陥ってしまう。もし唯識学の研究会に入って理解しようとし、『唯識学』の理諦を貫徹したいと望んでも、すでに文字の障壁に左右されてしまっている。これはどうしようもない学習の過程であり、短い人生でなすべきことではない。
また、「善心所、悪心所、平常心所」に区別されます。一人ひとりの人間には、この世において多くの問題点があり、生存の方向性の中に存在しています。しかし、人間の衆生は心を動かし、念いを起こし、あらゆる事柄に関わっていくのです。では、問題点を識別し、それを解消するにはどうすればよいのでしょうか？
人類の衆生が存在するようになると、心念意識が生存の方向性を主導するようになりました。このように、51の心所において、それぞれの段階では、生存の方向性に制限されるものが多くある一方で、直接理解できるものも少なくありません。心所の向上においては、まさに多くの名相が、自らの心念意識の応用から生じているのです。
人世においては、ただ心の識別する所のみである。
そして「心を動かし、念を起こし、意に入り、蔵識に納まる」ことによって現行を引き起こす。この種の現行の起こりは、また新たな唯識学の理論に対して、その問題点がどこにあるのかを明らかにしなければならない。もし善心所をもって、あらゆる事柄に対して順縁のごとく現行を起こすならば、このような順縁による現行の起こりは、誰一人として自らの心の内でどのように顕現しているのかを知らないのである。
前世の因縁果報が存在するからこそ、現在の教育と教化に参与して成長し、心の内にこの一度の教化と教育を記憶すれば、悪業を再び造ることができず、善き心を保つことができるようになります。このように「善心所」が存在することこそ、自分自身の心がすべての事柄を好む所以なのです。
そして自らの八識田に「心心相映」を引き起こし、内心中に存在するすべての存在体に反射させると、連続的な動作が生じます。これは善心所の中に微妙に存在し、もはや悪心所に引きずられて制限されることはなく、また一種の内心の顕現であり、問題点に対して育成を加え、善心所の行使の中に存在するのです。
もし悪しき心の働きによって観るならば、人間衆生が悪しき心の働きに入ることも、自らが望む行いなのです。人はこれを「感情的反応」と捉え、さらにそれを良く修正し変えようともせず、ひたすら悪しき心の働きへと進んでいきます。それに加えて人間の良からぬ感情的反応が、あらゆる問題をいつまでも先延ばしにさせているのです。
八識の心所は善悪を区別し、平常心を保つ。
根本的に一日も変わらないなら、このような状態が続けば、将来には多くの問題が生じることになります。だから、人間の衆生はその問題点をはっきりと知っていて、将来がどのような結果になるかを考えることもできるでしょう？しかし、感情的な反応の作用のもとでは、「いやなものはいや」というこの拒絶の問題は、一見単純に見えますが、実際にはどうなるのでしょうか？
未来において形成されることになる：ほんのわずかな誤りが千里の誤差を生むという問題点。このような問題は分かっていながら、進んでそれをなかったことにすれば、「悪心所」の連鎖を形成し、未来の災いが降りかかる前兆となる。もししっかりと反省しなければ、このような悪い結果を招くことになり、どうすることもできなくなるのだ！
このような人間衆生に対する平常境は、持続的に保つ必要があります。なぜなら、「依他起性」の中において「偏計所執」が働くことを知り、それが一方に偏った行為であると理解すれば、真の悟りを得ることはできません。平常境においては、このような問題を解消すべきなのです。
実は人間の衆生は、「平常心所」の中で行動することができるはずです。なぜなら、「一切心所」に対して善悪や良し悪しを問わず常に平常心を保ち、また「平常心所」に順じることで、他の問題を引き起こすことなく自らの感情を管理できるからです。
平常心の照らし現わすところ
自らの思考や感情のコントロールが可能となり、いわゆる悪心が現れることもなくなります。この時、善心が存在し加持を与えることが必要であり、また人間や衆生に対しては平常心を持ち、感情のコントロール不良を解消することができます。このような因縁条件は、人界において比較的多く見られる事柄なのです。
したがって、人間の衆生がなぜ業を造るのかというと、それは自分の感情の反応をうまく管理せず、常にこのような感情を悪心所の現れに付け加えているからです。そうなると、事態は手に負えなくなり、善良な縁を悪しき因果の不良な結局に変えてしまうだけでなく、苦しみを引き受けることにもなります。
人類の衆生がもしただこのような心の状態に留まるならば、根本的にはすべて来世において再び迷いの世界に沈む限定点となってしまいます。必ず知らなければならないのは、人類の衆生が心の領域に入り込むこと、この心の領域はまたあらゆる衆生それぞれが、いかなる時空においても区別なくこのようなものであるということです。まさに自分自身の感情管理に対して適用されるものこそ、必ずこのようでなければならないのです。
世間に対しては善知識が互いに助け合い、自己の無明から現れるものを、悪心を取り除くことで持続させます。まるで、ある先生が比較的無鉄砲で横暴に振る舞うが、問題が発生する前に、傍らにいる妻が説得して、悪しき問題点を消し去り、持続する機能が現れるかのようです。
善悪を補助する心所こそがまさに善知識である
このような夫婦間の円満な調和は、一方が善で一方が悪であると言えますが、もしそれを解消できれば、それは平常心が現れた状態となります。また、ちょうど一人の人が悪心を起こした時、善知識が導きを与えることで、悪心の継続を減らし、平常心へと変えることができるのと同じです。
この世の中では、夫婦が自分の貴人となることもあれば、善知識が自分の貴人となることもあります。これは自分で選択できるものであり、主な成長の縁でもあります。こうして善心所が多く形成され、悪心所を変えて取り除くことができ、また平常心所も現れるようになるのです。
これは誰もが実感できることです。一人で考えるよりも、二人で考えた方が、より善き心の働きを生かすことができ、またあらゆる問題において、悪しき心の働きによる障害を取り除くことができるのです。このような状況は、人類を含む衆生にとって、最も必要とされる一つの事柄をありのままに知り、災いを除くという観念を確立することです。
善悪の心が因縁を造り　　平常心には増えもせず
五つの一心所はそれぞれに政を為す　　簡明にして瞭らかなり、この心の沿うところ
貴人は滅悪の因を現じ　悪心の来たるはまた影の如し
必要とされるのは、それが感情であることを理解することであり、管理と改善もそれに応じて形を成す。
この偈頌は、有情の衆生が互いに励まし合い、唯識学の51の心所について現代的な方法で原理を解明し、過去の名相に頼らないことを目指すものです。もし理解を待つならば、また長い時間をかけて模索することになります。果たして有情の衆生にそのような長い学習時間があるでしょうか？必ずしもそうとは言えません。すでに貴重な命を浪費し、時間と空間、そして信心を保つ機会を失ってしまっているからです。
無極徳天大夫人
無極の因縁初めて台に登る
徳天大夫人が取り計らう
諸聖恩師の慈悲は
崇心の諸賢と共に集い載せる
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈  南無虚空彩花麗天古仏－虚空彩花仙姑が降臨され、大道唯識第十八回を著作され、五十一心所と善悪両分を天書に明らかにされました。皆様が真に理解されますよう、ご提供申し上げます。
これは人間の衆生の心性の取捨を対象とし、皆がより大きな成就を得られるようにするためのものです。その中で、これら「心所」をすべて「善心所、悪心所、平常心所」という三つの区別に融合させ、他の心所の煩雑な区別を減らし、「51心所」の問題点を迅速に理解できるようにしています。
また、どのように管理するか、自分自身の全ての悪い感情の反応に対して？そうすれば、あらゆる心所が現れてくる区別があり、それは自分自身の作用の中から来るもので、非常に大きな区別性を持つことができます。これは皆さんが非常に速やかに、更新された記憶体として成長することを可能にし、同時に良好な利益ももたらします！心所とは何か：ただ心所が明らかにする現れのことです。
附表：51の心所法の区別
一、遍行：触、作意、受、想、思。―五種
二、別境：欲、勝解、念、定、慧。―五種
三、煩悩：貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の六種。
四、不定：睡眠、悪作、尋、伺。―四種
五、善心所：信、精進、慚、愧、無貪、無瞋、無痴、軽安。
安、不放逸、行捨、不害。–11種
六、随煩悩：忿（ふん）、恨（こん）、惱（のう）、覆（ふく）、誑（おう）、諂（てん）、憍（きょう）、害（がい）、嫉（しつ）、慳（けん）
無慚、無愧、不信、懈怠、放逸、昏沈、掉挙、失念
念、不正知、散乱。――以上20種。合計：51種の心所。
2015年、0311、1209◎＃※   ０Ｋ；
◆ 跋・讃賀 ◆
古佛降著跋二賀　  　大道唯識引歸航
南無虚空  上徳人天古仏
◆ 本文 ◆
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
2011年5月6日　辛卯年四月四日（金）
南無虚空より降り来たりて推す
虹霓天に耀き　徳ある衆帰す
大道唯識十九回　　　浄と垢の染著は同じからず
第十九回　浄垢染著　功用同じからず
清浄と垢染の執着は、その働きが同じではない。
有情なる衆生が人道世界に入ると、「浄染と染浄、垢染と染垢」という区別が生じます。特に、宗教信仰者と修行者にとってはこのようであり、また人道世界を主要な因縁の根本として、生存の方向性をよりどころとします。これはまさに人類の衆生にとって必要なことなのです。
このような条件は、自己の認識の中に入り込み、宗教的修練を第一の要務としています。これはまた、知り得ないことでもあり、宗教信仰の中で修練を高めるとはどういうことなのでしょうか？一般の大衆に対しては、宗教信仰を自分自身の信仰の精神的中心に帰属させ、精神的拠り所を持つに過ぎません。
自分では、これは宗教を守る行為だと思い、それはやむを得ないことだと考えていますが、真の修行による変容という点では及第点とは言えません。なぜそうなるのでしょうか？それは、修行には必ず自分の習気を改める必要があるのに、多くの場合、自分の偏った性格や奇妙な癖を宗教信仰の中に持ち込んでしまうからです。
そしてこの神聖な宗教信仰を汚すこととなり、長い時空を経てもなお
変化し、後には根本的に向上し超越することが難しくなり、結局は来世に持ち越して修行し、再び作り直す者となるほかありません。この中では、51の心所におけるすべての善悪の心所、平常の心所の中の一切を理解することは難しいのです。
清浄と垢染に執着する働きは、それぞれ異なる。
要約すると唯心の識に帰する、これが唯識の心所の働きであり、この種の唯心の識にはまた多くの倒錯した名相がある。宗教を信仰する者にとっては、これらの名相はその作用がどのようなものか理解しにくいと思われるだろう。もし「浄染と垢染」という言葉を用いれば、皆さんは比較的容易に理解できるだろうが、それに「染浄と染垢」を加えるとどうなるだろうか？
それは「浄染と垢染」という二つの異なる概念です。そのため、唯識学の理論の中には、多くの倒錯した名相があり、人々を困惑させています。有情衆生がこの世におけるあらゆる生存の方向性を必然と感じるのは、自らの無明の障礙に対するものであり、深くその境涯に入り込むことで初めて、この無明を転化し除去することができるのです。
したがって、唯識学の名相体系においては、多くの倒錯した名相が生じ、さまざまに異なる機能と効果を形成します。このような状況で世間において実践を行う際には、真にその名相の倒錯を理解することができて初めて、異なる名相に対応して正しく認識することが可能となるのです。
これは異なる名称と相（すがた）でありながら、それぞれの働きが異なる作用の中にあって、まさに正しい行いを理解することが必要である。もし「浄と染、染と浄、垢と染、染と垢」といった区別を立てれば、人類衆生は多くの異なる働きに分かれ、人々が従うべき道を見失わせることになる。それらの名称と相が逆転した作用とは、いったいどのようなものだろうか。
清浄と垢染に執着する働きは、人間界のそれとは異なっている。
人類の衆生を基準点として施行するならば、過去のすべての経典にはこのような名相は現れなかったが、しかし唯識学の理論の中には、このような多くの倒錯した名相が異なる作用として存在している。異なる名相の倒錯した作用を理解することは、また一つの知識の成長であり、智慧の向上でもある。
人類の衆生はこのような因縁によって唯識学の理諦に入り、すべての行動規範がどのようなものであるかを理解するに至るのである。実際、これらの倒錯した名相を解き明かした後には、皆に目新しく開拓された感覚をもたらすことになる。これはすべての新唯識学の理に対する精進において、このようにあることが必要なのだ。
さらに、過去のこれらの経典には、名相を転倒させて機能の混同を生じ、その働きがどのようなものであるかを理解できなくなるようなことはほとんどありませんでした。また、もし人類の衆生がただ過去の経典に依存するだけならば、現代の世界がすでに科学技術文明の時代に入り、過去とは異なっていることを理解することもできないでしょう。
この「浄染と垢染、染浄と染垢」という異なる働きについては、多くは自らの意思によって行われ、また名相に従って実行されるものではない。ゆえに人類衆生は真に理解することができ、さらに「浄染・垢染」における「染浄・染垢」について、人類衆生は結局のところ、このような作用に過ぎないのである。
清浄と垢染、執着の作用はそれぞれ異なる
「浄染」の作用は、その良き浄化の働きを理解し、自ら進んで浄染の境地に入り、自らを薫習する機会を得て、より大きな成長を保ち、このような浄染が成長を向上させることを可能にすることです。
「染浄」の作用――すなわち、その染みの浄化を知り、またそこに留まることを願い、この染浄が絶えず自らの垢穢を対象として化除するに任せていると、知らず知らずのうちにすべての汚れは次第に清浄となる。まさにその染浄の空間を悟り、自らにとってはすべての良善を浄化する過程の中にあることを知るのである。
「垢染」とは、五濁悪世に身を置いていると自覚しながらも、常に自らを垢染の中に置き、この一生を穢す行いを続けることである。垢の染みが取り除かれることを知らず、自ら汚れに染まり、あらゆる良からぬ悪習にまみれ、かえってこの渦中に沈むことを甘んじて受け入れているのである。
「染垢」とは、自らの功徳を基盤として、五濁悪世の中で知らず知らずのうちに染着し、根本的にそれを如何に除去すべきかを理解せず、全ての染垢の汚れとは如何なるものかを知らないことである。人類の衆生はこのようにして生存しており、五濁悪世という大染め壺の中で、一体誰がその中の汚れを見抜くことができようか。
染著と浄垢の働きはそれぞれ異なる。
これこそが人類の衆生にとって最も理解し難い観念である。なぜ自分がすべての染着を受けるのかという原因も、また現在の染め汚れを除去することもできず、まさに上昇して超越することが非常に難しい。また、一般の有情衆生はまさにこのような状況の中で、染め汚れの行為に入り込み、現在の垢穢を転化することも難しいのである。
これは、体に厚く積もる汚れを形成するものです。皆さんはこのような染みや垢をお持ちでしょうか？あまりにも多いのです！また、このような染みや垢を知る人間は非常に少なく、しかもそれは毎日自分に付き従い、汚れの中に習性や慣性を加え続けています。このように時間が経つにつれ、毎日汚れが積み重なっていくのです。
それはまるで、体に積もり積もった塵を、「清らかな法の水」で洗い流すことができず、すべての生きる思想や観念を含めて、その思想や観念自体がすでに汚れているかのようだ。そうであれば、本当に清らかになる日が来るだろうか？すべては汚れや垢にまみれ、それが日々積み重なり、変わることの難しい一日となっているのだ。
この世において、いかなる宗教的信仰の区別なく、また宗教的信仰に入っていない一般の衆生は、どうすれば自らこのような汚れや垢染を破ることができるのでしょうか。この種の名称の逆転した機能は同じではなく、これこそが人類の衆生が宗教に入った後、最も遭遇しやすい一つの事相なのです。
清浄と垢染への執着を主に向上させる
人類の衆生は、宗教に入るか入らないか、あるいは修行者であるかどうかに関わらず、自らの思想や観念が清浄であるかどうかについて、日常生活において多くの無明の障害が自らの生存を支配していないかどうかを知る必要があります。そうすれば、一人の有情衆生の思想や観念がどのようなものであるかが見えてくるでしょう。
もし自分自身の先入観や考え方の中にすでに汚れが染みついているならば、それを浄化しようと思えば、かなりの道のりをかけて調整する必要があります。もしずっと先延ばしにしていれば、汚れが染みつくのは比較的容易ですが、汚れを浄化するのは困難になってきます。このように、汚れから離れて清浄になるまでにはまだ道のりがあり、浄化と汚染の主な因縁がそもそもどのようなものであるかを、はっきりと理解しなければなりません。
また、信仰に入る者であっても、すべての人が染まりと浄化を自在にできるわけではなく、むしろ大半以上は宗教的な汚れや染まりに遭遇し、浄化することが難しい状況にあります。なぜこのようになるのでしょうか。実は、あらゆる物事には一つの事象に二つの側面があるもので、それを深く考え、分析したことがあるでしょうか。
清浄と垢染に執着するのは人の作為によるものなり
問題点を善良と見なすことも、そうあるべきと考えることも、別の角度から見ればそうではない。だからこそ、物事を深く考え、様々な角度から観察し、「浄染か染浄か」「垢染か染垢か」を判別することができる。結局は、自分が宗教に対してどれほど心を込めて努力しているかによるのである。
未来が上昇か下降かを区別するとは何か？これは人類の衆生が一つの事柄に入り、あるいは宗教を信仰し修行する際に判断を下すことである。問題に対して理解を深め、自らが福をなすか業を造るかを判別し、また清浄と染汚の二者の区別をすることである。これにより問題点に対する如何なる判断を下すべきかが形成されるのである。
また、問題が発生した結果はどうなるのか？もしすでに自分の行いが浄染と染浄に背いていると感じているなら、すぐにこの状況から離れる必要があります。まさにこのような理由で、浄染に執着せず、かえって垢染と染垢が次々と現れ、これが有情衆生にとって最も理解しがたい障害点となるのです。
汚れと清らかさの執着はそれぞれ半分ずつ
染めも清めも生じず、ただ垢が絡みつく
垢染は自然に方法がある
汝を内に入れて垢染を氈（もう）せしむ
有情の人類の思想に、もし不浄の垢あらば必ず相をなす。
人の世の一生は苦しみに磨かれ　  　向上を成し浄化の姿を為す
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、人間の衆生が如何にして唯識学の理諦の作用を理解すべきかを示しています。必ずや唯識学の理諦の作用を理解し、浄染と垢染の中で、染浄と染垢の区別を明らかにすることが必要です。これこそが「新唯識学理」に対する知識の成長と智慧の向上なのです。
無極の理は真なり　福德正神を護衛す
無極の理真来たりて護衛し　福德正神登台に随う
諸聖仏尊賢生よしと生まれ　初めて共に会し恩に感ず
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院、院修学士の皆様、今晩は。本日は本宗脈の南無虚空彩虹耀天古仏－虚空彩虹仙姑が降臨され、大道唯識第十九回を著作されました。浄と垢の染着が異なる働きを持つことを分析し、大道天書の著作に対して、皆様に良き善縁をお届けします。
皆様にご理解いただければ、仙仏の著作においては、一般の「唯識学」とは大きく異なる点があることをお伝えできます。そのため、崇心宗脈が著作した「新唯識学」は、従来の経典や著作とも異なり、皆様により深い理解をもたらし、過去の教化方法に執着することなく、真に人類衆生に利益をもたらすものとなっています。
2015年、0311、1210◎＃※   ０Ｋ；
◆ 跋・讃賀 ◆
南無虛空上德人天古佛　降跋三勉勵於
南無燃燈古仏
◆ 本文 ◆
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
2011年5月13日  辛卯年四月十一日（金曜日）
南無虚空降凡塵　霊竅敏天古仏鎮
大道唯識二十回　観身不淨土来成
第二十回　身を観じて不淨とし　人身は土と成る
身を観じて不浄とし、人身は土より成る。
有情なる衆生が人道世界に入ると、身の不浄を観ずることに悩まされる要素が一つあります。ここで理解すべきは、人間の身体は仏教で言うところの土によって造られたものであり、この問題点は人の身体において、洗浄した後もなお一層の白い垢穢が存在するということです。
いかに洗おうとも、少し待てばまた塵垢がつく。このような問題点が一向に除き難いならば、知る必要がある。身の不浄を観ずるとは、ただ身の外側の不浄のみにあらず、その体内のすべての器官もまた同じはたらきをするのだ。いったいいつになったら除くことができるだろうか？ 決してできないのである！
身体が不浄であると観じることで理解できるのは、身体の外側の不浄さだけでなく、内側も清らかではなく、思考もまた清らかではないということです。さらに、人間としてこの世に生きている限り、清らかな時も場所も存在しません。ちょうど入浴した直後でも、なお一層の垢が残っているようなものです。
この白い垢は、ほんの少しこすっただけで、埃のようなものが立ちます。
その本質は、また人類の衆生にとって理解できるものであり、この塵埃の中における清浄と垢染の執着であり、さらに人間世界のすべての生存の在り方から見れば、人の身体は本来清らかではないのであり、ただ人間が生まれながらに直面することを恐れている事実に過ぎない。
人生は土でできており、洗ってもきれいにならない
すべての衆生の思想と観念を理解することができますが、しばしば多くの不浄な時があります。ただ、それが表に出ていないだけであり、このような内なる不浄な思想は、すべての行動の主体も不浄であるという結果を生み出します。したがって、人類の衆生が思想を浄化するためには、必ずや自分自身を真実に向上させ、超越することができるはずです。
そうでなければ、浄化された染着があるだろうか？ いいえ、ありません。このような人類衆生の思想観念における不浄さは、第八識の浄垢染着に対して相互に向上させる面と障害となる面があることを明らかにできます。また、人類衆生の思想観念の中には、日常生活におけるあらゆる善悪の受け入れから来るものもあります。
そして生じたのは、あらゆる思想や観念に対する清浄と汚れへの執着であり、これは人類衆生の生存を基準点とした作用と言えます。また、この世においてなぜ自己の思想や観念を浄化し、向上させてより大きな成長の働きを得る必要があるのかを、ありのままに理解することもできます。
人々の世はまさにこのようなものです。ただ、このような考え方や観念は、日常生活における良し悪しを受け取った後、それを発散させるか、それとも抑圧するかによって生じるのです。そして、このような感情を発散させないようにすることで、このような人間の衆生は、多くの悪しき災いが起こるのを減らすことができるのです。
人の身体は不浄であり、これはすべての人に等しく当てはまる。
また、自ら多くの災難が現れることを減らすことができ、人間界のすべての不浄は、さらに向上して超越できる一種のものである。このような人間界の作用は、ただこの身体が不浄であるだけでなく、思想や行為さえも不浄であることを知る必要がある。だからこそ、人間界は繰り返し輪廻を形成するのであり、これもまた同じことである。
さらに、どうしてそう言えるのか。考えてみればわかることだ。人類の食物連鎖において、すべての人間の食べ物は、相当においしいものでなければならない。中には、山海の珍味や香辛料の効いた贅沢な食事を必要とする者もいる。そして、これらの山海の珍味や香辛料の効いた贅沢な食事を手に入れるには、より多くの通貨を使って購入しなければならない。
言うならば、これらの食物連鎖が供給するものに対して、人類の衆生には食物連鎖が備わっている必要があります。また、まだ喉を通る前は、すべて山海の珍味や美味しいものを食べ飲みしていますが、もし人間が食べた後では、それは一団の液体の存在に変わります。そしてこれらこそが、人類の衆生が栄養素として取り入れている結果なのです。
もしそうだとしたら、再び反芻して吐き出した時、皆さんはその匂いを嗅いだり、それを食べたりする勇気がありますか？ 信じます！絶対に再び胃に入れて食べることはあり得ません。だから、これらの食べ物は自分一人で食べるだけです。再び反芻して吐き出したものを人に食べさせようとしたら、あなたはそれを欲しますか？ 逆に言えば、絶対にそのような食べ方はあり得ません。
身は不浄なりと観ず、同時に内臓もまた不浄なり。
これもまた不浄な食物連鎖の一種である。故に古人は言う、三寸の喉の前は山海の珍味も、三寸の喉を通れば液状の食物すら胃に入り難く、ただ自分一人が食べる時だけ敢えて口にできるもので、一旦吐き出されたものは、誰一人として再び食べようとはしないだろうと。これこそが、食を観じて不浄と知る所以である。
したがって、満腹さえできれば、どんな食物でも利益を受けることができる。人間の世ではこのように行動するが、それはただ自分自身の作用にすぎない。これもまた、人間の世のすべての身体を不浄と観じ、食物も不浄と観じ、思想はさらに不浄と観じるのである。このような身体内の器官も、常に清浄ではない。まさにこのようなものである。
ちょうどさっき食べ物が喉を通った後、人間が言うところの栄養素となり、ほんの数時間経つと、また糞便に変わって排出される。これもまた自分自身が作り出した穢れ物の排出なのだが、もしそれを人に差し出して食べられるだろうか？おそらく誰も食べようとはしないだろう。
しかし忠実な動物である犬の目から見れば、この人間の美食はかえって非常に貴重なものに映り、人間の衆生にとってはこういう状況と言えるでしょう：あなたは食べられますか？おいしいとは言わないでしょうが、しかしこれは誰もが作り出す汚物であり、自らの体の外へ排出されるものなのです。
食物が不浄であるからこそ、人間は病気になるのです。
日々このような排泄があると信じれば、決して溢れることのない日は永遠に訪れない。ゆえに人の身体が不浄であるのは、単に肉体のみならず、思想も不浄であり、行為も不浄である。あらゆる物事が互いに接触した後も、すべてはこのようであり、この空間における一切が不浄なのである。
身の不浄を観ずることは、また仏家の説くところである。人の身体もまさにこのようなもので、ただ数十年を経て、年齢が次第に増すにつれ、すべての器官は若い頃の健やかさのようにはいかず、あるいは身体の病気に引きずられ、多くの膿や癌腫などの不浄を生じるのである。
さらに、現代社会が抱える大気汚染、水質汚染、農薬汚染、食品汚染など、あらゆる汚染が土壌を深く損なっている。これらの外側と内側の汚染は、身体にとって不浄なものである。いかにしてこれを癒すべきであろうか。
必要なるは、真実の治療法に依ってこそ、癒えることができ、また不浄の時を形成する。このような身体上の癌腫瘍と膿疱は、さらに人体の不浄を引きずることになる。すべての衆生はこのようなものであり、いかにしてこの中の病症を除くべきか。すなわち、必ずや現在の不良なる「黒色資源」の応用を改めなければならない。
身体の不浄、人生に浄きこと世に稀なり
世に生きる人の全ての行住坐臥は、根本的にはただの表象に過ぎないと観ることができる。根本的に清浄潔白な身体は甚だ稀であり、今日洗っても明日にはまた一層の垢がつく。人の身体がそうであるように、思想もまたそうであり、行為動作もまたそうなのである。言うならば、これは清らかならざる塵土にまみれた人間世界である。
それゆえに浄化と向上が必要であり、まさにこのような理由から、このような浄化作用がなければ、人間の身体の限界を変えることはできません。ですから、人道世界はただ借りている因縁に過ぎず、一体誰が真に理解できるでしょうか？このように仕方なく制限されていることが、まさにそのようなものなのです。
