大道シリーズ叢書 第4冊『大道真詮』
日本語版
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
大道天書の第四冊『大道真詮』は、全体的な大道シリーズの再創造として執筆されたものです。もともとは第三冊『大道回帰』までで終わる予定でしたが、発行の効果が非常に良好であったため、上蒼が二ヶ月の期間を置いて崇心堂の著作を再調整された結果、その後の「大道シリーズ天書」の発行に至ったのです。
《大道真詮》 推薦序
人生において過去のすべての所作は、凡塵の中で皆「因果の定律」に左右され、すべての真の問題点は、自分の思想観念が最も重要であることにあります。修持している衆生もしていない衆生も同様であり、現世において事を行うことができるのは、まさに人としての根本であり資糧であり、また自分が前に因を造り、後に果を得ることなのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
崇心主席　文衡聖帝
◆ 前置・序 ◆
序一
太上道祖　道徳天尊
序 二
序 三
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
南海古仏
第二回 初基（無極之二）
元始天尊
第三回 貫一（一本） （無極之三）
霊宝大天尊
第四回 太極
南屏道済古仏
第五回 兩儀
南海古仏
第六回 四象
太上道祖道徳天尊
第七回 八方
南無燃燈古仏
第八回 含因
南無本師釈迦牟尼仏
第九回 人生
大成至聖先師　孔夫子
第十回 萬法
下元水官大帝
第十一回 唯心
亞聖孟夫子
第十二回 萬殊
南海古仏
第十三回 唯物
中元地官大帝
第十四回 生死
復聖顏回夫子
第十五回 自在
虚空上人–南無虚空上徳人天古仏
第十六回 惻隱
宗聖曾參夫子
第十七回 慈悲
上元賜福天官大帝
第十八回 喜捨
述聖子思夫子
第十九回 因果定律
南海古仏
第二十回 思想觀念
東斗星君
第廿一回 教化修持
西斗星君
第廿二回 執著固化
南斗星君
第廿三回 五行生剋
北斗星君
第廿四回 命理人生
中斗星君
第廿五回 矛盾對立
南海古仏
第廿六回 時空生滅
金徳星君
第廿七回 輪迴交替
木徳星君
第廿八回 生老病死
水徳星君
第廿九回 苦空無常
火徳星君
第三十回 悲歡離合
土徳星君
第卅一回 喜怒哀樂
南海古仏
第卅二回 得失心態
太陽星君
第卅三回 陰陽相待
太陰星君
第卅四回 天地造化
無極大道院副院尊　太乙救苦天尊
第卅五回 宇宙演化
雷声普化天尊
第卅六回 回歸收圓
南海古仏
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
北極玄天上帝
跋 二
跋 三
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
崇心正主席　虚空上人
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
「原意」の「初基」から「貫一」へ進化することが基礎であり、道家の「太極、両儀」から「四象、八方」が放たれて「含因の人生」となるのです。人間は「万法唯心」および「万殊唯物」の世界であり、「生死自在」に対して「惻隠、慈悲、喜捨」を内含する違いがあるのです。
《大道真詮》 推薦序
もし人類の思想観念がなければ、「業報の牽纏」の要因を形成することはできません。人は自分が造った因によって、自分で結果と報応を受けるのです。このように「その因とその果、自ら得て報いを受ける」とき、誰も代わりに行うことはできず、業報の牽纏による討伐を引き受けることもできません。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
1997年9月16日　丁丑年八月十五日（二）
◆ 前置・序 ◆
序一
1997年9月19日　丁丑年八月十八日（五）
序二
天地間で行われるいかなる事も、人間有情の世界を離れることはできません。人類は有情衆生であり動物の一種でもあるからです。それゆえ、すべては人類が生存する有情の世界において選択することができるのです。輪廻を望むにも、超脱を望むにも、自分がどれだけ心を込めたか、どれだけ努力したかを見極めなければなりません。それによって成功も決まるのです。
序三
崇心が再び天書の縁を著し、『大道真詮』は誠に新鮮なのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
1997年9月26日　丁丑年八月廿五日（五）
第二回 初基（無極之二）
1997年10月3日　丁丑年九月初二日（五）
第三回 貫一（一本） （無極之三）
1997年10月10日　丁丑年九月初九日（五）
第四回 太極
1997年10月17日　丁丑年九月十六日（五）
第五回 兩儀
1997年10月24日　丁丑年九月廿三日（五）
第六回 四象
1997年10月31日　丁丑年十月初一日（五）
第七回 八方
1997年11月4日　丁丑年十月初五日（二）
第八回 含因
1997年11月7日　丁丑年十月初八日（五）
第九回 人生
1997年11月11日　丁丑年十月十二日（二）
第十回 萬法
1997年11月14日　丁丑年十月十五日（五）
第十一回 唯心
1997年11月18日　丁丑年十月十九日（二）
第十二回 萬殊
1997年11月21日　丁丑年十月廿二日（五）
第十三回 唯物
1997年11月25日　丁丑年十月廿六日（二）
第十四回 生死
1997年11月28日　丁丑年十月廿九日（五）
第十五回 自在
1997年12月2日　丁丑年十一月初三日（二）
第十六回 惻隱
1997年12月5日　丁丑年十一月初六日（五）
第十七回 慈悲
1997年12月9日　丁丑年十一月初十日（二）
第十八回 喜捨
1997年12月12日　丁丑年十一月十三日（五）
第十九回 因果定律
1997年12月16日　丁丑年十一月十七日（二）
第二十回 思想觀念
1997年12月19日　丁丑年十一月二十日（五）
第廿一回 教化修持
1997年12月23日　丁丑年十一月廿四日（二）
第廿二回 執著固化
1997年12月26日　丁丑年十一月廿七日（五）
第廿三回 五行生剋
1997年12月30日　丁丑年十二月初一日（二）
第廿四回 命理人生
1998年1月2日　丁丑年十二月初四日（二）
第廿五回 矛盾對立
1998年1月6日　丁丑年十二月初八日（二）
第廿六回 時空生滅
1998年1月9日　丁丑年十二月十一日（五）
第廿七回 輪迴交替
1889年1月13日　丁丑年十二月十五日（二）
第廿八回 生老病死
1998年1月16日　丁丑年十二月十八日（五）
第廿九回 苦空無常
1998年1月20日　丁丑年十二月廿二日（二）
第三十回 悲歡離合
1998年1月23日　丁丑年十二月廿五日（五）
第卅一回 喜怒哀樂
1998年2月3日　戊寅年正月初七日（二）
第卅二回 得失心態
1998年2月6日　戊寅年正月初十日（五）
第卅三回 陰陽相待
1998年2月10日　戊寅年正月十四日（二）
第卅四回 天地造化
1998年2月13日　戊寅年正月十七日（五）
第卅五回 宇宙演化
1998年2月17日　戊寅年正月廿一日（二）
第卅六回 回歸收圓
1998年2月20日　戊寅年正月廿四日（五）
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
1998年2月24日　戊寅年正月廿八日（二）
跋二
崇心堂を設立し一連の大道天書を著作することは、天徳と天恩を顕し、天地の無私・無為の徳沢を闡揚して、人類衆生に「天地・宇宙・無極・虚空の恩沢と慈悲の意味」を悟らせることです。そしてまさに上蒼が天地衆生に徳沢を垂れ、人間が天の加護と地の保護を受け、万物衆生を顧みてくださることを明らかにするものです。
跋三
崇心が杏壇の規範を立て、真理を暢達させて衆生を成就することは、人間世界において真に上蒼のために原霊を広く渡して帰還させることであり、相当な大願力と慈悲心、そして大智慧・大吉祥・大福德を備えなければなりません。また、上蒼より恩賜されるのは、「崇心」の諸神人および理筆の心力が奉納して成就されたものなのです。
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
『大道真詮』は、大道が自然にして然るべく、天地万物の衆生を孕育し、真詮を揚げるには、必ず凡塵において実際に人間世界に具現化させてこそ成就されるものであり、さもなければ凡塵において修整改造を行わず、歿度に成就を待とうとするのは、修持の大因縁に欠ける恐れがあり、これこそが『大道真詮』著作の本来の意図なのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
1998年2月27日　戊寅年二月初一日（五）
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
人類衆生の持つ「因果の定律」は「思想観念」に対して「教化修持」の効能を持っていますが、「五行生克」や「命理の人生」に「執着固化」すれば「矛盾対立」を生じさせることになります。これは「時空生滅」の中で、毎日「輪廻交替」と「生老病死」の境地を繰り返しているのです。
《大道真詮》 推薦序
天地の間で帰帰するすべての仙仏は、それぞれ異なる殊勝な教化の場所と、職責による点化精進の場所を持っています。人間世界で一指を受けるだけで無極仙郷に帰れるわけではないのです。このような不平等な修持観念は、必ず自分自身に正しくない観念をもたらし、自分が罪を造り業を造っていることにも気づかせなくするのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
丁丑八月十五日、懿敕道場が天旨を接します
◆ 前置・序 ◆
序一
無極の大道は天書を著し、懿敕道場は実に特殊です。
序二
衆生は天地の精華によって育まれ、凡間に落ちてからは、どのようにして無極の仙郷へ帰返すればよいのか分かりません。自己の解脱と自己の成就を図らなければなりません。さもなければ、ただ象天の世界に留まるだけであり、自己の本性への帰還を果たすことはできません。無極の仙郷へ帰還するには、自己の本性、すなわち仏性（自性）を顕現させなければならないのです。
序三
道理が顕れて再び現れ、衆生は幸いを得て楽しみは限りないのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
南海を開拓し大道が伸びゆきます。古仏が降臨され真詮が成ります。
第二回 初基（無極之二）
元来、無極は太極に降り、初めて初地に至り、真機に返ります。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
霊山の勝景にて凡人は修行し、
宝徳の天品は自らの求めに任せます。
第四回 太極
道徳は私なく本仁を振るい、濟公は世間の人々をご覧になります。
第五回 兩儀
南瀛の道場にて天書を著し、海上を馳騁することは実に特殊です。
第六回 四象
太上道祖は蓬萊に降り立ち、道德天尊は因を述べられます。
第七回 八方
心燈を灯して善徳を培い、燈心に影はなく本心は澄み渡ります。
第八回 含因
南無本師は佛法をお傳えになり、釋迦牟尼は天下を渡られます。
第九回 人生
大成は天界より儒生にお傳えになり、至聖は理を揚げて衆生に布かれます。
第十回 萬法
下元節が人世間を啓き開き、水官の至誠はその徳が限りありません。
第十一回 唯心
亜邑の渡化は全徳に頼り、聖賢は私心なくご自身を潤されます。
第十二回 萬殊
南海古仏が天書をしたため、大道の真詮が誠舒を開きます。
第十三回 唯物
中土に生まれることは難しく、今まさにその御縁に逢い臨みます。元始本初こそが、真心なのです。
第十四回 生死
中華の古き文化を復興し、聖賢は私心なく自ら華やかな任を全ういたします。
第十五回 自在
虚空無極が降臨し、上人は登高して弘化を開かれます。
第十六回 惻隱
宗教の教化は人心を啟きます。聖賢は因なく自性を顯します。
第十七回 慈悲
上元賜福天官帝は、大道の真詮をもって眾の迷いを醒まされます。
第十八回 喜捨
言葉を述べて大道を天下に頒布し、聖理を伝揚して迷瑕を済度します。
第十九回 因果定律
南海に大道が広がり伸びゆきます、古仏が弘揚して道場が成ります。
第二十回 思想觀念
東天において大道の教えが伝えられ、斗量の功徳は自分自身で専ら積み重ねるものです。
第廿一回 教化修持
西方の天界にて真理を闡め、 衆生が迷いから醒めることを切に願っています。
第廿二回 執著固化
南贍部洲において天書をしたため、斗寛は宇宙において自らの主となられます。
第廿三回 五行生剋
北天が開き、道の基を振るい起こします。斗で量るほどの功德は、己に頼るものです。
第廿四回 命理人生
中土に生まれ逢う巧みな縁に恵まれ、斗は自我を見つめ、悟りを成す導きとします。
第廿五回 矛盾對立
南海に開創し衆生を渡して還り、
古佛が降臨されて真詮を転じます。
第廿六回 時空生滅
金色の輝きが広がり、無極より万物が生じます。
徳の恵みが弘められ、人世が成就するのです。
第廿七回 輪迴交替
木は火を生み衆生を庇い、徳光は輝いて良き前途を照らします。
第廿八回 生老病死
水は舟を成しまた舟を覆し、徳は天地に満ちて自由に遨游します。
第廿九回 苦空無常
光は衆生を照らし庇護し、その徳は天地に満ちて自在に巡ります。
第三十回 悲歡離合
大地は衆生の命を育み、その徳は広大な地に遍く行き渡り、自由に歩むことができます。
第卅一回 喜怒哀樂
南に大道を開き衆生を救い渡し、海天一色となって自性が増していきます。
第卅二回 得失心態
太初原始は本来の自己であり、陽光は普く大地を照らし、遍く行き渡っています。
第卅三回 陰陽相待
太極は無始の本初地です。陰が盛んで陽が衰えるのが、今の理諦です。
第卅四回 天地造化
無極大道の副院尊は、太乙真人の原霊敦です。
第卅五回 宇宙演化
雷鳴が響き渡り天地は明るくなり、広く道場を化して人の心を正します。
第卅六回 回歸收圓
南海古仏が道場に降臨し、『大道真詮』が四海に広まるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
北極から降臨して著作の跋を記し、玄天で理を明らかにして自心に納めるのです。
跋二
『大道真詮』で闡述されているのは、無極から太極が降り、両儀・四相が生まれ、さらに八方へと演繹され、人間世界の様々な因縁和合が成就されることです。これによって人間は出世を入世の基礎とすることができ、一歩一歩着実に歩みを進めて、人間世界において為すところがあり、成就を収めることができるのであり、まさにそのような行いなのです。
跋三
『大道真詮』が引述しているのは、無極から太極が降り、人生の過程を演繹し、さらに人間世界において真に智慧を行持することによる選択を確立することです。また、人生の過程において、現世を通じて改造を行わずに、一指によって極楽世界・無極仙郷・虚空天界に帰還しようとするのは、まさに謬論です。
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
一、『大道真詮』の著作が完成し、三界の高真仙仏の心血の結晶を融合させたことで、現世の衆生が修持の依拠とすべきものとなり、さらに一連のシリーズとして通覧することも、分けて読むこともでき、参考の指標として自分を向上させることができるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
虚空に法を伝えて大千を揚げ、上人が台に昇りて諸賢と会い給います。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
人生は必ず「苦空無常」の苦しみの中にあり、実は人間世界における「悲歡離合」の過程は、毎日「喜怒哀楽」と「得失の心境」の中にあり、また「陰陽相待」の過程において、「天地造化」は人類衆生を助け、「宇宙の演化」は「回帰収円」を実現するものなのです。
《大道真詮》 推薦序
行うべきか行うべきでないかを分別判断し、選択と発令を行い、行動の主導者となった後、はじめて行動力が生まれます。また、人類の思想観念があってこそ、人間世界で変化と調整が可能になるのであり、思想観念がなければ、「意識、末那識、阿頼耶識」を連貫させることはできないのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
迷黎を渡化し聖道を闡明し、衆生を帰引して真理に馳せます
◆ 前置・序 ◆
序一
崇心堂の中に真理を説き、大道の真詮は迷途を渡します。
序二
そうして初めて自己の成就を果たすことができるのです。さもなければ、ただ象界に留まるだけでは、気界へ帰還することは難しく、気界に留まって秉性を用いたところで、自己自身に適合して帰還できるでしょうか。必ず気界から理界へと転換し、「無無明」の境地に達し、さらに無思、無念、無想、無観、無我の境地を成就させなければならないのです。
序三
天地の徳沢は綿々と続き、蒼生のために善き賢者を導くことができるのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
著書して理を明らかにし教化を広めます。初因と原意は、無極の御恩によるものです。
第二回 初基（無極之二）
天道は私情なく初基に帰り、尊は懿敕を降して道場を起こします。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
天道の教化は千古に伝わり、
尊が降臨して一貫し一本に成就します。
第四回 太極
古徳は威光を輝かせ大千世界を照らし、仏は無極太極の真実を説かれます。
第五回 兩儀
遥か古に陰陽両儀が分かれ、仏が降臨して大道の真詮を述べられます。
第六回 四象
大道の真詮は四海に揚がり、著作は四象を本来に帰します。
第七回 八方
古の教えを伝え八方に広め、凡塵を仏化して自我に帰ります。
第八回 含因
佛法は揚傳されて大千に遍く行き渡り、佛は降り來てお著しになり、含因の瑕をお示しになります。
第九回 人生
先師は人生において闡述され、降り來て心を崇め、諸生を勉められます。
第十回 萬法
大帝が著作され万法が起こり、大道の真詮が衆縁を広く包みます。
第十一回 唯心
孟聖が崇心堂に降りられ、夫子が著作されて唯心の真理を極められます。
第十二回 萬殊
筆を執り著作して教義を説き明かし、凡塵に広く教えを施して万殊を揚げていきます。
第十三回 唯物
地官が降臨され、唯物の世界に身を現します。大帝の徳沢が、衆生に広く注がれます。
第十四回 生死
顔回夫子は真詮を著し、大道を弘揚して生死の理を説かれます。
第十五回 自在
大道の真詮は迷いの航路を導き、降臨して著作し真に自在でいらっしゃいます。
第十六回 惻隱
曾參夫子は天書を著されます。惻隱の德性は根本の行いです。
第十七回 慈悲
自性に回歸して無極に返ります。降臨されて慈悲の諦を著作されます。
第十八回 喜捨
子思夫子は聖堂に降り立ち、喜捨を著して今生の乗り物とします。
第十九回 因果定律
大道の真詮が教化を啓きまして、因果の定律が凡塵を転じます。
第二十回 思想觀念
星君が懿敕堂に降臨され、思想や觀念を根本から転換させます。
第廿一回 教化修持
星君が降臨して大道を揚げてくださいますが、 教化と修持は自分自身にかかっています。
第廿二回 執著固化
星光の執着は固く定まり、君は道場に降り立ち、大衆を広く救い出されます。
第廿三回 五行生剋
星は五行の生剋の理を顕し、君は道場に降りて善の気を揚げていきます。
第廿四回 命理人生
星は衆生が本源に帰れることを願い、君は命理に着目して人生の運を歩んでいきます。
第廿五回 矛盾對立
大道が回転し人心が善となり、
世間の矛盾と対立を観じます。
第廿六回 時空生滅
星君が降臨され、真詮の因縁を著されます。
時空の生滅の真理を説き明かされるのです。
第廿七回 輪迴交替
星君は真詮を記して尊く、輪廻の交替は本来真実なのです。
第廿八回 生老病死
星君は降臨して天書を記し、生老病死が人生の憂いなのです。
第廿九回 苦空無常
星君が懿敕堂にお降りになり、苦空無常こそが本因なのです。
第三十回 悲歡離合
星君は真詮の書を著し、悲歡離合こそが人生の本性なのです。
第卅一回 喜怒哀樂
古より天の徳を説いて真性を明らかにし、仏が世間を化導して聖神を証されます。
第卅二回 得失心態
星君が降臨して聖意を明らかにし、得失の心境は正反の対比となっています。
第卅三回 陰陽相待
星君が降りて天書を記して、娘娘が陰陽を相待って続けます。
第卅四回 天地造化
大道の真詮は四海に揚がり、天地の造化は人生を潤します。
第卅五回 宇宙演化
天尊が凡世に降りて天書を著し、宇宙の演化は本来の因を現します。
第卅六回 回歸收圓
帰還と収円は天によって定められ、広く衆生を救って帰還の航路へと導くのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
上帝が御台に昇り諸生と会い給い、大道の真詮が御座船の帆を上げて出発されます。
跋二
さもなければ！人道の生存という関門を飛び越えて、人間世界の因果の改造と業障の完済を成し遂げようとしても、必ず成就することは困難です！凡塵の衆生は、まさに肉体を持ち、血と涙を流す人類衆生であり、有情衆生の生存という関門を絶対に飛び越えることはできません！どうして人間世界において真に偉大な為すところを得ることができるでしょうか。
跋三
凡塵においては、必ず凡人の躯体をもって、天地の至理を心性に確立し、さらにこれによって人類の生存における累世の含因を転換してこそ、人間世界の様々な因縁と為すところを成就させることができます。このようにすれば、歿度を待って功果の成就を論ずる必要はなく、当下において人間世界に自性（仏性）を顕すことができるのです。
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
二、大道シリーズの天書は、一冊一冊に特殊な含意と為すところがあり、この種の因縁条件は『大道心灯』・『大道天徳』・『大道回帰』・『大道真詮』のいずれにおいても、篇ごとに修持の参考指針として利用できるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
大道の真詮の著作が完成し、皇母が崇心の縁を賞賜されます。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
人類衆生が凡塵世界で行う所作は、すべて「自ら因を造り」「自ら果を受ける」ことの現れから離れることはできません。これはまさに前世の因縁が果報を成就させたものであり、凡塵のすべての事柄、すべての所作には前因があって、はじめて未来の果報が形成され、未来の「福禍」の分別が現れることになるのです。
《大道真詮》 推薦序
人類衆生が万物の霊長であるということの意味は、「良善と美好」の方向へ向かって行持するべきであり、それが正しいのです。それは自分自身と万物衆生に福をもたらすことになり、また未来の善し悪しは人間世界のすべてに影響を与えます。修持しているか否かに関わらず、すべてそうなのです。まさに非常に良善な起心動念を持つことが必要なのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
恭しく旨意を接します
◆ 前置・序 ◆
序 一
序二
もし自由自在に、如来の如くまた如去の如く振る舞うには、必ず自己の成就を果たさなければ、帰還は望めません。さもなければ、象界の輪廻に身を任せるだけで、清らかになれない時、気界においても「浄霊」ができない時に、どのようにして理界へ帰還し、向上超越できるでしょうか。これこそ、今生で必ず理解すべき重要な務めです。自らを今すぐにでも向上させていかなければなりません。
序三
老衲の心は喜びに満ち、あなたの善き功徳が深きことを祝います。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
大道とは、万物が頼る不変の真理であり、天の加護と地の守りを受けることができます。それは衆生が善徳を具えていることが必要であり、まさにそれを担うことができるのです。もし数多くの衆生が修行の道程に入ることができなければ、現世あるいは累世において輪廻するだけにとどまり、修行と善徳の因縁を具足できるかどうかは、また必ずしも定まったものではありません。
第二回 初基（無極之二）
大道とは、天地が共に遵循する法則であり、自然に万物蒼生を育むものです。大道は私心がなく無為であるからこそ、真に万物衆生のために福祉を造就することができるのです。これこそが大道の共に遵循するところであり、また万物が具備する基本でもあります。これにより必ず万代にわたって立つことができ、悖ることはありません。そして、その初基において、いかにして行使すべきかを了知しなければならないのです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
人が世に生れて、貫一によって初始の根基に入ることができるのは、まず貫一によって立てられ、それから貫一によって起動することができるからです。しかし一本から万殊に散じ、万殊が再び一本に帰するには、人類の生存の始まりから起こさなければならず、人類が因本によってすべての生存を展開し立てるためには、必ず先天の本源に善性の根本を具足していることにあるのです。
第四回 太極
人類衆生が無極天界から凡塵に降ります時、根本全く知りませんし、気づくこともありません。更にどうしてこのようになるのかも分かりません。その因縁は皆了知し難いものです。無極先天の世界は皆祥和で争いがなく、気質は茵茵として未だ開かず未だ動かず、それ故有情衆生（仏子）に対しては一切の私欲を持たず、赤子の心を保持していました。
第五回 兩儀
人が世に生を受ければ、必ず陰陽の分けがあり、それ故に無極が太極を生み、太極が両儀を生むと、相互の對待が生じ、乾坤があり、まさに両儀となります。先天においては未だ初めて動くことがなかったため、未だ発動する前には、本来陰陽の分けはないのです。また先天の無極においては、未だ凡聖の分けもなく、ただ如如茵茵とした本質のみでした。
第六回 四象
無極が太極を生じ、太極が両儀を生じ、両儀が四象を生じます。傳承の中に特殊な使命を持つことができ、「先天八卦と後天八卦」を問わず、すべて太極より衍化して両儀が四象を生じさせるのであり、これは一切の源動後の根始であり、四象の後においては、すなわち万殊の分差が生じるのです。
第七回 八方
無極は太極を兆して両儀を生じ、さらに四象に分かれ、進んで八方へと演繹されます。人類は凡塵に生きており、必ず凡塵の世務を基準点として、初めて自らの因縁を開創することができます。また、両儀の後に四象を兆し、さらに八方によって現在の世界を成就させます。人類衆生の心は八方に入った後、すなわち一本が万殊に散らばることになるのです。
第八回 含因
衆生が人間世界に落ちるのは、もともと先天の本霊因質を受けているからであり、降凡した後はまた凡塵の気稟によって制限されるため、人類の生活が展開されるのです。先天においては如如純真な本来の姿ですが、凡塵において時間と空間の影響を受けるため、すべての行為は前因（前世の因）に左右されることになります。
第九回 人生
人類が地球空間に生存するのは、天佑地護を受けて万物衆生を長養するためであり、人間世界においては必ずこの身躯を備えていなければ、独自個体の行為動作を行うことはできません。また独自個体が大衆に融合するためにも、この生のすべての行動において、必ず人類の躯体を備えていなければ、活動することはできないのです。
第十回 萬法
衆生は凡塵において、必ず自心を基礎として、ようやく因縁和合の始まりを展開することができます。したがって「心所」において現れるのです。まさに一本が万殊に散ずることにより、また万殊が万法によって人類衆生の善悪の因縁を成就するのであり、これこそ衆生が必ず備えておくべき本質であり、まさに「心所」によって成就されるものなのです。
第十一回 唯心
万法が現在の世上に立つとき、すべて現在の世上における所作所為によって、自我の行持の方向に影響を与えます。また現象界においては必ず「我」の存在がなければ、「自我成長」の着重点が生じないため、現在の衆生に生活条件の中で、まさに自我成長・自我改造が必要とされるのです。
第十二回 萬殊
衆生は凡塵に落ちて後、直ちに人間世界における活動を開始します。もともと無極より太極に降り、太極が両儀を生じ、両儀が四象に化し、四象が八方を兆した後に、すなわち一本（無極）から万殊へと散じていきます。万殊こそが、人類と万物の生息の原動力を展開するものであり、成長と向上を促すことができるのです。
第十三回 唯物
有情衆生が凡塵に生存すれば、人世间のあらゆる事務を展開していくことになります。また、人類衆生は人世间での活動があってこそ、真に自分のために天地の理に合致することができるのです。これこそが本初の作為であり、すべては自らの行いによって決定されるものです。さらに、人世间においては、基本的な態度と作法が必ず必要となります。
第十四回 生死
衆生は「万法唯心」の後に、すなわち万殊唯物を成就すると、凡塵においては必ず陰晴円缺・生住異滅があり、それによって生死の交替が生じます。もし人世間において一切の万物が生住異滅により、万物衆生の生死交替を成就するなら、人類にとっては如実な生存過程があることになります。
第十五回 自在
人が世に生まれ、生死を経て涅槃大楽の境界に達しようとするなら、必ず実質的な功徳を具えて展開し、および自性を顕彰してこそ成就できるのです。そうでなければ、人世間におけるすべてが、ただ茫々と鈍々とした生活に過ぎないなら、どのようにして生死の関頭において、涅槃大楽の境界に達することができるでしょうか。
第十六回 惻隱
人類が世に生存し、天・地と並んで三才を成すことができるのは、人類の中にあって大公無私を実践してこそ、人類としてあるべき姿を示すことができるからです。したがって、「惻隠」の心を備えて実践する必要があり、さらに惻隠の心をもって天地の徳澤を行い続けることが、凡塵での生存において持つべき基本的な態度なのです。
第十七回 慈悲
人がこの世に生を受けて、必ず惻隠の心を備えてこそ、慈悲の行いを示すことができるのです。そして、人類の慈悲があるからこそ、自分が愛する物品を施し捨てて、他の衆生を成就させることができるのです。すなわち、自分には福の余りがあり、福のない人に徳を施すということであり、また慈と悲は、まさに現在の修行者と善徳を持つ衆生が皆備えている本質だからです。
第十八回 喜捨
世俗の塵世において慈悲の心を持ち、喜んで施しを行う者は、必ずや人生におけるこの世での営みは、ただ過ぎゆく雲や煙に過ぎないと悟るはずです。この世で十分な福徳を備えている者こそ、他人に施しを与えることができるのです。そうでなければ、自分自身に福徳が備わっていないのに、どうして自分の福徳を捨てて他人を救うことができるでしょうか。自分の余った福徳を他人に分け与えて恩恵を受けさせてこそ、それが正しい道なのです。
第十九回 因果定律
人類衆生が凡塵において行う所作所為は、すべて「自造因」を離れることなく「自来果」として顕現されるものであり、この現象はまさに前世の因縁が果報を成就したものです。また、凡塵におけるすべての事柄や、一つ一つの所作所為には前因があり、それによって未来の果報が形成され、福と禍の区別が現れるのです。
第二十回 思想觀念
人生在世における過去のすべての因果は、凡塵においてすべて因果の法則に左右されます。そして真の問題点は、自分の思想観念が最も重要であることにあります。修行している衆生も修行していない衆生も皆同じであり、現世において物事を行えるのは、まさに人としての根本であり資糧であり、自分が前に因を造ったからこそ後に果を得られるのです。
第廿一回 教化修持
人類衆生は因果定律の主導を受け、そして自分自身の思想や観念によって、どのように行い、どのように為すべきかを形成します。それは皆、自我の行使です。また、「事在人為」の作用を経由し、もし宗教による教化を受ければ、必ず修持をよりどころとし、修持の基本条件において、人為的な要因を修持の根拠とするのです。
第廿二回 執著固化
執着とは、まさに衆生が必ず持つ原動力です。「執」の過程において、誰もそれから離れることはできません。商売、家庭、修行、人として生きることもすべてそうです。もし「執」がなければ「著」もありません。「執持力」があるからこそ「定点力に著く」ことができ、「執持」があって「一つの事柄に著く」のです。
第廿三回 五行生剋
無極から太極、両儀、四相、八卦へと移り変わった後、五行の相生相剋が生じることになります。それによって！万物には必ず始まりがあり、そして起伏変化のプロセスが形成されることになります。しかし、「始まりと伏落」の中において、すべて「起伏」には必ず交替があり、それが未来の福と禍の分別となっていくのです。
第廿四回 命理人生
五行八卦が演化し、衆生の命運を風水地理において変化させることについて、衆生の宿命と先天の命格の含因は、皆自己によって改造され、自己によって行使されるものであり、決して上蒼がどの衆生に対しても、厚此薄彼するような振る舞いをすることはありません。まさに衆生が凡塵において為すところによって分別されるのです。
第廿五回 矛盾對立
人類衆生の凡塵における一切の行いには、すべて相互に対待する関係があります。したがって、陰があれば必ず陽があり、対があれば必ず誤りがあり、是があれば必ず非があり、円があれば必ず欠けがあり、正があれば必ず邪があります。また、凡塵における一切は相互に対立しており、それゆえに常に多くの矛盾した心态と対立する角度が生じるのです。
第廿六回 時空生滅
人類衆生が俗世に生きることは、まさに時間と空間が相互に組み合わさることで、人間世界のすべての因縁和合を促すことができるのです。同時に、時空の生滅の過程において、天・地・人のいずれもその制約を受けており、時間と空間が加わって初めて人類の所作所為が可能となるのです。これがまさに縁起の働きです。
第廿七回 輪迴交替
人類衆生は凡塵において生存するにあたり、それぞれの輪廻交替によって、一つ一つの事柄に向き合うことになります。さらには日々そのように、月月そのように、年年そのように繰り返します。また、それぞれの輪廻と生滅の過程において、常に人生の交替点を左右することとなり、それによって有情衆生は束縛から解脱することが非常に難しくなっているのです。
第廿八回 生老病死
人生において世に生まれ、生存する過程において、必ず生、老、病、死の交替を備え、初めて生生不息の継接があります。また「生存」の中には必ず「老死」が訪れ、「老」の過程において、「病痛」と「苦難」による磨きを受け、これはまさに人類が生存するために必ず承受しなければならない条件です。
第廿九回 苦空無常
有情衆生が現世に生存するにあたっては、必ず「生老病死」の過程を経なければなりません。さらに「苦空無常」の興滅が加わることで、初めて凡塵における様々な事象が形成されるのです。これらは苦しみに折磨されること、すなわち心の底から感じ、自ら体会し、自ら経験する過程そのものなのです。
第三十回 悲歡離合
人生この世に生を受ければ喜怒哀楽があり、必ず悲歓離合が互いに連続することで、初めて人類の心理に抑圧された感情のしこりや精神状態を和らげることができます。特に現代社会において直面する精神的なプレッシャーは切実なものがありますので、いかにして生活の中でのプレッシャーを解消するかが、まさに現代の衆生が必ず理解し、確実に実行すべき事柄なのです。
第卅一回 喜怒哀樂
戊寅の年より大いなる計画を展開し、虚空の仙仏が来たりてお助けになります。
第卅二回 得失心態
眾生が現世において行うすべての事柄には、得れば必ず失い、失えば必ず得るという理りがあり、さらに得と失の間には正反比が形成されます。また、それぞれの段階において費やしたものや得たものも、すべて得と失の間にあり、これは不変の真理でございます。どのような事を行うにあたっても、得と失の間にあるからこそ、正と反が相互に対待することができるのです。
第卅三回 陰陽相待
人生において、この世に生を受ける者にはすべて相互対待があります。とりわけ凡塵においては、さらにその過程が顕著です。陰と陽の相互対待においても、凡塵に生存する以上、陰があれば必ず陽があり、陽があれば必ず陰があります。また宇宙の銀河星系においても、日月の相互対待があり、同じように作用しているのです。
第卅四回 天地造化
人世間において陰陽が相対し、各環節において陰陽乾坤の相互対立があります。陰陽と天地の循環においては、衆生が自らの本質を明析に具えることが必要であり、それによって凡塵において修持改造を通じ、三界の空間から跳脱する機会を得ることができます。それゆえ凡塵はまさに「生命改造界」でもあります。
第卅五回 宇宙演化
天地の日月星辰の定位は、すべて宇宙の大道の行使によるものであり、無私無為で自然に運行し、軌道に従って偏ることなく運行しております。天地間の有情の衆生はすべて本来の本性を具えておりますが、宇宙天界においては天界の含蔵と環境に適応し難く、無極天界から気界に降りるのです。
第卅六回 回歸收圓
『大道心燈』、『大道天徳』、『大道回歸』はすでに出版され、『大道真詮』も漸く完成しつつあります。凡塵において真理をもって衆生の収円と帰還を成就するには、必ず自己の仏性を真に引き出して顕現させなければ帰還することはできず、ただ仙仏の導きに頼るだけでは、先天無極の本来の場所へ帰還することはできないのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋 一
跋二
すなわち入世した後に、確かな基盤を確立してこそ、一歩一歩自分自身を成就させ、衆生を造就することができるのです。また『大道真詮』は、衆生に人間世界の因縁の組み合わせを悟らせ、さらに人間世界において自分自身を成就させること、すなわち仏性を顕すことであり、凡塵においてすでに自性仏体となり、さらには如来の如く又去る如き境地に至ってこそ、正しい真理となるのです。
跋三
『大道心灯』・『大道天徳』・『大道回帰』・『大道真詮』は、まさに崇心道場における今後の教化の大資糧であり、さらに儒・道・釈・天道の、修行の有無にかかわらず全ての衆生に、人間世界の様々な横逆や困難を転換することを悟らせることこそが、上蒼が「大道シリーズ」の天書を著作された本来の意図なのです。
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
三、各回の降筆においては、いずれも真理を闡揚し弘展させることであり、まさに凡塵において人類衆生の所作所為を通じて、人間世界の含因の過程を変化させることこそが著作の目的であり、同時に全ての無明の障害を化除するものなのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
今夜、無極虚空より懿旨が頒降され堂に到りました。本堂の福德正神および濟公活佛に三十里の外で御駕を迎えるよう命じ、本堂の天上聖母および観音菩薩に二十里の外で御駕を迎えるよう命じます。その他の神人および無極大道院の霊修院士等は、列をなして御駕を待ち、失儀があってはなりません。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
前因があるからこそ、自分の「思想観念」が生まれ、所作が一つの事柄を成就させる善し悪しは、「前因と後果」の因縁果報によって形成されるのです。したがって、人類衆生が凡塵で行うすべての事柄は、個人の思想観念に左右され、一つの体系として組み上げられるのです。
《大道真詮》 推薦序
一般的に、驕慢、我慢、虚栄、高慢、誇示の心によって、修持の平等の真義や自性の顕現が遮られてしまい、どうして修持の過程において平等の観念を突破し、修持の無障碍の境地に達することができるでしょうか。悪因が善報を得るのは、修持しない衆生が、すべて考や磨きを受けないと考える観念によるものです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
今夜喜んで無極の懿旨が降堂されるのを接します。諸神仏、諸賢生および無極大道院の衆霊修士は列を整えて駕を待ち、失儀があってはなりません。本堂の福德正神と済公活仏を三十里外に派遣して駕を迎えさせ、本堂の天上聖母と観世音菩薩を二十里外に派遣して駕を迎えさせ、失儀があってはなりません。
◆ 前置・序 ◆
序一
大道とはまさに自然のままで運行しているものであり、これが天地の枢機であり、人類・衆生・万物が依り従って帰するところです。大道を行じ保持できる者は、無私無為を基礎として、ようやく大道を説き広め、また無量の衆生の帰還を成就させることができます。必ず現在の自己の努力によって成就してこそ、良き受益があり成長できるのです。
序二
『大道真詮』に記された真理は、天地の徳沢を顕現し、宇宙万物が一体となって、個人の自性仏体となることで、初めてこの一生を成就するために必要な準備が整い、将来の成長の拠り所となるのです。必ず人類自身が努力してこそ、有情衆生に真に利益をもたらすことができるのです。
序三
もし真心をもって道を広めることができれば、必ず成就して天仙の楽しみを得ることができるのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
もし真に修行し実践して、自分自身を改造することができなければ、現世において何の成長や向上も得ることはできません。人類衆生がただ修行のために修行し、功を行じ徳を立てるために行功立徳するだけでは、次の世で再び修行するための因となるだけなのです。もし修行のためという枠を打ち破り、行功立徳という行為をもって増長することができるならば。
第二回 初基（無極之二）
いかにして個人の立足点とすべきか、それこそが初基が具備する条件です。人類は凡塵に生きておりますので、象天（界）と言い、さらに宇宙、天地、日月、星辰の定位による護蔭を受けております。天地は万物衆生を護佑することができ、さらには善と不善による影響を受けることなく、すべてを一体として護佑しております。これこそが天地の大公無私なのです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
因本の中には先天の本源が具足されていますが、また前業の影響を受けるため、この一生の中で、必ず「一以貫之」がなければ先天の本性に回復することができません。人類は無極から来て、無極から太極に降り、両儀を生じ、さらに四象を生じ、五徳を兆し、八方に入った後、ようやく種種の因縁が始まるのです。
第四回 太極
その境界は比類なき祥和であり、このように自性の仙境は、実は未だ気界・象界に入っていない状態です。一切の仏子（亦是衆生）に対しても、汝我の分別も男女の別もありません。実はこのような境地は、人類衆生が理解できる境界ではなく、本質は非常に清澈です。
第五回 兩儀
すなわち原始の真霊の本来であり、また自己本性の初始でもあります。気界に落ちたために陰陽が分かれ、陰陽の相互對待に制約されることで、一切の万物が初めて展開されました。そうではあっても、先天においては汝我を分けず、彼此を分けず、陰陽も分けず、對待もなく、両儀もなく、男女もありません。
第六回 四象
人類が世に生存するにあたり、両儀があるために對待が生じ、また両儀の中で汝我を分け、彼此を分けます。そうではあるものの、先天においては剛に初めて發動したため、一切はまだ清純の本来を保持しており、少しの沾汚や蒙垢もありません。しかしながら、四象の起始においては、一切まだ外境の左右に遭逢していません。
第七回 八方
これによって人生の因縁の創進力を展開します。また、凡塵に生存しているため、必ず四象を経て初めて八方が存在します。八方について言えば、東・西・南・北・東南・東北・西南・西北であり、八方のそれぞれには殊勝な定位と功用の場所があります。これも四象の後のことであり、まだそれぞれの隅の接合点が欠けている状態です。
第八回 含因
ちょうど降凡したばかりの頃は、前因も含因もなく、必ず先天の本因によってこの世の行為が作り出されます。そして自分の本因を辿り、前因によって今世の所作所為を形成できるかどうか、また一切の世務を展開していくことになります。また、ちょうど凡塵の世界に落ちたばかりであるため、すべてがとても迷い蒙昧な状態です。
第九回 人生
現在の現世においてこの身躯を備えられるのは、必ず大きな因縁を備えて初めて得られるものです。もしただ独自個体であり、外に向かって結合し攀縁しないのであれば、ただの独り者でしかありません。もし「自爾独化」によって自分を成就できるならば、それも自了漢であり、すなわち「縁覚」なのです。
第十回 萬法
人間は心念頭を通じて転換し、ようやく成就と行動の組み合わせが生まれます。また人は「心所」によって心念の発動を引き起こすことで、万縁を成就することができます。そして万縁はまた万法であり、まさに唯心によって促成されるものです。衆生は皆この種の条件に左右され、心の向かう方向によって、成就と失敗の分別が生じるのです。
第十一回 唯心
そうすれば、個人として自分の因縁を成就し、当今の衆生に一つの拠るべき規範を与えることができ、また自分自身を天地の衆生と合一させることで、初めて真に自己と国家社会の行動の結合を達成することができるのです。そうして初めて自己の心中の働きを展開でき、また外部の因縁の和合から始まることで、初めて自己成長の原動力が生まれるのです。
第十二回 萬殊
現象界においては、必ずこのような条件と活動を備えてこそ、実質的な人類の生存活動が可能となり、人間世界にも拡張の空間が生まれます。現象界において、必ず人類の思考と活動を通じてこそ、人間が万物と共に相生相息することが可能となり、人類の生存を支えることで相互の成長が実現するのです。
第十三回 唯物
そうでなければ！もし人世间の生活を飛び脱してしまうと、凡塵というこの環において、必ずあらゆる因縁を展開することができなくなってしまいます。また、凡塵の中でも横厄に遭って阻まれ、すべての過程が自分に適合しにくくなり、人世间に根付かせることができなくなります。それゆえ、阻碍されることは避けられないのです！
第十四回 生死
必ず了知しなければなりません。人類であれ万物であれ、すべて輪廻交替があり、それは「生死大事」によるものであり、さらには象界において、必ず輪廻が相互に循環しています。万物は「生」があってこそ「死」があるからです。もし生があって死なない時がずっと続くなら、遠古の時代から今日に至るまで、とっくに人が溢れかえって大変な事態になっていたでしょう。
