大道シリーズ叢書 第7冊『大道佛心』
日本語版
◆ 前置・序 ◆
丁酉白露、2017年9月
大道天書第七冊『大道仏心』は、崇心宗脈の善き因縁の徳性にして、「新唯識学理」の架構を剖析し、極めて健全なる理論を具う。人間の日常生活の一一の動作の中に、互いに名相を相接続せしむるものなり。これすなはち人類の「新唯識学理」における生存なり。
第七冊『大道仏心』の総称、其の内容の主なる者に、無極大道院、懿敕崇心堂、及び「懿敕崇母の心、徳は天地に遍くして蒼生を潤す」、「崇心の母の懿敕、真理を啟化し佛性を彰わす」、「先天の真詮を弘め、天地の大道を行い、杏壇の規範を立て、衆生の回歸を済度す」とあり。
更に進みて有り、大道仏心、崇心大道、大道禅心、直心成仏、真心を以て正とし、虚心を以て謙とし、貪瞋痴迷―貪、貪瞋痴の化除―瞋、貪瞋痴の提昇―痴の持恒、貪瞋痴の迷思、人生の価値観、生命の観念、無常の観念、白骨を悟るの観念。
此の条綱の対する者、天地の演繹に感じ、無極の演繹、大虚空の演正、宇宙の大演正、「観察と休歇、心を泯じて境を存し、心を存じて境を泯じ、心を泯じ境を泯じ、心を存じ境を存す」、「霊性の世界、実相の世界、心法と色法、儒宗の聖教と真仏心宗」、これらを以て全体の内容を連ね貫く。
大道は即ち摩訶の本體なり。正に大道を以て主要の発源地と為し、無極に在り、虚空に在り、宇宙の廣大なる空間に在りて成就す。大道は又一切の演化・演繹の主導者にして、「無所為」なり、「無為」なり、更に「真無為」にして、以て全ての宇宙・天地を演繹するなり。
仏心－これ即ち宗教教化の根本なり。仏家に於いては仏心を説くも、他の宗教に於いては、唯「仏心」のみにあらず、尚ほ仙心、聖心、神心、菩薩心あり。崇心は正に仏心を基本とし、崇心にて未来の一切の人類衆生を演繹し、其の福祉を無尽に加添するなり。
大道演化の根本、仏心即ち是れ禅宗の別の名称なり。禅学宗脈の発展せる空間に於いては、必ず禅学を以て根本の資糧を成就すべし。亦「禅を化して玄機と作す」が故に、更に「頓悟」の当下に於いて、必ず能く根器の鋒利を累積し、乃ち「頓悟」を以て受益を得るべし。
『大道仏心』の示す所は、正に崇心宗脈を以て教化の根本とし、又「儒宗聖教」を以て規範と為す。崇心に於いて典則、規範、制度を建立せば、即ち能く未来の芸芸たる衆蒼生を導き、無極理天、極楽世界、虚空天界、宇宙天界に帰依せしめ、提昇超越せしむるなり。
大道とは：正に一切の大道の総枢機にして、人世の間に在る源頭なり。一切の有情蒼生に対しては、皆大道の衍化し、大道の演繹する過程なり。又大道の弘化の過程に於いては、必ず一切を圓滿せしめ、又事事に於いて必ず「圓滿無礙」ならしむるは、即ち大道の本體因縁を以て成就するなり。
若し仏家を以て言わば、又「摩訶の路」は大道と為し、正に一切の根源発源地なり。天の道に在っては曰く「回転」、地の道に在っては曰く「相循」、人の道に在っては曰く「輪廻」、此の天・地・人の三者を謂う「回転、相循、輪廻」の過程に於いて。
大道は正に一体平等なり。大道は即ち万物の総枢機なり。一切の人類世界、芸々の衆蒼生は、皆自身の大道を以て運転す。又、人の身体は一小周天の如く、天地は一中周天なり、宇宙虚空は又一大周天なり。即ち相互に連なりて、一切の演化を為すなり。
天覆地載：人類を以て万物の高等種族の衆生と恃みて之を視るべからず。正に平等に視、一視同仁たらざることなかれ。如何にして天地の徳沢を体悟し、芸々の衆生をして皆天地に対せしめんや。正に演繹するなり、無極・虚空・宇宙・大寰天地の一切、三千大千世界の中の芸々の衆生を。
太陽系：天地人類の生存する地球は、全体の銀河世界の星球の中に一小部分に過ぎず。若し他の星球の科技に比せば、正に人類世界の科技より千百倍超越せり。此の種の科技文明は、当今人類の思想觀念に於いて、甚だ其の原委と如何とを了知すること難し。科技文明の差は余りに大なり。
地の包容性・堅実性に対して：正に「水・火・風」の三者に含括せられ、人類は始めて存活し且つ歩行し得る。是れ正に大道の総源頭なり。人類の衆生は、自ら己が躯体に於いて此の一切を詳細に思惟すべし。又、何故に我れは食の物、口より喉に入り、更に胃に入りて即ち消化し得るや。
人身は小周天なり、亦た人身大道の作用なり。一切の可動根源は又何処に在るや。能く了知し得んや。甚だ難し。又此の種の根源を明白すること甚だ難し。人類をして生存を第一の重要と為さしめ、他の生存に勝らしむ。此れ只だ人類の生存のみに在り。尚真正に提昇超越して、乃ち是れ如実性なり。
理心光明禅師が～に題す
『大道仏心』天書再版前
《大道仏心》 編集誌
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
崇心主席 文衡聖帝
矢に勤め矢に勇み 怠らず忽らず 聖命を完成す
◆ 前置・序 ◆
丁酉白露、2017年9月
人類の衆生、凡塵に在りて「貪念」を行使するにより、遂に「瞋恚」の中に在りて、常に「癡迷」の段階に入る。即ち自ら物欲の享受を追求して足らざるを成し、生活環境の安楽に対し、常に貪求して止まざるにより、如何にして自ら止むべき処を分別せんや。殆んど不可能なり。
人世間の宗教の真の修行者、自らの足らざるを瞋るに、若し能く自らの足らざる処に工夫をば、即ち能く過去の足らざる処を改造す。若し一味に他人の成就を瞋らば、必ず不平等の心を起こし、他人を嫉妬し、遂に自ら瞋恚の悪因に入る。これ人類の堕して輪廻する障礙の点なり。
若し一片の癡心無くんば、即ち継続と持恒の力を持つて延續すこと難く、又持恒の力こそ癡の本體にして、「目的」に達する主要の來因なり。此の種は人類の世界に在り、殊に宗教は常に「癡」を不可得の心態と看做す。其實は如何なる事務も皆癡迷に左右され、故に轉化すること難し。
「貪」の中に在りて是の如く、「瞋」も亦た是の如く、「癡」も亦た是の如し。正に「陰陽對待」の世界にして、必ず持恒して中庸に達し、乃ち過と不及と無からしむ。「貪求」の「慾念」に良善の行使を与ふべきか、抑も造惡の來源より作分別すべきか。是れ目的地の欲求に決するなり。
故に、自ら「造業と造福」の中に入るに、即ち一切の事務の真相を了知すること能はず。是れ平常境の中に在りて行使し、即ち沾沾として自ら喜び、自ら我は罪を造らず、我は惡を作らずと思ふ心態と環境なり。此の種は容易に平常境の罠に入り、造惡と造福は、衆生の比較的覺察し易きものなり。
然れども平常境の中に在りては、甚だ自ら過錯の有無を覺察すること難く、是非の當に在るや否やを知らず。宗教の修子皆自ら是の如く善良なると思ふにより、又平常の衆生も亦た是の如く、平常境の中に在りて業を造り罪を造るは、遠く善惡の是非に比し、覺察すること更に難し。
順境に對しても、正に每位の衆生比較的プロセスを好むにより、即ち順境の中に在りて、自らの所作の經驗を累積し、又衆生に對しても順境を好み、逆境を惡む。人類の衆生に對し、若し永遠に順境に處ば、回帰して超越する人は、正に寥寥として幾ばくも有らず。
逆境の刻苦耐勞と刻骨銘心の經驗は、比較的衆生を警惕して反面より成就せしめ易く、更に逆增上緣の原動力の中に在り。衆生の經常に追求する平順の環境なれども、仙仏の言に從へば、逆境を以て智慧と經驗の累積を増し、自らに達成するは、反つて良善の方面の機會教育なり。
貪求の慾念、瞋恨心を化して力と為し、更に癡して能く持恒の接續をば、瞋心に對し若し持續する能はずば、必ず目的に達すること難し。正に人類の衆生に與へて了知せしむるは、「貪瞋癡」の本體原因と主要來源に對し、別の角度を以て觀るべく、更に人性觀點の作用を剖析する能ふ。
必ず了知すべし。人類の衆生天地間に在りて、如何にして天覆地載の德澤に感恩し、又他の有情衆生の供給する食物鏈は、正に自らを犧牲して人類の衆生を成全するなり。若し人類の世界能く其の過程を了知せば、即ち自ら「超越と下墜輪廻」の分界點を觀るべし。
人類の衆生千禧年の前に種種の惡殃に遭ふは、正に前世に業を造り當今に果を完うするなり。此の過程は個人の「私業」と大家の「共業」の組合せ評判にして、其の目的は個人と群體の共業に促成され、又天地の演繹に對し、必ず世人を千禧年の前に警惕と懺悔せしむべし。
人類人世間に生存して上天の德澤承受し、潤生と修持と為すは、「千禧年」の種種の惡殃を化除し、又自ら償還と受報と為す。「衆生平等」なるを要し、天地即ち災殃を降して頑輩を收拾し、以て世人を警惕し、萬物の靈長を存して萬物の衆生を殘害すべからず。
天地演繹の過程に註解する、真正の導引目標は、人類に萬物平等、衆生平等を以てせしめ、決して人類を最高、最偉大の物種と執視せず、又人類を依歸とせざるは、即ち天地演繹の德澤に對し、萬物蒼生の愛護を彰顯するなり。故に「天覆地載」衆生皆平等なり。
天地間の所有の人類、若し對して具備する能はずば、天地觀、無極觀、虛空觀、宇宙觀、又人類の狹隘窄小の空間に對し、只自ら橫行霸道して生存するのみ、自らに對し天地間に了脫して生存する能はず。故に、人類の眼光は必ず寬廣にし、心量は必ず無限大ならざるべからず。
若し生存在るを了知せば、無極、虛空、宇宙乘越の方式に、必ず能く心胸を放寬し、更に多くの有情世界の蕓蕓の衆生を容納す。此の種の心胸廣きは、正に無極演繹、虛空演繹、宇宙演繹の過程にして、必ず人類世界に心胸を敞開して更に寬廣にし、科技文明の超越を提昇すべし。
理心光明禪師題於
「大道佛心」再版の前に
《大道仏心》 推薦の序
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
無極駕前 麻仙姑
矢に勤め矢に勇み 怠らず忽らず 聖命を完成し 功勲を再び賞し 天心に副い 徳澤を蒼生に及ぼさん
##崇心正主席 虛空上人
1999年5月22日 己卯年四月八日（土）
大道系列天機を展ぶ  大道諦理萬里に揚ぐ
崇心再び書旨を接ぐ  虔恭排班禮儀を成す
恭しく旨意を接ぎて著作す
今日恭しく佛教教主 南無本師釋迦牟尼佛聖誕を祝し繳書し、並に再び無極懿旨の降堂を接ぐ。佳辰已に到る。本堂の天上聖母と觀世音菩薩を命派して、三十里の外に駕を迎へしむ。本堂の虛空彩雲仙姑と虛空彩靈仙姑を命派して、二十里の外に駕を迎へしむ。其餘の神人等及び無極大道院靈修院士は、排班して駕を待ち、儀を失ふべからず。
大道シリーズ叢書第七冊 《大道仏心》 神旨を奉じて著書す
◆ 旨 ◆
完書繳旨
勤勉と勇気を誓い、怠らずおろそかにせず、志を律して務めを全うせば、功徳と果は自ずから得られる。
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
##金闕上相 李太白仙翁
無極旨を頒ちて崇心に降し、天書を著作すること更に辛勤なり。
大道シリーズ第七冊、弘揚普化して自性を闡く。
今日、無極旨を帯びて頒示し来る、諸神人伏せ、儀を失うこと勿れ！
懿旨開読。
欽みて奉ず。
無極皇母大天尊の懿旨に曰く。
母は理天の聖地に居り、南贍部洲の衆霊児の沈淪を虞観し、以致して原始の本地に回帰する能わず、又資糧源有して超越を作す能わざるに至り、実に母心泣泣落涙せしむ、衆霊児の回返を知らざるに対して；嗟嘆！感傷！真に母心と相契合すること難し。
今、懿敕道脈崇心堂に、大道シリーズ天書を著作せしめ、完成総計六冊、毎冊皆真理を以て衆霊児を引渡し「真如を彰かにし、仏性を顕す」、回帰の資糧と契機を建立す、故に母心甚だ之を慰め、常に崇心をして更に辛勤努力し、大道発展の先鋒と為り、証人と為らんことを思ふ。
故に南海古仏と南屏道済古仏と旨を請ひて凡に下り、「大道シリーズ」天書を著作する因縁相当に殊勝なり、当今の世代の有情衆霊児の自性增長に、実際の功效有り、正に衆霊児等、皆能く原始初地に回帰せしめんと欲するなり、これ実真性なり！
母、大いに欣慰たまう。更に大道の系列第七冊の著作を加え、其の名を題して『大道仏心』天書と曰う。南海古佛及び濟公活佛を命じて主著の仙師と為し、其余の三界の高真を陪著の仙師と為す。時日を限らず、早く書を完成して旨を繳め、頒行して世を寿し、原霊児を渡化して帰来せしめよ。
崇心の諸神人に冀うは、戮力同心して大道を彰顯し、有情世界の衆霊児の帰来を成就して、上蒼の有情世界に徳澤を垂れるに副わしめよ。書を完じ旨を繳めた後、母の心再び功勲を犒賞し、以て崇心の諸神人等の辛勤の著作に賞を与え、此の殊勝なる因縁を完成し、再び功果を叙せん。
◆ 跋・讃賀 ◆
讚賀、頌、序言
1999年5月28日 己卯年四月十四日（金）
賛賀、頌、序文
◆ 旨 ◆
完書繳旨
矢に勤め矢に勇み 怠らず忽らず 神人叩頭し恩に謝す
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
大主席 南天主宰文衡聖帝
無極皇母、懿旨を頒示したもう。
無極大道院 懿敕崇心堂
天運己卯年四月八日午時
恭しく本堂の又栄膺して上蒼新書を著作するを賀し、特別に欣慰と高興を感じ！師と為りて速やかに無極に帰りて旨を繳す。
◆ 跋・讃賀 ◆
讚賀、頌、序言
1999年6月1日 己卯年四月十八日（火）
第一回 無極大道院
◆ 旨 ◆
完書繳旨
感謝感謝、さらに感謝 崇心崇心、さらに真心
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
大道シリーズ第七冊、大道仏心本則を彰かにす。
崇心続きて昊天の旨を受け、全心全力永く遮る無し。
続きて昊天の玉詔降堂に接し、本堂の済公活仏、二、三関帝に命じて二十里の外に駕を迎えしめ、本堂の虚空落筆天尊、虚空金筆開智天尊に命じて十里の外に駕を迎えしむ、其余の神人及び無極大道院霊修院士は、班を排して駕を候し、儀を失うこと勿れ！
◆ 跋・讃賀 ◆
讚賀、頌、序言
南無本師釈迦牟尼仏
1999年6月4日 己卯年四月二十一日（金）
第二回 懿勅崇心堂
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
金闕旨を降して聖堂到り、上相詔を帯びて宣揚に来る。
李太白崇心に降し、仙翁慈祥にして更に欣賞す。
欽みて昊天の玉詔を帯びて降堂頒示す、神人伏せ！
玉詔を開読す
欽みて奉ず
昊天玉皇大天尊 玄靈高上帝の玉旨に曰く
朕は五教の昇降の権衡を掌り、惟だ芸芸の衆生を引渡さんと欲するのみ、自性を提昇し因本を改造して、以て先天の本霊を回復せしめんとなり。每每聖凡双修の旨を降し、自己の本来の位に帰還せしめんとす。奈何んぞ芸芸の蒼生、修持する者多くして、真に行者は稀なるや。更に如何に修持すべきを知らず、これこそ真実の帰還の契機なるを。
故に諸仙仏高真の苦心も、また成就の契機を得難く、朕が為に憂心如焚し、常に如何にして蒼生を引帰り「真如を彰し、自性を顕し」、先天の無極に提昇帰還せしめんかを思う。今、懿敕の道場たる崇心堂あり、丙子の年の桂月に旨を受けて堂を設けてより、即ち「大道系列」の天書を著作す。
而今実際に完成す、大道系列の天書は計六冊、特に『大道諦理』は剛て書を納めて頒行し世を寿ぐ。朕、欣慰大悦し、龍心舒展す。特に改めて命じて大道系列の天書第七冊を続著作せしめ、その名を『大道仏心』と題し、聖仏の心の根本を闡揚し、衆原靈子を成就せん。
己卯の年四月八日、佛教の教主、南無本師釈迦牟尼仏の仏誕を恭祝する日に即ち開著す。時日に限らず、早急に完成し、頒行して世を寿ぎ、弘揚推廣せん。南海古仏と南屏道済古仏を命派して主著の仙仏とし、其餘三界の高真を陪著の仙仏とす。
戮力して精微、妙理の真諦を著作し、芸芸の蒼生に実際に帰返する天機を提供せん。朕また切に崇心道場の理筆賢生に望む、「大道来りて弘展し、仏心の発揚」を接引し、有情の衆生をして皆帰還の資糧位と契機を具えしめんこと、実に朕が心の切に盼つる所なり。
◆ 跋・讃賀 ◆
讚賀、頌、序言
南無東方琉璃薬師如来仏
1999年6月11日 己卯年四月二十八日（金）
第三回 懿勅崇母心
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
昊天金闕 玉皇大天尊 玄靈高上帝、旨を降す於
無極大道院 懿敕崇心堂
天運己卯の年四月八日午の刻
旨を頒ずること畢んぬ。哈哈！哈哈！実に崇心の諸神人に恭賀す。長遠に大道の為に真理を著作し、蒼生を引渡して帰来超越せしむ。祝賀なり！祝賀なり！吾、速やかに昊天に帰りて旨を繳す。
◆ 跋・讃賀 ◆
讚賀、頌、序言
南無燃燈古仏
1999年6月18日 己卯年五月五日（金）
第四回 徳は天地に遍く蒼生を潤す
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
南天の主宰降臨し来たり、南天文衡聖帝笑顔を開く。
崇心道場の主席、欣慰して上蒼の接排を思う。
諸賢生よ午安！今日は崇心の宗脈、再び無極の懿旨と昊天の玉詔を接ぎ、大道系列第七冊『大道仏心』を開著す。「大道の真髄」を以て「摩訶般若菩提薩埵」の本質とし、「仏国浄土－蓮花世界」を引渡して乗越となし、有情世界の芸芸の蒼生を提引して帰還せしむるは、乃ち為師の切に盼つる所なり。
又示す：今日玄興禅院の陳院主、諸賢契を帯引し、崇心に蒞臨して参賛の交流を作す。理に応じ相互に配合し、以て後来の真の修子を広渡して帰還せしむべし。為師は南天を主掌し、また崇心の主席たり、また玄興の総主理たり。更に相互に配合を要とし、これこそ共に教化の基本を為すなり。
今日また三界の多くの高真降臨して祝賀す！
一、南無本師釈迦牟尼仏等
二、儒教至聖 孔先師聖人等
三、元始天尊及霊宝天尊等
四、道教教主 道德天尊等
五、更に諸々の虚空界、無極界の仙仏等
六、西方世界の仏菩薩等
七、東方琉璃世界の仏菩薩等
八、南方世界の仏菩薩等
九、北方世界の仏菩薩等
皆、崇心『大道仏心』の開著を祝せんが為に、来たり賀す。また上八仙等も齊しく来たりて賀す！時の限りに由り、一一に台に上りて訓勉祝賀すること難し。誠に憾むところ、尚お海涵を請う。未来に暇あらば、再び台に上りて訓勉鼓励せん！憾むかな！憾むかな！
◆ 跋・讃賀 ◆
讚賀、頌、序言
崇心正主席 虛空上人
1999年6月25日 己卯年五月十二日（水）
第五回 崇心母懿勅
南海古仏
1999年6月29日 己卯年五月十六日（火）
南無本師崇心に降り 釈迦牟尼仏心を迎う
大道の系列天機を挽き 仏来たりて序言に真因を闡く
序 言
大道とは－「摩訶般若菩提薩埵」の本質、即ち無私無為の自我本来体にして、潤生修持の因本と為し、菩提を種子因と化し、修持の範本に於いて往昔の業因果を化除す。大道は菩提に由りて転化し、「般若」を「大智慧」の者として促成し、生存を基本と為す！
仏心とは－亦聖賢心、神道心、仙仏心、高真心にして、即ち一切の有情・無情・非情の衆生、皆仏の心を以て因本開創を成就し、有情世界に教化を作すこそ真実なり。仏の心は即ち聖の心、道の心、神の心、仙の心、一切有情の道徳心なり。
崇心を以て基礎と為す－又「崇高の理諦」に於いては、崇心を以て根本と為し、乃ち「大道の演化過程、仏心と仏性本質を彰顕する」を闡述するに符合し得る。即ち崇心教化の本質と課程にして、又人世間に於いて《大道仏心》を成就して超越と為す。
《大道仏心》は崇心の教化する課程にして、資糧と化して展開し、有情の衆仏子皆真理を暢にして己を成就し、又本身の含因に貯蔵するを津糧と化し、衆生に成就の規範を与え、亦《大道仏心》の演じ示す所に在りて、正に此の原則、此の真理の条件に符合す！これを待ち望み！これを切に望み！亦決して軽視すること勿れ！
南無本師釈迦牟尼仏 序言を降す於
無極大道院 懿敕崇心堂
天運己卯年四月十四日戌の時
第六回 真理を啓化し仏性を顕す
南屏道済古仏
1999年7月2日 己卯年五月十九日（金）
東方世界琉璃国 薬師如来は真仏なり
大道仏心来たりて演繹し 讚じて曰く個の自我を成就すと
讚 曰
崇心は大道の系列天書を著作し、一冊冊相互に接續し、既に著作すること総計六冊を成し終えたり；今再び第七冊《大道仏心》を續接するは、即ち衆霊子の根本を以て、仏菩薩・仙聖神道の本體に対する成就を為し、正に聖賢心・仏菩薩心を引用して自性によりて成長せしむるなり。
仏心：即ち仏菩薩の最も重要なる根本心にして、又仏心の一切は正に仏の「明燈」の基礎なり。心中の明燈を展現し、三千大千世界を照耀し、傳承して永不に熄滅せず、「仏心」に於いて己の成就を根本と為し、下って衆生を化すを基礎と為す。
有情世界の芸芸たる衆霊子に、皆成就の契機を持たせ、是を以て此の条件を因本と為す。如何にして成就せん？必ず先ず資糧位を具備し、資糧を有情世界に散布するなり；故に、仏の心：即ち一切の芸芸たる衆霊子の成就を根本と為し、基本と為して成長するなり。
仏の心は即ち仙の心、即ち聖の心、三教の闡述する本質も亦此に在り。儒・道・釈・耶・回等を分けず、皆無分別心を以て之を論じ、又宗教の派脈を分けずして、是れ真実性なり！仏菩薩と衆霊子は皆一脈相承け、決して有情衆生の相互輔助、及び済渡教化を脱離すること能わず、然らずんば、如何にして衆霊子に蓮花仏国に成就して回歸超越せしめんや。
南無東方琉璃薬師如来仏 讚を降して曰く於
無極大道院 懿敕崇心堂
天運己卯年四月十四日戌時
第七回 先天の真詮を弘む
無極元君 麻仙姑
1999年7月6日 己卯年五月二十三日（火）
燃點心燈照光明 燈傳萬世永垂心
古徳承續伝仏法 仏心大道是崇心
頌 賀
大道とは、正に一切の演化の根本なり。有情衆生のいずれも大道の演化する所に在り。天地人、無極、虚空、宇宙の演化と雖も、亦大道の輪轉に過ぎず。又演化とは有限の時間及び空間を以て、彰顯印證と註腳と為し、更に演化を以て万物の成長を創造し、衆霊子の福祉を綿遠長流ならしめ、有情衆生に演化の中に於て自己を成長させ、自己の「智慧と福德」を成就せしむるなり。又仏心とは、既に成就したる者にして、「覚者」と為る。仏とは有情を覚悟せしむる大智慧の者なり。
仏菩薩、仙神聖道は、皆此の種の慈悲博愛心なり。仏の心は即ち仙の心、即ち聖の心、即ち神の心、即ち我れ自身の心なり。人心は上昇し下墜すべし、如何なる心ぞ？皆所作所為に由りて體證す。只上蒼の監督に由るのみならず、更に自ら己が心を監管すべし。
『大道仏心』は崇心第七冊、大道シリーズの天書なり。仏菩薩、仙聖、神道の慈心を以て、芸芸蒼生に下化の津糧を為し、衆生に當下に成就して、提昇超越を為さしむ。又一切の修持と成就の作為に於て、これ即ち人類の基本條件なり。若し來世に於て成就せんと欲ば、此の善徳因緣を具足し得んや？皆了知し難し。人類衆生は決して來世に再び輪廻せんとする心懷を抱く勿れ。必ず當下の此一世に引き寄せ、既に來世は無く、唯此一世のみとせよ。必ず一世にて回帰すべし。
又何ぞ一切の有情の根本を、此の一世の中に寄望せん。又當下唯此一世の中に於て、成就するを得べし。『大道仏心』に対して、乃ち彰顯し得、乃ち自己の仏心の光明を提引し得、「千萬億盞の仏心を燃點」し、「光明を無止境に有」せん。
南無燃燈古佛 頌賀を降したもう於
無極大道院 懿敕崇心堂
天運己卯年四月十四日戌時
第八回 天地の大道を行ずる
虛空天尊 主席 文衡聖帝
1999年7月9日 己卯年五月二十六日（金）
虚極空轉宇宙因 上徳人間無極明
演化永傳無止境 崇心仏心更心迎
今夜！仏教の三大教主（尊）崇心に降臨し、『大道仏心』の序、讚、頌を著作し、亦後の教化課程の著作を為し、共に崇心第二期の聖務を議し商い、必ず上蒼の旨意に符合せんことを加強せよ。又本堂の諸神人は喧嘩すべからず、失儀すべからず、仏尊に愧じるを避けよ。解りたるや。
第九回 杏壇の規範を確立す
虚空上人–虚空上徳人天古仏
1999年7月16日 己卯年六月四日（金）
南贍に書を著して仏心顕わなり 海天私なくして永く伝延す
古道徳を伝えて本如一なり 仏は著す無極大道の院
無とは、無の無無にして、是れ無の中に既に含因を有し、無の本来に由りて隠され、又無の含因を有するに於いて、必ず未来の實相を具足せざるべからず。此の過程は「無の存有」を含蔵する中に在りて、初めて「無の存有」に対するを促成し、正に「無の中の存有」に在りて示現するなり。
又「無」は「○」の存在を以てし、更に無の中の存有は、正に「含因」の累積にして初めて顕現するを得。「○（零－霊）」は本来の数目の完現にして、又一切の数目の始めに在り。而して「無」は至高の存有の実際なる開展にして、無が一切の根本に在りて、初めて無の存有の初始となるなり。
現象界の一切は皆色法の存在有り、「無」は「○」なるを了知して初めて「無」の存在と謂うべきなり。又「無」は正に一切の心法の存在する實相界を、示現表彰に達せしむるなり。即ち「無」の存有を以てし、更に法界に総根源を含有し、又「無の無無有」と言うこと能わざるなり。
極とは、是れ至高の界限なり。極の端の中に在りて、任意の世相と色法と皆實際の本質有り。極の初始の後に在りて、必ず退いて之に反りて擴散を作す。極の能く了知するは、極限の所有に対して、而して極は大と謂うなり。且つ實相の存在を有し、生存の扭轉の必需性と為すなり。
若し以て言わば：極中の極は即ち盡きなり。正に反面の一切を展開するに当たり、即ち「否極まって泰来たる」なり。初始より極盡に至るまで、即ち一切の現象界の本體性なり。極の端即ち盡きぬれば、必ず極を以て再び反面に循い、「極」を以て再び本来の體に回歸し、即ち本来の實體内に回返するなり。
「極」の示現するは、正に「無」の存有を串連し、又極の端を以て、一切の未来の存在する所を回復せしむ。所有の物の極を形成し、全ての開創に回轉して、初めて萬物蒼生及び人類の存在有り。是れ一切の演化の根基にして、又天地の演繹の始めなり。
大とは、小よりも更に深廣なり。亦相對なり、大は小を以て相互に對比するが故に。大の極限は、止境無きや、或いは大にして制限有るや。必ず「大」の総合體の如何なるを了知すべし。「大」は廣く又深く、更に一切の可見と不可見の極限を融合する能うなり。
「大」の深廣は、個體存在の組合を具足して、初めて大と謂うべきなり。人は大と謂うべからず、然れども天・地・人を並べて三才と為し大とす。天地・宇宙・虚空に在りて、皆遠きに弗屆の大實際にして、且つ更に深く更に廣し。大は必ず初小より開展して、初めて大に無限有るを得るなり。
小より大に至る：初めて更に深遠、更に廣大を促成して大と謂うべきなり。大に在るは相當に多く又深廣にして、任意の萬物蒼生と人類とに対して皆かくの如し。大の存在する所に在りて、高山或いは大海の如く、又天地を観て更にかくの如く廣大なるを知る。故に萬物蒼生は區分して大小の分別有り。
道とは、一切の有情・非情、能動・不能動の現象界の中に在りて、存在する過程は正に道の総合體なり。「道可道、非常道」とは道を路程に化し、人世間に於いて任意の過程を問わず、皆道を以て途徑と為し、規範と為し、法則と為し、基礎と為して、初めて生存の相續を衍生するなり。
「道」は人類の潤生の條件に符合するが故に、修持・經商・家庭及び種種の一切を問わず相互に輝映し、正に「道」の中に在りて人世間の生存を體證し、道を潤生と修持の成就の分界點に化して、更に相輔相成し、又相互に違背せず、即ち自然の法則なり。
院とは、院は即ち杏壇にして、教化・教育の處所なり。即ち佛堂、即ち道場、即ち學校なり。又學習を以て規範と為し、更に經驗を以て傳承と為し、人世間の一切の過程に在りて、皆教育と教化に由り、學習成長の經驗の中に在りて、人世間の潤生の総合體を應用するなり。
若し教化と教育無くんば、即ち經驗成長の累積無く、必ず自己の潤生と行持の路途に、諸多の不順と阻礙を増加し、即ち自己に知識の不足に因りて、困厄と橫逆の相續に遭逢せしむ。必ず相關の作為を破除する能わず、かくの如く教育・教化の傳延するに対して、又何等か重要なる。
「院」は即ち教化・教育學習の「杏壇」を作し、初めて真實性人類に對して經驗豐富有り。院は屋頂有りて空間を蓋い、即ち多くの存在を容納するを得、又院を以て休憩の處所と為し、更に學習成長の地方と為し、又全ての知識經驗に対して、皆師長の下化に由り、後代の學子の受益と為すなり。
無極大道院とは、無の無無極を以て、人生の潤生と修持の路程と為し、學習の過程に在りて經驗の累積を増長し、又修持に在りて諸多の阻礙と不順を減少し、教化の基本課程と為して、上蒼の下化の教育と教化の根本性を提昇し、有情衆生に受益せしむるなり。
上蒼は「無極」の作為の中に在りて、即ち「無為」を以て達成し、初めて學習過程の經驗に在りて、教化（育）の課程に化し、一切の有情人类衆生に福蔭し、無形の亡靈を包含して皆有情衆生の一つと為し、これらは皆未來に必ず引渡成全の需要なり。
「無極」は即ち極まる所無きにして、更に其の範圍を超越し難し。無の無無極に在りて、是れ回歸を以て資糧と為し、有情衆生に與えて成就の基礎と為す。又「無極」に對し一切の有情衆の原靈を演繹して修持回歸を作し、往昔の「普渡階段」より現今の「收圓階段」に至るの過程なり。
一期期の教化の過程に在りて、能く「資糧位」を具足して此の期の真の「回歸階段」を為すや否や。必ず資糧位の中に在りて行持し、即ち「實行位階」の位に達して超越すべし。然らずんば！信仰修持に在りて、若し回歸の資糧の條件無くんば、又再び超越の契機有るを得ざらん。
超越とは、回帰の資糧を具足することを前提とし、「実行位」を成して始めて有情衆生の回帰基本条件に達するなり。また無極の頒示する旨意は即ち演繹を以て成就し、基礎課程と化す。是れ真理を以て教化と為し、有情四億の仏子及び九二の原霊子をして、皆昇進し、回帰し、超越せしむるなり。
「無極大道学院」とは、人世間一切の有情衆原霊を成就せしむるなり。功德を求めず、自己の成敗を求めず、大道を以て衆原霊の成就を演繹するを目的とす。崇心の「無極大道学院」と天界の「無極大道院」に在りては、皆教化課程を以て下化の基本教材と為すなり。
能く了知すべし、上天此の期間に於いて、如何に「無極大道院」と「無極大道学院」を、皆同一の単位として教化課程を斉しく進め、陰陽両利を成し、実際に有情世界に下化せん。人世間に在ろうと三界に在ろうと、皆相輔相成し、亦た陰陽両利を成すべし。
無極大道学院開きて 有情亡霊入り来たるべし
提昇就読して超越を為し 気質を転換し教化を載す
層次異なりて培訓を為し 上界の仙仏教育を行す
唯一上天来たりて設立し 境界高超にして果位新たなり
『大道仏心』とは、即ち崇心大道の基本なり。何となれば「大道仏心」は正に「大道崇心」なればなり！此の二者は密接にして分かち難し。又大道理諦の真髄を化して津糧と為す。是れ資糧位に在りて、実際に日常生活の中に落實するに達し、即ち「実行位」なり。自らに無窮の福德、無尽の智慧を与えん！望むべし！望むべし！
第十回 渡衆生之回歸
大主席 南天主宰文衡聖帝
1999年7月20日 己卯年六月八日（火）
南屏一貫に普く善良、道済の公德、啓化長し。
古仏、降臨して崇心に至り、懿敕崇心堂を弘揚す。
懿－懿は母徳の彰顯なり。是の大寰天地、普化の過程により眾の原靈を引渡して回帰を作す。「懿」は慈悲の展現にして、即ち眾の原靈の本来の位に回帰する為なり。正に母徳を有情の世界に彰顯し、必ず眾の佛子を成就して、提昇超越せしむ。
懿者－是れ美好と完善の本質にして、必ず懿を以て純真善良と為す。眾の原靈の本質中に在りては、正に「清純純一」の境界に回帰せんとするなり。方にして自己の本質の美好善良を彰顯せん！懿徳に対するは即ち母心の展現せる崇高の作為にして、是を以て慈悲の徳澤を人世間に及ぼすなり。
敕－敕は是れ上位の下化にして、是を以て上位の尊崇の作為により要旨を頒示す。敕化を以て天機と作し、即ち「敕令」の基本條件なり。又「符令」に対しては道家の符籙の首要と為す。因に符籙は「符令」を以て方能に展開し得るも、「敕」は即ち是の如くならず。
敕：其の用る所は、即ち上位の尊崇にして、下位の者に対して派命を行使するなり。「敕」の用る所に由りて、「符」令の用にあらず。故に此の「符」は彼の『敕』に非ず！正に「敕」は尊崇の上位より下達して派命するを為すを以て、故に「敕」の功用と為す。又「符・敕」の兩字は異なり、其の用法は極めて差異大なり。
敕：其の展現し得るは、正に無極皇母の親身たる懿命、派旨、敕令にして、凡塵に下達し、又敕を首要と為し、更に至高無上の尊崇者を以て、是れ最聖と為す！「敕」の中に在りては即ち無極皇母の慈悲の徳澤有りて、凡塵の眾靈子を下化して成長受益せしめ、回帰の資糧と作す！
崇－崇は是れ至高無上の表徵にして、崇の示す所に就き、必ず一切の何れよりも高きに在りて方能に「崇」と為すなり！「崇」の顯示は、即ち人類の生存の本質を、總體の生存經驗の過程に回帰するに應用し、自己に人類の生存の局限と障礙、および全ての無可奈何を明白せしむるなり！
眾の靈子は皆舒適の生活品質を追求し、必ず崇高の理念に於いて建構し、方能に實際に目標を達成す。倘若し崇高の生活品質の思想を持つ能わずんば、必ず崇高舒適の生存環境と空間を持つこと難し。此れ即ち生存の局限障礙に在り。大家は能く了知し得るか？必ずしも一定ならず！
「崇」はすなはち理想の顕現にして、「崇」なる者は至高の理念なり。是の故に崇高なる者の目標を追求し、賞で、生存と信仰に対する必須の基本条件に達するなり。又「崇」は欽仰の主体にして、欣仰は「崇高礼尊」を目的とし、帰着と為すなり。
心－心なる者は、一切萬法に具備すべき総根源なり。その本質関連の作為は、「萬法唯心」と「萬殊唯物」の体証過程において、此の「心」を用いて芸々蒼生に福祉を謀りてこそ正しきなり。現今の世代の人類も皆、有情衆生の一なり。
衆霊子一人一人は皆、潤生の総合体と為り、人世に無窮無尽の福祉を創造し、万物衆生を潤して其の蔭を受けしめ、「心」の徳沢を下化し、又「心念意識」の徳潤を当下に顕現して、衆生皆成就を得て至高の境界に昇らしむる責任と義務を有す。
心：まさに一切の「聖者」「賢者」「神者」「仙者」「仏者」「菩薩者」の本体に符合するなり。すなはち心の拡張をもって人世に完現してこそ、衆生に益ありと謂れ、互いに相輔相成るなり。又有情衆生に対しては、まさに一切生息の根本なり。
堂－堂の古は「私塾」と曰ふ！此の私塾は教化学習の基本場所と為り、すなはち「杏壇」にして、現今は学校と称す。此の如き教化学院は、乃ち聖神・仙仏が真理を闡揚し、及び実際の理諦を彰顕して、有情世界の芸々衆霊子を道場にて下化する処所なり。