賢明なる者は理解するであろう、人体の機能が次第に衰える時、一種の非常に嫌な体臭が生じることを。これはもはや長く住むべき時空の因縁ではなく、また必ずや悟らなければならない、人間の世はただ時空の旅人に過ぎぬことを。何を争い、何を求め、また何にこだわろうか？
それはほんの束の間の所有に過ぎず、悟りが開ければより大きな飛躍が得られます。
昇り来たりて超越するものは、この人の身体がすべて不浄であると言えるのではなく、また
真に長く住むことのできる空間はあるのだろうか？あまりにも難しい！いかにしてより大きな成長を得るかは、すべての衆生の選択にかかっており、未来の成就の有無を見極めることができる。
一生の苦労は何のためか　ただ一つの肉体に振り回されて
盲目の一生で体を疲れ果てさせ　  　臭気が耐え難く次第に現れる
身の不浄を観じて向上すべし　  　人間の因縁これが促す
何を所有できるかと計算するより
一切が不浄より生ずることを悟れ
この偈は、すべての有情の衆生と共に励まし合うものである。すべての人間の衆生が「観身不浄」の作用に入るにあたり、この世はただ「借りて使う、借りて見る、借りて所有する」に過ぎず、時が来れば白骨の山と化し、ただコオロギの声を聞くのみで、いかんともしがたいことを悟らねばならない。すべての人々がこのようになるのである。物事のありようをはっきりと見極めることができてこそ、聡明なる者となり、智慧を高め、超越する者となれるのである。
無極財旺  福徳正神
無極の因縁深く厚く　財運豊かに備わり皆に有り
福徳正神は神人と共に、共に成長し、その構造を明らかにする。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈より、南無虚空霊竅敏天古仏－虚空霊竅仙姑が降臨され、大道唯識第二十回を著作されました。観身不浄、人身土成について天書の中で詳しく述べられ、皆様がすべての良善な因縁を理解できるようになりました。
皆さんは、人間の世にあるすべての不浄についてご存知ですが、それは身体だけに限るものではありません。他にもあるでしょうか。それには身体も含まれますが、作り出される大小便も不浄であり、同様に人の器官が病気に侵されても不浄となり、一種の嫌な臭いを発するようになります。この身体はしばらく使っているうちに、非常に好ましくない状態を形成してしまうのです。
病気になること一つとっても、人間の衆生の思想においても、清らかな観念を高めることはほとんどなく、ただひたすらに世の中で生活のために巡り続ける不浄なだけです。明後日は今月の懺悔の日ですから、すべて早めに準備しておきましょう。来週はまた、大道シリーズ天書第二十九冊－大道同源繳書法会の大切な日となります。
今回一日増やして「金山梁皇宝懺」を虔誦するのは、皆で力を合わせて取り組む必要があり、そうしてこそ広めていくことができます。また、先回の仙仏老師のお言葉にあった「綿密な計画を立て、辛卯年に弘揚・普及させる」という件ですが、秘書グループはどのようにお考えでしょうか。その場しのぎではいけません。そうした態度では、良い成果が長続きすることは決してありません。
また、堂主と社長にも一層のご尽力をお願いしたいと思います。崇心宗脈を広く弘め広めることで初めて、上蒼と諸仙仏の先生方に対して責任を果たせるのです。それは同時に、自らの成就と向上、超越のよりどころともなります。皆様がより大きな力を注ぎ、良き縁と条件の中で成長し、善き報いを得られますよう願っております。
2015年、0311、1211◎＃※   ０Ｋ；
南無虚空降臨来　霊通智天古仏排
大道唯識二十一回　　観受是苦何来載
第二十一回　受は苦なりと観ず　楽受も平常なり
感受を観ずればこれ苦なり 楽受も平常なり
有情なる衆生は、世間におけるすべての行為規範に対して、身体を観じて不浄とし、また感受を観じて苦であるとします。このように世間におけるすべての苦しみの受容は、一種の逆増上縁による向上であり、またこのような世間に対して言えば、必ずや非常に不都合な逆境がなければ、増上縁とはなり得ないのです。
人類の衆生は、まさにこのような苦しみの経験の中で、自らを大きく向上させ創造してゆくのです。そうでなければ、有情の衆生は日常の平穏な環境の中では、向上し成長して超越することが難しく、また無意識のうちに行う日常的な事柄からは、このような日常的な事の始まりにおいて、世の中のあらゆる逆境を成長の糧として奮い立たせることはとても難しいのです。
世間を観るに：この種の苦受・楽受・平常受は、自らの向上成長によって区別され、また楽受の中にあっては、さらに向上して増長することは難しい。それゆえに世間には多くの事柄が生じ、また自ら経験を積み重ねていないために、物事の連鎖の中で多くの無明の障害を増やすことになる。
しかし、問題点を促すことについては、一度に十分に明確に見極めることができなければ、形を成すことが
成すに曖昧模糊たる限界あり、区別するに何らの経験も積み重ねずして、如何にして全ての問題点を克服せんや。何となれば、この種の問題点は、経験なき者にとっては、向上して成長することは甚だ困難なるが故に。
受を観ずるは是れ苦なり 何を以てか苦なる
このような問題点が生じた時、経験のない者にとっては骨身に刻まれる記憶となる。問題が困難であればあるほど、記憶は深く刻まれる。次に同じような問題に遭遇した時には、前回の経験が積み重なり、問題を解決するための理解が一層深まるのである。
また、このような状況は人間界において、最初の経験においてもそうであり、問題点を骨身に沁みてこそ、次の記憶に新しい中で、人類の衆生が盲点に入り理解することができ、人間界の無明を解消することもできます。言えることは、すべての事柄がこのようであるということです。
また問題点が解決しにくい時には、焦ってすぐに解決しようとする必要はありません。問題を解消するには、時には時間をかけて余地を作ることもできます。もしどうしても即座に解決しなければならない場合は、将来に先延ばしにはしませんが、一般的な状況では、時間をかけて余地を作る方法が使えます。
これは、感受が苦しみの境であると観じる過程において、必ず知るべき無明の段階であり、この一度の骨身に沁みる記憶を持つことで、次に苦しみの感受がどのようなものであったかを思い起こす際、記憶が生々しく蘇り成長へと繋がります。世間の視点で観れば、これは決して悪いことではなく、むしろ逆境を縁として向上する成長なのです。
感受を観ずればこれ苦なり。苦を見てしかも苦しまず。
まさにこのようにする必要がある。問題点を解消することで、次に同じ問題に遭遇したときに再び苦しみの段階に陥ることがなくなる。これこそが問題点を解消する正しい道である。なぜそう言えるのか？この世のすべての行動において、目標を求めるたびに、もしそれが達成できなかったらどうなるだろうか？
必ず自分の条件がどうであるかを観なければならない。もしあまり実現できない目標であれば、まず自分の能力がどうであるかを観る必要がある。まず評価の根拠を明らかにし、客観的条件はどうか、自分自身に対する認識はどうか、先天的条件はどうかを知らなければならない。達成可能であれば、全力を尽くさなければならない。
もし半分の機会しかないならば、すべての先天的・後天的な環境がどのようなものであるかを必ず観察しなければならない。人為的な要素をもって困難を克服する必要があり、問題点を理解することができれば、本来ならば成功の機会があったはずである。全力を尽くして意志を固め、達成を目指さなければならない。もし自分の能力が不足しており、さらに先天的な条件が許さない場合はどうすればよいのか？
さらに詳細に評価する必要があります。この種の問題点はどこにあるのか？また、どのようにして困難を打開すべきか？そのため、崇心宗脈の仙仏の先生方は、皆さんが目標を定めて達成可能な希望を実現するよう、常に励ましておられます。これは「運命を改造する」という定めの中にあり、単に「観受是苦」という苦境に留まるものではありません。
感受を観ずれば是れ苦なり、必ずや向上を求めねばならぬ。
しかしながら、このような過程においては、目標を容易に達成できるわけではありません。あらゆる条件、先天的・後天的な環境に加え、「計画は常に変化に追いつかない」という現実があり、この世には多くのどうしようもないことが存在します。もし達成できない目標を成し遂げることができたなら、それこそが真に貴重なことなのです。
このような堅固な意志と忍耐力、そしてそれを活用する方法は、まさに賞賛に値するものと言えるでしょう。ですから、受（感受）が苦であると観じても、それを苦とせず、順境や平常の境遇においても自らの堅固な意志と忍耐力を失わせることなく、むしろ大きく向上させることができるのです。また、この世におけるすべての達成は、自らの堅固な努力から生まれるものなのです。
なぜそうなるのでしょうか。世の中のすべての原動力は、一つの新しい局面を切り開くことから生まれます。もしそれが容易に達成できるものであれば、自分自身の時間、空間、環境、そしてすべての関連する事柄がちょうどよく調和し、はじめて大きな成果を上げることができ、真の成功を実現することができるのです。
受は苦なりと観ずるも、楽境もまた常なり
このようなちょうど良い時間、空間、環境について言えば、それは非常に稀なことであり、半分以上は自らの努力を重ねた後に、一つ一つ達成されていくものです。では、これらをどのように成長させていくべきでしょうか？必ず多くの因縁が本来の向上を促す必要があります。観受は苦であると理解できるならば、遭遇する問題にはどのように対処すべきでしょうか？
決して一気に解決できるものではなく、大半以上は時間と空間を活用して問題点を解消できるはずです。この条件を理解する必要があるのは、時間と空間が自らに再考の機会を与えるからです。そうでなければ、永遠に解決が困難なままとなるでしょう。
また、人間の衆生は真の努力を通じて、自らの強い意志と行動から問題点を克服することができ、まさに多くの知識経験と智慧を増やすことができる。世の中はこのようなものである。すべての衆生はこのような体験を持っているが、それは問題点を深く理解したからではないだろうか？
感受を観ずればこれ苦なり 楽境も転化すべし
もし深く理解すれば、すべての問題点は人の行動や振る舞いであることが分かり、そう信じることで
人間の感情が含まれ、さらに「善良な感情」の反応が加わることで、このような問題点に対して、一度で成功しない場合には、方向を転換し、問題点を再評価する必要があります。別のより良い方法で実施すべきかどうかを考えるべきです。
信じることで二度目のチャンスが生まれ、成功への要素が大きく近づきます。これは世の中のあらゆる問題点に対して作用するものであり、人類が問題点を解消していくためには、このようにしてこそ経験が一つひとつ活かされ、大きな転機も訪れるのです。
常に変えられない状況に置かれず、苦境に耐え磨かれることもない。だからこそ、この世はこのようなものであり、このような経験を基本構造として、問題点を契機に成長していくのである。そうすれば、苦しみを見つめるような状況にはならず、真実のままに成功へと至ることができるのである。
観ずるに受は是れ苦なりという経験なし
人間の生存、苦しみに来たりて厭う
必要なのは経験と智慧であり、困難を乗り越えて苦しみの天を脱することである。
平常の境にては昇進難し　  　楽受の過程は必ず深沈なり
両者の下墜の悠分は　  　まさに甚だ難く超越して成る
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、なぜ世間において「受は苦なり」と観じるのかを根本的に分析したものである。まさにこのような経験の蓄積がなければ、どのようにして全過程を知る必要があるのか？そうすれば、これらの困難を軽々と取り除くことができ、それがすなわち如実の性であり、自らの未来により大きな利益をもたらすのである。
無極清誠  玄天上帝
無極清誠玄天帝　初めて登台し賢契に会う
皆様吉祥にて安寧なれ　天書を著して楽しみ誼を結ぶ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈より南無虚空霊通智天古仏－虚空霊通仙姑が降臨され、大道唯識第二十一回「観受是苦、楽受平常」を天書に著作されました。皆様に新たな思考の参考となれば幸いです。
これによって、苦しみの中でどのように自らの思想観念を高め、苦しみの障害を取り除くべきかを理解することができます。また、未来のすべての成長と利益に対する真実の性質は、まさに骨身に沁みるほど深く、皆さんもこのようであってこそ正しいのです。さらに、今週の土曜日は大道同源の書法会です。すべてを早めに準備しましょう！
2015年、0311、1212◎＃※   ０Ｋ；
◆ 跋・讃賀 ◆
南無虛空上德人天古佛　降跋三勉勵於
2011年5月17日 辛卯年四月十五日（火）
◆ 本文 ◆
古佛著作第十回　  　無常法則根本基
南無虚空大天界　霊意大天著作為
大道唯識第二十二回　　観心無常に追悔を難くす
第二十二回　心を観ずれば無常にして、変化測り難し
心を観ずるに無常なり 変化は測るべからず
人類の衆生は、心の動きによって自らの行動に影響を与え、自らの思想や観念を自らの行いの中に取り入れています。このような心の動きや念いは、言うなればまた一種の「観心無常」に引きずられるものですが、どうすればこの心を定着させることができるでしょうか？可能でしょうか？いいえ、不可能です！
宗教的な訓練を経た後でも、このような条件を備えることは極めて稀である。なぜそうなのか？人間の衆生に対しては、前の瞬間は「心を定めることができる」が、次の瞬間には「心が猿のように騒ぎ、馬のように駆け回る」状態になってしまう。どうやってこの心を定着させればよいのか？それは根本的に不可能なことになってしまう。
それゆえに心は無常であると観じるならば、どうしてこの心を定め、縛りつけることができようか。まさに不可能なことである。ただ短い時間の中で、心を定めることができるに過ぎない。この心が過ぎ去る時空を経れば、再びこの心は奔騰を始めるのである。故に仏教が説く「身は不浄なりと観ずる」という作用は、自らの思想を定めて用いるための方便に過ぎない。
このような問題を通じて、自らを「観心無常」の境地へと導くのです。
中；また、どうして不浄な心がないと言えようか。つまり、すべての衆生が人道の世界に入るたびに、多くの思想や観念が自らの第八識の中に植え付けられ、八識の田んぼに変化の波紋が生じるのである。
心を観ずれば無常なり、人の心は移ろいやすし
このような変化の波紋は、一つの事柄に対して異なる角度から多くの答えを導き出す。必ず人間の行為を経て、さらに多くの異なる視点と角度が生まれる。したがって、同じ一つの事柄が異なる人間の思考を経て、一つの答えに収束することは、根本的に不可能なのである。
各人の立場によって角度が異なり、視点も異なり、直面する問題点も異なってきます。さらに、過去の経験の蓄積も人それぞれ違うため、同じ一つの事柄に対しても、人間である衆生の視点は皆異なっています。その結果、問題点は同じであっても、答えと解釈の度合いはまた違ってくるのです。
このように心が動き出す中で、どうして互いに補い合うようなことがあり得ましょうか？あまりにも困難なことです！このような心の動きに対する見方が異なれば、多くの困難や障害が次々と生じてきます。人間の衆生がこのような見方に陥った時、どうして心を一か所に定めることができましょうか？まさに不可能なことです。
したがって、すべての衆生は外見から見れば同じですが、思考の角度はそれぞれ異なります。それゆえ、問題に対する解析度も異なり、答えもそれぞれ違ってきます。このような異なる問題点から見ると、まさに各人の学識の角度が異なるため、問題は予測不可能な変化を見せるのです。
心を観ずるに無常なるは、実に変化測り難し
また、人道世界の観点から言えば、これは分岐の作用であり、有情衆生の様々な角度の違いでもあります。問題に対しては同じであっても、答えは自らが想定した条件通りにはならず、自らの欲求や希望に合致するものとは限りません。これは「観心無常」の変化の予測不可能さを指しており、すべての衆生がこのような状態にあるのです。
人類の衆生がこのような時空の因縁の中に入るとき、どのような宗教の流派を信仰するかに関わらず、すべて同じである。また、心の定まらなさを観察すれば、心の動きが非常に無常であるかどうかも問われる。一つの事柄を例にとれば、現在崇心が著作している大道シリーズの天書に対して、皆が心を込めて取り組んでいる。
すべての者が心を変えないかというと、必ずしもそうではありません。内堂の六部の人員を除いては、天書のすべての始まりと終わりを一心に観ることができます。このように、少しでも気を散らすことはできません。もし気を散らしてしまうと、仙仏の先生方の著作の歩みについていけなくなります。もし外堂の学生であれば、少し気を散らしても差し支えありません。
自らの心の想念意識の分別に対して、その瞬間に全精神を集中しているか？また仙仏の先生方が著作された意図を理解しているか？知識が増える可能性もあるが、このような状態で心を変えずにいられるか？必ず自らの視点がどうであるかを観察しなければならない。だからこそ、各人が体得するものは異なり、この自らの視点に対して全霊を傾けているかどうかが問われるのである。
心を観ずれば無常なり 変化は測るに準則なし
もし少しでも気を散らすことができるなら、この二つを区別して自分自身の行動はどうあるべきか？これもまた自分自身に対して：心の無常を観じる中で、問題点を分析することです！自分自身の認識の中でもそうであるように、まさにこのような認識観念があるからこそ、すべての心の無常の変化が予測しがたいことを引き出し、また捉えどころがないのです。
このように、世間で言う「心猿意馬」とはまさにこのような状況である。自分自身の認識や観念において、心が動き念いが起こり、意識に刻まれる中で、心の無常を観じて定着させることができるだろうか？あまりにも難しい！人間の衆生はこのように作用しており、このような限界を変えることもできないのである。
また、自分が認識している概念は、自身の過去の経験の蓄積に由来するものである。そして、この度の記憶が深く刻まれるかどうか、それが骨身に沁みるようなものとなるかどうかは、一人ひとりの認識の角度がどうであるかによる。したがって、人間の衆生がこの世に入るにあたっては、いかなる事柄においても心を定めることができるということを理解しなければならない。
この心を起こすということは、非常に定着させることが難しいものであり、宗教的な洗練を経て、訓練の中で初めて到達できるものである。また、観心は無常であり、変化は予測できない。ゆえに、観心の無常を心の起動の恒常と見なす。自分自身の立場からすれば、心の変化をいかにして徹底的に理解すべきか？また、いかにしてさらなる大きな成長を遂げるべきか！
心を観ずるに無常なり、思惟に同じからず
先見の明を持つことが必要であり、そうして初めて無明の障害が生じず、自らの成長の条件を阻むことがない。したがって人類の衆生は、このような状況の中で、心の無常なる変化を観じ、測り難きものとして、自らを一つの思惟の断絶と再連結の中に置き、すべての問題点を一つひとつ相互に補い合うのである。
これは人間の衆生がよく用いる方法であり、誰もが慣れっこになっており、もはや日常茶飯事となっています。そもそも、どのように心を定めるべきか、つまり『定心、定念、定意、定識』の区別を理解することはありません。心念意識がすべて定まって静止するという、一般的な衆生にはこのような観念も行いもまったくないのです。
また、どのように心の念や意識を定着させることができるだろうか？まさに不可能なことである。それゆえこそ「凡人」と呼ばれるのである。心の念が生じるのは、日常生活の中で現れるものであり、どの人にも同じように起こる。心は無常であると観じることを知る必要がある。これは正しい過程であり、すべての有情衆生がこのようになっているのである。
自らの「心を動かし念を起こし、意識を蔵する」中から区別するのは、これは前回の記憶の再生であり、今回の応用経験の蓄積となった。どうしてこのような前回の記憶再生の経験蓄積があるのか？それは毎回の事柄に応用することができ、自らの立場からどのように理解すべきかを知る必要がある。
起心動念の基本的な作用
物事に対する見方を向上させることができるか？それとも、ただ普通の人と同じ見解に留まり、それ以上の向上ができず、自己成長もできず、それでは物事に対してどのようにさらなる成長と超越ができるだろうか？必ず理解しなければならないのは、心の無常を観察することから始めることである。まさに心の動きがあるからこそである。
したがって、人間の衆生は他の物事を最も容易に手に入れることができますが、自らの心の意識を縛り付けることは決してできず、「観心無常」の中で「常なるものを持ち続ける」こともできません。これは人間が克服しなければならない障壁です。それを克服してこそ、真に向上し高めていくことができ、まさに今、自らが把握すべきことなのです。
人類の衆生が向上して成長することができないのも、このような要因によるものです。これは「心を起こし、念を動かし、意に入り、識に蔵す」という変化であり、人類の衆生の観る心の中では、また無常で変化が測り知れないものとなります。人類の衆生はどうやって向上し、超越すればよいのでしょうか？必ずしもそうとは限りません。自分がどう取捨選択するかを見るしかないのです。
心を観ずるは何故に無常変化するや
必要なるは、心の動きや念の起こる中で、心の奔騰を抑えることを知り、それによって初めて真に「心が動かない」と言えるかどうかを理解することである。「念が起こることで意識の作用が始まる」ということが真実の姿であり、そうでなければ単に心を観察するだけに過ぎない。真に人間の心は身体を司る主たる器であるならば、どうして動かないことがあろうか。
念の起こりを正しく動かすことが真に正しいのであり、このようにしてこそ意識の根本に入ることが正道となる。もし単に「心」によって有情衆生を観るだけならば、根本的に向上超越する日は決して訪れない。必ず「念」によって「意識」のすべての差異を明らかにしなければならない。これこそが一切の因縁果報が相互に結合する所以である。
これらの問題点を断ち切る明晰さもまた、その問題点がどこにあるかを知ることができるかどうか？これこそが人類の衆生が必ずや基本的な行いを超越し、また人間世界における成長に対して、このようであるべきであり、さらに自らの行いに対して、新たな思考と観念を持ち、成就を超越することができる所以である。
嘆かわしいかな人間界の因果
心を動かし念いを起こして業をなす
心の無常を観じてもどうしようもない
根本の障りは我執である
いかにして念意識を了知すべきか
かくのごとくして明知せしむ
人類の衆生が障礙を受けるのは
千古より今に至るまで皆これに迷う
この偈は、すべての有情衆生が互いに励まし合うものであり、また「心は無常である」という観点を理解しているかどうかについても問うています。もし単に心を起こすことで理解するだけなら、動く念はどのように分析されるべきでしょうか。意に入り、蔵識が作用するとは、いったいどのようなことなのでしょうか。こうして、念・意・識の三者が、それぞれの行いによって取捨されていることを理解することができるのです。
来たるべき心のすべての作為を化除するために、これこそが向上へと引き上げる原動力であり、すべての人々にとって良き成長をもたらすものである。崇心宗脈のすべての学びと宗生の成長を提供する。明日は大道シリーズ第二十九冊『大道同源』の繳書法会であり、二日目のすべての準備に再び努力を重ね、円満に成就を全うするものである。
無極清誠康元帥
無極清誠康元帥、初めて恐れ多くも登台いたします
ご縁ある皆様、こんにちは
書法の集いが吉祥に開幕いたします
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈より、南無虚空霊意大天古仏－虚空霊意仙姑が降臨され、大道唯識第二十二回を著作されました。観心無常の作用を、変化測り難きものとして分析し、皆様が人世間における起心動念をいかに理解すべきかを明らかにされます。
人類の衆生がなぜずっと沈淪しているのか、またどのようにして向上成長と超越ができるのか？皆さんに理解していただくために開示します。これは千古以来、ずっと人類の障礙を解除することが難しいことでした。今回の繳書法会は合計三日間で、今日は本宗脈大道同源繳書法会の初日です。皆さんのすべての努力は称賛に値し、喜ばしく、祝福すべきことです。どうか心を込めて努力し、戻ってきた善縁を大切にお迎えください。
2015年、03月11日、12時13分◎＃※   了承しました。
南無虚空衆聖仏　霊会道天成自我
大道唯識二十三回
観法無我の本架構
第二十三回　法に我無きを観じて　自らを向上せしむ
法に我無きを観じて、自らを向上させる。
人道世界はこのようなものであり、大道の法則においては、大いなる天地を拠り所としてすべての生存の方向性が定められます。また、このような人間世界を見る視点は、すなわち一種の「無我の法則」の過程であり、一つひとつの動作はすべて真実そのものであり、人類の生存の方向性に対しては常にこのようになるのです。
また、如何にして法無我を観じるかにおいては、自らが向上し成長し超越することを求めねばならない。そうでなければ、どうして自らが向上することができようか。あまりにも難しい！人類の衆生は、宗教の中にあっても、自らが人道世界にありながら、安らかで適切な生存は得られても、一生を通じて自らの向上を図らねばならないことを理解し難いのである。
さもなければどうだろう、観法無我の理論が存在するだろうか？あまりにも難しい！人類の衆生はこのように生存の方向性を持って生きており、このような問題点は現在において、より大きな成長がなければ、この世の中でただ速やかに各人の生存の方向性の中に消え去ってしまうだけである。
このような生き方では、自分の生活に大きな障害が生じることになり、また
どのようにしてこれを打破するのか。たとえ人間界はただの旅人に過ぎないとしても、生存における無明の障害の中で、自らに対する全ての煩わしさと制限を解消することができる。これは知る必要がある、人間界は瞬く間に消え去るものに過ぎないということを。
法の無我を観ずることは、向上のために必要である。
しかし人間の衆生は、自ら無限の向上を創造することができます。「観法無我」の中では、時空が急速に消え去るとはいえ、その消えゆく過程において無限の向上を創造することができるのです。これこそが「観法無我」の限界であり、自らの向上成長を持つべきであり、自らに向上超越の基礎を与えるべきなのです。
これもまた人類の衆生に対して、この世界の空間に入るにあたり、必ず知っておくべき一つの事柄である。さもなければ、ただ漠然と一生を過ごすだけで、どうして自分自身の向上成長を達成できようか。したがって、必ずありのままに知る必要がある。自分はどのように成長し、超越すべきかを、必ずありのままに自らが受益するようにしなければならない。
したがって、「法に我なしと観ずる」ためには、現実の人間社会において、自己の成長過程において超越することが必要であり、また自己の利益の方法を持ちながらも、超越の契機を得ることができるようにしなければならない。もし人類や衆生に対してただこの一生だけを見て、生存の障害を理解しなければ、どうして成長の日があるだろうか？ それはない。まさに非常に困難なことである。
つまり、自分自身の生存における無明の障害を解消する必要があるのであり、単に飲食や排泄、睡眠のためだけではありません。人類の衆生はこのような時空において、まさに「時の過客」という観念を持つべきであり、それによって自分自身の生存における無明の障害を解消すべきです。そうでなければ、ただ人間界に留まっているだけで、どうして成長し超越することができるでしょうか。
法を観じて無我とし、自らを向上させる。
これこそが人間衆生の無明の障壁であり、なぜこのようになるのか？これもまた人
世の中はこのような制限に縛られており、宗教を通じて理解することができます。人間界での生活はほんの束の間の過客に過ぎず、人生の長短にかかわらず、自分が生きているということを理解できれば、多くのやむを得ないことがあるとわかるでしょう。
もしこれらの問題点を徹底的に理解できれば、自分を修行の向上成長へと導くことができる。真に明確にすべきことは、生存の問題点において、人生の無常を悟りながらも、単に宗教信仰の枠組みに留まらないことである。それだけでは真の向上と超越はありえない。