第十五回 自在
人生は、三際空間の組み合わせを通じて初めて、過去、現在、そして未来の流程を持つことができます。そのため、三際の組み合わせには、まさに基本的な概念が必要なのです。人類は凡塵において、もし苦難の試練に耐えることができなければ、人世間において輪廻の渦から脱却することができなくなってしまうのです。
第十六回 惻隱
もし人類に惻隠の心がなければ、天地の間は無情なものとなり、天地が万物を芻狗とみなす時、人はまるで草芥のごとき存在となり、天地の間、万物の中のただ一種の動物に過ぎず、尊崇するに値しないものとなります。しかし、人類は天地の造化と同じくして、万物のために福澤を創造することができるのです。
第十七回 慈悲
人は無極から来たものです。そして太極に降りて両儀を生じた後、すなわち現世において展開され、自分が人世間で出会う様々な因縁の組み合わせに向き合ってこそ、未来が良いか悪いかの分かれ道を開拓することができるのです。さらに人世間の様々な因縁によって、自分が人世間において成就し、惻隠の心をもって「慈と悲」の念頭を引き起こすことができるのです。
第十八回 喜捨
世俗の塵世において、もし自分が愛するものを手放せず、自分の所有物であると執着するなら、必ずや心を放下して調整することは難しくなります。もし今世の私のもの、今世の私は十分足りていると抱き続けるなら、天地の法則においては、捨てるからこそ得られるという事実を知らないのです。もし捨てることができなければ、ただ自分が享受するだけにとどまり、他人と喜んで分かち合うことは非常に難しくなります。
第十九回 因果定律
まさに前因があるからこそ、自分自身の思想や観念が生まれ、その所作所為が一つの物事の善し悪しを成就させるのであり、これは前因と後果の因縁果報によって形成されるものです。それゆえ、人類衆生が凡塵で行うすべての事柄は、個人の思想や観念に左右され、一つの体系として組み合わされるのです。
第二十回 思想觀念
もし人類の思想観念がなければ、業報の牽纏という要因を形成することはできません。人世間では、自分が造った因によって、自分で結果と報応を受けるのです。このように「その因とその果は、自ら得て報いを受ける」ものであり、誰も代わりに受けることはできず、業報の牽纏を引き受けることもできません。
第廿一回 教化修持
実は、すべての事柄もまた「事在人為」なのです。上蒼が定めた条綱や宗教の規律を修持の方針とし、宗教の薫陶と教化に入ることで、自分自身を真に宗教の教義に融け込ませ、行なうべき規律と範囲とすることができるのです。そうでなければ、天地の公理において、何を行なうべきで、何を行なってはならないのでしょうか。
第廿二回 執著固化
根本的な問題点は、「執持」の力があるからこそ「著相」の中に導かれて継続できることであり、執持力があって、さらに動作が加わって初めてすべての行いを展開できるということです。もし執持力がなければ、物事を継続的に成長させることは難しく、「執」の中にあって初めて、物事を展開する原動力に置くことができるのです。
第廿三回 五行生剋
「十年風水輪流転、十年河東、十年河西」、また「三年一運、好悪照輪」という明訓があります。これは天地の衆生一人ひとりが、先天においては皆同じであり、皆平等であるということです。また、その平等の中から、一人ひとりが累世を経ていくことで、累積と減少が形成され、福善と悪禍の差別性となっていくのです。
第廿四回 命理人生
五行である金木水火土、および四大である「地水火風」の影響を受けることによって、「運と命」が相互に結合します。命運においては、「命」は先天のものであり、「運」は後天のものであることを必ず理解しなければなりません。人類の思想や観念に行動が加わることで、先天の命格および後天の運勢を変えることができるのです。
第廿五回 矛盾對立
人世間には常に矛盾が存在するため、自分自身に自信が持てなくなったり、物事に対して疑念を抱いたりします。すべての人類がこの世で生きているのは、まさにこのような行いによって矛盾と対立を形成し、また常に相互の待遇に左右され、まさに人類衆生の日常生活や思想・観念に影響を与えているのです。
第廿六回 時空生滅
時間において、あらかじめの約束と場所の選択に基づいて、初めて因縁和合を促す原動力が生まれます。もし時間の約束と場所の選択がなければ、すべての因縁和合の行為を開始することは難しく、天・地・人のいずれもその制約を受けるのです。時空の生起に対しては、まさに約束と場所の選択が重要なのです。
第廿七回 輪迴交替
常に自己制限の中にあって、輪廻循環の絆から抜け出すことができず、たびたび輪廻に左右されてしまいます。有情衆生は皆、凡塵において輪廻交替を受け、また自己の制約によって障害が生じるため、「輪がまた輪、廻がまた廻」という制限から解脱することが難しく、必ず常に輪廻の中にあって、自己の本来の姿を明らかにすることも困難なのです。
第廿八回 生老病死
衆生の躯体に病痛が加えられることは、誰もが必ず通過しなければならない過程です。だからこそ、病痛による磨きと業障の消除があるのです。もし病痛の際に治療法を求めず、ただその敗坏に任せてしまえば、躯体を台無しにし、有用な躯体を一気に滅絶の境地に陥らせてしまうのです。
第廿九回 苦空無常
苦しみが形成されるということは、必ず「心には苦しみ、身には折磨」が伴い、それによって「苦しみと折磨」が相続していくのです。また、空の過程こそが苦しみの転化であり、苦空は必ず自らが感じ取ることができるもので、外部の人間には理解し難く、体会し難いものです。それゆえ、「苦しみ」とは、まさに人類衆生の心境の過程として形成されるものなのです。
第三十回 悲歡離合
悲歓離合の中で、毎日朝から深夜に休むまで、悲歓離合はまさに人類の生存過程の証であり、その写し鏡でもあります。それは一人ひとりの心境の変化に対するものであり、「悲歓離合」の過程が形成されるのは、すべて内心で感じ取ったことによるもので、日々の思い立ちや心の動きによって、自分自身の経験を作り上げていくのです。
第卅一回 喜怒哀樂
崇心道場にて真理を掲揚し、四方を渡化して天の枢機に回帰します。
第卅二回 得失心態
この世に生を受けた者は、まさに陰陽が相互に対待する人世間にあり、陰があれば必ず陽があり、陽があれば必ず陰があります。暗闇があってこそ光明があり、光明があってこそ暗闇との相互交替が成り立つのです。また、人世間は陰陽が相互に交錯し連続するものであり、それぞれの環節と段階において、得と失の正反比が形成されるのです！
第卅三回 陰陽相待
とりわけ天界には、日月が凡塵の大地を照らし、日月星辰の光芒が輝き映えています。太陽星系全体においても同様の過程であり、三界においては未だ「因縁果報」の束縛から脱していないため、陰があれば必ず陽があり、陽があれば必ず陰があるという相互対待が成り立つのです。
第卅四回 天地造化
生命改造を通じなければ、三界の束縛から跳脱することは難しく、成就し難いでしょう。天地造化において、天地人が並んで三才となり、人類が天佑地護を受けていることが分かります。凡塵の生活取向に生存できるのも、天佑地護があればこそです。天佑地護がなければ、衆生が個人の生存方式で成長できるでしょうか。甚だ難しいことです。
第卅五回 宇宙演化
その大部分はさらに気界での生存に適応し難く、象界に降りて人世間の種種の生活を展開します。人が世に生を受けた遠い昔には天界のすべてを知ることができましたが、次第に転転と輪廻を繰り返すうちに迷い、天界の本来の場所へ帰ることを知ることができなくなります。そして凡塵においては、仙仏や開悟した先賢のお力をお借りしてこそ、初めて天界の種種を知ることができるのです。
第卅六回 回歸收圓
凡塵の眾生は皆、外在の顕化に迷い、人世間のすべてを金銭を優先して見るため、眾生の本来の純潔で善良な本性は、またたく間に塵垢が積もり、さらに顕化に迷ってしまいます。つまり、真に回帰の準備をすることが難しくなっており、「大道演化」の準備として、注釈と修正を行わなければなりません。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
人が世に生まれ、真理を用いて世を歩むには、必ず人間世界に確立し、生活に具現化させて、初めて人としての行いや物事の基準を導くことができ、「真理」の応用を顕すことができます。また、人間世界で「大乗菩薩行」の覚有情の境地を実践してこそ、真に人間において「入世」の基礎を築くことができるのです。
跋二
南宮孚佑帝君 跋を下す
跋三
崇心が確かな基盤を確立されたことを恭喜申し上げます。これにより、今後凡塵に沉迷する衆生が、依拠し導かれる資糧を得ることができ、さらに『崇心法航』の开启によって、縁ある衆生を広く渡して帰還させることこそが上蒼の本来の御意です。また、真に修行し実践する者に、向上し超越するための殊勝な因縁を提供するものでもあります。
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
四、もし疏漏があるならば、それは謄真の過ちによるものです。善徳の賢士の皆様は自ら放棄せず、衆生の修持改造を成就させるという角度からご覧いただき、そうすることで自分自身を殊勝な賛嘆の功徳に成就させ、まさに如実性を帯びたものとなるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
無極駕前　九天玄女仙姑
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
もし自分の思想観念がなければ、どうして一つの事柄の始まりや善し悪しが成就できるでしょうか。人類衆生は皆、前因の影響と束縛を受けることになります。しかし、「前因が果報を形成する」前に、人類の行為や動作はすべて未来の果報の善し悪しに影響を与え、変化させることができるのです。これこそが自ら因を造る必要性なのです。
《大道真詮》 推薦序
「人生は善悪ともに報いがあり、ただその来るのが早いか遅いかを争うのみである」というのは、正しい思想観念であり、それによってこそ人間世界で生命の改造者となることができるのです。そして、果が因を成し、因が果を成すという輪廻に陥ることはありません。もし宗教に入ったとしても、前世の良くない含因を変えることができなければ、修持にいったい何の役に立つというのでしょうか。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
無極駕前　許飛瓊仙姑
◆ 前置・序 ◆
序一
天地は徳澤を巡らし、有情万物を保護し成就させ、すべての潤生の必要性を高め、生存の依りどころに良き成長を育みます。大道の演化の過程は、また異なる時空によって万物蒼生を顧み、実は全体の人類衆生と万物蒼生などは、皆すべて「大道が演化する」生存に参加しているに過ぎないのです。
序二
鴻鈞老祖および 玄玄上人 序を下す
序三
このようにして確かに功徳を広く転じ、遠く近くへ真理の篇を伝えるのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
すなわち、個人の心構えを整え、変わらない初衷の境地に立つことが必要であり、これこそが今生において修行に入るために備えるべき条件なのです。もし現世にあって外界の影響を受ければ、個人が為すべきことや行うべき業務を展開することは難しく、人為的な要因や条件に対しても、自分自身によって向上させるべきなのです。
第二回 初基（無極之二）
人が初基においてしっかりと基礎を築いてこそ、偏ることはありません。それゆえに、初めの基こそが万物衆生および人類の本原であり、本来の姿を了知する必要があります。人類衆生が天地間に立つことができ、万物衆生が共存、共栄、共生できるのは、まさに人類が慈悲の本性を具備しなければならないからです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
人類も現世のすべてにおいて、皆外の塵境の影響を受けるため、自分の本性を見極めることは難しく、一本が万殊に散ることに導かれた後、その因本が天地間に拡散すれば、再び一本に帰ることは非常に難しくなります。これは一本によって動かされ、また一以貫之によって、初めてすべての因縁を促成するのであり、まさにその通りなのです。
第四回 太極
無極が動く前には皆和楽で、天真無邪で、共に融け合っていました。全ての円光は無極界に遍満しており、実は人類の本来の姿です。欲望の念が未だ外邪に引き動かされていないため、如如の天真本性を保っており、一切の外縁外境は本心・本性・本体の中に入り込むことができません。
第五回 兩儀
皆茵茵とした本質であり、一切が未だ展開する前、すなわち自性・仏性の発源地です。また太極において両儀に分かれ、對待があるために陰と陽が生じます。そして人類万物は現世において、このような条件を備えてこそ、現今の生存空間を持つことができ、時間と空間が加わることで、現今の生活の必要性がさらに現れるのです。
第六回 四象
すなわち如如の中にあっては、初始において一切まだいかなる気習もないため、清純の因質をもって比較的瑕疵がありません。先頭の源始の本初より、一切の开端の伊始とします。四象の後には東・南・西・北があり、世界の各處に分かれ、また現象界において人類は必ず四方を通過して、ようやく足地の處を得るのです。
第七回 八方
八方の角度を形成して接続し、さらに八方の定位の中で、衆生が現在の人間世界に生存するのに適うようにします。それゆえ、方向の定位があって初めて他へと事起こりが始まり、また八方の後には、すなわち人生の因縁を展開することになります。これ以後すなわち人世間での様々な営みとなり、衆生が現在の時代に生存できるようになるのです。
第八回 含因
そのため本質においては、まだ現世の境遇の影響を受けていないため、他の気稟はありません。しかし人類は降凡した後、世を重ねるごとに蓄積し、含因が存在することになります。ただ先天においては無明の始まりであり、無明に左右され影響を受けます。そして無明とは一切の初因であり、含因の本来の姿なのです。
第九回 人生
衆生は皆大きな資本を持っており、それはまさにこの身躯だけなのです。そしてこの身躯によって天地間で行事し、人間世界で行事することができます。人類の躯体を備えていなければ、真に一切の有縁と無縁の組み合わせを展開することはできず、またすべての生存の過程において、必ず如实な必要性があるのです。
第十回 萬法
両者を比較する中で、一切の作為には必ず「心」の主導がなければ、万縁・万法の拓展とはなりません。万法は人世間において、必ず人が行持する必要があります。そうでなければ仙仏を観ることができても、ただ霊光円体の一团に過ぎず、どのように真の実体があると言えるでしょうか。非常に難しいことです。人世間においては、必ず実質的な肉体を備えていなければならないのです。
第十一回 唯心
人類衆生は万法を通じて世界を成就し、また衆生の所作所為は自己から離れることができないため、つまり自己の「私」を「公」、すなわち大衆において成就させるのです。また万法は唯心によって造られ、万殊は唯物によって導かれるため、必ず万物衆生および自己を成就することができ、それぞれの成長があり、「私」の中から利益を受けることができるのです。
第十二回 萬殊
したがって、一本が万殊に散じた後は、人類による外向きの展開であり、さらに人類の活動には特殊な使命があります。それは万物と衆生に幸福をもたらすことであり、同時に他の動植物を保護することでもあります。もし万物と衆生に幸福をもたらすことができなければ、それは人類の生存だけにとどまらず、人類は食物連鎖と事務連鎖の組み合わせそのものとなってしまいます。
第十三回 唯物
凡塵は「万法唯心」によって現れるものであり、心の浄化にあってこそ、宗教の修行者が持つべき基本的な態度と観念となります。人世间のすべての生存条件は、もし「万法」を「唯心」の所産とすることが難しい場合には、必ず「万殊唯物」をもってしてこそ、人世间において真に生活の中に根付かせることができるのです。
第十四回 生死
万物の生生不息の交替は、いかなる衆生や動植物であっても、すべてこのようになっています。遠古の時代から今日に至るまで、今の時代まで立ち続けているのは、不動の高山や青翠の松柏だけなのです。それは天地と同じ長寿を保つことができるからです。また、その生存には特殊な使命があり、まさにすべての演化の過程を証言しているのです。
第十五回 自在
人生において世に生まれ出れば、必ず外界と結びつき、この身に感じて体感し、人生の経験を資本の蓄積とすることができます。また、凡塵においてどのような事を行っても、すべて特別な意味と使命を持っています。そして人世間における生とは、単に「酸甜苦辣」のすべての生存の総体的な組み合わせに過ぎないのです。
第十六回 惻隱
人類が凡塵において行う种种の悪行は、必ず人類自身が招いた業障です！また、人類が招いたものに対して理解できない部分については、宗教を通じて洗浄と教化を行い、初めて「惻隠」の心を顕現させることができ、真に万物衆生のために福澤を創造し、人類と万物の生存の安らぎと快適さを向上させることができるのです。
第十七回 慈悲
人に惻隠の心があってこそ慈悲が生まれ、進んで施し、進んで捨てるすることができるのであり、必ず人間の中に福田を築くことになり、万物衆生の基本的な因由と同じになることができます。また、慈が示すものとは、まさに自分が深く体悟し感じることができるものであり、慈は自分がなすべき、行うべき本分であり、慈をもって人世間に立つことができるのです。
第十八回 喜捨
さらに天地の造化は、人類や衆生が共有する福沢であることを理解することができません。もし自分の余福を他人と分かち合い、喜んで施すなら、真の徳を得ることができます。しかし、他人と分かち合い救済することができない時は、ただ目を閉じ、鼻の息が途絶える時を待つばかりです。この世でどのような物品を持って行けるか、理解できるでしょうか。それは極めて難しいことです。
第十九回 因果定律
もし自分自身の思想や観念がなければ、どのようにして一つの物事の始まりや善し悪しを成就できるでしょうか。人類衆生は皆、前因の影響と束縛を受けることになります。しかし、「前因が果報を形成しようとする」前には、人類の行為や動作によって未来の果報の善し悪しに影響を与え、変化させることができるのです。
第二十回 思想觀念
「因によって果を得る」ことはまさに人世間の真理であり、真の業と使命を持つこともできるのです。人は皆、過去の因を受けて果報となり、人の要因は必ず自分の思想観念に左右され影響を受けます。このように、良いことを望むか、悪いことを望むか、善を望むか、悪を望むか、是を望むか、非を望むか、正しいことを望むか、間違ったことを望むかは、すべて人の思想観念から発展するのです。
第廿一回 教化修持
そうすれば、修持しない世人よりもさらに理解が深まり、造業の機会も減るでしょう。宗教の教義による規範を受けるのが道理であり、そうして初めて自我超越の本質を達成できるのです。しかし、宗教による教化の規範において、天地の間には不変の定理があり、ただ凡塵においてのみ、どのようにして宗教の教義によって自分を成就させるかという点にあるのです。
第廿二回 執著固化
「執」には必ず定点に「著」することが必要であり、それが執持力の平衡点です。また、固执している時には善悪の分別がなくなり、すべての事柄の基礎に行いが加えられます。もし「執」がなければ、すべての事柄を展開することは難しく、持続する執持力に対して、必ず一気呵成にこそ、物事を因縁和合の中に展開できるのです。
第廿三回 五行生剋
人世間の衆生一人ひとりは、皆天に守られ地に護られる慈仁を受けており、これは天地の大公であり大徳です。万物と衆生は皆天地から顧みられ、彼此の別け隔てなく、汝我の別け隔てなく、さらに高低の別け隔てなく、誰が多くあるいは少なく得るかによって定論されることもありません。これこそは、天地の大愛によって護佑される公正平等なのです。
第廿四回 命理人生
「命と運」はまさに人類衆生の一切を左右するものであり、命に運が加わって初めて凡塵での成り立ちが促され、必ず外界の因縁和合と共に始まるのです。また、「運」は変えることができますが「命」は変えることができません。それは塵土に落ちる（初生）時、すべてがすでに注定されているからです。だからこそ、「命は骨と共にあり、刀で削っても落ちない」という諺があるのです。
第廿五回 矛盾對立
矛盾とは、日常の中で常に遭遇する物事のことです。どのような宗教を信仰するにしても、まだ初入りする前には疑念が生じ、その疑念によって、宗教の前人による教導と解説を経て、信仰の仲間入りをすることになります。そして、「大疑は大信を生じ、中疑は中信を生じ、小疑は小信を生じ、疑わなければ信じないことにもならない」ということに対してもです。
第廿六回 時空生滅
もし年・月・日・時の約束がなければ、必ず六十甲子が生成されることはありません。もし場所の選択がなければ、因縁和合を促してすべての行為の始まりに到達することもできません。これには必ず日付と時間、そして場所の選定が必要であり、それによって人・事・物の三者の結合を促すことができるのです。人類衆生の因縁はすべてこのようになっています。
第廿七回 輪迴交替
自己の自性を蒙垢させることとなり、常に輪廻を受けることになります。日々輪廻し、月月輪廻し、年年また輪廻が繰り返され、日常において輪廻交替から解脱することが非常に難しくなります。また、日常の中で甘んじて前に進もうとすると、桎梏から抜け出せない状態が生じ、「輪がまた輪、廻がまた廻」という中で、全くどうしようもなくなるのです。
第廿八回 生老病死
生とは、人世間においては一つの喜びであるとともに、始まりでもあります。また、人生において生の喜びがあってこそ、老いの悲しみがあり、死への恐怖にも入っていくのです。そして、「生と死」に対しては、まさに輪廻交替であり、さらにこの時空の中で、一つの空間が終結し、また別の空間の始まりと継続が開かれるのです。
第廿九回 苦空無常
また、あらゆる経験の経緯には、必ず跡可循うことができます。苦しみの本身こそが内なる体験の過程であり、外からの感覚によって知り得るものではありません。苦しみは衆生一人ひとりが必ず経なければならない過程であり、人間に非常に良くない感覚を抱かせ、苦痛な心境へと変え、平静さを欠いた起伏を生じさせるのです。
第三十回 悲歡離合
悲しみの中には：まさに心の抑圧の発散があります。いかにして心中に抑え込んだ不満や哀れみを、「悲しみ」を通じて発散させるか。それはまさに涙によって、内心のすべての不満と哀れみを同時に発散させることであり、「悲しみ」が心の中から生まれることで、初めて悲しみを転化させることができるのです。こうしてこれこそが感情の転換点となるのです。
第卅一回 喜怒哀樂
人生において、すべての衆生は生活の過程の中で、喜び、怒り、哀しみ、楽しみを備え、それらが互いに映し合うことで、人生の各段階が連続して現れるのです。また、誰もが喜怒哀楽という情緒に影響され、左右されることで、人間の気質や思想・観念の組み合わせが浮き彫りになります。
第卅二回 得失心態
得：人世間においては、必ず心力や時間を捧げてこそ収穫があり、得るものがあるのです。捧げるとは、まさに心力と時間が相互に結合することです。もし何も捧げなければ、収穫を得ることはできず、何も得られない結果となります。また、時間と心力を捧げたことで報酬を得ることができますが、それぞれ得られる報酬の多寡にはどのような差があるのでしょうか。
第卅三回 陰陽相待
人生においても必ずその通りです。人類がまだ生存する前から、すでに存在していました。日月が大地の衆生を相互に輝かせ、日月が相互に輝き合わなければ、万物は成長し難く、陰の極においては生息の機会が難しく、また陽光の照耀がなければ、万物が静止し、機を待って動くことも難しくなります。
第卅四回 天地造化
人世間において向上超越を成就できるでしょうか。それも甚だ難しいことです。天佑地護とは、まさに天が徳をもって地を覆い載せ、地が徳をもって万物衆生を蔭庇することです。天地間におけるこの条件は、衆生が恩を知らなくても捨てて顧みず、すべて大道の循環によって、万物衆生がすべて人世間に存活できるようにしているのです。
第卅五回 宇宙演化
すなわち仙仏や開悟した先賢が天界の過程を闡述して明らかにするのですが、人類は凡塵にあって、なぜ無極仙郷から凡塵に降りなければならないのか、なぜ有情の衆生を帰還させないのかを知ることはできません。そのため常に疑問が生じます。私は以前誰だったのか、誰が私の前身なのか、というように、大きな障害が形成されるのです。
第卅六回 回歸收圓
凡塵における人類の眾生は、本来の先天仏性である自性を失いやすく、このようにして元の住まいに帰ろうとしても、成就することは困難です。これは沈淪するすべての人類の眾生に対し、上方へ増長する原動力を提供し、この一世において回帰、超越、圓滿、乗越して了脫できるようにするものです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
人間におけるすべての生存は、一歩一歩着実に踏み固めてから前進しなければならず、そうして蓮華仏国（果）の位階に達し、無極仙郷や極楽世界に帰還することができるのです。崇心道場において著作された大道天書は、『大道回帰』と『大道真詮』という二冊のシリーズ著作がすでに完成しており、まさに善き利益をもたらしています。
跋二
無極大道院 懿勅崇心堂
跋三
九天司命真君 跋を下す
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
五、『大道真詮』は、まさに上蒼の慈悲徳沢の眷顧によるもので、天地衆生に遍く徳沢を及ぼし、さらに崇心における今後の教化（学習）の資本となり、後学の者が人生の因縁組み合わせの過程を明瞭に理解できるようにするものです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
無極の駕前に母娘に相伴し、九天玄女が道場に降臨されます。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
このように善因は必ず善報を受け、悪因は悪報を受けるというのは不変の定理ですが、人類の所作によって、善因が悪報に変わり、悪因が善報になることもあるのです。それはなぜでしょうか。すべては自分の思想観念に、経験に基づく作為と選択が加わるからです。これは人類の思想によって観念を変化させることなのです。
《大道真詮》 推薦序
それは自分自身をさらに精進する力を阻害し、自分を万劫復さざる境地に陥れることです。このように善悪の因縁が「因果の定律」に向き合うことは、まさに消し去ることのできない真理であり、そうでなければ、どれほど至高無上、最大、最も優秀で殊勝な修持環境であっても、自分が到達し、自ら証印する過程とはならないのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
無極が懿敕堂に旨を降し、心を崇め徳を崇めて真理を彰わします
◆ 前置・序 ◆
序一
真詮とは天地の真理が依り従うものです。人が世に生まれ、真理を修持の基礎および規範とするには、必ず不変の真理を備え、四海のどこに出しても通用するものでなければなりません。さもなければ、人世間においてのみ道理を用いて行動することは、衆生が備えている方向性に過ぎず、このように真理に更に道理を加え、互いに助け合って衆生を成就させるのです。
序二
無極大道院 懿敕崇心堂
序三
崇心崇徳が天の箋を著し、再び真詮を推演するのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
人は天地の間に立ち、天の加護と地の守りを受けて、三才の弘揚を立てることができます。徳性があって初めて自分を成就し、また衆生に福祉と利益をもたらすことができます。万物の中で思考能力を具えているのは人類だけです。もし天の恵みを受けて天地の間に立つことができれば、宇宙空間に立つこともできますが、人類など大海の一粒に過ぎません。何を為すべきでしょうか。
第二回 初基（無極之二）
そうでなければ、人は万物の霊長であり、その霊長としての智慧を恃んで排他心を生じ、強勢をもって万物を欺凌するような行為に及べば、必ず霊長であることを恃んで万物を欺う者に堕ちてしまいます。人類の長所は智慧による思考にあり、人類の行いは天地の造化を変えることができます。初基の慈悲善性をもって万物蒼生に徳沢を及ぼすことができれば、それこそが万物衆生の幸いなのです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
人が世に生れて種種の生存過程を歩むのは、人類が肉体を持っているため、もし我が本来を見ようとするならば、真に本性に帰ることは非常に難しく、むしろ外に向かって拡張してしまいます。どのように外境を受けるものを拡張し、不良なものを善き徴に変換できるでしょうか。それゆえ本性の導引において、まさに個人の自性、すなわち霊山（霊台）に入ることが難しいのです。
第四回 太極
全て欲望の念に引き動かされることはなく、無極においては皆一幅の祥和快樂、純善天真の姿のようでした。しかし外境の影響を受け、他方に左右され、欲望の念が初めて動いた後、「一本が万殊に散ずる」こととなり、無極天界から一気に気界まで降りました。また気界はあまりにも污垢で、気界の生存条件に融合することができませんでした。
第五回 兩儀
遠古の時代もこのようでした。現今の時代の衆生は、比較的福祿と福報を具足することができます。これは上蒼からの賜り物であり、また現今の宗教の善気が導いたもので、まさに蓬萊仙島の人類衆生が皆共通の福報を具えているのです。そうではあっても、実際に修持に励まなければ、善気を得ることは難しく、福報が及ぶこともありません。
第六回 四象
象天に生存するにあたっては、「春・夏・秋・冬」の四季の分けがあります。しかしながら、人類の生存空間は必ずこのようにならなければなりません。もし南極や北極の地にあっては、常年人類の生存空間に適していないため、当地に生活しようとするならば、必ず当地のすべての生存物種に適したものでなければ、極地に存活することはできないのです。
第七回 八方
八方の接合点は、それぞれの方位に特殊な角度と功用を持っています。八方の本来に対しては、まさに「先天八卦」から「先天の気質」へと転換し、さらに先天八卦の八方から後天八卦へと演繹されることで、天地のすべての造化、および衆生と万物の進化の全過程を占卜することができるのです。
第八回 含因
人間はちょうど降凡したため、無明もまた左右に付き従います。そうでなければ！ 誰も現世でいかなる経験も持つことはできず、すべての外的な試練を経ることで、初めて人類の経験知識に影響を与え、生存の過程において一つの蓄積が生じ、自身の生存の必要性を提供するのです。まさに温飽からすべてが派生していくのです。
第九回 人生
人生が様々な過程を経るには、必ず身躯によって初めて行使でき、行為を行うことができます。もしこの身躯を備えていなければ、必ず聖神仙仏あるいは幽霊の類でしかありません。人類衆生がこの世界で躯体を利用して、一切の因縁を展開する基礎とすることができるのは、すなわち本質であり、それによって初めて行為動作が生じるのです。
第十回 萬法
このようにして、ようやく一切の善悪の因縁の起動を成就することができるのです。そして万法はまさに衆生の所作所為を通じて、自己と他者の結合の基本となり、含因の演化を経て果報となるのです。衆生は皆、凡に落ちた後、自分がどのように行持の方向とすべきかを知らないのです。まさに人世間の経験と因縁和合を通じなければならないのです。
第十一回 唯心
万法とは、まさに衆生の心構えに働きかけを加えて選択していくものであり、個人の「私」から大衆の「公」に合致する働きかけなのです。人類衆生は必ず「私を以て公に就く」という働きかけをして、初めて国家社会に必要な条件を備えることができ、また万法の中で、衆生は皆自分の心構えの働きかけによって万物を成就するのです。
第十二回 萬殊
もしも、人間が飲食によって衆生を養う必要がないとしたら、どうして蒼生に生存空間を与えることができるでしょうか。もし万物（動物）衆生が飲食せずに生存できるならば、どうして生息の資本を得ることができるでしょうか。万物衆生はすべて、必ず満腹になるまで食事をすることで、初めて人間世界に生存することができるのであり、この生存の資本こそが食物連鎖の組み合わせなのです。
第十三回 唯物
宗教の修行者は、往々にして人道生存というこの関を飛び脱してしまい、その結果、凡塵の中で平順な境界に達することができなくなることがあります。しかし、宗教の修行者は一般の衆生とは少し異なり、あまり计较せず、自分の欲望や享受を自制することができ、人世间のすべてはただ借り見て、借り使うだけのものであると悟ることができるのです。
第十四回 生死
凡塵における每一种の衆生や物種、動植物の生死輪廻交替は、生生不息の原動力を造り出しています。また、凡塵においては生と死の交替があるからこそ、今の衆生がこの世界に立足することができるのです。もし万物が生じもせず死にもしないなら、天地と同じ長寿を保つことができるでしょうが、どのようにして寿元綿長を具足することができるでしょうか。
第十五回 自在
もし酸苦の試練のみであれば、必ず衆生は困苦の逆境から脱却できなくなります。もし一味に甘甜のみを享受するなら、それは順境です。そして、このような順境の中であまりにも順調すぎると、凡塵で迷いやすくなり、さらには順境の過程で、自分自身に多くの罪を造る機会を与え、次の世で再び輪廻する種子因を形成してしまうことになります。
第十六回 惻隱
天地は皆情を持ち、人は皆惻隠の心を持っています。人類に惻隠の心がなければ、天地は必ず無情となります！天地の心は、まさに人の心が現れたものだからです。人類の善悪や惻隠は、万物の福澤を創造することもできますが、もし人世において衆生の福澤の依り所となることができなければ、必ず不仁がもたらした結果であり、多くの因果や業障が纏わりつくことになってしまうのです。
第十七回 慈悲
慈が示されるためには、まず惻隠の心を備えていなければならず、そうして初めて慈が現れるのです。そうでなければ、惻隠を経て完成させずに慈の本質に達しようとしても、必ず難しいことです。なぜなら、慈は万物が備えている本質であり、「慈」があってこそ善良な本性をもって人世間に立足し、良善な因縁と福報を展開することができるからです。
第十八回 喜捨
まさに自分の思うままに振る舞い、今世で所有するすべてのものを持って行けるでしょうか。すべてにおいて困難です。ただ自分自身の一身に満ちた「罪業と福徳」だけなのです。人類が生まれて来る時、ただ裸の肉体だけで、両手空空にしてやって来て、また両手空空にして去り、少しも何ものも持って行かないということを理解すべきです。
第十九回 因果定律
このように善因は必ず善報を得、悪因は悪報を得るというのは不変の定理ですが、人類の所作所為によって、善因を悪報に変え、悪因を善報に変えることができるのは、いったいどのような理由によるのでしょうか。それはすべて、自分自身の思想や観念、そして経験に行動を加えて選択することによるものです。これは、人類衆生の思想によって観念を変えることに対するものです。
第二十回 思想觀念
それによって行為や動作が生じるのです。すなわち仏教で言うように、人類の意識は末那識によって分別判断され、さらに「阿頼耶識」に貯蔵されます。それは「種子因」が備わっていることであり、また「種子因」が偶然にも因縁和合に出会うと、人の思想観念が形成され、それ以前の経験の蓄積が加わるのです。
第廿一回 教化修持
実は、宗教の教義によって自分を束縛したり、悩ませたりするわけではありません。教化や修持に対しては、それは心を喜ばせ楽しいことであるはずです。では、どのようにして教義の薫陶を通じて気質を変化させるのでしょうか。元々行えることと行えないことを調整することは、皆自分の能力の及ぶ範囲であり、行動の本体ともなるのです。
第廿二回 執著固化
人間世界における成長を促進するのです。ですから、執と著とは、すなわち相続する執持力であり、「執」があるからこそ「著」があるのです。また、執着とは、まさに動力に定位が加わって相続する成就があり、「執の動力」に「著の定点力」を加えることが、執着に必要な過程と方式なのです。
第廿三回 五行生剋
衆生と万物は皆、形があり質のある物体であり、生存することによってすでに五行の「金・木・水・火・土」の相生相剋によって左右されています。また、金が水を生み、水が木を生み、木が火を生み、火が土を生み、土が金を生むというように、このような相生の中で生息相成が形成され、五行を経て万物と人類の衆生が成就されるのです。
第廿四回 命理人生
後天の運は、必ず人類の思想や観念に行動が加わって初めて変えることができるのです。命理の流行と指針については、凡塵には多くの派別があり、それぞれが一方面的に各個人の命格と運勢を見ているに過ぎません。もし先天の「命格」がすでに注定されているのであれば、それは変更不可能だということです。
第廿五回 矛盾對立
宗教の修持の仲間入りをしたとはいえ、また常に矛盾現象が生じます。矛盾の中で「誤った点」を転換して信仰の力とすることができるでしょうか。人類が宗教に初入りする前、あるいは商売をしている時、物事の決定と取捨の初期段階では、まだ定まった状況が形成されておらず、未来の見通しを知ることもできないため、どうしても心を落ち着けることが難しいものです。
第廿六回 時空生滅
例えば崇心道場において『大道真詮』という天書を著すことは、まさに上天の約束により、毎週火曜日と金曜日の戌の時に、崇心道場で「金指妙法」を用いて著述し教えを説くのです。ここには時間の約束と場所の選択があり、そのため時間が来た時には仙仏も降臨して開示され、共に天書の殊勝なところを著すのです。
第廿七回 輪迴交替
日常の生存においても、このような循環から抜け出すことはできず、むしろまさに輪廻によって交替させられており、毎日そのようになっています。人類の生存はまるで機械のように、繰り返される輪廻を循環しているのでしょうか。毎日同じ事柄を行って循環しているため、気づかないうちに、すでに輪廻の左右による影響を受けてしまっているのです。
第廿八回 生老病死
生と死を問わず、すべて時間と空間の制約を受け、時間と空間の循環輪転が促されてこそ、生と死を再び組み合わせることができます。また、人生の中で有用な体をうまく使うことができなければ、必ずやぼんやりと過ごして、ただ人世間を一回巡って繰り返し輪廻するだけになります。未来はまたどうなるのでしょうか。非常に理解し難いことです。
第廿九回 苦空無常
すべての事象には原因と結果があります。そして苦しみは、さらに一個人の身体的な病痛や思想・観念の変化をも成就させ、人世間が「生・老・病・死」の過程を経て転換していくことを促すのです。「生・楽」は人間が好むものであり、「老・病・死」の三つは、まさに世人が嫌悪するものなのです。
第三十回 悲歡離合
「悲しみ」はまた、あらゆる物事において耐えうる集積点でもあります。したがって、悲しみが衆生に与えるものは一種の感情の緩和であり、悲しみが表すものはまさに個人の感情の発散なのです。そうでなければ、もし心中や体内に抑圧すれば、必ず個人の身体と心に傷を与え、耐え難いプレッシャーを引き起こすことになります。
第卅一回 喜怒哀樂
人類の生存過程において、一人ひとりが気質を備えているため、情緒反応が生じます。そして、喜怒哀楽の中にないで人類の一生を過ごす者はいません。それゆえに、喜び、怒り、哀しみ、楽しみがあるからこそ、人類の生存に関わるすべての感情が繋ぎ合わされ、喜怒哀楽という区別が形成されるのです。
第卅二回 得失心態
さらに、捧げたものに対して福報が相応するかどうかという問題もあります。福のある者は、比較的少ない心力や時間を捧げるだけで得ることができますが、これも福分の多寡によって決まるのです！もし福分が不足している時には、時間と心力を捧げても、捧げたものに対して本来得られるはずの報酬の比例を得られないこともあります。
第卅三回 陰陽相待
每日の初めは、寂静から発動し、一日の成長はすべて陽光の普照を受けてこそ、生生不息の光輝があります。陰の極に達すれば陽が必ず出で、陽の極に達すれば陰が必ず盛んになります。これこそ天地の正理であり、決して普通の凡理、すなわち単なる人世間の一般道理ではありません。
第卅四回 天地造化
人類は万物の霊長としてこの世に存在していますが、人世間において人類だけが思考による行いを行っているからといって、天地の定律を変え、個人の修持成就の転換点にできるわけではないことを了知しなければなりません。上蒼の慈仁は皆無私無為であり、天佑地護によって万物の衆生を覆載し、決して個人のために私載や蓋覆をすることはありません。
第卅五回 宇宙演化
すなわち一世ごとの輪廻によって多くの塵垢が累積し、一層一層と自性の汚垢が増え、無極仙郷へ帰還しようとしても、その本意を理解することは難しくなります。また上蒼が衆生が凡塵に降りてくるのをご覧になると、凡塵の種種のものによって自性の仏体が蒙蔽され、前世のすべての本因を知ることはできず、誠にどうしようもありません。
第卅六回 回歸收圓
崇心堂は行善道場を承接し、一連の大道天書の執筆を続けています。基礎の根基をしっかりと築いた後、人世間における入世の道を経て、入世した後にさらに出世回帰を成就します。この方がより確実であり、本来の自性を彰顯し、上方へ増長・向上させることができるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
そして行善道場の著作を受け継ぎ、『大道心灯』と『大道天徳』によって一連の天書が共に成就されたことは、まさに諸天の高真仙仏が共に安堵を感じられることです。そして必ず「真詮（理）」をもって衆生を導き帰還させ、仙仏方の心血の結晶であり過去の経験の蓄積でもある、春風化雨のごとき教えを人間世界に広めていくのです。
跋二
天運戊寅年端月廿八日戌時
跋三
無極大道院 懿勅崇心堂
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
六、人間世界において有情世界の衆生を行持する者は、大乗の理念をもって修持の基盤を確立してこそ、人間世界において覚有情菩薩の位階を行持することとなり、さらに自性仏体の蓮華仏果（国）を成就することができるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
母に代わって懿旨を頒宣され降臨し、大道の真詮が善良を啓きます。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
因果の定律は不変の真理であり、衆生は自分の所作の中で、常に外境に左右されることがあります。このように「善因が悪報を受ける」ことが現れるのは、自分の前因が善徳であっても、その善徳から人の作為に入った際に、どのように行えばよいか、時に人類の思想観念や選択を誤れば、必ず善因が悪報になることに影響を与えるのです。
《大道真詮》 推薦序
「因因にして果を得る」ことはまさに人間世界の真理であり、真の作為と使命もあります。人は皆、前因を受けて果報となり、人為的な要因においては必ず思想観念に左右され影響を受けます。このように、良くしたい、悪くしたい、善くしたい、悪くしたい、是としたい、非としたい、正しいことをしたい、誤ったことをしたい、すべては人為的な思想観念によって発展するのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
大道真詮は普く世の機を渡化し、回帰して自らを揚げます
◆ 前置・序 ◆
序一
実際のところ、まさに今の時代には基本的な基準が必要であり、また人が道を広めるのであって、道が人を広めるのではありません。もし道が人を広めるとすれば、必ず人が慈愛を持たないためであり、聖人は言いました、万物をわら犬と見なすのは、必ず人類が慈愛を持たないために引き起こされるのだと。もし人が仁慈の徳性を行えば、必ず天地間に生存の空間を得、それに応じて安らかで潤いのある生があるでしょう。
序二
天運丁丑年八月十八日戌時
序三
自然に真理の宴を成し、懿敕道場の功徳は限りないのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
天地の恒久長遠を宇宙の永遠と互いに比較する時、人類はあまりにも微小であり、比較するにも足りません。また天地人という三才の中で、天の加護と地の守りがあるために人がその中に住んでいますが、自己向上を行うことができて初めて、自分の因を転化し改造することができるのであり、これこそが今生において備えるべき必須の要務なのです。
第二回 初基（無極之二）
これはまた蒼生の大いなる幸いでもあります。もし人類に慈悲がなければ、人類は強さを恃んで弱きを欺くことになります。しかし、上蒼には好生の徳があり、必ず万物衆生の共栄、共存、共生を促し、すべての者が地球の空間において十分に生活できるようにしてくださいます。人類は必ず本質としての善の原始を有していなければならず、それこそが人の初めの性は善であるということです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
外境に左右されることになり、霊台が清澈であるがゆえに、霊明の本性がむしろ外在の誘惑を受け、再び自己、すなわち本来の自性、すなわち霊山、すなわち霊台に回復することは難しくなります。しかし一以貫之とは、まさに当今において任務を了知する必要があり、人類は先天から来たものであるが、先天の気質を持たないため、先天の世界に受け入れられることがないのです。
第四回 太極
そして自然と象界の中に落ち、それは現今人類が生存する地球（冥）星系空間です。象界から次第に生存条件に適応していきました。最初は生活に適応することも難しかったのですが、次第に人類が生存するために必要な思考の方向性によって適応できる環境を選択し、さらに「物競天擇」の淘汰の影響を受けるようになりました。
第五回 兩儀
両儀が成し遂げたものであり、両儀によって陰陽が分かれます。孤陰では必ず生じ難く、孤陽では必ず育ち難いため、両造によって家庭が成り立ち、社稷の組合によって国家が集成されます。一国の興衰は、皆互いに牽連する相当大きな善悪の共業によるものであり、そうして初めて家庭に福沢を及ぼし、社稷にも福沢を及ぼし、国家にも福沢を及ぼすことができるのです。
第六回 四象
