大道シリーズ叢書 第9冊『大道見性』
日本語版
◆ 前置・序 ◆
丁酉秋分、2017年9月
大道シリーズ天書第九冊―『大道見性』は、仏教における「見性」の基本的な作用であり、崇心宗脈の『新唯識理』と結びつくことで、あらゆる宗教の良き修養と成長を支えます。これは単に「見性」の効能を体得するだけでなく、宗教信仰をさらに高め、ひいては「見性」に対する理解を深めるものとなります。
大道シリーズ天書第九冊『大道見性』の目次は以下の通りです。まず、開宗明義、覚性の種因、覚性の篩選、覚性の浄化、覚性の清浄、心灯を燃やす、仏性を顕す、仏性の秉性、秉性の魔性、魔性の悪性、仏性と魔性、天性と仏性から始まり、それぞれ異なる性体を区別していきます。
さらに、人間社会から内面へと歩みを進めますと、天心天性・天性自性・本心自性、霊性因種・霊性分差・霊性分別・霊性浄垢、垢浄双染、徳性本質・徳性耕植・徳性造詣・徳性無窮、自真如性・自性真如・真如実性といった、優れた差異が現れてまいります。
人間一人ひとりは、自己に対して以下のようなものを持っています：仏性真如、魔性真如、仏魔真如、仏魔切転、心性至真、開悟証果、霊覚通澈、『大道見性』―印心法門など、全三十六回にわたる教えです。このような因縁は、信仰を持つ方々にとって大いに助けとなり、各人の行動が未来のあらゆる結果を成就することを必ず観じることができます。
心灯を灯すことについて論じるならば、それは人々が修行を通じて仏性を顕現させる際に、必ず知るべきことを指します。すなわち、いかにして心の灯を灯すかということであり、自らの方法において真の効果があることを明確に体証できれば、その瞬間から構築を始めることができます。これは自らが体証した方法が、一点一滴の積み重ねによって成り立っていることなのです。
仏性を顕彰すること：もし第八意識の種々の汚れた垢識を棄て除くことができなければ、顕彰の目的に達することも難しい。それは自分自身の汚れた思想を棄て除くことが難しく、また「因果応報」に現れるものに対して、どうやって顕彰すべきか？さらに、顕彰する目的とは何か？確かで実在する必要性があってこそ、真実の受益となるのです。
人世におけるすべての「因縁果報」を完遂し消滅させるためには、必ず理解しなければならないことがあります。自己の心性を高めることは、「真如を顕わし、仏性を顕す」という経験であり、有情衆生がこの瞬間に最も切実に達成を願う目標と行動です。この真実の過程においては、必ずや心の中のあの明かりを灯さなければならず、それがまさに「明心見性」の本質なのです。
「心の灯を燃やし、仏性を照らす」ことは、的確に実践する必要があり、さらにぐずぐずしてはなりません。そうでなければ、多くの魔障の因果が現れます。これは、自分が一切の世の相を明らかに体証できると同時に、今この瞬間に構築をしなければならず、また、どのようにして「心の灯を燃やし、仏性を照らす」かが真実であることを理解しなければならないということです。
仏性の本質を顕すには、まず外側の因縁果報を完全に清算し、必ず返済する必要があります。そうしてこそ、借りなしで身軽になり、向上の機会も得られ、真に超越することができるのです。つまり、自らの霊性が向上するのを観照し、この瞬間に明らかに悟るのです：心灯を灯すことがいかに容易でないかを！
第一、実際に体得する過程を確立すべきであり、単なる伝聞に頼るものではありません。
第二、自らが人間世界において真実の経験を積み重ねるように努めなければなりません。
第三、因果や業障が顕現した際、どのようにしてそれを解消し、償いを完結させるべきか。天命より授かった聖務を完遂することが必要です。
第四、知識と智慧の増長は、日常生活を通じて得られるものです。
第五、自身の職責に対して、完璧に「円満」に行うことが求められます。
第六に、真実の資糧位を具足するためには、精進位の努力が必要であり、「円満位」の成就に至り、自らの輪廻を真に上昇超越することが求められます。
心の灯を灯す：これは、現世におけるすべての「真実の理諦」を構築するためのものであり、必ず「新唯識学理」の観念から、崇心宗脈の『唯識理論、唯識観念、唯識行径』を経験として、いかに構築すべきかを明晰にし、またいかに自己の成長に到達するか、自己が体証し悟りを得るための道筋を示すものです。
常に自分自身において明晰に体証することが難しく、当の根本もまた真実の理諦に到達して応用することができない場合、多くの経典や文字の障りに左右され、さらに経典の中で迷いや障害を受けることになります。つまり「心の灯を燃やす」中での真の実践を体証することができず、多くの経験を通して徹見する必要があるのです。
もし経典の文字の障りに左右されることから脱し、「心の灯を燃やす」ことを望むならば、それは比較的容易です。経典によって体得したものから活用することもでき、文字の障りに左右されることもありません。「見性」に至ることは比較的容易で、自己の本来の心や本性を明晰にすることの中では比較的迅速です！これが真実の成長です。
「明心見性」は宗教に入り成長・向上するためのものであり、このような条件は人間のあらゆる善良な徳性に対しても、より効果を発揮します。「開悟」に対しても比較的容易であり、「證果」については大きく減ってしまいますが、このような因縁の中にある内実を理解できなければ、大きな不足を招くことになります。注意が必要です！
理心光明禅師が題して
『大道見性』天書再版に際して
『大道見性』 編集誌
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
##無極元君 麻仙姑

無極元君、麻仙姑と申します。
矢を尽くして勇み、怠ることなく忽せにせず
一日も早く完成させ、世に頒布して人々の寿を延ばさん
◆ 前置・序 ◆
丁酉秋分、2017年09月
天は真の道を降ろし、これを世に伝えるにあたり、すべてに真実の意味があります。自らの行いの中に、自らが理解できるものが与えられるのです。善悪の分別こそが「浄染と垢染」の違いであり、これは自性の「浄染」の働きによって、現世での行いがなされます。このような行いの中で、人為的要因が区別されるのです。
人類世界のあらゆる善行善事は、すべて「人為的な造作」を根本としております。教育や教化と同時に、いかなる宗教においても体悟と明晰を得ることができます。もしこれを超越することができない場合には、各自の霊性に対する了知が必要となります。まさに習性の中から判別されるものであり、人類衆生の作用と機能であります。
浄染：有情衆生はまさに一種の逆水行舟の行為であり、いかにしてこの逆境を成長に結びつけるか。一つ一つの事象が連鎖して作用する中で、逆境は増上縁として機能し得るのです。逆水行舟は確かに比較的労力を要しますが、人世界において体証することができ、各人が持つ作用・機能とその効果を実感することができます。
平穏、順調、吉祥：これらはすべて衆生が追求する目標であり、また人間世界においてはやむを得ないことです。人間の経験の中から、「苦中の苦を食べてこそ、人上の人となる」という道理が明らかになります。これは真の修行実践者にとっては戒めの言葉でもあります。しかしその背後には、「苦」という経験の積み重ねを理解することが求められるのです。
必要に応じて人類を通じて：生、住、異、滅、成、住、壞、空、喜、怒、哀、楽、悲、歓、離、合によって構成されるものでなければ、自分自身が平穏な過程にあることを理解するに至りません。学習経験による成長を積むことが必要であり、もし単に「染着」への対処だけに留まっているならば、どうして達成できましょうか。
浄垢：いずれも個人の生存のただ中にあり、また自らをこの両者の間に置くのである。もし自らを向上させることができなければ、下落の中で支え合うことが正しい。そして人類世界の様々な行いに対しては、まさに「浄垢」の両者を区別し、自らは如何に歩むべきか？又如何に行うべきか？
何が上昇の資糧となり得るかを知りません。このような境地に到達したいと願うとき、また衆生がこのような智慧の経験を積みているかどうかも分かりません。そうでなければ、皆なかなか成就できません！もし僅かな功果だけを持っているならば、必ずや常に第八意識の中に銘記され、自らの「無為」という障害を破ることはできなくなります。
人世の中で、どれほどの過ちと業障悪殃を犯してきたでしょうか？自分自身に対しても全く明らかにすることができず、ましてや、心に問うことも難しいのです。さらに、垢染はこの境界の中で成長していきます：人間に対して少しばかりの善事を行えば、心に刻みつけ、もし悪事を働けば、自分を省みることも、反省の行いを持つことも非常に難しいのです。
垢染の中で成長することになり、いかなる宗教の宗派に入っても、真に因本を向上させることは難しくなります。これは経験の作用を十分に備えることができず、根本的に経験による成長を応用することが難しいためです。個人の作用は垢染のみに存在するため、浄染の力を持続させ、その機能と作用を転換することは困難です。
人間世界を理解するには、垢染を打ち破ることができなければ、未来において「真如を顕し、仏性を見る」境地に到達することは非常に困難であり、また自分自身にとって非常に残酷なことでもあります。さらに、聖神仙仏は皆、衆生が五濁悪世に沈むことを望まず、そのため方々で教えを説き、至る所で道場を開き、衆生を導く働きをなされているのです。
有情なる衆生を、いかにして自らの向上成就に近づかせるべきでしょうか。また、「垢識」とは、塵に覆われる行為であり、人間世界ではこれを理解し明晰にすることはできません。さらに、垢穢によって自らが塵に覆われ、多くの塵埃を増やし、それを取り除くことは非常に困難です。常に塵埃の中にあり、「清水や法水」をもって洗い清めることも難しいのです。
自分自身に上昇と超越の根本性があることを認め、いかに「悟り」の過程を自己と衆生の利益となるよう下ろしていくかが、「開悟」に確かな機能を持つことになります。有情は自らの「心を明らかにして体証する」こと、および「見性の根源」における経験を必要に応じて用いてこそ、利益を得ることができるのです。
必要に応じて、自己と有情衆生が利益を得られることを理解し、どのように下化の機能を応用すべきでしょうか？「開悟」を実際に発揚させることができ、また往昔の「六祖慧能大師」が開悟されたように、多くの世の因質を積み重ねただけでなく、「明心見性」の後もなお凡夫の一人であるため、生存と生活を潤す行動が必要です。
『大道見性』の著作の本意は、自らの「心性の至真」「霊覚の通徹」に印心することであり、それによって自らを利益し、さらに衆生をも利益することができます。すでに「開悟」した者の心境とは異なり、どうすれば有情衆生の超越を成就できるのか。自らの「明心見性」において、ありのままに通徹して知ることが求められます。
明心見性とは、自性が体得する過程であり、もし天地、宇宙、虚空、無極と融合することができなければ、悟りは単に個人が体得する過程に過ぎません。しかし、もし天地、無極、虚空、宇宙と一体となることができれば、最後の関門である「印心法門」において真実の意味を顕現させ、さらに、それを現在において完全に現前させることができるのです。
理心光明禅師が題を記す
大道シリーズ第九冊 再版に先立って
『大道見性』　推薦の序

本書『大道見性』は、大道シリーズの重要な経典の一つであり、読者が自らの本性を見つめ、真実の自己を悟るための手引きとなるものです。

著者は深遠な智慧と慈悲をもって、仏法の核心を平易な言葉で説き明かしています。各章を通じて、私たちは自分自身の心と向き合い、煩悩から解放され、清浄なる覚りの境地へと導かれます。

この書は、単なる知識の伝授ではなく、実践を通じた内面的な変容を促すものです。日常生活の中での気づきと修行を重ねることで、次第に真理が見えてくるでしょう。

現代社会において、私たちは多くの情報と刺激に囲まれ、心が乱されがちです。そんな時代にあって、この書は静かに自分自身と対話する機会を与え、内なる平安を見出す道しるべとなるのです。

どうかこの書を手に取り、ゆっくりとページをめくりながら、自分自身の内面への旅を始めてください。そこには、きっと新たな発見と深い気づきが待っていることでしょう。
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
##南無正法明如来仏
◆ 旨 ◆
完書繳旨
矢を尽くして勇を尽くし、怠ることなく忽せにせず、
母の心の願う未来の著作「大道シリーズ」の天書を背負わず、
更なる広大な弘揚を成し遂げます。
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
##南屏道済古仏
2000年6月2日　庚辰年5月1日（金）
大道シリーズ第九冊　　謹んで懿旨をお受けし頒布のため作る
真仏心宗の義を弘め　　体証人生の徹を明らかに悟る
謹んで　著書の　ご趣意を　拝受いたします
今夜再び無極懿旨が堂に来臨し、大道シリーズ第九冊の継続執筆を命じられました。本堂より　虚空銀筆大道天尊、　虚空御伝駱天尊を三十里外に派遣し、お迎えをさせていただきます。また、本堂より　虚空霊会仙姑、　虚空彩霊仙姑を二十里外に派遣し、お迎えをさせていただきます。その他の神仏と諸賢生、及び無極大道院の修院士は、整列して恭しくお迎えし、礼儀を欠くことのないようにいたしましょう。
大道シリーズ叢書第九冊　『大道見性』 接旨著書
◆ 旨 ◆
完書繳旨
朕の願うところは、ひたすら勤め勇み、勇往邁進して衆生の模範となることです。
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
##南無大日如来仏
2000年6月6日　庚辰年5月5日（火）
無極の御前に侍る皇母　　九天玄女仙姑睦
帯懿宣旨第九冊　　大道シリーズ長遠著
謹んで　無極老母の懿旨を奉じ、堂に来たりて示しを頒ち、神人ともに伏し拝す！
懿　旨　を　拝　読　いたします
謹んで奉る
無極皇母大天尊　懿旨に曰く
母は理天の聖地にお住まいになり、南贍部洲の衆霊子が沈淪から帰還する様子を憂い見つつ、衆霊子の願いを深くお察しになり、いかにして彼らを導き真如の境地へと回帰させるかについて、自性の真如の境地において常に心を痛めておられます。それゆえ、母は常に御旨を下されて凡塵に降り、教化と教育の課程を行われるのです。これらはすべて、衆霊児が真理を体得し、向上することができるようにとのお心からにほかなりません。
それゆえに自性自ら渡り来たって回帰し、共に母の顔を仰ぎて龍華の季会に楽しみ、本性の至真を見極めるのである。母は懿勅を観じ、道脈崇心堂は丙子年の八月一日に開堂して以来、大道シリーズの天書を著作し、すでに合わせて八冊を完成させた。これらはすべて真理を闡明し衆生を教化することを述べており、広く好評を得ている。
今こそ！再び大道シリーズ第九冊の著作を継ぎ、その表題を『大道見性』と名付けます。明心の中に在って、如何にして見性において自己の本霊を顕現すべきかを悟り知ることにあります。自己が見性の根本に到達すると共に、有情の衆霊児に対し、「明心と見性」の本質を提げ示し、超越して回帰することを導くことができるのです。
命派は、南海古仏を主著仙仏とし、三界の高真を陪著仙仏とし、旨が到着した日より直ちに著作に取り掛かり、早期完成を主とします。母なる崇心道脈は、理児の導きの下、一冊一冊を完成させることができます。『大道見性』に対しては、まさに自分自身と多くの霊児たちが、自らの仏性を顕現し、心灯を灯すことができるのです。
まさに今この時、未来や来世に成就を託すのではなく、母の心が切に願うのは、一日も早く「無極仙郷、極楽世界、虚空天界、大宇宙世界」へと回帰し、自らの成し遂げたものを超越することです。
母の意に背かず、勇往邁進いたします
無極皇母が懿旨を頒示される
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年五月初一日戌時
善き哉！勅旨発布完了いたしました。衷心より崇心の諸神仏と賢生らをお慶び申し上げます。引き続き努力され、一冊また一冊と天書の著作が絶えることなく続けられますことを。まさにこれは　上蒼の棟梁たる大道の脈動であり、また未来において多くの有情衆生・霊児を導きて回帰せしめ、　皇母の衆霊児を思う涙の心を慰めるものとなります！　吾は無極に戻り勅旨の完遂を奏上いたします。
無極駕前　九天玄女仙姑
##南海古仏

南海古仏は、慈悲の心を以て衆生を救済される尊い仏様でございます。その御名は、広大無辺なる慈愛と智慧を象徴しており、人々に安らぎと希望をもたらしてくださいます。

古来より、南海は清浄なる境地とされ、古仏の御教えは、迷える者を導く灯明の如く輝いております。私たちは、その御徳を讃え、心に留めることにより、自らの道を歩む力を得ることができるのでございます。

どうか、南海古仏の御加護が、すべての生きとし生けるものに及びますように。南無南海古仏。
2000年6月9日　庚辰年五月八日（金）
謹んで皇母の大いなる御恩をお受けし、再び昊天の玉旨をお迎えいたします
儒宗聖教は教化を揚げ　　真仏心宗は仏性に親しむ
本夜、謹んで無極の懿旨をお受けし、降堂頒示は既に完了いたしました。  
稍後、引き続き昊天玉旨をお受けし、来堂頒示を行うこととなります。  
本堂の城隍帝君、無極の二、三関帝に命じ、二十里外にて御駕を出迎えさせます。  
天上聖母、観世音菩薩に命じ、十里外にて御駕を出迎えさせます。  
その他の神仏及び学生、並びに無極大道院霊修院士は、列を整えて御駕を待ち、礼儀を欠くことのないようお願いいたします。
虚空天尊　文衡聖帝
##南屏道済古仏
2000年6月16日　庚辰年五月十五日（金）
謹んで玉旨を帯びて崇心に降り　　祝嘏の声の中に降り来臨す
大道シリーズ再著作　　明心見性これ本因なり
今夜、謹んで昊天の玉旨を帯びて来堂し頒示します。神人ともに伏し拝みます！
玉　旨　開　読
謹んで奉る
玉皇大天尊　玄霊高上帝　玉旨に曰く
朕は凌霄宝殿に在りて、凡塵の宗教間を観るに、教義は繁雑にして、如何にして有情衆生の本霊を提昇すべきか、また如何にして自らの仏性を顕現すべきかを知らず。而して塵埃に蒙蔽され、皆超越に達すること難し。故に上蒼より棟梁の才を選び、宣化に対し大願力を有する者に、契機を成就し導かしむ。
すなわち、南天主宰文衡聖帝のご推薦により、崇心宗脈の理筆賢生が先天の大願と含蔵を有し、大道の殊勝なる使命を十分に担い得ることを認めます。朕は大いに喜び、崇心丙子年八月一日に勅旨を下して道場を設立した後、直ちに「大道シリーズ天書」の著作を開始し、今に至るまで八冊を完成させました！
龍心大いに悦び、再び大道シリーズ第九冊を下示され、その表紙に『大道見性』と題されました。南海古仏を主著仙仏とし、三界の高真を陪著仙仏とするよう命じられ、旨が届いた日より直ちに著述を開始し、時日を限らず一日も早く完成させ、上蒼のご期待に応え、蒼生を「回帰・超越」へと導かれますよう！
大道シリーズの著作は、現代の多くの衆生に対して、「一つの指標」であり、「一つの目的」であり、「一つの学び」であり、「一つの超越」であり、「一つの灯台」となる模範です。それは、未来や来世での成就を望むのではなく、この凡塵の中で「成長し」、「成就する」ためのものであり、そうでなければ、超越することは非常に難しいのです！
必要なる未来への回帰を成就するには、「自性自渡」「仏も渡し得ず」という真実の性質にこそ拠らなければなりません。まさに自らが成就し、自らが向上し、自らが超越するのです。また、上蒼が豊かな資糧と教材を与え、修行の範本としてお示しになるのは、すべて人類衆生が自らを成就させるためなのです。切に願う次第です！
欽差大臣 南極仙翁
##南屏道済古仏
2000年6月20日　庚辰年五月十九日（火曜日）
玉皇大天尊　玄霊高上帝より玉旨が下される
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年五月初一日戌時
玉旨の宣下が完了いたしました！崇心の諸神仏と諸賢契の方々にお祝い申し上げます：大道シリーズの天書にて著作された内容が、実際に　上蒼のご肯定を賜りましたことは、崇心に対しても、衆生に対しても、またご自身にとりましても、大変光栄なことでございます！
未来においては、次第に自らが自らを成就し、自らが自らを導き高めて成就するようになります。仙人や仏に頼って救済されるのではなく、実証によるものです。よろしい！崇心が第九冊の大道シリーズを継続されることをお慶び申し上げます！　私は天に戻り、ご命令を果たします。またお会いしましょう。
虚空上人–南無虚空上德人天古仏
##南海古仏

南海古仏は、観音菩薩の化身として広く崇拝されております。
慈悲深いお姿で、衆生を苦難から救い、安楽へと導くことを誓願されています。
その御教えは、智慧と慈悲の実践を説き、人々に心の平安をもたらします。
南海古仏への信仰は、東南アジアを中心に、多くの国々で深く根付いております。
2000年6月23日（金）　庚辰年5月22日
虚実の間に妙理を伝え　　天地を空転して徳沢の意を示す
上台会は共に励まし合い　　人間の甘苦は相互に依り添う
本夜、謹んで　無極皇母の懿旨と　昊天玉旨をお受けし、堂に来臨いただき、大道シリーズ第九冊『大道見性』の続編を著すこととなりました。これはまさに　上天が崇心道脈をお認めになった証であり、また理筆宗主の堅固な志と功績徳沢によるものであります。それゆえに！特に嘉勉と激励を賜った次第であります。
人間には数多くの苦難と試練がありますが、それらは人的要因によって克服することができます。さらに、「自性自渡」を構築の基盤と模範とすることで、初めて自らを束縛から解放し、天に対して責任を果たすという大いなる栄誉を得られるのです。本堂におけるすべての行いは、もし理筆宗主の揺るぎない志がなければ、今日の崇心道脈は存在し得たでしょうか。
真に得られるものは、上蒼より授けられた「儒宗聖教・真佛心宗」であり、あらゆる苦難が修行であり試練であることを悟らねばなりません。これを乗り越えてこそ、自らに対し、また上蒼に対し責任を果たすことになります。艱難辛苦の中で自らを成長させ、未来において豊かな資糧——すなわち無量の福德と智慧を備えるに至るのです。自らを励まし、奮い立ちましょう！
試練に真実の情が見える　　苦しみの中に甘き因あり
相互の依存を知れば　　成果は更に豊かになります
序
##南屏道済古仏

南屏道済古仏は、仏教の伝説的な人物であり、特に中国の民間信仰で広く知られています。彼はしばしば風変わりで自由奔放な振る舞いで描かれ、人々に仏法の教えを分かりやすく伝えることで尊敬を集めています。その生涯は、形式にとらわれず、衆生を救済することを重んじたものでした。
2000年6月30日　庚辰年五月二十九日（金）
南無や、衆生の念心経に帰命し奉る　　正法明如来の親証せしところ
仏が序を降りて来たるは誠を輸す　　人の心の根本行を了知せんがためなり
序　一
儒宗聖教・真仏心宗の著作である大道シリーズ第九冊『大道見性』は、明心の段階を経て、自己の真実の仏性を見極める境地へと入ることを示しています。これは、自らが大いなる因縁の根本を成就し得ることを意味し、さらに「有情世界」において、自らの志向に従って修行を通じて検証を重ねていくものです。
また、自己の修行を通じて自らを改造し、行動することが必要です。どうすれば「心の灯を灯し、仏性を照らす」ことができるのでしょうか？真に上昇する根本的な原因を持つためには、自分自身が現世において成就を果たすことを理解しなければなりません。来世での成就を望むのではなく、それが自己超越を成し遂げる道なのです。さもなければ、自己超越を達成することは困難でしょう！
自らの本性を見極め得ることは、まさに「有情衆生」すべてが到達し得る過程と目標であり、自らを成長させ超越させることを可能とします。これは自らと衆生に対し、実際に「真理を暢げ、実義を明らかにする」ことができ、また自らが「仏学の理諦、道学の理諦、儒学の理諦」の融合を提唱することにも通じるのです。
自らの宗教に固執するだけでなく、他の宗教の優れた点を排斥するのでもなく、あらゆる宗教の間において平等なる仏性、平等なる信仰と修持を実現すべきです。さらに彼此を分け隔てることなく、自らを高める因縁の本質を顕現することこそ、いかなる宗教の宗派や流脈も分別せず、一体としてそのままであることが、真実の姿なのです。
見性の本質：真の我が如実の本性を見極めるに至る必要があり、また自分が資糧位にある中で、いかに「成長して体証する」かを理解できなければなりません。いかに実践、精進、円満を経て、さらに乗越に入るか？また末法のただ中にあって、いかにして見性に至るか？まず必ず明心し、自己の本来の心を明らかに理解できることが必要です。
天地万物の本心を理解することが必要であり、それによって初めて自らの本心を知ることが可能となります。見性に至ることは必ずしも容易ですが、そうでなければ！自らの本心さえも知ることが難しいなら、どうして自らの本性を見極めることができましょうか？これは、いかにして到達し、いかにして完成させるかという自らの取り組みにかかっているのです。これこそが真実なのです！
南無正法明如来仏　降序一於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年蒲月初五日戌時
第一回　開宗明義
##南無燃燈古仏
2000年7月4日　庚辰年六月三日（火）
序　二
南開大道は衆生を渡し　　人生の真理を知り成る
無量の功徳は自ら為す　　明晰に向上する学理を証す
障壁の功徳は自心を了え　　正に人間に有情を化すべし
大いなる天地はすべて愛すべきもの　　人間には必ず実践すべきことがある
道徳は自らの心の本体が本来正しく　　心と心が相印し印は自ずと霊妙となる
仙仏は必ず凡塵に降り立たれる　　塵塵の業障も皆清浄の因となる
済渡衆生は一理にあり　　理は玄機を化して衆生を渡す
因果応報はすべて人の行いによる　　是非を超えて禅機を悟る
李化の因縁人生の本　　即ち上昇し天恩を感ずるを得る
崇心の縁因は小さからず　　大道の冊冊を著作すること深し
普化大道を修持して成ずる　　成就の因縁は更に殊勝なり
理を筆に堅く志し道を証する機　　大愛に化して衆生を利す
縁妙伝揚再び弘盛　　虚空仙仏共に相証す
人生の本能を了知すれば　　必ず仏性の恩に至るを見るべし
天地を降りて海城に入り　　蓮華仏果の妙理真なり
自らを悟り天に返り乗る　　回帰超越必ず成る
南屏道済古仏　序文を降す二に於て
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年蒲月初五日戌時
第二回　覚性種因

覚性とは、本来備わっている悟りの種です。
この種は、すべての衆生に平等に存在しています。
しかし、煩悩の塵に覆われて、その光を発することができません。
修行とは、この塵を払い、覚性の花を咲かせることです。

まず、自らの心を観察することから始めましょう。
怒りや貪り、愚かさの念が起こったとき、
それに流されず、ただ静かに見つめてください。
それが、覚性の種に水をやる第一歩です。

覚性は、外から求めるものではありません。
己の内に深く沈潜し、そこに気づくことです。
坐禅や読経も、すべてこの内なる目を覚ますための手助けに過ぎません。

毎日の生活こそが、最も尊い修行の場です。
一挙手一投足、一言一句に覚性を込めて生きる。
そうして初めて、種は芽を出し、大樹へと成長していくのです。

覚性の開発は、急ぐことなく、しかし休むことなく。
焦燥も懈怠も、共に修行の妨げとなります。
まるで大河の流れのように、ゆったりと、しかし確実に進んでいきましょう。

やがて覚性が輝き出すとき、
あなたは自分が仏であることに気づくでしょう。
それは特別な状態ではなく、ただ本来の姿に還っただけなのです。
##南無燃燈古仏（なんむねんとうこぶつ）に帰依いたします
2000年7月7日　庚辰年六月六日（金）
序　三
南贍部洲にありて　洲は中華に連なり
中華の裔は台疆に伝わり　疆は虚無を拓く
無極は旨を頒ち　旨は桃園を示す
園は八徳を布き　徳は広大に遍く
大道シリーズ　列載永豐　豐登泰豐　豐盛盈日
日々に普く教化し　教化して懿きを渡し　勅令は心を崇め　心性は真如なり
如来は真実の如く
無極を実に載せ
極は大道に通じ
道心は堅く来る
来因初めて立ち、我が真の仏を立てる。仏立ちて心宗を立て、宗脈成って仏となる。
仏教・儒教・道教　教脈は儒を宗とし　宗は聖教を揚げ　教義は普く降る
天書が降りて　書冊に禅機あり　機会に教育を施し　徳大を育化す
大乗仏の行い　識は顕密を行じ　密々と我が心に　心は大道に融けます
道は凡塵を転じ　塵埃は唯識なり　識種は観念し　念正しくして照見す
我が真如を見る　常の如く演繹す  
演繹は衆生を潤し　生けり化するは性を見る
性は本来如来なり　天地を行き来す
地は徳を持って護り　著作を蔭護す
この論蔵を作り、蔵書して衆を済度し、衆生の霊性を成就せしめ、順序に従って参集せしむ。
序言の祝福　福は有情に餘し　情は虛空を證し　空は瀛南に循う
南贍部洲に天書を著作し、  
徳は有情に遍く、  
皆これ衆生なり。
人間には愛があり、天地には情がある。崇心道脈、真仏心宗。
大道シリーズ　天書を著す　大道心宗　乃ち有情を化す
超越回帰すれば、必ず天地を得る。有情の衆生、皆これを印証することができます。
無極大道は、道が四海に揚がり、海と空は一色となり、色と心は真如である
如如なる本体　体用は真に有り
空有は実相なり　相は自証より由る
己が心霊を証す　霊は本より無極　極めて高く恩深し　深く天地を得たり
大地は万物を生み出す
物それぞれに用がある
この徳の機を用いて
機会に応じて教化する
群黎を育化し　黎民は佑けを蒙る
我が崇心を佑け　心真なれば理も真なり
真に我を弘むれば　我は即ち我に就く
我は天心に合し　心心相印す
印心は真を印す　真はこれ苦心なり　心心相い成りて　衆生を成就す
生まれながらに大徳あり
徳は天地に遍く
地は徳に護られ
凡塵を庇う
塵垢を取り除き　業障の因を除く  
因縁は再び生じ　生は超越へと向かう
越えれば我は証す　証道は虚空なり  
空も虚なり　これもまた極無なり
南無大日如来仏　降序三於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年蒲月初五日戌時
第三回　覚性篩選
##南海古仏

南海古仏は、観音菩薩の化身として崇められています。
慈悲深いお姿で、衆生を苦難から救い、安楽へと導いてくださいます。
南海の聖地に鎮座され、無数の信仰を集めておられます。

その御教えは、「慈愛と寛容」を説き、人々に心の平安をもたらします。
どのような困難な状況でも、南海古仏の御加護があれば、希望を見出すことができます。
私たちは、日々の生活で南海古仏の御心に従い、善行を積むことが大切です。

南海古仏への信仰は、東南アジアを中心に広く伝わっており、
多くの寺院で尊像が祀られています。
参拝者は、真心を込めて祈りを捧げ、御利益を授かっています。

南海古仏の御名を称え、その御徳を讃えることで、
私たちはより良い人生を歩むことができるでしょう。
南海古仏の御慈悲が、すべての衆生に届きますように。
2000年7月14日　庚辰年六月十三日（金曜日）
南海の慈悲は萬霊を渡す　　古仏降りて著し見性明らかなり
開宗明義第一回　　大道弘揚の理は新たなり
「明心」：すなわち、人間世界において為すべきことを正しく理解し、見性の根本因縁に入ることで、自らの霊性を通じて明晰に体証し、人間世界での生存の中で顕現させることです。自らの「本心と本性」を明らかにすることができれば、自らの本霊を見極める境地に入り、さらに霊性の中から仏性の根本因を顕現させることができます。
これは自己と万物の衆生に対して、良き循環作用を形成するものであり、また自己の成就に対しても極めて重要な意味を持ちます。人間が宗教的学びの中で成長し、未来において上昇・超越できるか、あるいは来世で再び輪廻を繰り返すかの違いを理解すれば、あらゆる修行の意義が明らかとなるのです。
「見性」とは、自らの本性の中に見至り、天地有情の演繹過程を完全に現わし明悟することです。それにより、自らが天地の演繹の中にあることを明らかに体証できるだけでなく、一切の有情衆生に対しても一體如是であることを悟ります。また、一切の「動くものと動かぬもの」なる有情衆生に対しても、自らの本性を明悟する境地に至ることができるのです。
明心の過程においてこそ、見性の本縁を成就することができます。見性の因縁の根本に対しては、有情衆生に対して、向上させるだけでなく超越することも可能であることを知る必要があります。さらに！有情世界にとっては非常に良き表徴であり、人類衆生に一体であることを与え、更には人類衆生によって超越を達成させるものです。
『開宗』：これはあらゆる因縁の体が始まるまさにその時であり、大道シリーズの各巻にはそれぞれ特別な意味が込められています。第九巻から一冊ずつ展開され、さらに！ 全シリーズを通じて精微な妙理と智慧が示され、天地の展開過程を理解することで、「自らの本性を明らかに悟り見極める」境地と融合することができるのです。
これは従来の宗教の著作とは異なる表現方法であり、この観方によって自らの本性を見極めることができます。いかにして自らの心灯を灯すか？それは有情世界において今この瞬間に完現することができるのです。まさにこのことが必要であり、いかなる場所、環境、時間、空間においても、自らの本性を見出すことができるのです。
「明心」は悟りに至る体証の過程を成し遂げることができ、見性は自己を明らかにすることであり、いかにして「心の灯を燃やし、仏性を照らす」に至るかが真実性です！しかし、「明心」と「見性」は異なる二つの段階であり、根本的に混同してはならず、まさに「明心と見性」によって根本的な体証が完遂されるのです！
『明義』：どの宗派の教えを修めようとも、自分が明心見性の基礎源に到達できるかどうかを問うものです。もし現在においてすら、過去の修行方法で検証することが難しいのであれば、基礎源を超越することなど到底できません。また、過去の修行の真実の意義も、現在の科学技術時代に応用することは難しいでしょう。
よく知るべきです！自分が信仰において体得したものは、すべて経典と先人の教えによって成し遂げられたものであると。もしも！経典を単なる「方便」としか見ず、さらに先人の教えも真実の意味に到達し難いものであると考えるならば、有情衆生に、自らの心性の中にある明晰さを真に悟らせることは、非常に困難となるでしょう。
更に言えば、体証の過程において超越することは、これは非常に向上が難しいことであり、多くの者は外的な顕現に迷い、さらに！名師に惑わされ、盲目的に従うことになります。つまり、有名な師の言説に従うのですが、真実の修持において「勝義理諦」を応用して実践することが難しいならば、自分自身を理解することも難しく、修持の真実の意味を悟ることはできません。
『開宗明義』：これは、世の人々が修行において、ただ経典の文字の障りに迷わされることなく、さらに！ただ著名な師の言説に惑わされるだけでなく、自らの智慧を善用して体証し、真実の義に基づく修行の方法によってこそ、凡塵の中で無明の侵襲に遭うことがないようにするためです。
また自らをして、経典と明師の教導に従わせ、盲人が盲人を導くような過程に陥らせてはなりません！盲！盲！盲！さらに、本性を見極めて体得するには、必ず自らの「心の灯をともす」必要があります。そうでなければ、どれほど大きな功徳があろうと、どれほどの信衆がいようと、輪廻の空間の束縛から逃れることはできません。
修持における真実の理諦を理解することが必要です。経典の文字の障りや、高名な師の言説にのみ迷ってはなりません。それらを真実の理諦の修持に応用してこそ、修持の根本を成し得ず、自らのその後の成長において、超越と上昇を達成し難いという状況を避けることができるのです。
未来や来世においてのみ、再び修行の因縁を得るに過ぎません。ましてや！宗教において多くを布施する者は、未来の福報も比較的豊かになります。しかし、未来において自分自身の福報が豊かであるがゆえに、根本的に「智慧」を用いて、修行のあるべき行いを展開することが難しくなり、一種の迷いの障壁を形成してしまうのです。どうしようもありません！
開起見性の本意　　宗教教化伝道の基
明らかに悟り、体得し、実践を重ねる　　
義理が分明となり、真の意義を了知する
大道シリーズ　理を揚げて真を明らかにす　　心を明かして性の本源に至るを見る
崇心の著作はすべて真実の教えであり、
理を筆に克し職を全うして良い前途を歩む。
もしや！福報に満ち足りているにもかかわらず、さらに業を造ってしまった場合、それは有情衆生に対して一種の甚だ残酷な事柄と言えるのではないでしょうか。おわかりでしょうか！いかなる困難の中にあっても、上蒼が著作の中に特別な意味を込めておられることを悟ることができます。それは未来の衆生に対して、向上し超越するための根本的な縁となるものなのです。お悟りでしょうか！お悟りでしょうか！
第四回　覚性浄化

覚性とは、本来清らかで汚れのない心の本性を指します。しかし、無始以来の煩悩と業によって曇り、その輝きを失っています。この回では、いかにして覚性を浄化し、本来の清浄さを取り戻すかを学びます。

まず、自己の心を観察することから始めましょう。貪り、怒り、愚かさなどの煩悩がどのように生起するかに気づきます。気づきを通じて、これらの煩悩が本来自分のものではないと理解するのです。

次に、様々な浄化の実践を行います。懺悔、供養、読経、座禅など、それぞれの方法が覚性の塵を払う助けとなります。特に、慈悲の心を育てることは、覚性を輝かせる最も直接的な道です。

覚性が浄化されると、智慧が自然に現れ、物事をあるがままに見ることができるようになります。この状態を「明心見性」とも申します。

どうか、これらの教えを実践に移し、曇りなき覚性を顕わされますよう。
## 南海古仏

南海古仏は、慈悲の海に坐す尊き仏陀であります。
その御心は、広大なる海原の如く、全ての衆生を包み込む慈愛に満ちております。
波一つ立てぬ静謐な海面のように、深く澄んだ智慧をたたえておられます。

南海の観音菩薩と共に、苦難の衆生を救済される御仏です。
迷いの海を漂う者に、光明の灯台となって道を示されます。
その御名を唱える時、潮の満ちる如く慈悲の力が漲り、一切の恐れを洗い流してくださいます。