堂：是れ一切の良善の集合体にして、各人の善徳因縁に対して当下に成就し、更に一処に匯集して宣講・研理・著作し、甚だしきは良善の因縁を一股の力と為し、此の種の天機を有効に発揮化し、更に精微に天書に闡述するは、すなはち芸々蒼生を教化するを目的と為すなり。
懿敕－是れ無極皇母の親身懿命にして、『懿敕』の旨を下すは、決して以往の如く他の手続きを経て、一層層往上呈報し、又衆仙姑の批示を経て、一関関の旨意を下すに非ず。まさに皇母喜び、欣慰して、親身にて崇心堂に旨意を下し給ふなり。
懿敕道脈の殊栄なる処も、亦此に在り！又此の「懿敕」は美好と良善の表徴と為り、更に母徳の慈祥・徳沢を散布し、如何なる宗教派脈の实行修子にも分かたず、甚だしき是小より大に、寡より衆に、衆より推展して更に広大深遠に至らしむ。これ正に教化の最主要的功用なり。
「普渡」又は「収円」に不拘、有情衆霊子を「回帰」せしめ基礎を準備し、本来の資糧位に回帰し、更に「資糧位」を超越し、甚だしきは「実行位」の体証に達せしむ。是の故に「回帰」本来体に対して「超越」し向上成長提昇して、学習成長の依據を有するなり。
崇心－是れ至高無極の展示する真諦をもって資糧と為し、課程と為し、崇心の衆賢生に下化して、実際に「実行位」を行使し、必ずや確実に一切の道務を展開し、至高の理諦に対して「唯心所識」をもって、法界の芸々蒼生を成就せしむるなり。
是れ「心法」を「色法」に應用し、復た「有爲法」を用ゐて一切の道務を展開し、以て「無爲」に達するなり。誠に人類をして天地の無私無爲を學ばしむるは、即ち人類の向上成長に必須の性にして、此れに由りて菩薩の位階より佛果の成就に入るなり。
懿敕崇心堂は、即ち無極皇母の御身より派命を受け、御親筆にて點召せられたる道場にして、真理を普く化して芸々の蒼生を成就し、又方便法門を開闢して世を濟ひ人を利し、仙佛の「禪機を以て迷障を破る」及び「仙佛口を開きて對答する」利人方便を分別し、是れ「真諦」を當下現世に下化するなり。
崇高なる理念の建構は、誠に「真實理諦－真諦」を、更に確確實實に闡揚し應用するにして、凡俗の「世俗理諦－俗諦」の比擬する所に非ず。又「俗諦と真諦」の中に在りては、「真諦」を以て「實行位」となし、「俗諦」を結合して人世に應用するなり。
乃ち元の無極理天、極樂世界、虛空天界に回歸するを得ん。又理の諦は必ず理の實際に如くして、乃ち真諦にして、俗諦の比擬する所に非ず。是を以て「真實諦」を資糧とし、「世俗諦」の障礙を化除して、乃ち潤生融合するを得、亦『諦者』は至高無限の展現する所に由るなり。
人世間の真修實行者に依歸と指針と爲しめ、更に回歸超越の大指針と爲す。又「真と俗」の諦理に由り、前者は實際の資糧として潤生修持の因本と爲し、後者は即ち權巧方便、世俗生活の過程と爲す。誠に「真・俗」の分差を以て、實際と方便に剖析を與ふるなり。
是を以て己れに由りて己れを成就し、個人に由りて個人を超越す。又崇心堂に於ては大道系列の天書を下化の課程と爲し、人類に大いに受益せしめ、大道系列の著作に在りて、今日に至るまで『大道佛心』に闡述する所は、既に禪宗の領域境界に入り、漸く「禪」を以て課程に示現するなり。
懿敕崇母心  德遍天地潤蒼生
崇心母懿敕  啟化真理彰佛性
禪修方便皆法門  理諦應用方是真
佛心彰顯大道依  崇心著作真實諦
此の偈、有情衆生と諸賢契に供し、禅修の「実践位」と「資糧位」の本質を了知せしめん。明らかなるや。これを盼む。これを盼む。
第十一回 大道仏心
虛空彩靈仙姑–南無虛空彩靈福天古佛
1999年7月23日 己卯年六月十一日（金）
無極帰りて崇心に至る 元君母に侍りて心情を悦ばす
麻仙姑帰りて懿敕崇心堂に在り 懿敕崇母の心を開著す
懿敕：是に以て無極皇母親身旨を頒ちて凡塵に下達す。往昔に於いては之を見ること難し。皆其の仙姑に代りて旨を降し謄写せしめ、書稿の本身に至るまで、皆他の程序を透過して能く成さしむ。又懿命の道場に對しては屬に難得にして、亦殊榮なり。
往昔迄今皆未曾有之。必ず其の仙姑に代りて書写せしめ、能く上禀し批示の後、下達派命す。懿敕崇心堂此の因緣を具え、能く派命の達成を促成し、即ち他の程序を經過せず。殊榮の異なること可見。懿命親身下達す。是に以て懿德衆原靈に澤潤す。
亦「慈恵道統」の能く比擬する所に非ず。慈恵道統中に於いては皆世を濟め人を利し、更に顯化を以て蒼生を引渡す。故に瑤池系統中に於いて整合を作し、「慈悲恩恵」を下降して有情衆生に澤潤せしむ。迄今台疆或は世界各地の慈恵系統は、皆一關一關上に呈報するを要す。
慈恵系統－即ち是れ較高層次の仙真を派遣し、各宮堂に駐駕して有情を下化し澤潤を作す。故に慈恵系統－正に瑤池來りて宮堂に派命し、亦是れ上蒼道才を遴選す。皆廣く衆生を渡すを以て依歸と為し、甚だしきに至りては即ち是れ瑤池の最主要なる道法と術法を融合し相互に應用するなり。
現今、慈惠の系統は正に蓬勃として発展し、また全世界の多くの国に皆これ有り。更に衆生を渡引して修持の依歸となし、慈惠の系統は更に衆の原靈を成就して修持となし、先鋒と為し、心力、勞力、苦力を付出す。其の功德は皆上蒼の肯定を受くるなり。
天道の系統－是に明明上帝を以て主理と為し、更に老母娘を以て依歸と為す。又衆靈子は皆老母娘の化せる所なり。教化の過程に於いては道德を以て修持と為し、更に日常生活を主體と為す。衆原靈を引渡すことの廣大なるは、又慈惠の系統に比して更に實際的にして、更に廣泛なるなり。
其の作為は上蒼の大道を降して先鋒を導引するを以て為し、普渡の時期に於いて、成就する所は更に圈點す可く、甚だ上蒼の欽仰と肯定を受く。衆原靈を引渡すに「玄關、口訣、合同」の三者を以て相互に輝映し、又無極の理天に回歸するを以て依歸と為す。
更に彌勒の心法の境界を以て有情の衆原靈を成就す。故に「玄關、口訣、合同」に於いて当今の仏教の三寶の方式を引用して成全と為し、過去の各宗教の優勢を加入し、一種の引渡の方式を形成す。有情の衆生に仰慕せしめ、正に慈惠の系統を超過し、之を過ぎて及ばざる無し。
懿敕崇心堂の宗脈－慈惠の系統、天道の系統に更に勝り、主導の目的と為し、正に天道の不足の處を彌補し修整し、又相互に慈惠の系統を輔助して導引と為す。「懿敕」の蒼生に與うる資糧に於いて、日常生活の修整のみならず、亦含因の改造を以て生を潤す。
懿敕崇心堂の宗脈は、宗教の修持、經驗、智慧、福德と自性の富足に對し、其の目的は往昔の修道に於いて必ず貧道を修む可き觀念を化除するに在り。又崇心の著作する天書は皆貧道を超越し、富足の道に達し、方に修持の本質を彰かにし、当今の衆靈子の需要に更に符合す。
崇母心－崇高なる母德の愛心を以て先鋒と為し、有情の衆靈子を導引して皆人世間に於いて、更に超越の範本と為さしむ。僅に回歸の準備と資糧と為すのみならず、此の期に正に實行位の成長に在り、必ず日常生活の當中に落實して、方に良善の受益有るなり。
絶対に夫婦同修、家庭和樂、福澤後代を棄離す可からず。若し此の條件を脫離せば即ち修持を言ふ可からず。僅に宗教に於いて名を沽び譽を釣るのみ、只是名分を報ずるのみ。倘ひ人道の生存を以て成就し難ければ、即ち現今の言ふ所：地道の修持も亦及格と成就有る無からん。
崇母心－母の心は即ち天地の心、母の心は即ち仏心、即ち大愛の心。母の心は即ち聖神の心、即ち情の心。有情の天地に於いて、大家は皆母親の生育する所、那れの衆生にして此の如くあらざる者有らん。若し凡塵の母親の生育無くんば、又何れよりか天上靈性の母親有らんや。
無極皇母：即ち有情天地の母親を化して一家の菩薩と為し、全ての衆兒女を照顧せしむ。一切の有情天地の蕓蕓たる衆靈子は、皆一つ生育教養の母親有るや否や。これ即ち母愛の偉大なり。故に、母德を崇尚する心は、必ず時に具足し、須臾も離る可からず。
懿敕の崇母心：必ず懿敕の殊勝を以て、大情大愛と化して一切の有情衆霊子を照覧せよ。即ち回帰の資糧を実践に化し、更に潤生を第一の要務と為せ。家庭和楽し、通貨具足し、因縁皆良善なれば、此の条件必ず一切の横逆の阻擋を減ずるならん。
懿敕の崇母心：崇心の開創に証を与え、更に往昔の修持範本を超越せよ。即ち迷失せし真実の理諦を再び引き戻し、修持に於いて回帰を易くし、亦た修持の規範準則と為せ。若し回帰能わざる霊子有らば、無極皇母即ち憂心焦燥し、必ず仙仏に付囑して凡下に降臨し、引渡せしめん。
更に凡塵の種種の方便を以て、相助けて修持の中に入ることを得しめ、更に如何に教化すべきか、是真の帰返の条綱なるやを説き、是れ崇高なる母徳の彰顕なり。修持の規範は条理を基礎と為し、人生の因縁を改造し、而して往昔の含因の錯誤なる処を変え、良善なる含因の循環を保持す。
懿敕の崇母心の徳澤、大愛大情蒼生に徹る。
資糧構築し実践位、回帰超越して成就を得。
第一の殊勝なる使命来たり、四億の仏子を引渡して載せん。
青陽と紅陽を分けず、科技文明の好人才。
此の偈よ！衆霊子に座右の銘と為すことを提供す、之を望む！是れ修持の「実践位」、即地の道の中に在り、自己に「資糧位」の受益を具足せしめ、確かに実践位の階梯に成長することを為さしむ。是れ潤生の好種子、好賢生、好道才と為るなり、正に当下に成長受益し、回帰超越する是れなり。
第十二回 崇心大道
南無虛空金筆智慧古佛
1999年7月30日 己卯年六月十八日（金）
1999年6月15日 己卯年五月初二日（二）
虚空天尊主席に任じ 文衡聖帝聖理を闡く
徳は天地に遍くして蒼生を潤し 崇心道場著書の期
徳－徳の遍地なるは、天地の主要なる任務にして、有情衆生に資糧を提供し、大地の衆生に潤生の過程を与ふるなり。即ち己が所需を以て、各人の生活物質追求の因本と為す。如何にしてかこれを達成せん？必ず己の所作所為に関わるなり！追求は既に資糧源を具備す。
己に潤生接触の過程を与えて、始めて全ての人生因縁の組合を展開し得る。個人の潤生組合に在りて、是れ各衆生に対する最主根本なり。いかなる衆生と雖も皆かくの如くにして、更に此の範囲を脱る能わず。正に此の条件を以て「道徳」の総合体と為るなり。
遍－徳沢を平等に散布下化し、「遍」とは一切皆平視均等の範疇内に在るなり。此れ均等遍布に対すもので、有情世界に公正平等具備するに在り。また衆生の各位の時空因縁皆是れ均等にして、亦是れ皆平等に之を視、共同に均しく此の天地有情資糧源を享く。
各人の累世の福報と過錯（禍殃）の中に於て、相互に抵減し増加す。個人の福分と禍殃の分差に對し、端無く各人の能く具足する多少と削減する多少を見る。人類世界の各衆生の身體は、皆同じ均等の質量を具備し、貴賤高低を分かたず、いかなる物種と雖も亦是れ然り。
遍の澤す所：平等に均しく此の天地資糧を享け、即ち分別と制限の無きなり。万物衆生は大寰天地の有情衆生物種の一つにして、各衆生は皆己が成分質量なり。同じ条件は皆均等に具備し、即ち人類を以て主要根本と為して、始めて有情世界の徳沢を彰るるなり！
天地者－万物は生存空間環境を以て潤生と為し、更に此の時代に在りて、潤生の需むる物質を追求創造し、又各種衆生生存の総合体と為す。故に、天地の間は正に此の空間を具備し、是れ一切有情衆生をして、整体天地演化の機能に参与せしむるなり。
有情世界は人類の生存を規劃し、此の天地一切有情潤生の過程を豐富にし、又天地に在りては：言わずして語らず、即ち人類を以て物種の総合体と為し、生存の必要性を導引し、更に人類を以て仁徳慈悲を彰し、一切有情万物衆生の生存空間を滋潤するなり。
又天地の間に存す。衆聖神、仙仏、菩薩等は、皆人類の生存進化の機能と創造に配合し、天地間の芸芸の蒼生を護佑し、更に此の世界に於て改造と進化の教育課程を作り、一切の有情万物の衆生に対し、皆人類の生存と相互に循環し、只生存功用の過程に在るのみ。
一切の生存資糧を提供し、人類に潤生の利益を与う。此の種は即ち天地進化の過程を以て、正に人類を霊長の根本と為す。其の原因即ち此に在り。又人類は思考能う故に改造すべく、更に文字の記載有り、又文明進化の過程に於て、遠く他の物種に比し優越す。
他の物種の衆生は、皆此の種の機能作用を持つこと難く、又此の種の条件を以て創造進化を作ること難く、更に此の種の契機を与えて改造すること無し。即ち天地の一切は皆人類を以て教育伝承と為し、人類の窮尽せぬ福祉を創開して、乃ち創開と進化の目的に達するを得、正に自ら利し又衆生を利するなり。
蒼生を潤す－但だ人類の衆生のみに在らず、尚其他の有情・非情の物種有り。又仙仏の中に在りて皆人に由りて成就す。既に人類の生存経験の過程を経て累積し、又各種の物体の総合体に在りて、必ずや一たび又一たび進化と改造を来し、而して自利利他に成就するなり。
人類の大愛は、保育と護佑の動作を為す。絶対に人類の強勢に倚りて、他の物種の衆生を侵害す可からず。一切の有情・非情の動植物に対し、皆天地の徳潤を承受し、人類に更に進化と教育伝承の機能を与う。綜観するに近き五十余年の左右、人類の科学進化は如何。
正に人類の衆生の福分の提昇と増加と累積を為し、又人類の生存の舒適福祉を目標と為し、更に人類は天地間の聖神・仙仏の護佑と培植を承受す。発明の中に由りて、人類の過去の生存の種種の不良と不適の生活環境を改造し、必ず良善の福報を以て依持と為す有るなり。
現今の時代は、謂わく五千余年来最も福報有りとす。生活環境は最も舒適にして、行動も又最も便利なり。即ち時代の生活循環に因りて、即ち此の種の条件に由りて進化す。然れども人類の心灵と智慧の提昇に於ては、往往にして時代の科技文明に追いつかず、其の顕現する来ること迅速なり。
時に心灵と生活の障碍を受け、即ち寧靜を得ること難く、智慧も又增長提昇すること能わず。又此に因りて、甚だ天地と相契合すること難し。此れ亦蒼生を潤沢する同時に、人類は生活潤合に於て、霊性の提昇すること能わざるに由りて致す所、形成するは只生活の舒適にして、却って霊性の增長に対し難きなり。
蒼生を沢潤す－必ず先天の本霊を以て彰顕と為す。人類は現世環境の中に在りて、皆宗教の教化を用いて霊性の不足を彌補すること難く、又信仰の依帰を以て規劃すること難し。若し能く宗教の薫陶に入り得るも、然れども又宗教の藩籬に束縛せられ、即ち此の種の制限を脱離すること難し。
当今の世代は、根本に真正の修持理諦有ること能わず、以て自ら潤し霊性の增長を為す。故に、人類の衆生は反覆して六道の中に輪廻し、正に此の種の原因に由りて致す所なり。如何にしてか自性と仏性を彰顕せん。実は皆個人の、我所の執著の固化及び理障・所知障に由りて阻碍せらるるなり。
誠に真に回帰して資糧と契機とを提昇するは極めて難し。此の局限固化し、修持生存の観念環境に於いて、若しあまりに安易快適ならば、如何ぞ衆霊子に無極理天・極楽世界・虚空天界へ回帰せしめん。況んや此の一世に於いて超越せんとすることをや、亦た甚だ難し。
人類の生存空間に於いて、此の制限を離るる能わず、更に実在の生存環境に於いて、自らに充足の資糧を与え、成就の基礎を成し、人類に成長と回帰とを提供して、上に超越するを得るは、乃ち此の期の修持に必須の根本観念なり。
懿敕崇母の心、徳遍く天地に遍りて蒼生を潤す。有情の人類衆生に如何にして回帰の準備を為さしむべきかを要し、亦た懿敕に於いては無極を以て回帰と為し、又虚空を以て超越と為し、更に無極皇母の徳澤有情衆霊子に及ぶは、即ち天地の玄機を化して津糧と為し、乃ち現世に於いて超越を成就するを得るなり。
修有ると無きと衆霊子、皆能く感同身受し、天地の恩恵と徳澤とを領納するを得。天地の中に天地の軌道有り、人類に人類生存の条理有り。天地の間、人類と万物衆生に対するに、必ずや生存の中に於いて、人類を更に一層教化し、教化は平実の理諦に在り。
独り方便権巧の俗諦のみならず、乃ち潤生に回帰を為す応有の知識にして、又修持者皆謂う、我れ宗教に入り、知らざる所為は皆人類生存の過程を離れず、必ずや潤生の過程に於いて、如何に経験を化して修持と潤生と為すべきや。是れ最も主要なる功能と教化の課程にして、乃ち実際なり。
徳遍く天地に遍りて蒼生を潤す。乃ち崇心の基本課程にして、又教化の過程の中に於いて、此の種の規範と軌道とを離るること能わず。如何にして規範を為し、如何にして条理を為し、如何にして応用せん。乃ち崇心の諸賢生を試練し、如何に智慧を応用して規範と条理と為し、応用して下に有情衆生を化せんか。
彼此を分けず、而して何れの宗教派脈も皆一体如是、又如何に資糧を提供し、何れの宗教の教理と伝承とにも涉及せざれば、即ち万教斉発の当世に処し、宗教間に皆責任と義務と有り、一切の下化の準備を為し、此の如くして乃ち当下此の一世に於いて、上昇超越を達するを得。
崇心必ずや此の時に、一切有条不紊の規章を建立し、未来道統に遵循するを為し、即ち如実の契機有れば、乃ち未来の引渡教育・教化の中に於いて、有情衆生をして帰りて隊に帰し、学習成長の必需性を為さしむるを得、乃ち自ら成就し又衆生を渡化するなり。
徳遍く天地に遍りて蒼生を潤す、有情万霊共に来りて成る。
母心の徳澤大慈愍、欽命崇心渡化の乗。
因縁の著作は同じからず、昔の経典の章と異なり。
当下の文明は大いに殊勝にして、宇宙の天機航を開く。
更に「儒宗聖教」を発揚することを目的とし、儒宗の道場を導きて新気象を呈し、未来の衆生に共同して遵守し依循する所を与えん。いかにして先鋒と為り、いかにして功徳を布施し、いかにして修持して潤生と為さんや。皆是れ各人の努力する所にして、またいかにして改造と進化を遂げ、未来に於いて更に実際の體證を得んや。
第十三回 大道禅心
南無虚空落筆吉祥古仏
1999年8月3日 己卯年六月二十二日（火）
虚空に真を伝えるは本より至誠にして、上人理を闡明して體證を作す。
大道仏心は禪宗を演じ、崇心の母の懿敕は實真なり。
崇心とは：正是に至高の理諦を闡述し、出世と入世に應用して人類の潤生の生活過程と為し、崇徳の至高の心性に就きて、是れ一切萬法の根本にして、「唯心所識」の理諦を人世間に應用するなり。また萬法唯心造るが故に、更に心を用ゐて體證するを要し、一切の物種皆是の如し。
萬法の中に、若し「心法」に引用する能はざれば、正是に成就する能はず。即ち一切の潤生の組合を開展開くこと甚だ難く、また下化の資糧を準備して作すこと能はず。萬法に対して一切唯心所識の開端に於いて、亦「仏心」の演繹する過程を離るる能はず。実は是れ生活と息息相関するなり。
崇心とは、まさに仏心を潤合するなり。また仏心の名相は仏家（釈教）の引用するところなり。もし儒家は如何と問わば、儒家の法は聖賢の心に伝わるなり。されば道家は如何。道心なるや、仙心なるや。ことごとく崇高なる心性、すなわち道理の心をもってするを、これ正しいとす。
儒・道・釈の三教が伝えるところは、当今現世の宗教において、彼此を分けず、高低を分けず、汝我を分けず、ことごとく謙遜に融合し、日常生活に應用することなり。すなわち生活と修持を両相結合し、さらに修持と潤生のうちに、過去の一切の不良なる積習を改造するなり。
往昔はすでに逝けり！また追尋すること難し。況んや前世の種種、さらに実証すること難く、必ず人世間に於いて真正に體證に應用すること能わず。いかでか実際に前世のすべての過程の如何なるを明白にし得んや。なお存疑し、また考證せざるべからず。かかる前世の一切、考證し得るや否や？はなはだ困難なり！
然るに未来においては、必ず追尋することを得、さらに改造することを得。また現今の一切を観れば必ず了知することを得、甚だしきは自己の掌握と拿捏する所に由るをこそ、正しいとせよ。さもあらねば、いかでか過去の含因を改造せん。一定せず！また人類衆生ことごとくこの觀念なきにより、いかでか成長提昇することを得んや。
母とは、無極至尊の明示するところなり。母は天地の慈愛にして、もし一切の万物に対し、ことごとく母親の慈潤呵護なくば、生育成長し得んや。特に人類も皆かくの如く、成長教育と学習を得るは、まさに智慧開創の初始に在りて、皆母の懿徳に在り。必ず教育学習成長の経験に由り、下化の伝承と為すなり。
母の心の盼望するところ：自己の児女等が人頭に抜んじ、さらに一番の大作為を成さんことを冀望す。必ず提昇し、回歸し、超越することを得、甚だしきは母の徳澤を弘揚して彰顯し、進而めて有情衆生を利益せん。かくの如き母の慈懿の引用し、教化するところは、必ずその善良の徳澤を身に受くべし。
すなわち自己と万物衆生の成長福祉と為すは、母心の徳澤なり！また母は万物の根本なり。母とは、一切の有情衆生を共同して護蔭するなり。故に母はこれを陰といい、父はこれを陽という。また天地の間、陰陽乾坤定位し、必ず繁衍し永續傳承し、欣欣向榮し、さらに長遠茂盛なるを得。
懿敕とは、懿敕道脈系統の頒示するところにして、まさに此の世の中に在り、すなわち先天の「無極大道」を基礎として回歸し、また懿敕道統の往昔宗教の陳腐なる方式を超越して改造し、教育・教化の資糧源を成就し、まさに智慧の增長に成就するところなり。
すなわち現世の中に在りて、さらに豊盛なる果實資糧を得、必ず當下に回歸することを得、また實際の踏板基石を得て、さらに超越せる成績を得。まさに人世間に於いて過去の不良なる含因を改造し、過往の無明障礙を消除し、またすべての生存の不良習性を化解することを得。
懿敕とは、無極皇母の親身懿命にして、下達頒示する道脈なり。その因縁は同小可ならず、さらに殊勝なり。自然に凡塵の中に實證を作し回歸すべし。いかでか仙仏の苦口婆心なる殊勝資糧を、有情衆生に自己の潤生過程に於いて體證歷練せしめ、これ実真ならしめんや。
崇心母の懿敕：凡塵の中に在りて、過去の不良なる積習を化除するのみならず、宗教の有情なる修子及び一切の有情・非情の衆生に、天地の德澤と、無極皇母の慈悲恩惠とを了知せしむるを以て、是れ正しきと爲す。此の因縁は既に頒布されたりと雖も、又如何にしてか之を獲取すべきや。
一切の有情修子にして宗教に入る者、既に昔日五教の聖人立教の本意を遠離し、甚だしく變質すること多し。更に導正すること難く、又各々籬笆を高く築き、聖人の旨意に契合すること甚だ難し。故に時遷り法も遷るに及び、往往にして非を是と認し、自ら斯くの如きことを以て正しきと爲す。
これ尤も前人の一脈相傳する所に由る！斯く爲しては、即ち此の一世に於て超越を爲すこと能わず。若し未來世に再成就せんことを冀望ば、必ず當下に一世歸返の契機を得ること難し。此の一世の良好なる機縁に於ても成就すること能はざるに、又次の世に真に此の天機を具足せんことを妄想せんや？必ずしもあらず、若し有らば、怪しむべし！
崇心の著作せる天書は、皆「唯識の理諦」に「禪宗の學理」を加へて融合し、更に「佛心の功法」を修持及び潤生に應用す。又佛心は乃ち聖者・仙者・神者・道者・菩薩者なり！佛心の引用する所は此の如きのみならず、更に禪學の理諦を超越せざるべからず。
即ち後学の修子をして皆體證せしめ、「資糧位」に在りて有情の衆生を化し潤す。又禪學の展現する所は、佛家の唯心所識を以てし、一切の萬法萬物の起始は乃ち心法なり。一切の色法に見得る所は、但だ『心・色』の兩用を相互に融合してのみ、現世に於て自己を利益し生を潤し修持を爲すことを得ん。
色なる色、心なる法、心と色との法。禪なる禪、學なる理、禪宗の學。
佛なる佛、心なる心、大道の心。崇高の至理、是れ真心。
禪の心、萬法皆佛心。佛心、衆の原靈を引渡す。
原靈、回歸して更に超越す。超越は更に崇高の心。
崇高の心性、皆實際。實際實行して更に心有り。
心あらば必ずや性を化し、性を化して実証すれば禅心を耀かす。
この偈を、一切の有情たる賢き法友らと共に研鑽すれば、必ずや大いなる境地に至るであろう。また、崇心は今後必ずや大いなる偉業を成し遂げ、上天がその法脈を永続的に継承し得ることを認め給うならば、必ず「儒宗聖教」を導いて全世界に弘揚し、上天より賜りし責務と使命を広めることで、より大いなる自己成就と衆生救済を成し遂げるであろう。
さらに相互に「慈恵系統」、「天道系統」を照合し融合させて大乗の資糧を提供し、衆生を導いて本源に帰還させ、さらには超越へと導くこと、これこそが崇心の重責大任である。諸賢者は必ずや今後において、これを確かに了知し実証し、さらには自ら進んで実践し、無限に広めていくことであろう。
第十四回 直心成仏
南無虚空彩雲光天古仏
1999年8月6日 己卯年六月二十五日（金）
南天主宰、聖意を闡き、文衡聖帝、大主席。
真理を啓化し佛性を彰わし、大道佛心萬機を揚ぐ。
啟化とは、無知の過程において了別を適用して明晰にし、迷いの障りを啓発して除去することである。無知の経験に先達の伝導・教育の過程を加え、先達の経験を智慧・知識へと転化し、さらに知識の経験をもって智慧を成就・顕現させること、すなわち日常生活と修行の中にあって実践されるものである。
生活と修行：この二つは必ず相結びして一体となり、互いに背離してはならない。それによって初めて智慧を開発し、向上させることができる。すなわち、あらゆる生存の営みは、迷妄と障害を化解し除くことに向け、必ずや学習を通じて智慧を成長させ、蓄積するものである。日常生活の経験を転換して知識として応用してこそ、初めてその利益を蒙るのである。
真理－即是不変の法則にして、四海に放てば皆準じ、皆偏悖せず。まさに生活の点点滴滴を通じて、真実の理諦を下化し、及び自らを成就して生を潤す過程なり。真理とは－一般の道理に非ず。道理は国土・民情、風俗・習性の不同によりて差異あるべければなり。
道理：治理・規範の条件の中に、人生の一切の過程を、道の理の中に促成し、最も主要なるは、まさに道の理、即ち俗世の理諦を津糧と化し、一切の有情衆生を潤し、更に人類を基本として、全ての生活の中に受益し成長せしむるなり。
真理：常理に偏悖すること能わず。常理はまさに道理の上に顕現するなり。また「真正の理諦」は古より今に至るまで決して変ぜず、また国土・民情・風俗・治理・規範によりて異なることなし。故に、人類衆生としてまさに如何に為すべきや？一定ならず！
彰－最も主要なる根本を顕現するなり。彰：本質を顕露するなり。また「彰」は顕露の中に在りて、更に成就の因本なり。かくの如く何を彰し、何を顕さん？人類生存の過程は、皆自性の本體を彰顕するに在ることを了知すべし。是れ善きも、悪きも、是れ正しきも、誤れるも、皆一種の彰顕の所現なり。
人類の生存に論なく、善悪・是非は皆彰顕なり。もし彰顕すること能わずんば、通徹すること難し。また「真如を彰げ、仏性を顕わす」と同時に、業障もまた顕現す。いかんぞ化除し完消せん？彰は即ち台面に顕露し「行にして上なる」ものにして、一切に対して初めて見至ることを得ん。然らずんば何を彰し、何を顕さん？即ち了知すること難し！
仏性－一切衆生が具備する本質なり。仏家に於ては、即ち仏性と聞き、道家に於ては、即ち本性にしてまた道性と謂い、儒家に於ては、即ち自性にしてまた聖性とす！当今の道家を以て言えば、神性・仙性皆是れなり！仏性とは、即ち衆生が本来既に具足する自性なり。
各人の業因の牽纏と進化によりて変ずることなく、甚至には聖神・仙仏の班に入るも、或いは輪廻沈淪に在りても遺失し埋没することなし。皆是れ衆生が具備する本質にして、仏性を彰顕して初めて促成す。また衆生はこの時代に在りて最も福分あり、また最も具足するなり。
往昔に了知し難き：自性・仏性は、自性・仏性を以て顕露して、初めて己を「無余涅槃」の中に入らしむ。涅槃はまさに佛陀の最も殊勝なる処にして、乃ち「涅槃の大楽」を以て提昇超越するなり！また此の如き条件は、一般の修子にして能く奥祕を了知すること能わざるなり。
真理を啟化すること－まさに崇心の道脈において了知すべき関連課程なり。後には「無極大道学院」を成就して回帰超越せんとす。上界の仙仏・聖神・高真・菩薩等は皆来たりて盛挙を共になし、また一切原霊有情を成就すべき資糧源を天書の中に下化せん。
後代の真正の修持者に提供し、即ち何らの分別心なき修者にして、真正の理諦を成就せしむ。真理の啟化に対して、初めて理に如き実際となり、每位の衆原霊の心性の中に完現し、日常生活と修為とを両相融合せしめ、更に相互に契心して、初めて啟化の必要ある基本觀念となるなり。
真理とは、実に実際に下化して自ら智慧の充実と累積を致し、多聞・多聴・多観想に達するなり。即ち「聞思修」に於いて修整を作し、更に「思惟修」に於いて自らを成就し、更に「細思惟修」に於いて超越を作して、乃ち蓮花仏国境（浄）土に入るに至るなり。
仏性を彰わす－衆生は皆本質を具う。有情・非情の天地衆生、魑魅魍魎、及び阿修羅・地獄・餓鬼・畜生の道中に論ず、一切の有情・非情の山妖水怪……種種等々を含む、皆「真如を彰わし、仏性を顕わす」ことを得。これ又た何れの故ぞや。
正に一切の有情・非情は皆平等にして、皆一体にして如是なり。有情の天地不同の衆生に対して、如何にして仏性を彰わさんや。是れ自ら努力して対応の作と為すに依るや。能く了知すべし：有情の衆生に対しては皆仏性を具えて彰わすべしと。則ち人類の衆生のみに局限せざるなり。この如きことは必ず明らむべき一事なり。
真理を啟化して仏性を彰わす－真の理諦を下化教育して更に充実にし、乃ち豊かな資糧有りて生を潤し、一切の有情・無情・非情の芸々蒼生を成就するを得。正に崇心の道脈を啟化する殊勝の資糧を基本と為し、能く全ての宗教派脈を融合して相互に契合せしむ。平等観相契の心を持つべきなり。
天地の正理を化して津糧と為し、衆霊子に資糧位に与え、確実に自ら所体証に於いて「施行」し、更に一切の潤生と教化・教育の課程に於いて「精進」す。即ち「圓滿」に於いて「超越」を作す。この故に一切の位階境界は、必ず人間世に於いて成就するなり。
真理を啟化して仏性を彰わす  一切の万霊は形を同じうせず
基因は具備して同根源  無極の下化演繹して新なり
当代の科技は超越を作し  有情の人類は提昇して為す
福祉徳澤は後代に及ぶ  圓滿乘越えて来り帰る
故に次の世を倚望するに及ばず。人生は正に一切の生命の「上昇と下墜」の分界点にして、更に「含因改造界」なり。如何にせんや。皆個人の努力精進し落实するの多寡に観て定まるなり。圓滿に於いて更に超越を得て、乃ち真理を啟化して仏性を彰わし、「蓮花仏国世界」に入るの成就契機と条理となるなり。
第十五回 真心為正
南海古佛
1999年8月13日 己卯年七月三日（金）
虚空伝承理無漾、彩霊仙姑帰来降。
先天の真詮章を弘む、大道弘展し仏心揚ぐ。
先天を弘む。如何に先天を弘めん。まさに「無の無無極」の理諦を実際の資糧源に化して、人世間において関連の動作あればなり。また理諦は先天無極を本章とし、さらに有情衆生の修子を超越成就し、円満に帰還し、昇進超越せしむ。この条件は明らかなること甚だ少なし。
先天の本意を弘揚し、必ず能く潤生と修持の両相を結合し、人世間において一切の形相有るの過程を経て、必ず人世間において修持と潤生の動作を為すことを得ん。然れども言うこと勿れ、修持は至高無上なりと。若し此の如くば、即ち人道生存の必需性を脱離し、亦是れ障礙なり。
其の真詮－真詮は不變の理諦なるが故に、必ず真実の條理規範を導引と為し、凡塵の衆霊子をして、個人の訛謬と不足欠缺を修整して成長せしめ、甚だしきに至りては、過往の不良の気秉習性を化除し、能く真に改造の範本を為すことを得。又如何にすれば変革の契機を得んや。
真詮者－正是不變の定理にして、又真実の教化基本課程を以て、有情衆生を一體如是せしめ、有情衆生の作為に於いて、能く天地の徳澤と規律に合し、而る後に「真実の詮釋」の最主要なる本體章節を得。誠に「真詮」を人世間に於いては、必ず定律と規章有るべし。
先天の真詮を弘む－凡塵いかなる宗教派脈に論ずとも、皆自らを最大、最高、最殊勝とし、即ち最も能く超越すと為す。此の如きは元より厚からしむべからざる事に非ず。其實、儒、道、釋、耶、回、天道に對して分別せざるに非ず。皆此の如し。然れども上天に於いて言わば、全く分別の無きなり。
亦聖神・仙仏凡塵に伝はりし後、主事する者に對しては、教育を弘むる中に在りて、時しば本教の定義を、他教と相比擬し、自ら膨張して擴張せんとす。是れ當時教を設けしに於いて、弘通の時に於いて、凡て教脈の定義と規章とは、皆必ずしも是の如くならず。
然れども、往々後傳の者信者を拉致し、亦自ら殊勝なる處を標榜するは、正に他教と異なるに由る也！後代の傳者に對して常に引用し致す也！宗教の弘通と傳承とに由り、後代の者の引用に因りて、種々の自ら標榜し、自ら膨張するを延伸するに及びては、又如何にせん。
無非に信者を拉致し、心悅びて誠服せしめんと欲するに在り、更に己が不善なる所引用に在りて、此の種過程、原本單純にして厚非す可き無き事、變じて複雜と成る也、誠に人類衆生の信仰に對し誤導する所有り、又無形の仙仏亦顯化に由り、相配して衆生に感應有らしめ、印證有らしむ。
後傳の者又は主事する者に與へて、即ち莫大なる信心有り、又仙仏亦後傳の者及び主事する者の心態と作為に配し、己が宗教派脈を彰顯す；亦天地の間、凡て一の宗教を論ずるも皆是の如し、然れども往々真實の理諦を引用して人世間に下化すること能はず、變じて唯感應のみに成る。
常に世俗の方便法を沿用し彰顯す、此の如く言へば、必らず衆生を帶引して宗教に歸向せしめ、真正の回歸準備資糧と為すこと能はず、即ち輪廻反覆相循し、此の種輪廻即ち斷えず！又輪廻斷えざるに因り、更に宗教派脈に入る凡ての修子を保證すること能はず、又提昇增長せんや否や。
極樂世界、無極理天、虛空天界に歸返し得るや否や？必有心真修實行の修子に望みて退かしめん、甚だ真正の回歸を導引し、實際の準備と資糧有らしむること難し、即ち此の如き原因に由り致す也、又如何にせん：先天の真詮を弘めん？根本に不可能なり！
必ず檢討し更に思量すべし、又如何に回歸を導引せん？是れ人類衆生に對して真實なる也、必ず自己の靈性に由り負責し、亦自己の所作所爲一切の事務に負責し、更に「其の因、其の果皆自得す」に在り、「先天を弘揚する」は即ち「無の無無極」に在り、又如何に了知せんや。