したがって、人類の衆生は宗教的信仰に入るにあたり、すべてが安泰であると考えるべきではありません。人類の衆生にとって、生存の障害を明らかにし、自らを高めて成長を遂げることも、まことに真実に即したことなのです。宇宙天地の恒常性の中で、人類の衆生がいかに微小な存在であるかを思えばこそ。
もし天地の悠久なる歳月を、わずか百年の寿命しかない自分自身の生命と比較するならば、それぞれの生命の輪廻はどうしようもないことである。人間の衆生は、ある時が経てば必ず死という終焉を迎える。しかし、今この世に生きる私たちは向上を目指すことができる。これは一体どういうことだろうか。
天地の恒常は必ずこれ、法無我を観ずるなり。
すべての衆生は、宗教による心の洗練を経て、真摯に宗教実践に入り、自らを調えていくことでしょう。もし単に経典に従い、流されるままに宗教を営むだけなら、それは来世での輪廻を繰り返す因でしかありません。天地の恒常性と、この世の儚さを悟らねばならないのです。
いかにして短い時間の中で、無限の生命の向上を創造するか！これこそが可能なのです。
「観法無我」の障害を看破したからといって、人間の衆生がすべて来世の輪廻の種子であるとは限らず、向上して高みを目指す者は大勢いる。これこそが、観法無我において真の人間世界の限界を理解し、真実性を持って向上できる所以である。
必ずや一世人の中で、向上して成長し超越することができる。これもまた、非常に如実な方法を持つことが正道である。さもなければ、人類の衆生がこのような局限のある人世に入ったとして、どうしてこの種の無明を化除できるだろうか？必ずしもそうではない！ただ生存するだけに終わり、成長して向上することは難しい。
したがって、このような真実の性質についての観念を持ち、それを自らの第八識の中に深く植え付けなければなりません。そうして初めて、自分自身を真に理解し、世の中のすべての無明の限界を知ることができるのです。皆さんにお尋ねしますが、今この瞬間に、仏教の経典にある「観法無我」に従って、どうやって向上し超越することができるでしょうか？実に難しいことです！
人生は短いからこそ、諸法無我を観じるのである。
この世の中で、人々に自らの生存の無常さを自覚させ、どのように実際的な方法で向上させるかを理解する必要があります。それは自らがこの世に入り、成長し超越するために、必ず実相に基づいた進取の観念と作用を持つことです。これは人類の衆生が宗教に入った後、必ず持つべき基本的な観念なのです。
ただ、一世人の中で向上を図ることができるのは、まさに今、誰が超越しているからでしょうか？つまり「真の私が超越している」のですが、しかし「偽りの私が人として生きている」のです。また、この世のすべての生き方において、この「真の私」が誰であるかを理解できるでしょうか？この「偽りの私」はまた誰なのでしょうか？
もし真に理解することができれば、この「真我を向上させる」ことに対して、この「仮我を転化させる」という今世の行為は、ただ借りて用いるだけであることを明らかに知るべきです。このようにして「真我」が向上すれば、この「仮我」はやがて時を経て崩れ去り、この世に存在し続けることも難しくなるでしょう。
ただこの真我のみが、真実の本性であり、永遠に存続して壊れることがない。それゆえに、人間や衆生はなぜ向上するのか？またなぜ沈淪するのか？それはこの真我が向上するからであり、またこの仮の我が沈淪するからである。これは紛れもない真実であり、いかなる宗教であれ、自らの仮の我を打ち破ることができなければ、自らの真我を向上させることは難しい。
すべての命は百年の短きに過ぎず
この一生において、真に向上を遂げたいと願いながらも、それは疑いなく木に登って魚を求めるようなものであり、自分自身にとって真の向上や超越は難しい。まさに真の自己が、あらゆる時空の環境において、仮の自己とともに、一つひとつの行為や創造、そして向上への成長と堕落への沈淪とを分かつ歩みを共に進めているのである。
もし智慧ある者ならば、仙仏の師が言われる「真我と仮我」とは誰であるかを理解することができるでしょう。なぜなら、それは「法を観じて我無し」にあるからです。では、どのようにして無我の中にいるのでしょうか？それは紛れもなく、この時空の中に生きながら、自分自身のこの一生における無明の障害を解消するためであり、ただ漠然と生きているのではありません。
また人類の衆生にとって最も理解し難いのは、まさに向上して成長を超越することであり、大部分は下降して沈みゆく渦中にある。さらに、自己の生存が真我の如実なる顕現であり、自らが向上させるものであることを知らず、対観法においては無我である。皆さんにお尋ねしますが、一体誰が向上しているのでしょうか？また誰が沈んでいるのでしょうか？これでお分かりいただけるでしょう。
一生のうちにこのようなことは　すべて人生の事実である
諸法無我と観ずれども如何せん
天地常に慧智を揚ぐ
真我は仮我に伴って生じ　  　すべての動作かくの如く成る
時空は瞬く間に消え去る　一体何が本来の真実なのか
この偈は、すべての有情衆生が互いに励まし合うものである。もし現世において向上を図ることができなければ、それはただ次の輪廻の種因となるに過ぎない。一体誰が真の我であり、誰が仮の我なのか？もし理解できなければ、どうしようもないではないか！このような言葉遊びのような分析ではあるが、それは紛れもない真実なのである。
無極清誠趙元帥
無極清誠趙元帥、初めて登壇し賢者と会す
皆様吉祥、安寧にして　大道唯識、智慧を排す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈の南無虚空霊会道天古仏－虚空霊会仙姑が降臨され、大道唯識第二十三回を著作されました。観法無我という一つの観点は、いかにして向上の作用となり、皆様の無明を分析するものかについてご教示くださいます。
したがって、人間の衆生はこの世において、誰が昇華し、誰が沈淪するのかを悟ることができません。ただ「真の自己と仮の自己」という言葉を区別するだけです。もし「真の自己と仮の自己」の区別を知ることができれば、真実の昇華と超越があり、人間界での繰り返しの輪廻に留まることはないでしょう。
2015年、0311、1214◎＃※   ０Ｋ；
南無虚空より凡塵に降りたまう
上徳の人天を古仏鎮め給う
大道唯識二十四回　　常楽我浄こそ真なり
第二十四回　常楽我浄　逍遙自在
常楽我浄 逍遙自在
有情なる衆生が人間世界にいると、宗教の信仰と修行に入り、また宗教を護持することで、自己の成長において学習経験を積み上げることができます。このような宗教への信仰と護持は、第一段階の相互結合を生み出し、信仰の向上をもたらします。これはまさにこのようであるべきです。
学習と成長、宗教教化の過程においては、必ずや如実性の成長と浄化が必要です。これは、人が宗教に入った後、なぜ全身全霊で打ち込み、向上し超越していくのかという条件です。このような条件は、有情衆生がこの世において到達すべき、成長の第一の要件に過ぎません。
これは信仰に対する理解が、より深い次元へと高まったことを示している。また、宗教教育や教化の課程が、先人の経典を基に成長してきたものであることも理解している。有情衆生が宗教に入った後も、このような行動を続け、宗教経典に対してさらに精進努力を重ねていくのである。
このような努力は「常楽我浄」の境地に到達し、成長の過程で自在で束縛のない境地を得ることができる。
信仰の観念において、これは宗教的信奉者に対する向上心であり、また楽しい修行者となることも求められます。このように考えてみましょう：大部分の宗教的信奉者は目標を持って実践していますが、その過程では多くの障害や困難が生じることでしょう。
常楽我浄 逍遙自在
このような人が宗教に入っても、自分自身の奇抜な性格や癖を修正し改善しなければ、真の向上と超越は難しく、またそれによって自分自身の悪い習慣を宗教の中に持ち込み、模範を示すことになり、結局は自分自身の「心性、霊性、身体」という三つの側面の向上と超越を真に理解することができなくなってしまうのです。
ただ名ばかりの宗教信者として、自らの無明を改め向上させることは非常に難しい。これは障害が訪れた際、必ず困難に直面することを指し、人々に軽蔑されるだけで、信仰による拠り所を持つことさえ難しい。さらに、このような人は多くの悪しき習性を持ち、それを宗教の信仰の中に持ち込んでしまう。
良くない模範を示すことは、根本的にさらなる成長や向上を不可能にします。世の中の有情衆生が宗教に入った後、なぜ障害や限界に遭遇するのか、自分自身の信仰において良くない模範を示す者についてです。このような人はどこにでもおり、そのため一段階上の向上ができなくなっているのです。
信仰に対しては、ただ名義だけを掲げて、修行していると言うのは、あまりにもかけ離れています。このような人が宗教に入るのは、ただ名分を求めるだけで、自分自身を向上させることは全くできません。真の信仰を持って修行する者は、非常に誠実であるべきであり、また宗教に対して大きな打撃を与えることにもなります。
常楽我浄  逍遙自在
人界において信仰の道に入るには、人の行いにおいて宗教の経典に基づいて精進し成長することが必要であり、単に信仰者の名分を求めるだけではなりません。また、どうして宗教に入り、宗教の清浄なる本質を汚す必要がありましょうか。
この種の必要は、自らを大きく変えて宗教に入るだけでなく、経典を明晰に理解するための努力精進も必要である。もしこのような条件を満たすことができれば、自らに相当な知識と智慧を積み重ねることができる。また、宗教信仰の行列においては、経典に対して必ず如実に了知し、如実に通徹しなければならない。
すべての過程の経験を再構築することで、とても自由な信仰を持つことができ、「常楽」は私が必ず行うべき事柄であるという点において、自己を浄化し向上させ超越することができます。常楽は必ずこのようであるべきであり、真我の浄化もまた非常に真実であるからこそ、向上し成長し超越することができるのです。
これこそ、すべての有情衆生が宗教に入った後に必ず遭遇する段階であり、数多くの向上と超越も存在する。また、人間衆生には本来、将軍や宰相といった種類の区別はなく、あらゆる衆生に対して「仏性は平等、修持は平等、信仰は平等、向上は平等、超越もまた平等」なのである。
楽しく修行する方法には、常楽我浄が必要である。
ただ自らの努力の中で、この常楽への信仰を達成し、宗教の経典をあるがままに通徹して完全に理解した後には、「我浄」が高められ超越するということが生じる。あらゆる有情の衆生は、どのような人間であるか区別なく、仏性の平等の中で、「常楽我浄」の向上に至るのである。
とても楽しく自由で気ままな境地が生まれます。だから、人類が宗教に入る時、問題が山積みになるのか、それとも楽しい修行者になれるのか？その違いは、自分自身を理解する必要があるかどうか、そして経典を徹底的に理解できるかどうかにあります。そうすれば、順を追って「楽しい修行者」になることができます。これはまさに、人類の衆生が最も到達しにくい状態なのです。
すなわち、向上して成長する境地に入ることができず、このような条件下で修行する者は、自らが執着しておらず、また宗教の戒律によって自らの楽しい修行の本意を縛られていないことを理解できる。また、人間の衆生が宗教に入るならば、自らのすべての行為や動作がどのようなものであるかを知る必要がある。必ずや一切を理解できるようになるだろう。
人間の障礙が取り除かれるならば、常楽我淨を得ることができる。
また、どのように実践すべきでしょうか。自己の成長と超越においては、無明の障害を解消するという過程があり、どのような次元や境地の教化過程であるかは区別しません。誰もが向上し成長を遂げることができ、これこそが常楽我浄の境地で自在に修行する者であり、喜びをもって向上成長へと進むことができるのです。
大いに超越することができます。このように宗教を信仰するにあたっては、戒律や経典をありのままに遵守し、その中に含まれるすべての意味を徹底的に理解する必要があります。文字だけに依拠して解釈するのでは、さらに上の次元へと超越することは難しく、より大きな成就を得る機会も訪れにくいのです。ありのままに徹底して理解してこそ、真の利益を得ることができるのです。
宗教におけるすべての信仰条件は、自分自身の成長であると理解することができます。より大きな収穫を得ることが真実の性質であり、それは自分自身を大いに助け、未来における真の成長と向上をもたらすのです。楽しい修行の観念を持つ必要があり、またそれを真実に実践しなければなりません。宗教の修持に対しては、常楽我浄の成長があるのです。
修行を向上させるには、いかにして常楽我淨を具えるべきか
必ずや逍遙自在となり、真実の常楽の中にあるように、また我と浄は如何にして一切の垢穢なる思想を化除し向上させるか？これによって逍遙自在の宗教信仰が生まれ、これこそが有情衆生が宗教に入るに必要とする在り方である。また非常に楽しい修行も生じる。これは人間世において宗教に入る者が必ず明らかにすべき原則である。
また、それをありのままに実践しなければなりません。皆さん、このような修行は良いでしょうか？まさにこれは、楽しい修行者に必要な条件です。皆さんがこのようであり、楽しい修行者になれることを願っています。そうすれば、常楽我浄の逍遙自在を得て、自らの「心身霊」の三者を超越的に成長させることができ、それがまさに正道なのです。
この世はまさにこのようなものだ。楽しい修行の方法があるならば、「身は不浄と観じ、受は苦と観じ、心は無常と観じ、法は無我と観ず」という観念にとらわれる必要はない。これらの観念と行いは、この世において転化されなければならず、その瞬間により高次の境地へと昇華することができる。これこそが、未来に回帰するためのよりどころとなるのである。
逍遥自在に修行を進め　常に楽しみ我は清らかな好しき身心
宗教を信仰すれば悟りを得られ、人生に喜びをもたらす。
唯識の理諦が成し遂げたところに
人間有情に福の訪れと加護あり
隔てなき行いの実践にて　　それぞれが福徳の修めに至る
この偈は、すべての有情の衆生が共に励まし合うものです。信仰を持つ者がこの人道の世界に入るならば、必ず真実の喜びをもって修行しなければなりません。そうしてこそ、すべての宗教の戒律を真実のままに守ることを理解できるのです。そうすれば「常楽我淨」の境地が高まり、はじめて自在に成長することができるのです。
無極清誠  太上老君
無極清誠の太上君
老いたる者は宝なり限りなき親しみ
大道唯識二十四回　　常楽我浄逍遙を迎う
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈正主席である南無虚空上徳人天古仏－虚空上人が降臨され、大道唯識第二十四回を著作されました。常楽我浄の逍遙自在について分析を加え、皆様の成長の糧としてお届けいたします。
有情ある衆生に対しては理解できることですが、宗教に入った後、どのように実践すべきでしょうか？真の向上と超越を目指すべきであり、単に宗教信仰に入って名義だけを掲げるだけであってはなりません。また、多くの良くない模範に陥りがちでは、より大きな向上と超越を達成することは難しく、成長を遂げることも困難です。
皆様には、このような良くない習性を持たないことを願います。それこそが自分自身にとって楽しい修行となり、常楽我淨の境地で自由自在に生きられるのです。「引渡教授師資」の育成において真の向上があれば、未来の真仏心宗が如実性への回帰を導く際、すべての回帰する善縁に恵みをもたらすことでしょう。
2015年、0311、1214◎＃※   ０Ｋ；
南海古仏
南海の屏障 群生を護り
古仏降りて著す 大道成る
唯識天書二十五回　十二因縁順逆真
第二十五回　十二因縁　順逆を観ずる
順逆に観じて十二因縁を明らかにする
有情なる衆生が人道世界に入ると、あらゆる生存の方向性に対する帰依が引き起こされる。この中で仏教の「十二因縁」を依り所として行動するが、十二因縁を依り所とする時、有情なる衆生は往々にして理解できず、またこの十二因縁の順観法は互いに補い合う関係にあるのである。
もし十二因縁の逆観法を用いれば、多くの無明の障礙が生じる。また、十二因縁を無明の始まりとし、老死・生・有・取・愛・受・触・六入・名色・識・行・無明に対する理解に入った後、この世において、この種の逆観法が相互に補助し合っていることを知ることができる。
一切の行為規範に対しては、それに依拠する条件に基づいて実行されるものがあります。もし十二因縁を「逆観法」で観るとき、有情衆生は根本的に、人間世界のすべての行為規範を真に理解し通徹することは難しいのです。これが、人道世界において依拠する主要な動作として、実際に明白である必要があることです。
十二因縁の順観法を向上成長させるには、無明、行、識、
名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死は、この世において実践されるものであり、一般の有情衆生も比較的理解している。特にこのような理論は、人間社会に入り、生存への志向と欲求を実践するために必要なのである。
十二因縁の順観法
また、この中で順観法に対して行われることは、自己の生存志向を高めることにあり、これこそが十二因縁法に対する順観が必ずこのようでなければならない所以である。なぜなら、人類衆生はまさにこのような因縁によって、生存志向はこのようであるべきだからだ。しかし、有情衆生は、このような順観の中で自らを見失ってしまうのである。
また、順観法の作用についても、どのように理解すればよいのでしょうか？もし人類の生存の方向性が、ただ一切の順境を観る法によって生きることだけを目指すのであれば、おそらく相当な殺傷力を生み出す恐れがあります。なぜなら、有情衆生は人道世界において、人間世界はただ順境が作用するだけのものだとずっと思い込んでいるからです。
知らず知らずのうちに、人類衆生が順境に沿って生きようとすれば、自分自身が向上して成長し、超越することが難しくなります。また、人類衆生の生存志向の中には、必ずや向上成長の原動力が欠けているでしょう。もし人類衆生が常に順境での生存を求め続けるならば、このような条件の中で、必ずや上昇と超越に影響を及ぼすことになります。
ただ順境だけを知り、逆境が成長の縁となることを知らないようになってしまう。このような問題が人間に生じた場合、様々な困難や障害に直面したときに、真に自分自身を成長させる逆境の縁とすることができなくなる。ではなぜ人間にはこのような障害が生じるのだろうか。
十二因縁の逆観作法
人間世界は、長く住むことのできない空間であることを理解する必要があります。なぜそうなのでしょうか？皆さんはお気づきでしょうか！この世の生存空間には、常に多くの自然災害や人災が発生し、安らかに生きることは難しく、それゆえ心の平安を保つことも困難になります。そして、問題は次から次へと絶え間なく現れるのです。
人類に対して多くの殺傷力を及ぼすことになるならば、いかにしてこの種の殺傷力を最小限に抑えることができるだろうか。逆境をそのまま成長の糧とする必要がある。これこそが人類の衆生が人道世界に入り、一部の者は福報が比較的豊かであり、自らの生存の方向性においてどうあるべきかということである。
また、多くの困難や挫折に遭遇することも稀で、このように長い時間の因縁作用の中で、自らが更なる精進を遂げられない状態に置かれることになります。このような条件は人類の衆生に対して非常に大きな打撃となり、またこのような条件の中で人間として生まれるときには、必ず多くの無明の障礙が顕現することになるでしょう。
このような福報に恵まれた人々は、自らがすでに挽回困難な状況に陥っていることに気づきにくく、この作用によってさらに無明の障害の中に留まり、人道世界に生まれたこの一生で本来大きく向上を遂げたいという願いも、自覚の難しさゆえにどうすることもできないのです。
十二因縁を如実に順観す
十二因縁を順観する作法は、まさに沈淪の根拠であり、上昇超越することもできず、逆観法に対しては、また有情衆生が最も頻繁に遭遇するすべての因縁の根本である。どうしてそう言えるのか？この十二因縁に対する逆観法は、日常の生活の中で欲求する一切のものから来ているのである。
自分自身が逆の視点から見ても、自分の欲望をどのように手放し、執着しないようにするかという境地に達するのは難しい。この条件を達成する必要があるが、一般の有情衆生にとっては、それほど深い福徳があるわけではないので、あらゆる問題が次々と生じ、自分自身の欲望を達成することが難しいというのが、まさにこのような状況である。
また、十二因縁の逆観法が形成されましたが、これは日常生活の中から、必ず如実性をもって到達する必要があります。このような福徳に乏しい衆生は、十二因縁の逆観法の中で生存作用を営み、逆観の欲求があっても得ることができず、このように人間を含む衆生にとっては、比較的骨身に徹する思いとなるのです。
この欲求作用の中で、どのように手放すべきかを記憶にとどめることになる。これらの欲求の必然性に対しては、必ずしも自分に利益をもたらすとは限らないことを知る必要がある。十二因縁を逆観する法の中では、まさに自分の欲求を手放すことによって、あらゆる貪欲な念いを減らし、多くの煩わしさが生じることを防ぐことができるのである。
十二因縁 順逆の観法
また、このような条件下では、人類の衆生が向上を目指し超越することも、比較的達成する能力があると言えます。しかし、すべては因縁によって促される必要があり、自らの求める中から円満に至るのです。この中で、人類としての「陰徳と智慧」は、十分に関係しており、未来における充足の有無を分ける判断基準ともなります。
このような人間の衆生は、生存の障害を理解することができず、十二因縁の「順観法」を理解することは非常に困難です。また、十二因縁の「逆観法」を通じて徹底的に理解することが必要であり、それによって初めて、自分自身が人道の世界において、正しい心の姿勢と観念によって主導されていることを真に理解できるのです。
これは自らの心のあり方と観念によって、十二因縁の「順観・逆観の法」を理解し、自らの向上成長を促すものである。人類衆生は真に理解する必要がある。このような「十二因縁順逆の法」の微細な観察は、まさにこの十二因縁の働きを通じて成長するためのものである。
十二因縁生存の作意
日常生活に身を置きながら、もし多くの欲求を減らすことができれば、多くの障害も減り、人類の衆生にとってこのような観念を持つことが必要です。そしてこの仏教の理諦に入り、「十二因縁の順逆観法」によって自らの主人となり、さらにその内包を透徹して理解するにはどうすればよいのでしょうか？
十二因縁の順観法によって、あらゆる欲求を満たそうとするのではなく、それは真の向上成長をもたらさず、むしろ下降への落とし穴であり、自らそこに飛び込んで浮き沈みを繰り返し漂流するのです。もしその境涯に入らなければ、かえって漂流による障害を受けることはありません。
もしこれに没頭してしまえば、まるで人間の衆生が今を生きているかのように、いつになったら自分自身の無明の障害を知ることができるでしょうか。まさにずっと浮き沈みを繰り返しながら、苦しみに満ちた一生を過ごし、それはまた非常に心に刻まれるものです。このような有情衆生に対して、皆さんはどうお思いでしょうか。
十二因縁によって人間が生きることは、ほとんど明らかではない。
また、自らが選び取った人間世界において、生存と成長の境界線を定めること、これはまさに有情衆生が最も向上成長を遂げることが難しい所以であり、また「十二因縁の順・逆観法」が存在するがゆえに、その中の因縁をはっきりと区別することは、向上成長を成し遂げることを一層困難にしているのである。
かえって、二丈の和尚が手探りで頭にたどり着けないような、もう一つの迷いの障壁である十二因縁を、どうやってはっきりと理解すればよいのか？これは十二因縁の順逆観法であり、あたかも人類衆生が生存の方向を求めるように、容易に理解することができる。人類衆生が何を求めているのか？この種の因縁の働きを理解する必要がある。
これは反対の側面から成就されるものであり、大きな向上をもたらす。人類の衆生はこのような生存の中にあって、必ずこのような考え方を持ち、向上して超越しなければならない。これこそが十二因縁の順観・逆観の法において、自らの主人となることであり、これが如実の性であり、また未来の成就の根拠となるのである。
十二因縁の順逆に従うは　すべて有情の自己なり
一切の来るべき欲求を悟りて　  　放下すれば即ち期を超越せん
十二因縁順逆観　　　有情の衆生かくの如く還る
あたかも生存が向上するかのように
すべてはここで回転している
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合うものです。十二因縁の順観・逆観の法は、自らの思惟観念の中で成長を遂げることに由来し、また如実に自らの思惟を高めることでもあります。これによって皆が真に向上することができます。もしすでに基礎が築かれているならば、如実に向上し、超越して成長を遂げることができるでしょう。皆さん、お分かりでしょうか。また本日は衆聖恩師のご誕生を祝っていただき、ありがとうございます。皆様、ありがとうございました。ではまたお会いしましょう。
無極の徳は広大なり  順天聖母
無極の徳は広大にして天母に順う
聖なる道は吉祥にして皆が顧みる
南海古仏自ら降臨して著す　　十二因縁の殊なる道
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は南海古仏が降臨され、大道唯識第二十五回を著作されました。十二因縁の順観・逆観の法を詳しく分析し、有情が生存の方向性を選択する際の無明について、すなわち「自分を主人とする」ことについて論じられます。これは欲望の中にあって容易には到達し難い境地ではなく、自らが主体となることを指します。
このような生存はまた多くの罪業を生み出す、どうして否定できようか？それゆえに十二因縁における順逆に対しても、ちょうど人類衆生の生存のように、今このままに生きているのであり、その内なる奥義を知ることができるだろうか？これを知ることができる者は智者であり、もし知ることができなければ、なおも「大道唯識」を強化し、智慧を増長させることが正しい道である。
注：十二因縁の逆観法：老死、生、有、取、愛、受、触、六入、名色、識、行、無明。この逆観法は互いに補い合うものである。十二因縁の順観法：無明、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死。これは人間世界において実践されるものである。
2015年3月11日12時15分◎＃※   了承しました。
南無、衆生ことごとく如来なり
燃燈の心法自ら開く
古仏降著唯識冊　　六入名色に障礙あり
第二十六回　六入名色　受執難改
六入と名色の執着は改め難し
有情なる衆生は人道世界に在るや、六入の志向過程を有することになる。これは人道世界における生存の必須性であり、また六入の名色によって見聞覚知が生じるためである。さらに、必ずや思想の中枢としての作用が必要となる。このような人世間において言えば、単なる表面的な見解に留まるものではない。
より深い理解が必要であり、初めてその内包する意味を真に理解することができる。この条件とは、人類が言うところの「智慧の向上」であり、単なる知識だけではない。人類が実相世界に入る際、もし表面の事象だけを見ているならば、事象の内包する意味を理解することは難しい。主な因縁の根本は一体どのようなものなのか？
有情なる衆生がもし表面だけを見ているならば、知識の成長を促すことは難しく、ましてや智慧を増すことなどありえません。この問題は単なる表面的な問題ではなく、ではどう言うべきでしょうか。なぜなら一つの事柄に対して、人間が生きる過程に入り込むと、多くの異なる見解が生まれるからです。では、いかにして人類衆生に利益をもたらすことができるのでしょうか。
また、異なる見解があるがゆえに、必ずや自らの判断に影響を及ぼすことになる。これもまた
一つの出来事には多くの角度があり、行動基準に依拠することで、自分なりの異なる見解の持ち方が生まれます。こうなると、表面だけを見ることに陥り、問題点をはっきりと見極めるのは非常に難しくなります。
六入は名色に執着し、改め難し
人間の衆生は一つの事柄において、異なる角度から観察し、それによって異なる問題点が生じる。この六入名色の作用もまさにこのようなものであり、六入とはすなわち、眼が色を見、耳が声を聞き、鼻が香りを嗅ぎ、舌が味を感じ、身が触れを動かし、意が法を起こすという行使の過程によるものである。