南海古仏の御前では、あらゆる分別の波が静まり、真実の自己に目覚めることができます。
ただひたすらに御慈悲に帰依し、その広大無辺な功徳の海に身を委ねるのであります。
2000年7月18日　庚辰年六月十七日（火曜日）
南屏開疆は萬千を渡り　　道濟廣德は理に偏り無し
古仏は性を見る本を弘揚し　　覚性の種因もまた自ら選ぶ
明心見性を了知するには、覚性の中で成就されることが必要であり、また種因の中にも多くの開悟のエネルギーを備えていなければなりません。そうして初めて「種因」を通して了知することができます。見性の基本的条件も、覚性によって見性を明晰にしなければならず、それによって自己の明心を了知することが促され、さらにどのように向上して成長していくことができるのでしょうか。
見性：自分自身を真に理解することが真実の性質であり、また見性の中において、覚性は欠かせないものである。もしも覚性が欠けているならば、自己の本性を見極めて理解することは難しい。仏性を顕現させることはさらに難しく、より一層困難なことである！見性の中で覚性の因を植えるには、過去の積み重ねによって到達するのである。
覚性：それは一切の天地の真実の意味を知り、万物の根本の源を了知することです。自心が身体を以て実践することによって到達するものであることを明らかにし、一切の有情衆生に対して、体証の過程として自らを成就させることが求められます。これにより、自らが覚悟の本性の中で、あらゆる因縁の基礎を植え付け、また自らが因を種とする根本性を知ることができるようになるのです。
覚性：それは人間社会において達成される必要があり、しかも自らが生存の辛酸を体証し、甘酸っぱさを通じて実証するものです。生存におけるあらゆる方向性の中で、さらに自らが生きているこの瞬間に、人間社会の集団生活から離れることなく、生活の過程において、自らにとって「覚性の根本源」を明らかにすることです。
覚性：これは身体を以て実践し、生存の過程を体得することであり、行動に多くの検証を加え、内なるものによって検証することです。自らの心の灯を点火し、さらに！自らの内面世界を構築することです。もし！生存志向の過程から離れ、人間としての生活潤いの過程を捨て去るならば、生存に対する経験の蓄積は困難となるでしょう。
内なる世界を潤す資糧を持つことは、内なる心を外に向かって観ることはできず、本来の霊的世界の中で構築されるものです。すなわち、浄化と浄濾の働きであり、「浄心、浄念、浄意、浄識」によって、心念意識の中から本性を浄化すべきです。これは自らが心の深層へと「浄濾」を行っていくことなのです。
覚性とは、あらゆる生存の方向性を知りながら、生存の過程における体悟から飛躍することはありません。人間の世界において知るべきは、まさに集団生活から離れることが不可能であるということです。もしも群居する生存から離れることができるなら、どうやって深山や洞穴に赴き、自らを浄化し、孤独に一人で生活することができるでしょうか。それは非常に難しいことです！
したがって、世尊が菩提樹の下で明星を観じ、「道を証し心を明らかにする」ことによって「一切の取向を開悟された」ときでさえ、時には飢えて満足に食事をとることもできませんでした。このような条件は身体にとって、自己の生存のための取向であり、また霊性の根本源を浄化するものであります。ですから！今この身を保持する動作を持ち、この身体を大切にし、「臭い皮袋」であるとは言ってはなりません。
自性とは、自己そのものに具わる根本的な因縁であり、自性はまた一切の有情衆生が皆具えている根本であります。もし「性体本源」を備えていなければ、この種の根本性は存在せず、生存活動も困難となります。したがって、性体はあらゆる機能の総枢軸であり、言い換えれば、この「性体」は自己の霊性の総源流であります。
一切の無極、虚空あるいは宇宙、あるいは天地の中の根本源を、総括して言いますと：この「自性」こそが道の源であり功徳の母なのです！また『性体』に対して、すなわち人類の一切の活動の方向を司る総枢軸として、人類世界においてそうであるように、一切の有情なる天地衆生に対しても、同様にそうなのです！
もし「自性」がなければ、上昇と超越も難しく、また墜落と沈淪もありません。それは上昇と沈淪の分界にあり、ゆえに「自性」は道源の功徳母の本義であり、誰もが持っているものです。また、種子――つまり一切の因縁体の根本性ですが、この種々の種子は、播種して樹を植えることはできません。
必ず種子に在る分別は、善悪・正誤・是非・正邪の分岐点であり、また選り分けられた種子が性体に蔵される過程において、自己の生存志向は、まさに種子の因によって成就されるのであります。さらに人類の宗教における教化課程において、いずれの者が重責大任を担うことができるのか？いずれの者が代役としてのみ存在するのか？いずれの者が真の作為を成し得るのか？
まさに種子因の選別過程において分別を行うことであり、種子因の本来の姿を知るためには、その色沢の中から未来の一切の因縁の姿を観ることができます。これは未来の成敗の鍵となる点に関わっており、また種子因の選択こそが未来の良し悪しを決める重要な点であり、すべての因果の起動と連結点を区別するものなのです。
含因とは、すべての有情の根本的な性質であり、ただ「体と用」の問題にすぎません。また「種は体であり、因は用である」という点にもあります。種と因が相加わることで、未来の良し悪しや成敗の鍵となる根本的な体が形成されます。では、どのようにして種因の中で自らを成就させていくべきでしょうか？いかにして「上乗・中乗・下乗」を選び分けるべきでしょうか？
また、人の行いにおいて、それぞれが重責大任を担う根拠を分かち合い、さらに自らが　上蒼に対して責任を負うべきであり、いかにして完遂すべきか？必ずや原因の中にあり、自らを縁起と因果応報によって促され、善き因縁の体を発展させ、自らが成長の過程において、　上蒼から授かった使命を達成し完遂するに至らしめるのである。
開宗明義：本書の著作原義を如何に理解すべきか？また如何にして「覚性の種因」を選び取るべきか？種因の選択によって成就されるものこそが、未来の成就の大小を決める重要な鍵となります。このように、上乗の者も成就でき、中乗の者も成就でき、下乗の者も成就できるのです。ただ、未来における成果の程は如何なるものとなるのでしょうか？
いかにして　上天が示された要求される聖務を完成に至らしめるか？必ずや、それぞれの種子因が使命を全うし得ることにあり、また人の作為の中において区別される、いかにしてそれを完璧な段階にまで成し遂げるかによって、どのような材料であるかを了知し、未来の成就を区別し、またどのような層次及び果位であるかを知ることができるのである。
今夜、『覚性種因』を著すために降来されたのは、道理も天機もなく示現されたわけではありません。どう探求すべきか？どう検証すべきか？どう実践すべきか？必ず人間世界において、人間の生存方法を用いて完成させねばなりません。さらに、どうすれば円満に至り、広く推し広げることができるでしょうか？これこそが真実の成就であり、蓮華仏国浄土世界なのです！
天地の基を広げて弘めん　　宗脈の真理、実義を了す
いかにして行持すべきかを明白にし　　
義理分明にして瑕忌なし
覚悟有情天地の機　　性中に自ら真諦の意を証す
種子の選別は分別を可能にし　　因縁果報は人生の理なり
この偈を！同じく有情の衆生と共に励まし合い、一切の事象と世相の働きを知り得て、異なる結果をもたらすことも理解できます。また、あらゆる次元の境界を区別し完璧に現出させることは、まさに人の力によって達成され、改変されるものです。それによって初めて真に「因を種く」ことにおいて「覚性」を備え、向上し超越することができるのです。崇心はこの規範の中で成長し、広められていくのです。
第五回　覚性清浄

覚性とは、本来清らかで汚れのない心の本性を指します。それは、あらゆる煩悩や迷いを超えた、純粋な意識の源です。私たちは日々の生活の中で、様々な感情や思考に振り回されがちですが、その奥には常に静かで澄み切った覚性が存在しています。

この覚性を自覚することこそが、真の安らぎと智慧への道です。坐禅や瞑想を通じて、心を落ち着け、内なる声に耳を傾けるとき、私たちは次第に自分自身の清浄な本性に気づくことができるでしょう。

覚性は決して遠い存在ではありません。今この瞬間、呼吸をし、感じ、考えているその意識そのものが、すでに覚性の現れなのです。ただ、雑念や執着によって覆い隠されているだけです。

清浄なる覚性を保つためには、日々の心がけが大切です。他人を思いやる心、正直さ、感謝の気持ち――そうした善き行いが、心の鏡を磨き、覚性の輝きを増していくのです。

どうか、自分の中にあるこの清らかな光を見失わないでください。それは、あなたがこの世に生まれた意味そのものなのですから。
##南無燃燈古仏（なむねんとうこぶつ）に帰依いたします
2000年7月21日　庚辰年六月二十日（金）
南屏道済古仏降臨す　　大道見性の真理を顕揚す
覚性を篩い分けて本位に入り　　自心を明らかにして迷いの障りを化す
覚性本位は的に入ることができますが、まさに種因を成就させることであり、人間の思考範囲内には多くの迷障があります。もし前世の因と今世の果の影響を受け、現在において造り上げようとするならば、しばしば盲目の中に迷い込むことになり、この限界から脱することはできません。自らが種因の中から選別を行うことが必要なのです。
自己が了別し明晰にしたものを構築するとは、選別の過程において、いかに浄化し、いかに沈殿させるかを自らに課すことであります。「浄心、浄念、浄意、浄識」の過程において、浄化の働きを成長させ、つまり多くの垢穢が沈殿したように、数多の生存経験も必ず沈殿していく必要があります。
まさに生存志向の発展を通じてこそ、自らが生存の因縁を体得できるのです。そして生存の過程においては、すべて「無常」によって形作られています。また無常は、自らの生存志向に対して自己成長の鍛錬をもたらし、その志向は衆生が求める目標と目的の中から、成長の糧を採り入れていくのです。
また、自身の生存過程において、もし志向的行為を通じて理解することができなければ、まさにそれは自己の生存根拠に対する関係性の問題であり、人類世界はこのような作用によって成長するものであることを理解する必要があります。生存経験を自らの体得を通じて探求し学び、さらに学びの中から智慧と見聞を広げ、それによって知識の成長がもたらされるのです。
自己の霊性の中にいかにして覚悟の霊性浄化に入るかを了知することです。これが覚性の種因であり、この種因を了知することによって、すべての有情衆生が根本的な因質を備えていることがわかります。もしこの根本的な因質を備えていないならば、霊性もなく、仏性もありません。そうなれば「覚性」を成就することはさらに難しく、いっそう困難なことになるのです。
どのように覚性によって選別されることが正しいのでしょうか？選別の動作を通じて、「自己の本心・本性を明らかにすること」を備える必要があります。それによって、現世のこの瞬間を明晰に体証することができ、またいかなる一つの過程も、あるいはすべての過程も、因の中に存在しているのです。どのようにして「因縁果報」を通じてそれを促すことができるのでしょうか？
天地万物の本心・本性が相互に融合することを体証し明瞭にすることができれば、まさに自分に利益をもたらすものは、そのまま受け入れることができ、もし自分に利益をもたらさないものは取り除くことができます。このような条件こそが、人類の生存の根拠であり、またこの過程の中で、自分自身に生存本能による利益をもたらすことができるのです。
しかしながら！潤生の過程において、もし自分に有利な時があれば、往々にして道に背いてしまうこともありますが、それは一体どのような状況でしょうか？天地の運行する真理を理解することは難しく、有情世界の衆生は皆このようなものです。故に「人は財のために死に、鳥は食のために亡ぶ」と言われます。人類の衆生における「生と死」は、まさに一種の両極化した過程なのです。
実は！毎日が「生と死」の中で、自らが蒔いた因を完現する選択をしているのです。もし生と死の過程を体得できなければどうでしょうか？自分が生きる活動や、休息して静止している様子を観察できるでしょうか？まさに夢の中で、自分がすでに「没度死亡」に入っているかどうかを見つめることができるかどうかが問われているのです。
もし自らが少しでも因縁の霊性を宿し、再び自らの身体に入ることをしなければ、人類の衆生は人と言えるでしょうか？皆、難しいことです。必ずや、すでに生存の根本的な原因から離脱しているため、つまり「死体」一具となってしまいます。この時、自らが理解できるのは、霊性が肉体に宿らなければ、人類の衆生とは言えないということです。
また、選別の動作においては、昼夜の生存の志向を識別し、活動と静止のただ中にあって、人間は鼻息の呼吸の中で完現されるのみです。さらに、選別の動作によって本因の必要を明晰にし、生存の中にあって、もし生と死を体証することができなければ、活動と休止に対する働きにおいて、どうして覚性による選別があり得ましょうか？
人類の生存は日々の営みにおいて、あらゆる生きる方向性は時に経験の蓄積であり、時に学びと成長であり、時に過ぎゆく過程です。一つひとつの行動はすべて、自らが原因を蒔きながら選び取る過程に関わっています。もしこの選別の働きを悟ることができれば、まさに日常生活を統合する行為となるのです。
つまり選択とは、いかにして自らの経験過程を明晰な体証を通じて実現するかということです。自己の「覚性が澄みきっている」と見極められるならば、その選別作用は実は毎日行われ、また刻々と成長していることを知るべきです。さらに、昼夜の生存活動と休止こそが、まさに選別作用そのものであることを悟らなければなりません。
「浄心、浄念、浄意、浄識」の過程にどのように入るべきでしょうか？それはまさに浄濾が最も重要な根本の縁なのです。もし浄濾を実践できなければ、「覚性」について語ることは、根本的に不可能です。ただ「秉性」によって生存の方向性が決まる結合体に過ぎず、自らに対して向上と向下の分岐点があるだけなのです。
「心を清め、念を清め、意を清め、識を清める」方法をどう理解すればよいのでしょうか。まさに成長と浄化の実践が必要であり、そうでなければ、たとえ覚性がどれほど鋭敏で、どれほど優れていても、様々な因を選別する過程において「明心見性」に至ることは難しいのです。自らの霊性がどのようなものであるかを、はっきりと知る必要があります。
必ずや自らの生命において、あらゆる経験と生存の接点を通じて、初めて真の自己体証の資糧を得ることができます。それは覚性が如何にして浄化されるかということであり、如何に「心念意識」を用いて浄化を行うかを明らかにすることです。まさに自らが浄化と濾過による成長の過程で、あらゆる生存の一切を完全に現じさせることなのです。
「心念意識」は「唯識学」にとっては、比較的明瞭に理解できるものですが、有情衆生にとってはこの一点が欠けており、真の資糧を下化する働きは、つまりより理解しにくいものなのです。また、上蒼が大道シリーズの原意を著作された際、いかにして有情衆生が一歩一歩進み、少しずつ積み重ねていけるようにするかが課題でした！
まさに「心念意識」において了別されるものであり、かつ深遠で難解すぎて人類衆生がまったく手が届かず、また浅白すぎて衆生に見捨てられることもなく、有情衆生が少しずつ積み重ね、漸修の過程に至り、豊かな経験の過程を蓄積することで、向上して成長することができるのです。
また、「摩訶般若波羅蜜多心經」の全体の精髄を下化するにあたり、その中の意味をどのように理解すべきでしょうか？また、内なる心性「自在菩薩」をどのように観視すればよいのでしょうか？真如を顕わし、仏性の位階を明らかにするに至り、もし蓮華の仏国浄土世界に入りたいと願うならば、それは必ずやより容易となり、また実のままに増長することでしょう。
さもなければ！もし現代において「唯識学の理論構築」を、有情衆生が明晰に理解できるようにしようとするなら、容易ならざる難事であり、成果を上げることも難しいでしょう。そのためには、大衆伝播の手段を用いて展開することが必要であり、はじめて「大道シリーズ」を広く普及させることができます。ましてや！崇心が担う役割は、まさに尋常一様ではないのです。
未来において次第に全体の核心へと入り、また一冊一冊連続してどのように向上すべきか？それは自らが成長し、自らが学び、自らが現在において完全に現れることにより、自分自身が必ず知ることができるようになるのです。すべての不足しているところはまたどこにあるのか？この天機を下ろして教化することができ、単にこれらの些細な要因によってのみ成し遂げられるものではありません。
大道は明心して天機を了え　　大道は見性して自己を徹す
どのように普及させて選別を進めるか　　こそが天意を明らかに演じる鍵となります
人間有情は大義を化す　　宇宙真理誰か比べん
崇心の著作は尋常ならず　　明晰に天地の基を体証す
また、上蒼が計画を進めるのと同時に、多くの協力があり、どのように普及させるべきか？どのように伝播させるべきか？すべて道理にかなって実際的であり、理解することができれば、より大きな発揮があるでしょう。この偈を願わくは！自らが体得し成長することを、どのように伝播の中で真実の理を発揚させるか？それが実際的なのです！おわかりですか？おわかりですか？
第六回　心の灯をともす

心の灯は、本来、誰もが持っているものです。ただ、煩悩の塵に覆われ、その光を失っているのです。私たちは、日々の生活の中で、貪り、怒り、愚かさに囚われ、心の灯が次第に暗くなっていきます。

では、どうすれば心の灯を再び輝かせることができるのでしょうか？まず、自らの心を観察することから始めます。自分の思いや行動が、貪・瞋・痴のどれに由来するのかを見極めるのです。気づきが、灯をともす第一歩です。

次に、正しい教えに従って、心を整えていきます。布施を行うことで貪りの心を和らげ、慈悲の念を育むことで怒りを鎮め、智慧を深めることで愚かさを照らし出します。これらは、灯を強く輝かせる燃料となります。

さらに、坐禅や念仏などの実践を通じて、心を一点に集中させます。散乱した心を収め、静寂の中で、本来の光明を見いだすのです。この時、心の灯は揺るぎない輝きを放ちます。

心の灯が輝きを増すにつれ、私たちは周囲をも照らし始めます。自分自身の平安が、家族や友人、さらには社会全体に、温かな光となって広がっていくのです。一灯が暗闇を破るように、清らかな心は世の迷いを晴らします。

さあ、今この瞬間から、自分自身の心の灯に気づき、大切に育んでいきましょう。それが、自分とすべての生きとし生けるものへの、最高の供養となるのです。
##南無燃燈古仏（なむねんとうこぶつ）に帰依いたします
2000年7月25日　庚辰年六月二十四日（火）
南海清浄本来の地　　古仏慈悲仁徳に済う
大道シリーズ再著作　　覚性浄化人生の題
人類の生存志向は区別が生じましたが、まさに覚性によって「漸悟と頓悟」の根本を成就するものです。有情衆生に対して一切の生存実相を明晰にするにあたり、必ず実相に霊性を加えて成長しなければ、自らを向上させる根本的な要因を得ることができます。これはまさに有情衆生が明晰に体証する過程を経て、構築していくべきものです。
漸修漸悟と頓成頓悟の根本を明らかに知る必要があります。自らの覚性の中において、まさにこの通りであるとはっきりと体証しなければなりません。ですから！人間衆生の根本原因は、覚性が創造発展する過程を通じて、その真実の本来の目標を体証することにあります。自らに対して相当に鋭敏な覚察力を養うことができるのです。
生存の志向過程を観察するにあたり、浄化の因となる根本縁を促すことで、自らの覚悟の本性を創造的に発現させることができます。これが正しい道であり、はっきりと理解すべきです。覚悟ある有情の過程を体得し、また「覚性」の選別機能によって、雑多なものを除き精髄を選び取ることが極めて必要です。もしこの選別過程において、不要なものを取り除き本質を抽出することができなければ、向上は困難です。
また、すべてを一つにまとめて収容すると、玉石混交となってしまいます。そのため、選別作業は非常に重要です。このことをしっかりと理解する必要があります。もし選別作業の質を高めることができず、ただ漫然と全てを受け入れるだけでは、重責を担えるかどうかを見分けることができず、単に数を揃えているだけに過ぎないということになってしまいます。
自らの篩選動作において、それを止めることができないと自覚することが大切です。必ず本質を浄化する過程にあり、向上を妨げる障害が存在します。自らを超越できるかどうか？「浄化と篩選」の動作を区別する必要があります。ですから！篩選とは、良し悪しの種因を分別する行為なのです。
「種因」はあらゆる因縁の過程であるが、「種子因」における選別が明確でなければ、根本的に浄化の動作と効果を生じることはできません。では、どのように選別し、どのように浄化すればよいのでしょうか。このような動作を向上させ、重責を担うに足る者こそが、適任に値するのです。
浄化と選別が同時に行われる中で、また動作機能の明晰さが求められるのもこのためです。覚性はあらゆる生存の志向性を統合する総合体を通して、いかにして生存の志向過程を明晰にすべきか？生存を潤すために必要なものを逸脱することなく、自らが経験を積み、体証し、実践と結びつけた体現を行うことです。
もし！生存志向の経験と結びつけることができなければ、自分自身を成就させることになり、必ずや自分が受け入れ難くなるでしょう。また、人世間における鍛錬の過程は、まさに有情衆生が持つべき基本的な動作であり、自分自身を人世間で結びつけさせ、かつ！あらゆる生存の甘酸っぱさや苦しみ、および様々な鍛錬の心の道程を通り抜けることができるようにしなければなりません。
このような因縁をどのように備えるべきでしょうか？生存志向の過程において、まさに自らが「因を選別する」ことを経て、さらに自らが自らを選別するのです。ですから！人類の衆生はこれまで一度も、自らの不良な習性を自ら選別したことがなく、また自らがどのように自らの行いを理解するかについても、生活は空から飛び出すように簡単には変わりません。
覚性の種因を選別することは、まさに自分自身が自分を選別することであり、重責大任を担えるだけの力量があるかどうかの根拠となります。あるいは単に数を埋めるだけの存在に過ぎないのか。自らの選別力を発揮できるかどうかは、種因が因縁の根本的な働きを浄化することによって、未来に向けて向上成長し、高みへと引き上げる力を与えられ、より高次元へと成長・超越していくことにあります。
浄化覚性は、志向性の結合を通じて、自らを生存過程の中に置くことにより、生存の必要性から逸脱することなく、また単なる伝聞に終わらせることなく、さらに！自らに千真万確なる実践の機会を与え、まさにこの生涯における一切の「覚性の種因」を積み重ねる根本的な体現であります。
選別プロセス：まさに「浄化・浄濾」が必要であり、自らが生存の試練の中で確かな経験を積み重ね、さらに生存において自らの覚性をより鋭敏に、より智慧の結晶に満ちたものとすることが、人間世界に必要とされる真実の理念です。そうしてこそ、単なる試練で振るい落とされることはありません。
浄化の本質は自己に対して行うものであり、また外在する一切の因縁体に対しても促されるものです。このようにして創発されるものこそ、自らの覚性の本質がどのようなものであるかを了知させ、いかにして向上成長へと至ることができるかを示すのです。生存における不良な含因の過程を選別し、その過程を通じて浄化を行うことが必要であり、これこそが真実性なのです。
必要なるのは、体証を明瞭にすることです。それによってのみ、「霊性・覚性」の浄化・純化のプロセスは、「因縁果報」を通じて促進され、達成されるのです。そうでなければ！人類世界の種子因が、未来において重責大任を担えるかどうかは、現在の選別プロセスによって、未来の「明心見性」の因縁の本質を見通すことができるのです。
明晰なる種因の前端は　　淨化と篩選は更に煩わし
種子は本来の性質により清らかに澄み　　覚性は必ず遍く通じて転ずる
浄化の過程は沈殿であり　　誘因を除き本原を顕わす
明心には性を見る必要があり　　有情天地の理は正に円し
この偈は、衆生と共に互いに励まし合うものであります。未来においては、多くの証拠が顕現して導きとなり、また更に豊かな体証の過程を通じて、自らが成長し学ぶことができます。まさに身体を以て実践を結びつけることにより、自らが大乗菩薩の行いを成し遂げ、有情を覚醒させることができるのです。願わくば！願わくば！
第七回　仏性を顕わす

仏性は、すべての衆生に本来備わっている清浄なる本性であり、智慧と慈悲の根源であります。しかし、無明と煩悩に覆われているため、その輝きを発揮することができません。修行とは、まさにこの覆いを取り除き、内在する仏性を顕現させる過程にほかなりません。

まず、自己の内面を静観することから始めましょう。雑念が湧いても、それに流されず、ただ観照を続けます。やがて、心の底から静かな覚醒が訪れ、自分が単なる肉体や思考ではないことに気づくでしょう。これが仏性の目覚めの第一歩です。

次に、日常生活において利他行を実践します。自己中心的な思いを手放し、他者の苦しみを我がことのように感じ、喜びを分かち合うのです。慈悲の行いを通じて、仏性はさらに輝きを増していきます。

最終的には、自他の区別が消え、宇宙全体と一体となる境地に至ります。ここにおいて仏性は完全に顕現し、私たちは永遠の平安と智慧を体得するのであります。
##南海古仏

南海古仏は、慈悲の海に坐す尊き仏陀であります。
その御智慧は潮の如く広大無辺にて、衆生を迷いの岸から悟りの彼岸へと導き給います。

御手には清浄の蓮華を捧げ、一切の煩悩を浄化なさいます。
御眼は慈愛に満ち、遠く離れたる者にも等しく光を注ぎ給うのです。

南海の潮音は即ち説法の声、
波の一つ一つが智慧の言葉となって、衆生の心を洗い清めます。

南無南海大慈大悲古仏、
どうか私共を護り導き給いますように。
2000年7月28日　辰年六月二十七日（金）
南開著作の大道書　　屏障の功德は真に特殊なり
道済は本来古仏の身を現じ　　覚性清浄にして業因を除く
覚性は浄化の根本原因であり、生存・成長・学習を成就させるものです。覚性の中は非常に清らかで、さらに、一点の染まりもなく欠点もありません。覚性と仏性を平等に観じることで、最終的には分別がなくなります。しかし、覚性の中にはまだ多くの化除すべきものがあり、それは清浄を成長させることです。
浄化を透き通る水晶の中に溶け込ませるには、覚性の本質にこそあります。それは自らの悟りの成長の範疇を提供し、また覚性は根本の縁によって、自らの霊性を最高の形で発揮させます。情あるもの、情なきもの、すべての衆生がこの境地に至ることができ、これこそが人類の衆生が憧れ、必要とするものなのです。
覚性の本質：自己の生存に対する利益を明確に認識する必要があります。それは天地と同じく、無極と同じく、虚空と同じく、そして宇宙とも一体であるという真理です。さらに！「一境性、一合相」の中に入り、我は即ち天地であり、我は即ち万物であり、我は即ち衆生であり、我は即ち菩薩であり、我は即ち聖神仙仏であります。
はっきりと理解しなければなりません！まさに天地と無極、虚空、宇宙のすべてが一体であることを悟れば、自然のままに流れ、去ることも来ることも自由自在となり、これは覚性の本質が顕現することによって実現されるのです。また、覚性が成し遂げられるのは、自己の霊性を高めて超越させることによってであり、清浄無垢な覚性の本霊の中で、向上を図ることによってでもあります。
いかにして仏性を成就し、根本因縁を顕現させるべきでしょうか。もし覚性の中において清浄であることが無比に尊いこと、まさに無比乗越であると了知できれば、仏性に具足されているもの、そしてすべてが覚性の中にすでに具足されていることを悟り、自らの本心を明らかにするだけでなく、覚性において基本因縁の上昇に至ることができるのです。
覚性の本因縁は、自らが一切の天地の真実の意味を知り、また自らが有情の万物衆生と共に、天地・無極・虚空・宇宙の中に相互に融合することを可能にします。これは決して私一人だけのことではなく、広大な無数の衆生が存在しています。さらに、覚性を発揚させることは、明晰な体証の過程を通じて知ることにあります。
自らが具えることのできる正しさには、大いなる因縁、大いなる福徳、大いなる智慧、大いなる願力、大いなる行持があります。また、大いなる仁、大いなる智、大いなる勇気をもって対応し行動する中で、それはまさに現世において自らと無数の衆生を成就させるためにあります。自らに対しても責任を持ち、衆生に対しても責任を持ち、さらに上天に対しても責任を持たなければなりません。
自己の成長因縁体を乗り越えることこそが必然であり、根本智の現れる境地に達することができます。さらに、覚性の清浄さに少しの波紋もなく、平坦で何の曲折もない本質においては、覚性の因たる清浄さが本霊に入ります。では、どのようにして仏性を顕現させるべきでしょうか？それがすなわち真実の性なのです！
自分自身を提供することには、長期的な教育と教化の課程に対する観念と作用が含まれており、いかにして「心の灯をともす」ことができるでしょうか？これはまさに非常に重要です！人間世界が「心の灯をともす」ことができなければ、自分自身の仏性の心灯をともすこともできず、過去の業因と業果を照らし出すこともできず、いかにして完全に消滅させることができるのかを理解する必要があります。
さて！このような過程において、心灯を点じて光明を放ち、自らの仏性が顕現するのを照見することは、日常生活における生存の基本的要求から離れることではありません。もし修持と実践の範疇に入るならば、必ず知るべきです：修持と生活は、まさに両輪並進であり、修持の位階に入ることや修持のチームに加わることも可能なのです。
お尋ねします：皆様が宗教を信仰し修行して成長するにあたり、生活は必要でしょうか？食事もとらねばなりませんか？また飲食や排泄、睡眠も必要ではないでしょうか？では、これら一切をどうやって捨て去り、超越すればよいのでしょう？よく考えれば、すべてが明らかになります！現代はなおさらのこと、もしも！修行や信仰によって生存の基本的要求を超越できるでしょうか？それはできません！
再びお尋ねします：修行中は通貨を使わないのでしょうか？食事もとらないのでしょうか？さらには生存すらしないのでしょうか？そうではありません！ただ社会での生存のあり方が一般とは異なるだけです。それどころか、チームによる社会生存への取り組みはより厳格である必要があります。さらに日常生活において、もし杓子定規な生活リズムと成長を続けるならば、自在に生きることは難しくなるでしょう。
覚性の中には清らかで瑕のない境地があり、さらに日常の生存のただ中でこの境地に到達することができます。しかし、ただ今この瞬間において、私は観念を修持と生存の要義として捉えていますが、果たして一境性や一合相に到達できるかどうかは、簡単には論じられません！もしこの道理がわからないならば、このような生存の中で、しばしば潤いある生から離れ、局限されてしまうでしょう。
覚性清淨はこれによって学び成長し、清浄なる本霊の因質に到達することができます。どうすれば自らの霊性を清浄の中に入れることができるかを理解するには？それは今この瞬間に実行可能であり、未来にのみ達成されると期待する必要はありません。明確にすべきことは、「覚性清淨」こそが「種因」を選別するものであるということです。
「浄化」は自己の霊性を清浄にし、真に確かな基盤を持つことです。そうでなければ！「心の灯を灯す」ことで自己の仏性を照らし明かそうとするのは、根本的に自らを欺き他者をも欺く行為に過ぎません。覚性の本質を明晰に理解し、「一合相・一境性」の境地においてこそ、自らの本霊を清浄にすることが必要であり、それによって向上と高みへの成長が可能となるのです。
その後、日常生活に戻りつつも、その瞬間に自らの成長を体証し、霊性を浄化することができます。清らかな覚性を保つためには、自らの心の灯をともし、過去の因果と業障を照らし尽くして解消することが必要です。未来へのすべての生き方において、霊性の浄化を達成し、覚性を清浄無垢な状態に至らしめるのです。
また、生存に対しては日常の中において、自分が「無明」を知り得ないという執着を解消し、霊性と肉体が相まって本来あるべき本質へと融和させることです。これは有情世界の一切衆生がすべて一つに融け合い、また天地・無極・虚空・宇宙とも一体となれるという覚りを得るために、必ず一工夫を加えて実践しなければなりません。
如何にして心中のあの一つの明かりを灯し、有情世界の多くの衆生を照らすことができるでしょうか？そうして初めて天地の真実の意味を知ることができます！自己の自性に対して、霊性の成長をありのままに体悟し、より超越した回帰を持つことができます。これは覚性の清浄から明らかになることであり、人類衆生のすべての浄化は、まさにこのようである必要があります。
覚性は霊敏にして瑕疵無く　　自ら明らかにして自ら知る
清浄無為にして仏性が顕れ　　覚性自性を彰かにして自ら持つ
心の灯を燃やして自らを照らし　　
天地の義を明晰に体証します
一つに合わさるは自然なり　　ただちに仙機に契うべし
この偈を！有情の衆生と共に励まし合い、自らが清浄の中にあることを体証すれば、いかにして自己の霊性と仏性を発揮し得るでしょうか？覚性の清浄の中においてこそ、必ず仏性を顕現させ得ることを真に理解し、それがまさに自分自身に対して真実に責任を負うことであり、また『仏性真如』の成長と超越へと入る道なのであります。
第八回　仏性と生まれつきの性質

仏性とは、すべての衆生が本来備えている覚りの性質であり、生まれつきの性質は、個人の先天的な気質や傾向を指します。仏性は普遍的で変わらないものであるのに対し、生まれつきの性質は多様であり、修行を通じて浄化されていくものです。
##南屏道済古仏

南屏道済古仏は、天界において大羅金仙の位におられます。古仏は、慈悲と智慧を兼ね備え、衆生を救済するために常に奔走されています。その御姿は、雲の間に隠れ、時に現れては人々を導き、迷える魂に光明を与えてこられました。

古仏の教えは、深遠でありながらも平易で、あらゆる衆生が理解できるよう説かれています。縁ある者には、直接に法を授け、あるいは夢の中に現れて指点を与えることもあります。その御慈悲は、大海のように広く、限りがありません。

私たちは、古仏の御加護を心から感謝し、その教えを誠実に実践することで、自らの心を磨き、より善き道を歩んでまいりましょう。南屏道済古仏の御名を称えることは、無量の功徳を生み、あらゆる災難を消し去る力があるとされています。
2000年8月1日　庚辰年七月二日（火）
燃え広がる大道は心を崇める因
燈心は永遠に燃えて果てしなく
古き道、真如が今再び顕れる　　仏は曰く、心の灯を燃やし導かん
上蒼の御旨意：崇心堂が「真仏心宗」を設立するに当たり、いかにして心灯を灯し、自らを照らす光明とすべきか？いかに実践すべきか？また、心の中にあるあの一つの光明心性を、いかにして顕現させるべきか？明らかにすべきは、心灯を自己の成長と成就の根本とし、心灯の輝きによって、仏性の心灯の光明が導きとなることです。
己自身に対して明晰さと体証を保つこと、心の灯を点すとは、今この瞬間を基盤として築くことです。天より下された数多の霊なる子らに対して、同時に心の灯の光明が与えられています。しかしながら、凡俗の様々な縛りが自らの霊性の成長を妨げ、霊性の光明を覆い隠し、また多くの業因・業果が絡み合って離れ難く、誠に無念であると言わざるを得ません。
心灯を灯し、仏性を照らすことは、また凡塵の衆生に欠けているものです。このような欠如をどのように補うべきか、理解する必要があります。もし「心性の光明の顕現」を補うことができなければ、まさに自らが向上成長する根本的な因を与えることができず、自身の成長過程において多くの障害に遭遇することになります。
さらに言えば、自己の霊性投射過程における阻害に遭遇しても、根本的に認識することが困難であり、自らの心灯が顕現する光明面を把握できるかどうか？凡塵に生きる有情衆生は、皆この根本的な資質を欠いており、常に自己の無明による障害を受けています。また、凡塵の中には数多くの業因・業果・業報の償受過程が存在しています。
崇心堂は「儒宗聖教、真佛心宗」を設立し、心中のあの一つの心灯を、人間世界に顕現させることにあります。それによって人間世界を通じて、自ら心中のあの一つの心灯の光明を顕わすことができます。これはまさに崇心が備えるべき基本課程であり、さらに！自らの心灯を灯し、自らの仏性を顕彰することが必要です。
真仏心宗：実践すべき宗旨は、いかにして「心の灯を億万盏ともし、仏性の無辺なる岸辺を顕わす」かにある。これは崇心が備えるべき基本教育・教化課程であり、自己の向上を図るとともに、さらに有情世界の衆生を教化し、自らの「資糧位の実践」に取り組むことである。
自ら「精進の位を完うし現す」ことにより、さらに「円満の位に至って融合し」、また「乗越の中にあって超越の位階に入る」ことで、必ずや現在において成長することができます。そして！現世において自ら因縁の根本を解脱するものとなります。それゆえに：真仏心宗が承け領する  上天よりの：懿旨、玉旨、道旨、仏旨は、まことに並々ならぬものであります。
すなわち、「理筆」宗主の含蔵と先天本願こそが、まさに　宇宙を主掌される　元始天王恩師の道旨として頒示されたものであります。必ず知るべきことは、「理筆」宗主がなければ、今日「真仏心宗」が弘揚されることもなく、また長遠にわたって一冊一冊連貫する「大道シリーズ天書」が著作されることもなかったということです。
先天含蔵は欠くべからざるものであり、また先天の因本資糧によってこそ成り立ちます。そうでなければ、いったい誰がこのような重責大任を担えましょうか。まさにその根基・根器を試される時であり、同時に、上蒼が広く衆原霊を渡し回帰させんとされる中で、「心灯を燃やし、仏性を照らす」ことができなければ、真の天機を得ることは根本的に不可能なのです。
心の灯を灯す：これはまさに仏教において最も重要で応用される基本の因縁であり、さらに！あらゆる宗教の宗派を区別することなく、すべてがこのようであり、儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教、天道教を問わず、すべては一体である。仏性をどのように顕現すべきか？それはただ今、蓮華の仏国世界に入ることにあるのです。
崇心の聖務において、なぜ仏教の五大教主・教尊の深いご慈愛に叶うことができたのでしょうか。それは「理筆」宗主の本霊と深い関わりがあるからです。まさに、燃燈古仏の本霊がその基盤を築き、崇心の大聖務を育み護ってくださっているのです。さらに重要なことは、上蒼の道旨によって燃燈の本質が有情衆生へと降ろされているということなのです。
燃燈古仏は釈尊よりも早く成仏された方で、さらに！釈尊がまだ成仏される五百世も前から、すでに釈尊のために燈明をともし授記をなさり、未来の娑婆世界において「釈迦牟尼仏」と称されることを予告されたのです。これは『金剛経』に詳しく記されていますが、仏教界においては「南無燃燈古仏」を供養する方はあまり多くありません。
まさに異なる因縁の関係こそが、相互に助け合い伝承するものであり、また現代の俗世においても　釈尊の救済の完成を助け、さらに未来の龍華三会によって初めて完成するはずの国を、弥勒浄土の両者ともに現在へと引き寄せて完現させるのです。これはつまり、すべての有情衆生が現世のただ中から飛び出すことなく、この瞬間に目覚めを得られるようにするためなのです。
無極皇母が下された御旨は、まさに天道・慈恵・母娘・三清及び一切の体系を構築するものであり、また天界の真実の理諦を下ろして、生きとし生けるものすべてに授けるためのものであります。これこそが無極より示された根本の理由であります。されば！心の灯を今この時に灯すことが、いまはなお不足しておりますが、いかにして行うべきかもわからないのでしょうか？
上蒼は真実の理諦をもって下化の資糧とし、
有情の蒼生に授けます。
一歩踏み固め、また一歩前進すれば、
必ず「一歩一歩着実に」現在に完現でき、
それは有情衆生に真実の回帰と因本を提供するものであり、
さらに！未来における超越：
無極・虚空の因質、およびすべてのよりどころとなることができます。
大宇宙空間の中でより大きな発揮をすることが必要です。理解すべきは、天地が有情衆生にもたらす利益は、自分自身だけでなく、すべての衆生の上昇と超越に寄与し、さらに五濁悪世に沈む有情の蒼生に対しても、浄化と回帰をもたらすということです。したがって、「心の灯をともす」ことがいかに重要であるかを知る必要があります。
心灯を燃やすは当下一念中　　真仏を啓きて心宗を揚ぐ
明晰に体証する人世間には　　必ずや有情が大同へと化することを得べし
蓮華仏国は今ここにあり　　来世に望みを託すは虚しきかな
成長実践には精進が必要であり　　円満に乗り越えて逍遙の駕と為す
もし実践方法を明確に理解できなければ、自己を向上させ現状を超越して本源へ回帰することはさらに困難になります。また、この世俗においては、あらゆる人間の生存に必要な基本要件を明らかにし、自ら体得してこそ、修行と生活の潤いを両立させる重要性から外れることはありません。これは紛れもない基本姿勢であり、はたして明確に理解できるでしょうか。
第九回　本性と魔性