また、人類のすべての生活空間に比較的不適であるため、四象の分別はこのようになっています。現象界の一切はみな四方の左右を受け、また四季の影響を受けるため、春耕・夏長・秋収・冬蔵があり、これが人類の一年です。もし人の一年を人類の一生に例えるならば、どうなるでしょうか。
第七回 八方
さらに造化によって、衆生の生存空間には陰晴円缺の様々な状況が生じることを了知します。すなわちそれは人生の起伏の過程であり、八卦によって人類の運勢がどのような段階にあるのか、旺運なのか、運衰なのか、平順なのか、阻害なのかを知ることができます。これらはすべて八方の転換過程によるものであり、必ず八卦によって禍福得失を了知することができるのです。
第八回 含因
人類の含因とは、まさに世を重ねるごとに蓄積されたものであり、様々な原因や要因は必ずしも知り難いものです。降凡した後、現世の様々な行為をどのように行持すべきでしょうか。このように人類衆生は無明の中にあり、未知の経験も欠けているため、度重なる輪廻においても経験がないために、横逆や不如意に遭うことになるのです。
第九回 人生
まさに人類の躯体は、ただこの世だけで有用なものであり、もし他方世界に入れば、人身あるいは動物身を備えることができるでしょうか。しかし！ 他方世界において備えられているものは人類世界ではなく、ただ霊性世界であるだけです。霊性世界においては必ず五神通を備えており、人類世界でこのように備えている者はまれです。
第十回 萬法
万法唯心とは、一切の原動が展現するものであり、したがって一切の原（縁）動が成就しない時には、必ず因縁和合が難しく、すなわち万法の始まりに達することができません。人世間においては必ず人類の肉体、すなわち身躯を借用する必要があり、一切の動植物にも相互な関わりがあり、人世間においては食物連鎖と事務連鎖の組み合わせによって形成されているのです。
第十一回 唯心
当今の時代が科学技術文明の中にあり、知識が豊富な現世にあって、経験による成長を借り受けて天下の衆生のために福祉を謀ることができるかどうかを考えてみてください。それこそが、自己と衆生のために必要な態度と働きかけであり、凡塵の世界は皆、衆生の心性を成長と処世の原動力としているのであり、人類衆生は皆そうなのです。
第十二回 萬殊
衆生と万物を詳しく観察すると、すべて食物連鎖の組み合わせによってこそ生生不息が保たれています。もし飲食を必要としないならば、必ず生存の機会と動力の資糧を得ることは困難でしょう。万物衆生は必ず食物連鎖の組み合わせに依存して、初めて事務連鎖が興るのであり、もし万物衆生が飲食を必要としないのであれば、事務連鎖の活動も存在しないのです。
第十三回 唯物
また、どのようなものが永遠に壊れないのでしょうか。宗教の修行者は、人に対して和藹可亲であり、善き相と善き風を感じさせます。凡塵の中でも修行によって悟るのです。この身はこの世においてのみ有用なものであり、歿度の後には再びこの身を使うことはできないと。それゆえ、修行せぬ一般の衆生よりも、どのように行持すべきかをより深く悟っているのです。
第十四回 生死
すなわち「靈魂不滅、真如不滅」であり、人世間において相当深厚な福沢と功徳があってこそ、天地と同寿の紀元を長く享受することができるのです。また、生死は人類にとって抹消することのできない真理でもあります。生じることができれば必ず死があり、死することができれば必ず生がある。これこそが、すべての輪廻相続の過程に対するものなのです。
第十五回 自在
もし一味に逆境の中にばかりいるなら、人類衆生に成長の原動力を与えにくくなります。「順境」と「逆境」の両境は、いずれも人世間において、酸甜苦辣の組み合わせを通らなければならず、それによって人類の生存の浮き沈みの過程が生じます。また、人世間には多くの良くない経験ももたらされますが、ではどのようにして人世間での迷いを打ち破ればよいのでしょうか。
第十六回 惻隱
それによって、人類は現世において信仰を向上させ成就することが非常に難しくなるのです。人に慈悲の善念があれば、必ず惻隠の心の善行があり、人世において良き成就を得ることができます。また、万物から推崇され発揮される点は、万物が依り循うものでもあります。これは必ず、惻隠が内に蕴蔵され、外に形として現れる本心であるからに他なりません。
第十七回 慈悲
さらに「慈」によって万物に成就を示し、このように慈の本質には「自心」が備わってこそ、上行下効の伝承がなされるのです。また、慈の本質を用いて人世間の因縁の組み合わせを展開するにあたり、慈の本質に対しては、必ず良善な展開の契機と方向性がなければならず、そうして初めて自己要求に現れ、邪悪に偏ることなくできるのです。
第十八回 喜捨
人類や衆生が世俗の塵世で享受する栄華富貴は、ただ累世に修めてきた福徳に過ぎません。今世で福報を享受できても、さらに福田を積まなければ、今世で命を終えた後、次の世で同じ福報を備えることができるでしょうか。それは非常に難しいことです。捨てるからこそ得られるのです。「徳」を長く養い潤すことを備えてこそ、初めて徳を得ることができるのです。
第十九回 因果定律
因果の法則は不変の真理であり、衆生は自分自身の所作所為の中で、常に外部の環境に左右されます。このように「善因が悪報を得る」場合、自分の前因が善徳であり、その善徳から出発して人世間においてどのように行動すべきでしょうか。時には人類の思想や観念、選択が誤っていれば、必ず善因に影響を与えて悪報となってしまいます。
第二十回 思想觀念
必ず行うべきか行うべきでないかを分別判断し、選択と発号施令を行い、行動の主導者となり、その後行動力を持つのです。また、人に思想観念があってこそ、人世間において変化や調整を行うことができます。もし人に思想観念がなければ、意識、末那識、阿頼耶識をすべて連貫させることはできないのです。
第廿一回 教化修持
教化の目的は、前世および累世の不良な含因を変え、この世において調整や修正を行なうことにあります。また、前世および累世において、衆生は皆、自分がいったいどれほどの業障を造ったのかを理解することができず、今世においても不如意や挫折という磨難に遭い、すべての痛苦や折磨はどのようになっているのでしょうか。
第廿二回 執著固化
人類は執着があるため、すべての事柄は自分であり、自分が見、自分が行い、自分が為すことこそが正しいと考えます。しかし、他人はすべて「非なる者」となります。そして、「私は正しく汝は誤り、私は正しく汝は間違っている」という形が成り立ち、そこに執着の力が生まれます。人類の衆生を考えてみてください。誰もがそうなのです。
第廿三回 五行生剋
このようではありますが、五行の配列によって十天干、十二地支となった後、六十甲子が組み合わされて形成されます。また、相生は万物と衆生の興旺栄耀を成就し、本体は天地に護佑されておりますので、人類の衆生と万物の蒼生に対しては、多くの徳沢を造り出して顧みてくださるのです。
第廿四回 命理人生
三元、三合、五行、八字、四柱、面相、手相、および紫微斗数、骨骼、通霊、神算、そして様々な方法を通じて、気色を善于く観察する者もいますが、どのような方面的な違いにおいても、人類の命理計算に対して一面的に見ることしかできず、全体を観ることはできないのです。
第廿五回 矛盾對立
矛とは、鋭い武器で攻撃することであり、盾とは、攻撃を防ぐための防具です。また「矛と盾」は、自分が調整できる範囲において、必ず両方を外側に向けて初めて他人の心の防衛を攻撃し、他人の妨害を打ち破ることができます。もし矛と盾の両方を内側に向けて自分自身に向ければ、必ず自分自身に対する殺傷力を持つことになってしまいます。
第廿六回 時空生滅
これが時間の約束であり、空間に対するものは場所の選択、すなわち崇心道場で天書の著述を成就させることです。著述に関わる仙仏を集め、さらに諸賢生と三才六部が加わり、諸天の仙仏も協力し、さらに「無極大道院霊修院士」が交代で護持し、天龍八部が護佑しています。
第廿七回 輪迴交替
毎日の輪廻はほんの小さなことに過ぎませんが、毎月の輪廻からも解脱することが難しい時には、毎年の輪廻に対してはなおさらどうしようもありません。さらに、一生というのは大きな輪廻であり、次の世でも同じように繰り返す機会があるのでしょうか。もしすでにこの一生の輪廻から解脱していたとしても、他方の世界に転生するか、あるいはすでに他方で輪廻して再び沈淪しているのです。
第廿八回 生老病死
もし、修行において過去の過ちを、この世において思想や観念を通じて改善し、修正し、さらに生活に根付かせることができれば、初めて成就の機会を得ることができます。そうでなければ、やはりぼんやりと一生を過ごし、次の世にも同じ機会があるのでしょうか。このような無明の障害を化解することがいかに難しいか、非常に理解し難いことです。
第廿九回 苦空無常
人類の生存において、年老いても用いられることは「宝」であり、年老いて用いられなくなれば良くないことです。では、なぜ老いは宝なのでしょうか。過去の経験と体証を智慧として蓄積し、後進や子孫に教導します。このように過去の経験を、老いの経験と智慧によって転化させることこそが、「宝」とされる理由なのです。
第三十回 悲歡離合
喜びとは：まさに喜びの表現であり、人類には自ら好む多くの物事があり、常にその心に沿って意を遂げることができ、初めて自分の思い通りにして喜びを達成することができます。これが喜びの表すところであり、また喜びが表すものは、必ず自分が好むところ、自分が喜んで受け入れるところなのです。
第卅一回 喜怒哀樂
喜び：人生において、まさに自分が喜んで受け入れ、愛する心境に他なりません。すべての「喜び」は外境からもたらされ、内面の感覚や情緒に影響を与えることで、「喜び」が世の中で人々に愛され、進んで受け入れられるよう促されます。これこそが「喜び」の現れであり、喜びに満ちた笑顔でもあります。
第卅二回 得失心態
この過程において最も重要なのは、心態の転換と、用いる方法によって正しい結果をもたらすことであり、それによってこそ正反比が形成されるのです。したがって「得」とは、人世間においてまさに心力と時空が交わる処でもあります。もし時空と心力を相互に交わり合わせ、結合させる条件を整えることができなければ、因縁和合によって捧げた後に得られる報酬を達成することは難しくなります。
第卅三回 陰陽相待
陽の初動から、次第に陽が盛んとなり一日の正午に達し、その後徐々に西へと向かって進み、少壮から老邁へとゆっくりと移っていきます。すべて陽生の初動の後に達成されるのです。この陽光が万物を照らして群生を潤し、陰が盛んになれば万物は寂静となりますが、それは動かないのではなく、目に見えない動きがあるのです。
第卅四回 天地造化
人は天覆地載によって人世間に生存し、現今の科学技術はさらに人類の快適な生活環境を創造し、人類に創進の精神領域と生活空間を与えています。往昔には不可能であったものが、当今には一つ一つ顕彰されています。このように上蒼の仁慈大徳は、決して功を邀して衆生に敬畏させるものではありません。
第卅五回 宇宙演化
このように既往を遡ろうとしても、さらに明らかにすることは難しく、人類の衆生にとって、凡塵においては日月星辰や天空の明るく輝くことだけを知り、本来すべての衆生が上天の星宿から降りてきたことや、一世ごとに凡塵で蒙垢を積み重ね、それによって凡塵で気禀に左右されていることを知りません。
第卅六回 回歸收圓
『大道心燈』が闡述しているのは、すべての修持概念の基礎および大道全体のシリーズ構成であり、有情の眾生に確かな根基を築かせます。シリーズ全体の来歴や脈絡に従うことができ、未来においてさらに如実な印証と演繹ができるようにし、シリーズ全体の著作を連動させるものであり、これが最も殊勝な点です。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
また、一歩一歩実践していくことにより、人類衆生は人間世界において生存し、信仰の修持による改造を行い、自分自身と衆生を成就させることができます。そして、様々な天地の資源から利益を受け、至理を回復することは、最も優れた修行の指針となるのです。
跋二
九天司命真君
跋三
天運戊寅年端月廿八日戌時
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
七、『大道真詮』がまもなく付梓されます。有情衆生が助印の行列に参加され、衆生がさらに真理を暢達させて行じ、菩薩行を成就し、布施波羅蜜・智慧波羅蜜が成長向上されることを期盼いたします。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
欽んで無極の懿旨を帯して堂に到り宣読します。神人は俯伏し、失儀があってはなりません。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
もし修行者において、自分が修持する宗教は他の宗教よりも至高無上であると考えれば、それはすべて自我の驕慢、最大、最も殊勝であるという虚栄心による錯覚であり、それによって「宗教の平等、修持の平等」を見過ごし、善因の修持に入ったにもかかわらず、善報を得られないようにしてしまうのです。
《大道真詮》 推薦序
人間世界では、頭脳を使って思考と調整を行い、すなわち思想観念を組み合わせることによって、はじめて行動を起こし、作為を成すことができるのです。人類は思想観念によって、必ず過去の経験の蓄積と組み合わせ、はじめて過去の経験を借り受けることができ、人間世界で頭脳を使って思考し、来歴と脈絡について必ず理解することができるのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
今夜、恭しく無極の懿旨が堂に降臨し頒布されますので、神人どもは伏し拝み、失礼があってはなりません。
◆ 前置・序 ◆
序一
『大道真詮』は必ず自己の修持の本来を顕わし、また依りどころと指標となり、まさに衆生が待ち望んでいるところです。「大道の弘揚、真詮の拡張」によって有情衆生の向上を成就させるのは、必ず人の行いによって選択されます。行うことができます、成就することができます。また一切において必ず依りどころがあるのです。
序二
南屏道済古仏
序三
真心真意をもって縁を顕し、衆生を成就して徳沢を加えるのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
人類がこの世に生存するにあたり、しばしば我意を張り、自らに本来具わっている「自性」を捨てて、あえて外に求め、さらに迷い蒙昧な外象を求め取ります。このようにすれば必ず外界に左右され、本来の自性を成就することは難しく、外界に主導されて自分が為すべきことや、持つべき一切の行為となってしまうのです。
第二回 初基（無極之二）
もし人類が強勢を振りかざし、すなわち偏った思想と行為をもって、強をもって弱きを欺凌するならば、必ず万物衆生（動物）のすべてがその害を蒙ることになります。天地の徳沢とは、好生の徳と養生の徳であり、天が護り地が養うことは、さらに衆生がすべて平等であるということであり、また万物がすべて平等であるということです。そして、このような条件は人類のみに限られたものではありません。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
つまり気秉の影響を受け、再び気天に入りますが、有情衆生も気天の気質を持たず、また象天に落ちてからは、五神通を失ってしまいます。また、象界にあってもただの凡塵の衆生に過ぎないことを知らず、どれほど修持が高く、霊通が強くても、ただ凡塵の衆生として生存しているに過ぎないのです。
第四回 太極
次第に蒙垢し、清明本性を回復することができず、皆一層一層内側に堆積していきます。また、人類衆生が本来降生した場所がどこにあるのかを遡ることができないため、常に天を仰いで眺め、遥かな天際（あまぎわ）に本来の家があるかのように思い、一切の衆生（仏子）に対しても、自分の本性に帰ることを遡ることができないのです。
第五回 兩儀
陰陽は必ず調和してこそ生生不息となり、万物の生長が欣欣向荣とします。万物は皆情慾を受けて後代を伝延しますが、もしそうでなければ、どうして継承伝延ができるでしょうか。人類衆生は必ず陰陽、すなわち男女を備え、自己を成就し、家庭社稷を成就してこそ、後代子孫を伝承できるのです。
第六回 四象
もし人類が僅かに一年しか生存できないとしたら、衆生が凡に落った後には、更改や転圜することは何もありません。上蒼の鴻慈により人類の生存に対して、每一年を結合して人類の一生とし、また各種の異なるものを分別します。極めて短暫なもの、短暫なもの、中等のもの、長遠なもの、さらに超長なものがあります。
第七回 八方
人生の現在の段階および今後どのように展開していくのかを理解することができます。先天の定数においてはまさにこの通りですが、衆生の心持ちと営みによって先天の定数を変えることができます。そのため、「事を成すは天にあり、事を謀るは人にあり」と言うことができるのです。必ず了知することができます。上蒼の定数の中にすでに定局となっているとはいえ、人類の営みによって変えることができるのです。
第八回 含因
様々な突発的な状況への対治が形成され、現世の生活において知るべきすべてに対しても、無明と未知のために経験の蓄積が欠けています。これこそが人世間の生活における必須のプロセスであり教訓となることで、初めて現在において自分を成就できるのです。では、どのように行為すれば、現世の生活経験の蓄積を成就できるのでしょうか。
第九回 人生
この神通力は、人間がこの世に生存するには、必ず肉体を持って外界と結合しなければならないからです。また、自分は独立した個体であるため、生存を通じて組み合わさり家庭を形成できなければ、必ず社会や国家となることは難しく、国家があれば必ず家庭があり、家庭があれば必ず陰陽が組み合わさるのです。
第十回 萬法
もし食物と事務の組み合わせを経ないとしたら、衆生にお尋ねします。人世間において行うのはどのような事務でしょうか。人世間で生存できるのは、まさに因縁と使命が相互に交替するからです。人類衆生は必ず任務と使命を通じて、ようやく人類の生存過程を真に展開することができ、これこそが生生不息の原動力なのです。
第十一回 唯心
つまりこの過程において、衆生の「心を起こし念ずる」ことから、必ず人類の「思想観念」を経て、本来不可能な霊感および実際の生存を相互に結合させることで、初めて衆生が心構えや思想から万物と万法となり、人類がそれぞれの思想を持つことを促し、霊感が顕著に現れる原動力を成就させるのです。
第十二回 萬殊
それゆえに「民は食を天と為す」と言われ、万物衆生、動物はすべてそうです。天上の飛禽、地上の走獣や家畜を問わず、世間の人類衆生もみなここから離れることはできません。これこそが食物連鎖の組み合わせの必要性であり、それゆえに「人は財のために死に、鳥は食のために亡ぶ」と言われるように、すべての事務連鎖の活動が存在するのです。
第十三回 唯物
どのようにすれば断ち切ることができるでしょうか。前世の因と今生の果、今生の因と来世の果。さらに、凡塵では宗教の修行によって、すべての争い事を手放しやすくなり、多くの罪を造る機会を減らすことができます。まさに現世において修行者が用い、行えるすべてのことは、来世の含因を改めるのに有利となるのです。
第十四回 生死
人類衆生は功果と業障に牽纏され、しばしば自らの無明による侵襲に遭います。また、無明に対しては初意であり、無の無無明の中から、自らの本来の原居所である無極理天を了知することができます。無無明の中においては、必ず基本的な態度を持ってこそ、無明の局限と障害を化除することができるのです。
第十五回 自在
すべてには特別な含意と使命があり、また、すべては人世間において経験の組み合わせを通じて、一つ一つの事物の興滅に至ります。生死において自在になれるでしょうか。「生死」とはまさに人世間の実相の過程であり、これらすべては人類の感召によるものであって、決して上天からの試練ではありません。
第十六回 惻隱
慈悲と惻隠の本質を備えることができなければ、人類が本性の至善の境地に達することは困難です！また、人に善願があれば、天は必ずそれに従うというのは、まさに動かすことのできない法則であり、各自が発した善願が持続するかどうかを見極めなければ、成就させることはできません。そうでなければ、誰でも適当に大きな善願を発したとして、いったい何になるでしょうか。
第十七回 慈悲
悲が示されるものとは、人類と万物が深く体悟できるかどうかということです。自分が行ってきた経験や事柄において、挫折や横逆の阻害に遭った時、必ず乗り越えることは難しく、そのような時に他方あるいは他人の経験と体悟によって、自分の悲心を示すことができるのです。すなわち、我がこととして感じ取り、困窮と横逆から脱却できるよう互いに助け合うことができるのです。
第十八回 喜捨
もし喜んで施すことができないなら、必ず執着して手放さないでしょう。しかし、天の下でどの物品が、自分が長く所有し続けられるものでしょうか。すべてはただ借りて見、借りて使い、借りて所有しているに過ぎません。さらに福徳を享受し尽くした後には、他人が取得し、受け取り、享受するのです。皆様はこの点を理解できるでしょうか。
第十九回 因果定律
宗教の修行者、特に「天道」においてよく見られることです。まさに前人の教化という枠に縛られ、自らを固定化してしまっているのです。そして、この世の中で最も殊勝で最も高超なのは「天道」だけだと思ってしまいます。しかし、三教同宗、五教同源の教化の過程において、天道は上天の印証を得ることができるということを知らないのです。
第二十回 思想觀念
存在し得ない状態も生じます。すなわち、現在の衆生が言うように、「人の頭脳は思考の中枢である」という源泉において、思想と観念の組み合わせを経て初めて、ある物事を系統的に判断し、どのように行うべきか、どのように行動すべきかを決定できるのです。人類の思想と観念があってこそ、あらゆる行為が現れてくるのです。
第廿一回 教化修持
元々角のある欠点を、丸く滑らかに、明るく美しく磨き修整しなければなりません。つまり、自我の個性を人世間において、すべて凡塵によって成就させるのです。もし凡塵を通じて改造し、不良な業因を棄てて修整することができなければ、必ずこの一世において磨難に遭う機会が多くなり、他の人よりも多くなるでしょう。
第廿二回 執著固化
宗教の信仰も同様です。現在の宗教において、どの宗教の修行者も皆そうであり、自分が信仰する宗教が真理を執持し至高無上のものであり、他はすべて劣ったものであり、自分が学び信仰追求することによってのみ、輪廻の束縛から脱却できると考えています。
第廿三回 五行生剋
まさにこのため、さらに相生の中で、万物と衆生が累積し結合することで成就され、生生不息が生じることになります。その中の最大の原動力は、すなわち生息の輪転の中にあり、これは人類が理解できることです。すなわち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝ち、木は土に勝ち、土は水に勝つというように、また相剋の中で相循っていくのです。
第廿四回 命理人生
もし先天の命格がすでに注定された後、人類衆生が良い命を持っているなら、努力や奮闘をしなくても必ず得られるのでしょうか。これは謬論です。人類衆生は皆凡人（煩人）に過ぎません。人間として生まれた以上、「生きていれば必ず動かなければならない」上に奮闘を加えてこそ、人世間で朽木のような存在にならないでいられるのです。
第廿五回 矛盾對立
自分自身の盾がどのように防ぐとしても、必ず矛による攻撃の防御作用と阻止力を受けることになります。また、矛と盾については、人生において常に自分の思想や観念の周りを巡っているものであり、まさにそれによって修持や商売に影響を与え、また一つの物事の選択において、常に自分自身に対する矛盾現象を生み出すのです。
第廿六回 時空生滅
一部天書の著述の殊勝なところを促すことは、まさに多くの天人合一と円満な集結を通じて行われ、さらに「理筆宗主」が主著、すなわち天音伝真者として務め、この天書の著述を集結させるのです。これには時間と空間の加わりが必要であり、今回の著述は次の著述とは異なり、すでに別の期への転換となっているのです。
第廿七回 輪迴交替
自分のために、次の世の輪廻を解消することができるでしょうか。互いに循環する種子因に対して、まさに毎日同じ役割と事柄の循環を演じているため、このようにして輪廻交替の作用から解脱することはさらに難しくなります。また、人世間において毎日の輪廻の影響を受け、一日の始まりに対して、まさに一日の輪廻が交替しているのです。
第廿八回 生老病死
老いの訪れとは、必ずこの世ですでに大きな道のりを歩み、人生の喜怒哀楽や悲歡離合を味わい尽くし、さらに人生の中で酸甜苦辣の経験を味わうことです。まさに自分が身をもって体感した経験の過程であり、決して単なる人伝ての話などではなく、身をもって实实在在とした過程を体験できるのです。
第廿九回 苦空無常
年老いてから病にかかれば、子孫を逍遥自在にさせることもできなくなります。もし老いてさらに長患いすれば、長く喜んで親に孝順し奉養する子孫は稀であり、それゆえ「久病に孝子なし」という言葉が生まれたのです。しかし、真に孝順できる者は、大勢いるものです。
第三十回 悲歡離合
しかし喜びは、ただ内に形づくるだけでなく、外に表れて現れるものであり、心にとって一種の安らぎと喜びとなります。この二つが合わさったものが「喜び」の心です。しかも喜びは、また自分が受け止められる外的な総体であり、初めて喜びに満ちた情景を現し、人々がそれを見て欢乐の過程と雰囲気を感じ取ることができるのです。
第卅一回 喜怒哀樂
喜び：あらゆる楽しい心の根源です。喜びは、必ず自らが進んで受け止め、楽しい気持ちの反応であってこそ、「喜び」を展開することができます。そして、今の戊寅年の新春の初めにあたり、新年の間、諸賢生の皆さんは天書を開著する喜びの心構えを十分に持っておられるでしょうか。それはまさに、ご自身の心境に良き歓びを生み出すことなのです。
第卅二回 得失心態
一例を挙げましょう。眾生は毎日必ず家庭を離れ、就職先で他人のために奉仕し働かなければなりません！そのため、時間、空間、心力、そして精神を捧げなければならず、必ず毎月、あるいは一つの業務が終了して初めて、通貨の報酬を得ることができるのです。そしてその通貨、すなわちお金を使って、家族を養い、生活を潤すことができるのです！
第卅三回 陰陽相待
陰の盛時においては、必ず極の盛となります。陰極の盛に対して陽は必ず衰弱し、陽極の盛に対して陰は必ず弱まります。しかし太陽星系の運行において、日月は大道の循環を受け、毎日東から昇り西に沈み、西に進んだ後に再び東に昇ります。古代ではこれを「相互追逐」といいましたが、正しいと言えます。
第卅四回 天地造化
衆生に対し、いかにして自らの自性仏体を顕彰するかが、最も重要な基本条件なのです。さもなければ、五濁悪世の環境に沈淪し、いつ元の居住地に回帰できるでしょうか。この一世において改造できるかどうか、清浄無瑕の本霊に変化し回復できるか、これこそが真実性なのです。
第卅五回 宇宙演化
そのため帰還の天梯を理解することもできず、しかもすでに人世間に降りてこられているにもかかわらず、無極皇母は屡々門によりかかり、衆霊児が凡塵に降りた後、凡塵で改造と修整を行えるかどうかを見守っておられます。帰還の条件と資本を具え、帰還超越の成長を遂げ、すべての因果の牽纏を断ち切ることができるかどうかを。
第卅六回 回歸收圓
『大道天德』が闡述するのは、天地の「無為、無私」であり、天地の徳澤が万物に及ぶことに基づき、万物がいかに無極に回帰できるかを述べています。まさに先天から後天に降り、再び先天に回復するのであり、その間に生住異滅、地水火風、人の根塵意識、本識を闡述し、無明を化除して真如仏性を建立するのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
北極玄天上帝 跋を下す
跋二
九天の無極が太極に降り、凡塵の衆生の依り所を司命されます。
跋三
大主席　南天文衡聖帝
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
八、求むるところのある方は、『大道真詮』の宣講・聴聞・助印・配布の功徳に賛助することができ、上蒼が斟酌して功果を恩賜され、凡塵の因果業障を消除し、さらに無私無為の犠牲奉仕において成就することができるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
懿旨を開読します。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
修持の過程において、常に前人の教えの束縛や誤った伝承を受け、宗教の「我執の観念」から抜け出すことが難しく、本来宗教に入って修持することは喜びと歓びであるはずなのに、なぜ長い時間と道のりを修持した後で、再び外境による折磨や横逆の妨害に戻ってしまうのでしょうか。
《大道真詮》 推薦序
人は万物の霊長であり、もし人間世界で過去の経験を思考の理路として調整することができれば、皆人間世界において本性をもって事を行うことができます。「人の初めは性本善、人の行いは善の本性」という中で、人の所作はすべて「美好」な始まりと、「良善」な行持の作為から離れることはできないのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
懿旨を開読いたします。
◆ 前置・序 ◆
序一
太上道祖 道德天尊 序を下す
序二
南に大道を開いて書を著し、障りを防ぐ功徳は誠に特別なのです。
序三
無私無偏でさらに勉励を重ね、道理と真理を大千世界に広めるのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
これはすべて、人が時空に左右され、自性を現し難いため、しばしば自分を迷わせていることに気づかないからです。有情衆生は必ず凡塵において修行し自分を改造しなければなりません。宗教に入ることができるのも、指導者や責任者の行いや為すところによるのですが、それが自分に利益をもたらすのか、それとも衆生に利益をもたらすのか、皆はっきりとは分かっていないのです。
第二回 初基（無極之二）
万物衆生がすべて平等な自性、すなわち仏性を具えていることを思わないでいると、人類とその他の万物衆生との間で、一部の者が毛を被り角を帯びる畜生道に淪入し、四つ足で地面に沈淪し、飛禽走獣へと堕ちてしまいます。これはまさに不善の因縁が導くところであり、人類本来の善性もまたすべて具備されているのですから、いかにして苦しみに遭い磨かれるような境地に入らずに済ませましょうか。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
また凡躯の影響を受け、「四大仮合」に左右されるため、真の神通力を発揮することはさらに難しくなります。人類衆生は知るべきです。凡塵においてどれほど神通力が高く無比であっても、最後には白黒無常の拘束から逃れることは非常に難しいのです。ですから、神通力を用いて気界に入ろうとするならば、気質の条件である聖躯を備えることができるでしょうか。
第四回 太極
一方的に外の世界を眺めていますが、この世界は凡に落ちたばかりなので、最初は生存環境に適応することが難しく、常に五衰の色相を受けて現れます。自身が先天より持ち込んだ「彩帯」、すなわち「帰還の資糧元手」は、無極が太極に降り、凡塵に降るようになった由来であり、まさにここから始まったのです。
第五回 兩儀
衆生は皆父母によって生を受け、その先天の含因を承け、すなわち種子因として現今の身体を持っています。もし承先啓後ができなければ、必ず現今において再び後代を伝延する本質を失い、ただ孤陽は育たず、孤陰は生じない、つまり単独一個に落ちることになります。もしこのようであれば、どうして後代を伝延する生生不息があるでしょうか。
第六回 四象
人類の生存空間においては、四季が分明であり、これこそが人類衆生に必ず生存過程があることです。ですから春生（春耕）はすなわち一切万物の始まりであり、春の生がなければ、どうして長成することができるでしょうか。まさに万物はみな、春の生存歷程を経なければ成長茁壯せず、欣欣向榮することもないのです。
第七回 八方
上蒼の定数とは言え、人為によって変えることができるため、「三分は天の定め、七分は人の努力」という人類の座右の銘に合致します。また、現在の時代にあってはなおさらのことです！天地の造化によって、人は教化を受けることができます。天地の造化が形成する基本原則により、天地にはすべて不変の定理と定数が存在するのです。
第八回 含因
すなわち度重なる試練の中で、必ず自分の心境の変化に影響を与え、蓄積されて経験となります。このように含因は未来の成果であり、果がまだ決着する前は経験であり、経験が成る前は含因です。含因から遡って上去れば無明になりますが、現世において無明に遡及することは比較的困難です。
第九回 人生
陰陽の組み合わせには、必ず独立した個体があり、それは数多くいる衆生がそれぞれ単独で存在しているに過ぎません。人生においてはこの世で生活経験の蓄積が必要であり、どのような辛酸や喜びに遭遇しようとも、それはすべて人生の鍛錬の過程です。また、この世においては、自身のすべての経験の過程や他人の経験を借りて、善悪良否の蓄積としていかなければなりません。
第十回 萬法
もし原動力にのみ頼る時、さらに拡張できなければ衝勁の力がなく、人世間を進化成長させることもできません。人生世にあっては必ず衝勁の力を備えていなければ、人類進化の力を推進することはできず、そうでなければ一切が不動に停止した時、どのように科学文明をもって衆生の福祉を創造できるでしょうか。
第十一回 唯心
そうして初めて凡塵で一つの働きかけを成し遂げることができるのです。成功と失敗にかかわらず、必ず霊感を得た後に、再び経験の過程によって考えた霊感および求める目標を結合させ、何度も試行する過程を経て経験が蓄積され、また繰り返される失敗の中から前回からの教訓を学び取り、改善の要素を確立していくのです。
第十二回 萬殊
また、天上の飛禽、地上の走獣、飼育される家禽や家畜も、すべて食物連鎖によって生命を養われ、万物蒼生に生命を長養する元素と、あらゆる活動の原動力が与えられています。そして、食物の供給は、必ず衆生の思考と活動によって、どのようにあるべきかという方向性を決定し、満腹になるための必要性が生じるのです。
第十三回 唯物
相対的に、業障の折磨が減少します。古くから「凡塵に一日修すれば、冥府に百日修するに勝る」と言われるのは、まさにこの作用によるものです。しかし、往々にして人道生活というこの環を飛び脱してしまうため、業因果報を招き、平坦な生活に達することが難しく、根本的に自己の成長と向上を果たすことができないのです。
第十四回 生死
凡塵の人類衆生は、誰もが無明の初始を離れることができず、どのようにして無明を破除すべきかを了知することすらできません。人世間の障害に対して、どのようにして無明の作用を化除すべきでしょうか。さらに「生と死」に自らの生存のすべてを左右させないためにも、もし「生死」を了知することができれば、必ず「無明」の障害化除を了知することができるのです。
第十五回 自在
生の喜び、死の悲しみ：生死はまさに人世間に必要な過程であるからです。すべては「生住異滅」の輪廻によって交替し、人世間において生があれば必ず死があることを促します。また、人世間の有情衆生にとって、このような営みはそもそも非難されるべきものではなく、人類は皆このような営みを好んでいるのです。
第十六回 惻隱
それは当時の感情に影響されたためであり、長く持続できなければ、必ず善願を成就させ、了願を完了させることは困難になります。このように考えると、「人に善願あれば、天は必ずこれに従う」という弘願は、その出発点と心構えによって決まるものであり、もし善願を発しても長く持続できないのであれば、どうやって善願を成就させることができるでしょうか。非常に難しいことです。
第十七回 慈悲
「悲」とは、自分の行いによって周囲の「人・事・物」を成就させ、皆が恩恵に感召されて自分を成就させ、そして困厄や阻害から脱却できるようにすることです。また「悲」が示すものは、まさに「無縁大慈・同体大悲」の写し鏡であり、「慈に悲を加える」ことによってこそ、惻隠の本質の行いを応用することができるのです。
第十八回 喜捨
もし世界のすべての物を抱え込みながら、業を造る場所に入らずに済むなら、それはまさに理解しがたい迷いと言えます。人類はまさにそのような生き物であり、このすべてに「私」というものが存在するため、「他人や万物衆生」が存在せず、自分が所有しているものなど、ほんの一部分に過ぎないのです。
第十九回 因果定律
渡化の正統な教脈として、これは絶対に堅く信じてよいことですが、善徳の因縁による修持の中で、一部の道脈の責任者は、衆生平等、大道平等、宗教平等を明らかに理解していません。どの宗教であっても、三教の聖人が立てた教義や規範に匹敵して、より殊勝でより実在的であるということは決してないのです。
第二十回 思想觀念
人世間では、頭脳による思考の調整、すなわち思想と観念の組み合わせを経て初めて行動を起こすことができ、そして初めて何らかの業績を上げることができるのです。人類は思想と観念によって、必ず過去の経験の蓄積と結びつけることで、初めて過去の経験を参考にすることができ、つまり人世間で頭脳を使って思考し、物事の経緯を必ず理解できるのです。
第廿一回 教化修持
自我の個性において、もし自分の欠点を棄て去ることが難しく、各自の奇抜で奇怪な個性を形成してしまえば、それは皆、自我が気づきにくい障害となります。また、自分の今世の個性はこうなのだ、自分のやりたいようにやればいいと思い込んでしまいます。しかし、自分の欠点や気性が、自我改造や自我成長の段階に達することができるかどうかは、非常に難しいことなのです。
第廿二回 執著固化
五教の聖人は皆慈悲と博愛の心を持っていますが、後継者にとっては、自分が信仰するものが至高無上であると思い込み、その歩みに従って一歩一歩前進すれば、仙人や仏となり、聖人や神になれると考えます。しかし、「状元の先生がいても、必ずしも状元の生徒がいるとは限らない」とは知らないのです。
第廿三回 五行生剋
人類の衆生と万物は皆刑剋によって左右され、興旺栄耀に成長することができるとはいえ、その間には相剋の影響を受けています。それゆえ、五行はすべて凡塵においてこそ相生相剋するのであり、気と理の両界においては、このような制限を受けません。まさに凡塵にあってこそ陰陽があり、陰陽があってこそ相対があり、相対があってこそ生剋があるのです。
第廿四回 命理人生
人類には動因があるからこそ、因縁の和合による相互の補助が可能になるのです。また、どのような命運の予測においても、人生の禍福窮通を善于く観察しても、それは一部に過ぎず、全体を見ることは困難です。各人の命運に対しても一つの予測をするに過ぎません。これは先天の命格が凡塵に落ちてすでに注定されているものですが、人類の行動によって変えることができるのです。
第廿五回 矛盾對立
このような、行おうとすることと止めようとすることの行動に対して、一方は行おうとする行動の思想や観念を生み出し、他方は行おうとすることを防ぐための行動の思想や観念を抱きます。この二つは互いに戦うことになり、まさに矛盾と対立の選択点となります。そこには矛盾した心境と行動があり、次から次へと巡り、また自分の思想や観念を左右するのです。
第廿六回 時空生滅
時間は同じで空間も同じですが、日付は異なります。しかし、すでに前回仙仏が降臨して著述した時とは異なり、仙仏も異なり、日付も異なります。すでに一回分の時間の差が生じています。これは日付・時間・空間の転換と時空の生滅によるものです。もし今回の著述がなければ、どのようにして次回の著述へと続けることができるでしょうか。
第廿七回 輪迴交替
今日がそうであれば、明日もまたそうです。このような相互循環を打ち破り、自分を新たに改造することができるでしょうか。もし輪廻に左右されないのであれば、繰り返される人生に対して変化を与え、輪廻循環の因果を修整するように促し、初めて輪廻を改造することができるのです。そうでなければ、輪廻の制限から解脱することはできません。
第廿八回 生老病死
つまり、このような経験の過程を、自分が理解し体悟できる範囲で、過去の経験として人世間に残し伝え、この一生の経験の過程を借りて子孫に伝承することで、生と老いの過程を了悟し、有用な年を大切にし、有用な体を造就し、己を利するとともに人も利するべきなのです。
第廿九回 苦空無常
現世の人類衆生はさらに孝順し難いものですが、これは時代が異なるからでしょうか、それとも古の倫理である「孝道」がすでに現在の環境から乖離してしまったのでしょうか。古諺に「孝順な親には孝順な子が生まれ、忤逆な親には忤逆な子が生まれる」という明訓があります。人世間における「孝道」の始まりとは、年老いて病にかかったからといって、異心を持たないことなのです。
第三十回 悲歡離合
別れとは：また衆生一人ひとりが必ず経験しなければならない過程です。現代の衆生は毎日、自らの故郷を離れて他の場所へ就職や通勤に出かけなければなりません。毎日離れることは、まさに一日の循環過程であり、また一日の中においては、ただ朝から晩までのことであるため、特に感覚することはないのです。
第卅一回 喜怒哀樂
『大道真詮』の著作には、まさに一種の喜びの現れがあります。そして戊寅年に「喜び」をもって著作を始めることは、「吉兆」の現れでもあり、さらには喜事の到来でもあります。新春の始まりに吉祥の良き兆しをもたらし、今後の弘揚と済度に向けて、良き吉祥喜慶を開くのです。
第卅二回 得失心態
一人ひとりの眾生は皆そうであり、心力、精神、そして時間と空間を組み合わせて捧げ、通貨の報酬と引き換えます。まさに因縁和合による組み合わせによって、一つの業務を達成し成就することができ、それによって初めて「通貨、すなわちお金」という結果を得ることができるのです。
第卅三回 陰陽相待
現代の科学技術文明の時代においては、地球の「自転と公転」が相互に交替し輝き映えることで、世人の思想観念がこの過程の運行を明瞭に理解できるようになりました。そうでなければ、古昔の思想観念に留まったままで、大道が現世において顕現する自性仏体がどのようなものであるかを、どうして了知できるでしょうか。
第卅四回 天地造化
もし現世において、人生の至理、天地運行の至理を思想観念の中に確立できず、ただ外在の一切の功果を累積するにとどまるならば、その行いは次世の輪廻の種子因および福報に過ぎません。三界の空間のすべての束縛を了脱することはさらに難しくなります。
第卅五回 宇宙演化
宇宙演化の過程において、芸芸の衆生（以前の仏子、すなわち星宿）が凡塵に降りた後、凡塵の蒙垢を受け、さらに一層一層と積み重なり、一世ごとに繰り返す輪廻によって、天上にあった五神通を失ってしまいます。象界の世界に降りた後、凡塵に蒙垢されるからです。
第卅六回 回歸收圓
『大道回帰』は、入世した後に出世する行いをもって、眾生が凡塵で遭遇する障害と瓶頸を闡述し、眾生に人世間の様々な逆境と不如意をいかに化解するか、またいかに無極仙郷に回帰するかを明らかにします。覚有情大乗菩薩行を行持し、蓮花仏国の境界を成就しなければなりません。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
無極大道院 懿勅崇心堂
跋二
真君の徳沢が大地に布かれ、大道の真詮が衆生の迷いを渡されます。
跋三
南天が理筆の成就を保奏し、文衡聖帝が衆生を護られます。
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
南天文衡聖帝 大主席 凡例を下す
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
謹んで奉じます。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
皆が「天はその心志と作為を試み、天が考磨を与える」と言いますが、実はそれは自分自身の「我心の使うところ」、「我心の作為によって定まる」ものなのです。もし天の考程と言うならば、その来歴と脈絡を必ず明らかにすることができます。もし自分が感召して考を受けるのであれば、宗教の修行者は常にこのように行い、特に天道の修行者はこれを正理と言うのです。
《大道真詮》 推薦序
すべての人の欲求がどうなるかは、すべて人類の思想観念と所作によって決まり、「良いと悪い」に関わらずすべて自分が造ったものであり、また他の人が各人の生存要因に影響を与えて左右することはできません。「情緒の発散」に導かれることによって、人類のすべての行動と作為が生じ、はじめてすべての行動体が存在するのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
謹んで奉じます。
◆ 前置・序 ◆
序一
無極大道院 懿敕崇心堂
序二
道にも道にも路にも路にも皆通じることができ、世を救う公德は必ず具足しているのです。
序三
自性仏性は人心から遠く、著作が完成して善き縁を加えるのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
この一世における行為は、みな上天および元の宗教（五教）の聖人の原意や修行の方法を知ることはできません。また伝承されてきた中でも、断章取義され、多くが変質してしまいました。このようなものはもはや原意ではなく、修行の過程や方法を全うすることはさらに難しく、しばしば外界の適さない修行や改造の方法を、自分自身に押し付けてしまうのです。
第二回 初基（無極之二）
人類が慈悲惻隠の心をもって万物衆生を成全し愛護することは、必ず教育の伝承によるものであり、さらに宗教信仰によって、人類衆生に仁人愛物、愛屋及烏、衆生平等を教化することです。これこそが人類の行うべき慈悲の本分です。もし人類が強勢の力に依って、弱势の万物衆生にそれを加えるとしたら、どうなるでしょうか。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
この種の生存とは、四大仮合である「生住異滅、地水火風」によって結合されて初めて、気界において何らかの成し遂げることが可能になるのです。そうでなければ、ただ再び輪廻の種子因を繰り返すに過ぎません。これは真実の事実であり、すべての人類衆生はこの種の局限に左右され、この種の障害から逃れることは難しいのです。