問題点に対しては、ただ表面的な事象を見るだけでは不十分であり、必ず問題点の内部に深く入り込み、その発生の源は何か、また問題の経過はどのようなものか、さらに問題の結果がどうなるかを理解する必要があります。したがって、六入が名色の中に入ると、自己に対する見方が異なる方向へと引き起こされるのです。
問題が顕在化する過程において、まさにこのような状況である。さらに深く掘り下げてみれば、必ずしもそのような対応が取られているわけではない。六入や名色をいかに思考の中で捉え、再考の作用を働かせるか？そのためには問題を極めて透徹して見極め、問題の本質を捉えた上で、不良な誤った行いを改善していく必要がある。
このようにして、「心に霊犀一点通ず」という理解が生まれます。すべての六入名色に対して、単に表面的な問題認識に留まるのではなく、さらに深くこの過程を理解し、どのように心を込めて問題点の成長を体得すべきか？必ずやありのままに「六入名色」に向き合い、修正と改善を進めなければなりません。
六入の名色は、もし受執あらば必ずや改変し難し
また、自身の知識の成長や知恵の向上にもつながります。人間の世の中は、このように六入名色の中で、十二因縁のすべての始まりと終わりの過程に入り、十二因縁の作用が生じます。そして平常心をもって世の中のあらゆる事柄を観察することで、物事を見る多くの異なる視点を得ることができるでしょう。
一つの出来事からどのように遡ることができるのか。これは有情衆生を人間界に入らせ、自らの行いには相互の制約があることを理解させ、また人間界には相互に補い合うものがあることを知らしめる。相互の制約を通じてこれを解消していくのである。さもなければ、六入名色の中にあって、表面的な問題だけに焦点を当てることはできない。
それゆえに真に理解することはできず、その内奥は一体どのようなものなのか？故に六入名色について、もし単に表面上のすべてを語るだけならば、より深い層にある内包がどのようなものであるかを体得することは難しく、その内部での作用がどのようなものであるかもはっきりと見極めることはできない。これは、六入名色が人間世界に入る際に必ず経なければならない問題点なのである。
どのような表相を見に来たのか？さもなければ理解し難く、六入に対してもまるで幼い子供の無邪気さのようで、真の創造力は持たない。必ずありのままに通達し、まるで子供の無邪気さのように、一定の時を経た後には必ずありのままの経験が積み重なり、成長と向上も生まれる。
六入は名色に執着し、改め難し
また、どう言えばよいでしょうか。問題に対して、誰もが表面上はそう見えるものですが、必ず知っておく必要があるのは、人それぞれ視点が異なり、一つの事柄に対して異なる角度から行動基準が形成されるということです。人間の衆生はただ表面上、すべての問題を理解できるだけであり、必ずしもそうとは限らないのです！
さらに深い一層の体悟に対しては、大きな機能的な効益はなく、ただ人世間においてすべての表面的な問題に対して行持するだけである。もしより広い角度を用いて、問題点を異なる立場から捉えることができなければ、いかにして形而上のすべての行事の準則がこのようであると言えようか？しかし、形而下的な作為は、ただこれだけにとどまるものではないのであろうか？
一つの事柄に対して多くの異なる答えが生じ、自分自身の形而上的および形而下的な行為もすべて異なるものとなります。そのため、六入名色の中では、しばしばこのような自己の行動規範を阻害する状況が生じます。六入名色を向上させる必要があり、経験の再構築の過程こそ、まさにこのように行わなければならないのです。
また、形而上的な表面の事象と、形而下的なより深い層に対する理解があるからこそ、六入（眼・耳・鼻・舌・身・意）の働きにおいて、色・声・香・味・触・法をいかに結びつけるべきかが明らかとなり、これによって人間世界において表面上に見える一切の区別が生じるのです。
人類の生存は六入と名色によって一切が影響を受ける
眼で色を見、耳で声を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を感じ、体で触れ、意で法を起こす。このように私たちが見るすべては、果たしてただ一人の顔立ちに過ぎないのでしょうか。さらに深く観察すれば、これらの五感の働きはいかなるものか？その内なる奥義を明らかにし、いかなる機能と作用があるかを知る必要があります。
さらに、六識の思惟構築を通じて、七識－末那識による再思考が生じ、それが八識－阿賴耶識の貯蔵庫に入り、過去のすべてを引き出して相互に融合させることで、あらゆる問題点に対する形而下の認識が生まれ、またすべての事象を統合する働きが起こり、縁起と因果応報の接触が始動するのです。
この機能作用は、もし表面の形而上の事象だけを見ているならば、真に問題点を克服することは難しい。また、六入におけるすべての名色は、さらに深い一層の応用があってこそ、一切の相互接触が生じるのである。有情衆生はまさにこのようにして、思考の中に入り込み、緻密な作用を営んでいるのである。
しかし真に問題点を克服し、修正・改善するには、十二因縁のすべての接触過程において、「六入名色」のすべての障礙を了知しなければ、真の智慧の向上はありえません。実のところ、誰もが日常の生活において、平穏な過程こそが正しいものであると理解できるはずです。
生存はすべて六入と名色の支配を受ける
これは一般的な有情衆生が追求する事柄であり、もし上昇超越を志す智慧ある者であれば、このような観念は持ちません。必ず日常生活の中で、自らが遭遇する問題点がどのようなものかを心を込めて体得するでしょう。ですから、人間衆生がただ表面上の一切を見ているだけでは、より大きな成長と向上を得ることはできないのです。
心を込めて体得することもなく、すべての不足や欠陥、誤りをどのように修正すべきか？これこそが人類衆生にとって最も難しい課題であり、またその過程において、問題点をはっきりと見極め、次の一歩をどう進めるべきかを考えるのである。経験が十分に徹底していなくとも、それで十分に応用できる。
しかし、自らの骨身に沁みる体験を通じて深く記憶に刻まれ、六入名色を透徹して理解するに至れば、もはや幼子のような無邪気さではなく、根本的に問題を解消することができる。これは人類の衆生が日常生活において必ず経験する過程であり、またあるがままに感知するものである。
人類の衆生には必ず六入名色が必要である
生活には順調な時とそうでない時の境界線があるわけではありません。もし人間がただひたすら順調なことだけを追い求めていたら、どのような衆生であれ、必ずや一段上の成長を遂げることはできず、向上や超越を悟ることもないでしょう。ですから、人間は問題点に深く向き合い、それを乗り越える過程で、理解と知恵を成長させていくのです。
前に進む機会があっても、誰もが人生を順調に送りたいと願うため、大きな成長は得られません。もし順調でない中で、世の中のあらゆる問題を経験し、さらに問題を解決することができれば、それは知恵の応用次第です。このような順調でない状況の中でこそ知恵が蓄積され、知識の増大と成長が現れるのです。
人類の衆生はこのように、自らのすべての行いがどうあるかによって、より良い成長を遂げ、向上超越の契機に入ることができる。多大な心遣いが必要であり、それによって多大な収穫と利益を得るのである。六入名色において、「形而上学と形而下学」の見聞覚知を高めることで、より真実に即した成長が得られるのである。
一切の知識の源は、人生の過程がその根本をなす。
六入と名色は嬰児の如く
見聞覚知かくの如く添う
生存の一切の名相は　　自ら主張を持つ必要がある
この偈は、すべての有情の衆生が互いに励まし合い、あらゆる物事を単なる表面的な行為として見るのではなく、形而上と形而下のすべての作用において、問題をありのままに解きほぐすことができ、自らの判断力を高めて決断することができるようになるでしょう。これはすなわち、智慧を以て自らを利し、衆生を利する利益を積み重ねていくことなのです。
無極賢徳城隍公
無極賢徳城隍公　初めて登台し賢衷に会う
皆様の吉祥と安寧を祈り、教化を広めて大同世界を築きましょう。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈大宗師　南無燃燈古仏が降臨され、大道唯識第二十六回を著作されました。六入名色への執着という難解な問題について、皆さまと共に研究を深め、あらゆる問題を解消してまいりましょう。
ですから、物事を見るには表面だけを見てはいけません。必ずありのままに理解し、具体的な問題や事務判断能力を持つことが必要です。そうすれば問題の状況もより把握しやすくなり、問題が発生した際に直接それを変えていくことができるのです。このような働きを持つことが正しいあり方です。明後日は今月の懺悔の日です、皆で一緒に善縁の成長を迎えましょう！
注：六入名色とは－
六入：眼は色を見、耳は声を聞き、鼻は香りを嗅ぎ、舌は味を味わい、身は触れ動き、意は法を起こす。これら「眼・耳・鼻・舌・身・意」が六入の根となり、「色・声・香・味・触・法」という六塵の境に対し触れ合うのである。
名色：五蘊の総称なり。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五蘊あり。受想行識の四蘊は心識をなし、色蘊は形相ある動きを起こし、地水火風を形成し、一切の外在事象へと展開する。
六入名色：人間を含むすべての衆生が見る一切の実相は、すべて「心を動かし念いを起こす」ことによって各人の思想概念の中に生じ、これが未来の一切の因縁果を造り出して現れるものであり、それによって善悪や福禍の区別が形成されるのである。
2015年、0311、1216◎＃※   ０Ｋ；
南屏道済古仏
南屏は障りを防ぎ群生を護り　道は和衷を済わせ福運を現す
古仏は二十七冊を降著し、異なる変化を起こして人の根本となる。
第二十七回　異変が起こる　人為的要因
異なる変化を引き起こすのは人為的要因である
六入名色が執着の中に陥り、転じ難くなると、人間の行為に対して異なる変化が生じ始めます。まさに人類衆生の行いを通じて、物事の始まりと終わりの過程に入り込む中で、問題点に対する障壁が生まれ、物事を徹底的に理解することが難しくなり、真の理解を得ることは容易ではありません。問題点をいかにして解消すべきか、という問いが生じるのです。
それゆえに、異なる変化が生じ、それぞれに違いが生まれるため、人類の衆生は拠り所を失った方向性を抱えることになります。このような状況において、問題点に対して何をなすべきか、また人間界においてどのように六入・名色を通じてそれを解消すべきか、理解することができません。この問題点は異なる変化の発生の中にあり、根本的にはさらなる向上と成長を遂げることは不可能なのです。
この種の問題点は、人間界において観察するに、いかなる時空条件のもとでも、日常の生存志向を営むと同時に、自らの疑問点に対して困難の顕現を深めていく。このような作用の中で、いかにしてこの疑問点の深化を解消するのか？人類の衆生はこの時空においてどうなるのだろうか？
根本に知識と経験がなく、異なる変化を引き起こすことを転化させ、形を成す。
過去の経験の蓄積が一種の形成となり、この時、人間の衆生は往々にして自らの求めるままに行動することができません。必要なのは、自分を「善を思わず、悪を思わず」という境地に置くことによって、心を静めることができるのです。
六入と名色に対する一切の執着
これまで積み重ねてきた経験を再現するという行為がありますが、この経験の再現は、自らが実際に体験して初めて結果が得られるものです。さもなければ、またしても単なる伝聞に過ぎず、そもそもこのような経験の蓄積がなく、すべての問題に対する疑念に根本的な理解を植え付けることができません。では、このような疑問点をどのように解消すればよいのでしょうか？
また問題点に対しては、自分が必要だと考えるそのような思考構築があってこそ、良い方法で対応できるのです。このような因縁条件に人間社会で初めて直面する時、大部分は対応する経験がなく、未来のすべての構築がどのように人間社会に利益をもたらすかも理解することはできません。
したがって、人類の衆生は、初めて遭遇する問題に直面したとき、未来のすべてを知ることはできず、問題の所在を見極めることも難しいのです。このような異なる変化が生じる中で、もし人類の衆生が前回の経験を積み重ねていれば、その経験を記憶にとどめ、再び活かすことができるでしょう。
今回の対応方法についても、経験が蓄積されてきました。このような変化の違いは、人為的要因による行動であり、問題点の方向性に調整を加えたものです。したがって、人類衆生にはなぜ多くの理解できない問題があるのか、それもこのように生じるのです。また、疑問点に対してさらに加えていくことになります。
異なる変化が起こり、無常は原則である。
人間世界における行いや振る舞いの中で、それが当然のことと認識されるものは、有情衆生が次なる経験の蓄積と再現を獲得する過程でもあります。人類の衆生はこのようにして、あらゆるものの変化と無常の中に入り込むことで、方向を見失い、真の「心の安定」を保つことが難しくなるのです。
この条件が人間界においては、対立する異なる変化と無常の原則があり、まさに心を定めることができるのです。しかし、大多数の人間の衆生は、この対立する異なる変化と無常の原則を欠いており、また問題点を一つ取り上げてそれを解消しようとするため、六入名色に執着するようになり、転じることが難しくなってしまうのです。
人類の衆生は、眼・耳・鼻・舌・身・意の現れを通じて、また色・声・香・味・触・法の体と用いの中を観察する中で、最初に見られる原則を理解することが必要です。そうすれば、異なる答えと結果が生まれます。したがって、事柄の全ての疑問点を観察する際には、表面上の状況だけを見るのではなく、深く洞察することが求められます。
改めて机の下を見渡す必要がある。そこにあるすべての問題点こそが、真の問題の根源なのだ。人間が最初に目にするものは、必ずしも未来の結果ではない。この中で生じる様々な変化と異なる作用は、すべて人為的要因によって作り出された結果であり、それによって初めてあらゆる問題点に対して、解決へと作用する力が生まれるのである。
六入名色の必要性
疑問点に対する問題にどう向き合うべきかについては、人類の衆生が最初に目にするものは、往々にして最も原始的な答えではないことを知る必要がある。また、最も重要な問題においては、必ず心を定める作用が必要であり、それはすなわち、善を思わず悪を思わず、正に沈黙の時に体得するものであり、ただ今この瞬間にこれらを以て心を定めるべきである。
定心には、必ず一つのはっきりと知り通じる理解が生じるでしょう。さらに、善を思わず、悪を思わず、正に沈黙している時の対応策を通じて、この時に生じる「心に霊犀一点通ず」という体得、これが一つの「本明」の基本的な作用です。また「本明」には「慧覚」があり、それによって理解されるのです。
また問題を解決するためには、どのような方法を用いて向上させるべきか？問題点を的確に解決することができれば、「本明と慧覚」が全身に満ちるようになる。この時すでに智慧が大きく増し加わる境地に入っている。人類の衆生はまさにこの種の「本明、慧覚」という大智慧を欠いているのである。
人類世界において、繰り返し輪廻し続け、この限界から脱することが難しいのは、まさにこのためです。したがって、「本明、慧覚」について考察すると、人類はこれを十分に備えることが可能であり、わざわざ大げさな手段を講じる必要はありません。実在の性質として備わっているものがあるのですから、皆がこのような条件を備え、向上を成就することを願っています。
いかにして心を定め、人為的要因を変化させるか
これは「六入名色」を経て、「十二因縁」を通じて人間の衆生の基本的な作用に組み込まれたものであり、このようにあるべきものです。また、この十二因縁の中における名色六入によって、人間世界のあらゆる生存志向や求める動作が引き起こされ、やがて生活の一部となっていくのです。
この時、もしこれらの欲求を制止しなければ、たちまち人間の衆生は欲念を追求することになり、それは必然的に業障を生み出すことに繋がり、また人間の衆生が生存欲求の嗜好の中にいることになります。まさにこのような状況だからこそ、必ずや制止する方向性が必要であり、この種の欲求の方向を追い求めることを消し去らなければなりません。
もしその場で念を止めなければ、欲しいものへの欲求はどんどん深まっていきます。これは人間が最も理解しにくいところです——なぜ私たちはこれらの物品を追い求め、一つの物事への好みを形成するのか、まさにこのような過程なのです。ではなぜ人間は、あらゆる物質的な好みを積み重ねて求めるのでしょうか。
これこそが異なる変化を起こし、各人の心の状態の必要の中で形成されるものであり、人間の衆生が平穏順調な中にあって、欲望や好み、執着を生み出すことこそ、大いに修正し改める必要があるのです。また、このような人間の衆生が六入名色に執着する性質は、変わることはあり得ません。なぜそのようになるのでしょうか。
異なる変化を起こすには、どのように改造し向上させるべきか
人間の衆生はこのような必然性を有しているからこそ、この欲望を追い求める想念は変わることがなく、またそのように感じることが正しいとされ、どうしてそれを変える必要があろうか。そうして欲望の中に追い求める希望が形成され、もし希望が達成されれば、この欲望の中にある想念も消え去ってしまうのである。
人間の衆生にとって、根本的な追い求める思いにおいては、追い求める目標を基準として達成しようとするものである。この時空において、人間の衆生は一人一人が希望さえあれば前に向かって追い求めていく。このような状況の中で、どうして修整や変革が可能であろうか。根本的にこのような造作や修正を行うことは、全く不可能なのである。
また、一般の人々は皆、前へ進もうとするものであり、必要性を追い求める中で一種の欲求観念が形成されます。変化が起こることを理解するのは、全て人為的な要因が主導する作用によるものであり、まさにその通りであるべきです。これはまた、人類の衆生に対して警告を発する関連する作用も持っています。
このような疑問が生じるのはどうすれば解消できるのか。「本明・慧覚」から現れることによってこそ、より大きな成長と向上が得られるのです。「本明と慧覚」に対して大いなる働きかけが必要な者こそ、これを得ることができます。皆様が「本明・慧覚」を現前させ、より大きな智慧を得て、道務を展開し弘めることができますように。
異なる変化が起こり、それぞれに違いがある
人類と衆生が互いに手を取り合う
作意を起こして現前せしめれば　  　各体追い求むるも同じ功あり
人の一生の営みは　すべて有情の相互擁護なり
今の暮らしもままならず　　未来もやがて消えゆく
この偈は、すべての有情衆生が互いに励まし合うものである。人間の衆生が異なる変化を起こす際には、往々にして六入名色によって観られるものであり、すべての作意においても同様である。では、この欲望の念いの追及をどのようにして変えていけばよいのか。必ずや「本明、慧覚」を具えた如実のあり方が必要なのである。
この世に今備わっているもの、そして未来に得難いものは何故か？それはただ堪忍の世界で生きているからに過ぎない。それを理解できるかどうかは自分次第だ！今日は何か互いに喜びを分かち合えるものはないか？先ほどの五杯のお茶に加えて、皆で業障を少し消してみようか？福徳と智慧を増やし、少し「本明、慧覚」も加えてみようか？そうすれば良いだろう。では次回またお会いしましょう！
無極金徳  福徳正神
無極の因縁初めて台に登る
金の徳福みなに愛されん
正神が諸神人と共に会し、吉祥如意に福運が開けます。
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、今晩は。本日は南屏道済古仏が降臨され、大道唯識第二十七回を著作されました。異なる変化や人為的要因を天書の中に著作し、皆様が問題点に困惑されていることに対しては、「善を思わず、悪を思わず、正しく静かな時」という契機を応用すべきです。
「定心」ができれば、「本明、慧覚」も生じるようになり、「以心伝心」の境地を感じ取ることができるようになります。これは皆様がこれまで体験したことのない悟りであり、どのように応用すべきか試してみると、大きな収穫と感応を得て、将来の弘法活動の推進に役立つことでしょう。
2015年、0311、1217◎＃※   ０Ｋ；
南無阿弥陀仏降りて、崇心宗脈は遠き疆に兆す
大道唯識二十八回　　真如仏性衆生に揚がる
第二十八回　真如の仏性　衆生の根性
真如仏性と衆生の根性
六入名色が人道世界に入り、生存の方向を定める際には、潤生（生活の営み）をいかに進めるべきかを知る必要がある。また、自らの根性においては、「仏性真如と魔性真如」の二者を区別することになる。一般的な有情衆生は、ただこの二者の名相があることを知っているに過ぎない。
しかし、この過程において、「仏性真如と魔性真如」の両者の区別をいかに知るかについては、非常に少ない。したがって、仏教のいかなる体系や宗派においても、「仏性真如と魔性真如」の正しさを理解することはほとんどなく、このようにして向上し超越しようとすれば、多くの困難が生じることになる。
これこそが非常に難しい、一つの通徹した契機を知ることであり、必ずやこれ以上の向上は得られず、また常にこの種の疑問が自らの成長と超越を阻む。これは有情衆生が必ず知るべきことであり、生存の方向性の中には、生を潤す条件もあれば、多くの無明の障害もある。
人類が宗教に入ると、自らの仏性真如がこのようであることを、なかなか体得することができません。
何ですか？自分自身の全ての過程に対して、本来は大きく向上させる余地があったのです！逆に、仏性真如を一種の良好で善美な表徴の中に規制してしまっているのです。どうすれば自分自身を仏性真如の世界に入らせることができるでしょうか？
真如の仏性と衆生の根性
はっきりと理解する必要があります。仏性の本質は、あらゆる事柄を見ることはできませんが、しかし、それぞれの人が自ら体験することで、仏性の中においては一種の本質的な理解をもって、「本明通徹」というものを持つことができます。皆の事柄に対しては、自らが仏性に入り、確実に向上させなければなりません。
かくして「本明と本覚」の中に、さらに一段と超越した境地がある。般若の智慧が働きを及ぼし、「本覚と本明」を照らし見ることによって初めて、人間を含む衆生が本明の中に入ることに何の欠けも無明もなく、自らの生存の方向性を明らかに行うことができるようになるのである。
むしろ、無明の障害が山積みになっているのではなく、真如仏性はまさにこのような了々分明なる本明の中にあり、本覚の般若智慧を照見することができる。これは人類の衆生が仏性真如に入って体得するものであり、まさに第一層次に留まるだけでなく、必ずや第二層次に入って了知しなければならない。
「本明と本覚」を通じて、あらゆる問題点を解消することができる。人類の衆生はこの時空において、「般若智慧」を実践することによってのみ、無限の福祉を創造し、自らが真の理解へと至ることができる。まさに、人間世界におけるあらゆる過程を通じて成長し向上していくのである。
真如仏性は衆生の根本的な性質なり
この経典は、本来明らかな覚りの智慧の中から、本覚の般若智慧を生じさせ、自己を向上超越させることを成就するものです。また、真実の性質に従って自己を成長させ、元々備わっていた「本覚の智慧」を増長させるものでもあります。この本覚の智慧は、真に自らを益するものでなければならず、それが正しい道なのです。
人類の衆生が真如仏性の成長に入るにつれて、それぞれの段階で異なる悟りがあり、また多くの異なる自らの経験があります。それによって本覚の中において、本明が自らの成長に益をもたらし、真に自らを利益するとともに、衆生をも利益することができるのです。さらに、真実の利益を回収することができます。
これは有情の衆生一人ひとりが備える条件であり、また真如は自らの真如性を発揮するものである。人間の衆生はこのような条件の中で、真如仏性に入り、一切の事相の機能と効果を体得することは極めて稀である。真如が有情衆生に対すると、知識の見聞覚知をもって進められることとなる。
また、本覚の中に応化が再び現れると、物事に対して明瞭な理解が生まれます。この時、有情衆生が本覚にあるならば、必ず本明を引き出して発揮させなければなりません。そうして初めて、心の中にあるあの一筋の仏心の光を、外界の人類衆生に向けて押し広げることができるのです。もし仏心の光が照らすことがあれば、自らの本覚を加速させる力が生まれるでしょう。
真如は仏性なり 仏性は真如なり
また、本来の明るさによって理解されることもありますが、これは有情衆生が人間界に入ったときに、本来の明るさを完全に通じさせ、はっきりと理解することが非常に少なく、常に人間界の無明の障害によって、本来の覚りを完全に通じることが阻まれ、より大きな向上ができず、ただ人間界で多くの無明の障害が続くだけであるということです。
したがって、心の中にはより大きな智慧の覚醒が生じず、問題点を解消する力を発揮することができません。これは人間世界において常に現れる問題であり、人類の衆生が「本来の明るさと本来の覚り」の中で般若智慧を生み出すことができず、このような備えと悟りの条件を持ち合わせていないからです。
実は人類の衆生は、仏性真如において、必ず一つの念を定め、心も動かず、念も動かず、さらに無明の障りさえ起こさない必要があります。それはちょうど、善を思わず、悪を思わず、まさに黙する時、このような契機の時空因縁によって、仏性真如に対して、より大きな創造的進展の作用が生じるのです。
また、古来より、すべての無明を即座に解き明かすことができたのは、善を思わず悪を思わない沈黙の境地において生じる一切の本明の智慧の覚醒が、過去の原始的な根性の働きによるものであり、この原始的な根性の働きは、あらゆる衆生が備えている条件であるからです。
真如の本体に契機するとは、すなわち自性にほかならない。
しかし、それを応用することはできません。菩薩果位以上を証得した者でなければ、このような印証と明晰さを得ることはできません。人間世界の有情衆生は雑事が多すぎて、多くの無明の障害を形成します。また、この時に他の冤親債主が討伐に来ないとしたら、一体どうなるのでしょうか？
さらに、「心の寂静」は、相当に確かな時空において初めて具わるものであり、この時の心の寂静は、ちょうど人間衆生が夜更けの静寂の中で味わう心境のようなものです。このような寂静の瞬間に、過去三世の因果をすべて明晰に体得し、仏性真如を顕現させることができるかどうかが問われるのです。
この種の寂静は、極めて確かな作用を有し、静寂が極みに達した時、本覚を高めることを成就させることができる。それによって三世の因果を貫通し、過去に現れ得なかった一切の智慧を悟り、第八識の中に植え付けることができる。これこそが、人間の言う「仏性真如」の顕現である。
一切衆生は悉く仏性真如を具えている
また、多くの本覚の智慧が加わることがあり、時間が経つにつれて必ず本明慧覚の智慧が形成され、自らの本覚の中に加わります。そのため、過去の人類の衆生は、知識においてより大きな成長を遂げることができず、その大部分は各衆生のすべての怨親債主による干渉を受けていたのです。
必ずや本明覚智が具備するものに影響を及ぼし、突破を望む時には多くの無形の障りが生じる。故に、仏性真如が顕現する時、別の時空には必ず無形の障りが現れ、さらに魔性真如も顕著に現れる。このような状況において、仏性真如を顕現させようとする有情衆生はどうなるであろうか。
一つ理解しておくべきことがあります。この種の問題は、すでに菩薩の位を間近に証得しようとしている人にとって、必ず障りとなるものです。この時、もし過去の怨親債主からの追及を解消することができるならば、同時に自らの魔性真如も転化し、より大きな悟りの境地を得ようとすることが可能であり、得られるのです。すべての重要なポイントがどのようなものであるかを、必ず理解しなければなりません。
仏性の基盤、真如の顕現作用
証道に臨む前に、すべての無形のものを転化させ、問題がどこにあるかをはっきりと知ることが必要である。そうすれば、大きく転換する契機を得ることができ、またありのままに自らを真如仏性の境地に置くことができる。これは、真如仏性に入りながら、同時に魔性の真如が顕現するという、あまりにも容易な境地に至るのである。