本性とは、本来の性質を指します。それは、人間が生まれながらに持っている純粋で善良な本質です。一方、魔性とは、欲望や執着、怒り、愚かさなど、人を悪へと導く性質を指します。修行の道において、私たちは自らの本性を見つめ、魔性に惑わされないよう、常に心を清らかに保たなければなりません。
##南無燃燈古仏（なんむねんとうこぶつ）に帰依いたします
2000年8月4日　庚辰年七月五日（金）
万盏の心灯を燃やして明るく照らす　　古仏の徳沢が衆生の情に注ぐ
大道は見性を助け弘め展ばす　　仏性を彰顯するは乃ち本霊なり
心灯を灯すことについて論じるならば、これは人間界における修行の実践を、衆生が仏性を顕現させると同時に必ず知るべきこととして提供するものです。いかにして心灯を灯すべきか？自己に対する方法が真に効果を持つことを明らかに体証できれば、このようにして現在において構築することができます。これは自己が体証する方法が、少しずつ積み重ねられていくことなのです。
真に方法を成就できるかどうかは、方法が確実に応用されるか否かによって決まります。また、仏性を顕現させることこそ、仏教が目指すところであり、この境地に至るためには、人間世界において確かな必要性を自覚し、実践を重ねながら精進し成長することが、仏性の顕現へと通じる道なのです。
仏性を顕彰すること：もし第八意識の種々の汚れた垢識を棄て除くことができなければ、顕彰の目的に到達することは難しい。まさに自らの汚れた思想を棄て除くことの難しさ、そして因果業障が顕現していることに対して、さらに顕彰の目的とは何か？いかにして顕彰すべきか？確固たる実在の必要性があるのです！
人界における一切の因縁果報を化除し、自らの心性を高めるためには、必ず理解すべきことがあります。それは真如を顕わし仏性を彰すことであり、今この瞬間に、有情衆生が最も切に到達を願う目標であり実践です。また、この真実の過程においては、必ずや心の中のあの一つの明かりを灯すことができなければならず、それこそが明心見性の本体なのです。
「心の灯を燃やし、仏性を照らす」ことは、的確に実践する必要があります。さらに、ぐずぐずしてはいけません。そうでなければ、多くの魔障の因果が返ってくることになります。これは、自らが一切の世の相を明らかに体証できると同時に、ただちにその中で構築しなければならないことであり、また、いかにして心の灯を燃やし仏性を照らすかを理解することが、真実の道であることを悟らなければなりません。
仏性の本質を顕彰するには、まず外側の因縁果報を完全に清算することが必要です。そして！必ず償還しなければならず、それによって初めて借りなしの身軽さを得られます。そうしてこそ向上の機会も生まれ、さらに真の超越を成し遂げることができるのです。つまり、自己の霊性を観照し、向上成長を図ることです。この瞬間に明らかになるでしょう――心の灯を灯すことがいかに容易でないかを。
第一、実体験に基づく確証の過程を確立すべきであり、単なる伝聞に頼ってはなりません。
第二、自らが人間世界において真実の経験を積み重ねるように努めます。
第三に、明らかにすべきは、どのようにして化除すべきか。「因果、業障」が顕現するのと同時に、いかにして完全に消滅させるか。自らに賦与された天命聖務を一つひとつ完成することが必要です。
第四、自身の職責を尽くし、完璧に行うことが求められます。
第五、いかにして真実の資糧位を具足するかについても、必ず精進位をもって努力し、円満位の成就に至らなければなりません。ただ自己の輪廻に留まることなく、真の超越と上昇を実現することが必要です。
心の灯を灯す：これは、現世におけるすべての「真実の理諦」を構築するためのものであり、必ず『唯識理論、唯識観念、唯識行径』から、いかに構築すべきかを明らかにしなければなりません。また、「唯識理論、観念、行径」から知り得たことをもとに、いかに自己の成長を達成すべきかを理解する必要があります。これは自らが体証し、悟りを開くことです。
自己に対して確かな実践と効果があるかどうか、また心の灯を点すという体証を実現するためには、一つのことを明確に理解する必要があります。それは、自分がこの世において、基本的な範疇と契機を真に超越するためには、必ず体証と理解を伴わなければならず、そうでなければ永遠に、予測不可能な目標を追いかけることになるということです。
己自身をよく知ることができず、真の上求と下化の働きは一体どのようなものか？有情の衆生は皆、このような明確な体証を得られず、天地の真実の意義を真に理解することはさらに難しく、常に五塵境と外界に誘惑され、しばしば多くの因果業障を造り、自らを苦しめることになります。
常に自らにおいて明晰な体証を得難く、当下一念の根本から真実の理諦を応用し得ない状況にあります。ましてや！多くの経典の文字障に左右され、さらに経典の中で迷いの障礙に遭い、「心灯を燃やす」真の実践を体証することができず、これには多くの透徹した積み重ねが必要です。
もし経典の文字の障りから跳脱し、「心の灯を燃やす」ことを望むならば、それは比較的容易です。経典によって体得したものを活用しながら、文字の障りに左右されず、必ず見性に到達することも比較的容易であり、自己の本来の心と本性を明らかにする中で、より速やかに進むことができます。これこそが真実の成長なのです。
燃えよ、燃えよ、心の灯を点けよ　　灯よ、灯よ、光を照らして明るくせよ
いにしえより伝わる古道は今の世の情けを照らし
仏の御霊は理を筆に証し給う
前世の因縁が明らかになる今世の身　　真理を弘めることは更に良く成し遂げられます
仏心の本質は体悟すべき　　宗脈を開拓し原霊を渡す
この偈は、有情なる衆生が互いに励まし合うために捧げられます！
第十回　魔性悪性

魔性とは、人間の心に潜む闇の部分であります。
欲望、怒り、愚かさ、傲慢、疑い――これらの煩悩が極まると、魔性は悪性へと変貌します。

悪性は、他者を傷つけ、自らをも滅ぼす力です。
それは、慈悲の心を閉ざし、智慧の光を曇らせます。
悪性に染まった者は、自らの行いが苦しみを生むことに気づかず、迷いの輪廻を繰り返すのです。

しかし、覚者は説かれます。
「魔性も悪性も、本来は空なり。執着を離れ、正しい見方を養えば、それらは消え去る」と。

私たちは、自らの内なる魔性と向き合い、悪性へと育てないよう、常に心を戒めなければなりません。
清らかな行いと思いやりによって、仏性を輝かせていくことが、大道を歩む者の務めであります。
##南海古仏

南海古仏は、慈愛に満ちた観音菩薩の化身であります。
衆生の苦しみを深くご覧になり、常に救いの手を差し伸べてくださいます。
そのお姿は、まるで大海のように広く深く、すべての命を包み込む慈悲であります。

私たちは南海古仏の教えに従い、自分自身の心を清め、他人を思いやる気持ちを育むべきです。
そうすることで、私たちもまた、この世に平安と調和をもたらすことができるのです。

南海古仏のご加護が、常に皆様と共にありますように。
南無南海古仏。
2000年8月11日　庚辰年七月十二日（金曜日）
南贍部洲に聖務を揚げ　　海河大地に天書を著す
古徳の聖なる因縁が再び顕れる　　仏性・秉性、本来の在り処
仏性を顕彰する：内面を観照して入ることは、まさに自らの「仏性」を顕わし出すことである。しかし内面には原始の本性がすべて存在しているため、人間世界では自らの生存に障りを生じる。さらに！俗諦によって成長した者も、その秉性を発揮する様子が見られるが、それはただ潤いある生活の機能を果たすに過ぎない。
人類世界は、自らの生存利益に対して向上させる本質的な要素を持ちにくく、これはまさに自己の霊性が澄みきれないことに関係しています。人間の本性を物事に依存させて応用するため、仏性を顕わしにくく、大部分がこのような過程の障害を抱えています。これがすべての機能を形成し、まさに向上して成長することが難しい状況を生み出しています。
仏性と秉性：自己の本霊が存在するが、「性体」の本体を観じると、仏性を顕わすことは難しく、常に自己の生存利益を阻害し、向上昇華も困難となる。むしろ！秉性を自己の生存利益のために用いることで、自らは永遠に人世に留まり、その渦中から脱することはできない。
本性：生存利益への志向を打ち破ることができず、それどころか！本性に従って行動することで、このように一世を形成し、繰り返し輪廻の中で自分自身の因循とした行為を続け、またそれを肯定することは難しい。しかし、人間の世界において、天性を用いて行動しなければ、仏性がどのように顕現しようとも、それはつかの間の現象に過ぎないことを知らないのである。
自らの本性を阿頼耶識に帰入させれば、一切の有情衆生が迷いに沈むのもこのような状況においてです。そうなると、自らの生存の方向性を正しく選択する機能を回復することは難しくなります。本来は自らの主人となるべきところが、かえって自らの奴隷となってしまい、それにも関わらず得意げに、天地の中で自分だけが最も賢いと思い込んでいるのです。
もし生まれつきの性質に従って行動するならば、自らを容易に転換できない循環過程に陥らせ、人間世界において生存志向の獲得機能を打ち破ることができず、さらに自らを五塵の境涯に苦しめられ妨げられることになります。それゆえに、衆生は仏性と生まれつきの性質の区別について、自らが如何に行うべきかを知る必要があります。
いかに上昇と超越を達成するか？それは人間界において、自らが仏性を用いて行動しているのか、あるいは秉性によって人として振る舞っているのかを認識し理解することができないことになります。秉性の取るに足らないことについても、また仏性について言えば、いかにして人間界を理解するかという問題があります。もし単に仏性を用いて行動するだけならば、それは自分自身にとって非常に協調しがたいものとなるでしょう。
人間世界における困惑について、もし有情衆生が皆、仏性に基づいて行動する時には、仏性が本質を顕わすことにも気を配る余裕がありません。しかし、人間世界では往々にして仏性を引き出すことができず、むしろ！生まれつきの性質を発揮してしまうのです。最も大きな原因は、生まれつきの性質に従って行動する時、自分自身が常に妨げられ、困惑を感じるからです。
もし仏性を顕現させて行動する場合には、生存環境と次元の違いを観察しながら述べる必要があります。もし仏国の浄土においては、自然に仏性の顕現を発揮することができ、自在に応用できることはもちろん、どのように行動すべきかを理解し、仙仏が下界に降臨する際には、いかに対応すべきかを知ることも求められます。
普段、どのように仏性や天性を活かして行動すべきか分からなくなることはありませんか？あるいは、秉性や魔性を活かして行動しても、この重要な点をはっきり認識できなければ、五濁悪世に沈み、さらに永遠に人間世界の繰り返される輪廻に沈んでしまいます。また、秉性は決して悪いものではなく、それをどのように適切に活かすか、その選択が肝心なのです！
本性において、人間は皆自在に応用することができます。ましてや常に自らの生存環境を整え、あらゆる事物を難なく解決することも、自ら自在に応用することも可能です。しかしながら、仏性を顕現して発揚することが難しいのは、まさに自らの本性を埋没させてしまうからです。一時的に軽やかな仏性を回復させようとしても、おそらく容易なことではないでしょう。
また塵垢が一層一層と積み重なり、ついには清らかな天性を回復することができず、仏性を顕現しようとするのもより困難になります。それは衆生には衆生の生き方があり、仙仏には仙仏の生き方があるからです。自らの仏性が顕現しているかどうかによって、すべての行いがどのようなものであるかが評価されるのです。
仏性が顕現するとは、自らの生き方に対して上昇的な成長と積み重ねを持つことであり、また凡俗のあらゆる塵垢を浄化することです。ただ澄み渡り瑕なきのみならず、さらには！透き通るほどに清らかでありながら、人間が仏性を理解し得ず、また宿性を転化することも難しいために応用されるもの、これこそが人間の生存における様々な行いなのです。
自己の本性を浄化する一方で、かえって！凡塵の汚れを拭い去ることができないのは、ちょうど六祖慧能大師の「菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物、何処にか塵埃を惹かん」の境地に至らず、神秀大師の「身は菩提樹の如く、心は明鏡台の如し、時時に勤めて拂拭し、塵埃を惹かしむること勿れ」の域に留まるようなものです。
人類世界は、この二つの心法によって、自らを一切の塵垢の中に置き、自らの仏性を埋没させ、さらに自ら一切を浄化できず、かえって！五濁悪世に沈淪するのは、まさにこのような関係によるのです。また、人類の生存の方向性に対しても、凡塵の垢識の中で生きていることが理解できないのです。
自分が向上できるかどうか？非常に難しいことです！？むしろ、蓮が泥から生えても染まらないように、自らの心性を高め、仏性を顕現させる必要があります。もし「つかの間の輝き」に過ぎないならば、自らの霊性は一部しか浄化されず、必ずや未来において、沈殿した汚れを払拭できるようになるでしょう。
変じることは、自分自身に対して、向上して学び成長する原初の力を生み出します。また、八識の種因に積もった穢れや垢を掃き動かすことで、一つひとつ清めていくことができます。さらに、永遠に掃き動かすことのできない頑なな霊魂よりも、より高く超越することができるのです。では、どのようにして自らの清浄なる本質を体証すればよいのでしょうか。それは、自性の澄みきった本質を、さらに上へと成長させていくべきなのです。
仏性本来清浄にして透徹す　　
秉性作合にて明らかに遮り難し
世の上下の分を知り　　仏性の秉性は自ら得る
何ぞ愁えんや前因を化せざるを　　ただ垢穢を清除して明らむるに在り
体証生存は自性を用いる　　仏性もまた超昇を引き出せる
この偈を！衆生と共に励まし合い、本来の性質を体得して如何にして魔性を破り顕現させるかを悟りましょう。
第十一回　仏性と魔性
##南屏道済古仏（なんぴんどうさいこぶつ）
2000年8月15日　庚辰年七月十六日（火）
南海天地の真実の理　　古仏降著し性を見る機を
人生の根本は行持にあり
　秉性も魔性も共に相応しからず
人類の本性は、まさに人生の縁起を創造するものであり、また自らの生存の方向性を定める過程において、拠り所となる条件を持つことができます。これは、自らの実際の生存作用を通じて構築されるものです。果たして、この世における生存への依存を通じて、創造と実践を生み出せるでしょうか？必ずしもそうとは限りません！いかにして自らの本性を応用し、向上させていくべきでしょうか？
自己の生き方の方向性を探る過程において、また常に出会うのは：是非、正誤、○Ｘ、正邪といった相互に対立し制約し合う枠組みです。これは、自らがこの世における様々な縁起の過程を実現する中で、生まれつきの性質に基づいて物事を行いながら、しかも悟ることができないことによります：まさにその生まれつきの性質によって行動するがゆえに、しばしば自らを容易には抜け出せない渦中に陥らせてしまうのです。
自分が仏性を用いて行動することができないならば、永遠に輪廻の中に留まり、この限界から脱することはできません。また、自らが設定した立場に固執することで、永遠に上昇も超越もできない状態に陥ります。有情の衆生は皆このような過程を経ており、自分自身が無明の現れを理解できないままでは、転換を図ることは難しいのです。
また、仏性を用いて行動することも難しく、また本性に対して言えば、もし仏性と天性を用いて行動することが難しければ、本性や魔性に遭遇し、自分自身が永遠に心を磨き、性を磨き、気性を磨く過程に置かれることになります。これはまさに自己の心性を鍛錬し、魔性の中に入らないようにするためであり、また人間世界において『仏と魔』は正に一体の両面なのです。
さらに言えば、ただ一つの心の持ちようを変えるだけで、自らの心性と魔性を鍛えることになり、宗教を通じて修持を転換することもできません。それどころか、あまりにも多くの試練を受けたために、宗教と修持に対する不信感が生じてしまうのです。また、失望と落胆の中で、自分自身が信仰の真実の理諦を創造し発見することが難しくなってしまいます。
自分自身を与えることは容易に方向転換できないことであり、このような行為の中にあって、時にこそ天が心の在り方と智慧を試されるのです。必ず「心構え、対応、智慧、行動」という四つの側面を観察し、実際に重大な責任を担っているのか、それとも単に名ばかりの信仰の追従者に過ぎないのかを、この段階において必ず理解することになります。
試練が多すぎるからこそ、また試練が長すぎるからこそ、一人の迷える有情衆生に脱皮転生の機縁を与えられるでしょうか。天の大棟梁となるべき者は、必ずや試練の過程において不信や誹謗を引き起こし、宗教への排斥や修行への誤解、さらに誤った見解を抱くことでしょう。まさにこの過程を通して真実を知ることができるのです。
もしや！永遠に福報を享受する過程に留まるならば、永遠に上昇と転換の機会を得ることが難しくなります。これは、自らの生存の実際の過程において、骨身に沁みるほど深く体得し、一歩一歩自らの足で積み重ねてきた証しに対して、歩みを調整すべきではないでしょうか？それとも、ただ永遠に現在の段階に留まるだけなのでしょうか？
知る必要があります：多くの障害に遭遇した時、あらゆる過程がどのように様変わりするのか、自らの心構えと行動を変えなければならないこと。それは「智慧」の対応の中で、自らがどのように歩み、どのように行動すべきかを悟らせることです。また自らの「心構え、智慧、対応、行動」に対して、点数や評価を下すことでもあります。
自分自身にどれだけの点数を与えるかは、自分自身が採点するのであって、天が採点するのではありません。ただし知るべきは、第八識においては偽りを作ることができず、またあらゆる生存の過程――心を起こし念を動かすことから、すべてがここに蔵され、一つひとつが自己の阿頼耶識、すなわち「心王」に顕現するということです。
それによって、本性に基づいて行動しているのか、それとも魔性に基づいて行動しているのかを知ることができます。いずれも試練と苦難の中で真価が問われるのです。また、魔性が自分に与えられることで、その方向性の過程を知ることができず、自分自身が繰り返し選択を重ねる中で、まさに求めて得られない苦しみを味わうことになります。
このように繰り返し循環する過程において、自分自身の好むところを知ることができず、必ずや自らの心念意識の転換に影響を受けます。現代の時代においても、有情衆生は皆この過程における行いをしており、まさに自分自身では知ることができず、自分自身では満たすこともできません。さらに、何度も何度も、失望と落胆の中にいるのです。
また、魔性が生存の現前において顕現するとき、これは自己が深く体証することができない状態であり、いかに修整・改造・向上を図るべきでしょうか。むしろ、迷いと障害に惑わされ、まさに自らを迷わす障壁となり、このような過程と心の状態から根本的に脱却することができず、自らがこのような限界と障害を乗り越えることを困難にさせています。
一歩退くことで、すべての物事の成り行きを理解できるでしょうか？さらに！一尺退いて、どう行動すべきかを観察しようとするでしょうか？さらにまた！一丈退いて、物事全体の脈絡と経過の跡を観照することこそ、自ら智慧を働かせて顕現し、仏性を顕わすことになります。ましてや！魔性に妨げられることなく。
有情なる衆生は常にこの限界に閉じ込められ、またこのような過程に沈淪し、自ら抜け出すことができません。いかにしてすべての事柄の経緯を見極め、軌跡の中から脈絡を探し求め、どのように行動すべきかを理解することが、自らを改造し向上させる道なのです。そうでなければ、この境界から脱することができなければ、目の前の障壁を取り除くことは難しいでしょう。
本性は人世間に在り　　魔性は人世間に在り
仏性もまた人世に在り　　天性も亦人世に在り
見性の本質を了知すべし　　如何に行うかこれ自ら持つなり
本性は魔性、人の性　　天性は仏性、必ず明晰なり
この偈を！同じく有情の衆生と共に励まし合おう。人間世界において、もし自らの行いを明晰にできなければ、自らの未来に対して真の行持を持つことは難しく、ただ自らの無明に迷い遮られるのみです。さらに一層深く体証することも叶わず、自らを別の角度から観察することは、誠に困難なことです。
もし！天空を飛び越えて見渡すことができれば、すべてがはっきりとわかるでしょう。また、すべての行いは自らの実践の中にあり、あらゆる障礙を転じて除くことができます。もし天性と仏性を用いることができず、このような性質と魔性が常に天性と仏性に勝つならば、まさにそれが原因なのです！
第十二回　天性と仏性

天性とは、人間が生まれつき備えている性質のことであります。
仏性とは、すべての生きとし生けるものが持つ、仏となる可能性のことであります。

天性は一人ひとり異なりますが、仏性はすべての衆生に平等に備わっています。
私たちは、自らの天性を活かしながら、同時に内在する仏性を目覚めさせていくことが大切です。

たとえ煩悩に覆われていても、仏性は決して失われることはありません。
まるに泥中の蓮華のように、清らかな本性は常に存在しているのです。

修行とは、この隠れた仏性を顕現させるための過程にほかなりません。
日々の実践を通じて、私たちは徐々に自らの真実の姿に気づいていくことができるでしょう。
##南海古仏

南海古仏は、慈悲の海に浮かぶ智慧の島であります。
その御心は、広大なる海原のように、すべての衆生を包み込む慈愛に満ちておられます。
古仏の御教えは、迷える者を導く灯台の光のように、暗闇を照らし、安らぎへと導いてくださいます。

私たちは、南海古仏の御前で、謙虚に頭を垂れ、その御慈悲にすがりたいと思います。
御言葉は、荒波を鎮める凪のように、私たちの心の渇きを潤し、平安を与えてくださいます。

どうか、南海古仏の御加護がありますように。
御智慧の光が、私たちの歩む道を明るく照らし、御慈悲の風が、私たちの帆を極楽浄土へと送り届けてくださいますように。
2000年8月18日　庚辰年七月十九日（金）
真仏心宗法会彰　　燃点心灯億万盞
伝灯の尽きざる理を弘め揚げ　　魔性悪性を化して除く障り
魔性が入り込むのは、悪性を以て生長をなすためであり、その目的は！自己の生存に不利な傾向を改め、物質的な享受を得ることにある。この種の必要性は、悪質な性質の本体の中にはっきりと存在しており、もし永遠にこの段階に留まり、時間が長すぎれば、自己の仏性を抹消することになり、また魔性を久遠に成長させることになるのです。
必要に応じて、いかに魔性を除去すべきかを明確にすべきです。悪性の本質の中において、根本的に除去することができなければ、自己の成長に向けた内面的な修整・改造・向上は困難です。さらに、悪性の中には魔性の本体が存在し、自らを容易に転換できない状況に陥らせることになります。
魔性の悪性因質がもしも顕現する時には、この種の性質は真の大悪人へと変わり、自らこの種の局限を除くことが難しく、また自らも悟ることができません：魔性の中ではなぜこのようになるのか？しかし有情衆生にはこのような過程があっても、上蒼もまた衆生が魔性の中で顕現することを忍びえません。
さらに悪性の作用が加わると、すべての人が自己改造をすることができなくなり、自分自身の魔性の中の悪性を除去できるかどうかによってのみ、善性と仏性が顕現します。このような段階にある場合、自分の生存の方向性や物質の獲得において、もはや悪業を造らないようにすることは、根本的に難しいことです。
更に申し上げます！悪因の循環を再び造らぬこと、これは自らが悪を造りつつある中で、いかにしてそれを根絶すべきかを了知できるかどうかです。また、自らの心の悪しき因質を打ち破ることができなければ、必ず自らをさらに悪しき因質へと深めていくことになります。では、いかにして自らの良善なる因質を成就すべきでしょうか。まさに良善なる仏性に向かって実践を進めることこそが、その道なのです。
悪性と魔性：もしこの二つが一緒になり、分けられなくなった時、さらに両者が合わされば、必然的に！業の上に業を造り、因の上に因を重ね、果の上に果を積むこととなり、もはや転換の余地はなくなります。有情衆生がこのような事柄を体証できなければ、自らの生存利益を大きく進展させることは難しいでしょう。
自己の心性を損なう行為は、必ず物質的な享受の中で、悪性の者は善性の者よりも多くの資糧を備えることになります。また、悪業や怨みの債務を造りやすいため、自らの悪しき形相を行使することは、まさに非常に残酷な事実であり、これこそ諸天の仙仏たちがこのような局面を見ることを望まない所以であります。
心の姿勢を適時に転換できるかどうか？必ずしもそうではありません！もし長期的に転換が難しいなら、悪しき行いの中での作為を打ち破ることもできません。魔性は良くない因質ではありますが、有情衆生においては、むしろ！向上へと高まる根本の因となります。それはどうしてでしょうか？まさに魔性によって即座に反省することができ、また一体でありながら二面性を持つからです。
正に一種の向上と反面の成就であり、有情衆生はこの層の通徹を理解し難いのです。悪性の中ではこの種の契機転換が起こりにくく、仏と魔は一体であるとは言え、悪性と魔性を細かく区別することができます。ですから！人類衆生が必ず知るべきことは：仏と魔はただ一念の間に過ぎないということです。
しかし！悪性は決して一瞬の思いで生じるものではなく、むしろ！長い時間をかけて積み重ねられて達成されるものです。人間の世界にはなぜこのような悪性が存在するのでしょうか？それは、人間が生存を求める過程で、しばしば己の心を見失い、自らを悪性の因縁循環に陥らせてしまうからです。自分自身では、この悪性の因縁を打ち破ることができないのです。
自分自身に対して真の思想改造を行うことは難しく、むしろ！自分の行いや考え方は、これで正しいはずだと思い込んでしまいます！また、長い時間をかけて、あるいは生涯を重ねる中で、天性に入ることさえ容易ではなく、もし心性を改造し変えようとすれば、それは容易なことではなく、効果を上げることもできません。
また、人類の生存の根本は改造を行うことにあり、それは有情天地において、いかなる種族であれ、すべて一体であるということを指します。同時に、人類世界の人種に対しても、このように向上し超越することが必要です。さらに！輪廻する六道空間の魔性の種類に対しては、それらは非常に悪質で変革が難しいものですが、これこそが正しいと考えるべきです。
その通りです！人間社会に存在することが難しい場合でも、天性を保持している限り、仏性を顕わすには機会と因縁が必要です。天に対しても、教えずに罰することを忍びず、必ず一条の活路を与え、改めて修整する契機を授けます。これこそが天地の大いなる徳であり、慈悲をもって下界を教化する所以なのです。
魔性の衆生も皆備わり　　仏性の衆生も実に留まる
悪性の種因は必ず修める必要があり　　善性は自ずから成就することができます
有情の人類の作為には　　悪行が業を積み重ねることがあります
自身を見ればどうしてこのようであるのか　　それは根性が悪質に墜ちているからです
もしも一人の悪質な性格を持つ人間を導き渡すことができれば、かえって！より多くの善良な人間を教化するよりも容易ではなく、またこの社会に対しては一種の良き現れとなります。天地の大いなる徳を理解する必要があり、有情世界に対してまさにこの通りであり、悪質な悪人に対しても改造を施すことが、まさに上蒼の徳沢が有情世界に及ぶことなのです。
第十三回　天心天性

天心とは、宇宙の中心に存在する本源的な心です。  
天性とは、人間が生まれながらに持つ本質的な性質です。  

天心は静寂であり、無為自然の理を内包しています。  
天性は純粋であり、善悪を超えた本来の姿を表しています。  

天心に帰れば、万物と一体となる境地が開けます。  
天性に従えば、迷いのない清明な心が顕れます。  

天心と天性は、一つの真理の両面です。  
天心を悟り、天性を活かすことが、大道を歩む礎となります。
##南屏道済古仏
2000年8月25日（金曜日）庚辰年七月二十六日
崇心庚辰法会開く　　燃燈古仏降臨せり
心灯を燃やして尽きることなく伝え　　仏性の光明を顕わして闇を排す
伝承は無限です
庚辰年六月二十二日、伝承の心灯を灯すことは、すなわち燃燈心法を有情世界に顕現させることであり、釈尊の弘法を補完し、二十一世紀の蓮華仏国浄土世界を開くことになります。崇心が天命を奉じて聖務を展開するにあたり、なぜ崇心がこの聖務を行うのか。次の五点があります：
一に、崇心理筆宗主と諸賢生が揺るぎない志を持ち、最も困難な環境の中、また何の資源もない状況においてさえ、最も挫折と誹謗に満ちた時に、一人の人間の心の在り方と行動、対応と智慧の分別を観察することができるならば、未来の弘揚と普及の基盤が生まれ、自らを成就して衆生を救済する道が開けるのであります。
崇心：理筆宗主がこのような聖なる任務を授かることは、まさに確固たる直接の『法統と福縁』があるからこそです。さらに、主導的な導き手が、上蒼の徳沢が真の教育と教化の機能であることを理解できるようにし、また崇心が担う使命と責任は、過去や現在のいかなる宮堂や道脈とも異なるものなのです。
二者－は、燃燈古仏が前期において、二億の聖仏を教化して回帰させたことを指します。この時代に人間界に下りて教化を行うにあたり、この二億の仏子が下凡するのと同時に、燃燈古仏も天界での安穏を捨て、自ら下凡して助けに来られました。まさに直接的に『道脈法統』の主たる道場を司られるのです。
崇心所が聖務を承領して四載余りが経ちましたが、その中で重要なのは、度重なる試練を経て、「燃燈心法」が提唱するように、実は「燃燈心脈」こそが唯一直接に宗脈を主導するものであり、また今この時に下凡した二億の仏子を引渡すこと、さらに！九二原霊子を引渡して回帰させることこそが、まさに釈尊の不足を補い円満にすることなのです。
また、過去の仏教経典には不足があり、論蔵を著作して有情世界に下化していなかったためです。ですから！崇心が演じる役割は、単に天地の有情衆生に対する徳沢を演繹するだけでなく、さらに無極・虚空・大宇宙の徳沢を衆生に演繹するものであり、この天地の有情衆生に限ったものではありません。
「宇宙生命」をいかに展開すべきかを理解するためには、自己を無極・虚空・大宇宙天界に帰することこそが真実の道であり、真実の理諦をもって教化を行うことが必要です。これは自己が上昇超越の資糧を備えることによって初めて真実性を持つものであり、上昇超越による高みへの到達こそが、回帰の確かなよりどころとなるのです。
三つ目―この末法の時代において、すべての人類衆生は、自らの行いと教えの脈絡によって弘法に励むことは、自己の教えを広めることとして、まことに真実にかなっております。しかしながら、往々にして弘法の過程において他宗を誹謗することが、自ら「善の中から悪業を造る」結果を招いており、これは誠に惜しむべき修行の在り方であります。
しかし、徳性と因果のなかで、いかに智慧を応用して向上させるのが正しいかを知らず、ただ自分が天地と通じ合えると考え込むならば、それは単なる仙仏に過ぎず、真の福德と智慧を備えることができず、どうしようもありません！まさにこれは、現代の無数の教えが欠いている主要な因縁なのです。
崇心は今後、自らの学習経験を高め、真実の理諦を応用し、自らに活かすとともに、有情世界へ広めることが真実性となります。また、崇心が現在遭遇している因縁は、正統的なものではなく、今この時点で調整する必要があります。そうしてこそ、真に世界へ広めることができるのです。
今この時空は、まさに仏と魔が二つに分かれて障りとなる世界です。どのように方法を転換し広めることが真実なのでしょうか。必ず智慧をもって観照し、理筆宗主に「天眼神通力境」を授け、有情衆生のすべての行いと因縁を見極めることで、崇心がより豊かな資源をもって弘揚することができるのです。
四つ目－崇心正しきは：唯一無二の「燃燈心法」主体宗脈を直接に掲げ、いかなる時と因縁の中にあっても、これを護持しなければなりません！またこの種の心燈を崇心宗脈の中に伝承し、永きにわたって止むことなく拡大させ、有情衆生が皆自らの心燈を点じ、尽きることなく伝承していくようにすべきです。
崇心の基本聖務は、まさに一期一会のごとく行われるものであり、上蒼が選ばれた棟梁の道脈の基本としての役割を果たします。しかしながら！崇心は「心燈」を継承し弘めることこそが、我らが燃燈心法の道脈を構築するものであり、また、大道シリーズ第八冊『大道明心』の献書完成後にもその精神は受け継がれていくのです。
「真仏心宗」を開くこと――心の灯を億万と灯し、仏性の無辺の岸辺を顕わすことは、崇心に対する肯定と賞賛であり、また、理筆宗主が今後も心の灯を灯し続けることを提唱することに対してです。師はすでにこの心の灯を光明榜に託しており、ただ縁ある者が灯すのを待っているだけです。まずは自らの心の灯を浄化し、その無限の輝きを顕わすことが必要です。
五つ目―この『心燈光明榜』を崇心道脈において弘揚するに当たり、必ずや我が　燃燈仏聖を顕揚し、すべての者が回帰を果たし、さらに超越できるようにしなければなりません。更には千百万の仏子を引渡し成就へと導きます。崇心の全体道脈は尋常ならざるものであり、　師である私も常に崇心道脈に駐在し、監督と護佑を行います。
燃燈法脈は千古に伝わり　　殊勝なる因縁これ一端なり
伝承は崇心を受け継ぎ広め　　道統の正脈は人寰を利する
無限の徳沢は万霊を渡し　　四億の仏子は天音を揚ぐ
回帰し超越し再び乗り越え　　更に勝れて普く渡し円を収め導く
毎月の一日、五日、十日、十五日、二十日、二十五日、五日の節目ごとに常に崇心に駐在されます。これは燃燈心脈の普及を通じて守護をなさるためであり、ただ燃燈仏のみならず、多くの仏聖が同時に崇心道脈に御駐駕され、真仏心宗が諸神仏と諸賢生の共力によって推進されることを広められる必要があります。
第十四回　天性自性

天性とは、人間が生まれながらに持っている性質であり、自性とは、自分自身の本質を指します。

天性は天から授かったもので、自性は自分自身の内にあるものです。

天性は変えることができませんが、自性は修行によって磨くことができます。

天性と自性は、一つのものの二つの側面であり、切り離すことはできません。

天性を活かし、自性を磨くことで、人は真の自分自身に目覚めることができます。

天性に従い、自性を追求する道こそが、大道の歩みなのです。
##南無燃燈古仏（なむねんとうこぶつ）に帰依いたします
2000年8月29日　庚辰年八月一日（火）
南贍大道本法生　　海天一色因自成

南贍大道は本法より生じ　　海天一色は因自ら成る
古き言い伝えは真理を広め　　仏性と魔性が明らかに顕れる
「魔性と悪性」という二つの性質を観じますと、魔の境に入った者は、自分自身を識別することができず、自分の行いに対して漠然とした悲哀を抱いています。それは自己を理解できない状態であり、まさに悪質な魔性に陥っているのです。また、悪質な性質が人間界で育まれるとき、それはすべて悪しき習性の影響を受けることになります。
自らも人類世界に留まり、常に自らを転換の難しい境地に置いています。仏性は魔性に対して悪質な本性を化除するものですが、自らを改造することもできず、ああ！自らがすべての苦果を引き受け、あらゆる過程が悪を造る禍いの中にあり、自らを明晰かつ通徹させることが難しいのです。
すなわち仏性を顕現することができず、かえって魔性を成長させてしまいます。そのため、仏と魔の両性は一体でありながらも二面性を持ち、一体両面であることに気づかず、自分がどのような性質で人間世界に立っているのかを見極めることが困難です。自分自身の仏性を顕現することは根本的に把握しにくく、ただ魔性の悪質な性質に沈んでしまうだけです。
一切の有情衆生に対して、常に自らの性質傾向に対しても、種類や層次、境界によって区別が生じ、仏と魔の両者が共に自己の本性であることを悟り難くします。それ故に！本体の根性に対して、自分が如何に行動すべきか、如何に振る舞うべきかが明らかにならないのです。これこそが有情たる人類衆生の悲哀であります。
魔性：現在の世界において、もし見ようとすればかなり容易に目にすることができるでしょう。では、どのような原因によって形成されるのでしょうか？ある物事の始まりに対して、もし心に不快感を抱き、さらに自分自身が激怒する（怒り狂う＝猛烈な気性）ような状態になれば、魔性はその瞬間に現れます。必ずや自らの魔性に原因を植え付け、悪しき性質を顕在化させることになるのです。
この種の性質は人間世界に存在し、日常的に用いられるのはすべて生まれつきの性格に基づいて人として振る舞うことです。まさに天性を用いて行動することができず、魔性の中に陥り、無明の障害を打ち破ることができません。また、自分自身の悪しき性質をどのように取り除くべきか？それは自分自身を悪を造る深淵に沈めることになり、どうしようもありません！人間はしばしばこのような状態なのです！
悪の種性：これは自己に対して非常に深い害を及ぼすものであり、一般の衆生にはこの種の知識を変えることがなく、常にこのような行いに従順であり、まことに恐ろしいことです。もし堕落が長く続き、善知識による導きもなく、仙仏の救済も受けられなければ、仏性本来の天性に基づく行いを顕わすことは根本的に困難です。
かえって！悪性の根本的な境地に沈淪しているからこそ、永遠に悪因と悪果を造り続けているのであり、また造られた悪果は上昇することが難しく、まさにこのような悲哀なのです！有情の衆生は、自らの心性における苦しみを体証することができず、どのようにして本性の中の悪性を化除すべきでしょうか？これこそが魔性の中の悪質な因の本源なのです。
仏と魔はまさに一体の両面であり、また魔も仏もこの世の中に存在しています。人間を含む衆生は、今この瞬間から、仏性の顕現を知ることができます。では、どのように実践すべきでしょうか？また、どうすれば心の中のあの一つの光明の灯を灯すことができるでしょうか？仏性の本体を照らし出すために、さらに！人の正気が凛然としていることから、自らの仏性の顕現を昇華させることができるのです。
もしや！暗黒に阻まれることを受け入れ、さらに！悪しき因性を自らの本性に顕現させてしまうならば、まさに幾重もの暗黒を蒙ることになります。また、仏と魔の差異が自らが受け入れるものであると悟れば、有情衆生が向上する根本的な因質を阻害し、かえって一切の外的な魔境を、より容易に化除することができるでしょう。
仏もまた人の成り　　魔もまた人の成り
何が自らの真実を了えるのか　　見を化除して分明ならしむ
もし人間性の中にある仏と魔の両性が、すべて自分自身の本心によって照らし出されるものであることを理解できなければ、自分自身の「仏と魔」が生み出す本質的な性質が、すべて自分の心の意識によって引き起こされるに過ぎないと知りながら、どうやって自分自身でそれを転化すればよいのでしょうか。あるいは仙仏の導きによって魔性を消し去り、仏性を顕現させるべきなのでしょうか。
「仏と魔」は対立するものではなく、ただ自らの心の意識が主導するだけであることを理解しなければなりません。また、外的な魔境は容易に取り除くことができますが、内的な魔性を除去するには、深く工夫を重ねて初めて改造に至ることができます。このように、仏と魔は外に現れるものではなく、まさに自らの内性の一体両面に過ぎないのです。
自分こそが仏と魔の総合体であることを認め、「仏と魔」の顕現を観照することで初めて自ら悟ることができます。では、いかにして魔境と魔性の根本原因を転化すべきでしょうか？いかにして仏性の顕現を照見すべきかを知る必要があります。まさに自らの「光明心燈を灯して仏性を照らす」ことが必要であり、これは極めて真実に即したあり方なのです！
同時に魔性が顕わに示すところを照見すれば、まさに自分が憤怒の中にある時、悪相が突き出てくることを知ることができるでしょうか？　甚だ難しいことです！　しかし、他人からははっきりと観察することができます。つまり、あの凶悪極まりない者が現れる時、自分で鏡を照らせば、もう一つの自分の顔が分かるのです。これこそが魔性の顕現です。慎んで戒めなさい！
仏性の顕現は自己による　　魔性の顕現もまた依る
仏魔を了別するは自らの本体なり　　魔は外忌と謂うべからず
人生は嘆かわしい、仏と魔
試練の道を越えても、魔はまた試練を
一関関中より来たりて相叩く　　仏仏魔魔皆我より出ず
仏と魔が顕現する本性について、片方だけを論じてはなりません。仏性だけを語り、魔性を語らないのは、自らを欺くことに他ならず、真実の自分に向き合うことも困難です。極悪非道な憤怒の面相に直面した時、いかにして魔性を転化し、仏性を顕現させるべきでしょうか。魔性を浄化し、仏性を顕現させることが、真実の姿なのです。
第十五回　本心自性

本心自性とは、一切の衆生が本来具えている清浄なる心の本性を指します。それは煩悩に覆われていても、決して汚れることのない真実の自己です。

仏教の教えにおいて、この本心自性は「仏性」とも呼ばれ、すべての人々が悟りを開く可能性を内在していることを示しています。ただ、日常の妄念や執着によって、その輝きが曇ってしまっているのです。

修行の目的は、この本心自性を自覚し、顕現させることにあります。坐禅や念仏、経典の読誦など、さまざまな実践を通して、私たちは次第に本来の清浄な心を取り戻していくことができます。