第四回 太極
人類は万物の霊長であり、この星球に生存できるのは、天地の護佑を受けられるのは全て偶然ではなく、実はまさに上蒼が既に手順を整え、衆生が凡塵に降るのを待って、改めて人類の生存条件を展開したのです。実はそれ以前には人類という名称はなく、皆上蒼の衆生である「自性仏」に過ぎませんでした。
第五回 兩儀
有情衆生はよくよくお考えいただけるでしょうか。祖上も以前はこのようでした。まさに両儀によって陰陽が互いに合い、後代の伝延を成就する必要があるのです。もしこのような段階を経て造作できなければ、必ず生息する機会を得ることは難しく、仮に孤陰・孤陽であっても、自身の努力によって万物衆生に福沢を成就できるなら、まさに賛嘆に値します。
第六回 四象
夏長：発芽の生を経て成長過程に入り、必ず養分と水分が互いに滋潤し、および日月の光合成があって、ようやく己身に利するのです。万物はこのようであり、衆生もまたこのようです。そうでなければ、どうして成長し、欣欣向榮して盛茂することができるでしょうか。それによって万物と衆生の存活空間があるのです。
第七回 八方
宗教の教化は、必ず蒼生に拠り所を持たせなければならず、それこそが「天は生み地は養い、人は自ら生きる」という生存条件なのです。天が万物を生み出して万民を養う際、もし衆生が善徳の方向へと導いて行動するならば、蓮花仏国はまさにこの瞬間に現れます。もし悪禍の方向へと行動するならば、陰惨な地獄もまたこの瞬間に現れるのです。
第八回 含因
現在の衆生は皆前を見ており、内に向かって過去を遡れる者はごくわずかです。そのため含因が動く前は、すべてただ待ち守るだけであり、縁に遇って果報となり、因縁和合が促されて組み合わせられます。これも助縁がなければ達成することはできず、そうでなければ成就することは非常に困難です。このようなものが実相なのです。
第九回 人生
そうして初めて、この世において応用することができるのです。また、この世における様々な因縁和合に対しては、必ずこのような経験を備えていなければ、因縁の始まりを展開することはできません。人類衆生が独立して生存することができないのであれば、必ず他人と組み合わさらなければならず、これこそが密接に関わり合っている者なのです。そうでなければ、団体や家庭、国家を形成することは難しくなります。
第十回 萬法
現在の人世間は、すでに人類の進化を切り開く最も殊勝な時を迎えています。古遠くになかったものも現在ではすべて具足し、昔は見ることができなかった事物も、今ではすべて備わっています。そして現在の時代の衆生は、より便利になったことで欣喜を感じるのでしょうか。それともさらに落寞するのでしょうか。それは各人の選択です。
第十一回 唯心
何度も失敗する中から、成長と成功の原動力を求めることができ、またこのような基礎の上に築かれ、「万法唯心、万殊唯物」のすべての働きかけによるものなのです。もしこの過程を経ることができないなら、天下の人類衆生にお尋ねします。どうして真の成長を得ることができるでしょうか。また、殊勝な条件を得ることは極めて難しいのです。
第十二回 萬殊
また、どのような食物（物産）を食すべきでしょうか。それゆえに食物の発展において、人類に関して言えば、まさに上蒼が人類の思考と活動を重んじて実現させたものであり、もともと存在する五穀雑穀から、さらに人類の食欲や貪欲による不足を満たすために、他の万物衆生を食物連鎖の組み合わせと見なすようになったのです。
第十三回 唯物
万殊唯物とは、当今の現世における一切の実質的な生活の中で、必ず備えるべき条件です。また、現世（凡塵）の生活において、もし日常生活をもって自らの修行を成就できなければ、真に生活の中に根付かせることは難しく、日常生活と乖離し、人道生活においてもまた飛び脱してしまうことになります。
第十四回 生死
生死と無明は、現在の衆生が理解し難い障害です。「生」は成長を通じて凡塵に立ち、一切の万物は生の初始から壮年に成長し、壮年の中から次第に老い、老いて枯れ、枯れれば亡び、亡びれば死に、死ねば滅が訪れて塵土に帰します。そして生と死は、凡塵において毎日見ることができるものです。
第十五回 自在
まさに自分が喜んで受け入れたい順境やすべてを好み、自分が気に入らず喜ばないものをすべて厭悪します。では、どのようにしてすべての逆境の折磨に耐えられるでしょうか。それゆえに分別心が生じるのです。しかし、人世間では必ず「生と死」の興滅を通らなければなりません。「生と死」に対しても、それは単に人類の寿命に限ったことではないのです。
第十六回 惻隱
もし来世まで待つ、あるいは他方の世界に寄生して、そこで再び成就しようとするならば、どうなるでしょうか！お尋ねします。同じ因縁を得ることができるでしょうか。時間、場所、心構え、環境に対する条件が最も主要なものです。人類が感情の高揚の中で発した弘願は、感情の反応の結果によって、将来の生活や家庭の円満さに影響を与えるのでしょうか。必ずしもそうとは限りません。
第十七回 慈悲
もし「慈」と「悲」を用いて現世の衆生に向き合うことができなければ、どのようにして現在の衆生に、生存空間と条件の中で、人世間において犯した過ちを改めさせ、すなわち含因から改めて「慈悲喜捨」の位階に達せさせることができるでしょうか。それは慈悲を人世間において善く用いることなのです。
第十八回 喜捨
人類や衆生は、世俗の塵世におけるすべての物品、財産、田地、愛する妻など様々なものを常に抱え込み、これらはすべて今世の自分が苦労して稼いだものであり、このような福徳を備えているのも自分の能力によるものだと考えます。しかし実は、このようなものはただ因縁が和合し巡り会ったからこそ所有できているに過ぎないのです。
第十九回 因果定律
もし修行者に対して、自分が修持している宗教は他の宗教よりもさらに至高無上であると思うのであれば、それはすべて自我の傲慢さ、最大、最殊勝であるという虚栄心による錯覚であり、それによって自分自身で宗教平等や修持平等を無視してしまい、善因の修持に入ったにもかかわらず善報を得られないようにしているのです。
第二十回 思想觀念
人類の行うことなすことに対しては、すべて人類の経験の蓄積によって、行うべきか否かが決定され、それが行動の最も主要な源泉となります。もし過去の経験の蓄積を経なければ、必ず人世間では行動が少なくなり、間違えることを恐れ、かつ手本となるものが借りられない時には、良好な成果を上げることは非常に困難です。
第廿一回 教化修持
教化の本質とは、衆生が皆理解できるようにすることです。宗教には、外界の衆生とは異なる行いや考え方が多くあります。自分が宗教に入った後、入る前よりも、変革への使命感や自己の気質の変化を感じているでしょうか。
第廿二回 執著固化
もし状元の生徒を成就したいのであれば、同じ含因の本質を具足できるでしょうか。さらに心構えと行いが結びついて初めて、「状元の先生があり、さらに状元の生徒がある」という条件が整うのです。そうでしょうか。そうでなければ、現世において「私が最も大きく、私が最も高く、私が最も殊勝である」と標榜するだけで、公正や平等が保てるでしょうか。必ずしもそうではありません。
第廿三回 五行生剋
また、福があれば必ず禍があり、禍があれば必ず福があり、苦があれば必ず甘があり、楽があれば必ず哀があるというのも、皆相対の影響を受けるからです。それゆえ、凡塵にあってこそ五行の輪転に制せられ、六十甲子の相循る左右が形成され、まさに六十甲子の中でこそ、起伏と興衰の交替を備えることができるのです。
第廿四回 命理人生
先天の命格を明確に理解し、個人の行いに対して対処することで、先天の命格と後天の運勢を変えることができ、先天の命格と後天の運勢に左右されなくなるのです。修持を通じて、先天の命格および後天の運勢に影響を与えなければなりません。このような自己の努力は、「造就」の一つともなるのです。
第廿五回 矛盾對立
もし、正しいことと誤っていること、是と非、正と邪、明と暗、円と欠について、行うべきか行うべきでないかを明確に理解できないのであれば、先の経験を借り受け、生活と修持を積み重ね、商売や人との付き合いにおける相互関係の中で、実行可能か不可能かの分別を持つことになるのです。
第廿六回 時空生滅
一回又一回と続けて著述することで、初めて一冊の天書の全体的な構成を成就することができます。また、諸天の仙仏および諸賢生が捧げた精神と心血の結晶によって、『大道真詮』の完成が促されるのです。さらに、衆生の福、崇心の福、諸生の福、仙仏の福も、すべて著述の中で明らかに理解することができるのです。
第廿七回 輪迴交替
人生において世に生まれ、自分の思想や観念は、人類生存の因果の本質に影響を与えます。前世や累世において達成できなかった改造を、この世において修整することができるでしょうか。そうして初めて輪廻循環を交替させることができ、まさに輪廻の中で備えるべき本質を、修整し、向上させて超越することができるのです。
第廿八回 生老病死
そうしてこそ、老いた後に用無しとなることなく、「生と死」にはすべて定数があり、すべて時空の循環交替を受けるのだと知り、「老いは経験蓄積の過程で体感するものであり、老いはまさに宝である」として、社会から取り残されることはないのです。これは自分が選択したことであり、未来はまたどうなるのでしょうか。
第廿九回 苦空無常
劬労養育の恩に感謝し、真心から双親に孝順し奉養するならば、長く変わらない孝順の心を持つことができ、天地の護佑によって「福祿寿喜、富貴吉祥」が具足する賜りを受けることができます。しかし、衆生が果たして孝道を尽くせるでしょうか。必ずしもそうではありません。双親や尊長者に逆らわないことこそが、まさに双親に孝順する良い子なのです。
第三十回 悲歡離合
もし時間を引き延ばせば、必ず悲しみと別れの場面が形成されます。悲しみながらも別れないということは、現世において成就することは難しく、悲しみと別れが互いに組み合わさって初めて、涙あふれる状況が生じるのです。衆生は死の過程を経て、さらに「別れ」を引き延ばし、甚だしくは永遠に帰ってこられなくなります。こうして悲しまないわけがありません。そうでなければむしろおかしいでしょう。
第卅一回 喜怒哀樂
怒り：世の中において自らが外境の影響を受け、自分の意願に反する時、すなわち自ら望まぬことになれば、必ずや自分の本意に背くこととなり、忿怒の情緒の中に身を置くことになります。そして怒りは本来の気質の一つであり、まさに「喜び」と相互に対立する表現なのです。
第卅二回 得失心態
失：凡塵において一人ひとりの眾生は、必ず条件を捧げなければなりません。通貨を得て家族を養い潤す条件を得られるからこそ、失うものもあるのです。一つは心力、二つは精神、三つは時間、四つは空間であり、これらのすべての過程において、本来あるべき自分自身を失っていくのです。
第卅三回 陰陽相待
陰陽の相互対待は、天地間に存在し、宇宙においていかなる星球、いかなる銀河星系においても同様です。しかし南贍部洲においては、現在肉眼で観られるのは日月の照耀に過ぎません。それゆえに、天地星辰の中で、衆生に宇宙の浩瀚無際を了知させなければなりません。
第卅四回 天地造化
人生於世、皆是如此。束縛を打破できるかどうかは、まさにこの桎梏にかかっています。人類の世界はまさに生命含因改造界です。この条件に達することができなければ、成就の機会は難しくなります。天地造化の演繹過程は、ひとえに衆生が皆、元の居住地、すなわち無極、すなわち虚空へ回帰できるようにするものです。
第卅五回 宇宙演化
長い間にはそれに甘んじ、さらに自らの体重を増し、軽盈の本霊に回復することができず、帰還の資糧と方法を忘れてしまいます。凡塵においては理解することができず、かえって累世の因果業障を増し、このような者が一世において改造、修整、向上、超越できるでしょうか。誠に難しいことです。
第卅六回 回歸收圓
『大道真詮』が闡述する真実の理諦は、無極先天の本因から、太極、両儀を演化した後、四象があって五徳を成就し、さらに八方を兆し、人世間の種種の因縁和合の過程となります。このように先天から後天へと、すなわち出世から入世となるのが、まさに眾生の凡塵における種種の行いです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
天運戊寅年端月廿八日戌時
跋三
降臨され著作して凡例を引き、大道の真詮が大乗を揚げられます。
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
無極大道院 懿勅崇心堂
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
無極皇母大天尊の懿旨がこう仰せになりました。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
実はそうではありません。なぜ善因が悪報を受けることがあるのでしょうか。それはまさに宗教における真実の修持、畏れぬ犠牲と奉仕、誠実な布施においてです。為すべきこと、行うべきことをすべて行い、すべてを捧げているのに、まだ満ち足りていないのでしょうか。なぜ依然として善報と順境を得るように変えることができず、業障による磨きを減らすことができないのでしょうか。
《大道真詮》 推薦序
どのように行い、作為すべきでしょうか。結果はすなわち善因が善果を得ることですが、もし悪しき悪い方向へ行ってしまえば、「不善と邪悪」の思想観念が生じ、それに行動と作為が加われば、悪報に牽纏され困擾され、未来の悪禍の原因となり、人類の生存に災難をもたらす源を形成することになるのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
無極皇母大天尊の懿旨に曰く、
◆ 前置・序 ◆
序一
天運丁丑年八月十八日戌時
序二
古代の真理を今再び伝え、仏の教えで世間を善き縁から化すのです。
序三
必ず衆多の善き賢者を成就させ、輪廻の過ちを犯させないのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
その結果、天真な自性を回復することができなくなり、しかもすでに具わっている自性の顕現をしばしば束縛してしまいます。また、今生において自分が具えている初心、すなわち本来の自性体に達することができず、このようにして自分を迷わせるだけでなく、先天に回復する道も失い、自分自身にとって、回帰する契機を得ることは極めて難しくなるのです。
第二回 初基（無極之二）
それは天の不慈でしょうか、それとも人類の不慈でしょうか。必ず了知できるはずです。人類は初め以来、常に強をもって弱きを欺き、さらに強勢の人力をもって、弱势の万物衆生を口腹の犠牲とし、個人の口慾の私利を謀り、衆生万物の弱势を無視してきました。この一生で害を与えれば、次の世や輪廻の中で再び冤債の報いを受けることになるのです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
一本が万殊に散ずるように、人類の機能が五神通の法力を具足する時には、さらに深厚な徳性を具足させる必要があり、しかも徳性は法力よりもさらに優れていなければなりません。そうして初めて、五神通力を具足したことで業を造ることを防ぎ、相互に補い合い、神通力の境に迷うことなく、気界や象界を自在に行き来することができるのです。
第四回 太極
また物欲の中に迷ったため、次第に「自性仏」に影響を及ぼし、再び蒙垢を受けました。外見から見れば既に先天の本質を失い、さらに「如如本性」も失い、凡体も次第に重くなり、凡塵の躯体が重さを増したため、軽盈な天躯を回復することは非常に難しくなりました。
第五回 兩儀
ですから、「自性仏体」の徳澤は万物衆生に及ぶのですが、自性仏体を達成してこれを顕彰することができない時には、必ず輪廻の束縛から離脱することは困難です。また、人類が宗教の修持による浄化の影響を受けたならば、この目標を達成し、衆生に福澤を与えることも比較的可能になり、それによってより大きな福報を成長させることができるのです。
第六回 四象
秋収：まさに夏長の過程を通じて、万物が茂盛に繁衍することを促成することができます。また人類は必ず食物連鎖の組合を借用して、ようやく衆生と万物の存活を長養することができます。必ず夏の成長の後には、生・住・異に遭逢し、滅の局限に入ることになるため、秋の収をもって直ちに完竣したとは限らないのです。
第七回 八方
人為によって変えることができるのです。善を願い、悪を願い、福を願い、禍を願うことは、すべて上蒼によって定められたものではありません。大まかな方向性はまさに前世の命格が集成されたものであり、変更することはできません。しかし、細かな部分はすべて人為的な要因によって改めることができ、それによって生じる差異はなんと大きいことでしょうか。衆生が禍悪を望もうと、福善を望もうと、必ず人為的な要因によって変えることができるのです。
第八回 含因
含因がまだ起動する前は、必ず待ち守る状態にあり、また待ち守る状態が外的な引き起こしに遭わなければ、さらに成果を得ることはできません。含因はまさに前世で蓄積されたものであり、この一世の行為に対して初めて善悪禍福の組み合わせが生じます。そのため動く前は、この世や来世に入って果報となることはありません。
第九回 人生
人類の生存過程において、必ず他人の経験を借りて、個人の経験へと転換してこそ、人類の生存における過ちを減らし、より良き善い福德を築くことができるのです。この境地に至って初めて、人生の含因を変えることができ、すなわち最も主要な行いとして、必ず必要な行為や動作が存在するのです。
第十回 萬法
また科技によって創進された世界においては、万法によって万物が生まれ、すべてを物質として観るため、「心灵教化」から始めて衆生を善導することは非常に少なくなっています。現在の衆生は物質・科技文明の時代の中にありますが、そのため心灵の踏实が減少し、真実な人生本来の自性の彰显も減っているのです。
第十一回 唯心
人類衆生には発明と創造の機縁と動力があるからこそ、その機縁と動力において、まさに試行と経験の過程を経て、改造によって進化し、成功の果実を蓄積することができるのです。もしこの過程を経ないなら、どうして現在の衆生に福報があって享受させることができるでしょうか。それはまずあり得ないことです。
第十二回 萬殊
すなわち五穀雑穀から、味覚と食欲に移行し、本来の飲食から、万物や動物の生命を残忍に殺して自分を養うようになったのは、まさに欲望による貪図であり、これこそが人類衆生の不慈です。生命の進化においては、万物衆生に対して共存、共生、共栄の活動があるべきなのです。
第十三回 唯物
もし横逆や不如意な折磨（魔）に遭った時、これは上蒼の試練なのでしょうか、それとも自らの所業によって招いたのでしょうか。万殊唯物の根本を悟ることができれば、これらはすべて実質的な生活であり、修行によって人道生活というこの環を飛び脱してはならないとわかります。そうでなければ、みな「上天が試練を与えてくる」と言いながら、実は自分が招いた魔考であることも知らないのです。
第十四回 生死
一日生滅とは、まさに朝の初生から始まり、午前中は幼童のようになり、正午には青年のようになり、午後は壮年のようになり、そして夜にはまた老年のようになり、その後、深夜に滅尽して死亡するのです。人類衆生は生と死の交替を離れることができず、一日の生滅、一月の生滅、一年の生滅、そして一生の生滅があるのです。
第十五回 自在
有情衆生は生命の循環において、すべて生と死の交替の中にあって、初めて輪廻の交替が生じます。世に生を受ける人生は、ただすべての生死の過程に過ぎません。動植物を問わず、すべて生死の含因と作用を持っています。人類衆生もこの過程を免れることができず、それによって人世間において繰り返される輪廻の作用が生じるのです。
第十六回 惻隱
修持の過程において、商売への態度や人との交際などすべてが、個人の感情に影響され、左右されるものです。誰もがそうであり、それが成敗の鍵となります。人が感情を平穏に保つことができて、初めて真に自分の主人となることができます。もし一筋に感情に影響され左右されるのであれば、向上し超越することは非常に困難です。
第十七回 慈悲
慈悲の本質とは、自分の福の余りを欠けている衆生に施し捨てることです。それゆえに慈悲喜捨の施与を通じて、初めて福報の欠けている衆生を助けて布施を行わせ、進んで施し、進んで捨て、さらに喜びて施し、喜びて捨てさせることができるのです。必ず満心喜びて誠実に布施を行い、いかなる見返りも求めないものです。
第十八回 喜捨
一生を通じて世俗の塵世の財産や様々な物品を享受できるのは、すべて前世の自分が積んできた行いによるものです。人生は上天がすべての功績を裁いて享受を与えてくださるものですが、さらに大きく発揮し、大きく施すことができるでしょうか。捨てるからこそ得ることがあり、徳があるからこそ福報があるのです。そして、世の中のすべての物品は、ただ借りて見、借りて使っているに過ぎません。
第十九回 因果定律
このようです。これは天の無慈悲によるのでしょうか、それとも人為的な要因によるのでしょうか。必ず明らかになるはずです。善因は善報を得、悪因は悪報を得るというのは、まさに変更することのできない真理ですが、なぜ善因が悪報を得ることがあるのでしょうか。それは、宗教の修行者が他の宗教の特殊な部分を無視し、修行者が皆上ばかり見て下を見ないことによるのです。
第二十回 思想觀念
つまり、心を落ち着けて本当に行動することができず、すなわち度重なる失敗の過程の中で、前回の経験の組み合わせを求め、歩みを調整して再び前進します。そして「因の中にあってまだ果を成しておらず、果がまた再び因を成し得ない」時には、このようにして因の中で果を造り、果の中でまた因を造るようなことには陥らないのです。
第廿一回 教化修持
そうすれば、宗教の薫陶の中で、自分の行いを成就し、円満の段階に達することができます。ですから、宗教の修行者は外界の衆生よりも親しみを持ち、外界の衆生よりも皆から親しまれ、受け入れられやすくなります。あるいは、宗教に入った後、外界の衆生が自分から遠くなりすぎたと考えることもあるでしょう。
第廿二回 執著固化
五教の聖人が教を設けた当初は、他教と互いに比較することもなく、根本的に彼此も分別もなく、さらに高低の区別もありませんでした。聖人が教を設けた本来の意図は分別心を持たず、すべて平等であり、汝我を分けず、高下を分けなかったのです。ただ後継者が強引にこじつけて信者を引き留めるために行った、蛇に足を描くような余計な行為に過ぎないのです。
第廿三回 五行生剋
五行の生剋は、人世間に応用してこそ、生剋の道理を理解することができ、必ず生剋の交替において明白になります。そして、自分自身のために逢凶化吉の道を探し求めることができ、吉凶禍福が訪れる前に、あらかじめ打算し防止することができます。これこそは、人類の衆生が吉を趨め凶を避ける本能なのです。
第廿四回 命理人生
気色を善于く観察すること、および手相、面相、紫微斗数、八字、四柱、骨骼、そして様々な一切の通霊神算は、すべて命理の一部を知ることに過ぎません。人為的な要因によって先天注定の命運を変えることもできます。現代の人類においては、「袁了凡」が「命および運」を変える最良の証人となっています。
第廿五回 矛盾對立
経験とは、皆が思想や観念を理解し、どのように行動すべきかを把握して、初めて「矛と盾」の相互対立の構図を生み出さないようにすることです。どのように行動すべきか、またどのように修持すべきかを明確に理解する必要があります。そうすれば、「矛と盾」すなわち「正と誤」の領域において、矛盾と対立によって自分自身への自信のなさが生じるのです。
第廿六回 時空生滅
皆さんが「時空生滅無常」を体会する時、それはすべての衆生に対して同じです。人間世界では一年又一年と更迭し、丁丑年もすでに終わりに近づき、戊寅年がまた続いてやって来ます。これも時間の経過の中で消え去っていくため、もし丁丑年がやって来なければ、どのようにして直接飛び越えて戊寅年に到達できるでしょうか。
第廿七回 輪迴交替
人類衆生は皆、毎日の輪廻、毎月の輪廻、毎年の輪廻、一生の大きな輪廻の中にあって、まさにこのような桎梏から解脱することができず、自分を成就させて超越することはさらに困難です。自分自身を哀れに思い、またどうしようもないと感じるのでしょうか。人生において世に生まれたからには、輪廻交替の本来の意味がどのようなものであるかを必ず知らなければなりません。
第廿八回 生老病死
老いの中にあっては、自身の過去の経験を修正し結合させ、またこのような蓄積を統合として為すことで、子孫に伝承することができ、「老いて无用」として人に捨てられることがなくなります。自身がこの一生の有用な体を大切にしなければならず、そうしてこそ子孫に負担を増やすことがないのです。
第廿九回 苦空無常
老いと病はすなわち苦しみであり、苦しみと病がまた連なることで、次のようなことが形成されます。一生を駆け抜け、最後には儿女や子孫のために、辛勤してこの世のすべてを蓄積してきたのに、年老いて積労が疾となり、病痛折磨を受けること。そして子孫に対し、長く祖先の劬労の恩恵に報いることができるかどうかは、まさにあなたのこの世での行い次第なのです。
第三十回 悲歡離合
「悲しみと別れ」の過程において、もし別れが引き延ばされなければ悲しみは生じません。衆生が毎日通勤や就職をしても、家族が悲しむでしょうか。いいえ、そうではありません。ただ短い別れで再び集えるならば悲しみは感じず、また短く離れることについても、衆生は「悲しみと喜び」が交わることを通じて、初めて「別れと再会」の過程を現すことができるのです。
第卅一回 喜怒哀樂
「怒り」はまた、個人の抑圧が爆発したものであり、自らが受ける圧力に対する不満の抒発でもあります。「怒り」の発露は、必ずや自分の性格に起因し、抑圧されていた心の中から爆発し出た情緒反応となります。このような情緒は、個人の内面の舒坦な散発過程を開くものでもあります。
第卅二回 得失心態
このような失いは二度と取り戻すことができず、何度も繰り返し、それぞれの段階における組み合わせが絶えず形成されていきます。そのため、時間、空間、精神、心力の様々な組み合わせを失いながら、一つの業務を相手方が満足する段階にまで達させなければならないのですが、それはどのようなことでしょうか。
第卅三回 陰陽相待
虚空中において、天際がいかに広大無辺であるかを了知すれば、無極の仙界への回帰も比較的容易に着手できます。そうでなければ凡塵において、宇宙の創生と演繹の過程を了知できず、凡塵の人類の衆生は全体の「宇宙天際」の偉大さと浩瀚無際を理解できないのです。
第卅四回 天地造化
衆生の一人一人が本来の自性体を具備しています。人世間に反覆して輪廻し、多くの世を過ごしてどうしようもなく了脱し難い状態を繰り返してはなりません。上蒼の仁慈により、五濁悪世を輪廻する修子に回帰の良機と天梯があり、引渡し導向提昇されるのです。
第卅五回 宇宙演化
できるのです！他の因縁和合が理解を促さず、かえってさらに沈淪し、帰還の修整、改造の良机がなく、輪廻の相続の支配を受けて帰還しようとするのですか。実に「天に登るより難しい」とはまさにこのことです。また宇宙演化の過程を理解しないことが、衆生が本来のものに迷う原因なのです。
第卅六回 回歸收圓
凡塵の修持を成就し、さらに人世間において菩薩行である「大慈悲、大智慧、大福報、大願力」を施行して成就します。また各冊の天書において、各章は相互に連なり、一連のシリーズを形成しており、比類なき修持の参考となり、真理を闡揚して、眾生が現世の当下において成就できるようにするのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
南宮孚佑帝君
◆ 懿旨と諸序 ◆
凡例
天運戊寅年端月廿八日戌時
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
母は理天の聖地にいらっしゃり、南贍部洲の衆霊児が凡塵に沈淪し、常に生死を輪廻し、先天無極に帰還することを知らずに、本当に母である私を常に門によりかかって待ち望ませ、原児たちの帰還を切に願っております。しかし、凡界に堕ちた原児たちは、現代において物質的享楽に溺れ、さらに五濁悪世に沉迷し、帰還することがますます困難になっているのです。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
どれほど殊勝で、どれほど高尚で、どれほど至高無上であり、最高で最も優秀であっても、自分だけが生死を超越でき、他はできず、輪廻しなければならないというように、宗教の平等に背くものは、すべて正理ではありません。衆生が宗教の修持に入る際、修持の真義に背き、「修持の平等」という観念を持つことがさらに難しくなるのです。
《大道真詮》 推薦序
天地の徳沢は万物に及び、日月の光明は大地を照らしています。恵みを受けるのはまさに万物蒼生であり、天地人も皆その徳恵を受けています。よく考えれば明らかになりますが、天地が大地の衆生に与えるものは、まさに至らないところなく、及ばないところのない徳沢です。すべては大地に沈淪した衆生が、一日も早く自性を顕現して帰帰することを期盼しているのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
母は理天の聖地に居り、衆原児が凡間に降りて後、直ちに自己の本性を失い迷うため、無極の仙郷に帰還することが困難であることを憂慮しております。実におん母を大変悲しませ、屢々門により頼んで衆原児の帰還を望んでおります。とりわけ今の衰えた世、風俗が大きく変わり、善の風潮が移り変わる折、真に自己の本性である仏体を回復することができておりません。
◆ 前置・序 ◆
序一
鴻鈞老祖
序二
崇心堂に降臨して序文を著し、『大道真詮』は迷いを渡して帰還させるのです。
序三
徳沢が豊かで道心が堅固であり、無極に帰還して母の御顔に拝顔するのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
『大道真詮』が提供し提唱していることは、まさに真理をもって衆生を成就させることにあります。もし仙仏が真理を示してくださっても、衆生が我意を通し我流を続けるのであれば、どのようにして自分を成就させることができるでしょうか。もし仙仏が自分の前に顕現されても、衆生は超越の本質を具足することができるのでしょうか。それとも、聖神仙仏に何度も何度も目覚めさせていただくのでしょうか。
第二回 初基（無極之二）
必ず了知しなければなりません。慈悲と惻隠の心こそが、人の初基なのです。もし万物に対して不慈であり、聖人さえも万物を芻狗と見なすような時があれば、いかにして人類の善の本性、すなわち仏の性を顕現することができるでしょうか。衆生は自性、仏性ともに平等であり、ましてや強勢をもって侵害してはなりません。人類の行うすべてのことは、因果循環の定律から離れることはできないのです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
そうでなければ、ただの凡仙に過ぎません。人類が人世間に生存しているのは、まさに無常の組み合わせであり、いつこの生のすべてが終わるのか、すべて非常に分かりにくいものです。五神通を利用して衆生の福祉を創造できるでしょうか。あるいは五神通を利用して自分を利益することができるでしょうか、どうなるでしょうか。非常に分かりにくいことです。
第四回 太極
降凡の彩帯も次第に縮小し、さらに消滅していきました。このように無極が太極に降り、太極が両儀を生じて男女の別が生じ、交和によって生生不息が形成されました。それ故「天仙」が凡塵に降ることはここから始まり、まさに上蒼が「自性仏」に、改めて修持できる環境を与えられたのです。
第五回 兩儀
もし衆生に福澤を与えることができないならば、それはただ自分が了脱し、自分が成長するだけにとどまります。輪廻の渦から離脱しようとするならば、大智慧を持つ者でなければ達成することはできません。そうでなければ、ただ来世で再び因縁を修持するだけなのです。なぜなら、自身の福報と福祿を具足することは、衆生の善徳の共業によって、善氣によって達成されるものだからです。
第六回 四象
秋の豐富を時間と空間の中に儲存できることこそ、一切万物を長養する根本です。秋の収穫がなければ、どうして四季の変化、および人類の生存更迭があるでしょうか。必ず秋収を通じて蔵し、これこそが一切万物が新たに再出発する交替点であり、串連の必要性もあるのです。
第七回 八方
それこそが現在の時代にあって必要なことです。しかし、人類の心には光明の照耀が欠けており、まさに熱く温かな気持ちが失われつつあります。このような状況において、人類衆生に対しては、必ず心の中にある一盞の仏灯を灯さなければなりません。その灯で自分を照らし、芸芸衆生を照らしてこそ、自分本来の仏性に回帰することができるのです。
第八回 含因
含因がまだ引き起こされていない時、すべては八識である阿頼耶識に蔵され、それによってこの世や来世で含因の趋向を変換することが可能になります。人類が世に生存して行う所作所為の善し悪しは、必ず来世の様々な行為や組み合わせに関わります。そのため今世においては、不良な気稟を抛棄し、垢穢を完全に清め尽くさなければなりません。
第九回 人生
そうでなければ、衆生がこの世界にやって来る時には、誰もが発展的な経験や他方の経験を持っているわけではないため、その行いにおいて必ず経験不足のために壁にぶつかり、その後になって初めて、他人の経験を借りることがいかに尊いかを実感するのです。このような因縁の条件によって、善き良き利益を得ることができ、また良い報いを得ることもできるのです。
第十回 萬法
すべて物役に使われ、また物役を使うことは非常に難しいため、心灵の滋長に借与されるものが増えています。このようなことは人類衆生の望むところではなく、皆自分自身で心灵の落实感を持つことが非常に難しく、物役（欲）があることだけを知り、境を転ずることが難しいため、常に境に転ぜられ、すなわち物役（欲）に転ぜられているのです。そうではないでしょうか。
第十一回 唯心
お尋ねします。また中土の歴史に記録されているのは、わずか五千年余りに過ぎませんが、遠古から現在に至るまで、当今の世代の有情衆生が最も福報に恵まれているのでしょうか。また当今の時代によってさらに豊かな福祉を創造し、天下の衆生を厚く庇護することができるのでしょうか。そうであるなら、この時代に生まれた衆生は、皆福分を具足していると言えるのです。
第十二回 萬殊
人類の強勢をもって他の万物衆生を残忍に殺すのではありません。また遠古の時代には、生存のための穴居の場所をめぐり、動物が互いに侵し殺し合う不仁がありましたが、現代の人類は命を養い生を護るために、さらに他の衆生を傷つけています。このようなことは、すでに穴居を離れて都市発展へと進化しているにもかかわらず、他の生命を残忍に殺すことを保命の条件としているのです。
第十三回 唯物
万殊唯物において、もし万物と衆生がなければ、試みに問いましょう。修行に励むのが最善であるのは間違いありませんが、現実生活と乖離してはいけません。そうでなければ、ただ「修行のために修行する」だけでは、必ず何らかの執着が生じ、修行の目的を達成することができなくなります。それは単に「修行のために修行する」だけなのか、それとも真に修行に根付くことができるのでしょうか。
第十四回 生死
これらはすべて、日々の組み合わせによって到達できるものであり、いかなる万物であっても、必ずこのような過程を経なければなりません。「生を欲しないのに偏偏生じ、死を欲しないのに偏偏死ぬ」というのは、人類および万物の生存の定律と真理です。人世間においては、すべて修持による変化を通じて、有限な年齢と時間を長远的に運用することができるのです。
第十五回 自在
生と死：生と滅において自在洒脱でいられるでしょうか、それとも胸に強く思い悩むのでしょうか。そうでは心を放下して自分の主人となることはできず、かえって生滅に左右されてしまいます。人類は生死の中にあって、寿命やすべての事物において同様であり、必ず因縁によって展開し、生の初めから縁が尽き縁が滅するに至るまで続くのです。
第十六回 惻隱
人世間において、多くの因縁和合を達成することが難しく、注定してただの失敗者となってしまうでしょう。感情の発散は、一つの因縁の成否に影響を与えるのでしょうか。どのような角度や場所においても、もし感情が自分や他人に影響を与えるならば、現世において自分の善徳の因縁を成就させることは非常に困難です。
第十七回 慈悲
必ず喜びて徳を得、喜びて福を得ることができ、さらに進んで施すことができて、初めて進んで徳を得ることができるのです。得ることもあれば失うこともあります。「明かりの行くところ、暗闇の還るところ」は天地の定律であり、このように捨てることによって失ったものは、必ず他方において得るものがあるのです。また凡塵の一切は皆互いに向き合うものであり、すなわち進んで施し、進んで捨てることによって、喜びて施し、喜びて捨てることができるのです。
第十八回 喜捨
人生において、この種の枠組みを突破することができるでしょうか。まさに自分のすべてを所有しているという執着を捨ててこそ、より大きな福報の因縁を開くことができ、それによってさらに多く施すことができるのです。施して失ったように見えても、実は「表向きは去り、裏向きには還る」ように倍にして返ってくるのです。これこそ天地の法則が導く働きなのです。
第十九回 因果定律
修持の過程において、前人の教えの束縛や誤った伝えによって、宗教の「我執の観念」から抜け出すことが難しくなることがよくあります。本来、宗教の修持に入ることは喜びや嬉しさであるはずなのに、なぜ長い時間と道のりを修持した後に、またしばしば外部の環境による折磨や逆風による妨害を受けるのでしょうか。
第二十回 思想觀念
実は、成功と失敗はすべて人為的な思想と観念の影響を受け、左右されることで、初めて人世間において何らかの業績と行動ができるのです。思想が事実となることは、すなわち因が果を成すことであり、そして物事の成功と失敗は、まさに得と失の分別性です。人類は凡塵にあって初めて思想と観念を持ち、初めて何らかの成し遂げができるのです。
第廿一回 教化修持
ですから、一方的に外界の衆生を蔑視し、あるいは憐れみ、自分の修行の道のりは非常に高いものだと思い込むことがあります。このような状態は、宗教に入ったばかりの初心に対しては、仏になることさえお釣りが来るほどですが、初心や初志を変えなければ、必ず何らかの成就を遂げられるでしょう。しかし恐れるのは、しばらくした後、その行いや考え方がまだ初心のままかどうかです。それはあまりにも難しいことです。
第廿二回 執著固化
このように執着を手放すことができるでしょうか。非常に難しいことです。さらに難しいこととして、また「執着」は信仰の原動力であり、「固化」の根本を形成するため、すでに満ち溢れている知識の領域を変えることは難しく、他の方面の知識を加えることも非常に困難です。また、知恵をさらに成長させ、結合させることも難しいため、これこそが「固化」の最も主要な原因なのです。
第廿三回 五行生剋
必ず五行の吉凶において転圜し、凡塵における生剋の問題を明白にする必要があります。そうすれば、生生不息と息息相剋を理解することができ、これこそは陰陽五行において必ず備えるべき思想観念です。なぜ善行を行っても善報を得られない人がいるのか？なぜ悪事を働いても悪果に遭わない人がいるのか？これらは皆、時辰がまだ到来していないからであり、決して報いがないわけではないのです。
第廿四回 命理人生
先天の命理が干渉を受けず、左右されず、さらに影響を受けないようにするためには、先天の含因、すなわち命格を改造しなければなりません。そうして初めて凡塵において修持による改造を通じて、先天の命理を転化することができるのです。命運と人生はまさに密接に関わっており、それゆえに各個人の命運も異なるものとなるのです。
第廿五回 矛盾對立
何を行うべきか、何を行うべきでないのかを知らず、常に正しいことと誤っていること、正と歪の区別を知らないため、「矛と盾」の対立の限界を知ることもできません。人生において、すべては正と歪、正しいことと誤っていることに基づいており、「矛と盾」を通じて正しい知識と正しい解答を求めて初めて、正確な思想や観念へと転換することが可能になるのです。
第廿六回 時空生滅
このようなことは成立しないのです。時間の生起と時空の生滅によって、初めて人間世界や地冥界、さらに天界におけるすべての展開が促されるのです。もし時間が促されなければ、年・月・日・時がどのようにして続くことができるでしょうか。そうでなければ、時間を現在に固定し、それ以上進まないようにすれば、すべてが静止してしまうでしょう。
第廿七回 輪迴交替
もし輪廻の相続交替を知ることができなければ、必ず輪廻を改造することは難しく、輪廻循環の相続に影響を受けることになります。これがどうしようもないのか、哀れなのかは、すぐに分かるでしょう。このような状況は、まさに有情衆生がどうしようもなく生存している世界です。この中にある局限と障害をどのようにして見極めれば、必ず向上し、成長し、向上させて超越することができるのです。
第廿八回 生老病死
病とは、まさに人世間において体が害を受ける程度であり、自分にとって耐え難い苦悩です。有情衆生が人世間において生存するすべてにおいて、これは誰もが避けられないことです。時には病気や痛みから見ると、まさに業障を消滅させる最良の終結点であり、また病の中で自分自身の切実な苦しみを体感することができるのです。
第廿九回 苦空無常
心を尽くし力を尽くして双親や長上に従う者は、必ず孝順な人です。もし長上や双親が病により捨てられるようなことがあれば、それはもはや人の子の道ではなく、ただの行屍走肉であり、実に禽獣にも劣ります。もし子孫もまたあなたの不孝により、互いに不孝で報いることを伝承するならば、それは不孝な子孫の悲哀と苦しみとなるのです。
第三十回 悲歡離合
「別れ」はまた、毎日必要な過程であり、家にいる時も外出している時も同様です。甲の地から乙の地へ行くには、必ず甲の地を離れなければ乙の地に到達できません。その間には必ず「離れる」ことが必要であり、初めて目的地への到達が促されます。そうでなければ「別れ」は成立せず、あらゆる時空において「別れ」の過程が形成されるのです。
第卅一回 喜怒哀樂
もし「怒りて怒らず」となれば、それは修持の境界に変化があったか、あるいは抑圧が昇華したか、もしくは軟弱無能の現れと言えましょう。一怒して天下を安んずる者もいれば、時に一怒して「功徳林を焼き尽くす」者もいます。時に理由もなく怒るのはなぜでしょうか。怒りを転換し、情緒の舒展と散発とすることはできないでしょうか。
第卅二回 得失心態
そうして初めて、業務の完了後あるいは決められた時間に、得るべき報酬、すなわち通貨による潤生を得ることができるのです。人類の眾生は自らの心力、精神、時間、空間を失う一方で、経験の蓄積を得ることもでき、過去の良くない状態、無明、誤った段階を修整し、改造していくのです。
第卅三回 陰陽相待
人生は凡塵において修整し、改造するに過ぎません。人類の衆生が凡塵の種種の歴練を通じて印象を深め、第八識である阿頼耶識に貯蔵されることで、初めて衆生は永遠不変に入り、退転することのない第九識である菴摩羅識、すなわち自性仏体に至るのです。
第卅四回 天地造化
天地の演化過程は、まさに博愛精深です。有情の衆生が感恩し、国家に対してさらに創進の福祉をもたらすか、それともただ自らを凡塵に沈淪させ、次世の輪廻の準備と相續とし、反覆して一切の因因果果を形成するに任せるかは、誠に无奈なことなのです。
第卅五回 宇宙演化
いかにして衆生に帰還させようとするか。誠に「天に登るよりも難しい」ものです。しかし、宗教の教化を通じてこそ、上蒼および宇宙演化の過程を知ることができ、自ら無極仙郷へ帰還できるのです。しかし人類の衆生は、凡塵においていかに修持し、改造し、修整するかを明らかにすることが難しいのです。
第卅六回 回歸收圓
回帰収円：まさに人類の眾生に凡塵において「累世の因果を償還」させ、この一世において「この身の任務を完成」させ、さらに現世のすべてを通じて「修持によって人世間を成就」させ、蓮花仏国の世界を造就するものです。これこそがすでに仏菩薩、聖神仙眞の能量体なのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
南宮が教えを啓いて衆生を渡し、大地を孚佑して沈淪を救済されます。
完 書 繳 旨
今、懿敕道場崇心堂は、堂を開き教えを啓いて真理を宣扬し、母の憂いを分かち労を解き、母である私の心から愛する霊児として、母の心の本意を体得し、母に代わって原児を導き帰還させるため、今、旨を奉じて著作した『大道真詮』がすでに全て完成し、三界の高真の心血の結晶を融合させ、現世の衆生を成就いたしました。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
まさに仏家が言うように、人類の「意識」は「末那識」を経て分別判断され、再び「阿頼耶識」に蔵され、すなわち「種子因」が具備されます。そして「種子因」が「因縁和合」に巧みに出会うと、人類の思想観念が形成され、それに以前の経験の蓄積が加わるのです。これが人類の基礎なのです。
《大道真詮》 推薦序
天地の徳沢による演化はまさにこの通りです。天地に庇護される万物衆生は皆平等に扱われ、決してこれを手厚くして彼を薄くすることや、人類のみを手厚くして万物蒼生を薄くすることはありません。天地の演化の過程において、すべての万物衆生である動植物が、すべて含まれているのです。これこそが上蒼の大慈悲の徳沢なのです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
そのため諸天の仙仏は、折々凡間に降りて真理を説き明かし、他ならぬ衆原霊児を故郷へ導こうとしております。今、懿敕道場崇心堂が堂を建てて一年、おん母の心を体察し善き恵みを施せることは、実に大変感動させられます。故に特に再び天書一部を降ろして著し、その題額を『大道真詮』といたします。
◆ 前置・序 ◆
序一
鴻濛が未だ開けていない天地の間、すべては上天の原霊の縁です。
序三
真の修行と実践によって天に帰ることができ、人生の絶え間ない苦しみを嘆くのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