人類の衆生が真如仏性に入るならば、必ず本源の明と本源の覚が、いかにして「寂静時空」の因縁を向上させるかを知る必要があります。それはまた、自らに対する相互成長・向上・超越を形成し、いかにしてそれを進めるか、さらにこのような契機を如実に転化することも必要です。実は、人類の衆生は皆、この条件に到達することができるのです。
仏性真如、あるいは真如仏性の中で互いに照らし合うという経験も生じます。これは仏心の光を輝かせ、すでに暗く沈んでいた千古の根性を照らし出すものです。これは仏性真如に入る最初の段階に過ぎず、この先にはまだ多くの段階があります。将来さらに詳しく分析する必要があり、それが正しい道なのです。
嘆くべし、仏性が真如と為るを
人生の過程に慧智無きを
智慧のみで積み重ねる　　高め超え真如の初めに
本明慧覚は具備すべく、覚性の種因は相互に為す。
本覚了知の慧智通ずる
仏心光芒これ最も為し
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、また真如仏性を持つ衆生の根性を分析し、考えを深めることで、皆が初歩的な理解を得られるようにするものです。本明あるいは本覚によって明らかに理解することができます。これは有情の衆生が生存に入る際に必ず備える条件であり、皆が真如仏性の顕現を具えられることを願っています。
無極聖智  玄天上帝
無極聖智玄天帝　  　上台共会諸賢契
皆様吉祥にして安寧ならんことを　阿弥陀如来本尊移座
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。
本日は、仏教の教尊である南無阿弥陀仏本尊が降臨され、大道唯識第二十八回を著作されました。
有情衆生が真如仏性の中で、いかにして自らの生存の方向性をより大きく成長させていくべきかについてです。
必要であることを知るべきは、仏性真如において、いかにしてさらに超越した向上へと歩みを進めるかである。しかしながら、一般の人々は累世の因果による障害に縛られ、それゆえに真如仏性の中に多くの障壁を抱えている。さらに、自らが「本明・本覚・慧覚・覚智」において理解していることが、かえって徹底的な通達を困難にする原因となっているのである。
2015年、3月11日、12時18分◎＃※   了承。
南無本師釈迦牟尼仏　牟尼宝珠殊勝の構え
大道唯識二十九回　　魔性真如は有情の作なり
第二十九回　真如と魔性　人類の根本
真如と魔性は人類の根本である
有情なる衆生は人道世界において、「仏性真如と魔性真如」の二つを潤いとして生きる方向性とし、同時に自らをこの二つの分かれ道に置いています。では、なぜただ一つの「仏性真如と魔性真如」が、この世をかくも濁り乱れたものにするのでしょうか、その原因は何なのでしょうか。
このような作用は、人類の衆生を魔性真如の中に引き入れ、しばしば人類の生存原則に背き、人間の生活にも適応しがたいものです。外見から見れば正常な人間ですが、口を開けばすぐに本性が露わになります。このような世間の外見から見えるすべては、いったいどのような方向を目指しているのでしょうか。
真如の魔性を理解するには、それは人間の心性に注入されたものであり、このような心性の中では仏性が引き出されることなく、むしろ累世の中で最も容易に侵入する自らの真如の魔性が現れてくる。まさにこのような制限があるために、同時に自らを魔障の中へと陥らせてしまうのである。
したがって、人類の衆生は、このような人の思想観念および行為動
作ることは、すべて人類衆生の最も基本的な行為から背離している。なぜこのような動作があるのかと言えば、一般的に言えば、自分が欲求するすべてのものに対して、自分が望む通りに充足させる方法がなくなってしまうからである。
魔性真如は人類の根本なり
また、自己の欲求に対しても一種の障害となり、長い時間を経て内心の不満が一気に爆発します。さらに長期間にわたって満たされない状態が続くと、心の中の反応と反抗が絶えず現れます。このような状態が一定期間蓄積されると、真如の魔性を駆り立てるものへと変貌していくのです。
また、自らの欲求が満たされない状況において、一種の相当な自らの霊性の中に、安らぎを得られない状態を生じさせ、それによって一切の内なる性質の中から、真如の魔性が顕現することになる。このような状況は、あくまで第一の作用に過ぎず、未来においてはさらに残酷な苦しみをもたらすことになる。
内心に感じる不満の感情が生じると、自分が認識している考えに対して反対の思考を加えるようになります。この反対の思考は、もし善知識が導いてくれなければ、あらゆる思想や観念に対して非常に良くない情緒的反応を形成し、自分にとっても他人にとっても一種の破壊力となります。
それゆえに、自分自身の心の中に、消し難い障害が生じることになります。この時点では真如魔性はまだ発動しておらず、単なる悪しき感情の反応の結果に過ぎません。もし良き善徳の因縁がなければ、心の中に不満の欲求が湧き上がり、このような条件もまた真如魔性に対して、人間の衆生の認識において極めて良くないものとなります。
真如の魔性と魔性の真如
正しい導引方法が難しく、問題点が現れた時に
また、善知識が来て導きを加えることもなく、ただひたすら前進し続けた後に振り返ろうとするのは、明らかに愚か者の夢物語に過ぎない。このような真如の魔性がまだ現れていないうちに、すべての善知識は、導きに対して戒めと正す働きを持つのである。
最も恐れるべきは、善知識が指摘して正してくれないことです。方法がすでに正しくないとわかっていながら、問題を明確に理解することが難しく、そのまま放置してしまうと、人類の思想観念に取り除くことのできない障害を形成してしまいます。もう一つは、宗教修行に一定期間入った後、すべての宗教の教化の因縁も手に取るように明らかになってしまうことです。
静坐や閉関中において、人間の衆生が静寂の時に現れるものを理解するようになると、静寂の極みから開かれる境地が形成されます。これは「静の極み、寂の尽きる所」において過去の因果循環を現出させるものであり、この時、仏性も顕現します。しかし同時に、魔性もまた顕現するのです。
そして、仏性真如が顕現する中で、人類の衆生は往々にして仏性が顕れる喜びに傾きがちであり、この時、魔性真如も同じように現れ出ることを全く知りません。これはまさに静の極み、寂の静の中から必ず生じる問題点であり、人間界に示現されるのです。
魔性の本質は必ず探究せねばならぬ
人類の衆生がこのような状況に置かれた場合、非常に注意深くある必要があります。そうしなければ、真如の魔性が顕現する中で、内心に非常に戸惑いと大きな恐れを感じることになるでしょう。真如の魔性が顕現したため、魔性の中に入り込んでしまう恐れがあるからです。人間には根本的に経験がなく、魔境に入ることの相対的な問題について理解していないのです。
もし魔性の真如を理解することができるならば、実際には真如の魔性の中においても、同じく
仏性と真如は一体の両面である。人類はこのような経験の蓄積がなく、普段は宗教経典の説くところ、すなわち「魔性真如は良くないものだ」という教えに影響を受けている。また一部の修行者は、「真如魔性」の前に抗し難い状況に陥っている。
そして、すでに走火入魔したと思い込んでしまい、この時内心が恐怖に襲われると、それが次々と顕現してきます。また、この時、魔性真如について少しも理解がないと、問題の原因が自分自身の恐怖心から来ているという、すでに深く根付いた観念が形成され、さらにそれを打破することも難しく、つまりどうしてよいかわからなくなってしまうのです。
また、真如の魔性が心性の中に入り込むのは、同時に過去のすべての因果の積み重ねによるものであり、それゆえにこのような不良な魔性の真如が顕現するのです。人間を含む衆生は、真如の魔性の中にあっても、真如の仏性と同じであることを理解することができません。ただ、この過程において、いかにして心の想念と意識を「一瞬」で定着させるかという点にあるだけなのです。
魔性と真如を通じ徹して、その内なる意味を明らかに知る
また、いかなる心念意識も起こしてはならず、必ずやすべての真如魔性を変えて再び顕現させることができ、このように真如魔性の中に入ることは、さらに大きな啓発の機能がある。もし「虎穴に入らずんば虎子を得ず」のように、魔境に入らなければ、この時空における人類衆生が魔境に入る必要のある過程を歩んでいることを理解することも難しい。
人間の衆生が恐れを抱き、さらにすべての教育や教化の包括的な観念が加わることで、真如の魔性は非常に悪いものだと考えるようになり、このような状況では真如の魔性を排斥するようになります。このとき、人間の衆生が魔性の中に入っていくと、どうなるのでしょうか？
逆に、真の魔性の真如を知ることができれば、またすべての問題点に対してどのように対処するかが分かる。もし天性が曇りなく、相当な善良な「陰徳」があれば、真如の魔性を徹底的に理解することができ、それは一種の向上である。したがって、このような人類の衆生にとっては、すでに予め設定された不良な体性なのである。
しかし真如魔性を全面的に否定することは、人類衆生に対するすべての試練が、実は逆方向からの成就と向上であることを見失わせる。問題点に対する理解が深まらず、真如魔性の本質を貫徹することができないままでは、相対的に自らもこのような経験の蓄積を持つことになり、必ずや「真如魔性」の中にある一切をありのままに獲得することになる。
魔性真如は衆生の根本的働きである。
この時、もし世の中のことに深く関わりすぎていなければ、まだ挽回の余地があったはずだ。また、社会や宗教の世界に足を踏み入れたばかりの人間にとって、このような経験があれば、必ず問題点を自ら体得し、真如と魔性のすべてがどのようなものであるかを理解できるだろう。これは非常に貴重な身をもっての理解である。
したがって、人類の衆生は根本的に口に出すことさえできず、またその中に踏み込んで、一体どのようにして魔性真如が成り立っているのかを探究することもできません。これこそが人類の衆生が、古来よりずっと浄化と向上を果たし難く、必ずや真如魔性の中から問題点に入り込んで探究しなければならない理由であり、こうした経験の蓄積が生まれる所以なのです。
真如魔性を浄化しようとするのは比較的容易ですが、人間の衆生は誰一人として真如魔性に入ったことがないのに、どうやって浄化できるでしょうか？あまりにも難しい！浄化する機会が必要です。真如魔性の中の穢れとは何でしょうか？この問題の根源は、自分自身が向上し超越したいという思いから来ているのです。
そして、問題点を真に解消し浄化することで初めて、自分は単に門の外から眺めるだけではなく、真如と魔性の中にあるすべてを体得することができるのではないでしょうか？このように外から眺めるだけでは、その内側にある真如と魔性がどのようなものかを体証することは難しいのです。向上し超越しようとする者であれば、誰もがこのような責任を担わなければならないと信じています。
魔性真如実相世界
永遠に門の外に立ち、真如の魔性を見つめるだけでは、決して上昇も超越もできません。その道の果てに至って初めて、真如の魔性の中にどのような問題点があるのかを真に理解できるのです。また、座禅や閉関の修行において、すべては心魔が外魔を引き起こしていることも明らかになるでしょう。
変えようとすれば、大きな困難に直面することになります。このように魔境に入り込むと、人類の衆生は経験がなく、恐れるのも無理はありません。さらに、解きがたい障壁が形成され、これは人間によって引き起こされたものであり、人間が数千年にわたって束縛されてきたこのような障壁を乗り越えるのは、根本的に非常に難しいことです。
また、真如の魔性の中でどのように学ぶことができるのかを理解することも難しい。このような状況があるため、真に超越して向上を望む者にとってどうなるのか？また、真如の魔性の中に入り込んで自ら体験する機会がないため、自分自身への害はどのようなものになるのか？そもそも、このことについて語ることさえ恐れている！
この条件は人間の衆生にとっては、魔境に陥ることを恐れ、真の向上に影響を及ぼすものです。実は相互成長があり、逆説的に成就をもたらすものなのですが、誰もその中に入ろうとしないなら、どうして真に向上し超越することができるでしょうか？あまりにも難しいのです！また、経典にも言及されていないため、恐れるのは人間の常情でもあります。
仏性真如は良善と謂い、魔性真如は元より針氈なり
真に超越することを明らかに知らねばならぬ
それは魔性と真如が互いに染み合うことによる
人生の一世に修める修行は　全て苦魔の因を受くるなり
さらに経典には誤りが多く　  　 人を導き戻すのは極めて難しい
この偈は、全ての有情の衆生が互いに励まし合うものです。魔性と真如の前半部分を分析してみると、未来においてこのような契機がまだあるかどうかは、皆様の努力次第で決まります。必ず大きな向上と超越がもたらされるでしょう。もし縁があれば、この真如と魔性の中にある全てをさらに詳しく説き明かし、より大きな向上をもたらして、全ての有情の衆生が恩恵を受けられるようにすることができます。
無極聖道  天上聖母
無極聖道聖母登　　天上人間有情生
皆様吉祥、安寧でありますように
真如と魔性、本来は真実そのもの
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院、学院修学士の皆様、こんばんは。本日は、仏者教主・南無本師釈迦牟尼仏がご降臨され、大道唯識第二十九回において、真如魔性と衆生根性の作用について、天書の中に詳しく闡明されました。これは有情衆生が真如魔性に入るにあたっての教えであります。
必ずや大きな向上があるはずです。真如の魔性に対して悪い印象を持ち続けるのではなく、もし魔性真如の中に入らなければ、どうして真如の魔性を浄化することができるでしょうか？あまりにも難しいことです！人類の衆生は向上し超越することができません。また、今日、釈尊が示された開示により、皆が真如の魔性に入るための参考が与えられ、自らの汚れを浄化し、向上して超越することができるのです。
2015年、0311、1219◎＃※   ０Ｋ；
南無東方薬師仏　　　如来如去本自我
大道唯識三十回　　法性真如眾生構
第三十回　法性真如　衆生皆具
法性真如は一切の衆生に具わっている
人類の衆生が人世間に進入すると、「法性真如」が相互に成全するよう働きかけが生じます。自らの一切の動作は、本能に由来する指向的行動であり、これは人世間における全ての行為が、一種の「自性真如」に依拠し合って顕現されるものなのです。
人間の自性真如は、法界の衆生に対して相互性が必要であり、人間の衆生が生存の方向性を求める際に、必ず包括的な要求を含むからです。それゆえ、包括性をどのように実現するかという必要性も、人間の衆生の必然性から生じ、物事の始動において相互の結びつきが生まれるのです。
事務連鎖の組合せにおいては、すなわち人類衆生を牽引し、一人ひとりが食物連鎖の供給を受けた後に初めて、通貨連鎖による蓄積が形成されるのです。まさに労力や奉仕を捧げ、さまざまな苦労を経て十分な金銭的報酬を得るという条件は、あらゆる衆生にとって等しくこのようであるのです。
また、金銭的な報酬を得て初めて、その金銭で他のものを購入することができるのです。
物資があれば、自分自身の家庭生活を充実させることができ、衣食に困ることもなくなります。このような行為や動作は、まさに一つの法界の必然性であり、どうしてそう言えるのでしょうか。法界とは、あらゆる衆生が互いに繋がり合い、共に生きるという現実性そのものだからです。
法界真如は衆生ことごとく具す
したがって、生存を依り所とし帰趨とすることを導きとして、万物と衆生が存在するに至りました。これは生存に必要なものへの要請から来ており、このような生存の必要の中に、食物連鎖によって温飽を満たすものがあり、さらに労働や奉仕その他の手段によって金銭の報酬と交換するものがあります。まさにこのような行為と動作が必要なのです。
また、金銭という道具が整備されたからこそ、相互流通の必要性が生じるのであり、人類という衆生から見れば、このような条件は「法界真如」の如実なる性質によって、人類の生存志向の中に完全に現れている。これは極めて大きな作用を持ち、有情衆生の生存過程において、一人ひとりが他の人々と繋がりを持つ必要性を有しているのである。
また、これは一種の「他者への奉仕」という実践性でもあります。なぜなら、人類の衆生は、食べること、飲むこと、排泄すること、眠ること以外は、すべて皆のために奉仕しているからです。すべての衆生は、性別やどのような役割にあるかを問わず、皆同じように、この奉仕の必要性を必ず果たしています。ただ、誰もそれを感じていないだけなのです。
人類の衆生とは一体何なのか。とても真実に自らを向上させ、堕落させるのではなく、しかし人類の衆生は堕落する方が多い。それは奉仕の観念が全くないからであり、実は毎日、あらゆる事柄において、衆生に奉仕しているのである。自分の家族や親族の中の一人一人も、皆そうなのである。
人類の衆生は皆、法性真如を具えている。
また、どのように言うべきか。有情の衆生は自らの家族が生きる世界において、外界の衆生よりもより大きな親密性を持つのか。このような親族の中にあって、自らも心から家族のために犠牲を払い、細やかな配慮を惜しまず捧げ、決して何らの怨言も持たない。このような心からの捧げものは、誰もが皆そうである。
例えば、家族に対して「奉仕する」際には、決して見返りを求める考えはなく、不平不満もほとんどありません。むしろ喜んで奉仕する中で、このような人々は大きな犧牲を払い、多大な貢献をしながらも、一切の報いを期待する気持ちを持ちません。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。
法界において、この種の「自真如性」が行われるとき、相対的には大きな障礙は生じません。反対に、自己犠牲と奉仕の中に、一切の「奉仕と見返り」という念頭が存在しない場合、これは「法界真如」にとって、すべてが無私無為であると言えます。皆さんはこのような感覚をお持ちでしょうか？
このように人類の衆生は、もし自らの家族に対する奉仕の観念を、自分の父母、夫婦、兄弟、姉妹、子供、子孫、親戚に対しても、皆このような奉仕の観念を持ち続けるならば、何の隔たりもなくなる。また、知らなければならないのは、人類の衆生が生存の方向を求める中で、まるで父母が子供を連れるかのようであるということである。
人類世界は奉仕を目的とする
多くの優れた生存環境を与えたいという思いから、このような考え方においては、自らの家族に奉仕することは必然であり、またこのような奉仕の心構えを持つことによってこそ、自分自身の犠牲と献身は無私無為のものとなる。この心構えこそが、「法界真如」の必然性なのである。
無私無為の犠牲と奉仕があるからこそ、自らの家族に対する心構えは外界の衆生とは異なるものとなり、また外界の衆生との間には一層の隔たりが生じる。この隔たりこそが、犠牲と奉仕に対する異なる心構えと観念を生み出し、さらに犠牲と奉仕の在り方そのものにどのような影響を及ぼすのであろうか。
異なる心の持ち方や考え方によって行われる行為は、外界の衆生に対する真の配慮に欠けた行動となり、無私無為の奉仕とはなり得ません。このような心の状態では、一つの隔たりが生じてしまいます。まさに無私無為の働きを現すことができないため、「法界真如性」によって啓発されることもないのです。
このような人間の衆生は、なぜ身内を世話する心構えにおいて、外界の衆生とは異なる行動をとるのか、つまりこの種の無私無為の犠牲と奉仕の心が欠けているのである。それゆえ、「法界真如」がすべてを捧げる無為の境地はなく、このような作用においては、一層の隔たりが生じてしまうのである。
法界体性智は如何にして獲得するのか
また、無為の布施においては、このようにあるべきであると理解することも難しい。この種の犠牲と布施の中にも、「仏性真如」と「魔性真如」という二つの区別が生じる。それは布施の中に比較の心が生じるからであり、それに対応して隔たりという障壁も形成されるのである。
このような条件が変わらなければ、多くの人類の衆生がなぜ一生のうちに、心から喜んで一つの円満なことを行えないのか、つまり他人に奉仕し、自己を犠牲にして円満な境地に至ることを成し遂げられないのか、という状況が生じるでしょう。このように、あらゆる事柄にはそれぞれ異なる「因縁」が存在しているのです。
このような原因を含むものを、いかにしてより円満な完成に至らしめるべきか。つまり、心から喜んで捧げる中で、何の見返りも求めないことこそ、「法界真如」に対して、「真如仏性」と「真如魔性」の相互の善悪の区別を超越したものであり、これは人類衆生の最も足りないところである。
人類の衆生は、このような境地に達することはできません。むしろ、自らの家族が奉仕する心境は無私無為の行いであると考えがちですが、外界の衆生に対しては区別心が生じてしまいます。そのため、法界の真如の衆生が本来備えている条件に対しても、正しい道を歩み、犠牲と奉仕を貫くことが難しくなってしまうのです。
法界の衆生は皆、法性真如を具えている。
ただ個人の視点が異なるため、形成される心のあり方や考え方、そしてすべての行動は決して同じではありません。それは自分の家族であろうと外の衆生であろうと区別なく同じです。このような条件下で自分自身に対しては：真如の本性が非常に大きな働きを発揮し、また如実に向上超越する基本的な行いが生まれることでしょう。
人間の衆生にとってこのような行いを観ることは、自己を向上させ超越させる基本的な行為でもあり、それによって法界の真如が体性の成長に入るのです。この時、法界の真如に対してより優れた境地が得られ、自己の未来のよりどころとなります。また、このような法界の真如によってすべてが向上するからです。
これは未来の成就の根拠となる主要な働きであり、すでに人間界において形成され、より大きく具足した「法界体性智智」を有する。この智智が存在する中で、自らが向上して成長する方向へと進み、もはや過去のように、自らの家族や外界の衆生に対して犠牲と奉仕を行う際に、大きな障害が生じることはなくなる。
法性真如は有情人類の根本なり
この『法界真如』において、智慧の智慧はどのように現れるのでしょうか。それは「法界体性智」を超えるために積み重ねられたものであり、また人間を含む衆生は、この「法界体性智」を本質的に備えていることは稀で、いずれも目的を持って行われるものです。一般の人々には、このような微妙な側面を理解することはさらに難しいと信じられます。
また、「法界真如」に対して、どのようにして無私無為の行いを実現すべきか。法界の体性に具わっているものこそ、人間を含む衆生が基本的に行うべきことであり、そうして初めて、単に世の中で生存を目指すだけに留まらず、あらゆる「食物連鎖、事象連鎖、通貨連鎖」が相互に結びついていることを理解できるようになるのです。
これもまた一つのことであり、何の見返りも求めないという思想観念に過ぎません。ですから、すべての意図的な犠牲や奉仕を含めて、もしそれ以上の大きな犠牲や奉仕ができないのであれば、正直に言って、すべての有情衆生が、自分の家族や外界の衆生に対して行うすべての行為はどうなるでしょうか？より利己的になってしまうでしょう。
法界真如は衆生ことごとく具す
もし無念でいられるなら、つまり「無為」の先立つ作意となります。これが天地の根本であり、このような先立つ作意は、自分が与える行為の中に無為を成就させることになります。皆さんにはこのような考えがないと思いますし、与える行為にはしばしば目的があって行うものだという認識が形成されているでしょう。
また、大きな障害が現れることにもなり、このような努力では「法界真如」に至り、「法界体性智」を高めるために積み重ねることは非常に難しいのです。皆さんはこのような考えをお持ちですか？ ごくわずかです！ また、人類の衆生が「法界真如」の境地に入ることは非常に難しく、もし「菩薩果位者」に入ろうとするならば、それは極めて難しいのです！
したがって、人類の衆生は、本来、有情世界の大衆に奉仕するものであり、悟りを開くことができます。
一つひとつの動作がすべてこのようなものであり、またすべて衆生に奉仕する動作を行っているのであれば、それは自らの家族や親族、そして外界の衆生をも含むことになります。どうすればそれを完全に善美に、何の欠点もなく行うことができるでしょうか？それこそが真実の性質なのです。
一つの心がけを探求する因縁は、
衆生に奉仕することこそが親しみ深い。
自他の区別なく
互いに無念のまま大道を行く
有情の衆生のなす意図は、その根基を了知すること甚だ難し。
すべてに施すという観念があるが、実は無念こそが本体である。
この偈は、すべての有情衆生が互いに励まし合い、人類衆生の世界において、いかにして意識の中でより大きな向上を遂げることが正道であるかを示しています。必ずや理解できるでしょう、この世の中では、どの時空の段階であっても区別なく、すべてが「衆生に奉仕する」ことにあるのです。皆さんがこのような観念を持っていないことを信じますが、理解できるでしょうか？非常に難しいことです！
無極聖明三太子
無極聖明の三太子　　崇心宗脈初めて来臨す
薬師如来本尊降臨し、天の書を著して有情を資け給う。
諸聖佛と諸賢生、及び無極大道学院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は、南無東方薬師如来仏が親しく降臨され、大道唯識第三十回をお著しになりました。一つの法界真如、衆生皆が具えるものを天書の中に剖析され、未来の人類衆生が如何にして「法界体性智」に入り、これを具足するかについて示されました。
さらに大きな向上と超越があるからこそ、人類の衆生はなぜより大きな創造的進歩を遂げられないのか。それが自らの無明の障害を積み重ねることになり、これこそが根本的な無明であり、障害を形成する原因でもある。また、皆が切に願うことに対して、日増しに切実な欲求が高まり、皆が共に努力して学び合うことを期待している。
2015年3月11日12時19分◎＃※　了解。
南無大日如来仏　有情衆生皆我が個なり
大道唯識三十一回　白骨観念に架構を造る
第三十一回　白骨観念　没度皆無
白骨観念も、歿度も、皆無なり。
有情なる衆生が人間世界に入ると、生存の志向が生じます。これにより、生活の中で相互に快適に暮らすためには、食物連鎖や事象の連鎖において、必然的に通貨の連鎖が整えられて動き出すのです。このような生存の志向は、いかなる国の衆生においても区別なく、すべて同じなのです。
また、どの国や宗教を区別しないため、この冥界の星の空間に存在する万物の蒼生は、すべて「没度」と呼ばれるものから離れることができません。この人類の衆生は、どの時空にあっても区別なく、無常が常に身近にあり、それゆえに、人間であれ万物であれ、すべての有情衆生は同じように形成されています。
誰しも一度は遭遇する出来事ですが、これは人類の衆生に向けられたもので、より高度な生活環境においては、「歿度（死）」の後には必ず遺骨を埋葬するという習慣が形成されています。そうすることで遺体が外界に留まって現れることがなく、人間の衆生の目に晒されることもありません。これは亡き者に対する礼儀と尊厳を重んじる儀式の定めなのです。
これは必ずや人類の衆生のみが持つことのできる機能であり、同様にいくつかの要素も集約されています。
親戚や友人が、人生の最後の旅路を見送りに来ます。しかし、もし他の生物であれば、このような最後の見送りの儀礼を行う条件はありません。ですから、人類衆生が禽獣と異なる主な因縁も、まさにここにあるのです。
白骨観念も、没度も、皆な空なり
この世において知っておくべきことは、どれほど美しく端麗な人間であれ、あるいは権力や富貴を持つ者であれ、すべての有情衆生には「歿度」という過程が必ず訪れるということです。ただ人間は、他の衆生に比べてより高尚な生活を送っているに過ぎないのです。
他の動物で人間に飼育されたことがあるものについては、他の動物よりも高い過程がある場合があり、一般的に「没度」した後、人間の五臓廟に祭られるかどうかは一概には言えません。もし他の動物の衆生から見るならば、「没度」した後の主要な因縁の根本が必ず必要となります。
亡くなった際に、人間の衆生と同じように完全な礼儀を整えることはできません。最後の旅路を敬い見送る比較的複雑な儀式を行うこともできますが、それは故人への敬意を示すものです。一方、他の動物たちは荒野にさらされ、ただ白骨を残して大地に還るのみです。