本心自性に目覚める時、私たちは自分と他人、さらにはすべての存在との一体感を実感するでしょう。そこには分別や対立はなく、ただ平和と智慧が満ちているのです。
南無燃燈古仏
2000年9月1日　庚辰年八月四日（金）
南屏道済李修縁　　古仏降り来たりて崇心円し
人生は縁によって自ら引き合い　　天性と仏性はその根源なり
「仏性と魔性」の分かれ目はまさに一体の両面であり、自らが選択を下す必要があります。『仏と魔』が共に自らの心の意識の中にあることを明確に体証しなければなりません。あらゆる性質に対して言えば、つまり人類が生存する根本は、すべて本性によって自らが生存の中で顕現させることにあるのです。
存在の過程において、自らが志向する目標に向かって追求するという性質を理解しなければなりません。その志向の中で、あらゆる志向の過程を見極めるのです。もし悪しき因縁を適用し、悪しき性質に従って行動すれば、常に妨げられることになります。では、天性をどのように適用して人生の志向過程とすべきでしょうか？それは必ずしも一定ではありません！
自己の性向を明らかに理解するためには、どのように判断することが真実性と言えるのでしょうか。自己の生存に対する志向を理解することは、しばしば真実の理諦を活用できなくさせ、むしろ一般的な世俗の理諦に頼ってしまいます。これこそが、有情衆生が真実の意味を通じて向上することができず、どうしようもない状況に陥る原因なのです。
誠に！生存の真実なる意義において、真実の理諦を運用することができなければ、永遠にただ一般的な俗諦の中に留まり、この制限から脱することはできません。これは人類衆生が天地の運行する真実の意義を理解できず、どうして天性を運用することができるでしょうか？天地の間に有情なる衆生に対して、向上へと高められる因本の性質を備えることができるのです。
どのように向上させ、どのように導けばよいのでしょうか。生存のただ中で天性を活かし、自己の未来の方向性を見極め、さらに！自らの主人となること、すなわち自己の奴隷に振り回されず、天地の真実の理を悟ることができれば、必ずや魔性の柵から脱することができるのです。
天地の正面なる真実の理諦の性質を明らかにすることは、有情衆生に利益をもたらします。これは一般の修行者でさえ理解し体証できない過程において、仏性の因質を知ることができるということであり、まさに天性が顕現することです。これはまた大道の性であり、さらに言えば：無極の性、虚空の性、宇宙の性が昇華し超越するものであります。
天性は即ち天心である：どのように天心の演繹過程を理解すべきか？『大道見性』に記された因縁は、いかにして天地の心を顕現させるべきか？すなわち、天地心、無極心、虚空心、宇宙心、これらすべてはこの天心・天性にあり、さあ！いかにして自らの性向を導き、人世における造作を通じて気質を変化させるか。
その通りでございます。衆生は皆仏性を有していることを了知し、また仏性の顕現は仏教においてのみ応用されるものに過ぎないことを理解すべきです。儒教、道教、キリスト教、イスラム教など、この四つの宗教では仏性の概念を応用することは非常に困難です。過去の人類世界には、そもそもこのような「仏性」という名称は存在せず、わずか二千余年ほど前からこの名相が知られるようになったに過ぎないことを、必ず了知しなければなりません。
かつて大虚空天界において、天心を悟ることは真の向上の本質であり、自ら天心・天性に融け込み、それに従って行動することが必要であるが、一般的な修行者には体得し難いことであった。また、時が移れば法も移り変わり、時代はすでに科学技術文明に入り、宗教的信仰に限定されず、次第にこの垣根から離れつつある。
これは自らの真実の霊性をもって天性・天心を顕現させるためのものであり、このような因縁がすべての行いを醸し出しています。また、有情衆生も次第に宗教的な名相から離れつつあります。もし改革を施さず、むしろ過去の言葉ばかりを用い続けるならば、おそらく未来において、有情衆生を導き成長させ向上させることは非常に困難となるでしょう。
逆に！一部の有情衆生は、科学文明のみに重きを置き、霊性の世界において未来を体証することが難しくなります。ただ一つの心念を動かせば、必ずすべての成形された状態において、神通力の境地の過程を了知することができます。これはまさに神足力境通であり、これに基づいて観るならば、いかにして天心と天性の行持に活用すべきでしょうか？
ただ現在においてのみならず、崇高なる心が担うべき役割であり、さらに！自らが理解できるよう確立する必要があります：天の心、天の本性を悟ることによってこそ、未来に向けての天眼・天耳・他心・神足・宿命・漏尽の神通力の境地を発揮でき、自らを高め超越することが叶うのです。では、いかにして天の心と天の本性を識別し得るのでしょうか？
天心は即ち我が心であり、天性は即ち我が性である。如何にして自己を運用すべきか：天地の心と同様に、天地の性と同様に融合するには？必ず明らかにすべきは：まさに自己の作為と性向を弁別するにあり、有情衆生もしこの種の境界を体証できなければ、必ずや天心・天性に対して真実の認識を持つことは難しい。
天地の心は即ち我が心であり、天地の性は即ち我が性であります。このような道理に対して自ら相当なる理解を得てこそ、初めて人間世界の様々な束縛を自らの力で解きほぐすことができ、必ずや悟るに至るでしょう——人間としてどのようなことを為すべきか？いかにして体証すべきか？自らが人間世界において、どう真如を顕現し、自性を発揮すべきかを！
天地の本性：これは自分が天地の心と区別されることに対する認識です。そうでなければ！この一点さえも体得することはできず、自己の天性・天心を高めようとしても、成就はより困難となります。必ずや今この時に、崇心の諸賢生らは皆、「天心と天性」において自らが果たす真の役割を、詳細かつ確実に理解し、明晰に認識しなければなりません。
天地は徳沢を演繹し、有情世界の自己と芸々衆生は、まさに天地の護佑するところであります。『大道見性』の著作の本意を了知し、いかにして自己の性向の区別を明晰すべきでしょうか。天地の心即ち我が心に達し、また天地の性即ち我が性となるには、理に如く実際であることが必要であり、これこそが真実性であります。
天性天心我が心　　我が心は天地の心と成り得る
人間の悟りには千百の種類がありますが、天心と天性は常に覚醒していなければなりません
仏性は有情の天に顕れ　　天性は無垠、天心に縁る
天心天地の性を顕露し　　心中の本性を顕彰す
この偈は、すべての有情衆生と共に励まし合うものです。これを理解できれば必ず悟りを開き、心を明らかにすることができ、さらに本性を見て大いなる喜びと悠々たる境地を得られます。そうでなければ、わずかな悟りを得ただけで自分はすでに悟ったと思い込み、それは疑いなく自分自身に対する迷いの障壁となり、また一切の性質の区別：天心、天性の中では、いかなることも本質の性質によって成就することができます。
第十六回　自性本心

自性本心とは、一切の衆生が本来具えている清浄なる心のことであります。迷いの世界にいても、この心は少しも汚れることがなく、常に光明を放っております。ただ私たちが妄想に覆われているため、その輝きを見失っているだけなのです。

もし一念に回光返照し、自らの本心に立ち返ることができれば、そこには何らの欠けるところもない完全なる智慧が顕れるでしょう。この心こそが、仏陀と私たちとを隔てるものではなく、一体であることを示す真実の姿であります。

ですから、日夜の修行はすべてこの本心を悟るためにあると言えます。座禅にしても、念仏にしても、経典を読むにしても、ただ自性の目覚めを求める一つの手段に過ぎません。大切なのは形式ではなく、如何にして己が心の本源に到達するかという一点に尽きるのです。
##南無燃燈古仏
2000年9月5日　庚辰年八月八日（火）
南無開創宇宙生　　燃燈自性霊自ずから臻る
古仏は大千界に伝え揚げ　　天心天性に心燈を点ず
天心の観点から見れば、それはすべての種に対する本心の導きであり、「天心」こそが天の運行によって一切を繋ぐものであると理解できます：宇宙、虚空、無極、天地と万物の生存と展開の過程は、すべて天心にあります。すなわち、すべての聖・神・仙・仏の心です。ここで、天心をどのように自己の本心と融合させるべきでしょうか。
自らの生存利益に対して、いかに向上すべき行動を取るかを明確にすべきです。まさに本心が天心と融合することを知る必要があり、それによって初めて、あらゆる天心の働きが大道の運行に背かず、また人間世界において、いかに輪廻の束縛から脱するかを体得しなければならないことを自覚できるのです。
すべての因果を償うことができてこそ、正しさと言えます。天心の蔭護の本質とは、まさに一体となってこのような博愛を示すことです。すべての有情衆生は、いかなる時空に存在しようと、いかなる種族であろうと、天心の護佑と導きを受けています。それは、自らが如何に「天心」の働きと融合するかにかかっているのです。
さらに、自らを未来に向かって行動する主体と位置付けることは、自らが凡俗の様々な制限や束縛を受けないようにすることであり、また天心によって大いなる天地の衆生を導き、すべてを自らの本霊の中に構築することです。天地の大いなる愛を体得し、他の種や無数の衆生を護ることが、まさに人類世界が備えるべき有情の行動なのです。
生存は「天、地、人」の中で連鎖を成しています。なぜならば、天の大徳は「生を好む」ことにあり、地の大徳は「生を養い育む」ことにあり、人の大徳は「生を放ち護る」ことにあるからです。また、この三者が連鎖するゆえにこそ、人間世界は天心をもって事を行い、天性の本質を体得することが必要であり、また天心と天性をもって導かれる必要があるのです。
まさに人類が言うところの「もう人間ではない！」という境地こそが、聖人・神仙・仏・菩薩の行いなのです。それは自らの行い全てにおいて天心と天性を引き出して行動すること、つまり自らの「因本質地」をすべて顕現させるとともに、理にかなった実際的な向上を図らなければなりません。さらに！真実に即した実践があってこそ、成長して超越することができるのです。
天心において可能となります：すなわち、大寰世界の一切の物種が引き起こし連鎖する因の本質は、必ずや天性をもって人類のあらゆる事物を「我即ち仙仏聖神菩薩の徳性」へと連鎖させねばなりません。ゆえに！人類世界において、もし大乗菩薩の行覚有情を行じ持つことができなければ、また局限からの転換を成し遂げることは極めて困難なのです。
多くの衆生は、自己の本心・本性から発現する本質を適切に活用することが難しく、そのため自ら天心・天性を引き出して行動することができず、本心・本性と天心・天性を繋ぎ合わせることも叶いません。さらに！はっきりと体得すべきは、ただそれだけではないということです。
なお！すべての有情衆生に配慮することが求められます。これはまさに人間が行うべき基本的条件の中でも、天性において自らを善良と徳性、無私の本質に置き、さらに自らの本心を天性の中に高めていくことです。そして、すべての因果関係は、すでに跡形もなく解消されているのです。
天心の晶瑩剔透たるを具足すれば、一切を観照するに瑕なきにおいても、必ず光明の全体を透見する必要があり、天地の引力の中にて、「天には天心引力あり、地には地心引力あり」と了知し得る。人類世界の中にあって、もし天心引力を具足することができなければ、いかんせん？
自己の天性に対して、真如を顕わし、仏性を明らかにし、天心に従って行動することは、非常に難しいものです。これは天心引力によって創造されたものです。しかし！宇宙のすべての惑星の運行において、天心引力がなければ、平衡と定位を達成することは難しく、したがって運行の平衡と定位が必要であり、それによって多くの災難が生じることはありません。
天心引力によって創造されたものは、すべての惑星が規範と法則に従って運行し、互いに衝突することなく、三千大千世界のあらゆる種を守る働きをしています。さらに！天地の法則は、天心引力の持続的な力を引き出し、万物の行うすべてのことを軽やかに妨げることなく可能にしています。
必ず人類世界の中で自ら体証することにより、ただちに天心と天性の働きを照見することができます。これはまさに凡人たちが言うところの「証道の仙人」であります。ゆえに！天性と天心によって引き出されるものは、あらゆる星辰を定位させ、あらゆる宇宙の規範を一切の大道の運転の中に演繹し、いかなる星球間のバランス力に対しても作用するのであります。
己が天心と天性を引き出し、大道の天心と天性に合致することができれば、もはや人間ではなく、仏菩薩の境地に至ります。必ずや人間世界において、天地の運行を真に明らかに理解し、それに背かず、自らの本心と本性から創造・発展させ、基本的要求を連携させることができるのです。まさにこの通りです。
天心は大道心を運行し　　天性は衆星辰を運転します
持つ恒の力の道は平衡なり　　相互に相い輔け相い連なって成る
天心が成す天性は真なり　　本心本性自性を顕わす
心の灯を燃やして光明を照らす　　人間有情、天心に至る
有情なる衆生の実際の理諦の本質を知るにあたり、いかにして自らの天心・天性と、天地・宇宙・無極・虚空の天心・天性とを繋ぎ合わせるべきでしょうか。まさに、自らが生存の中で確実に機能を行使することによって、「天心引力」と「地心引力」の働きを知ることができるのです。
有情なる衆生が、地球の運行の中で、いかに天心や天性と調和し、長く持続的な関係を築くことができるでしょうか。それは「中道」において成長することが必要です。有情世界の本質を悟ることは、まさに自らが体得し融合することによってこそ、天地の運行の真実の意味をありのままに理解できるのです。
人生の因縁はまさに天性と天心によって引き起こされるものであり、天心と天性を明確に理解する必要があります。それはすなわち、自らの身体に内在する根本的な因質であり、あたかも天地・無極・虚空・宇宙の天心天性と連なり、一つに融合するかのようです。これこそが、自らの本体の因縁を高め、超越する道なのです。
第十七回　霊性の因種

霊性は、万物の根源となる種子のようなものです。それは、私たちの内に潜む無限の可能性を指します。この因種は、清らかな心によって育まれ、智慧の光によって照らされるとき、やがて悟りの花を咲かせるのです。

しかし、もしこの種が煩悩の塵に覆われ、無明の闇に閉ざされれば、その成長は阻まれます。ですから、私たちは常に心を整え、善き行いを積みながら、この尊い因種を大切に育んでいかなければなりません。

仏典にはこう説かれています。「一切衆生、悉く仏性を有つ」。この教えは、すべての生きとし生けるものに、この霊性の因種が宿っていることを示しています。
##南屏道済古仏（なんぴんどうさいこぶつ）
2000年9月8日　庚辰年八月十一日（金曜日）
南海に天心の道を開き　　古仏は真理の妙を弘めます
人間の至宝は本心を修めること　　天性自性は昇華して輝く
天性が天心に入るとは、自らの自性を明らかにすることであり、その目的は有情衆生が天心・天性と融合できるかどうかにあります。凡塵にあって、自らの本心・本性を明らかにし、自らの天性に従って行動すれば、自性と相互に融合し、自らの天性を行持し自性として振る舞うことができるのです。
必ずや担うべき使命を全うすることで、十分な上昇の資糧を具えるのみならず、さらに！自らに対してより創造的な行動を起こすことにより、「天性と自性」の実践を通じて、一切の大いなる情け、大いなる愛に満ちた有情衆生が依拠する全体の事柄において、自らがより大きく発揮できることを体得します。まさに大博愛の現れであります。
天心、天性は、自らの本心、本性から発し、さらに自性仏体の顕現に向かうことにより、悟ることができます。自性こそが、自らが実践を方向とし、依拠する過程を善徳の方向へと向けて行うことを可能にし、それによって人間世界において、あらゆる行いを上求（菩提を求める）と下化（衆生を救済する）の両面で実践できるようになるのです。
これは自己に対して、いかなる悪質な因性も成長させず、自らに真の大いなる作為と大いなる情愛、博愛の精神を提供し、また自らを天地が敬仰する天心・天性の本質によって構築し、有情衆生に対して自性を顕現する行いを実践し、さらに！仙仏聖道の性体の中に融け入ることです。
さらに、体証と明晰さを求めることは、自らが依拠できるものを持つだけでなく、自らに向上の資糧を提供し、さらに！豊かに満ち足りて、有情衆生を教化することができることこそ、「用いれば備わる」のであって、資糧が途絶えることはありません。そして！絶え間ない実践の資糧を持ち、成長を促す真実の理諦を教化することができるのです。
自らが上へと無限に求め続けることを具足し、しかも！下へと化することは更に尽きることがありません。また、人の心は本来善良であり、人の性は本来清らかで満ち足りています。この霊妙で清らかで満ち足りた本質の中において、透徹して一点の瑕もなく、有情の衆生に対して自性をもって事を行います。また、自性がもし人世に長く留まりすぎると、恐らく五塵の悪世に侵され損なわれる恐れがあります。
自らの本性に曇りが生じた場合、その状態を清めるためには、心の内側を通じて洗い清めることが必要です。さらに、「心」の働きについて、「念」が起こる過程において、いかに「意」を明晰に保つかを理解しなければなりません。良くない「識」の種が付着していないかどうか？まさに自らの『心念意識』を導くことが重要です。
さもなければ！もし単にこの「心」を知るだけで、「念、意、識」この三者を浄化して向上させなければ、おそらく内修の境地においても、内なる心性を顕現することは難しく、すべての有情の修行者もこの境地を体得することは難しいでしょう。むしろ！皆がこの「心」に左右され、その渦の中に入ってしまうのです。
根本的に「心念意識」全体の作用を浄化することができず、まさに自らを永遠に輪廻の中に置き続けているのです。ですから！「求道」とは一種の帰依の形式、すなわち仏教の帰依儀式に過ぎないことを知る必要があります。求道が一指で超生をもたらすとすれば、一切の因果律はどこにあるのでしょうか？
要明らかに体証し求道と帰依することは、単なる授業の申し込みに過ぎず、もし真実に下化することができず、自らの自性を清浄にさせることができなければ、根本的に「心念意識」全体の働きを知ることはできません。しかしながら！「心念と意識」は単に仏教で用いられる名詞に過ぎず、仏教には特殊な論理があることを明らかにしなければなりません。
人間の心が動き、思いが生じるたびに、すべて詳細に記録されています。いかにして「心猿意馬」を調伏するかというと、必ずや心が動き、思いが生じるその瞬間に、「心念意識」の誤った導きを解き除くことを悟らなければなりません。それゆえに！道家の三魂七魄についても、さらに「心念意識」の中に融合させ、いかにして互いに補い合い、導き合って向上させていくことができるのでしょうか？
誠に、良き方向へと導き行じることは、自らの「心念意識」によって示される根本にあります。心の主たるものを捉え、心性を自らの本霊に顕現させることこそが肝要です。いかなる宗教の理論も、互いに補完し連関し融合することができなければ、それは単に自らの宗教的見解に執着しているに過ぎません。
他の宗教の長所を軽視し、自らの宗教の地位を一方的に高めようとすることは、逆に自らを容易に抜け出せない罠に陥らせることになります。それはなぜでしょうか。あらゆる宗教が教える機能には、それぞれ特殊な教化の方法があることを理解しなければなりません。各宗教の長所こそが、自らの宗教の不足を補うことができるのです。
まさに「心念意識」と「三魂七魄」を融合・補完させ、真に善なる方向へと導き実践することが、自らの人間界における内面の境地を高めることになります。それによって三千の功徳と八百の果報を実践し、自らの本来の心と自性を超越して顕現させることができるのです。まさにこのようなあり方であるべきでしょう。
崇心の教導課程の資糧は、すでに三千の功徳と八百の果報を超越し、さらに深遠な造作に至り、ましてや！高層の境界と果位に達しています。したがって！崇心が求めるものは、ただ下乗の位階で行じるだけではなく、まさに大乗の行者であり、さらに！仏乗に入る者が、自らの行いを実践することで、必ずや理にかなった実際のものとなるのです。
師として！崇心のすべての神仏・学生に求められるのは、皆が「仏乗の実践者」となることであり、今この時に「孝道報恩の伝統を顕彰する」ことです。真仏心宗の責務は人間界に留まらず、さらに！天地・無極・虚空・大宇宙天界に至るまで遍く及び、全て理に適って実践され、更に遠く隔たる所なく伝承されていくのです。
天性本性は皆自性であり　　天心本性は即ち自心であります
孝道の伝承は限りなく遠く　　理の如く実際に広く弘め行く
天地有情は皆博愛　　儒・道・釈・耶・回は同じく並ぶ
真理は衆生を教化して帰依せしめ　　仏乗の伝承は資糧を載せて行く
この偈は、全ての有情衆生と共に励まし合い、自性の中で天性と相まって互いに補い合い、成就させることで、自らが回帰と超越の豊かな資糧を具足し、成長を遂げることができます。そのためには、今この時に精進して学ぶことが必要であり、そうして初めて利益を得ることができます。有情衆生に対しても、精進の中においてこそ、回帰と超越に至ることが求められます。
第十八回　霊性の差

霊性には高低の差があります。
悟りの深さによって、その境地は異なります。
しかし、すべての衆生は仏性を備えており、
修行次第で向上することができます。

覚者は常に慈悲の心を持ち、
迷える者を導くことに努めます。
智慧の眼を持って真理を見極め、
自他ともに救済の道を歩みます。

修行の道は決して平坦ではありません。
試練を乗り越えるたびに、霊性は磨かれます。
忍耐と精進を重ねることで、
次第に悟りの光が輝き始めるのです。
##南海古佛
2000年9月15日　　庚辰年八月十八日（金曜日）
南屏天道本正宗　　道済古仏盲従を渡す
人生の修持を根本とし　　本心自性の真理を尊ぶ
仏性の顕現：まさに天心・天性の向上であり、いかにして自己の生存意義を提供するか？自己の本心・本性として、自心・自性から発揚され、自らが自性・仏性、本心・本性を顕現できるまで努めることが、この世において真に自分自身に対して責任を負うこととなります。
さもなければ！もし他方の世界に沈淪してしまえば、いかにして自らの「自性・自心」、すなわち「本心・本性」を高めるべきか、さらにわからなくなってしまうでしょう。これは有情衆生にとって必要不可欠な主要な任務であり、また自らにとっても、天心や天性を用いることは難しく、さらにはすべての行いが五塵境に左右されてしまうのです。
況してや！世の中のあらゆる作為が、自らの心性や本心の昇華を阻み、自性や仏性の顕現に至ることは更に難しいのです。また、仏性こそが自己の本性であり、一切の有情衆生が一体であるということを論じ、自性を提唱するにあたり、道と儒の両家を以って論じれば、すなわち人世の一切が自性なのです。
今この瞬間に顕現させるものであり、一切を清浄無垢な状態に整えなければなりません。わずかでも欠点があれば、自らを高めることは困難です。教育と教化の実践においては、単に世俗の生計を営むことだけに執着せず、心の昇華を顧みなければなりません。さもなくば、どうして向上が叶いましょうか。
まさに自らに向上成長の契機をもたらすことは難しいことです。有情世界において、人間のあらゆる行いは時に自らの本心や本性の因質に背き、無辺の因果業報を自ら造りながらも、それを悟ることができません。人間の生存に関するすべてのことは、この世界において上昇することが難しいのです。
なぜこのようになるのでしょうか？それは、永遠に存在し続けるものがあるからです。それは、自分自身の心の中にある空虚さにほかなりません！確かな実感を得ることが非常に難しいと、自己の霊性を傷つけ、また自らの無明が顕現し妨げとなるため、この瞬間の行いに対して、すべての心の向上は確かな足場を持つことが必要です。そうしてこそ、輪廻の渦の中に落ちることはありません。
心の充実はどうあるべきか？それはすべて空虚の中から達成されるものです。時に人は一生をあてもなく、やみくもに、忙しく過ごし、結局何のために生きていたのか分からなくなることもあります。それはただ「家系を継ぐ」ためだけの伝承だったのでしょうか？それともただ「食べ、飲み、排泄し、眠る」ことの繰り返しに過ぎなかったのでしょうか？悟らなければなりません：心の向上において、真の構築をなすべきであると。
皆様にお尋ねします：もし天下の富がすべて自分のものとなった時、あなたはそれを享受しきれますか？煩悩なく過ごせますか？いいえ、むしろ多くの煩悩を増すことになります。さらに！福田・福分・福德を積むことができず、逆に自らを悪業の渦中に陥れてしまうのです。それではどうしようもありません。
知るべきこと：心の空虚さは、金銭で埋め合わせることが難しく、「心の空虚」なる者が「空虚なる心」へと転じ得なければ、永遠に輪廻の支配下に置かれるのです。ここから有情衆生を見渡せば、科学技術文明の福利が創造され、人類を真の「怠惰」の行為へと導いていることがわかります。
一切を身体を張って行う必要はなく、むしろキーボードを数回叩くだけで、自分が求める目的を達成できるようになりました。必ずや自己の本性や本心が次第に見失われ、自ら身体を動かす機能も衰え、肥満者が増加する様子が一つ一つ顕著に現れ、もはや「仙風道骨」の風貌は見られなくなってしまいました。
必ずや頭脳の運用の中で、身体は次第に停滞の局面に入ります。これは現代に生きる有情衆生の悲哀です！また、この過程において空虚な心を構築することができなければ、霊性の中に確かな足場を築く境地に至れず、むしろ！自らにとって『虚空の進化』を継承することが難しくなってしまいます。
今この瞬間に「心の空虚さ」を「空虚な心」へと昇華させることができなければ、根本的には永遠に「輪廻」の転変の中に存在するだけです。では、どうやって心の充実感を得ることができるでしょうか。できることは、病院や学校、あるいは公共の場所でボランティアとして、自分にできることをするだけです。
しかし、真実性を欠いた「虚空心霊」の感覚は、単なる「心の空虚さ」だけではありません。知るべきは、人間世界は自らに責任を負うものであり、もしこの一世に帰還の条件と資糧を備えるならば、一瞬一瞬を確かな足取りで歩み、さらに道理にかなった実際を歩まねばならないということです。
真実の目標を持って行動すれば、「心の空虚さ」が生じることは決してありません。人生は生まれてから老いて死ぬまで、ただ盲目的に、漠然と、慌ただしく過ぎ去っていくだけであることを理解しなければなりません。このように人生における「忙しさと盲目さと漠然さ」の中で、一体どのような衆生が、この慌ただしい茫漠たる盲目の中から向上することができるでしょうか。あまりにも難しいことです！
自ら天界への大道、天梯を探し求めることができ、また人生は忙しく立ち働き、盲目と茫然の中にあります。これはまさに現代の衆生が直面する現実です。知るべきは、人生の「茫然と忙しさ」はすべて自らの心と身体を「盲目」にしているということです。では、誰がこの限られた時間を善用し、心を改めることができるでしょうか？
必要に応じて天心に向かって邁進し、天性に従って行動することができれば、このようにすれば、どうして人間世界において上昇と超越ができないことがあろうか！ただ、衆生は皆自分に言い訳をし、盲目に忙しく動き回り、さらに！ぼんやりと、うつらうつらと過ごしてしまうため、人間の一生は実に悲しいものとなっています。
まさに悲しむべき衆生は、この世の中で再び輪廻を繰り返しております。もし宗教に入って修行する機会を得たとしても、宗教の真の意味をいかに理解できるでしょうか？ただ宗教に名を登録し、籍を置くだけで、しばしば自分は「宗教修行者である」と思い込んでしまいますが、実際には、単なる宗教の信仰者に過ぎないのです。
修行を実践する者が二、三十年、さらには五、六十年にわたり、皆ずっと茫然自失と盲目の中におり、忙しさに夢中になっています。また、宗教の根本を体得することもできず、教化と伝承を行うだけです。ましてや、真の修行と実践について十分に学ぶことができず、自分が信仰するものだけが正しいと考えているなら、智慧を高めることは難しいでしょう。
必要に応じて博く学び多く聞き、知識と経験を積み重ね、それを智慧へと転化することが、正しい根本の道であります。師として崇心の諸賢生に求めたいのは、常に「半杯の水、半桶の水、半缸の水、半湖の水、半海洋の水」の心を保つことです。そうすれば絶えず学びの中にあり、高ぶって心を輝かせることもなく、自ら大きく誇って傲慢になることもありません。
もしこのように要求しなければ、未来において自らが設定した罠に陥り、苦しみの報いを受けることになる。なぜ常に「半分の水、半分の瓶の水、半分の湖の水、半分の海」という心構えと行動を保つ必要があるのか？必ず謙虚に任務を遂行し、また「孝道が天下に真理を伝える」という豊かな資源を十分に備えて上昇しなければならない。
半桶の水は永遠に満たず　　半壺の存在は貯蔵可能なり
大海は常に穏やかで災厄なく
自ら驕り高ぶって災いを招く
人生の心性は本来善良なり　　本来の心、本性は海の如し
天心と天性は互いに迎え合い　　この生涯を成就して天の賞に帰す
この偈を！共に有情の衆生と励まし合いましょう。この偈の意味をよく考えれば、人の世がまさにこのように作用していることがわかります。「半分の功用」をどう悟るべきか？それは中道であって、しかも溢れないことです！過不足の中に陥ることなく、真の向上と超越を得ることができます。これこそが人生の大いなる道理なのです。
第二十回　霊性の浄垢

霊性には清浄と垢穢があります。  
清らかな霊性は光を放ち、穢れた霊性は闇に沈みます。  
修行者は自らの心を観じ、垢を洗い落とさなければなりません。  

鏡が塵を払えば明らかなように、心の曇りを取り除く時、真の智慧が現れます。  
日々の行いを慎み、善き種をまくことが、清浄なる霊性を育む礎となります。  

覚者は言います――  
「浄も垢も、もとより一つの心にあり。  
迷えば垢となり、悟れば浄となる」  
どうかこの言葉を胸に刻み、自らの霊性を磨き上げてください。
##南無燃燈古仏（なんむねんとうこぶつ）に帰依いたします
2000年9月19日　庚辰年八月二十二日（火）
南疆に無尽の渡生霊　　海天の本色は乃ち無垠なり
古より言われる、人生の根本は孝にあり　　仏は自性の本心清浄を成す
人道の出発点から観ると、その行いは孝道を基礎としています。この21世紀において、人類の孝道倫理は次第に廃れてきており、もはや古来の方法で教化を続けることはできません。比較的新しい方法を用いて孝道を弘める必要があります。そして！伝承の枝脈に対しても、すべて斬新な孝道思想を応用しなければなりません。
その通りです！現代の衆生を教育するにあたり、この領域にまで到達するためには、「孝道の思惟」を応用して教育の体系と伝承を構築することが必要です。また、この21世紀において如何に本心と天性を活用し、孝道伝承の根本とするか、さらに！孝道の思惟を現代の有情衆生に浸透させることが、まさに最も重要な課題なのです。
本心と本性とは、自心と自性であり、自らがこれを行使するものです。いかなる性向や取捨選択の中にあっても、すべての行いはこの規範から離れることはできません。人間社会におけるすべての行いは、自己の本心・本性・自心・自性を高めるためのものであることを悟らなければなりません。また、宗教教育の課程こそが、まさに正道なのです。
どの宗派においても同様で、孝道の思想を基盤として構築することが提唱できなければ、その教えを遠くまで継承することは困難です。また、分派の伝承においても、人間社会が「孝道の思想」を取り入れられなければ、人としての根本精神から離れ、倫理や規範を構築する役割を果たせなくなります。
教育と教化の課程においては、必ずや明らかにしなければなりません。人間世界のあらゆる宗教は、すべて一体であり、このように有情世界へと下化していくものであることを。儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教、あるいはその他の新興宗教の流派も、すべて同様です。もし「孝道の思惟」を応用して継承することができなければ、永遠に存続することは非常に困難なのです。
人道思想の中において、儒家の孝順の伝承は、二十一世紀の蓮華仏国浄土世界に符合します。これを理解すべきことは、孝道の伝承が炎黄子孫の教育課程として、有情世界を教化するものであるということです。もし、この規範を実践できず、宗教教育において孝道を抹殺するようなことがあれば、まさに宗教教育の悲哀と言わざるを得ません。
本心、本性は、まさに自心、自性であり、人類世界において、もし本心、本性に応用することができなければ、仏心と道心を引き出すことは難しく、自心、自性が顕現することを悟らなければなりません。まさに一切の有情衆生は皆仏性を具えており、この仏性は道家の言うところの自心、自性であり、また本心、本性でもあるのです。
人類世界がもしこの現在において十分に備わっていれば、あらゆる宗教を自由に行き来することができます。それは儒教・道教・仏教・キリスト教・イスラム教に限らず、さらに！今日の新興宗教の諸派脈に対してもすべて一体であり、もし本心・本性、あるいは自心・自性から離れてしまえば、真如を顕わし、仏性を顕すことにつながることはできません。
さらに！自分自身には上昇を阻む難しさがあり、自らの向上に真実の糧を提供する下化の働きにおいて、本心・本性、すなわち自心・自性こそが、避けがたい真如の実性であります。この21世紀において、宗教やあらゆる教育が霊性から着手できなければ、必ずや成就することは難しいでしょう。
しかも！理にかなって実際的であることが必要です。霊的な世界だけでなく、天地の真実の意味を知り、実相世界である人間社会をも理解しなければなりません。自己の霊性と生存の実相世界を両方結びつけることで、単に人間世界における霊界超越にとどまらず、理に適った実際性が求められるのです。なぜこのような要求があるのでしょうか？
まさに現代の中華圏の宗教界、特に台湾の宝島では霊媒が氾濫し、しかも！一人残らず「無極」の旗印を掲げては、互いに比較し、非難し合い、欺き合っているのです。誰もが互いに服せず、次々と高みを競い、大きさを誇示するばかりで、真理に沿った実践ができないありさまは、実に悲しむべきことです。
現代の有情衆生は、まさに真の修行の理諦を持つことができず、「理の実際」において真実の意味を具足することも、上蒼が真に示す過程を理解することもできません。ただ仙仏が降臨するにつれて、自らを「天の代弁者、天機」と自認するのみで、いかんともしがたいのです。
ああ！また、真実の意味をその場で理解し、実際に完全に知ることは極めて難しい。天が演繹する過程に対しては、自らの経験や学説、内に秘めたものに左右され、ましてや！真実の意味を有情世界に降ろし、自らの限界と障害を形成することはできず、これはまさに現代の台湾宝島における霊媒の悲劇である！
別の角度から言えば、教えと教育の機能が全くないわけではありません。ただ、どのように実践すべきかが分からないだけです。皆、自らの「阿頼耶識」に導かれた因縁果報の中にいるため、自分自身や有情衆生に対して、教育と教化の根本的な向上を真に与えることができないのです。しかしながら！これもまた、宗教が展開していく過程に符合しているのです。
ですから！その功徳も消し去ることはできず、このように衆生にその行いを軽視させないよう求める理由もここにあります。知るべきです：宗教の平等の中では、自分が最高、最大、最も優れているという自我を抱いてはなりません。また、受け継いだ教えの中では、多くの宗教の指導者たちも、この限界と束縛の関係を打ち破ることができないのです。
まさに向上へと高められないことによって生じるものです。そのため、崇心は今後、三清道統、慈恵系統、母娘系統、天道系統……あらゆる宗教に対し、真実の義の糧を提供し、有情衆生を教化し、向上超越へと導き、自らを実の利益に与からしめることが求められます。
自己の本心・本性と自心・自性を真如に輝かせ仏性を顕現させることは、有情衆生に対して一体となって博愛を施すことである。師は当今のすべての宗教の道盤を司り、また崇心道場の働きを相補い助けることで、有情衆生が皆真理を体得して回帰し、さらに有情世界を超越することを可能とする。
なぜ崇心は弥勒浄土を超越し、さらにこの段階と境界を乗り越えることができるのでしょうか。まさに　天父　宇宙を主掌される　元始天王が直々に命じられたからです：真仏心宗人天宗師　虚空上人－南無虚空上徳人天古仏が、さらに　南無燃灯古仏と共に崇心の大聖務にあたり、自らを高められるためなのです。
崇心の因縁は真に殊勝なり　　上蒼より天機の成ることを頒示す
天父は道旨をお授けになり　　有情を引渡して回帰の途へと導かれる
自性本心より来たりて道を行い　　仏心宗脈の妙は限りなし
向上し超越し円満を加える　　大乗行者は仏乗を超える
この段階において有情衆生が、上蒼の回帰因縁と資本に符合することができることこそが真実性であります。それゆえに！崇心の衆神仏と学生には厳しく求めます。理にかなって実際的であるべきであり、傲慢な心を持ってはならず、高ぶる心を持ってはなりません。必ずへりくだり、経論を深く学び経験を積み重ね、それを以て多くの蒼生に教化を施さなければなりません。
第二十一回　垢浄双染
##南無燃燈古仏（なむねんとうこぶつ）
2000年9月22日　庚辰年八月二十五日（金曜日）
南屏の障を衛り台疆を保つ　　道は人生を済度し妙理を転ず
古仏降来し性を見るに著く　　霊性因種として性の端を化す
自心の本性を高める過程では、往々にして多くの障壁や困難に遭遇します。また、自ら真の導きの役割を十分に果たすこともできず、どうすれば自己の霊性を透徹して理解できるのでしょうか。根本的に方法がなく、自らの霊性を向上させ、真に実践に移し、多くの無明を現出させてしまうのです。
かえって！自らの心、本性、本心、自性の中にて、常に無明の妨げに遭うことを自ら憎むのである。ゆえに！明らかに知る必要がある、「霊性の種因」が行使される過程においてこそ、自らの霊性の働きによって精神を再び向上超越させることが真実性であり、また霊性の成長にとって当然あるべき姿なのである。
霊性：道家の名相であり、まさに一般衆生の言う自心、本性、自性、本心に当たります。これは道家の名詞を用いて、仏家の用語と融合させたものであり、さらに「自分が人世においてどのように行い、いかに自己の霊性を高めるか」という実践的意義を備えています。それは自分自身に対する相当な忍耐力と堅固な志があってこそ、成長できるものなのです。
さもなければ！有情衆生はこの過程において自らを妨げ、また「霊性の種因」の分別において、自らが明晰な観念を持つ必要があることを知り難く、もし性を見る境地に達しようと望むならば？根本的に理解することさえ困難です！ましてや霊性の因種を向上させ、自らを成長させ、あらゆる因縁を積み重ねる必要があるとなれば尚更です。
一切の実相「色法界」が、霊性「心法界」を通して両者が融合することが必要であり、これが正しい道であります。もしそのいずれかが欠けていれば、自らの明晰さを成就することは難しいでしょう。霊性の因縁と種性を区別するにあたり、まさにすべての衆生はそれぞれ因質を備えています。いかにして現在において向上させ、霊性を超越し昇華させることができるでしょうか。
自らが「霊性」と「実相」の世界を両立させることができるようにすることこそ、大道シリーズ全体の著作の本意であります。いかなる宗教宗派といえども、「本心を明らかにし、自性を見る」境地に至ることは容易ではなく、ましてや明心見性の段階と境界を体得することは至難の業です。この「本心と自性」をどのように理解すべきかが、まさに肝要なのです。
必要にして知るべきです！人類世界と霊性世界の異なる点は、まさに人類が肉体を持って行動するのに対し、霊性世界にはこの肉体という実相が欠けていることです。そのため、霊性世界において超越や上昇がない場合、かえって実相世界の人類にあこがれや羨望を抱くことになります。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
人類の身体：それはまさに情と肉を持ち、血と涙のある現実の身体であり、自身の感覚によって示される真実性を持っています。喜怒哀楽もまた身体に作用し、まさに霊性世界に沈む衆生が羨望し憧れるものであり、必ずや昇華して仙仏聖神を成就する時には、人間よりもさらに超越したものとなるでしょう。
五種の神通を具足することができ、さらに六神通をも具足することができます。これは漏尽通の神通力を極限まで発揮し、「上昇と下降」の真実の意味の分岐点を形成することです。人間世界における有情の身体を具足してこそ、初めて真に自らに対して向上成長し、根本を超える学習ができるのです。
霊性：もし肉体の身軀が欠けていると、「霊性体」を顕現させて結合することが難しくなります。霊性と身体は互いに補い合う関係にあります。お尋ねします：もし有情衆生に霊性が訪れない時、身体は生き続けることができるでしょうか？いいえ、できません！まさに霊性と身体が交互に作用することで、人間の因縁果報を解消することができるのです。
自己に行動力を備えている時こそ、まさに良からぬ因果を解消する好機です。崇心が求めるものはまさにこれであり、未来に望みを託す必要はありません。今この瞬間に、自らが過去の業因果報を償い改めるとともに、この世において無量の智慧を求め、経験を積み重ね、尽きることのない福徳を豊かに満たしていくのです。
有情なる衆生を教化する根本は、智慧の成長を経て自らを改造し、すべての衆生が真実の理諦の中で器となれるようにすることです。霊的な因縁を行使するには、有情の身体という根本的要素が必要であり、それは自らがこの場で成長するためであり、さらに！自らがより大きな発揮をし、良き福徳と利益を受けるためなのです。
崇心：これは、あらゆる有情衆生が上昇超越の根本因質を成し、蓮華仏国世界に成就するための聖務において、「金品蓮台」によって良善なる基盤を確固と築き、さらに有情世界において、自らが現在と未来に沈淪することなく、冥府の束縛から脱することができるようにするものであります。
ただちに超越することができ　弥勒浄土において、未来の龍華三会を現在に前倒しし、より広範な有情衆生を導き渡すことができます。霊的な種因には様々な種類がありますが、未来においては一冊また一冊、一篇また一篇の天書宝典を著作し、有情衆生が真に真如を顕わし、仏性を現すことができるようにします。
また、仏性によって心の灯を灯し、有情世界を限りなく照らし出す光があります。さらに、霊性はその種と本質がすべて一体であるがゆえに、生存における生住異滅、成住壊空を通じて積み重ねられ、垢穢に染まり汚れを受けます。しかし、「染浄と染垢」の分別性において、霊性によって構築されたものを知ることができ、まさに本心を霊性の中に入れることができるのです。
すなわち自性を汚れや垢に染まらせないようにし、さらに第八識である阿頼耶識の垢穢を取り除くことで、第九の菴摩羅識に入ることができます。これは自己を高めていくことであり、それゆえ「霊性の種因」による違いは、「染浄と染垢」によって分別されます。また、多くのことが文字では解き明かしにくいのです。
霊性の種因は染浄に分かれる　　浄と垢との両者の差異
人生の根本的な存在　　身体に具わるものは全て長く保たれる
因質本霊霊性開く　　浄染垢染皆共に来る
真実の理諦を了知し　　浄らかなものと垢あるものとを分別して両様に排す
この偈を！有情衆生と共に研鑽いたします。霊性の本体を知り、いかに肉体を通じて行いを為し、大乗菩薩行によって覚有情を成就するかを悟ります。それは、現下のあらゆる機会において、人間界を向上超越させることで初めて真の利益が得られるものであり、必ずあるがままに行う必要があります。同時に！良善なる成長と超越がもたらされるのです。
第二十二回　徳性の本質
## 南海古仏