人類衆生が超越できないのは、聖神仙仏が慈悲深くないからでしょうか。これによって、初原において、一切が不変の本質であることを知ることができます。不変の本質に立った後、凡塵においては必ず「自境根」と「外境塵」の接触の影響を受け、すなわち思考の空間が生じ、初原の本質を迷うことなく、それがすなわち自性なのです。
第二回 初基（無極之二）
もしこの世で人が物を欺けば、次の世では輪転して物が人を欺うことになります。当今の世人の行うことが、すべて天地の徳沢による護蔭に背いていること、ただ人類のみが存在し、他にも万物衆生がいることを知らないでいることに、気づいていないのです。またすべて強をもって弱きを欺いておりますが、しかし、弱き者にも強くなる時があるのです。いかにしてこのような束縛から解脱することができるでしょうか。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
天地（気界）と相互に結合できる必要があり、歿度して帰還した後を待つことなく、さらに自在に行き来できるようになり、まさに「人世間の地仙」となります。「天仙」に再び入ろうとすることも比較的容易です。そうでなければ、一本が万殊に散ずる時、すでに業因果報によって自分を折磨し、また自分を迷わせて輪廻の中に入れてしまいます。
第四回 太極
凡塵の五塵境を通して修整してこそ、徐々に軽盈な天躯を回復できるのです。しかし、凡に落ちれば落ちるほど彩帯は消え、天躯も消滅し、無極理天に帰還しようとしても、難上加難と言えます。衆々の「自性仏」が凡界に入ると、皆塵垢に左右され、すでに凡塵の全てを左右することは難しくなっています。
第五回 兩儀
氣界には両儀があるために陰陽があり、成就するものこそが生息の資本です。もし陰陽が互いに合わさっていない時には成就することができず、陰陽が互いに合わさって初めて成就することができるのです。必ず了知しなければなりません。両儀は八卦の原頭であり、もし根源を了知することができないならば、人世間において了脱することは非常に困難なのです。
第六回 四象
冬蔵：冬の終わりは、すなわち生長収穫の後に儲蔵するだけであり、また住・異・滅の中で「寂滅」したのです。この時、まだ滅亡に入ったわけではありません。また、滅もただ貯蔵するだけであり、完全に損壞迨盡していない時なので、必ず未来の用處があります。すなわち「天生我才必有用」と言うのです。
第七回 八方
八方の天地間は、すべて衆生が生存するために依存する方位であり、また八方の国土内には、多くの宗教が善徳の因縁を導き、修持の列に加わります。しかし、修持する衆生のすべてが回帰できることを保証するものではありません。必ず自分が天地間の正理、すなわち真理をどのように行持するかを見極めなければならず、それこそが正道なのです。
第八回 含因
このような状態であれば、悪因がこの世や来世に入ることがなく、悪果による試練を受けることもありません。もし人間世界において「大乗菩薩行」である覚有情の境界を行持できれば、この世や来世で人間世界の反覆輪廻に入ることなく、さらに自分を造就し、向上向上の成就の果実を得て、仏と菩薩の境界に入ることができます。
第九回 人生
人生において、他人の経験を自分の方針を修正するための指針とすることができなければ、人生の中で真の順境を得ることは非常に難しく、必ずしばしば困難に直面してこの身を磨くことになります。それゆえ、この世の因縁の組み合わせを通じて、必ず次のことを理解できるのです。人類は他人の経験を借りることで、初めて自己成長の過程に達することができるのだと。
第十回 萬法
現在の衆生は皆、電力や車両、そして様々な快適で便利な生活環境に頼っており、自然に回帰することは非常に少なくなっています。必ず衆生が皆順境を好むため、逆境の折磨を受けて物役を転化することが非常に難しく、その結果心中が忐忑不安となり、真に内心に向かって観ることも非常に難しいのです。
第十一回 唯心
しかし内面においては、心の潤いが欠けており、しばしば「私はこの世に生まれて何をするのだろうか」と感じることがあります。日常生活に必要なこと以外、心の成長の潤いが欠けており、心に一抹の寂しさを感じることがよくあります。では、どのようにしてこの「心の空虚感」を打破すべきでしょうか。
第十二回 萬殊
進化した人類は五穀雑穀を植え、衆生を護って万民を養います。現代において、人類衆生は生存のための食物と食欲に依存しなければなりませんが、人類が発展できる空間と物産によって、すでに次第に残忍な殺戮行為から遠ざかっています。また、科学技術が証明しているように、人類は過度な貪欲や欲望を持ってはならないことが示されています。
第十三回 唯物
有情衆生は皆、日常生活の中で、一日中常に修行による変化と調整を行っています。真道の精髓を見ることができるでしょうか。日常生活のすべてを見ることができるでしょうか。すなわち道の総合体となるでしょうか。その端緒を見極めることは非常に難しいのです。それゆえ、日常生活こそが「大道の基礎」であり、道は宗教だけに存在するものではないのです！
第十四回 生死
このように言えば、それはまさに人類が達成できる行為であり、他の万物蒼生には人類のような造化はありません。「天・地・人」の三才が凡塵に並列していることからも、人類がどれほど殊勝であるかを必ず了知できます。人類だからこそ為すことができ、また人類は他の万物よりも優れて高尚なのです。
第十五回 自在
一生が終われば、同じ時間と空間が再び訪れることはなく、生存の因縁の中で既に死を迎え、すべてが終わります。これはまさに滅亡の過程です。したがって、人生において自由自在でいられるでしょうか。すべてを「縁生縁滅」によって組み合わされた条件と見なすのでしょうか、それとも思い出として、常に心に留めておくのでしょうか。
第十六回 惻隱
また、どのようにして自分の感情をコントロールすることを学ぶかが、最も重要です。そうでなければ、人に言われるがままに従い、人の言葉が恐ろしいと感じる時、すでに自分があらかじめ掘っておいた罠の中に自ら入り込み、その後自分や他人が陥るのを待っているようなものです。このようなことは、人類衆生が人として処世する上で、また慈悲惻隠の心を持つ者としてあるべき基本的な行動ではありません。
第十七回 慈悲
必ず上蒼より福を賜るのです。では、なぜそうなるのでしょうか。因果の定律においては、すでに破ることのできない天律であり、必ず進んで徳を得、進んで福を得、喜びて徳を得、喜びて福を得るのです。このように衆生に施捨させながら見返りを求めさせないためには、施捨に必ず見返りを求めず、真に功徳のためではなく、無畏の功徳を行う境地に達させなければなりません。
第十八回 喜捨
自分が愛する物を所有していることを喜ぶのは、世俗の塵世において福報を十分に備えてこそ長く享受できるからです。世俗の塵世において天子のように貴い身分であっても、庶民であっても、すべては前世の因縁が今世の果を成就させたものであり、つまり自分が呼び寄せた福報なのです。決して上天が誰かに厚く与え、自分には薄く与えようとしているわけではありません。
第十九回 因果定律
皆が「天がその心志と所作を試し、天が来て試練を与える」と言いますが、実はそれは自分自身の「我が心の使わしめるところ」「我が心の所作によって定まる」ものです。もし天の試練について語るなら、必ずその来歴や経緯を明らかにすることができ、あるいは自分自身が招いて試練を受けているのです。それゆえ、宗教の修行者のこのような行為に対して、特に天道の修行者は皆これを正理だと言います。
第二十回 思想觀念
すなわち「正と不正」の分別は、必ず人類の思想によって調整され、思想があって初めて観念に入ることができます。このような観念は、人類の思考においてしばしば壁や困難な点に直面しますが、どのようにして改善方法を求めるべきでしょうか。そして、失敗を改めて何度も歩みを調整し、再び新たに出発することができるのです。
第廿一回 教化修持
円満の境界に達することができるでしょうか。それはあまりにも困難です。宗教の修行に限られすぎて、奇抜な癖や気質に染まってしまい、現代の人間社会に溶け込めなくなり、有情衆生と打ち解けることがさらに難しくなります。さらには現世のすべてに受け入れられず、外界から批判されて、修行しながら業を積む者になってしまうのです。
第廿二回 執著固化
「固化」は思想や観念を変えることを非常に難しくさせ、甚だしくはすでに固められてしまっています。また、固化によって自分だけが存在し、他人が存在しないかのような状態を形成します。固化がすでに自分自身を妨げる障害を形成しているのに、それに気づくことができないのでしょうか。自ら設けた垣根を乗り越えることができなければ、自分自身を囲い込み、他人をも自らの垣根の外に隔ててしまうことになります。
第廿三回 五行生剋
もしこのようであれば、必ず時辰がまだ到来していないからこそ、まだ報いがないのであり、皆五行と六十甲子の交替によって、互輔作用が形成されます。また「善悪有報」は天地不変の真理であり、変えることのできない定律でもあります。ただ時空が更迭交替する中で、必ず相互の報應と報償があるのです。
第廿四回 命理人生
まさに塵土に落ちる（初生）時、すでに富貴貧窮、夭寿窮通の分別が注定されており、先天の命格は変更不可能です。しかし、凡塵において宗教修持を通じて、人類の行いによって先天の命格を、瞬時に先天の宿命へと転換させることができます。これは「人為的努力」によって運勢を変えるということです。
第廿五回 矛盾對立
修持、商売、家庭、人との付き合い、物事の処理において、すべてこのような条件であり、「矛の中に盾がある」状態で互いに交戦し、また「盾が矛を防ぐ」形で攻撃します。人類の思想や観念による選択によって、一方では防ぎながら他方では攻撃するという行動は、まさに自分自身の経験不足と、自分自身に対する不信感を生じさせることにつながっているのです。
第廿六回 時空生滅
すべてが展開できないのでしょうか。万物衆生と天地が必ずすべて静止する時、どのようにして繁栄と成長の原動力を達成できるでしょうか。宇宙の開闢、日月と天地の開闢は、まさに永遠に止むことがなく、誰のために停止させることもできません。人類衆生が俗世にあっては、誰も時空を静止させることはできないのです。
第廿七回 輪迴交替
輪廻とは、天地人が互いに循環し更迭する作用のことです。自分の心構えを変えることができるでしょうか。思想や観念を改造して、初めて行動を起こし、作為を持つことができ、さらに往昔や累世、前世の不良な因果を修整することができるのです。そうでなければ、人世間とはまさに大きな輪廻が相続交替する地点であり、どうしようもありません。
第廿八回 生老病死
病気や痛みとは、最も人の闘志を挫くものであり、本来英雄豪傑であっても、病気の折磨を経て、かつて風雲を叱咤したトップクラスの人物も、一世を風靡した猛虎が病気の猫一匹に変わってしまうのです。過去に世間で多くの福報があったとしても、健康な体がなければ、たとえどれほど大きな福分があってもどうしようもありません。
第廿九回 苦空無常
苦しみの折磨とは、必ず心境の折磨と身体の折磨の二つがあります。そして苦しみの中で、どのように病痛を消除すればよいのでしょうか。時には、「劫難を借りて」業果を消滅させ償わなければなりません。自ら進んで受け入れて業果を消滅させ、因果の業報を消滅させてこそ、初めて病痛の苦しみ折磨を消除することが可能になるのです。
第三十回 悲歡離合
「再会」とは：甲の地を離れることであり、もし乙の地に到達しようとするならば、別れと再会の相互作用が生じます。人類の衆生は毎日「別れと再会」の中で自分自身を成就させており、もし「別れと再会」がなければ、一切の因縁を展開することは難しく、天地の至理において因縁和合によって成就されるにも、必ず別れと再会の過程を備えなければならないのです。
第卅一回 喜怒哀樂
抑圧を抒発し宣泄した後は、必ず問題の癥結点を解決できなければなりません。そうしてこそ、「怒り」が抒発の目標に達したと言えます。さもなくば、怒っても問題を解決できず、かえって事態を悪化させ、成就の機会にも恵まれず、怒ったこと自体がまったく無意味になってしまいます。
第卅二回 得失心態
心態の観念：まさに「得の中にまた失があり、失の中にまた得がある」という相続の中で、有情の眾生は得と失の中で自分自身に責任を持つことができるのでしょうか。それとも、ぼんやりと一生を過ごし、自分が捧げたものを失い、現世において自分自身のために通貨潤生の報酬を得て、家族を養い潤すことに留まるのでしょうか。
第卅三回 陰陽相待
そうでなければ、衆生は凡塵において輪廻すること止まず、いつ人世間の因縁果報を了脱できるでしょうか。だからこそ、陰があれば必ず陽があり、陽があれば必ず陰があることは、毎日直面する過程であり、現世において、人世間のいかなる神祇や衆生であっても、陰陽相待の渦から脱離できるでしょうか。甚だ難しいことです。
第卅四回 天地造化
天覆地載は、さらに日月の光明をもって大地の万物衆生を照耀し、しかも功を邀して衆生に恐れさせることはなく、すべて天の大徳、地の大徳、日の大徳、月の大徳の滋潤によるものです。天地人三界の有情の衆生を問わず、一視平等であり、一視同仁であり、同様に護佑と眷顧を受けています。
第卅五回 宇宙演化
それによって無極仙郷、宇宙の本来の場所へ帰還できるのです。また万物の蒼生はすべて上蒼の化すところであり、いかにして向上超越し、円満に帰還できるでしょうか。それは地球の衆生だけではなく、他の星球の天地間においても、南贍部洲の人類の衆生よりも、帰還の本質を具えて向上超越する者がいるのです。
第卅六回 回歸收圓
収円の條件：いかなる瑕疵もなくしてこそ成就できるものです。人類の眾生は修持の過程において、いかに「累世の因果」を改造し化除するべきでしょうか。それによって初めて人世間において真の成就が得られます。さもなければ、歿度の後に成就を論じようとするならば、そのような行いは人世間の、含因改造の基礎から背離することになります。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋一
帝君が降臨され跋を著作し、大道の真詮が帰還の道程を導きます。
完 書 繳 旨
本当に母の心を安心させ喜ばせ、また崇心の諸霊児は皆、母のために真理を説き広め、広く原霊児を導き帰還させることができました。今、『大道真詮』の著作完成に大変なご苦労様でした。母の心は甚だ慰められ、特別に「金品蓮台」を崇心の諸霊児に賜ります。全勤者を基準といたします。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
理心光明禅師が題しております
《大道真詮》 推薦序
理心光明禅師が題しております
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
真理をもって衆原児を導き帰還させ、真に自己のためにも衆原霊児のためにも、標を立て模範となり、成就をもって自我を導き成長とし、仏性を顕わして依りどころとすることを期望します。南海古仏を主著仙師とし、三界の高真仙仏を陪著仙師として任命いたします。
◆ 前置・序 ◆
序一
古い水が潮に還り今また存在しています。祖上の伝承により真詮が現れます。
序三
帰還の功徳が満ちて楽しみは悠閒であり、再び輪廻して世間に戻ることはないのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
思考の空間を持つことは、まさに一切の始まりであり、良善で美好な方向に向かって行えば、この種の行為は善徳の徴となります。逆に、悪劣な方向に向かって行えば、必ず業障と横逆の試練に遭い、不善の徴を形成することになります。このような時機は、まさに悪殃がすでに始まったということなのです。
第二回 初基（無極之二）
「現在、私は極めて強く、極めて盛んである」とは言えません。天地の定律において、物極まれば必ず反るものであり、盛んの極みや強勢はすべて中道を偏っているからです。それゆえに「物極まれば必ず反るという理」こそが天地の循環であり、交互に入れ替わる必然性なのです。もし中庸の道をもって人世間を歩むことができれば、その行いはすべて中庸に叶うものとなるでしょう。このように申しております。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
人間のこの肉体をうまく利用することができれば、業を造って自分を陥めるようなこともなく、また自分は自分の主人であり、他人が自分に代わることはできません。しかし、人間が時には自分の主人でなくなってしまうと、それはまるで傀儡のようになってしまいます。そのような状態で人世に生きていては、自分自身を改造したり、衆生に福をもたらしたりすることはできないのです。
第四回 太極
それ故に世間の情景に迷い、あらゆる不如意や不順遂に遭い、自分の「心識」に従って先天の天躯を回復することができません。凡塵では全ての事象に向き合わなければならず、様々な不如意が身に降りかかるとき、思考の中で、どのようにして地球空間に適応して生存環境とすべきかと考えるようになります。
第五回 兩儀
原の頭より、どのように来てどのように去るのかを了悟してこそ、当今の時代において一通徹を得ることができ、真の修持者となるのです。陰陽両儀より四象を分け、さらに八卦に分けるにあたって、先天八卦であれ後天八卦であれ、すべて両儀が衍化させた万物であり、両儀こそが一切の万物の総原頭なのです。
第六回 四象
人類もこのようであり、万物もまたこのようです。人類について言えば、冬の蔵は、すでに垂老した長者に例えられるでしょうか。人類の生存におけるすべての歴練は、豊かに盈満しているでしょうか。また、「黄昏光陰」の時間をよく利用して造就し、まさに「豐富で貴重な経験」を傳承して人世間を利益することができるのでしょうか。そうでしょうか。
第七回 八方
衆生を本来の姿に回帰させることもできます。八卦が顕す禍福得失の中には、衆生の未来のすべてを見ることができ、「占わずして予め知る」ことを定数とします。しかし、それらはすべて衆生の所作所為によって更迭することができ、すなわち天地の造化と定数を移転してこそ、禍福の因由を転換して創造することができるのです。
第八回 含因
人生とは、必ず累世の堆積を経て、宿世の含因が促成したものも蓄積されます。善し悪しにかかわらずすべて前世の因の影響を受け、今世で業報を受けて成就することになります。善いか悪いかは前世のすべてを見る必要はなく、ただ今世で受けているものによって、前世がどのようなものであったかを知ることができるのです。
第九回 人生
一人ひとりがこのような経験を持って初めて、この世における善悪や良否の組み合わせを展開することができ、有情衆生は皆このような過程を経ていきます。もしこの生における有用な肉体で蓄積した経験を、自分の修持に役立つものとして用いず、ただこの世で生存するためだけに、あるいは一日三度の食事のためにやみくもに忙しく動き回るだけで終わってしまうのであれば、それは本来の目的を果たせません。
第十回 萬法
もしある朝、電力や車両、そして様々な快適で便利な生活環境がすべて現れなくなったり、停止（当機）したりした時、衆生がどのようにこの生を過ごすことができるでしょうか。過度に快適で便利な環境、すなわち順境の中にいるため、逆境の衝激や試練を受けることが非常に少なく、心灵の滋潤が減少するのではないでしょうか。
第十一回 唯心
「空虚な心」の心境を用いて、「空虚で寂しい」という感覚を転化することができるでしょうか。そうして初めて人世間で自己を成就することができるのであり、そうでなければ、どうして衆生にこの世で自己を成就させることができるでしょうか。次の世まで待って成就すべきでしょうか。有情衆生は皆、万法唯心による成長によって、自己に成就の機会を与えているのです。
第十二回 萬殊
もし過度に万物衆生を傷つけ、血生臭い方法で人類を養うならば、五穀雑穀、瓜、野菜による理想的な食事は得にくくなります。現代において「菜食」を提倡することは比較的容易であり、また人類は、殺生をしない、殺されるのを見ない、自分のために殺させないことを基本の綱紀とすべきです。
第十三回 唯物
人が世に生を受ける以上、必ず外界と相互に結合し、繋がなければなりません。すなわち当今の社会と相互に結びつくのです。そうでなければ！行いが現実生活に背く時、どのように資糧を善用して、自らの生存を養護できるでしょうか。人世间で人道の生存を達成し、宗教の修行による調整に入ることができなくなってしまうのではないでしょうか。
第十四回 生死
そうでなければ、一切の動植物も修持によって改造できる時に、天地と同寿の紀元に達することもできます。人類は生存空間において、必ず修持改造を通じてこそ、生息の資糧を確立することができ、修持による改造によって「生と死」の輪廻交替を離れることができるのです。
第十五回 自在
もし坦々と放下することができなければ、永遠に手放さず抱え込み、過去の物境によって試練を受けることになります。これは宗教の修行者が持つべき態度ではありません。そのため、すべての縁生縁滅において、自在でのんびりと過ごすことができず、本来帰るべき本質を埋もれさせてしまいます。このようでは、必ず曇花一現のように消え去ってしまうでしょう。
第十六回 惻隱
どのような人であっても、皆慈悲の本質を備えており、惻隠の心は誰もが持っています。もしただ人間の弱みを利用し、慈悲や惻隠を踏みにじるようなことがあれば、必ず衆生が爱心を追及し発揮することを妨げ、かえって慈悲惻隠の心を退却させてしまいます。このようなことは、情けある人類が決して行ってはならないことです。
第十七回 慈悲
すなわち何も求めない中で、上天はすでに布施や施捨の本意を明瞭に理解しており、真に無為の報酬を与え、豊かに満たしてくれるのです。このようなものが「陰騭」なのです。また陰騭は福報よりもさらに豊かで厚いものをもたらしますが、有情衆生は陰騭が何であるかを非常に理解し難く、そもそもどのようにして「陰騭」を積むのかを全く理解していないのです。
第十八回 喜捨
すべては慈悲喜捨によって成就した福徳なのです。だからこそ、捨てるからこそ得ることができ、捨てるからこそ徳があるのです。心から喜んで真実に布施を行い、さらに心から喜んで布施する徳を得ます。「徳とは得ることであり、得ることは徳の根本である」ということです。もし世俗の塵世に生きていることが、今世の福徳を自分が十分に備えているからだと思うなら、それ以上どうできるでしょうか。
第十九回 因果定律
実は、そうではないのです。なぜ「善因が悪報を得る」ことがあるのでしょうか。それはまさに、宗教における真実の修持、恐れのない犠牲と奉仕、誠実な施しによるものです。なすべきこと、行うべきことをすべて行い、すべてを捧げたのに、まだ満ち足りていないのでしょうか。なぜ依然として善報と順境を得るように変化させることができず、業障による試練を減らすことができないのでしょうか。
第二十回 思想觀念
人間には「失敗は成功の母」という諺がありますが、これは現世における名言です。人は皆、失敗の中から改善方法を求め、成功の条件と行動に至るのです。人類の思想や観念において、もし善良で美しい物事の处理方式を確立できれば、必ず思考の筋道から、行動もすべて善良で美しい方向へと向かうことができます。
第廿一回 教化修持
修行は現在において、現世を通じて変革を行うべきです。修行と教化の基本的な意味を理解する必要があります。修行に入った後、現代の現世と乖離してしまったのでしょうか。修行の方法が間違っているのでしょうか。それとも修行の真の意味を理解できないのでしょうか。それは自分の傲慢な心によるものであり、自分の迷いの障りを変えることは非常に難しいのです。
第廿二回 執著固化
他人と共に互いに親しくすることができるでしょうか。難しいことです。難しいことです。まさにこのような原因によって形成されるのです。また、「執る者」は原動力であり、「著す者」に対してはさらに定点が異なります。「固める者」においては、必ずその成果を守り、外界と互いに結合することはありません。また、「化す者」に対してこそ、初めて垣根を取り壊すことができるのです。
第廿三回 五行生剋
もし各自が善行を行い悪事を働いても、善報と悪果を受けなかった場合、それは自分の行持がまだ満盈に達していないからでしょうか？あるいは悪運に遭ってまだ離れられないからでしょうか？善悪には必ず報いがあるという古訓があり、早いか遅いかの違いだけです。人類の衆生が善行を行う際には、「無為長遠」を保持すべきであり、急ぐ必要はありません。
第廿四回 命理人生
命格は先天にすでに注定されていますが、凡塵において人類の思想や観念によって変えることができます。本来の不良な含因と不良な悪果を、修持および行善を通じて広く積み重ねるのです。陰功、功徳、善徳、正徳、心徳など、様々なものを積み重ねることで、先天の命格に左右される状態を変えることができるのです。
第廿五回 矛盾對立
明確に理解する必要があります。他人の矛によって自分が攻撃される時、自分の盾を使って鋭い矛をどのように防げるか。また、自分の矛で他人を攻撃する時、もし相手が盾で防げない場合、矛でその急所を突いて、相手に自分が与える傷を負わせることになるのかどうかを。
第廿六回 時空生滅
天地間のいかなる仙仏といえども、このような能力はありません。このように宇宙の過程が変異する中で、必ず「時空生滅」の道理を明らかにし、初めて人間世界において改造と向上を行うことができます。人間世界にあっては、「時空生滅」が続く過程を必ず通り、初めて因縁和合の相互結合を展開することができるのです。
第廿七回 輪迴交替
人世間において、どの衆生が輪廻の制限から抜け出すことができるでしょうか。新たな思想や観念によって更迭し、行動を作為の修整から始めて、初めて輪廻を終結させることができるのでしょうか。必ずしもそうとは限りません。人世間においては、苦空無常、生老病死、喜怒哀楽、悲歓離合が互いに継接されているに過ぎないのです。
第廿八回 生老病死
病気や痛みとは、健康な体がないために、必ず病気の負担を増加させます。上天が累世および前世に蒔いた因果によって、まさに清算の過程を経て、業障を消滅させることで、当然受けるべき苦い結果を受けるのです。このような大きな病気や痛みは、決して偶然でも平常なものでもなく、業を消滅させる中で理解できるのです。
第廿九回 苦空無常
ですから、人世間に苦しみが存在するのは、単なる病痛だけではありません。心へのあらゆる折磨、身に徹する痛みはすべて苦難です。そして苦難が衆生にもたらすものは、まさに裏面からの成就の原動力なのです。もし苦しみの折磨がなければ、平順の中でつい業を造りながら気づかず、罪を造りながら理解できないということが頻繁に生じてしまうでしょう。
第三十回 悲歡離合
因縁和合の働きを促すその間には、なお悲しみと喜びの経験があり、またあらゆる物事の過程において、思い通りにできるかどうか。自分の心に沿って達成できるのは、必ず「喜び」が現れているからです。したがって、あらゆる物事において、もし自分の思い通りに実行できない時には、必ず「喜び」の心を成就することは難しくなるのです。
第卅一回 喜怒哀樂
哀しみ：情緒の中で、思い通りにならない過程に遭遇し、個人の内なる不満を宣泄することです。哀しみは人類の情緒反応を通じるものですから、哀しみの心境がなければ、個人の心の変化に耐えることは難しくなります。哀傷の中で鼻がつんとし、涙が宣泄されるのであって、そうでなければどうして「哀しみ」がありましょうか。
第卅二回 得失心態
それゆえに、得れば必ず失い、失えば必ず得るのです。得と失はまさに凡塵において、人類の眾生に対する一種の戒めとなります！また真実の生存法則においても、この過程は一人ひとりの眾生が経験するものであり、それによって初めて別の知識の蓄積と智慧の増長を得ることができるのです。
第卅三回 陰陽相待
三界においてもまさにその通りであり、凡塵においてはさらにそうです。それが衆生にこのような渦を了脱させ難くしています。上蒼が衆生を教導し、いかにしてすべての空間の束縛と糾纏から跳脱し、衆生を無極仙郷、虚空天界、宇宙大天界へ回帰させるか、いかに陰と陽の過程を了脱するかを導くのです。
第卅四回 天地造化
凡塵の衆生で、天地日月の大徳が万物の衆生への徳澤であることを明白にしている者が何人いるでしょうか。それは自然の演化過程にあります。自然の演化とは言え、その間には諸天の仙仏高真が、すべての演化の主導者を務めており、しかも天地の衆生に明瞭させない天機の奥妙があるのです。
第卅五回 宇宙演化
このような因縁条件は、宇宙から五大部洲「東勝神洲、西牛賀洲、南贍部洲、北俱蘆洲、中須弥洲」を区分するものであり、すべて須弥山麓の近くにあり、三千大千世界の芸芸の衆生に対して、地球の万物の衆生だけが生存しているわけではありません。
第卅六回 回歸收圓
往昔の聖神仙仏は皆、人世間の修持によって成就したのであり、決して歿度の後に成就を論じたのではありません。そのようにしては因縁和合の相続に流れるのみであり、いかにしてこの目標の過程を達成できるでしょうか。必ず人世間の当下において成就できなければなりません。言えることは、歿度の後に成就を論じるのではないということです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
不足の者は暫く上蒼に預け、功勲が完備されるのを待って再び諸霊児に賜り、ご辛苦を慰めましょう。また、崇心の諸神仏の功を三等加え、母のために労を分かつ苦心に報います。崇心がさらに励み、より広大な効力のある天書を著作し、衆霊児を導き帰還させることを、母は切に望みます。特別に懿賞賜いたします。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
『大道真詮』天書再版の前にです
《大道真詮》 推薦序
大道シリーズ第四冊再版の前にです
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
旨が到る日に即座に著述を始め、金曜日の授業日に著作し、完成を第一とし、期限は設けません。諸原霊児が力を合わせ心を一つにして、共に「大道の普化、更に真詮（理）をもって衆原児の帰還を成就する」ことを行い、完了の後に崇心の諸原霊児等の功を論じて賞を与えますことを望みます。
◆ 前置・序 ◆
序一
玄玄上人
序三
『大道真詮』は限りなく衆生を救い、成就させて本原に帰還させるのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
初原の始まり、すなわち起動する時、一切は外界の塵境の影響を受け、この種の「自境根」は「外境塵」の影響を受けます。また、人世間には人類の生存空間しかないため、根本的に先天の本来を顕現することは難しく、さらに外界に左右されるため、自性を回復することも困難なのです。
第二回 初基（無極之二）
秦の始皇帝は長城を築き、強勢をもって弱きを欺き、民心は沸き立ちました。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
自分は自分の主人であることをしっかりと理解しなければなりません。そうして初めて、人世において自分が果たすべき本分を全うすることができるのです。そうでなければ、自分自身を改造して成長し、自分を高めて成就することは非常に困難です。有情衆生は過去の業の影響を受けて今生があり、そして今生はまた次の世で因を造る者であり、すなわち因を含み備えて演化していく者なのです。
第四回 太極
全ての事務はここから始まり、また凡に降りたばかりの「先天彩帯」も消滅し、躯体はさらに重くなりました。先天より持ち込んだエネルギー体や身に纏う衣物も破旧し、六神通も次第に消えていきます。この時になって初めて惶恐が始まり、周囲の全てに対して徬徨無助を感じるようになりました。
第五回 兩儀
陰陽の分別について申し上げます。凡塵の象界に落ちて初めて陰陽の分別が生じます。気界においても乾坤の分けはありますが、象界に比べればすでに曖昧模糊としています。乾坤を分けず、すべてを同等に、平等に扱うため、男女の分別もありません。しかし、象界の衆生に対しては分別が非常に明確であり、これは伝延の趨勢によるものであり、決して責められることではありません。
第六回 四象
そうして初めて、まだ敗壞する前に、万物と人類に利することができるのです。この時、一切はまた人類の最も豐盛な時光であり、ただ無用な人種としてのみ生きるわけではありません。もしそうであるなら、それは非常に悲しいことです。もし自分に光輝ある生命を残したいと思うならば、自分にも利益し、衆生をも利益できるかどうかを観察しなさい。そう望みますか。必ずよく努力しなければなりません。
第七回 八方
なぜこのようになるのでしょうか。実は先天の命格は変えることができませんが、人類衆生の所作所為によって、先天の命格を変更することができます。これを「造命」の条件と呼びます。古諺「命中に時あれば終に須く有るべし、命中に時なければ強いて求める莫れ」という教えに対し、現在はまさに「命中に時なければ造就せよ」という理由が当てはまり、まさにその通りなのです。
第八回 含因
含因によって形成された様々な善悪、善し悪しの因縁は、ただ待ち守る状態にあるだけであり、必ず因縁が促されて初めて展開され果報となるのです。また人為的な要因によって因果の善し悪しを修整するには、人類の思考と行動を経る必要があり、それによって初めて善悪、善し悪しの果報が形成されます。
第九回 人生
人類衆生は、必ずこの身を用いて真に自己を改造し、初めて自己の主人となることができるのです。そうでなければ、日常生活にやみくもに忙殺され、必ずや自分を修持の位階に投入して悪業を転換し、自己の知識の蓄積を成就し、次回の智慧の応用につなげることは難しくなります。
第十回 萬法
心灵の中で滋潤され成長するための資糧は、まさに「静寂」の中における存在点です。そしてどうなるのでしょうか。人類衆生が人世間で生存する以上、必ず凡塵において物役（欲）に迷わされ、自己の本来を迷失し、それは自我の成就発展に影響を及ぼすのです。まさにそのためなのです。
第十一回 唯心
必ず自己が解脱し、自己を浄化できるからこそ、人世間で宗教の薫陶を受けることができるのです。もし自己と衆生を成就できない場合、次の世で再び人間に生まれる機会があるでしょうか。それは必ずしも決まっていません。まさに「万法唯心」によって造られるものであり、この心は必ず宗教の修持および自己の浄化を経て、さらに高めていかなければならないのです。
第十二回 萬殊
その声を聞き、その死を見るに忍びず、慈悲や憐れみの心を持って、道場と現代世界を成就させるのです。人類は必ずこのような観念と活動を持たなければならず、それこそが上蒼の提唱する「戒殺放生」の根本であり、まさに人間世界を造就するために必要な慈悲と憐れみであり、これこそが人類と万物の本質なのです。
第十三回 唯物
凡塵においては、現世のすべてを借り用いてこそ、人道生活を展開することができます。そうでなければ、人道すら円満にできないのに、なお宗教の修行の過程で、地道（神道）の成長条件に達し、天道を成就することを望めるでしょうか。それはまさに縁木求魚であり、さらに因縁の展開を促すことなど到底できないのです！
第十四回 生死
このような良機があるのは人類に対してだけであり、万物および衆生にはこの良機はありません！人類を万物の霊長として、凡塵に立ちながら天地と同じ紀元を望むのか、聖神仙仏や菩薩高真などのように超越昇進するのか、それとも毎日、毎回輪廻の中にいるのか。それはすべて、自らの修持改造によって決まるのです。
第十五回 自在
衆生は皆このように、過去のすべてを最も貴重なものと思い、未来において、なお過去の経験を借りて展開すべき多くの事物があることを知りません。このように凡塵ではしばしば見受けられ、多くの人々が過去に生き、歓喜と苦痛の思い出の渦中に生きています。そして、常に凡塵において自分の向上と超越を縛っているのです。
第十六回 惻隱
天地に情があり、衆生に愛があって、初めて当今の時代を成就することができ、必ずすべてを包容することができます。天地に対して大愛や大情の包容心を持ち、いかなる万物であっても包容し融合することができるのです。また、衆生に対しては、良いか悪いか、善いか悪いかにかかわらず、すべてを一体として護佑するのです。
第十七回 慈悲
慈悲喜捨とは、まさに自分が愛するもの、自分の福の余りを捨てることです。凡塵において福のない欠けている衆生に与えるのです。上蒼がそれぞれの衆生に与えるものは皆同じであり、皆平等に扱い、どちらが多くてどちらが少ないということはありません。ただ衆生自身が感召したものであり、加減や乗除の計算の中にあるだけなのです。
第十八回 喜捨
もしある種の人、つまり一毛も抜かない吝嗇な人のような行いをするなら、そのような行いは次の世で困苦するだけでしょう。もし転生して獣の身となり、他方の世界に入って償うことになれば、「天地の大公は私を引き、己の私は必ず大公に合わせなければならない」という理に照らせば、これはまさに失うものが得るものより多い行いです。決してそのような行いをしてはなりません。
第十九回 因果定律
それはまさに、自分自身の所作所為において理解していないことによるのです。衆生平等、宗教平等、修持もまた平等であり、それぞれの自性も皆平等であるべきです。また、それぞれの宗脈の修持には異なる殊勝な部分があり、それは衆生一人ひとりの選択にも適っており、まさに自分が好きな宗教信仰と修持の方法なのです。
第二十回 思想觀念
では、どのように行使し行動すべきでしょうか。その結果は、善因善果を得ることです。もし悪しき方向へ行使する時には、不善や邪悪な思想や観念が生じ、それに行動や作為が加わると、悪報に引きずられ悩まされることになり、未来の悪禍の原因となります。そして、人類の生存に災難をもたらす原因ともなってしまうのです。
第廿一回 教化修持
「修行の日常化」「修行の生活化」「修行の変革化」「修行の円満化」を実践できなければ、どのようにしてこのような境界に達することができるでしょうか。まさに「日常生活と乖離せず、宗教とも乖離せず、社会とも乖離しない」ようにし、他人を低く見て、自分を高く評価してはなりません。
第廿二回 執著固化
「執着固化」においては、「著」と「固」を転化させる必要があります。そうでなければ、「固化」への「執着」は変化が難しくなり、次第に化石のようになってしまうでしょう。どのようにして化石を打ち砕き、転回させることができるのでしょうか。柔軟であることこそが、「執」持する力が継続されるのです。そうでなければ、常に定点に「著」し、成規を「固」く守るようでは、「化」へと転じることは難しいのです。
第廿三回 五行生剋
五行の中では、必ず地理風水によって定論が下されます。人が世にあっては、積徳を先とすべきであり、善徳によって初めて福報を具足することができます。また、凡塵の世人は皆こう言います。一命、二運、三風水、四読書、五積徳が最後であると。このような謬論は必ず「因因にして果を得る」中にあり、善と悪は皆、人世間における所行所為の一切なのです。
第廿四回 命理人生
もし人類の先天の命格が非常に優秀で良好であっても、凡塵において地理的環境および福報の影響を受け、先天の命格や上蒼から賜った福分を大切に珍惜することができず、ひたすら福報を享盡し使い果たしてしまうなら、このようなことは人為的な要因によって引き起こされるものであり、どうしようもありません。
第廿五回 矛盾對立
このような方法が使えるでしょうか。他人は反撃しないでしょうか。決してそんなことはありません。もし衆生を導いて修持をさせ、この方法を使って学生の「盾」と「矛」を交差させて用いるなら、後学の者は前人の「矛と盾」による相互攻撃に耐えられるでしょうか。また、心の防衛を打ち破ることも、遅かれ早かれ同じような作用に過ぎないのです。
第廿六回 時空生滅
時空の生滅とは、この時間に至るまでに、すでに30分の光陰が経過しています。この時間は、すでに「天音伝真」が始まった時の著述とは異なります。空間は同じで時間も同じですが、日付はすでに異なっています。そして人間世界において時空が継続して結合して初めて、因縁を展開する可能性があるのです。
第廿七回 輪迴交替
このような条件を修整し変化させることができれば、初めて宇宙の中に身を置く場所を得て、虚空中で清らかさを取り戻し本質に帰することができ、また無極に帰して元の地点に戻ることを達成できます。必ず天地の間で教化を伝え宣導する者となり、成就を収めることができれば、輪廻交替の相続を断ち切って超越する者となるのです。
第廿八回 生老病死
病気や痛みの折磨を経てこそ、業障と業因の終結を了清することができます。病気の折磨は、人類が病気になれば家族全体に及び、まさに共業が病気の成因を形成しています。現代の医学や科学技術が発達しているのに、なぜ生涯ほとんど病院にかからない人がいるのでしょうか。医師とほとんど縁がなく、また生涯薬瓶を手放さない人がいるのはなぜでしょうか。
第廿九回 苦空無常
したがって、「苦しみ」とはこのように、衆生に対して裏面からの成就の基盤を促すものです。苦しみがなければ楽もなく、苦しみと空は無常です。天下に永遠の苦痛は絶対に存在せず、永遠の歓楽も存在しません。それゆえ、「苦しみと楽」はすべて人世間にあり、まさに人類の生活の過程が反映されて継承されているのです。
第三十回 悲歡離合
むしろ「悲しみ」に変わってしまい、肉親が遠く離れたり、亡くなったりすれば、「喜び」ではなく「悲しみ」が生じます。それゆえ人生においては、必ず悲しみと別れ、喜びと再会の過程があり、「悲しみと別れ」の過程があってこそ、「喜びと再会」が続き、もし「悲しみと別れ」がなければ、どのようにして「喜びと再会」が巡り合って再び出会えるでしょうか。
第卅一回 喜怒哀樂
「哀しみ」もまた情緒抒発の癥結点です。哀傷がなければ、涙が流れてくることもありません。「哀しみ」は内なるあらゆる不満を通り抜け、横逆の転換点に遭って初めて舒解されるものです。人生の不如意や挫折感に対し、「哀しみ」は抑圧情緒を抒発する最良の方法なのです。
第卅二回 得失心態
もう一例を挙げましょう。諸賢生が崇心堂に入った時、何を求め、何を得たいと希望されているのでしょうか。まだ明確ではないのではないでしょうか。あるいは、自分が得られるものが何であるかをまだ了知されていないのではないでしょうか。未来に対して一種の疑問符が浮かんでいる状態です。このようにしてまさに上蒼は諸賢生をご覧になり、是非を判断する機能を具足しているかどうかをご覧になっているのです！
第卅三回 陰陽相待
それができて初めて、本来の原居処へ回帰できるのです。陰陽の相互対待は人生の至理であり、いかなる衆生や人世間の仙仏といえども、これから跳脱することはできず、凡塵の衆生においてはなおさらです。三界の輪廻を了脱することも甚だ難しく、人類の衆生の生存過程において、根本的に上方への増長向上が難しくなっています。
第卅四回 天地造化
天地の徳澤は万物に及び、日月は光明をもって大地を照耀しています。恵を受けるのはまさに我々自身であり、天地人すべてがその徳恵を受けているのです。仔細に考えれば明瞭になりますが、天地が大地の衆生に与えるものは、無微不至、無所不及の徳澤です。沈淪する大地の衆生が一日も早く自性仏体を顕彰して回帰することが期待されています。
第卅五回 宇宙演化
宇宙演化の過程は、三千大千世界の各星球の衆生がすべて帰還成就できるようにするものです。すなわち宇宙の大空間において軽盈の天躯、すなわち自性仏体を具えることで、帰還の基本を備えることができます。さもなければ、凡塵の禍福得失のみに留まれば、三界の束縛に左右され、帰還の本質はさらに難しくなります。
第卅六回 回歸收圓
収円回帰：仏菩薩、聖神仙眞は皆、人世間において眾生に福澤を与え、天地間に恩恵を施した方々です。また眾生に徳澤の良機を与えて成長・超越させ、それによって上蒼の考核を通過できるのです。さもなければ、歿度の後に成就を論じようとしても、それはもはや人類の理解できる概念ではありません。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
勤めを矢のように励み勇み、怠らず疎かにしないで、神人は叩頭して恩に感謝いたします。
◆ 前置・序 ◆
《大道真詮》 編輯誌
丁酉中元、2017年8月
《大道真詮》 推薦序
丁酉中元、2017年8月
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
母の意に背いてはなりません、謹んで行い怠ってはなりません。
◆ 前置・序 ◆
序一
玄なるものは天地の不思議な幻で、玄のまた玄なるものは宇宙の展開です。
序三
よい、よい、よい、よい、本当に良いのです。素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい、本当に素晴らしいのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
自性を顕現することができなければ、大道がどれほど殊勝であっても、また真詮の道理がどれほど超越していても、自性の仏体を回復することはできません。人類衆生はみな本来、すなわち仏性を具えていますが、どのようにして展開すべきでしょうか。必ず時空に影響され、主導され、左右されることになり、それが一切の動原の始まりとなってしまうのです。
第二回 初基（無極之二）
万里の長城は今なお在りますが、昔年の始皇帝の御姿はお見えになりません。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
人間は良くない含因、すなわち業因を改めて、次の世に入らないことができるのでしょうか。それには必ず現世において自分自身を成就させなければなりません。もし自分自身を前世に置くことができ、つまり今生は次の世であるという考え方ができれば、次の世すなわち来生において、今生のすべてがまさにすべての因果業障を改造するものであるかどうか、それをしっかりと理解する必要があるのです。
第四回 太極
長い年月が経つと、使える物が何もなくなり、最終的には洞穴に住むことしかできず、さらには木の葉で体を隠すだけになってしまいました。ですから人類の最も古い由来はまさにこの通りで、無極天から気天に降り、さらに象天に降る、これが人類の最も古い降生の根源なのです。
第五回 兩儀
人世間において修持に励み、自性の仏体が顕現する時に至れば、そもそも陰陽を分ける必要などありません。外見を見ればすでに乾坤陰陽の分けを知っていますが、実は内性のうちにはすでに丸く円満で、光り輝く霊体となっているのです。これに至ってすでに陰陽の境界を超越し、清浄な本体に、光明なる本来に帰るのです。
第六回 四象