人類の生存の快適さは、より大きな因縁があり、子孫が追慕することを世に残す。このような他の動物や生き物に対する追慕の行為は、なかなか見られない。したがって、人類が生存する上では、礼儀を重んじることに重点が置かれるが、他の万物にはこのような礼儀尊重は存在しない。
白骨観念は一生の作意として存在する
したがって、結局はすべて一つの白骨に過ぎない。しかし、この白骨に一体何の役割があるだろうか。人間の世界では何の価値もなく、まるで他の生物の白骨と同じである。人間の衆生が他の動物の衆生と同じであるならば、どうなるかを知る必要がある。
また人類の生存過程において、一体何が後世の人々に追慕される価値があるだろうか？ないのである！ただ残された子孫が追慕するだけであり、他の種の衆生に対しては、一切の追慕や礼儀的な崇拝は存在しない。この同じ白骨を見れば、何の価値もないのである。
したがって、人類も他の動物と同様に、しばらく時が経てばどうなるだろうか。全ての子孫たちにとっても、自分自身のことをすっかり忘れてしまう。このように言えるかもしれない：人間の衆生にとって、一息の命がある限り、あらゆるものが充足し得るが、ただ一息の命が途絶えた時には、すべては空しい幻と化してしまうのである。
人類の衆生はこのような時空の旅人に過ぎず、この世の全ては役に立つものではあるが、この身体の骨格を離れてしまえば、一体何が自分自身の一生を全うさせることができるだろうか。おそらく多くの亡霊は、この一堆の白骨に執着するであろう。これこそが生前の私の全てであった、と。しかし、それにいったいどのような価値があるというのか。
白骨観念もついに皆空に帰す
己が行ったことに対しても、すべて因果の業が絡みついているだけではないのか？大多数の人々は、次の世で再び輪廻するのを待つばかりで、自分で未来の行く末を掌握できるのか？できないのだ！自らがこの世で積んだ福禍や功過に従って次の世に生まれ変わるのであり、再び人として生まれることができるかどうかは、定かではないのである！
もし福を積んで自らを利益することができれば、この一つの白骨に対して言うことができる：生前に役立つことがあったと。もしこの白骨が生前に悪業を造り、それに縛られた後には、相対的に自らを幽冥世界に沈淪させてしまう。このような白骨の一生の行いに対して、人類の衆生はどう言うだろうか：役に立ったか？いや、そうではない！
また、人類の衆生一人ひとりにとって、必ずこのような過程があるのです。考えてみてください、生まれたばかりの時から、しばらく時間が経つと、次々と生存の方向性が決まっていきます。こうして人類の衆生はあっという間に一生の過程を過ぎてしまうのです。若いか年老いているかは関係ありません。
ただ、生存志向の過程において、どのようにして自分が手放し、心を開くことができるのか？一つの白骨に執着することなく、私の一生に良い縁を提供し、また良くない縁がこの世にある中で、すべての欲望とは何か？計算することはどうか？これもまた、人生百年足らず、常に千年の憂いを抱くだけのことである。
有情なる衆生は、未来には皆、白骨と化すであろう。
このように日々汲々として営むのは、すべて自分が欲するものや家族の安楽な享受のためだけであり、果たしてそうする必要があるだろうか？必ずしもそうではない！自分が生存しているこの瞬間に、すでに業を造っているかどうか、福を造っているかどうかを見つめなければならない。この二つの結果は極めて大きく異なる。なぜなら、人間社会における生存の方向性が、いかなるものとなるかによるからだ。
これは生活への欲求から来るもので、衣食足りればそれでよく、お金も十分あれば良いのです。しかし、人間の衆生は往々にして貪欲で飽くことを知らない状況下で、多くの因果と業障を作り出してしまいます。全ての衆生の未来において、一体誰が永遠に変わらないということがありましょうか。それは不可能なことです。
すべては時空の因縁に従い、あらゆる衆生の滅尽作用において、必ずこのようになるものです。なぜなら、修行の有無を問わず、すべての衆生はこの条件によって滅尽に入るからです。さらに、人間の衆生の求める欲望は永遠に満たされることがありません。
したがって、人類の衆生に対しては、大きな因果と業の障りがあり、自らの生存のあらゆる行いを妨げます。このような状況は、若者と老人を区別せず、ただ一息続かなくなった時、すなわち人類の生存のすべてが終わり、一生の休養と行いも停止したと言えるのです。
白骨は人間が一生を歩んできたことを表している
この時、改めてこの一生を振り返って考えると、生まれてからこれまでのすべての出来事は、ただこの一生の記憶の中に点在しているに過ぎず、後悔することはあるだろうか？白骨観念が、すべての衆生が必ず遭遇する一つの事実から来ていることを理解しなければならない。それはただ肉体を持つ間にのみ意味を持つのである。
もしそれが一つの白骨の山となったら、再び振り返って自分自身のすべての過程を見たとき、どうして手放すことができるだろうか？心を開いて見ることができるだろうか？すべてはただ一つの時空の過程に存在しているに過ぎない。誰もが白骨を持ち去ったり、来世に持ち込んで再利用したりすることはできない。もし人類の衆生が「白骨」の作用を知ることができなければ、どうなるだろうか？
仏性、魔性、自性は、いずれも一つの時空を経過する過程である。ゆえに人類衆生はこの種の過程において、また別の空間へと転換する。これを逝去＝没度といい、また過身ともいう。これを把握できるか？否である。もしも今この瞬間に努めなければ、ただ来世へと輪廻する種子の因となるのみである。
白骨観念、人生一世、既に歿度す
世の中のすべての白骨観を観じれば、はっきりと分かることだが、自分の家族は決してあなたの白骨を家の中に置いておくことはなく、必ずこの白骨を移して墓の中に納め、あるいは塔に安置する。そうしてあなたはこれからコオロギの鳴き声を聞くようになり、またこれらの白骨と共に住むことになるのだ。
時空が瞬く間に移り変わり、再び次の世へと輪廻し、生まれ変わった後、またもや白骨の山々が積み重なる場所へと戻ってくる。改めて考えてみれば、もし自分が幾度も白骨の山を繰り返してきたなら、どうして自分に超越があるなどと言えようか。実に難しいことだ！これこそが人類衆生の悲しみであり、また、いかんともしがたい輪廻の繰り返しなのである。
覚えておく必要があるのは、このような一世ごとに一度現れる白骨は、まさに来世に持ち越せないものであるが、しかし人間衆生にとっては理解しにくく、来世は一体どうなるのか？誰もがこの点をほとんど考えないだろう！ただ同じ輪廻を繰り返すだけで、次にまた現れる白骨の山々に、どうすることもできないのだ！
嘆くに堪えぬ白骨の山　人の世の終わりは悔やんでも及ばず
これらはすべてこの生で作り出したものであり、福も禍も善も悪もついてくる。
後世の子孫がこれを記念すれば
反復輪廻千万遍
この障害を見破る必要があり　福徳の連鎖を超越して向上せねばならない
この偈を、有情の衆生と共に互いに励まし合いましょう。人間の衆生は、それぞれの生涯において一度は白骨となる時があります。もしこの障壁を看破できなければ、ただ一世ごとに一つの白骨を残すだけに過ぎず、それはまたこの一生が過ぎ去ったことを意味し、どうすることもできずにまた一生を過ごしただけに終わってしまうのです。
だから人間の衆生は何を計算するのか？すべてはただ一つの過程に過ぎないのである。その中の全てのどうしようもなさを知ることができれば、向上して超越することができる。皆さんが人間と万物の衆生が、すべて同じように生まれては死に、死んではまた生まれるということをはっきり理解できるかどうか、それが分かるかどうかである。
無極清徳  福徳正神
無極清徳福德の神
正道人生に福慧現る
大道は唯識によって作られしもの　  　昇華超越こそが本来の真実なり
諸聖佛と諸賢生、及び無極大道学院、学院修学士の皆様、こんばんは。
本日は南無大日如來佛本尊が降臨され、大道唯識第三十一回を著作されました。
白骨観念と歿度皆空について著作されましたが、人類衆生に対してまた何を論じようとされるのでしょうか。
これは人生の方向性において必然的なことなのです。
また、このような限界を脱することはできるだろうか？否である！人間の世界は生命改造の世界であり、もし生命改造がなければ、どうして人間の衆生は繰り返し輪廻を続ける必要があろうか？これこそが上昇超越と下降輪廻の分岐点である。明晩はまた禅師の授業があるので、皆で一緒に「霊の七魄」を統合的に理解しようではないか。
2015年、0311、1220◎＃※   ０Ｋ。
南無虚空大天尊　　上清通天古仏敦
大道唯識三十二回　　扶塵浄色根性純
第三十二回　扶塵根性　浄色根性
扶塵根性と浄色根性
有情なる衆生が人間世界で生きる上で、誰もが持っているものがあります。それは、眼・耳・鼻・舌・身・意による行為や動作です。また、このような人間の衆生にとって、それは「浄色根性」の主な働きであり、それによって色・声・香・味・触・法に対する反応が引き起こされるのです。
この作用はすなわち「扶塵根性」が主要な因縁の根本であり、人道世界に入ってはじめて、「浄色根性」という両者の行為動作が生じ、それによってあらゆる行為動作が引き起こされ、「因縁果報」の始動作用が形成され、未来の善悪の分別が生じるのである。
これは人間界に入るときに備わる基本的な動作であり、人間衆生はこのような条件下において、人間世界における善悪・良し悪し・禍福を区別しながら行使します。すなわち、「扶塵根と浄色根」の両者を動かして実行に移し、あらゆる起動後の継続的な行為を形成するのです。
いかなる宗教を信仰するかに関わらず、すべて同じである。ただ、人道世界においてさえあれば。
基本動作が必要となります。この時、清浄な色根性への依拠が人の基本的な作用を引き起こし、眼が色を見、耳が声を聞き、鼻が香りを嗅ぎ、舌が味を感じ、身体が触れることへの一切の動作を促すのです。
浄色根の基本的な作用
これらの五官が引き起こす行為動作は、すなわち人類衆生が言うところの、外在神経系統が相互に支え合い、一切の行為動作が意識の中に入り受容された後、初めて外界の全ての累世の因縁果報が第七末那識の中に植え付けられるのである。
第七末那識の区別について、自分が受け入れるか受け入れないかを理解することができるでしょうか？また一般的に言えば、受け入れないということは比較的稀であり、人間の衆生に対して善悪を区別せず、普段からすべて第八識－阿頼耶識に入力され、過去のすべての「毘羅性海」に蓄えられたものを引き出すことになります。
これらの「因縁果報」を描き出すことで、すなわち触縁によって起こる動きが形成され、浄色根性に対する理解も可能となります。また「毘羅性海」の中から、過去一切の因縁果報が、現在触れるものに対して形成され、やがて人類衆生の一切の因果の始動へと変わっていくのです。
これは浄色根性に対して行使するものであり、未来の果報を結ぶかどうかはまだ定かではない。また、人間衆生のすべての行為動作は、転化によって顕現するものであり、それは一人ひとりの異なる思惟によって影響を受ける。まさに人間衆生のすべての心の動きと念いである。
扶塵根性は深く植えつける必要がある
それによって、意蔵識に入った後、過去の八識の種因を、人間の毘羅性海を通じて、過去の全ての種子因を再現するように引き起こすことが可能になります。また、これらの毘羅性海にある種子因は、本来は如如不動のものであり、それによって浄色根性に対して、過去の因縁によって成就されたものを指し示すことができるのです。
すなわち、触縁による起動が生じると、人類衆生はこの種の因縁起動に入り、それによって過去の時空における因縁が現れ出る種子因が形成される。これは既に幾世にもわたって繰り返されてきた輪廻の別を問わない。この時、人類衆生の過去の種子因の中に、毘羅性海によって成就されたものがあるのである。
これもまた、一般の有情衆生には理解しがたい総体的な因縁の根本である。人類の衆生がこのような時空において、すでに毘羅性海の中に入り、千百劫の間に蓄積された因因果果が、今この瞬間に植え付けられ、それら千百萬年にわたるすべての触縁が起動するのは、一体なぜなのか。
これは人類の衆生が、なぜこれほど長い時空を経てもなお、互いに影響し合うのかについてです。これはつまり、人類の衆生が何千万世にもわたって輪廻転生を繰り返しても、同じ記憶の核が存在するということです。この記憶の核に対しては、一定の時間が経つと、どのようにして扶塵根の性質が形成されるのでしょうか？
扶塵浄色はまさにすべての衆生が具えているものである
また、どれほど長く分別しなくとも、すべてが一つ一つ明らかになるものであり、これらの因果もまた現在に現れてくる。そこで各人の心の状態、対応、行動、智慧が互いに補い合い、円満に解決されているかどうかを観察する。あるいはさらに大きな新たな災いを生み出すことになるのか、それは各人が理解し、見解を形成する次第である。
これらの因果をありのままに提示した後は、それぞれの因果が円満であるかどうか、あるいは新たな禍を生み出していないかを観察する必要があります。これはまた、扶塵根の性質の中に、解消可能な「前因と後果」が既に存在していることを示しています。人間の衆生が真に円満であるか、あるいは新たな禍を再び作り出すかは、必ずしも一定ではありません！
各人の心の状態及び行為動作を観察し、それに照らし合わせて検証するならば、こう言えるでしょう。すべての有情衆生はこのような経験の蓄積を持たず、これらの因果が再び現れることに対して、第二の解決方法が生じるのです。人類の衆生は、このような扶塵根性の中でいかに対処するのでしょうか。
すなわち、眼で色を見、耳で声を聞き、鼻で香りを嗅ぎ、舌で味を味わい、身で触れ合う相互接触の後、過去の無量の年月にわたるすべての所業が、今この瞬間に完結して現れるのである。これは、人間衆生がこのような行為動作の中にあって、皆、扶塵根性を具え、互いに接触した後に生じるものである。
人生は扶塵と浄色が互いに応用し合うものである
清浄な色の根性の中に形成され、両者の応用は良し悪しの分別であり、また善良と悪しき醜さの差異でもあり、さらに未来の福禍を分かつ判断ともなります。ゆえに人類衆生の「扶塵根性と清浄色根性」は、過去の経験の積み重ねから来るものであり、また同じ因縁の因果の総合的な結合体でもあるのです。
扶塵根性とは外界の一切、すなわち色・声・香・味・触・法を指します。このような外界の根性は、眼・耳・鼻・舌・身・意という浄色根性が相互に作用して引き起こされなければ、扶塵の因縁も生じず、またこの浄色の本質を基盤として存在しているのです。
人類の衆生は一人一人に基本的な条件があり、修行の有無や宗教への帰依の有無を問わず、ただ人間であるというだけで皆同じです。これは「内なる感覚神経」と「外なる実相世界」であり、人間が生存の実相界に入る際に、それぞれが必ず遭遇するものです。
また、このような限界から脱することのできる者も一人としていない。人間の衆生が生存の方向性において、生存のもう一つの次元を持つためには、あらゆる行為と動作が必要であり、それらを結合するかしないかの区別が、人間の衆生の未来の福と禍の区別に影響を及ぼすのである。
扶塵の浄色、毘羅の性海を引動す
また同時に、この扶塵根性と浄色根性の両者が、より大きな成全と向上を果たすかどうかは、必ずや扶塵根性と浄色根性を通じて、毘羅性海の中に引き起こされるものによって区別されるのであり、つまりはこの中で引き起こされるものによって、過去千百年にわたる相互の接触が生じるのである。
人類の衆生は、この「扶塵根性と浄色根性」を浄化し向上させることができるのであり、一般の衆生のように、ただ過去の因果に従って現在の作用を植え付けるのではありません。そのため、真に修行する学び手は、「扶塵根性と浄色根性」に対するこのような浄化と向上を理解することができるのです。
これはまさに千真万確の真理であり、過去の悪しき種子因も、人為的な努力によって浄化し向上させることができる。これには真実の修養を実践しなければならない。さもなければ、人間世界が因果応報に従い続け、浄化も向上もないままならば、扶塵根性と浄色根性を通達させることを知る必要などあろうか。
すべての過程は本来真実であり
すべての因縁もまたこの通りである
すなわち扶塵根の性質を働かせて、浄色根の性質を化解するのである。
毘羅性海に蓄えられたるは
一切の因果皆測り難し
必要に応じて引き出して現すべし
千百万年も順うがごとし
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合い、人間の衆生が扶塵根性の中で浄化を進め、同時に浄色根性をありのままに保つことこそが、過去のすべての因果を真に解消し、毘羅性海における一つひとつの過程がすべて真実であることを悟る道です。次回はこのテーマを引き続き論じてまいります。
無極慈蓮  観世音菩薩
無極の慈蓮観世音　　登台して共に諸の有情を会す
皆様吉祥にて安らかならんことを
唯識の天書、福を降し迎えん
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、こんばんは。本日は南無虚空上清通天古仏－通天教主霊宝大天尊が降臨され、大道唯識第三十二回を著作されました。扶塵根性と浄色根性を一つ一つ解き明かし、皆様にご理解いただけるよう解説され、真に大きな向上が得られるようにと願っておられます。
これは、何千万年もの時を経て、人類の衆生を「毘羅性海」において初めて分析したものであり、すなわち有情衆生が理解し得る、真の修行実践者が持つすべての善き因縁条件の中で成長し、さらに如来として如何に超越すべきかについて、次回に続けてこの天機を開示するものである。
2015年、0311、1223◎＃※   ０Ｋ；
南無虚空古来より推す　　青華救苦の古仏を為す
大道唯識三十三回　　毘羅性海千古に追う
第三十三回　毘羅性海　千古の奥祕
毘羅性海の千古の奥義
人類の衆生が世界に入ると、あらゆる因縁果報が引き起こされ、日常生活の中に組み込まれます。これは自分自身にとって、因果の業障を相互に清算し完結させることです。これは人類の衆生が常に言うところの、毘羅性海の中で累世のあらゆる因縁果報を成就するというものです。
このように毘羅性海に入るには、一般の者が到達できる条件ではなく、また宗教的信奉者であっても、その過程をありのままに理解することはできません。真にこのような条件に浸り、修練を積む過程を経てこそ、このような明晰さが得られるのです。常日頃の生活の在り方においても、それがなぜこのように顕現するのか、自然と明らかになってくるでしょう。
これには真の心遣いが必要であり、自己の本性を理解して初めて、真実に明瞭かつ徹底した洞察が得られる。一般の人々は単に宗教信仰の中に留まるだけでは、このような条件に入ることは非常に難しく、向上や超越を達成できない困難な点が生じる。まさにこのような条件の作用において、一切の因縁の点を真実に分析するのである。
一般的な修行者がこのような境地に入ろうとする場合、すべて静座の中で
「寂静」の過程に入ることで、このように「静の寂」の中で初めて、真にこのような境地の内側に入ることができる。もし普通の者がただ静座するだけでは、その奥義に入ることは到底難しい。
人類の毘羅性海、千古の奥義
したがって、人類の衆生にとっては、生活の方向性に沿っているとはいえ、古来よりその困難な点を理解することは非常に難しく、それゆえに座禅の際に真にこのような境地に入り込むことはできません。これには順を追って分析を進める必要があり、そうして初めて真実の境地が得られるのです。
また、人世間においては、静坐する際に、まず深く呼吸することが必要であることを理解しなければならない。そうすることで、一種の恍惚とした境地に入ることができる。このような呼吸法は、一般的には「順向呼吸」に過ぎず、「逆向呼吸」によって自らの呼吸をコントロールし、上昇する力を得ることは難しい。
頭脳の中の想念を完全に取り除いてこそ、真の空性が得られる。真の瞑想実践者にとって、これは必要不可欠な如実の動作であり、このような条件を満たして初めて時空トンネルに入ることができる。そしてこの時空トンネルこそが、まさにすべてが深く暗い空間なのである。
同時に手を伸ばしても指が見えず、さらに一点の光さえもない。この時いかなる思想観念も起こしてはならず、いかなる念頭も起こしてはならない。そうして初めて、まるでタイムトンネルに実在のままに入り込んだかのように完全に現前するのである。これは必ず第一の段階で入らなければならず、そうして初めて、しばらく手探りした後、実在のままに前へ進むことができるのである。
有情衆生の毘羅性海
この一時期を過ぎると、必ず非常に強い光が見えてきます。その時には、すでにタイムトンネルから抜け出しています。一般的には、白衣をまとった観世音菩薩のような聖者が現れ、自分をその情景の中に導いてくれます。すると、あっという間にすべてが消え去ってしまうのです。
自分に対する一種の幻想が形成される中で、一般人はこう思いがちである：観世音菩薩が守護し、時空のトンネルの中で衆生を守っているのは、まさに一人ひとりの視点が異なることによって、この白衣の聖者が守護していると感じ、それが自分自身の「本来の霊の守護神」であると捉え、一種の安らぎの思いが生まれるのである。
もしこの尊き白衣の聖者のご加護がなければ、心に安らぎを持つことは難しく、もし他の良くない光景を見れば、恐怖が湧き起こるでしょう。このまま進んでいくと、多くの武器や、金銀銅鉄のような器具を目にし、時には金銭が具足するかのような感覚が生まれ、自ら喜びの心を起こして欣んで受け入れてしまうこともあるでしょう。
このような条件は、自分にとってまた一つの心理的反応となり、このまま先へ進んでいくと、多くの木々が青々と茂っている景色に出会う。これらの道の脇には小さな橋とせせらぎ、さらさらと流れる水があり、自分にとってまた一つの内なる安らぎとなり、非常に大きな慰めの気持ちが湧き上がってくる。
毘羅性海の蔵する記憶体
さらにこのように歩き進むと、前方に高い山が見えてくる。それは美しい絵のような景観をなしており、心が晴れ晴れとするような情景である。脇には小さな洞穴があり、中からは光が差し込んでいる。それはまるで、この世の焼肉器具のようでもある。
さらに先へ進むと、大勢の人々が一緒に遊び戯れている様子が見えてきます。どの顔も見覚えがあるかのようで、まったく見知らぬ感じはしません。これらはすべて、自分と累世にわたる因果の糸で結ばれ、未来における善き縁と悪しき禍いを分かつものなのです。いつの時代、どの場所であっても、その機縁は必ず現れてくるものです。
さらに進んでいくと、海岸のように非常に広大な空間が見えてきます。このような状況になると、次第にふわふわと浮かび上がり、自分自身も空中に漂いながら飛行するようになります。もはや先ほど歩いていた時とは異なり、すべての空間を照らし見渡すことができ、未来の一切はいかにあるべきでしょうか？
目に映じたのは、実に広大な湖であった。しかしその湖面にはさざ波一つ立たず、人影も物影も見当たらない。その時すでに身は虚空に浮かび上がり、足はもはや地に着くことなく、自由に飛翔することができた。ただ、そこには立つべき大地はなかった。
人類の衆生はなぜ毘羅性海を持つのか
それはちょうど飛行機のように、顔を下に向けて平らに飛翔し、かなり広大な田地を見渡すことができ、その半分は海中にあり、これらはそれぞれの衆生の過去の毘羅性海でもあります。このような時空の中で、もし何らかの怨親債主が過去の因果に対して討伐を仕掛けようとする前に、どうすればよいのでしょうか？
波乱の動きが生じると、前方で阻まれることになる。もし大いなる因果を持つ者がいれば、この瞬間にすべての因果の討伐が行われる。この時点で阻まれ、討伐の根拠とされるのである。そして実相世界の人間社会において、今後二、三ヶ月の間は、すべてが順調に進まない状況が形成される。
このようにして、人間世界の実相界において、過去世の因果による討伐の循環が生じるのです。このような状況は本来、討伐の根拠が定まった後に初めて、自らが毘羅性海の中に入ることを可能にし、自らが過去の様々な因縁を、すべて性海の中に存在していると見ることができるようになります。そうすれば、海底にあるすべてのものを照らし見ることができるのです。
千古の奥祕なる毘羅性海
まるで一本一本の海藻のように、毘羅性海の中に立ち並び、底を見渡すと非常に多くのものが性海に直立し、また非常に繁茂しているのが見て取れる。この状況は、一人ひとりの過去の因縁がどのようなものであるかを観るのである。必ずや現在の時空の因縁の中で、「強烈な種子因」が現れるかどうかがあるのだ。
触縁を起動させる含因が生じることで、これが有情衆生が毘羅性海に入り、最もよく目にする光景となる。一般の人々が因果循環の種子因を理解できるかどうか？非常に難しいことである。このように長い距離を滑空した後、もし何らかの強い種子因の突発がなければ、さらに先へ進むことができる。
ようやく順調に一つの高い山の前に辿り着くことができ、山の麓には大きな門がある。この門の中に入ろうとするならば、まず前もって何の因果にも絡みつかれていないことが必要で、そうして初めてこの地に順調に来ることができるのである。もし累世の因果が顕現したならば、それは毘羅性海の中に蓄えられているからである。
すべての人に毘盧遮那仏の性海の種子の因縁がある
それゆえに絶え間なく爆発的に現れる時が来れば、その時空において自らと相互に関連を持つことになる。これはまさに、はるか昔から長い時を待ち続けてきた時空においてこそ、このような種子因が顕現するのである。そしてこれらは、千古の昔から、自らの毘羅性海の中に、すべての因果が顕現するために入っていくのである。
このような状況は、自らが実際に赴いて実現しなければならないものであり、そうして初めて山麓の大門まで順調に到達することができる。この門に入ろうとするならば、相応の福徳を備えた者でなければ、真にこの山麓の大門に入ることは叶わない。もし福徳に欠ける者であれば、この大門に入ることは極めて困難である。
また、このような条件下においてこそ、すでに毘羅性海に入った者が、過去の不良な因果に遭遇するかどうかを区別し、決断を下すのである。もし強烈な種子因が現れず、少しばかりの福報があるならば、この時、自分がこの大門に入る因縁を得られるように、一つの鍵が現れるのである。
毘羅性海の内部に存在する
また、大門に入って見渡すと、まさに非常に広々とした空間が広がっており、そこには多くの器物が存在している。言うならば、今目にしているものや所有しているものすべてと区別なく、また過去には見たこともないような器物などもあり、それらは自分に大いなる新鮮さを感じさせる。
なぜこのような器物が存在するのか。それは過去世に存在したすべての器物が、この一つの門をくぐった後、目に映る一切の器物は、すなわち毘羅性海より来たりて「法性真如」の一切に入るのであり、これは先に累世の中で、多くの器物と名相を区別していたからである。
これは「仏性の種因」と「魔性の種因」の違いを区別するものであり、まさに千古より積み重ねられてきた「性体」のありようを見ることができる。また、ただ今どのような疑念が生じるであろうか？それぞれの因縁果報がどのようであるかを観るのである。この時点で、すでに自らの前世がどのような条件であったか、おおよそ照見できると信じる。続きは次回、さらに分析を続けよう。
時空トンネルは暗闇だ
しばらく進んでようやく光が差す
仙仏の出現が見られるも　　あるいは業因に阻まれる
金木水火土の五行は　すべてを幻化する無明なり
その次に過ぎて性海に至る　毘羅性海は本因なり
この偈は、すべての有情の衆生が互いに励まし合い、毘羅性海の第二部を解き明かし、次回はさらに仏と魔の性体へと入り、自らを理解するためのものです。自分が過去世でどれほどのことを行い、いかにして超越し向上するか？過去の因果循環が現れ、未来の報いがどのようになるかを形成しているのです。
無極鳳娘  観世音菩薩
無極鳳娘観世音　　大道唯識にて衆を醒ます
人間の大いなる因縁を解き明かす
毘羅性海の千古の因
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院・院修学士の皆様、こんばんは。本日は南無虚空青華救苦古佛・太乙救苦天尊が降臨され、大道唯識第三十三回を著作されました。本宗脈無極大道院の副院尊が著作された前半部について、皆様が皆はっきりと明晰に理解されますよう願っております。
人類世界における千古の奥義は、一体どのようなものなのでしょうか。もしそれを理解することができれば、大きな向上と超越が得られますが、もし理解できなければ、ただの空しい示現に過ぎず、真の利益と向上を得ることはできません。これは深く考えるに値することです！このような因縁条件は、実に人間世界において初めて開示されるものなのです。