南海古仏は、観音菩薩の化身として広く信仰されています。
慈悲深いお姿で、衆生の苦しみを救済なさいます。
南海の浄土より現れ、智慧の光で迷いを照らし、安らぎをお与えくださいます。

その御教えは、慈愛と寛容を説き、人々に心の平安をもたらします。
南海古仏への祈りは、困難を乗り越える力を与え、希望の道を示してくださいます。

誠心誠意をもって南海古仏を念じる時、私たちは内なる慈悲の心に目覚め、自他ともに救われる道を歩むことができるのです。
2000年9月29日　庚辰年九月二日（金）
懿勅崇心四載の慶　　燃燈古仏降臨せり
芳徳北台は新たな姿を展く　　霊性の分差は天の音を揚ぐ
霊性の種因の中に来て区別するとは、まさに分類別に統一を帰納の主題として行い、また有情衆生が常に『霊と性』の中に存在することを、すべて一つにまとめても、それぞれの動作の機能性を弁別することはできず、これらすべてを混同してしまい、結局その作用を理解することが根本的にできないということです。
従いまして！「霊と性」の区別を明確に把握することが必要でございます。さもなければ！仏道両家とわず、いずれも実際に真の導きを行う規範を持つことができません。自らの「霊と性」をはっきりと分析することが正しい道でございます。では、なぜこのようなことが必要なのでしょうか？それは人類の無明の障害を取り除き、霊性を高め超越するためでございます。
「霊」は一切の有情衆生が備える本質であり、また霊の機能において、霊は見極めがたい因質であるゆえに在るのです。霊の機能と因質は、いささかの瑕もなく、むしろ水晶のように透き通り、わずかな漣もなく明るく照らし見えるものであり、これは霊の本質の中に、有情衆生が具える因質として存在するのです。
現代の科学技術を通じて顕現させることができ、光と色彩によって確認することができます。これは霊の作用を道家の用語で表したものであり、仏教では「霊」と言わずに「性」と言います。そのため、自分自身が王婆売瓜（自画自賛）に陥りがちです。しかし！因縁の本質は、いずれも完全な真実性を具えることができず、根本的な質の向上が求められます。
また、常に名詞に左右され、現代では多くの人々が比較を好みます：誰が最も大きく、最も優れ、最も高いか。さらに！一切を見下し、自己満足に浸り、自分が最大で他は語るに足りないと考え、さらには！他の宗教の教化機能を貶め、否定することさえあります。これが「業を造る」始まりです。
なぜこのようになるのでしょうか。まさに自分自身も見極めることが難しく、すべての衆生の霊性の中に平等性があることこそ、仏陀釈尊が説かれた「衆生悉有仏性」という教えです。では、どのようにして仏性を顕現させ、成長させればよいのでしょうか。必ず「霊と性」を分析し、その真の機能を明らかにする必要があります。これは有情衆生に対し、千古伝わらなかった秘訣を提供し、そこから利益を得るためなのです。
「霊」の作用は、まさに過去の様々な積み重ねを創造へと結びつけるものであり、さらに！縁起和合によって促され、因果応報＝因果を現代に完現させるものです。ですから！古く遠い時代には科学技術が遅れており明確にできなかった、「霊体と性体」の違いも、霊が前世を通じて主導する作用によるものなのです。
有情世界に顕現するものは、因縁果報を促し、自らが福沢を受けるか厄運に遭うかは、すべて霊の作用によるものであり、本因質を磁性的な収放作用を通じて導引と排斥を行うことです。「霊の本質」こそが有情衆生が因縁和合の起こりと止みにおいて、自らを因果応報に入らしめるものであることを知る必要があります。
「償いを受けることと福を享受すること」を分別して成長するこの時代において、なぜそれほど努力しなくても福分を享受できる人がいるのでしょうか？また、なぜ一生をかけて努力し奮闘しても、なかなか福分を満たすことが難しい人がいるのでしょうか？反対に！自らを悪い災いに遭わせるような行いをし、苦しみと償いの報いを受けさせているのです。
全ての因縁果報＝因果応報に対して、「霊の因質」によって受け取り吸収され、善悪の行いを区別し、また善悪の報いを区別することで、福と禍の結果が生じます。ですから！人間の衆生は因果だけを知っているだけで、次のことを理解していません：因縁果報による償いこそが、人生の三大事柄なのです：
一には、累世の因果の償還です。
二つ目は、天から授かった使命を全うすることです。
三つ目は、仮のものを借りて真実を修めるという還元です。
ここに三大職責があります。それは有情衆生に対し、一切の回帰因質を提供し、霊体の不良因質を除去することができ、さらに縁に遇って果報となります。累世の因果償還において、ほんのわずかも漏らすことなく、すべてこの霊体が吸収・受容し、一切の因縁の根本に入っていくのです。
霊の作用：因質、色沢と光芒を見極めることができます。これは千古伝わらぬ秘伝であり、いかなる宗教宗派もこの分析に到達することは困難です。霊性が重要であるゆえに、それは有情衆生に対して、因縁果報の償いを受けるための導きとなり、霊によって吸収・構築されるものなのです。
それは、自分自身を今この瞬間にも、また未来においても、前世のすべての因果を一つひとつ清算し、未来を構築するために、自分はどう行動すべきか？またどうやって改造を達成すべきか？という問いが生じます。そうすれば「霊」の導きが働き、「自性」は「霊体」の導きの中に入ることなく、自分自身が汚れを被ることを避けられるのです。
すべては霊体の中にあり、すべての機能作用の総合体を分析することが、自分自身の「霊と性」の差異を分け、あらゆる因縁体に成長と沈淪が相互に循環する作用をもたらすために必要です。「霊体」の本質を知ることは、「性体」を浄化と染着の作用へと導き、仏性を顕現させることができるのです。
すなわち、「心の灯を燃やす」という働きによって、自らの「霊と性」という主体の因縁を整えることです。次回、師は「霊と性」について、より実際的で、より確かに真実に即した解説をいたします。さて、今夜は崇心堂設立四周年の記念式典です。ここに特別に偈を賜り、皆様を励まそうと思います。しばらくお待ちください！その後、大甘露の加持も準備しております！
崇心四載に新枝を発す　　教化伝承、永遠に私無し
人間の因縁、霊と性　　
明晰に分析すれば、さらに豊かで充実する
芳徳を広げて旨を迎えに来る　　北台に展開し教化の資とする
縁を成し因縁を渡し有縁を済度す　　信義を弘め天徳の智を展ぶ
今夜は皆様お疲れ様です。師としても、諸賢生のご苦労に対し、智慧と福徳を少し加えさせていただきます。これによって未来の成長と向上が可能となり、弘揚と拡大も実現できるでしょう。皆様の努力の中にこそ、より大きな収穫と利益がもたらされるのです。これは皆様が弘化をなし、自らを開花させ、衆生を成就して回帰超越へと導くことができるためであります。
第十九回　霊性分別
第二十三回　徳性耕植
##南屏道済古仏
2000年10月3日　庚辰年九月初六日（火）
南無、衆生は皆如来なり　　燃燈の本性、霊自ずから開く
古仏が崇心堂に降り來たり　　霊性を分別して智栽を了す
霊が導引を行うとは、因縁果報によって自らの本性を成長させることであり、自らが因縁体を成就する過程において言えば、ちょうど磁石のように、引き付け動作と排除動作が、霊主体の機能として、受け入れ吸収と排斥排除によって主導され、自らが因果循環を承受し、先に造った業を化除していくことです。
この一生の後の果報においても、また未来の様々な因果の報いに対しても、自分を分別の機能作用の中に置くことは、自らが因果循環を改造する根本縁とし、自分に対して向上と向下の発展を提供し、個人の福分と業の災いを受け、未来の良し悪しの分別性となるのです。
霊とは、自己の成長に対するものであり、引き付け合う作用と反発し合う作用によって、自らを排斥したり受け入れたりすることで、因縁の根本を変革することができます。また、阿頼耶識が主導する機能において、霊と性を区別し、この両者が自らの過去の業因による束縛を受けつつ、人生の道程において因縁の根本と出会うことを可能にします。
「因と縁」が結びつく中で、霊を自己の因質として高めることが必要です。これは、「霊」を道家の観点から見れば、まさに性体を主導する源であり、また仏家の観点から見れば、必ず「如来蔵」の因縁体に入るものであることを知る必要があります。道と仏の両家の区別において、真に「霊と性」の違いを名相の中ではっきりと弁別することが大切です。
また、霊的な領域においては、自分自身が人間世界で上昇と下降を可能にし、さらに霊の主導的な作用を通じて、真の目的は自己を改造することにあります。これにより、過去に積み重ねられた様々な因縁を解消できるだけでなく、この世でのあらゆる経験を、来世におけるさらなる成長の糧とすることができます。
累世の因果償還の過程において、一体どの衆生が真の改革を成し遂げられるでしょうか。実に難しいことです。皆、宗教の教育と伝承を受け継ぎながら、自ら五里霧中に陥り、宗教経典の論説の中に「真実の勝義理諦」があるものと、「一般的な世俗理諦」に分かれるものがあることさえ気づかないのです。
この二つは自らの霊性成長に資し、自己を改革させます。また、有情世界の数多き衆生にとって、真の修行を実践する者にとっては、経典や論説の解釈に妨げられることが多く、真の意味を理解するのは難しいものです。ちょうど六祖慧能大師がおっしゃったように、経典の真義を聴くことによってこそ、全体の流れを明らかにすることができるのです。
また、これまでの経典や論説による教化と伝承において、自らの霊性が常に向上し難い状態に置かれているのはなぜでしょうか。まさにそれは、自らを堕落させる種子の因となっているからです。人間世界の経典や論説の中で、真に心の改造を導くことができる経典は果たしてどれほどあるでしょうか。まことに稀であると言わざるを得ません。
また、経典や論説の真髄を体得する過程において、常に直面するのは、文字の表面的な意味や解釈に縛られてしまうことです。本来、経典の勝義理諦は、四海に通じる普遍的なものであり、特定の国土や民情に合わせて定められるものではありません。天地に生きる有情の衆生に共通する法則は同じであり、中国ではこうであるのに、日本ではまた別であるということは決してありません。
あるいは西域においては、また東土とは異なります。まさにすべて文字の障りに左右されるがゆえの縁故です。霊性の成長を了知するには、必ずや宗教の有する教育文化課程を通して、自らが過去の不良な因縁果報を化除するのみならず、さらに未来において、過往あるいは前世の種々なる不良な含因の積み重ねを改進できるようにすることが必要です。
「霊性」の成長においては、まるで磁石のように、衆生の向上する霊性を引き寄せます。しかし有情衆生は、常に経典の文字の障りに左右され、経典を活用することができず、向上し超越することが難しい原因もここにあります。これこそが有情衆生の悲哀なのです。
宗教の教育によるものだと責めることはできません。有情衆生が天地の間で行う様々な行為と行いを明らかにするには、すべての天地の法則は同じであり、一体であることを理解すべきです。決して中国ではこのようであり、日本ではそうではなく、西域ではさらにそうではないということはありません。それは単なる世俗の真理であって、勝義諦ではないのです。
もし宗教が風土や民族の習慣の影響を受けるとしても、霊的な本質においてはすべて一体であり、すべての霊は平等、すべての生きとし生けるものは平等なのです。決して中国の炎黄の子孫が欧米の人々より高貴だというわけでもなく、また欧米の人々が中国の炎黄の子孫より優れているというわけでもありません。そういうことではないのです！
すべての人や神に対して平等であることが正しいのです。そうでなければ、個人の私心や自己の高慢に影響されやすくなります。これは人間が最も犯しやすい欠点であり、皆が高さや大きさ、優越性、誰が最も超越しているかを比べたがります。まさに比較や計算が多すぎて、成長や向上が難しくなっているのです。
また、天地間のあらゆる宗教においても、経典や文字の障りに左右され、真に時機相応の回帰を果たすことが難しいことを知りません。ですから！崇心の「大道シリーズ天書」は、この時代の弊害に対して著作されたものであり、今この時に　上天の真実の理諦を下化することができなければ、どうして可能でしょうか？
有情衆生を導き渡すことの難しさから、超越的な根本への回帰を実現するためには、上天が大道の真理を各宗教に降ろされたことを理解する必要があります。他の宗教宗派の教化機能を軽視してはならず、また現在の宗教は不平等に支配されている現状があります。ある者がより上位に立つと、他の宗教の教化機能を否定してしまうことがあります。
これは自己が真理において障礙されることであり、すでに自己を無明によって障礙し、これが霊性にとって最も取るべからざるものであり、また最もあってはならない行いである。さらに、霊はまさに性を導くものであり、透き通るほど清らかな中に、わずかな汚れもあってはならないことを知らなければならない。したがって、霊性が染着するものは、「浄染と垢染」の二つの区別があるのである。
最上位の者は常に障害に遭遇します。これが宗教間の悲しみであり、また各宗教の主事者もしばしばこのようであります。ましてや！受け継がれた後進の学生もまたこのようであれば、上梁がこのようであれば、下梁が曲がらないでしょうか？あまりにも難しいことです！この誤った行いを心に留め、慎んで戒めなければなりません！
染浄相交えて本来を明らかにす　　染垢成長すは是れ該うべからず
霊の本質は清く盈ち透き通り　　人間改造に霊性は在り
見性には明晰と染の識別が必要であり　　両者が交わる所に人間の愛は生まれる
情慾交わりて上下分かれる　　霊の本来性即ち開く
どのようにして取り除くべきでしょうか？必ず「浄染と垢染」を明らかにして分析する必要があります。次回は、霊性の浄・垢染着について、霊としての成長を明らかにします。浄染は向上への昇華であり、垢染は堕落への沈滞です。有情衆生に霊性の染着を区別するために提供され、浄と垢の成長における昇華と沈滞において、真の超越を実践することが必要です。
第二十四回　徳性を育む
##南海古仏

南海古仏は、慈愛に満ちた御存在で、衆生を救済するために常に慈悲の眼差しを注いでおられます。その御姿は、広大な海のように深く、限りない智慧と慈悲をたたえておられます。古仏の教えは、人々に安らぎと希望を与え、苦しみの中にある者を優しく導いてくださいます。私たちは、南海古仏の御加護を心から感謝し、その御教えに従って、日々を誠実に生きることを誓います。
2000年10月6日　庚辰年九月九日（金）
大道を燃やし開きて原霊を渡す　　燈心本より明らかに燃えて尽きることなし
古き言葉は道を伝え今世に得たり　　仏の言葉は霊性の垢を浄める因なり
人類の霊性行使の行為について論じるならば、それは累世の因果を償還することであり、人類の霊性には必ず「浄染と垢染」の区別があります。これはまさに現代人類の様々な因縁の過程において、計算と化除の作用が必要であり、人類の因果償還の根拠として機能するとともに、有情衆生が自らを改造するための指針を提供するものです。
累世の様々な因果循環を解消することができます。また、現在の現世において理解すべきこととして、「累世の因縁果報」をどのように計算し解消するか？これもまた、自らが「浄染と垢染」を区別して認識できるかどうかにかかっています。垢染については、人世の中で比較的容易に衆生の霊性の本質の中に入り込むことができます。
もしそうであれば！衆生が堕落する傾向に従うことは、まさに流れに身を任せるようなものであり、さらに！「垢染」さえも明確に理解することが難しい状況では、自分自身の行いをどう区別し、どう改善すべきかについて、真実の理解を得ることは困難です。そのため、自らの行動や様々な事柄について、真実の道理と過程を明確に把握することはできません。
己に対する一種の無明、いや、無知が妨げとなることさえあります。垢染はまさに流れに身を任せるようなもので、人間世界では山に登るにも階段を上るにも同じことです。下るのは容易ですが、上るのは困難です。また、人生の修行の過程は、山に登り階段を上るような動作に似ています。
必要に応じて知るべきこと：「浄染と垢染」の過程において、いかにして自らの心性向上を確立すべきか？累世の因果償還によって完消する必要があります。しかしながら！有情衆生は皆、自らの不良な因果を除去することが難しく、清算の過程でさらに多くの無明と無知の過程及び行為を積み重ねてしまいます。
これは自分自身が人間世界においても、累世の因果償還を化除することが難しく、これが人類衆生の悲哀であり、一大な懸念事項であります。なぜなら「垢染」はまさに累世の因果プロセス全体に関わるものであり、いかにして償還すべきか？人類が真実の理諦を得られなければ、宗教が教える課程を通じて向上することは非常に難しいのです。
累世の因縁果報を解消しようとすれば、人間世界における教化の課程において、自らの垢染を明らかに理解する必要があります。無明で無知な過程があるのは、まさに真実の教化が欠如しているからです。自分自身さえもよく知ることができず、次の瞬間の過程が何であるか分からないのです。つまり、どのように行動し、どのように改造して向上させるかが分からないということです。
衆生に多くの障害と悩みをもたらすのは、自らの垢染を除くことができず、さらに自らの垢識によって阿頼耶識の中に積み重ねられてしまうからです。このように、垢染に対しては累世の因果を清算し除去することが難しく、むしろさらに多くの障害と行き詰まりを蓄積してしまいます。これこそが、衆生の無明の核心的な点なのです。
累世の因果償還は、この一生の中で清算と化除を行う必要があります。もしこの点を達成できない場合、永遠に垢穢思想の中に沈淪してしまいます。垢穢思想が自らの霊性に対する「垢染」であることを了知し、霊性の本因質へと働きかけるためには、いかにして浄化すべきかを知る必要があります。
もし永遠に澄み渡り浄化されることができないならば、それは自己の無明によるものであり、自らの「浄染」の進行を妨げているのです。また、自己の浄染の過程においては、必ずや真実の理諦を通じて清浄なる激流と化し、「清浄浄化」の作用を得なければなりません。この時こそ、一種の浄化と向上がもたらされるのです。
自己の思想と観念を改めることによって、浄化と染汚の過程において、いかに自己を知り、担うべき職責と使命を遂行すべきでしょうか。また人類世界において、あらゆる事柄を明晰に理解し体証し、自らの経験として蓄積・保存することが必要です。まさに含因を起こし現すことによってです。
自らの過去の経験を豊かに蓄積している今、どのように行動すべきか？いかに実践すべきか？それは自らの霊性を浄化するためであり、また浄と染の中から成長するためであります。このような霊性の因質は、人間世界を通じて、浄と染を霊性の因質の中に取り入れ成就させるものであり、自らを上昇させ超越させる道であります。
もし真実の理諦をもって染浄を清めることができないとき、どうすればよいでしょうか。必ず宗教的な洗練の過程を通じて、自らに染浄に関する基礎的な構築が必要です。「霊性を浄化する」とは、いかにして染浄の過程を知るべきかを理解しなければなりません。自らの身体と智慧によって、「垢と浄」の両者を区別することができてこそ、真実性といえるのです。
まさに「浄」と「垢」の両者を区別する経験が、いかにして自己の霊性を浄化し得るのでしょうか。浄と垢に対して必要な動作と機能とは何か。自らに授けられた天命と職責を、いかに行使すべきでしょうか。いかにして生命の真実の浄化プロセスに入り、向上成長を遂げることができるのでしょうか。
己がこの世に与えられた「天命と職責」を遂行する過程において、また「垢染と浄染」の両者の区別において、次の瞬間にどのような動作と効果が現れるかを知り難い時こそ、成長して超越することが必要です。ですから！動作と効果が現れた時こそ、自らが行動主体として存在する時なのです。
ただちに、自らの過去のあらゆる知識の蓄積に反応し、瞬時に動作が生じます。しかも！同時に識別が訪れるのです。これは、自らの過去の経験の蓄積が現在の動作に現れることであり、未来の行為における「浄と垢」への染着に関わり、また自らの善と悪・禍の区別にも関わるものです。
自らがまた手掛かりを見出せず、自らに対して行使し行動することも難しい中で、さらに自らを人間世界において成長させます。良きにつけ悪しきにつけ、すべては動作が現れるその瞬間、即座に！自らの過去の経験の蓄積を反映することができるため、その瞬間の動作こそが、未来の成就の鍵となる重要な点なのです。
清浄と染汚の中で分別が生じ、これも人間の思想観念によって促されます。善悪・是非・対錯・正邪をもって論断し、この世に負う天命と職責の行使は、すべて両極によって分別され、「中道思想」の過程に入ることが難しく、福を造るものと禍を造るものとの差別が生じるのです。
しかしながら！人類世界において、どうやって通じていくべきか：浄染と垢染との区別は？この身体を向上させる手段として用いること、すなわち人類世界の宗教が説く「仮の身を借りて真を修める」という教えです。では、どうやってこの仮の身を借りて真を修めるのか？まさに明確に理解する必要があります。もしも！この身体がなければ、どうして真と言えるでしょうか？いずれも難しいことです！
この身体の真実性を備えることが必要であり、初めて自分がこの世において真実の修養を築くことができます。もしこの身体を借りて「真を修める」ことができないならば、どうして「仮の体」などと言えるでしょうか？いずれも難しいことです。嘆かわしいことに、仮のものも真になることは難しく、この仮はすでに仮なのですから、どうしてこの仮の体を借りて真を修めることができましょうか？難しいことです！まことに難しいことです！
人の身体は、この生涯においてのみ用いることができるものである。もしこの身体がなければ、仮なるものはどこにあり、真なるものはどこにあろうか。宗教的な迷妄を打ち破る過程が必要であり、さらに！道理に従って実際的に行わなければならない。もし単に仮なるものを借りて真なるものを修めるだけならば、どうしてこの真なる霊性を向上させることができようか。そしてこの身体が、現世において行う所作はどのようなものになるのだろうか。
いかなる法も、累世の因果循環を完全に清めることはできません。また、天から授かった職責と使命を全うすることも難しく、ましてや仮の身を借りて真を修めるなどというのは、まさに謬論であります！人間世界においては、この身体を仮の体と呼ぶべきではなく、必ずこの身体を真実の改造の総体的な因縁としなければなりません。これが正しい道であり、おわかりいただけますか？
身軀は改造に用いるもの　　清浄も汚染も共に要る
真実の本霊は肉体に依りて　　累世の因果を化除し消えん
身はいつか幽冥に入り　　沈淪堕落して清め難し
軀體は世に在りて方に用あり　　改造は質に因りて向上に昇る
この偈は！真実を共に修行する者と共に励まし合うことが正しいのです。そうでなければ！もしこの身体を虚仮の行いに変えてしまえば、必ずや理解し難くなり、自己改造の因質がどこにあるのか？どうやって超越するのか？はっきりと分かるでしょう、人類衆生はこのようなものであり、自らこの一生を通じて改造と向上を図ることが必要であり、それがすなわち如実性なのです！
第二十五回　徳性は窮まりなし

（大道シリーズ経典 日本語訳）
##南海古仏

南海古仏は、観音菩薩の化身として広く信仰されています。
慈悲深いお姿で、衆生の苦しみを救済なさいます。
この尊い仏様は、南海の普陀山を浄土とされ、
人々に安らぎと智慧をお授けになります。

南海古仏の教えは、「大悲心」を核心とし、
あらゆる生きとし生けるものへの慈愛を説かれます。
経典には、「千手千眼」の神通力で
衆生の声を漏らさず聞き届けると記されています。

信仰する者には、災難を除き福徳を増す功徳があるとされ、
日夜を問わず心を込めてお祈りすることが勧められています。
南海古仏の御前では、清らかな心で拝み、
自らの過ちを悔い改めることが大切です。

南海の潮音が絶えることなく響くように、
古仏の慈悲もまた永遠に変わることはありません。
私たちはこの広大なお慈悲に感謝し、
日々の生活に信心を実践してまいりましょう。
2000年10月10日  庚辰年九月十三日（火）
南屏先天渡一貫　　道済闡理済万端
古仏の真言は回帰返す　　垢と浄の雙染を霊性観ず
有情なる衆生は、世の中の様々な過程において、未来の依り代となる主な働きとして、自らの霊性を「浄染と垢染」の区別へと変えてしまいます。これは人間世界で言うところの、善悪をはっきり分けることです。そして！自らの行いを知ることこそが、まさに浄染と垢染によって分別されるものなのです。
浄と垢：いずれも個人の生存のただ中にあり、また自らをこの両者の間に置く。もし自らを向上させることができなければ、下落の中で支え合うことが正しい。人類世界の様々な行いについて、浄と垢の両者を区別し、自らはどう行動すべきか？いかに実践すべきか？
天は真の道を降ろし、世に伝承される時、常に真実の意味を備えています。自らの行いの動作の中で、自らに理解を与えるのです。善悪の分別において、まさに「浄染と垢染」の違いであり、自らの浄染の作用に対して、自らが進む中で、現世の行いを進めていくのです。
人類世界の様々な善良な素質を取り入れて成長することで、自らの実践の模範を高めることができます。また、宗教におけるすべての教育文化の過程においては、必ず理解すべきことがあります。それは、ある宗教の指導者に対しては、この種の心の変化を明確に把握し、それに対応する智慧のすべての経緯を理解することが、真実の在り方であるということです。
人類世界のすべての善行善事は、「人為的な造作」を根本としています。また、教育や教化と同時に、いかなる宗教も研究し明晰にすることができます。しかし！もしそれを超越することができない場合には、自らと衆生の霊性について理解を深める必要があります。まさに習性の中から、その作用と機能を見分けることによってです。
自分自身に対して明晰であるとき、どのようにして上昇すべきか？また、どのようにして下降するのか？必ずや浄と垢との染着の中に分別を見出すことができます。浄染とは有情衆生に対して、良き善き因質の働きであり、成長と成就をもたらす種々の善行を、善き事柄によって区別し作用させることです。これにより、自らを根本的に改造する因質が生まれます。
浄染：有情衆生にとっては逆水行舟のような行為であり、どうしてこの逆境を成長に繋げられるのでしょうか。一つ一つの事象が連鎖的に作用する中で、逆境は増上縁として働くことができます。ですから、逆水行舟は確かに骨の折れることですが、人間世界において、各自が持つ作用・機能とその効益を体得することができるのです。
また、自分自身の資質と習慣によって成長し、それらの習慣によって自然な行いとなり、様々な一切を知ることができず、学習経験を通じて成就するということは、清浄と染汚の中で流れに逆らって舟を進めるようなものです。もし！この境地に到達できなければ、逆に流れに順って船を進めることになり、人間世界においては、すべてが平穏で意のままであることを求めることになってしまいます。
謹んで衆生にお尋ねします：もしあなたがこの世に来て、ただ全てが平穏であることのみを求め、智慧と経験を積むことができないのであれば、それは人間世界において、まるで一般の衆生が追い求める境地と同じです。しかし、上天の立場から申しますと、それは決してそうではありません！未来においてどのように達成すべきか：浄と染の修行に持続的な力を注ぐこと！これこそが実際的な道なのです。
平順、如意、吉祥：これらはすべて衆生が求める目標であり、人間世界においては当然のことです。人間の経験から「苦中の苦を食べてこそ、人上の人となる」という道理を明らかにし、真の修行実践者にとっては戒めの言葉でもあります。しかしその背後には、「苦」の中での経験の蓄積を知る必要があります。
必要に応じて人類は、生・住・異・滅、成・住・壊・空、喜・怒・哀・楽、悲・歓・離・合を通じて促進されなければなりません。これこそが、自らが平穏な過程にあることを理解し、経験を積み学び成長する必要があることを示しています。もしもただ煩悩に執着する修行の中に留まっているだけならば、どうして到達できましょうか。
何が上昇の資糧となり得るのか分かりません。このような境地に到達したいと願う時、果たして衆生は皆このような智慧と経験の蓄積を備えているのだろうか？そうでなければ、いずれも成し遂げるのは難しいのです。もし僅かな功果だけを頼りにするならば、必ずや常に第八識の中に刻み込まれ、自らの「無為」という障害を破ることはできません。
人間として、これまでどれほどの過ちと悪業の障りを積み重ねてきたでしょうか。自分自身に対しても全く明らかにすることができず、ましてや胸に手を当てて自問することさえ難しいのです。さらに、このような境涯の中で煩悩の垢は増長していきます：ほんの些細な善事を人に対して行っても、いつまでも心に留めておき、悪事を働いた時には、自分を省みて反省することを極めて困難にしているのです。
垢染の中にあって成長することになります。いかなる宗教の宗派に入っても、真に因本を高めることは難しく、まさに経験の作用を十分に備えることができず、根本的に経験を成長に応用することが困難です。個人の作用によっては、ただ垢染が存在するのみで、浄染に持続的に力を注ぐことや、機能と作用を転換することは容易ではありません。
人類世界においては、垢染を破ることができなければ、真如を顕わし、仏性を見ることに至るのは将来非常に困難であることを理解しなければなりません。これはまた、自分自身にとって非常に残酷なことでもあります。さらに、聖・神・仙・仏はすべて衆生が五濁悪世に沈むことを望まないため、方々で教えを説き、至る所で道場を開き、下化の働きと機能をなされているのです。
有情なる衆生がどのようにして、身近に自らを向上させることができるのでしょうか。また、「垢識」とは塵を被るような行為であり、人間世界に対して全く理解も明晰さも持てず、さらに垢れは自らに塵を積もらせ、多くの埃を増やし、ましてやそれを取り除くことは難しく、また埃の中では、清水や法水をもって洗い清めることもできません。
必要通過：心念意識の主導作用によってのみ、垢を除去し、浄化を成長させることができます。このように、垢による曇りこそが衆生には理解し難いものであり、まさに六祖慧能が言う「菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物、何処惹塵埃」の境地です。これはまさに浄染と垢染の区別の中にあります。
塵埃を除き去って清浄ならしめることは、真如仏性を顕現させることです。もし見性に到達せんと欲するならば、「浄と垢の両者」に執着するのが正しいと悟らねばなりません。そうでなければ、いったい何の性を見るというのでしょうか？性体が何であるかを了知できるならば、その瞬間に仏性の中に真実が現れるのです。理にかなって実際的であることが必要であり、これこそが正道を歩むことなのです。
容易に立ち回れない状況に陥っても、自分を誇ったり、「明心・見性・開悟・証果」をすでに得たと思い込んだりすることはありません。それは単なる一時的な自己体悟に過ぎず、長期的な成長や超越は非常に難しいのです。ですから、その時期を過ぎればまた原点に戻り、自己向上を成し遂げることも困難になります。これこそが障礙なのです！
心を改めて浄めれば染みも垢も消え
塵埃を除き去れば即ち愁い無し
平順な境界を求める衆生
吉祥如意の願いを修めんとす
垢識の浄化に専念すべし　　明心見性して更に煩い無し
すべてはただ今この中にあり　　清きも垢れも昇り墜ちて転ず
大道の盤を司る李修縁　　一貫して天道の理を選びます
人間の縁はかくの如くにあらず　　南屏は帰りて先天に還る
この偈を！有情の衆生と共に励まし合いましょう。すべては人間社会において改造され得るのです。明心見性の本質は、清浄と垢穢という二つの根本的な性質にあり、まさに差別を分判しているのです。諸賢なる生ける者たちよ、平順で如意なる境遇の中にこそ、業を造る根本の源があることを悟り得るでしょうか？いずれも逆流に舟を進めるがごとく困難なことです。
もし単に！順流に船を進めることだけを求めているならば、それは取るに足らない行為であり、根本を磨き究める過程においても、いかに行い、いかに為すべきかを明らかにすることが必要です。それが真実の姿なのです。究めなければ、どうして真実を見極めることができましょうか！そうしてこそ、人間の世におけるすべての行いが、まさに上昇と下降によって区別されることが理解できるのです。
第二十六回　自真如性

真如の性は、本来清浄で、汚れもなく、増減もありません。
迷いの心が動き始めると、さまざまな現象が現れます。
覚りの智慧によって観照すれば、一切は皆空であると知ることができます。

真如は一切法の実相であり、言葉を離れ、思慮を絶したものです。
ただ、縁に従って現れ、常に如如たる姿を保っています。
もし真如を離れれば、万法は成立しません。

ゆえに、一切の修行は、自性の真如に帰ることを目的としています。
妄念を離れ、分別を捨てて、本来の面目を見るのです。
これが、真の解脱の道であります。
##南海古仏

南海古仏は、慈悲の心を広く衆生に及ぼす観世音菩薩の化身であります。普陀山を道場とし、苦難の中にある人々を救済し、迷える者を導くことを誓われました。その御姿は慈愛に満ち、御手には清浄の楊枝と甘露の瓶をお持ちになり、あらゆる病苦と災厄を除かれます。

南海古仏の御教えは、「衆生の苦しみを見て放っておけぬ」という大悲の心を核心としています。どんなに深い罪業を背負う者でも、一心に御名を唱えれば、たちまち光明が差し、安らぎを得られると説かれます。波浪のごとき世の荒波も、この尊い御名を念じれば自然と静まるのです。

私たちは南海古仏の御前で、自らの心を静め、誠意を込めて祈りを捧げましょう。そうすれば、智慧の風が煩悩の雲を吹き払い、慈悲の雨が苦しみの炎を消し去ってくださいます。南海古仏は常に私たちを見守り、悩める声に耳を傾け、求める手を拒まれることはありません。