「無の無無極」如何に回歸を為さん？如何に資糧を具足して、是れ真實性なるや！然らずんば、人類の潤生と修持に在り、若し兩全其美すること能はずんば、必ず相互排斥の作用を產生し、即ち修持と潤生に與へて、相互結合を為すこと能はず、此の種は甚だ真正の回歸導引契機有ること難し。
真實の詮釋、正に回歸の津糧と契機なり、端視個人の作為に在り；「先天の回歸條件」に在りて、即ち自己に由り行使し、自己に由り改造を為し、自己に由り成就す、是れ自己の資糧位に對する也、此に因りて、人類に提供する真實の詮釋、即ち回歸の準備有るを得。
必宗教の真實修子に、人生の無奈と苦磨を了知せしめ、亦常に人間世に在り、急忙に登天の契機條理を尋ね、即ち真修實行の者に在りて必是の如し、倘若成就の良機因縁足らざる時に在りて、即ち自己に與へて真正に回歸條理を導引すること能はざる也。
上蒼の法則を頒布する中に、若し真に導引して帰帰せしめ、準備せしむる能はば、是を以て：先天の無極の真実の理諦を弘揚し、始めて促成する可能あり。有情の衆生に一体如是を与へ、即ち真実の獲得と為す。亦単に少数の真修実修の修子に対して、規章と条理を為すのみに非ず。
弘は道を弘むるなり！亦た道の人を弘むるに非ず。「弘」とは拓展推廣するを是とする、此の種の弘揚にして始めて時効性あり。又先天は人世を再び「純一」の境界に帰回せしむるなり。作別を「太極」の中に於いて為し、即ち「万殊唯物」と「万法唯識」の顕現する所あり。
此の心は一切を成就すべく、此の心は亦一切を破壊すべし。皆人類の心态の作為を観て抉擇す。故に、崇心の道脈に著作せる「大道シリーズ天書」の中に在りて、諸賢生は執視すべからず、曰く、我れ最大、最高、最も殊勝、最も優秀、最も能く超越すと作して思想を構築すべしと。絶対にかくのごとくすべからず！
若しかくの如きなら！已に人世の平等、修持、宗教、自性の平等の規範に背離す。必ず導引によりて真章を為し、又「有為の作為」の中に在りて「有為」に入り、更に「有為」に在りて「無為」に達す。此の種の無為は正に人世間に於いて行うべきなり。如何にしてか仙仏の老師の「真無為」を学習せん？
先天の真詮の含因を弘揚し  崇心を擴展して更に新穎とす
渡化は教育の本を兼顧し  無為の真実にして帰回を行ふ
理天の真諦は稀有にして少有なり  殊勝の因縁崇心に修す
努力は必ず用心を加へ  人類の精進は成就すべし
上蒼は即ち「真無為」なり。人類衆生は天地の契機を学習して成就すべく、亦崇心の諸賢契等皆一体に此の如くして、上蒼の「真無為」を学習し施行すべし。正に自らと衆生とに替はりて、導引と本因への帰返とを為す。是れ即ち先天の真詮を弘揚し、有情の契機を為すなり。
第十六回 無心治妄
南屏道済古仏
1999年8月17日 己卯年七月七日（火）
虚空の金筆、真機を伝え、開智天尊、著書の期。
大道仏心第七冊、天地の大道理を行ず。
行とは、行者は歩むところの依持なり。己に一条の径路を與へて所爲となし、個人の所爲に對して、己が因果を闡述し、いかにして個人の含因の累積を轉化して定むるかを説く！まさに依持の路程と所爲を、己の能く爲す所の範圍内に於いて相循ひて依據となす、これ即ち「行動」なり！
各人、又未來に於いて如何に行持すべきか。甚だしきはいかに所爲すべきかこそ最も重要なれ！必ず有效に因本を改造して、己が往昔の氣秉と習性の常因を化除すべし。此の條件は人類の衆生に對して、必ず己が不良の習性が如何なるものなるを了知し、然る後に改變の日あらばなり。
天地－天地とは：人類及び萬物の居住の空間にして、一切の有形有相の物種を、演化の過程に於いて成就せしめ、創造進化の目的と為し、萬物蒼生の福祉を創造するに努力す。又人類の萬物の靈長たる主要なる役割に對して言へば：人類の所行所爲は、人の作用を以て主要なる範本と為す。
人類には文字ありて記載すべし。又科技の文明に於いて、天地の不序によりて造られし業因・業果を轉化して轉圜すべし。かくの如く天地の間に大德あり、まさに「一體如是」なり。獨り人類のみにあらず、人類の生存空間に萬物なくして有情世界の食物鏈の資糧を供給せしめば、又如何にせん。
人類は又いかなる舉動にて、創造と進化の目標と為すや。故に、人類の依歸に對しては、正に公正・平等にして、他の萬物蒼生に接し、此の天地の中に共同して生存すべし。即ち人類を「天・地・人」と相互に比擬し、有情の範本と為すこと、最も主要なるものなり。
之れ大道－道とは理なり！理とは不變の法則なり。人類の世に生存するには、必ず道路の平坦なることありて、然る後に阻礙なく、牽絆なく、即ち道程の路途は平順なるべし。又人類の世界は平順坦途の道路を以て、人類に行使せしめ、行動せしめ、更に光明の大道あらしむ。
当今の科技の文明に於いて、人類の産み出す代步の車輛は、必ず平坦なる道路に依りて方能れり行駛す。此の平坦は、必ず平順にして阻礙無き道路なるべし。若し稍しでも缺陷坑洞の有れば、或は他の物に前進の腳程を阻まるれば、順遂なること難し、又一路直に行きて阻礙無きを得ず。
即ち平順なる道程に於いて、多くの考磨と波折を増すこと、人類の生存の過程に對しては正に斯くの如し！故に道は即ち理なり、理は即ち法則なり；然らずして若し阻礙有らば、必ず人類衆生の作爲する所を観て定まり、又不斷の披荊斬棘を有して、方能れり人世に於いて常に順利なる坦途を得ん。
天地の大道を行ずるは－乃ち天地の不變なる真理にして、人類の有情世界に應用するに、必ず人類衆生に平坦舒適なる道路を有せしめ、又修持に對して順暢にして阻擋無く牽絆無き坦途たらしむ。人類に對しては、道路四通八達なるが故に、方能れり時間・空間の阻礙を縮め、速やかに抵達するを得ん。
宛も臺疆の高速公路の興建構築の如し、城鄉の間の距離と時空を縮め、即ち「行」の便捷を改善し生活品質を提高し、人類の交流の機會を増し、千禧年後の富裕なる生活に邁進す。此れ亦科技の賜物にして、又現今の時代の科技文明は、早くも往昔の無知の藩籬を脫離せり。
進んで、當今の時代の科技文明を以て、人類の生存舒適なる生活の提昇に應用し、如何にして人類の文明展現に借重し、「天地の大道」を行使するこそ實際性なるや；能く了知すべし、往昔の教化方式に再び執視すべからずと。然らずして、芸芸蒼生を渡化成就せんと欲せば、恐らくは有効なる目標を達成すること難かるべし。
天地の大道を行使するは－正に天地の間の博愛平等を以て、有情衆生を滋潤し、平等博愛・慈悲喜捨を要し、芸芸蒼生をして人世間の環境中に自由自在に生存せしむるなり。正に「上天に好生の德有り、大地に養生・育生の德有り、人類に放生・護生の德有り」なるが如し。
天・地・人の大德相互に結合し、相輔相成りて潤生と作し、生存と作せば、即ち有情天地の間の衆生をして、時空・環境の變遷に因りて影響を受け、不足を生じ、恐懼を抱くこと無からしむ。正に天地の大德を以て、人類世界の有情衆蒼生を利益するなり。
有情世界の人類は、強勢に倚りて他の萬物衆生を戕害すべからず。若し人類慈しまずして、萬物衆生を戕害する行爲有らば、必ず往後に天地の定理－因果相循ふを受け、又天地の反撲に遭逢す。正に「物極まれば即ち反る」の道理にして、有情世界に應用するこそ、正確なるべし！
天地の大德大愛－一切の芸芸蒼生を護佑し、而して人類のみに止まらず、況んや一切の有情萬物蒼生は、人類の生存過程に提供し、極めて重要な角色を扮演し、食物を供給し、正に人類の生存の不足を彌補し、又潤生の資糧を提供し、人類に生存の空間を有せしむるなり。
正に人類の食物の來源を提供する、最も主要なる犧牲者にして、此の種は萬物衆生を結合し、人類の全ての食物鏈に對する恩惠は可謂く相當に深厚なり。此の條件に在るは即ち食物鏈の組合にして、若し食物鏈無き時には、人類衆生は早已く餓えて乾脯脯となり、又人吃人の世界と變ずべし。
人世に謂うべくは、「人は財のために死に、鳥は食のために亡ぶ」と。此れによりて知るべし、ただ鳥のみならず、一切の動く有情衆生は、皆食物の連鎖に組みされ、己を温飽せしめ成長せしむ。また潤生の過程は食物の連鎖の供給によりてこそ、豊かなる生存の空間を得るなり。
天を飛び、地を走り、海を游ぐ万物蒼生、動くもの皆是れ「一体如是」なり！此れは天地の正理にして、人類世界の天地の間において、一切の動くもの、動かぬもの、有情、非情の衆生は皆かくの如し。若し此の食物の連鎖の局限を突破すること能わずんば、又能せんや。
人類の生存空間に在りては、更に然り！人類の衆生は「食物の連鎖と事務の連鎖」の相循う過程を脱すること能わず。甚だしきに至りては、一切の有情なる人類の衆生には必ず生存の要求あり、己を潤生の通貨需求の中に在らしめ、通貨を具足せしめば、即ち良善なる受益あるべし。
乃ち潤生に食物の供給を提供し、及び快適なる生活の享受を為し得る。人類の有情衆生は、士・農・工・商等に在りて、皆各々其の役割を演じ、甚だしきに至りては皆環環相扣し、人類生存の総合体を脱すること能わず。必ずや人類生存の中に在りて、快適なる環境と心靈の滋潤を得るべし。
是れ修持の空間に対して、潤生と修持の相互に補うべきに在り。また人類の心靈の中に在りて、「空虚なる霊性」より己を提昇せしむべし。正に修持と潤生の中に在りて、必ず両相結合し、両相互補して、乃ち心靈の障礙を了脱して円融自在を得、即ち良善なる福德を具備するなり。
崇心：所著せる大道シリーズの天書は、正に「潤生と修持」を両相結合せしむるものにして、即ち累世の不良なる含因の種子を改造するなり。故に、崇心の聖命天職は尋常ならざるなり。諸賢契は細細に観視すべし、天書の所著の中に皆甚だ実際的にして、更に実際的真理を以て教化の資糧源と為すなり。
正に他の宗教の範疇を超越し、潤生と修持を両相結合して更に超越し、能く真に帰返する実際的な天梯と契機を有して改造を為す。かくの如く、また「天地の大道を行ずる」に對し「陰陽の法則通遍して無礙なる」に、若し能く明瞭にせば必ず改造を為すべく、即ち実際的な成長提昇あるべし。
必ず己を成就して潤生、修持の中に能く相輔相成せしめ、絶対に脱節すべき処なし。倘若し「潤生と修持」を脱して観て、真理に帰返し得と謂わば、正に「天地大道の正理」に背離するなり。又いかんして芸芸の蒼生に実際の資糧有らしめんや。此れは乃ち謬論なり！
天地の大道を行持して  有情衆生の福祉高し
上蒼の徳澤千万千  未来の科技無限に妙なり
大道系列天書冊、無極皇母親ら頒得す。
当今の人類、明曉し難し。天機は殊勝にして大福德なり。
有情衆生に期盼す、此の一切の作為を了知し、又天地の間にしては脱離と違背と不可なることを。一切の有情衆生は皆天地の蔭護する所の衆霊子にして、更に一体如是、一視平等の霊性なるこそ正確なれ。然らずんば、即ち一切の平等規範と法則とを脱離し、即ち天地の引用する所の正理に非ず。
人類衆生に対しては、即ち良善の徳澤によりて受益し、必ず了知すべし。人世間の所有する上への学習成長は、正に如実に提昇するの必要性有りて、必ず自己に回獲して增長超越すべし。相対して、必ず真に明白すべし、天地の万物蒼生に対する徳澤を。此の種の条件、人類衆生必ずや体会すべし。
第十七回 虚心為謙
元始天尊
1999年8月20日 己卯年七月十日（金）
虚空天界、崇心に降り、筆を落として天尊、永く正情を正す。
杏壇の規範章を立て、大道・仏心の宗教の因とす。
立つとは、立つ者とは、即ち真正如実の作為を以て行使するなり！現今の修子に与えて教化と教育の課程に立足せしめ、必ず規範条理を建立してこそ促成すべし。又宗教に対しては、社会・国家の教育法律の不足を彌補し、当今の人心の末法時期に処するに当たり、常に福報具足するが故に、修持を思わざるに対し。
人類衆生、心に於て常に甚だ空虚にして、即ち霊性提昇滋潤の一分を欠く。社会教育・国家法律の不足を補う為、宗教の教化と教育の課程に在りて、正に甚だ重要なり！人類の心を教化し浄化提昇するに形成され、即ち此の如くするの必要あり！
杏壇－古に私塾と曰ひ、現今は学校と学院の通称なり。杏壇は正に儒家の思想の建立せる名詞なり。儒家は教育文化を以て無窮に伝承し、即ち現今現世の衆霊子に普及せしむ。必ず儒家の思想の構築を要し、又「大学・中庸」の両教材を主とす。
即ち「大学・中庸」の課程を教育と教化に應用し補ふ。必ず宗教を以て心を洗滌し、然る後に学習経験の成長を促すを得。又現今の時代に在りて、正に国家教育・教化の不足を補ひ、人類衆生の生存潤生の過程に、有益なる資糧源を提供するなり。
往昔の心霊滋潤に在り、提昇を欲せども、良善なる因縁を多く欠く。又教育と教化の不足に因り、宗教杏壇を修整し、即ち心霊の教化と教育を改革す。此の条件に於て、宗教と学院の伝延する所を明らかにする必要あり。即ち必須性にして、存在の必要性あり。
杏壇は乃ち学院なり。若し当今欧米の国家に於ける教育は、老いるまで活き老いるまで学べとて、甚だしく既に成人教育の課程に入り、宗教教育の課程に於ても亦之能有りと雖も、常に「心霊超越」の課程に在りては、正に良多の提昇を欠く。此れ即ち教育の不足なり。
中土の国家を反観するに、即ち教導潤生の動作を第一と為す。此れ乃ち実際なり。然れども潤生具足の同時に、常に心霊の空虚を感じ、時には既に一切の物質享受を具足せりと覺ゆれども、実際に心霊に於ては、即ち真実感を超脱する一分を欠き、又諸多的なる資糧源を欠く。
即ち常に感覺す、学校教育の不足を。必ず宗教に入り修持し真理を学び、又人生の「心霊帰宿」の改造を為す。此の如き杏壇は人世間に在りて、確実として其の存在の必要性あり。然れども、即ち代表せず、一人一人が皆宗教に由り浄化成長し得るに非ず。
規範－崇心の著作、当今の時代に於ける宗教教育、及び教化改革の創発者に針對し、正に上蒼の要求する規範と規章を主導とす。又教育文化の課程に、人世間に由り学習成長を建立すべし。然れば即ち大なる空間の進歩あり、向上超越を為す。
万教斉発：同時に各宗教派脈に對し、皆自ら標榜し自ら推銷し自ら膨脹す。此の如きは人類衆生に與へ、即ち一種の学習と模倣の路徑選擇あり。又学校と学院の教化課程中に於て学習成長し、又当今「儒宗神教」は既に式微せり。
上蒼再び「儒宗聖教」を開啟し伝延と為す。即ち未来の際、有情なる人類衆生に、一依循と指標規範の場所あらしめんが為、即ち崇心道脈に要求し規章と典則を建立せしめ、後世の教育と教化の伝承永續不悖と為す。是れ崇心道脈に對し、必ず規範・規章の建立を要求するなり。
正に未来の衆生が依循すべき需要に応じて設立するなり。此の規章は即ち人生の典則を建立するものなり。章程を構築し、崇心に対し規範・典則・規章の系統を設けずば、未来において衆原霊を十分に引渡し、帰返して成就の契機と成すこと難かるべし。
是の故にこそ崇心道脈に対し規章の建立を厳格に要求し、又将来「仏心宗脈」を建立して伝延たらんと企望するなり。即ち仏心は亦崇心にして、更に聖神・仙仏・菩薩の心なれば、若し規章を建立せずば、如何にして未来に衆原霊を導きて帰返せしめんや。
杏壇の規範を立てる－崇心は此れを以て未来の「無極大道学院」の根基を構築す。正に上蒼の崇心道場に対する肯定にして、亦崇心道脈が近三載の全ての磨難に真情を見せ、未来の「仏心宗脈」の伝延に基を築くが故なり。此の契機に在りて、崇心の諸賢生に努力を要求するなり。
杏壇の規範を立てる－典則規章の中に注釈を為し、以て未来に儒・道・釈・耶・回を問わず、又無極先天・三清道脈、或いは母娘系統・慈恵系統・天道系統の構築を問わず、皆如何にして衆原霊を導き、六道輪廻の空間を超越すべきを了知せしめんが為なり。
即ち極楽世界・無極仙郷・虚空天界に帰帰せしめんには、必ず真理を以て実証せざるべからず。是の故に崇心の諸賢生に厳格に要求し、必ず諸賢生と主事者の配合度を見て抉擇す。「時遷りて法も遷る」の当下に在りて、正に崇心をして基礎構築を為さしめんとするなり。
并びに企業化・人性化・生活化を以て、自己と衆生の生存における全ての潤生を成就し、及び信仰修持の中に於て向上提昇超越せしめ、以て未来の宗脈伝承を展開せしめん。千禧年の後に於て「儒宗聖教」は正に欣欣向荣として展開し、人間光明社会の境界に向かわん。
杏壇の規範を立てる－若し崇心厳格に規章を訂定せずば、必ず往後尚一盤の散沙を形成し、如何にして衆生導引の指針とせんや。若し此の当下の時機に先んじて規範・章程・典則を為さずば、必ず未来に衆生等に修整条理の規章を為すこと難かるべし。
崇心の「儒宗聖教」の著作する天書は、将に「禅宗と唯識宗」に入りて主要な課程の資糧と為す。又「禅学宗脈」と「唯識宗脈」の理論・思想・行径の構築する所に在りて、能く如実に衆生を導きて帰返の資糧と為さしめん。即ち実践の位階に在りて、必ず条理紊乱せざる章程あるべし。
正に「人性化管理、企業化経営、生活化潤生」を以てし、又三者皆相配合し、更に千禧年の後に於て真に弘化の契機を展開し、更に相当の如実性を具え、上蒼の「大道系列天書」を推廣して有情世界に下化し、自己を利益し又衆生を利益するなり。
崇心の諸賢契よ、任重くして道遠しと感じるや否や？責任又多く加わるや？心情は如何に在るか？若し崇心厳格に自己に対して如実に成長するを要求せずば、如何にして未来の衆生を導き、実際の帰返の契機を持たしめんや。正に多くの考程と磨難を与えるなり。
悉く示す、主事者と諸賢契と力を合わせ定奪し、更に衆師等は一切の聖務の成敗の鍵を背負う。若し順調に推廣すれば、即ち一種の自我成長の契機有り、且つ人類衆生に対し十分に交待し、亦上蒼に対し一種の責任を負い、自ら向上增長すべし。
衆師と崇心の諸賢生等は、皆聖務と生命の共同體にして、正に成功と失敗のすべての重大な責任を背負う。更に互いに息々として相関し、甚だしく分離すべからず。稍だ偏悖あれば、即ち懲罰と磨難を与え、若し成就の時を得ば、正に未來の社會に対し大いに貢獻するなり。
故に、崇心の上下に求む、功德を求めず、自分の為めず、私情の為めず、天下の蒼生に利する能うて、乃ち真に來りて行持す。又諸賢生に通力を求めて配合せしむ。即ち崇心の道脈中の衆學生等、自己の所有する使命、責任、義務の行使を了知し、如何にしてこれを行うべきかを知らしめんが為めなり。
更に厳格に求む、無為の犧牲奉獻こそ正道なり！若し此の條件に到る能わざれば、主事者たりと諸賢生たりとを問わず、必ず自ら處分を請うべし。如此にして乃ち主事者の肩擔する責任の甚だ繁重なるを了知すべし。又諸賢生の付出の中より、即ち一切を明白にし、皆必ず相互に配合すべきを知るべし。
杏壇の規範を創立し、倫理道徳に綱常有り。
大學の課程を基礎とし、陰陽兩利の德坊を造る。
無極大道の學院を立て、孝道報恩の亡靈依る。
祖先の冤親來りて提昇し、高層次の教育に就讀す。
語重くして心長し、「大同社會、蓮花佛國」の世界を成就せんことを盼む。又上界の仙仏聖神、高眞菩薩等は、崇心の所為を企盼し、自己の使命、責任、義務を如何に行い如何に為すべきかを明白ならしめんことを望む。必ず了知すべし：更に此の期間に規章と典則を建立して、乃ち實際に開展する能う。
第十八回 貪瞋癡迷－貪
太上道祖 道德天尊
1999年8月27日 己卯年七月十七日（金）
虚空無極の真実心、彩雲の仙姑正因を述ぶ。
衆生を度して本に帰せしむ、大道仏心自性を揚ぐ。
度を為すとは–実在性の依持有り、必ず主体有って方にこれを言う。度を為す者とは提昇の作為を以てし、度は必ず成就を根本と為し、度はまた成就の基礎なり。必ず実際に超越し能うて方にこれを言う！度を為すとは：目標に達することを謂うべきにして、全ての過程の累積を経て成就するなり。
度を為すとは：これを引く所は、必ず成就を以て、超越を以て、真実の帰返を以てこれを論ず！これこそ度を為すの最も主要なる成就の要因なり！度を為すとは：すなわち必ずこれを牽引するなり！まさに帰帰の目的有るが故に、帰返の必要性有り、目標を以て行使するを形成し、未来に対しては目標に到達する地を作し施行するなり。
衆生とは–一切の万物の能動、不能動、有情及び非情を以てこれを謂う。衆生の定義に因れば：まさに有情と非情の組合せにして、また一切天地間の芸芸の衆生皆是れなり！人類の衆生のみに非ず、尚異なる層次と境界有り、区分されし異なる物種もまた「有情衆生」と謂う。
衆生の本霊に対しては：無極先天より来たり、虚空より来たり、極楽世界より来たり、また凡塵に在りて已に成就し、未だ成就せず、未来に成就す可き芸芸の蒼生は皆一体にして是の如し！皆「有情衆生」と以てこれを謂い、此種の人類の衆生は自己の生存習性を持ち、また自己を成全するを以て論断する。
応に個人の「私」を以てこれを謂うべし！「私」に在りては大「公」に合って方に芸芸の蒼生を促成し、皆大寰天地の護佑し、養育し、成就する所にして、芸芸の衆生は皆天地の一分子なり。自己の未来に対して責任を負う能うや？さもなければ、必ず累世の因縁果報相循り輪廻して、左右せらるるなり！
之–之の者は補助の詞語と為し、すなわち衆生の用うる言詞と相当の関係有り。「之」の者は一切の作為を補助して相接続するが故に；いかなる宗脈の教化の過程に於いても；「之」の用途は最も平凡（頻繁）にして、また一切の成就し可きものを輔佐し、能く一切の万事万物を佐理するなり。
補助の作用に於いて、此の補助は衆生より観ずれば、正に欠くべからざる関連の資糧なり。有情の衆生は細かに「之」の用途を思惟すべし。譬えば「副体の補助する」は「主体をして確実ならしむ」が如し。若し副体（座）の補助を欠かば、一切の動作は即ち相続し難く、如何にしてか成就を得んや。
回帰－是れ一切の万物其の根本に於いて闡揚する所なり。能く自己の根源の又何処に在るかを了知し得んや。又「一本万殊に散ずる」に皆自己の根源本体を以て外に追求し、正に当下に拡充するなり。若し能く自己の本体の拡散せるを了知せば、又如何にしてか本来の根源を追求し、回帰改造に用いん。
回帰：必ずや人間世に在るを要し、是れ潤生の動作の先決条件にして、乃ち資糧有りて回帰の準備を為すを得。倘し人間の肉体無くば、又何処にか成就の資糧を言わんや。亦潤生の過程に於いて、必ず関連の成就因本を累積すべし。即ち回帰を主理と為し、資糧と為し、成就と為すなり。
又「回帰」は無極天界・虚空天界に帰するなり。此の種は必ず了知すべし。人間の衆生は何処より来たり、又為何に生るるや。亦凡塵に於いて如何なる事務を為すべきや。乃ち帰返の目標に達するの条件を得ん。即ち人間世は正に一切の「含因改造界」なればなり。
若し此の規範を明白にせずんば、必ず人間世に於いて成就の基礎を得ること難く、更に次の世に於いて再び輪廻し、因縁有りて出世し人と為るや否や尚知るべからず。常に回帰超越すること能わざる者は一大群なり。何故に反覆人間世に輪廻して沈淪せんや、又これ何れの原因によるや。
衆生を渡しての回帰－如何にして渡さん。又如何にして衆生をして凡塵に津糧を具足せしめ、自己に造化本體を与えしめんや。此の種の渡者は即ち帰返を導引するなり。必ず渡り得る者は自己に成就の条件を有し、甚だしきに至っては自己に牽掛無く、累世の因因果果を悉く当下現世に於いて完消し化除するを要す。
渡りは自己の分内の事にして、一切の外在の聖神・仙仏皆之を導引すること難し。若し人間の衆生導引に由って自己を成就すること能わざれば、即ち資糧の輔助を欠き、如何にしてか自己を渡さん。甚だ難し。若し聖神・仙仏に依りて引渡されんとせば、自己は根本として関連の資糧条件を有すること能わず。
含因本體に對して何処にか聖神・仙仏の引渡を為さしめんや。然らず。一切の有情の衆生は即ち経典・論蔵・天書の啓迪に在り、経典・論蔵・天書に於いて回帰の資糧を与え、且つ実際の帰返の契機と天梯を提供し、更に往昔の錯誤謬見の局限を打破すべし。
衆生を渡しての回帰－正に「自性は自ら渡り、仏は渡す能わず、聖は渡す能わず、仙は渡す能わず、神も又渡す能わず」。一切の聖神・仙仏・菩薩皆自己を引渡すこと能わざるに對し、正に此種の原因の形成する所なり。如何にしてか其の宗教を信仰せんや。難し、難し。必ず回帰の規範と条理を要す。
正に如理実際にして自己を成就すべし。人間は聖神・仙仏・菩薩の提供せる経典・論蔵・天書等、一切の成就方法と条理規範を應用すること甚だ難し。如何にしてか聖神・仙仏・菩薩の脚程に向わん。必ず一歩一歩既に走过せし路程に向かい、以て提昇超越を為すべし。
此の条件は、必ず聖神、仙仏、菩薩の積み重ねたる含因の種子と相契き、相応じて相接応し、相契合すべし。久しきに及んで自らに帰元の成就たる津糧を与え得て、乃ち実証なり。また崇心が著作する天書の中に在りては、即ち上蒼の三十年前に定めたる因縁の契機に在り。
崇心は必ずや著作を永續し、更に精微にして、更に如理実に帰返の津糧たらしむべし。今や天書の著作による教化の中に実証し得て、未来の人類に充足の津糧を提供し、芸芸の衆生に根本へ帰返する契機を与う。此の如く言えば、唯だ己を成就するのみならず、亦た芸芸の衆生を成就するなり。
即ち帰元の先鋒と為り、更に自らを改造し、および今後帰元の教化に於いて、規範と為り、修整と為り、改造と為すなり。必ず帰元の契機と条理とは如何なるものか、また何等の作用あるやを了知し、悉く明瞭ならしむべし。将に未来に於いて一切の教化成就の因本と為して、乃ち真实性なり。
衆生を引渡し帰元せしむ 四億の仏子来たりて相会す
教育教化して成長と為す 努力精進は自ら為す
九二原霊来たりて提昇す 自ら所の殊勝に執せず
別の角度より学習を為し 上蒼の徳澤にて大乗を行ず
『大道仏心』は崇心の道脈を提供し、未来の『真仏心宗』の全ての津糧により建立し修整す。是れ上蒼に対して責任を負い、亦た自己に対して責任を負い、また芸芸の衆生に対して責任を負い、帰返すべき一切の津糧を提供す。如何に之を用い、如何に取捨し、如何に提引し、如何に帰返せんや。
即ち必ず固化に執著せずして、乃ち実際に改造の条理契機を得べし。然らずんば、既に固化に執著すれば、一視平等公正の心を有すること甚だ難く、また真に帰元のうちに身を下げ、現代に於ける上蒼の本意と天書の資糧とが如何なるものかを了知すること能わず。必ず真に実証し得べし。能く明白ならんや。
第十九回 貪瞋痴の化除－瞋
通天教主 霊宝大天尊
1999年8月31日 己卯年七月二十一日（二）
南贍部洲に天書を著し、海池天地は本より自主とす。
古徳の教化により規範を立て、仏国の蓮花は万殊を了す。
大道とは、即ち摩訶の本體なり。まさに大道を以て主要なる發源地とし、無極に在り、虛空に在り、宇宙の廣大なる空間に在りて成就す。大道は又一切の演化・演繹の主導者にして、「無所為」なり、「無為」なり、更に「真無為」にして、全ての宇宙・天地を演繹す。
即ち自然にして一切の星球を孕育し、及び星球中の一切の芸々たる蒼生に対し、必ず大道を以て共に欽仰せしむ。まさに一切の有情物種を各々の星球中にて演化し、一切の有情蒼生を演繹するに、必ず安適なる生存の空間を得しむ。これ即ち大道の所有する主體根基なり。
仏心とは、即ち宗教の教化する根本なり。若し仏家を以て言わば即ち仏心有り。然れども他の宗教に在りては、独り「仏心」のみならず、尚お仙心・聖心・神心・菩薩心有り。崇心はまさに仏心を基本とし、崇心を以て未来の一切の人類衆生を演繹し、福祉を無盡に加添するなり。
大道演化の根本、仏心即ち是れ禅宗の另一名詞なり。禅學宗脈の發展する空間に對し、必ず禅學を以て根本資糧を成就す。亦まさに「禅化を以て玄機と作す」が故に、更に「頓悟」の當下に在りて、必ず根器の鋒利なるを累積し、能く「頓悟」を以て受益を得るべし。
如何なる宗教派脈を修持するも、必ず「漸悟」より成り來るべし。此の智慧賢愚、時に亦「漸悟」の契機を得難く、尚お迷途の中に在りて、根本として此の困境を脫離すること能わず。即ち一世又一世の輪廻相循ふを致し、亦禅宗の顯示する所に在りて、無非是れ當頭棒喝なり。
禅化玄機了無生、智慧開展頓悟成。
迷途知返天機を識り、崇心弘揚して名聲を出す。
『大道仏心』の顯示する所、まさに崇心を以て教化の根本と作し、又「儒宗聖教」を以て規範とす。崇心に對し典則・規範・制度を建立するに在りて、即ち能く未來の芸々たる蒼生を帶引し、無極理天・極樂世界・虛空天界・宇宙天界に歸歸せしめ、提昇超越を作さしむ。
沈淪の衆生に對し、必ず垢穢の靈性本體を化除し、蓮花仏国の境界と位階に成就すべし。亦「大道仏心」即ち是れ「大道崇心」なるが故に！まさに崇心道脈を以て資糧と作し、未來に又「仏心宗脈」を以て儒・道・釋、三教の修子を導引し、回歸の指針と作す。
まさに「仏心宗脈」蓮花仏國世界を以て、一切の有情衆生を成就す。崇心は「大道仏心」を以て依持規章と作し、第二期の聖務を展開す。是れ第二期の第一段階を通じ、第二段階に入るに在りて、即ち必ず如實に推廣し、己れをして提昇せしめ、又有情衆生をして提昇せしむべし。
大道とは：即ち是れ一切の大道總樞紐にして、人世間に在るの源頭なり。如何なる有情蒼生に對しても、皆是れ大道の衍化し、大道の演繹する過程なり。又大道弘化の過程に在りて、必ず一切を圓滿し、亦每一の事に於て必ず圓滿無礙ならざればならず。即ち是れ大道本體因緣を以て成就するなり。
若し仏家を以て言わば、又「摩訶之路」は是れ大道と為し、正に一切の根源發源地なり。天の道に在りては曰く「旋轉」、地の道に在りては曰く「相循」、人の道に在りては曰く「輪廻」。此の天・地・人三者の『旋轉・相循・輪廻』の過程中に在りて。
又能串合して一起と為し、更に分開すべからず。正に道家の云う所：「道は須臾も離るべからず」！亦「道」の能く人之身に顯示する所に因り、一切人類の行持潤生の食物を以て、口より喉に入り、更に胃に入りて消化したる後、即ち養分と廢物とを形成し、吸収と排除と分別する所なり。
皆個人の體質に由り、決定して是れ最主要と為す。亦養分の衆生に利益有るに因り、而して軀體の廢物は衆生に戕害を產生す。然れども陰陽相對の定論の中に在りて、養分と廢物とを問わず、時に亦人體に利益と戕害と有るべく、過と不及とは皆自己に損害有るべし。
利益太過の時に在りて、必ず人身に傷害を造成す。然れども、若し不足の時に在りては亦欠缺なり。又一切自身に供給すべき營養成分、過と不及との選擇に在りて、惡漏不潔に對し若し太多なれば、自己に諸多の戕害を造成す。其實、有時全く皆此の如きにあらず。
有時少許の惡漏不潔、更に能く「毒を以て毒を攻む」自己の惡漏を調整し清除を作す。此の種は即ち「過と不及」とに在りて、又更大なる傷害を造成す。又此の惡漏不潔、人體の中に在りて較々少く利益有り、自己に對する戕害較々多くして又較々深し。これ是れ「中庸」の道の平衡性なり。
大道は、正に一体平等なり。大道はすなはち万物の総枢機にして、一切の人類世界、芸芸の蒼生は、皆自らの大道を以て運行す。また人身は小周天の如く、天地は中周天にして、宇宙虚空はまた大周天なり。これ相互に連なりて、一切の演化を成すなり。
仮令ひ人類の身体動かざれば、すなはち固化なり。人身の動く可きは、必ず食物の栄養を資り、潤合を成して促す所なり。この身体の可動は、肉身の和合により、「火」を経て躯体を温め、また「水」を以て調和し、水火相済るは、正に平衡の相互性なり。
倘若「風」の助長無くば、水は動く能はず、火もまた躯体を温む能はず。仮令ひ「風」の吹動無く、また一息も来たらざれば、呼吸の間すなはち接続無し。然れども、もし「地」の堅実性にて肉身を包むこと無くば、すなはち「水・火・風」の三者の和合は難し。
地の包容性・堅実性は、正に「水・火・風」の三者に包含して、人類は初めて存活し、行歩し得るなり。これ正に大道の総源頭なり。人類衆生はすなはち自らの躯体に於いてこの一切を詳細に思惟すべし。また何ゆえに我は、食の物の口より喉に入り、さらに胃に入って後に消化するを得るや。
人身は小周天にして、また人身に於ける大道の作用なり。一切の可動の根源はまた何処に在るや。能く了知し得んや。甚だ難し。また此の根源を明白にするは極めて難く、人類をして生存を第一と為し、他の生存に勝ると思惟せしむ。これは只だ人類の生存のみに在り、尚お真に昇進超越して、初めて如実性となるなり。
大道の根源は本より私無く、万物蒼生は大福祉なり。
上蒼は下化して高科技を顕し、未来を成就して更に如実なり。
仏心の宗脈は真の仏心にして、宗教は引渡し有情を化す。
有形無形は皆共に度し、宗を開き脈を立てて殊勝の行を修む。
次回に至れば分曉すべしと期待す！『大道仏心』は此処より「禅宗」に入りて成長昇進を為し、多く学習の受益を得ん。正に自ら実証を獲得し、未来教化の資糧と為し、また此の条件に由りて自らを成就し、衆生を済度せん。細かに思惟せよ！必ず能く一切の来龍去脈を明瞭すべし。
第廿回 貪瞋癡の提昇－癡の持恆
##南無本師釈迦牟尼仏
1999年9月3日 己卯年七月二十四日（金）
南屏の天地は限りなく善く、道済古仏降臨したまう。
崇心の大道は帰返を導き、大道の仏心は吉兆を暢べたまう。
崇心とは、すなわち「儒宗聖教」をもって、台疆の地において聖門の道規、礼節と制度、規範により、芸々の蒼生を導引するなり。また儒宗においては、当今の時代の基本条件に符合せしめ、甚だしきにおいては、儒宗は三教合一をもって、儒・道・釋を分別せず、この三者は皆依帰と為すべし。
また修持の過程においては、すなわち他の宗教派脈を分別すべからず。このゆえに必ず「儒宗聖教」の規章、典則、制度を建立し、未来の修子を引導して、依循の指針たる宗脈道場を得しむべし。宗脈道場は必ず確固たる弘化の根基を建立し、未来の弘揚推廣を開創して、己を利し人を利するを得べし。
崇心は、必ず開路の先鋒と為り、これにより未来に「儒宗聖教」を帶領して結合し、往昔の陳腐なる作爲を化除し、革新、創新の動作と爲す。聖門の規章、制度を教化の課程に應用し、衆生を提引して當世の修持に於いて、真の導引の目的と爲すべし。
また聖門に於いて三教合一を集合するは、まさに聖門の規章、制度、典則を下化の動作と為し、未来の模範学習の宗脈道場と為すなり。しかれども、『崇心大道』は必ず懿敕崇心堂によりて導引、建立せられ、未来に於いて始めて見ることを得、必ず功效を得て、学習の模範と為すべし。
台疆の地に於いて、代わり得べき多くの道場ありと雖も、すなわち新穎なる典則、規範なくして示範と為すこと無し。崇心の此の期の聖務に對しては、必ず「儒宗聖教」の章程を制定し、規範とし、發揚せしめ、また往昔の聖門の典則に對しては、當今の時代に於いては既に過往と為れり。