附註：毘羅性海、また毘盧性海とも言う。これは仏教の用語である。
2015年、0311、1228◎＃※   ０Ｋ；
南無虚空因縁生　　福徳万徳人間成
古仏降著三十四回　毘羅性海の仏魔真
第三十四回　毘羅性海　仏魔双転
毘盧遮那の性海にて、仏と魔とを双転せしむ
有情世界が人世間に存在することで、前世の因縁果報が引き起こされ、自らが宗教信仰に入り、修行の基礎として作用することができます。これは、信仰の中でいかに自らを成長させ高めるべきかを知る必要があり、また人世間におけるあらゆる問題を理解し、それを解消するために必要です。
自己の志向を経由して、信仰に対する依り所となる動作に至るには、必ずや真実の信仰が高めるものに如実に入らなければならず、ただ一般の宗教的信仰に留まっているだけではいけません。それでは成長を高めることはできず、修行における静坐の中で、どのように「見性直入法」の奥義に入って成長すべきかを理解することもできないのです。
この種の過程は、必ず時空のトンネルの中に入っていく必要があります。そこで見られる暗闇は、人類衆生の累世の因縁果報を通じて、現在の瞬間に植え付けられるものです。大部分の場合は、静坐の中からこの種の因縁条件に入っていき、また自分自身が極限まで静まった時、一種の相当に静寂な心境が生じることになります。
この時、ふわりとした心の感応が生じ、自分自身のすべてが
空じた、このような時機が人類の衆生に対して生み出すものは、まさに「静の極み」の中に必ず存在する条件である。もしこのような感覚を持つことができなければ、それは「静の極み」に入ったのではなく、むしろ別の境地に偏っているのである。
見性直入の法：毘盧性海に入る内竅の門
また、魔境に陥りやすい状況においては、まず時空のトンネルが現すものが非常に暗い境地であることを理解する必要があります。手を伸ばしても指が見えず、どんな光も突き抜けることはできません。これはまさに一般の人間が体験する過去であり、どうやって一瞬のうちに自分自身を見つめ、静座して極限まで静寂を体現できるのでしょうか。
また、どうすれば自分をこの時空に置くことができるだろうか。静座中にある人は、「静の極み」の中で、まず自分がどのように「心を起こし、過ぎ去ったか」を理解する必要がある。また、「動念が意に入る」と、過去何千年ものすべての因果の循環が示現し、これらが未来に対して、時空のトンネルに入るとどうなるのか？
必ずやまず白衣の大士のような一尊を目にすることでしょう。その姿は様々で、いずれも同じではありません。その後、自らを観照する過程において、あらゆる毘羅性海の中にある種子の因も、縁によって動き出し、自らが千古の時を経てきたすべての因と果を現出させます。またこの時、何らの因果も現れていないように感じられることもあるでしょう。
しかしながら因果循環の中で、すでに自分自身を見つけ出したのであり、このように毘羅性海に入ると、ある種の因縁果が現れ出る。そしてこの因縁果は、まだ「報償」の中に入っておらず、ただ含因触縁の「成果」が現れ出ているだけである。この時すでに、過去の因果業障に見つけ出されてしまったのであろうか？
毘羅性海において、仏と魔の双転は必要である。
今もし「仏性と魔性」の真如の中に入らなければ、まさにこれらの因縁果によって促されることなく、人類の衆生はどうして累世の中の因果を消し去ることができようか。もし再びこれらの消し去ることができる時を経れば、次の機会には、自らを「仏性と魔性」の中に入れて分別させることになる。
もしこれらの因果がすでにすべて消え去ったならば、自らを高山の麓の洞穴へと導き入れ、その大門をくぐった後に目にするものは、すべて人間衆生が過去に「仏性と魔性」を蓄えてきた場所となる。この時、人間衆生の霊性の遺伝子はすでにこの状況の中に入り込んでいるが、それでは一体どうなるのだろうか。
それによって知ることができる。自分の持つすべての「仏性の種因」や「魔性の種因」、さらには「その他の種因」がこの洞窟に蓄えられていることが見えてくる。このような因縁は、自らの修行を通じて、「仏性の種因と魔性の種因」の区別を照らし出し、さらに深く理解し体得するかどうかは、必ずしも一定ではないのである。
ここまで見えるのは既に相当に深い修行の境地である。もしさらに一歩を進め、「仏性真如と魔性真如」及びその他の真如性体を理解しようとするならば、必ずや更に深い内面へと入り、あらゆる真如本性の存在を観照しなければならない。このような境地に至って初めて、過去の性体が如何なるものであったかを悟ることができるのである。
毘羅性海の仏魔双転の功夫
さもなければ、洞窟の中でずっとぐるぐると迷い続けるだけである。これらの性質を通して理解できるのは、過去のすべての刻印の中にはっきりと示されているように、自分自身の過去のすべての因はどのようなものだったのか？行いの持続はどうだったのか？刻印を通して明らかに知ることができ、また自分自身にすべての因縁が本来どのようなものであったのか、過去の行いの持続がどうであったのかを理解させてくれる。
すべてがはっきりと見え、自分自身がその場ですべてを知ることができる。もし「天覚神通力境」の中にあれば、さらに過去世の因縁果報がどのようなものであったかを貫通して理解することができる。これは必ず「天覚神通力境」を持つ者でなければ、このような条件に到達することはできず、一般の宗教者には理解できないものである。
これもまた「陰騭」によって神通力を積み重ねることで、仏と魔の真如の中でどのようであるかを知ることができるのです。また、すべての因縁の根本がどのようなものであるかを知る必要があります。天覚神通力の境地においては、自らがその場で慧覚神通を発揮する、これによって過去の因縁果報がどのようなものであったかを知ることができるのです。
それゆえに「慧覚神通力境」の「天覚神通」を得れば、自らにおいて、すべての過去世の因縁果がどのようなものであるかを了知することができる。そして、この時まだ報いが加わっていないうちに、真の修行実践者であれば、もし魔性真如の中で転換を果たせなければ、自らが真如実境に入ったことに執着してしまうのである。
仏魔真如は双切転に入る
必ず容易に、自らの心魔の中にある不良の因縁を招き寄せ、自己の性体に入り込み、それによって自らが魔の障りの中に入ることを引き起こし、ようやく自らの性体の中で、あらゆる因縁果が絶えず顕現するようになる。このようにして、この人の行じ持つところも、仏性真如の向上を顕わし難くなるのである。
逆に、魔性真如来に侵襲されることになります。この時、もし心を定めて一切の動揺を起こさなければ、魔性真如来を引き起こすこともなく、さらに深く進む障害も生じません。一般の人々にはほとんど経験がなく、この種の魔性真如来を克服することは困難です。このように「心を定め、念を定め、意を定め、識を定める」ことが正道なのです。
さもなければ、さらに深く入り込むと、容易に魔境に陥りやすい。したがって、この世においては「仏と魔の双転」の必要性をしっかりと理解しなければならない。これはまさに、自分自身が毘盧性海に入るにあたり、深い体悟と証得を持つべきであるということだ。一般的な人々には、このような境地に至って転化を起こすことはできないのである。
ただその中を彷徨うのみで、さらに深い一層の真如実境に入り難く、一般の人にとってはただこの空間を彷徨うだけで、到底より深い情境に入ることはありません。もしただ一度目を通しただけで、何の役にも立たないと考えれば、次善の策を選び、毘羅性海へと戻ることになるでしょう。
仏と魔の転換は、静坐寂滅の極みに至る
かくして洞窟から離れ、後ろへと退き、先ほど見たすべての光景を再び逆戻りに辿りながら示現する。しかしこの時はもはや周囲を観る心もなく、ただ光明の深淵へと帰り、時空のトンネルへと入っていく。すべては再び、自らが生きる方向へと回帰していった。
言うことができる：仏と魔がともに転化するすべてのものの中で、必ずや理解しなければならないのは、人間世界がタイムトンネルに入り得る中で、目にするのはこれだけではないということだ。実はまだ多くの関連する因縁があり、それによって自己の生存の方向性に到達する。このような状況の過程の中で、自らを別の次元へと進ませ、高みへと昇華させるのである。
時空のトンネルにおけるすべてを理解し得るかどうか？それは自分自身が今この瞬間に見ることのできる事柄であるが、同時に、人を手探り状態に陥らせるような問題も存在する。また、この世の中に、向上へと高められる大いなる縁があるのか、それとも沈んでいく縁があるのかを、必ず理解しなければならない。さらに、自分自身の修行の境地がどの程度であるかを知ることも必要である。
初めて一連の因縁果を引き起こし、それを現在に植え付けます。これはまさに「因縁果報」に真っ直ぐに入り、その報いを受けることであり、未来の人間世界における因果応報の根拠となります。もし「仏魔双転」によってこれを切り離すことができれば、すべての因果応報の償いは軽減され、まさにこのような転換によって円満がもたらされるのです。
毘羅性海の深層に入る　　仏性真如も魔性真
如何にして双転皆双切すべきか　　必ず要す自ずから順って来たりて呈するが如くすべし
人間が静座するための秘訣は、時に正しい徳を保つことが難しいものです。
必要なのは陰徳を広く積むこと
それによって福報が転化して生じる
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合うものであり、また、人間界がさらに深い層の因縁に入り、真如の自性の境地に入るためのものである。さらに、多くの仏性真如と魔性真如を区別し、また非常に多くの真如の実境があるため、心を込めて体得しなければならない。そうでなければ、ただ走馬灯のように眺めるだけで、宝山に入りながら空手で帰ることになってしまう。
人間世界のすべてを理解する必要があります。それは単に宗教的な修行や信仰だけに留まるものではなく、日常生活の中で多くの「陰徳」を積み重ねることです。それは自分自身の未来の成長と利益のためであり、また自分自身の宗教信仰を高めるためにも積み重ねるべきです。単に名義だけを掲げるだけでは、超越することは難しいのです。
無極方徳大禅師
無極方徳大禅師　済公活仏登台の詞
諸賢大徳の皆様、ご安寧でありますように
大道はただ識にあり、仏と魔と馳せ競う
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈副主席、南無虚空福麻万徳古仏－麻仙姑がご降臨になり、大道唯識第三十四回を著作され、下半部を詳しく述べられました。人類衆生が静寂あるいは極限の静けさに至った時に生じる心境について、分析を加えられています。
これは皆さんのすべての疑問点に対する開示であり、また未来において再びこのような状況に遭遇する機会があれば、より深い分析と開示を行うことができるでしょう。現代の修行者は、自己完結的な修行者ではなく、集団に調和しなければなりません。「楽しく修行する者」であっても、集団の規律から離れることはできません。おわかりでしょうか？
2015年3月11日12時30分◎＃※   了解；
南無、衆生は皆仏性を具え　    　虚空の文澤が教化を導く
古仏降り来たりて唯識を著す　　心法色法両相親しむ
第三十五回　心法と色法　人間の体と用
心法と色法、人間の応用
有情なる衆生が人道世界に入ると、心法と色法という二つの相互応用が生じ、これによって人類衆生の生存志向が相互に高められ、あらゆる事相を創造することが促されます。このような条件のもとで、心法の必須性と色法の如実性が具わってくるのです。
この二つは、あらゆる事柄に付随して動き出し、人類の衆生がこのような行為の中で、実相と無形相の二つの状態に入ることを促します。これは有情の衆生すべてに対して、人種や万物の衆生を区別することなく、あらゆる事柄の始まりと過程を進行させるものであります。
また、あらゆる事柄を観察してみると、事象というものには必ず二つの側面があることに気づきます。一つは「色法」と呼ばれ、もう一つは「心法」と呼ばれるものです。この色法と心法は、一方が本体（体）であり、もう一方が作用（用）です。では、どのようにしてこの体と用を一如たらしめることができるでしょうか。それによって初めて完全な事象が成立するのです。これこそが、「体用」が相互に応用し合うことの肝要な点なのです。
また「心と色」の二法をもって、物事の交替に相互に連関させ、
真の意味は、あらゆる事象が始動する際、この作用に対して心法の起動を必ず経た後、初めて色法の持続へと入ることができ、また心法の中で引き起こされるものこそが、まさにこのような行動規範なのである。
心法と色法は互いに交替する
必ずや「心を起こし、念を動かし、意に入れ、識に蔵す」という過程の後に、心の働きのプロセスを経て、ある目標を設定した後で初めて、実相世界における完全な現れに入ることが可能となる。このような実相世界においては、それぞれの目標の達成に向けて、何らかの行動がなされるのである。
これは、目標を定めた後に初めて、色法を用いて目標を達成する過程もまた、一つの色法として応用されるようになる必要があります。このようにして、色法には多くの動作が生じ、それぞれの動作には様々な名相があり、それらが一つの目標を定めて実行することを促すのです。
この時、心法と色法が互いに交わり合い、一つの目標に対して行われることを促す。これは心法の中に、すでに色法の対象物が存在して初めて、一つの「体相」作用を促すことができるのである。体相に到達できるかどうかは、対象物に対して行われることから生じ、そして応用するための準備が整うことによるのである。
この時、もし基準となる対象物がなければ、どうして「体」と「用」の必然性が生じるだろうか。このように、「体」が実際に完全に現れる必然性の中で初めて、「用」の無形の動作が促され、無形の動作が必要となるのである。これは応用の過程におけるありのままの行動が存在するからである。
心法と色法は、人間が必ず必要として応用するものである。
はじめて成就することができ、目標に対して施行される体用は一如である。もし「体」がなければ「用」もなく、世の中においては必ず体用が一如でなければならない。また、一つの体と一つの用を創造し、この両者が相加わることで、目標の作用となる。人間は何事においても区別することなく、すべてこのようである。
また、先に思考を構築したからこそ、この思考構築は必ず目標を持って実行され、用いる準備が整うのです。目標においてはすなわち体の働きがある中で、「体と用」が必ず「一如」であることが形成されます。これはあらゆる事柄においても同じように当てはまります。
このような：体は『実体』の目標であり、用は『応用』の行動である。このようにして初めて、あらゆる事柄に対して『実体』の完現作用を促すことができ、また体を目標とすることで、『応用』が行動として行われることを促し、完璧な事柄を実行することができるのである。
これは有情衆生が「心法と色法」において最も知る必要のある一つの事柄であり、またこの両者は、もし心法の目標地点において理解することができれば、中心思想の前向きな方向性を定めるものであり、第八識の中において、これらの過去のすべての経験の蓄積を引き出し、目標を定めて実行するものである。
心法の応用と色法の施行
このように心法の応用過程がすでに存在すれば、前回の経験の蓄積が再び連続して動き出します。この時、心法によって定められた目標は、前回の経験の応用から生じるものであり、問題点に対しても、必ず色法の実相界を備えていなければ、心法の中にあるすべての目標を達成することはできません。
それは物事を完璧に成し遂げることから来るものであり、まさに「心法」が現れることによる受用であり、それによって「色法」が相続されるのです。これはすべての人、すべての事柄において同様です。まるで皆が食事をするとき、まず心法の中で食事の念頭が起こるかどうかのように、このように食事を目標として捉えるのです。
また、人類は飢えのために形成され、食事による温飽が必要であり、初めて食事の動作に対して、いかに食事の必要性があるかが促される。この時、食事にはまず、米飯自体と料理の必要性が備わっている必要があり、初めて食事の条件が整う。さらに、茶碗や箸などの備えも必要ではないだろうか。
このように、まず食事が用意され、さらに食器と箸が揃って初めて、心の働きとしての食事動作が起こり、過去の経験も再び応用されるのです。この時、最も重要なのは既に食事が準備されているかどうかであり、また食器と箸が揃ってこそ、食事という如実の動作が可能となるのです。
人類の衆生の一挙一動はすべて心と色の法である
この時点で、すでに「食事の心法」が存在し、それを「食事の色法」に応用する。この二つが互いに作用し合うことで、単に食事前の観念が形成されるに過ぎない。また、この「色法実相」の必要性において、さらに一種の無形の「心法行動」による執持の力が必要とされるのである。
この時も、まずは茶碗と箸を用意しなければなりません。その後、「ご飯とおかず」を茶碗によそい、箸を手に取って口へと運びます。こうした一連の連続的な動作、すなわち色法のなかで、あたかも「有形と無形」の動きが実在するかのように、互いに連なり合いながら「心法と色法」に対して如実に応用されていくのです。
このような条件は、食事の目標地に既に備わっており、料理も用意され、食器も揃っている。しかし、行動を起こさなければどうして満腹になれるだろうか？ 決してそうはならない！ まさに「色法」そのものをありのままに活用した後でこそ、「心法」の行動体が促され、食事を取る動作が実現するのである。これは食事の動作にとって極めて必要なことである。
また、飲食の欲望においても、人間の衆生はこのようなものである。心法における目標地として応用し、色法の応用において、これらの条件を備え、さらに行動体を加えて初めて、満腹の作用が生じる。皆さんはその中の動作が、なぜ連続しているのかを理解しているだろうか。
心と色は世間の共通の法則なり
心と色の二つの法に対しては、まさに相互に連なり合って、あらゆる事柄の行いの中に存在し、またあらゆる人々においても同様である。それゆえに目標を持って実践し、「心法と色法」の中に利益を得る条件が備わっているか、それとも利益を得る条件が備わっていないかを区別して理解するのである。
観念の有無を検討するに、色法における行動の実体が真実であるかのように、初めて事柄や人々の受益に対して真実となり、問題点への施行も形成される。それはあたかも皆が外出しようとする時、必ず外出の「心法観念体」を起こし、さらに「色法行動体」が両足を前に踏み出す必要があるのと同じである。
両足が思うように動かない時、ただ「心法観念体」だけが外に出ていても、色法を応用することは難しく、つまり両足を踏み出して前進するには、このような「心と色」の両方を実践することが、まさに必要なのである。有情衆生に区別はなく、あらゆる問題と事柄はすべて同じである。
まず心法による想念が生じた後、初めて色法の行動体が促され、目標への実行が達成されます。この時、問題点が改善された後、つまり利益を得ることになります。この心法と色法が相互に結びついて応用されることは、まさに誰もが必ず活用すべき事柄なのです。
心法も色法も、すべての衆生が備えていなければならないものです。
相手が室内の心法から、外へ出るという念頭を起こしたとき、もし色法の行動体がなければ、外に出て新鮮な空気を吸うという利益は得られません。ですから、あらゆる事柄において同じであり、大人か子供かを区別することもなく、若いか年老いているかを分けることもありません。有情の衆生である限り、すべてこのように当てはまるのです。
これが有情の衆生であり、一つの目標に対して実行する中で、完全に現実化させようとし、さらに上昇して超越したいと願い、すでに超越しようとする念頭が起こったならば、心の法と観念の中に、このように一歩一歩前へ進み、上昇超越を達成する成就を得るのである。
これは、心法において色法への行動体に至る過程で、益を受けるか否かの区別があるかどうかということであり、これこそが人間衆生の真実の姿である。その中に秘められた奥義をどのように体得できるだろうか。もしその問題点を体得できるなら、それはあらゆる事柄から来るものである：体と用が一如であり、真の益を受けることが正しい道なのである。
心と色の二法は人間の用いるところ
有情の衆生は皆同じからず
一つひとつの事柄に対し
観念と行動が互いに支え合う
世の人々は皆同じ
それぞれの観念が思想を形作る
体用一如にして来たる利益を受け
人類有情の徳意を航す
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合うものです。心と色の二法に対しては、一つの観念、一つの行為動作の出来事があって初めて、相互の動作となり得ます。これは人間衆生の実相世界であり、また自らがすべての事柄を成し遂げるもので、一つ一つと続くものです。これこそが心法の応用と色法の施行なのです。
無極徳賢  女媧娘娘
無極の徳賢が台に登り来たり　女媧の慈悲はここに在り
共に神人諸賢生と会し、大道は唯識にて漸く末に至るかな
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院の院修学士の皆様、今晩は。本日は本宗脈主席　南無虚空文澤教化古仏－虚空文澤教化天尊が降臨され、大道唯識第三十五を著作されました。一つの心法と色法が人間において応用される作為を、皆様の生存の方向性に対して剖析されます。
ここに心法と色法の応用があります。皆さんも今日の仙仏の先生が示されたお話から、まず心法の念頭が起こり、それに色法が連なって初めてすべての行動体が引き起こされるということがお分かりいただけたと思います。このように心と色は一如であり、体と用も一如です。人の世ではこのように応用され、すべての生存の方向性が事柄の連貫と継続を促し、これが人類衆生の事柄の連鎖なのです。
2015年、0311、1231◎＃※   ０Ｋ；
南無虚空に満ちる崇高なる心よ
仁徳と忠義を降り来たらせたまえ
古仏は唯識の冊を著作し、心所法の義は行の本因なり。
第三十六回　大道唯識　心所法の義
大道唯識－心所法義の基本
有情なる衆生が人道世界に入ると、「心法と色法」の両者に執着することになります。また「仏性と魔性」の区別が生じ、人間世界における行動規範において、人為的要因によって「心所法の教え」が相互に促進され創造されていくのです。
また、「心所法義」に対する分別を通じて、人為的作用の中に入っていくこと、すなわち「心所」によって唯識学の理論の実践を区別することにおいて、そこにはあらゆる事柄に対する実践が含まれており、人類の衆生が真の分別を持つことを可能にします。それはまさに「仏性の種因」と「魔性の種因」における所行なのです。
有情なる衆生は皆、問題の本質を真に理解することが難しく、特に過去の経典が示す迷妄によって、人類の衆生は『封神演義』以降、より大きな向上を得ることが難しくなりました。また、未来において各宗教が創始された後も、さらなる向上が叶わず、有情なる衆生の成長と超越にも影響を及ぼしています。
これらは皆、宗教の経典に惑わされてどうしようもなく、それなのにどうして　上天が書かれたのか。
「大道系列天書」を作成する目的は何か。それはまさに、過去の経典がもたらした迷いの障壁を打ち破ることにある。修行において多くの問題点を減らし、「心所法義」へと入り込んで理解を深めることで、成長を加速させるという真実の働きをもたらすのである。
大道唯識－心所法の義を施行す
したがって、人間の衆生の思想と観念において、もし過去の積み重なった重荷を取り除くことができなければ、経典に左右されやすくなります。このような状況では、必ずや一生をかけて苦労して修行しても、結局はどうすることもできず、再び繰り返される輪廻の障害の中に沈んでしまいます。この時、もし大きな因縁や大きな福徳がなければ、どうして乗り越えることができましょうか。
成就を得ようとするのは、木に登って魚を求めるようなものであり、自らの目標を達成することも非常に難しい。また、このような因縁は、一人ひとりの衆生の心のあり方や考え方を通じて、自らが求めるものにどのように加わるのか？したがって、人間の衆生が真の因縁を持たなければ、宗教に入って向上を図ろうとしても、それは海を眺めてため息をつくようなものだろう。
上昇超越を達成することも難しい中で、この問題点をどのように打破すべきでしょうか。博学多聞であることが必要で、初めて善く活用することができます。つまり、自らの行いに対して、少なくとも自ら「見聞覚知」を持つことで向上を図り、新唯識の理諦の観念を知ることを通じて、新唯識学の理論を徹底的に理解する境地に入るのです。
心所法義の中において明白にし、あらゆる疑念や問題を解消し、また心所法義の中にあるすべての迷いの障りを明らかに剖白する。それによって、人類衆生が経典の中で抱く迷いは、自らもこの困難を突破したいと願い、真に解消することができ、「経典の限界」によって妨げられることなくなるのである。
大道は唯識にして、広く有情を化す
実はすべて経典に翻弄されるという限界にあり、「経典を活用する」ことで向上と超越を図ることができないのです。これは有情衆生がより大きな成長と学びへと進むための道なのです。
人間として生まれる機会は、ますます少なくなっています。すべての有情衆生は、一生のうちにさらに大きな思考と観念を得たいと願っており、まさに自ら努力することが求められているのです。
他の宗教の長所を排斥することなくこそ、自ら成就する機会を得られるのである。大道シリーズ天書こそ、まさに現代に授けられた上天の大いなる慈悲と恩恵であり、教育・教化の糧となる源泉である。言うなれば、人間界の迷いを明らかに分析し、自らの無明の障害を乗り越え認識を深めるためのものである。
「新唯識学理諦」において貫徹されていることを認識することによってこそ、それは真実の本性となるのである。また、「浄染と染浄」が存在するからこそ、「垢染と染垢」の中での浄化が形成され、これによって人間世界における一切の行いが生じる。この世の人々による検証を通じてこそ、真実の理諦が得られるのである。
かくして、この世に存在するすべての生きる方向は、一人ひとりの「心のありよう」から生じる。実相世界と心の世界の区別が働くことによって、実相世界に対する心の働きが生まれ、あらゆる世の相をありのままに知ることを可能にする。一方、心の法が顕わすものは、形も色もないものであり、必ず人が実践しなければならないものである。
人生において最も優れたことは、唯識の学理を了知し得ることである。
さもなければ、どうして真の心法の要義がありえようか。いかなる事柄の実行においても、必ず色法と相互に交替して応用することで、すべての「心所法義」が生じるのである。これは人類の衆生が常に行っていることではあるが、なぜそうしなければならないのか、またこれらの行為動作にどう対処すべきかを理解することはできないのである。
すでに仏教の「唯識学理諦」には、それぞれの作用があり、これらを人間世界において区別し、あらゆる衆生が応用し実践しています。こうして人類の衆生には「事務連鎖の結合」が生まれ、「食物連鎖の必要」が生じ、さらに「通貨連鎖の追求」が生まれました。これらは一人ひとりが必ずありのままに理解すべきことなのです。
「心所法義」を明らかにするとは、いかなることか。それは人間衆生の「仏性真如と魔性真如」を相互に照らし合わせ、心所法義を理解することである。ゆえに、人間衆生がこの一生においていかなる行動を求めるかは、ただ五十一心所の障礙を心所法義の中で解消することに過ぎない。
このように真実のままに、これらすべてを日常生活の中で活用できれば、それで十分です。世の中のすべての行いを浄化することは、心の働きの教えの中にこそ真の向上の原動力があるということを理解できるでしょう。したがって、人間を含むすべての生き物が生存の方向に向かう際にも、真の日常生活が存在し、それは一人ひとりに等しく備わっているのです。
唯識学の理―仏と魔は半々なり
すべてはただ食物連鎖のために組み合わさっているに過ぎず、またこの一生を修行の道のりに安らかに適応させることができません。このように言えるでしょう：もし生活の困窮がなければ、すべての人類衆生にとって修行の道は順風満帆であるはずですが、しかし食物連鎖の組み合わせが必要であるがゆえに、事務連鎖の組み合わせが形成され、需要が生じるのです。