南無大慈大悲南海古仏。どうかすべての生きとし生けるものが、平安と悟りの彼岸に至れますように。
2000年10月13日　庚辰年九月十六日（金）
南海の屏障は衆生を護り　　古仏は書を著して迷いを引き上げる
人間の縁は固定せず　　徳性の本質は昇華を要す
「浄染と垢染」という観点から見ると、人間社会において常に活用されるべきものであり、まさに徳性を顕現させるためのものです。したがって、浄染の面において明らかになるのは、徳性の本質を浄染によって高める働きであり、これは自分自身が生きる上で、必ず規律と行動を備えなければならないことを意味します。このゆえに、「徳性」とは有情衆生の成長にとって必要なものなのです。
「上昇と超越」の根本的な因質を提供し、徳性を発揮してすべての長所を活かすことができます。徳性に対しては「浄化と染め」の作用があり、いかにして自己の悪性が繰り返し左右することを取り除くのでしょうか？それは人間世界において、自己の霊性の成長を妨げず、必ず理解すべきことです：徳性はいかにして増長するのか！
徳性：一切の修持の因となる根本であり、修のある者と無き者を問わず、全ての衆生においてこのように在るものです。人間の行いに対しては、向上へと進む作用を提供し、必ずや徳性をもって高められる必要があります。また、自らの行いに対しては、自らが徳性を如何に耕し育むべきか？さらに、如何にして徳性を深く耕し、積み重ねていくか？
しかも少しの風雨にも遭わせずにいると、たちまち萎えて退いてしまう。いや、本来の初心を失い、人間の徳性をいかに耕し育てるか？必ずや「徳と悪」両者の作用を明らかにしなければならない。なぜなら、霊性の浄化と汚染はいずれも一方に偏りがちであり、徳性に活かすことができず、ただひたすら悪しき行いに走ってしまうからである。
自らの行じた功徳の果報を分別するにあたり、未来には多くの転換困難な苦難が生じることを知る必要があります。このように、徳性と悪性の両方に染まった垢を浄化し成長させ、徳性をもって人間の福祉を実現することは、単なる福報に留まらず、自らが厚い福徳を備えて業を造り出すことになります。また、人間を含む衆生は常にこのような在り方であります。
徳の作用：それは品性を超越するものであり、また一人の思想観念において、人柄は極めて重要です。外見の美しさだけで人の本質を評価すべきではなく、人間世界を理解する必要があります。もし単に人の様々な側面を評価するだけなら、他人に対して固定的な見方をすることになり、これは望ましくありません。
人品素質においては、垢穢なる思想の構築を清め除くことが必要であり、これこそが真実性であります。各人の品格の良し悪しは外見から評価すべきではなく、必ず一人一人の気質の中から見極めなければなりません。それはまさに、福徳に基づく善き相であるのか、あるいは単に秀麗な外見だけなのかを。さらに言えば、良からぬ外見、すなわち陋悪な気質が表れている場合にも留意が必要です。
人の人柄や気質によって、他人をはっきりと見分けることができます。真実の修行者にとっては、親しみやすく善良な人柄が備わっており、外見から内面の変化を観察することができます。このように、人柄の良し悪しは、真実性の深さに起因するものであり、必ず理解できるはずです：気質は「徳性の耕植」を通じて自らに培われるものなのです！
徳性は本質に因り、必ずや自己に対する内なる留保を備え、それが外在的な気質に顕著に現れます。まさに自分自身に修養があるかどうか？またへりくだった振る舞いを備えているか？あるいは単に名を告げ、肩書を掲げて、自分は修行をしていると称するだけではないでしょうか！まさに羊頭を掲げて狗肉を売るような、名声を漁る行為でありながら、それを自らの修行と呼んでいるのです。
一般の修行者がよく直面する事柄として、必ず徳は内面で実践され、それが外見の根本的な気質に表れるものです。言葉を介さずとも明らかに理解できます。さらに！内なる気質の働きによって、外見の気質の根本を導き出すことができます。真に修行を積んだ者にとって、自分が何を行っているのかを理解することは必要不可欠ではないでしょうか？
それは単なる名目だけのものなのでしょうか？それとも、自分の行いを総合的に整理し理解し、自身の気質に内在するものを知り、内から外へと現れる気質のエネルギーを把握することなのでしょうか。真に修行を積んだ者が備えるべき気質は、外見からもはっきりと見て取れるものなのです。
「道は体用であり、徳は作用である」とは、すなわち『徳と道』を融合させ、自己の思想観念において、ただ徳の中に留まることなく、単なる福分の因を作る者に終わらせてはならないことを意味します。必ずや徳性を顕現させ、自らの未来において福と徳の両方を備え、向上させる必要があります。そして徳は、福よりもはるかに深く享受できるものなのです。
有情なる衆生が福を積むことは非常に容易であり、布施の実践によって福報を得ることができます。しかし、布施を行う中で必ずしも徳性が具わるとは限らず、それは慈悲と福報の作用のみを備えているに過ぎません。ですから、知るべきことは、慈悲とは苦しみを取り除くことであり、徳性とは私心なく無為なる関係性の働きであるということです。
徳の作用を明らかにするには、必ずや無私無為の中で自らを成長させ、人間界だけに福があって徳がない状態に留まらないことです。これは現代の衆生が備えるべき心構えと行動であり、正しい道であります。また、徳性を具足するには、無私無為によって積み重ねることでこそ、徳をもって福分を培い、より長遠なものとなるのです。
また、徳の因となる資質について申し上げますと、蒼生のためになり、大衆のためになり、自分自身のためになることが、真実の徳性であります。そうでなければ、福分だけを備えていて徳性を備えていないと、未来において自らが上昇し超越する因となる根本を具足することが難しく、また自分自身においてどのように無私無為を実現するかについても、必ず徳性を顕わにしなければなりません。
「崇心」の教える課程では、智慧を高めることが必要です。今この時に準備をすることで、未来において道理にかなった形で実際に現れ、単なる祈願だけに終わらず徳性も伴うようになります。また、自らの行いには相当に深い智慧の蓄積が備わっていなければならず、それによって初めて徳性が深く根付き、福報の到来として完全に現れるのです。
徳の清浄と染汚：まさに「崇心」が求めるものであり、徳性の広がりに背いてはなりません。必ず徳をもって人を服させ、未来に展開してこそ、衆生が依循すべき規範を持つことができます。徳の現れは無私無為にあるだけでなく、さらに！自らの孝道にも利し、また自ら孝道をもって天下を服させることもできるのです。
德性とは、孝道を顕彰することであり、孝道を備えた子孫に対しては、徳性は既に高邁なものとなります。このような徳性は、その本質としての本体において、生存利益に対して分別を加える必要があります。また、「作用」と「体用」の両者は、道徳を備える者が持つべきものであります。故に、人類衆生は如何にして、この両者を理解し、道徳の体用を会得すべきでしょうか。
「道は体であり、徳は用である」ということは、単に体用の中に混在させるだけでなく、徳性が深く根づく中にこそ、上求の資糧があることを悟らなければなりません。まず豊かな果実を備えることが必要であり、そうしてこそ理にかなった実際として応用でき、さらに広く尽きることなく、徳性を自らに顕現させることができます。さらに徳性は、その質の浄染の中において成長させていくべきものです。
「私は修行している」などと言ってはなりません。逆に、ただ名目だけを掲げて、少しも自己を変革していなければ、どうして修行者と言えましょうか？ お恥ずかしい限りです！ 本当にお恥ずかしい！ 自らの生存において「思想を改造し、思想を改造する」こと、つまり自分自身が今この瞬間に真の主人となり、生存の奴隷に堕することのないようにするのです。
德性は質に因って改造を施す　　本性に深く植えれば更によくなる
因質本源は己に依って成り　　人類の福祉は徳性に高し
浄染も垢染も皆両辺　　徳性は無私で無為に延ぶ
成就超越は己が為による　　功果確立は徳の妙先にあり
この偈を！同じく有情の衆生と共に励まし合いましょう！自らの徳性の中で成長を遂げ、悪しき因質を転化し除くことができます。それは無私無為のうちに構築され実現されるものであり、また必ずや如実に知り悟ることが必要です。さらに『道体、徳用』に対してより大きな発揮ができるようになってこそ、成長し昇華し超越することができます。これは人類衆生が求めてやまないところです。
第二十七回　自性真如
##南無燃燈古仏
2000年10月20日　　庚辰年九月二十三日（金曜日）
南無、衆生の縁を開き啓く　　燃燈の心法、徳浅からず
古仏の伝承は永遠に尽きることなく　　徳性を耕し植えて自性を顕わす
徳性の本質：より上の層へと深く入り込むことができるのは、徳性を耕し植えることによってです。修行者にとって「徳性」を観ることは、最も欠けている一環であり、それゆえに修行の根本的な原因を理解することができません。どのようにして自らの徳性を耕し植えるべきかは、すべて自己成長と学習を通じて、修行の道程を解脱への手段として捉えることから始まります。
しかし、修行者にとっては、まさに道徳の種因を、自らの本霊の因質に下ろして化することであり、自己の成長に特別な意味を持ちます。また、徳性を耕し植える作用の中で、確実に実行することが必要であり、徳性の成長には一種の体証と学習があります。さらに、「善徳」は自分と衆生との相互循環の過程であることを理解すべきです。
自らが成長する中で、良き行いを実践することは大切です。また、宗教が教えるところでは、善と悪を判別することが示されています。成長と学びの過程を通じて、自らが体得したことがどのようなものであるかを感じ取ることができます。さらに、自らが善なる徳行を実践することで、善の功徳と成果を積み重ね、自らの成長の経験と過程を豊かにすることができるのです。
ああ！学びの過程においては、如何にして善徳を耕し育むべきかを明らかにし、自らが理解することが肝要です。これこそが、修行の過程で多くの障害に遭うことなく、如何に道理に従って実際に成長を遂げるべきかを可能にする、最も根本的な要因なのです。
修持とはまさに善悪を判別し、自らに対して循環作用を持つことです。いかにして徳性を耕し育てるかは、宗教にとって必要な教導課程であり、また徳性の本質はすべての人間衆生が備えているものですが、ただ後の生存の志向によって自らを迷わし、それゆえにその作用を知ることができなくなることに関係しています。
この種が備える善徳の素質は、いかにして顕現すべきか。自らの行いが悪循環の傾向に影響されると、真に自己の主人となることはできず、むしろ善悪の因果循環の作用に縛られ、徳性の耕植を妨げ、良き種因を埋もれさせてしまう。それをどうすることもできません！
有情なる衆生は皆、根本的に向上することは不可能だと考えがちです。ですから！向上心が成長するにつれ、徳性を高く顕現することは難しくなり、自己の成長にも循環的な作用をもたらします。徳性が深く根付いているかどうかは、現在の思想と観念によってなされる行為から見て取れます。それは自己が体得してきた過程を、ありのままに現在に完結させることなのです。
当座に実現するとは、まさに思想と観念を深く根付かせることであり、「徳性と悪性」の中ではっきりと区別する必要があります。そして！当座において自らの徳性を深く根付かせ、自らの悪性を排除することで、思想と観念を通じて、自らの構築と行為を転化して成就させることができ、すべての良し悪しの違いを区別することができるのです。
未来のあらゆる事象には正反両面の価値観が存在し、それによって自らを向上させることができます。また、世の中を循環する善徳と悪禍は相対的なものであり、このような条件下でいかにして成就を果たすべきでしょうか。徳性の耕植：まさに今この瞬間に築き上げるものであり、徳性を耕すことによってこそ、両極は相対化され、自らは一方に偏ることになるのです。
もし良き徳性を培うことができないならば、必ずや悪しき禍の中に落ちることとなり、永遠に両極化した相対的な因縁の中にのみ存在することになります。では、どのようにしてこの両極の対立を「中道の思想観念」に応用すべきでしょうか。それは、人間の世におけるすべての生存過程が、両極の相互対立によって左右されることを理解することにあります。
有情なる衆生もまた、このような限界の罠の中にあり、永遠にこの境界から脱することはできません。人間の衆生もまた同じく、様々な因縁によって善と悪、是と非、正と誤、正と邪を両極に分別し、まさにこれが善悪因縁の始まりとなります。ですから、徳性を耕し育てることを教え導く必要があるのです。
自らを「中道の思想観念」の構築に置くことは、未来において自らの徳性を向上させ耕すことにもなります。しかしながら、現代の宗教は善悪の両極で区分けされ、是と非の相対の中にあり、この境界から脱することもできず、人世间で繰り返し輪廻を重ねています。その原因はまさにここにあるのです。
思いもよらないことに、徳性によって耕されたものは、有情衆生に対して上昇超越の根本性を提供することができます。また、徳性によって耕されることで、中道の思想観念を生存の志向の中に築き上げることができ、これによって人間界から凡を超えて聖に入ることができます。これは自己成長の積み重ねであり、確実に根を張り、安定した基盤を持つことができます。
自己の向上と超越の根本に対して、実質的な作用を持つためには、次のことを知る必要があります。徳性の耕植は、まさに人間世界における「中道思想」によって構築され、成長するのです。これは人間の生存における依存において、必ず多くの向上と超越があり、また自己の未来への回帰に対しても、ありのままに依り所として上昇し、向上と超越を遂げることができるのです。
徳性耕し質を上げ本　　輪廻を超え沈まず入らん
中道の思想は善悪を化し　　両極のは非を渡りて仙真に至る
人類世界の対錯　　すべては個々の自我によるものです
了別の徳性を耕し植え生ず　　人間必ず理正を行い得べし
この偈を！有情の衆生と共に励まし合いましょう；未来の二十一世紀「蓮花仏国」においては、この徳性の耕植を通じて理解と開示がもたらされます。これは自己に対する向上深植の構築であり、おわかりでしょうか？今夜！この祝賀の声の中に降り立ち、諸賢契と共に「真仏心宗」を弘揚することは、誠に感心すべき賛嘆に値します！
第二十八回　真如実性
##南無燃燈古仏（なんむねんとうこぶつ）
2000年10月27日　庚辰年十月初一日（金）
心の灯を燃やして本来の霊性を見る　　灯は尽きることなく伝わり、より軽やかに
古徳が再び千年の秘義を顕わす　　仏は曰く、徳性は勤を造る
徳性の耕植は、衆生の心性を見て、どのように行動し、どのように築き上げるべきでしょうか。徳性の耕植を理解できれば、必ずや「阿頼耶識」に深く根を下ろし、まさに「如来蔵」の根本となります。有情衆生に対しては、自らの心性が耕植するものをどのように築き上げるべきかを体得しなければなりません。個人の成就によって徳性の中に深く耕すことが必要です。
人類世界に徳性がなければ、長く自らの福祉を成長させることはできません。また、徳性の中で自らの「心の灯」を灯すべきですが、心性は本来、悪しき影響に耐えられず、必ず存在の過程において原始の本因たる徳性を育むことになります。これは深く根を下ろすために必要な基本的な観念と行いです。
道はあるが徳がなければ、修行者にとって明晰に体証する過程は難しく、また自らの心性の働きとして、一般の修行者や衆生は皆、自分は修行していると思い込んでいます。しかし実際には、修行はあっても道がなく、保持はあっても徳がなく、まさに道徳など無いに等しいのです！それゆえ、修行を体証することもできず、必ず宗教が本来持つべき基本的な観念を欠いてしまうのです。
また、布施、持戒、忍辱、精進、禅定においても、智慧による向上がなければ、「六度万行」を曲解することになります。「六度万行」の実践において、自分が宗教的な修行者であると思い込み、自己の学習と成長を促そうとします。しかしながら、往々にして自らの願力に沿った行持を行うことができません。
「修行」という点において言えば、それは自己変革であり、過去の良くない習慣を改め、善良な習慣によってそれを乗り越えることです。「持続」においては、自らを恒常の状態に置き、初心を変えずにいられるようにすることであり、これは修持者にとって必要な心構えと行動です。もし修持だけを行い自己変革がなければ、どうなるでしょう？ましてや、持続できなければ、どうしようもありません。
修持において多くの難関に直面した際、無明によって自らの理障を阻害し、惑障によって本来の初発心を見失ってしまうことがあります。修持においては、早く始めたか遅く始めたか、年長か年少かは問わず、いかにして初発心の根本を保つかが、真実の道なのです。
修行に励む衆生は、皆、経典によって薫習され、陶冶される過程を経ます。これは先人たちの様々な行いや、過去の経験の歩みを現在において実現することであり、また宗教の経典書籍は、先人たちの積み重ねた知恵の結晶です。この世における一つの巡り、また次の巡りは、それぞれの経験によって変化していくのです。
改定を重ねる過程において、すでに「德性」を教化する本来の意味から離れてしまった者もおり、さらに！体証の中に自己向上が欠如している場合が少なくありません。往時の経典を、改定のたびに編集・編纂するばかりで、経典を活かす根本的な意義を体得することができず、また自らの行いを、自分は修行しているのだと思い込んでいるのです。
実は！既に経典の真実の意を離れてしまっているのです。それ故に！行いや振る舞いには修行者としての本質が見えるものの、既に修行者として持つべき態度の本意から外れてしまっています。もしさらに経典への執着の過程に陥れば、真に成就することは到底できず、向上もできず、かえって自らを沈淪堕落させてしまうでしょう。
甚だしいことには、すべては我執にあり、自らが設定した罠から脱することはできず、また解脱することも難しい。これはまさに現代のあらゆる宗教が直面する問題点であり、自己の修行に執着すること自体は誤りではありません。しかし、もしそれが個人の「我執」となってしまえば、転換することは難しく、必ずや『執着の固化』に影響を受けることになります。
自己の心性を高めるにあたり、自らの霊性に対して責任を持つことが大切です。それによって、深く固執した観念や行いを転換させることができます。もし永遠にこの境界に留まり、この限界から脱することができなければ、修行において「自分は功績が高く、果報も大きい」と思い込んでしまうでしょう。しかし実際には！まさに自分で自分を欺いているのであり、物事の本質を全く見極められていないのです。
心のレベルを高める必要があります。そうすれば、自分自身を妨げることなく、向上の契機を阻むこともありません。また、現在信仰している宗教において、問題や障害に直面した際にそれを解消することができます。ですから！徳性によって培われたものは、耕作の関係により、善の中に「善を高める」「徳を昇華させる」ことができているかどうかによって決まるのです。
すなわち「如来蔵」においては、必ず持ち合わせるべき観念と行いがあり、また「如来蔵」の中にあって、もし自らが徳性を耕し育み、豊かな功果と資糧を積み重ねることが十分にできない時には、必ずや自らの成長の契機を阻む多くの障害に遭遇することになり、これは自らの成長に対してまことにどうしようもないことではないでしょうか。
自らの徳性を豊かで無限に積み重ねることは、徳の種因において、自らがどのように行動し、いかに為すべきかを考えることです。また、宗教において功果を積むことは非常に容易ですが、罪悪を犯すこともまた非常に容易であり、すべては自らの思想と観念がどうあるかによります。いかにして自らを修持の中で改造していくかが問われているのです。
いかに善徳を「阿頼耶識」に深く根付かせるかについてですが、それは「如来蔵」において蓄積され、形成されるものです。自己が理解し体証する過程においては、「明心と見性」がまさに二つの異なる次元であることを明確に認識する必要があります。決して混同してはならず、「明心と見性」を区別し、実践的な心性を高めていかなければなりません。
経典や先人の教えに迷わされることなく、自己の徳性を実践的に育むためには、「修持による改造化」と「修持による徳性化」を実行し、さらに「修持による円満化」を目指す必要があります。自分がどのように行動すべきか、どのようにあるべきかを明らかにすることは、まさに自己の未来に対する責任を果たすことなのです。
実現はただ今この時にあります。半端な状態でも自らを奮い立たせることが肝要であり、自己の努力次第で転機は訪れます。また、真実の修行の根本は、全ての修行者がはっきりと理解し、体得してこそ真の変革が可能となることを知ることです。ただ今この時こそ、道理に従い実際に歩みを進め、耕し育てるべき向上と超越を実践しなければなりません。
徳性は耕植によって育まれ　　固化して己執となり転じ難し
徳を積み重ねて改造を行えば　　必ずや豊かに満ち溢れ限りなく潤うでしょう
人間の縁は前もって定められ　　転化修持は自らの成すところに帰す
深く徳性を耕し心燈を燃やせ　　仏性を顕わして永く尽きることなし
この偈を！有情衆生と共に励まし合い、必ずや成長あらんことを、慶び祝うものである！
第二十九回　仏性真如

仏性とは、一切の衆生に本来備わる覚りの本性であり、真如は、変化しない真理の実相を指します。この二つは、仏法の核心を成す教えであり、修行者が悟りを開くための根本的な指針となります。

仏性は、草木に至るまで全ての存在に内在する尊い性質です。たとえ煩悩に覆われていても、それは決して失われることなく、適切な縁に触れれば必ず顕現します。真如は、この世のあらゆる現象の背後にある不変の実在であり、言葉や概念を超えた絶対の真理です。

修行においては、自己の内なる仏性に気づき、真如の理に沿って生きることが求められます。それは、執着を離れ、清浄な心を保ち、智慧をもって諸現象を見極める実践です。この道を歩むことで、私たちは苦しみから解放され、安らぎと覚りの境地へと至ることができるのです。

仏性と真如を体得すること、それが仏道修行の究極の目的であり、一切の衆生が等しく目指すべきところなのです。
##南無燃燈古仏
2000年10月31日　庚辰年十月初五日（火）
南海の果てなき岸にて 衆生を渡す
古仏の著すところ 性真を見る
人間弘揚理教化　　徳性無窮智慧臻
徳性の育成：生存と修持の過程において、生存の実相世界に対して、自己の生存利益と修持の両者が相互に融合し、生存の変革の中に調和して存在し得ることを明確に理解することが必要です。もしも！生存と修持を両立させることができず、ただ生存と修持を隔離するだけであるならば。
この種の状態は、自らを永遠に転換の余地のない空間に陥らせてしまいます。修行者は、自らが生きる現在を明晰に認識することが必要です。それによって、自らが道理に従い、実際に応用できるようになり、「生存と修行」という両者を融合させることができます。また、徳性はまさに無限であるがゆえに、修行を通じて育成されなければなりません。
自己の生存しているこの瞬間において、もし修持と生存の両者を一つに統合することができなければ、そもそも自らの生存利益によって自らの徳性を顕現させることは難しく、また生活の中において、あらゆる徳性の根本的な本質は、自らが無限に自らの身体と霊性の中に顕現させることにあるのです。
德性の行使に対して、もし実際の経験過程を具足することができなければ、修持者にとって根本的に顕現の範囲に到達することさえ困難となり、必ずや修持と生存の両者は密接に関わり合っているため、生存のただ中において自らの徳性の作為を破壊すべきではありません。人類の衆生よ、どうか！悪性の根質を高めることのないように。
「徳性と悪性」の作用は両極化しており、徳性と悪性を区別する必要があります。徳性を耕し植えることは無限に必要であり、また徳性を深めることで自らを成長させなければなりません。しかしながら！多くの修行者は、ただ道を行くだけで徳行が伴わない場合でも、修行の途上において、自らは道を行っていると認識しているのです。
根本的に、自らの徳行を顕わし、霊性を超越させる方法が全くない場合、徳性を行使する過程において必ず体証し明晰にしなければならないのは、「道と徳」がそれぞれに作用することに対する理解です。もし道のみあって徳がなければ、人間世界は魔性の世界に入ってしまいます。また、道があって徳がないということは、すなわち魔性が顕現することなのです！
道があり徳もある：これはまさに大乗菩薩が有情衆生に対して覚りを開き、また菩薩乗の中で自らの徳性を耕し植える働きを顕わすことである。また、徳と悪は両極化しており、しかも！徳性と悪性の二者を区別するにあたって、一方は上昇であり、一方は下落である。徳性をもって人類世界の根本として行うべきである。
霊性において自らに多くの徳性を増やすことは、人間の本性の中には既に備わっているものではあるが、人間世界における様々な行いにおいては、しばしば自らを加減乗除の作用の中に置き、徳性と悪性の両者を合わせ持つことになる。すなわち、「徳と悪」が人間の性向の本体となる因縁を左右するのである。
いかに徳性の耕植作用を向上させるかが最も重要です。また、徳性の耕植は、人間世界にとって消し去ることのできない生存の道であり、悪性と秉性を必ず取り除かなければなりません。天性の中には、すでに徳性の根本的な素質が備わっており、霊性の中の悪性も取り除かれることでしょう。
人類世界はこのような環境の過程において、常に自らの霊性を高め顕現することができず、また半ば仏性、半ば魔性の中で成長してきました。さらに、人類世界は宗教的教化の中で、根本的に魔性に言及することを恐れ、単に悪性として説明するだけであり、真に魔性を取り上げて論じることは困難です。
魔性の成長において理解し難く、さらに「魔性の中の仏性」を明らかにすることができないため、「仏性の中にも悪質な魔性が存在する」のです。さらに、魔性について、人間の世界では根本的に避けて語られず、また魔性を分析することも難しく、自らが曖昧な存在に留まり、それによって自らに矛盾を生じさせています。
知らずや、人類世界における「徳性と悪性」、「仏性と魔性」はまさに一つのものの両面であり、深く究めなければどうして明晰にできようか？ 仏性と魔性の作用が何であるかを理解することはできません。実は！ 根本的に、これらを分析する宗教はほとんどなく、「仏性と魔性」の両者を貫徹して理解することも難しく、その中の問題点を明らかにすることは容易ではないのです！
「徳性と悪性」は、さらに「仏性と魔性」の中に顕現します。しかしながら！すべての人間世界において、その根本的な作用を明確に知る必要があります。仏性と徳性、魔性と悪性の中で、いかに有情衆生に対して作用を区別し、分析すべきかを理解すべきです。これこそが、自らが上昇と下降の中で成長する道なのです。
この種の仏性における徳性は、十分に透徹して顕現される必要があります。もし単に魔性や悪性だけで顕現させようとすれば、必ず自らの生存に非常に不利な障害をもたらすでしょう。また、この二つの性質が本来顕現する根本的な因質において、この過程を通じて分析していきます：仏性と魔性、徳性と悪性の根本的な作用と導きについてです。
有情なる衆生が容易に抜け出せない苦境に陥ることを許さなければ、どうして向上することができるでしょうか。このような過程は、実は、個人の生存環境においても、各人の思想や観念に左右されながら成長するものであり、まさに自分自身の生存利益に対して、どのように行動すべきかをはっきり見極めることが正しいのです。そうしてこそ、向上し超越することができるのです。
徳性を耕し植えて仏性を顕わし　　天性は尽きることなく人は自ら選ぶ
悪性の因質八識に入り　　魔性顕れて更に円成し難し
因縁果報は前もって定められており　　思想と観念が業因を造る
転換には大いなる智慧が必要である　　仏魔・徳悪の四つの根本を清める
この偈は、有情の衆生と共に研鑽すれば、必ずや仏性を顕現させ、さらに徳性を顕現させ、魔性を化除し悪性をも化除することができます。これは人類の衆生にとって、より大きな成長と向上をもたらし、自らの主人となり、単なる自己の奴隷に留まらず、また一生を生存のためのみに費やし、自己を麻痺させて超越への回帰を忘れることのないようにするものです。
第三十回　魔性真如

魔性はすなわち真如であり、
真如はすなわち魔性であります。
迷いと悟りは一体のもので、
煩悩と菩提もまた同じ根源から生まれます。
心が清らかであれば、
すべての現象はそのまま仏法の現れとなります。
心が乱れているときには、
仏法でさえも魔境と化してしまうのです。
ただ一心に観じることで、
真実の姿が見えてまいります。
##南屏道済古仏
2000年11月3日　庚辰年十月初八日（金曜日）
南屏の台疆、迷痴を化す　　道済、衆を合して本より自ら持つ
古仏降来し天書を著す　　真如の性より無始を化す
魔性と仏性の区別について、徳性と悪性を一連に論じ、自己の真如性において成長を遂げることで、生存の方向性を選択する過程において、自らの行いが天心の徳意に適うようにします。さらに、自己の真如実性において下化を行うことは、「仏性と魔性」という二つの性質を区別することにほかなりません。
行持：それは向上へと高まるか、あるいは沈んでいくかの分かれ目であり、有情衆生に対して下化の働きかけを行う際に、確かな実践の道筋を成長させなければなりません。「仏性と魔性」を区別することが必要で、自らを本霊：真如自性の中に入らせれば、徳性と悪性の間で自らを体得し、人類が生存するさまざまな経験の蓄積過程を実感することになります。
仏性：これはまさにすべての衆生が具えている根本の自性であり、さらに「如来蔵」においては、より深い一層の理境を掘り下げる必要があります。これは自己に対する一種の徳性の顕現であり、「仏」が必ず備えていなければならないのは、福徳が無限で智慧が尽きることがないことです。それゆえに、徳性を行使する過程においては、自己を向上させ、超越へと導くものなのです。
大乗菩薩行を具備するには、まさに菩薩の種因を積み重ねることが必要です。菩薩の種因を発揮し、徳性を闡揚することによって、自らの真如の性を有情なる衆生に応用して教化し、自らの仏性の因質を開花させると同時に、徳性の本質を天性の中に取り入れて成長させます。このような因縁条件は、いかなるものとなるのでしょうか。
すなわち、自らの行いと作為がすべて無為無私の働きであるとき、必ずや人間世界において一切の福祉を有情衆生に降ろすことになります。それはまた、仏性を顕現させることによって、徳性の尽きることなき発動を引き起こさなければ、実現することができません。さらに、徳性の成長は、まさにあらゆる生存の方向性を通じて、成長へと至るのです。
必ずや人類世界の有情天地において、ありのままに現れ出でます。さらに、天地の中の一切衆生に対し、天地の徳沢を有情世界の天地の中に現じ示すのです。人種や種族の区別なく、すべて一体として同じく、人類が因を種むる過程において、ありのままに構築してゆくことができます。
これは有情衆生の様々な生存過程に対して、人間の思想を改造し、自己の生存指向を人類世界において完全に現出させることです。また、徳性こそが人間が従い依りどころとするものであり、自己の成長を更に高みへと昇華させ、現代の科学技術文明の時代において、有情衆生に福祉の向上をもたらすものであります。
必要に応じて理にかなって実際と一体となることで、初めて天性が行使されます。もし天地の徳沢を貫通することができなければ、有情衆生に対する平等性において、必ずや天地において「天心、天性」が有情世界に公正に顕現することはできません。また、あらゆる物種はすべて天地の眷顧する徳沢であり、まさにすべての天地の衆生を愛護しているのです。
人類は天地の徳沢を理解すべきです。一つには、それは生命を慈しむ徳であり、二つには、生命を育み育てる大いなる徳です。さらに！一体となってこのように有情世界の無数の衆生を護り支えることは、すべて平等の性質であり、「天の心、天の性」において行使されるまさに無私かつ無為であり、甚だしくは一体の博愛、慈悲喜捨であります。
すなわち、惻隠のうちに、清らかで真実なる自然の運行が完うして現れ、また天地の徳沢が有情あるすべての蒼生に及び、天地の物種に対しては守り育む働きをなします。これはまさに、天地の徳沢が大道にのっとって発現した姿であります。大道は無為にして私なく、また自然に万物を育み、あらゆる物種と蒼生を包み込んでおります。
人類はこの天地に生存するにあたり、人間の大いなる徳を顕わすべきであり、あらゆる万物を護り生かすことによって、人類は天地の徳沢を行い、人々の徳沢が互いに連なり合うのです。また、人類の徳沢においては、人間の強勢に頼ってあらゆる万物衆生を害してはならず、博愛をもって実践されるべきです。
これは「天心・天性」の行使と、「地心・地性」の行使、そして「自性・自心」の行使によって、有情世界を成就するものです。人類という種の徳沢は、この三者を連ね、人類の博愛をもって一切の種の護生と放生を高めることで、天地の演繹する徳沢に合致するのです。
一切の種は皆、慈愛と守護を受け、天地の全ての種が繁栄し栄えることができます。このように観じれば、これらは全て天地の真理であり、自らに様々な過程を行使する中に、真如の本性が顕現しています。有情なる人類にとっては、向上成長の道であり、智慧と経験を積み重ねることができ、必ずやこの過程に向かって弘めていかなければなりません。
仏性と徳性が積み重なり、天心と天性の中で、自然然たる道性へと化します。これはまさに自らの経験の蓄積によって成就されたものであり、道心と道性において、天地自然の演繹過程に符合することができます。そして人間世界において体証され、真実の下化資糧となり、一切の天地演繹過程に対する成長をもたらすのです。
大地が蒼生の福祉を創造することは、まさに人類が必要とする動作であり、あらゆる物種の蒼生を護佑しながら、天地の道心に符合する演化を以て伝承と教化を行います。この規範に背くことは不可能であり、自らの真如性より顕現するものこそが：仏性、徳性、天性、道性であり、これこそが自らが獲得する真実なのです。
仏性顕現は本能の因　　徳性成長は有情を化す
天心天性自ら成就す　　道心無限更に豊盈なり
人間はあらゆる生き物を慈しむ心を持つことこそが、
悟りを開いた有情の姿であります。
真如の性は本来因質より起こり　　天心天性に道心を加う
人間有情は大愛なり　　衆生の福祉は天の配剤なり
有情世界は天機を展べ　　天心天性は蒼生を載す
この偈を！有情衆生と共に励まし合いましょう；未来において更に理にかなった実際のものとし、明心見性を悟りの境地へと導き入れます。また、有情世界において既に獲得し、更に既に成就している「自真如性」を天地に顕現させましょう。自己の成長過程にとって、人類世界における様々な経験は消し去ることのできないものです。
自らの行いに対して責任を持つ必要があります。そうでなければ、因果の法則の循環プロセスは存在せず、因果の循環について真に理解することもできません。因縁果報によって善悪や良し悪しを分別することは、将来の福と禍の区別であり、人類や衆生に大きな影響を与え、人生のすべてを形成することになります。
さらに、過去の因果業障を化除し、上昇の根本的な改造を行うことができます。そうすれば、人間世界において「天心、天性」をより大きく発揮することができ、道心の中で自然に大きな成就を得ることができます。有情世界の因果循環を理解することは、すべての衆生にとって、上昇超越と下墜輪回の分かれ目となるのです！
第三十一回　仏魔真如
##南海古仏

南海古仏は、慈悲の海に浮かぶ智慧の島であります。
その御心は、一切の衆生を包み込む慈愛に満ちております。
私たちは、南海古仏の御教えに従い、自らの心を清め、他者を思いやる生き方を学んでまいります。

南海古仏の御前では、すべての区別が消え、ただ平等なる慈悲のみが輝きます。
どうか、この尊い御教えが、広く世に伝わりますように。
南無南海古仏。
2000年11月7日　庚辰年十月十二日（火曜日）
大道シリーズは天書を著す　　弘揚普化の実に特殊なり
儒道釈耶回は共に参究す　　自性真如を揚げて普く渡す
真如の性が凡体に入るとは、まさに「真如実性」において、第八識の内に入ることです。有情世界においては、必ず第八識の蔵を引き動かす必要があり、それによって初めて自らの行いに対して現起することが可能となります。縁によって第八識に入り、「如来蔵」を自らの本性の中に入れるのです。
必要に応じて「如来蔵」の区別を知ることは、自分自身の過去の生存における一切の志向に対して初めて動能と作用を持ち、必ずや過去の種々の積み重ねた因を含むものを、下化と行使の機能として実践することができます。さらに！自分自身のなす一切の事柄に対して、ことごとく道理にかなって実際的であり、自己の心念意識を向上させ増長させることができるのです。
第八識に、一切の動きを導くエネルギーを与え、そのエネルギーを通じて自らが行き詰まることのない境地を現出させます。また、自らの行いと様々な経験の過程に対し、現代的な思考の枠組みをもって成長を加え、一切の動的な作用が、今この時の必要な行いと調和するようにします。
しかし！絶対に生存の必需性から離れてはなりません。そうすることで、現在において様々な行き詰まりや困難に遭遇することを避けられ、また現代の時代の働きに合致することができます。すなわち、潤いある生活の動能と作用を与えて主導することであり、まさに生存に必要な一切の同じ縁の体が、「如来蔵」の中に顕現してくるのです。
実は！それは過去の様々な積み重ねによって促され、またその動的なエネルギーが自らの行いすべてに対して作用し、ありのままに現在の瞬間を完結させるのです。まさに「如来蔵」に蓄えられた一切の過去の因縁の積み重ねが導きとなり、自らの行いに対して、いかなる事象の過程からも決して逸脱することはありません。
「自真如性」はいかにして「真如実性」のうちに下化されるのでしょうか。真に必要なことが確かにあるならば、自らの徳性・善性・仏性・道性によって主導することができ、また「悪性と魔性」をいかにして化除するかが、まさに真実性なのです。さらに、一切の性体は決して「真如実性」から離れることはありません。
況しまして！悪性と魔性のこの二つは、過去の種々なる不良なる積習を改造することが必要であり、それこそが自らの生存過程において阻礙と瓶頸に遭遇しないようにする道であります。悪性の根本的な因質に対しては、詳しく探討する必要があり、また「悪」の因質性體こそが、一切の過往に積み重ねられた不良なる積習なのであります。
悪性の因質よ！もしも良き善性の本質を清浄に染めることができなければ、垢染によって生じる一切の障害は、自己の生存の方向性に影響を及ぼし、不良なる習性によって導かれる一切の存在となる。もしも有情衆生が一種の良き循環作用を生み出せなければ、不良なる習性を改めることは難しいのです。
悪質な習性の中では、良質な因質を飲み込んでしまい、さらに！仏性を沈没させ、波濤の中に入ってしまい、もはや顕現することができません。さらに、堕落していくすべての動作は、悪質な積習に対して甘やかし、養い、様々なＯＸ、是非、正邪、対錯を蓄積していくものであり、これは不良な積習です。
それは正しい方向だと思い込むようになります。そうなると、自分の行いを真に判断することが難しくなり、自分には何の過ちもないと考えてしまうのです。そして、自分に対して一種の慣性的な作用が働き、さらに！自分は未来の様々な生き方について、正しい思考の道筋を持てると錯覚するようになるのです。
必ずや自らの存在の中に、誤った観念を明晰にできずに生じさせてしまいます。「悪しき積習」はこれによって、第八識の中に入り込んで蓄積され、自らの根本を改造することさえ困難にし、また自らの生存における種々の良き因質を現すこともできず、かえって自らの悪性を芽生えさせてしまうのです。
甚だしいことです！自らが当然そうあるべきだと考えているため、魔の性質は自らの心性の内なる境において、両極化した主導的な作用を及ぼします。また、仏と魔は本来一体であるがゆえに、ちょうど人間の肉体において、まさに一体の両面に過ぎないのです。知らずや！ただ一つの表と裏が現れ出ているに過ぎないということを。
魔性の存在とは、悪性の因質が存在の中に蓄積され、不良な性体が耕植される過程を前進させるものです。したがって、悪性の因質の根性こそが魔の本体であり、また仏と魔の二つの相が分かれる障りの境界にあります。いかにして生存の因縁を、自分が正しいと認識する思想の理路を通じて扱うべきか？必ずしもそうとは限りません！
しかしながら、魔性の因質の中にいることを知らず、それは自分自身に対して障害となり、無明の現れを生じさせ、必ずや無明に遭遇することになります。また、自分自身の思想の理路を遮断すれば、自らの行為をそのように導くことになり、正しい思想観念を成長させることも分からず、未来がどうなるかも分からないのです。
また、三綱・五常・四維・八徳を人間としての規範とすることも難しく、「身・心・霊」という三位一体を第八識においてのみ「如来蔵」に入れ、魔性の成長を導くことも極めて困難です。このような魔性の障礙を変え、一連の妨げを形成することは大変難しいことです。
かえって！自らが転換するのを難しくし、これこそが正しいと考えるだけでなく、他人の行いをすべて「非」であると思い込み、また「非」の作用の中にあるため、すでに正しくなく、他人に認めさせることが難しくなります。すなわち無明に妨げられて自らを閉ざし、心の意識が主導することを現し、まさに魔性から昇華するのです。
この種の条件は、仏と魔との対比において、まさに一体の両面であり、また作用と導引の根本性でもあります。いかに心念意識によって生存規範を導き、真実の理諦の作用を自らに具現させるかが重要です。そうすれば、自らの心魔から生じる一切の悪性の動能を区別し明晰にすることができるのです。
有情なる衆生は必ずこの境界に在り、一切に対して自らに真実を持つことができ、天地の演繹する徳沢が自らと衆生に下化するに符合します。必ずこの境界において、有情なる衆生を「仏魔両相の歧障」なる世界に入らせず、すなわち宗教の派脈に入る修子は、必ず明晰なる過程を必要とします。
いわゆる修道は牛の毛のごとく、成道は牛の角のごとし。ただ修持する者は多く、証道する者は稀なるがゆえに、もし深く切実に体証することができなければ、人類世界はいかにして明晰となり、来たるべき「仏魔両相の歧障」の過程に対する導引と応用をなすべきか。宗教内の障礙を転換することも難しく、いかにして化除すべきであろうか。
これは仙仏が慈悲深くないのではなく、まさに自分自身の無明が障壁となっているのです。考えてみればすぐにわかることであり、また自分自身が「仏魔の岐路」の過程において、どのようにして理にかなった実際として、「自性真如」を応用するために必要な向上を図れるでしょうか。それは現在において改造することであり、現在において成長することであり、現在において応用することなのです。
仏と魔の両相は障界を分かつ　　悪性の因質が累いを及ぼす
魔性成長細體分　　境界化除即成灰
魔性の成長は細やかな体に分かれ　　境界が化け除かれて即ち灰となる
真如実性が識種に入り　　自らの真如性が前に引き開く
体証明晰必ず改むべし　　仏魔相成り互いに排す
この偈は、すべての有情衆生と共に励まし合い、じっくりと味わえば必ず成長があります。また、この世の経験を通じて向上し超越に至るのです。これは人類の衆生が宗教信仰に入る際に、必ず理解すべき「仏性と魔性」の区別の作用であり、それによってさらに高い異なる境地と次元に至ることができるのです。
第三十二回　仏魔切転
##南無燃燈古仏
2000年11月10日　庚辰年十月十五日（金）
南海果てしなき一片の天　　古仏大道の理を闡く篇
著書は普く真理を揚げて　　真如の実性、徳は辺り無し
人類が「真如」を「実性」と称するのは、有情衆生に対して依り持つべき実質的な性質があり、あらゆる志向の過程において、理にかなって実際的である必要があるからです。有情衆生に向上して学び成長する機縁を与えるためには、まず徳性を顕現させなければなりません。なぜなら、有情衆生の徳性はすべて欠如していることによって引き起こされているからです。
無き法に能く有りの実際の下化動作あらしめずんば、いかにして徳性を伝延せしめんや。必ずや「真如実性」をより大いに発揮せしめ、また自ら現世ただ今に実際の資糧を得しむるを要す。さればこそ！「真如実性」の具うる所は、衆生の貧賤富貴を問わず、皆一体かくの如し。
それゆえ、平等性を以て作為とし、有情衆生により大きな発揮をさせます。また、徳性の中において、人類世界において真如実性がなければ、現在の一切の作為を実現することは難しく、有情衆生に対してこの境地に到達することが困難な時には、自己の成長の中で殊勝な意味を知ることが難しくなります。
今この過程において、有情衆生がすべて理にかなって実際に「真如実性」を実現できるようにするためには、真如こそが一切の菩提の種子の根本的な性質であることを踏まえ、菩提の種子に対する覚性とは何か、そして明晰な性体そのものはそもそも何であるかを明らかにする必要があります。「性体」を中心として、「悪と魔」の種因があってはならないのです。
ああ、嘆かわしいことです！衆生は皆、本来備わっている徳性と真如の心が欠けており、さらに魔性や悪性を振りかざして、自らを容易に抜け出せない境涯に追い込んでいます。それゆえに、多くの有情衆生が六道を輪廻する根本原因は、まさにここにあるのです。有情衆生の徳性に対しては、過去世から積み重ねてきた因果を、償いと化解によって清算することができるのです。
しかし、時は常に「今」の中にありながら、原因の上に原因が重なり、結果の上に結果が積もることで、困難な状況を転換することがますます難しくなるのもここに起因します。ですから！徳の本体はまさに創造であり、また真如の未来の中で運行しているのです。人類はこの基盤を昇華し超越することができます。一方で、有情衆生はしばしば学道修持に没頭するあまり、かえって徳性を見失ってしまうことがあります。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。
しかしながら、修行において必要不可欠なものこそ、慈悲と惻隠、博愛と平等、清真と無為であり、すなわち無我無私の真実の性体であることを知らないのです。しかしながら！有情衆生はこれを理解し得るものの、実際に行うことは極めて難しく、この境地において自らが、一切の上昇の因となるものを次第に消し去ってしまっているのです。
一切の聖神仙仏菩薩などに対して、まさに平等・博愛・慈悲・惻隠、清真・無為が、今この有情世界に完全に現れることを了知するのである。また、上蒼が宗教修行者を評定するにあたっては、この種の「徳性」を備えていることが必要である。ましてや！平等性の中にあっては、人間の所作を一体のものとして見るのである。
まさに万物衆生から離れることなく人類を厚くし、また人類は万物の霊長として尊いものではありますが、他の有情衆生の霊性も、人類と同等の平均的な素質を備えているのです。ただ人類には思考する能力と行為があるため、人類が徳性をもって万物衆生の平等博愛を護り持つことが必要であり、それが真実の在り方なのです。
真如：一切の法性と体性の根本であり、人間が具足する「如来蔵」の智慧理諦を以って現前に顕現させることができれば、成長経験を積み重ねて評価する機能を備えることができます。自己の成長過程においては、仮に！肯定的であれ否定的であれ、全てが成長であり、また自らに豊かな資糧をもたらすことができます。
有情なる衆生が「真如」の実際性を備えることができないならば、すなわち善徳の因質を欠いていることになり、有情なる衆生に対しても詳細に真実の意味を体得することができず、それゆえに「真如」は不変の菩提の種子であり、欠くべからず、埋もれさせてはならないものであり、人間世界においてこそ向上成長の実際性を持つのです。
下へと堕落する欲望の深淵に沈むのでもなく、また欲望に縛られるのでもなく、「真如」を以って浄化し、自らを超越して向上させることです。もし向上を図ることができれば、必ずや自らの迷いの障壁を取り除き、転換することができます。これは人間の生存の中にあって、上へと成長する因縁の根本となるものです。
もし実際に今この瞬間に実現することができなければ、必ずや自己の向上は難しく、真の明悟を得ることはできず、自己のこの人生にとっては非常に残酷な事柄となります。しかしながら！有情の衆生はただ一つの宗教信仰にのみ執着し、またこのような「一筋に終わる」信仰こそが、各宗教の優れた理想や考え方を明晰に理解し、体得することを妨げているのです。
真に因質を向上させることが直面できないのは、沈淪に陥っていることは理解できます。また、沈淪した衆生は皆、外を見ることを好み、未知なるものを外に求めることに迷い、その「迷いと茫然」という障害に陥っています。これはまさに、過去に経験した所知障であり、自分が絶対に正しい、いや、100％正しいとさえ思い込んでいるのです。
いかなる者も、その偏りや不正を指摘することを許さず、ただ一途に前進するのみでは、人類は最も容易に迷いの障壁に直面し、過去の宗教的迷信を打ち破ることもできません。ですから！古代中華の始祖である炎黄の始皇帝は、七十二人の高名な師に師事し、最後に広成子仙翁に出会うまで、真の悟りを開くことはなかったのです。
かつて七十二人の高名な師匠のもとで薫陶を受け、それぞれの教えを体現してきましたが、心の本質を悟る過程を教化することはできませんでした。なぜ七十二人を経た後に、初めて優れた師匠が現れて啓発してくれたのでしょうか。それは、執着せず、固定観念に固執せず、形相に捉われず、心性の顕現を完全に体証できるようになったからこそ、未来に成就する条件が整ったのです。
真如実性は縁を得てこそ　　衆生を教化することに怨みなし
人生の過ちを一回悔い　　どうして今生の誤りを自ら償う
人生の縁はさらに明らかで澄みわたり　　己に対する行いは改めて隠すことなし
真如の理諦は永遠に存在し　　実性自悟の境地を追い求めん
この偈を！有情衆生と共に励まし合いましょう；有情衆生としての鏡とし、いかにして「真如実性」を発揮し得るか？必ずや真実のままに構築せねばならず、さもなくば！一切の修持の心の歩みは、この世において水泡に帰し、どうすることもできません！徳性の性体は、相に執着してはならず、転換し難い窮境に偏執してはならないのです。
第三十三回　心性至真