何ゆえにこの期、上蒼は崇心道場をして、かかる殊勝なる聖務をなさしめんとするや。崇心の大主席に就きて言えば、まさに「南天主宰文衡聖帝」にして、また聖門を主掌して最大の徳沢を垂れたもう者なり。すなわち所属の道場に命じて、必ずまず為さしむべきは、規範、典則、制度なり。かかる因縁はまたいかんに作用するや。
如何になさばすなわち正なるや。しからずんば、聖門の規章を主理して、いかんぞこれを行じ得んや。崇心において衆生に提供し得るものは、まさに整なる系列の「大道系列天書」をもって基礎となし、規範となし、典則となすことなり。よく崇心の道脈を芸芸の蒼生に推廣して、依循の方針あることを得しむるは、これ「儒宗聖教」によりて行ぜらるるなり！
能く其の原意を了知せば、すなわち未来の事項に於て改造を為し、創新を為すことを得ん。必ずや当今の時代の衆生の需要に符合し、またよく上蒼の衆の原霊を引渡して帰返せしむるに符合すべし。自性、仏性の基本道場を提昇せんとするに、要求する所は、無非に未来の成就の範本を為し、未来の学習模倣の対象と為すに在るのみ。
すなわち道場を以て、能く真に制度、規範、典則、章程を建立し、後代に与えて循う所有らしめ、また上蒼の崇心に対して要求する所、正に此の如し。更に未来に於て能く他の道場を統合し、「儒宗聖教」を推廣して更に弘大に、更に長遠ならしむるは、乃ち未来に要求する目標なるなり。
能く本意を了知せば、これ往昔の陳腐なる規章に対して、再び別の道程を展開せしむるなり。乃ち当今の時代の文明科技の提唱する修持の方式に符合し得ん。これ正に上蒼の本意に違背せざるにして、すなわち是正なるなり。此かる厳格なる要求、崇心に対して能く成し遂げんや。すなわち必ず上蒼の所有する教化の本意に符合せざるべからず。
必ず崇心の主事者および諸賢生を観て配合せしめ、能く最大の功用と目的とを了知せしむべし。これすなわち人類の自性、仏性を彰顯せしむるに在り。いかなる宗教派脈の所行持にも執持すべからず。よく融合して一と為すべし。これまた儒、道、釈の三教に対して統合せらるるに因るなり。皆各々其の利有り、また各々其の弊有ればなり。
「儒宗聖教」はすなわちこれを以て推演して乃ち真実性なるなり。諸賢生は應に人身の因って何より來るやを了知すべし。また此の身能く動き、能く行うは、人類に於ては一小周天の行運なり。如何にして此の小周天を発揮せんや。必ず自己の能く人世間に於ける一切の契機を掌握し得んやを観、如何にして成就せんやを為して、乃ち是正なるなり！
周天行運皆理則、道傳永承更妙德
禪心佛化必ず行ずべし、崇心大道真理澈
人類の所建構は、これ四大の仮合を以て、身軀の原動者と為るなり。最も主なるは人類の身軀の当中に在りて、必ず一個の「心」を具備せざるべからず。これすなわち所有の動能の源なるなり。此に因りて「心」は乃ち人肉の成す所なり！なお『念意識』の此の三者有りて、『起心、動念、入意、藏識』を貫連して延續せしむるなり。
亦在人身軀體之中、必具發動身軀、傳導主要之機能。又人心乃血肉所成、若欠原始投生之一點靈性、即「真如實性」之本體、必難有行步之條件。且靈性於先天之中、無任何分別、亦無任何不平等。
皆一體如是；投生之後、即挾前業之福運與禍殃以來、成此一生。當今之世衆生、可謂福報最勝、最為具足。然皆欠缺提昇自身「靈性」之道。此最大之因乃無明所致、皆蒙蔽而失回歸根本之資糧。
今衆生皆期盼仙仏之引渡、然彼等は早既に引渡回歸を完成せり、何ぞ崇心改めて設堂して引渡を為さんや。正に「自性自渡、佛不能渡」に因るが故なり。又血肉の心は、正に身軀を主導する必須の原動力にして、小周天を運行する最も主要なる關鍵點なり。
人類の軀體に組合せる「心、肝、脾、肺、腎」は、皆五臟の形成して組合せしものにして、肉眼を以て之を觀察すること難く、血肉に包まれたり。然れども、內在の肉軀の中に於て、若し之を個別に分開せば、實際の功用を有すること能わず。必ずこれらを悉く組合せざるべからず、一を欠くとも不可なり。
更に一個の靈性其の中に投入せざれば、方に肉身の潤合を有すべし。靈性とは、即ち前業の善悪の因果を挾帶して今生に投入するものなり。人類の軀體に於ては、二つの靈性同時に來りて佔有すること能はず。僅かに一個の靈性を投入するのみ、根本より同時に二つの靈性を擁有すること能はず。
自己の靈性全身を帶動して小周天を潤合す。人類の生存條件の應用中に在りて、最も根本なるを了知せざるべからず。如何にして此の一世の中に於て、自己の往昔の不善なる靈性を淨化し、承續する所の含因種子を改造すべきかを知らば、方に自己の身體肉軀の原動力の來源を促成すること能ふ。
正に自己の本來にして、靈性に由りて全體の自身肉軀を主導して、方に人世間の一切の因縁和合の主要機能に達すべし。是の如くや。信ずべし、每一人皆是の如し。一個の靈性加入して、方に活動力を有し、同時に亦『人』と名付けらるるなり。然らずば、即ち歿度『亡靈』となるのみ。
崇心宗脈天書を著す 人間古く著す所に非ず
創新の作法天音を揚ぐ 宇宙の奧祕を大いに闡述す
大道の系列來りて著作す 千古第一の者を開啟す
古今の大天機を掲げ、虚空無極の架構を明かにす。
往昔の全ての前因業果に就きて、如何なる過程も既に消逝せり。現今当下に在り、如何に改造してか真实性たらん。霊性の建构又如何なるを了知せん。これこそ真实性の自己本来体にして、即ち人体の活動力となり、又一切の生息の根本なり。然らずして本源に帰らんと欲せば、恐らくは成就し難きかな。之を盼む、之を盼む。
第二十一回 貪瞋痴の迷妄
大成至聖先師 孔夫子
1999年9月10日 己卯年八月一日（金）
元本無極より凡胎に降り、始めて大地の本霊の栽を開く。
天徳は私なく唯徳を輔け、大道を尊びて禅心を開く。
禅宗は仏学の宗脈に於いて言わば、是れ以て当頭棒喝を基準とし、必ず鋒利の根基有りて方能にこれを成就す。又鋒利の根器を以て、必ず多くの資糧を累積すべし。是れ一世世相循りて成就するなり。然れども根器鋒利の原本因由に於いては、道学の基礎、仏学の基礎を把り、両相応じて方能に成る所有り。
若し豊かなる資糧を欠缺し、又累世の中に相加えて成るとも、資糧の豊富を具備して如何ぞ鋒利の根器有らん。皆個人の愚鈍を受けて之を成す。故に禅宗の最も人を引人入迷せしむるは、「精簡の言詞」、「簡短にして明晰」に在り。用心して大自然の運行する所を体会すべし。
修持の方式を提昇するに当たり、如何にしてか「頓悟の展開」を了知せん。必ず多くの世を累積し相加え、又根器の良莠なる前提に於いて、往往にして必ず累世に豊かなる資糧の具足有るを観べし。即ち一世世相循る輪廻の中に於いて、自己の霊性を「鈍、愚」の分別に入れ、頓悟の資本を具足せるを区別せん。
「禅学」は仏家より賜りし名詞を以てす。若し道家を以てせば、必ずや其の根器を有すること難し。「道家」に於て成就せし経験の累積は、往々にして「禅学」の能く比擬する所に非ず。此の如く両相輔け、両相成就するは、必ず己が累世に於ける含蔵の資本を観て定論すべし。
漸悟：亦た現今の衆生は条件を具足すと雖も、正に過往の含蔵豊かならざる関係に由る。如何ぞ能く「頓悟」の条件を累積せん。漸く明悟の修持方式を展開し、能く天地の演化大愛と相応じて、芸芸の蒼生を成就せんとせば、即ち漸修に由りて天地の徳沢、人類の徳沢を明白にするなり。
修持に於て明悟の本質を累積し、一次次に反覆相循し、相互に輪廻し、過往の含因を「阿賴耶識」に累積して貯蔵す。漸悟の累積に対し、又一次次に展開し、人世に於ける因縁和合の相循るを了悟すれども、人々は常に生活と修持を両相背離せしむるなり。
亦た求法の過程に於て、往昔は郷里を離れ、井戸を背にして、「千里を行きて明師を訪ね、万理を求めて禅機を求む」るに非ざれば、成就する事能わず。又其の心念の組合を観て、能く頓悟の根本を成就せんや否やを問う。必ず諸般の考程と磨難を経て、方に呼応する事能い、而して必ずしも良善の収穫、受益有るに非ず。
亦た此のみに非ず、必ず己が所為を観て、能く上蒼の条件に合致して抉擇せんや否やを問う。即ち考磨と折難に由りて真章を見、方に「頓悟」の資本に於て成就を達すこと能う。然らずんば、能く按部就班して成長し、「漸悟」の提昇に到達せんとせば、亦た一つの良法なり。
禅学の修持は思想を転じ、成就の提昇は異なりて同じからず。
漸修は了って無明を成すべく、頓悟は必ず累資糧に依る。
前世の修為は今世に得て、衆生を観れば皆迷遮なるを。
漸悟頓悟千百回、回帰超越は道德に依る。
禅宗の万機は皆演化し、未だ明らかならざれば何ぞ能く昇華を起こさん。
人生累世の果を了悟し、開悟して性を見れば無始を把う。
此の偈なり！有情の衆生と共に相勉めん。禅宗にて修行の準備を為すにも、亦資糧位有るべし、然る後に実行の位階を促成すべし。現今の衆生の欠く所は、必ずや「無明を了る」に在り。毎次の漸悟に於いて、皆次次の頓悟に達するを得て、是れ多くの豊富な資糧を累積するなり。
未来に能く一にして再、再にして三と大徹大悟し、亦本心を明らかにし、本性を見、真如を彰げ、仏性を顕し、更に且つ自己に由りて成長すべし。僅かに一両度悟り明らかなるのみを以て、即ち沾沾自喜し、自ら已に開悟し明心見性せりと以為すは、是れ「真如を彰げ、仏性を顕す」に去る事尚遠し！
必ず次々に漸悟を累積して、方に一切の事務の展開を明瞭にすべし。又能く一にして再、再にして三、更に多くの頓悟を累積して、一切の事項の原本の根基を明瞭にするを得べし。是れ真に自性を明らかにし、自心を了るなり。即ち「明心見性」の基本条件にして、此の中に尚多くの細節有り。
若し僅かに数度の開悟に於いて、自ら明心見性に入ると以為さば、其れは真に己を「誤」り又人を「誤」るなり。正に得る所少なくして失う所多し。亦僅かに自己の無明に遮掩せられ、根本に真に成長提昇すること能わず。又人世間に於いては自己の「挙高・耀心」に影響せられ、方に成就すること能わず。
漸悟累積して頓悟の本と為し、千百回の中に初生の明を明らかにす。
明心見性は乃ち初基、無明沾喜は天意を誤る。
個人の明心本性を識るは、僅かに頓悟の基根を建つるのみ。
真如仏性の種を彰顕し、回帰超越して天乗に返る。
盼んに人生の一切を了知せんことを。何れの宗教派脈の我執も有るべからず。理応に一体是の如くして方に根本と為すべく、亦分別無し。人類の衆生に在りては、必ず三千次の小開悟有るべし、然る後に一次の大開悟を累積する機会を得ん。又三次の大開悟の成就を累積して、方に「一徳」有るを得ん。必ず此の関を了知して成長し、方に真正の開悟者と為すべし。然らざれば、必ず成就すること難し。切に記せよ！
第廿二回 人生価値観
南無大日如来仏
1999年9月14日 己卯年八月初五（二）
太上道祖天書を著し  道德天尊本殊を開く
直心成佛は人の本  大道仏心は鴻図を啟く
禅宗：最も主要なる作用は、正に直心なるや否や。必ずや此の「直」を一切の修持の範本と為すべし。蓋し「直」の闡述する所は、偏らず倚らざるの展現にして、甚だしくは直心能く一切の「虚妄心」を化除し、又直心は即ち人類の修持中に於いて、自らに潤合の動作を与うるなり。
是を以て人類の修持は因に本来造就せられ、如此の「直心」は一切の修持改造を成就すべし。若し偏有らば、即ち直を成す難し。直：又偏倚を化除し、亦直心に在るが故に、修持を経て一段の時を経て、修持中に在りて如何に了るを能く了知して、乃ち直心を顕現するなり。
「直心」は即ち修持者の最も欠く所の資源にして、常に「偏差」、「倚誤」の影響を受け、正に執著する所有り。「直心」は更に修持因本を規範と為して、乃ち真實性なり。又「直」は偏らず倚らず、更に中に居り、即ち中庸の云う所：一切の喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う！
中は偏悖せず、倚誤せず、亦直者に在りて乃ち彰顕し、如此の直心を以て修持と為すは、正に日常生活を道之組合に融入し、即ち修持の諸多の横逆を由りて化除するなり。蓋し「直」は中庸にして之を謂う！又「直」は即ち倚誤せず、偏悖せず、乃ち修持者に更に一層上りて成就を与うるを能くす。
亦「直心」に在りて往昔の錯誤思想を化除し、甚だしくは業因、業果の形成する所を化除すべし。「直心」は即ち道場、「直心」は自己を修め、「直心」は即ち天地間に共に遵う基本条件にして、直心は但に佛を成すのみならず、又「直心」を化して道と為し、聖賢と為し、菩薩と為すを能くす。
直心：必ずや道の本体と相融合し、道はすなわち一切自然の本体にして、一切有情衆生の基本潤合体を彰かにすべし。人類の衆生もまた修持を経て直心を成就す。なんぜんなれば、直心は「真心是正」を成就するのみならず、さらに「無心治妄」および「虛心感受」を化除する能えばなり。
これらは皆、各々の過程に於いて必要なる基本の観念なり。直心は必ず修持を通じ、一切成就の基となる要因を成立せしむべし。然れど大半の者は「直心」の基本観念に背き、殊に修持者に於いては然り。直心は道場を成し、道場は又、学習成長の基本的功用なり。
故に直心成らずんば、成就すること甚だ難し。若し禅宗の修行に直心を欠かば、頓悟の要に達すること罕なり。且つ「直心道場」は「個人の躯体」の中に在り、偏悖・倚誤の多きこと数知れず。又直心道場は即ち自己の身躯なれば、外縁に牽引されずんば、寧ろ怪しからん。
衆生は皆かくの如し、必ず横逆と挫折に遭逢して、始めて己が直心道体に欠けて障礙を成すや否やを了知すべし。己が成せる此の直心は、所作所為に由りて、横逆と挫折を現さん。如何にしてか之を化除せん。必ず個人の「直心」、身軀即ち道場にして、能く容纳して抉択する所を観ずべし。
直心道躯とは、即ち己れ自らが欠缺有るや否や、偏悖有るや否や、倚誤有るや否やを了知し得るや否やなり。皆己れが成し遂げし所を観て決定すべし。又人類衆生は即ち「直心道躯」の組合せに欠缺あるが故に、人世に於て「生住異滅」の組合せを経、人類生存の凡ての必要なる成長を顕現せしむるなり。
学習と成長の経験累積に由り、往々にして経験伝承に誤導せらる。偏悖と倚誤とを将て原因と為すは、即ちこれ「直心思想」の観念に欠くる由縁なり。焉んぞ直心の道体を得ん。況や直心の道場をや。甚だしきに至りては、直心如何にして成就し、以て超越の境に達するを得んや。
直心：必ずや往昔に学びし経験の過程を転化し、偏悖・倚誤の作為と観念を化除せん。業因・業果を転じて消除するのみならず、之を軽煙と化し、甚だしくは影も形も無く消逝せしむべし。また直心において更に真心を以て成就し、ここに始めて真心を成長に顕し、利益を受くべし。
若し唯だ真心のみ有って直心無ければ、必ずや虚妄の域に入るべし。且つ虚妄とは、即ち虚無飄渺の妄想観念の中に在り、誠に現今の衆生が転化し難き思想観念なり。如何にして直心を保ち、偏悖に受くることなく、倚誤に左右せられざらん。これこそ修持者の必ず把持すべき心態なれ。
直心は道場、直心は身軀、直心必ずや一切の修持因本を成就すべし。若し此の条件を欠かば、仙と成り、仏と成り、聖と成り、神と成り、菩薩と成らんと欲すとも、亦達するに至ること甚だ難し。直心は修持者に必要の基本的観念を与え、即ち一切の偏悖・倚誤を化除して、方に良善の成長あるべし。
いかなる聖、神、仙、仏、菩薩と雖も、皆直心を具えて方に成就すべし。深く思惟せば必ず了知すべし、「直心」とはすなわち「真心至誠」、「無心治妄」を転化せしむる基本の態度と観念にして、これすなわち正しくして真実なり。正道の修持によりて成長提昇あり、人類の衆生は必ずや此の具備を強めざるべからず。
直心は修持に存し、謬見を修整し、妄心を化除すべし。修持の者、皆妄心に左右せらるれば、無心を用いて対治すること能わず。故に真心、即ち真誠の心は、必ず衆生を成就して回帰超越せしめ、乃ち修持に真の受益を得ん。
直心成道は修持の本なり、訛謬を化除し業因を転ぜん。
偏悖倚誤皆非と為し、不偏不倚直心正し。
直心の道場は即ち身軀なり、何ぞ外在に求めて移転せんや。
心法色相皆迷蒙なり。直に了一切の心を棄離すべし。
業因を転化するには修持に依る、直心欠ければ滋養も難し。
成就して因本により本位に帰り、直心を超越して仙仏是れなり。
此の偈、有情衆生と相共に勉励すべし！必ず直心の道躯を以て己を成就し、並びに人類衆生を成就すべし。此の因縁条件は、亦「直心」の顕す所の原本を欠くに在るのみ。大部分の人類は修持の中に在りて、皆「直心」の基本元素を具足せざるに在るのみ。
第廿三回 生命の觀念
南無薬師如来仏
1999年9月17日 己卯年八月八日（金）
天に通ずる至誠、災劫を化し、教主の徳沢、衆業を潤す。
霊宝天尊、降りて書を著す。真心正にして悪消滅す。
有情衆生、若し修持の法を以て、潤生と両相結合すること能はざれば、常に自ら周囲に於て輪廻の制約に入り、又個人の業因・業果・業障に牽纏せらる。又常に反覆相循ずる作用の中に在りて、自ら転圜し難き困境に陥り、甚だしきはその束縛を受く。
人類衆生、正に修持と潤生とを脱節せしむ。此の作為は理応に両相結合するを正しいと為すべし。又何ぞ是の如くなるや。亦了知すること能はず。修持と潤生とは、即ち相互に背離すべからず！人類衆生、常に修持の為に、又生存の過程を脱離す。是れ千真万確の事実なり。
此の条件は即ち個人の作為に由り、修持は甚だ高超なりと為し、捉え難き迷障を形成す。又此の觀念有るが故に、潤生と相互に結合すること能はず。常に修持は高高として上に在り、潤生に対しては甚だ卑微なり、只だ温飽を得れば可なりと為し、必ず形而下の作為と変ずべし。
更に了知すること能はず。潤生は即ち「正統の大道」なり。又何ぞ修持と潤生と両相背離を形成するや。是れ「生活即ち道なり」、「修持亦道なり」を了知すること能はざるなり。即ち人類一人一人、無時無刻に皆潤生と修持とを為し、又如何なる環境、如何なる地点、如何なる時空と雖も、皆此の如し。
さもなくば、すでに修行と潤生の基本的範疇を逸脱し、往々にして「修行と潤生」の二つを乖離させてしまう。人間世におけるこのような生き方に対しては、誠にいかんともしがたいことである！そしてまさにそのいかんともしがたいがゆえに、修行において必ずや迷妄に陥り、いかに振る舞うことが正しい修行となるのか、ということが分からなくなってしまうのである。
実際、修持と潤生の規範は、必然的に多くの教条や戒律、そして生活の指針を増やすことになる。もし自らの潤生と修持において幼い頃から計画を立て、教育や文化を通じて取り組めば、修持と潤生をいかにすべきかを必ず理解できるはずだ。規範と戒律の中にあって、世間の人々に求められる規範と戒律の本質を正しく理解することが肝要なのである。
修行と衆生利益は一体にして真如の理にかなっており、さらにこの人世においては、必ず真心によって顕現され、衆生利益と修行において体証されねばならない。また、人類ならびに一切の有情衆生は、業因・業果・業障による報いを受け、それに牽纏されるが、真誠なる懺悔の心なくしては、自らの業因・業果・業障を化解し消滅させることはできないのである。
人類衆生：若し真心を以て懺悔すること能はざれば、則ち化解の目的に達すること甚だ難く、必ず衆生に報償の苦痛を受けしめ、更に業因・業果・業障の討伐を了知すること能はず。是れ正に自己の更に痛苦折磨を払ふべきにして、亦是れ更に厲しく、或る者は更に一、二十倍の苦磨に甚だし。
只だ討伐報償の為のみにして、若し嗔恨心報償を受けざれば、因果の法則も亦了脱し難し。人類衆生即ち因果討伐の当下に在りて、因果償還の可怕及び痛苦折磨を了知し、是れ正に何等の無可奈何なる事なるや。又報を受ける者に在りては、常に心甘んぜず、情願はざるなり。
業因・業果・業障の討伐に對する同時に、払ふ代價、何ぞ現今の芸々蒼生に體會し了知すること能はざらんや。是を以て真誠心の所爲、人世間に在りて、人に接し、世に處り、物に當たり、應對するに、必ず心態觀念を具ふべし。即ち他の人と怨恨を結ぶべからず。
上蒼と諸仙佛に祈求するに不拘、又は冤欠の討伐に面對するも、皆真誠心を用ふべし。是を以て真心を正とし、勇敢に一切の外在真實境地に面對すれば、即ち人生思想觀念を通じて、能く作為有り、又了知すべし。真心は正に所有の因果業障を化解する能ふなり。
又一切の業因・業果・業障の討伐に對し、最基本的要素と化解の效果は、即ち如何に真誠心を以て上蒼仙佛に面對し、災劫の化解を幫助せんか。在在に皆真誠心を具備し、仙佛の從中の調解を経て、能く業因・業果・業障を消弭して最低の程度に至らしむるなり。
須く了知すべし：修持と申すは、一顆の「真誠心」を保つに在り。而して此の「真誠心、即ち是れ真心」なり。偏らず倚らざれば、即ち正導の作用有らん。又直心は仏を成すべく、真心は正と為り、無心は貪慾を化し、虚心は更に謙実にして、一切の潤生と修持とは、必ず「方寸の地」を保ち、之をして汚染と垢穢と無からしむべし。
最も能く自己の所作所為を彰顯すと雖も、又外在の一切の色相に引誘せらるること無く、必ず修持と潤生と両相結合すべし。正に互いに背離すべからず。さもあらざれば、真心正と為ると雖も、必ず偏悖錯誤に陥らん。真実誠摯の心态の中に在りて、又如何にして真誠の心を導正すべきや。
自己の未来と当下とに於いて、如何にして行使すべきや。必ず能く「真誠心」を以て導正の主要目標と為し、自己に業因・業果・業障の牽纏と折磨とを転圜せしめ、必ず始終如一にして憾み無からしむべし。乃ち能く真に因果業障の牽纏と痛苦折磨とを化除すべし。
真心正と為るとは：即ち修持に必ず有るべきの功課なり。若し此の如き作為行使を欠かば、極めて成就に達すること難し。如何にして「真正の心态、正直行使を作る」べきや。是れ修持に於いて其の規範を偏離すべからず。修持と潤生との基本条件を作り、能く過去の訛謬を改變すべし。
真心正にして天機成り 人閒因縁真に殊勝なり
行爲の準則は正しうすべし、綱常倫理の道徳を伸ぶべし。
人に處りて正直にして私偏なく、學習成長して好縁を結ぶべし。
滿心歡喜して人の稱羨を受け、原來己れ能く滿圓を成す。
如何に己れの「方寸の地」を導引して、方に是れ真實なるや。然らずんば、若し修持を論ずるも、真心正しうすること能はず、如何ぞ修持潤生の當中に、成長と學習の成就を達せん。又潤生に対しては甚だ重要にして、心態の不平より生ずる局限を化除し、必ず「偏悖を化除して正中に居る」べし。
第廿四回 無常の観念
南無阿弥陀仏
1999年9月21日 己卯年八月十二日（二）
仏教の真理は生活を潤す 本師釈迦牟尼仏
正知無心、妄想を治む。衆生虚幻、自我を誤る。
世の人類や衆生は、皆自らの想念に左右される。修行においても生活においても同様であり、「虚幻」の観念に支配されるがゆえに、常に輪廻の巡環に縛られる。これは自らを虚幻の世界に没入させ、虚妄の所作によって「仮を真と認め」、常に迷妄の中にあって一切の行いを行うことなのである。
此の如き所為は、即ち業障の局限する所に在り、且つ常に輪廻相循ふの中に在りて、転圜し難きの境地に入り、則ち一にして再び、再にして三し、永遠に真理を日常の生活に用ゐて成就潤生すること難からしむ。これ正に衆生の迷妄する所にして、又輪廻相循ふ最主たる原因なり。
無心にして妄を治む。又此の「妄」とは、一切の不実なる思想観念を行使し、自らも亦た是を真実と為し、又一次次に是の如く為すべしと認めて行使するなり。然れども実相の世界に在りては、常に虚妄の境地に入り、幻想を造就すれば、即ち毎回輪廻の主要原因と成る。亦た此に在り。
人世間に就きて智慧有る者有り、能く此の如き局限と旋渦とを看清楚し、此の困境を跳脱せんと欲せば、必ず「妄を治むるは是れ無心」に在りて成就すべし。妄想の実相界に存在するは、正に真実虚仮ならざる存在界にして、又一切の「法相・色相」は皆外在に顕現する所に在りて、即ち一切の有為法と成るなり。
亦た心相の中に在りて成長し、一切の形相有る存在界に対し、若し天地・無極・虚空・宇宙の長遠と相互に比擬せば、則ち人類衆生は相当に渺小なることを顕はし、衆生をして了知すること能はざらしむ。天地の正理を以て行使し、生存の必需性に対して、然る後に受益有るべきなり。
虚妄の心态は、即ち現象界に在りて修持と潤生とを論ぜず、皆一体如是必ず有るべき現象なり。又妄心虚幻の中に在りて、一切の形有る「色相」と「色法」とに対し、根本として「心法」と相互に比擬すること能はず。甚だしきは「心・色両法」若し応用自如ならずんば、又如何にすべきや。
直心成佛・真心為正を用いては成し難く、必ずや虚心為謙・無心治妄を用いて成し遂ぐべし。若し虚幻に左右せらるるならば、根本として一切を開発すること能わず。無心に対しては、即ち分別・対錯・是非・正邪の無きにして、心所法なくして顕現するなり。
又一切は「無所為心」を以て要と為し、無為の心を以て、即ち天地の正心、宇宙の正心、無極の正心、虚空の正心とす。此の一切の無所の心、即ち「無心」なり！無心は妄を治め得、而して妄想は虚幻に入り、人生は此の如く為すによりて、乃ち生存の取向有り。
一切の有情修持者、若し此の無心に達すること能わざるならば、必ずや更に一層自己を成就し、及び一切の有情・芸芸の衆生を成就すること難し。又一切の聖神・仙仏・菩薩は、皆『直心・真心・無心』を通じて啓発せられ、更に「虚心」を用いて仙仏聖神等を成全し、超越提昇を為すべし。
必ず自ら人生の過程を体悟し、人類世界の全ての生存過程において、一切の有情・非情を成就提昇せしむ。無心の者は、此の心無きにあらず、即ち「無之無無心」にして、即ち「無之無無明」の障礙を破り、更に「本明」の境界に達するを得。
人類の生存に対しては多くの障礙存し、必ず無心を用いて人生の短促虚幻の過程を化除すべし。又虚幻の人生は正に妄心の展現する過程にして、妄心を化除すること能わざる時には、聖神・仙仏・菩薩の位階を成就せんと欲すれば、絶対にはなはだ困難なり、即ち難し！更に成就すること難し。
妄心迷癡に入り、化除せば智と成るべし。
了悟して正知に帰すれば、必ずや業を消し除くべし。
人生は常に無奈、すなわち如何ともし難きなり。また因因果果反覆相成り、衆生の生存の一切の因果循環を左右す。若し了知すること能わずんば、必ずや毎世の輪廻の中に於いて影響を受け、即ち智慧の提昇に制せらるべし。蓋し妄を治むる心無ければなり。妄想は即ち一切の生存の作為の障害なり。
言うべからず、此の現世は虚仮なりと。即ち是れ現象界の一切の虚幻妄想の心を、化作して因本を成就せしむるなり。若し修持一大段の路程にして、尚お執著して、潤生・修持・作功德とし、沾沾自喜して是れ修持者なりと為さば、即ち仙仏の笑う所と為り、又修持改造と成就とを達成し難からん。
虚幻妄想は迷癡なり、真実を了悟すれば業障除かる。
一切人生の真実の本は、唯だ此の心に在りて無知に蔽わるるのみ。
無心にて妄を治め真理を顕し、直心にて仏となりて天義を了る。
真心を以て正となすは天機なり、虚心謙懐は器となるべし。
能く一切衆生の輪廻の因本を了知す。これ求むる所あり、足らざる所あり、執著する觀念の中に在りて、既に固化せるなり。可否なるかな、「無の無無心」の中に在りて、能く天地の徳澤を演繹し、無極の徳澤を演繹し、虚空の徳澤を演繹し、宇宙の徳澤を演繹する過程の如何なるを了知せんや。
必ず能く人生の演繹の過程を了知し、必ず「無心にて妄想を治むる」の觀念を化除し、又自ら所作を觀て抉擇すべし。又衆生は妄心に執せらるるによりて、初めて一世世の反覆輪廻の主要原因を成す。盼くは能く妄心を治むるを了知し、「無心」を用いて必ずや人世間の全ての局限・障礙を化除せんことを。
第廿五回 白骨観念を悟る
##南無燃燈古仏
1999年9月24日 己卯年八月十五日（金）
大成至聖降り来たりたまう、先師夫子大道を行きたもう。
虚心にして謙るは人の本因なり、衆生を教化するは此に由りて進まん。
修持の者、宗教に入りて後、すなはち教育文化の課程に於て、過去の経験の累積を成就す。これ正に個人の修持の法を導引し、且つ修持の過程に於て、自らに成長の経験の累積あらしめんが爲、必ず真に「驕る心なく、傲る気なき」の所作に入るべし。
亦た「謙虚を懐となす」ことを要し、自ら真に教育・教化の資糧を累積して修持の導引となし、又学習者の教育・教化の過程に於て、体証する所あらしむべし。亦た「驕る心と傲る気」を存すべからず。「謙虚を懐となす」を以てするこそ、真の修持者の応に有すべき基本の態度なれ。
驕れば必ず敗れ、傲れば必ず墜つ。これ修持者の最も忌諱する本因なり。又驕傲すれば則ち他の人類衆生を軽視し、自ら高高上にあると爲て、衆生平等・修持平等・宗教平等・自性平等の規範を顕現すること能はず。すなはち敗墜の境地に入らん。これ自然の現象なり。
修持の者は、応に経論に飽くまで学び、豊富な累積を有し、智慧と経験に於て、まるで「稲穂は愈々飽満なるほど愈々頭を垂る」が如くすべし。この種の「謙れば必ず益あり、虚心なれば必ず器を成す」も、又謙虚の心に因りて、修持の者は学習の境地を抱持し、永遠に皆半瓶の水の心境を保つべし。
あらゆる事務、皆学習の過程に在り。まさに多聞・多看・多想・多慮・多精研に由るこそ、必ずや修持者を圓滿ならしめん。謙虚にして益を受くること、驕る者は必ず敗るることに於て、これは個人の心性の不良なる作為と因果の業障とに造らるる所にして、必ず大いなる關連性を有す。又まさに各人の心態のみに在るなり。
もしそのような振る舞いをなすならば、すでに造られた業因が形成される。他人に対しては、見下し、かつ傲慢な振る舞いであり、さらに、他者を見下す働きは、すべて「己を高め、心を誇示する」という不善な心の現れである。かかる状態にあっては、自らも「謙虚な心を抱く」ことができず、傲慢なる観念や心を化解することは極めて困難なのである！
修行、生計、商いなど世俗のあらゆる事柄において、人との交際や物事への対応のあり方は変わるべきではない。驕りは敗因であり、傲慢は墜落の源である。これはまさに己を制御できないからであり、修行者たる者は必ず確かな心構えを持たねばならない。また、真の修行者たる者は、必ず「謙虚を胸に」の心持ちをもって事に当たらねばならない。
他者を聖賢、仙仏、菩薩などと思いなし、自らを過失と罪業に満ちた者と見なすことによってこそ、謙虚な心を懐き、自らの成就の因となすのである。これは修行者の不善なる高慢心を抑えるものであり、必ずや多大なる成長と向上をもたらし、大きな超越をももたらすであろう。
謙虚にして益あり－謙虚かつ謙遜の心を持ち、下問を恥じず、他者を聖賢や菩薩と見なし、衆生は皆仏性を具えていると平等に接するならば、修行においていかなる時空や環境にあっても成就することができる。「自らを低くし、他者を高く仰ぐ」ことこそ、個人の真の修行において深い意味を有する。
自らのおごり高ぶる心を必ず払拭し、高慢な振る舞いを改めて、一切衆生を平等に観じなければならない。ゆえに衆生は皆、聖者、神、仙、仏、菩薩等と等しく、未来において必ず成道し、その目標に到達することができる。また、現在の衆生はたとえ今この目標に到達できなくとも、未来においては皆必ず成就することができるのである。
現在の私は、衆生を真の自己への回帰への導きとして、初めて真の利益を創造することができる。教育・教化の目標においても、未来において必ず自らが聖神、仙仏、菩薩の列に加わる姿を真に目の当たりにすることができるであろう。また、「謙虚は必ず益をもたらし、慢心は損を招く」という教えに関し、自己満足に陥った時には、しばしば自らを過大評価し、驕り高ぶってしまうものである。
此の作用は！まさに己の成就に通ずるものにして、謙譲より生ずべきなり。故に「謙卑を懐に抱く」「謙虚に教えを受ける」こそ、真の半瓶の水の行いにして、「半桶の水に響く」に非ず。必ずや「稲穂は満ちるほどに頭を垂る」に注解すべく、以て一人の習性・品德を観ば、即ち一目瞭然となるなり。
真の大徳者たるや、あるいは単に「半桶の水に響く」のみにあるかは、己れが謙卑に教えを受け、謙虚を懐に抱く能否にかかっている。是れ「虚心を謙となす」の最主たる効用なり。然れども当今の時代の宗教修持者は然らず、往往にして半桶の水を強いて注ぎ込む。必ずや満ちるは損を招き、損の中に破敗を見るなり。
己れ「徳無きにして大徳と称す」は、また仙仏に笑わるるなり！故に、虚心とはまさに虚懐若谷の心境に処するにして、すなわち天地の正気が直に心扉を透るを見て、自性体を啓いて基本と為す能うなり。虚心とは己れを謙卑受教に入れ、謙虚を懐に抱きて作らず、仮ならず、至真如性より行使するなり。
己れ由りて明白し得るべし、己れに幾ばくの条件あるや？若し一味に己れを膨張せしめば、如何にして衆生を率いて帰帰せしめんや？如何にして己れの本来体に対し、帰帰超越して虚空天界に入ること能わんや？是れ故に謙る者は益を受け、卑しく低下し、低声下気して、衆生の導引教化の課程と為して、これこそ真の实证なり！
若し満心自ら是りとせば、即ち自傲にして自満なり。而して更に上に追求すること能わず。何れよりして源々絶えざる資糧を得て、下化教育文化の課程と為さんや？自満に在りては、即ち精進の成就難く、また必ず超越難し。如何にして衆生を率いて真如を彰し、仏性を顕さんや？甚だ難し！
謙卑を懐に抱けば益を得、驕心傲気は必ず敗挫す。
修持して謙虚心を把持し、成就して衆生教化を徹くす。
真如本心の因を彰顕し、仏性清盈にして本明に帰す。
天機を了悟して真実の義を悟り、無極虚空に帰って行ず。
此の偈、有情衆生の霊子と相勉めん。学習成長の過程に於いて、「謙虚を懐き」、「虚心を謙とする」を把持して用うるこそ真実なり！乃ち「謙卑を懐く」は正に修持者に對して、必ず一顆の「虚心を謙とする」を保ちて爲すべく、真に益を受くるなり。
第二十六回 天地の恩に感謝し演繹する
南屏道濟古佛
1999年10月1日 己卯年八月二十二日（金）
大いに佛法を開きて衆生を啟き 日に天地を成して德澤深し
如来如去にして能く実際たり、仏曰く、貪瞋癡に迷い沈むと。
仏家、「三毒」を以て「貪・瞋・癡」を闡述す。仏家に於ける引用は、「貪」を不足と為すを以て、故に欲の取向を最も主要と為す。又、「貪」に存在する「向取」の行為の走向に因り、又「貪」は人類衆生の一切を欲求する所に在り、即ち「取向」を以て主要の機能と為すなり。