冬の蔵：もしすでに滅盡に入ったならば、必ず初春に転換し、再び反復変化して、また一年の更迭となります。人生はこのような過程を通じて、一年また一年と組合され、人類の生存空間を形成し、また每年の歲月の増加を造就し、一歳又一歳と加わり、また一年又一年と消逝していくのです。
第七回 八方
八方は人類の生存空間を提供しています。人類が生活する地球において、東・西・南・北・東南・東北・西南・西北の定位によって、八卦「乾・坎・艮・震・巽・離・坤・兌」がそれぞれ一方に据えられることで、初めて人類の禍福転換の空間が生まれ、人類を生存の交替点へと促すのです。
第八回 含因
衆生は皆、含因が初めて動く中で、必ず人類の思想と行為によって影響を受け、良くない悪因を善果に変換できること、また人類の行動行為によって、本来善良な含因が悪果になってしまうことがあることを知りません。そのため因と果の循環において、良い因は必ず良い果を得、悪い因は必ず悪い果を得るというのは、不変の定理なのです。
第九回 人生
衆生が顕化に迷っている時には、人生の成就経験に役立てることは非常に困難です。このような場合、それは上蒼の過失でしょうか、それとも衆生の過失でしょうか。必ず理解できるはずです。人類は生存の組み合わせを通じて、自分を光明と闇の未来へと投げ出すことができますが、どのように選択すべきでしょうか。必ずこの一生を善く用いて、初めて己に報いることができるのです。
第十回 萬法
衆生よ、皆自己の「心識」によって万法を成就し、そして万法が万物を成就するのは、まさに相輔相成の結果であり、すなわち順境なのです。しかし「一本が万殊に散ずる」時、どのようにして再び「万殊が一本に回帰する」ことができるのでしょうか。万殊・万法・万物は、すべて人類によって造就され、さらに上蒼によって演繹されてきたものなのです。
第十一回 唯心
そうして初めて転変することができるのです。凡塵における様々な良くない因を改造し、成長の過程で自己を向上させ超越することができます。人類衆生は必ずこのような基本的な行いをして、初めて真に人としての本質を持つことができ、もし宗教の教化と修持を経ずに、自己成長や自己改造を達成しようとするなら、可能でしょうか。それは容易なことではありません。
第十二回 萬殊
したがって、天の大徳は生を好むことにあり、地の大徳は生を育むことにあり、人の大徳は生を放つことにあります。このように三つが鼎の足のように確立してこそ、人類の慈悲心を成就することができます。もし人類が強勢を頼りに他の衆生を傷つけるならば、それはまさに人類の不慈であり、また食物連鎖の組み合わせも人類にとって必要なものであり、食物によって自らを養っているのです。
第十三回 唯物
人が世に生を受ける以上、まず人道を実践し、次に神道（地道）の修行を合わせ、さらに天道の行持に向かわなければなりません。そうしてこそ、それぞれの関を円満に乗り越え、何の罣礙も、すなわち阻碍もなくなるのです。そうでなければ、修行しようとして修行する時、人道すら円満にできないのに、どのように地道を経て天道に繋ぐことができるでしょうか。それは不可能なのです！
第十四回 生死
人生在世するのは、わずか数十年の寒暑に過ぎません。もし善く修持改造に役立てることができれば、必ず天地と同寿になることができます！人類の生死輪廻において、功果と業障の牽纏がどのようなものであれ、もし生死の迷障を破除できなければ、必ず来世で再び輪廻する種となるだけです。
第十五回 自在
このようです！では、どのようにすれば自分に成長の機会を与えることができるのでしょうか。もし過去の良くない行いを払い落とすことができなければ、過去は既に過ぎ去り実体はありません。このようでは、人世間において経験を自己改造の資本とすることが難しく、また自分自身にも生存の自在でのんびりとした生活を与えられず、終日過去に沉迷してしまうでしょう。
第十六回 惻隱
天地万物は公正平等であり、大愛大情の本質を持っています。人類衆生は天地の徳澤を学ぶことができるでしょうか。必ず大情大愛をもって衆生を成就させなければなりません。また、日月星辰に対しても、天地の徳澤によって平等に視るのです。これは天地日月星辰が、大寰宇宙の間において、遵循すべき運行の規律を持っているからです。
第十七回 慈悲
なぜある人は生まれた後、すぐに長く福德と善報を楽しむことができるのでしょうか。それはまさに自分の行いに対して加減乗除を行って統計したものであり、上蒼がもともと一人一人に与えた賜った本質を加えたり減らしたりした結果なのです。それによって人世間において、なぜある人は長く栄華富貴を楽しむことができ、またある人は衣服で体を覆うこともできず、一日に一食も食べられないのか、その原因が生じるのです。
第十八回 喜捨
世俗の塵世においては「中庸の道」によって実践します。中庸とは、偏らず倚らず、過度でもなく不足でもないことです。つまり、行き過ぎも及ばないことも、中庸の道の働きに達することはできません。中を行う者は天地の道であり、行き過ぎも及ばないことも正道ではなく、天の大道に合うのです。必ず人世間においては、中庸を行う者となるのです。
第十九回 因果定律
どれほど殊勝で、どれほど高超で、どれほど至高無上で、最高で最も優秀であっても、自分だけが生死を超えられ、他の者は皆できず、さらに輪廻しなければならないと言うのであれば、それはすでに宗教平等に背いており、すべて正理ではありません。また、衆生が宗教の修持に入るにあたって、修持の真実の義に背き、修持平等の観念を持つことがさらに難しくなるのでしょうか。
第二十回 思想觀念
人は万物の霊長であり、もし人世間において過去の経験を思考の筋道として調整できれば、皆、人世間において本性に従って行動することができます。「人の初めは性は本善、人の行いは善本性」ということにおいて、人のなす所為は皆、「美好」な始まりと、「善良」な行いや行動から離れることはありません。
第廿一回 教化修持
このようにして宗教に入れば、すでに修行の生活化から離れてしまっています。また、教化と修行の目的は、必ず衆生を宗教の修行に導くことができます。修行者にとって、宗教の修行の過程を理解し、真に生活化を実践することが必要です。知るべきは、生活すなわち道であり、道すなわち生活であり、修行もまた道であり、道はさらに修行の調整であるということです。
第廿二回 執著固化
人世間のすべての事柄には、執（持）着する力が必要です。それは、家庭、愛情、夫婦、親情、子女、親族、商売、事業、人間関係、試験、功名、利禄、出勤、休養、遊び、食事など、あまりにも多くのことを含んでいます。そして、どの事柄にも「執持」する確固たる力が必要なのです。
第廿三回 五行生剋
「陰騭豊盈」を具足する必要があります。上蒼は各人の所行所為を総合判断の基準とされ、福報を賜るか、あるいは禍悪に遭うかは、一切が人為による自召です。上蒼は理由なく人類に福報や禍悪を加えることはなく、人為によって決定されるからこそ、因果法則の循環に適合し、これこそは天地の正理なのです。
第廿四回 命理人生
先天において上蒼は、累世、前世、今生、祖徳をすべて合わせて福報を賜ります。もし衆生がこれを大切にすることができれば、必ず凡塵で長期的に福報の護蔭を受けることができます。しかし、現代の衆生は皆、上蒼から賜った福分を大切にすることを知らず、ひたすら浪費し、福分を瞬時に使い果たしてしまいます。
第廿五回 矛盾對立
修行の導きもまた同様です。矛で攻撃できる場合でも、相手が盾で防げば深く入り込むことはできません。つまり、相手が盾で防御しているのです。後進を導き教える際にも、まずこの方法を応用し、反対や無知から始まり、徐々に心の防衛による排斥を変え、そして一歩ずつ修行の方向へ導いていくのです。
第廿六回 時空生滅
天・地・人の中で、任何人が繁栄を望もうと、衰敗を望もうと、すべて定められた数があります。それはただ時空の到来が早いか遅いか、この二つが相互に続くだけなのです。人事の更迭と変異の過程は、生まれたばかりの赤ん坊が誕生した後、徐々に成長して幼子となり、やがて青年へと変わり、あっという間に中年の段階に至るようなものです。
第廿七回 輪迴交替
人世間とはまさに「生命が因を含み改造する界」です。もし人世間において改造を行うことができなければ、必ず輪廻の相続交替の中にあって、三次元の空間の局限から抜け出すことはできません。自己超越の基本条件を達成するには、「輪と廻」において「廻来輪」に左右されないようにしなければ、真に聖神仙仏の仲間入りをすることはできないのです。
第廿八回 生老病死
さらには生涯、手術室の常連であり、何度も開腹手術を受けながらも、なお業因を了脫できない人がいます。まさに前世に蓄積された因果であり、決して現代の現世で造られた業障ではありません。前世に含因が蓄積されたことで、多くの病気や痛みが形成され、また小さな病気や小さな痛みは、現代の現世で蓄積されたものなのです。
第廿九回 苦空無常
苦しと空とは、苦しみの後には空となり、楽の後にも空となるものです。それゆえ苦空は無常であり、無常はまた各段階の相続する過程です。無常の過去もまた人生を造就し、先ほど述べた苦しみについて、今再び無常を阐述すればこのようになります。無常の生滅、時空の生滅により、存在するのはまさに前一秒だけなのです。
第三十回 悲歡離合
もし「歓合」によって再び出発することがなければ、長遠な結合を具足することができるでしょうか。「悲離」を展開してこそ、再び「歓合」による相聚を具足できるのです。これはまさに人生のあらゆる過程において、「悲離」と「歓合」によって創造と開拓が促され、目的地に到達することで、生存のすべての始まりと終わりの過程となっているのです。
第卅一回 喜怒哀樂
楽しみ：自分が心を喜ばせる事柄であり、一種の気質と情緒反応があります。誰もが楽しい心境を好みます。「楽しみ」は内なる歓娛と高揚をもたらしてこそ「楽」事となるのです。楽しみは人類の周囲の雰囲気にも影響します。もし「楽しみ」が己の心事として開展すれば、必ずや世の中において歓娛の心境による調解がなされます。
第卅二回 得失心態
真理を推し広めることができるでしょうか。それとも、単なる授業や学習すべき課程としてのみ捉えているのでしょうか。それでは人世間における改造を真に実践することはできません。崇心堂において大道のために天地の真理を展開し、眾生を広く済度して今世を成就するのであり、単に顕化の宮堂教派を掲げているだけでは比べものにならないのです！
第卅三回 陰陽相待
上蒼が衆生を凡塵に貶降させたのは、衆生を元の居住地である無極仙郷へ回帰させたくないからでしょうか。しかし衆生は五濁悪世に沈淪し、愛欲と物質の相互接續を受け、反覆して自性が蒙汚納垢し、衆生、すなわち仏子である本来の仙仏が容易に回帰できなくなっているのです。
第卅四回 天地造化
天地の徳澤の演化はまさにこのような条件です。天地において護佑を受ける万物の衆生は、一律に公正平等であり、厚此薄彼することは決してなく、人類を独厚して万物の蒼生を薄くすることもありません。天地の演化過程において、各物種の万物の衆生（動植物）は、すべて含まれています。
第卅五回 宇宙演化
三千大千世界において、仏は本来衆生であり、衆生は本来仏です。ただ「覚悟と迷痴」の分野があるのみであり、三千大千世界に仏と菩薩と衆生の分別が生じます。また人類の衆生は帰還の資本を造就することもできれば、下墜の不良因果を造就することもでき、すべて自らが掌握できるのです。
第卅六回 回歸收圓
人類の眾生はまさに修持改造を通じてこそ、仏菩薩、聖神仙眞の過程を成就できるのです。人類にはこのような天機があり、万物の眾生にもまたこのような天機があります。ただ人類の眾生の方が比較的容易に達成できるのに対し、万物の眾生はより大きな心力と忍耐を払って初めて促成できるのです。まさにそのような理由によるものです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
無極皇母大天尊 懿旨を頒示して下る
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
無極皇母、懿旨を頒示いたします。
◆ 前置・序 ◆
序一
上徳は私心なく真に行い、保っています。人間に愛があれば大同は限りありません。
序三
『大道真詮』は良く、また素晴らしいのです。素晴らしいのはまた良く、本当に素晴らしいのです。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
必ず一切の因因果果において、ここから継承されていくのです。これは道家が言うところの、無極が太極を生じ、太極が両儀を生じ、さらに四象に分かれて八方となり、あらゆる一切がここから展開されるということです。このような因縁条件によって回帰することこそが、『大道真詮』を著した原意なのです。人類衆生はこれを理解できるでしょうか。どうか大切にしてください。
第二回 初基（無極之二）
また、すべての根本はここから離れることはありません。そうでなければ、朝代が更迭交替する中で、どれほど強勢であったとしても、今日まで生き残っている強者はあるでしょうか。古代の強権はすべて、当今の世代に留まり続けることが難しいのではないでしょうか。このような時空の変更の過程において、長く存在し続けることができるかを体会し、中庸をもって万世に立つことができるでしょうか。またこのように申しております。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
必ず一本において、最初に立てば業因を造ることはなく、それがすなわち含因となり、良くない悪果を改めることができるのです。そうすれば次の世、すなわち今生を成就することもできます。しかし、一以貫之の精神を持ち続けなければなりません。そうすれば、人世において決して退転することのない善徳の因縁を保つことができ、人生の每一世は、ただ毎回つながれているだけであることを理解できるのです。
第四回 太極
無極は凡界に降り立ち太極が降臨し、自性の仏種は凡夫の因へと変わります。
第五回 兩儀
両儀の陰陽は二つの端に分かれて、白と黒はそれぞれ半分で因縁を観じます。
第六回 四象
その中の問題をはっきりと見極めることができるでしょうか。もし人類の生存の一生を、僅かに一年期に短縮するとしたら、ただ春生・夏長・秋収・冬蔵があるだけです。人類の無常の過往を警惕すべきではないでしょうか。人類の生存においては、まさに無常の組合の中から、必ず準備の功用を持たなければなりません。
第七回 八方
八方の後にはすなわち万殊となります。どのようにして先天の本来に回帰するのか、それとも人類生存の交わりの中に堕ちてしまうのか。これも衆生の因縁となり、八方によって了知することができ、また八卦によって示されます。すなわち人類の生存空間において初めて万物が生存し、必ず人類の生存の中で、自分自身の本来の姿を了知することができるのです。
第八回 含因
しかし宗教による薫陶と浄化を経て、人類の行為はしばしば修持によって不良な含因を善果に変えることができます。あるいは衆生自身の角度によっては、本来善良な含因を悪果に変えてしまうこともあります。このような心構えと行為は、すべて自分自身の善悪の因縁に左右されるのです。
第九回 人生
上蒼は衆佛子を降臨させて衆生を救い渡そうとされていますが、もし自分自身さえ帰ることができないのであれば、衆生を普く救い渡すという弘願を持つことができるでしょうか。また、自分自身が人類の世界に迷い込んでいるのであれば、どうして自分を成就することができるでしょうか。それとも、仙佛に来て救い渡してもらおうというのでしょうか。これこそが有情衆生が理解すべき迷いであり、どのように解消すべきでしょうか。必ず方法が必要です。
第十回 萬法
上蒼は人類衆生に、生存環境をさらに快適にしてくださいますが、人類の生存においてどのようにして上蒼の原意を知ることができるでしょうか。必ず知ることができて初めて感恩するのであり、そうでなければ凡塵においてはただ芸芸衆生の一人に過ぎず、来世では再び輪廻しなければなりません。再び人として出生するための資本を具足できるでしょうか。それは必ず人の所作所為によって選択されるのです。
第十一回 唯心
このような条件では、「万法唯心」が存在しないことになり、人世間には「万殊唯物」だけがあることになってしまいます。また現在において「唯心」は宗教の修持によって唱えられていますが、皆万殊の「唯物」によって人世間に立っており、このような宗教の修行者は、しばしば人道の生存という関門の処世の規則を直接飛び越えてしまうことがあります。
第十二回 萬殊
人類衆生は必ず他の動植物、すなわち万物衆生を愛護してこそ、人類の慈悲や憐れみの心を長養することができます。もし一方的に他の万物衆生を卑劣に傷つけて殺すならば、もし自分も同じ運命に遭った時、我がこととして感じることができるでしょうか、それとも無関心でいられるでしょうか。万殊の後は、すなわち実質的な人間世界の生存なのです。
第十三回 唯物
このように！必ず多くの困惑と阻碍に遭うことになります。また、人世间においては、現世の万物の組み合わせを借りてこそ、因縁を展開することができます。そうでなければ、凡塵で実質的な人道生活を飛び脱してしまい、円満になることは難しいのです！凡塵の衆生にとって、必ず万物の相互補助を借りてこそ、物事の連鎖と因縁が生まれるのです。
第十四回 生死
人類衆生には、抹消することのできない「真如仏性」が具わっています。もし自性仏体を顕彰することができなければ、輪廻の牽絆を了脱することは不可能です。現世の修為によって、自性仏体を顕彰する行為に達することができるでしょうか。そうしてこそ人世間において、「生死」を達観して化除することができ、すなわち如来のごとく如去となるのです。
第十五回 自在
自在でのんびり、のんびりで自在であること。これはまさに宗教において持つべき基本的な態度です。のんびりできない時には、必ず自在でなければなりません。自在になれない時には、まさにのんびりする必要があります。そうすれば、宗教の修持において、自分を苦しみの深淵に落とすことはありません。そうでなければ、真に快樂な修行人となることはできないのです。
第十六回 惻隱
人は天地宇宙の中で、ただ滄海の一粟に過ぎません。天地の情がすべて慈悲惻隠であり、日月の情がすべて衆生を普く照らし、星辰の情が万物を蔭護して、宇宙の星球の運行を成就しているならば、それは地球上の万物衆生だけでなく、すべてを平等に扱い、宇宙全体の星球の万物衆生を護佑しているのです。
第十七回 慈悲
このように人為によるものか、あるいは上天による阻害なのかは必ず明らかになります。実は自分が感召して受けているものなのです。なぜそうなるのかを必ず理解しなければなりません。それは全て前世において何の布施もしなかったことが原因なのです。慈の心があれば必ず悲の心があり、悲の心があれば必ず捨てる心があり、我がこととして感じ取り、人生において感召したものに向き合って行持するのであり、決して上蒼から賜ったものではありません。
第十八回 喜捨
人類や衆生は世俗の塵世に落ちて生きるため、前世の因が今世の果となることを知らず、自分の福徳を享受することだけに溺れ、世俗の塵世の中で迷って、本来なすべき大きな業を荒廃させてしまいます。どうして今世の福徳を天地の衆生に利益とし、天地の衆生に最も多く、最も大きなものを与えることができるでしょうか。それこそが「大公」を造り出せる者なのです。
第十九回 因果定律
皆が傲慢、我慢、虚栄、高慢、誇示の心によって、修持平等の真実の義や自性の顕現を遮ってしまい、どのようにして修持の過程で修持平等の観念を突破し、修持無礙の境地に達することができるでしょうか。悪因が善報を得るというのは、凡塵において修持しない衆生が、自分は皆試練や折磨を受けないという観念を持っていることです。
第二十回 思想觀念
では、なぜ不良や邪悪な方向の結果が生じるのでしょうか。それは皆、人為的な要因による思想や観念に行動や作為が加わることで、先の経験が導く条件に達することができなくなり、「善因悪果」を得ることになるからです。このように、人類衆生すべての思考の筋道は、観念の中で最も重要な一環なのです。
第廿一回 教化修持
もし生活から離れれば、すなわち道から離れることになります。さらには道さえ日常生活に溶け込ませることができないのであれば、お尋ねします。教化の目的と修行の目的は、人間世界において成就できるでしょうか。これは非常に困難です。修行者が「道」から離れれば、生活からも離れ、修行からも離れることになるのでしょうか。そして「道」の真髄を理解できなくなるのです。
第廿二回 執著固化
もし執着して固化してしまえば、すなわち成規を墨守することになり、斬新でより大きな活躍をすることは難しくなります。現代の時代にあって、成規を墨守して一成不変でいられる業界などあるでしょうか。すべて日々新たに、日々変化する中でこそ、固化に陥らず、さらに成長し続けることができるのです。
第廿三回 五行生剋
五行因循の相生と相剋は、皆人世間において地理風水を通じて、未来の福報と禍害を決定するものであり、まさに人為によって召感されるものです。上蒼は累世と前世、そして今生の所行所為に従って、「福地」での生存を授けることができ、また「福ある」人に対しては、必ず「福地」に居ることになるのです。
第廿四回 命理人生
このような条件で、上蒼が再び福分を賜ることができるでしょうか。できません。また、衆生は皆、自ら感召した福沢、福報、福分によって生かされています。もし再び賜るための徳性という依拠条件がなければ、上蒼は決して衆生により大きな福報を賜ることはできません。しかし、人類の善徳の行いによって、未来の福分を前もって割り当てて使用することはできるのです。
第廿五回 矛盾對立
そうすることで人生の苦・空・無常を理解し、修行によって向上することこそが正道であり、大道へ帰る道を持つことができ、「矛の中で矛の攻撃を受け、盾の中で制限を設けられる」といった状態から抜け出せます。したがって、「矛と盾」の相互対立を打ち破り、さらに局限と障害を解消しなければなりません。これがまさに、現代の修行者が持つべき考え方なのです。
第廿六回 時空生滅
一定の期間、苦しみの中で生き、人間世界の生活経験を積み重ね、やがて多くの子どもをもうけ、あっという間に老年に至り、孫に飴を与えて遊ばせ、天寿の歳月を楽しみます。夕日は限りなく美しいですが、ただ黄昏が近いだけです。やがて肉体が徐々に衰え、老い衰えてしまい、この身が滅びた後、また塵土に帰るのです。
第廿七回 輪迴交替
人世間においては、超脱の準備を達成しなければなりません。そうでなければ、いくら功徳が大きく、修持が優れていても、次の世で再び輪廻が相続するだけです。真に自分に因を造れば自分が得て、自分の業果は自分で引き受けなければなりません。人類衆生は皆、仏性を具えています。すなわち自性であり、仙仏と等しい本質を持っていますが、それは「覚悟と迷痴」が相続しているに過ぎないのです。
第廿八回 生老病死
大きな病気や痛みについて、病気にどのような兆候や現れがあっても、すべて三世の因果が形成したものから離れることはできません。このような条件について言えば、大部分は無形の妨害によって引き起こされ、および冤親債主の因果による討伐です。信じなさい。決して人間の力だけで転回させることはできず、「有形に無形を加えること」があってこそ変更できるのです。
第廿九回 苦空無常
現在のこの一秒の刹那とは、すなわち時空の過去と無常が交替するだけのことです。それゆえ「無常」の中には「有常」が存在し、「有常の中にこそ永遠が存在する」とは、永遠が過去に存在し続けることを意味します。人世間はこの種の生存であり、時空によって、ただ刹那間に生滅するだけなのです。
第三十回 悲歡離合
人生とはまさにこのようであり、動くことのできる動物はすべて、同じ因縁によって造就されています。悲離を経てこそ歓合が可能となり、歓合があってこそ、その歓合の中で離別や死別が生じれば、悲離という過程の因縁が生まれるのです。人類の生存にとって、これはまさにすべての「因縁和合」の結合点なのです。
第卅一回 喜怒哀樂
「楽しみ」は「哀しみ」と反対の対立です。哀しみと楽しみが両極化すれば、それは世の中で自らの情緒抒発の反応によるものです。「楽しみて楽しまず」の場合、それは自らが歓娛と欣喜に達していないことであり、まだ哀傷が残っているからです。そうでなければ、毎日楽しく三声大笑するのも、一つの喜びの現れです。
第卅二回 得失心態
真実の理諦を日常生活に溶け込ませるのです。現在は諸賢生の堅い志と虔きな心を長く見守ることはできませんが、今生の当下に真に実践できるかどうかが問われます。そのため、心力、精神、時間、空間の組み合わせを捧げなければならないのですが、そこから何を得られるのか、理解できるでしょうか。必ずしも定かではありません！
第卅三回 陰陽相待
凡塵の種種を了脱することもできず、陰陽の対待、および三度空間の束縛と糾纏から跳脱することも不可能です。陰と陽は凡塵において、衆生に生息の資糧を与えるものでもあります。仔細に考えれば明らかです。もし天地間に陽のみで陰がないとすれば、休息や停止の機会が得難くなります。
第卅四回 天地造化
人類は思想の改造を通じて、万物の衆生を恵くことができます。人世間において人類が万物の霊長とされるのは、その主な原意もここにあります。もし人類が不仁・不慈であり、万物に残害を加えるならば、天地は人類を薄くし万物を厚くする反撲を行い、人類の衆生に警惕と覚醒をもたらすことでしょう。
第卅五回 宇宙演化
帰還の資本を具えてこそ、凡塵の障害束縛に左右されることがなくなります。また宇宙の各星球体に他の衆生が存在するかどうかは、一定ではありません。凡塵の衆生だけではなく、現代の科学技術で証明できるものの、凡塵の衆生の肉眼で観ることは根本的に難しいのです。
第卅六回 回歸收圓
人生は得難いものです──今すでに得ました。仏法は聞き難いものです──今すでに聞きました。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
無極大道院 懿敕崇心堂でございます。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
無極大道院 懿敕崇心堂
◆ 前置・序 ◆
序一
大いなるは天地の能所が互いに依り合い、道は真実であり理は真実であり、人の心はさらに真実なのです。
序三
南屏道濟古仏 序を下す
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
無極の原意を根基とし、人類世間の機を創造していきます。
第二回 初基（無極之二）
儒家の孔聖は中庸の道を実践し、
その徳は三千の万民の心を化します。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
一世又一世と繰り返し輪廻しますが、その間隔はまさに人類衆生が完全に理解することが難しい過程です。歿度の後にすぐにまた生まれて人間になれるわけではなく、人世においてそもそもそのような簡単なことはありません。因果の定律や法則もすぐには顕現せず、時には因縁が熟するのを待って定まるものです。
第四回 太極
軽やかな天躯はもはや見えず、帰還の彩帯もまた清らかに消え去ります。
第五回 兩儀
善悪は均等に向き合って、如実に成就して虚しく変わることはありません。
第六回 四象
そうでなければ、有情衆生がもし明白できないならば、無常がいつ来るのか、またどうすればよいでしょうか。必ず了知しなければなりません。人類の生存過程は、まさに無常の組合によって成就されるものであり、春生・夏長・秋収・冬蔵であり、一年に符合し、および人類の一生の時空にも符合するものであり、すなわちこのように生存作用するのです。
第七回 八方
八方の世界はさらに細かく分かれ、四象の伝承により共に調和して暮らします。
第八回 含因
人類が世に生きるには、真の信仰の道を確立しなければなりません。そうすることで修持を真に人間世界に根付かせることができます。修持がどれほど高深であるかを見る必要はなく、人間世界において真理を真に実践できるかどうかにあり、それによって初めて不良な含因を変換し、今世において自分を成就することもできるのです。
第九回 人生
崇心立堂とは、真理をもって衆生を教化し、衆佛子が皆凡塵に迷うことのないようにするためです。そうでなければ、上蒼が「三曹普渡」を行おうとする過程において、降臨した佛子が皆凡塵に迷い込んでしまい、帰還の導きができなくなってしまうからです。崇心立堂は決して偶然ではなく、上蒼がすでに定めた聖命なのです。
第十回 萬法
上蒼の演繹において、万法唯心、万殊唯物であり、必ずこの三者が相互に相輔相成できて初めて、人世間で大いなる作為を成し遂げることができるのです。そうでなければ、ただ芸芸衆生に流れるだけならば、必ず人世間において輪廻の渦を了脱することは難しく、どのようにして本来の回帰点に回帰することができるでしょうか。あまりにも困難です。
第十一回 唯心
そうするとしばしば直面することになります。人道に欠けている不足や誤った行いによって、必ず人道の生存において圓滿に達することができなくなります。そのため多くの修行者が、これを試練と艱難であると言っており、これによって観察できるのは、修持するか否かにかかわらず、人世間では人道をもって処世すべきであり、絶対に人道の生存から飛び出すことはないということです。
第十二回 萬殊
每一种動植物、すなわち万物衆生には、すべて特殊な使命と生存空間および権利があります。また人類は強勢を頼りに他の動物衆生を殺してはならず、もしそうすれば不仁であり、天の大徳に背くことになります。天の不仁は万物を芻狗と見なし、人の不仁は万物（動物）を食物と見なすのです。
第十三回 唯物
もし自分が帰還できたとしても、凡に落ちた兄弟姉妹がなお六道輪廻の中にあるなら、あなたの心は安らかでいられるでしょうか。帰還して真に何の牵挂もなくなれるでしょうか。そして「万殊唯物」においては、万物がなくては人道生活を展開できず、人類は生命力の創進であるのに、この身を単に「臭皮囊」とだけ見なす時、どうしようもないのです！
第十四回 生死
もし来たりも去りもしない時には、すなわち輪廻交替はありません。衆生は皆「代天宣化」という重責大任を背負っており、一人ひとりに天命があるからです。それはただ、どのようにして行使し、今生の付託を完成させるかという点にかかっているだけです！人類衆生には皆特殊な使命があり、どのようにして完成させるのでしょうか。それこそが、真に生と死の牽絆を了脱することなのです。
第十五回 自在
もし修行のためにだけ修行する人であれば、皆「涅槃大楽」の境界に達することは難しく、生死をも見抜けず、栄華富貴をも見透かすことができません。それゆえに内心に求めるものが生じ、追尋する目的を持つようになり、人世間において快樂な修行人となることを妨げてしまうのです。
第十六回 惻隱
天地は惻隠慈悲ですが、人はそれに倣うことができるでしょうか。それとも凡塵の中で、ただ来世で再び輪廻を繰り返すだけなのでしょうか。必ず「慈悲・惻隠」は天地の大情大愛の本質であり、すなわち仁人愛物の本心と本性であるはずです。そうであるならば、必ず自分自身と万物衆生の護佑を成就することができるのです。
第十七回 慈悲
全て自分が得ることができる徳、捨てることのできるものの中で、自分の福沢と福報を成就させ、そして因果業障を成就させて、凡塵における自分の福禍や得失を区別しているのです。このようにしてどのように成就しようとするならば、必ず人世間において修整と変更を行わなければなりません。そうでなければ因果の定律を転回させることができるでしょうか。それはまさに自分がどのように行動するかにかかっているのです。
第十八回 喜捨
天地は必ずさらに多く、さらに大きな「大いなる私」に福沢、福田、福報を十分に与えてくださいます。人が慈悲喜捨ができず、ただ一方的にこれは自分の所有物であり、自分が得たすべてだと思い込むなら、しばらくした後には、以前の福運が訪れるのを見なくなるのではないでしょうか。ちょうど灯りをともすように、灯油を継ぎ足さなければ、どうして長く光明の人生を享受できるでしょうか。
第十九回 因果定律
この人世間においては、困難が訪れたことしか知らないからです。逆風が障害として訪れた時、どのようにして平常心を用い、人類の方法で困難なポイントを突破すべきでしょうか。もし少しでも善悪の観念と是非の心を持つことができれば、突破する方法を考え、現在の困境を改造し変化させようとするでしょう。
第二十回 思想觀念
どのようにして善良な導きを形成すべきでしょうか。必ず智慧を用いて人世間の生活習慣を開拓し、すべての行いが天理良心に適合するようにしなければなりません。そうすれば、良能や良知から意識によって外へ向かって発令することができ、不善や邪悪な指令を生じさせることがなくなり、悪果による磨難や悩まされるような行動を受けることもなくなるのです。
第廿一回 教化修持
もし修行の目的を達成できなければ、教化の過程において、衆生に変革の機会を与え、再び輪廻に入らないようにする以外ありません。これが正しいのでしょうか。そうでなければ、宗教に入った後、修行前よりも現代社会に溶け込みにくくなるのであれば、これで正しいでしょうか。それは非常に難しいことです。
第廿二回 執著固化
固化は、必ず物事の柔軟性を成就することを難しくさせます。それは家庭においても同様です。家庭の中の夫婦のどちらか一方が「執着して固化」している時、同じ屋根の下に暮らしていても、必ず相手に多くの無意味な悩みの種を増やすことになります。これはまさに夫婦の感情の融合を妨げ、家庭に和楽で円満な状態をもたらすことを難しくさせてしまうのです。
第廿三回 五行生剋
福というものは、人世間における所行所為、すなわち善徳、功徳、陰徳によって成就されるものです。また、人に現れる福報、福分、福運、福沢、福田が具足する時には、「福人は必ず福地に居り」、「福地には必ず福人が住む」ものであり、このように善悪には必ず報いがあり、ただ時間の遅いか早いかの問題なのです。
第廿四回 命理人生
加減や乗除においても、現在においてさらに加えなければなりません。まるで油のない燈火に、福分の資糧として加えるようなもので、どうして自分の光明世界を照し見ることができるでしょうか。人生は必ず命理に左右され、すなわち先天の含因（前世の含因、累世の含因）の影響を受けるのです。この一生の善徳福縁は、同時にこの世の悪業と禍害を造就するものでもあります。
第廿五回 矛盾對立
「矛と盾」が生み出す対立を理解し、人間世界における矛盾と対立はこのようであるならば、どのようにして輪廻の束縛から解脱できるでしょうか。すべては「矛と盾」が生み出す障害によるものです。「矛盾」の中で「矛盾」を打ち破らなければ、相互対立という思想や観念が生じてしまうのです。
第廿六回 時空生滅
人間世界で相互に続いた後、必ず時間と空間が加わって、初めて天・地・人が担うべき任務と行為を促すことができます。それゆえに、人生の繁栄と衰敗にも、必ず時間と空間が加わって、初めて繁栄と衰敗の組み合わせが生じるのです。善悪にはすべて報いがあり、ただその報いが来るのが早いか遅いかの違いだけです。
第廿七回 輪迴交替
仙仏ができることは衆生もでき、衆生ができることは仙仏がすでに同じ経験過程を備えています。では、なぜ仙仏は衆生よりもさらに超越できるのでしょうか。それは、累世や前世に今生を加えて改造し、向上させて超越することができるからです。賢い者は、輪廻の制約を受けず、むしろ一旁に離れて、輪廻の渦を眺めるのです。
第廿八回 生老病死
時には業障による討伐において、よく体を折磨することで、同じく被害を受けた業因の報いを受けさせます。このようにして、冤親債主はそばで歓喜し怒り笑うのです。心头の恨みを晴らすために。現代において、時には医師に診察してもらっても効果が現れず、あるいは長患いで病気や痛みが癒えない時、どうしようもあるでしょうか。
第廿九回 苦空無常
一例を挙げましょう。先ほど崇心堂に降来された天書の著作は、すなわち時空の交替であり、無常相続の条件でもあります。現在の時空においても、多くの無常の生滅を経てきたのでしょうか。もし多くの無常相続がなければ、どのようにして一冊の天書を著作する因縁を成就し、各篇を相互に連結させることができるでしょうか。
第三十回 悲歡離合
もうすぐお正月ですね。今夜の著書の後、貴堂の仙仏は諸賢生のもとを離れて天庭に帰り、職責を報告なさいます。これは短い悲離の過程に過ぎないのでしょうか。もし時間を長く引き伸ばせば、悲離の感触が生まれ、自然と涙がこぼれ落ち、涙ぐんでしまうことでしょう。
第卅一回 喜怒哀樂
喜怒哀楽の過程において、喜びと楽しみは互いに連結し合い、「楽しみ」を歓娛と欣喜に置くことができます。「楽しみ」を開展すべきであり、喜楽は人の愛するところです。哀しみと怒りはまた両極化しており、怒りと哀しみは相互に連結しにくいものです。怒りはまさに心中の不満の抑圧の宣泄であり、涙が流れることはありません。
第卅二回 得失心態
すなわち、心力、精神、時間、空間の一切を捧げて失い、真に思想と観念の改造を成就し、執着して固化することなく、人世間におけるすべての生存の資本とし、元の居住地、すなわち無極、すなわち虚空へと回帰し、自性の佛体へと帰返することができるのです。
第卅三回 陰陽相待
衆生をまるで機械のように休むことなく運転させ続ければ、どれほど長く保てて毀壊しないでしょうか。甚だ難しいことです。陰があって陽がないとすれば、衆生はすべて静止し、さらに生息の機会がなくなり、創進もなくなります。生生不息の世界にとっては、凡塵の人世間が陰の極に処することになります。
第卅四回 天地造化
天地の反撲により、人類が受ける災害は万物よりもさらに甚だしく、人類に警醒と悔悟を促すものです。また人世間に生存するのは人類の衆生だけではなく、万物の衆生との共栄と共存こそが正理です。地球に生存する人類は、天地造化を左右する能力を持っています。
第卅五回 宇宙演化
五神通や心電感应によって知ることができるのは、一部のみであり、すべておよび一切を知ることは甚だ難しいものです。しかし往昔の釈尊や諸天の仙仏はすべて明らかでした。凡塵の衆生はさらに短視であり、心電感应を用いることもできず、すなわち五神通に具足するものと比擬することすらできないのです。
第卅六回 回歸收圓
真理は成り難いものです──今すでに成し遂げました。修真は行い難いものです──己の行いを観なさい。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
天運戊寅年花月初一日
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
天運丁丑年八月十五日戌時
◆ 前置・序 ◆
序一
真実なるものは必ず仮となって滅びることは難しく、真理を解釈すれば成就を果たすことができるのです。
序三
無極大道院 懿敕崇心堂
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
変化し成長して向上し、徳沢を後代に伝承していきます。
第二回 初基（無極之二）
儒宗の教えは数千年にわたり伝揚され、
その恩沢は億万の蒼生を潤します。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
さらに数十年、数百年、数千年待たなければ、再び人間として生まれる機会を得ることはできません。もし現在この現世をしっかりと把握できなければ、どうして来世があるでしょうか。たとえ再び生まれて人間になれても、速やかに輪廻することはあり得ません。それゆえに、一以貫之の心で、常に善徳の因縁が長く絶え間なく続くように保たなければならず、そうすれば良き善い受益があるのです。
第四回 太極
もし帰還を望むならば修行と慎みに頼り、初めて至真の本性を見出すことができます。
第五回 兩儀
無極の純一によって大道が現れて、両儀の差異は太極の篇となります。
第六回 四象
四象によって四季が分かれ、四地によって万民万物が兆されますのは、天地の大きな慈しみによるものであり、それゆえに生生として息むことがないのです。四象の明らかな差異によって形成される変化により、有情衆生がもし四象の変遷の過程を了知することができれば、すなわちこの世に生まれてどのように歩むべきか、またどのように振る舞うべきかを了知し、この世において有用な成就を成し遂げることができるのです。
第七回 八方
各々の存在と方位を繋ぎ合わせ、一つも欠けることなく互いに結びつきます。
第八回 含因
含因の累積は人々に備わっており、造業を修めることを必ず悟らなければなりません。
第九回 人生
人の一生はとても短いものです、その世界に身を置いてよく見極めなければなりません。
第十回 萬法
まさに万物衆生は皆、上蒼の眷顧を受けることができ、それは人類だけにとどまらず、肉眼では観ることが難しい多くの微細な衆生も存在します。これらは一切の衆生が現す基本的な因質であり、人世間においては必ず大慈悲・大願力・大智慧をもって、凡塵における一切の作為を展開しなければならないのです。
第十一回 唯心
心はただ善良で真に徳を好みます
一切の借用もよく通じ徹ります
第十二回 萬殊
请问：どうして人は人を食することができないのでしょうか。そして他の万物衆生を食しようとすることは、人の不仁や天の不仁を形成することになり、これで明白になります。また万殊の後はすなわち実質的な衆生であり、万物衆生にはすべて生存の条件と権利があるため、人類は強勢を頼りに万物衆生の生存条件と権利を剥奪してはなりません。
第十三回 唯物
それはただこの身を前倒しで終わらせるか、あるいは敗壊させるだけであり、大切に珍惜し保護することができなければ、どうして修行円満の境界に達して帰還できるでしょうか。この臭皮囊の中にあって、塵世の中で大切に珍惜してこそ、修行の過程でこの身（臭皮囊）を十分に活用して帰還することができるのではないでしょうか。
第十四回 生死
人類の思想と行為は、もし現在の現世において改造できず、ただ来世での成就を一方的に望むのであれば、永遠に生と死の交替輪廻の中にあるのでしょうか。生じることができれば必ず死があり、死することができれば必ずしも生があるとは限りません。また、生死自在は、人類が必ず持つべき觀念、行為および態度です。
第十五回 自在
まさに「自在逍遙、生死自在、自在生死」であり、すべては縁が来ては去り、円が来ては去り、源が来ては去ります。人世間において生存の修持改造を借りて、涅槃大楽に達することができるでしょうか。そうでなければ心が放下できず、自在でいられるのか、それとも自在になれないのか。すべては自分自身が感じるものなのです。
第十六回 惻隱
ですから、「天の大徳は生を好むことにあり、地の大徳は生を養うことにあり、人の大徳は生を放ち生を護ることにあり」という善行の中には、これらすべてに大情大愛の惻隠の本質があります。人生において、自分が温飽に余裕がある時には、積極的に布施して多くの福田を種し、行き場所があっても帰る家のないかわいそうな衆生もまた温かく過ごせるようにしてあげてください。
第十七回 慈悲
また因因果果の中で、人が慈と悲を行いとすることができ、万物衆生を成就させるならば、必ず上蒼が自分を成就させているのと同じように感じることができるのです。上蒼によって成就させられるとは言っても、実は自分自身によって成就させるのです。福田・福沢・福報を具足させることによって、衆生に従うべきものを持たせ、悪を為さないようにすることができるのです。
第十八回 喜捨
古い諺に「十年風水は輪流に転じ、十年は河東、十年は河西」とあります。人類は皆この理から離れることができず、どうして長く福徳を保てるでしょうか。すべては十分に備えることのできない条件なのです。ただ世俗の塵世の衆生は皆「私が愛するもの、私が得たもの、私が所有するもの」があり、さらに手放しがたく、すべてを抱え込んで放さないため、子孫への伝承という行いをするのは非常に難しいのです。
第十九回 因果定律
人世間においては、人類の方法によって修整の方法と動作を行うことになります。それゆえ、本来「悪因が悪報を得る」はずの人は、善悪や是非の観念を持つようになり、本来行ってはならないことの中で、来世の含因を再び作らないようにし、必ず因が果を成し、果がまた因を成して、繰り返しながら絶え間なく交替し、永遠に止むことがなくなるのです。
第二十回 思想觀念
一人ひとりのすべての欲求はどのようになるのでしょうか。それは皆、人類の思想や観念に、なす所為が加わったものであり、良い悪いにかかわらず皆自分が作り出したものです。また、他人が各人の生存要因に影響を与えて左右することはできず、感情の発散に導かれて、初めて人類のすべての行動や作為があり、人が世間においてすべての行動体となるのです。
第廿一回 教化修持
修行の過程において、教化と修行を用いて、不良な業因を転化すべきです。もし困難や厄災に遭えば、自分で引き受けるべきです。このような方法で宗教に入り修行を行うことは、まさに持つべき基本的な態度です。人類の信仰と修行に対しては、過去の無明の障害を真に変革する必要があります。
第廿二回 執著固化
このように固化してしまえば、いかなる情趣の潤いもなくなります。家庭において永遠に幸福で和やかな雰囲気を保つためには、互いにコミュニケーションを取り、互いに気遣い、互いに思いやることが必要であり、対立して固化した状態にあってはなりません。そうして初めて、夫婦や家庭の大大小小的な感情の交流を執持することができるのです。そうあるべきではないでしょうか。
第廿三回 五行生剋
もし悪事を働く人が禍悪に遭っていない時、それはまさに累世、前世、今生に祖先の徳蔭が加わって形成されたものです。そして福報、福分、福運、福沢、福田を享受している時に、さらに加え添えることができなければ、福分が尽きるのを待って、必ず悪禍の磨きを受け、苦しみと受難に遭うことになるのです。
第廿四回 命理人生
必ずこの一生における人世間での順境を阻害し、また常に不如意、不順調、横逆な妨害によって、この一生において常に苦難に遭い身心を磨かれることになります。また、人生とはまさに「苦、苦、苦が連なり、磨き、磨き、磨きが連続する」ものであり、人世間での苦磨によって、すべての痛苦が自分を折磨するのです。
第廿五回 矛盾對立
現世に生きるにあたっては、修行、商売、家庭、人との付き合い、物事への対応における対立の角度について、必ず相手の立場に立って考えなければなりません。そうすれば、人と人との間の相互対立を減らすことができ、人類のすべての「矛盾」現象を変えることができ、問題に対して対立や局限を生じさせずに済むのです。
第廿六回 時空生滅