このような縁起の体に対して潤いを生じさせた上で、さらに時間、空間、労力をもって通用貨幣と交換し、家族を養い生計を立てる必要性があり、また通貨を利用してすべての問題点を解消することを成就します。さらに、このような人類衆生の修行の功徳が、大きく向上するか、あるいは障害に悩まされるかという問題があります。
必ず観察せよ、一つ一つの動作の中で、どのように自分自身に点数をつけているかを。このようにして理解できることは、心所法の意味が存在し、すべての有情衆生に対して日常生活の中で応用されているが、しかし誰も知らない、これらの名相がどのように作用するのか？その機能はどのようなものか？それゆえ一種のどうしようもない状態が形成されるのである！
唯識学の真理は作用し、その恩恵は無限である。
心所法の義理に対しては、徹底的に理解することも難しく、世間における行為の規範は、無形の行為動作から来ているものであり、このように現れているのは、まさに一つ一つの行為動作に、無形の思想の力が行為の規範に加わっているということです。皆さん、考えてみてください、果たしてそうではないでしょうか？ただ名相だけでは区別できるものではありません。
この問題をはっきりと理解するには、ちょうど世の中で車を運転するようなものです。教習所では一つ一つの動作が、すべて一つの号令に対して一つの動作ですが、実際の道路に出れば、もうそのようには動きません。一つの号令に対して一つの動作では、多くの障害が自分を悩ませ、他人にも危害を及ぼすことになるのです。
また、なぜこのようになるのでしょうか。心の作用に関する法義を日常的に応用する必要がある場合、それを熟知していれば自由自在に応用できるはずです。まるで熟練した運転手が、いちいち指示を受けながら動作するようなことはありません。そうではありませんか。すでに熟練した動作を身につけていれば、どのような運転技術も自在に操ることはきわめて容易なはずです。
心所法の意義と唯識学の理諦
修持を高め超越することについても同じです。修持を通じて変革を遂げる中で、すでに成就しているのではないでしょうか？まるで自動車教練所のように、一つ一つの指示に従って動作する必要はもうないはずです。これこそが真実の自己鍛錬であり、すでに真の向上と超越の熟練度を備えているのです。このまま順調に進めたいと思いませんか？
これもまた全ての心所法の義が、そのまま現在の瞬間に完現していることである。この一生における向上と超越は、果たして同じように、すでに熟練した行為動作があるのに、さらに後になってから「仏果の位階」を成就するのを待つ必要があるだろうか？この中の奥義を理解することは、いかにして可能であろうか？
自らよく応用できるようになれば、それは心所法の義に対して、「仏性真如と魔性真如」をありのままに貫通したことになり、「浄染・染浄」も可能となり、「垢染・染垢」に陥ることなく新たに出発できる。皆さんは唯識の理諦の重要性を理解されただろうか。これもまた、幾度もの繰り返しによる薫習の過程を経て、思想が変わり成長し、向上し、回帰し、超越していくことこそが正道なのである。
大道唯識はすでに完成し、
心所法の義理は真理に優る。
熟練した動作を覚えるならば　未来の利益はかくの如し
人間の縁は稀なるもの　まさに自分こそが最も大切
もし仙仏の意を体得することができれば
必ずや未来の果位に躍進するであろう
この偈は、有情の衆生が互いに励まし合うものであり、また世の中のすべての「心所法義」に対して、自己の認識・思想・観念から、より大きな成長と利益を得るものである。まさに日常生活における熟練度から来るものであり、いかなる境地の果位にある仙仏も衆生も、すべてこのようである。その秘訣はここにあるのだ。
無極徳宝  天上聖母
無極の徳宝聖母登りましぬ
天上人間みな共に成る
大道唯識は既に書き終えられ　  　一切の有情なる衆生を成就せしむ
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道学院、学院修学士の皆様、こんばんは。本日は本宗脈　大主席　南無虚空仁徳忠義古仏－南天主宰文衡聖帝がご降臨され、大道唯識第三十六回「一つの大道唯識心所法義を闡述し、有情衆生の迷いを解くこと」をお著わしになりました。
明日もまた土曜日、すべての引渡しは平常通り行われます。皆さんが学び成長するために来られることは、自分自身を向上させ超越するための真実の性質です。明夜もまた禅師の授業があり、皆さんも霊の七魄を徹底的に理解し、いかにして自分自身の迷いの障壁を完全に現実化するか、それが初めて応用でき、自分自身の魂の七魄を知り得るのです。
これはただ天書によってのみ知られるものではなく、まさにその場で感じ取る尊い大いなる悟りなのです。皆さんはこれらのことを理解しておられますか？もし理解することが難しいなら、ただ崇心宗脈に名前を連ねるだけに過ぎず、未来において真の向上を得ることは、非常に困難なことでしょう！これは各人の因縁と福徳に由来し、さらに智慧の向上があってこそ、真実の姿となるのです。
2015年、03月11日、12時32分◎＃※   了解；
南海古仏
南海の屏障 有情を護る
古仏降りて跋一を著す
大道は唯識にて弘め広げんとし、寰宇に四海の音を推し広めん
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一      讚言
大道の賛嘆
人間の衆生が生存の方向性においては、しばしば向上して成長することができず、ただ人道世界の中で、繰り返し輪廻する種子の因となるに過ぎません。また、このような条件は、有情の衆生にとっては非常に冷酷な殺傷力を持っています。どのようにして向上して成長すべきでしょうか？それが正しい道なのです。
上蒼の慈悲と徳の恵みは、下界の人類衆生の日常の中に溶け込んでおり、まさに「新唯識学理」を基礎として応用され、有情衆生が生存の方向性を求める過程において、すでに「唯識学理」が用いられていることを理解させることができます。たとえ日常生活の中にあっても、すべての名相の働きを知り尽くすことはできません。
唯識者の成長
つまり、日常生活における「心を起こし念を動かし、意に入れ識に蔵す」という作用は、人類衆生が生存の中で既に用いているものですが、ただその一つ一つの行為動作の真実のありようを知ることができないのです。このような日常生活の実在性に、仏家の「唯識学の理諦」をもって入っていくのです。
それはすなわち極めて熟練した状態となり、関連する名相を貫通して理解することが難しくなります。まさに日々応用しているにもかかわらず、その作用と名相を知ることができず、原因に立ち返ることができません。このような状況下で、この種の問題点を打破することが困難となり、過去二千余年にわたる無明の障害に対し、人類衆生がこの時空においてより大きな成長と向上を遂げることが、まさに正道なのです。
南海古佛　降跋一讚言於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
辛卯年梅月十一日、戌の刻
はい、皆様、ご一緒に著作にご協力いただき、また崇心宗脈において今後の弘化・普及についてご協議いただき、誠にありがとうございました。お疲れ様でした。では、またお会いしましょう。
南屏道済古仏
南屏山の麓に成長し　道済和衷の真理を広める
古佛降著跋二賀　  　大道唯識引歸航
跋二      謹んで祝う
大道真理
すなわち、それは世の中の有情衆生の生存向上を依り所とし、またこのような条件のもとで、過去二千余年の歳月の中で、宗教的修行者が超越的な境地に回帰することは極めて稀であり、皆日常生活の中に迷い込んでいる。真の修行を実践する者がいたとしても、それを理解することは難しく、ただ世の中で単一の宗教を信仰しているに過ぎない。
また、その内なる奥義を真に理解し実践することは難しく、人類衆生に対しては単なる宗教信仰の枠内に留まるだけで、真に向上する因縁の根本を得ることはできません。さらに、数十年の歳月を宗教に捧げ犠牲を払いながら、一生をかけて回帰を求めることは、まるで木によって魚を求めるようなものであり、一体何が原因なのでしょうか。
唯識の学理諦
これはまさに仏教が応用する基本の所作であり、このような学理も、人類衆生の「心を起こし念を動かし、意に入り識に蔵す」を経て初めて行動となり、また因縁果報によって促されて初めて現れる。この世においては、因果循環の中で、いかに「新唯識学理諦」を応用して実践すべきかを理解するに至るのである。
また、ある一人の人間が、この時空の中で成長し超越することができるのは、まさに「真仏心宗」が開かれたからである。数千年にわたる殊勝な因縁により、有情衆生は一人の人間として、上昇超越の真実の意義を比較的容易に理解することができ、一世また一世と模索を重ねる必要もなく、問題点がどこにあるのかを知るのが非常に難しいということもない。
したがって、「新唯識学の理諦」に対して施される殊勝な因縁条件とは、まさにこの瞬間において、すべての宗教修行者に精進の機会を提供し、より広い視野と寛容な心を持つことで、過去の迷いや無明を解消し、真の成長と向上を実現することにあります。これこそが真実のあり方であり、良き恩恵をもたらすものなのです。
南屏道済古仏　跋を降すに二、恭賀す
儒宗聖教の真仏心宗
無極大道院　懿敕崇心堂
辛卯年梅月十一日、戌の刻
ああ！老衲また崇心の著作跋を祝いに参りました。崇心への評価はますます深まっております。しばらく崇心にお邪魔いたしますので、皆様、また後ほどお会いしましょう。
南無虚空に降りたもう崇心
上徳古仏喜び来臨したまう
大道  唯識  跋三  勉勵
大道が所有する生存と応化
したがって、世の中のすべての修行に関する疑問を改め除くことで、実際の成長が得られ、この時空の元会において、もし過去の経典に依拠して、真実の成長と回帰を望むならば、疑いなく多くの疑問が生じ、解決が困難であり、このように四億の仏子を引導して回帰させようとすることには、非常に大きな困難点があると言える。
このような問題は、真に修行を実践する者にとっては、長い道のりを模索しなければならず、必ずしも超越的な境地に回帰できるとは限りません。さらに、人間界におけるすべての生存の方向性や、無明の中で遭遇する問題や障害は、根本的に解消することが難しく、どうして真の向上と成長が得られましょうか？まさに効果を上げることは難しいのです。
新唯識学の基本的な効用
まず知る必要があるのは、問題点に対する障害とは一体何なのか？人間の世はただの時空の旅人に過ぎず、繰り返される輪廻と障害の中に身を置き、有情の衆生はただ生きる中で、日常生活の基本原則を求めるだけであるということを理解できなければならない。もし人類を向上させたいと思うなら、それは非常に難しいことだ！
もし過去の宗教経典に従えば、迷いの障壁は実に少なくありません！そのため、真の修行実践者が施しを実践して成長することは難しく、これは自分自身も人間世界を見通す必要があり、ただ生活のためだけではないのです。考えてみてください、現代の世の中はますます多くの人間の災難が増えていますが、それを理解することができるでしょうか？
この世に生を受けるのは長く留まることはできません。それゆえ、真実に立ち返る方法と天への階段となる大道が必要です。これこそが、この一生において自らを成長させ、超越させるための、そして根本を正す道なのです。もしもより広い視野と心を開くことができなければ、他の宗教の優れた点を取り入れても、それはただの独りよがりに過ぎません。
南無虛空上德人天古佛　降跋三勉勵於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
辛卯年梅月十一日、戌の刻
ああ！真心から崇拝する心を感じることは比類なきものであり、まさに上蒼の第一手資料である「大道唯識」を分析し、すべての真の修行と実践を徹底的に理解し、必ずありのままに応用してこそ、より大きな利益を得ることができます。皆様、お疲れ様でした！ではまた。
南無、衆生は皆如来なり  燃燈の心法、皆に開かれん
古仏降著の凡例を作る
大道唯識の弘揚を排す
凡　　　例
一、大道とは、人類衆生を基盤とし、この世において向上成長を遂げるものである。これには、人々を基本へと導き戻す確かな方法が必要であり、そうしてこそ人類衆生は真実の成長を遂げ、学びを依り所とすることができる。それによって、良き因縁が生まれ、向上し、超越へと向かって成長していくのである。
二、大道とは：世の中での生きる心の動きや念いにおいて、あらゆる衆生を理解することはできません。必ず意蔵識に入り、自らの心の念いや意識に対して、問題を相互に円満にし、また物事の連鎖の中で互いに学び成長し、それぞれの経験を積み重ねてこそ、次の知識の応用が可能となるのです。
三、大道とは：宗教を信仰する者にとっては、この世において必ず知らなければならないことである。一つ一つの行為や動作はすべて、前回あるいは累世の因を引き出し、それによって因果の循環が一回ごとに形成される。これは人間の衆生には、なぜこのようにならなければならないのか理解できない。また、因縁果報がそのまま現在において実行されることを形作っているのである。
四、唯識とは：これは、前世あるいは累世における因果の循環を了知し、それによって物事に対する異なる見方と行動が生じることを指す。あらゆる衆生が事象の連鎖の中に入る時、唯識の学理を応用すべきであると了知できるが、その作用と名称を了知しないため、問題に翻弄されるのは避けがたい。それゆえ、ありのままに知り、徹底的に通達することも必要である。
五、唯識について：これはまた、自分自身が生存の中で、実はすべての衆生がすでに「唯識の学理と真諦」を応用しているが、相互に関連する知識とその応用をどのように結びつけるかを理解できず、そのためより大きな利益を得ることができず、また応用する際にしばしば自分自身の無明によって、過去の因縁の相互関係を中断してしまうことに対するものである。
六、唯識について：これは世の中のあらゆる宗教の信仰者にとって、向上し超越する方法であり、こう言えるでしょう。もし大道唯識の基本を理解できれば、過去の経典における迷いと障壁を見通すことができ、真実の超越を望むならば、まさに迷いと障壁を取り除くことは非常に難しいことです。したがって、その内包を深く理解することが必要です。
七、大道唯識：これはあらゆる宗教信仰者に対し、過去の経典による迷妄を破り、自らの根識によって成長することを促すものである。言うなれば、多くの時間と空間における迷いや模索を減らすことができる。このような条件こそ、まさに一生で仏の果位の境地に到達し、向上して成就を超越し、また往復して円満に回帰することのできるものである。
八、大道唯識：これは人類が生存と修持の基本として、正しい道の方法を応用するものであり、自らがそれぞれの世の迷いと障りの中で、より楽に向上して成長できるようにするものです。これには、現代の科学技術の円満な達成が、上蒼の慈悲の徳沢によるものであり、四億の仏子を導いて回帰させるものであることを知る必要があります。
九、大道唯識：これはあらゆる宗教の修行者に対し、自らの信仰においてより大きな知識を得て、生活の中でいかに実践すべきかを理解させるものである。いかなる宗教信仰の区別なく、大道唯識に触れることで、より豊かな資糧の源を得て、自らの未来をより確かな実践へと導くことができる。
十、大道唯識の応用：大道シリーズの天書においては、すべての宗教修行における迷いと障りをありのままに説き明かし、またこれらをありのままに下化して、有情衆生が一世代のうちに因果業障をありのままに完全に消滅させられるようにし、また因縁果報が訪れる時には、未来に向けて隔空で転換させるありのままの性質を明確に理解できるようにしています。
十一、大道唯識の功用：これは人世間のすべての問題点を化除し、因縁果報の冤親債主にも相互に向上させながら未来の成就位階に入らせることである。これには必ず、真実の方法が如実に存在し、人世間において問題の障礙を円融に化除し、すべての成就超越者がより如実に比較できるようにしなければならない。
十二、大道唯識の著作：これはまさに、上天の基本的な徳沢が下って人世間に化現したものであり、また天下唯一の真実の成仏の道でもある。この道によって、人は一世代のうちにすべての因果循環を完うし消滅させることができる。もしこの世で如実に応用できなければ、未来に隔空して撥ね転じて応用することを待つことになる。いかなる宗教も区別なく、すべて同じである。
十三、既に完成されたものについて、著作、印刷支援、講演、配布などは、いずれも未来に対して確かな功績と成長をもたらすものであり、いかなる宗教や国も区別することなく、確実に推進しなければならない。そうして初めて四億の仏子を導き救済し、崇心宗脈の方法が現実に即して応用され、自らを成就し、衆生を成就することができるのである。
南無燃燈古仏　降凡例を
儒教の聖なる教え
真の仏教の心髄
無極大道院
懿敕崇心堂
辛卯年梅月十一日、戌の刻
ああ！崇心宗脈のために大変慶ばしいことです。上天の機微をありのままに凡塵へと下ろし、四億の仏子を引き渡して回帰させることができるとは。これはありのままに弘化を推し広める必要があり、単一の宗教の信仰だけにとどまるものではありません。それでは向上成長して超越することは難しいでしょう。どうやって応用し、自らが向上する恩恵を受けるべきでしょうか？
大道唯識の根本基礎をより大きく円満にすればこそ、大道唯識を如実に通徹することができるのです。また、一世成就者の必要性に由来するからこそ、真の功徳が現れ、真に崇心宗脈の『新唯識学』を応用することができ、因果の悪い災いを真に取り除くことができるのです。皆様、お疲れ様でした。またお会いしましょう。
2015年、0311、1234◎＃※    ０Ｋ；
崇心副主席 麻仙姑
崇心副座麻仙姑　　　　大道唯識完書顧
弘化の推広はすでに間近に迫り、有情の衆生の徳意は殊に深し。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
本日は崇心宗脈にとって大いなる喜びの良き日であり、佳き時節であります。大道唯識の完書を以て御旨に応え、言うに足るは：崇心宗脈にとっては更なる次元の向上と超越であり、今や佳き時節が到来しました。ここに命じて本宗脈の　虚空理德仙姑、　虚空彩霊仙姑、　虚空彩花仙姑を三十里の外に派遣し、謹んで　無極懿旨を堂へとお迎え申し上げます。
再び命じて、虚空御伝天尊、虚空道伝徳天尊、虚空龍翔天尊ら、合わせて三柱の天尊を二十里の外に遣わし、恭しく無極懿旨をお迎えし、堂に来られてご下示を賜るようになさいました。その他の神人及び無極大道院、院修学士らは、列を整えてお出迎えの準備をし、儀礼を欠くことのないようにとのことです。
無極の御前  何仙姑
無極駕前に侍して皇母に仕え　何仙姑来たりて懿旨を携える
降り来たりて崇心に作し頒示す　大道唯識已に完著す
今夜、無極懿旨を奉じて崇心堂に降り、神人ともに伏して拝受す。
懿旨を開き読み奉る
謹んで奉る
無極皇母大天尊　懿旨に曰く
母は理天の聖境におり、南贍部洲に対面して、すべての原霊子の向上と超越を願い、有情の宗教が母の憂いを分かち合うことを望んでおります。しかし今、このような殊勝な機会も次第に遠のき、真の効果を上げることも難しくなっております。皆、迷いの凡塵の仮の景色に潤いを求め、真理を悟って先天の真霊本性に戻ることができないのです。
このような行いは、まことに母として深く悲しむところです。しかし今、母の心は台湾桃園の懿敕崇心堂に宿り、丙子年の立堂より十五星霜を経て、人々への教育と教化に殊勝なる功績を挙げ、さらに『大道系列天書』の著作においても極めて優れた成果を収めております。
一冊一冊がすべて真実の理諦であり、一つ一つが回帰の妙理であることに、母として心から喜びを感じています。今や大道シリーズ第三十冊『大道唯識』の著作が完成し、神人たちが心を一つに協力し、母の心に応えて自らを成就し、多くの霊子たちを教化して成長させた功績を称えるべき時です。
このような功績はまさに世の模範と言え、母に代わって衆生を救済することができる
霊子の回帰には、このような天機が当然備わっており、人道世界に下化して、この種の功勳を各参著者に三千大功として授け、全勤者を基準として、さらに心神仏功を三等加増し、教化の功勳が実際に体現されるようにする。
今、このような功績を未来の福報へと転換することができ、崇心は真に天の道を行い、天に代わって教化を宣べ伝える殊勝な因縁を得ました。そして今回、無極大道学院・院修学士の第二十期生、合わせて五十三名が無極理天へ回帰し、さらに精進を重ねることとなりました。これは崇心の教化因縁が尋常ならざるものであることを十分に示しています。
さらに保持を続け、より優れた弘化と救済を行い、有情衆生が『大道唯識』の天書を通じて回帰・超越・成長を遂げ、向上することを、母なる心は切に願っておられます。ここに再び何仙姑に命じて瓊漿三壺を賜い、崇心堂の茶に加えさせます。二壺は学生たちに、一壺は仙仏たちに与え、母の憂いを分かち労を癒す辛苦を労ってください。
無極皇母大天尊は、御旨を下される。
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
辛卯年梅月十五日、戌の刻
崇心堂のすべての神仏と学生の方々にお慶びを申し上げます。また、麻仙姑姉妹の殊勝なる宗脈の功績を祝賀いたします。この天機の功勳を成し遂げられた皆様、ご苦労さまでした。懿旨の頒示はこれにて完了いたします。またの機会にお邪魔いたします。皆様、さようなら。
崇心主席　虚空文澤教化天尊
崇心主席文衡帝        文の恵みをもって衆生を教化し依らしむ
大道唯識の書の旨を完うし
広く弘めて衆生を渡化せん
崇心宗脈のため、これ以上ない慶びを感じております。上蒼の徳沢が凡塵世界に下り、人類衆生をより大きく向上させることができ、仏家の「唯識学理諦」を教化の縁として、自らが自らを成就し、また衆生を渡化して回帰させることができれば、良き善き効果が現れることでしょう。
このような殊勝なる因縁条件は、天の肯定を得ることができ、今や無極懿旨の頒示が完了した後、さらに昊天玉詔を継ぎ接ぎして堂に頒示する。命じて本宗脈の無極城隍帝君、無極司命真君、無極広沢尊王を二十里の外に派遣し、恭しく昊天玉詔を堂に迎え奉る。
再び命じて崇心宗脈の無極國際觀世音菩薩、無極東瀛觀世音菩薩、無極白聖理觀世音菩薩らを十里の外に派遣し、恭しく昊天玉詔を堂に迎えさせた。その他の神人と無極大道院、院修學士らは列を整えて駕を待ち、儀礼を欠くことなきようにせよ。
昊天の勅使　駱天尊
昊天は欽差を降し崇心を賜う　　大道は唯識にて真に歡心す
書を完うして旨を繳し聖心を悦ばしむ　　　駱天尊降りて徳意の心を賜う
謹んで昊天の玉詔を帯び、崇心に降りて頒示す。神人俯伏す。
玉詔開読
謹んで奉る
昊天玉皇大天尊　玄霊高上帝の玉旨に曰く
朕は九五の至尊にあり、南贍部洲の有情衆生に対し、教化の課程において、真に上蒼に代わって弘揚渡化を行う者、殊勝なる因縁と使命を以て大道の先鋒部隊となることを切に願ってきた。今や台疆桃園に懿敕崇心堂が立堂し、大道系列天書の著作に向けて取り組むこととなった。
これまでに、大道シリーズ第30冊『大道唯識』の完書を上奏し、未来において世に広め人々を救い、宗教修行者が真の回帰の天梯による超越を成し遂げる良縁を得られるようにしました。今、このような崇心堂宗脈の殊勝な因縁によって、無事に完書を上奏することができました。
人々の世に対してはさらなる高みへと導き、宗教修行者の成長と成就において、このような功績を挙げることができたことは、まさに上蒼の嘉許と祝福に値するものである。懿敕崇心堂宗脈が著した天書の一冊一冊は、上蒼の真実の意義を余すところなく現し、人々の世の無明の障害を解きほぐすものである。
また、次々と回り巡る殊勝なる妙理の中に、正しく真実なる諦を以て下化を為す。
現代において、「大道唯識系列天書」が完結したことは誠に稀なることであり、崇心の諸神人の功績を称え、この功徳のすべてを崇心宗脈の未来の弘揚のための資糧源とすべきである。
崇心宗脈には絶え間なく福財の源が助けをもたらすことができ、これも崇心が十五年努力してきた結果であり、ようやくこの因縁を成し遂げ、衆生を引渡して回帰させ、自らの向上と超越を成就させることができました。まさに上蒼が肯定と賞賛を下さるに足るものであり、上蒼の資糧源を実のままに得ることは、天の道を体現し、天に代わって教化を宣べる基本的な行いであり、これによって殊勝な功果が確立されるのです。
昊天玉皇大天尊　玄霊高上帝　玉詔を頒示し
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
辛卯年梅月十五日、戌の刻
崇心宗脈が再び上蒼より肯定と賞賛を賜りましたことをお慶び申し上げます。我ら仙人は速やかに昊天に戻りご報告いたします。またの機会にお邪魔いたします。皆様、お疲れ様でした。では、またお会いしましょう。
崇心大主席   南天主宰文衡聖帝
南天聖帝が降臨されし儀式  崇心宗脈の徳意を期す
大道唯識の旨は既に明らかにされ、書を成して慶賀し福徳に合致す
諸聖仏と諸賢生、及び無極大道院、院修学士の皆様、こんばんは。本日は無極より下された懿旨と昊天より下された玉詔が、すでに全て下示されました。これはまた崇心宗脈にとって更に大きな契機を創り出すものであり、今後の弘法においても新たな広がりと功徳をもたらすことでしょう。
今や既に　上天より示され給い、未来の弘法における殊勝なる因縁を成就せしめん
この条件は、崇心宗脈が努力して、すべての規章、制度、典則、規範を施行することによって実現される。これには、確固たる条綱の施行が確実に確立される必要があり、そうして初めて上蒼の期待に背かずに済む。真仏心宗の宗脈体制に対しても、このようにあるべきであり、次回の聖諭ではこれを詳細に分析していくことが正道である。
大道唯識叢書の要点を紹介します：
大道唯識の要点は、実に数多く語ることができます。上蒼の多くの仙仏恩師の慈悲の徳沢により、人間界には多くの恩恵がもたらされています。以下の一つ一つをゆっくりと研究し理解していけば、それがすべて現実の日常生活の中にあることを知ることができるでしょう。すべてはただそれだけのことであり、「唯識学」の理論を深く理解することは非常に難しいものです。実はこれは、皆が毎日、毎時、毎刻に応用している行為や動作なのです。
何を唯識というのか：心のみが認識する生存は実相にあり、ただ皆がこのような生存過程にあるが、しかし誰もその名相と作用のつながりを知らない。また何を唯識というのか、つまりただ自己の内心が認識するのみであり、一切の生存法則はまさに日常生活における自境の根：眼・耳・鼻・舌・身・意がつながり、それによって外在する外境の塵：色・声・香・味・触・法が動き出し、一切の生存の方向を連鎖させる。すべては「唯心が認識する」ことによって変現するのである。
唯識学：これは比較的堅苦しく難解であり、過去においてもそうであったため、多くの人が尻込みし、敢えてその探究に足を踏み入れようとしなかった。真仏心宗は、人類衆生により理解しやすい語彙を引用し、「新唯識学」の理論を再解釈することで、この奥深い学問に入門したいと考える者に、より大きな利益をもたらすことを提供している。
過去の時空の因縁においては、必ずや仏教が大学や大乗機関において研修課程として取り入れられる必要がありました。しかし現在、上天の慈悲により、より平易で分かりやすい用語を用いて著述し、人類衆生がより容易に理解できるように提供されています。心の意識から起こり、より大きな利益を得るために、「起心、動念、入意、蔵識」の中で成長するとはどういうことか！また、すべての生存に関する名相をどのように認識すべきか。あらゆる動作においては、必ず根と塵の接触があって初めて現行が起こり、実相の法則のすべてが存在するのです。それによって法則の全過程を認識する必要が生じ、経験則が形成されます。智慧が現れた後には、必ず応用法則が必要であり、そうして初めて衆生は利益を得ることができるのです。
人類の衆生もまた無常の法則の中にあり、常に変化して定まることがありません。これが人生が一つの過程であるということであり、必ずや恒常の法則の中にあります。有情の衆生のすべての行いがこのようであるならば、いかにして無我の法則に従い、いかなる者がこれを超越するのでしょうか。皆様が「大道唯識」の天書をご覧になった後、その中の真意をはっきりと悟り、自らを成就し、他をも利益することができますように。
理心光明禅師謹んで題す
2015年、3月11日、13時20分◎＃※   了解。
大道唯識の全編が修正を終え、編集に進める段階となりました。