人類の世界に於て、若し「貪念」の存在なくんば、此の世界は既に停頓して進まず、又欠乏不足の環境に在り、不足なるは正に創進無きなり。必ず人類の要求する欲念に対して、即ち無尽蔵の創造と為し、源々として絶えざる所求の創造を存在せしめ、以て未来に「貪」の成因を獲得する作と為すなり。
人類の世界に於ける貪は、正に源々として絶えざる所求の創造なり。此の種力は一切の「取向」の動作を支持し、又「貪」を以て創造啓発の目標と為す。「貪」に在れば即ち存在の要因有り、又貪図して潤生の動作に在り。人類の世界に若し貪念の存在なくんば、何ぞ創進発展の有るを得んや。
人類の世界を綜観するに、貪慾の思想の追求する所為に対して、必ず創造と創進有るに非ざれば達成能わず。人類衆生の心態は「取向」有るに因り、即ち取向に於て成就発展の原動力と為る。此の如く必ず了知すべし：人類は即ち源々として絶えざる創造・創進を離るること能わざるなり。
此の絶えざる原動力は、正に「貪」の主要なる原因本なり。己が生存の安楽享受を貪求し、又通貨の具足を求むるが故に、潤生を基本要求となし、潤生を主要源泉と為す。生存の供給により源源として絶えざる安適の生存を得て、乃ち是れ如実性なり。
当今の科技文明の時代に在りて、生存は又通貨の具足によりて定まり、乃ち人類の思想と生存の安適性とを改造し得る。生活の必要に応じ貪念の欲求有り。此の「欲求」の具足する所に在りて、正に福報の厚薄の分別性なり。具足し得や否やは、福報に人為の因を加えて影響を及ぼすなり。
乃ち形成するは、己が生存の安適と思想観念とを成長と為し、有情衆生は皆貪求の欲念を為して生長し、又生存を以て主要の資糧を供給す。修持者に在りては又如何に為すや。修持は即ち己に要求し、規範を作して「戒律」に行使し、而して逾越すべからざるなり。
正に宗教の修持に入るに、必ず教派の規章、戒律、思想、経典、論を以て修持の依拠と為し、己をして後に改造と成就の因本に達せしむ。此の種は必ず宗教の派脈の戒律、及び経典の治理薫陶を通じ、又聖神、仙仏、菩薩の成就する所に由りて提昇するなり。
学習と行使：己をして步履追尋に入らしめ、是を以て「聖神、仙仏、菩薩」を学習の目標と模範と為し、既に成就したる道糧を追尋す。此の過程は修持者に對して一種の模倣の契機なり。未来の定位に對し、己に学習と成長の過程を与え、上に増長するなり。
如何にして目標に達すべきや。必ず人類衆生の大道を修持するに、如何なる所作によりて定まるかを観ずべし。必ず人類の生存の経験の累積に、經典の薫陶を加えてこそ、昇進を克く成し得ん。修持とは、正に知り難き未来の全てを求め、而して測り知れぬ変数の多く存するをば、求むるなり。
人類は正に此の如き所作により、知り難き変数に入るを与えらる。又全体の過程に於いて如何に学びて、成就に達し、聖神・仙仏・菩薩の位階に至るべきや。同じき道程の歩み有るや否やは、正に衆生の貪求に在り。後にして聖神・仙仏・菩薩を成就する主要の資糧と為るなり。此の如きは、咎むべきに非ず。
又上に上へと一層又一層、自ら達し得べき目標を追求すべし。正に人類の修持者と為る者は、必ず基本的条件と態度を具えざるべからず。又上に求めて因本を成就し資糧と化すは、人類衆生の貪求・慾念に符合す。此の如く上に上へと行ずれば、必ず未来に於いては克く達成し得べし。
貪図・慾念の追求と成就は、人類衆生の追求する目標に符合す。全ての宗教信仰と修持者に於いては、皆まず「大智・大慧」を具えたる者、或いは「真修実行者」たる者に在らざれば、聖神・仙仏・菩薩の脚程に符合すること能わず。然る後、目標と為して自ら上に上へと增長せしむべし。
後に於いては、必ず聖神・仙仏・菩薩の因本に符合し、能く一切の真に成就すべき位階を貪得べし。衆生に対しては之を成長と謂うべし。若し貪慾に対しては取るに足らざれば、又上に上へと行持し得んや、或いは下に墜落せんや。皆自ら聖神・仙仏・菩薩の位階に入らんと欲するや否やを観て決すべし。
貪心一たび起これば貧の字殻に陥り、実は求むる所多からず。
嗔恚と掛碍と自ら来りて擾し、嗔恨なれば福報また得難し。
癡心妄りに一切を欲し、迷戀執著して悪業を造る。
若し能く貪慾の念を減じ、足るを用ひば福徳隨ふ。
上蒼真理を普く傳ふる當中、崇心の諸賢生、未來に對し、能く成就の位階を貪圖し、基本の境界を超越するを貪圖し得るか。因りて必ずや成就を貪圖すべし、之を不善と説き得んや。尚た絶えず六道に輪廻する中に入らんや。是れ自ら抉擇を作すなり。能く明らむるか。
哈哈哈！大茶に上り、大茶（甘露）をば少し多分に貪らば、すなはち業障を消し、福慧を増さん。何ぞ楽しまざらん！
第廿七回 無極演繹
南海古佛
1999年10月5日 己卯年八月二十六日（火）
南無、無上佛を称讃す。薬師如来はこれ真我なり。
貪瞋癡の念、無明を起こす。化除して上に往けば、必ず超脱す。
人類衆生、貪慾によりて生存の環境に入る。正に潤生を行持の能力と為し、生存潤生の動作有らん。必ず「取向」の思想有って投ずることを得、方に「向取」を行使す。是れ創進の行為に由る。此の創進若し不動に停留せば、亦生存の空間を創発すること能わず。
是の故に創造、創進の步驟を作す。此の步驟に対し原動力を形成するは、即ち貪取の走向にして、亦「向取」の原動力なり。即ち「向取」に在りては、物種の創発に在って方に展開し、貪求の慾念有らん。又此の慾念の「取向」の中に在りては、必ず「向取」の潤合に存す。
潤合「向取」に在りては、「取向」を把って成就せしむ。人類の世界は必ず貪求の慾念を将て創発し、目地に達して行使せんと欲せば、即ち貪求の慾念の「取向」有らん。又貪求は必ず取向有って方に促成し、此の「向取」即ち嗔恚の慾念有し、即ち恚心「嗔」の中に運転して、必ず之に逆らうの取向有らん。
「取向」の中に存在し、又「向取」の事務を将て造就す。又嗔りて不動に在れば、即ち持恆の力量を生ずること難く、而して嗔りの動作は忿怒を把って顕現し、又忿怒は恚心の別の向取に因る。又恚心に在りて、若し取向無き時は、必ず恚心の中に存在して忿怒無けん。
恚の顯れは、忿怒を發散するなり。如何にしてか忿怒を消ぜん。嗔の動かす所により、忿怒を以て嗔恚の發散を平息せしむ。其實、眞の問題は、事を解決せしや否やなり。若し然らずして、尚ほ問題存すれば、發散する忿怒は必ずしも功效なく、只「情緒の反應」に過ぎざるなり。
「嗔」は衆生を凡塵に入らしむ。人類有情の世界に於て、人に生るるは即ち大なる福報なり。若し此の身の躯を珍惜せざれば、必ず輪廻の中に於て、反覆して自ら設けし罠に陥るのみ。此の種の嗔、己に在れば、即ち向上して智慧を求むる積累あること能はず。
能く己が資糧を滋潤せんと欲せば、必ず嗔の中に恚の念を存すべし。又恚心即ち忿怒の中に入れば、必ず火燒功德林を形成し、已に存すること能はず。此の種の火燒の忿怒は、功德を以て取向と為す。「取向」に対して「向取」無ければ、即ち功德の顯れ無く、何處よりか功德の謂れ有らんや。
嗔：衆生をして修持の境界に入らしむるに、かえって無修の衆生よりも更に固執して轉化すること能はず。其の形、宛如れも頑石の硬梆梆たるが如く、定めて扣扣たり。一點も軟化の跡無きのみならず、更に人間一種の笑諺「阿咑嘛控固力」と稱せらるるが如く、轉圜して修持の局限を轉ずること能はず。果して然るや。
嗔は己が固化に由りて致す所、甚だしく改變しがたし。己に於て、此の局限に入りて轉圜すること能わざるや否やを知らざるや。必ず己れ自ら嗔恚の心の在る處を了知し、又如何にして改進創造せんかを知らねば、即ち轉化と敎育の基本要求なり。多くの人有りて「此れを知るも、然れど行うこと難し」と。
己を嗔むること能うとは、即ち無量の智慧を求むる縁なく、源々として絶えざる資糧を具足せざること、正に己の要と否との分別なり！如何にして未来に対し、己に実際にこれらの成就を具えしめんや。正に早く有情の世界に化を下し、又修持者に条件と作為を具えしむるは、更に真実性なり。
己の不足を取向して嗔むるには、必ず己の不足を了知し、更に己の成就し得ず、超越し得ざるを嗔むれば、即ち輪廻相循うて左右せらるるなり。又人世間に於いて能く時々に己の不足を嗔むるには、必ず如実に創発する如くして、如何にして大乗菩薩行覚有情の境界と位階を行持せんや。
己の不足を嗔むるが故に、乃ち仙仏、聖神、菩薩の教化有りて成就せしむるなり。又己に「阿咑嘛控固力－頭殼相當硬」の障害有りて局限するや否や、乃ち真実性の提昇超越有り。是の故に人世間の修持は、必ず永遠に半桶水の学習成長を保つべく、必ず実際性有るべし。
即ち「聞思修」の過程に於いて、「思惟修」の菩薩境界に入り、更に甚だしくは「細思惟修」の仏果境界に入る。若し能く己の不足之處を嗔むること能わば、必ず上に大乗行者の源々として絶えざる福德と智慧を求め、乃ち上に大願力を追求することを具足するを得ん。
正に慾念に向いて取り、能く己の不足を嗔みて追求を作せば、真に天に代わって宣化し、天を體して道を行い、衆生を教化する資糧位に入り、更に能く実践行階に入る。乃ち是れ道を証し悟りて一切を了知する所にして、人類衆生の学習成長に対し、必ず一歩一歩来って達成すべし。
貪念化して業因を除き、半桶転化して豊盈に入る。
嗔心自己の不足を念じ、すなわち能く大乘の菩薩行を修めん。
貪心不足にして上に求め、己を嗔じて智慧の修め難きに逢う。
福德加添して更に豊厚となり、佛國淨土成就すべし。
修持の提昇に對し、即ち「聞思修」より「思惟修」に入り、更に「細思惟修」に入りて成長すべし。必ず按部就班して行持し、「禪宗」の要義を了知し明晰にすれば、即ち往後に於て自己の信心、願力、行持を建立する能わん！了知する能うや否や？
第二十八回 大虚空に正法を演ず
南海古仏
1999年10月8日 己卯年八月二十九日（金）
南無如来仏を称念し、阿弥陀経によりて自我を観ず。
癡心永恆に成就を得、仏化により貪瞋癡を了脱す。
仏教に曰く、癡は人類衆生に対する不善の顕現なり。癡迷にして転換能わずして成る。癡に於て若し持恆能わざれば、必ずや成就の目標に達すること難かるべし。此の理を必ず了知すべし。癡は一種の行動の原創の力なり。而して此の原創の力は、必ず持恆の力を藉りて継続し、始めて達するを得べし。
若し目的に達すること能わざる時は、必ずや持恆の力承続すること難かるべし。「持恆の力」に対しては、癡に一種の持続の力を信ずる有るを以て、持恆に對し正に創發の動力と爲し、始めて目的に達するの主要原因と爲す。癡の持恆に由りて、必ず後に成就し、又自己の未來に回歸するを得べし。
甚だしく超越せんが爲には、必ず「癡心」を化して持恆の力の創發と爲すべし。而して此の「持恆の力」は、人世間の一切の過程と作爲に對し、必ず有るべき心態なり。若し持恆の力の展現無くんば、勢ひ癡心の創發の力の開展に達すること難く、根本的に向外に成長すること甚だ難し。
有情の衆生は貪圖慾念の「癡心」の中に在りて、取向の目標と作して行使し、始めて向取して喜悅を得ることを有す。何れの環節の過程に在りても、人類の衆生は此の一種の動作の行使を具備す。「取向」に在りても亦「向取」の動作有るを必要とし、始めて癡心の持恆の力を有すること能ふ。
若し此の種の癡の力無くんば、必ず人類の世界に對し、一切の因縁の開展和合の力の創發に達すること難し。又癡行の一事に於て必ず「持恆の力」を具備することを要し、而して此の「持恆」の具備する所は、正に「癡」の一事の取向に於て始めて達するを得べし。
若し貪求の慾念無く、又は貪得の慾求の過程無くんば、即ち「癡心」の念無くして、人類世界の所有の因縁の組合せを展開せん。又人類世界に對しては「貪」の念頭無かるべからず。若し「貪」の慾無くんば、人類世界又何ぞ創造、創進の過程有らんや。
天地の演繹、人類の演繹、萬物衆生の演繹の過程、如何にして前に創造開発せんや。一切の事務の開展に對しては、必ず癡の實在性あるべし。又佛家、人類衆生に對しては、「癡心」を存ずべからずと要求す。貪圖の慾念の接續に對して、往昔の教化の方式は、皆斯くの如し。
現今は既に科技文明の時代に入り、一切の演繹の過程は、皆衆生に對して無盡の福祉を創造し、更に未來の有情人類世界を創造し、正に『宇宙生命開拓者』を繼起するなり。斯くの如き創造、創進の過程に對しては、必ず「癡心」の貪圖慾念を存じて行使すべし。
乃ち未來の衆生に對して、無盡の福祉を創造する過程と目標とに達するなり。若し尚宗教の藩籬に處して自ら制限を設け、且つ宗教信仰と修持する者、自ら謂く修持のみて目標に達し得んとし、生活の中に改造を加へざらんは、無異に幼稚教育の過程に在るのみ。
當今の宗教の主事者は、必ず以往の固執陳腐なる修持の觀念を打破し、人類世界の創造、創發の過程に於いて、加へて上進を貪求し、源々斷れざる大乘の理念及び智慧、並びに深厚なる福德を求むべし。以て芸芸の蒼生を下化し、衆の原靈子に佛性提昇と回歸との資糧を提供せんが爲なり。
下化を実践するにあたり備えるべきは、自らの帰還と超越の成否のためではなく、無数の蒼生、有情衆生のために、人類世界を創造し発展させ、次代を担う「宇宙生命開拓者」を育成することである！「癡」の心によって欲念を貪り行使したり、自らの不足を「瞋」ったりしてはならず、むしろ帰還の資糧を以て、さらに下化に邁進すべきである。
一片の痴心があってこそ、行願を持続する力を発揮し成就できるのであり、人類世界はまさに「宇宙生命」を継起し開拓する原動力を欠いている。そして仏国蓮華世界においては、必ず回帰した上でさらに超越しなければならず、また衆生も痴心による執持の力があるからこそ、持続する力を発揮して展開していくことができるのである。
「貪・瞋・癡」とは、仏教において説かれるように、自らが向上するか堕落するかという境目における選択を指す。もし上を目指して貪念を求めながら、今生において本来の境地に回帰することができるならば、それはむしろ自己の停滞に対する瞋恚ではないだろうか。もし善徳と福報という大いなる因縁を具足していなければ、癡心の持続する力に入って展開していく機会など、どうしてあり得ようか！
自ら成就を望むのか？それは甚だ難しい！了知せよ。貪欲の念に駆られ、さらには自らの未熟さを瞋り恨むならば、必ずや向上して真理の大道を求め、自らに成就への契機を与えねばならない。さもなければ、自らを殻に閉じ込め固着してしまっては、いかにして大いなる因縁の契機を得られようか。この様に「痴心を持って恒に持続する」ことによってこそ、真に目標に到達できるのである。
必ず了知せよ。上に向かって「形而上」の境地に昇るにせよ、下に向かって「形而下」の俗界に堕ちて沈淪するにせよ、自らを未だ半ばしか満たぬ器と見なし、謙虚に体験し学び取ることで、初めて他者の長所や見解を広く受け入れることができ、天地の真義を了知することもできる。さらには「形而上」の境地において成就し、本源を高め提升することを成し遂げねばならない。
かくのごとく説くならば、人間世界において、まさにこの一生のうちに、身心を転換し本源に回帰する準備を整えるのであり、来世での成就を期す必要はない。来世を当てにするのは痴心妄想に他ならず、真に頼るべきは恒常の精進力である。果たして成就できるだろうか。いかに方向を定め、いかに身心を転換し、いかにしてその境地に達すべきか。これらはすべて、自らが選択すべきことなのである！
成就の根本因は堅持に在り、一片の癡心こそ実真なり。
貪求の慾念に駆られて上へ上へと求め、嗔恨の心により己の成就を困難にする。
癡心を転じて更に精を求め、真に世に入りて有情を化すべし
貪嗔癡、迷悟の真理、沈淪と超越は己の行による。
人間における一切の事柄は、自らその責任を負わねばならない。いかなる聖神、仙仏、菩薩といえども、ただ人類の衆生に対し、教化し導くという過程にあるに過ぎない。すべての人為的な営みは、過去よりもさらなる大きな成長をもたらす。もしこの偈の涵義を悟ることができれば、必ずや所を得、必ずや境涯を超越するであろう。それらはすべて、まさにこの当下にあるのだ！
第廿九回 宇宙大演正
南屏道済古仏
1999年10月15日 己卯年九月七日（金）
心燈を燃して仏性を照らし、燈は億万に伝わりて永く尽きず。
貪瞋癡迷、迷思に化し、大道仏心、悟りて自ら醒む。
人類衆生、凡塵に在りて「貪念」を行ずるにより、遂に「瞋恚」の中に在りて、常に「癡迷」の段階に入る。これ即ち自ら物慾の享受を求めて足らざること及び生活環境の快適を求め、常に貪求して止むなきにより、自ら適可に止むべきや否やに区別を作るなり。
過度の物質・物慾を貪る同時に、必ず多くの罪孽悪業を造る。此の如く言えば、自ら転圜すること能わざる境地に入り、造業の中に於て、多くの困厄と横逆を増して阻ましむ。これ即ち人類の所為にして、常に一件の悪事を作りて、誠に奈何ともすべからざるなり。
自ら潤生の動作に於て瞋る。人類は潤生の動作有るが故に、又人世間に於て常に有る現象に在り。人類世界、潤生に向かう取向によりて、自ら因縁和合して原動力を展開することを得。自ら所有の不足に瞋るる能うや？自らに於ては如何なるべきや？如何に行使すべきか了知して能うや否や？
人類世界に於ては、自らの不足を以て他人と相互に比較し、以て自らの不足又は有余を了知し、又自らの所作所為に瞋る。これを「恚心」の主要なる源と謂う。故に「瞋恚」の心は、即ち人類世界相互に比較する主要なる原因なり。
己の不足を瞋り、能く己が不足の処に工夫を下さば、即ち能く過去の不足の処を改造すべし。若し一味に他人の成就を瞋らば、必ず不平等の心を生じ、而して他人を嫉妬せん。即ち己を瞋恚の悪因に陥らしめん。これ衆生の輪廻に下墜する障害の点なり。
必ずや瞋恚のうちに、先に累積せし功徳の果実を、功徳林を火焼する境地に陥れん。いかでかこれを熄めんや。まさに己が不足を瞋るによりて、能く上に昇りて行使すべし。若し能く此の如くんば、即ち瞋りの良善の表現なり。若し他人の成就を瞋らば、成長の契機に達すること能わず、これ甚だ困難なり。
更に己を良善の行使に向かわしむるは難く、かえって罪業を造る環境に陥らん。痴とは毎事の連貫性にして、一事の中に於いても、若し痴心一片なくんば、継続と持恒の力を現ずること甚だ難し。又人世間の事に於いては皆かくの如く、何人たりとも皆かくの如きなり。
若し痴心一片なくんば、継続と持恒の力を持続するは難く、又持恒の力こそ痴の本体にして、目的に達する主要の来因なり。此の種は衆生の世界に於いて、殊に宗教は常に「痴」を得べからざる心持ちと看做せど、実は何事に於いても皆痴迷に左右され、故に転化すること難し。
必ず「痴迷」に在りて、一切の事項の来因を明らかに視ること能わず。いかでか衆生の世界に於いて、痴迷によりて困窮を転圜すること能わざるを了知せんや。まさに事境・物境の来龍去脈を了知すること能わざるなり。即ち前人の伝延教導に因りて致す所にして、更に真如の本来を了知すること能わざるなり。
「癡」の如きは了知し難く、常に無明に左右され輪廻に局限せらる。「癡心」に対して必ず了知すべし。正に一切の力量の行使、主に接續して乃ち達至するを可とす。然らずんば、半途にして廃せば、是れ「癡」に対して定義を為す能わず。蓋し「癡」に在りて必ず能く永續持恆なるを要す。乃ち是れ「癡」の力道なり！
如何にして「癡心」より提昇することを了知せんや。正に「持恆の力量」を作して顕現す。若し半途にして廃せば、乃ち連貫すること能わず。又貪求の欲念若し過ぎんば、必ず「中道」に達至し難し。人類の世界は陰陽兩相對待の世界にして、得る有れば必ず失う有り、失う有れば必ず得る有り。是れ人世間の實際の理諦なり。
「貪」の中に在りて是の如く、「嗔」も亦た是の如く、「癡」も亦た是の如し。正に陰陽對待の世界にして、必ず持恆して中庸に達至することを要す。乃ち過と不及と無からしめん。貪求の欲念に與えて良善の行使を為さしめんや、是れ造惡の源より作して分別せんや。目的地の欲求する所に決す！
有情衆生、貪求の欲念の過程に在りて、皆一切の世相本體の如何なるを了知すること能わず。又人類の世界の如何なる環節に対しても了知すること能わず。皆貪求の過程に在りて乃ち創進の力量有り。平常の境に在りても亦た是の如く、又平常の境に在りては、皆既に習いて常と為す。
故に、自己造業と造福の中に入りて、乃ち一切の事務の真相を了知すること能わず。是れ平常の境の中に在りて行使するに即ち沾沾自喜し、自ら我は罪を造らず、我は惡を作らずと認むる心態と環境。此の種は容易に平常の境の陷阱に入る。又造惡と造福とは、是れ衆生比較的覺察し易きなり。
然るに平常の境に在りては、則ち己が過ち有るや否や、非有るや否や、又は是非の当中に在るや否や、覺察すること甚だ難し。宗教の修子、皆己が如く善良なるを謂うが故に、又平常の衆生も亦復如是、平常の境に在りて業を造り、罪を造るは、善と惡の是非に比ぶること遠く、覺察すること更に難し。
順境に對しては、誠に各々の衆生、皆その過程を好むが故に、即ち順境の中に在りて、己が所作所爲の經驗を累積す。又衆生に對しては、順境を好んで逆境を惡む。人類の衆生、若し永遠に順境に處することあらば、回帰して超越する人能くすること、寥々として幾ばくも無し。
逆境の刻苦耐勞と刻骨銘心の經驗は、衆生を反面より成就せしむるに、比較的容易に警惕し、更に逆増上縁の原動力たり。又衆生の追求する平順の環境は、然れども仙仏の論ずる所に在りては、逆境を以て智慧を増し經驗を累積し、己に達成すること能うは、反って良善の方面の機會教育なり。
衆生に嗔るは、即ち真理を學ぶこと能わざるなり。誠に仙仏・聖神・菩薩の「嗔心」、衆生の逆境に處するに困厄を化解し、苦を拔く慈悲を顯現作すなり。又人世間の一切の世相を了知すること能わざるが故に、乃ち己が追求する物質・物慾の享受に痴迷し、同時に罪を造り惡を造る深淵に陥るなり。
佛家云く、閻浮提の衆生、起心動念に在りて、因にあらざるは無く、業にあらざるは無く、罪にあらざるは無し。斯くの如く凡塵の衆生に在るに不拘、起心動念は皆善業と惡業とに左右されるが故に、善業と惡業とに在りては、比較的覺察し了知すること容易く、善惡の分別差誤性を感觸するなり。
然れども平常の業に在りて、行尸走肉の如く、安樂平順の過程を過ぐる余り、快適に過ぎて、此の種は易く罪を造り業を造る本来の因を形成せん。如何にしてか之を化除せんや。必ず反観自省すべし。儒家に曰く、一日に三省吾が身の過ち、是れ正道と為し、乃ち真實性なり。
癡の迷思：貪求の慾念と嗔恨の心を力と化し、更に癡して能く恆に持續せしめんとす。嗔心に對して若し持續すること能はざれば、必ず目的に達すること難し。是れ正に人類衆生に與えて「貪嗔癡」の本體原因と主要來源とを了知せしむるなり。別の角度より觀ることを得て、更に人性觀點の作用を剖析すべし。
貪求の慾念是れ本因、不足に嗔りて展び追尋す。
癡心持恆して目標に達し、迷思化除して能く相循ふ。
人生貪嗔癡を認知して、皆不好とても惡毒と謂ふ。
知らず正にこれ原動力なり、三毒を転化して大慧智と為す。
人類の世界に若し癡心無くんば、即ち愛慾の展現有ること難く、更に恒常の目的に達して行使を為すこと難し。衆生に対しては提昇なるや、下墜なるや、皆己が見解に由りて定まる。かくの如くんば、必ず「癡」の迷妄を了知し、如何にしてかこれを化除せん。願わくは「貪嗔癡」の行使の中に於て、その註解を明らかにせんことを！
第三十回 覚察と休歇
##虚空地母至尊
1999年10月19日 己卯年九月十一日（火）
南屏山前にして迷黎を度し、道濟理を闡めて真機を述ぶ。
古佛主として『仏心冊』を著し、人生価値觀念の依り所と為す。
人類衆生は「貪慾」の故に己が不足なる處に「嗔」を生じ、復た「癡心」一片に持續して入る。ここにおいて「人生價值觀念」を了知し、乃ち『貪慾・嗔心・癡迷』を持恆に展現し、一切の物質應用の觀念に向かひて、必ず價值の認定あるべし。
若し言ふべき價值無き時には、追尋すべき慾念亦無し。人生價值觀は、只日常の生活に於て追尋する物慾の呈現に應用し、價值觀念に対しては即ち貪求の慾念にして、必ず平均等值あるべし。人の世に生るるは、皆日常潤生の過程を以て、價值の多寡を定むれば、即ち價值の存否と為るなり。
人生には必ず存在の價值觀ありて、且つ等值の代價あり、人類に貪求の慾念を与へて持續的に追尋せしむ。貪求の取向の當中に若し價值觀無ければ、即ち追尋の慾念を貫徹すること能はず。又一切の事務の價值等量にして、同時に己れに價值の如何なるを明白にせしむるなり。
乃ち能く価値の本体に定位するを具足し、善く之を珍惜し或は摒棄し、己が認定の中に於て抉擇すべし。又一切の事務の認定の範囲、必ず恒に存在の価値を有するを要し、即ち目標と資糧を追求すべし。是れ人生を認定の過程に於て、存在の価値の有無を決断するなり。
正に保留し珍惜するの有無は、皆己が為す所に決定す。又存在の価値観を己が思考の観念に植入するは、即ち「阿賴耶識」の分判と薫習の過程なり。若し個人の需要を以て認定の標準と為さば、正に各人の原動力を追求し得るや否やにして、亦た価値観の取向なり。
人生の観念は、価値観を以て恒の中心目標と為す。人世に在りて若し既に存在の価値無くんば、如何にしてか目標を追求せん。而して何等の値を以て標準と為さん。即ち己が認定する知識の観念を以て、存在するか消失するやを分判するも、皆個人の存在する認定を依據と為すなり。
人生の価値観：一切の有情・非情の物種を問わず、皆同一なり。人類の認定する標準に對し、己が価値の有無を決定す。若し人類を吸引して追求せしむるを具足すること能わずんば、即ち恒に慾念を統合すること能わず。生存の価値観に對し、人類の価値の有無を決定するに由るなり。
一例を舉げん：鑽石は深山に產し、若し人類之を挖掘して出土せしめず、更に人工を經て琢磨を加ふるに非ずんば、能く光輝を展現し、人類に認定の価値觀を與ふること能わず。又他の萬物衆生に對して言わば、鑽石は根本より作用を起すこと能わず、又何の価値か有らん。只己が腹を満たすに如何すべきのみ。
人類の衆生すなはち、鑽石、金銀、銅器、白銀、通貨を以て、生存の世に要とし求むる所と為す。若し鑽石、金銀、銅器、通貨を他の物種に与ふるとき、又何の益と用とあらんや。皆難し。又腹を満たす能はず、反って一餐の豊饒なる食物に及ばざるは、更に実際なり。
人類の世界の価値観と、他の物種の価値観と、異なる所まさに此に在り。又人類の世界は「潤生」に在り、若し「修持」と両相結合すること能はずんば、存在する価値又如何にせん。正に潤生と修持と此の両者を、皆人類の必ず有する所と為し、上に推展し学習する目標と為すのみ。
価値観異なるが故に、修有る衆生と修無き衆生とに対し、認定する標準の価値は更に異なる。人類の衆生は認定する標準に於て、又自己が生存の取向を以て最も重要と為し、又自己は是の如く思えども、他人に於ては必ずしも是の如くならず。而して潤生の標準を以て、修持を創造し提昇するなり。
此の種はすなはち貪慾を以て追求し、一つとして実際に未来を了知すること能はず。若し目標に達し、能く回帰せば、是れ自ら求むる所にして、すなはち自ら造就する価値観の呈現して依拠と為す所なり。若し回帰の目標に達すること能はずんば、又価値観は根本として展開すること能はず、正に自ら業を造り、自ら来たって承受する所なり。
人類の世界すなはち存在の価値有り。若し過往の含因を改造せんと欲せば、必ず業因、業果、業障を化除し、又自ら回帰と超越の契機に入るべし。若し修持に於て含因を改造すること能わざれば、必ず人類の世界に回帰と超越と有ること難く、只だ次の世に再び六道の中に輪廻するのみ。
価値観念の異なる處、修有る者と修無き者と、認定する標準は即ち異なり、層次も亦異ならん。又認定は更に異なり、人類の世界と萬物の世界に於て、認定する標準亦異なり。貪慾の過程に於ては、即ち価値の不同を以て取向と作す事を、了知する要あり。
自ら己を改造する會、因因果果皆人爲なり。
価値観念を作追求し、化除して智慧の增長を推す。
人生の因縁來展開し、価値不同にして辦じ難し。
若し貪慾を論ずれば觀ずる處無く、僅かに個己に追隨して轉ずるのみ。
乃ち癡心一片にして為と目標とを成さんとし、貪念の主導する所に在りて、亦た価値観の転換に過ぎず。且つ人生の毎過程皆斯の如し。若し孩童の認定する所と成人の認定する所の標準を異にせば、如何にしてか貫き通さん。真に人生の観念、価値観の展現を了知するのみ。尚天地の観念の中に在りて、有情の世界を改造せんとす。
第三十一回 心を泯じて境を存す 心を存して境を泯ず
虛空驪山老母
1999年10月22日 己卯年九月十四日（金）
南贍部洲に天書を著し、海池の天地に永く伝駐す。
古德再び延びて教化を啟き、佛曰く、「生命の觀念殊なり」と。
人の世に生るるや、すなはち潤生の動作あり、常に多くの業因・業果・業障に遭ひて牽纏せらる。これ己が所作所為にして、前世と今生とを総合せしめ、また當世に於て往昔の因果によりて評判す。福報を享け、あるいは惡殃に遭ふや、皆己が福禍に由りて抉擇するなり。
若し是（か）くのごとく言はば、生命の過程を以て、前世の所作所為を受け、今生の所作所為を加へて、功果と業因の形成を評判す。ある人は常に福報を享け、ある人は常に惡殃に折磨せらる。業因の形成する所、是れ好しと惡しきとを問わず、必ず己が承擔し、己が業を消さざるべからず。
即ち己が福を享け償を受けるにより、何人も代はること能はず。此の條件は因果の法則の平等性に符合す。人類の生命の過程に於て、福禍の觀念を建立すべきは、正に己が業を造り福を造る分別にして、必ず己が承擔し領受するべし。また己が所作所為の甚だ公平なるを了知すべし。
必ず平等性の法則に入り、甚だしくは一切の因因果果、皆平等性なり。己が福を享け殃に遭ふは、また人類の生命に由りて取向とし、即ち各人の所作所為に由りて分判す。高官顯爵たりとも貧窮乞丐たりとも、皆平等の法則に在りて生活するなり。
平等性は、全ての業因・業果の形成を抹殺すること能はず。皆自ら先の所為により、皆自ら行ひ、又自ら改造してのみ化除すること可能なり。又、有情衆生に対するは一種の平等性にして、王侯将相たりとも貧窮庶民たりとも皆一体に如くす！生存の法則の公正平等を演繹するなり。
生命の価値観とは、すなはち累世の種種の不良なる積習及び含因を改造し、以て人類の生命を改造の過程と爲すなり。有情衆生に対し、若し此の身軀を具足すること能はざる時は、輪廻の渦中に陥り、必ずや軀体を具足して改造を作すこと難し。一切の過程に対しては自らを以て評判し改造すべし。
「生命の観念」は、軀体有るに建立在りて、乃ち改造を爲す能ふ。倘若し軀体無くんば、造業と造福の形成有る能はず。又、平等性の法則に於いて、如何なる有情衆生も皆かくの如くにして、人類世界にのみ在るに止まらず、尚ほ有情世界一切の物種衆生に及び、皆是くの如し。
生命の貴ぶべき処は、地獄に淪落せる種子に対し、亦た向上提昇して天堂に上るの資本と爲す能ふに在り。何れの原因に由りて致すや。先決の条件は必ず自ら身軀を具備して、乃ち機会を得べきにして、然らずんば、若し既に此の軀体を喪失せば、何れよりか機会を得て、潤生に入りて修持提昇超越を爲す能はむや。
修持とは：正に過去の不良なる積習及び「含因改造界」を改造するなり。若し下墜の循環に沈淪せば、已に上昇の契機を減ずるなり。若し下墜の種子因を把へ、再び向上提昇改造を経ば、即ち上昇に由りて再び超越し、乃ち仙仏・聖神・菩薩の行列に入る能ふなり。
生命の価値観：当今の人類の生存環境を論ずれば、古昔の帝王・公侯の生活に比し、之に過ぐるも及ばざるは無し。又、古時に具足せる神通法術は、当今の科技文明に幻化し、人類衆生に極めて大なる受益を成さん。これ又何の故ぞや。
古時の千里伝音は即ち当今の電伝視訊にして、現今の電話に比すれば遥かに勝れ、直接に顯像するなり。又、古の騰雲駕霧は即ち当今の飛機にして、甚だしきに至りては太空梭により直に月球・火星・金星に赴き、人類の種種の生活は、古の帝王に比し遥かに享受するものなり。
古は出門に轎に坐し馬に騎せしが、当今の人類の出門には機車と轎車とを代步となすにより、風に吹かれ雨に打たるる憂ひ無く、甚だしきに至りては冷煖の氣を吹き、及び動聽の音樂を享受す。種種一切実に枚擧に勝へず、一一に列擧し難く、亦昔時の空間に生存せしに比擬し難きものなり。
乾坤の兩造を問わず、皆能く大因縁・大福分を具足して己を成就し、提昇超越するものなり。必ず潤生の過程を了知すべし。即ち他の物種衆生の享受する福報に比し、遥かに完美に臻り、更に大なる福報を享受するものなり。これ即ち人類生命の価値の貴き處なり。
当今の時代に一種の無形なる殺手あり、即ち「壓力」なり。受くる所の迫害は無形無相なり。若し此の漩渦に陷入し、又真實性を了知せざれば、即ち「壓力」を化除すること甚だ難し。又此の人類生命の無形なる殺手に處し、当今の時代に在るは、人類の如何ともする所無き事なり。
「圧力」の紓解：必ずや己が負担を軽減すべし。己にていかでか一切の世相を明らかに視ることを得ん。己に在りては是れ一種の責任にして、又一種の貪求の欲念に駆られ、常に人類の無形の殺手を建立す。必ずや一切の世相に対して明晰にして了別し、貪求の欲念を起さず、過度に追求すべからず。
倘若れ是れ一種の責任なる時は、妨げず此の責任を、大家に与えて共に各種の責任を分擔し負責せしむべし。是れにて能く「圧力」の最主要的負担と改造を軽減せん。又「圧力の軽減」の摧残と迫害を去り、己に対して健康なる身心と、安適なる生存を得ん。
生命の価値観：必ずや修持提昇し、能く人生の真理を了知すべし。流に随ひ波に逐ひ、人の云ふに亦云ひ、人の迷ふに我迷ふ境界に入り、一切に対して迷々茫茫たり、又癡鈍にして一回行くのみにしては不可なり。更に人世間に於て诸多の悪因・悪果を造就し、自らを悪果の中に入らしむべからず。
若し人世間に来たらねば、即ち一切の過錯の造就と発生も無からん。然るに既に人世間に来りては、却て業因・業果を造就し、更に罪を造らば、悔ゆるも既に遅し。誠に得るもの失ふに償はず。大家説く、是の如くなるや否やと。又人類の提昇に対しては、正是れ「生命の価値」を創造し、向上し成長し超越するなり。