まさに時間と空間の組み合わせの証であり、それによって初めて興衰が続くのです。人類が持つことができるものは、ただ両手空空とするだけで、来ては去り、去っては来、回っては往き、往いては回り、絶えず反復する輪廻を形成します。これも時空の生滅による組み合わせ、および輪廻交替の組み合わせの過程によるもので、さらに人間世界の輪廻の継続となっているのです。
第廿七回 輪迴交替
必ず全体の輪廻の来歴と行方を知り、輪廻の相続に左右されることを超越します。「輪と廻」の過程において、日常の生存であっという間に一日が過ぎ、一月が過ぎ、一年が過ぎ、一生が過ぎます。同じ作為によって、衆生（本来は仙仏）もまた輪廻によって人世間の渦の中に再び沈淪していくのです。
第廿八回 生老病死
大部分の者は、このような過程で形成された業による苦い報いを受けるのです。実は、少し観察するだけで、全体の経緯を理解することができます。さらに、様々な示現があり、因果や業障の干渉を形成し、必ず自ら償い受けなければならず、時には回向によって転回させることもできないのです。
第廿九回 苦空無常
無常の中には必ず恒常があり、「恒常があってこそ永遠に存在する」のです。そして永遠とは、まさに現在の過去にこそあるのです。これは真理であり、人類衆生が恒常を理解できるのは、まさに生活と無常が相続しているからこそ永遠が存在し得るのです。もしこれを理解できれば、三度空間を飛び出し、輪廻の束縛から脱却することができます。
第三十回 悲歡離合
もし悲離がなければ、来年の戊寅年に新春の時空を迎えた際、仙仏が再び降臨されて著書を行い、崇心道場のすべての聖務を展開していただくこともありません。その時には悲離は存在せず、一種の期待と待望の心境が生まれ、その時になって初めて仙仏が再び降臨されて歓合できるのです。
第卅一回 喜怒哀樂
「喜怒哀楽」は人類の生存における心境の過程であり、「悲歓離合」はさらに各過程の心境の接續であり、「悲離」と「歓合」がもたらす喜び楽しみの事柄を促すものです。また、怒火が燃え上がる雰囲気の中で、長く蓄積された功徳林を、一瞬にして怒りの火が焼き尽くしてしまうこともしばしばあります。
第卅二回 得失心態
大乘菩薩行を成就し、有情世界である蓮花佛国に至るには、この一世において捧げた時間、空間、心力、精神などの様々な一切を失わなければなりません！諸賢生がもし聡明な方であれば、すべての時間を余暇に費やし、自宅でテレビを観るだけの生活潤生の作用と空間に留まることはないはずです。
第卅三回 陰陽相待
衆生と万物に欣欣向栄をもたらすことができず、光明の照耀もなく、光明な前途もありません。陰があれば必ず陽があり、陽があってこそ陽光の普照を受けて成長できるのです。これにより、衆生は凡塵において、自らをより長く生き長らえさせ、さらに無極仙郷へ回帰する機会を得られるのです。
第卅四回 天地造化
明白にしなければならないのは、人類が天地の大徳を行うことこそが望ましいのです。すなわち養生と育生の徳澤であり、万物の衆生を長養し蔭護し、天地の大徳を学んで、より弱小な衆生（動植物）を愛護することです。人類にとっては護生と放生が求められ、それこそが真に天地の徳澤を人世間において学ぶことなのです。
第卅五回 宇宙演化
まるで現代の衆生が用いる無線電話に類似していますが、及ばない機能作用もあります。宇宙において具備されているものは、決して凡塵の衆生が知ることができる一切の知識観念ではなく、ましてや現在の浅显な科学技術で証明できるものではありません。これは当今の世代の科学技術の不足による局限であり、まだ始まったばかりなのです。
第卅六回 回歸收圓
この偈を、眾生と共に互いに勉励といたします。人生はほんの短い数十年の寒暑の連続に過ぎず、さらに数十年に満たずに夭折する者も数多くいます。また無常の生滅の過程は、まさに人生において当下を把握し、現今を把握することが必要であることを示しており、現世の当下の人生に実践することが正道なのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
懿旨の宣読が完了いたしました。崇心の諸神人等の功が高く果が大きいことを恭賀いたします。また、無極皇母より「金品蓮台」を賞賜されましたことにあたり、さらに大道のため、蒼生のために真理を成就されることを期盼し、これは上蒼の切なる望みでございます。さて、私は天に帰り、旨を繳上いたします。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
崇心副主席　麻仙姑
◆ 前置・序 ◆
序三
天運丁丑年八月十八日戌時
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
原意により生命の意義を改め、修め変えていくのは自分自身なのです。
第二回 初基（無極之二）
人類が中庸を行うならば、必ずや万事万物の基準を成就することができます。人の初基こそが一切の根本であり、すなわち中庸の道であり、さらに人類が依拠し具えているものです。このようにであるならば、どうしてあなたと私が争い合うことがありましょうか。人類全体の歴史を振り返って、その進化の過程を見ると、どれほどのものがあるでしょうか。対錯や是非はすでに存在せず、果たしてそれらに執着せず、見通すことができるでしょうか。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
このようにしてこそ、人間が世に生れるにあたって持つべき基本的な思想観念となるのです。これは千真万確の事実であり、信じないわけにはいきません。ですから、一本が万殊に散じ、万殊が一本に帰することに対し、一以貫之することがまさに中庸の道であり、すなわち人生の過程なのです。それゆえに、必ず善徳の因縁を促成し、永遠にして無限の生存の取向を成就させなければなりません。
第四回 太極
そうでなければ迷い道から引き戻すことは難しく、真に修め実践すれば必ず光明に帰ります。
第五回 兩儀
人々はすでに顛倒していることを知りません。この因縁を高めることは難しいのです。
第六回 四象
そうでなければ、ただ来世あるいは来年に再び組み合わせるだけになってしまいます。人類は必ず四象の繁衍の過程を了知して、初めて四季の交替に運用し、四地である東南西北を区別し、さらに八方である東南、東北、西南、西北を区別することができるのです。このように四象によって八方を分かつことは、「万殊因縁」を造就する始まりなのです。
第七回 八方
人々が住む様々な方向は、東西南北どれも同じことです。
第八回 含因
もし含因の種を了知できなければ、惡果を残して化除することは甚だ困難です。
第九回 人生
生老病死の苦しみを味わって修行します、すべての問題はそれぞれ異なります。
第十回 萬法
こうしてようやく真に天下衆生の依循となり、人生における万法唯心、万殊唯物の着眼点となるのです。もしこれを基礎とすることができなければ、人世間においてはただ来世のための、再び輪廻する過程に過ぎません。このような基本的なことを自心で行い、自己及び衆生を成就しようとするならば、すべて特殊な方式による作為があるのです。
第十一回 唯心
固く抱いて決して手放さないでください
得失の過程などどうなのでしょうか
第十二回 萬殊
「天の我を生ずるに必ず用あり」とは、人類に対してだけのことではなく、万物衆生にはすべて相生、相合の作用があり、每一种万物衆生には人類の知識では知り得ない使命があり、人類の限られた視点で見てはならず、天地が万物衆生を長養するように、平等に接するべきであり、これこそが平衡の道なのです。
第十三回 唯物
もし大切に珍惜せずに荒廃するに任せ、さらに病厄によって折磨されれば、必ず自らを前倒しで終わらせることになります。そして修行は涅槃の境界に達することができず、来世また生まれ変わって来なければならないのか、それとも歿度の後で跡形もなくなるのか。人が世に生を受ける以上、身体はこの世で有用ですが、大切に珍惜できなければ、生命体としての役割を果たせず、どうなってしまうのでしょうか。
第十四回 生死
生死において自在であり、生死して自在であるということは、輪廻を改造する者こそが任務を達成できるのです。そうでなければ、一人ひとりの衆生がどのようにして「生死自在、また自在生死」を果たせるでしょうか。生の喜び、死の悲しみは、まさに人類衆生の写照です。しかし、生において喜ぶ必要はなく、死において悲しむ必要もないのです。
第十五回 自在
修持：真の自在を持つ必要があります。「縁来縁去、円来円去、源来源去」にかかわらず、自分自身が如来にして如去、如去にして如来である、まさにこのようにあることが、真の修持における应有的な態度です。衆生は凡に落ちれば、物境に左右され影響を受けるため、自在逍遙に達することができません。
第十六回 惻隱
そうすれば、豊かに衣食に足りる時に、自分の余った福分を喜んで施し、これらのかわいそうで貧しい同胞衆生と分かち合うことができます。惻隠の心は誰もが実践でき、誰もが実行できるものです。万物を蟻やケラのように蹂躙するでしょうか。それでは惻隠の心がありません。生命の綿長を成就し、他の生命を屠殺したり傷つけたりすることを忍びないのが、人の慈悲惻隠なのです。
第十七回 慈悲
慈悲とは「無縁大慈・同体大悲」の心境をもって、天下の衆生に代わって無量の福田を広く築くことができ、また慈悲喜捨についても、全て自分が行うことができるものであり、自分の福の余りを福のない人に徳として施すものです。また大寰の下、天地の衆生は皆上蒼が化したものであり、一体の母の心が愛するものでもあるのです。
第十八回 喜捨
後世の子孫に伝承することは、本来非難されるべきことではありません。もし後世の子孫が徳沢や福徳を享受する時に、さらに人世間に福沢を造り、祖先の名声を輝かすことができるなら、そのような子孫は賢く孝行な子孫であり、累世に成就した善徳の因縁が自家の後代に降生したものであり、まさに称賛と肯定に値するものです。
第十九回 因果定律
「人生においては善悪すべてに報いがあり、ただその訪れるのが早いか遅いかを争うのみなのです」というのは、正しい思想や観念であり、それによって初めて人世間において生命の改造者となることができるのです。そして、果が因を成し、因が果を成すという繰り返しの輪廻に入ることはありません。もし宗教に入ったとしても、前世の良くない含因を変えることができなければ、修持にいったい何の役に立つのでしょうか。
第二十回 思想觀念
もし他の万物衆生であれば、この条件を備えることができるでしょうか。必ず理解しなければなりません。人類の思想や観念は、人世間において初めて行動があり、作為もあるということです。もし人類と他の万物衆生を互いに比較する時、どうなるでしょうか。そのような作為ができるでしょうか。必ずしもそうではありません。考えてみればすぐに明らかになります。
第廿一回 教化修持
教化の基礎とは、宗教に入った一人ひとりに、この世のすべては借りて見ているだけ、借りて使っているだけ、借りて所有しているだけであることを理解させることです。すべては来ては去り、去っては来るものです。自分の福報が具足していれば、すべてを所有することができます。もし福報が具足していなければ、むしろ逆風や障害に遭い、思い通りに事が運ばず、求めても得られないのです。
第廿二回 執著固化
そうして初めて現代社会に受け入れられ、さらに家庭で互いに支え合う原動力となるのです。もし一方がすでに固化してしまえば、他方は転回する余地が非常に少なくなり、相当な苦痛と折磨を受けることになります。これは現代社会で広く見られることで、夫婦の情義を深く理解する前に草々と終わらせてしまい、「離婚」によって終わらなければおかしいのです。
第廿三回 五行生剋
有情衆生は現世において、多くの現世報がこのようであるのを見ることができます。五行生剋の道理を理解することができれば、善悪の因果において善徳と悪禍の報応を得ても、天地と因果の定律に対して疑念を抱くことはありません。その中で最も主要な鍵は、ただ時運がまだ到来しておらず、福運がまだ訪れていないだけなのです。
第廿四回 命理人生
衆生が人生の苦空無常、生住異滅の過程を了悟することができれば、時に人生で何を计较し、何を争うのでしょうか。このように计较して得たものは、すでに円満を失っています。争って得たものはすでに造業しており、造業はまさに「苦」の因であり、不良な含因によって形成されたもので、次の世の痛苦へと継続していくのです。
第廿五回 矛盾對立
矛盾は本来、この凡塵に存在するものではありません。
ただ人の心が正しく保てないからなのです。
第廿六回 時空生滅
どのようにして輪廻の局限から脱却すべきでしょうか。必ず俗世において改造し、また更迭できるかどうかを見極めなければなりません。そうでなければ、一世また一世と輪廻が交替するに任せるだけで、ただ時空の生滅が到来するのを待つばかりです。天・地・人に対して、すべて転回できない障害があり、時空の生滅に対しては、まさに永遠に止まることはないのです。
第廿七回 輪迴交替
すでに六万余年も輪廻しているのに、いつ解脱できるのでしょうか。この世で決着をつけ、改造して、再び輪廻の渦に入らないようにできるでしょうか。それとも、今生もまたぼんやりと苦しく生存し、さらに輪廻によって沈淪し、一世又一世と続いていくのでしょうか。だからこそ、人類衆生はまさにこのようにどうしようもないのです。
第廿八回 生老病死
病気になれば、まず医師に診てもらう必要があります。もし長く治療しても効果が現れない場合や、治癒できない時は、まさにこのような原因によって形成された苦い報いであるはずです。「真の薬は仮の病を治し、真の病（冤業病）は薬で治せない」と言われるように、因果や業障、冤親債主による討伐を受けることになります。業を消滅させる方法を理解してこそ、病気や痛みの折磨を変えることができるのです。
第廿九回 苦空無常
さもなければ、永遠に無常の中にあり、無常によって束縛されることになります。苦空無常とは、すなわち苦しみも無常、空も無常、楽も無常ということです。人生のすべてが無常であることこそが人生の真理です。では、どのように把握すればよいのでしょうか。この一点の体悟を捉えれば、人世間において大いなる為すことができ、輪廻循環の渦から脱却することができるのです。
第三十回 悲歡離合
崇心道場の諸賢生が待っているのは、すなわち心境における「悲離」と「歓合」の循環過程です。また上天の視点から見れば、一年の到来はまさに衆仙仏が天に帰り職責を報告するのを待つことであり、凡塵の仙仏が天庭に帰還するのは、凡塵での悲離があってこそ天庭に帰還でき、より多くの仙仏と共にいられるようになるからです。
第卅一回 喜怒哀樂
哀傷の情緒は、心が順わず意に沿わず、横逆な人生の不如意をもたらすものですが、同時に心境の転換でもあります。また紛争を減らし造業を減らす過程でもあり、人生の道もより平坦となるでしょう。楽心の喜び、悲心の哀しみは、人類の生存過程の反映であり、誰もが心境の発展から逃れることはできません。
第卅二回 得失心態
崇心で真理を勤勉に学べるでしょうか。また、聡明でいられるでしょうか。これこそが大智若愚の優れた現れです。短絡的な人類衆生が理解できる奥義ではありません。現世において自らを改造し、修繕してこそ、真に大いなる智慧を持つ者なのです。考えてみれば思わず微笑んでしまうでしょう。いかなる宗教を信仰していようとも、すべて同じことです。
第卅三回 陰陽相待
陰陽は天地間において、まさに相互に交替して万物と衆生を潤しています。いかに天地の覆載に感謝し、日月すなわち陰陽の照耀に感謝すべきでしょうか。それが恩を知り本に報いることであり、万物衆生に生生不息の原動力を持たせ、造就向上、回帰超越を実現させるのです。皆に平等な機会が与えられています。
第卅四回 天地造化
天地の演化過程は、仁徳慈愛の発揚に符合するものです。人類の衆生にとって凡塵におけるあり方はまさにこの通りであり、天地の演化徳澤に背くことのないよう、人類の快適な生活空間の創進に努めなければなりません。そうでなければ、天地が人類に反撲することは容易であり、これほど人類が警醒せず、体悟できないのでしょうか。
第卅五回 宇宙演化
宇宙はすでに凡塵を超越しており、地球の衆生の科学技術文明より千百万倍も超越しています。有限の知識領域で、宇宙の奥妙無尽を知ろうとすれば、数十年から数百年を経て初めて達成できるでしょう。もし上蒼が早く衆生を帰還させようとするならば、必ず科学技術を借りて早日に示すことでしょう。
第卅六回 回歸收圓
真に圭臬として奉じ、真に回帰の本質に達するには、因縁和合を待って次の世に成就しようとするならば、お尋ねします。同じ因縁を具足して成就できるでしょうか。甚だしく知り難いことです。また誰が知り得るでしょうか。眾生は仏であり、仏もまた眾生であるということを。これは人世間にあってこその言葉なのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
崇心正主席　虚空上人
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
昊天の玉旨が道場に降り、崇心の善縁が今開かれます。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
この世界に長く留まることなく、回帰して超越し、円満なる契りを結びます。
第二回 初基（無極之二）
人生の幾十の秋を笑って見送り、
争い奪い得るものは皆汝の求めです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
そうでなければ、人類の生存において何が長く続くというのでしょうか。何が再び輪廻するというのでしょうか。必ず一本が万殊に散ずることを借りて、人類の良善な因縁を再び起動させなければなりません。人類の因縁をどのようにして一本に帰すべきか、それこそがまさに無極の由来なのです。また有情衆生の行うこと為すことにより、未来の善悪や福禍の分別を判断することができ、それこそが帰るために備えるべき条件を増長させることなのです。
第四回 太極
この偈を、衆々の仏子（衆生）と共に互いに励まし合いましょう。本当に清明本性を回復し、軽盈な天躯や黄綾彩帯を再現して自ら帰還したいと思うなら、人類衆生に対するこのような因縁条件において、常に良善で徳のある行いを積み重ねなければなりません。衆々の修行者が皆無事に帰還されることを予めお祝い申し上げます。
第五回 兩儀
どのようにしてこの目標を達成するのでしょうか。ただ現在の世において修持や行いに心を注ぐことに他なりません。どのようにして向上し、真に自性の仏体に回帰して成長超越するのでしょうか。両儀が下へ伝わっていく時には、すなわち先天から気界へ降りる時には、陰陽を分別して達成するのであり、それは凡塵の一切においてのみ行われることに他なりません。
第六回 四象
衆生がもし、人類に必ず必要な過程である春に生じ、夏に長じ、秋に収め、冬に蔵することを了知できれば、すなわち四季、また四象の中で万物と衆生を成就し、それによって生生として息むことがないのです。そうでなければ、一本が万殊に散ることは成立しません。しかし、万殊もまた冬蔵の後、すなわち滅尽の中で再び一本に帰るのです。
第七回 八方
東南と東北は互いに補い合い、西南と西北はすべて吉祥です。
第八回 含因
前世で蒔いた福禍の種は、今世に必ずその果報が現れるのです。
第九回 人生
山河は主人で人は客人です、その内涵がどのようなものかを明らかにしなければなりません。
第十回 萬法
上蒼が万物衆生を長養される時、必ず人を基本とし、さらに人世間の様々な善徳の因縁を開創されます。もし人類が強勢を頼んで他の生霊、すなわち万物衆生を残害するならば、それは必ず人類の不慈であり、人類の不慈によってその能力を恃んで残暴に万物衆生を加害すれば、悪報が追討してくるのです。
第十一回 唯心
万法は唯心により自ら造るものです
なぜ苦しんで上蒼が試練を与えるのでしょうか
第十二回 萬殊
まさに人類世界が必ず理解すべき一環であり、有情衆生は理解できるでしょうか。現代において、すでに多くの食物が微生物の培養を経て、人類の新陳代謝により有利になり、人類および万物蒼生により多くの栄養を供給しています。もし不足すれば、人類および万物が病気や痛みに苦しめられる原因となります。
第十三回 唯物
また、病厄の折磨に任せてはいけません。それが自ら招いたものなのか、上天が試練として与えているものなのかは、すぐに明了になります。人類衆生には万殊唯物が必ず必要であり、すべては有形の実質的な躯体の姿形であってこそ、自らの養護に役立つのです。もし前倒しで終わらせたり、病厄の折磨に任せたりするのは、自分に対する不仁慈です。
第十四回 生死
それはただ別の空間が初めて確立されるだけなのです。もし生死を見破ることができなければ、必ず生死に束縛されます。「生」の由来において、人世間において改造できるのか、それともぼんやりと一生を過ごすのか。来世で再び輪廻することは避けられず、必然的に輪廻の局限を離れることは困難です。
第十五回 自在
何の懸念もなくなることができるでしょうか。それは自分がどのように行動すべきかによって知ることができます。修持する人も修持しない人も、「縁来縁去」をすべての事物に適用することができれば、「円来円去」によって自分を円融させることができ、そうして初めて他人をも円融させることができ、人世間において因縁によって圓滿を成し遂げることができるのです。
第十六回 惻隱
この際、「慈と悲、惻と隠」の発揮は適切でなければならず、対象を見て決めなければなりません。そうでなければ、貧しい同胞を助けることができず、かえって人類の慈悲や惻隠を踏みにじり、布施を成就することを難しくし、悪業を造るのを助け、労働しない者を増やし、さらに人間の慈悲や善性を欺くことになり、逆効果になってしまいます。
第十七回 慈悲
ただ凡間に降りて以来、どのようにして本来の自分自身の場所へ帰還するのかを知らず、自分自身を輪廻の渦の中に流浪させ、世々代々にわたって繰り返し自分を形成してしまい、そのためこの種の障害を脱却することができないのです。上蒼が教を設けた本来の意図においては、必ず生死輪廻を流浪する衆生に体悟させ、また改造させようとしているのです。
第十八回 喜捨
もし子孫が賢く孝行でないなら、たとえ金山や銀山があっても、ただの浪費家になるだけです。天地の法則はすべて情け深く衆生を利益することができます。もし賢く孝行な後代の子孫を授かるなら、祖先の徳沢や福徳を守るだけでなく、今世に残されたすべての財産や物品を大切に珍惜し、さらに祖先の名声を輝かすことができるのです。
第十九回 因果定律
もし修行のためだけに修行するような時には、まさにこの世の苦境から脱することができず、さらに自分の善因に悪報を受けさせることになってしまいます。多くの宗教の修行者が、まさにこのような行いによって退転してしまうのです。本来は喜んで宗教修行の道に入ったはずなのに、却ってこの一生における因の根本と行いを変えることを妨げてしまうのです。
第二十回 思想觀念
人が万物の霊長であるということの意味は、善良で良い方向へ向かって行持するのが正しいのです。それは自分自身を幸福にし、万物の衆生をも幸福にすることになります。また、未来の良し悪しは人世間のすべてに影響を与えるため、修持するか否かにかかわらず、皆是れ同じです。まさに非常に善良な起心動念を持つことが必要なのです。
第廿一回 教化修持
現代のすべての選挙の過程を見てみましょう。誰が永遠に高官の地位を楽しみ続けることができるでしょうか。それは各自の時運が旺盛で、福分が具足していて初めて得られるものです。さらに、評判が高まっている時には、皆に持ち上げられて非常に華やかで、門前には人が押し寄せ、多くの人が追随し、まさに大いに賑わっています。
第廿二回 執著固化
思想や観念を転化させ、現代の衆生が備えている条件に照らして、もし思想や観念を固化させず、定点に執持してそれを十分に発揮することができれば、宗教信仰、教化修持、商売営業、家庭円満の原動力を展開することができます。しかし、コップの水がすでに満ちていれば、他の新鮮で有用な資糧を加えることは非常に難しいのです。
第廿三回 五行生剋
実は上蒼においてすでに早くに定められており、いつ災いが尽きて福報を享受できるのでしょうか。必ず長期的に維持し、常に善行を行い、日々善行を行う必要があります。もし福報が訪れる時、福運が具足すれば、それは各人の心態の組み合わせによって定まります。真理を理解することができれば、再び福報と福運を自分に應用し、さらに多くの衆生を造福することもできるのです。
第廿四回 命理人生
必ず次の世に生まれる前に、すでに注定されています。次の世もまた「苦、苦、苦が連なり、磨き、磨き、磨きが連続する」という挫折であり、人生が平坦になれるでしょうか。まさに了知することは困難です。また、なぜ現代の衆生はしばしば「人生不如意十中八九」であり、人生はまさに「求不得苦」という苦境にあると怨嘆するのでしょうか。どうしようもありません。
第廿五回 矛盾對立
それゆえに矛盾が対立をもたらすのです。
それを打ち破ってこそ、本来の真実に帰ることができるのです。
第廿六回 時空生滅
人類が転回できるのは、まさに輪廻交替によるものです。己のために修め、衆生の指標となるかどうかは、必ず人世間において思想や観念を改め、人世間において実践してこそ、輪廻交替の相続再結合を転回させることができるのです。衆生が皆、自性仏性、真如実体へと回帰されることを願っております！回帰は必ず人世間において実践されなければならないのです！
第廿七回 輪迴交替
繰り返される輪廻から抜け出すことは難しいのでしょうか。そのようなことは必ずしも一定ではありません。もし抜け出すことができれば、もはや凡人ではなく、必ず仙仏の本質を持っています。さらに元の地点に帰して真如に返り、人世間を成就し、当今の現世を成就することができます。衆生は本来仙仏であり、仙仏もまた衆生であるならば、どのようにして帰るべきでしょうか。それは自分の努力次第です。
第廿八回 生老病死
死：病気の苦しみの中で、時に劫難を受けることによって、衆生を滅度へと導く過程があります。それは「怠惰な呼吸」が止まり、そのまま一つの死体となることです。これも鼻の呼吸の中に存在しているもので、もし一息が来なくなれば「怠惰な呼吸」が止まり、「過身」「逝世」「歿度」「死亡」など、数多くの名詞で呼ばれるようになるのです。
第廿九回 苦空無常
生老病死の苦しみは、釈尊が在世時に体悟された真理でもあります。数千年を経て今日まで伝えられ、宗教によって「生老病死の苦しみ」を淡く見つめ、達観することができれば、人生の輪廻循環の過程を理解し、必ず相続する輪廻の渦から跳躍して脱却することができます。このような条件は、自分自身にとって一種の上昇超越となるのです。
第三十回 悲歡離合
このような情景はまた歓合であり、十日ほど経過した後、再び天界から凡塵の世界に降りて相聚します。これは天庭における「悲離」によって凡塵に帰り、また凡塵における「歓合」の過程を形成しているのです。宇宙天地において、あらゆる過程はこのようであり、その中の内涵を感じ取ることができるでしょうか。
第卅一回 喜怒哀樂
世の中において「悲しみと哀しみ」を「喜びと楽しみ」に転換し、さらに「歓びと合」の心境の過程を促し、「怒り」の気沖天の影響を受けないようにすることです。自らの種々の行いと心路の歩みに対して、人類の生存における「喜怒哀楽、悲歓離合」の過程は、毎日出会う心境と事柄なのです。
第卅二回 得失心態
得と失に対する心構えは、自らに成就の機会を与えてくれるものです。まずは時間、空間、精神、心力を組み合わせて継続的に捧げることが必要です。それは後々、上蒼が有情衆生の様々な行いを記録し、それを拠り所と基盤とするためであり、必ずや自らの未来の道のりを成就し、さらに衆生をも成就させることができるのです。
第卅三回 陰陽相待
陰陽と乾坤は相待ち、双方にはそれぞれ異なる同類があります。
第卅四回 天地造化
懿敕崇母心、徳は天地に遍く蒼生を潤します。
第卅五回 宇宙演化
人類の衆生は凡塵においていかにして帰還するのでしょうか。真如を彰かにし、仏性を現してこそ、初めて帰還の本質に真に達することができます。さらに凡塵においてまず六度万行、すなわち大乗菩薩行の覚有情の境界を行じることで、仏性を彰かにしやすくなります。もし菩薩道のこの関を跳脱しようとすれば、達成はさらに難しくなります。
第卅六回 回歸收圓
もし三界の空間を脱した後、どこに仏があるでしょうか。またどのように眾生の分別があり得るでしょうか。皆是平等の自性仏体であり、光明輝く天躯に過ぎないのです。仙仏は一団の霊光であり、如来のようでありまた去るようであり、去るようでありまた如来のようです。仏は如来であり、眾生もまた未来の如来です。如来は仏であり、仏もまた眾生なのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
引き続き昊天の玉旨が降堂されますので、本堂の二三関帝および済公活佛に命じて二十里外で駕をお迎えさせ、さらに本堂の普賢菩薩と観音菩薩に命じて十里外で駕をお迎えさせなさい。その他の神仏と学生、および無極大道院の衆霊修士等は、列を作って駕をお待ちし、決して失儀があってはなりません。##
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
大道の真詮は世の迷いを救い、衆生を導き帰還させ真理を暢びにさせます。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
今、『大道真詮』を紐解いてまいります。人類衆生が、無極より太極が生まれ、両儀が生まれ、四象が生まれ、八方が生まれる過程を細やかに体悟し、原点である無極へと回帰することが、比較的に取り組みやすい道であることに気づけば、無知の状態から学びと成長を経て、人類の生存における障害を化解し、完全に通徹することができるでしょう。
第二回 初基（無極之二）
振り返り改めて見れば罪業はなお残り、
業を帯びて冥土に入り我が身は囚われます。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
貫一は上蒼の御意として示され、一本は万殊となって凡黎に降りてこられます。
第五回 兩儀
それも正しいことです。一切の万事万物が展開し伝延していくのは、衆生もそうであり、万物もそうであり、仙仏もそうです。自らの体において皆このように行えば、両儀の中で一切の万事万物の因縁を分けることができ、また未来に向けて生生不息の伝延を創造することができ、欣欣向荣の生存空間を築き上げることにもなるのです。
第六回 四象
四象は区別され、すでにこの世に降りてまいりました。
回返する機会は、詳しく見極めることが困難です。
第七回 八方
因縁和合の始まりを開創し、再び人生の真理とするのか、それとも方便をもって修持し、また人生を虚しく過ごすのでしょうか。方便法門によって顕化されることで、衆生が長い道のりを経てから間違っていたことに気づき、引き返そうとしてもすでに好機を逃してしまい、自信を失って再び出発することになってしまうのでしょうか。
第八回 含因
善悪は全て報われて偏ることはなく、當下の善悪の結末を形作ります。
第九回 人生
決して繰り返し輪廻してはなりません、苦しみや造業では真理を明澈することは難しいものです。
第十回 萬法
有情衆生は皆、万法が展開する一切によって迷失してしまい、自分の心灵の回帰点を知ることもできません。したがって上蒼は必ず力を借りて警醒し、収斂の効果を達せられます。もし再び阻止することができなければ、上蒼は必ず人類を収復されます。人定勝天と言う言葉がありますが、これは天が人類の成就を望む時に初めて許されるものであり、すべてがそうであるわけではありません。
第十一回 唯心
人道の責任を尽くして皆満ち円満になります
天道が自ら良い境地に帰ることを心配しません
第十二回 萬殊
もし万物衆生を不仁と見なし、傷つけて加害するならば、必ず上蒼も人類を不仁と見なし、天の忌みを受け、さらに災厄に遭うことを理解しなければなりません。また人類が慈悲や憐れみの心をもって、天地に向かい大愛を学び、万物を護るならば、上蒼も人類により豊かな慈悲や憐れみの心の福報を報酬として与えてくださるのです。
第十三回 唯物
「万法唯心」をもって「万殊唯物」を展開してこそ、真に人世间で生活し修行するために必要な態度と作法となるのです。万殊は実質的な生活を経て、唯物（万物）によって修行を成就し、またその修行において万法唯心を通じて、天下の衆生に福と利益をもたらすのです。そうではないでしょうか。
第十四回 生死
人が生死を用いないのであれば、必ず宇宙空間において、すでに聖神仙仏へと昇進しているか、あるいは精霊鬼魂であるからこそ、凡塵に立つことができるのです。聖神仙仏は皆、来去自在であり、如来のごとく如去であるからこそ、真に「生と死」という大事を了脱することができます。精霊鬼魂に対しては、このようなエネルギーの超越はありません。
第十五回 自在
自在洒脱に本来の場所へ帰ること、すなわち「源来又源去、縁来又縁去」の境地です。このようであれば、未来にどのような場所へ生まれ変わっても、すべて圓滿を果たすことができ、真に因縁を展開する原動力となります。そうでなければこのような境界に達することはできず、涅槃大楽を望んでも、死と滅尽への恐怖を抱くことになります。
第十六回 惻隱
このような作用は、人類の慈悲の発揮に影響を与えます。このような行為が天の不仁なのか、人の不仁なのかは、必ず実際に体証することができます。人に慈悲惻隠があれば、必ず自分の善徳の因縁を成就し、さらに不善の業因を改め、満ち足りた福報と良因善縁に達し、さらに自分の善相善徳を成就することができるのです。
第十七回 慈悲
必ずどのようにして本来の居住処へ回帰するのかを理解しなければなりません。すなわち自性の本来の地点であり、このように惻隠に慈悲を加えてこそ喜び捨てる行いができるのです。そうでなければ、人世間において皆凡塵に惑わされ、また自分の本来を知ることもできず、諸天の仙仏が方々で教を闡明し、处处で堂を開いて、衆生を渡して回帰させようとしても、どうしようもないのです。
第十八回 喜捨
そうすれば人世間の衆生に福沢を造ることができ、捨てるからこそ得ることができ、真に捨てる覚悟があれば、真の大いなる徳を得ることができます。そうでしょうか。また、なぜ上天が大いなる徳を持つ者に長く栄華富貴を享受させようとするのかという道理は、まさにここにあるのです。さらに「善を積む家には必ず余慶あり」という古訓も、これこそ天地の不変の定理なのです。
第十九回 因果定律
また、自らさらに精進する力を妨げ、自分を万劫繰り返すことのない境地に陥らせてしまうのです。このような善悪の因縁に対する因果の法則は、まさに消し去ることのできない真理です。そうでなければ、どれほど至高無上で、どれほど大きく、どれほど優秀で殊勝な修行環境であっても、それらは自分が到達して自ら証験できる過程にはなり得ないからです。
第二十回 思想觀念
思想を善良で良い方向へ向けることができれば、必ず自分自身を幸福にし、さらに万物の衆生をも幸福にすることができます。「人の初めは性は本善、人の行いは善本性」ということにおいて、必ずこれによって自性を引き出して行事し、生まれつきの性質に任せて人として生きるのではなく、そうして初めて自分を利し人を利し、人を利して衆生を利すことができるのです。
第廿一回 教化修持
もし福報や時運が具足していなければ、どれほど大きな才能があっても、自分の思い通りにはなりません。さらに評判が落ち込み、過去に不良な行いがあれば、皆から唾棄されるでしょう。かつての華やかさも失われます。古代の王朝の交代や人事の異動の過程を見れば明らかです。ある偈にこうあります。
第廿二回 執著固化
「執持」する力で定点に「著」し、「固定」されて動かないようにしなければ「転化」することができます。そうでなければ、定点を動かずに執持し、定点に著すようでは転化が難しくなり、またここに固定されていればさらに変化することは困難です。執着することは必要ですが、固化してはいけません。現代の修行者が最も陥りやすい渦に対して、どのようにして脱出すればよいのでしょうか。
第廿三回 五行生剋
もし、各自がずっと福報を享受し続けており、さらに自分の福報や福運を増やそうともしない時、一個人の福分がどれくらいあるかは、必ずしも一定ではありません。自分が善を為すよりも悪を為すことの方が多いのでしょうか？なぜ善行を行っても福分の本源を具足できないのでしょうか？これは理解すべき観念です。
第廿四回 命理人生
もし善徳の含因を具足することができれば、必ず次の世において福沢、福田、福分、福報の擁護を十分に受けることができます。また、先天の命理については、必ず次の世に生まれる前にすでに注定されています。そうであるからこそ、現世において前世の人生で蒔いた福報を享受することができるのです。
第廿五回 矛盾對立
盾と矛が互いに攻め合うのは、すべて自らの心によるものです。
どうしてこのようにして、互いに親しみ合うことができないのでしょうか。
第廿六回 時空生滅
時空と因縁とは過程です
生滅もまた如実の真実です
第廿七回 輪迴交替
輪廻の移り変わりにより再び生まれ、今生において立派な人間として歩みます。
第廿八回 生老病死
結局のところ、「一息が来なくなる」ときには、たとえ天下の英雄豪傑であっても、また過去の功勲がどれほど輝かしいものであっても、黒白無常の拘束から逃れることはできず、幽冥世界へと入ることになります。したがって、「死亡」とは別の空間への転換に過ぎないのです。また、人世间の有情衆生は皆そうなのです。
第廿九回 苦空無常
苦しみとは、まさに心境と身体を折磨する交差点です。もし成立しない時には、必ず見極め、達観しなければなりません。そうしてこそ、苦痛によって心と身を折磨されることがなくなり、単に身心が痛むだけにとどまりません。それゆえ、苦しみを苦しみとしないことこそが、真に苦しみから解脱することであり、苦しみが心を折磨し、病痛が身を折磨することを転換する力を備えなければならないのです。まさにその通りなのです。
第三十回 悲歡離合
春節が近づくと、人類の衆生も現在の居住地を離れ、故郷に戻って団欒し、親族と共に歓合できることを喜びます。春節が過ぎると、また故郷から悲離して現在の居住地に戻りますが、これこそ二つの「悲離と歓合」ではないでしょうか。これはただ心境の転換に過ぎず、長くなれば麻痺して感覚もなくなってしまうのです。
第卅一回 喜怒哀樂
自らがこの過程を乗り越えられなければ、周囲の人、事、物にも、「悲離と歓合、喜楽と哀怒」の影響を受けることになります。この過程は人生の経験の蓄積であり、思想観念の転換であり、情緒抒発の転換点でもあります。哀しみは鼻がつんとした後に、初めて涙が導き出されるのです。
第卅二回 得失心態
まさに古人が言うように、愚か者には愚かな福がある、すなわち大智若愚の者こそが、真に聡明な諸賢生なのです。また、いかなる宗教の修行者であっても、あまりに抜け目なければ、それはただ六道衆生の中で成就できるかどうかに分別されるだけであり、その行いの中で、自らに蓄積された資本がどのようなものかを明らかにすることができるでしょう。
第卅三回 陰陽相待
それぞれ両辺の因由があり、互いに助け合って大道が開かれます。
第卅四回 天地造化
崇心母懿敕、真理を啓化し仏性を彰顕します。
第卅五回 宇宙演化
衆生平等、仏性平等であり、すなわち宇宙演化の過程において、浩瀚な宇宙天際がいかにはるか遠く、広大無辺であるかを知ることができます。如今、崇心が著作した「大道天書」を借りて闡述することで、衆生に宇宙天界、虚空天界、無極天界の浩瀚さと博大精深さを理解させることができます。
第卅六回 回歸收圓
皆さんにお尋ねします。どのように来てどのように去れば、人世間において大乗仏菩薩、聖神仙眞の位階を成就できるのでしょうか。崇心が執筆した一連の天書は、ここまでで『大道真詮』がすべて書き終えられ、今後さらに別の天書の執筆が続けられますが、それは崇心が真に真理を弘揚できるかどうかを見て決定されるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
钦差大臣　駱天尊
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
引き続き昊天の玉旨が堂に降臨し、本堂の済公活仏、福德正神に二十里外で駕をお迎えするよう命じ、本堂の天上聖母、観世音菩薩に十里外で駕をお迎えするよう命じます。その他の神人および無極大道院の衆院修士も同様、列を作って駕をお待ちし、失礼があってはなりません。
◆ 本文 ◆
第一回 原意（無極之一）
『大道真詮』が紐解かれることによって、現世の衆生が目覚めて回帰し、成就することを切に願っております。そうでなければ、ただ前へと進んで再び輪廻を繰り返し、いかにして輪廻の渦から脱出すればよいかも知らぬままならば、自らの仏性へと回帰し、それを顕現させるべきです。我が仏は常に世間の音声を観て、その声を尋ねて、縁と心ある衆生を渡化し、成就へと導きたもうと願っておられます。
第二回 初基（無極之二）
人生の根本は中庸にあって、初基にあります。初めの基は善悪を分けず、対錯を分けず、好悪を分けず、是非を分けません。ただ如如なる真我のみであって、一切は自性に従って事を行い、無無明の中から、無無明の真如を悟ることができるのです。一切は初基の無明によって、人生の因縁の始まりを開くのです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
無極は太極に降生され、人間界の大道の基を築かれます。
第六回 四象
四度に分かれて天機を展開いたします。
東西南北はそれぞれに異なっています。
第七回 八方
もし引き返すことができれば、まだ立て直す余地がありますが、最も恐れるのは修持の中で、自分自身に固執して変化することが難しくなり、結局、本来この世で本来の自我に回帰できたはずが、さらに迷い込んでしまうことです。これを修持の転換点とすることができるのでしょうか。それこそが衆生および修行者が拠り所とする本来の方向なのです。
第八回 含因
含因とは、果報を成そうとする時、必ず「触縁」を借りて引き起こさなければ、果報となることはできません。そのため含因は変換され、無明の始まりから一世又一世と蓄積され現在の現世に至ります。人類衆生は、過去にどれだけの世を蓄積してきたのかを知ることができるでしょうか。含因を変換し、自分を成就することができるのでしょうか。
第九回 人生
人類の世界においては、真理をもって衆生を教化することが必要です。今の時代は儒家思想が多く取り入れられていますが、真に儒家の精華を行持できる者は、極めて稀です。天地の蒼生が皆、有情でありますよう祈願いたします。大乗菩薩行の覚有情の世界に入ることができれば、それは哲を希い、賢を希い、聖を希うことであり、自らを高めて超越することなのです。
第十回 萬法
万法が世間に徳性を添えます。悪因を造って禍が付きまとわないようにしましょう。
第十一回 唯心
このような場合には、必ず基本的な条件と行いが必要であり、そうでなければ試練に遭うことを避けることはできません。衆生と修行者は皆、まず人類の行う道、すなわち人道をもって、責任を尽くし完璧を期すことができれば、どうして試練があるでしょうか。またどうして試練や魔障があるでしょうか。宗教において試練と言いますが、実は、しばしば自分の心によって呼び寄せられるものであり、どうして上天が試練を与えるというのでしょうか。考えてみれば必ず明らかになるでしょう。
第十二回 萬殊
万殊の後は、すなわち一切の因縁和合の展開であり、人類世界は必ずこのような過程を経てこそ、真に上蒼の万物衆生を長養する慈悲心に達することができます。人はどのような環境にあっても、富貴貧賤を問わず、どのような場所でも食物連鎖の組み合わせによって、ただ温かく満ち足りていればよいのです。
第十三回 唯物
これは人世间において当然あるべき基本的な行いです。そうでなければ万殊唯物を用いることができず、もしこの身躯を過度に保護するのも正常な行いとは言えません。そのため、この躯体に対して過度に快楽を貪り、塵世と相互に結合しなくなれば、必ず未来の災難を招き、天を怨み人を責め立て、真に成長するための免疫力を養うことは難しくなります。
第十四回 生死
生死は大事なことと心得、ただ生を潤すためだけに挑んではなりません。
第十五回 自在
来たる時にはいかなる執着も礙げもなく、
去る時には円満に融け合い、よく化現いたします。
第十六回 惻隱
このような条件における行いは、人類が凡塵の世界において持つべき大情大愛です。「天・地・人」の三才が世に並ぶいずれにおいても、人類の大愛大情によって、天地、日月、星辰の大愛大情を成就することができ、すべての人類および万物蒼生に対して、すべて一律に平等なのです。
第十七回 慈悲
わたくしは賜福の総枢機を司り、天下の衆生が皆「慈悲喜捨」をもって何をも求めず、功徳のためではなく行なうことを切に望んでいます。また上元天官は必ず大徳を行持する者に福を賜ることができ、それはまさに自分が感召した行いであり、また自分が得ることができる徳、すなわち福田・福沢・福報を具足することなのです。
第十八回 喜捨
人類や衆生は世俗の塵世において、必ず惻隠の心を備えてこそ、慈悲の心で衆生の疾苦を見つめることができ、自分の余福を喜んで施し、福徳のない衆生を成就させることができます。捨てることは必ず得ることにつながり、得ることは必ず福徳、福田、福報の条件を十分に備えることにつながります。そうしてこそ人世間において、真に福運の訪れを開くことができるのです。
第十九回 因果定律
実を言えば、それはただ見せかけを繕い、人数合わせをしているに過ぎず、どうしようもないことです。そしてこう言うのです。「私は今、宗教信仰の修行者です！だから仙仏や聖神の加護を受けることができ、凶運を吉運に変え、大きなことを小さくし、小さなことを無くすことができる」と。このように、「仙仏が自分の全てを護ってくれる」と言うのは、あまりにも愚かなことです。
第二十回 思想觀念
宗教の修持による教化の方法によって、自分自身の過去の不良な含因を変えることができるでしょうか。そうして初めて人世間において自分の主人となることができるのです。そうでなければ、ぼんやりとして何も分からない状態では、皆、輪廻の仕掛けられた罠から脱出することは困難です。有情衆生が皆、聡明な人となり、二度と罠に陥らないことを願います。
第廿一回 教化修持
舞台の上で演じられる人生を眺めておりますと、どなたが長くその成就を享受できるでしょうか。
第廿二回 執著固化