心性とは、本来清浄なる真実の姿であります。それは、いかなる煩悩にも汚されず、いかなる苦しみにも揺るがない、私たちの本質的な存在です。

心性は、まるで澄み切った鏡のようです。鏡は、外の景色をありのままに映し出しますが、それ自体は何も留めません。同じように、心性はすべての現象を受け入れますが、それに執着することはありません。

この心性に目覚めることが、悟りへの第一歩であります。日々の生活の中で、一瞬一瞬、この真実の自分に気づいていくのです。それは、特別な修行ではなく、今ここにある命そのものを見つめることであります。

心性の真実は、言葉では言い尽くせません。しかし、静かに自分自身を見つめるとき、誰もがその輝きを感じることができるでしょう。
##南海古仏

南海古仏は、慈悲の海に浮かぶ智慧の島であります。
その御心は、広大無辺なる慈愛に満ちており、
衆生を迷いの闇から救い出す光明を放たれます。

古仏の御教えは、波の音のように穏やかでありながら、
深遠なる真理を湛えておられます。
「一切の苦しみは執着より生じ、
一切の安楽は放下より来る」と説かれました。

南海の潮の満ち干のように、
縁起の理を明らかに示され、
無常の波に揺られながらも、
変わらぬ涅槃の岸辺へと導いてくださいます。

合掌
2000年11月17日　庚辰年十月二十二日（金曜日）
大道シリーズ第九冊　　明心見性の本則
真理を弘めるに限りなく遠く　　仏性真如は更に明らかに透き通る
真如実性：仏性真如に入るとは、過去の様々な因縁によって積み重ねられてきたものを、個人の成就の根本的な因とし、生存と成長の過程において、仏性をより大きく発揮させることです。有情衆生がこの凡塵にあって、真に自らを成長の経験として積み上げられるようにし、そうしてこそ向上もより容易となるのです。
自らが今この瞬間に豊かな資糧を備えているかを知ることができるでしょうか。さらに、現代の生き方に適応し、人世の経験を通じて自らを改め、今この時代に必要とされる人間性を備えることが求められます。もしこの点を実現できず、なおも過去の方法に固執するならば、残念ながら、有情衆生に超越の契機をもたらすことはできないでしょう。
仏性：一切の有情衆生が備える根本的な性質であり、すなわち有情衆生が具える本因の質です。では、仏性が顕現するか否かについては、その体証の過程を明確に理解する必要があります。人間の生存の実際性を飛び越えることはできません。しかしながら！仏性が現在の肉体において完現されなければ、それは木によって魚を求めるようなものでしかありません。
有情なる衆生は如何にして真如の仏性を顕現すべきか？必ずや本心・本性の実際性を明らかに悟り体証することが必要です。とはいえ、すべての有情なる衆生は、自らの生存の在り方を選び取る過程において、天性を応用して行動することができず、常に秉性を用いて振る舞ってしまいます。このようにして、仏性は埋もれてしまうのです。
逆に魔性を生存環境に顕現させてしまい、「仏魔両相岐障」の世界においても、仏と魔の真如実性は同じであり、ただ真如は不変の本質であること、また仏性と魔性の真如も同じであり、ただその運用の仕方に違いがあるだけです。まさに「成長と墜落」の違いにほかなりません。
仏性の真如：必ず一切の魔性を通じて顕現させなければ、自らの成長を向上させることができるのです。むしろ！自らの真如実性が根本性を下化できるため、「仏・魔真如実性」はまた一体であり、魔性の真如を徳性の顕現において実現してこそ、超越する機会が得られるのです。
まさに魔性に浄化を委ね、仏と魔の真如を応用して区別するのは、上昇と沈淪のためであり、また自らの仏性をいかにして徳性によって積み重ねるか。それは最終的にのみ仏性の顕現として実現可能であり、すなわち真如を顕彰すること、かくのごとし！あらゆる徳性を限りなく、際限なく示すことによってのみ、それは達成されるのです。
仏性と徳性の顕現は、成長の契機において仏性真如を正しく知り、自然のままに活用することができれば、貫通して妨げられることなく、透徹して明るくなります。これは仏性の輝きを「自真如性」として現在に示すことであり、真如は一切の法界の体性の根本であり、また人類衆生がすべて備える根本的な性質でもあります。
古より「仏性」という概念は存在せず、近二千年ほどで初めて用いられるようになりました。また、かつてはこの名称すらありませんでした。現代の人類や有情衆生の必要に応じて、上蒼はこの因縁に順い、「仏性の顕現」を「真如実性」によって明心見性の根本とされるに至ったのです。
必要とされる体証は、いかなる宗教の宗派や流脈にも分別を設けず、まさにありのままに宗教教育と教化の課程に対することであり、これは平等なる宗教観にほかなりません。自らが上求菩提・下化衆生を実践するにあたり、さらに実際に分別心を離れ、すなわち公正平等であり、一体として真如のうちに顕現することこそ、この一生において体証し明らかにすべきことなのです。
真如の本性より見れば、世俗の衆生は皆、外に向かって達成困難な目標を追い求めることを好みます。また、世俗の衆生が憧れるがゆえに、上天は慈悲をもって名称を下し、このような名相を与えて追求の対象とさせます。もし「勝義理諦」を引かなければ、恐らく宗教は現代の時代に融和し難いでしょう。
その通りです！人類衆生の求めに従い、彼らが憧れる名相を如実に下化すれば、受け入れられやすくなります。もしそうしなければ、広く衆生を救い渡すことは容易ではなく、かえって功敗垂成に終わり、下化も難しくなります。そうなれば、いわゆる宗教信仰と教化は、すべて真実の義から離れてしまうのです。
魔性：その中に真如の性質があり、これも仏性真如と同じく、ただ自らが成長する過程において、『仏と魔の二相が障りとなる』有情世界に対して与えるものです。お尋ねします：諸賢者は「仏と魔」の中に存在し、これらはすべて衆生が顕現したものであり、必然です！ありのままに「喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛、憎しみ、欲望」の中に現れます。
すべての過程においても、「悲・歓・離・合」の心の状態を示しながら、また一つの事柄に歓喜する心によって成る時、仏性は即ち顕現します。また一つの事物を欲しない時、魔性は即ち顕現します。これはまさに今この瞬間に、自らの真如の性質の過程において完現するものであり、こうして理解できるのです：仏と魔とはいかにあるべきかを！
崇心所著作の「大道シリーズ天書」においては、もし過去に築かれた基礎がなければ、現代の人類衆生を成就させようとしても、おそらく真実の効力を発揮することは難しいでしょう。これは宗教修行者に対して、良き成長と超越を促し、また現在において回帰と超越を達成させるためのものです。
本日「仏魔の真如」について申し上げますが、おそらく崇心の諸賢生や宗教信仰者の方々には受け入れがたいものでしょう。なぜこのようなことになるのでしょうか。まさに人類の衆生は、過去の宗教経典の迷妄の中にあって、すべての仏教もただ仏性について論じるのみであり、魔性の真実の姿を知ることは非常に困難でした。仏魔の真如においても、明らかに通徹することは難しいのです。
これは自らの心の在り方と行動をありのままに完現できるものであり、まさに仏性真如と魔性真如の顕現を如実に示すものです。実は！これは既に存在している事実なのですが、宗教はこれまでこのようなことを語ろうとしなかっただけです。また現代では、仏と魔の両面が形作る事象がより一層目につくようになりました。これは仏性の顕現なのか、それとも魔性の顕現なのでしょうか？
真如の自性の中において、そのままの姿を現在に顕現することは、有情衆生の生存過程に対するものであります。もし真如の実性を完全に現すことができなければ、たとえ仏性や道性、聖性、仙性、自性などと名付けられていても、それらは単に異なる名称に過ぎません。しかし魔性においては、それは悪毒なる性質となり、自らの成長過程をも形作ることとなります。
すべては自らの生存過程に顕現します。如何に天性を用いて行動するか？如何に仏性を用いて行動するか？如何に自性を用いて行動するか？或いは悪性を引き出して行動し、あるいは魔性を継承して行動するか？すべてはただ今この瞬間に完現するのです。現代社会は繁栄し、物質的欲望は横溢し、人々の心は奢侈に流れていますが、それらを如何に選び取り、転換していくべきでしょうか？
仏性真如は本来天の質　　魔性真如もまたかくの如し
仏と魔は両者相い障り　　真如一体相互に引き合う
人生の根本の最後　　仏魔両成が衆生を導く
如何に己を成就して　　真如を顕わすか即ち当たり
この偈を！同じ有情衆生と共に励まし合いましょう。確固たる基盤を築くとは、すなわち仏と魔の真如を自らに降ろし、仏性を引き出すか魔性を引き出すか？自らの心の在り方、行い、対応、そして智慧を観じることです。諸賢生はこの瞬間に、はっきりと観ることができます。どうか努力を重ねてください！
第三十四回　悟りを開き果を証す
燃燈心法は古より今に伝わり　　古仏の徳は衆生を潤す
魔性真如は実諦なり　　仏性顕現し本霊清し
仏性真如来は言われる：人間世界における行いと行為は、すべて仏と魔との区別の中にある。仏性を顕現させることは、有情衆生にとって上昇的な「指向」を学ぶ過程であり、それは良き因質である。それによって自らは実相界の深淵に沈むことなく、またやむを得ず生きることもないのである。
生存志向プロセスは、有情衆生が日常生活の中で仏性を顕現させ、自己向上の原動力を引き出し、善良な心の状態を保ちながら行動することを可能にします。ですから！人間世界が衆生に与える徳沢は、まさに自らが生きる過程において、多くの名相に束縛されずに済む点にあるのです。
仏性真如とは、有情衆生の生活過程において、「生活と修持」の両者を並行して融合させ、自らの生存過程において蓄積された生活経験を、潤いある生きる過程に応用することで、生活の実相の根本を体得し、有情衆生に対して向上の作用をもたらすものです。
すなわち、良善を行じて自己の本性・本心に活かし、実相界に存在して自らを成長させるとともに、仏性の良善なる本質によって、悪性の存在を質能的に無形化して除き、また生活の中にあって自己の主人となり、自らの生存の奴隷に沈淪することなく、生存によって自己の霊性を売り渡すことのない状態を指します。
人間の生存にはすべて正反両面の作用があります。知るべきことは、仏性が顕現するとき、それは過去の因果業障による束縛と報いが完全に消滅する時であるということです。しかし、それだけではありません。さらに相互循環があり、因果を断ち切ることができない場合、仏性が顕現すると同時に、魔性も顕現し、業因も顕現するのです。
魔性の顕現をいかに突破すべきか？また因果業障をいかに解消すべきか？まさに魔性と因果業障が存在する過程において、その場で顕現させることができます。また仏性が顕現する同時に、魔性もまた顕現します。もしこのような過程を経なければ、有情衆生は容易に対処できず、まさに耐え難いものとなるのです。
このような状況は、本来ならば有情衆生が容易に「仏国蓮花」の浄土世界に入ることができ、それこそが良いはずではありますまいか？もしこのように作用するならば、因果に対しても大いに乱れることになります。どうしてこのようになるのでしょうか？それは過去の因果業障に、何か消し終えることができるものがあるからでしょうか？実に難しいことです！
すべては「仏性と魔性」この二つの差別の中で判断されるのです。ましてや！最後の人間としての段階において、上昇し超越することができるかどうか？必ずしもそうとは限りません！因果の業障と魔性の顕現によって、再び仏国浄土の蓮華世界に入ることが難しくなるのではないでしょうか？それは自らの行いによって判断されるのです！
最後の段階においてこそ、最も重要な一環であり、極めて重大な意味を持つのです。そうでなければ、累世の因果をどうやって償うというのでしょうか？すべては最後の段階、すなわち歿度を迎える前にこそ、上昇と下落の分岐点が明らかになり、成就と沈淪が決せられるのです。これはまさに、最後の契機を行使するか否かにかかっているのです。
魔性真如：これは一切の有情衆生にとって、その過程を知ることが非常に難しいものです。なぜなら、仏と魔はまさに一体の両面であり、さらに！魔性真如が増長するにつれて、人間世界は常にこのような境地の過程にあり、それが今の生活の中にありのままに完全に現れているからです。
衆生は皆、魔が恐ろしいと言いますが、自分自身の魔性がさらに恐ろしいことを知らないのです！
況してや！さらに悪辣なる行使を有情世界に及ぼし、有情衆生に対して与えられる一切の事務において、内心の不満があれば即ち暴虐に等しく、（台湾の諺：三尸神が跳ね回り、七竅より煙が立つが如し）、すでに自らの魔性を顕現し、一瞬にして魔性を見るに至り、甚だしきに至っては！悪毒なる言葉が巣ごと押し寄せて出でくる。
もし自分自身に潜む魔性を、その場で制御することができないならば、どうして自分を仏性の中に入れることができましょうか。有情衆生に対して悪しき魔性を鎮めることは難しく、必ずや魔の悪毒の中にあって、多くの因果業障を造ることになるでしょう。それゆえ、有情衆生が上昇し、超越し、回帰することができない根本原因は、まさにここにあるのです！
魔性：有情衆生は皆、極めて悪毒な根源を見ることを望まないものですが、有情世界の中では、実のところ常に遭遇するものです。人類の衆生は、まさにこの瞬間にもよくこのような場面に遭遇します：魔性がその本質によって顕現するのです！また、普段通りに自らの本性を真如の蔵に応用し、自らを成長させていくのです。
すべての人は自らの心念意識に導かれており、如来蔵においては即座に真如に入りますが、悪来蔵においては魔性が顕現します。有情衆生に対して常に本来の本質に出会うとは、魔性真如によって現在を完全に現前させることです。すべての事柄に対して一生涯行い続け、後になって後悔しても、すでに罪悪は満ち溢れています。
もし魔性の中でそれを排除することができず、かえってそれを増長させてしまうならば、有情衆生に対して、良くない因果業障の罪悪を除去することは難しくなります。これらもすべて、自らの心の意識が主導する過程の中で、「仏性真如、魔性真如」がただ一つのものの両面に過ぎないことを知る必要があります。理解できるでしょうか？非常に難しいことです！
有情ある衆生のみならず、すべての存在が今この瞬間に真実を体得できないならば、どうすればその障壁を取り除けるでしょうか。事態が過ぎ去ってしまったり、手遅れになる前に後悔して行動するのを待ってはなりません。ましてや、悔やみ嘆くことは、すでに遅すぎて何の役にも立たないのです。道理に従って早めに悪を防ぎ止めることが、正しい道なのです。
魔性真如：これは有情衆生にとって理解しがたい本質であり、もし根基が不安定であれば、わずかでも不順なことに出会うと、たちまち魔境に入ってしまいます。なぜそのようになるのでしょうか？古来の経典はみな、魔性について語ることを好まず、ただ仏性のみを説いてきました。では、根器や根基が確固たるものの中で、いかにしてそれを現在に完現させるべきでしょうか？
有情世界において、いかに真実の変革の動きを持つことができるでしょうか？必ずしもそうとは限りません。基礎がしっかりしていなければ、真実の向上や超越はあり得ません。それも非常に難しいことです。知る必要があります：基盤と器量の両方において、人々の心の意識の影響を受けており、自らが天地の真実の意義を成就していることを如実に理解しなければなりません。
魔性真如：たとえ真如であると言っても、まさに常なる真実の本性であり、因縁の体を受けることなく埋没することがなければこそ、「魔性真如と仏性真如」の両者が最終的に成就の分岐点となるのです。一切の有情世界に対して、聖人・神・仙・仏・菩薩が皆成就できることこそ、正しいのです！
なぜ阿修羅、および天地間に存在するすべての魑魅・魍魎・山妖・水怪……は、最後の関門で昇進することが難しいのでしょうか？また、なぜ有情世界のすべての衆生も、最終段階で昇進できなくなるのでしょうか？その原因は、まさに過去の心識において、穢れと沈殿した垢が重すぎたからなのです！
即ち、阿修羅、魑魅、魍魎、山妖、水怪などが形成されます。これらは皆、この過程において、最後の関門を突破することができず、有情衆生に対して逆の方向に成就してしまう者たちです。本来は仏性が顕現する最後の鍵となるべきところで、心志を貫徹することができず、さらに向上しようとする際に障害に阻まれてしまうのです。
「心念意識」の主導的役割を明確に認識することが大切です。もし天地の慈悲と恵みを以てすれば、最後の難関も必ず突破できます。そうしてこそ、阿修羅、魑魅、魍魎、山妖、水怪……といったものに沈淪することはありません。つまり、この困境を突破できず、かえってその反対側に沈んでしまうのは、まさに衆生の努力不足が原因であると言えるのです。
有情天地上下に分かれる　　仏性魔性皆並存す
最終突破し上へと進む　　因縁成長し有情敦まる
魑魅魍魎にもまた因あり　　阿修羅の身はすなわち化引なり
仏と魔は両者とも一つの体　　化して除くれば即ち身を超ゆる
この偈は、近六万余年にわたって伝えられなかった真実を、崇心天書の中に下ろし、一切の有情を反面成長させるものである。「仏と魔の岐障」という世界において、いかに上昇すべきか？すべては自らの修行と鍛錬にかかっており、最終関門を突破して昇華することこそが、まさに「仏と魔の因縁結果」を見分ける鍵となるのである。
願わくは、あらゆる有情が仏性真如の顕現を成就し、魔性真如の現前を退けんことを。切に願う！切に願う！いかにして向上すべきか。天地の運行が示す真実の意義を悟知し、その意義に沿って自らを完現することこそが肝要である。ただ、この世における「浄き識種と垢れた識種」の多寡によって区別が生ずるに過ぎない。
第三十五回　霊覚通徹

霊覚は一切を通じて徹し、
迷いの雲を払い、真実の光を現します。
心の鏡は塵なく澄みわたり、
智慧の月は満ちて欠けることがありません。

静寂の中に妙なる観照が生じ、
動きの中に如如たる本体を見出します。
一瞬の覚醒は永遠の目覚めとなり、
一歩の前進は無量の世界を開きます。

覚者は縁に随って教化を施し、
衆生は機に応じて法味を味わいます。
言葉を超えたところに真意が流れ、
形を離れたところに大用が顕れます。

今、この一瞬に全存在が輝き、
今、この一念に全宇宙が収まります。
通徹した霊覚は時空を超え、
清浄な法身は処々に現成します。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
##南無東方薬師如来仏
2000年11月21日　庚辰年十月二十六日（火曜日）
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
南無無上なる衆生の霊　　燃燈の自性、本心清し
古仏が崇心堂を助け給う　　仏魔真如両辺を行く
魔性は真の如来観に入り、悪念の作為の中に陥ってもすべて当然と自認し、さらに！有情衆生の行いに対し、自己の観点をもって動作し、生存への志向を成長させることで、自らを転換困難な困境に置き、凡塵に自らを縛り付け、本来昇華できた因縁体を移転させてしまうのです。
もし魔性の試練と鍛錬の過程を経なければ、どうして自らの行いを改めることができるでしょうか。人間世界はまさに相互に対峙し、相互に均衡を保つ世界であり、有情の衆生はすべて、是非、○Ｘ、正誤、正邪を自らの認識基準としており、その都度、自らの行いが正しいと思い込んでいます。
有情世界はまさに：仏と魔が両立し障り合う世界であり、どのような角度や立場、境界に立っても、正邪・是非・対錯・○Ｘとは言えません。必ず自らの心の在り方において、どう転換するかが正しいのです！それこそが未来に分かれる差となり、まさに良し悪し・善悪・禍福の分別となるのです。
魔性：これは有情衆生が皆、望まず、また敢えて関わりを持とうとしない過程であり、非常に恐れるべきものです。また、魔性は内面に現れる自己の心の状態であり、内心世界に存在します。それは自らを堕落へと導くだけでなく、反対の行動を通じて事を行い、本来は人間世界において円満であるべきものです。
まさに円満を極め、上昇と超越を成すべき時でありましょう。しかし有情世界において、もし魔性が顕現すれば、自らを一切の転換が難しい窮地に陥らせ、数多の因果業障の報いを招くことになります。さらに自らの心の在り方や行いについて、どう改めたらよいか分からず、それどころか！悪しき本性の中に沈んでしまうのです。
魔性に付け込まれる隙を与え、一瞬の過ちが千古の恨みとなり、たちまち千古の罪人となることがあります。しかし、歴史を振り返れば、あらゆる大悪人にも、確かに悪毒な魔性は存在しますが、同時に善良な仏性も備わっているのです。では、なぜこのような結果を招くのでしょうか。ただその瞬間の行いが、生存と利益への執着に心を曇らせてしまうからにほかなりません。
この種の悪因と罪業の果報が造られる同時に、仏性と魔性が対峙することになります。この時、仏と魔が交戦する過程において、魔性を消し去るべきですが、有情衆生は常に自らの魔性が顕現することで仏性を打ち負かしてしまい、人世の過程において魔性の悪毒な因質に遭遇し、成長を促すことになります。
自分が招いた因果の業障に対しても、後悔の念に駆られることはありますが、それはただ心の中で「仏と魔が戦う」瞬間に、一時的に心が変化するだけです。事態が過ぎ去ると、以前にも増して悪しき魔性を募らせ、魔性の悪質な因縁を増幅させ、さらにその成長を促してしまうのです。
仏性の顕現は真如の本体であり、自己の存在において真如の至高の性質を本質として成長させることです。これは有情世界の衆生が憧れ求めるところであり、有情衆生は本質を向上させ、自ら善きことへと向かい善行をなすことができます。これこそがすべての衆生の追求であり、願いであります。
しかし、往々にして事は願いとは裏腹に進み、魔性はかえって増大し、人類衆生には多くの障害が生じます。さらに、悪化して仏性を覆い隠し、仏性が顕現するのを妨げてしまうこともあります。現状では、仏性は魔性に打ち負かされているかのように見えます。しかし、仏性の種としての本質の中には、過去の成長経験の蓄積が数多く増えているのです。
常に自らの行いに対して、魔性が顕現することを許さず、その都度魔性を真如として解消し、さらに仏性の本質をもって成長と拡大を図ります。さらに！自らの心性の無明に対して、どのように魔性に反撃すべきか分からない場合でも、仏性を顕現させるためには、日常生活の経験に基づいて実践することが必要です。
過去の経験を善なるものとして積み重ね、より大きな顕現へと導きながら、魔性真如の影響を受けずに、即座に仏性を再び出現させることこそが、「仏性が魔性に打ち勝つ」ということです。それによって仏性はその本質を成長させます。ですから、仏と魔が共存する人間の第九識・阿摩羅識において、仏性を一瞬たりとも閑にさせてはならないのです。
況して！仏と魔の両者の交戦において、如何にして仏性を生存経験を通じて、魔性の高まりを転化すべきか？また、仏と魔の両戦いは実相界では見極め難いが、自己の内在する真如の心性の中においては、もし人間が全て仏性であり魔性がないと言うならば、それは自らを欺き人を欺くに等しいことです。
なんと！いかなる聖神仙仏の中にも、仏と魔の両性が存在するのです。ただ、いかにして仏性を顕現させ、魔性を化除するかという点にこそ意味があります。また、有情天地のあらゆる人種や物種、さらには阿修羅・山妖水怪・魑魅魍魎などに対しても、仏と魔の両性という本体の遺伝子が備わっているのです。なぜこのようになっているのでしょうか。
これもまた有情衆生の一つであり、仏性が顕現する刹那において持続することができず、仏性をもっと大きく顕現させようとして、一瞬にして魔性に誘惑されてしまうのです。それゆえに、偽りを真実と見なしてしまうのです。知らずして、仏性が顕現する同時に、魔性もまた顕現し、因果業障もまた顕現することを。いかにして最後の関門を突破し、成長すべきでしょうか。
さもなければ！仏性を顕現させるには、すべての有情衆生が到達し得るものでありながら、仏と魔が本来一体であることを悟らず、いかにして魔性を改造し除去するかが、根本を正す道なのです！仏性を顕現させるにも魔性を化除しなければならず、これが最後の関門となります。これを通過できれば仙人や仏となれますが、通過できなければ悪や魔となる最も重要な分岐点なのです。
一切の有情が上昇を欲し、根本源を超越しようとする中で、知る必要があるのは、仏と魔の両真如が、いずれもありのままに現れているということです。有情世界のすべての衆生において、もし仏性が顕現する時には、魔性もまた顕現します。仏と魔の両性が交戦する中で、人は「中立」であり、かつ一切を「主導」することができるのです。
どのように理性をもって邪悪に打ち勝つべきか。また、どうすれば『仏来たれば仏を斬り、魔来たれば魔を斬る』境地に至れるのか。それはすなわち『明心見性、開悟証果』へと至る最後の必須の経験過程である。もしこの関門でさらに一段階成長することができなければ、魔性に左右され、魔性に誘惑され、自ら風に舞うがごとく翻弄されてしまうのです。
即ちこの後、更に魔性が主導するようになり、時には仏性が顕れることもありますが、それはほんの一瞬のことであり、全てが魔性に左右され妨げられます。一切の有情衆生がこのような境地にある時、それは上蒼が慈悲深くないのではなく、自らがこの魔性による困境を突破できないからです。
さもなければ！有情世界が仏国浄土に入ろうとするのは、本来は極めて容易であるべきですが、最後の関門の試練を通過できなければ、魔境が主導する境界に入り込み、汚れに染まり、さらに穢れてしまいます。そして「真如実性の垢染」は必ずや除去が難しく、まさに最も苦痛を伴う問題点なのです。
仏性は本性の清らかさを顕し　　魔性の高まりは本霊なり
仏魔交戦方寸の地　　智慧明晰魔性を消す
因質関卡本来高く　　了知超越は限りなく良し
自ら罠を掘りて困窮に陥る　　仏と魔を両断する真の巧妙
この偈を！有情衆生と共に研鑽いたしましょう。未来の末法の世において、いかにして自らの心魔を払拭すべきか？また、仏性真如を顕現させることが、真実の無碍なる向上であり、修行一生を終えて初めて知るということもなく、人類衆生は「浄垢染著」によって未来の成就が分かれることを、ここに皆様と共に肝に銘じたいと思います！
第三十六回　大道見性　印心法門
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
##南無本師釈迦牟尼仏
◆ 旨 ◆
完書繳旨
2000年11月24日　庚辰年十月二十九日（金）
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
南無眾生稱如來　　燃燈自性本霊在
古仏は『見性冊』を著し　　仏と魔を切り転ずる基因を載す
仏性真如が魔性真如に入ることは、一般の衆生にとって理解しがたい過程です。まず真の悟りを体得するために必要な根本的要素を体証し、仏の境地に入る基礎となる課程を修めなければなりません。さらに悟りに入るために必須の条件を備え、仏の境地を理解する過程において、仏性真如を顕現させれば、魔性真如は自然と消滅していくのです。
また、自己の成長過程においても、さらに『心霊』の向上を体証し、再び「菴摩羅識」の「菩薩位階」に入り、真実の智慧の本体に入ることができます。そして、「仏魔両性」の顕現に対し、超越と根本的な化除として働きます。しかしながら！まさに仏性の顕現によって、必ず魔性の顕現が引き起こされるのです。
因果業障も同時に顕現する中にあって、まさに仏性と魔性の両者が交わる時であり、仏と魔の両性を併せ持つ存在の中にあって、いかにして自らの成長を体証すべきか。それは「仏来れば仏を斬り、魔来れば魔を斬る」という境地に至り、最後の関門となる必要不可欠な過程を経て、初めて「心性至真」の境地に到達することができるのです。
天地の運行、宇宙の運行という大いなる徳を体得する者に必要な心構えと行いは、「仏も魔も断ち切る」ことを経て、「心性の真実」の境地に入り、初めて仏の本体、すなわち「初地」を成就することです。これは向上して蓮華仏国、金品蓮台へと向かう第一歩に過ぎません。
一般の衆生にとって理解しがたいのは、「仏と魔という二つの障壁」が存在する世界において、自らの心性がまだ向上していない段階で、どうすれば明晰に理解し体得できるのかということです。また、自らの心性が明るくなり、自己成長によって「明心見性」が確かな糧となるならば、なおさらです！自らの成長経験を通じて体得していくのです。
まさに「仏性と魔性」を徳性の中に取り込み、それを顕現させることこそが、個人の成長の根本的な縁（えにし）となり、自らを下化（げけ）する因（いん）の質となるのです。また、自らが本来の心を明らかにし、本性を見極める最後の局面においては、性体（しょうたい）に入り込むことで理解が開けます。これは、仏と魔が本来備えている根本的な因の質に対して、実際に通徹した向上をもたらすものなのです。
仏魔双切：これは単に「仏来れば仏を斬り、魔来れば魔を斬る」というだけでなく、自ら性体より真如の本質に入るにあたり、必ず『仏性と魔性』の因縁体について理解する必要があります。もし最も末端の自真如性を通り抜けることができなければ、真に体証することは難しく、仏性を顕現させると同時に、魔性を消し去ることもできないのです。
仏と魔は本来一体であり、必ず最後の関門において、生死の大事を見極めることができます。もし二つの障壁を乗り越えることができなければ、仏と魔の因が本来転換する性質に直面した際、魔性の顕現によって妨げられることになります。過去のすべての聖人、神仙、仏、菩薩も、真如の本性を見極める最後の関門において、魔性の高まりを通過することは極めて困難でした。
また、自らの仏性を向上させ超越しようとする際には、必ずこの関門の妨げを受けます。それは「仏が一尺高くなれば、魔が一丈高くなる」という理であり、自己の成長過程において毎度このような局面に直面するのです。では何故「仏高一尺、魔高一丈」となるのか。これはまさに、有情衆生がこの天地に生きる上で真に制約される所以なのです。
この天地は陰陽が相対峙しているため、「純粋な本質」を保つことはできません。それゆえに、仏が一丈高くなれば、魔は頭上に現れるのです。これはまさに有情衆生が因縁の過程を理解し難く、あらゆる上昇を阻む障害の中で必ず関門に遭遇する所以であり、このような原因によって形成されるのです。
仏魔双切：これは最後の関門として、一切の至性本体の作用を通じて仏も魔も共に化除するものであり、すなわち「純一の境界」である。また太極より来たって無極に回帰する中で、無極の過程には必ず「純一の境界」が必要であり、有情衆生が修持を行う際にも、この種の障礙に必ず遭遇するものです。
自己の性体は元来知り難いものであり、どうして資糧を持つことができようか。生存経験をさらに一段階高めることによってのみ、仏と魔の両極をいかにして純一に至らしめるかが可能となる。向上を目指す最後の関門を通じてこそ、まさに自らの真心性の本来の体に至り、心性の自真に対しても、見性の最後の関門として立ち向かうことができるのです。
有情なる衆生は、自己成長の因縁をそのままに受け止め、自らの心性を超越させることができるだろうか。有情なる衆生は皆「仮なるものを真と認め、真なるものを仮と認める」という倒錯に陥り、性体の本質において、いかにして自らの覚性と霊質を新たにすべきかも知らない。まさにこれが「霊覚因本」である。
覚性更新：また、心性の至真を真の純一として、一境性・一合相の境地に達することができる。これは自分自身が仏と魔の両極を超越し、一切を捨て去ることである。しかし有情衆生においては、仏であれ、道であれ、聖であれ、仙であれ、魔性とさえも互いに融和し合うことができる。なぜこのようになるのだろうか？
必要に応じて魔性に対して真実を明らかにする時には、過去一切の因果と業障を消し去ることができます。ましてや！本性の体に対してさらに超越を成し遂げるならば、有情の衆生は霊性と覚性の本質における最後の関門を突破することができず、常に自己への執着という心の念に影響され、さらに上へと超越して仏の境地を実際に経験することは非常に難しいのです。
従って、明心が体得したものこそ、自らの心性を向上させると同時に、一切の有情たる天地衆生を理解することに他なりません。必然的に！天地と相互に共存し、更には！相互に融合して一体となることができます。自らの霊覚にとって必要な行動とは、仏と魔という両極の対立を切り離して捨て去ることです。そうして初めて、仏と魔が仕掛けた罠に陥ることなく歩めるのです。
一方で、仏と魔の両方に制約され続ける中で、さらに一方に偏ってしまうと、偏りのない思想概念を持つことが難しくなり、障害を形成し、上昇への道を阻む困難に陥ります。自己を高めるためには、明心見性の実践を理解することが必要であり、有情衆生は菩薩の境地において、仏果に入り上昇することができます。
仏魔両切皆捨て去り　　真如実性更に体せよ
因縁の本質は覚霊に入る　　霊覚相成って末に関倚せず
見性の本因は応に了知すべく　　業障の果因は必ず化除せらる
人間は因縁によって昇降を修め　　心性の至り真なれば仏魔殊なり
この偈を！有情衆生と共に研鑽し、自己を成就し、衆生を成就する中で、有情衆生の因縁の本質においては、『仏と魔の切り替わり』の中で、どう境界を守り、どう向上させるかを知ることは難しい。また、仏性が顕現する中で、魔性もまた顕現し、さらに！因果業障も同時に討伐に来ることを知るのである。
「仏魔を断ち切る」ことを理解できるというのは、まさに最後の関門を通過して切除と転換を行うことであり、これは相当な修練が必要です。また、必ず無借金で身軽であること、つまり因果の業障に縛られず、追及されることもない状態でなければなりません。そうしてこそ成長と向上があり、真如の本性に入ることができ、心性は自ずと真の霊覚の本体となるのです。
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
##南無阿弥陀仏
跋
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
南屏無量、衆生を渡す　　道済合衆、実に相迎う
古仏降来　性を見る冊　　心性至真　本霊清し
如来蔵の根本的な因質は、まさに「仏性真如」と「魔性真如」という二種によって成り立っています。修行を積む者にとって、これらを理解することは最も困難なことです。仏性と魔性が同時に顕現する中で、いかにして両者を分別し、その評価機能を働かせるべきでしょうか。必ず人間世界において成長し、衆生に対して「浄染と垢染」を分別することが、まさにその要なのです。
仏性真如を顕そうとするたびに、魔性真如も同時に現れ、さらには妨げとなって立ちはだかります。さらに因果業障の束縛を受けることになれば、向上して成長することは難しくなります。本来は下化衆生と資糧を積み上げる基盤となるはずのものが、ましてや！有情衆生に累世の因果循環による報いの過程をいかに体得させるかということが。
冤親債主：もし最後の関門で討伐を求めることができない場合、仏性真如が向上へと引き上げられ、仏性真如が顕現する時、魔性真如も同時に顕現し、因果業障も同時に顕現します。業障への討伐が切迫する中、累世の因果循環による償いを完全に受け入れなければなりません。
従いまして！有情の衆生が皆耐えられないほどのものとなるのは、このような関係によるものです。時には怨親債主が仙佛祖聖神に姿を変え、引き上げも沈降ももたらすことがあります。これはまさに因果業障の縁によるものであり、また仏聖者が来臨されない時には、最後の関門を真に通過することは必ず難しいのです。
更に深層へと進むと、悪しき心性がありのままに現れます。この作用がなぜ最後の関門の始まり、つまり上昇と下降の分岐点に現れるのでしょうか。もし最後の重要な局面を乗り越えられなければ、真実の心性を顕現することは難しく、これこそが人間と聖人・神仙・仏・高真・菩薩が最も向上しにくい核心的な課題なのです。
心性の至真：これは「一境性、一合相」の境地であり、太極から無極円満へと回帰するものです。しかし、この最後の重大な局面において、もしこの困難を突破できなければ、永遠に阿修羅の境界、魑魅魍魎、山妖水怪の中に留まることになります。時には再びやり直すこともありますが、果たしてさらに向上できるでしょうか？必ずしもそうとは限りません！
必ずや、人類が修持の最終局面において、このような境地の過程では、全て一体となって心性の真実を顕わすことになります。また、自分自身に対しては、仏と魔の両者が交戦するその瞬間に、常に自らを評価し選択することになります。正と誤の分かれ目こそが、後の展開がどうなるかを知り得る鍵なのです。
一切の真の修行と実践において、向上を目指す者が必ず通らなければならない関門は、「仏と魔の両極」に対する対処にあります。自らの心性の真実においてこれを転換し、さらに「仏も魔も用いず、両方を転じる」という境地をいかに活用するかが求められます。仏にも魔にも執着しない性体こそが、自己の向上にとって確かな成長の作用をもたらすのです。
また、仏と魔の両極においても、自らが主人となって転換を図ることが必要です。そうすれば、この両者に導かれることなく、誘惑に負けてこれまでの努力を無駄にすることもありません。これにより、自らの心性を真実のままに保ち、転換が難しい状態に陥ったり、一方に偏ったりすることはなくなります。有情の衆生はとかく一方に偏りがちで、「中道」をもって実践することは稀なのです。
有情世界は両極化された世界であり、また一切は相互に対待する中にあります。さらに！自らを仏道の側に偏らせ、魔道の側に偏ることがありません。ましてや、仏は善良な者であり、魔は悪毒な者であると自ら考えれば、中道の条件を持つことができず、このように偏りが有情世界で常用されるのです。
六道輪廻を超越しようとするならば、根本的にこのようなことは起こり得ません。それでは、何が原因なのでしょうか？
有情衆生が人間世界で生きる中で、もし一方に偏り、他方を排斥するならば、中道を保つことができるでしょうか？考えてみればすぐにわかることです！
「仏切れ魔切れ、仏転じ魔転じ」とは、人間性の最も真実なる在り方において、このような限界を解きほぐすことを指しています。
まさに中道思想の構築に立脚することで、自らを向上・超越させ成長することができます。自らを真の向上の境地に実直に入らせ、また一切の有情衆生も皆、中道に従って歩むべきであり、一方に偏ることもありません。それこそが『仏切れ魔切れ、仏転じ魔転じ』に必要な行いなのです。
さもなければ！もし一方に偏った時、お尋ねします：仏は仏になれるでしょうか？非常に難しいのです！まさに魔境に入ることになります。もし魔も魔の側に偏るならば、お尋ねします：魔はさらに残忍になり、有情衆生を害することはないでしょうか？もし！魔が仏の側に偏ることができるならば、仏と魔の間には必ず中道を保つことができて、初めて成就できるのです。
必要に応じて「心性至真」の境地に到達し、明晰に理解することが求められます：仏と魔の両者の差異において、また一切の上昇と超越において、いかにして「中道作用」に至るかが真実性であるかということを。願わくは体証されますように：至真の実性、心性の至真が、いかにして「中道思想」に基づいて構築され、実践されるべきかを。
仏切魔切皆両切　　仏転魔転更に双転
心性の真実はかくの如し　　本霊の因縁は無始を観ず
見性明晰本来の体　　有情衆生迷障に移る
中道の構築は儒家を本とし　　見解を化して悟り、本来の霊性に契合す
この偈を！有情衆生と共に研鑽するならば、必ずや未来において上昇と超越を成し遂げるでしょう。つまり、この真実のままに成長を遂げれば、一方に偏って沈淪することはありません。仏と魔という二つの対極を転じつつ、いかにして中道に至り、一方に偏ることがないでしょうか？それこそが真の中道思想の構築すべき働きなのです。
もしそうでなければ、永遠に向上し続けることは難しいでしょう。根本的には、毎回自分の心の思いに沈み込み、実際の困難を突破することができません。心の本性に対して真実を尽くし、とてもありのままに自分を「中道の構築」に向かわせてこそ、初めて向上して超越することができます。まさに理解すべきは：儒家の根本的な性質は、一方に偏ることがないということです！
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
##南無大日如来仏
◆ 旨 ◆
完書繳旨