故に生命の価値に向き合うにあたっては、人類の世界に尽きることのない福祉を創造せねばならない。そうして初めて、未来において無量の福德を具え、後世の子孫に多大なる恵みを与え、その福徳が綿々と続いて尽きないことこそが正道なのである。それはまた、自らのこの一生に責任を持つことでもあり、そう努めることによってこそ、自己の向上と成長が叶うのである。
崇心の基本聖務はこれのみにとどまらず、まさに人類の継起する生命の永続を創造することを求め、さらには「宇宙生命の開拓者」を創り出すことでもある。いかにして崇心の聖命を了知し、これを実践し、潤合させて、人類の世界に称揚に値する偉大な一章の証しを残すことができるだろうか、了知したか。
生命の価値は変革にあり、人類の生存に福縁至る。
享受は古の帝王を遥かに凌ぎ、身を大切にしてこそ安穏なり。
己を成就し衆生を利益し、宇宙を創造し新たにして成ず。
無為の施しは皆己が造り、永く傳承して衆生に証せしむ。
この偈よ！皆が因本を高め、有情衆生の生命の価値観を転換させることこそ、人間世界において持つべき本来の態度である。
第三十二回 泯心泯境 存心存境
##崇心正主席 虚空上人
1999年10月29日 己卯年九月二十一日（金）
南海の主、仏心書を著し、古仏降来して普渡を揚ぐ。
無常観を主題とし、人生の本初を了知す。
有情衆生が人世間において経験する一切の事象は、まさに価値観を志向の目標とし、さらには生命の価値観が生存の主要な根源を決定づけるのである。生命を主題として価値が顕現され、そこに価値があるかどうか、そして生命を潤す資糧となるかどうかを了知し、多様な角度から区分し認定していくのである。
潤生組合においては、価値の「等価」という概念を了知し、それによって初めて成就が可能となる。価値を衡量の基準とし、生命の価値観に依って取向を定める。その目的は、人類の生活における「理想の創進」を生存の拠り所として確立することであり、生存の中に価値の「等価観」が存することを了知せねばならない。
さもなければ、人類の生存の目的を達成し、創造の原動力へと向き合うことは難しく、生存においては基本的な見解を持つことも必要となる。もし常に無明に妨げられ、人世における自らの経験との関わりがまだ充足していなければ、人生の経験を自らの手によって伝導することはできないのである。
尚お他人の経験の累積に藉りて、人世間の生存経験と作す。是れ即ち最主要的根本にして、平順安穩なる生存の空間を得ん。常には如何ともしがたきを知る。又いかに行持の過程に於て、自己と他人の経験の累積を化して、生存の潤合の挙動と作さしめ、乃ち生存の取向の依持する所を得んや。
然れども遺憾なるかな、常に無明の侵襲を受け成效彰しからず。また無明の顕現する所は、正に知識を化して智恵と為す也。人生に於いては、常に些少の利潤の為に、貪欲の念に動かされ、常に罪を造り業を造る。人生の中に無明を積み重ね、又変ずる能わざる也。
則ち常に了知すること能わざる過程に入り、或いは個人に於いて預期し難き効果に在り。若し理想に達すること能わずして修持に影響を及ぼさば、常に世相を預期し難きことを造り、如何ともし難き窘境に入る也！これ人類生存の世相に「無常の観念」を建立せざる影響に因る也。
又未来に於いて如何にしてか預期の目標を、自ら根本を掌握し得るものと化し、是れ真実性と為るを知らず！また「無常の法則」に対して必ず無常の観念を了知する要あり。これ人生に於ける一切の潤生の根本にして、無常の観念に於ける人類の一切の過程、皆「無常」に左右される也。
若し「無常の観念」を了知すること能わずんば、常に外在の要因に阻まれ、根本を建立して未来を預期すること能わず。人世間の衆生一人一人は、皆自ら未来の理想目標および美麗なる錦繡の前程を編み織る也。若し诸多の挫折と阻礙有らば、必ずや自己の未来目標を減ずる也。
一にして再、再にして三、甚だしきは其次を求め、一回一回人生の目標と未来の光明なる前程を減じ、又人世に於いて無常を了知すること能わず。これ正に四六時中人類の理想目標と光陰を侵蝕する也。如何なる衆生と雖も、無常何時に来たり、何時に人類の追求慾念を侵蝕せんを知ることは難し。
無常の阻みに遭ひ、次に生命の価値観により無常を了知し、人生の裏面より向上して智慧と経験の累積を追求すべし。かかる道こそ然るべきなり。無常の観念に於いては、人間世界の一切を潤合改造し、人間世界の裏面より衆生を成就するなり。
知るや知らずや、いづれの衆生か、出生より今日に至るまで、無常の左右と阻害を受けざりし者あらんや。皆無きなり。まさに一切の衆生ことごとくかくのごとし。人として生れ、あるいは有情・非情の動植物たる者は、皆無常に遭ひ、すなはち無常に侵食され左右されるなり。
人類の種種の行径に對し、必ず人類世界に於いては、裏面より上流に爭ふ動力を以てすべし。然る後にこそ、人類世界の源泉絶えざる、終わりなき福祉を展開し得ん。これこそ上天の演繹の過程に符するなり。人類の衆生、生命の取向の価値觀を建立せんと欲ば、必ず無常の中に註解を爲すべし。
無常を了知するは、すなはち四六時中、人類世界の一切の有情衆生を侵蝕し、いかなる物種も此の藩籬を脫るる能はざるを知るなり。無常の観念に對しては、人類世界、あるいは「動物と植物」の世界に於いて、必ず無常の「白骨観念」を建立すべし。殊に動物の世界に於いては、さらに然るべし。
人類世界に活動する動物の種類は、必ず無常の「白骨観念」を了知すべし。これ天地のすべての演化の過程に符するなり。古より今日に至るまで、人類世界の萬物蒼生、皆かくのごときなり。もし人類世界、あるいは動物世界、創進の本質を有せざれば、またいかんせん。
無常は天地に符合して悉く帰し、「白骨大地に返る法則」に於いて、又一切の作為は皆「無常」の法則に影響を受く。即ち自己の往後も又白骨一堆となり、大地に帰還して滋潤を受くべし。無常に於いて「白骨の観念」を建立するは、是れ必要なるなり。
雖云当今の時代、人類は「人の死後には焚化を用うべし」と勧め、方に大地の環保の理念に符合すと雖も、他の一切の物種の中に於いて、是れ亦能く一視同仁・一視平等ならんや？皆難きなり！如何にして白骨の観念に於いて、人類の更迭の過程を了知せば、即ち能く天地の循環・演化・変異を了知せん！
生命の価値は創造に在り、趨向の過程は天に帰るを善しとす。
衆生に造福して永に尽きざるは、乃ち是れ己が身を高く名を留むるなり。
演化の過程は是れ無常なり、恆常の中に於いて永恆を作す。
白骨の観念を建立し、迷思を化除して天機に乗ず
此の偈よ！衆生と共に之を勉めよ！即ち無常の観念を明白にすべし。生死の大事の相互に連なるを建立するなり。皆もまた然り、何人か倖免るべけん？皆これ無きなり！故に、一人一人必ずや此の観念を持つべし。臨時に仏の脚を抱くことなく、又方寸を乱さざらんためなり。然るべしや？
第卅三回 霊性世界
無極皇母大天尊
1999年11月2日 己卯年九月二十五日（二）
南屏真理一貫を渡す 道済古仏理煩わしからず
白骨の観念世機を展開す 仏心を弘揚し天に帰りて返る
心念意識より取向行使に入りしは、必ず貪求の欲念に促され、然る後に行動と作為を為すを得る。有情の衆生は皆、己に利益ある挙動の中に、人世に潤生添加と要求を為す。此の作用は即ち人類の世界に於いて、必ず取向の目標と空間を有すべきなり。
貪求の欲念を行使し、己に行持の原動力を与えれば、即ち貪欲の全体の訴求に分別を為す。又、一切の作為は正に己が行使する所にして、己が所作所為を以て継続と為す。即ち己が業因を造り、業果を己が承担するは、更に因果の法則の公正平等性に符合するなり。
己が所作所為に対しては、必ず己が領受し、甚だしくは己が全ての業因果報の償還及び受報を承担せざるべからず。如何なる人も之に代わるは難く、福と禍とを問わず同じく、皆己が招きし本来の事因にして、必ず己が全ての報償を承担するなり。
正に己が願い、又心甘情願して承受する所にして、亦己が因果の法則に入り、一切の作為も又取向に由りて行使と受報とを為す。即ち己が心甘情願なるは、亦人類の世界に於ける所有の作為の本能に在り、必ず己を以て未来の禍福の相等性と為さざるべからず。
倘若己が未来の行持を了知すること能わず、有情の世界に入るも、必ず「無常の観念」の循環を有す。後の人類又は物種の衆生に対し、皆白骨一堆と為りて大地に帰還せん。又人類の世界に必ず有るべき観念にして、無常の法則に由りて、更に無常の観念に入るなり。
必ず明悟せざるべからず。有情天地の演繹の過程は、「無常の観念」の中に在りて、「天地の徳澤と運転の無私」を明悟するなり。又如何なる聖神、仙仏等、又は人類の衆生、物種の衆生と雖も、皆必ず此の身躯を輪廻の中に抛棄し、天地に帰還せざるべからず。
遺留し得るは、僅かに身躯の内在する骨骸のみ、他は皆屍虫に侵食され、僅かに白骨一堆を残すのみ。若し当今の時代の環保の観念を以てせば、必ず火葬を用い、亦衛生の条件と存納の空間に符合すべし。若し土埋の方式を以てせば、必ず此の身躯を大地に帰還し得べし。
実のところ、僅かに白骨一堆を残すのみ、又何ぞ計較すべきや。数年を経て検骨し、又改めて罐に装め、或いは再び火葬を為す者も有らん。火葬後に残る所は、僅かに粉末の如きのみ、尚お肥料と為して大地の衆生を滋養し得べし。此れ即ち人類の衆生の了知し得べき観念なり。
此の種「白骨観」の中に於いて了知すべき必要は、身躯の全て皮肉に包まれ、尚お地の堅実性を具備し、以て骨骸の站立を支撐す。正是に皮肉の裹層に由りて方能て血水に流動性有らしめ、血水は人体の新陳代謝を促す主要功能效益なることなり。
血水皮膚の包裹を受け、必ず肉体の存在を具備す。肉体の存在に対しては、血水に風息の流動を加えて方能て火気を導引し、即ち此の身躯の肉体を温暖す。若し人体を解剖して殆ど尽くした後には、僅かに骨骸のみ存すれども、却って「霊性」の存在するを見ず。
骨骸の堅実は、是れ地の主体功能なり。主体有れば必ず附体有り。「地水火風」即ち四大假合なり。此の四大は一切活動し得る中に在り、如何なる物種も皆此の如し。「地の堅実性」、「火の温暖性」、「水の流動性」、「風の吹動性」に影響を受けるところなり。
四大を融合し、之を假結合体と謂う。然れども実相界中に於いて当下假体と謂うべきや？否なり！乃ち真实不虚の躯体なり。又当下正是に上昇と下墜の分界点なり。若し上昇せば必ず改造の資本を作すべし。若し此の假体を欠缺して「修持」成就すと謂わば、無異に木に縁りて魚を求むるなり。
白骨骨骸の形相：正是に一堆の恐怖驚憟の存在するを顕露す。世人皆懼れて「白骨骨骸」を談ぜずと謂う。然れども仏家の精神領域に於いては、真实世界に入りて了脱すと謂う。倘若白骨存在せざれば、其の人尚人世間に在り、或いは既に大地に帰還し、肥料と成りて大地を滋養するなり。
されど、白骨の存在を以て、既に過ぎ去りし人生を統合するのみにては、正に人類がかつて此の世に生れ来りしことのみを示すに過ぎず。いかにして上昇し成就せんや、あるいは堕落し沈淪せんや。皆白骨の骨骸の中に真実を見るなり。また白骨を見るに至りては、既に人世に生れ来て亡くなりしこと、いかんともしがたし。
白骨の存在：正に既に人世間を一回歩み来りしことを戒め、次回は再び人世間に来て潤合する良機あるや否や、必ず個人の因縁を観て決定すべし。いかなる潤合と為作も、白骨を以て終わりと為す。人世間の种种の行径はここに脚註を為し、結尾を為し、また人世間の一切に休止を劃するなり。
「白骨」は必ず了知せよ。形骸は人生の無常を体悟し得るものなり。生老病死と地水火風、四大の仮合は、僅に人類の懼るる物体に過ぎず。正にこれを以て戒めと為し、沈淪なり上昇なり、皆己の所作所為を知り得て、必ず明らかに「白骨」を以て戒めと為し、修整と為すべし。
近頃台疆の地に於いて、釈尊の歯を迎奉し、「仏歯」と謂う。万人空巷を成し、受くる礼遇尊敬は、尚釈尊への景仰と光栄のみに止まらず。また「仏歯」の迎奉によりて了知すべし、同じく人に生れ出でながら、いかにして仏歯は二千余載を流伝して壊れざるや。
「仏牙」もまた白骨の一つに過ぎず、白骨もまたただ肉体の和合に過ぎないことをどう理解すべきか。ならばなぜ「仏牙」は後世の人々から崇め讃えられるのに、私たち自身はそうではないのか。いかにして仏陀の精神を学び、この身に生を受けたことに応え、この一生において悟りを開くべきだろうか。
「白骨観」の示すところをしっかりと理解し、釈尊が遥か遠くにおられる方だなどと思ってはならない。実はすぐ身近におられるのである。人間たる衆生が自らの人生に豊かで輝かしい一章を刻むことができるかどうか、そして釈尊と同じように後世の人々から敬われることができるかどうか、それこそが正道なのである。
仏歯を奉迎し白骨の遺骸を、二千余年を経て今に至る。
万人巷を空にして斉しく景仰す、白骨の観念によりて自を裁つ。
輪廻を超脱して本源に帰り、世相を了脱して真理を明らかにし行ず。
無常観は世の迷いを啓き、白骨観の中に形骸積み重なる。
此の偈よ！一切の有情衆生と共に互いに励まし合おう。人の行いによりては成仏を成就し得るものである。自らの努力を軽んじて消極的になってはならぬ。むしろ精進して積極的に取り組まねばならぬ。聖典を活かし、自らを利益し超越へと至ることで、初めて真実の理諦の中に如実に安住し、本分を実践し、自らの本位を超越できるのである。理解できるだろうか。
第三十四回 実相世界
南無燃燈古佛
1999年11月5日 己卯年九月二十八日（金）
虚空人間を貫く一理、地母の徳沢は衆生の依る処。
至尊は降臨して仏心に宿り、天地の演繹に感謝を捧ぐ。
人類衆生がミレニアム以前に遭う様々な災厄は、まさに過去に造った業が今に至って果報を成熟させたものであり、この過程は個人の「私業」と衆生の「共業」とが相まって定められるものである。その目的は、個人と集団の共業によって成し遂げられ、天地の間に示現されて、必ず世人にミレニアム以前に警醒と懺悔を促さんとするものである。
天地の演化の過程に注釈を施すことではあるが、真の導きの目標は、人類に万物平等、衆生平等の心を持たせ、人類を最も高く、最も偉大な種族であると執着してはならず、また人類のみを依り所として서는ならないと導くことにある。すなわち、天地の演化がもたらす徳沢をもって、万物衆生への慈愛と保護を顕かにすることなのである。
人類をはじめ一切の衆生は天地の間で天の徳沢を蒙り、それを生命を潤し修行に励む規範としている。すなわち「ミレニアム」を迎える前に、人類衆生に降りかかる様々な災厄を化解し、それらは自ら償い、その果報を受けねばならない。その最も大きな理由は、まさに人類の世界がその因果の過程を了知し得ないことにある。そしてそこには「衆生平等」であることが必然とされているのである。
人類が万物の霊長に倚りて統御を作すと執視すべからず。背後には天地の諸聖神僊佛が人類衆生の為に清算を作し、正に自己の前業の定数にして、また当今の業果来りて完消するなり。人世間の業因、業果、業障の形成は、正に因果法則の定義に符合するなり。
天覆地載：是の故に有情の世界に生くる芸芸の蒼生は、必ず其の過程を了知すべし。人類の世界は常に人の勢を恃み、他の万物の蒼生に害を加う。是の故に天地は即ち災殃を降して頑輩を収拾し、以て世人を警惕す。生存の過程に於いて、自ら万物の霊長と為りて万物の衆生を残害すること勿かれ。
天地は徳沢を演繹し、常に善念を発して芸芸の蒼生を護佑し、以て輪廻の渦に陥ること無からしむ。これ人類世界の有情の衆生、必ず能く明晰なるべし。又天地は人類世界の災殃を警醒し、当今の世に災難の層出不窮なるを了知せしめ、其れ千禧年前のみに非ず。
更に千禧年の後には常に之を顕現せしめん、如何にしてか之を改めん。必ず人類世界の種種の行径作為を観察すべし。これ災殃を増し、又は災禍の降臨を減じて、世人を収拾し警醒せしむるなり。人類世界の芸芸の蒼生に対しては、自らを執視して万物の霊長と為りて高慢なること勿かれと警惕す。
天覆地載：人類を以て万物の高等種族の衆生と恃みて之を視ること勿れ。正に平等に一視し、仁愛に一視すべし。如何にしてか天地の徳沢を体悟し、芸芸の衆生をして皆天地に対せしめん。これ演繹するなり、無極、虚空、宇宙、大寰天地の一切三千大千世界の中の芸芸の蒼生。
太陽系：天地人類の生存する地球は、全体の銀河世界の星球の中の一小部分に過ぎず。若し他の星球の科技に比せば、人類世界の科技より千百倍も超越するなり。此の種の科技文明は、当今人類の思想觀念に於いて、甚だ其の原委と如何とを了知し難し。
天地の間の人類衆生、若し能く具えざれば、天地の観、無極の観、虚空の観、宇宙の観。又人類世界の狭隘なる空間に対して、ただ自己の横行霸道の生存を為すのみならば、自己は天地の間を了脱して生存すること能わず。是の故に、人類の眼光は必ず広大にし、心量は必ず無極ならざればなるまじ。
吾（師と為る）等、此の天地の間を掌管す。何ぞ「虚空」の名諱を冠せんと欲するや。是れ宏観の眼光を放ち、心胸を大ならしめんが為なり。無極、虚空、宇宙の演化の過程を問わず、此の天地の間、人類世界の生存環境に於いて、正に下世再輪廻の種子を改造し、能く上に提昇する所なり。
若し能く了知せば、無極、虚空、宇宙を乗越えて生存する方式を。必ず能く心胸を放寛し、更に多くの有情世界の芸芸衆生を容納すべし。此種の心胸広闊なるは、正に無極の演繹、虚空の演繹、宇宙の演繹の過程なり。必ず人類世界に於いて心胸を敞開し、更に広闊に提昇せざればなるまじ。
人類世界、此の天地の間に在りて、能く此の生存空間に符合す。無論此の世界に於いて如何に尊貴なりとも卑賤なりとも、皆天地の護佑する衆生の一つと為り、亦他の物種を軽視し、又は高慢に自己を標榜すべからず。此種の作爲は、自己に対して是れ上に提昇すること能わざる阻礙なり。
必ず了知せよ！人類世界天地の間に在りて、如何に天覆地載の徳沢に感恩し、又他の有情衆生の供給する食物の鎖、正に自己を犧牲して人類衆生を成全するを。人類世界に於いて此の過程を了知するは、即ち自己の『超越と下墜輪廻』の分界点を見極むるなり。
感恩有情天地一切の芸々衆生、皆是れ自己が同胞、自己が同類の物種なり。理に應じて彼此を分かたず、皆天地の眷顧する所とす。亦た仁徳を顯はし、更に芸々衆生に對し長養愛護の責任と徳澤とを有す。亦た天地の徳澤に學び、相互に應用し、相輔相成す。
今日台疆に發生する災殃、即ち大地震は、正に上天より中土台疆の炎黃子孫に警醒を下すなり。必ず了知せよ。特に此の千禧年の前後に在りては、更に小心せよ。如是なれば必ず改變すべし。決して人類の科技に倚りて、他の萬物衆生を欺侮すべからず。此の種は人世界の種種の災殃を突顯するなり。
感恩天地の演繹、有情衆生共に存在す。
和順に此の世界に生長し、相互に串連し大愛を行ず。
演繹の徳澤福報深し、萬物蒼生は本より真なり。
人種を分かたず衆万霊  必ず超越來りて提昇すべし
必ず改造して帰還の資糧とし、更に実行の位階に入りて、是れ真实性なり。此の度の災殃に警醒すは、天地の仁慈ならざるに在らず。乃ち私業と共業とに由りて形成せられ、「天能く奈何せん！地能く奈何せん！又人類能く奈何せん！」と。台疆の衆生に教化の因本を作し、天地の演繹過程の如何なるを対す。
又天地の序ならざるを以て、人類の收拾に対しては、正是に人類の所作所為より更に恐るべし！天地の人類に対する反撲、其の全ての造悪は、皆因果循環に由りて災殃を形成するを了知せんことを望む！
第卅五回 心法色法
南無大日如来仏
驪歌初唱して台疆に殃い  山形移位して衆生障る
老者少者皆厄を受け  母心無極に演繹詳らかなり
天地の演化過程は、人類の褔禍に由りて導引す。台疆に於いて能く道気を以て人道世界に充塞せしむるは、正是に中土炎黄の子孫の促成せるなり。而今正是に上蒼の警醒災殃変化に在り。此の天際同時に、芸芸の衆生に天地の演繹を了知せしめ、更に人間の一切に勝らしむべし。
人定勝天：亦た天の容許する所に由りて方能て之を致す。果若し天地の不容なるに、而して人類の天に勝つと謂わば、乃ち謬論なり！当今の時代の衆生、正是に古往の天地中「三十六天罡」、「七十二地煞」の幻化せる世界に処る。人類の倚靠する所：正是に上蒼の褔澤人世間に降るなり。
衆生に対して長養教育の責任を促成し、又当今の時代の芸芸衆生、尤も人類世界は絶対人の勢を倚て、他の万物蒼生に強加して迫害すべからず。逆に言えば：人類世界の一切有情、非情の物種衆生を把えて、皆能く保護眷顧し、其の欣欣向栄して懼れる所無からしむるなり。
能く相互に此の人世界空間の中に共存し、是れ天地の演繹の扮演する角色を基準とす。衆生に対して能く平等に之を視、平等に愛顧す。又人類世界の常他の弱小動物を欺侮侵害するに由り、又上蒼の演繹の促成せる業殃果報は、端視人類の種種行径に由りて抉択するなり。
天地の演繹：必ず能く天地の徳澤を彰顕す。天地の展現する所は正是に相対平等の生存、相互に人類世界に待遇す。故に、純一の演化過程能有ること無く、正是に太極の演繹する過程に在り、純一に回復すること能わざるなり。
太極に在りて正是に両相対待の世界、「純一」の境界を具備すること能わず。正是に相互対待に左右せらるるなり。「純一」に在りて正是に超越了なり。又「普渡収円」の段階に在りて、全ての「収円体系」より入り、更に高一層の成長提昇す。即ち是れ「帰還超越」なり。
三曹普渡収円、必ず能く原来の○（円）に回復すべし。此の○（円）は乃ち自己を圓滿するなり。僅かに原霊を収帰するのみに在らず、必ず先に自己を圓滿し、然る後に能く衆生の帰還超越を圓滿す。正是に衆原霊の子の必要の有する責任と使命なり。亦た成長超越の有るなり。
無極演繹の過程：凡そ原霊の子たる者、その本質は皆無極より出で、無極の演繹はすなはち帰還の準備を為すなり。また帰還の途上にあっては、常に己が無明に障げらる。これすなはち「原霊を収帰」する本位の下に在りて、まさに昇進帰還の準備を為すなり。
一貫の系統の演ずる役割は、普く渡し円を収めて帰還の準備を為すに在り。無極の演繹するところ正に此の如し。母娘の系統、慈恵の系統、天道の系統、及び関連の一切の系統に在りて皆此の如し。特に原霊を収帰するに在りては、一貫天道に在りて最も成績有り、甚だしきに至りては実質の効を奏す。
必ず一以て之を貫き、之を真道と謂う。天道の系統に対しては、必ず詳らかに了知するを要す。これは僅だ「原霊収帰」に先立ち、回帰の備えを為すのみにして、即ち本来の位境を超越すること能わざるなり。又現在も亦「普渡収円」の行に在るのみ、提昇超越、回帰の行あること甚だ難し。
上蒼の演繹する過程は、是れ新法を掌りて人間に定着せしむるなり。如今必ず「母娘系統、懿敕道脈」を以て、崇心依帰と為すは、正に原霊を引導して回帰の資糧と為さしめ、「大乗菩薩行」の覚有情の境界に入り、直ちに蓮花仏国の浄土に入らしむれば、即ち更に超越せる境界と位階を有するなり。
無極演繹の同時に、当下に崇心道脈に入り能い、甚だしきは已に大乗菩薩行の覚有情の境界に入り、更に蓮花仏国の浄土に入って、更に超越せる境界と位階を為す。又無極演繹の同時に、即ち当下に崇心道脈に入るは、未来の「真仏心宗」に対して、崇心を根基と為すなり。
大道演化の精髓、下に有情の世界に化して、芸芸の蒼生皆真理を暢達して帰本せしめん。是の故に崇心の道務は尋常ならず。此れ乃ち上蒼、諸賢児等の七年の歳月に顕わしし堅志を観視して致す所にして、崇心の道務全体の発展を了知せしむるなり。
最も不如意の過程に処し、又接済と資糧を全く欠く中より提昇し推廣す。上蒼の御心に叶うは此れを依拠とし、且つ主事者及び諸賢児等の心を観視して篩選す。必ずや未来に真章を見ん。崇心の「大道系列天書」を以て弘揚せんとす。
能く未来の有情衆生を成就し、自己の霊性を提昇し、上に昇華するに当たりては、必ず了知すべし。無極の演繹たる「大道先鋒部隊」と為り、更に虚空天界を創造し、帰本して実位の階級と境界を超越せん。必ず諸賢児に厳しく配合を要求す。果して篩選を脱して崇心の道脈を離るるあらば、奈何せん。
若し「真仏心宗」に背き、後また弥勒浄土に入りて「唯識の理論・観念・行径」を修めんと欲ば、必ずや殊勝の当下に能く直ちに無極の理天を超越し、更に虚空天界に入りて乗越すことを得じ。正に現今の当下に真章を見るべし。此の種の機縁は誠に得難くして殊勝なり。
「弥勒浄土」を悟るには、龍華三会を待って初めて己の成長を促すことができるのであり、それには極めて長い歳月を要する。一方、崇心は龍華三会を超えて直ちに蓮華仏国へと至る最良の証しであり、また現下において真に回帰し、超越し、円満し、乗越するという、この四つの行を成就するものである。
「真仏心宗」は、禅宗の根本理論を基盤とし、顕密両宗の展開を取り入れ、唯識宗の様々な行法と道家の精髄たる著作を融合して成り立っています。それは巻を重ねて途切れることなく、各巻が「大道シリーズ天書」と連動し、未来の一切の有情衆生を向上させ、超越へと導くものです。
自らの所作をもって大乗菩薩行に入り、有情世界の一切衆生に目覚めることは、まさに菩薩位および仏国の境界そのものである。したがって、「弥勒浄土」を超越し、そもそも再び人間世界に降りて試練と鍛錬を受ける必要など全くない。これこそが崇心が担う役割であり、自らの努力のいかんを省みて、まさにそれを決定しなければならないのである！
天地は衆生霊を演繹し、本源回帰の資糧は必ず明らかにせねばならない。
備え豊かにして礙げなく、本位を超越して更に心を理む。
真仏心宗、崇心を演ず。禅宗顕密、皆これ本心。
仏国に入り蓮華の身となり、虚空天界自ずから相迎う。
この偈を、有情なる衆生の霊児たちよ、共に互いに励まし合おう！著書の本来の意図を理解することができれば、必ずや未来の聖務について深い体得を得るであろう。「真仏心宗」を推進し弘揚することができるのは、まさに新しい宗脈が設立され、天上の仙仏が直々に降臨して教育と教化の契機を与えてくださるからこそ、真に実態に即した弘揚と推進が可能となるのである。
第卅六回 儒宗聖教 真仏心宗
◆ 旨 ◆
完書繳旨
1999年11月16日 己卯年十月九日（火）
◆ 跋・讃賀 ◆
讚賀、頌、序言
##南無薬師如来
大道仏心、真を弘揚す。皇母親臨、崇心成ず。
虔恭に列を成し聖駕を迎え奉り、威儀を失わず真誠の礼を尽くせ。
今夜、大道仏心にて無極皇母が親臨されご著作される。神人らならびに無極大道院霊修院士一同は、列を正して御駕を待ち受けよ。決して失儀あってはならず、騒ぎ立てることも固く禁ずる！
跋、凡例
讚賀、頌、序言
南無本師釈迦牟尼仏
無極、衆生霊を開演し、虚空天界、来りて相迎ふ。
皇母娘娘親り降臨し 大道仏心正新を演ず
衆原霊児の凡塵に生存する種種の行径、超凡入聖の列に入らんと欲せば、必ず往古の業因、業果、業障を化除し完消せしめざるべからず。また衆霊児自ら之を為すべく、必ず心念意識の本體を以て、凡塵に在りて修持と潤生とを為すに當り、兩者皆同時に並進せしめざるべからず。
乃ち自ら業識種子因を改造する過程を提昇し、自ら其の責を負ひ、再び生死に流浪することなく、六道輪廻の循環を提昇轉化することを得ん。斯くのごときれば、亦自ら改造し能ふて、初めて往古の業因、業果の形成せる所を化除することを得ん。これ当今の世代の衆霊児等の責任なり。
浩瀚なる宇宙、大虛空は正に一切の演繹の總樞紐にして、演繹の過程に由りて真正の行持を導引す。無極或は虛空を超越の資本と為すを問わず、覺悟有情の世界に入る衆霊児は、自ら對して成就すべき原動力の一分を具え、自ら成長超越せしむる資とす。
崇心の道脈、天獨り厚きを得る根本の原因は、演繹の過程を導引して目的と名項とを彰顯するに在り。又大千三千の世界に對し、即ち大虛空演正を以て人世間改造の範本と為し、此れに由りて乘越に入り、往古の過程と不良の積習とを化除改造す。
「無極」の境に入ること、既に難し。況んや「虚空」の天界に入らんことを。人類の衆生、凡塵の種種の俗事に礙げられ、霊性の向上を牽絆せらるれば、往古の不良の含因を転ずること能わず、況んや超越を為さんをや。
上蒼の宗教を垂るる本意は、正に国家の法律制度と社会教育の不足を補ふに在り。又当今の世に在りて、各宗教の派脈は皆「三曹普渡」を標榜して己を成就せんとす。上蒼の一切の宗教派脈を演化し、天命と責任を行使し、各教派に責任と使命を賦与するに対し。
己が衆の原霊の本質と契機を引接せしめんがためなり。各宗教の派脈、皆「唯我独尊」の垢穢の思想を掲げ、他の宗教派脈の教化の功能と責任を貶む。人世の間、必ず衆霊児皆平等にして、宗教亦平等、修持亦平等なることを了知せしめんがためなり。
我を最高、最大、最殊勝と執視すべからずとの観念、又ただ己の能く超越回帰するのみに在りて、他は皆実質の効能を有すること能わず、回帰超越の契機を提供すること能わずとは、此れ謬論なり。当今の世に若し往昔の陳腐の思想と観念を打破すること能わざれば、則ち向上増長提昇すること難し。
若し一味に自から思ふに、唯我が信仰する宗教のみ絶対的に昇進し得て、他は皆非なりと思ふ思想観念あらば、又己が回帰するに当たり、既に最も重大にして赦されざる錯誤の観念と所作とを一筆記されん。天下の全ての宗教は、皆上天の演化する所にして、同時に各々異なる教化の機能を有するなり。
己が信仰する宗教に向かひて、護持し擁戴する信仰は千真万確にして、外来の侵侮を受けしめず、如何にして己が宗教を発揚せんや。己が信仰する宗教に対し、一種の執持の力量にして弘展せしむるは、正に信仰の促成する原動力にして、必ず甘願して行ひ、歓喜して施し、高興して為さざるべからず。
此の如く自己の宗教派脈を擁護するに当たり、他の宗教に対しても高低の層次の教化を論はず、皆分別心を持つべからず。批判、欺侮、軽視、毀謗の作為を持つべからず。若し此の如き作為を為さば、即ち自ら向上して昇進すること能はず、更に未来に回帰すること能はざる原因を種下すこととなるなり。
此の種は即ち大なる分別心有り。若し他の宗教を毀謗し、甚だしきに至りては他の宗教を欺侮し、又その教化の機能を抹殺せば、此の如く観るに、「自己の父母親のみが父母にして、他の父母親は即ち父母に非ず」と。これ正に衆霊兒の分別心に牽引せらるる所にして、天地の頒定する公平の律法を容納すること能はざるなり。
此の如く、人世間に在りて如何に深き功德有り、或は如何に多くの霊兒を広く度すと雖も、即ち自己の含因の本質に於いては、他の宗教の優點を容納すること能はず。如何にして能く上昇して、無極天界、極楽世界、虚空天界に至り、他の仙仏と相融け合ふことを得んや。甚だ難し！必ず分別心無かりて後に能く融合するなり。
根本は己が悪因を植え、以て己を永遠に転回すること能わざる過誤と空間に入らしむるに在り。広く当今の冥府の世界を観るに、亦此の種の宗教の修行者多く在り。ただ凡塵に於て功德甚だ高大にして、又己の能く独り一面に当たり、衆霊児を教導して回帰せしむるのみ。此れは誠に嘆賞に値するかな。
本来天界に於いて殊勝なる果位を得べきはずなりしが、「善因の中に悪業を造る」が故に、功果徳性いかに高超なりとも、天界に容納せられ難く、又他の聖神、仙仏、菩薩等と相互に融合し、相助け集まりて共に大道の主理と演化の過程と為すこと難し。
これ当今の時代の衆霊児の最も犯し易き毛病なり。分別心無きをもってこそ、大寰の各天界に存在するものと融合し得るなり。此の如き不公正なる分別心を持つべからず。これ大寰天界に融合して存在すること甚だ難し。又人世間に於いても広大なる心を持てずして、いかに天界に融合せんや。甚だ難き哉！
虚空に正を演ずると同時に、天界の聖神、仙仏、菩薩は、まさに高低のいかなる分別も無く、またいかなる宗教の分別も無し。上天より五教を下し万教斉発し、衆霊児を導引して帰源せしむ。天界の層次には高低の分別ありと雖も、果位の高き者は、根本としていかなる分別心も皆無なり。
非だ時常に後進の聖神、仙仏、菩薩を提攜するのみならず、又自ら仙仏の修持層次の提昇と改造を作りて、乃ち無極の演繹過程より大虚空の演正に入り得る。是を以て崇心の著作せる「大道系列天書」は、有情世界の芸々たる衆霊児を下化して、成長超越せしむるなり。
自ら信仰する宗教を高く視ること勿れ。理応に宗教に於いて護持を為し、更に他の宗教の教化機能を相互に尊重してこそ、宗教平等、修持平等、衆霊児亦平等なり。さすれば歿度之後、自らの垢穢なる思想「唯我独尊」に戕害せられ、地獄の種子に墜ちる悲哀を免れ得ん。
大虚空演正：無極の頒て給う定律則を超越し、自ら回帰の資糧に依りて下化の実践行階を為す。又崇心「大道系列天書」に著作するは証と為し、同時に所有の実質帰返の契機と本質を主理し、即ち虚空演正の最大の目的なり。
大宇宙浩瀚の世界、虚空広汎にして、凡塵の衆生霊児能く天界を了知するに非ず。虚空演正の確実実在に対しても、又人道世界に下化する事甚だ少なく、正に機縁不同の成就せる所なり。当今の世代、既に無極に在りて資本を完備し、提昇超越、圓滿乗越を為すを得。
人世間に在りて、又唯我独尊の垢穢思想に因り、自己の修行成就を敗壊するべからず、それは真に割に合わぬ事なり。大虚空演正の主体に針對し、崇心に於て闡示演繹を為し、更に未来の有情世界の衆生霊児、皆能く真理を暢にして回帰、超越、提昇を為さん。
無極は衆生霊を演繹し、虚空は正を演じて帰返の因と為す。
人生世に在りて短くして促なり、心情を放開して自性に還れ。
正を演じ、虚空の因を教化す。唯我独尊にしては心容れ難し。
天界は平等にして皆相助け、和睦して衆生と共に処す。
浩瀚たる宇宙は無極の界、広大なる虚空は正因を追ふ。
金品の蓮台は能く来去す。自己に仏果の栽を成すべし。
此の因縁を以て衆霊児等に細かに研鑽せしめ、天地の有情蒼生に演繹するを明瞭ならしめんと願う。これ台疆の芸芸たる衆霊児に此の一分の福分有るが故なり。上天の警醒教化に依り、未来に対し教化伝延の責任と義務を有し、即ち当下に於て学習成長せしむるなり。願わくば、未来に於ける提昇超越と成長回帰を明瞭ならしめんことを。
今夜瓊漿を備え、崇心の諸霊児等に賜いて、大茶に加添せしむ。能く業を消し智慧を増さん。亦往后の崇心全体の道務に弘揚発展せしめんは、母の至盼する所なり。一切安好にして又如意ならんことを！
◆ 旨 ◆