まさに真に平坦で平等な信仰の観念に達することが必要なのです。転化して柔軟な宗教思想を持つことができれば、商売によって一つの原動力を保ち、さらに家庭の調和と温もりを促進することができます。まさに現代の衆生が人世間において、宗教の教化を基礎とすることができるのです。そうでなければ、教化と修持は、不変の本意を持つことが必ず難しくなるでしょう。
第廿三回 五行生剋
五行のうち中土は非常に殊勝であり、他の国々では真実を明らかにすることは難しいのです。
第廿四回 命理人生
「命」は変更不可能ですが、「運」は人の行いによって変えることができます。だからこそ、命理宿通の言論と指針は、衆生が悪運が来る前にあらかじめ非を防ぎ悪を止めることができ、禍害が身に及ぶ前に準備や打算をすることができるようにするものです。騙されて財や色を奪われるような事態に遭うのではなく、そうなる前に備えるのであり、そうでなければあまりにも不明智です。
第廿五回 矛盾對立
矛盾と対立については、その道理を明らかにしなければなりません。
考え方を一つ変えれば、共に歩んでいけるのです。
第廿六回 時空生滅
生滅と時空を明晰にしなければなりません
超越して回帰し天乗に返ります
第廿七回 輪迴交替
全ての衆生は皆等しく、どのようにして苦輪から抜け出すのでしょうか。
第廿八回 生老病死
これは衆生一人ひとりが必ず経なければならない継続的な過程です。この世で歿度した後、他方の世界、すなわち「幽冥世界」での生存へと転じていきます。もし生きている間に世のため功德を積んだ人であれば、冥界に入る必要はなく、天界へと超生することができます。このような功績は、多大な心を込めて積み重ねなければならないのです。
第廿九回 苦空無常
苦しと楽とは、まさに人生のすべてを反映しています。「苦空は無常、楽空も無常、時空はさらに無常」であることこそが無常の真諦であり、万物万事を成就させるのです。苦楽の循環は、まさに人世間において必ず必要な過程であることを証明しています。もし苦空無常の観念から転化できなければ、必ず苦しみと楽に制限されることになります。
第三十回 悲歡離合
すべての悲離と歓合は、「天地人」に対して生じる一種の循環作用であり、いかなる動物も皆そうであり、すべてこのようなのです。よく考えれば、人生の至理である「悲離、歓合」の因縁が明白になります。これはまさに人類が日々の過程において、「喜怒哀楽、悲離歓合」の情景を促しているのです。
第卅一回 喜怒哀樂
「喜び」は自らの愛するもの、必ずや「楽」事です。「怒り」は自らの忌むもの、必ずや「哀」事です。「悲しみ」の中に転換があり、初めて内面の抑圧情緒を抒発できるのです。「歓合」は「悲離」の過程の接續点であり、内面の情感の宣泄を促し、一種の情緒の調整となります。
第卅二回 得失心態
得や失があることは必ず正常なことですので、
すべての問題は如実に進んでいくのです。
第卅三回 陰陽相待
相待の基礎は平衡からもたらされ、乾坤日月は天の安排によるものです。
第卅四回 天地造化
天地の造化は群生を育みます。天の徳は命を慈しみます。
第卅五回 宇宙演化
宇宙星際の多数の銀河系、様々な進化は星体において行われるのです。
第卅六回 回歸收圓
収円体系は十余種ございますが、それぞれの因縁は皆異なっております。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
昊天玉帝は功勲を賞賜し、崇心道場はひとしおご苦心なさいます。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
钦差大臣　徐仙翁
◆ 本文 ◆
第二回 初基（無極之二）
どのように行持するのでしょうか。すなわち本来の始まりの後、人類の生存による分別を経て、一切の善悪の因縁が形成され、人世間で善を欲し、悪を欲し、正しきを欲し、邪を欲し、是を欲し、非を欲し、対を欲し、錯を欲し、好を欲し、壊を欲する中で、人類の生存によって、始めの因縁を知ることができるのです。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
無の中の無には因が内含されていて、時空が訪れて接引するのを待っています。
第六回 四象
四方の角度は、みなそれぞれ独立しています。
こちらにはすでにそれぞれの分岐が生じています。
第十回 萬法
人として必ず綱常を守り、人としての基本を尽くして福報が現れます。
第十二回 萬殊
また、なぜ多くの殺生をして、自分の食欲を貪り、他の万物衆生を五臓廟に捧げ、自分の罪孽を増すのでしょうか。このようなことは不仁かつ不智な行為です。天下の有情万物衆生を多く愛護し、自分自身や他人の貴重な生命を大切にし、皆が生存の権利を持つことこそが正道なのです。
第十三回 唯物
それはまさに温室の花のようで、必ず外の風雨に耐えられず、成就に達することはさらに難しくなります。それゆえ、やり過ぎも及びもつかないも、すべて中道ではありません。修行においては、この身躯を十分に活用して学び成長すべきであり、一般の修行せぬ衆生は、必ずこの身躯をさらに過保護にします。もし最期の一息が来ない時、どのようにしてこの身躯を有用にすることができるでしょうか。
第十四回 生死
人生改造の界を識るならば、上昇と下墜は各自が了脱いたします。
第十五回 自在
縁の来たり去りゆくは本来自在ですので、
円満に本心の華に帰着いたします。
第十六回 惻隱
惻隱の心は誰もが持っています。熱心に人に接すれば成就することができます。
第十七回 慈悲
慈悲喜捨は本分です、誰しもが天徳の分を授かっています。
第十八回 喜捨
現代の時代においては、「因果応報の時空は十六倍に短縮された」のです。以前は非常に長い時間を経てようやく現れた報応も、現代の世代ではすべて前倒しで目に見えるようになりました。福報も悪報もすべてそうです。必ず人類の心構えや思い立ちを見ることによって、福報の多寡が決まるのです。行善もそうであれば、作悪もまた同じなのです。
第十九回 因果定律
思い知るべきは、人の思想が固定化されてしまえば、どうして悪因を転換できましょうか。それは自ら果報を招いているのであって、仙仏が慈悲ではないからではありません。因果の法則を明らかにすれば、人の要因は変更可能であり、決して一成不変ではないことが分かります。人の行いによって悪因を転換して善報とすることもできれば、善因を変えて悪報とすることもできるのです。
第二十回 思想觀念
思想や観念が執着し固まれば、 困難に縛られるのもまた同じことです。
第廿一回 教化修持
将となり相となる栄華を極めても、誰がいつまでも留まっていられるでしょうか。人生は空しく移ろい、喜びが訪れるのを待つばかりです。
第廿二回 執著固化
自らの認知に執着することは、常にすでに賢明ではありません。
第廿三回 五行生剋
金木水火土の五方を適切に運用すれば、福気がもたらされます。
第廿四回 命理人生
人間には判断能力がなければ騙されることはありません。さらにその利益を受ける前に、まずその害を受け、「財と色」の劫難に遭ってしまうのです。ですから、趨吉避凶はまさに人類衆生の先天の本質であり、教化を通じて事前に警醒させなければなりません。命理と人生においては、地理風水、五行八卦の影響を受けるものです。
第廿五回 矛盾對立
人生において世に生きることはまさにこのようであり、矛盾が生み出す対立の中に置かれ、それは不信や疑いとなります。人類は現世において「矛と盾」の影響を受けているため、俗世にあって常に「どう行動すべきか」「どう振る舞うべきか」が分からないのです。そして、長い道のりを経て最後に至ってようやく、すべては「矛と盾」の中にあるだけだと気づくのです。
第廿六回 時空生滅
大慈の者は - これを行うことができます。大悲の者は - これを行うことができます。
第廿七回 輪迴交替
仙仏は人間としての行いから始め、上蒼のこの時期の天徳の義があります。
第廿八回 生老病死
人世间においても、宗教の修持を通じて、人世间の因果循環を変えることができ、三次元の空間による拘束を受けることもなくなります。「自性の仏体を闡揚する」ことを現さなければ、死による制限を乗り越えることはできず、無極天界、虚空天界、宇宙天界へと超入することはできないのです。
第廿九回 苦空無常
そして再び自らを輪廻相続循環の中に飛び込ませてしまうのです。苦しと楽に向き合うことは、まさに無常が継承される過程に過ぎません。どのようにして現世において自分を成就させればよいのでしょうか。苦空無常の観念を、第八識である「阿頼耶識」の中に植え付けて転化させることができるでしょうか。そうしてこそ真の姿を見極め、本来のすべてを見ることができるのです。
第三十回 悲歡離合
人生がこのようであり、天界もこのようであり、冥界はなおさらこのようです。毎日「歓合と悲離」の過程によって、すべての衆生がこのような循環過程を受け、それによってこの世界が多彩で豊かになるのです。人生においてこの原理を理解することができれば、真理を闡揚し、真詮を人世間に適用することができるのです。
第卅一回 喜怒哀樂
もし人類の衆生が明瞭になり、「喜怒哀楽、悲歓離合」の相互交替を理解すれば、必ずや自らの情緒を抑え、制御できるようになり、自分や他人を傷つけることはなくなります。有情の衆生が皆、喜楽の雰囲気を他者にもたらし、常に歓楽の心情を保つことを祈念いたします。
第卅二回 得失心態
失ったり得たりしたからといってどうということはありませんが、
内面の感じ方は一様ではないのです。
第卅三回 陰陽相待
人生は本来このようになっています。過程を明らかにし、誤りを改めていきます。
第卅四回 天地造化
大地の徳は命を養います。人類の徳は放生します。
第卅五回 宇宙演化
自転と公転は必ず適切な状態を保ち、運行と浮遊は天際で行われるのです。
第卅六回 回歸收圓
普渡復古の五教などがございまして、その他にもなお収円拱がございます。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
大道真詮は四海に揚がり、衆生を広く教化して帰還を導きます。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
昊天の玉旨は真理を伝え、玉皇大帝の慈徳の意です。
◆ 本文 ◆
第二回 初基（無極之二）
初基が打ち立てられるにあたっては、必ず無明が最初に立てられ、真如に向かって行持することによって、初めて一切の不良な業因によって形成されたものを変換することができます。人生もこのようであり、万物もまたこのようであり、皆転換を受けずに種子因を埋没させてしまいます。人の初基が、もし善徳の始めに向かって歩むことができなければ、その後必ず悪因悪果によって人類の業障をすり減らすことになります。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
貫一と一本が顕著に現れ、物種を開創してさらに新穎になります。
第六回 四象
一つに結びついて天徳を創造いたします。
中道に服膺して、大円の基といたします。
第十回 萬法
因果を明らかに知り情に惑わされず、良善なる福報を引き寄せることができます。
第十二回 萬殊
天地の徳と仁の慈悲の心で万物を長く養い、己が隣として受け入れます。
第十三回 唯物
唯物の実相は、人間の世に顕れています。有情衆生としての人間たちなのです。
第十四回 生死
死生一回にて業果を消し、いかにして徳澤の業を完成させるのでしょうか。
第十五回 自在
自在逍遙はありのままであることが肝要ですので、
陰騭の徳性によって、福報が馳せ巡ります。
第十六回 惻隱
普段は隱れて姿を現しません。事に遇って初めて頭角を現します。
第十七回 慈悲
己に慈愛を向け衆生に悲憫を注ぎます、境地は異なっても大道は篤いのです。
第十八回 喜捨
人類や衆生が真心から大きく捨てるなら、必ず大いなる徳を得ることができます。もし真心から大きく捨てることができないなら、大いなる徳を得ることは難しいでしょう。中くらい捨てる者は中くらいの徳を得、少しだけ捨てる者は少しの徳を得、捨てない者は徳を得ません。人世間ではまさにこのように、一つ捨てて一万の報いを得るのです。これこそ行善に備わる基本法則であり、無為の付出をするかどうかによっても決まるのです。
第十九回 因果定律
すべては自分の心構えと思想観念によって決まるのです。もし自分を衆生平等、宗教平等、修行平等の中に置くことができれば、人世間において慢心や驕慢な心構えを生じさせ、他の宗教の特別なところを無視するようなこともなくなるでしょう。しかし、そうできなければ、それは宗教信仰において善の中に悪業を造っていることであり、どうしようもありません。
第二十回 思想觀念
観念を転じれば困難から脱却できます。 時代は移ろい、古いものはすでに枯木と化しました。
第廿一回 教化修持
行き交う生死の輪廻は、いつ終わるのでしょうか。運命に具足しているものこそ、手にすることができるのです。
第廿二回 執著固化
争って顔や耳を赤らめるのは、傍から見れば実態を正しく捉えがたいものです。
第廿三回 五行生剋
生剋の問題は明確に理解しなければならず、それは相生相剋の道理によるものです。
第廿四回 命理人生
人世間における不良な生存環境を変えなければ、横逆によって磨かれることなく到達することはできません。そうでなければ、人生の中で前世の業がどのようなものか了知することはできず、厄運が磨きに来た時、その行いをどのように転化すべきかも了知できません。困難な点はまさにここであり、これこそ有情衆生が迷っているところなのです。
第廿五回 矛盾對立
そうしてすべての物事が生じ、まさにこの生のあらゆる行為を縛るのです。それゆえに、「矛盾」の相互対立を打ち破ることができれば、多くの無駄な遠回りを減らすことができます。修行、商売、家庭、人との付き合い、物事への対応において、すべてがこの通りです。人類衆生には光明の大道が広がり、矛盾によって局限されることもなくなるのです。
第廿六回 時空生滅
大智の者は - これを行うことができます。大願の者は - これを行うことができます。
第廿七回 輪迴交替
必ず五倫の常道を行わなければならず、基本条件が根基となります。
第廿八回 生老病死
衆生が深く体悟し、人世间において改造と修整を行わなければ、この境界に到達することは困難です。さらに理解することのできない迷いもあり、生・老・病・死の過程に、苦・空・無常が続いていきます。生・老・病・死・苦といったものは、人世间での様々な経験を通じて積み重ねられたものなのです。
第廿九回 苦空無常
生老病死の苦楽を体会できるということは、まさに人世間における生存の過程に過ぎません。その中のコツを明確に認識すれば、大いなる智慧によって自分を高め超越することができ、人生の真実の姿をはっきりと見ることができます。必ず実相における生存のすべてを理解することができ、それは人類の成長の中で高め超越していくことなのです。
第三十回 悲歡離合
悲歡の過程はどのようなものでしょうか、それは別れと出会いがあるからなのです。
第卅一回 喜怒哀樂
そうすれば、自らを不如意や横逆の悲哀の中に沈み込ませることもなくなります。どのように取捨すべきでしょうか。それは自らがすべての行いを改造することによります。人類の衆生が法喜によって楽心の愛する修持方式を成就することを願います。また、地球に生存する有情の衆生は、毎日必ず「喜怒哀楽、悲歓離合」の相互接續を経験するのです。
第卅二回 得失心態
心のあり方は転化して変えていくことができますので、
これまでの過程において努力が必要なのです。
第卅三回 陰陽相待
凡塵の人類の衆生はお分かりでしょうか。甚だ難しいことです。その中に見えるすべての本末因縁を、仔細に体会しなければなりません。また今日、幸いにも降り来たりて『大道真詮』の天書を著作し、崇心の道気が沖天しているのを観て、諸生の虔心堅志は可喜可賀です。戊寅年に道程を大いに展開されることを期待し、特に祝います。吾は太陰宮に帰ります。
第卅四回 天地造化
まさに天地の反撲の中において注脚となり、人類に永遠に記憶させるのです。強をもって弱を欺いてはなりません。弱勢の反撲は、まさに物極必反の道理です。人類の衆生が皆、徳澤を明白にすることを期待しており、それは万物の衆生を潤し、さらに万物の衆生が皆、人世間において平和に共处できるようにすることです。
第卅五回 宇宙演化
大道自然はバランスの基盤であり、星球の進化は誠に不思議なのです。
第卅六回 回歸收圓
円円円円と収円のために参りまして、回回回回と真に帰還いたします。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
謹んで昊天の玉旨を奉じて降堂し宣読いたします。諸神人は俯伏し、決して失儀があってはなりません。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
懿敕道場は再び旨を受け、大道の真詮は天機を普くします。
◆ 本文 ◆
第二回 初基（無極之二）
初基はこの世に降生し、
人類と衆生は決して等閑ではありません。
第三回 貫一（一本） （無極之三）
思想観念や行為動作に対しては、また未来のよりどころを形成することとなり、これは必ず行うべき基本的な行いです。今夜降臨して『大道真詮』を著作するにあたり、崇心の諸賢生が「無極大道院」のために再び力を尽くして勇往直前し、さらに多くの原霊を広く救済して帰還させることを、実に師が切に望んでいるところです。
第六回 四象
形成されて再び太極に戻り、また無極に帰ります。このようにして生息する万物には、それぞれ異なる特別な使命があります。有情衆生は必ず了知しなければなりません。どのようにすれば無極の元の場所に戻ることができるのかを。回帰して向上し、成長して超越することが必要であり、ただ人間世界で繰り返し輪廻するだけであってはなりません。深く戒めなければなりません。
第十回 萬法
何事もあまり計較せず、全ては仮の借り物ですから何に心を留めましょうか。
第十二回 萬殊
世人が天地の義を知るとき、それは必ず慈悲と仁徳の本性です。
第十三回 唯物
この空間に生い育ちます 潤生の条件は第一に推されます
第十四回 生死
過去と現在を分けず、天道好還の架構となっております。
第十五回 自在
心の中に礙げがなく、惑うことはありません、
成長と超越は、なおさらこの通りでございます。
第十六回 惻隱
人生はあまり招搖してはいけません。福報や善縁が消えてしまうことを恐れるからです。
第十七回 慈悲
惻隠の慈悲こそが弘願です、布施と喜捨により福田を育みます。
第十八回 喜捨
喜んで喜捨の心をもって行い、慈悲と布施によって福徳を積みます。
第十九回 因果定律
人類は因を変えることができ、さらに人世間においてこそ大きな業を成し遂げることができるのです。そうでなければ、ただひたすら「一指を受けて超生し、道を求めて初めて無極仙郷に帰ることができる」と言うばかりですが、それはまさに謬言です。では、人類衆生のすべての「因果の法則」はどこに置かれるというのでしょうか。少し考えてみればすぐに明らかになります。
第二十回 思想觀念
観念を改めれば利益を得、 行為もまた時機に従うようになります。
第廿一回 教化修持
福報が欠けていては成就することは困難です。修持において執着を捨て、本来の修行に回帰するのです。
第廿二回 執著固化
己の見解を固化することは、すでに早くも誤りを犯しています。まさにそれこそが、自らが堅持しているものなのです。
第廿三回 五行生剋
風が起き水が湧き、良い運がやって来ます。それは人類を助ける絶好の機会です。
第廿四回 命理人生
運命の窮通はすべて過去の因縁によるものであり、
人生の至理は決して庇い守るものではありません。
第廿五回 矛盾對立
よく考えてください！よく考えてください！この記事で説き示す「矛盾」の概念が、有情衆生の迷いを打ち破り、日常生活に応用され、真に生きる効果が現れることを期待します。実は、すべては「矛盾対立」を解消することにあるのです。そうすれば必ず少ない労力で大きな成果を上げ、自分自身を利益し、衆生も利益することができます。祈念します！祈念します！
第廿六回 時空生滅
慈・悲・智・願が相互に結合することができれば、人世間においてはすでに凡夫の身ではなく、このようにしてこそ、その中の因縁条件を理解することができ、良き向上と超越が可能になるのです。哈哈！今日、私が降臨し、真に喜びを感じております！また崇心道場がこれほどの規模を備えているのを拝見し、未来の済度が期待でき、まことに喜ばしく賀ばしいことです！祝います！祝います！
第廿七回 輪迴交替
今ここで自分を成就し、衆生をも成就することができます。お祝い申し上げます。衆生が皆、自己の真如、すなわち自性の仏体に帰し、二度と輪廻の中に沈淪しないことを願っています。もしそうなれなければ、それは全くどうしようもないことです。永遠にこのような局限の中で転げまわるだけであり、まさに自分自身にとって非常に哀れなことです。
第廿八回 生老病死
このような身をもって体験する過程によって、人類は次の世の歩みと未来の過程をどのように修整すべきかを必ず知ることになります。輪廻交替を超脱したいのであれば、自分自身の努力によって決断しなければなりません。なぜそうなるのでしょうか。それは時空の循環過程において、人類衆生はまさに苦・空・無常であり、生・老・病・死が交替する過程にあるからです。
第廿九回 苦空無常
苦空無常をどうして気に掛けるのでしょうか、一生の福と禍はすべて終わって消え去ります。
第三十回 悲歡離合
人世のすべては皆このようで、達観すれば、これらの事柄はごく普通のものなのです。
第卅一回 喜怒哀樂
宇宙全体の過程、とりわけ人世間においてはさらにはっきりとしています。天地開拓の過程から再び元の場所へ回帰する、それゆえに衆生の回帰は、必ず真理を闡揚して世に公にし、世人がそれに従うことができるようにするのです。『大道真詮』の著作の本来の意図はまさにこれにあり、有情の衆生が皆、自らを成就し、衆生を済度できることを願うものです。
第卅二回 得失心態
もしすでに心を尽くしても得られないのであれば、
どうして自分を無駄に苦しめるのでしょうか。
第卅五回 宇宙演化
銀河系は奇跡を生み出し、地冥星の展開を成就させるのです。
第卅六回 回歸收圓
大道真詮が回航を導きまして、真理が弘揚され四海が帰依いたします。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
玉旨を開読いたします。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
今夜、旨を携えて堂に到り宣読いたします。神人どもは伏し拝み、失礼があってはなりません。
◆ 本文 ◆
第二回 初基（無極之二）
開拓し発明して研究に励み、
生物の進化に福祉を添えます。
第十回 萬法
人定勝天と言っても、現在の科技が発達している中でも、「科技論理」で説明し検証することが難しい多くの事象があり、さらに知るすべのない多くの科技文明が存在します。また人定勝天と言うならば、必ず上天の許しがあってこそ正理であり、そうでなければ区区たる人類の微小な力をもって上蒼と強さを争い勝とうとしても、どのようにして成就できるでしょうか。まさに微小な人類衆生が己の力をわきまえていないだけなのです。
第十二回 萬殊
人類の仁徳と慈悲の心は天地を感化し、より長遠な福寿康寧、富貴吉祥を賜ることができます。もし一方的に他の万物衆生（動物）を傷つけるならば、必ず体が弱く病気多くなり、あるいは短命の報いを受けて苦しむことになり、自分自身も同じ果報に遭い、貴重な生命を早めて終わらせることになるのです。
第十三回 唯物
実相には必ず作為が必要です 発明創造によって物産が積み重なります
第十四回 生死
自らのために、輪廻に入らないように造化できなければ、真に「生と死」に決着をつけることはできません。衆生にお尋ねします。輪廻を望むのも、了脱を望むのも、すべて自分が選択したことです。天下の衆生が皆、実質的に自らの生と死を了脱し、生死自在、如来のごとく如去の境界に達することを期待します。
第十五回 自在
もし逍遥にして自在、自在にして逍遥でいられないなら、必ず知らなければなりません。人世間とはただ時間の中の過客に過ぎないのです。何を気にかけ、何を貪り求めるというのでしょうか。人類衆生に対してすべて無掛無碍であり、行ったり来たり、来たり行ったりし、何の懸念もなければ、自由自在となり、神仙のように逍遥快樂に過ごすことができるのです。
第十六回 惻隱
晴天には雨の日の糧を蓄えなければなりません。慈悲や惻隱によって陰騭が高まっていきます。
第十七回 慈悲
衆生に不足している福報は、広く善事を行い陰騭を添えます。
第十八回 喜捨
もし求める心を抱くことなく、無私であれば自然と福報がもたらされます。
第十九回 因果定律
天地の間のすべての仙仏が帰依するにあたっては、それぞれ異なる殊勝な教化の場所があり、また点化して精進させる職責の場があります。人世間での一指だけで無極仙郷に帰れるわけではないのです。このような不平等な修行観念は、必ず自分自身に誤った観念をもたらし、自分が罪を造り業を造っていることにも気づかせないのです。
第二十回 思想觀念
心を用いて必ず自身を修め整えれば、 困難はもはや自分を縛ることはありません。
第廿一回 教化修持
この偈は、衆生と共に善縁を結び、今生を変革することができれば、必ず修行の過程で教化の目標に達することができます。それが人としての基本です。そうすれば、次の世での輪廻の種子と含因を変えることができます。よく考えれば人生の正しい理が明らかになり、潮の満ち引きのような変化が生じます。教化と修行を通じて、必ず人間世界において変革を行わなければなりません。
第廿二回 執著固化
一歩退いて道を振り返れば、本来の始末はこのようなものではなかったと明らかになります。
第廿三回 五行生剋
自分の所行所為は、ただ累世、前世、今生、および祖徳の伝承に過ぎません。「福を知りてさらに福を造る」の原理を理解することができれば、天地から賜ったこの一生の福分をさらに珍惜し、必ず五行生剋の循環によって、福を造る本源に達することができます。これこそは現世において備えるべきことであり、皆様はいかがでしょうか。
第廿四回 命理人生
思想と観念を変えていくことで、
必ず今生の行を成就することができます。
第廿八回 生老病死
人類は日常生活の中で、「悲歓離合、喜怒哀楽」を感じ、人生の真理を印证します。それは誰にとっても解脱しがたいものであり、また人世间ではこのようにして、輪廻交替が続き形成されていくのです。人生の過程を理解してほしいと願いますが、それはただ借用し、借り見て、借り持ち、借り楽しむだけのことなのです。
第廿九回 苦空無常
福報が訪れる時には千の恵みがあり、災いが降りかかる時には病の苦しみが襲いかかります。
第三十回 悲歡離合
離合と悲歡が互いに重なり合い、有情衆生は自らの造作に従って歩むのです。
第卅一回 喜怒哀樂
喜怒哀楽を経ていく過程において、情緒の反応はまさにこのように真実なのです。
第卅二回 得失心態
諸賢生が皆、真理を勤勉に学んで世に入り、広く衆生を済度して帰依させ、功徳や福德を積んで自らを潤すことができますよう、あらかじめお祝いを申し上げます。真に愚かなる大智若愚の者たちが、皆実の上蒼の御加護を受けられますよう願っております。初めて崇心堂に降りてみて、道気が溢れ、道務によって真理が弘められ顕示されているのを拝見し、私の心は格別の喜びでいっぱいです。お祝いを申し上げます。お祝いを申し上げます。
第卅五回 宇宙演化
このような因縁条件があってこそ、確かな基盤を築き、一歩ずつ漸悟から頓悟の境地に達することができるのです。これは人類衆生が人世间において、向上し昇華するための条件であり、直ちに宇宙天地と一体となり、帰還はまさに今ここにあるのです。衆生が皆一歩ずつ進み、帰還の準備を整えられることを願っております。
第卅六回 回歸收圓
この偈を、有情の眾生と共に互いに勉励といたします。このようにして「崇心」の聖命がさらに続き、諸賢生が真に上蒼のために原霊を導いて回帰させ、無極仙郷の位階に回帰できるようになることを期待いたします。その際には必ず諸賢生と眾生が共に、天界において親しく共处できることでしょう。皆様はどのようにお考えでしょうか。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
謹んで奉じます。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
玉旨を開読いたします。
◆ 本文 ◆
第二回 初基（無極之二）
無極の因縁により生命が降臨し、
凡俗に入って億万の霊を長養します。
第十二回 萬殊
万殊の一本が人間を創り出し、万物が生長してその中に顕れていきます。
第十三回 唯物
皆様の力を一つにして 共に生存の福報に帰ります
第十六回 惻隱
人類の不良な含因を改め、善徳の良因を成就し、不良な業因を転化して、人世間に覚有情の世界を顕現させなければなりません。また、宗教が提唱する衆生平等、万物平等についても、人類の慈悲に惻隠が加わってこそ成就するのです。衆生が皆この位階に達し、自分自身の帰還を成就されることを願っています。
第十七回 慈悲
このように上蒼から福を授かるのは、上蒼の御恵みによるものなのか、それとも自らの行いによるものなのでしょうか。それは必ず了知できるのです。天下の衆生が自らに福を授かることができるよう皆が願っており、上元天官も喜んでお力添えくださり、衆生に大いなる福報を授けてくださいます。それは、皆さんが良き福報を具足し、自らを成就させるとともに、広く衆生を済度できるようにと願っておられるからです。
第十八回 喜捨
慈悲喜捨は人々が行うことができ、因縁果報が巡り会ってきます。
第十九回 因果定律
「この篇の開示」によって宗教の修行者の迷いを醒ましていただきたいと願っています。仏教、道教、儒教、天道、そして現在の新興宗派のいずれであっても、すべて同じようにすることで、因果の法則の中で真に人世の輪廻の転換点から脱却し、皆に公正平等な宗教信仰を提供し、自らを成就させて衆生を救済することができるのです。
第二十回 思想觀念
必ず輪廻から脱却し、自分自身と衆生のために真に了脱を遂げてこそ、人世間において真に大きな作為を成し遂げることができるのです。そうでなければ、この一生の中での輪廻、毎年、毎月、每日の輪廻において、いつ了脱できるでしょうか。皆様はお分かりになりますか。非常に困難です。心から努力し、向上して学習しなければなりません。
第廿一回 教化修持
そうでなければ、次の世にまた生まれてきたとして、同じ因縁と福報を具足できるでしょうか。そして再び宗教に入って修行できるでしょうか。人生はほんの束の間の出来事に過ぎないことを理解すべきです。累世にわたって成就してきたものを超越する必要があります。有情衆生が教化と修行に入り、自分の一生を変え、さらに自分の本来の場所、すなわち無極に回帰することを切に願います。
第廿二回 執著固化
切に願います。有情衆生が皆、教化修持の中で、常に執着しながらも思想観念を固化させずに保ち、修持と教化において、自分自身を成就させると同時に他人や衆生をも成就させることができますように。まさにそのようにして、自分自身が輪廻の渦を真に超越し、常に思想観念の創造的進歩の力を保つことができるのです。
第廿四回 命理人生
人生の五福を得るには徳を積まなければなりません。
良き種因は天より賜るものです。
第廿八回 生老病死
時が来ればすべては烏有に帰し、いつ再び同じ福報を繰り返すことができるのでしょうか。苦・空・無常の中で病に遭い、身心を磨くことも、すべては時空が転換し循環する過程に過ぎません。必ず知らなければなりません。人世间もまた苦・空・無常の過去に過ぎず、繰り返し輪廻し循環交替するだけであることを。衆生が皆、輪廻の束縛から跳脱できますように！
第廿九回 苦空無常
無常の変化は移り変わりを止めることが難しく、苦空の一生は変えていかなければなりません。
第三十回 悲歡離合
聚散離合はまたいかんともしがたいもので、歓喜と悲憂は自らが為すものなのです。
第卅一回 喜怒哀樂
人類や衆生は常にこれを抱えており、個人の雰囲気を転化させて成就させるのです。
第卅六回 回歸收圓
有情なる人類の眾生は、生存改造によって上方へ向上・増長することができます。もし自分をこのような因縁條件に置くことができなければ、恩恵を受けることは難しく、大きな障害を引き起こすことになります。いかなる宗教を信仰していても、より広大な心と視野を保つことができれば、必ず多くの良きメッセージを得て恩恵を受けることができるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
玉皇大天尊 玄霊高上帝の玉旨がこう仰せになりました。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
謹んで奉じます。
◆ 本文 ◆
第二回 初基（無極之二）
それぞれの形体は異なり生命を潤し、
因を含み形を変え改造されていきます。
第十二回 萬殊
欣欣向栄して皆が共存し、衆生を教化して福祉をもたらします。
第十三回 唯物
万殊は唯物で、万法は唯心です。一切は心によって造られ、物質によって成り立つとのことですが、果たしてそうなのでしょうか。もしこれを了知できるならば、必ず人世において修持を通じて、自らに福をもたらすと同時に衆生を利益する境地に達してこそ、「万殊唯物、万法唯心」が真に天地の衆生や万物を利益することになるのです。
第十八回 喜捨
善良で美しい福報は、無為の施しによって徳性に帰ります。
第十九回 因果定律
因果の法則は前世において造られたものであり、善因が悪報を成すことも堪え忍ばなければなりません。
第廿二回 執著固化
そうすれば執持する力を持ち、達成感を得ることができます。自分自身をよく修養することが、まさに資本を超越することなのです。「執着固化」の中から自分自身を整え、すべての事柄を転化させることができるのです。良い執持の力と、良くない執着固化では、将来においてその差が非常に大きくなります。自分自身でしっかりと調整することが必要なのです。
第廿四回 命理人生
命理は自分自身で切り開くことができ、
生活の快適さは福運のなすところです。
第廿八回 生老病死
生老病死は常に身に付きまとうもので、いつ訪れるのかは測り知れないものです。
第廿九回 苦空無常
これら二つを合わせると、すべてが終わりを告げ、この世の縁を歩み終えます。
第三十回 悲歡離合
今夜は「悲歓離合」の中で、天界の「悲離」から崇心に降臨して「歓合」することができ、大変喜ばしく思っています。現在、崇心での「歓合」から、再び諸賢契と「悲離」し、天庭に帰還して天庭と再び「歓合」することになります。このような天地人の同じ真理の循環がなされているだけなのです。
第卅一回 喜怒哀樂
一生を生きていくすべてはこのようであり、一つひとつの過程はすべて如実なるものです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
朕は儒・道・釈の三教の教化権衡を掌り、五教および寰宇の衆生に恵みを及ぼしております。今、懿敕道場は昊天の旨意を承け奉り、一連の大道天書を著作し、すでに『大道回帰』と『大道真詮』の二冊を完成させ、さらに行善道場が著作した『大道心燈』と『大道天德』と合わせて、合計四冊となりました。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
昊天玉皇大天尊 玄靈高上帝の玉旨に曰く、
◆ 本文 ◆
第二回 初基（無極之二）
それゆえ、人の初基は非常に重要です。人類は初生から棺を覆われて論定されるに至るまで、すべての段階とすべての瞬間において、「初基の始まり」が転換できるかどうかは、必ず経験と人生の鍛錬によって左右されます。有情なる人類衆生が皆、初基によって万物衆生を成就し、円満に達して後悔なき境地に至られることを願います。
第十二回 萬殊
この偈は、世人に「戒殺放生により慈悲心を長養する」活動として捧げます。世人がみな上蒼の本意を理解し、広く万物衆生と縁を結び、深く思索されることを願います。今夜、『万殊』を著して衆生に依り従う指針を与え、上蒼の嘉賞と加賞に応え、大道普化の証となるよう努めましょう。皇天は皆を裏切ることはありません。
第十八回 喜捨
人世間においては必ず善徳の因縁の福運を造り出さなければなりません。有情衆生が皆大きく捨てる者となり、必ず大いなる徳を持つ者となり、大きく喜んで施す者となることを願います。喜んで施し、喜んで徳を得てこそ、福運が訪れ、あらゆる逆縁も妨げにならないのです。皆様はどう思われますか。慈悲喜捨を行う衆生が、皆福田、福運、福報、福沢、福徳を十分に備えた者となることを願い、お祝いを申し上げます。お祝いを申し上げます。
第十九回 因果定律
これは実に自分自身が招いたものであり、どのように化解して福縁を高めればよいのでしょうか。
第廿四回 命理人生
この偈を、衆生が座右の銘としての参考としてください。このような「命理人生」とは、先天の命格および後天の運勢を改造し、思想や観念を変えることで、必ず因果の転換を成就できるということです。凡塵の衆生は皆、この一生の行いによって今生を成就し、自らの経験と善知識によって導くことで、初めて凡塵において行いをなし、成就を遂げることができるのです。お祝い申し上げます！お祝い申し上げます！
第廿八回 生老病死
新たな命の誕生は喜びをもたらし、高齢者は宝として智慧を修めるのです。
第廿九回 苦空無常
そうすれば一気に、心境の束縛を転換することができます。苦しみを求め、楽を求めることも、無常の交替に過ぎないのです。また無常とは、まさに人世間において交替点を経ることで成就を得られるものであり、「天地人」のいずれもが無常相続を受け、時空によって交会します。これを理解できる者は、必ず天仙仏の種であり、人世間において広大な衆生に福を為し体悟し、また回帰して超越することになるのです。
第三十回 悲歡離合
もし了悟できるならば、まさに大智慧者です。哈哈！哈哈！悲離の中から、『大道真詮』を著す原意はまさにここにあるのです。崇心において弘揚し推廣することができますように。崇心道場が戊寅年から大いに鴻図を展開し、さらに真理によって自己を成就し、衆生を成就して帰還されることをお祝い申し上げます。
第卅一回 喜怒哀樂
人生の様々な姿や一切の事柄も、ただ情緒に駆られて業を造り奔走ってしまうのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
現代の衆生に対し、修行している者もしていない者も問わず、皆真理を説き広めて人世間に行じ、真如を彰し仏性を顕すことは、上蒼の徳意として必須のことです。これにより人類衆生の成長と超越を高めることができます。今、懿敕道場崇心堂が一連の大道天書を完成させたのは、まさに上蒼の頒賜によるものです。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
朕は九五の至尊に居り、世の道と民心を観るに、真理をもって教本とすることは実に容易ではありません。朕は五教の昇降の権衡を掌り、証道する神仏を観るに、皆よく天心を体し、天に代わって教化を宣べ、実に朕を大いに欣慰させております。
◆ 本文 ◆
第十九回 因果定律
人間における苦難の試練はすでに訪れていますが、これらはすべて仙仏が与える試練ではありません。
第廿八回 生老病死
病の苦しみに耐え忍び、死という終わりがこの一生を留めるのです。
第卅一回 喜怒哀樂
崇心の諸賢生におかれましては、さらに一層のご精進を重ねられ、真理の弘揚を四海に完成させていただきたいと存じます。これこそが上天のご期待でございます！人世間におけるすべての良き善縁の修持につきましても、まさにその通りでなければなりません。戊寅の初春に崇心道場へ降臨できましたことを、心より喜んでおります。諸賢生が新春より新たな機運を展開し、福気を迎えられますようお祈り申し上げます。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
まさに崇心の諸聖仏と学生等の、神人の努力による心血の結晶であり、かつ諸天の高真仙仏と心を合わせて、心路の歩みを経て完成させたものです。崇心の神仏と諸賢生が皆いかなる難関も突破し、上蒼より賦予された使命を全うされたことは、実に嘉賞に値し、喜ばしいことでございます。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
今、懿敕道場、崇心堂の開堂満一年を観るに、功を立て徳を立てることは実に称揚に値し、更に真理を暢びにし、衆生を導き帰還させております。朕の心は大いに喜び、再び玉旨一道を賜い、南海古仏を主著仙師とし、三界の高真仙仏を陪著仙師として、期限を設けず完成を第一とせよと命じます。
◆ 本文 ◆
第十九回 因果定律
過去の罪過を懺悔し因果の理に適うことで、ようやく遭遇した困難から解脱できるのです。
第廿八回 生老病死
無常の変化の中で一生を過ごし、悲歡離合の中で人間世は悠々と続くのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
朕は心から喜び、特別に崇心の諸賢生お一人お一人に二千大功を賞賜いたします。全勤者はこれを得、三分の二に満たない者は減半とし、これに準じて処理いたします。諸賢生が共に奮闘し、「大道の弘揚、真詮の宣揚、規範の啓揚」に努めることを期盼し、これは上蒼の切なる望みでございます。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
その書に題して『大道真詮』とし、真理を依りどころとし、衆原霊を導き帰還させて、皇母の慈愛に満ちた待ち望む心を慰めんとします。崇心の諸神人に望む、共に「大道の弘揚、真詮の拡張」を依りどころとして帰還し、自己を向上させ更に増長超越すれば、良き受益があるでしょう。
◆ 本文 ◆
第十九回 因果定律
人世間において宗教信仰を持ちながら、ひたすら警醒することができないでいると、蓋棺して論定される時、本来宗教に帰依できた修行者が、一瞬にして無間地獄に堕ち、在世中の不平等な心が招いた償報を自ら味わうことになるのです。大道平等、宗教平等、修行平等を深く体悟することこそが真理であることを切に願います。
第廿八回 生老病死
崇高な心を持つ賢契の皆様が、共に上蒼の普化のために、大道の先鋒としての導きとなることは、誠に喜ばしく賀すべきことであり、奮って勇往邁進していただきたいと存じます。上天は決して皆様を裏切りません。まさに一分耕耘すれば一分収穫あり、現在払われた努力は、未来に実りとなって現れるでしょう。お祝い申し上げます！哈哈！哈哈という笑い声の中で、賢契の皆様との別れの言葉を交わします。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
崇心の諸神仏の功を三等加え、別に「黄綾彩帯」を随身に賜り、天に代わって宣化するご辛苦を慰めましょう。崇心の聖務は戊寅の年より始まり、さらに四海に弘揚し、衆生を導いて帰還させましょう。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
崇心の開設する「無極大道院」の聖務は、今日上蒼により正式に黄榜に記籍され、すなわち「四億の仏子および九二原霊子」の帰還を導き、並びに衆生の自性仏体を顕わすことを最も重要とします。勤勉に勇み、怠らず疎かにせず、心を尽くし力を尽くして広く衆生を救い、真理を熱心に学んで帰還しなさい。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
勤めを矢のように励み勇み、朕の意に背かないで、神人は叩頭して恩に感謝いたします。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
崇心の聖務は丁丑年八月十五日、正式に上蒼の徳澤の広大な御蔭を受けます。神人どもに望む、奮闘して勇往直前し、衆原霊を導き帰還させ成就せよ。朕の意に背いてはなりません、完成の日、朕は特に功勲を賜い、著作の苦心を賞与します。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
玉皇大天尊 玄靈高上帝 玉旨を頒示して下に賜う
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
謹んで行い疎かにしてはなりません、神人どもは叩頭して御恩に謝しなさい。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
無極大道院 懿敕崇心堂でございます。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
玉皇大天尊 玄靈高上帝、玉旨を降ろします。
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
天運戊寅年花月初一日
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
無極大道院 懿敕崇心堂
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
玉旨の宣読が完了いたしました。崇心の諸神仏および賢生等におかれましては、「天勳および黄綾彩帯」を賜りました。上蒼のために真理を弘揚し、広く衆生を導いて帰還させることを期盼し、恭賀いたします。恭賀いたします。さて、私は昊天に帰り、旨を繳上いたします。
◆ 旨 ◆
大道系列叢書第四冊 《大道真詮》 接旨著書
天運丁丑年八月十五日中秋夜
◆ 跋・讃賀 ◆
完 書 繳 旨
虚空彩雲仙姑
功勲は諸神人に賞賜され、崇心は天地の真の御蔭みを得ます。
道場は教化を啓き真理を揚げて、再び大道の規範に向かって成就いたします。
今夜、無極皇母より「金品蓮台」を頒賜され、および玉帝より功勲を賞賜された皆様は、天恩と師徳の成全に感謝する心を忘れず、決して自慢や驕慢になってはなりません。謙虚で恭しい心を持って、再び崇心の真理の弘揚を成就させてください。
本堂は戊寅年花月十九日、南海古仏の仏誕佳辰を恭しく祝い天庭に書を繳上し、堂前に虔実に香案を備え、引き続き無極皇母の懿旨および昊天の玉旨を恭接し、引き続き天書を著作して、上蒼の徳蔭の成全に感謝申し上げます。
諸賢生の皆様におかれましては、真に修行し、真に行じ、真の功徳を積まれることを期盼します。上蒼と諸天の仙仏の老師方からの教導の恩恵に感謝し、授業が終わりましたら外に向かって叩頭し、皇母および玉帝の大慈悲の恩恵に叩頭してご回答ください。