本書を完成し、ご指示を拝受いたしました。
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
南海開創渡一貫　　古仏慈悲達彼岸
開悟して証果するは千回を重ね　　成就して仏道を成すは更に観るべし
心性の真実に至って入り込むことは、悟りを開き果を証することを下化の根本の因とすることです。仮に　釈尊仏陀であれ、　六祖慧能であれ、悟りを証した後もなお人間の方法をもって衆生を導き渡すこと、また自らの心性の真実を明らかに見分ける中で、いかにして「悟りを開き果を証する」ために必要な機能を具えるかが問われるのです。
それは人間世界において成就されるものであり、ただ亡くなった後にのみ成就されるものではありません。多くの事柄には人道的思想をもって構築することが必要であり、また人間の生存過程においてもそうである必要があります。さらに！それは必須のことであり、すでに「悟りを開き果を証した」後に、どうやって「心を明らかにし本性を見る」と言えるでしょうか！自ら体得することが必要です。
開悟して果実を実証することもまた重要です。なぜなら、開悟とは人間の生存過程に対する理解であり、思想を平等化し、人為的な造化を実現することだからです。人間世界において「悟道」に対して独自の境地を体得することができます。この過程を自らと多くの衆生を教化するために応用できれば、それは大いなる意義を持つでしょう。
必ずや自己に対して上昇と超越の根本性を持つことができます。しかしながら！悟りの過程をいかにして自己と衆生の利益へと下ろすか、これこそが開悟に確かな機能を持つものであり、そのため有情世界の人々にとって、自己に対して「心を明らかにして体証すること」「本性の根源を見極めること」を応用することが必要です。
必要に応じて、自己と有情衆生が利益を受けることを理解し、どのように下化の機能に応用すべきでしょうか？悟りを実際に発揚させることができ、また昔「六祖慧能大師」が悟りを開いたように、多くの世の因縁を積み重ねただけでなく、明心見性の後も依然として凡夫の一人であり、やはり生存と生活を潤す行動が必要です。
したがって、六祖は猟師の集団の中で十余年の歳月を過ごされ、数多くの困難や試練を味わわれました。後に至って初めて宗派を開き、禅宗の本質を弘めることができたのです。ですから、その間に遭遇された心の痛みや苦しみは、普通の衆生には理解も体得もできないものでした。そればかりか、悟りを開き証果を得られた後も、依然として一人の凡夫であられたのです。
己自身に対しても言えることです：心を明らかにし本性を見るだけではどうなるでしょうか？必ずや真実に生きる潤いと充足が必要であり、未来の有情衆生に対して真実の資糧を提供できるようになることで、初めて心を明らかにし本性を見る境地に至れます。それゆえ、本性を見る根本的な原因の中にあって、さらに真実のままに、資糧の源を真実のものとし、現在のあらゆる生存の方向性において完全に現わさなければなりません。
仏陀釈尊は、菩提樹の下で六年の歳月を過ごされ、明けの明星を観じて悟りを開かれました。それはまさに、全ての衆生に仏性が備わっていることを体得された瞬間であり、さらに言えば、衆生の仏性の中には平等性と呼ぶべき本質が宿っているのです。また、仏性が顕現することによって衆生は平等へと導かれます。それゆえに、仏陀釈尊の慈悲に満ちた平等なる博愛は、まさにこの有情世界から称えられる所以なのです。
一切の聖神仙仏といえども、真実の仏性の平等性を引き合いに出すことは難しいのです。  
釈尊こそが衆生の仏性の平等を顕わにし、修行と宗教に対する博愛性において、あらゆる聖神仙仏を超越し、まさに人天の釈尊「天上天下唯我独尊」となられたのです。
足るに世の人々及び有情の衆生から称賛と賞賛を受けるに堪え、また悟りを開いた後も十分に食事をとり、さらに四十九年にわたって説法を続けることができ、さらに！最後の涅槃においても、いかなる一法も説かなかったと述べ、あらゆる経典と言葉への依存と迷妄を打ち破り、また知見の障害による苦難を引き起こし、向上することも難しいのです。
後の世の有情衆生は、往々にして経典の文字障に執着し、宗教的障壁の影響を受けることがあります。本来、宗教に入るのは向上超越を求めてのことですが、いったん宗教に入ると、かえって経典の文字障に縛られ、全く活用できなくなってしまいます。向上しようとしても、果たしてそれが叶うでしょうか。
況してや！仏陀釈尊の根本因縁の本意を明らかに理解できないことは、まさに現代の衆生が、自分はかなり賢いと思い込んでいるため、「賢さがかえって賢さに惑わされる」という結果を招き、それゆえに向上超越することができない原因もここにあるのです！誠にどうしようもないことです！
仏陀釈尊：説法四十九年の間、その中には大乗があり、中乗があり、小乗がありました。いずれも個人の心性を手引きとして、天地の運行の真実の意味を理解できるかどうかを導くものでした。また、有情の衆生はすべて大乗となることも、中乗となることも、小乗となることも、あるいは普通の凡夫となることも可能です。
悟りを開いた後も、引き続き説法と講道を行い、縁ある有情の衆生が春風に包まれるように、釈尊の偉大な思想を理解できるように導きます。また、すべての有情衆生の心性の中に、仏性の根源を顕現させます。このようにして、未来の衆生が、正法の時代、像法の時代、末法の時代においても、その恩恵に与ることができるのです。
すべての人は、ありのままに自己を成就することができます。また、過去においても、聖僧や大徳、禅師たちは皆この点を明らかに悟り、経典の文字による障害に左右されることなく、経典の字義を知りながらもそれを活用し、天地の演繹する過程を明晰に理解し、自己を成長させ、自らの心性を高めることができました。
崇心理筆宗主はこの境地におり、天地の実義と進化の過程を理解することは、すでに無限の回数悟りを開いたことであり、ただ最後の一歩として「印心法門」を知ることで、一代宗師の風格に達することができます。このような縁と条件によって、「真佛心宗」を大千世界に広めることができるのです。
これは自己および有情の衆生に対して、天地、宇宙、虚空の進化過程を融合し、成長と向上を促すものです。また、この境地において最後の関門を突破することが必要であり、それによって自らの「心性の至真」と「霊覚の通徹」に心を印することができます。これが『大道見性』の著作の本意であり、自己を利益するとともに、衆生をも利益することができるのです。
崇心聖務は、真実のままに発展できるだけでなく、天と地の実義を理にかなって弘揚することもできます。また、この段階では依然として人類の一員であるため、食物連鎖における必要も当然あります。つまり、「六祖慧能」のように心を明らかにして悟りを開いた後でも、依然として食事や睡眠などが必要であり、やはり凡夫の一人なのです。
いいえ！すでに飲食や睡眠を必要としない仙人や神仏であっても、悟りを開いた者の心境の違いを知り、どうして有情衆生を成就できるでしょうか。さらに自分自身について：明心見性すれば、あたかも真実を貫通して知るように、一切の天地時空の進化の実義に対して、まさにその瞬間に悟りを開くのです。
明心見性は、本体が自らを体証する過程であり、もし天地・宇宙・虚空・無極と融合することができなければ、悟りは単なる個人の体証過程に過ぎません。しかし、天地・無極・虚空・宇宙と一体となることができれば、最後の関門である「印心法門」において真実の意味を顕現させ、さらには！ それをそのまま現前に完全に現出させることができるのです。
なぜ　上蒼は一冊また一冊と大道シリーズを著作されるのでしょうか。それはまさに、過去の儒・道・釋・耶・回と天道、および新興教派の種々の不足を補うためであり、また崇心の因縁の中でこのようにして、さらに薄氷を踏むがごとく、戦戦兢兢として　上蒼の使命を全うし、自らの未来の聖務を完成させることこそが、真実の道なのです
悟りを体証し道の基を築く　　本心の真実の意味を明らかにする
見性の本質は天地に通じ　　宇宙無極の機を識り了る
虚空の因縁に崇心契い　　印心の末関、天意を闡く
有情を成就して更に徳澤を成し　　造化の因縁は大地に遍く満つ
この偈は、有情の衆生と共に研鑽すれば、必ずや得るところがあるでしょう。また、「崇心印心法門」は未来においてさらに広く弘められ、有情の人類衆生に利益をもたらすことができます。真に「明心見性、開悟證果」を実現し、これは現在における学びと成長を通じてこそ、良き体証が得られ、回帰と超越を成し遂げることができるのです。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
##崇心主席　虚空天尊　文衡聖帝
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
心の灯を燃やして尽きることなく　　灯明は朗らかに自性清浄なり
古より言われし、人生は本来霊的に善なるものと。
仏は霊覚通徹の因を著す。
悟りを開き果を証するという点から申しますと、まさに人間世界においては、必ず人間世界の方法を用いて、自己を成就し衆生を渡化しなければなりません。まず悟りを開き果を証し、「霊覚が通徹する」ことが必要で、初めてそれが可能となります。さらに、霊覚の通徹の中においては、天地人この三者を、人間世界に連携させることが求められるのです。
もとより！自ら道を証し、果を証するのみならず、さらに人類の宗教的指導者となり、また一方の宗脈の導師となることもできます。まさに霊覚の通徹によって判別されるのです。また、霊覚の通徹に対しては、開悟証果の後に初めて顕現するものであり、明心見性の根本的な因質に対しては、自らの生存の実際性を体悟することが必要です。
万物衆生の生存権利の均衡こそが、大乗あるいは仏乗において実践されるべきものと言えます。さらに、一切の有情衆生に対しては、霊覚が通徹していることが必要であり、これこそが悟りを開き果を証する本質です。また、一般の衆生が理解する「明心見性」は、悟りのうちの一つの段階に過ぎません。
悟りを開くことは千百回にも及びますが、霊覚の通徹を体証できてこそ、悟りを開いて証果を実現することができます。また、あらゆる悟りの体証においては、本心と本性を初基として明らかにし、さらに見性の中で基礎を固めなければ、真に悟りを開いたとは言えません。また、千百回にわたる悟りの過程では、三度の大悟を積み重ねることが必要です。
まさに千回の明心見性を積み重ねてこそ、霊覚を自らの本霊の中に通徹させることができます。これは霊覚が自らの開悟に実現して初めて証果できるものであり、また千回の小さな開悟を積み重ねてこそ、一回の大開悟が得られます。つまり、三回以上の大開悟を積み重ねてこそ、ようやく『一徳』を得ることができるのです。
もし言うならば、明心見性は、ただ心性の明るさが体証されただけであり、まだ悟りの証果には大きな隔たりがあると言わざるを得ません。これはすべての有情衆生にとって理解しがたく、「開悟証果」の実際の過程は、さらに明心見性の中にあり、つまり自分自身の生存経験の過程で積み重ねられていくものです。
ある者は多くの世の因縁を積み重ねてこそ、明心見性を体系的に発揮できるようになります。さらに！悟りを開くには霊覚が徹し通る必要があり、また印心法門に対しても、確かに自らの心性において体証の功夫を修めなければなりません。ですから！覚霊の本質と霊覚の通徹に対しては、必ず生存を通じた積み重ねによって、人間性を極限まで輝かせることが必要なのです。
さらに申し上げます！仏と魔という二つの性質を切り替えることが肝要でございます。もし！仏と魔の両相を切り替えることができないならば、真に覚霊を啓発することは、根本的に不可能でございます。なぜなら霊覚はまさに「仏と魔の両者」が交わり互いに闘うことを通じて、仏の境と魔の境との差異を分かつにあたり、自らの良知と悪質とが相互に導き合う作用をなすからでございます。
明心は人間本来の心としての本性を見極めることであり、まさに有情世界の総合体であり、さらに霊覚に対するものです。もし仏と魔の間を行き来する切り替えができなければ、心性の障害を突破することは必ず困難であり、さらに！また突破できない点は、中道の思考を構築して前進することにあり、仏とは一般的な衆生が「覚者」と呼ぶ根本を超越した存在なのです。
魔とは：これもまた衆生が「悪毒の根源」と呼ぶものですが、知らずにいるのは、仏も魔もすべて自分自身が備えている因質であるということです。では、「仏と魔の両相を切り替える」作用はどうすればよいのでしょうか？それは、自分自身が成長の過程で、明心見性の因本縁を体得し、また悟りを開くために必要な累積：三回以上の大いなる段階を経て、初めて実際の根質を得るということです！
さもなければ！悟りの境地を証そうとすることは、自らの心性を欺き傷つけることに他なりません。必ず知るべきは、大徳と称される者は、すなわち悟りを開き果を証した者であり、また心性の顕現の中から真に悟りを開いたのか、あるいはわずか数回の些細な体験によって悟りを証したと称するのかを見極められるということです。もし僅かな体証をもって悟りを開いたと宣言するならば、それはまさに自らと衆生に対する障害となるのです。
仏と魔は互いに切り替わりながら一つの境地、一合相の中に入ります。これは太極が無極に回帰することを意味し、また仏と魔が互いに対立し、太極もまた二つの対立する要素から成り立っています。では、どのようにして一つの境地や一合相に到達できるのでしょうか。それは太極や仏魔を円満の中に回帰させ、顕現させることです。つまり、太極が無極の円満へと回帰するのです。
霊覚は徹底的に通じ、自分自身が心の本性の明るさと識別を体得したことに対するものであり、さらに！明心見性に対する独自の体得があれば、必ずや悟りを開き証果を得る過程において、理にかなって実際的であるべきであり、それこそが真に印心法門の顕現を実現するのであり、因縁の体を超越し、霊覚が徹底的に通じることで心性を顕現させることができるのです。
崇心理筆宗主は既にこの境地に達しておられますので、師である私が「印心法門」を開示し、「真仏心宗」の未来の普及と弘揚を進めて参ります。さらに！印心を天地の運行の真実の意義を真に理解するために応用し、有情世界の衆生に徳沢をもたらすことによって、霊覚が透徹することを体証できるのです。まさに理にかなって実際的な道であります。
また、明るく照らし見通すことができます：法性、実性、心性、色性の人類世界を。それゆえに、崇心に対する「印心法門」の殊勝さは、近い将来必ずやありのままに人類世界に現れ、印心法門の顕現を明らかに理解することで、有情衆生に大きな福祉をもたらし、利益を授け、向上と超越を促すことでしょう。
崇心理筆宗主が固く志を立てられ、上蒼のために更なる発揮ができるのは、まさに全ての無情な横逆と誹謗挫折の中を通りながら、真の修行実践を高め超越する者にとって、既に「明心見性、開悟證果」の大智者であり、誠に喜ばしく、賀すべきことです。この世において、かくも稀有な存在はまことに少ないのです。
通じ徹して覚霊明らかなる心の本　　霊覚は了知する自性の真を
悟りを開き果を証するには心を印すべし　　人間必ず有情成る有り
通徹無礙にして天德を了る　　澤は天地に遍く眾生を澈す
果てしない宇宙の虚空より来たり　　成就した原霊の心は捨てるべし
よろしい！理筆宗主に賜るものあり：霊覚通徹の本因をもって、開悟証果の印心法門の要旨を作し、未来の真修実践者に対し、如実に成長向上せしめ、良善なる宗教学習を与え、真実性の体証を得せしむ。これにより、明心見性・開悟証果を下化し、如実に衆生を渡化して回帰せしめん。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
##無極駕前　麻仙姑

無極の御前におわします　麻仙姑
◆ 懿旨と諸序 ◆
接旨著書
南海の屏疆に声も影もなく　　古仏の著書は大道を行く
大道見性末一回　　印心法門開啟引
燃燈古仏：崇心印心法門を開かれました。これはまさに、過去の様々な印証を現代に活かすものであり、現在は万教が一斉に興隆している時代とはいえ、数多くの法門が弘揚できるようになりました。特に仏教の観点から見れば、より理に適い、実際的であると言えます。また、仏教は実践と完成を重んじるため、世に出て入る基礎にも重点を置いているからです。
すなわち、人道を本位とし、有情衆生に苦しみを抜く働きを与え、また大乗菩薩行を行持することを通じて、自らの心性と霊性を高める確かな因質を備え、有情衆生が行持の段階に入ることを可能にします。これは単なる一般的な世俗的な方法ではなく、渡し方を見直し、新たに変えていくものです。
現代において、なぜ仏教が比較的盛んであるかという理由は、まさにここにあるのです。一方、道家はより出世的アプローチを取っており、「修法と科儀」を教化の根本としています。自己の心性と霊性の向上においては、心の根本的な質因に重きを置かず、表面的な形式のみに留まりがちです。
また、自らの生存における科儀の方式に対しては、すなわち出世間的な方法を用いることにより、道家の立場から言えば、入世間的な方法には比較的重きを置かず、まさにこの両者を比較する中で、人間世界の種々の行いを捉え、さらに道家は口斎を重んじず、ただ法門と科儀に注力することで、人世間における種々の厄運を変えようとします。
もし一切の困難に遭遇した時、常に「符籙と科儀」を用いて祭改を行い、心性と霊性の向上を図ろうとするならば、それが現代の時代に適合しにくい原因は、まさにここにある。また儒家は、入世と出世の両方を重視し、その根本は『大学』『中庸』、四書五経にあり、さらに生存を基礎としている。
むしろ、修身・斉家・治国・平天下を実践し、また各人の心の誠と格物を導きとすることで、現代の衆生に明らかにさせます。心性の向上に重きを置くことは必要ですが、これは仏家が用いる方法です。また、科儀や符籙によって、衆生が悪業を造る時に仙仏に頼って守護を求めることは、道家が用いる方法ではありません。
儒家：それは自らが主人となれるか、それとも自らが奴隷となるかというところにあります。つまり、自らの生き方によって、修身・斉家・治国・平天下を導くことが、まさに大同の理想世界に合致するのです。このように、三教の本質はすべて同じであり、その言葉の本来の意味と目標は一致しているのです。
崇心印心法門は、理筆宗主の最後の臨門一蹴に対してのみならず、既に如実に印証を行うことができます。この最後の一回の印心法門に対しては、必ずや悟りを開き、心を明らかにして本性を見ることができ、また如実に証果を得て、真の向上と超越を現前に示すことが必要です。これは有情衆生が上昇成長するためのものです。
しかしながら！印心法門において、もし十分に適切に応用することができなければ、時にはかえって有情衆生に、自分はすでに「明心見性、開悟証果」したのだと思い込ませてしまうことがあります。それはまさしく自ら己を欺くことであり、また開悟証果の時に、もし天地・宇宙・虚空・無極と相互に結合することができなければ、どうしようもないのです！
また、単に人間界において体証するのみならず、印心は仙仏の心性本体と相互に照らし合わせて証し合うことであり、それによって仙仏の慈悲・博愛・平等の徳性を互いに体得し、心性の中に刻印することができます。もし相互に具足することができなければ、仙仏や聖神菩薩の慈悲・博愛・平等の徳性を、心性に明らかにすることは必ず難しいでしょう。
より深い一層の体証に到達することができます。すなわち、仙仏聖神菩薩においてさえ、すでに悟りを開き証果を得た仙仏聖真が、心性を相互に照らし合わせて印証するときには、必ずや天地の徳沢が有情衆生に及んでいることを明らかに体証できるのです。また、自らの明心見性の本質に対しても、悟りを開き証果を得るための修養を積むことができます。このような境地には、理にかなった実際の修行が必要となります。
聖神仙佛、菩薩の慈悲、博愛、平等の徳性は、有情衆生と常に相互に照らし合い、印証し合うものであります。時に、道場に入って修行する者や善信の一人が、菩薩が道場に降臨される時、あるいは寺廟や宮堂に入る際には、仙佛が既にその者と心を照らし合わせていることもあります。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。
善信や修行者が道場に入る時、心性の中に温かい流れが生じるか、あるいは電流のようなものが頭頂から全身へと貫通し、身心を満たす感覚を覚えることがありますか？このような局面においては、瞬間的に感じたことをすでに体得し、印心法門を悟っているはずです。しかし、それを長く保つことができるでしょうか？必ずしもそうとは限りません！
どのように細心に仙仏聖神菩薩の慈悲・博愛・平等の徳性を体得すべきでしょうか。もし体証できれば、必ずや未来において仙仏聖神菩薩と同じ因質を備えることとなり、まさに大地の有情なる児女の心性を体証するのです。このように長く心に刻み続けることで、自らの悟りを開き果を証することに確かな効験が得られるでしょう。
如何にして長遠に初発の自本心本性を保つことができるかは、印心法門の第一の功夫にほかならない。ゆえに！崇心印心法門は、この種の限界を超越するのみならず、さらに！一切の有情衆生の生存過程において、平等・博愛・慈悲の徳性を顕現する境地に入ることができるのである。
まさに、聖神仙仏菩薩が、より深い次元で自らと相互に心を印し合い、自らの心性を高めることに対して、自らの本心・本性の中に印を刻み、さらに自らの原始の初発心を顕現させることができます。また、心を印し合う作用によって、「印心法門」がより確かな効力を発揮することができるのです。
二十一世紀の有情衆生に対して、一種のテレパシーによる印証と実現を与えるものであり、また心性に対しては、証果のうちに体悟する功夫において、心性によって体証されたものを了知し、必ずや「心をもって心を印し、体をもって体の如く成長する」ことができなければなりません。これこそが『印心法門』が確かにそのあるべき効力を発揮するための道なのです。
『大道見性』の末尾にあるこの関門は、崇心印心法門を開くことです。さらに！大道シリーズ第十冊の著作を印証し、ありのままに有情世界へと下化しています。まさに崇心が備えるべき最大の因縁であり、今この「印心法門」は、理筆宗主に対して単独に下化され、超越的な提昇をもたらすものなのです。
大道見性は既に完遂され　　九冊の著作は見性の根本を成す
印心法門が開かれる　　理筆宗主に天機は宿る
大道心法を継承し　　十冊の著作は大地に遍く
有情の根本徳を教化し　　崇心の因縁を永く伝え継ぐ
本日！印心法門において大道シリーズ第九冊『大道見性』を如実に完成させました。辛巳年より、崇心印心法門を展開いたします。これは単なる一般的な印心ではなく、自らが体証できるものであります。すなわち、「我即天地、天地即我、我即衆生、衆生即我、我即聖仏神仙菩薩」という境地であります。
必ず崇心に対して弘揚し、実質的な効果と期待があるようにする。また、未来においても実質的にさらに大きな発揮ができるようにし、崇心の諸賢生にも体得させ、印心法門の微妙なところに対して理解を深めさせることができます。それゆえに！初期は、理筆宗主を伝導の主軸とし、さらに諸賢生により深い印証を行わせ、より実質的なものとします。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
##真仏心宗　人天宗師　虚空上人
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
南無東方瑠璃界　　薬師如来最も佩ぶべし
仏は言われる、本性を見るために来て跋を作る　　衆生を広く導くことは聖仏の為すところなり
跋　一
『大道見性』の跋文としての提引は、有情衆生を因本に回帰させるものであり、人間世界の一切の衆生に対して観るに、二つの相が障壁となる世界において、ましてや！この境界から脱することはできず、多くの脱しがたい困境が存在します。人世间においては、二つの相が互いに対峙し循環する世界であることが必要です。
必ず人道の生存要義に符合し、また修持に必要な条件にも符合しなければなりません。ゆえに！生存と修持は両方とも融合可能であることが必要であり、そうでなければ！この世界で向上する機会を得ることは非常に難しく、さらに！化除し難い境界に陥ることさえあります。したがって、明心と見性はまさに二つの異なる境界なのです。
どのようにして明心と見性に到達できるのでしょうか？「自己の心性を中道として発揮し、輪廻の外へ跳躍すること」が必要です。見性の本質について理解するには、まずこの世界の障害と制限をどのように取り除くかを知らなければなりません。これが真実のあり方です。なぜなら、自己の心性を向上させることができなければ、どうしてそれが可能でしょうか？
ただ凡塵の世界において、現代の時代と社会環境が必要とするものと融合させるしかありません。そもそも、自分は何の修行をしているのかなどと言う必要はまったくありません。なぜなら、修行は生存と生活を潤す過程から離れることはできないからです。諸賢生にお尋ねしますが、生存せずに修行を行うことのできる人がいるでしょうか？生存と修行を両立させ、融合させることが必要なのです。
自己の心性を高める過程において、確かな実在性を持つと同時に、もし自らの行うべき行いによって生存と修行を両立させることができなければ、真如の境地を見出すことは難しく、まして「一境性・一合相」に至って超越を遂げることはさらに困難です。
かくの如く！人類世界に対して、いかなる資糧があるというのか？上昇超越して、聖・神・仙・仏・菩薩の果位と層次に至ることができるか否か、これまた然りや？必ずや真実性の成長が必要であり、それによって初めて如実の受益がある。これこそ順を追って、一歩一歩上昇超越を達成せねばならぬ。これがすなわち「跋」である。
南無薬師如来仏　降跋一於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年十月二十六日戌時
◆ 旨 ◆
完書繳旨
##欽差大臣　岳元帥
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
南無本師釈迦牟尼仏　　大道見性作跋如是我聞
明心の本質は天機を通徹し　　見性の因縁は仏陀に勝る体証なり
跋　二
大道とは：自然のままに運行し、宇宙天地と諸星球の間にあって矛盾なく、また天地宇宙の規範軌道の中で、互いに真実をもって宇宙天地間の万物種々に対し、より大きな導きを行うものである。ゆえに！衆生が凡界に降りた後、人類世界のあらゆる生存方式が展開されるのである。
生活において、潤いある生の過程を必要とするならば、豊かで快適な性質を持つことが求められます。これはまさに現代社会において人類が追い求めるものであり、また人類の生存の中では、天地や宇宙に対する理解が常に欠けています。そのため、上蒼は宗教を降ろし、衆生の心霊と人間性を高めることで、その中の奥義を理解できるようにしたのです。
まさに人類の生存と潤いある生活に対して、確かな関係性を持つことができることこそが重要です。宗教によって心の垢を洗い清め、さらに心性を一段と高めることにより、自らの心性と霊性を明晰に体悟することが必要です。また、いかにして悟りを開き、本性を見るかという体証においてこそ、良き福と恵みがもたらされ、それが真実の姿なのです。
明心と見性は、まさに二つの異なる次元にあります。このように仏性と魔性が区別される中で、現代の時代はまさに衆生の本性をありのままに映し出しています。では、どのように心性を高め、仏性を顕現させ、魔性を除去することができるのでしょうか。必ずや最後の関門において、さらなる一歩を突破しなければなりません。
これは自らの心性における仏と魔の両作用を了知し得る者にとって、必ずや人類世界に対して中道思想を構築の基盤とすることができます。では中道によって如何に行うべきかを了知し、如何にして一方に偏ることなく、自らの真如性を顕現させることができるのでしょうか。また、現在の有情衆生が皆、両相の障りに満ちた世界に置かれている状況において、それはどのような意味を持つのでしょうか。
ここに存在するのは：是非、ＯＸ、正誤、正邪であり、もし中道に依ればいずれの側にも偏ることなく、これこそが真実の性質である。心性を明心見性の平常の中に置き、また明心見性によって、自らの心性が真実のままに現れ、さらに真実のままにより広大な悟りへと向上していくことを了知するとき、これこそが真実性なのである。
南無本師釈迦牟尼仏　降誕の儀式に臨みて
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年陽月二十六日戌時
◆ 旨 ◆
完書繳旨
##大主席　南天主宰　文衡聖帝
◆ 跋・讃賀 ◆
跋
南無阿弥陀仏降臨　　真仏心宗が手本を示す
天地の機を明らかに体証し　　吉祥如意に実相を照らす
跋　三
大道とは：これをもって、うごめく衆生を引き上げ、自らの心の本性を明らかに知り、六道輪廻の制限を超脱し、いかにして中庸の本質に至るべきかを悟り、それゆえに中道の思惟を構築し、ありのままに自らを心性と徳性によって、自己と衆生を成就させれば、良き福と恵みがもたらされるのである。
有情世界の一切の物種は、皆、とても平実であり、また常に在るが如し：博愛、惻隠、慈悲、平等と中庸は、儒教・道教・仏教・キリスト教・イスラム教、そして一切の新興宗教を問わず、一体にしてこの如し。博愛、慈悲、平等、惻隠と中庸に在るが故に、人世において自らを現在の作為の中に置くことができるのです。
一切の聖人・神仙・仏・菩薩の中にあっても、皆この通りであり、もしこれを体証できなければ、聖神・仏・仙・菩薩へと上昇する縁が無いのです。また、見性について言えば、自己の心性と霊性の根本的な因質において、どうすれば自らの本心・本性を見極めることができるかを了知することです。見性は実に容易であることを知らなければなりません。
また、どのようにして今この瞬間に生きて体証すべきでしょうか。二極化した障壁の世界にいながらも、「中庸・中道」という思考構築を保つことさえできれば、次の境地が開けます：本性を見極める因となる本質を捉え、心が動き念が起こる以前の根源的な根本、まさにその一点の真なる霊性を理解し、それを永遠に保ち尽きることなく維持することができるのです。
必然です！自らの本心や本性がすべて真実の如きものであることを見極めることができます。また、「大道心法」の根本的な因質の中では、いかなる宗教や宗派を問わず、極めて真実に、自らの霊性の本心と本性を、より深く体証し明らかにすることができます。それによって、どのように自らの因質を開悟し、向上と超越を果たすかを理解することができるのです。
開悟：まさに千百回にも及ぶ明心体証の積み重ねにより、見性の根本を了知し、真実の義を体証して成長の益とすることが必要です。これこそが正しく証果を高めていく実践的な道であり、つまり、聖神仙仏菩薩は人々の間に基礎を完現するのです。おわかりでしょうか？はっはっは！ははは！それこそが超越へと昇華していくのです。
南無阿弥陀仏　降跋三於
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年の陽月二十六日戌の刻
南無大日如来仏　　凡例の衆生を守りて降りたまう
見性は因質によって提引を為す　　明晰なる心法に原則有り
凡　例

日本語訳：
一、『大道明心』と『大道見性』の二冊の天書は、凡塵の衆生を自らの体証の対象として、いかにして自らを開悟の境地に入れるべきかを示すものです。
二、明心の本質と見性の因質は全く同じではなく、まさに両者には心性の体証と心念意識の根本性が共に存在しているのです。
三、見性は必要に応じて如実であるべきであり、それはまさにこの瞬間にあって、来世での成就に望みを託すべきではありません。それは決して機会の訪れないことです。
四、心を崇めるとは、まさに未来の龍華三会と弥勒浄土を、今この現在に前倒しし、有情衆生に対して、明晰な体証と開悟を与えることです。
五、明心と見性は、天地間に千古伝わらざる奥義であり、誠実に崇心道場へと下ろされ、崇心への肯定と賞賛として示されています。
六、儒宗聖教の弘揚は、崇心第三期より始まり、印心法門を展開するものであり、まことに！有情衆生にとっては一種の了悟であります。
七、崇心の因縁は尋常ならず、まさに：理筆宗主の先天に含蔵するもの、当今の時代の試練を通過し、成就するは：真仏心宗、まさに　衆を師と為し皆願って共に護持と導引に来たる。
八、『大道見性』が完成した後、直ちに印心法門の真実の普縁が開かれます。これはまた、有情の善縁を導き、共に崇心「真佛心宗」を助けに来ることを促すものであります。
九、真仏心宗の聖務は、すべてに真実の意味が込められており、未来の衆生が修行の道において、より深く天地の大いなる徳と恵みを知ることができるようにするためのものです。
十、『大道見性』の著作は、多くの仙仏の心血の結晶を含んでおり、天書の在る所には諸神の加護があります。必ず大切に扱い、冒涜してはなりません。助印に協力された方々には、天が災いを消し福を授けることを酌量され、実際の利益を得ることができるでしょう。
南無大日如来　降凡例を
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年の陽月二十六日戌の刻
よろしい！ご苦労様です、諸賢者たちよ。師である私と南無阿弥陀仏をはじめとする諸仏が、崇心にお邪魔して、共に未来の印心法門の伝承について研鑽を重ねております。また、南無燃燈古仏をはじめとする聖仏方も、この会議にご参画くださっております。
◆ 旨 ◆
完書繳旨
文衡聖帝が主席を務め　　虛空天尊が聖意を伝える
大道見性の旨を繳め完う　　三期を弘め正心の基と為す
今夜はまさに、崇心雑誌第十四期の献書を上蒼に奉る佳き日であり、同時に『大道見性』の完書を天旨に奉る良き時でもあります。時は既に至り、当堂の　福德正神と　濟公活佛に命じて三十里外で御迎えに上がらせ、当堂の　觀世音菩薩と　天上聖母には二十里外で御迎えに上がらせます。その他の神仏、学生、そして無極大道院の霊修院士らは、列を整えて御到着を待ち、礼儀を欠くことのないように。
無極母娘の御前に侍し　　元君、見性の事を回稟す
崇心道場副主席　　麻仙姑降が上台に滋す
謹んで母娘の懿旨を奉じ、崇心道場に降り立ち、示しを頒つことを喜び奉ります。神人ともに伏し拝みます！
懿旨を拝読いたします
謹んで奉る
無極皇母大天尊　懿旨に曰く
母は理天聖地におられて、幾度も南贍部洲をご覧になり、数多の原霊が五濁悪世に沈淪するのを御覧になりました。特に現代の科学技術文明においては、多くの霊児たちが科学技術に依存して道徳を軽んじ、さらに甚だしいことに、天地の真理を明らかに体得することも困難で、ましてや、明心見性の本質に到達することも叶わぬ状況です。悟りを開こうとしても、成し遂げることは難しいのです。
派命！崇心道脈が著作する大道シリーズ叢書は、今や『大道見性』第九冊を完成させ、旨を奉じました。それゆえに　母の心は大いに慰められます！崇心道場・真仏心宗は、　母の心の徳意をもって、すべての霊児が回帰することを願っております。儒・道・釈・耶・回を問わず、特に天道修子にとって真の回帰への導きと指針となるものです。
また天道において、真に修行を実践する子女たちは皆、誠実な心を持っていますが、心性の顕現においてはやや欠けるところがあり、さらに「儒・道・仏・キリスト・イスラム」の五教などもすべて同様であり、まことに母なる心を悲しみ涙させ、感傷に駆られます。凡塵の世の中で、母の憂いを分かち合い、宗脈を支える依り代となる存在が現れることを切に願っており、まさに崇心宗脈が努力しているところであります。
今般、南海古仏と南屏道済古仏が、母の御心を受けて下凡され、真の道才を選び出されました。これは上天のため教化と導引の聖務課程を担うお役目であり、理筆陳児が大道シリーズの主著『天音伝真』を執筆するに当たっては、先天に秘められた数多くの天機玄奇が確かに顕現し、この重任に十分堪え得るものでした。
『大道見性』は既に著作を完成し、速やかに出版のための編集を行う必要があります。広く弘められることを願っております。これは大道への証しであり、自らの向上と成就の因となるものです。故に　母なる心はこれを慰められ、理にかなって崇心の子女たちへの褒賞として、また大道著作への苦心の証しとして、人類衆生が真実の利益を受けることを提供されます。
されば！功績を「天榜に銘記」し、かつ天下に広く告げ知らせ、未来における真の資糧とするとともに、崇心の成就が豊かになることを与え、これこそが　母の心の願いであります。そして！大道のために犠牲を払い奉献できることは、十分に称賛と喜びに値し、堅固な志を持って未来のより優れた聖命を完成させることができます。
無極皇母が懿旨を頒布されます　於いて
儒宗聖教　真仏心宗　無極大道院　懿勅崇心堂
天運庚辰年陽月二十九日戌の刻
よろしい！ご旨の伝達を完了いたしました。心よりお祝い申し上げます。当堂の諸神仏と学生一同が、大道シリーズをより広く弘揚できることは、自己にとっても衆生にとっても、まさに福徳の継続であります。ここに改めて祝意を表します。
真仏心宗に任じ宗師と為り　　人天教化更に私無し
虚空上人が聖台に登る　　上蒼の徳意を賜りて感恩す
今夜！崇心雑誌第十四期の上納を天に奏上する佳き日に恵まれ、さらに『大道見性』天書の完書奉納の吉日とも巧く重なり、誠に喜ばしく存じます。続けて　昊天玉詔の良辰を迎え、　虚空彩雲仙姑と　虚空彩霊仙姑を二十里外に御迎えのためお遣わしになり、　虚空御伝天尊と　虚空銀筆大道天尊を十里外に御迎えのためお遣わしになりました。その他の神仏と学生、及び無極大道院霊修院士らは、皆整列して御到着をお待ちし、謹んで　昊天玉旨の御降臨をお迎えいたします。
昊天玉詔が道場に来る　　岳元帥が崇心堂に降りる
大道は見性を完うし書の旨と為す　　普く蒼生を化して徳は遍く長し
謹んで　昊天玉旨の降堂頒示を奉じ、神人ともに俯伏し、儀を失うべからず！
玉詔を開き読む
謹んで奉じます
玉皇大天尊　玄霊高上帝　玉旨に曰く
朕は九五の尊きに位し、天地人の昇降を司る権衡を掌る。特に聖仏の教化と世間の教育に対しては、常に実効あることを願い、更に優れた実績をもって向上超越することを望む。かつて儒宗神教の教化は、衆生を導き善道に化する務めを果たしたが、今や既に衰微している。
現代の科学技術文明において、人類の知恵はますます増大しております。ましてや！通信技術や映像メディアが普及した今こそ、諸聖神仙仏は新たな教化の方法をもって、有情衆生すべてが真理を体得し、天への階梯を昇れるよう導かねばなりません。よって、南天主宰文衡聖帝関卿の上奏により、「大道シリーズ叢書」を編纂するは理に適うことと存じます。
有情なる衆生に成就と乗り越えをもたらすものは、道脈の棟梁を選ぶ過程において、またそれぞれの宮堂に独自の境地があるゆえに、まさに！「天音伝真」の契機を選ぶ中で、また次のように言える：理筆の賢生が大いなる豊かさを内包しうることは、まさに五教回帰の要請に符合するのである。
よって、南海古仏と南屏道済古仏が主宰される仙師により、今や大道シリーズ第九冊『大道見性』が完書され、旨を奉じました。これは誠に朕の心を大いに喜ばせ、崇心道脈と真仏心宗に対し、肯定と賞賛の意を表します。すべては十分に喜ばしく、理に応じて褒め称え、特にその功勲を天榜に銘記すべきです。
その通りです！このような殊勝な因縁条件は、未来への回帰を証するものとして、さらに有情衆生と崇心が「大道シリーズ天書」の著作効果によって、著作のために著作するのではなく、有情衆生すべてが真実のままに自らを超越の模範へと入らしめるものなのです。
儒宗聖教の弘揚は、朕が牽引する所により、更に大きく弘揚させるものであり、今！この標竿を立てることは、道門の典範として十分に足るものである。更には、上天が選ばれた天音伝真が正しく弘揚されているため、朕は心から喜び、嘉勉と激励を贈り、引き続き努力して、広く衆生を渡し、無極虚空に回帰させんことを願う。
玉皇大天尊が詔を頒ち　儒宗聖教と真佛心宗に伝える
無極大道院　懿敕崇心堂
天運庚辰年陽月二十九日戌の刻
詔書発布完了いたしました。崇心道場がまた新たな功績を記されたことを恭しくお祝い申し上げます。これはご自身にとっても、すべての衆生にとっても、良き学びの模範であります。また、未来の衆生救済において確かな実績を収められることでしょう。特にこれを祝し、重ねてお祝い申し上げます！よろしい！神聖・仙仏・賢生および霊修院士の皆様、ご苦労さまでした。そなたもまた昊天に戻り、勅命のご復命をお願いいたします。
南天の主宰、徳は鴻く遍く　　文衡聖帝の真理の篇
崇心道場大主席　　帰降上台にて徳を顕わし示す
今夜は、崇心道脈と真仏心宗への証しとして、真実のままに印証する時であります。また、「大道シリーズ」第九冊の完書と天への奉納を終えた後、続いて大道シリーズ第十冊を編纂し、衆生の心法を完全に顕現させ、演繹いたします。さらに、有情衆生の迷妄を解き導くための契機とさせていただきます。
願わくば！崇心の神人たちが皆、真理を理解し、実地に有情衆生を導いて成長を促し、さらに超越へと回帰できますように。これこそが真の功徳です。さらに！「儒宗神教」を「儒宗聖教」へと昇華させて弘めることが、天より与えられた責務であり、より善き功徳をもたらすでしょう。