完書繳旨
◆ 跋・讃賀 ◆
讚賀、頌、序言
南無阿弥陀仏
宇宙の大虚空を燃え開く 燈影無量にして自性重し
古道傳延億萬年、佛曰く宇宙の大演正なりと。
大宇宙とは、当今の時代に用ゐる名詞なり。又、古の時代に於いて言へば、即ち「虚空」これなり！大宇宙には、全ての銀河星系と一切の星球を包含す。其の全体の演化の過程に於ける最主要的目的は、即ち眾星球の間に相互の平衡と安適を創造するに在り。
大千三千世界とは、一切の有情と非情の芸芸たる衆生、上に向かってより高深なる進化を追求するは、即ち有情天地の間の衆生をして、萬物に対して皆上に向かって進化と改造の目的を追求せしむるなり。現今地球の科技にて人世間に創造發明し得る所は、遠く他の星球の科技に比して遅れ、千百倍に及ぶなり。
地球星系の人種と萬物を提昇し改造を作すことを要し、又之を眷顧し護佑を加へ、必ず更に進化し、更に提昇し得ることを要す。又科技文明を以て他の星球の彰顯する靈性世界を印證し、是れ地球の萬物衆生に対して、進化の目標を追求せしむべきなり！必ず有情の人類衆生を利益せしむることを要す。
大宇宙の進化の過程は、まさに三千大千世界の一切の星々の間にある種族を融合させるものであり、人類をはじめとする衆生はその過程を知ることができない。かかる次第ゆえ、他の銀河系の星々において実証を行い理解しようとするならば、必ず宇宙の大いなる進化と正化によって、一切の星々の間に相互の均衡と安穏が導かれるのである。
大宇宙の演化と正化の過程において、他の惑星を導くことができ、本来の規範に則って各惑星の生物種を成就させることができる。その惑星の展開を向上への昇華を目的とし、その惑星の福祉を増進させ、万物衆生を利益してさらなる成長と向上へと導く。これこそが、すべての善きものに利益をもたらすものなのである。
大宇宙の演正：衆星を統合し導いてその秩序を乱すことなく、互いに不均衡な追及をせず、諸星が相互に「科学技術と霊性」を補い合いながら進化を遂げさせること。かかる「大宇宙の演正」こそ大虚空天界にして、種々の自然の使命を包摂し、衆星の均衡の力を演繹するものである。
自然の使命：虚空においては無極を導引として回帰の契機とし、また人類世界においては、もし「無極」による導引がなければ、人類という種の霊性を高めて超越することはできない。まさに人類世界の芸芸の衆生を、霊性と物性の超越へと向上させることこそが、基本的機能の条件なのである。
上に向上することが不可欠であり、これこそが科学技術の時代において実証できることである。今日の世の中に照らせば、人類の科学技術の物質性は、霊性を凌駕し超越することはできず、それを統御することもできない。ましてや人類の科学技術の範疇においては、今日の時代において実証し得るものは、霊性（魂）の基礎に過ぎないのだ。
なお霊的世界に参入し、大宇宙、大虚空、大無極と相互に融合することすらできず、人間世界は、人間に貪求と欲念があまりにも深く重いために、人間衆生を向上させることもかなわず、さらには霊的世界の真実の空間を超越することもできず、三界に縛られているのである。
人類の世界には皆「我」が存在し、すなわち「私」なり。この「私」は自己を中心に据え、あらゆる物質を獲得することを志向とするがゆえに、三界の局限を脱することはできず、輪迴を超越するなど到底及ばぬことなり。これらは皆、自らが輪迴に翻弄され、またかかる観念に蝕まれるがゆえに、人類の世界には「個人としての私欲」が存在するのである。
したがって、三界の空間と輪廻が相次ぐ渦から離脱することはできず、また人間界においてはこのような束縛から逃れることはできない。常に自らの貪欲と欲念の薫習を受け、三界の空間の循環から解脱することができず、ましてや「無極の演繹、虚空の演繹、宇宙の大演繹」の全過程を理解することはできないのである。
まさに人類衆生が追及し得ぬ迷いであり、この世相のあらゆる障りを了知するいかなる資糧も持ち合わせぬことである。また現代の宇宙船はすでに他の星に着陸して奥義を探求し、人工衛星の打ち上げにより虚空の究極を探究することもできようが、これらは他の星の一部を了知するに過ぎぬのである。
表面にとどまるばかりで、到底その内奥に立ち入ることはできず、ゆえに了知することも叶わないのである。虚空の演正がなされると同時に、それは人類が向上を求めて追求する原動力となるものであり、人類世界の科学者にとってはなお緒に就いたばかりの段階にあり、少なくとも数十、あるいは数百年の歳月を経て、ようやく「無極、虚空、宇宙の大演正」を証明し得るのである。
まさに人類世界において、霊性の超越という目的を向上させて追求することに合致しており、自らの霊性をいかに超越させて無極と虚空に回帰させるか、それこそが真実なのである。また、「大宇宙の演正」のプロセスをもって人類世界に示現しているが、このような人類世界が知り得る科学技術文明は、いまだ浅薄なものである。
銀河星系：大道の演繹がもたらす福沢に叶い、また三千大千世界の無数の星々の演化の過程においては、それぞれその相を異にしている。個々の星々にはそれぞれ特殊な使命が与えられており、当今の大宇宙および天界において、相互に因循し輔け合う作用を連ねている。このような微妙な関係こそ、一切の進化の根源的機能なのである。
人類世界および有情の天地の内においては、まさにこの一つの天地において天に覆われ地に支えられ、人類世界の種々の所作をもって導かれている。また、上蒼が原霊を降ろして改造を行うと同時に、他の惑星にも数多くの原霊が存在し、それらは異なる惑星の体に化現して生存し、様々な衆生を形成しているのである。
三千大千世界は、すなわち全ての原霊により統御され、大宇宙全体の演正の過程において、決して秩序を失うことなく、また互いに追撃し合うようなこともあってはならない。それは、あらゆる星には外部を保護する「電子光影の正負極」が巡らされており、これは人間界の肉眼では到底観測し得ないものだからである。
科学をもってしても知り得ず、それらはすべて外層において「電子光影の正負の極」に導かれ、護られているためである。人類の科学技術がさらに高次元を追求し実証しようとしても、現時点ではまだ悟り得ないのだ！しかし、未来の科学技術によってすべてが明らかにされるであろう。人類の科学技術による実証を通じて、諸天の仙仏はすでにこの良機を捉え、実証の下、大宇宙を化して正法を演じているのである！
宇宙世界は大演正なり、虛空の星際は少しく來り呈す。
無極を用いて已に足れり、何ぞ再び虚空の乗を推さんや。
星系の演正は人の知る者少なし、科技を借りて智を明瞭せん。
億萬の太空は清晰にして、軌道に按循して運作し馳せめぐる。
これ正是に上蒼の大道、德澤を演繹する是なり！失序せしめず、相互に追撃して殃害を造らしめざるは、乃ち大宇宙の演正、自然にして然るもの、地球の星系を牽引する所以なり。又人類世界の宗教、更に大いなる機縁を得て、より高層次の靈性世界に邁進し、更に向上し提昇して超越するなり。
南無正法明如來佛
大いに禪宗を開きて演繹す、日常の平等は主體なり。
如來如去にして更に真實なり、佛の言は覺察して休歇の意なり。
大宇宙の演繹の過程、人世間に在るを必ず了知すべし。靈性を上に提昇し彰顯して超越するは、即ち人類世界の中に在りて、徒らに自らの生存に向かう動機のみに止むべからず。又人類生存の當下、若し靈性を上に提昇し、超越するに及ばざらば、其の時に於て又如何にせん。
必受輪廻相循之左右、又令己身永沈淪於六道旋渦之中。若以仏家思想観念為主題演繹、即是己身向上成長提昇、與宗教信仰依歸、而有學習之受益、正由宗教之教化、超越過去所有限局。
崇心宗脈：所著「大道系列天書」、入於禅宗本體、又於大宇宙演化過程、必能真向上提昇、乃不於人類世界受永續輪廻、此即無奈之作為、衆人欲之乎？非也！又如何往上增長提昇？
禅宗本質：要具足「覚察」洞悉之能力、即能「洞悉」人世間相一切来龍去脈、正是以人類生存向上提昇、亦在覚察了悟一切世相、即能體悟人類世界所有相循輪廻、必能將人類生存過程化為成長。
又於生活中不可執視、僅為生活而生存、以致無法脫離三界空間相循輪廻、此種必具基本觀念、亦在於此；若人類衆生欠缺「覚察」能力以行使、必令己身反覆沈淪於人道世界無奈之生存。
覚者：是以洞悉人類生存一切、察者：是觀此世界實相過程、能作了知與體證；又天地演繹過程若同無極、同虛空、同大宇宙演化過程相呼應、必了知人類潤生、即要明晰一切天地演繹過程。
天地の運転：人類世界の芸芸蒼生と同様、一抹も抹消し難き相循の関係を有す。人類の生存空間に対し、若し天地演繹の過程を洞悉すること能わずんば、即ち如何にして帰るべきや、如何にして超越すべきやを知る由なし。乃ち覚察の能力の顕現する所に在り、即ち相循運転の過程を知りて、正にこれ実真なることよ！
覚者：能く一切の世相を洞悉し、察者：一切の過程の補助作用を体証す。即ち能く人類生存の実相の過程を洞悉体証し、必ず自ら己が主と為るべし。而して心念意識の主導する有って、是れ真に「禅宗」の本體に入り、亦「頓悟と漸悟」に対して分判するに在り。
頓悟：正に資糧極めて充足し豊饒なるにして、即ち一を聞いて百を知り、百を聞いて千を知り、便ち能く一切の事相の本體を了知す。漸悟：能く了知する所は、即ち経験の累積を化して真実の資糧と為し、又一点一滴より未来成就の資本を堆積し、比較的に緩慢なりと雖も、亦能く成就に達す。
「頓悟と漸悟」は正に人類世界の一切の世相「覚と迷」、競と争（進と増）の集合点なり；覚察の力量、若し只心念意識の中に在らば、必ず了知すべし：唯識の観念を、如何にして真に生存利益に應用せしめ達するや、即ち能く一切の実相の根本性を了知す。
覚察：人の起心動念は、即ち心念意識の行使に影響し、又心猿意馬を馴伏すること能わず、又「心猿を覚し、性初に復る」は必ず成立すること能わざることを成さん。起心動念の当時に、心猿を繋ぎ馴服すること能わず、如何にして「心猿を覚し、性初に復る」こと能わん、即ち心猿意馬の奔騰する所に受けん。
人類の心念意識は、若し「唯識の観念」に由りて主理せざれば、根本天地の演繹、無極の演繹、虚空の演繹、大宇宙の演繹の過程を了知すること能はず！又如何にして「心念意識」の正に生起せんとする当下に、其れを繋ぎ止め、其れを馴服せしめん、是れ即ち功夫なり。
必ずや休歇の中に在りて、其れに「念の動」を生ぜしめず、即ち「休歇」を以て心念意識を良善の方面に轉換せしめて行使せしむるは、是れ良善の道徳を以て一切を主理するなり；有情世界は必ず有為して方に有為ならん、乃ち無為に入る、又此の「無為」は即ち一切の演繹の主理する所の本體なり。
心念意識の正に生起せんとする時、如何にして良善の方面に導引して行使と改造とを為さしめん、是れ覺察の力量の必ず有るべき基本條件と観念なり、若し一個の念頭の正に生起する過程に於いて、如何に觀察し、又如何に審視せん、即ち良善と不良との中に分判を作るのみ。
覺察の力量分判を作すに、必ず芸芸の衆生をして皆福祉の蔭護を受けしめ、惡（不良）の念頭の当下に生起するに応じ、必ず休歇停止の動作を作し、又真に「唯識の観念」の中に了知して入り、不良の思慮を統合し、即ち是れ消融し清除せんとするなり。
人類世界は必ず動作を有すべし！覺察は根基の鋒利に由りて主導するに在り、即ち心念意識を判別し、自己の思想と作為との中に下化し、一切の有情衆生、殊に人類世界の芸芸の蒼生、若し覺察の力量なくんば、即ち「休歇」の動作を有すること能はず。
是の如くに言わば、必ず一の不善の念頭起こらざる前に断除すべし。これ即ち菩薩の因を畏れ、衆生の果を畏るるの最良の写像なり。「覚察と休歇」とは、即ち唯識の思想に於て、根基の鋭利なるに入るに、鈍者を存すべからず。鈍者は即ち錆びて利あらず、一切の事象の本末縁起を体証する能わざるなり。
覚察の力：これ即ち禅宗の示す根本の基礎なり。若し当頭の棒喝、観察の力無くば、鋭敏なる覚察洞悉の眼光無く、ただ鈍、鈍鈍の作用に在るのみ！頓悟の体証甚だ難し。「頓悟と鈍悟」と言いて字義は相似たりと雖も、実には其の相去ること太だ遠し。
休歇：これ鈍、鈍鈍を以て合成する主体なり。念頭未だ起こらざる前に如何にして断除せんや。必ず長く保ち永續して須臾も離るべからず。これ即ち自己に具備する一種の資糧の顕現にして、其の根基の鋭利なるや否やは、即ち「頓悟又は鈍悟」の者の分別にして、皆自己の鋭敏なる覚察力を観て定奪す。
休歇－すなわち心をとどめて前進させないこと。これは頓悟の基本的な要件を満たすものであり、まさに人類に欠けている基盤である。これが欠ければ、衆生は永遠に六道輪廻に沈淪することになる。一方で、休歇は菩薩道において具えるべき根本的な修行と発心でもある。もし休歇できなければ、永遠に輪廻の渦に巻き込まれ、巡り続けて止むことがないのである。
力を覚知し世相を観じ、天地の澤の揺らぎ無きを了知す。
演繹の過程はことごとく真実なり、休歇し断除して本章に入る。
心を泯じて境を存ずるは精にしてまた微かなり、心を存じて境を泯ずるは必ず追うべし。
心念意識転じて因を包摂し、禅宗の教化に永く追随す。
大道仏心、正宗を演じ、真仏心宗、真理を弘む。
心を崇めれば更に大天機あり、回帰超越して自ずから拱く。
この偈を、有情の衆生に細かに参究させ、人生の主體を明悟させ、念慮の起こる中にあっていかに断除すべきか、そして「覚察と休歇」の存在の必要性を説く。これはまさに禅宗の根基より、自らの念慮の起こる中に入り、全ての成長と因縁の本源を超越して、いかにして自らを成就すべきかを説いたものであり、これこそが真実性なのである！
##南屏道済古仏
南無無生、衆生念ず。薬師如来の自性連なる。
心を泯ぼし境を存して無塵に化す 心を存し境を泯ぼす真理篇
大道の展開の過程において、禅宗に入るということは仏教の基礎を確立し、鋭利な根器をもって人間世間における成就の因本となすことである。これは「禅宗」に求められる実践であり、その要諦は棒喝による指導には必ず鋭利な根器、すなわち頓悟が必要であるということにある。これは世間の事象に対して真に鋭敏な観察力を身につける修行であり、自己成長の拠り所となり得るものである。
動作に覚知するには鋭敏な観察力が不可欠であり、すなわち「鋭敏を動作とし、観察を基礎とする」ことである。大道の真理を人類の潤生と修持の範本として、真に向上を図らねばならない。頓悟の観察においては、相当な根基を備えてこそ、初めてその益を得ることができるのである。
泯心存境：「禅宗」に在りて必ず步驟有るべし。又「泯心」を以て「起心動念」の中に在るを了知し、必ず善を思わず、悪を思わざるべし。更に人類の心念意識を泯除し、又心法を泯除して色法界に入らず、正に「唯心所造、唯心所成」にして心に動かず、即ち是れ此の心を死せしむるなり。
即ち是れ動作を泯除し、泯心を以て環境に左右せられざると為すべし。故に泯心存境は即ち不動心なり。甚だしきに至りては境中に在りて、自己に色心の基本要求を泯除せしめ、如何にしてか心境の作為を泯除せん。更に環境に影響せられざること、即ち是れ此の心境の外に向かう攀縁を泯除するなり。
能く善悪に左右せられず、これ正に色境の範囲内に心法を泯除し、即ち環境を泯除するなり。色心と相互に牴觸せば、必ずや色心を泯除し、心猿意馬をして外に奔騰せしめざるべし。この作用は必ず相当の功夫を要し、然る後に条件に達すべく、一般の宗教の修行者の達し得る所に非ず。
泯心存境とは、境は尚存れども心は既に死し、この環境の作用に在りて、色心をもって外界と相接触せず、又たこの心を泯除し、色心と外界の色相と両相結合するを対す。これ造業と攀縁の過程にして、遂に環境に左右せらるるに入るなり。必ずこの心を泯除し、外境に存して擺佈せられざるべし。
「泯心存境」の過程は、正にこの色心を泯除し、不動境・不動心に入るなり。これ禅宗第三の観察の步驟に在り。第一の步驟は「覚察」とし、第二の步驟は則ち「休歇」なり。第三の步驟は「泯心存境」と為し、第四の步驟は則ち「存心泯境」と為す。
如何にして泯心存境に入り得んや。禅宗の当頭棒喝に若れば、必ず根器特に鋭利なる者を要す。これ正に禅宗の最も基本要求にして、「存心泯境」に対在りては、即ちこの環境を泯除して心を動かさず、又た既に境は転ずるとも心は転ぜず、是れ乃ち存心泯境に入って提昇するなり。
要請せらるる所は正に「転心と転境」の基本功夫課程にして、又た「存心して境を泯除」するは、境は存して心に転ぜらるるなり。即ち境を泯除して心を存するは、即ち不動心にして又た不動如如なり。然れども、人類の衆生は皆この境界に達すること難し。故に境を泯除して心を存するは、境は転ずるとも心は転ぜざるに在り。
如何にして此の境界に達するや。必ず大智慧の者を要し、大鋭利の根器にして乃ち成し遂げ、能く全ての真如实相の生存法則を看破す。又当今の時代には比較的に少なきものなり。皆境に転ぜられて又境を転ずること甚だ難し。況んや心境を転ずるは比較的に易く、環境を転ずるは正に比較的に難し。
如何にして此を以て為し、人世間の世相を明白にするや。即ち「心既に存して境転ぜず」、「境既に転じて心転ぜず」とは、即ち仏門の修持における最も鋭利なる根基なり。いかなる宗教派脈と雖も皆一体にして此の如し。能く此の境界に達する者は、必ず一大段の路程を要して提昇す。
存心泯境とは：正に心を転ぜずして境を転ずるなり。此の環境を泯除して改造を作り、而して最良の境界と成す。能く「心と境」を相映じて組合せ、正に境を泯じ心を存して成長するなり。必ず心境を把りて全ての環境の局限と障碍を改変す。是れ人世間に在りて、環境に影響され左右せられざるなり。
人世間の過程を経て改造し、有情の世界は皆此の如し。即ち一切の世相より、能く境を泯じ心を存する者は少なく、境を存じ心を泯ずる者多し。此の種は心境を転ずるを要し、遠く環境を転ずるに比して来り易く、又環境を転ずるは遠く心境を転ずるに比して来り難し。原因亦此に在り。
境を泯じ心を存するは是れ境を転ずるなり 境を転ずるは必ず因を推るに靠る
心を泯じて境を存するは較べ易く、心境転化して心尚お存す。
人生は正に此の過程にして、如何にすべきか一切の世相を破除せん。無明の過程に由りて自己と衆生とを成就し提昇を作さんには、皆自己の所作所為に由りて抉択す。是れ人類の世界に於ける一切の人類と物種の中に、常に遭遇する所の過程にして、又一切破除すべきの基本の原因なり。
一切の外在環境若し能く轉換順利、順心ならしめんと欲せば、必ず「覚察観視の功夫」を要し、又相当敏鋭にして後に促成すべし。然らずんば、常に境の来たりて轉ぜられ、又境を轉ずること難く、及び心を泯ずるの基本の功夫にして、然るに一切の外在世相の中に、常に心境の波浪に入り、根本より心を泯ずること皆難し。
境境境境皆心境、泯泯泯泯皆泯心。
境を泯じて心を存するは是れ境を轉じ、心を泯じて境を存するは是れ心を轉ず。
此の条件！是れ一切の作為の休歇の基本資糧なり。「覚察」の功力、能く具足して行使と休止を為すや、即ち一切の世相と休止を覚察し、心を起こさず念を動かさざれば、乃ち因を断ずる中に、必要な功夫の資糧を具備す。況んや能く心境の転換に入りて、境を泯すとも心を泯さざるに於てをや。
如何にして此の功力を具備すべきや。是れ心境を「覚察と休歇」に入れ、更に泯心して境を存し、心を存して境を泯すに入り、必ず一歩一歩来完成せしめ、亦未来に確実なる功力と資糧を有せん。如何にして功力と方法を行使せんや。一切の世間の相の局限と障礙を洞悉せんが為なり。
然らずんば、若し只仏教の経典に按ずるのみならんば、即ち実相の世界に於て、一切の世相を了知すること難く、如何にして能く智慧を提昇し経験の累積を為さんや。人生の世に生るるや：提昇を欲するは是れ大いに人在り、如何にして能く一切の資糧を善用して自らを成就せんや。必ず如実に大契機を得て受益するを要す。
禅宗演繹して崇心に入る 真仏心宗自ら行ず
世相を了悟し覚察の力 一切の精細なる因を泯除す
能く人生の真実の意を了知し、何れの宗教を信仰すと雖も分別せずと雖も、亦た生存相循う動作を離るべからず。宜しく有情の世界に入りて改造し、乃ち此の一世に於て成長提昇し、更に大なる回帰超越を得て、即ち再び輪廻の渦に入らざるなり。
崇心主席 虚空天尊文衡聖帝
人天の教主聖堂に降り給ふ 本師釈迦真心を以て賞で給ふ
心を泯し境を泯して無塵に化し、心を存し境を存して真常を述ぶ。
存心泯境とは、存境泯心の中に入るなり。これまさに仏門禅宗に敏鋭なる観察力を要し、まず相当深厚なる功夫を具備して、始めて能く之を致すべし！又禅宗に示す所は、まさに一切の化除す可き心境を把りて、一種の向上提昇の資本と能くし、亦自ら利益して成長するを得しむるなり。
此の種の条件とは、即ち此の色心を泯除し、外界の色相と同に相互結合を為すなり。敏鋭鋒利なる根器の者に対して、始めて此の種の能力を言ふを得べし；然らずんば、若し一般の人類衆生に従はば、皆実質の観察敏鋭力と功夫と有ること難く、又一切の観察力に対して、必ず所有の虚妄思惟を破除して建構を為さしむべし。
若し人間の世間一切の世相を真正に了知すること能はざれば、常に人間の世間の形形色色に左右せられ影響せられ、又『心法界・色法界』の此の両者に局限せらるるを破除すること能はざれば、実際の資本成長を得る能はず、即ち亦自らに正確なる回帰資糧の契機を提供すること能はざるなり。
人類衆生自ら生存の過程に対して、若し人間の世間一切の世相を了知すること能はざれば、必ず生存に成長改造の資糧と契機とを与へること難く、これ自らに対して一種の相当残酷なる事実となり、甚だしき是有情衆生皆「仮を真と認むる」が故に、種種の行径自らをして一而再、再而三沉淪せしむるを促成するなり。
心を泯し境を泯すとは、一切の虚妄と実相の世界の局限を破除せざるべからず。若し心を泯し境を泯すことを了知せずんば、即ち向上提昇の資本を持つこと能わず。毎に又「心・色法界」に左右せらる。心を泯し境を泯すことに対し、必ずや禅門に於いて発揚すべし。即ち「不動心・不動相」を以て成就と為すなり。
一切の法界は皆形有し色有る実相界なり、必ず外界に左右せらるるなり。如何なる人たりとも此の色相を離るること能わず、即ち永遠に輪廻の中に存在せん。又仏・道の両教に於いて心性・霊性の超越を提唱せんとするには、必ず「心を泯し境を泯す」の情境を超越せざるべからず。
然らずんば、必ず色界に左右せらる。甚だしくは一切の世相に対し、眼により色世界を観るに即ち色相界に左右せられ、更に色法界を超越すること難く、又気・理の両界に入ることも難し。然れども色界に在りては、正に人類生存の実相世界なり。若し「心を泯し境を泯す」なくんば亦超越提昇に達すること能わず。
心を泯すとは、正に此の心の動念無きなり。境を泯すとは、亦境の動念無きなり。若し「心動と幡動」の過程を化除せんと欲せば、即ち「心動を消除」せざるべからず。即ち実相と虚妄の心境を断除し、即ち心の世界に於いて、更に一切の「清静と浄濾」の境界中に処するなり。
正に心の動揺を消除するなり。亦自己外境に対して心を動かすに在り、必ず向上超越能わざるを形成せん。又如何に此の心を泯除する中に在りて、外境に影響せられざる能わん。然れども外境は仍存在し、又此の心の外馳と攀縁を泯除すること難し。即ち一切の世相に入りて、更に深き一層の提昇能有るなり。
外境の一切に存在するは、即ち存境の過程なり。如何にしてか心境に存するを了知せんや。法界の一切の世相に対し、如何にしてか更に深き一層の提昇を為さんや。応に「存心存境」の過程に存し、自ら一切の世間相を明瞭ならしむべし。これ決して人世の生存のみに在るに非ず。
尚お無形界の一切を見ず、又人世の相に対して了知することなく判別すること無きは、即ち外境に対し経験の累積を通じ、甚だしきに至りては智慧の借与によりて、然る後に一切の世間相の本体を了知するなり。又「存心存境」は正に禅宗の本体の基本架構にして、即ち提昇超越を成し得るなり。
一切の實相に於いて、天地の長遠なるに対し、人類の短暫なるは又如何ともし難きか。甚だ難し。必ず己が提昇成長に恃み、未來に於いて「三際遷流」の過程を通じ、正に當下より體證して、人世間の種種の行徑の過程に対し、自ら向上提昇する原動力の一分を保つことを得ん。
存心とは、外相の一切を了知するなり。存境とは、外在の考磨と歷練を通じて、始めて爐火純青の段階に達するなり。有情衆生に於いては年長者を観るべし。正に人世間の一切の酸甜苦辣の経験を累積し、又生住異滅の過程を通じて、始めて豐富なる人生の経験を積むなり。
人生の歷練に於いて既に成熟し、全ての考磨も比較的に減少す。又「初生の犢虎を畏れず」にして、更に天高地厚を知らず。社会に初入る青少年に至りては、皆経験の不足と豐富ならざるに由りて、人世間の種種の考磨によりて成長の経験を累積せしめ、以て未來の順調なる增長を図るなり。
若し己が身にして、豊饒なる人生の経験を積む能わず、しばしば考程に遭いて身心を磨かば、是を天の試練と謂うべきや？然らず！又、深き思慮を欠くが故に、考磨に遭うを常と為す。何ぞ考と謂わんや？思慮すれば即ち明らかならん！
存心存境：是れ正に人世間の基本架構を超越し、既に「山を見て山に非ず」の境に入り、更に「山を見て山是れ山」の第三の層次に入るなり。即ち一切の世間の相を了知し、且つ既に開悟して、人の霊性成長の理を明らかにす。ここに「修持」して帰宿を求むる念を生ずるなり。
「存心存境」は人世間の一切の世相の過程により、更に上乘の追求を為して、始めて提昇に達す。「泯心泯境、存心存境」は即ち向上提昇を追求する基本の資糧にして、主体の架構により、人世間の種種の歴練・考程を経て、始めて成長と超越に達するなり。
向上の提昇に当たり、若し実際の資糧を有すること能わず、根本的に実際の経験の過程を有すること難ければ、自己と衆生の霊性提昇に実質の効果を為すこと甚だ難く、ただ人世間に生存するのみとなるならん。如何にして自己の超越と提昇の資糧を具備すべきや？正に当下に在り！
心を泯めるは本来行く所なく、心を泯め境を泯めて実相に親しむ。
物転じ心転ずれども真を失わず、実境を転ずるも心に引かれず。
境を泯し執なく心すでに帰る、人間の因縁は相会し難し。
骨に刻み心に銘じて能く覚え取り、留めて未来の次回を待つ。
崇心大道シリーズの天書は一巻ずつ編纂された著作であり、数多の天書の精髄を積集したものである。それゆえに、有情世界に遍く存在する無数の衆生を教化し、崇心のすべての基本的聖務と使命において、有情の衆生に如実なる成長をもたらし、回帰と超越のための資糧として、人類の衆生に利益を授けるのである。
今日！誠に崇心のために心から欣慰に堪えません。大道シリーズの天書著作において、長きにわたり真実なる教化の資糧を一分でも残すことができ、必ずや未来において、儒・道・釈・耶・回を問わず芸芸の衆生に、成長の資糧と契機を実際に提供できることとなりました。誠に賀すべきことであります！
南無至上本霊生、阿弥陀仏引上昇
霊性世界は乗を超越し、大道仏心は帰して自ずから成ず。
心を泯し境を泯ずること、および心を存し境を存すること。かかる境界に至りては、すなわち霊性の世界、精神の領域において、生存の過程にあって自らを高め、統合を図る。自らの霊性を当下において高めるにあたっては、必ずや精神の領域を、生存と潤生の過程における成長と超越へと転化させねばならない。
己れの霊性を潤和し統理することが不可欠である。すなわち、霊性を以て精神領域を潤和し、己れに真に実践行持の条件を具えさせ、さらに一切の虚妄・虚幻なる人世の仮景を破るのである。また実相の世界においては、霊的主体の本性を看取ることは難く、いかにしてかかる境界の高下を了知し得ようか。
実相界は器物世界であり、実相界の観点から言えば、すなわち器物世界に他ならない。天地人という三才が人間世界を連関させるにおいて、もし精神領域と霊性世界を融合させることができなければ、大宇宙、大虚空、大無極、大天地との展開の過程において、相互に連関させることは到底困難となるであろう。
また神性（霊性）の世界においては、いずれも空幻なる心念意識の中に入り、向上し超越することは困難である。また人類の世界が精神領域において最も主要な理由は、一切の法界において「色相・心相」を問わず、この二つの作用、すなわち「心法と色法」として用いられるに際し、必ず二相を結合させねばならないことにある。
然らずんば、若し唯だ器物の世界のみに淪落する時は、必ず精神の領域に於いて、自己の霊性世界の向上提昇の原動力を成就すること難し。又、霊性世界は正に大地の衆生、天地の衆生を連ねるものなり。此の大地、天地の芸芸たる衆蒼生は、必ず覚悟したる有情万物の衆生なるべし。
霊性の超越に在るや否や。これ唯だ人類の衆生のみ此の条件を具うるのみ。即ち人類の世界に於ては修め改め、「輪廻」の渦に沈淪せしめざるなり。又天地に情有り、衆生に愛有るが故に、一切の芸芸蒼生に為すこと有り、是れ以て精神の領域を提昇するなり。
器物の世界に淪落せしむる勿れ。己が霊性の増長に在るや否や。必ず己れ自ら求め、己れ自ら創造すべし。必ず精神の領域に在ると同時に、霊性の世界を提昇し、又霊性の世界を了知すべし。これ過去の累世の因果を含蔵するのみならず、己れに対しては改造を為し、修繕を為す形を成すなり。
人類の世界の所有の生存過程を了知し得るは、正に一切の「生命改造界」なり。明白にせざれば如何にしてか提昇せん。必ず人類の世界に在りては僅かに精神の領域に向かい向上提昇するのみ。若し万物蒼生に対して一種の徳沢たらざれば、如何にしてか人世間の全ての局限障礙を提昇せん。
即ち己れが願うと願わざるとの判別なり。此の作為は己れが霊性増加の原動力となり、又万物の公正・平等の原則の下に在りては、常に己れの向上成長を障礙し、生存の原則を論断し、天地万物衆生と合一して一体と為し得ば、人類が万物の霊長なるに執著することも無きなり。
正に是れ、精神の領域と霊性の世界より向上提昇する当時に在りて、天地の循環過程、および運転の順序を了知し得ば、必ず物我を合一せしむべし。即ち「合為一体」を成し得て、我は即ち衆生、衆生は即ち我、我は即ち天地、天地は即ち我の範疇なり。物我の合一に在りてこそ、向上超越なるなり。
更に己が本質を以て行持し、『無縁の大慈、同体の大悲』の示現する所は、人間世界の芸々たる蒼生にありて、正に此の作爲を欠缺す。又常に己が私利の眼光を以て、一切の有情衆生を観、汝が我を攻め、我が汝を姦す、爾虞我詐を成すこと常なり。
此れに於いて天地と同一に、萬物衆生と合して一と為すこと甚だ難く、況んや虛空と同一に、無極と同一に、或いは大宇宙と合して一と為すをや。乃ち謬論と為すなり。又一切の過程は皆、全部の総合体を以て論断し、能く我は即ち無極、我は即ち虛空、我は即ち宇宙と為すを以て、乃ち正道なるかな！
是れ一切の物種に対し、皆能く芸々たる蒼生を下化し、己が霊性を昇華せしむるなり。又萬物蒼生の器物世界に対し、必ず能く『霊性精神世界』に融入すべし。人間世界に在りては、必ず精神霊性を以て、正に向上へ歩みを始め、一步穩く踏みしめて、更に一步を提昇せしむるべし。
必ず霊性の本質を以て融合を作し、乃ち精神の領域にして『其の心境を泯除し、其の外境を泯除する』能く入るべし。是れ「一合相」、「一境性」を更に深くして示現する所なり。我は即ち天地、我は即ち萬物、我は即ち衆生、我は即ち無極、我は即ち虛空、我は即ち宇宙、正に此の如きなり！
能く更に深き一層の印證を為し、僅に霊性世界に成長するのみならず、即ち無極、虛空、宇宙を融合して一體と為し、己が霊性に対して一分の真實長遠を有す。若し此の境界に達する能わず、又己が虛幻、妄念、執著、分別の影響する所とならば、乃ち上層に提昇改造する能わざるを促成するなり。
霊性世界は一切の世相を融合し、乃至此の一切の世相を了知し判別す。能く融入する者は、必ずや三界の空間の左右と制限を超越すべし。有情衆生は正に此の一念に欠け、加之我執、分別、妄念、虚幻有りて、向上提昇の原動力を妨ぐるは、此れ最も甚深の謬見なり。
霊性世界の真実相、有形無形互いに彰わす。
人類は有形に存在し、亡霊は無形にして同じく航せず。
世界の万物は皆霊性なり、物種によりて身形を異にする。
層次境界同じからず、智慧の等級は相親しみ難し。
霊性の世界は、一切の虚幻・妄想を破りて、器物の世界の存する過程に融入し、精神の領域たる霊性の世界を真如を彰にし仏性を顕すに入らしむ。これ既に人類の世界に於て成就すること久しく、且つ歿度の後を待たずして、改めて徳性・功果を論ずるに及ばざるなり。
甚だしくは既に成就を具え、資糧位を超越して、又実践位に入り、更に圓滿位の行持を為す。これすなわち當下及び未來に成就して成長を為すなり。霊性の世界を了知せんことを冀う、すなわち：物我の合一、天地の合一、無極の合一、虚空の合一、宇宙の合一にして、相互に提昇するなり！
跋、凡例
##南無本師釈迦牟尼仏
讚賀、頌、序言
南無大道無疆遠、正法明如来の宣うところ。
降来して著作す仏心の篇、実相世界はこれ本源なり。
実相世界とは：正に心念意識の伝導により、衆生の心性意念に入り、すなわち霊性世界これ主理す。また根本の最も重要なる目的は、個人の因因果果を化除するにあり。すなわち人類世界に於いて霊性に対し主導の目的を作し行使するは、これ自ら霊性に入りて昇進を図るがためなり。
能く精神意念を作し行使し、霊性世界に於いて自己の主となりば、すなわち反覆輪廻の渦に沈淪して自己の奴隷となることなく、即ち自らに実際の提昇資糧を与うべし。実相世界に於いては正に器物科技の組成するところにして、いかなる物種と雖も皆天地の統御し駕馭するところを受く。
万物衆生に対し、保護を与え又は残害を加える相循う動作に於いて、人類世界をして自己の生存範囲に対し、人類主導を範疇となさしめ、人類器物科技の演繹する過程に対し、また当今人類前人の種植せる福果を享受し、人類に福祉徳澤を与え、人類の福分を提昇して臻らしむる所なり。
「人類と萬物を平等に主體となす」ことを以て、人類に當下を統合せしめ、人類の科技文明を強いて他の衆生を殘害すべからず。必ず萬物衆生は皆靈性の一種なることを了知すべし。且つ、人類の科技を以て萬物衆生に與え得るものは、すなはち無窮盡の福祉にして、これこそ眞實性なり。
實相世界と靈性世界とは、正是に相互に結合して人類の生存環境空間に對するものなり。若し僅に器物科技文明のみにあらば、必ず靈性に生長の空間を与え難く、必ず器物科技にのみ留存せん。此の如き條件は、他の萬物衆生が形成する生存に對し、また戕害を受けしむるなり。
器物文明の世界に於いて、若し靈性の增長提昇なくんば、必ず有情衆生の生存過程に對し、超越の契機を与え難し。此の如き作爲は當今の人類に對し、また主體觀念を有するべきなり。若し器物文明の展現するを以てすれば、すなはち人類と萬物蒼生に無窮盡の福祉を提供するものなり。
當今を論ずるに：人類の器物世界は、正是に炎黃の子孫の近き五千餘年來、最も福祉ある時代にして、また人類の心性が極奢・極詐・極險に臻る過程なり。形成して一部の正道の修子に對し、人類世界より靈性を提昇增長せんと欲する者あり、此の如き功用は道德を依歸とするものなり。
必ず靈性を超越し、更に靈性に淨化を与へ、すなはち往昔の輪廻に設定されし漩渦と制限當中より跳脫すべし。此の如き作爲は當今の時代に對し、すなはち正道の修子の必ず有すべき基本觀念と作爲にして、また靈性世界を超越して自己を導引とし、上に提昇回歸する能ふものなり。
實相の世界は、誠に人類の生存に闕くべからざる最も主要なる基本なり。若し靈性界を離れて、徒に器物科技文明の界にのみ在らば、必ず人類衆生をして、永遠に靈性を提昇し、超越し、昇華すること能はざらしめん。誠に統合提昇すること難く、其の主要なる基本の作爲に由るなり。
靈性と器物の世界、禪宗に入るは必ず虛幻を化除し、妄想の存する空間を假設すべし。器物の實相に就きて人類の生存依歸を得しめ、人類の生存條件と過程を爲さしむるも、靈性の加はりなく、改造昇華も無かりせば、若し再び輪廻相循の環境に入らざらば、誠に甚だ難きかな。
實相の世界：是れ「色法」を以て一切の芸芸衆生を成就す。眞實なるのみならず、甚だ實際の生存過程にして、人類も實相の世界を離るべからず。又靈性の世界のみに在らば、人類を創進改造すること能はざるを形成せん。此の種の人類は、正に上昇と下墜の分界點に處するなり。
人類は「含因改造界」に在り。若し實相の世界の存在無かりせば、一切の佛菩薩、聖神仙道に対して、超越と昇華を達すること甚だ難く、況んや成長と提昇をや。人類の世界に対しては一分の長養教化の基本課程有り、人類の世界に就て學習し成長して、更に應用するなり。
更に学習を通じて再び基本範疇を超越した境地に入ることは、永遠に変わる事のない事実である。実相の世界に対して十全に対処し、責任を果たすことができなければ、必ず人間世界において欠如を生じ、それゆえに円満に達することはなおさら困難となる。かかる状況において、いかにして資糧位から実践位へ、さらに精進位へ、そして円満位へと入ることができようか。
崇心の著作は既に漸く禅密の段階に入っており、今後とも一段一段と着実に歩みを進め、より大きな資糧を積んで実践に役立て、未来の「真仏心宗」の基本的枠組みを構築しなければならない。また、「儒宗聖教」の伝承から逸脱し背いてはならず、天に対して説明と責任を果たし、実践の拠り所とすべきである。
未来の人類衆生に対し、自らを高めて超越するための長養教育の課程がある。成長と向上を達成するには、必ず順序を立て、一歩一歩着実に進まなければならない。また、『大道明心』において、他者を救済する下化の主要な課程を修することも必要である。それは、器物世界の中から霊性世界を向上させ、人間世のすべての善き人々が利益を受けられるようにするためである。
有情に利益を与え、自らの霊性を向上させてさらに超越してこそ、真に自らの未来を切り拓き、自らを主とし、輪廻の縛りを受けず、再び自らの奴隷となることはない。このような真理を凡夫はほとんど悟らず、ゆえに幾度も輪廻を繰り返すのである。これは必然の理であり、いかんともしがたいことよ！
『大道明心』において、人類と器物の世界を了知し、一歩一歩「資糧位」に融和して「実践位」を実践し、さらに「精進位」に入り、いかにして「圓滿位」に達するのであろうか。すべてを順序立てて完成させてこそ、この一生において本源に回帰し、超越し、上昇することができるのである。
大道は心を明らかにし、これ実相なり。器物世界は真実を顕揚す。
霊性と世界、二ながらに融合し、資糧を積み実践して、精進の行まさしく良し。
円円満円、禅宗に契入す。密密行行、本より是れ同じ。
真仏心宗大千に揚ぐ、三千世界悉く理を弘む。
正法明如来が導きとなり、南海の古仏観世音。
崇心の因縁は深くして遠く、理筆は更に大同を迎うべし。
この偈は、衆生を蓮華仏国に導き入れ、実際の資糧位を得せしむるものである。人類の物質世界と霊性世界は、互いに離れることはできず、当然両者が融合してこそ真実の姿となる。それによって一歩一歩向上し、本源に回帰して超越していくことができるのであるが、そのためには、長く険しい精進努力の道程を歩まねばならない。
跋、凡例
南無薬師如来仏
讚賀、頌、序言
南屏無疆にして原靈を渡し、道濟降りて佛心に迎へらる。
古佛の慈悲天機を展開し、心法色法實相に親しむ。
靈性の世界實相の世界に入りては、必ず「心法と色法」の二つを相互に潤合せしめ、始めて人世间に展開するを得ん。これ正に人類生存の原動力にして、必ず「心・色」の二法を人類世界に於いて、潤合と成長の過程を為さしむるは、即ち融合生存の必要性なり。
芸々たる衆生：皆「心法と色法」に対する實際の了解を欠き、これによりて常に心・色兩法に障礙せらる。又心法の中には特殊の意涵を有し、甚だしきに至りては、心法に於いて如何にして己が靈性を向上させ超越し得んや。即ち心法と靈性の「唯識觀念」を主理と為すなり。
「心・色」兩法を相互に應用せんとするには、人類世界に於いて必ず器物世界を主體と為さば、始めて生存の過程を器物を通じて展現するを得ん。即ち人類世界の「心法と色法」を兩相結合せしめ、又實相世界は人類の科技文明の器物を以て、世人に長遠の福祉を有せしむるなり。
人類の住する世界は、まさに「心」と「色」との交わる処に在り。必ず実相世界の色法を以て、有情の世界に人類の安居の処を創造せしめ、即ち色法の器物世界に現れ、有情の蒼生をして人世に於て器物を用いしむるなり。
己が心性の超越し得るや否やは、皆己が努力の如何に観るべし。又、実相の世界は正に一切の「含因累積改造の界」にして、個人の作為を以て天地の定律を変え得んや。能わず。又、人類の衆生として如何に天地の一切の演繹の過程に配合すべきか、これこそ真の実性なるべし。
心法とは、宗教の伝延の課程に於てのみ現るるものなり。若し宗教の修持と薫陶を経ずして、「唯心世界」に入らんと欲せば、必ず唯識世界の大門の内裏を了知すること難く、況んや唯心世界に在るを了知せんや。これ「唯識の思想、觀念、行径」の総結合に建立在らざればなるまじ。
人類の世界は「般若の智慧」を提昇し、甚だしき一切の人世の相を了知し、又天地の演繹の過程を明白にし、更に又「虚空の演繹」の過程を了知す。人類の世界の霊性と為るに、必ず向上提昇の主要なる資糧有るべし。
又、心法を以て人類の生存の盲点と迷思を破り、即ち人類の世界に於て一切の生存の事相を透徹すべし。いずれの宗教の派脈を修持するも、是れ天地の演繹、虚空の演繹の過程を明晰にするに在り、又人類の生存の演繹の過程に対しては、更に能く了知せざるべからず。
そうして初めて、生存の過程において、霊的世界の「唯心・唯識」の理念に入ることができるのである！また、唯識・唯心の世界は、まさに霊的世界における向上と超越の境界であり、人間世界において主人となるか奴隷となるかの違いは、すべて自ら選択するところであって、昇華を望むか、輪廻を望むかの分岐点なのである。
人類世界は六万余年にわたり、なぜ無極理天、虚空天界、極楽世界に帰還することができないのであろうか。その主な原因も、まさにここにあるのである！すなわち、他宗教に対して「分別と我執」という観念を抱き、さらにはしばしば他宗教を「貶め」、分別、執着、軽視、誹謗を繰り返しているのである。
それは自らの上昇と超越を妨げるばかりか、さらには後世の多くの学衆を道連れにして、地獄に堕ちる種子となってしまうのである！このような分別、我執、軽蔑、誹謗がすでに形成されてしまえば、どうして天界に上昇し、諸聖、神仙、仏、菩薩らと共に集い、大道を弘め推し進めることができようか。少し考えればすぐに明らかになることだ！
心法：霊性世界においてそれは、衆生の原霊を回帰点へと導き昇華させ、基礎的な課程と修行を超越させるものである。しかし、心性において実際にこの境地に達することができなければ、現在においても未来においても、自らの霊性を高めて超越回帰することは決して叶わない。これはまさに、個人の思想や観念、そして環境の影響に左右されているためである。
当今の時代、上天はこの殊栄を「天音伝真の天筆」に下化せしめ応用し、これにより霊性の超越と回帰を図り、さらに「金品蓮台」に入りて成長を遂げしめる。人類の世界にあっては、単に器物の実相界における一切の動源のみにとどまるべきではなく、霊的精神世界への回帰と超越を為さねばならない。
実相界を上昇と下降の分岐点とするのは、その根本理由もまたここにある。また実相世界は、まさに霊性世界上昇の課程における資糧であり、実相世界を経ずに霊性世界のみが存して生活と遊離するようでは、一切の有情衆生をして回帰と超越を遂げさせることはできないのである。
生存の実相の世界を理解することは不可欠であり、それはまさに「一切が因の累積を含む改造の世界」である。これは仏教に言うがごとく、「前世の因を知らんと欲せば、今生受くるところこれなり。来世の果を知らんと欲せば、今生なすところこれなり」ということであり、因果の法則や規律、規範に合致するものである。未来がどのようなものかを知ることができないならば、現在の行いによって判断することができる。
人間世界の一切の行跡は、皆、未来のあらゆる生存の趣に関わり、まさに成就と堕落を分かつ分別の性である。それは現在の所作と為すところによって了知できる。もしこれを了知できなければ、すなわち、鈍きかな！鈍きかな！鈍きかな！冥冥としてまた冥冥、忙しなくまた忙しなく、果ては人の一生を終えゆくとは、なんとも哀れなことか！
色法世界：すなわち器物の実相の世界であり、人類が生存する現下において、生存のプロセスから離れることはできない。最も主要な基本として、必ず資財が具足して初めて生を潤すことができ、また一切の福徳と智慧が具足しているかどうかについては、人類衆生は皆無関係で重要ではないと考え、よってすべての関連する源を理解しないのである。
人類は、まず十分な財を具えてから、初めて人生の修行と自己変革を論じるべきであり、それこそが現実的で真実であると考える。しかし実際には、人々はわずかな利益のために霊性の向上を売り渡し、かえって多くの業因、業果、業障を造り成しているのだ。実に悲しむべきことである。
諸賢なる者たちは聡明にして知恵を具え、人間世界において未来の生存の過程に向き合い、自らの時間を用いて功徳を積み、超越してこそ、「智者」の証しとなるのである。かかる「智者」は必ずや変革し、本源に回帰し、超越できてこそ、真に「智者」と言えるのである！また、智者は徹底的な変容によって円満に具足すべきである。
これにより福徳と智慧を相融和させ、共に進歩させ、相互に融合させることができる。しかし愚かな者は、ただ富を充足させるためだけに無辺の罪業を積み重ねる。自分のためであれ家族のためであれ、それがどうだというのか。家族がこの業障を代わって担うことができようか。誠に難しいことだ。「個人の業因と業果は、自らが消さねばならぬ」ということこそが真実の理であり、一丝一毫も他に移転することはないと、必ず了知しなければならない。
心法と世界は霊性に通じ、本性と仏性によりて諸因を了る。
成否は己にあり 乗り越えて覚有情に還る
色法の実相なる器物界、生存環境はこれ自らの所為なり。
通貨具足は生を潤す可し、智者愚者兩に分かれ堆く。
大道は心を明かにし、再び著作を垂れ、実相世界に於いて我を成就す。
霊性世界に帰返するは因なり、四海に弘揚するは大道の構えなり。
此の偈！諸賢生等と共に相勉めよん！実相世界に於ける色法は「万殊唯物」なり、霊性世界は唯心・唯識の世界にして、まさに「万法唯心造」による一切なり！如何にして帰返し、如何にして超越せんや？皆「大道シリーズの天書」に於いて真章を明らかにすべし。
跋、凡例
南無阿弥陀仏
讚賀、頌、序言
昊天玉帝の降臨を恭しく迎え、崇心の神人、班を列ねて行ず。
大道の院士、順序に従ひ、大道仏心の章を完成す。
今夜は『大道仏心』最後の一回にして、昊天玉皇大天尊、玄靈高上帝、親しく降臨して著作したまふを恭しく迎ふ。諸神人および無極大道院の霊修院士等、班を列ねて御駕を待ち、その他の人等は喧嘩すること勿れ、また儀を失ふこと勿れ！
玉皇大天尊 玄靈高上帝—蓋天古佛
玄靈玉帝親ら堂に降臨し、諸神人等虔恭に航（みち）ゆかん。
著作佛心覺圓滿たり、崇心弘化真理揚がん。
崇心能く天の厚きを得て、南贍部洲に於いて教化課程の聖務を為すは、是れ崇心の諸神人等堅志抜くべからざる毅力により、如何なる困難をも克服し、在在に主事者の堅心所成を示すに由る。即ち無極皇母親ら懿命を以て堂を設け、能く「儒宗聖教開啟」を弘揚し、将に過往の陳腐なる作為を改造せんとするなり。
是を以て三教の真理を弘揚し、且つ天下の宗教の為に相互融合を為す。元来本一家なり。又宗教を以て人類蒼生に区別を為すは、一条の選択可き路徑有りて自ら学習し、自ら進修せしめんが為なり。即ち自ら願意する所の一条の大道を修持し、是れ更に衆生の楽みて為す所なり。
儒宗弘揚：是を以て真理を以て教化と為し、又三綱五常、四維八德を以て、人生修持の過程と行径を一一彰顯し、「孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥」を行持する当中、生存の道德を下化し人類に對し上蒼の慈悲の演化せしむる所となり、衆生皆能く成就するを目的と為す。
人類の信仰は、信実・願力・行持を以て主理と為し、自ら宗教の修持に入り、教義の課程を深く我心に植ゑ付け、自ら成就の原動力と為すなり。又当今萬教齊發の時代に處り、諸宗教皆我れ最高超にして殊勝なりと謂ひ、これ皆自我標榜の行徑なり。
真理を弘揚するに彼此を分かたず、汝我を隔てず、他の宗教派脈の教化を分別すること無く、宗教の伝延する所に就き、その思想を深く人心に植ゑ付け、是れ自ら修持の範圍内に在りて、輪廻を超越し、生死を超越するを得しむるなり。又宗教の所有する教育は、即ち國家の教育の不足を彌補するものなり。
是を以て教育教化の傳承、佛家後代に與へて真如を彰はし、佛性を顯はすは、宗教の最首要の目的と為す。即ち此心を明らかにし、此性を見るに在り、是れ「明心見性之本體」なり。又宗教傳延の課程に在り、是れ當然の理にして、豐富なる資糧を具へて成長超越を成すなり。
宗教の本身は即ち無分別なり。只傳延者後代に與へて保護の行爲を為す下に在るが故に、即ち分別の障礙を生じ、又他の宗教に對して「分別・我執・貶低・毀謗」の行爲を成すに至る。是れ人類世界の宗教に於いて必ず打破すべき訛謬の觀念なり。
真仏心宗：現代において「唯識の観念」をもって禅宗・密宗の宗脈に入ることは、上天の教化に代わり、平等を行い、真如を顕わし、仏（自）性を明らかにすることである。道脈の基本的な教育課程においては、分別せず、我執せず、貶めず、誹謗しないことが必要であり、これこそが宗教的平等の実践である。
信仰の平等、自性の平等、修持の平等、そして霊性の平等があってこそ、初めて宗教間の公平性が保たれる。それにより彼我の別、汝我の区別がなくなり、さらに五教の殊勝なる教義を融合させ、三教同宗、五教同源の境地に至れば、有情世界の一切衆生が皆本源に帰還し、皆超越し、皆さらに大乗に乗じて彼岸へ渡ることができるのである。
「真仏心宗」は宗教の基本的概念を超越し、「分別・我執・貶低・毀謗」といった行いを断ち、三教の精髄と五教の教義を融合して伝え継がれるものであり、蓮華仏国の世界へと歩み実証を重ね、蓮華仏国の浄土に到達することこそが、「真仏心宗」に不可欠な理念と実践である。
理筆が受け継ぐ上天の御心なる大聖務は、ゆえに真理をもって蒼生を救い導き、本源へ帰還させ、诸天の仙仏・聖神・菩薩と連携して、全体の大帰還・大超越・大乗超越の主体を結集し、「理の化現せる玄機により衆生を済度する」という本質と為す。さらに、未来において必ずや真に全世界へと弘揚されるであろう。
有情の世界は、生存を営むあらゆる潤生の働きから離れることはできない。また、人間界は上昇と下堕の分岐点であるがゆえに、上蒼の御意から見れば、すべての衆生を救い渡して本来の境地に帰還させてこそ、上蒼の示現の過程が完結するのである。いかなる有情衆生をも五濁悪世に沈淪させないこと、これこそが上蒼の慈悲の道程の本質なのである。
「儒宗聖教」は現代において、かつての「儒宗神教」の教化課程の模式を脱しております。崇心なる諸神人らに対し、自らの天命と任務が殊勝であると執着してはならず、謙虚に他宗教と融和し、後進の学生を教化して、将来において実際の功勲と福德を積めるよう努められることを切に願っております。
まさにこれ自ら成すなり！これ天の賜うところなり！これ智慧の顕現なり！すべては自らによって成し遂げられ、自らによって創造されるのである。蒼天に対する責任を果たすにあたり、「上徳は徳に執せず」という理念を最乗において最大限に発揚すれば、必ず天地の大愛を体現して融和し、さらに無数の有情たる衆生を潤して、すべてを本源に帰せしめ、超越せしめる。これこそ真実の証驗なり！
儒宗の聖教は五教を演繹し、儒・道・釈・耶・回は同源にして本来一家なり。
真仏心宗は自他を分別せず、真如自性の大道を顕して普く天の下に遍し。
この偈は、崇心道脈に賜るものであり、今後、芸芸の蒼生を導いて超越へと帰還せしめるものである。現在、迷妄に沈む原霊たちに対し、光明の大燈台となり、大いなる導きの指針として根本的な拠り所となる。さらに広く一切の有情衆生を導き、真理を説き広めて、無極理天、極楽世界、虚空天界へと帰還せしめん。
まさにこれ、朕が此の時代における最大の願いにして希望なり。勤勉と勇気を誓い、志を堅くして勇往邁進し、必ずや未来において「儒宗聖教の伝延は永遠に変わることなく」、教化に立脚し、「真仏心宗にて真理を闡揚し大同を輝かせ」、蓮華仏国の浄土に至りて「金品蓮台」に乗りて帰還せしめん。また、朕が今宵みずから崇心道場に降臨して著作せし『大道仏心』の総ての円満なる完成にも応えんことを！
儒宗聖教の伝延は永劫不変なり。
真仏心宗、真理を闡揚し大同を耀かす
跋、凡例
南無大日如来仏
本師降著佛心跋 釋迦牟尼來成化
大道仏心既に完罄す、真の仏心宗を弘揚せんとす。
跋 一
「儒宗聖教」は五教の課程を演繹し、彼我を分かたず、教派を分かたず、皆上蒼の衍化せる宗教の中に在りては、真理を以て人類生存の価値を彰かにし、修持に入るを目的とす。
甚だしくは平等の行を超越し、宗教間の我執、偏悖、誹謗、貶低を化除し、宗教間の平等博愛、無私、無為は乃ち達至す、是れ我等が宗教に必ず有るべき観念と行なり。
「真仏心宗」は禅宗の本質を演繹し、漸修より頓悟に入るなり。本来文字を立てずと雖も、衆生の迷妄により、皆自己の執著を有し、円満を達成すること甚だ難し。故に必ず文字を以て成就せしむるなり。
尚教派を分けず、彼此を分けざる振る舞いは、平等を以て一貫の主体と為し、更に因本を超越するを成就す。これ自己への要求の中にあっては、彼此の間に互いに尊重し、相互に賛嘆し、更に互いに融合せしむるに至らば、これこそ実真性なり！
『大道仏心』は、崇心道場が主体の因縁を弘揚し、崇心を以て発展せしむるものなり。其の最主要の目的は、正に衆の原霊子を導き帰して成就の津糧となさしむるにあり。資糧位に於いて真に実行に入り、精進に入り、円満に入り、乗越に入るは、これこそ崇心の最主要なる架構なり。
即ち此を以て芸々の蒼生を引渡し、真如を彰にし仏性を顕わすを最主要の目的と為し、了知するのみならず更要に能く実行し、必ず円満を成し、精進し更に乗越するに至らば、これこそ実際に完成し、蓮花仏国の浄土に入るなり。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
崇心正主席 虛空上人
◆ 跋・讃賀 ◆
跋、凡例
仏教の教尊、堂に降り来たり、薬師如来、真に賞歎す。
大道と仏心、禅宗を耀かし、災いを消し厄を解きて、吉祥を兆す。
跋 二
真に崇心の道場のために慶賀す。独り仏教の四大教尊等と諸天の高真仙聖神仏の眷顧を得て、且つ又、一冊一冊の大道系列の天書の中に、有情衆生の成就の基本条件を彰かにす。此の如き因縁は、上蒼に対して即ち一分の責任有り。行持して永恆に断えず、且つ能く任意の困難と横逆・険阻を克服し、更に毀謗・軽視を化除す。
能く志を堅くして繳書を達成するは、上蒼に対する一種の誠信にして、亦、有情の蒼生に対する一分の教化の責任なり。喜び賀すべきかな。皆在在に能く任意の考程と磨難を通過し、其の中で更に成長し、更に心を堅くす。これは正に崇心の諸神仏と学生の必要とする堅定の毅力の促成する所なり。
誠に喜ぶべく賀すべく、また心に感ずべきかな！仏門に在りて二千余年来、極めて有ること少なきなり！更に仏門の精髓要義を闡述し、下化の天書の中に於て更に創舉と為すは、これ仏門の子弟等、皆門戸に偏執し、唯我独尊の偏見有るに在り、また仏門の真理を普遍に散布し、芸芸の蒼生を下化すること能わざる所致す所なり、誠に嗟嘆すべし！
嗟乎！崇心能く仏家の精髓典要を傳承し、且つ唯識、禅宗、密宗等の心法を、大道のシリーズ叢書中に融入るることを得、これ即ち推廣弘揚せんとするが為なり！自ら利し又有情の衆生を利し、浅白にして解り易き文字般若を以て、下化の智慧の結晶と作す、是を以て崇心能く之を達成するなり。
彼此を分けず、宗派を分けず、すべてが融合してより円満となることを切に願い、さらに長く志を堅くして仏門の燈台を輝かせ、無数の衆生を照らして成長と超越へと導き、豊かな資糧を生み出して人類をはじめとする衆生に与え、学びと精進を促し、円満への回帰と究極の超越へと至らしめんことを。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
無極欽差大臣 南無燃燈古仏
◆ 跋・讃賀 ◆
跋、凡例
儒宗聖教、天下の衆霊に正法を演じ、西方極楽世界に帰還せしむ。
真仏心宗、真理は大地を導き済度し、蒼生は無極の虚空に帰還す。
跋 三
誠に喜ばしい！心より喜ばしい！誠に欣慰に堪えない！仏門においてこの二千有余年、真に教化の課程の資糧となり得るものは得難かったが、今、上天の慈悲深き御命により無極大道院および懿敕崇心堂に下されたこの恵みにより、己が昇華を成就するのみならず、さらに万民の超越をも成就し、これこそ根本に回帰する所以である。
昇華の資糧を積むことは、まさに我ら仏門の光栄とするところである！崇敬の心をもって一連の大道天書を著し、仏家の精髄を天書に宿らせることができるのである。我ら仏門の子弟らに望む。自らを最も殊勝であり、最も本源に回帰し得る者と執着してはならない。そのような心は、すでに自他を分別するものとなっているのである。
天下の宗教は元来一家なり。ただ大地の蒼生の人種が異なり、一人ひとりの習性もまた極めて大きく異なるがゆえに、上天は大道を様々に演繹し、聖仏を降臨させて宗を開き教を説かせ、儒・道・釈・耶・回などを分け、もって万般の宗教の教化の機能を果たさせ給うのである。
これ芸々たる衆生に、選択し依持すべき目標を有せしめ、自らの意願に従いて行じ、且つ心甘んじて学習と教化の課程を為し、以て宗教の命脈を伝承せしめん。如是せば真に受益の資糧を得て、己に如実の増長を為し、未来の収穫を供するなり。
大道の系列は、皆处处に仏家全体の精髄を演繹す。雖に儒宗立教に用いられ、又道家規範を以てすといえども、これ三教は本より同宗にして、五教は共に同源なる元の本因なり。故に他の宗教派脈の教育の伝承を軽視すべからず。これ宗教の修子に受益を提供せんがためなり。
各々の宗教には皆其の長所あり、又其の短所あり。如何にして融合し、如何にして契入せんや。彼此を分かつことなく、更に相互に尊重し、相互に融合し、且つ相互に賛嘆し得てこそ、これぞ上天の平等の原則にして、即ち帰返に必須の基本的要義なり。
若し然らずして、分別、我執、誹謗、貶低、軽視あらば、即ち極楽世界に上昇すること難く、更に輪廻下墜の種子となる。天界においては、聖賢仙仏のいずれも分別心を持つこと無きを了知し、必ず相互に融合して、乃ち回歸超越を語るべし。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
崇心主席 虚空天尊文衡聖帝
◆ 跋・讃賀 ◆
跋、凡例
大道仏心已に完竣す、大日如来凡例に引く。
五教を演繹して本源を同じくし、仏教は平等に衆生を済度す。
凡 例
一、『大道仏心』は仏家千年不伝の密なり、崇心道場に於いて真実の義を闡述す。我が仏門の弟子に望むらくは、即ち「唯我独尊」の錯誤の觀念を破除し、正に宗教の平等にして高低無きを修整せんことを！
二、凡そ我が仏門の子弟等は、唯我仏門のみ極楽に超生す可きものと執視す可からず。甚だしきに至りては、上蒼の降下したもう所の諸宗教を以て蒼生を引渡し、根本に回帰せしめ、これ唯心によって成る所の器物世界を改造するなり。
三、凡塵の衆生は皆、我の「執著、分別、誹謗、貶低」によりて自らを限り、成就しがたき罠に陥る。必ずや謬れる宗教の思想觀念を破除して、化除することを為さばなり。
四、「大道仏心」とは、即ち崇心を以て基礎教育と為し、有情蒼生に真如を彰わし、仏性を顯はさしめ、以て自ら成就し、衆生を成就せしむるは、正に最主要的なる資糧の源にして、提昇超越し成長するなり。
五、資糧位の中に在りて、自ら精進を実行し、以て圓滿と成り、更に乘越す！自ら選択せる一條の修持・回歸の路程に於いて、又崇心を以て大道系列の天書根本理論の下に蕓蕓の蒼生を化し、即ち宗教平等の基本觀念を蕓蕓の蒼生に帶びて、皆成就せしむるなり。
六、成就の根本は、宗教を分けず、高低を分けず、彼此を分けず、教脈を分けず、又回歸と超越を分けず、是れ平等教育の課程と為し、成就の最主要的なる基本觀念と為す。且つ更に乘越して、再び蓮花佛國の淨土世界に入るなり。
七、蒼生を引渡すは、自ら能く成就し、又能く他を成就するなり。目前の推廣は頗る辛苦にして、頗る難しと雖も、心有れば必ず之を成すべし！心有れば必ず教化・教育を成就し、平等宗教の基本觀念を成すべし！
八、此の書の在る処には仙仏の護佑あらん、随意に棄てて以て仙仏を冒瀆すること勿れ、深く注意すべし！『大道仏心』を助印して若し求むる所あらば、上天自ら斟酌して請う所に賜うべし、其の業障を消し福慧を増さんことを助くべし。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
昊天欽差大臣 李太白仙翁
##崇心副主席 麻仙姑
虚実の人間に教化を伝え、空に転じて蓮花より自ずから成就す。
高座に上りて大道の冊を完うし、人間の因縁はさらに昇華す。
恭しく完書を拝受し、勅旨を繳ず。
今夜、喜ばしくも『大道仏心』の書が完成し、当堂の一大盛事となった。これにより、本堂の虚空彩雲仙姑、虚空彩霞仙姑に三十里外にて御出迎えを命じ、さらに本堂の虚空落筆天尊、虚空金筆開智天尊に二十里外にて御出迎えを命ずる。その他の神仏、諸賢生、ならびに無極大道院の衆霊修院士らは、整列して御駕を待ち迎え、少しも礼儀を失うことなきよう！
大道の仏心、書を著し終わる。燃燈古仏、真心を舒べる。
欽差大臣懿旨を帯び、堂に降りて懿を宣ぶ、実に特殊なり。
今宵、無極皇母大天尊の御身よりの御勅命を喜びつつ奉持し、崇心道場に降臨して宣旨を下される。衆神人、伏して拝聴せよ。決して喧騒を立ててはならぬ！
懿旨開読
謹んで奉る
無極皇母大天尊懿旨に曰く
母は理天の聖地にましまして、しばしば南贍部洲を御覧になります。多くの霊児たちが四生六道に沈淪し、真如の本性を顕現することが甚だ難しいのを御覧になって、ああ、嘆かわしいかな！人の世は華美で巧詐に満ち、原始の自性本心へと回帰することは難しく、それゆえに生死の輪廻を流浪し、無極の仙郷へ帰還することを知らない。これは誠に母の御心を嗟嘆させ、悲嘆の極みに至らしめているのである！
常に門によりかかり、凡塵に生きる数多の霊児たちを遥かに見渡し、いつになれば帰還できるのかと嘆息される。今、台湾桃園の母心懿勅道脈・崇心堂は、丙子の年に開堂して以来、直ちに大道シリーズの天書の執筆に着手し、一篇一篇に真理を、一冊一冊に実義を込めて、数多の霊児たちを導き、実際に根本へと帰還せしめているのである。
母の慈悲の心は大同世界を実現し、人世を浄化して蓮花仏国を成す。また『大道』シリーズ第七冊において、仏教四大教主が御旨を請いて著述した『大道仏心』が今般完成したことは、まことに母の御心を安んじさせるものである。さらに、霊児たちが堅固な志を持ってこれを成し遂げ、その職責を全うし、勇往して退かぬ姿に深く感じ入る。この情と志は、まさに称賛に値する！
母の御心は、崇心の諸神仏に対して特に恩賞を下し、各人に三千大功を与え、さらに功を三等加える。また、諸霊児らにも各人に三千大功を与え、これは皆勤した者に与えられるものであり、出席が三分の二に満たない者は功を半分とする。これは、熱心に参加した者たちの労をねぎらうためである。今後においては、さらに著述を続け、真義天冊を詳細かつ実直に記し、そして多くの霊児を広く導いて帰還させることが、母の御心の特別なご期待である。崇心の諸神仏、ならびに衆霊児らは、固い決意をもってこれを成し遂げ、母の御心の切なるご期待を裏切らぬよう願う。
無極皇母 懿旨を頒示したまう
無極大道院 懿敕崇心堂
天運己卯年十月九日戌の刻
善哉！崇心道場の諸神仏及び衆賢生等に賀す。上蒼より賦せられし使命を堅志して完遂し、上蒼の棟樑の才と道場の選抜に愧じず、仏門の光輝にも辜びず、更に普く照らし、実に欣慰に堪えぬ！
皇母の功勳賜ふに感恩し、崇心努力して更に辛勤す。
續きて昊天の懿旨降るを迎へ、神佛及び學生、虔恭に迎へ奉る。
再び昊天玉帝玉詔の堂に降るを迎へ、本堂の觀世音菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩に命じて二十里の外に駕を迎へしめ、本堂の濟公活佛、虛空銀筆大道天尊に命じて十里の外に駕を迎へしむ。其餘の眾神佛と諸賢生、及び無極大道院の眾靈修院士等は、亦順序に從ひて班を排して駕を候べし。儀を失ふことなく、又喧嘩すべからず。
欽差再び崇心堂に降り、太白仙翁更に欣賞す。
大道仏心、書を了す。道、崇心を賀し、勇んで承擔す。
今夜誠に喜びなり、再び昊天の玉旨を帯びて崇心道場に降りて宣読す。欣んで玉旨を奉じ崇心堂に降臨す、神人俯伏せよ！
玉旨開読
欽奉
玉皇大天尊 玄霊高上帝 玉旨に曰く
朕は九五の至尊に居り、諸天の昇降の権衡を掌理す。宗教の教化課程を提昇し、天地の中に定数と規律あることを了知す。これ天・地・人三曹普渡の「大道の弘展、仏心の発揚」を成就の因本と為すなり。教化の過程に於いては、衆生の心性を提引し、自性の仏体を彰らかにするなり。
誠に己を成就するを至要と為す。而今、台疆の懿敕道脈崇心堂、旨を奉じて堂を設け、広く教化を引き、大道シリーズの天書を著作して真如を彰かにし、仏性を顕す。天地運転の真実義、宇宙虚空の演繹を了知し得るは、誠に得難く、大地の衆生に昇華・超越の資糧源を提供するなり。
堅志職を克し書を完ずるを期盼し、実に朕欣慰を感じしむ！特に此の殊栄を大道の津糧と化し、輪廻を超越し、自我の霊性を提昇して開啓せん。更に始めより今に至るまで堅心に完成し、艱辛し職を克し尽くし、上天に対し「誠信」偏失無し！是れ肯定と嘉賞に値するなり。
朕龍心大いに悦び、諸神人等に犒賞し、各々三千大功を賜う。全勤欠け無き者は之を得、三分の二に足らざる者は亦之を減半す。以て全勤欠け無きの誠心を慰めん。而して後に再び大道シリーズ第八冊を受け、更に堅志長く広く教化の機模を引かん為に努力せんことを望む。
儒宗聖教広く化し  伝承疆遠無し
真仏心宗引渡し  無限更に広延す
昊天玉皇大天尊 旨を頒ちて於
無極大道院 懿敕崇心堂
天運己卯年十月初九日戌の刻
御沙汰完了！おお！崇心の神人各位、誠におめでとう。再びまことに上天より功績へのご褒美を賜り、神筆を執る固き志をもって如何なる困難をも克服されたことを示し、上天の慈悲深き賜り物に感謝せよ！この天機を授けることができたことは、崇心にとってもこの上ない慰めとなる。ははは！誠に喜ばしい！次回もまた降筆する機会を得られることを期待しておる。辛苦であったな！老仙、天に帰りて御沙汰を復命する。さらばじゃ！
儒宗聖教広く伝延し、真仏心宗再び彰顕す。
今夜、仏教の教尊が降臨され、『大道仏心』の前回の「凡例」を著され、さらに今回初めて「聖旨を奉じて宣諭」されるのは、まさに本堂の殊栄にして、他の道場とは比べられぬ特別な恩寵であります！これは崇心道場へ寄せられる御眷顧と御提攜であり、我ら崇心の神人一同は、まさに深く感恩し、叩頭して謝恩すべきであります！
仏教の教主ならびに諸尊の慈愛を賜り、一層精進して勇往邁進し、仏門の子弟を導いて真実の義を了知せしめ、他の宗教や宗派の違いを軽んじてはなりません。昊天玉皇大天尊が功徳を賜り、真心を捧げる諸神仏および弟子たちを労い報いてくださったことに感謝し、未来において大道シリーズ第八巻の著作を継続してまいります。
『大道仏心』の鎮座および天庭への文書奉納の儀は、来春の正月十五日に執り行われます。また、本堂の放送も開始されておりますので、全学生の皆様が聴衆となられ、本堂の資糧に対する敬意を示し、皆の力を結集して、諸師方のお喜びとなりますことを願っております。